今日家庭というものを考える私たちの心持は、おのずから多面複雑だと思う。
 家庭は今日大事とされている。貯蓄のことも、生めよ、殖せよということも、モラル粛正も、専ら家庭内の実行にかけられている。
 昨夜の夕刊には、大蔵省の初の月給振替払いの日のことがのっていた。月給百五十円以上の人々は、現金としては半額しか入っていない月給袋をうけとった。すぐ振替えをとることが出来るのだそうだけれど、私たちは閃くような思いで、うちはどうするのだろう、と考える。先日の新聞には、月給百五十円の人の家計は昨今五十円ずつ足を出して、それは赤字となっていることが報告されていた。私たちはみんな自分の実際でそのことは知っている。だから、それさえも半額ときくと、無関心でないのだと思う。
 段々民間にもその方法を試みると語られていて、その方法がひろく行われれば行われるほど家庭はどうやってゆくのだろうという思いがひろがるのではなかろうかと思った。民間のいろいろの業者・経営者にとって、月給はともかく現金では半額だけ手わたせばいいということは、不便な方法ではなかろう。悪質の支払主は、そこに相当の才覚と無恥とをくりひろげることは火を見るよりも明らかなのだから。そうしたら、うちはどうしてやって行くのだろう。
 学生の生活にも、そういう世間の動きは直接間接に響いているわけと思う。その面からだけでも、家庭と学生生活とのいきさつは、そうそう暢気のんきに行ってもいないのが現実であろう。家庭の間で、学校へ行っている若者たちに対する大人の感情がどんなに変って来ているかというような点も相当微妙だろうと思う。学生を未来の担い手として愛し感じている風潮であるか、それとも、学生は未成人であるという面を強調して観られてゆくかということでは、人生の光彩が大分違って来る。
 たとえば、福沢諭吉の時代、学生というものはまぎれもなく未来の担い手としての理解において自他ともに存在させられていたと思う。上野の山に砲声をききながら、福沢諭吉は塾の講堂を閉さずに、経済学の講義をしつづけた。このことには、学生をいかに見るかということについての信念があらわれていると思う。そういう存在として見られ育てられた学生たちは、家庭にあってやはり一種の若き世代としての尊厳と理想とを持していただろうと思う。新しい社会に、新しい家庭生活というものをつくり出してゆく者として自分たちは名誉ある義務と責任とを負わされている自覚を拒んではいなかっただろうと思う。諭吉の「新女大学」はそういう世代の生活の新鮮なモラルの目醒めに呼びかけたものでもあったのだと思う。
 今日学生生活はあらゆる面で再編成されていて、学生といえば苦労のない暢気な時代という概念は根柢から変って来ている。学生の二十四時間は、その第一時から第二十四時迄が、何かしら社会的な視線のもとにさらし出されているような感じになって来た。学生は、学生であるということで、自身の時間というものへの愛着を必要としないものとされて来ているようなところがある。未成年者として服すべき義務、受けるべき練成が、その対象としてあらわれていると思う。
 家庭の中で、たとえて云えば妹が冗談に、あら、お兄さん、いいの? かけて――学生のくせに、と椅子の不足しているとき兄を睨む気軽さ愛らしさは、そのものとして天上的に邪気がなくても、今日の空気の何かを学生には感じさせるのではないだろうか。ちょいと気のつよい兄さんは、その妹に向ってこんなしっぺいがえしもするのではないだろうか。何しろ外じゃ立っているんだからね、せめてうちの中でぐらい権利があるよ。お前、かわれよ、と。
 小さなこんなことでも、今日の青年の我知らず吐露している心理としてそこに注目するべき何かがある。日本の家庭の中に根づよい男の威張りや主張の癖に対して、こういう今日の若い人の心理は、事実上決してより新しく寛闊な家庭生活の習俗を生み出してゆくモメントとはならないのである。
 菓子を食べるにしろ、店の飾窓に大きいパイが並んでいて家へみんなの土産にしたいと思えば、店で食べるだけなら売るというのが近頃の風俗である。しかたがないから彼はそこで一人で食べてしまうだろう。家庭では母を先頭としての女性たちが、毎日苦心して台所の運用をやっていて夜の茶の間の話題もそれで賑わう。すこし年嵩な青年たちはこういう話をきくにつけても身体の健康な、家政になれた女性を妻としなければ、とてもこれからは、やって行けないという感想を抱くだろうと思う。その場合、家政のうまさということの内容を、昔ながらの女のつつましさや自己犠牲というもので思い描かない青年たちが果して幾人いるだろう。体の健やかな共稼ぎの出来る能力のある女性や積極的に日々を展開してゆける機転と賢さと生活力を湛えた女性をこそ必要とするのだと、はっきり男として自身の感情の方向をつかんでいる若い人たちは何人あるだろうか。
 時代が私たちに課していることはいろいろあって、その中を生きてゆかなければならないのだけれども、目前の波に私たちが洗いさらされてしまわなければならない事はないと思う。
 時代の荒さ、事々のむずかしさに甘えて、私たちは自身の世代というものを、ただ何とか生きすぎたという空虚なものに終らせたくはないと思う。
 家庭というものについても、現代は観念の上で、或は道義の論として大変大切にいわれながら、家庭の現実では菓子一つの実例にしろ甚だ不如意におかれている。家庭における明日の価値の創りてとしての若い男女は結婚や家庭生活に対して前に向ったそれぞれの顔をそらして、後ずさりしてしまってはならないと思う。在る問題を自分の心に向ってもはぐらかしてはいけないと思う。
〔一九四一年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「三田新聞」
   1941(昭和16)年5月25日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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