一平氏に

 そちらのお座敷にはもうそろそろ西陽が射す頃で御座いませう? 鋭い斜光線の直射があなたのお机のわきの磨りガラスの窓障子へ光の閃端をうちあてると万遍なくお部屋の内部がオレンヂ色にあかるくなりますのね、そしてにわかに蒸暑くなるのでせう、あなたは急に汗を余計お出しになる。でもあなたは、それがどういふ理由からだか分らないやうに余計出れば、何の気なしに余計に拭くといつたやうな具合ひに、他愛もなくあなたの丸い細い顎のあたりを傍らの有合せのタホルで拭き取りながら、せつせと書きものゝお仕事をなさる――それからそんな時、あなたの窓の外の松のみどりが一層、穂先きをあざやかに立てゝそしてそのぱちぱちの線が、またあなたの窓の磨りガラスへ程よくぼけて、あなたの汗を拭きとつた黄白いなめらかな頬へ、それから柔かい素直な分け髪へほんのりと青く反射する――おや、わたくしは何を書き出したことでせう。
「芸術家の夫に与ふる」といふやうな手紙を書くつもりなのでしたが。
 御免あそばせ、わたくしは今、こちらの部屋で(あなたのお部屋を背に一間の大床がどさりと部厚な銀砂塗りの壁で一面、ほとんどあなたのお部屋を隣国のやうにわたくしの部屋の彼方に仕切つてゐますのね)その原稿をどう書かうかと少しもてあましてゐるうちにくたびれてしまつて机へおしりをむけ背中を紫檀の机のわくの彫ものゝ隆起へこりこりと当てながら、足を、それでもこれはちやんと揃へて二本確実に前へ投げ出して居りますの。でも云ひわけではありませんが、そんなに醜い姿態とも自分では思ひませんの、投げ出したと云つても、その足は、ずつと長めに着た浴衣の裾が叮嚀に包んで居りますの、腰紐なしの着流しでもきちんと帯はしめて居りますから丸くまとまつてゐる膝の上に角のきちんとした半切原稿紙の一二枚はいだばかりの一冊を置いて、万年筆を片手にしながら思案して居りますの。
 さて、何と書かう、非常にやさしいやうでむづかしい。
 頭がまとまらないとちよつとのことにも気が散りますのね。夕風がね、実は涼しいのこちらの座敷はね、でもさらさらとなどわたくしの袂はなびかないわ。そんな風流な姿態ではないの、私の袂はぶつきらぼうの元禄袖ですもの。
「まるで男の児のやうだな、上体が寂しいぢやないか。何かお飾り、そして帯はなるたけ赤いのが宜いね」
 外国へ行らしつてからあなたは随分派手好きにおなりになつた。今日はね紫水晶の耳環をして居るの。首かざりは襟に食ひ入る処へあせもが、あの金の細いクサリなりに出来てはいけませんから。それがね、その紫水晶の大粒な珠が、夕風にゆれたり、私が首を動かす毎に、ころころと両方の耳の下をかろくかはゆくうちますのよ。それが可愛ゆくつてわたし涙がにじむのよ。
 こんな私の姿態なんか書かなくても一つ家に居て、おとなり同志の部屋なのですものね。けどあなたには御存知ない、それを私は確実に知つて居ます、今日はあなたはまだ、しみじみわたくしにお逢ひになりません、一二度、廊下でお目にかゝつた、そして二人の向ひ合つた部屋の入口同志でも一二度ほんの一寸はお目にかゝつたけれど、今日はまつたくあなたは仕事屋さんで居らつしやるもの、私には、あなたが赤い私の帯なんか、男の児のやうな元禄袖なんか、まして耳環なんか決してお気にとまらないのをよく存じて居りますわ。そして、この私の存在すらも――えゝ、でも、それで結構だとおもひますの、馴れて居りますもの。
 けどやつぱり淋しいには淋しいの、ですから耳環の水晶のころころの可愛ゆいのまでに涙が出たりするのですわ。と云つてわたくしがそんな時あなたのお部屋へ這入つて行つて、
「パパ。」
 とでも呼んでごらん遊ばせ、あなたはペンの手をあつちむきのまゝ肩の処まで上げて、
「これこれ、Kachi 坊はこんな蒸暑い部屋へ来るのではありません。」
 で、御座いますもの。馴れて居りますわ、ひとりで居りますことには。
 しかし時々あなたは、すばらしく私のあなたにおなりになさいますのね、御自分で私の着物を見立てに銀座へ行らしつたり、おいしいものを喰べに連れてゐらしつたり、観音経のお講義をして、私の難問を解いて下さつたり、気に入つたポーズをさせてスケッチをとつたり、さういふことはまた得て世間に誇大に拡がり安いもので、いかにあなたの愛物でわたくしがあるかを云々し、まゝそこまでは宜いとして、それがために、私はその境遇にあまへて私の芸術にあそび気まゝにお金ばなれの好い暮らしをして居ると非難がましくいふひとがあるさうです。
 芸術は懸命な努力と奇特な志がなければどんな境遇に居ても決して行はれるものではありませんね、私の芸術が明快であり放胆華美であり肩肘昂げて人生の厳粛呼ばりをことさらにしないと云つて、あそびなど云ふ人こそ却つて厳粛ごつこのあそびをして居る気障な本当の苦労をしない人の云ふことでせう。苦しめば苦しむほど人生に洗練される。洗練されたものには、和やかさ柔かさ、上品な明快さがひとりでにそなはる。二日も三日もご飯をいたゞけなかつた境遇から二人が一生懸命人生を厳粛に暮らした為めに、此の頃のやうなお金ばなれの好い暮らしになつたこともあまり人は知らない。過去のいろ/\な苦痛に洗練されて私は、実に柔しく素直に明るい娘の子の様な女になりました。
 私を皮相からただ甘やかに、華美に安易に見るので御座いますわね――でも、こんなことどうでも宜しいのね。どうせ二つの生命は同時に同所へならび立ちませんもの。あなたが健全に社会に出れば、私の方へいくらかゆがみの来るのはあたりまへですもの。あなたが社会に光れば当然光に添ふ影の役をわたくしが勤めるはずですもの、わたくしみんな知つて居るのだわ。ですからもうこんなお手紙書くのやめて御一所に下の座敷へ参りませう、お夕食の仕度も直き出来るはずですわ、昼間のお仕事をお打切りに遊ばせよ、私の部屋はもう薄暗くなつてしまひました。

底本:「日本の名随筆 別巻55 恋心」作品社
   1995(平成7)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第十三巻」冬樹社
   1976(昭和51)年11月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月27日公開
2006年7月21日修正
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