人間の社会には、その事実なり、その言葉なりをねじまげたり、もてあそんだりすると、結果として不幸がもたらされる以外に、どんないいこともない事柄がある。愛がその一つである。正義もそういう本質をもっている。それから平和が。
 ポツダム宣言が受諾されて日本の人の声々のなかに、戦争を悲惨とし、平和と自立とを愛するひびきがきかれるようになってから三度目の八月十五日が来ようとしている。
 わたしたちは日本で特にいちじるしい戦争挑発の雰囲気の中でこの八月十五日をむかえるのである。くりかえし改めて、日本のすべての誠実な人々は、戦争そのものはもとよりのこと、戦争挑発のすべての言動を絶対に好んでいないし、それを拒否していることを明瞭にする日として。
 八月十五日は、まだ日本で平和の確保された日としてあらわれていない。平和を守るためには、具体的に平和を破壊しつつある根づよいファシズムの作用の一つ一つと、わたしども一人一人が正直にたたかって行かなければならないことを、自分にもひとにも確認する日としてあらわれているのである。
 平和という言葉は、真に民主的に自立した日本の、まじめで勤勉な男女人民の平和建設を意味してあつかわれるべきである。
 平和のために、という字に乗ってあらわれる暴力や分解作業、勤労する人民の生活条件の切り下げなどを、わたしたちは、はっきり、真の平和のために必要なことと区別して理解しなければならないと思う。
 不幸にも日本の男女は、これまでただの一度も、しんからファシズムに反対して自立たちの力で守りとおした平和というものの、高鳴るような歓喜とほこりとを経験していない。それだからといって、いや応なく戦争にかり立てられた過去の日本のわたしたちの犠牲は軽少ですんだとでもいうのだろうか。
 平和のためという言葉が、日本語では独占資本の跳梁という意味だったり、世界平和の砦ということがファシズムの走り小僧という意味であってはならない。民主日本ということが、隷属日本であってはならないように。
 日本の母性よ、ひろがれ。
 世界の母の一人となるまでつよく成長せよ。
 母性がすべての女性のうちにあるならば、その生み育てる本性にしたがって、女性の声はおのずから平和をこわす力に対する心よりの抗議以外にありようはない。ファシズムによって最も悲劇的な被害をこうむったのは婦人と子供である。その損害の一番少なかったアメリカにおいてさえも。
 戦争挑発に反対し、ファシズムに抗議する日本女性のこんなに自然な願いを、わたしたちはなぜいつまでも内証ごとのように扱っているのだろう。ほんとうに不可解なことだと思う。わたしたちの正当な主張にあたって何かおそれなければならないことでもあるというのだろうか。
 わたしたちにとって恐れるべきことがあるとすれば、それはアメリカはじめ世界いたるところにファシズムに反対するおびただしい人々とその集団があり、真心から戦争挑発に対してたたかっているという事実を知らないでいることである。あるいは、現世紀の人類的な正義であるそれらの運動の意味と実力とを過小評価することである。
〔一九四八年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人民主新聞」
   1948(昭和23)年8月12日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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