私達が生きてゆく間には、千変万化の波瀾をくぐる。その波瀾の間に、人間として、強く、純潔に生きてゆくことは非常にむずかしい。現代に純潔は非常に少い。
 純潔とはどういうことを意味するのだろう。人間が社会に生きてゆく態度として、純潔性は、その人々が社会に持っている歴史の意味を明瞭に自覚して、歴史が一人一人その人達に求めている道を、積極的に勇気をもって進んでゆく。そういう自然で正直な態度の中に、社会生活の純潔性はあると思う。働く人には勤労階級として歴史から求められている最も名誉のある発展的使命がある。支配階級には、現在の歴史の中で矛盾の多い非生産的な階級でありながら、支配階級としての権力を保っていかれるという、その矛盾をはっきりと見てその矛盾がそれらの人々にもたらす生活変化、階級の没落に対して、正直に勇気ある人間らしい発展性で自分の身を処してゆくこと、それが生活の一つの純潔さの意味である。
 石橋湛山氏が大蔵大臣として、インフレーションの、恐しいこの時期に、ラジオ放送して、幼な児の如くならずんば天国に入るを得ず、というようなことをいったのは純潔と反対のことであった。大臣という立場は、全人民経済生活の具体的解決を責任としている。その責任を忠実に感じ、履行し、責任を負いかねる時には、その任を去るというのが純潔な態度である。この場合に、幼な児の如くならずんば、という聖書の言葉を出して、今日われわれの苦しんでいるインフレーションに対してただ政府を信頼せよというふうないいまわしをすることは、真実たる純潔そのものを侮辱したことである。
 ただ平和、衝突がないということ、そのことだけで純潔は意味されない。悪いことをしないということだけに純潔があるのではない。
 純潔ということには、非常に積極的な、非常に建設的な意味がある。社会は矛盾に満ちていて、私達はいつでも悪くなる動機をもっているし、濁らされる動機を持っている。それに対してはっきり社会の歴史の進む方向とそれにつれて自分の闘いの道を知って自分を立てる道をつかむこと、そのことなしに私達は一日も純潔にいられない。
 純潔というものは、或る特別の条件で固定した一つの型ではない。善とか悪とかいうことは相互の関係で変化して、善かったことが悪くなる時期がある。悪かったものが違った形に発展して善くなる場合もありうる。純潔というものもいわゆる「無垢」なるものだけが純潔なのではなくて、すべての不正とすべての間違いと、すべての汚れの中から、人間が自分の社会認識の力と人間性の油でそれらの汚れを弾きとばしながら生きていく、そこに純潔性があると思う。
 純潔ということが、異性の間の肉体的な関係に対してだけいわれるものでないことは、今日だれにでもわかっている。仲間としての友愛、友達としての友情、同志としての結合、そういう社会的な結び合いの中にある純潔さは、男と女の自然な特殊性を十分に主張しながらも、それを貫いてもう一つ互いの間に持たれている共通な目的によって結ばれている。具体的な例でいえば、ここにある一つの組合があって、争議に入っている。青年部と婦人部はもちろん協同で闘っているから、事件の成行きによっては、夜、家へも帰れない。一つの室に、ある人はテーブルの上で、ある人はイスの上で、夜明しをしなければならないこともある。その時一つの室に若い男と女とが夜中かたまり合っていたからどうだ、というふうなことを思う人は、もう今はいない。組合の男女は、古い観念でいえば純潔に一夜を明かしたのである。しかし、もっと突き進んだ理解での人間精神の純潔、階級的純潔とまで立入って考えれば、昔ふうに純潔な一夜を明かした組合の男女のうち、かりにA子とB男という二人の人があるとする。その人達は何にもいわないで、一人一人の胸の中に、その争議から逃げたい、もし糺弾されないならば、自分達だけはこっそり妥協してもいい、もういやだ、と思いながら「純潔」に一夜を明かしていたとする。それは果して働く人として純潔な一夜であろうか。私達の純潔観はこういう所にもある。
 むかし社会主義の思想と運動が治安維持法によって極端に弾圧されていた時代、日本共産党が非合法な政党としてひどい目にあわされていた時代、運動に入って困難な闘いを続けている若い男女の同志が世間態は人なみの家庭生活をしなければならないために、夫婦でない者が寄合って暮さなければならない、という場合があった。極端に困難な事情の中で、仕事の便宜上共同生活をした男女がやがて恋愛生活に入り、結婚生活も営んでゆくという例もあった。近頃になって小林多喜二の「党生活者」という小説が再版されるようになったが、その中に、その小説の主人公である青年闘士が女の同情者、そして愛人と同棲生活をして、困難を経てゆくことが書かれている。ある種の人々はそれについて共産党員の間にはハウスキーパーという一つの制度があって、自分達の便利のために女性をあらゆる意味で踏台にした、という批評をしている。今日、これは大変に不思議ないいかただと思う。
 非合法であった時代に、警視庁が党生活にたいする逆宣伝として新聞に書きたてさせた、その言葉を、今日の知識人とか批評家とかいう人が、鵜呑みにして平気でそれをくりかえすのに驚ろかされる。
 なぜなら、その人達はそういう事実を自分で一つも経験していないにもかかわらず、事実かどうかをきわめようとしていない。こういう社会的真実にたいする追求の怠慢は、知性そのものの不純潔性である。
 私自身の生活の経験を考えてみて、身辺のたれそれの生活を考えてみて、ハウスキーパーの「制度」などは決してなかった。ハウスキーパーという名のもとに女性を全く非人間的に扱ったのは公判廷で自白しているとおり警視庁から入ったスパイの大泉兼蔵などであった。熊沢みつ子という若い婦人闘士は、ほんとうに大泉が共産主義者であり党の中央委員であると信じて、そのいうことを信頼して活動をたすけ、献身して人民解放のために努力しているつもりであった。ところが、大泉が本職のスパイであることが発見された時、熊沢みつ子は非常に苦しんだ。自分の人間的な善意が裏切られたことに苦しみつくして、とうとう獄中で自殺した。だが大泉は平気で生きている。こういう非人間的な行動を逆に共産主義者へのそしりとして、ハウスキーパー制度というものがあった、というようにいっている。
 同志の間に愛情問題が起り、結婚生活にも入ることがあるのは自然だし、これからもあることであるが、しかし、その結合を破壊し、おどかし、ちりぢりにさせたのも治安維持法であった。婦人の社会的活動の面が拡がるにつれて、社会認識の上でつながりのない結婚はますます減ってゆく。そこに共通な社会的地盤の上に立つ男女の純潔さがあり愛情の純潔さえも一層強固に保たれてゆく可能があると思う。
 愛するものがあってもなくても、人間一人として、一人の女として、また一人の男として、どういう生き方をつらぬきたいと願っているか。その願いで結ばれて、互いの愛で励まし合える時に、愛の純潔ということ、結婚生活の純潔性ということも実現するのではなかろうか。
 男同士の信頼による友情の純潔性、女同士の深い友愛の結合も、根本には一人一人がそれぞれに自分の足でこの人生をしゃんと歩ける人間になりたい、ということが基礎である。
〔一九四七年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人朝日」
   1947(昭和22)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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