豆腐屋のチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金の光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉を開き、たんぽぽはオレンジ色の冠をささげる。堰の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。
チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後へなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。
そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども暁は寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。
だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。
医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父の話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介になった、それはかれの二歳のときである。
「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」
伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。
「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」
今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三と呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。
かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱を受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩が強くてむこう見ずで、いつでも身体に生きずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。
「やい、おめえはできると思っていばってるんだろう、やい、このへびを食ってみろ」
かれはすべての者にこういってつっかかった、かれはいま中学校へ通っている、豆腐おけをかついだチビ公は彼を見ると遠くへさけていた、だがどうかするとかれは途中でばったりあうことがある。
「てめえはいつ見てもちいせえな、少し大きくしてやろうか」
かれはチビ公の両耳をつかんで、ぐっと上へ引きあげ、足が地上から五寸もはなれたところで、どしんと下へおろす。これにはチビ公もまったく閉口した。
かれが今町の入り口へさしかかると向こうから巌がやってきた、かれは頭に鉢巻きをして柔道のけいこ着を着ていた。チビ公ははっと思って小路にはいろうとすると巌がよびとめた。
「やいチビ、逃げるのかきさま」
「逃げやしません」
「豆腐をくれ」
「はい」
チビ公は不安そうに顔を見あげた。
「いかほど?」
「食えるだけ食うんだよ、おれは朝飯前に柔道のけいこをしてきたから腹がへってたまらない、焼き豆腐があるか」
「はい」
チビ公が蓋をあけると巌はすぐ手をつっこんだ、それから焼き豆腐をつかみあげて皮ばかりぺろぺろと食べて中身を大地にすてた。
「皮はうまいな」
「そうですか」とチビ公はしかたなしにいった。
「もう一つ」
かれは三つの焼き豆腐の皮を食べおわって、ぬれた手をチビ公の頭でふいた。
「銭はこのつぎだよ」
「はい」
「用がないからゆけよ、おれはここで八百屋の豊公を待っているんだ、あいつおれの犬に石をほうりやがったからここでいもをぶんどってやるんだ」
チビ公はやっと虎口をのがれて町へはいった、そうして悲しくらっぱをふいた。らっぱをふく口元に涙がはてしなくこぼれた。
どうしてあんなやつにこうまで侮辱されなきゃならないんだろう、あいつは学校でなんにもできないのだ、おやじが役場の助役だからいばってるんだ、金があるから中学校へゆける、親があるから中学校へゆける。それなのにおれは金もない親もない。なぐられてもだまっていなきゃならない、生涯豆腐をかついでらっぱをふかなきゃならない。
かれの胸は憤怒に燃えた、かれはだまって歩きつづけた。
「おい豆腐屋、売るのか売らないのか、らっぱを落としたのか」
職人風の男が二人、こういってわらってすぎた。チビ公はらっぱをふいた、その音はいかにも悲しそうにひびいた。町にはちらちら中学生が登校する姿が見えだした、それは大抵去年まで自分と同級の生徒であった。チビ公は鳥打帽のひさしを深くして通りすぎた。
「おはよう青木君」と明るい声がきこえた。
「お早う」とチビ公はふりかえっていった、声をかけたのは昔の学友柳光一という少年であった、柳は黒い制服をきちんと着て肩に草色の雑嚢をかけ、手に長くまいた画用紙を持っていた。かれはいかなるときでもチビ公にあうとこう声をかける、かれは小学校にあるときにはいつもチビ公と席を争うていた、双方とも勉強家であるが、たがいにその学力をきそうていた、これといって親密にしたわけでもないが、光一の態度は昔もいまもかわらなかった、一方が中学生となり一方は豆腐屋となっても。
「ぼくはね、きみを時計にしてるんだよ」と光一はいった。「きみに逢った時には非常に早いし、きみにあわなかったときにはおそいんだ」
「そうですか」
「重たいだろうね、きみ」
光一はチビ公の荷を見やっていった。
「なあになれましたから」
「そうかね」と、光一はチビ公の顔をしみじみと見やって、「ひまがあったら遊びにきてくれたまえね、ぼくのところにはいろいろな雑誌があるから、ぼくはきみにあげようと思ってとっておいてあるよ」
「ありがとう」
「じゃ失敬」
チビ公は光一にわかれた、なんとなくうれしいようななつかしいような思いはむらむらと胸にわいた、でかれはらっぱをふいた、らっぱはほがらかにひびいた、と一旦わかれた光一は大急ぎに走りもどった。
「このつぎの日曜にね、ぼくの誕生日だから、昼からでも……晩からでも遊びにきてくれたまえね」
「そうですか……しかし」とチビ公はもじもじした。
「かまわないだろ、日曜だから……」
「ああ、そうだけれども」
「いいからね、遠慮せずとも、ぼくは昔の友達にみんなきてもらうんだ」
「じゃゆきましょう」
光一はふたたび走って去った。雑嚢を片手にかかえ、片手に画用紙を持ち両ひじをわきにぴったりと着けて姿勢正して走りゆく、それを見送ってチビ公は昔小学校時代のことをまざまざと思いだした。なんとなく光一の前途にはその名のごとく光があふれてるように見える、学問ができて体力が十分で品行がよくて、人望がある、ああいう人はいまにりっぱな学者になるだろう。
そこでかれはまたらっぱをふいた、嚠喨たる音は町中にひびいた。チビ公が売りきれるまで町を歩いてるその日の十二時ごろ、中学校の校庭で巌はものほしそうにみんなが昼飯を食っているのをながめていた、かれは大抵十時ごろに昼の弁当を食ってしまうので正午になるとまたもや空腹を感ずるのであった。そういうときにはかならずだれかに喧嘩をふきかけてその弁当を掠奪するのである。自分の弁当を食うよりは掠奪のほうがはるかにうまい。
「みんな集まれい」とかれはどなった。だが何人も集まらなかった、いつものこととて生徒等はこそこそと木立ちの陰にかくれた。
「へびの芸当だ」とかれはいった、そうしてポケットから青大将をだした。
「そもそもこれは漢の沛公が函谷関を越ゆるときに二つに斬った白蛇の子孫でござい」
調子面白くはやしたてたので人々は少しずつ遠くから見ていた。少年等はまた始まったといわぬばかりに眉をしかめていた。
「おいしゃもじ!」とかれは背後を向いて飯を食ってる一人の少年をよんだ、しゃもじはおわりの一口をぐっとのみこんで走ってきた、かれはやせて敏捷そうな少年だが、頭は扇のように開いてほおが細いので友達はしゃもじというあだ名をつけた。かれは身体も気も弱いので、いつでも強そうな人の子分になって手先に使われている。
「おい口上をいえ」と巌がいった。
「なんの?」
「へびに芸をさせるんだ」
「よしきた……そもそもこれは漢の沛公が二つに斬った白蛇の子孫でござい」
調子おもしろくはやしたてたので人々は少しずつ集まりかけた。
「さあさあ、ごろうじろ、ごろうじろ」
しゃもじの調子にのって巌はへびをひたいに巻きつけほおをはわし首に巻き、右のそで口から左のそで口から中央のふところから自由自在になわのごとくあやなした。
「うまいぞうまいぞ」と喝采するものがある。最後にかれはへびを一まとめにして口の中へ入れた。人々は驚いてさかんに喝采した。
「おいどうだ」
かれはへびを口からはきだしてからみんなにいった。
「うまいうまい」
「みんな見たか」
「うまいぞ」
「見たものは弁当をだせ」
人々はだまって顔を見合った、そうして後列の方からそろそろと逃げかけた。
「おい、こらッ」
いまにぎり飯を食いながら逃げようとする一人の少年の口元めがけてへびを投げた。少年はにぎり飯を落とした。
「つぎはだれだ」
かれは器械体操のたなの下にうずくまってる少年の弁当をのぞいた、弁当の中には玉子焼きとさけとあった。
「うまそうだな」
かれは手を伸ばしてそれを食った。そして半分をしゃもじにやった。
「つぎは?」
もうだれもいなかった、投げられたへびはぐんにゃりと弱っていた。かれはそれを拾うと裏の林の方へ急いだ。そこには多くの生徒が群れていた、かれらの大部分は水田に糸をたれてかえるをつっていた。その他の者は木陰木陰に腰をおろして雑誌を読んだり、宿題を解いたりしていた。巌はずらりとかれらを見まわした、これというやつがあったら喧嘩をしてやろう。
だがあいにく弱そうなやつばかりで相手とするにたらぬ、そこでかれは木の下に立って一同を見おろしていた、かれの胸はいつも元気がみちみちている、かれは毎朝眼がさめるとうれしさを感ずる、学校へいって多くの学生をなぐったりけとばしたり、自由に使役したりするのがさらにうれしい。かれはいろいろな冒険談を読んだり、英雄の歴史を読んだりした、そうしてロビンソンやクライブやナポレオンや秀吉は自分ににていると思った。
「クライブは不良少年で親ももてあました、それでインドへ追いやられて会社の腰弁になってるうちに自分の手腕をふるってついにインドを英国のものにしてしまった、おれもどこかへ追いだされたら、一つの国を占領して日本の領土を拡張しよう」
こういう考えは毎日のようにおこった、かれは実際喧嘩に強いところをもって見ると、クライブになりうる資格があると自信している。
「おれは英雄だ」
かれはナポレオンになろうと思ったときには胸のところに座蒲団を入れて反身になって歩いた。秀吉になろうと思った時にはおそろしく目をむきだしてさるのごとくに歯を出して歩く。かれの子分のしゃもじは国定忠治や清水の次郎長がすきであった、かれはまき舌でものをいうのがじょうずで、博徒の挨拶を暗記していた。
「おれはおまえのような下卑たやつはきらいだ」と巌がしゃもじにいった。
「何が下卑てる?」
「国定忠治だの次郎長だの、博徒じゃないか、尻をまくって外を歩くような下卑たやつはおれの仲間にゃされない」
「じゃどうすればいいんだ」
「おれは秀吉だからお前は加藤か小西になれよ」
かれはとうとうしゃもじを加藤清正にしてしまった。だがこの清正はいたって弱虫でいつも同級生になぐられている。大抵の喧嘩は加藤しゃもじの守から発生する、しゃもじがなぐられて巌に報告すると巌は復讐してくれるのである。
いずれの中学校でも一番生意気で横暴なのは三年生である、四年五年は分別が定まり、自重心も生ずるとともに年少者をあわれむ心もできるが、三年はちょうど新兵が二年兵になったように、年少者に対して傲慢であるとともに年長者に対しても傲慢である。
浦和中学の三年生と二年生はいつも仲が悪かった、年少の悲しさは戦いのあるたびに二年が負けた、巌はいつもそれを憤慨したがやはりかなわなかった。
「二年の名誉にかかわるぞ」
かれはこういいいいした、かれはいま木の下に立って群童を見おろしているうちに、なにしろ五人分の弁当を食った腹加減はばかに重く、背中を春日に照らされてとろとろと眠くなった。でかれは木の根に腰をおろして眠った。
「やあ生蕃が眠ってらあ」
学生どもはこういいあった。生蕃とは巌のあだ名である、かれは色黒く目大きく頭の毛がちぢれていた、それからかれはおどろくべき厚みのあるくちびるをもっていた。
うとうととなったかと思うと巌は犬のほえる声を聞いた。はじめは普通の声で、それは学生等の混雑した話し声や足音とともに夢のような調節をなしていたが、突然犬の声は憤怒と変じた。巌ははっと目を開いた。もうすべての学生が犬の周囲に集まっていた。二年生の手塚という医者の子が鹿毛のポインターをしっかりとおさえていた、するとそれと向きあって三年の細井という学生は大きな赤毛のブルドッグの首環をつかんでいた。
「そっちへつれていってくれ」と手塚が当惑らしくいった。
「おまえの方から先に逃げろ」と三年の細井がいった。
「やらせろ、やらせろ、おもしろいぞ」としゃもじが中間にはいっていった。犬と犬とが顔を見あったときまたほえあった。
「やれやれやれ」と一年[#「一年」はママ]が叫びだした。
「やるならやろう」と三年がいった。
「よせよ」
人々を押しわけて光一が進みでた、かれは手に代数の筆記帳を持っていた。
「やらせろ」と双方が叫んだ。
「つまらないじゃないか、犬と犬とを喧嘩させたところでおもしろくもなんともないよ、見たまえ犬がかわいそうじゃないか、犬には喧嘩の意志がないのだよ」
「降参するならゆるしてやろう」と三年がいった。
「降参とかなんとか、そんなことをいうから喧嘩になるんだ」と光一はいった。
「だっておまえの方で、かなわないからやめてくれといったじゃないか」
「かなうのかなわないのという問題じゃないよ、ただね、つまらないことは……」
「なにを?」
三年の群れからライオンとあだ名された木俣という学生がおどりだした、木俣といえば全校を通じて戦慄せぬものがない、かれは柔道がすでに三段で小相撲のように肥って腕力は抜群である、かれは鉄棒に両手をくっつけてぶらさがり、そのまま反動もつけずにひじを立ててぬっくとひざまでせりあげるので有名である。柔道のじまんばかりでなく剣道もじまんで、どうかすると短刀をふところにしのばせたり、小刀をポケットにかくしたりしている。
木俣がおどりだしたので人々は沈黙した。
「おじぎをしたらゆるしてやるよ、なあおい」
とかれは同級生をふりかえっていった。
「三遍まわっておじぎしろ」
光一はもうこの人達にかかりあうことの愚を知ったのでひきさがろうとした。
「逃げるかッ」
木俣は光一の手首をたたいた、筆記帳は地上に落ちて、さっとページをひるがえした。光一はだまってそれを拾いあげしずかに人群れをでた。むろんかれは平素人と争うたことがないのであった。
「弱いやつだ」
三年生は嘲笑した。
「いったいこの犬はだれの犬だ」と木俣はいった。人々は手塚の顔を見た。
「ぼくのだ」
「てめえに似て臆病だな」
「なにをいってるんだ」と手塚は負けおしみをいった。
「二年生は犬まで弱虫だということよ」
三年生は声をそろえてわらった。二年生はたがいに顔を見あったがなにもいう者はなかった。
「やっしいやっしい」と木俣はブルドッグのしりをたたいた。赤犬はおそろしい声をだして突進した、鹿毛は少ししりごみしたがこのときしゃもじがその首環を引いて赤犬の鼻に鼻をつきあてた、こうなると鹿毛もだまっていない、疾風のごとく赤犬にたちかかった、赤は前足で受け止めて鹿毛の首筋の横にかみついた、かまれじと鹿毛は体をかわして赤の耳をねらった。一離一合! 殺気があふれた。
二、三度同じことをくりかえして双方たがいに下手をねらって首を地にすえた。
「やっしいやっしい」
両軍の応援は次第に熱した。このとき二年生は歓喜の声をあげた。のそりのそり眠そうな目をこすりながら生蕃がやってきたからである。
「生蕃がきた」
「たのむぞ」
「やってくれ」
声々が起こった。生蕃は一言もいわずに敵軍をジロリと見やったとき、ライオンがまた同じくジロリとかれを見た。二年の名誉を負うて立つ生蕃! 三年の王たるライオン! 正にこれ山雨きたらんとして風楼に満つるの概。
犬の方は一向にはかどらなかった、かれらはたがいにうなり合ったが、その声は急に稀薄になった、そうして双方歩み寄ってかぎ合った。多分かれらはこう申しあわしたであろう。
「この腕白どもに扇動されておたがいにうらみもないものが喧嘩したところで実につまらない、シナを見てもわかることだが、英国やアメリカやロシアにしりを押されて南北たがいに戦争している、こんな割りにあわない話はないんだよ」
赤は鹿毛の耳をなめると鹿毛は赤のしっぽをなめた。
犬が妥協したにかかわらず、人間の方は反対に興奮が加わった。
「やあ逃げやがった」と三年がわらった。
「赤が逃げた」と二年がわらった。
「もう一ぺんやろうか」と細井がいった。
「ああやるとも」と手塚がいった、元来生蕃は手塚をすかなかった、手塚は医者の子でなかなか勢力があり智恵と弁才がある、が、生蕃はどうしても親しむ気になれなかった。
ふたたび犬がひきだされた、しゃもじと細井は犬と犬との鼻をつきあてた。「シナの時勢にかんがみておたがいに和睦したのにきさまはなんだ」と鹿毛がいった。
「和睦もへちまもあるものか、きさまはおれの貴重な鼻をガンと打ったね」
「きさまが先に打ったじゃないか」
「いやきさまが先だ」
「さあこい」
「こい」
「ワン」
「ワンワン」
すべて戦争なるものは気をもって勝敗がわかれるのである、兵の多少にあらず武器の利鈍にあらず、士気旺盛なるものは勝ち、後ろさびしいものは負ける、とくに犬の喧嘩をもってしかりとする、犬のたよるところはただ主人にある、声援が強ければ犬が強くなる、ゆえに犬を戦わさんとすればまず主人同士が戦わねばならぬ。
三年と二年! 双方の陣に一道の殺気陰々として相格し相摩した。
「おい」と木俣は巌にいった。
「犬に喧嘩をさせるのか、人間がやるのか」
「両方だ」と巌は重い口調でいった。
「うむ、いいことをいった、わすれるなよ」と木俣はいった。このときおそろしい犬の格闘が始まった。
犬はもう憤怒に熱狂した、いましも赤はその扁平な鼻を地上にたれておおかみのごとき両耳をきっと立てた、かれの醜悪なる面はますます獰猛を加えてその前肢を低くしりを高く、背中にらんらんたる力こぶを隆起してじりじりとつめよる。
鹿毛はその広い胸をぐっとひきしめて耳を後方へぴたりとさか立てた。かれは尋常ならぬ敵と見てまず前足をつっぱり、あと足を低くしてあごを前方につき出した。かれは赤が第一に耳をめがけてくることを知っていた、でかれはもし敵がとんできたら前足で一撃を食わしよろめくところを喉にかみつこうと考えた。四つの目は黄金色に輝いて歯は雪のごとく白く、赤と鹿毛の毛波はきらきらと輝いた。八つの足はたがいに大地にしっかりとくいこみ双方の尾は棒のごとく屹立した。尾は犬の聯隊旗である。
「やっしいやっしい」
人間どもの叫喚は刻一刻に熱した、二つの犬は隙を見あって一合二合三合、四合目にがっきと組んで立ちあがった。このとき木俣の身体がひらりとおどりでて右足高く鹿毛の横腹に飛ぶよと見るまもあらず、巌のこぶしが早く木俣のえりにかかった。
「えいッ」
声とともにしし王の足が宙にひるがえってばったり地上にたおれた。
「いけッ」
二年生はこれに気を得て突進した。
「くるなッ」
巌がこうさけんだ、かれは倒れた敵をおさえつけようともせずだまって見ていた、かれは木俣の寝業をおそれたのである、木俣の十八番は寝業である。
「生意気な」
木俣は立ちあがってたけりじしのごとく巌を襲うた、捕えられては巌は七分の損である、かれは十七歳、これは十五歳、柔道においても段がちがう、だが柔道や剣術と実戦とは別個のことである。喧嘩になれた巌は進みくる木俣を右に透しざまに片手の目つぶしを食わした。木俣のあっとひるんだ拍子に巌は左へ回って向こうずねをけとばした。
「畜生」
木俣は片ひざをついた、がこのときかれの手は早くもポケットに入った、一挺の角柄の小刀がその手にきらりと輝いた。
「刃物をもって……卑劣なやつ」
巌の憤怒は絶頂に達した、およそ学生の喧嘩は双方木剣をもって戦うことを第一とし、格闘を第二とする、刀刃や銃器をもってすることは下劣であり醜悪であり、学生としてよわいするにたらざることとしている、これ古来学生の武士道すなわち学生道である。
「殺されてもかまわん」と生蕃は決心した。かれの赤銅色の顔の皮膚は緊張してその厚いくちびるは朱のごとく赤くなった。
「さあ、こい」
木俣は再度の失敗にもう気が顛倒してきた。かれはいまここで生蕃を殺さなければふたたび世人に顔向けがならないと思った。かれは波濤にたてがみをふるうししのごとくまっしぐらに突進した、小刀は人々の目を射た、敵も味方も恐怖に打たれて何人もとめようともせずに両人の命がけの勝負を見ていた。
生蕃は右にかわし左にかわしてたくみに敵の手をくぐりぬけ、敵の足元のみだれるのを待っていた、だが木俣は心にあせりながらもからだにみだれはなかった、かれは縦横に生蕃を追いつめた。そこは学校の垣根である、歩一歩に詰められた生蕃は後ろを垣にさえぎられた。
「しまった」とかれは思った、だが、逃げることは絶対にきらいである。敵を垣根におびきよせ自分が開放の地位に立つ方が利益だと思った、しかしかれのこの方策はあやまった、敵をして方向を転換させるべく、そこに大きな障害がある、かれの右に三尺ばかりの扁平な石があるのに気がつかなかった。
「畜生!」
ライオンは声とともに生蕃の肩先めがけて飛びこんだ。ひらりと身をかわしたが生蕃は石につまずいてばたりとたおれた。
「あっ!」
二年生は一せいに叫んだ、ライオンは生蕃の上に疾風のごとくおどりあがった。とこのとき非常な迅速さをもって垣根の横からライオンの足元に飛びこんだものがある、ライオンはそれにつまずいてたおれた、かれの手には小刀がやはり光っていた。
飛びこんだ学生はライオンにつまずかした上で起きあがってライオンをだきしめた、ライオンはやたらに小刀をふってかれをつこうとした。
「しめたッ」
起きあがった生蕃は背後からライオンののどをしめた。ライオンはぐったりとまいってしまった。
「けがしなかったか、柳君」と生蕃はまっさおな顔をしていった。
「なんでもないよ」
光一は手からしたたる血汐をハンケチでふいていた。
「早いことをするな」
「柳にあんな勇気があったのか」
同級生はあっけに取られてささやきあった。双方ともふたたび戦う気もなくなった、犬はいつのまにか戦いをやめて逃げてしまった。
五分間の後、木俣は回気した。生蕃と光一は水を飲ませて介抱した。
「今日はやられた」と木俣はいった。
「明日もやられるよ」と生蕃がいった。
「いずれね」
「堂々とこいよ」
木俣は去った、三年生が去った、二年生ははじめてときの声をあげた。
「きみのおかげだよ」と生蕃はしみじみと光一にいった。「きみは強いんだね」
「いやぼくは弱いよ」
「そうじゃない、あの場合きみがライオンのまたぐらへ飛びこんでくれなかったら、ぼくはあの小刀で一つきにされるところだったんだ」と生蕃がいった。
「もしぼくがつかれて死んだらきみはどうするつもりだ」と光一は友の顔をのぞくようにしていった。
「君が死んだらか」と生蕃はいった。「おれも死ぬよ」
「そうしてぼくを殺した木俣も生きていられないとすれば……三人だ……三人死ぬことになる、つまらないと思わんか」
「うむ」
生蕃はしばらく考えたが、やがて大きな声でわらいだした。
「おまえおれに喧嘩をよさせようと思ってるんだろう、それだけはいけない」
同級生は一度にわっとわらいだした。
「だが柳」と生蕃はまたいった。「ぼくはきみに頭があがらなくなったね」
二
商売を早くしまってチビ公はやくそくどおり柳光一の誕生日にいくことにした。豆腐屋のはんてんをぬぎすててかすりの着物にはかまをはいたときチビ公はたまらなくうれしかった。一年前まではこうして学校へいったものだと思うとかれは自分ながら懐旧の情がたかまってくるように思われた。母はてぬぐいと紙をだしてくれた。
「柳さんの家は金持ちだからね、ぎょうぎをよくして人にわらわれないようにおしよ」
こうくりかえしくりかえしいった、それからご飯のときの心得や、挨拶の仕方までおしえた。そういうことは母は十分にくわしく知っていた。
「かまわねえ、豆腐屋の子だから豆腐屋らしくしろよ、なにも金持ちだからっておせじをいうにゃあたらねえ」と伯父の覚平がいった。覚平は元来金持ちと役人はきらいであった、かれは朝から晩まで働いて、ただ楽しむところは晩酌の一合であった。だがかれは一合だけですまなかった。二合になり三合になり、相手があると一升の酒を飲む。それだけでやまずにおりおり外へでて喧嘩をする、かれは酔うとかならず喧嘩をするのであった。そのくせ飲まないときにはほとんど別人のごとく温和でやさしくてにこにこしている。
「じゃいってまいります」
「いっておいで」
チビ公はあたらしいてぬぐいをはかまのひもにぶらさげ、あたらしいげたをはいて家をでた。光一の家へゆくとすでに五、六人の友達がきていた、その中には医者の子の手塚もいた、光一の家は雑貨店であるが光一の書斎ははなれの六畳であった。となりの六畳室のふすまをはずしてそこに座蒲団がたくさんしいてあった。先客はすでに蓄音器をかけてきいていた。
「よくきてくれたね、青木君」と光一はうれしそうにいった。
「今日はおめでとう」とチビ公はていねいにおじぎをした。あまりに礼儀正しいので友達はみなわらった。
「やあ青木君」
「やあ」
一年前の同級生のこととてかれらは昔のごとくチビ公を仲間に入れた。次第次第に客の数がふえてもはや十二、三人になった、かれらは座蒲団を敷かずに縁側にすわったり、庭へでたりしたがお菓子やくだものがでたので急に室内に集まった。手塚はこういう会合にはなくてならない男であった。かれは蓄音機係として一枚一枚に説明を加えた。
「ぼくはね、カルメンよりトラビヤタの方がすきだよ」とかれがいった。
「ぼくは鴨緑江節がいい」とだれかがいった。
「低級趣味を発揮するなよ」と手塚はいった。そうしてトラビヤタをかけてひとりでなにもかも知っているような顔をして首をふったり感心した表情をしたりした。
片隅では光一をとりまいた四、五人が幾何学によって座蒲団二枚を対比して論じていた。
「そら、角度が同じければ辺が同じだろう」とひとりがいう。
「等辺三角形は角度も相等しだ」と光一がいった。
チビ公に近いところにたむろした一団は物体と影の関係について論じていた、洋画式でいうと物体にはかならず光の反射がある、どんなに影になっている点でもかすかな反射がある、この反射と影とは非常にまぎらわしいので困るとひとりがいった。するとひとりは影そのものにも反射があるといいだした。
チビ公はびっくりしてものがいえなかった、かれはたった一年のあいだに友達の学問が非常に進歩し、いまではとてもおよびもつかぬほど自分がおくれたことを知った。幾何や物理や英語、それだけでもいまでは異国人のように差異ができた、こうして自分が豆腐屋になりだんだんこの人達とちがった世界へ墜落してゆくのだと思った。
「ねえきみ、ぼくらにはなんの話だかわからないね」
かれは隣席の豊松という少年にこうささやいた。豊松は八百屋の子で小学校を卒業するまでに二度ほど落第した、チビ公よりは二つも年上だが、そのかわりに身体が大きく力が強い、そのわりあいに喧嘩が弱く、よく生蕃になぐられては目のまん中から大粒の涙をぽろりと一粒こぼしたものだ、今日集まった人々の中で中学校へもいかずに家業においつかわれているものは豊公とチビ公の二人だけであった、かれは学問やなにかの話よりも昔の友達がみな制服を着てるのに自分だけが和服でいるのがはずかしかった。
「あの人達は学者になるんだよ、おれ達とはちがうんだ」とかれはいった。
「そうだね、おれ達はなんになろうたって出来やしない」とチビ公がいった。
「金持ちはいいなあ」と豊公は嗟嘆した。「いい着物を着ておいしいものを食べて学校へ遊びにゆく、貧乏人は朝から晩まで働いて息もつけねえ、本を読みかけると昼のつかれで眠ってしまうしな」
「きみ、お父さんがあるの?」とチビ公がきいた。
「ないよ、きみは?」
「ぼくもない」
「親がないのはお金がないよりも悲しいことだね」
「それにぼくは力がない、きみは力があるからいいさ」
「力があってもだめだ」と豊公は急に腹だたしく、「おれは毎朝生蕃になぐられるんだ、そしていもだの豆だのなしだのかきだのぶんどられるんだ、それでもおれはだまってなきゃならない」
「ぼくも毎朝豆腐を食われるよ、きみなぞは力があるからなぐりかえしてやるといいんだ」
「だめだよ」と豊公はあやうくこぼれようとする涙をこらえていった。「あいつのお父さんは役場の役人だろう」
チビ公はだまって溜め息をついた。向こうではいま手塚が得意になって活動弁士の口まねをしていた。
「主はだれ、むらさきの覆面二十三騎くつわをならべて……タララララタ、タララララタ、プカプカプカララララララ」
「うまいぞうまいぞ」と一同が喝采した。
「もう一つもう一つ」
手塚は得意になってうぐいすのなき声、やぎ、ペリカン、ねこ、ねこが屋根から落ちて水たまりにぴしゃりとおちた音などをつづけざまにやった。かれはものまねがじょうずでなにごとについても器用であった。それからかれはハイカラなはやりうたをうたった。
「ぼくらにゃわからない」とチビ公はいった、実際見るもの聞くものごとにかれは旧友達よりはるかにおくれたことに気がついた、朝は学校へゆく、必要な書籍や雑誌はお金をおしまず買ってもらう、学校から帰ると活動写真を見にいっていろいろなことをおぼえてくるのだ、てんびん棒をかついで家をいで、つかれて家へ帰りそのまま寝てしまう自分等とはあまりに身分の差がある。
お膳が運ばれた、チビ公は小さくなって室の隅にすわった、かれは今日この席へこなければよかったと思った。いろいろな空想は失望や憤慨にともなって頭の中に往来した。人々はさかんにお膳をあらした、チビ公はだまってお膳を見るとたいの焼きざかなにきんとん、かまぼこ、まぐろの刺身は赤く輝き、吸い物は暖かに湯気をたてている。かれは伯父さんを思いだした、伯父さんはいつも口ぐせにこういった。
「まぐろの刺身で一杯やらかしたいもんだなあ」
これを伯父さんへ持っていったらどんなに喜ぶだろう、かれはこう思いかえした、そうしてたいは伯母さんと母が好きだからかまぼこだけは家へかえってからぼくが食べよう。
食事がおわってからまたもや余興がはじまった、チビ公はいとまをつげてひと足早く光一の家をでた、かれはてぬぐいに包んださかなの折り箱を後生大事に片手にぶらさげ、昼のごとく明るい月の町をひとりたんぼ道へさしかかった。道のかなたに見える大きな建物は一年前に通いなれた小学校である。月下の小学校はいま、安らかに眠っている。はしご形の屋根のむねからななめにひろがるかわらの波、思いだしたようにぎらぎら反射する窓のガラス、こんもりとしげった校庭の大樹、そこで自分は六年のあいだ平和に育った、そこにはあらい風もふかず冷たい雨も降らず、やさしい先生の慈愛の目に見まもられて、春の草に遊ぶ小ばとのごとくうたいつ走りつおどりつわらった、そこには階級の偏頗もなく、貧富の差異もなく、勉強するものは一番になりなまけるものは落第した、だが六年のおわり! おおそれは喜ぶべき卒業式か、はたまた悲しむべき卒業式か、告別の歌をうたうとともに同じ巣のはとやすずめは西と東、上と下へ画然とわかれた。
親のある者、金のある者はなお学府の階段をよじ登って高等へ進み師範へ進み商業学校へ進む、しからざるものはこの日をかぎりに学問と永久にわかれてしまった。
チビ公は月光をあびながら立ちどまって感慨にふけった。
「やいチビ」
突然声が聞こえて路地の垣根から生蕃があらわれた。
「折詰をよこせ」
「いやだよ」とチビ公は折り箱をふところに押しこんだ。
「いやだ? こら豊松はおとなしくおれにみつぎをささげたのにおまえはいやだというのか」
「いやだ、これは伯父さんにあげるんだから」
「やい、こらッ、きさまはおれのげんこつがこわくないかよ」
生蕃は豊公から掠奪したたいの尾をつかんで胴のところをむしゃむしゃ食べながらいった。
「阪井君、ぼくは毎朝きみに豆腐を食われてもなんともいわなかった、これだけは堪忍してくれたまえ、きみは豊公のを食べたならそれでいいじゃないか」
「きさまは豊公をぎせいにして自分の義務をのがれようというのか」
「義務だって? ぼくはなにもきみにさかなをやる義務はないよ」
「やい小僧、こらッ、三年のライオンを退治した生蕃を知らないか、よしッ」
生蕃の手が早くもチビ公のふところにはいった。
「いやだいやだぼくは死んでもいやだ」
チビ公は両腕を組んでふところを守った。
「えい、面倒だ」
生蕃はずるずると折り箱をひきだした、チビ公は必死になって争うた。一は伯父を喜ばせようという一心にのぼせつめている、一はわが腹をみたそうという欲望に気狂わしくなっている。大兵とチビ公、無論敵し得べくもない、生蕃はチビ公の横面をぴしゃりとなぐった、なぐられながらチビ公はてぬぐいの端をにぎってはなさない。
「えいッ」
声とともにけあげた足先! チビ公はばったりたおれた。ふたたび起きあがったときはるかに生蕃の琵琶歌が聞こえた。
「それ達人は大観す……栄枯は夢か幻か……」
チビ公の目から熱い涙がとめどなく流れた、金のためにさいなまれたかれは、腕力のためにさいなまれる、この世のありとあらゆる迫害はただわれにのみ集まってくるのだと思った。
はかまのどろをはらってとぼとぼと歩きだしたが、いろいろな悲憤が胸に燃えてどこをどう歩いたかわからなかった、かれはひょろ長いポプラの下に立ったときはじめてわが家へきたことを知った、家の中では暗い電灯の下で伯父が豆をひいている音が聞こえる。
「ぎいぎいざらざら」
うすをもるる豆の音がちょうどあられのようにいかめしい中に、うすのすれる音はいかにも閑寂である、店の奥には母が一生懸命に着物を縫うている。やせた顔におくれ毛がたれて切れ目の長い目で針を追いながらふと手をやめたのはわが子の足音を聞きつけたためであろう。
「折詰がない」
こう思ったときチビ公はこらえられなくなってなきだした。
「だれだえ」
母の声がした。
「千三か」
石うすの音がやんだ。そうして戸をあけるとともに伯父の首だけが外へ出た。
「なにをしてるんだ千三」
チビ公はだまっている。
「おい、ないてるのか」
伯父は手をひいて家へいれた。母は心配そうにこのありさまを見ていた、伯母はすでに寝てしまったらしい。
「どうしたんだ」
「伯父さんにあげようと思ってぼくは……」
チビ公はとぎれとぎれに仔細を語った。
「まあ着物はやぶけて、はかまはどろだらけに……」
と母も悲憤の涙にくれていった。
「助役の子だね、阪井の子だね、よしッ」
伯父の顔はまっかになったかと思うとすぐまっさおになった。かれは水槽の縁にのせたてぬぐいを、ふところに押しこんで家を飛びだした。
「伯父さんをとめて」と母が叫んだ。チビ公はすぐ外へ飛びだした。
「だいじょうぶだ、心配すな、みんな寝てもいいよ」
伯父さんは走りながらこういった。
「待っておいで」
母はこういってぞうりをひっかけて伯父のあとを追うた。チビ公は茶の間へあがって時計を見た、それは九時を打ったばかりであった。チビ公はあがりかまちに腰をかけて伯父と母の帰りを待っていた。伯母さんは昼の中は口やかましいにかかわらず夜になるとまったく意気地がなくなって眠ってしまうので起こしたところで起きそうにもない。豆腐屋は未明に起きねばならぬ商売だ、チビ公は昼の疲れにうとうとと眠くなった。
「眠っちゃいけねえ」とかれは自分をしかりつけた、がいったん襲いきたった睡魔はなかなかしりぞかない、ぐらりぐらりと左右に首を動かしたかと思うと障子に頭をこつんと打った、はっと目をさまして庭へ出て顔を洗った、月はポプラの枝々をもれて青白い光を戸板や石うすやこもや水槽に落とすと、それらの影がまざまざと生きたようにういてくる。チビ公は口笛をふいた。
時計は十時を打った。
「伯父さんが喧嘩をしてるんじゃなかろうか、もしそうだとすると」
チビ公はこう考えたとき少年の血潮が五体になりひびいた。
「阪井の家へいったにちがいない、だが阪井の親父は助役だ、子分が大勢だ、伯父さんひとりではとてもかなわないだろう、そうすると……」
かれはもうだまっていることができなくなった、身体は小さいがおれの方が正しいんだ、伯父さんを助けてあげなきゃならない。
かれは雨戸のしんばり棒をはずして手にさげた、それからじょうぶそうなぞうりにはきかえて外へでた、めざすところは阪井の家である、かれは今にも伯父が乱闘乱戦に火花をちらしているかのように思った、胸が高鳴りして身体がふるえた。町に松月楼という料理屋がある、その前にさしかかったときかれはただならぬ物音を聞いた。ひとりの男がはだしのまま、
「医者を医者を」と叫んで走った。すると他の男がまた同じことをいって走った。
「もしや伯父がここで……」とチビ公は直感した、とたんに暗がりから母が飛びだしてチビ公の肩にもたれた。
「大変だよ千三、伯父さんが……」
母はなかばなき声であった。ばらばらと玄関に五、六人の影があらわれた。
「悪いやつをなぐるのはあたりまえだ、おれの家の小僧をおどかして毎朝豆腐を強奪しやがる、おれは貧乏人だ、貧乏人のものをぬすんでも助役の息子ならかまわないというのか」
たしかに伯父さんの声である。
「子どもの喧嘩にでしゃばって、相手の親をなぐるという法があるか」
二、三人がどなった。
「あやまらないからなぐったんだ」
「ぐずぐずいわんと早く歩け」
「おれをどうするんだ」
五、六人の人々が玄関口で押しあった。その中から伯父さんの半裸体の姿があらわれた、伯父さんの顔はまっさおになってくちびるから血がしたたっていた、かれのやせた肩は呼吸の度ごとにはげしく動いた。
「さあでろ」と巡査がいった。
「はきものがない」と伯父さんがいった。
「そのままでいい」
「おれはけだものじゃねえ」
だれかが外からぞうりを投げてやった、伯父さんはそれをはいた。
「伯父さん!」とチビ公は門内にかけこんでいった。
「おお千三か、おまえのかたきは討ってやったぞ、いいか明日から商売に出るときにはな、鉄砲となぎなたとわきざしとまさかりと七つ道具をしょってでろ、いいか、助役のせがれが強盗にでても警察では豆腐屋を保護してくれないんだからな」
こういった伯父さんの息は酒くさかった。
「歩け」と巡査がいった。
「待ってくださいおまわりさん」とチビ公は巡査の前にすわった。
「伯父さんは酔ってるんです、伯父さんをゆるしてください、明日の朝になって酒がさめたら伯父さんと一緒に警察へあやまりにまいります、伯父さんがいなければ私一人では豆腐を作ることができません」
チビ公の声は涙にふるえていた。
「なにをぬかすかばか」と伯父さんがどなった。
「商売ができなかったらやめてしまえ、商売をしたからって助役の息子に食われてしまうばかりだ」
伯父さんはのそのそと歩きだした、かれは門の外になくなく立っている妹(チビ公の母)を見やって少し躊躇したが、
「あとはたのむぜ、おれは強盗の親玉を退治たんだから、これから警察へごほうびをもらいにゆくんだ」
母がなにかいおうとしたが伯父はずんずんいってしまった、ひとりの巡査と、ふたりの町の人がつきそうていった。チビ公と母はどこまでもそのあとについた、伯父さんは警察の門をはいるときちらとふたりの方をふり向いた。
「困ったねえ」と母がいった。
「阪井にけがをさしたんでしょうか」
「そうらしいよ、たいしたこともないようだが、それでも相手が助役さんだからね」
「今晩帰ってくるでしょう?」
「さあ」
ふたりは思い思いの憂欝をいだいて家へ帰った、母は戸口に立ちどまって深い溜め息をついた、かの女は伯母のお仙をおそれているのである、伯父は親切だが伯母はなにかにつけて邪慳である、たよるべき親類もない母子は、毎日伯母の顔色をうかがわねばならぬのであった。
ふたりはようやく家へはいった、そうして伯母を起こして仔細を語った。
「へん」と伯母は冷ややかにわらった。「なんてえばかな人だろう、この子がかわいいからって助役さんをなぐるなんて……明日から商売をどうするつもりだろう、どうしてご飯を食べてゆくつもりなの?」
お仙は眠い目もすっかりさめて口ぎたなく良人をののしった。
「商売はぼくがやります、伯母さん、そんなに伯父さんを悪くいわないでください」
チビ公は決然とこういった。
「やれるならやってみるがいいや、おら知らないよ」
お仙はふたたび寝床へもぐりこんだ、チビ公と母のお美代は床へはいったがなかなか眠れない。
「なによりもね、さしいれ物をしなくちゃね」とお美代がいった。
「さしいれ物ってなあに?」
「警察へね、毛布だのお弁当だのを持っていくんだよ、警察だけですめばいいけれどもね」
「お母さんが弁当をこさえてくれればぼくが持っていくよ」
「それがね、お金を弁当屋にはらって、さしいれしてもらうのでなきゃいけないんだよ」
「いくら?」
「一遍の弁当は一番安いので二十五銭だろうね」
「三度なら七十五銭ですね」
「ああ」
「七十五銭!」
七十五銭はチビ公ひとりが一日歩いてもうける分である、それをことごとく弁当代にしてしまえば三人がどうして食べてゆけよう。チビ公は当惑した。
「豆をひくにしても煮るにしても、おまえの腕ではとてもできないし、私の考えでは当分休むよりほかにしかたがないが、そうすると」
お美代はしみじみといった。
「休みません、伯父さんのできることならぼくがやってみせます、ぼくのために助役をなぐった伯父さんに対してもぼくはるす中りっぱにやってみせます」
「でもさしいれ物はね」
「お母さん、ぼくの考えではね、お母さんもぼくと一緒に豆腐を作って、それから伯父さんの回り場所を売りにでてください、二人でやればだいじょうぶです」
「そうだ」とお美代はうれしそうにいった。「そうだよ千三、私は女だからなにもできないと思っていたが、今夜から男になればいいのだ、伯父さんと同じ人になればいいのだ、そうしようね」
「お母さんに荷をかつがせて豆腐を売らせたくはないんだけれども……お母さん、ぼくはまだ小さいからしかたがありません、大きくなったらきっとこのうめあわせをします」
チビ公の興奮した目はるりのごとくすみわたって瞳は敢為の勇気に燃えた。
うとうとと眠ったかと思うともう東が白みかけたので母に起こされた、チビ公はいきおいよく起きて仕事にとりかかった、お美代もともに火をたきつけた、このいきおいにおされてお仙はぶつぶついいながらもやはり働きだした。
「伯母さんはなにもしなくてもいいからただ指図だけしてください」
とチビ公はいった。
至誠はかならず天に通ずる、チビ公の真剣な労働は邪慳のお仙の角をおってしまった、三人は心を一つにして、覚平が作る豆腐におとらないものを作りあげた。
「さあいこうぜ」とお美代はいせいよくいった。脚絆をはいてたびはだしになり、しりばしょりをして頭にほおかむりをなしその上に伯父さんのまんじゅう笠をかぶった母の支度を見たときチビ公は胸が一ぱいになった。
「らっぱはふけないから鈴にするよ」とお美代はわらっていった。
「じゃお先に」
チビ公は荷をかついで家をでた、なんとなく戦場へでもでるような緊張した気持ちが五体にあふれた、かれは生まれてはじめて責任を感じた、いままでは寒いにつけ暑いにつけ商売を休みたいと思ったこともあった、また伯父さんにしかられるからしかたなしにでていったこともあった、しかしこの日は全然それと異なった一大革命が精神の上に稲妻のごとく起こった。
「おれがしっかりしなければみんなが困る」
かれは警察にある伯父さんも伯母も母もやせ腕一本で養わねばならぬ大責任を感ずるとともに奔湍のごとき勇気がいかなる困難をもうちくだいてやろうと決心させた。
らっぱの音はほがらかにひびいた、かれは例のたんぼ道から町へはいろうとしたとき、今日も生蕃が待っているだろうと思った。
かれは微笑した、それはいかにも自然に腹の中からわきでたおだやかな微笑であった。いつもかれはこのところでいくどか躊躇した、かれは生蕃をおそれたのであった、がかれはいま、それを考えたとき恐怖の念が夢のごとく消えてしまった。でかれは堂々とらっぱをふいた。
町の角に……はたして生蕃が立っていた。
「やい」と生蕃は血走った目でチビ公をにらんだ。
「おまえに食わせる豆腐はないぞ」とチビ公は昂然といった。
「なにを?」
生蕃はびっくりして叫んだがつぎの句がつげなかった、かれはいつも涙ぐんでぺこぺこ頭を下げるチビ助が、しかも昨夜かれの伯父がおれの父をなぐったことを知ってるチビ助が、復讐のおそれも感ぜずにいつもより勇敢なのを見ると、実際これほどふしぎな現象はないのであった。
「待てッ」
「待っていられないよ、明日の朝またあおうね」
チビ公はずんずん去ろうとした。
「こらッ」
生蕃の手がてんびん棒にかかった、とこのとき電柱の陰から声が聞こえた。
「阪井、よせよ」
それは柳光一であった。
「なんでえ」
「きみは悪いよ」と光一は歩みよった。
「なんでえ」と生蕃がほえた。
「きみはぼくと親友になるといったことをわすれたか」
「わすれはしねえ」
「じゃ、一緒に学校へいこう」
「しかし」
「もういいよ」
光一は生蕃のひじをとった、そうしてチビ公ににっこりしてふりかえった。チビ公は鳥打帽をぬいで一礼した。
この日ほど豆腐の売れた日はなかった、町では覚平が助役をなぐって拘留されたという噂が一円に拡がった、しかもそれは貧しき豆腐屋の子がになってくる豆腐を強奪したうらみだとわかったので町内の同情は流れの低きにつくがごとくチビ公に集まった。
「買ってやれ買ってやれかわいそうに」
豆腐のきらいな家までが争うて豆腐を買った、チビ公のふくらっぱは凱歌のごとく鳴りひびいた。
二時間にして売りつくしたのでチビ公は警察へいった。
「伯父さんをゆるしてください、伯父さんが悪いんでないのです、酒が悪いんですから」
かれは警部にこう哀願した。
「警察ではゆるしてやりたいんだ」と警部は同情の目をまたたいていった。「だが阪井の方で示談にしないと警察では困るんだ」
「監獄へいくんでしょうか」
「そうなるかもしれない、きみの方で阪井にかけあってなんとかしてもらうんだね」
チビ公はがっかりして警察をでた、それからその足でさしいれ屋へゆき、売りだめから七十五銭をだしていった。
「どうかよろしくお願いします」
「覚平さんだったね」とさしいれ屋の亭主がいった。
「はあ」
「覚平さんのさしいれはすんでるよ」
「三度分の弁当ですよ」
「ああすんでる」
「だれがしてくれたのです」
「だれだかわからないがすんでる、五十銭の弁当が三本」
「へえ、それじゃちり紙を一つ……」
「ちり紙とてぬぐいと、毛布二枚とまくらと……それもすんでる」
「それも?」とチビ公はあきれて、「どなたがやってくだすったのですか」
「それもいえない、いわずにいてくれというんだから」
「じゃさしいれするものはほかになんでしょう」
「その人がみんなやってくれるからいいだろう」
チビ公はあっけにとられて言葉がでなかった、親類とてほかにはなし、友達はあるだろうが、しかし匿名にしてさしいれするのでは、ふだんにさほど懇意にしている人でないかもしれぬ、自分では想像もできぬが、母にきいたら思いあたることもあるだろう、こう思ってかれはそこをでた、家へ帰ると母もすでに帰っていた。生まれてはじめててんびん棒をかついだので母はがっかりつかれて、肩を冷水で冷やしていた。
「どうでしたお母さん」とチビ公がいった。
「大変によく売れたよ」と母はわらっていた。
「ぼくの方も非常によかったです、二時間のうちに」
かれはからのおけを見せ、それから売りだめを伯母にわたしてさしいれものの一件を語った。
「だれだろうね」
「さあだれだろう」
伯母と母はしきりに知り人の名を数えあげたが、それはみんな匿名の必要のない人であり、毛布二枚を買う資力のない人ばかりであった。
その日の夕飯はさびしかった、酒を飲んで喧嘩をするのは困るが、さてその人が牢獄にあると思えばさびしさが一層しみじみと身に迫る。
「阪井にかけあって示談にしてもらうようにしましょうかね」と母は伯母にいった。
「まあ、そうするよりほかにしかたがありますまい」と伯母がいった。チビ公をるすにして二人はそれぞれ知人をたよって示談の運動をした。
「よろしい、なんとかしましょう」
こう快諾してくれた人は四、五人もあったが、翌日になると悄然としてこういう。
「どうも阪井のやつはどうしてもききませんよ、このうえは弁護士にたのんで……」
望みの綱も切れはてて一家三人はたがいにため息をついた。もとより女と子どものことである、心は勇気にみちてもからだの疲労は三日目の朝にはげしくおそうてきた。母の肩は紫に腫れて荷を負うことができない、チビ公は睡眠の不足と過度の労働のために頭が大盤石のごとく重くなり動悸が高まり息苦しくなってきた。
豆腐を買う人は多くなったが、作る人がなくなり売りにでる者がなくなった。
示談が不調で覚平は監獄へまわされた。
三
何人が覚平のさしいれ物をしたかは永久の疑問として葬られた。しかしチビ公の一家は次第次第に貧苦に迫った。夜中の二時に起きて豆腐を作れば朝にはもうつかれて町をまわることができない。町をまわろうとすれば夜中に豆腐を作ることができない。このためにお美代は女手一つでわずかばかりの豆腐をつくり、チビ公一人が売りに出ることにきめた。
製作の量が少ないので、いくら売れてももうける金額はきわめて少なくなった。チビ公はいつも帰り道に古田からたにしを拾うて帰った。一家三人のおかずはたにしとおからばかりであった。伯母のお仙は毎日のように愚痴をこぼした。
「おまえのためにこんなことになったよ」
これを聞くたびにチビ公はいつも涙ぐんでいった。
「伯母さん、ぼくはどんなにもかせぐから、そんなことをいわないでくださいよ」
ある日かれは豆腐おけをかついで例の裏道を通った、かれの耳に突然異様の音響が聞こえた。それは医者の手塚の家であった。夕日はかっと植え込みを染めて土蔵の壁が燃ゆるように赤く反射していた。欝蒼と茂った樹々の緑のあいだに、明るいぼたんの花が目ざむるばかりにさきほこっているのが見える。そこに大きな池があって土橋をかけわたしみぎわには白いしょうぶも見える。それよりずっと奥に回廊紆曲して障子の色まっ白に、そこらからピアノの音が栄華をほこるかのごとく流れてくる。
「ああその家はぼくの父の家だったのだ」
チビ公は暗然としておけを路傍におろして腕をくんだ。
「お父さんは政党のためにこの家までなくしてしまったのだ。お父さんはずいぶん人の世話もし、この町のためになることをしたのだが、いまではだれひとりそれをいう者がない。その子のぼくは豆腐を売って……それでもご飯を食べることができない」
チビ公は急になきたくなった、かれは自分が生まれたときには、この邸の中を女中や乳母にだかれて子守り歌を聞きながら眠ったことだろうと想像した。
「つまらないな」とかれは歎息した。「いくら働いてもご飯が食べられないのだ、働かない方がいい、死んでしまうほうがいい、ぼくなぞは生きてる資格がないのだ、路傍のかえるのように人にふまれてへたばってしまうのだ」
暗い憂欝はかれの心を閉ざした。かれは自分の影法師がいかにも哀れに細長く垣根に屈折しているのを見ながらため息をはいた。
「影法師までなんだか見すぼらしいや」
ピアノの音は樹々の葉をゆすって涼風に乗ってくる。
「お父さんのある者は幸福だなあ、ああしてぼうんぼうんピアノをひいて楽しんでいる」
かれはがっかりしておけをかついだ。つかれた足をひきずって二、三間歩きだすとそこでひとりの女の子にあった。それは光一の妹の文子であった。かの女は尋常の五年であった。下ぶくれのうりざね顔で目は大きすぎるほどぱっちりとして髪を二つに割って両耳のところで結び玉をこさえている。元禄袖のセルに海老茶のはかまをはき、一生懸命にゴムほおずきを口で鳴らしていた。
「今晩は」とチビ公は声をかけた。
「今晩は」と文子はにっこりしていった。がすぐ思いだしたように、
「青木さん、兄さんがあなたを探してたわ」
「兄さんが?」
「ああ」
「何か用事があるんですか」
「そうでしょう私知らないけれども」
文子はこういってまたぶうぶうほおずきをならした。
「急用なの?」
「そうでしょう」
「なんだろう」
「会えばわかるじゃないの?」
「それはそうですな」
「兄さんがいま、家にいるでしょう、いってちょうだいね」
文子はこういったがすぐ「私も一緒にいくわ、あそこに大きな犬がいるからおいはらってちょうだいね」
「ああ酒屋の犬ですか」
ふたりは並んで歩きだした。小学校にいたときには文子はまだまだおさなかった。げたのはなおが切れて難儀してるのを見てチビ公はてぬぐいをさいてはなおをすげてやったことがある。そのとき肩につかまって片足をチビ公の片足の上に載せたことをかれは記憶している。
ふたりは光一の家の裏口の前へきた。
「待っててね」
文子は足をけあげて走りだし、勝手口の戸をあけたかと思うと大きな声で叫んだ。
「兄さん、青木さんをつれてきたわ、兄さん早く」
光一の姿が戸のあいだからあらわれた。
「やかましいやつだな、おてんば!」
「そんなことをいったら青木さんをつれてきてあげないわ」
「おまえがつれてこなくても青木君はここにいるじゃないか」
光一はわらいながらチビ公の方を向き、
「きみ、ちょっとはいってくれたまえ」
「ぼくはどろあしですから」
「そうか、じゃ庭へいこう」
チビ公はおけを片隅において光一の後ろにしたがった。ふたりは、うの花が雪のごとくさきみちている中庭へでた。そこの鶏舎にいましも追いこまれたにわとりどもは、まだごたごたひしめきあっていた。
「きみに相談があるんだがね」と光一は謹直な顔をしていいだした。
「ぼくはぼくの父ともよく相談のうえでこのことをきめたんだが」
「どんなことですか」
「つまり、きみにもいろいろ不幸な事情が重なってるようだがきみはもう少し学問をする気がないかね」
「それはぼくだって……」とチビ公は早口にいった。「学問はしたいけれどもぼくの家は……」
「だからねえきみ、きみが中学校をやって大学をやるまでの学資ならぼくの父がだしてあげるとこういうのだ。きみは学校でいつも優等だったしね、それからきみの性質や品行のことについてはこの町の人はだれでも知ってるんだからね、豆腐屋をしてるよりも、学問をしたら、きっと成功するだろうと父もいうんだ、実はね、こんど生蕃の親父の一件できみの伯父さんがあんなことになったろう、それできみは夜も昼もかせぎどおしにかせいでいるのを見てぼくの父は……」
「ああわかった」と、チビ公は思わず叫んだ。「伯父さんのさしいれ物をしてくれたのはあなたのお父さんですね」
「いやいや、そんなことは……」と光一は頭をふって、「ぼくは知らない、なんにも知らない」
「かくさないでいってください、ぼくはお礼をいわないと気がすまないから」
「そうじゃないよきみ、決してそうじゃない、ところできみ、いまの話はどうする、きみはぼくと一緒に中学へ通わないか、ねえきみ、きみはぼくよりもできるんだからね、ぼくの家はきみに学資をだすくらいの余裕があるんだ、決して遠慮することはないよ、ぼくの父は商人だけれども金を貯めることばかり考えてやしない、金より大切なのは人間だってしじゅういってるよ、きみのような有望な人間を世話することは父が一番すきなことなんだから、ねえきみ、ふたりで一緒にやろう、大学をでるまでね、きみは二年の試験を受けたまえ、きっと入学ができるよ、ねえきみ」
光一の目は次第に熱気をおびてきた、かれの心はいまどうかして親友の危難を救い、親友をして光ある世界に活躍せしめようという友情にみたされていた。
「ねえ青木君、ねえ、そうしたまえよ」
かれは千三の手をしっかりとにぎって顔をのぞいた。うの花がふたりの胸にたもとにちらりちらりとちりしきる。千三はだまってうつむいていた。
社会のどん底にけおとされて、貧苦に小さな胸をいため、伯父は牢獄にあり、わが身はどろにあえぐふなのごときいまの場合に、ただひとり万斛の同情と親愛をよせてくれる人があると思うと、千三の胸に感激の血が高波のごとくおどらざるを得ない。かれは石のごとく沈黙した。
「ねえ青木君、ぼくの心持ちがわかってくれたろうね」
「…………」
「明日からでも商売をやめてね、伯父さんがでてくるまで休んでね、そうしてきみは試験の準備にかかるんだね、決して不自由な思いはさせないよ」
「…………」
「ぼくはね、金持ちだからといっていばるわけじゃないよ、それはきみもわかってくれるだろうね」
「無論……無論……ぼくは……」
千三ははじめて口を開いたが、胸が一ぱいになって、なんにもいえなくなった。はげしいすすりなきが一度に破裂した。
「ありがとう……ぼくはうれしい」
涙はほおを伝うて滴々として足元に落ちた。足にはわらじをはいている。
「じゃね、そうしてくれるかね」と光一も涙をほろほろこぼしながらいった。
「いいや」と千三は頭をふった。
「いやなのかい」
「お志は感謝します。だが柳さん」
千三はふたたび沈黙した。肩をゆする大きなため息がいくども起こった。
「わがままのようだけれどもぼくはお世話になることはできません」
「どうして?」
「ぼくはねえ柳さん、ぼくは独力でやりとおしたいんです、人の世話になって成功するのはだれでもできます、ぼくはひとりで……ひとりでやって失敗したところがだれにも迷惑をかけません、ぼくはひとりでやりたいのです」
「しかしきみ」
光一は千三の手をきびしくにぎりしめてじっと顔を見詰めたが、やがて茫然と手を放した。
「失敬した、きみのいうところは実にもっともだ、ぼくはなんにもいえない」
庭の茂りのあいだから文子の声が聞こえた。
「兄さん! ご飯よ、今日はコロッケよ」
「そんなことをいうものじゃない」と光一はしかるようにいった、文子の声はやんだ。
「どうか悪く思わないようにね」と千三がいった。
「いや、ぼくこそ失敬したよ」と光一はいった。
「いままでどおりにお願いします」
「ぼくもね」
ふたりはふたたびかたい握手をした。
「コロッケがさめるわよ」と文子は窓から顔をだしていった。
「うるさいやつだな」と光一はわらった。
「さようなら」
千三はおけをかついでふらふらと歩きだした。光一はだまって後ろ姿を見送ったが、両手を顔にあててなきだした。日は次第に暮れかけてうの花だけがおぼろに白く残った。
翌日光一は学校へゆくと手塚がかれを待っていた。
「きみ、気をつけなきゃいけないよ、生蕃がきみを殺すといってるよ」
「なぜだ」
「きみの父がチビ公の伯父さんのさしいれ物をしたそうじゃないか」
「だれがそんなことをいったんだ」
「町ではもっぱら評判だよ」
「そんなことはぼくは知らん、よしんば事実にしたところで、生蕃がなにもぼくを殺すにあたらない話だ」
「ぼくもそう思うがね、あの問題はチビと生蕃のことから起こって、大人同志の喧嘩になったんだからな」
「かまわんさ、ほっとけ、ぼくは生蕃をおそれやしないよ」
「きみはいつも傲慢な面をしてるとそういってたよ」
「なんとでもいうがいい」
「しかし気をつけなけりゃ」
手塚はいつも表裏反覆つねなき少年で、今日は西に味方し明日は東に味方し、好んで人の間柄をさいて喜んでるので、光一はかれのいうことをさまで気にとめなかった。
そのころ生蕃は得意の絶頂にあった、かれが三年のライオンを征服してから驍名校中にとどろいた。かれは肩幅を広く見せようと両ひじをつっぱり、下腹を前へつきだして歩くと、その幕下共は左右にしたがって同じような態度をまねるのであった。とくにかれは覚平の一件があってから凶暴がますます凶暴を加えた。
学校の小使いは廃兵であった。かれはらっぱをふくことがじょうずで、時間時間には玄関へでて腹一ぱいにふきあげる。それから右と左のろうかへふきこむと生徒がぞろぞろ教室をでる。それを見るとかれは愉快でたまらない。
「生意気なことをいってもおれのらっぱででたりはいったりするんだ、おまえたちはおれの命令にしたがってるんじゃないか」
こうかれは生徒共にいうのであった。かれはもう五十をすぎたが女房も子もない、ほんのひとりぽっちで毎日生徒を相手に気焔をはいてくらしている、かれは日清戦争に出征して牙山の役に敵の大将を銃剣で刺したくだりを話すときにはその目が輝きその顔は昔のほこりにみちて朱のごとく赤くなるのであった。
「そのときわが鎌田聯隊長殿は、馬の上で剣を高くふって突貫! と号令をかけた。そこで大沢一等卒はまっさきかけて疾風のごとく突貫した。敵は名に負う袁世凱の手兵だ、どッどッどッと煙をたてて寄せくる兵は何千何万、とてもかなうべきはずがない」
「逃げたか」とだれかがいう。
「逃げるもんか、日本男児だ、大沢一等卒は銃剣をまっこうにふりかぶって」
「らっぱはどうした」
「らっぱは背中へせおいこんだ」
「らっぱ卒にも銃剣があるのか」
「あるとも、兵たる以上は……まあだまって聞け大沢一等卒は……」
「いまや小使いになってる」
生徒は「わっ」とわらいだす、大抵このぐらいのところで軍談は中止になるのだが、かれはそれにもこりず生徒をつかまえては懐旧談をつづけるのであった。大沢一等卒がはたしてそれだけの武功があったかどうかは何人も知らないことなのだが、生徒間ではそれを信ずる者がなかった。大沢小使いの一番おそれていたのは体操の先生の阪本少尉であった、かれは少尉の顔を見るといつも直立不動の姿勢で最敬礼をするのであった。
「小使い! お茶をくれ」
「はい、お茶を持ってまいります」
実際大沢は校長に対するよりも少尉に対する方が慇懃であった、生徒はかれを最敬礼とあだ名した。
最敬礼のもっともきらいなのは生蕃であった、生蕃はいつもかれを罵倒した。生蕃は大沢一等卒が牙山の戦いで一生懸命に逃げてアンペラを頭からかぶって雪隠でお念仏をとなえていたといった。それに対して大沢は顔を赤くして反駁した。
「見もしないでそんなことをいうものじゃない」
「おれは見ないけれども官報にちゃんとでていたよ」と生蕃がいった。
「とほうもねえ、そんな官報があるもんですか」
なにかにつけて大沢と生蕃は喧嘩した、それがある日らっぱのことで破裂した。大沢が他の用事をしているときに生蕃がらっぱをぬすんでどこかへいってしまった。これは大沢にとってゆゆしき大事であった。大沢は血眼になってらっぱを探した、そうしてとうとう生蕃があめ屋にくれてやったことがわかったのでかれは自分の秘蔵している馬の尾で編んだ朝鮮帽をあめ屋にやってらっぱをとりかえした。
「助役のせがれでなけりゃ口の中へらっぱをつっこんでやるんだ」とかれは憤慨した。
生蕃の素行についてはしばしば学校の会議にのぼったが、しかしどうすることもできなかった。英語の先生に通称カトレットという三十歳ぐらいの人があった、この先生は若いに似ずいつも和服に木綿のはかまをはいている、先生の発音はおそろしく旧式なもので生徒はみんな不服であった。先生はキャット(ねこ)をカットと発音する、カツレツをカトレットと発音する。
「先生は旧式です」と生徒がいう。
「語学に新旧の区別があるか」と先生は恬然としていう。
「しかし外国人と話をするときに先生の発音では通じません」
「それだからきみらはいかん、語学をおさめるのは外人と話すためじゃない、外国の本を読むためだ、本を読んでかれの長所を取りもってわが薬籠におさめればいい、それだけだ、通弁になって、日光の案内をしようという下劣な根性のものは明日から学校へくるな」
生徒は沈黙した。生徒間には先生の言は道理だというものがあり、また、頑固で困るというものもあった、が結局先生に対してはなにもいわなくなった、英語の先生とはいうものの、この朝井先生は猛烈な国粋主義者であった、ある日生徒は英語の和訳を左から右へ横に書いた。それを見て先生は烈火のごとくおこった。
「きみらは夷狄のまねをするか、日本の文字が右から左へ書くことは昔からの国風である、日本人が米の飯を食うことと、顔が黄色であることと目玉がうるしのごとく黒く美しいことと、きみに忠なることと、親に孝なることと友にあつきことと先輩をうやまうことは世界に対してほこる美点である、それをきみらは浅薄な欧米の蛮風を模倣するとは何事だ、さあ手をあげて見たまえ、諸君のうちに目玉が青くなりたいやつがあるか、天皇にそむこうとするやつがあるか、日本を欧米のどれいにしようとするやつがあるか」
先生の目には憤怒の涙が輝いた、生徒はすっかり感激してなきだしてしまった。
「新聞の広告や、町の看板にも不心得千万な左からの文字がある、それは日本を愛しないやつらのしわざだ。諸君はそれに悪化されてはいかん、いいか、こういう不心得なやつらを感化して純日本に復活せしむるのは諸君の責任だぞ、いいか、わかったか」
この日ほどはげしい感動を生徒にあたえたことはなかった。
「カトレットはえらいな」と人々はささやきあった。
光一はこのほかにもっとも尊敬していたのは校長の久保井先生であった。元来光一は心の底から浦和中学を愛した。とくに数多の先生に対しては単に教師と生徒の関係以上に深い尊敬と親しみをもっていた。校長は修身を受け持っているので、生徒は中江藤樹の称をたてまつった。校長の口ぐせは実践躬行の四字であった、かれの訓話にはかならず中江藤樹がひっぱりだされる、世界大哲人の全集を残らず読んでもそれを実地におこなわなければなんの役にもたたない、たとえばその……こう先生はなにか譬喩を考えだそうとする。先生は譬喩がきわめてじょうずであった、謹厳そのもののような人が、どうしてこう奇抜な譬喩がでるかとふしぎに思うことがある、たとえばその、ぼたもちを見て食わないと同じことだ、ぼたもちは目に見るべきものでなくして、口に食すべきものだ、書籍は読むべきものでなくして行ないにあらわすべきものだ、いもは浦和の名産である、だが諸君、同じ大きさのいもの重さが異なる所以を知っているか、量においては同じである。重さにおいて一斤と二斤の差があるのは、肥料の培養法によってである、よき肥料と精密な培養はいもの量をふやしまた重さをふやす、よき修養とよき勉強は同じ人間を優等にすることができる、諸君はすなわちいもである。
この訓話については「人を馬鹿にしてる。おれ達をいもだといったぜ、おい」と不平をこぼした者もあった。
普通の教師は学校以外の場所では中折帽をかぶったり鳥打帽に着流しで散歩することもあるが、校長だけは年百年中学校の制帽で押し通している、白髪のはみだした学帽には浦和中学のマークがいつも燦然と輝いている。校長のマークもぼくらのマークも同じものだと思うと光一はたまらなくうれしかった。
とここに一大事件が起こった。ある日学校の横手にひとりのたい焼き屋が屋台をすえた。それはよぼよぼのおじいさんで銀の針のような短いひげがあごに生え、目にはいつも涙をためてそれをきたないてぬぐいでふきふきするのであった。まずかまどの下に粉炭をくべ、上に鉄の板をのせる。板にはたいのような形が彫ってあるので、じいさんはそれにメリケン粉をどろりと流す、それから目やにをちょっとふいてつぎにあんを入れその上にまたメリケン粉を流す。
最初はじいさんがきたないのでだれも近よらなかったが、ひとりそれを買ったものがあったので、われもわれもと雷同した、二年生はてんでにたい焼きをほおばって、道路をうろうろした、中学校の後ろは師範学校である、由来いずれの県でも中学と師範とは仲が悪い、前者は後者をののしって官費の食客だといい、後者は前者をののしって親のすねかじりだという。
師範の生徒は中学生がたい焼きを食っているのを見て手をうってわらった。わらったのが悪いといって阪井生蕃が石の雨を降らした。逃げ去った師範生は同級生を引率してはるかに嘲笑した。
「たい焼き買って、あめ買って、のらくらするのは浦中ちゅう、ちゅうちゅうちゅう、おやちゅうちゅうちゅう」
妙な節でもってうたいだした。すると中学も応戦してうたった。
「官費じゃ食えめえ気の毒だ、あんこやるからおじぎしろ、たまには、たいでも食べてみろ」
このさわぎを聞いた例のらっぱ卒は早速校長に報告した。校長はだまってそれを聞いていたがやがておごそかにいった。
「たい焼き屋に退却を命じろ」
いかになることかとびくびくしていた生徒共は校長の措置にほっと安心した、たい焼き屋はすぐに退却した、だが哀れなるたい焼き屋! 一時間のうちに数十のたいが飛ぶがごとく売れるような結構な場所はほかにあるべくもない。かれは翌日またもや屋台をひいてきた。それと見た校長は生徒を校庭に集めた。
「たい焼きを食うものは厳罰に処すべし」
生徒は戦慄した、とその日の昼飯時である。生徒はそれぞれに弁当を食いおわったころ、生蕃は屋台をがらがらと校庭にひきこんできた。
「さあみんなこい、たい焼きの大安売りだぞ」
かれはメリケン粉を鉄の型に流しこんで大きな声でどなった。人々は一度に集まった。
「おれにくれ」
「おれにも」
焼ける間も待たずに一同はメリケン粉を平らげてしまった。これが校中の大問題になった。じじいが横を向いてるすきをうかがって足を引いてさかさまにころばし、あっと悲鳴をあげてる間に屋台をがらがらとひいてきた阪井の早業にはだれも感心した。
わいわいなきながらじじいは学校へ訴えた。たい焼きを食ったものはわらって喝采した、食わないものは阪井の乱暴を非難した。だがそれはどういう風に始末をつけたかは何人も知らなかった。
「阪井は罰を食うぞ」
みながこううわさしあった、だが一向なんの沙汰もなかった。それはこうであった。阪井は校長室によばれた。
「屋台をひきずりこんだのはきみか」
「はい、そうです」
「なぜそんなことをしたか」
「たい焼き屋がきたためにみなが校則をおかすようになりますから、みなの誘惑を防ぐためにぼくがやりました」
「本当か」
「本当です」
「よしッ、わかった」
阪井が室をでてから校長は歎息していった。
「阪井は悪いところもあるが、なかなかよいところもあるよ」
しかし問題はそれだけでなかった、ちょうどそのときは第一期の試験であった、試験! それは生徒に取って地獄の苦しみである、もし平素善根を積んだものが死んで極楽にゆけるものなら、平素勉強をしているものは試験こそ極楽の関門である、だがその日その日を遊んで暮らすものに取っては、ちょうどなまけ者が節季に狼狽すると同じもので、いまさらながら地獄のおそろしさをしみじみと知るのである。
浦和中学は古来の関東気質の粋として豪邁不屈な校風をもって名あるが、この年の二年にはどういうわけか奇妙な悪風がきざしかけた。それは東京の中学校を落第して仕方なしに浦和へきた怠惰生からの感染であった。孔子は一人貪婪なれば一国乱をなすといった、ひとりの不良があると、全級がくさりはじめる。
カンニングということがはやりだした、それは平素勉強をせない者が人の答案をぬすみみたり、あるいは謄写したりして教師の目をくらますことである、それには全級の聯絡がやくそくせられ、甲から乙へ、乙から丙へと答案を回送するのであった、もっと巧妙な作戦は、なにがしの分はなにがしが受け持つと、分担を定める。
この場合にいつもぎせい者となるのは勉強家である。怠惰の一団が勉強家を脅迫して答案の回送を負担せしめる。もし応じなければ鉄拳が頭に雨くだりする。大抵学課に勉強な者は腕力が弱く怠け者は強い。
カンニングの連中にいつも脅迫されながら敢然として応じなかったのは光一であった。もっともたくみなのは手塚であった。
この日は幾何学の試験であった。朝のうちに手塚が光一のそばへきてささやいた。
「きみ、今日だけ一つ生蕃を助けてやってくれたまえね」
「いやだ」と光一はいった。
「それじゃ生蕃がかわいそうだよ」
「仕方がないさ」
「一つでも二つでもいいからね」
「ぼくは自分の力でもって人を助けることは決していといはせんさ、だが、先生の目をぬすんでこそこそとやる気持ちがいやなんだ、悪いことでも公明正大にやるならぼくは賛成する、こそこそはぼくにできない、絶対にできないよ」
「偽善者だねきみは」と手塚はいった。
「なんとでもいいたまえ、ぼくは卑劣なことはしたくないからふだんに苦しんで勉強してるんだ、きみらはなまけて楽をして試験をパスしようというんだ、その方が利口かも知らんがぼくにはできないよ」
「きみは後悔するよ、生蕃はなにをするか知れないからね」
光一は答えなかった。光一の席の後ろは生蕃である、光一が教室にはいったとき、生蕃は青い顔をしてだまっていた。
幾何学の題は至極平易なのであった、光一はすらすらと解説を書いた、かれは立って先生の卓上に答案をのせ机と机のあいだを通って扉口へ歩いたとき、血眼になってカンニングの応援を待っているいくつかの顔を見た。阪井は頭をまっすぐに立てたまま動きもしなかった。手塚は狡猾な目をしきりに働かせて先生の顔を、ちらちらと見やっては隣席の人の手元をのぞいていた。
「気の毒だなあ」
光一の胸に憐愍の情が一ぱいになった。かれは自分の解説があやまっていないかをたしかめるために控え席へと急いだ。
ひとりひとり教室からでてきた、かれらの中には頭をかきかきやってくるものもあり、また大功名をしたかの如くにこにこしてくるものもあり、あわただしく走ってきてノートを開いて見るものもあった、人々は光一をかこんで解説をきいた、そうして自分のあやまれるをさとってしょげかえるものもありまた、おどりあがって喜ぶものもあった、この騒ぎの中に阪井が青い顔をしてのそりとあらわれた。
「どうした、きみはいくつ書いた」と人々は阪井にいった。
「書かない」と阪井は沈痛にいった。
「一つもか」
「一つも」
「なんにもか」
「ただこう書いたよ、援軍きたらず零敗すと」人々はおどろいて阪井の顔を見詰めた、阪井の口元に冷ややかな苦笑が浮かんだ。
「だれかなんとかすればいいんだ」と手塚がいった。
「ぼくは自分のだけがやっとなんだよ」とだれかがいった。
「一番先にできたのはだれだ」と手塚がいった。
「柳だよ」「そうだ柳だ」
「柳は卑劣だ、利己主義だ」
声がおわるかおわらないうちに阪井は弁当箱をふりあげた。光一はあっと声をあげて目の上に手をあてた、眉と指とのあいだから血がたらたらと流れた。血を見た阪井はますます狂暴になっていすを両手につかんだ。
「よせよ、よせ、よせ」人々は総立ちになって阪井をとめた。
「あんなやつ、殺してしまうんだ、とめるな、そこ退け」
阪井は上衣を脱ぎ捨てて荒れまわった、このさわぎの最中に最敬礼のらっぱ卒がやってきた、かれは満身の力でもって阪井を後ろからはがいじめにした。「このやろう、今日こそは承知ができねえぞ、さああばれるならあばれて見ろ、牙山の腕前を知らしてやらあ」
四
阪井が柳を打擲して負傷させたということはすぐ全校にひびきわたった。上級の同情は一に柳に集まった。
「阪井をなぐれなぐれ」
声はすみからすみへと流れた。
「この機会に阪井を退校さすべし」
この説は一番多かった。ある者は校長に談判しようといい、ある者は阪井の家へ襲撃しようといい、ある者は阪井をとらえて鉄棒にさかさまにつるそうといった。憤激! 興奮! 平素阪井の傲慢や乱暴をにがにがしく思っていたかれらはこの際徹底的に懲罰しようと思った。二時の放課になっても生徒はひとりも去らなかった。ものものしい気分が全校にみなぎった。
なにごとか始まるだろうという期待の下に人々は校庭に集まった。
「諸君!」
大きな声でもってどなったのはかつて阪井と喧嘩をした木俣ライオンであった。
「わが校のために不良少年を駆逐しなければならん、かれは温厚なる柳を傷つけた、そうして」
「わかってる、わかってる」と叫ぶものがある。
「おまえも不良じゃないか」と叫ぶものがある。
木俣はなにかいいつづけようとしたが頭を掻いて引込んだ。人々はどっとわらった。これを口切りとして二、三人の三年や四年の生徒があらわれた。
「校長に談判しよう」
「やれやれ」
「徹底的にやれ」
少年の血潮は時々刻々に熱した。
「待てッ、諸君、待ちたまえ」
五年生の小原という青年は木馬の上に立って叫んだ。小原は平素沈黙寡言、学力はさほどでないが、野球部の捕手として全校に信頼されている。肩幅が広く顔は四角でどろのごとく黒いが、大きな目はセンターからでもマスクをとおしてみえるので有名である、だれかがかれを評して馬のような目だといったとき、かれはそうじゃない、おれの目は古今東西の書を読みつくしたからこんなに大きくなったのだといった。
身体が大きくて腕力もあるが人と争うたことはないので何人もかれと親しんだ、木馬の上に立ったかれを見たとき、人々は鳴りをしずめた。小原の黒い顔は朱のごとく赤かった、かれは両手を高くあげてふたたび叫んだ。
「諸君は校長を信ずるか」
「信ずる」と一同が叫んだ。
「生徒の賞罰は校長の権利である、われわれは校長に一任して可なりだ、静粛に静粛にわれわれは決してさわいではいかん」
「賛成賛成」の声が四方から起こった。狂瀾のごとき公憤の波はおさまって一同はぞろぞろ家へ帰った。
そのとき職員室では秘密な取り調べが行なわれた。職員達はどれもどれもにがい顔をしていた。当時その場にいあわせた重なる生徒が五、六人ひとりずつ職員室へよばれることになった。一番最初に呼ばれたのは手塚であった、手塚はいつも阪井の保護を受けている、いつか三年と犬の喧嘩のときに阪井のおかげで勝利を占めた、かれはなんとかして阪井を助けてやりたい、そうして一層阪井に親しくしてもらおうと思った。
「柳の方から喧嘩をしかけたといえばそれでいい」
かれはこう心に決めた、が職員室へはいるとかれは第一に厳粛な室内の空気におどろいた。中央に校長のまばらに白い頭と謹直な顔が見えた、その左に背の高いつるのごとくやせた漢文の先生、それととなりあって例の英語の朝井先生、磊落な数学の先生、右側には身体のわりに大きな声をだす歴史の先生、人のよい図画の先生、一番おわりには扉口に近く体操の先生の少尉がひかえている。
「あとをしめて」と少尉がどなった。手塚はあわてて扉をしめた。
「阪井はどうして柳をうったのか」と少尉がいった。
「ぼくにはわかりません」
「わからんということがあるかッ」
少尉はかみつくようにどなった。
「知ってるだけをいいたまえ」と朝井先生がおだやかにいった。
「幾何の答案をだして体操場へゆきますと柳がいました。そこへ阪井がきました、それから……」
手塚はさっと顔を赤めてだまった。
「それからどうした」と少尉がうながした。
「喧嘩をしました」
「ごまかしちゃいかん」と少尉はどなった。「どういう動機で喧嘩をしたか、男らしくいってしまわんときみのためにならんぞ」
「カンニングのその……」
「どうした」
「柳が阪井に教えてやらないので」
「それで阪井がうったのか」
「はい」
「一番先に答案ができたのは柳だ、それに柳が阪井を救わずに教室を出たのは卑怯だ、利己主義だといったのはだれか」
「ぼくじゃありません」と手塚はしどろになっていった。
「きみでなければだれか」
「知りません」
「知らんというか」
「多分桑田でしょう」
「桑田か」
「はい」
「きみもカンニングをやるか」
「やりません」
「きみは一番うまいという話だぞ」
「それは間違いです」
「よしッ帰ってもよい」
手塚はねずみの逃ぐるがごとく室をでてほっと息をついた。雑嚢を肩にかけて歩きながら考えてみると阪井を弁護しようと思ったはじめの志と全然反対にかえって阪井の不利益をのべたてたことになっている。
「これが阪井に知れたら、どんなめにあうかも知れない」
怜悧なる手塚はすぐ一策を案じて阪井をたずねた、阪井は竹刀をさげて友達のもとへいくところであった。
「やあきみ、大変だぞ」と手塚は忠義顔にいった。
「なにが大変だ」と阪井はおちついていった。
「先生も校長も非常におこってきみを退校させるといってる」
「退校させるならさせるがいいさ、片っ端からたたききってやるから」
「短気を起こすなよ、ぼくがうまくごまかしてきたから多分だいじょうぶだ」
「なんといった」
「柳の方から喧嘩を売ったのです。柳は生蕃に向かっておまえはふだんにいばってもなんにもできやしないじゃないかといっても生蕃はだまっていると……」
「おい生蕃とはだれのことだ」
「やあ失敬」
「それから?」
「柳が生……生……じゃない阪井につばをはきかけたから阪井がおこってたちあがると柳は阪井の顔を打ったので阪井は弁当をほうりつけたのです」
「うまいことをいうな、きみはなかなか口がうまいよ」
「そういわなければ弁護のしようがないじゃないか」
「だがおれはいやだ、おれはきみと絶交だ」と阪井は急にあらたまっていった。
「なぜだ」
「ばかやろう! おれは人につばを吐きかけられたらそやつを殺してしまわなきゃ承知しないんだ、つばを吐きかけられたとあっては阪井は世間へ顔出しができない、うそもいい加減に言えよばかッ」
阪井はずんずん急ぎ足で去った、手塚はうらめしそうにその方を見やった。
「どっちがばかか、おれがしょうじきに白状したのも知らないで……いまに見ろ退校させれるから」
かれはこうひとりでいって角を曲がった。
「だが先生達の顔色で見ると、柳の方へつく方が利益だ、そうだ、柳の見舞いにいってやろう」
学校では職員会議がたけなわであった。阪井の乱暴については何人も平素憤慨していることである。人々は口をそろえて阪井を退校に処すべき旨を主張した。
「試験の答案に、援軍きたらず零敗すと書くなんて、こんな乱暴な話はありません」と幾何学の先生がいった。
「しかし」と漢学の先生がいった、「阪井は乱暴だがきわめて純な点があります、うそをつかない、手塚のように小細工をしない、おだてられて喧嘩をするが、ものの理屈がわからないほうでもない、無論今度のことは等閑に付すべからざることですが、退校は少しく酷にすぎはしますまいか」
「いや、あいつは破廉恥罪をおかして平気でいます、人の畑のいもを掘る、駄菓子屋の菓子をかっぱらう、ついこのごろ豆腐屋の折詰を強奪してそのために豆腐屋の親父が復讐をして牢獄に投ぜられた始末、私がいくども訓戒したがききません、かれのために全校の気風が悪化してきました、雑草を刈り取らなければ他の優秀な草が生長をさまたげられます、これはなんとかして断固たる処分にでなければなりますまい、いかがですか校長」
朝井先生がこういったとき、一同の目が校長に注がれた。校長は先刻から黙然として一言もいわずにまなこを閉じていたがこのときようやくまなこをみひらいた。涙が睫毛を伝うてテーブルにぽたりぽたりこぼれた。
「わかりました、諸君のいうところがよくわかりました、実は私はこのことあるを憂いて、前後五回ほど阪井の父をたずねて忠告したのです、それにかかわらずかれの父はかれを厳重にいましめないのです、これだけに手を尽くしても改悛せず、その悪風を全校におよぼすのを見ると、いまは断固たる処置をとらなきゃならない場合だと思います。しかしながら諸君、しかしながら……」
校長の語気は次第に熱してきた。
「キリストの言葉に九十九のひつじをさしおいても一頭の迷える羊を救えというのがあります、あれだけ悪い家庭に育ってあれだけ悪いことをする阪井は憎いにちがいないが、それだけになおかわいそうじゃありませんか、あんな悪いことを働いてそれが悪いことだと知らずにいる阪井巌をだれが救うてくれるでしょうか、善良なひつじは手をかけずとも善良に育つが、悪いひつじを善良にするのはひつじかいの義務ではありますまいか、いまここで退校にされればかれは不良少年としてふたたび正しき学校へ行くことができなくなり、ますます自暴自棄になります、そうすると、ひとりの男をみすみす堕落させるようなものです、救い得る道があるなら救うてやりたいですな」
「いかにもなア」
感嘆の声が起こった、人々は校長が生徒を愛する念の深きにいまさらながらおどろいた。
「ごもっともです」と朝井先生はいった。「校長の情け深いお説に対してはもうしあげようもありません、しかし教育者は一頭のひつじのために九十九の羊を捨てることはできません、ひとりのコレラ患者のために全校の生徒を殺すことはできません、阪井については師範校からも苦情がきております、かれの父はかれよりも凶悪です、しかも政党の有力者であり助役であるところからしてその子がどんな悪いことをしても罰することができないのだと世間で学校を嘲笑しています、学校の威厳が一たびくずれると生徒が決してわれわれの訓戒をきかなくなります。かたがたこの場合断固たる処置をとられることを希望致します」
「よろしい、きめましょう、一週間の停学にしましょう、それでもだめだったら退校にしましょう、どんな罪があろうと、その罪の一半は私の徳の足らないためだと私は思います、私も深く反省しましょう、諸君もより以上に注意してください、悪い親を持った一少年を学校が見捨てたら、もうそれっきりですからなあ」
寛大すぎるとは思ったが朝井先生は校長の美しい心に打たれて反対することができなくなった、人々は沈黙した。そうしてしずかに会議をおわった。
「こんなにありがたい校長および職員一同の心持ちが阪井にわからんのかなア」と少尉は涙ぐんでいった。
停学を命ずという掲示が翌日掲げられたとき、生徒一同は万歳を叫んだ。だがそれと同時に阪井は退校届けをだした。校長はいくども阪井の家を訪うて退校届けの撤回をすすめたがきかなかった。
校長はまたまた柳の見舞いにいった。光一の負傷は浅かったが、なにかの黴菌にふれて顔が一面にはれあがった。かれの母は毎日見舞いの人々にこういって涙をこぼした。
「阪井のせがれにこんなにひどいめにあわされましたよ」
それを見て父の利三郎は母をしかりつけた。
「愚痴をいうなよ、男の子は外へ出ると喧嘩をするのは仕方がない、先方の子をけがさせるよりも家の子がけがするほうがいい」
そのころ町々は町会議員の選挙で鼎のわくがごとく混乱した、あらゆる商店の主人はほとんど店を空にして奔走した。演説会のビラが電信柱や辻々にはりだされ、家々は運動員の応接にせわしく、料理屋には同志会専属のものと立憲党専属のものとができた。
阪井猛太は巌の父である、昔から同志会に属しその幹部として知られている、その反対に柳利三郎は立憲党であった、そういう事情から両家はなんとなく不和である、のみならずこのせわしい選挙さわぎの最中に阪井の息子が柳の息子の額をわったというので、それを政党争いの意味にいいふらすものもあった。
次第次第に快復に向かった光一は聞くともなしに選挙の話を聞いた。
「私は商人だからな、政党にはあまり深入りせんようにしている」
こういつもいっていた父が、急に選挙に熱してきたことをふしぎに思った、選挙は補欠選挙であるから、たったひとりの争奪である、だがひとりであるだけに競争がはげしい。政党のことなんかどうでもかまわないと思った光一も、父が熱し親戚が熱し出入りの者どもが熱するにつれて、自然なんとかして立憲党が勝てばよいと思うようになった。
選挙の期日が近づくにしたがって町々の狂熱がますます加わった。ちょうどそのときだれが言うとなく、豆腐屋の覚平が出獄するといううわさが拡まった。
「おもしろい、覚平がきっと復讐するにちがいない」と人々はいった。
ある日光一は覚平を見た、かれはよごれたあわせに古いはかまをはいて首にてぬぐいをまいていた、一月の獄中生活でかれはすっかりやせて野良犬のようにきたなくなり目ばかりが奇妙に光っていた、かれは非常に鄭重な態度で畳に頭をすりつけてないていた。
「ご恩は決してわすれません、きっときっとお返し申します」
かれはきっときっとというたびに涙をぼろぼろこぼした。
「もういいもういいわかりました、だれにもいわないようにしてな、いいかね、いわないようにな」
と父はしきりにいった。
「きっと、きっと!」
覚平はこういって家をでていった、光一ははじめて例のさしいれものは父であることをさとった。その翌日から町々を顛倒させるような滑稽なものがあらわれた。懲役人の着る衣服と同じものを着た覚平は大きな旗をまっすぐにたてて町々を歩きまわるのである。旗には墨痕淋漓とこう書いてある。
「同志会の幹事は強盗の親分である」
かれは辻々に立ち、それから町役場の前に立ち、つぎに阪井の家の前に立ってどなった。
「折詰をぬすんだやつ、豆腐をぬすんだやつ、学校を追いだされたやつ、そのやつの親父は阪井猛太だ」
巡査が退去を命ずればさからわずにおとなしく退去するが、巡査が去るとすぐまたあらわれる、町の人々はすこぶる興味を感じた、立憲党の人々はさかんに喝采した、ときには金や品物をおくるのであったが、覚平は一切拒絶した。
これがどれだけの効果があったかは知らぬが選挙はついに立憲党の勝利に帰した。覚平は町々をおどり歩いた。
「ざまあ見ろ阪井のどろぼう!」
もう光一は学校へ通うようになった、とこのとき校内で悲しいうわさがどこからとなく起こった。
「校長が転任する」
このうわさは日一日と濃厚になった、生徒の二、三が他の先生達にきいた。
「そんなことはありますまい」
こう答えるのだが、そういう先生の顔にも悲しそうな色がかくしきれなかった。生徒の主なる者がよりよりひたいをあつめて協議した。
「本当だろうか」
このうたがいのとけぬ矢先に手塚はこういう報告をもたらした。
「校長が立憲党のために運動したので諭旨免官となるんだそうだ」
これは生徒にとってあまりにふしぎなことであった。
「どういうわけだ」
「校長はね、柳の家へしばしば出入りしたのを見た者があるんだよ」
と手塚がいった。「それで阪井の親父が校長排斥をやったんだ」
「それは大変な間違いだ」と光一は叫んだ。「先生がぼくの家へきたのは二度だ、それは学校で負傷させたのは校長の責任だというので校長自身でぼくの父にあやまりにきたのと、いま一つはぼくの見舞いのためだ、先生はぼくの枕元にすわってぼくの顔を見つめたままほかのことはなんにもいわない、ぼくの父とふたりで話したこともないのだ」
「そりゃ、そうだろうとも」と人々はいった。
「もしそれでも校長が悪いというなら、われわれはかくごを決めなきゃならん」と捕手の小原がいった。
「無論だ、学校を焼いてしまえ」とライオンがいった。
「へんなことをいうな」と捕手はライオンをしかりつけて、「こんどこそはだぞ、諸君! 関東男児の意気を示すのはこのときだ、いいか諸君! 天下広しといえども久保井先生のごとき人格が高く識見があり、われわれ生徒を自分の子のごとく愛してくれる校長が他にあると思うか、この校長ありてこの職員ありだ、どの先生だってことごとくりっぱな人格者ばかりだ、久保井先生がいなくなったら第一カトレット先生がでてゆく、三角先生もでてゆく、山のいも先生も、ナポレオン先生……」
「最敬礼も」とだれかがいった。
「まじめな話だよ」と捕手は怫然としてとがめた、そうしてつづけた。
「いいか諸君、久保井先生がなければ学校がほろびるんだぞ、ぼくらはなんのために漢文や修身や歴史で古今の偉人の事歴を学んでるのだ、『士はおのれを知るもののために死す』だ、いいかぼくらは久保井先生のため浦和中学のため、死をもってあたらなきゃならん」
「それでなければ男じゃないぞ」と叫んだものがある。
その日学校の広庭に全校の生徒が集まった、そうして一級から三人ずつの委員を選定して事実をたしかめることにした、もしそれが事実であるとすれば、全校連署のうえ県庁へ留任を哀願しようというのである。光一は二年の委員にあげられた。
光一は悲しかった、かれの心は政党に対する憤怒に燃えていた。どういう理由か知らぬが、校長がぼくの家へ見舞いにきただけで政党が校長を排斥するのはあまりに陋劣だ。
小原のいうごとく久保井先生のようなりっぱな校長はふたたび得られない。いまの先生方のようなりっぱな先生もふたたび得られない。それにかかわらず学校がめちゃめちゃになる、それではぼくらをどうしようというんだろう、政党の都合がよければ学校がどうなってもかまわないのだろうか。
そんなばかな話はない、これは正義をもって戦えばかならず勝てる、父に仔細を話してなんとかしてもらおう。
いろいろな感慨が胸にあふれて歩くともなく歩いてくると、かれは町の辻々に数名の巡査が立ってるのを見た、町はなにやら騒々しく、いろいろな人が往来し、店々の人は不安そうに外をのぞいている。
「なにがはじまったんだろう」
こう考えながら光一は家の近くへくると、向こうから伯父さんの総兵衛が急ぎ足でやってきた、かれはしまの羽織を着てふところ一ぱいなにか入れこんで、きわめて旧式な山高帽をかぶっていた。伯父さんはいつも鳥打帽であるが、葬式や婚礼のときだけ山高帽をかぶるのであった、ほていさんのようにふとってほおがたれてあごが二重にも三重にもなっている、その胸のところにはくまのような毛が生えている、光一は子どものときにいつも伯父さんにだかれて胸の毛をひっぱったものだ。
「伯父さんどこへいってきたの」と光一はきいた。
「ああ光一か、おれは今町会傍聴にいってきた、おもしろいぞ、うむ畜生! おもしろいぞ、畜生め、うむ畜生」
おもしろいのに畜生よばわりは光一に合点がゆかなかった。
「なにがおもしろいの?」
「なにがっておまえ、くそッ」伯父さんはひどく興奮していた。
「どろぼうめが、畜生」
「どろぼうがいたの?」
「どろぼうじゃねえか、一部の議員と阪井とがぐるになって、道路の修繕費をごまかして選挙費用に使用しやがった、それをおまえ大庭さんがギュウギュウ質問したもんだから、困りやがって休憩にしやがった、さあおもしろい、お父さんがいるか」
「ぼくはいま学校の帰りですから知らない」
「知らない? ばかッ、そんならそうとなぜ早くいわないのだ、そんな風じゃ出世しないぞ」
伯父さんはぶりぶりして足を急がせたが、なにしろふとってるので頭と背中がゆれる割合に一向足がはかどらなかった。
そういう政党の争いは光一にとってなんの興味もなかった、かれが家へはいると、もう伯父さんの大きな声が聞こえていた。
「どろぼうのやつめ、畜生ッ、さあおもしろいぞ」
父はげらげらわらっていた、母もわらっていた、伯父さんが憤慨すればするほど女中達や店の者共に滑稽に聞こえた。伯父さんはそそっかしいのが有名で、光一の家へくるたびに帽子を忘れるとか、げたをはきちがえるとか、ただしはなにかだまって持ってゆくとかするのである。
光一は父と語るひまがなかった、父は伯父さんと共に外出して夜晩く帰った、光一は床にはいってから校長のことばかりを考えた。
「停学された復讐として阪井の父は校長を追いだすのだ」
こう思うとはてしなく涙がこぼれた。
翌日学校へいくとなにごともなかった、正午の食事がすむと委員が校長に面会をこう手筈になっている。
「堂々とやるんだぞ、われわれの血と涙をもってやるんだ、至誠もって鬼神を動かすに足るだ」
と小原が委員を激励した。
委員はそこそこに食事をすまして校長室へいこうとしたとき、突然最敬礼のらっぱがひびいた。
「講堂へ集まれい」と少尉が叫びまわった。
「なんだろう」
人々はたがいにあやしみながら講堂へ集まった、講堂にはすでに各先生が講壇の左右にひかえていた、どれもどれも悲痛な顔をしてこぶしをにぎりしめていた。もっとも目にたつのは漢文の先生であった、ひょろひょろとやせて高いその目に涙が一ぱいたまっていた。
「あの一件だぞ」と委員達は早くもさとった、そうして委員は期せずして一番前に腰をかけた。ざわざわと動く人波がしずまるのを待って少尉はおそろしい厳格な顔をして講壇に立った。
「諸君もあるいは知っているかもしらんが、こんど久保井校長が東京へ栄転さるることになりました、ついては告別のため校長から諸君にお話があるそうですから謹聴なさるがいい、決して軽卒なことがないように注意をしておく」
この声がおわるかおわらないうちに講堂は潮のごとくわきたった。
「なぜ校長先生がこの学校をでるのですか」
「栄転ですか、免官ですか」
「先生がぼくらをすてるんですか」
「先生を追いだすやつがあるんですか」
小さな声大きな声、バスとバリトンの差はあれども声々は熱狂にふるえていた、実際それは若き純粋な血と涙が一度に潰裂した至情の洪水であった。
「諸君?[#「?」はママ]」
小原捕手は講壇の下におどり出して一同の方へ両手をひろげて立った。
「校長先生が諸君に告別の辞をたまわるそうだが、諸君は先生とわかれる意志があるか、意志があるなら告別の辞を聴くべしだ、意志のない者は……どうしても先生とわかれたくないものはお話を聴く必要がないと思うがどうだ」
「そうだ、無論だ」
講堂の壁がわれるばかりの喝采と拍手が起こった。
「小原、おねがいしてくれ、先生におねがいしてくれ」
だれかがすきとおる声でこういった。校長はまっさおになってこの体を見ていた。自分が手塩にかけて教育した生徒がかほどまで自分を信じてくれるかと思うと心の中でなかずにはいられなかった。
「先生!」
小原は校長の方へ向きなおっていった、そのまっ黒な顔に燃ゆるごとき炎がひらめいた、広い肩と太い首が波の如くふるえている。
「先生!」
かれはふたたびいったが涙が喉につまってなにもいえなくなった。
「校長先生!」
こういうやいなやかれは急に声をたててすすりあげ、その太い腕を目にあててしまった。講堂は水を打ったようにしずまった、しぐれに打たるる冬草のごとくそこここからなき声が起こった、とそれがやがてこらえきれなくなって一度になきだした。漢文の先生は両手で顔をかくした、朝井先生は扉をあけて外へでた、他の先生達は右に傾き左に傾いて涙をかくした。
校長はしずかに講壇に立った。低いしかも底力のある声は、くちびるからもれた。
「諸君! 不肖久保井克巳が当校に奉職してよりここに六年、いまだ日浅きにかかわらず、前校長ののこされた美風と当地方の健全なる空気と、職員諸氏の篤実とによって幸いに大瑕なく校長の任務を尽くし得たることを満足に思っています、今回当局の命により本校を去り諸君とわかれることになったことは実に遺憾とするところでありますが事情まことにやむを得ません。おもうに離合集散は人生のつね、あえて悲しむに足らざることであります、ただ、諸君にして私を思う心あるなら、その美しき友情をつぎにきたるべき校長にささげてくれたまえ、諸君の一言一行にしてもし道をあやまるようなことがあれば、前校長の久保井は無能者であるとわらわれるだろう、諸君の健全なる、剛毅果敢なる、正義にあつく友情に富める、この気風を失わざればそれはやがて久保井克巳の名誉である、私は諸君が、いかに私を愛してくれるかを知っている、諸君もまた私の心を知っているだろう、雲山煙水相隔つれども一片の至情ここに相許せば、わかれることはなんでもない、私を思うなら、しずかにしずかに私をこの地から去らしめてくれたまえ、私も諸君を思えばこそこの地を去るのだ……」
声はしずかなしずかな夕波が岸を打つかのごとくであったが、次第に興奮して飛沫がさっと岩頭にはねかかるかと思うと、それをおさえるごとく元のしずかさに返るのであった、一同は大鳥の翼にだきこまれた雛鳥のごとく鳴りをしずめた。
「もし諸君にして私を思うあまりに軽卒な行動をとると、私が六年間この浦和町につくした志は全然葬られてしまうことになる、諸君は学生の分を知らなければならん、学生は決して俗世界のことに指を染めてはならん、ただ、私は諸君にいう、ジョン・ブライトは『正しきを踏んでおそるるなかれ』といった、私はこの格言を諸君に教えた、私が去るのもそれである、諸君もまたこの格言をわすれてはならぬ、五年生は来年だ、一年生も五年の後には卒業するだろう、そのときにはまた会える、はるかに浦和の天をながめて諸君の健全を祈ろう、諸君もまたいままでどおりにりっぱに勉強したまえ」
小原はぐったりと頭をたれてだまった、もう何人もいうものがない、校長がいかにも悲しげに一同を見おろして一礼した、生徒はことごとく起立しておじぎをした。そうしてそのままふたたびなきだした。
後列の方から扉口へくずれだした、いとしめやかな足取り、葬式のごとく悲しげに一同は講堂をでた。
「だめかなア」
光一は人々とはなれてひとりなきたいと思った、かれは夢のごとく町を歩いた、かれは自分の背後からいそがしそうにあるいてくる足音を聞いた、足音は次第に近づいた、そうして光一を通りすごした。
「青木君」かれは呼びとめた。
「ああ柳さん」
「どこへゆく?」
光一はチビ公が豆腐おけもかつがないのをふしぎに思った。
「ぼくのおじさんを見ませんか」と千三はうろうろしていった。
「いや、見ない」
「ああそうですか、今朝から家をでたきりですからな、また阪井の家へどなりこみにいったのではないかと思ってね」
千三はなきだしそうな顔をしていた。
「心配だろうね、ぼくも一緒にさがしてあげよう」
五
チビ公と光一は裏門通りから清水屋横町へでた。そこでチビ公は知り合いの八百屋にきいた。
「家の伯父さんを見ませんか」
「ああ見たよ」と八百屋がいった。
「さっきね丸太ん棒のようなものを持ってね、ここを通ったから声をかけるとね、おれは大どろぼうを打ち殺しにゆくんだといってたっけ」
「どこへいったでしょう」
「さあ、停車場の方へいったようだ」
「酔ってましたか」
「ちとばかし酒臭かったようだったが、なあチビ公早くゆかないと、とんだことになるかもしれないよ」
「ありがとう」
チビ公はもう胸が一ぱいになった、ようやく監獄からでてきたものがまたしても阪井に手荒なことをしては伯父さんの身体はここにほろぶるよりほかはない、どんなにしても伯父さんをさがしだし家へつれて帰らねばならぬ。
ふたりは足を早めた。停車場へゆくと伯父さんの姿が見えない、チビ公は巡査にきいた。
「ああきたよ」
「何分ばかり前ですか」
「さあ三十分ばかり前かね」
「どっちの方へゆきましたか」
「さあ」と巡査は首をかしげて、「常盤町通りをまっすぐにいったように思うが……」
ふたりは大通りへ道を取った。
「どうしてこういやなことばかりあるんだろうね」と光一はいった。
「ぼくが思うに、この世の中にひとり悪いやつがあると世の中全体が悪くなるんです」とチビ公はいった。
「だがきみ、社会が正しいものであるなら、ひとりやふたりぐらい悪いやつがあってもそれを撃退する力があるべきはずだ」
「それはそうだが、しかし悪いやつの方が正しい人よりも知恵がありますからね、つまり君の学校の校長さんより阪井の方が知恵があります、どうしても悪いやつにはかないません」
「そんなことはない」と光一は顔をまっかにして叫んだ。「もしこの世に正義がなかったらぼくらは一日だって生きていられないのだ、ぼくは悪いやつと戦わなきゃならない、この世の悪漢をことごとく撃退して正義の国にしようと思えばこそぼくらは学問をするんじゃないか」
「それはそうだが、しかし強いやつにはかないません、正義正義といったところで、ぼくの伯父は監獄へやられる、阪井は助役でいばってる、それはどうともならないじゃありませんか」
ふたりは警察署の前へきた、いましも七、八人の人々がひとりの男を引き立てて門内へはいるところであった。チビ公は電気に感じたようにおどりあがって人々の後を追うた。とまたすぐもどってきた。
「伯父さんかと思ったらそうでなかった」
かれは安心したもののごとく眼を輝かした、そうしてこういった。
「喧嘩して人をきったんですって、それはいいことではないが、ぼくはああいう人を見ると、なんだか、その人の方が正しいような気がしてなりません、時によるとぼくもね、ぼくがもし身体がこんなにチビでなかったら、もう少し腕に力があったら、悪いやつを片っ端から斬ってやりたいと思うことがあります、身体が小さくて貧乏で、弱い母親とふたりで伯父さんの厄介になっているんでは、いいたいことがあってもいえない、いっそぼくの頭がガムシャラで乱暴で阪井のように善と悪との差別がないならぼくはもう少し幸福かもしらないけれども、学校で先生に教わったことをわすれないし、道にはずれたことをしたくないために、人に踏まれてもけられてもがまんする気になります、そんなことでは損です、世の中に生きていられません、そう思いながらやはり悪いことはしたくないしね」
チビ公は涙ぐんで歎息した、光一はなにもいうことができなくなった。かれはいままで正義はかならず邪悪に勝つものと信じていた。それが今日もっとも尊敬する久保井校長が阪井のためにおいはらわれたのを見て、正義に対する疑惑が青天に群がる白雲のごとくわきだしたところであった。かれはいまチビ公の嗟歎を聞き、覚平の薄幸を思うとこの世ははたしてそんなにけがらわしきものであるかと考えずにいられなかった。
ふたりはだまって歩きつづけた。と米屋の横合いから突然声をかけたものがある。
「柳君!」
それは手塚であった。このごろ手塚は裏切り者として何人にもきらわれた、でかれは光一にもたれるより策がなかった。かれはなにかさぐるように狡猾な目を光一に向けて微笑した。
「ぼくはすてきにおもしろい小説を買ったからきみに見せようと思ってね……いまは持っていないけれども晩に届けるよ。『春の悩み』というんだ」
「ぼくは小説はきらいだ」と光一はいった。
「ああそうか」と手塚はべつに恥じもせず、「それじゃ『世界の怪奇』てやつを君に見せよう、胴体が百五十間もあるいかだの、鼻に輪をとおした蕃人だの、着色写真が百枚もあるよ、あれを持ってゆこう」
かれは軽快にこういってからつぎにさげすむような口調でチビ公にいった。
「どうだチビ公、その後は……商売をやってるの?」
「毎日やっています」とチビ公はいった。
「たまにはぼくの家へもよりたまえね、豆腐を買ってあげるからね、チビ公」
「チビ公というのは失敬じゃないか、ぼくらの学友だよ」と光一はむっとしていった。
「そうだ、やあ失敬、堪忍堪忍」
手塚は流暢にあやまった。がすぐ思いだしたようにいった。
「きみの伯父さんがいまあそこであばれていたよ」
「どこで?」とチビ公は顔色をかえた。
「税務署で」
「税務署?」
「よっぱらってるから役場と税務署とを間違えて飛びこんだのだよ、阪井を出せ、どろぼうをだせってどなっていたよ」
「ありがとう」
チビ公は奔馬のごとく走りだした。光一も走りだした。
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。
これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。
政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はきわめてまれであって、悪党が非常に多い。これが日本の今日の政界である。
阪井猛太は自党の多数をたのみにして助役の地位にあるのを幸いに、不正工事を起こして自党の利益にしようとした、これに対する立憲党は町会において断々固としてその不正を責めたてた。もしことやぶるれば町長の不名誉、助役の涜職、そうして同志会の潰裂になる。猛太はいま浮沈の境に立っている。
巌はまだ学生の身である。政治のことはわからないが、かれは絶対に父を信じていた。かれは町へ出るとあちらこちらで不正工事のうわさを聞くのであった、だがかれははらのうちでせせらわらっていた。
「ばかなやつらだ、あいつらにぼくの親父の値うちがわかるもんか」
かれは何人よりも父が好きであった、父は雄弁家で博識で法律に明るくて腕力があって、町の人々におそれられている、父はいつも口をきわめて当代の知名の政治家、大臣、政党首領などを罵倒する、文部大臣のごときも父は自分の親友のごとくにいいなす、それを見て巌はますます父はえらいと思った。
その日かれは理髪床でふたりの客が話しているのをきいた。
「さすがの猛太も今日こそは往生したらしいぜ、町長にひどくしかられたそうだよ」とひとりがいった。
「町長だってどうやら臭いものだ」とひとりがいう。
「いや町長はなかなかいい人だ」
ふたりの話を聞きながら巌はまたしてもはらのうちで冷笑した。
「町長なんて、それはおれの親父にふりまわされてるでくのぼうだってことを知らないんだ」
かれはこう思うて家へ帰った、父はすでに帰っていた、だまってにがりきった顔をして座っていたので巌はつぎの室へひっこんだ、機嫌の悪いときに近づくとげんこつが飛んでくるおそれがあるからである、父は短気だからげんこつが非常に早い。
「おい巌」と猛太は呼んだ。
「はい」
「きさま、どこへいってきた」
「床屋へゆきました」
「なにしにいった」
「頭を刈りに」
「ばかッ、頭を刈ったってきさまの頭がよくなるかッ」
「お母さんがゆけといったから」
「お母さんもばかだ、頭はいくらだ」
「二十銭です」
「二十銭で頭を刈りやがって、学校を退校されやがって」
巌はだまった、二十銭の頭と自分の退校といかなる関係があるかと考えてみたがかれにはわからなかった。こういうときに家にいるとろくなことがないと思ったのでかれはそっと外へでた。町を一巡してふたたび帰ると父の室に来客があった。それは役場の庶務課長の土井という老人であった、この老人は非常に好人物という評判も高いが、非常によくばりだという評判も高い、つまり好人物であってよくばりなのである。
母はどこへいったか姿が見えない、父と土井老人は酒を飲みながら話はよほど佳境に入ったらしい。
「心配するなよ、なんでもないさ、そんな小さな量見では天下が取れないぜ」
父の声は快活豪放であった。
「でも……そのね、町会があんなにさわぎ出すと、どうしてもね……」
「もういいよわかったよ、おれに考えがあるから、なにをばかな、はッはッはッ」
わらいがでるようでは父はよほど酔っていると巌は思った。
「しかし、いよいよ明日ごろ……多分明日ごろ、検事が……あるいは検事が調べにくるかもしれんので……」
「なにをいうか、検事がきたところでなんだ、証拠があるかッ」
「帳簿はその……」
「焼いてしまえ」
老人は「あっ」と声をあげたきりだまってしまった。
「はッはッはッ」と猛太はわらった。が巌の足音を聞いてすぐどなった。
「だれだッ」
「ぼくです」
「巌か、何遍床屋へゆくんだ、いくら頭をかっても利口にならんぞ」
巌はだまって自分の室にはいり机に向かって本を読みはじめた、かれは本を読むと眠くなるのがくせである、いく時間机にもたれて眠ったかわからないが、がらがらと戸をあける音に眼をさますと、客はすでに去り、母も床についたらしい。
「なんだろう」
こう思ったときかれは父が外へでる姿を見た。
「どこへゆくんだろう」
俄然としてかれの頭に浮かんだのは、チビ公の伯父覚平が父猛太をうかがって復讐せんとしていることである、今日も役場をまちがって税務署へ闖入したところをチビ公がきてつれていったそうだ、へびのごとく執念深いやつだから、いつどんなところから飛びだして暴行を加えるかもしれない。
「父を保護しなきゃならん」
巌は立ちあがった、かれは細身の刀をしこんだ黒塗りのステッキ(父が昔愛用したもの)を小脇にかかえて父のあとをつけた。二十日あまりの月がねぼけたように町の片側をうすねずみ色に明るくしていた。父の足元は巌が予想したほどみだれてはいなかった、かれは町の暗い方の側を急ぎ足で歩いた。
「どこへゆくんだろう」
巌はこう思いながら父と二十歩ばかりの間隔を取ってさとられぬように軒下に沿うていった。父はそれとも知らずにまっすぐに本通りへ出て左へ曲がった。
「役場へゆくんだ」
この深夜に役場へゆくのはなんのためだろう、巌の頭に一朶の疑雲がただようた。とかれはさらにおどろくべきものを見た、父は役場の入り口から入らずにしばらく窓の下にたたずんでいたがやがて軽々と窓わくによじのぼった、手をガラス窓にかけたかと思うと、ガラスがかすかに反射の光と共に動いた。父の姿はもう見えない。
「どうしたことだろう」
巌はあっけに取られたがすぐこう思いかえした。
「なにかわすれものをしたのだろう」
だがこのときかれはぱっと一閃の火光が窓のガラスに映ったような気がした、そうしてそれがすぐ消えた。
「なぜ電灯をつけないんだろう」
ふたたび火光がぱっとひらめいた。ゆがんだような反射がガラスをきらきらさせた、それはろうそくの光でもなければガスの光でもない、穂末の煙が黒みと白みと混合して牛乳色に天井に立ちのぼった。
巌はわれをわすれて窓によじのぼり、奔馬のごとくろうかへ降りた。窓から南風がさっとふきこんだ、炎々たる火光と黒煙のあいだに父は非常な迅速さをもって帳簿箱に油を注いでいる、石油の臭いは窒息するばかりにはげしく鼻をつく、そうしてすさまじい勢いをもって煙を一ぱいにみなぎらす、焔の舌は見る見る床板をなめ、テーブルをなめ、壁を伝うて天井を這わんとしつつある。
巌はいきなり、そこにある机かけをとって床の上の火炎をたたきだした。
「だれだ」と父は忍び声にどなった。
「ぼくですお父さん」
「おまえか……なにをする」
「消しましょう」
「あぶない、早く逃げろ」
「消しましょう」と巌はなおも火をたたきながらいった。
「危ない、早く早く、逃げろ」
ぱちぱちとけたたましい音がして黒煙はいくつとなく並んだテーブルの下をくぐって噴水のごとく向こうの穴から噴きだした。窓という窓のガラスは昼のごとく反射した。
「もうだめだ、早く早く、下を這え、立ってるとむせるぞ、下を這って……這って逃げろ」
「消しましょう」
と巌は三度いった。
「なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ」
「死んでもかまいません、消しましょう、お父さん」
「ばかッ、こい」
父はむずと巌の手をつかんだ、巌はその手をにぎりしめながらいった。
「お父さん、あなたは証拠書類を焼くために、この役場を焼くんですか」
「なにを?」
父は手を放してよろよろとしざった。
「消してください、お父さん」
巌は炎の中へ飛びこんだ、かれは右に走り左に走り、あらゆるテーブルを火に遠くころがし、それから壁やたなや箱の下をかけずりまわって火の手をさえぎりさえぎりたたきのめし、ふみしだき、阿修羅王が炎の車にのって火の粉を降らし煙の雲をわかしゆくがごとくあばれまわった。だがそれは無駄であった。油と木材の燃ゆる悪臭と、まっ黒な煙とは巌の五体を包んだ。
「消してください」と巌は苦しそうになおも叫びつづけた。
「巌! どこだ、巌!」
父はわが身をわすれて煙の中に巌をさがした。
「消して……消して……お父さん」
ごぶごぶごぶと湯のたぎるような音が、そこここに聞こえた。それはいすの綿や、毛類や、蒲団などが燃ゆる音であった。そうしてそのあいだにガチンガチンというガラスの割れる音が聞こえた。
「巌! 巌!」
父は声をかぎりに叫んだ。答えがない。
「巌! 巌!」
やっぱり答えがない。
猛太は仰天した、かれはふたたび火中に飛びこんだ、もう火の手は床一面にひろがった、右を見ても左を見ても火の波がおどっている。天井には火竜の舌が輝きだした。
「巌!」
猛太の胸ははりさけるばかりである、かれはもう凶悪な三百代言でもなければ、不正な政党屋でもない、かれのあらゆる血はわが子を救おうとする一心に燃えたった。
かれは煙に巻かれて窒息している巌の体に足をふれた、かれは狂気のごとくそれを肩にかけた、そうしてきっと窓の方を見やった。がかれは爛々たる炎の鏡に射られて目がくらんだ、五色の虹霓がかっと脳を刺したかと思うとその光の中に画然とひとりの男の顔があらわれた。
「やあ覚平!」
かれはこう叫んで倒れそうになった、とたんに覚平の腕は早くもかれの胴体をかかえた。
「おい、しっかりしろ」と覚平はいった。
「きさまはおれを殺しにきたのか」
「助けにきたんだ」
覚平は猛太と巌を左右にかかえた、そうして全力をこめて窓の外へおどりでた。
当直の人々や近所の人々によって火は消されたが、室内の什器はほとんど用をなさなかった。重要な書類はことごとく消失した。
人々は窓の外に倒れている猛太父子を病院に送った。覚平は人々とともに消火につとめた、さわぎのうちに夜がほのぼのと明けた。
町は鼎のわくがごとく流言蜚語が起こった。不正工事の問題が起こりつつあり、大疑獄がここに開かれんとする矢先に役場に放火をしたものがあるということは何人といえども疑わずにいられない。甲はこういう。
「これは同志会すなわち役場派の者が証拠を堙滅させるために放火したのである」
乙はこういう。
「役場反対派すなわち立憲党のやつらが役場を疑わせるために故意に放火したのだ」
色眼鏡をもってみるといずれも道理のように思える。だが多数の人はこういった。
「猛太父子が一命を投げだして消火につとめた処をもってみると、役場派が放火したのではなかろう」
こういって人々は猛太が浦和町のためにめざましい働きをしたことを口をきわめて称讃した、それと同時に巌の功労に対する称讃も八方から起こった。
半死半生のまま病院へ運ばれたまでは意識していたがその後のことは巌はなんにも知らなかった。かれが病院の一室に目がさめたとき、全身も顔も繃帯されているのに気がついた。
「目がさめて?」
母の声が枕元に聞こえた、同時にやさしい母の目がはっきりと見えた、母の顔はあおざめていた。
「お父さんは?」と巌がきいた。
「そこにやすんでいらっしゃいます」
巌は向きなおろうとしたが痛くてたまらないのでやっと首だけを向けた、ちょうど並んだ隣の寝台に父は繃帯した片手を胸にあてて眠っている、ひげもびんも焼けちぢれてところどころ黒ずんでいるほおは繃帯のあいだからもれて見える。
「お父さんはどんなですか」
「大したこともないのです、手だけが少しひどいようですよ」
「それはよかった」
巌はこういってふたたびつくづくと父の寝顔を見やった。
「これがぼくのお父さんなのかなあ」
ふとつぶやくようにこういった。
「なにをいってるの?」と母は微笑した。
「いや、なんでもありません」
巌はだまった、かれの頭にはふしぎな疑惑が生じた。これがはたしてぼくの父だろうか。わが身の罪を隠蔽するために役場を焼こうとした凶悪な昨夜の行為! それがぼくの父だろうか。
かれは幼少からわが父を尊敬し崇拝していた、学識があり胆力があり、東京の知名の士と親しく交わって浦和の町にすばらしい勢力のある父、正義を叫び人道を叫び、政治の覚醒を叫んでいる父!
実際かれはわが父をゆいつの矜持としていたが、いまやそれらの尊敬や信仰や矜持は卒然としてすべて胸の中から消え失せた。
「お父さんは悪い人だ」
かれは大声をだしてなきたくなった。かれにはなにものもなくなった。
「悪い人だ!」
いままで父に教えられたこと、しかられたこと、それらはみんなうそのように思えた。
焼けてちぢれたひげがむにゃむにゃと動いて、口がぽっかりあいて乱ぐいの歯があらわれたかと思うと猛太は目をぱっちりと開いた。父と子の視線が合った。
「おう、目がさめたのか、どうだ、痛むか」
父は起きなおっていった。
「なんでもありません」と巌は冷ややかにいった、父は寝台を降りようとして首につった繃帯を気にしながら巌の寝台へ寄りそうた、そうして心配そうな目を巌の顔に近づけた。
「元気をだせよ、いいか、どこも痛みはしないか、苦しかったら苦しいといえよ」
巌はだまって顔をそむけた、苦しさは首をのこぎりでひかれるより苦しい、しかしそれは火傷の痛みではない、父をさげすむ心の深傷である。この世の中に神であり仏であり正義の英雄であると信じていたものが一夜のうちに悪魔波旬となった絶望の苦しみである。
猛太父子の見舞いにとて来客が殺到した、町の人々はいろいろな物品を贈った、猛太は左の腕と左の脚を焼いたので外出はできなかった、かれは寝台の上に座って来客に接した。かれはこう人々にいった。
「せがれが命がけでやってくれたもんだからやっと消しとめましたよ」
それからかれはせがれとふたりで役場の前を通ると火の光が見えたので、窓をたたきこわして中へはいったがその時は重要書類が焼けてしまったあとであったのがなにより残念だといった。人々はますますふたりの勇気に感激した。そうして町会は決議をもってふたりに感謝状を贈ろうという相談があるなどといった。
「うそをつくことはじつにうまい」と巌はおどろいて胸をとどろかした。そうして町の人がなにも知らずに、役場を焼こうとした犯人に感謝状を贈るとはなにごとだろうと思った。
二、三日はすぎた、町のうわさがますます高くなった、だがある日町長が顔色を変えてやってきた。
「みょうなうわさがでてきたよ」とかれはいった。「放火犯人は役場員だというのでな」
「けしからんことだ」と猛太は叫んだ。
「警察の方では、どうもその方にかたむいているらしい。そこでだね、きみになにか心あたりがあるならいってもらいたいんだが」
「なんにもありやしない」と猛太はにがりきっていった。
「きみがいったとき、犯人らしいものの姿を見なかったかね」
「さあ」
猛太は下くちびるをかんでじっと考えこんだ。
「かれらがいうには、阪井が工事の帳簿を焼こうとしたんだとね、こういうもんだから、まさか親子連れで火をつけに歩きまわるやつもなかろうじゃないかと私は嘲笑してやったんだ、それにしても疑われるのは損だからね、なにかくせものらしいものの姿でも見たのなら非常に有利なんだが」
「見た」と猛太は力なき声でいった。
「見た?」
「ああ見た」
「どんな風体の者だ」
「それは覚平によく似たやつだった」
巌は頭の脳天から氷の棒を打ち込まれたような気がして思わず叫んだ。
「ちがいますお父さん」
「だまっておれ」と猛太はどなって巌をハタとにらんだ、目は殺気をおびている。
「覚平か」と町長は身体をぐっとそらしたがすぐ両手をぴしゃりとうった。
「そうだ、それにちがいない。あいつはきみにうらみがあるから、きみに放火犯人の疑いをかけさせようと思って放火したにちがいない、例の工事問題が起こってる最中だから、きみが帳簿を焼くために火をつけたのだろうとは、ちょっとだれでも考えることだからな、いやあいつはじつにうまく考えたものだ」
「そうだ、ことによると立憲党のやつらが覚平を扇動したのかもしれんぜ」
「いよいよおもしろい」と町長はいすを乗りだして、「これを機会に根底から立憲党を潰滅するんだね、そうだ、じつに好機会だ、わざわいが転じて福となるぜ、おい、早く退院してくれ」
「ちがいます」と巌はふたたび叫んだ。「覚平はぼくらを救いだしてくれたのです、ぼくもお父さんも煙にまかれて倒れたところをあの人が火の中をくぐって助けてくれました」
「ばかッ、だまってろ、おまえはなんにも知らないくせに」と猛太はどなった。
「なんにしてもあいつがその場にいたということがふしぎじゃないか」と町長がいった。
「そうだそうだ」
町長は喜び勇んで室をでていった。あとで猛太はそのまま身動きもせずに考えこんだ。巌は繃帯だらけの顔を天井に向けたままだまった、父と子はたがいに眼を見あわすことをおそれた。陰惨な沈黙が長いあいだつづいた。
巌の目からはてしなく涙が流れた、かれはそれをこらえようとしたがこらえきれずにしゃくりあげた。
「お父さん」とかれはとうとういった。父はやはりだまっている。
「お父さん、あなたはぼくのお父さんでなくなりましたね」
「なにをいうか」と父はどなった。
「お父さんはぼくにうそをつくなと教えました。それだのにあなたはうそをついています、あなたはぼくに義侠ということを教えました。それだのにあなたは命を助けてくれた恩人を罪におとしいれようとしています、ぼくのお父さんはそんなお父さんじゃなかった」
「生意気なことをいうな、おまえなぞの知ったことじゃない、おれはなおれひとりの身体じゃない、同志会をしょって立ってるからだだ、浦和町のために生きてるからだだ、豆腐屋ひとりぐらいをぎせいにしても天下国家の利益をはからねばならんのだ」
「むつかしいことはぼくにわかりませんが、お父さん、自分の罪を他人に着せて、それでもって天下国家がおさまるでしょうか」
「ばかばかばか」と父は大喝した。そうして急いで室をでようとした。
「待ってください」
巌は痛さをわすれて寝台の上に這いあがり片手を伸ばして父のそでをつかんだ。
「ちょっとまってください、お父さん、ぼくの一生のおねがいです」
「放せ、放さんか」と父は叫んだ。
「放しません、お父さん、たった一言いわしてください、お父さん、ぼくは不孝者です、学校を退学されました、町の者ににくまれました、それはねえお父さん、ぼくの考えがまちがっていたからです、お父さんはぼくがおさないときからぼくに強くなれ強くなれ、人よりえらくなれと教えました、ぼくはどんなことをしても人よりえらくなろうと思いました、それでぼくはえらくなるためには悪い手段でもかまわないと信じていました、ぼくは小刀やピストルをふりまわして友達をおびやかしました。柔道や剣道で腕をきたえて、片っ端から人をなぐりました。豆腐屋や八百屋のものをぶんどりました、みながぼくをおそれました、ぼくは自分でえらいものだと思いました、それから学校でカンニングをやって試験をのがれました、手段が不正でもえらくなりさえすればいいと思ったからです、それはお父さんがぼくに教えたのです、お父さんは天下国家のためだから悪いことをしてもかまわない、同志会のためなら恩人を懲役にしてもかまわないと思っていらっしゃる、あなたもぼくも同じです、それがいまぼくにはっきりわかりました、腕力で人を征服するよりも心のうちから尊敬されるのが本当にえらい人です、カンニングで試験をパスするよりかむしろ落第する方がりっぱです、人に罪を着せて自分がえらそうな顔をしてることは、一番はずべきことではないでしょうか、ぼくはおさないからお父さんは浦和中で一番えらい人だとそれをじまんにしていました、だが今になって考えるとぼくは浦和中で一番劣等なお父さんをもっていたのでした、ねえお父さん……」
「きさまはきさまはきさまは」と猛太はまっかになってそれをはらった。
「ばかやろう! 親不孝者! 大行は細謹をかえりみずということわざを知らんか、阪井猛太は天下の志士だぞ、ばかッ」
父はさっさとでていった。
「お父さん!」
巌は寝台の縁に片手をかけ、幽霊のごとくはいだして父のあとを追わんとしたが、火傷の痛みに中心を失って思わず寝台の下にドウと落ちた。
「お父さん待って……」
かれは痛みをこらえて起きあがろうとしたが繃帯にひかれて右の方へ倒れた。
「待ってください……お父さん!」
ふたたび起きあがるとまた左の方へ倒れる。
「おとう……とう……と、と、と……」
声は次第に弱った、涙は泉のごとくわいた、そうして片息になって寝台に手をかけた、もう這いあがる力もない。
病院の外で子供等がうたう声が聞こえる。
「夕やけこやけ、あした天気になあれ」
六
小原捕手はいつもよりはやく目をさましそれから十杯のつるべ水を浴び心身をきよめてから屋根にあがって朝日をおがんだ。これはいかなる厳冬といえども一度も休んだことのないかれの日課である。冷水によって眠気と惰気とをはらい、さわやかな朝日をおがんで清新な英気を受ける。
だがこの日はいつもより悲しかった、全校生徒の歎願があったにかかわらず久保井校長の転任をひるがえすことができなかった。
今日は校長がいよいよ浦和を去る日である。
大急ぎで朝飯をすましかれはすぐ柳の家をたずねた、柳もまた小原をたずねようと家をでかけたところであった。
「いよいよだめだね」と柳はいった、平素温和なかれに似ずこの日はさっと顔を染めて一抹悲憤の気が顔にあふれていた。
「しかたがないよ」と小原はいった。ふたりは朝日の光が縦に流れる町を東に向かって歩いた。
「ところでね君」と小原はしばらくあっていった。
「今日の見送りだがね、もし生徒が軽々しくさわぎだすようなことがあると、校長先生がぼくらを扇動したと疑られるから、この点だけはどうしてもつつしまなきゃならんよ」
「ぼくもそう思ったからきみに相談しようと思ってでかけたんだ」
「そうか、そうか」と小原はおとならしくうなずいて、「一番猛烈なのは三年だからね、ぼくは昨夜もおそくまで歩きまわって説法したよ、二年は君にたのむよ、いいか、どうしてもわかれなきゃならないものならぼくらは静粛に校長を見送ろうじゃないか」
「ぼくもそう思うよ」
「じゃそのつもりでやってくれ、だが三年はどうかな」
小原はしきりに三年のことを心配していた、いずれの中学校でも一番御しがたいのは三年生である、一年二年はまだ子供らしい点がある、四年五年になると、そろそろ思慮分別ができる、ひとり三年は単純であるかわりに元気が溌剌として常軌を逸する、しかも有名な木俣ライオンが牛耳をとっている、校長転任の披露があってからライオンは十ぴきのへびを町役場へ放そうと計画しているといううわさを聞いた、また校長を見送ってからその足で県庁や役場を襲おうという計画もあると聞いている。
小原にはかれらの気持ちは十分にわかっていた、かれらがそんなことをせずとも、小原自身がまっさきになって暴動を起こしたいのである、だがかれは校長の熱烈な演説と、そのいわんとしていわざる満腹の不平をしのんで、学生は学生らしくすべしという訓戒をたれた敬虔な態度を見ると、竹やりむしろ旗の暴動よりも、静粛の方がどれだけりっぱかしれないという溶々大海のごとき寛濶な気持ちが全身にみなぎった。かれははじめて校長先生の偉大さがわかった。先生はなんの抵抗もせずにこの地方の教育界の将来のために喜んで十字架についたのである、先生は浦和の町人がかならずその不正不義を反省するときがくると自信しているのだ。
小原はこういうことを柳に語った。
「ねえきみ、ぼくにはよく先生の気持ちがわかった、それはね、ぼくが捕手をやってるからだよ、捕手は決して自分だけのことを考えちゃいかんのだ、全体のことを……みんなのことを第一に考えなけりゃならない、ちょうど校長は捕手のようなものだからね」
「そうかね」
柳はひどく感慨にうたれていった。そうして口の中で、「みんなのことみんなのこと」とくりかえした。
ふたりは停車場へゆくとはや東から西から南から北から見送りの生徒が三々五々集まりつつあった。昨日の申しあわせで生徒はことごとく和服で集まることになっていた、白がすりに小倉のはかま、手ぬぐいを左の腰にさげて、ほおばのげたをがらがら引きずるさまがめずらしいので、町の人々はなにごとがはじまったかとあやしんだ。
集まるものはことごとく少壮の士、ふきだしそうな血は全身におどっている、その欝勃たる客気はなにものかにふれると爆発する、しかも今や涙をもって慈父のごとく敬愛する校長とわかれんとするのである。危険は刻々にせまってくる。かれらはなにを見てもさわいだ。馬が荷車をひいて走ったといっては喝采し、おばあさんが転んだといっては喝采し、巡査が饅頭を食っているのを見ては喝采した。
小原はきわめて手際よくかれらを鎮撫した、かれは平素沈黙であるかわりにこういうときにはわれ鐘のような声で一同を制するのであった。野球試合のときどんな難戦におちいってもかれはマスクをぬぎ両手をあげて「しっかりやれよ」と叫ぶと、三軍の元気にわかに振粛するのであった。
かれは一同を広場の片側に整列させた、何人も彼の命にそむくものはなかった、がしかし人々の悲痛と憤怒はどうしてもおさえきることはできなかった。一年を制すれば二年が騒ぎだし、二年を制すればまた一年がくずれる、さすがに四年五年は粛然として涙をのんでいる。
これらの動揺の波濤の中をくぐりぬけて小原は東西にかけずりまわった、かれは帽子をぬいでそれを目標にふりふり叫んだ。その単衣は汗にびしょぬれていた、かれはひたいから雨のごとく伝わり落ちる汗を手ぬぐいで拭き拭きした。
このさわぎのうちに人々は一層不安の念を起こしたのは三年生の全部が見えないことであった。
「三年がこない」
口から口に伝わって人々はののしりたてた。
「三年のやつは不埓だ」
だがこのののしりはすぐ一種の反撥的な喝采とかわった。
「三年は全部結束してつぎの駅の蕨で校長を見送るらしい」
「いや赤羽まで校長と同車する計画だ」
この報知はたしかに人々の胸をうった、とまた飛報がきた。
「カトレット先生が辞表をだしたそうだ、漢文の先生は校長を見送ってから辞職するそうだ」
このうわさはますます一同の神経をいらだたせた。
「学校を焼いてしまえ」
だれいうとなくこの声が非常な力をもって伝播した。
「しずかにしたまえ、諸君、決して軽々しいことをしてくれるな」
小原は血眼になって叫びまわった、とこのとき三年生は調神社に集まって何事かを計画しているといううわさがたった。
「いってみる」と小原はいった。「柳君、しばらくたのむぜ」
かれはげたをぬぎすててはだしになった、そうしてはかまを高くかかげて走りだした。
この熱烈な小原の誠意に何人も感歎せぬものはなかった。
「おれもゆく」
「おれも……」
後藤という投手と浜井という三塁手はすぐにつづいた。
「学校の体面を思えばこそ小原も浜井も後藤もあのとおりに奔走してるんだ、諸君はどう思うか」
柳がこういったとき一同は沈黙した。
「ああありがたいものは先輩だ」と柳はつくづく感じた。
ものの二十分とたたぬうちに町のあなたにさっと土ほこりがたった。大通りの曲がり角から三年生の一隊があらわれた、かれらはちょうど送葬の人のごとくうちしおれてだまっていた、そのまっさきに木俣ライオンが長い旗ざおをになっていた、旗には「浦和に正義なし」と大書せるものがあったが、小原の強硬な忠告によってそれをまくことにした、かれらはいずれもいずれも暗涙にむせんで歯をくいしばっていた。
「たのむぞ木俣、なあおい」
小原はライオンの肩をたたいてしきりになだめると、木俣はもうねこのごとく柔順になって、おわりにはひとり群をはなれて人陰でないていた。
純粋無垢な鏡のごとき青年、澄徹清水のごとき学生! それは神武以来任侠の熱血をもって名ある関東男児のとうとき伝統である。この伝統を無視して正義を迫害した政党者流に対する公憤は神のごとき学生の胸に勃発した。
かかるさわぎがあろうとは夢にも思わなかった久保井校長は、五人の子と夫人と、女中とそれから八十にあまるひとりの老母と共にあらわれた。
「やあ、これは……」
かれは両側に整列した生徒を見やって立ちどまった。生徒はひとりとして顔をあげ得なかった、水々とした黒い頭、生気のみなぎる首筋が、糸を引いたようにまっすぐにならぶ、そのわかやかな胸には万斛の血が高波をおどらしている。
校長はほっとして立ちどまったまま動かない。かれはなにかいおうとしたが涙がのどにつまっていえなかった。かれは全校生徒がかくまで自分を慕ってくれるとは思わなかった。
生徒はやはりなんにもいわなかった。かれらはこの厳粛な刹那において、校長と自分の霊魂がふれあったような気がした。
「ありがとう、どうもありがとう」
校長の口からこういう低い声がもれた。実際校長の心持ちは千万言を費やすよりもありがとうの一語につきているのであった、かれはいま九百の青少年から人間としてもっとも美しい精霊を感受することができたのであった。
かれはこういってから老母の手をとってなにやらささやいた。老母は雪のような白髪頭をまっすぐに起こして一同を見まわした、その気高くきざんだ顔のしわじわが波のようにふるえると、あわててハンケチをふところからだして顔にあてた。
こらえこらえた悲しみは大河の決するごとく場内にあふれだした。ライオンはおどりでて叫んだ。
「やれッ」
一同は校歌をうたいだした。
いつ先生が汽車に乗ったか、乗ったときにどんな風であったか、それをつまびらかに知ってるものはなかった、一同がプラットホームへ流れでたときにはや汽車が動きだした。
「久保井先生万歳」
熱狂の声が怒濤のごとく起こった。
窓から半身をだした校長の顔はわかやかに輝いた。かれは両手を高くあげて声のあらんかぎりに叫んだ。
「浦和中学バンザアイ」
「久保井先生バンザアイ」
もう汽車は見えなくなった、生徒はぞろりぞろりと力なく停車場をでた。
ちょうど汽車が動きだしたとき、ひとりの少年が大急ぎでやってきた、改札口が閉鎖されたのでかれはさくを乗り越えようとした。
「いけません」
駅員はかれをつきとばした。かれはよろよろと倒れそうになって泳ぐように五、六歩しざった、そうしてやっと壁に身体をもたらして呼吸をきらしながらだまった、その片手は繃帯にまかれて首からつられてある。彼の胸があらわになったときその胸元もまた繃帯されてあるのが見えた。
かれはだまって便所と倉庫らしい建物のあいだへでた、そこには焼きくいの柵が結われてある、かれはそこに立って片ひじを柵においた、青黒い病人じみた顔は目ばかり光って見えた、帯がとけかけたのも、ぞうりのはなおが切れたのもいっさいかれは気がつかぬもののごとく汽車を見つめていた。
万歳万歳の声と共に校長の顔があらわれたときかれはじっと目を校長に据えた。かれの胸はふるえかれの口元は悲痛と悔恨にゆるみ、そうしてかれの目から大粒の涙がこぼれた。
かれは阪井巌である。
汽車が見えなくなったときかれはようやくさくをはなれて長い溜め息をついた。それからじっと大通りの方を見やった。そこには学校の友達が波のくずれるごとく、帰りゆく、阪井は顔をたれてしずかに歩いた。
とだれかの声がした。
「生蕃がいる」
「阪井のやつがきている」
少年達の目は一度に阪井にそそがれた、阪井は棒のごとく立ちすくんだ。
「やい生蕃」
まっさきにつめよったのはライオンであった。
「やい」
阪井はだまっている。
「きさまはなにしにきた」
「久保井先生に用事があってきたよ」と阪井はやはり顔もあげずにいった。
「きさまは久保井先生を学校からおいだしたんじゃないか、どの面さげてやってきたんだ」
「…………」
「おい、犬でも畜生でも恩は知ってるよ、おれはずいぶん不良だが校長先生の恩だけは知ってるんだ、きさまは先生をおいだした、犬畜生にもおとるやつだ」
「…………」
「きさまのようなやつはくたばってしまやがれ、きさまのようなやつがいるのは浦和の恥辱だぞ、どうだ諸君、こいつを打ち殺そうか」
「やっちまえやっちまえ」と声々が叫んだ。かれらはいま五分前に先生と悲しい別れをした、満々たる憤怒と悲痛はもらすこともできずに胸の中でうずまいている、なにかの刺激あれば爆発せずにいられないほど血潮がわき立っている。それらの炎々たる炎はすべて阪井の上に燃えうつった。
「やれやれ」
「制裁制裁」
激昂した声は刻一刻に猛烈になった。人々は潮のごとく阪井に向かって突進した。
「なぐってくれ!」
いままで罪人のごとく沈黙していた阪井はなんともいえぬ悲痛な顔をして、押しよせくる学友の前に決然と進みでた、そうしてぴたりと大地に座った。
「おれはあやまりにきたんだ、おれは先生にあやまりにきたんだ、おれはおまえ達に殺されれば本望だ、さあ殺してくれ、おれは……おれは……犬にちがいない、畜生にちがいない……」
繃帯を首からつった片手をそのままに、片手は大地について首をさしのべた、火事場のあとをそのままの髪の毛はところどころ焼けちぢれている、かれは眉毛一つも動かさない。
「あやまりにきたとぬかしやがる、弱いやつだ、さあ覚悟しろ」
ライオンはほうばのげたのまま、かれの眉間をはたとけった。阪井はぐっと頭をそらして倒れそうになったがじっと姿勢をもどして片手を大地からはなさない。
「畜生!」
「ばかやろう!」
「恩知らず」声々がわいた。
「なぐるのは手のけがれだ、つばをはきかけてやれ」
とだれかがいった。つばの雨がかれの顔となく首となく背中となく降りそそいだ。
「ばかやろう!」
最後に手塚がつばをはきかけた。
「手塚、おまえまでが」
巌はじっと手塚を見詰めたので手塚は人中へかくれた。
「さあ帰ろう」とライオンがいった。「最後にのぞんで足であいつの頭をなでてやろう、さあみんな一緒だぞ、一! 二! 三!」
げたの乱箭が飛ぶかと思う一刹那。
「待ってくれ」
はらわたをえぐるような声と共に柳は巌の身体の上にかぶさった。
「待ってくれ、阪井は火傷をしてるんだ、あやまりにきたものをなぐるって法があるか、火傷をしてるものを撲るって法があるか」
つるが病むときには友のつるが翼をひろげて五体を温めてやる、ちょうどそのように柳はどろやつばによごれた阪井の全身をその胸の下に包み、きっと顔をあげて瞋恚に燃ゆる数十の目を見あげた、その目には友情の至誠が輝き、その口元にはおかすべからざる勇気があふれた。
「なぜ阪井をなぐるか、なぐったところで校長がふたたび帰ってきやしない、今日はぼくらが泣きたい日なんだ、先生にわかれて一日泣くべき日なんだ、人をなぐるべき日ではない、阪井だって……阪井だって……先生を見送りにきたんじゃないか、……諸君、帰ってくれたまえ、なあ阪井君も帰れよ、諸君帰ってくれ、阪井帰れよ、諸君……阪井……」
柳はまっさおになって歎願するように一同にいった。もうだれも手をくだそうとするものもなかった。かれらは凱歌をあげた、そうしてげたをひきずりひきずりがらがら引きあげた。
あとに残った柳は、屈辱と悲憤にむせんでいる阪井の頭や背中のどろやつばをふいてやった。
「さあいこう」
阪井はだまっている。
「どこかいたいか、えっ? 歩けないか」
阪井はやはりだまっている。
「さあいこう、ねえ、みっともないじゃないか、車でも呼ぼうか」
手を取ってたすけ起こそうとする柳の手をぐっとにぎって阪井は目をかっとあいた。
「柳、ゆるしてくれ」
「なにをいうんだ、過去のことはおたがいにわすれよう」
「おれはおまえに悪いことばかりした、それだのにおまえは二度ともおれを救うてくれた」
「そんなことはどうでもいいよ、さあいこう」
柳は阪井を強いて立たした、ふたりはだまって裏通りへでた。
「おれはなあ柳」
阪井は感慨に堪えぬもののごとくいった。
「おれは今日から生まれかわるんだぞ」
「どうしてだ」
「おれが今までよいと思っていたことはすべて悪いことなんだ、それがわかったよ」
「それはどういうことだ」
「どういうことっておまえ、すべてだよ、すべてだ、なにもかもおれは悪いことをして悪いと思わなかったのだ、親父はおれになんでも学校で一番強い人間になれというだろう、だからおれは喧嘩をした、活動を見ると人を斬ったり賭博をしたりするのが侠客だという人だ、だからおれはそれをまねて見たんだ、だがそれは間違ってるね、悪いことをして人よりえらくなろうというのは泥棒して金持ちになろうとするのと同じものだね、そう思わないか」
「そうだとも」
「だからさ……」
阪井はこういったとき、傷がいたむので眉をひそめた。
「君の家まで送ってゆこう」と柳はいった。
「かまわない、もう少し歩こう」
阪井はふたたびなにかいいつづけようとしたが急に口をつぐんで悲しそうな顔をした。
「車に乗れよ」
「何でもないよ……ねえ柳、ぼくはおまえにききたいことがあるんだが」
「なんだ」
「一年のとき、重盛の諫言を読んだね」
「ああ、忠孝両道のところだろう」
「うん、君に忠ならんとすれば親に孝ならず、重盛はかわいそうだね」
「ああ」
「清盛は悪いやつだね」
「ああ」
「重盛がいくらいさめても清盛が改心しなかったのだね」
「ああ」
「それで重盛はどうしたろう」
「熊野の神様に死を祈ったじゃないか」
「そうだ、死を祈った、なぜ死のうとしたんだろう」
「忠孝両道をまっとうできないからさ」
「困ったから死のうというんだね」
「ああ」
「ではおまえ」
阪井の語気はあらかった。
「困るときに死んでしまえばいいのかえ」
「それが問題だよ」
「なにが?」
「自分だけ楽をすればあとはどうなってもかまわないというのは卑怯だからね」
「じゃ重盛は卑怯かえ」
「理論からいうと、そうなるよ、しかし重盛だってよくよく考えたろうと思うよ」
「そうかね」
阪井は長大息をした。かれはだまって歩きつづけた。そうしてやがてしずかにいった。
「清盛が改心するまで重盛が生きていなければならなかったね」
「さあぼくにはわからないが」
「ぼくにはわかってるよ、わかってるとも、そうでなかったら無責任だ」
柳は阪井を家まで送ってわが家へ帰ってくると途中で手塚に逢った。
「やあ、いま、きみのところへいこうと思ってきたんだよ」
「そうか」
柳は手塚の行為について少なからぬ悪感をもっていたのできわめて冷淡に答えた。
「生蕃はどうした」
「帰ったよ」
「きゃつ、ぼくのことをおこっていたろう」
「どうだか知らんよ、だがおこっているだろうさ、いままできみと阪井とは一番親しかったんだろう、それをきみがみんなと一緒になってつばをはきかけたんだからね」
「だってあいつは悪徒だからさ」
「きみほど悪徒ではないよ」
柳は思わずこういった。手塚はさっと顔をあからめたがそれは憤慨のためではなかった。かれは柳に肚の中を見みすかされたのがはずかしかったのである。だがこのくらいの侮辱はかれに取っては耳なれている。かれはぬすむように柳の顔を見やって、
「きみ、活動へゆかないか」
「いやだ」
「クララ・キンポールヤングすてきだぜ」
「それはなんだ、西洋のこじきか」
「ははははきみはクラちゃんを知らないのかえ」
「知らないよ」
「話せねえな、一遍見たまえ、ぼくがおごるから」
「活動というものはね、きみのようなやつが見て喜ぶものだよ」
さすがに手塚は目をぱちくりさせて言葉がでなかった。だがこのくらいのことにひるむような手塚ではない。かれはこびるような目をむけていった。
「きみ、ぼくのカナリアが子をかえしたからあげようね」
「いらないよ」
「じゃね、きみは犬を好きだろう、ぼくのポインターをあげようね」
「ぼくの家にもポインターがいるよ」
「そうだね」
手塚はひどく当惑してだまったが、もうこらえきれずにいった。
「きみは生蕃が好きになったのか」
「もとから好きだよ」
「だってあいつはきみを負傷させたじゃないか」
「喧嘩はおたがいだ、生蕃は男らしいところがあるよ」
「じゃ失敬」
「失敬」二人は冷然とわかれた。
光一に送られた巌は家へはいるやいなやわが室へころがりこんだ。いままでこらえこらえた腹だたしさと悲しさと全身のいたみが、急にひしひしとせまってくる。かれは畳にころりと倒れたまま天井を見つめて深い考えにしずんだ。
かれの頭の中には停車場前において学友に打たれなぐられつばをはきかけられた光景が浮かんだ。げたで踏まれたひたいのこぶがしくしく痛みだす。がかれはそれよりも痛いのは胸の底を刺されるような大なる傷であった。
父の不正! 校長の転任! 学友の反感! 数えきたればすべての非はわれにある。
「巌、どこへいってたの?」
母は心配そうにかれの室をのぞいた。巌は答えなかった。
「おなかがすいたろう。ご飯を食べない?」
「ほしくありません」
「火傷がなおらないうちに外へ出歩いてはいけないよ、おや、ひたいをどうしたんです」
「なんでもありません」
「また喧嘩かえ」
「あちらへいっててください」と巌はかみつくようにいった。
「なにをそんなにおこってるんです」
母はきっと目をすえた。その目には不安の色が浮かび、口元には慈愛が満ちている。
「なんでもいいです」
「なにか気にさわることがあるならおいいなさい」
「あちらへいってくださいというに」
母はしおしおとでていった。巌は起きあがって母の後ろ姿を見やった。なんともいいようのない悲しみが一ぱいになる。お母さんにはあんな乱暴な言葉を使うんじゃなかったという後悔がむらむらとでてくる。
「どうしようか」
実際かれは進退にまようた。いままで神のごとく尊敬していた父は悪人なのだ。この失望はかれの単純な自尊心を谷底へ突き落としてしまった。かれにはまったく光がなくなった。
死んでしまおうか。
いや! 平重盛はばかだ。
二つの心持ちが惑乱して脳の底が重たくだるくなった。かれはじっと机の上を見た。そこに友達から借りた漢文の本がひらいたまま載っている。
「周処三害」
支那に周処という不良少年があった。喧嘩はする。強奪はする。村の者をいじめる、田畑をあらす、どうもこうもしようのない悪者であった。あるときかれの母が大変ふさぎこんでいるのを見てかれはこうきいた。
「お母さんなにかご心配があるのですか」
「ああ、私はもう心配で死にそうだ」と母がいった。
「なにがそんなにご心配なのですか」
「この村に三害といって三つの害物がある。そのために私も村の人も毎日毎日心配している」
「三害とは何ですか」
「南山に白額のとらが出でて村の人をくらう、長橋の下に赤竜がでて村の人をくらう、いま一つは……」
こういって母は周処の顔を見やった。
「いま一つはなんですか」
「おまえだ、おまえがわるいことをして村の害をなす、とらとりゅうとおまえがこの村の三害だ」
この話を聞いた周処は俄然としてさとった。
「お母さん、ご安心なさい、ぼくは三害をのぞきましょう」
周処は南山へ行って白虎を殺し、長橋へいって赤竜を殺し、自分は品行を正しくして村のために善事をつくした。ここにおいてこの村は太平和楽になった。
巌は読むともなしにそれを読んだ。突然かれの頭に透明な光がさしこんだ。かれは呼吸もつかずにもう一度読んだ。
「三害を除こう、おれは男だ」かれはこう叫んだ。
「おれに悪いところがあるならおれが改めればいい、お父様に悪いところがあるならおれがいさめて改めさせればいい、ふたりが善人になればこの町はよくなるのだ、南山にとらをうちにゆく必要もなければ長橋にりゅうをほふりにゆく必要もない、第一の害はおれだ、おれを改めて父を改める、それでいいのだ」
かれは立って室を一周した、得もいえぬ勇気は全身にみなぎって歓喜の声をあげて高く叫びたくなった。
かれは窓を開いて外を見やった、すずしい風が庭の若葉をふいてすだれがさらさらと動いた、木々の緑はめざめるようにあざやかである。
「豆腐イ……」
らっぱの音と交代にチビ公の声が聞こえる。
「チビ公だ」かれは伸びあがってへいの外を見やった。
「とうふい――」
暑い日光をものともせず、大きなおけをにのうてゆくチビ公のすげ笠がわずかに見える。
「おれはあいつにあやまらなきゃならない」巌は脱兎のごとくはだしのままで外へでた。そうして突然チビ公の前に立ちふさがった。
「青木! おい、堪忍してくれ、なあおいおれは悪かった、おれは今日から三害を除くんだ」
七
お宮のいちょうが黄色になればあぜにはすすき、水引き、たでの花、露草などが薄日をたよりにさきみだれて、その下をゆくちょろちょろ水の音に秋が深くなりゆく。
役場の火事については町の人はなにもいわなくなった、阪井猛太は助役をやめてせがれの巌と共に川越の方へうつった、中学校には新しい校長がきた。浦和の町は太平である。
チビ公はやはり一日も休まずに豆腐を売りまわった、それでも一家のまずしさは以前とかわりがなかった、かれは毎日らっぱをふいて町々を歩いているうちにいくどとなく昔の小学校友達にあうのである、中には光一のようにやさしい言葉をかけてくれるものもあるが、多くは顔をそむけて通るのである。チビ公としても先方の体面をはばかってそしらぬ顔をせねばならぬこともあった、とくにかれの心を悲しませるものは小学校時代にいつも先生にしかられていた不成績の子が、りっぱな中学生の服装で雑嚢を肩にかけ徽章のついた帽子を輝かして行くのを見たときである。
「金持ちの家に生まれれば出来ない子でも大学までいける、貧乏人の子は学校へもいけない、かれらが学士になり博士になるときにもおれはやはり豆腐屋でいるだろう」
こう思うとなさけないような気が胸一ぱいになる。
「学校へいきたいな」
かれの帰り道は県庁の横手の小川の堤である、かれは堤の露草をふみふみぐったりと顔をたれて同じことをくりかえしくりかえし考えるのであった。
ときとしてかれは師範学校の裏手を通る、寄宿舎には灯影が並んでおりおりわかやかな唱歌の声が聞こえる。
「官費でいいから学校へゆきたい」
こうも考える、だがかれはすぐそれをうちけす。かれの目の前に伯父覚平の老顔がありありと見えるのである。
「おれが働かなきゃ、みなが食べていけない」
そこでかれは夕闇に残る西雲の微明に向かってらっぱをふく。らっぱの音は遠くの森にひびき、近くのわらやねに反響してわが胸に悲しい思いをうちかえす。
ある日伯父の覚平は突然かれにこういった。
「千三、おまえ学校へゆきたいだろうな」
「いいえ」とチビ公は答えた。
「おれだっておめえを豆腐屋にしたくないんだ、なあ千三、そのうちになんとかするから辛抱してくれ、そのかわりに夜学へいったらどうか、昼のつかれで眠たかろうが、一心にやればやれないこともなかろう」
「夜学にいってもいいんですか」
千三の目は喜びに輝いた。
「夜学だけならかまわないよ、お宮の近くに夜学の先生があるだろう」
「黙々先生ですか」
「うむ、かわり者だがなかなかえらい人だって評判だよ」
「こわいな」と千三は思わずいった。黙々先生といえば本名の篠原浩蔵をいわなくとも浦和の人はだれでも知っている。先生はいま五十五、六歳、まだ老人という歳でもないが、頭とひげは雪のように白くそれと共に左の眉に二寸ばかり長い毛が一本つきでている、おこるときにはこの長い毛が上に動き、わらうときには下にたれる、町の人はこの毛をもって先生の機嫌のバロメーターにしている。
先生の履歴について町の人はくわしく知らなかった、ある人はかつて文部省の参事官であったといい、ある人は地方の長官であったといい、ある人はまた馬賊の頭目であったともいう、真偽はわからぬがかれは熊谷の豪族の子孫であることだけはあきらかであり、また帝国大学初期の卒業者であることもあきらかである、なんのために官職を辞して浦和に帰臥したのか、それらの点についてはかれは一度も人に語ったことはない。
かれが浦和に帰ったのは十年前である、そのときは独身であったが人のすすめによって後妻を迎えた、だがかれは朝から晩まで家にあるときには読書ばかりしている、妻がなにをいっても「うんうん」とうなずくばかりでなにもいわない。で妻はかれに詰問した。
「あなたなにかいってください」
「うん」
「うんだけではいけません」
「うん」
「あなたはなにもおっしゃることがないんですか」
「うん」
「なにか用事があるでしょう」
「うん」
「ご飯はどうなさるの?」
「うん」
「めしあがらないんですか」
「うん」
妻はあきれて三日目に離縁した。かれはその小さな軒に英漢数教授という看板をだした。妻にものをいわない人だから生徒に対しても、ものをいわないだろうと人々はあやぶんだが、一旦講義にとりかかるとまったくそれと反対であった。
最初の一、二年は生徒が少なかったが、年を経るにしたがって次第に増加した。かれには月謝の制定がない、五円もあれば五十銭もある、米や豆やいもなどを持ってくるものもある、独身の先生だからだというので魚を贈る人がいたって少ない、そこで先生はおりおり一竿を肩にして河へつりにゆく、一尾のふなもつれないときには町で魚を買ってそのあぎとをはりにつらぬき揚々として肩に荷うて帰る、ときにはあじ、ときにはいわし、時にはたこ、ときには塩ざけの切り身!
「先生! つれましたか?」と人が問えば先生は軽く答える。
「うん」
「はりにひっかかってるのはかまぼこじゃありませんか」
「かまぼこは魚なり」
千三は子どものときからなんとなく黙々先生がこわかった。しかしかれとして学問をするにはこの私塾より他にはない。
翌日千三は夕飯をすまして黙々先生をたずねた、そこにはもう五、六の学生がいた、それは中学の二年生もあれば五年生もあり、またひげの生えた人もあり、百姓もあれば商家のでっちもある。千三がはいったときちょうど小学校の教師がむずかしい漢文を読んでいた。
「いかんいかん」と先生はどなった。「もっと声を大きくして漢文は朗々として吟ずべきものだ、語尾をはっきりせんのは心が臆しているからだ、聖賢の書を読むになんのやましいところがある、この家がこわれるような声で読め」
教師はまっかな顔をして大きな声で読んだ、先生はだまって聞いていた。
「よしっ、きみは子弟を教育するんだ、とかくに今日の学校は朗読法をないがしろにするきらいがある、大切なことだぜ」
先生はひょろ長いやせた首を伸ばして末座にちぢまっている千三を見おろした。
「きみ、ここへきたまえ」
「はあ」
「きみの名は?」
「青木千三です」
「うむ、なにをやるか」
「英漢数です」
「よしッ、これを読んでみい」
先生は一冊の本を千三の前へ投げだした。それは黒茶色の表紙の着いた日本とじであった。標箋に大学と書いてある。
「これをですか」
千三は中学校一、二年生の国語漢文読本をおそわるつもりであった、いま大学という書を見て急におどろいた。大学という本の名を知ったのもはじめてである。
「うむ」
「どこを読むのですか」
「どこでもいい」
千三は中をひらいた。むずかしい漢字が並んだばかりでどう読んでいいのかわからない。
「読めません」とかれはいった。
「読める字だけ読め」
「湯……曰……日……新……日……日……新又日新」
千三は読める字だけを読んだ、汗がひたいににじんで胸が波のごとくおどる。
「よし、よく読んだ」と先生は微笑して、「その意味はなんだ」
「わかりません」
「考えてみい」
千三は考えこんだ。
「これは毎日毎日お湯へはいって新しくなれというのでしょう」
「えらい!」
先生は思わず叫んだ、そうして千三の顔をじっと見つめながら読みくだした。
「湯の盤の銘に曰く、まことに日に新たにせば日々に新たにし又日に新たにせん……こう読むのだ」
「はあ」
「湯はお湯でない、王様の名だ、盤はたらいだ、たらいに格言をほりつけたのだ、人間は毎日顔を洗い口をすすいでわが身を新たにするごとく、その心をも毎日毎日洗いきよめて新たな気持ちにならなければならん、とこういうのだ、だがきみの解釈は字句において間違いがあるが大体の意義において間違いはない、書を読むに文字を読むものがある、そんなやつは帳面づけや詩人などになるがいい。また文字に拘泥せずにその大意をにぎる人がある、それが本当の活眼をもって活書を読むものだ、よいか、文字を知らないのは決して恥でない、意味を知らないのが恥辱だぞ」
こういって先生はつぎの少年に向かった。
「日本の歴史中に悪い人物はたれか」
いろいろな声が一度にでた。
「弓削道鏡です」
「蘇我入鹿です」
「足利尊氏です」
「源頼朝です」
「頼朝はどうして悪いか」と先生が口をいれた。
「武力をもって皇室の大権をおかしました」
「うん、それから」
武田信玄というものがある。
「信玄はどうして」
「親を幽閉して国をうばいました」
「うん」
「徳川家康!」
「どうして?」
「皇室に無礼を働きました」
「うん、それで、きみらはなにをもって悪い人物、よい人物を区別するか」
「君には不忠、親に不孝なるものは、他にどんなよいことをしても悪い人物です、忠孝の士は他に欠点があってもよい人物です」
「よしッ、それでよい」
先生は、いかにも快然といった、先生の教えるところはつねにこういう風なのであった、先生はどんな事件に対してもかならずはっきりした判断をさせるのであった、たとえそれが間違いであっても、それを臆面なく告白すれば先生が喜ぶ。
千三はその日から毎夜先生のもとへ通うた、先生はまた地理と歴史の関係をもっとも精密に教えてくれた、それは普通の中学校ではきわめてゆるがせにしていることであった、中学校では地理の先生と歴史の先生とべつな人であるのが多い、そのために密接な二つの関係が分離されてしまうが、黙々先生は歴史の進行とともに地理を展開させた、神武以来大和は発祥の地になっている、そこで先生は大和の地理を教える、同時に大和に活躍した人物の伝記や逸話等を教える。学生の頭にはその人とその地とその時代が深くきざまれる。先生は代数や幾何を教えるにもすべてその方法で、決してまわりくどい術語を用いたり、強いて頭を混惑させるような問題を提供したりしなかった。その英語のごときもいちいち漢文の文法と対照した、そのために生徒は英漢の文法を一度に知ることができた。
先生はいかなる場合にも虚偽と臆病をきらった。臆病は虚偽の基である、かれは講義をなしつつあるあいだに突然こういうときがある。
「眠い人があるか」
「あります」と千三が手をあげた。
「庭に出て水をあびてこい」
先生は千三の正直が気にいった。
冬がきた、正月も間近になる、せめて母に新しく綿のはいったもの一枚でも着せてやりたい、こういう考えから千三は一生懸命に働いた、しかも通学は一晩も休まなかった、かれは先生の家をでるとすぐぐらぐら眠りながら家へ帰る夜が多かった。
と、災厄はつぎからつぎへと起こる、ある夜かれが家へ帰ると母が麻糸つなぎをやっていた、いくらにもならないのだが、彼女はいくらかでも働かねば正月を迎えることができないのであった。
「ただいま」
千三は勢いよく声をかけた。
「お帰り、寒かったろう」と母は火鉢の火をかきたてた、灰の中にはわずかにほたるのような光が見えた、外はひゅうひゅう風がうなっている。
「寒いなあ」と千三は思わずいった。
「お待ちよ。いま消し炭を持ってくるから」
母は麻糸をかたよせてたとうとした。
「おや」
母は立てなかった。
「おや」
母はふたたびいって立とうとしたが顔がさっと青くなって後ろに倒れた。
「お母さん」
千三はだき起こそうとした。母の目は上の方へつった。
「お母さん」
声におどろいて伯父夫婦が起きてきた。千三は早速手塚医師のもとへかけつけた。元来かれは手塚のもとへいくのを好まなかった、しかし火急の場合、他へ走ることもできなかった。
粉雪まじりの師走の風が電線にうなっていた、町はもう寝しずまって、風呂屋から流れてくる下水の湯気がどぶ板のすきまから、もやもやといてついた地面をはっていた。
「今晩は……今晩は……」
千三は手塚の門をたたいた。
音がない。
「今晩は!」
かれは声をかぎりに呼び力をかぎりにたたいた。奥にはまだ人の声がする。
「どうしたんだろう」
千三は手塚なる医者が金持ちには幇間のごとくちやほやするが、貧乏人にはきわめて冷淡だという人のうわさを思いだした、それと同時にこの深夜に来診を請うと、ずいぶん少なからぬお礼をださねばなるまいが、それもできずにむやみと門をたたくのはいかにも厚かましいことだと考えたりした。
やっとのことで書生の声がした。
「どなた?」
「豆腐屋の青木ですが、母が急病ですからどうかちょっとおいでを願いたいんです」
「はああ――」とみょうに気のぬけた返事が聞こえた。「豆腐屋の……青木?」
「はい」
「先生は風邪気でおやすみですから……どうですかうかがってみましょう」
「どうぞお願いします、急病ですから」
千三は暗い門前でしずかに耳をそばだてた、奥で碁石をくずす音がちゃらちゃらと聞こえる。
「なんだ、碁を打ってるのにおやすみだなんて」
こう千三は思った。とふたたび小さな窓が開いた。
「ただいま伺います」
「ありがとうございます」と千三は思わず大きな声でいった。
「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」
千三は一足先に家へ帰った、母はまだ正体がない。
「冷えたんだから足をあたためるがいい」
こう伯父がいった。伯母はただうろうろして仏壇に灯をともしたりしている、千三はすぐ火をおこしかけた。そこへ車の音がした。
「どうもごくろうさまで……どうぞ」
くぐりの戸をはいってきたのは手塚医師でなくて代診の森という男である。この森というのは、ずいぶん古くから手塚の薬局にいるが、代診として患者を往診した事はきわめてまれである、千三はいつも森が白い薬局服を着て往来でキャッチボールをやってるのを見ているのではなはだおぼつかなく思った。
「先生が風邪気なんで……」
森はこういってずんずん奥へあがりこんだ、かれはその外套と帽子を車夫にわたした、それから眼鏡をちょっと鼻の上へせりあげて病人を見やった。
「どんなに悪いんですか、ああん?」
かれはお美代の腕をとって脈をしらべた。それから発病の模様を聞きながら聴診器を胸にあてたり、眼瞼をひっくりかえしてみたりした、その態度はいかにもおちつきはらっている。これがおりおり玄関で手塚と腕押しをしたりしゃちほこ立ちをしたり、近所の子どもをからかったりする人とは思えない。門口で車夫がしきりにせきばらいをしている、それは「寒くてたまらないからいい加減にして帰ってくれ」というかのごとく見えた。
「はあん……これは脳貧血ですな、ああん、たいしたことはありません、頭寒足熱ですかな、足をあたためて頭をひやして安眠させるといいです、ああん、薬は散薬と水薬……ああん、すぐでよろしい」
かれはこういって先生から借りて来た鞄を取り上げて室を出た。
「おい、幸吉!」
幸吉とは車夫の名である、かれはいつも朝と晩に尻はしょりをして幸吉とふたりで門前に水をまいているのである。書生と車夫は同じくこれ奉公人仲間、いわば同階級である。それがいま傲然と呼び捨てにされたので幸吉たるもの胸中いささかおだやかでない、かれはだまって答えなかった。
「おい幸吉! なにをしとるかッ、ああん」
「早くゆきましょうよ森さん」と幸吉は業腹まぎれにいった。
「こらッ外套と帽子をおくれ、ああん」
森は外へ出た、車の走る音が聞こえた、寒さは寒し不平は不平なり、おそらく幸吉、車もくつがえれとばかり走ったことであろう。
車におくれじと千三も走った、かれが医者の玄関に着いたとき、奥ではやはり囲碁の音が聞こえていた。
母の病状はそれ以上に進まなかった。が、さりとて床をでることはできなかった。
「明日になったら起きられるだろう」
こう母はいった、だが翌日も起きられなかった。病弱な彼女が寒さをおかして毎日毎夜内職を働いたその疲れがつもりつもって脳におよんだのである。千三は豆腐をかついで町まわりの帰りしなに手塚の家へよって薬をもらうのであった、最初薬は二日分ずつであったが、母のお美代はそれをこばんだ。
「じきになおるから、一日分ずつでいい、二日分もらっても無駄になるから」
これはいかにも道理ある言葉であった、どういうわけか医者は二日分ずつの薬をくれる、それも一つはかならず胃の薬である、金持ちの家は薬代にも困らぬが、まずしき家では一日分の薬価は一日分の米代に相当する。お美代は毎日薬を飲むたびにもったいないといった。
ある日千三は帰って母にこういった。
「お母さん、手塚の家の天井は格子になって一つ一つに絵を貼ってあります、絹にかいたきれいな絵!」
「あれを見たかえ」と母は病いにおとろえた目を向けてさびしくいった。「あれは応接室だったんです、お父さんが支那風が好きだったから」
「そう?」
「あの隣の室のもう一つ隣の室は茶室風でおまえがそこで生まれたのです、萩の天井です、床の間には……」
母の声はハタとやんだ、彼女は目をうっとりさせて昔その夫が世にありしときの全盛な生活を回想したのであった。
「あのときには女中が五人、書生が三人……」
睫毛を伝うて玉の露がほろりとこぼれる。
「お母さん! つまらないことをいうのはよしてください、ぼくはいまにあれ以上の家を建ててあげます」
「そうそう、そうだね」
母はさびしくわらった、千三はたまらなく苦しくなった、いままで胸の底におさえつけておいた憂欝がむらむらと雲のごとくわいた。かれは薬をもらいに医者の家へゆく、支那風の天井の下に小さく座っていると例の憂欝がひしひしとせまってくる。
「ああここがおれの生まれたところなんだ、おれが生まれたときに手塚の親父がぺこぺこ頭をさげて見舞いにきたんだ、それがいまそいつに占領されてあべこべにおれの方が頭をさげて薬をもらいにきてる」
ある日かれはこんなことを考えながら門をはいろうとするとそこで代診森君が手塚とキャッチボールをしていた。
「そらこんどはドロップだぞ」
手塚は得意になって球をにぎりかえてモーションをつけた。
「よしきた」
森君はへっぴり腰になって片足を浮かしてかまえた、もし足にあたりそうな球がきたら片足をあげて逃がそうという腹なのである。
「さあこい」
「よしッ」
球は大地をたたいて横の塀を打ちさらにおどりあがって千三の豆腐おけを打ち、ころころとどぶの方へころがった。
「おい豆腐屋! 早く球をとれよ」手塚がさけんだ。
「はッ」
千三はおけをかついだまま球をおっかけた、おけの水はだぶだぶと波をおどらして蓋も包丁も大地に落ちた。
「やあやあ勇敢勇敢」と森君は喝采した、千三は球が石のどぶ端を伝って泥の中へ落ちこもうとするやつをやっとおさえようとした、てんびん棒が土塀にがたんとつきあたったと思うとかれははねかえされて豆腐おけもろとも尻餅をついた。豆腐は魚の如くはねて地上に散った。
「ばかだね、おけを置いて走ればいいんだ、ばかッ」
手塚はこういって自分でどぶどろの中から球をつまみあげ、いきなり千三のおけの中で球を洗った。
「それは困ります」と千三は訴えるようにいった。
「豆腐代を払ったら文句がないだろう」
手塚はわらって奥へひっこんだ。
「待てッ」と千三は呼びとめようとしたがじっと下くちびるをかんだ。
「いま手塚と喧嘩をすれば母の薬をもらうことができなくなる」
かれの目から熱い涙がわきでた。人間の貴重な食料品! そのおけの中にどぶどろにまみれた球をつっこんで洗うなんてあまりの乱暴である。だが貧乏の悲しさ、かれと争うことはできない。
どれだけないたかしれない。かれはもうらっぱをふく力もなくなった。
「おれはだめだ」
かれはこう考えた、どんなに勉強してもやはり金持ちにはかなわない。
「おれと伯父さんは夜の目も寝ずに豆腐を作る、だがそれを食うものは金持ちだ、作ったおれ達の口にはいるのはそのあまりかすのおからだけだ、学問はやめよう」
かれはがっかりして家へ帰った、かれは黙々先生の夜学を休んで早く寝床にはいった。翌朝起きて町へでた。もうかれの考えは全然いままでとかわってしまった。かれは町々のりっぱな商店、会社、銀行それらを見るとそれがすべてのろわしきものとなった。
「あいつらは悪いことをして金をためていばってるんだ、あいつらはおれ達の血と汗をしぼり取る鬼共だ」
その夜も夜学を休んだ、その翌日も……。
「おれがチビだからみんながおれをばかにしてるんだ、おれが貧乏だからみんながおれをばかにしてるんだ」
かれの母はかれが夜学へもいかなくなったのを見て心配そうにたずねた。
「千三、おまえ今夜も休むの?」
「ああ」
「どうしてだ」
「ゆきたくないからゆきません」
かれの声はつっけんどんであった、母は悲しそうな目でかれを見やったなりなにもいわなかった、千三は夜具の中に首をつっこんでから心の中で母にあやまった。
「お母さん堪忍してください、ぼくは自分で自分をどうすることもできないのです」
このすさんだ心持ちが五日も六日もつづいた、とある日かれは夕日に向かってらっぱをふきもてゆくと突然かれの背後からよびとめるものがある。
「おい青木!」
夕方の町は人通りがひんぱんである、あまりに大きな声なので往来の人は立ちどまった。
「おい、青木!」
千三がふりかえるとそれは黙々先生であった、先生は肩につりざおを荷ない、片手に炭だわらをかかえている、たわらの底からいものしっぽがこぼれそうにぶらぶらしている。
「おい、君のおけの上にこれを載せてくれ」
千三はだまって一礼した。先生は炭だわらをおけの上に載せ、そのまま自分の肩を入れて歩きだした。
「先生! ぼくがかついでお宅まで持ってゆきます」
と千三がいった。
「いやかまわん、おれについてこい」
ひょろ長い先生のおけをかついだ影法師が夕日にかっきりと地上に映った。
「きみは病気か」
「いいえ」
「どうしてこない?」
「なんだかいやになりました」
「そうか」
先生はそれについてなにもいわなかった。
黙々先生がいもだわらを載せた豆腐をにない、そのそばに豆腐屋のチビ公がついてゆくのを見て町の人々はみんな笑いだした。ふたりは黙々塾へ着いた。
「はいれ」と先生はてんびんをおろしてからいった。
「はい」
もう日が暮れかけて家の中は薄暗かった、千三はわらじをぬいで縁端に座った。先生はだまって七輪を取りだし、それに粉炭をくべてなべをかけ、七、八本のいもをそのままほうりこんだ。
「洗ってまいりましょうか」
「洗わんほうがうまいぞ」
こういってから先生はふたたび立って書棚を探したがやがて二、三枚の紙つづりを千三の前においた。
「おい、これを見い、わしはきみに見せようと思って書いておいたのだ」
「なんですか」
「きみの先祖からの由緒書きだ」
「はあ」
千三は由緒書きなるものはなんであるかを知らなかった、でかれはそれをひらいた。
「村上天皇の皇子中務卿具平親王」
千三は最初の一段高く記した一行を読んでびっくりした。
「先生なんですか、これは」
「あとを読め」
「右大臣師房卿――後一条天皇のときはじめて源朝臣の姓を賜わる」
「へんなものですね」
先生は七輪の火をふいたので火の粉がぱちぱちと散った。
「――雅家、北畠と号す――北畠親房その子顕家、顕信、顕能の三子と共に南朝無二の忠臣、楠公父子と比肩すべきもの、神皇正統記を著わして皇国の正統をあきらかにす」
「北畠親房を知ってるか」
「よくは知りません、歴史で少しばかり」
「日本第一の忠臣を知らんか、そのあとを読め」
「親房の第二子顕信の子守親、陸奥守に任ぜらる……その孫武蔵に住み相模扇ヶ谷に転ず、上杉家に仕う、上杉家滅ぶるにおよび姓を扇に改め後青木に改む、……青木竜平――長男千三……チビ公と称す、懦弱取るに足らず……」
なべのいもは湯気を立ててふたはおどりあがった。先生はじっと千三の顔を見つめた。
「どうだ」
「先生!」
「きみの父祖は南朝の忠臣だ、きみの血の中に祖先の血が活きてるはずだ、きみの精神のうちに祖先の魂が残ってるはずだ、君は選ばれたる国民だ、大切な身体だ、日本になくてはならない身体だ、そうは思わんか」
「先生!」
「なにもいうことはない、祖先の名をはずかしめないように奮発するか」
「先生」
「それとも生涯豆腐屋でくちはてるか」
「先生! 私は……」
「なにもいうな、さあいもを食ってから返事をしろ」
先生はいものなべをおろした、庭はすでに暮れて落ち葉がさらさらと鳴る、七輪の火が風に吹かれてぱっと燃えあがると白髪白髯の黙々先生の顔とはりさけるようにすずしい目をみひらいた少年の赤い顔とが暗の中に浮きだして見える。
八
黙々先生に系図を見せられたその夜、千三はまんじりともせずに考えこんだ、かれの胸のうちに新しい光がさしこんだ。かれは嬉しくてたまらなかった、なんとも知れぬ勇気がひしひしおどり出す。かれは大きな声をだしてどなりたくなった。
眠らなければ、明日の商売にさわる、かれは足を十分に伸ばし胸一ぱいに呼吸をして一、二、三、四と数えた。そうしてかれはあわいあわい夢に包まれた。
ふと見るとかれはある山路を歩いている。道の両側には桜の老樹が並んでいまをさかりにさきほこっている。
「ああここはどこだろう」
こう思って目をあげると谷をへだてた向こうの山々もことごとく桜である。右も桜左も桜、上も桜下も桜、天地は桜の花にうずもれて白一白、落英繽紛として顔に冷たい。
「ああきれいなところだなあ」
こう思うとたんにしずかに馬蹄の音がどこからとなくきこえる。
「ぱかぱかぱかぱか」
煙のごとくかすむ花の薄絹を透して人馬の行列が見える。にしきのみ旗、にしきのみ輿! その前後をまもるよろい武者! さながらにしき絵のよう。
行列は花の木の間を縫うて薄絹の中から、そろりそろりと現われてくる。
「下に座って下に座って」
声が聞こえるのでわきを見るとひとりの白髪の老翁が大地にひざまずいている。
「おじいさんこれはなんの行列ですか」
こうたずねるとおじいさんは千三の顔をじっと眺めた、それは紙幣で見たことのある武内宿禰に似た顔であった。
「あれはな、後村上天皇がいま行幸になったところだ」
「ああそれじゃここは?」
「吉野だ」
「どうしてここへいらっしったのです」
じいさんは千三をじろりと見やったがその目から涙がぼろぼろこぼれた。一円紙幣がぬれては困ると千三は思った。
「逆臣尊氏に攻められて、天が下御衣の御袖乾く間も在さぬのじゃ」
「それでは……これが……本当の……」
千三は仰天して思わず大地にひざまずいた。このとき行列が静々とお通りになる。
「まっ先にきた小桜縅のよろい着て葦毛の馬に乗り、重籐の弓を持ってたかの切斑の矢を負い、くわ形のかぶとを馬の平首につけたのはあれは楠正行じゃ」
とおじいさんがいった。
「ああそうですか、それと並んで紺青のよろいを着て鉢巻きをしているのはどなたですか」
「あれは正行の従兄弟和田正朝じゃ」
「へえ」
「そら御輿がお通りになる、頭をさげい、ああおやせましましたこと、一天万乗の御君が戦塵にまみれて山また山、谷また谷、北に南に御さすらいなさる。ああおそれ多いことじゃ」
おじいさんは頭を大地につけてないている、千三は涙が目にたまって玉顔を拝むことができなかった。
「御輿の御後に供奉する人はあれは北畠親房じゃ」
「えっ?」
千三は顔をあげた。
赤地にしきの直垂に緋縅のよろい着て、頭に烏帽子をいただき、弓と矢は従者に持たせ、徒歩にて御輿にひたと供奉する三十六、七の男、鼻高く眉秀で、目には誠忠の光を湛え口元には知勇の色を蔵す、威風堂々としてあたりをはらって見える。
千三は呼吸もできなかった。
「いずれも皆忠臣の亀鑑、真の日本男児じゃ、ああこの人達があればこそ日本は万々歳まで滅びないのだ」
こうおじいさんがいったかと思うととっとと走っていく、その早いこと百メートル五秒間ぐらいである。
「待ってくださいおじいさん、お紙幣になるにはまだ早いから」
こういったが聞こえない。おじいさんは桜の中に消えてしまった。
にわかにとどろく軍馬の音! 法螺! 陣太鼓! 銅鑼ぶうぶうどんどん。
向こうの丘に現われた敵軍の大勢! 丸二つ引きの旗をへんぽんとひるがえして落日を後ろに丘の尖端! ぬっくと立った馬上の大将はこれ歴史で見た足利尊氏である。
すわとばかりに正行、正朝、親房の面々屹と御輿を護って賊軍をにらんだ、その目は血走り憤怒の歯噛み、毛髪ことごとく逆立って見える。
「やれやれッ逆賊をたたき殺せ」と千三は叫んだ。
「これ千三、これ」
母の声におどろいて目がさめればこれなん正しく南柯の夢であった。
「どうしたんだい」
「どうもこうもねえや、畜生ッ、足利尊氏の畜生ッ」と千三はまだ夢中である。
「喧嘩の夢でも見たのか、足利の高さんと喧嘩したのかえ」
「なんだって畜生ッ、高慢な面あしやがって、天子様に指でも指してみろ、おれが承知しねえ、豆腐屋だと思って尊氏の畜生ばかにするない」
「千三どうしたのさ、千三」
「お母さんですか」
千三はこういってはじめてわれにかえった。母はじっと千三を見つめた、千三の顔は次第次第にいきいきと輝いた。
「お母さん、ぼくは勉強します」
母はだまっている。
「ぼくは今日先生にぼくのご先祖のことを聞きました。北畠顕家、親房……南朝の忠臣です。その血を受けたぼくはえらくなれない法がありません」
「だけれどもね、このとおり貧乏ではおまえを学校へやることもできずね」
母はほろりとした。
「貧乏でもかまいません。お母さん、顕家親房はほんのはだか身でもって奥州や伊勢や諸所方々で軍を起こして負けては逃げ、逃げてはまた義兵を集め、一日だって休むひまもなく天子様のために働きましたよ、それにくらべると日に三度ずつご飯を食べているぼくなぞはもったいないと思います。ねえお母さん、ぼくはいま夢を見たんです。先祖の親房という人はじつにりっぱな顔でした、ぼくのようにチビではありませんよ、尊氏のほうをきっとにらんだ顔は体中忠義の炎が燃えあがっています。ぼくだって忠臣になれます。ぼくだってね、チビでも忠臣になれないことはないでしょう」
「いい夢を見たね」
母は病みほおけた身体を起こして仏壇に向かっておじぎした。
千三は生まれかわった。翌日からなにを見ても嬉しい。かれは外を歩きながらそればかりを考えている。
「やあ向こうから八百屋の半公がきたな、あれも忠臣にしてやるんだ。おれの旗持ちぐらいだ、ああぶりき屋の浅公、あれは母親の財布をごまかして活動にばかりいくが、あれもなにかに使えるから忠臣にしてやる、やあ酒屋のブルドッグ、あれは馬のかわりにならないから使ってやらない」
黙々先生はチビ公が急に活気づいたのを見てひとりほくほく喜んでいた。
ある日かれはひとりの学生を先生に紹介された。それは昨年第一高等学校に入学した安場五郎という青年である。黙々塾をでて高等学校へはいれたのは安場ひとりきりである。先生は安場が好きであった。色が赤黒く顔は七輪に似て、ようかん色になった制服を着て腰にてぬぐいをさげ、帽子はこけ色になっている。かれは一年のあいだに身体がめきめきと発達したので制服の腕や胴は身体の肉がはちきれそうに見える。かれは代書人の息子である。かれは東京から家へ帰るとすぐ黙々先生のご機嫌うかがいにくる。
「先生ただいま」
「うむ帰ったか」
先生は注意深くかれの一挙一動を見る。
「学校はどうだ」
まず学校のようすをきき、それから友達のことをきく。
「どんな友達ができたか」
「あんこうというやつがあります。口がおそろしく大きいんでりんごを皮ごと二口で食ってしまいます。それからフンプンというやつがあります。これは一年に一ぺんもさるまたを洗濯しませんから、いつでもフンプンとしています。それからまむしというやつ、これは生きたへびを頭からかじります」
「ふん、勇敢だな」
先生はにこにこする。
「この三人はみんなできるやつです。頭がおそろしくいいやつです、三人とも政治をやるといってます」
「たのもしいな、きみとどうだ」
「ぼくよりえらいやつです」
「そうか」
先生が一番注意をはらうのは友達のことである。かれはそのまむしやフンプンやあんこうがどんな話をしてどんな遊びをしてどんな本を読んでるかまでくわしくきいた。
「活動を見るか」
「さかんに見ましたが、あれは非常に下卑たものだとわかったからこのごろは見ません」
「それがいい」
先生は安場がいつも友達の自慢をするのをすこぶる嬉しそうに聞いていた。人の悪口をいったり、自慢をいったりするのは先生のもっともこのまざるところであった。
安場は実際先生思いであった。かれは帰省中には毎朝かならず先生をたずねて水をくみ飯をたき夜の掃除をした。先生は外へ出ると安場の自慢ばかりいう。
「あいつはいまに大きなものになる」
先生はわずかばかりの汽車賃があればそっと東京へ出て一高を視察にでかける、そうして安場がどんな生活をしているかを人知れず監視するのであった。そのくせかれは安場に向かっては一度もほめたことはない。
「きみは英雄をなんと思うか」
「英雄は歴史の花です」と安場は即座に答える。
「カアライルをまねてはいかん。英雄は花じゃない、実である。もし花であるならそれは泛々たる軽薄の徒といわなきゃならん。名誉、物質欲、それらをもって目的とするものは真の英雄とはいえないぞ、いいか。英雄は人類の中心点である、そうだ、中心点だ、車の軸だ、国家を支える大黒柱だ、ギリシャの神話にアトラス山は天が墜ちるのを支えている山としてある。天がおちるのを支えるのは英雄だ、花だなんてそんな浮わついた考えではまだ語るにたらん。もっと修養しろ馬鹿ッ」
すべてこういう風である、どんなにばかといわれても安場はそれを喜んでいた。
「先生はありがたいな」
かれはいつもこういった。かれとチビ公はすぐに親友になった。おりおりふたりは郊外へでて長い長い堤の上を散歩した。寒い寒い風がひゅうひゅう野面をふく、かれあしはざわざわ鳴って雲が低くたれる、安場は平気である。かれは高い堤に立って胸一ぱいにはって高らかに歌う。
ああ玉杯に花うけて、緑酒に月の影やどし、
治安の夢にふけりたる、栄華の巷低く見て、
向ヶ岡にそそり立つ、
五寮の健児意気高し。……
バリトンの声であるが、量は豊かに力がみちている。それは遠くの森に反響し、近くの野面をわたり、べきべきたる落雲を破って、天と地との広大無辺な間隙を一ぱいにふるわす、チビ公はだまってそれを聞いていると、体内の血が躍々と跳るような気がする。自由豪放な青春の気はその疲れた肉体や、衰えた精神に金蛇銀蛇の赫耀たる光をあたえる。治安の夢にふけりたる、栄華の巷低く見て、
向ヶ岡にそそり立つ、
五寮の健児意気高し。……
「もっとやってくれ」とかれはいう。
「うむ、よしッ」
安場は七輪のような顔をぐっと屹立させると同時に鼻穴をぱっと大きくする、とすぐいのししのようにあらい呼吸をぷうとふく。
ふようの雪の精をとり、芳野の花の華をうばい、
清き心のますらおが、剣と筆とをとり持ちて、
一たび起たば何事か、
人生の偉業成らざらん。
うたっていくうちにかれの顔はますます黒く赤らみ、その目は輝き、わが校を愛する熱情と永遠の理想と現在力学の勇気と、すべての高邁な不撓な奮闘的な気魄があらしのごとく突出してくる。チビ公は涙をたれた。清き心のますらおが、剣と筆とをとり持ちて、
一たび起たば何事か、
人生の偉業成らざらん。
「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と安場はいった。「貧乏ほど愉快なことはないんだ」
かれはチビ公のかたわらに座っていいつづけた。
おれは貧乏だから書物が買えなかった。おれは雑誌すら読んだことはなかった。すると先生はおれに本を貸してくれた。先生の本は二十年も三十年も前の本だ、先生がおれに貸してくれた本はスミスの代数とスウイントンの万国史と資治通鑑それだけだ、あんな本は東京の古本屋にだってありやしない。だが新刊の本が買えないから、古い本でもそれを読むよりほかにしようがなかった、そこでおれはそれを読んだ、友達が遊びにきておれの机の上をジロジロ見るとき、おれははずかしくて本をかくしたものだ、太政官印刷なんて本があるんだからな、実際はずかしかったよ。おれはこんな時代おくれの本を読んでも役に立つまいと思った、だが、先生が貸してくれた本だから読まないわけにゆかない、それ以外には本がないんだからな、そこでおれは読んだ。最初はむずかしくもありつまらないと思ったが、だんだんおもしろくなってきた、一日一日と自分が肥っていくような気がした。おれは入学試験を受けるとき、ほんの十日ばかり先生が準備復習をしてくれた。
「こんな旧式なのでもいいのか知らん」とおれは思った。
「だいじょうぶだいけ」と先生がいった、おれはいった、そうしてうまく入学した。
「なあチビ公」
安場はなにを思ったか目に一ぱい涙をたたえた。
「試験の前日、先生はおれにこういった」
「安場、腕ずもうをやろう」
「ぼくですか」
「うむ」
先生はがちょうのように首が長く、ひょろひょろやせて、年が老いている。おれはこのとおり力が自慢だ、負かすのは失礼だと思ったが、さりとて故意に負けるとへつらうことになる、互角ぐらいにしておこうと思った。
「やりましょう」
先生は長いひざを開いて畳にうつぶしになった。さながら栄養不良のかわずのよう!
「さあこい」
「よしッ」
おれもひじを畳についた、がっきと手と手を組んだ、おれはいい加減にあしらうつもりであった、先生の痩せた長い腕がぶるぶるふるえた。
「弱虫! なき虫! いも虫! へっぴり虫!」と先生はいった。
「先生こそ弱虫です」
「なにを!」
「どっこい」
おれは少しずつ力をだして不動直立の態度をとるつもりであった。だが先生の押す力がずっとひじにこたえる。
「弱いやつだ、青年がそれでどうする、米の飯を食わせておくのはおしいものだ、やい、いも虫、なき虫、わらじ虫!」
あまりしつこく虫づくしをいうのでおれもちょっと癪にさわった。
「いいですか、本気をだしますぞ」
「よしッ、虫けらの本気はどんなものか、へっぴり虫!」
「よしッ」
おれは満身の力をこめて一気に先生を押したおそうとした、先生の腕が少しかたむいた。
「いいかな」
先生はこういって、「うん」と一つうなった、たよたよとした細い腕はがきっと組んだまま大盤石!
「おやッ」
おれは頭を畳にすりつけ、左の掌で畳をしっかとおさえ肩先に力をあつめて押しだした。
「虫があばれるあばれる」と先生はげらげらわらった。おれはどうもふしぎでたまらない。負けるはずがないのだ。
「いいかな」
先生はこういっておれのこぶしをひた押しに倒してしまった。
おれは汗をびっしょりかいて、ふうふう息をはずませた。
「どうだ」
首を傾げてふしぎがってるおれの顔を見て先生はわらった。
「ふしぎですな」
「おまえはばかだ」
「なんといわれてもしようがありません」
「いよいよジャクチュウかな」
「ジャクチュウとはなんですか」
「弱虫だ、はッはッはッ」
「先生はどうして強いんですか」
「わしが強いんでない、おまえがジャクチュウなんだ」
「ぼくはそんなに弱いはずがないのです」
「おまえはどこに力を入れてるか」
「ひじです」
「腕をだしてみい」
先生のひょろひょろした青ざめた腕とおれのハチ切れそうに肥った円い赤い腕が並んだ。
「ひじとひじの力なら私の方がとてもかなわないはずじゃないか」と先生がいった。
「じゃ先生は?」
先生はにっこり笑って、胸の下を指さした。
「腹ですか」
「うむ、力はすべて腹から出るものだ、西洋人の力は小手先からでる、東洋人の力は腹からでる、日露戦争に勝つゆえんだ」
「うむ」
「学問も腹だ、人生に処する道も腹だ、気が逆上すると力が逆上して浮きたつ、だから弱くなる、腹をしっかりとおちつけると気が臍下丹田に収まるから精神爽快、力が全身的になる、中心が腹にできる、いいかおまえはへそをなんと思うか」
「よけいなものだと思います」
「それだからいかん、人間の身体のうちで一番大切なものはへそだよ」
「しかしなんの役にも立ちません」
「そうじゃない、いまのやつらはへそを軽蔑するからみな軽佻浮薄なのだ、へそは力の中心点だ、人間はすべての力をへそに集注すれば、どっしりとおちついて威武も屈するあたわず富貴も淫するあたわず、沈毅、剛勇、冷静、明智になるのだ、孟子の所謂浩然の気はへそを讃美した言葉だ、へそだ、へそだ、へそだ、おまえは試験場で頭がぐらぐらしたらふところから手を入れてしずかにへそをなでろ」
おれは試験場でへそをなでなかったが、難問題にぶつかったときに先生のこの言葉を思いだした、そうして、
「へそだ、へそだ、へそだ」と口の中でいった、と急におかしくなってふしぎに気がしずまる、かっと頭にのぼせた熱がずんとさがって下腹に力がみちてくる。
旧式の本、それを読んだことはいわゆる試験準備のために印刷された本よりもはるかに有効であった。
どんな本でも、くわしくくわしくいくどもいくども読んで研究すればすべての学問に応用することができる、数多くの本を、いろいろざっと見流すよりたった一冊の本を精読する方がいい。
おれが受験から帰ってくると先生はぼくを待ちかねている、おれは試験の問題とおれの書いた答案を語る、先生はそれについていちいち批評してくれた、そうしておれににわとりのすき焼きをご馳走してくれる。
「うんと滋養物を食わんといかんぞ」
こう先生がいう、七日のあいだに先生が大切に飼っていた三羽のにわとりがみんななくなった。
「おれは先生の恩はわすれない、もし先生のような人がこの世に十人もあったら、すべての青年はどんなに幸福だろう、町のやつは……師範学校や中学校のやつらは先生の教授法を旧式だという、旧式かも知らんが先生はおれのようなつまらない人間でもはげましたり打ったりして一人前にしたててくれるからね」
安場はこういって口をつぐんだ、かれはたえきれなくなってなき出した。
「なあ青木、おまえも責任があるぞ、先生がおまえをかわいがってくれる、先生に対してもおまえは奮発しろよ」
「やるとも」千三も無量の感慨に打たれていった。
「さあ帰ろう」
夕闇がせまる武蔵野のかれあしの中をふたりは帰る。
花さき花はうつろいて、露おき露のひるがごと、
星霜移り人は去り、舵とる舵手はかわるとも、
わが乗る船はとこしえに、理想の自治に進むなり。
日はとっぷりと暮れた、安場ははたと歌をやめてふりかえった。星霜移り人は去り、舵とる舵手はかわるとも、
わが乗る船はとこしえに、理想の自治に進むなり。
「なあおい青木、一緒に進もうな」
「うむ」
たがいの顔が見えなかった。
「おれも早くその歌をうたいたいな」とチビ公はいった、安場は答えなかった、ざわざわと枯れ草が風に鳴った。
「おれの歌よりもなあ青木」と安場はいった。「おまえのらっぱの方が尊いぞ」
「そうかなあ」
「進軍のらっぱだ」
「うむ」
「いさましいらっぱだ、ふけッ大いにふけ、ふいてふいてふきまくれ」
ひゅうひゅう風がふくので声が散ってしまった。
幸福の神はいつまでも青木一家にしぶい顔を見せなかった、伯父さんとチビ公の勉強によって一家は次第に回復した。チビ公の母は病気がなおってから店のすみにわずかばかりの雑穀を並べた、黙々先生はまっさきになって知人朋友を勧誘したので、雑穀は見る見る売れだした。生蕃親子がこの地を去ってからもはやチビ公を迫害するものはない、店はますます繁昌し、大した収入がなくとも不自由なく暮らせるようになった。
安場は日曜ごとに浦和へきた、そうして千三にキャッチボールを教えたりした、元来黙々塾に通学するものはすべて貧乏人の子で、でっち、小僧、工場通いの息子、中には大工や左官の内弟子もあった。かれらはみんな仲よしであった、ハイカラな制服制帽を着ることができぬので、大抵和服にはかまをはいていた。
チビ公は日曜ごとには朝から晩まで遊ぶことができるようになった、塾の生徒は師範学校や中学の生徒のように費用に飽かして遠足したり活動を見にゆくことができないのでいつも塾の前の広場でランニング、高跳びなどをして遊んでいた。それが安場がきてからキャッチボールがはやりだした、安場は東京の友達からりっぱなミットをもらってきてくれた、チビ公は光一のところへグローブの古いやつをもらいにいった。
「あるよ、いくらでもあるよ」
光一は古いグローブ二つと新しいグローブ一つとをだしてくれた。
「こんなにもらってもいいんですか」と千三はいった。
「ぼくは買ってもらうからいいよ」と光一はいった。
「これは新しいんですね」
「心配するなよ」
グローブ三つにボール二つ、それをもらって千三が塾へいったとき一同は万歳を唱えた、勉強はできなくとも貧乏人の子はスポーツがうまい、一同はだんだん上達した。
あるとき千三が豆腐を売りまわってると道で光一にあった。
「おいボールがうまくなったそうだね」
光一は例のごとく上品な目に笑みをたたえていった。
「少しうまくなりました」
光一は妙にしずんだ顔をして千三の目を見つめた。
「きみ、たのむからね、ぼくに向かってていねいな言葉を使ってくれるなよ、ね、きみは豆腐屋の子、ぼくは雑貨屋の子、同じ商人の子じゃないか、ねえきみ、きみもぼくも同じ小学校にいたときのように対等の友達として交わりたいんだ、きみも学生だからね」
「ああ」
いまにはじめぬ光一のりっぱな態度に、千三はひどく感激した。
「それからね、きみ、きみの塾とぼくの学校と試合をやらないか」
「ああ、だけれども弱いから」
「弱くてもいいよ、おたがいに練習だからね」
「相談してみよう」
「きみはなにをやってるか」
「ぼくはショートだ」
「それがいい、きみは頭がよくて敏捷だから」
「きみは」
「ぼくは今度からピッチャーをやってるんだよ」
「すてきだね」
「なかなかまずいんだよ、手塚はショートだ、あいつはなかなかうまいよ」
その夜千三は塾で一同に相談した。
「やろうやろう」というものがある。
「とてもかなわない」というものもある。議論はいろいろにわかれたが結局安場にきてもらってきめることになった。
安場は翌日やってきた。
「やれやれ、大いにやれ、親から金をもらって洋服を着て学問するやつに強いやつがあるものか、わが校の威風を示すのはこのときだ」
一同はすぐ決心した、毎夜課業がすむとこそこそそのことばかりを語りあった、だが悲しいことには貧乏人の子である、マークのついた帽子や、ユニフォームを買うことはできない、いわんやスパイクのついた靴、プロテクター、すねあてにおいてをや[#「をや」は底本では「おや」]である。
「銭がほしいなあ」と一同はいった、この話がいつしか黙々先生にもれた、先生は早速一同を集めた。
「遊戯は精神修養をもって主とするもので形式を主とするものでない、みんなはだかでやるならゆるす、おれはバットを作ってやる、はだかが寒いならシャツにさるまた、それでいい、それが当塾の塾風である」
「先生のいうとおりにします」と一同はいった。
翌日先生は庭先にでて大きなまさかりでかしの丸太を割っていた。
「先生なにをなさるんですか」と、チビ公がきいた。
「バットを作ってやるんだ」
放課後も先生はのこぎりやらかんなやらでバット製作にとりかかった。と仕立屋の小僧で呉田というのがぼろきれをいくえにも縫いあわせて捕手のプロテクターを作った。すると古道具屋の子は撃剣の鉄面でマスクを作った。道具は一通りそろった。安場が日曜にきて、各シートを決めた、安場は東京からの汽車賃を倹約するためにいつも五里の道を歩いてくるのである。
投手は馬夫の子で松下というのである、かれは十六であるが十九ぐらいの身長があった。ちいさい時に火傷をしたので頭に大きなあとがある、みなはそれをあだ名して五大洲と称した。かれの球はおそろしく速かった。
捕手は「クラモウ」というあだ名で左官の子である、なぜクラモウというかというに、いつもだまってものをいわないのは暗がりの牛のようだからである、身体は横に肥ってかにのようにまたがあいている。一塁手は「旗竿」と称せられる細長い大工の子で、二塁手は「すずめ」というあだ名で駄菓子屋の子である、すずめはボールは上手でないが講釈がなかなかうまい、かれは安場コーチの横合いから口をだしていつも安場にしかられた。
三塁手にはどんな球でもかならず止める橋本というのがある、かれはおそろしい勢いで一直線にとんできた球を鼻で止めたので後ろにひっくりかえった。それからかれを橋本とよばずに鼻本とよんだ。
外野にもなかなか勇敢な少年があった、ショートはチビ公であった、チビ公は身丈が低いが非常に敏捷であった、かれは球を捕るには一種の天才であった、かれはわずかばかりの練習でゴロにいろいろなものがあることを感じた、大きく波を打ってくるもの、小さくきざんでくるもの、球の回転なしにまっすぐにすうと地をすってくるもの、左に旋回するもの、右に旋回するもの、約十種ばかりの性質によって握り方をかえなければならぬ。チビ公は無意識ながらもそれを感じた。
一生懸命に汗を流してけずり上げた先生のバットはあまり感心したものでなかった。それはあらけずりのいぼだらけで途中にふしがあるものであった。
「なんだこれは」
「すりこぎのようだ」
「犬殺しの棒だ」
「いやだな、おまえが使えよ」
「おれもいやだ」
少年共はてんでにしりごみをした。さりとてこれを使わねば先生の機嫌が悪い。一同は途方に暮れた。
「ぼくのにする」とチビ公はいった。「このバットには先生がぼくらを愛する慈愛の魂がこもってる、ぼくはかならずこれでホームランを打ってみせるよ、ぼくが打つんじゃない先生が打つんだ」
九
浦和中学と黙々塾が野球の試合をやるといううわさが町内に伝わったとき人々は冷笑した。
「勝負になりやしないよ」
実際それは至当な評である、浦和中学は師範学校と戦っていつも優勝し、その実力は埼玉県を圧倒しているのだ、昨日今日ようやく野球を始めた黙々塾などはとても敵し得べきはずがない。それに浦中の捕手は沈毅をもって名ある小原である。投手の柳は新米だがその変化に富める球と頭脳の明敏ははやくも専門家に嘱目されている、そのうえに手塚のショートも実際うまいものであった、かれはスタートが機敏で、跳躍して片手で高い球を取ることがもっとも得意であった。
「練習しようね」と柳は一同にいった。
「練習なんかしなくてもいいよ、黙兵衛のやつらは相手にならんよ」と手塚がいった。
「そうだそうだ」と一同は賛成した。だが二、三日経ってから小原が顔色をかえて一同を招集した。
「ぼくは昨日黙々の練習を見たがね、火のでるような猛練習だ、それに投手の五大洲はおそろしく速力のある球をだす、あのうえにもしカーブがでたらだれも打てやしまい、ショートのチビ公もなかなかうまいし、捕手のクラモウはロングヒットを打つ、なかなかゆだんができないよ、一たい今度の試合は敵に三分の利があり味方に三分の損がある、敵は新米だから負けてもさまで恥にならないが、味方は古い歴史を持っているから、もし負ければ世間の物笑いになるよ」
「あんなやつはだいじょうぶだよ」と手塚はいった。
「そうじゃない、もしひとりでも傑出した打手があってホームランを三本打てば三点とられるからね、勝負はそのときの拍子だ、強いからってゆだんがならない」
「だからぼくは練習をしようというんだ、青木千三は小学校時代には実にうまかったからね、身体が小さいがおそろしいのはかれだよ」
と光一はいった。
「豆腐屋のごときは眼中にないね」と手塚がいった。
「それがいけないよ手塚君、きみはうまいけれども敵をあなどるのは悪いくせだ、ぼくは青木の方がぼくよりうまいと思う」
「きみは青木を買いかぶってるよ、あいつはまだ腰が決まらない」
「いざとなれば強くなるよ」
「弱虫だねきみは」と手塚は嘲笑した。
「君よりか青木の方がうまい」と光一も癪にさわっていった。
「あんなやつにくらべられてたまるものか」
多人数の前なので手塚は虚勢を張っていった。
「そうじゃない手塚」と小原はどなった。「おまえはいつもうまいと人に見られようと思って、片手で球をとったりする、あれはよくないぞ、へたに見られてもいいから健実でなけりゃいけない」
先輩の一言に手塚は顔を赤めてだまった。その日から練習をはじめた。
一方黙々塾では学業のひまひまに猛練習をつづけた。だが家業がいそがしいために練習にくることのできない者もあるので、人数はいつもそろわなかった、安場は日曜以外には帰省しない、ここにおいて黙々先生が自身に空き地へ出張した、先生は野球のことをよくは知らない、がかれは撃剣の達人なので打撃はうまかった、かれはさるまた一つとシャツ一枚の姿で、自製のバットでノックをする、それは実に奇妙ふしぎなノックであった、先生の打つ球には方向が一定しない、三塁へいったり一塁へいったり、ゴロかと思えば外野へ飛んだり、ファウルになったり、ホームランになったりする。
「先生! シートノックはシートの方へ打ってください」と千三が歎願した。
「ばかッ、方向がきまってるならだれでもとれる、敵はどこへ打つかわかりゃしないじゃないか」
先生はこういって長いバットを持って力のありたけで打つのだからたまらない、鉄砲玉のようなおそろしく早い球はぶんぶんうなって飛んでくる。選手はいずれも汗だらけになって走りまわる。それがおわるとフリーバッティングをやる、それも投球するものは先生である。先生の球はノックのごとくコントロールが悪い、右に左に頭上高く、あるいは足元にバウンドし、あるいは腰骨を打つ。
「先生! まっすぐな球をください」と千三がいう。
「ばかッ敵はいつもまっすぐに投るかよ」
それがおわると先生は千三に投球させて自分で五、六本を打つ。だが先生の造ったバットはこぶこぶだらけなので、打った球はみんなファウルになり、チップになる。で先生が満足に打つまで球を投らなければ機嫌が悪い、ようやく直球を一本打つと先生はにっこりと子どもらしくわらう、そうしてこういう。
「おれの造ったバットはなかなかいいわい」
練習がすむと先生は一同にいもを煮てくれる、それが何よりの楽しみであった。だが先生は野球のために決して学課をおろそかにしなかった、もし生徒の中に学課をおこたる者があると先生は厳然として一同を叱りつける。
「野球をやめてしまえッ」
このために生徒は一層学課にはげまざるを得なかった。
日がだんだん迫ってきた、ある日安場がきた、コーチがすんで一同が去った後、先生はいかにも心配そうに安場にいった。
「今度中学校に勝てるだろうか」
「さあ」と安場は躊躇した。
「どうかして勝たしてもらいたい、わしが生徒に野球をゆるしたのは少し考えがあってのことだ、この町のものは官学を尊敬して私学を軽蔑する、いいか、中学校や師範学校の生徒はいばるが、黙々塾の生徒は小さくなっている、なあ安場、きみもおぼえがあるだろう」
「そうです、ぼくもずいぶん中学校のやつらにばかにされました」
「そうだ、金があって時間があって学問するものは幸福だ、わしの塾の生徒はみんな不幸なやつばかりだ、同じ土地に生まれ同じ年ごろでありながら、ただ、金のために甲は意気揚々とし乙は悄然とする、こんな不公平な話はないのだ、いいか安場、そこでだ、わしは生徒共の肩身を広くさしてやりたい、金ずくではかなわない、かれらの学校は洋風の堂々たるものだ、わしの塾は壁が落ち屋根がもり畳がぼろぼろだ、生徒は町を歩くにいつも小さくなってしょぼしょぼしている、だからせめて野球でもいいから一遍勝たしてやりたい、実力のあるものは貧富にかかわらず優勝者になれるものだということを知らしめたい、師範生も中学生も黙々生も同等のものであると思わせたい、大手をふって町を歩く気にならせたい、だからどうしても今度は勝たねばならん、わしもこの年になって、なにをくるしんですっぱだかになって空き地でバットをふり生徒等を相手に遊んでいたかろう、生徒の自尊心を養成したいためだ、そうして一方において町の人々や官学崇拝者を見かえしてやりたいためだ、野球の勝敗は一小事だが、ここで負ければわしの生徒はますます自尊心を失い肩身を小さくする、実に一大事件だ、なあ安場、今度こそはだ、なあおい、しっかりやってくれ」
先生の声は次第に涙をおびてきた。
「先生!」
安場は燃ゆるような目を先生に向けていった。
「ぼくもそう思ってます、ぼくはかならず勝たしてごらんに入れます」
安場は翌日規則正しい練習をした、一回二回三回一同は夜色が迫るまでつづけた。いよいよ明日になった土曜日の早朝から一同が集まった。
「今日は休むよ」と安場はいった。
「明日が試合ですから、是非今日一日みっちりと練習してください」
と一同がいった。
「いやいや」と安場は頭をふった。
「今日はゆっくり遊んで晩には早く寝ることにしよう、いいか、熟睡するんだぞ、ひとりでも夜ふかしをすると明日は負けるぞ」
その日は一日遊んで安場は東京における野球界の話を聞かしてくれた、かれは一高と三高の試合の光景などをおもしろく語った。一同はすっかり興奮して目に涙をたたえ、まっかな顔をして聞いていた。
その夜千三は明日の商売のしたくをおわってから窓から外を見やった、外は暗いが空はなごりなく晴れて星は豆をまいたように輝いていた、千三は明日の好天気を予想してしずかに眠った。
目がさめると、もう朝日が一ぱいに窓からさしこんですずめの声が楽しそうに聞こえる。
「やあ寝過ごした」と千三はあわてて飛び起きた。
「もっと寝ててもいいよ」と伯父さんはにこにこして店から声をかけた、かれはもう豆腐をおけに移してわらじをはいている。
「伯父さん、ぼくが商売に出ますから伯父さんはやすんでください」
と千三はいった。
「今日は日曜だからおまえは休め、おまえは今日大事な戦争にゆかなきゃならないじゃないか」
「野球は午後ですから、朝だけぼくは売りにでます」
「いやかまわない、わしもおひるからは見物にゆくぞ、しっかりやってくれ」
「ありがとう伯父さん、それじゃ今日は休ましてもらいます」
「うむ、うまくやれよ、金持ちの学校に負けちゃ貧乏人の顔にかかわらあ[#「かかわらあ」は底本では「かからあ」]」
伯父さんはこういってらっぱをぷうと鳴らしてでていった。千三は井戸端へでて胸一ぱいに新鮮な空気を呼吸した、それからかれはすっぱだかになって十杯のつるべ水を浴びて身をきよめた。
「どうぞ神様、ぼくの塾をまもってください」
じっと目を閉じて祈念するとふしぎにも勇気が次第に全身に充満する。朝飯をすまして塾へゆくと安場がすでにきていた。一分時の違いもなく全員がうちそろうた。そこで先生が先頭になって調神社へ参詣する、それから例の空き地へでて猛烈な練習をはじめた。
春もすでに三月のなかばである、木々のこずえにはわかやかな緑がふきだして、桜のつぼみが輝きわたる青天に向かって薄紅の爪先をそろえている。向こうの並み木は朝日に照らされてその影をぞくぞくと畑道の上に映していると、そこにはにわとりやすずめなどが嬉しそうに飛びまわる。
昨夜熟睡したのと、昨日一日練習を休んだために一同の元気はすばらしいものであった、安場はすっかり感激した。
「このあんばいではかならず勝つぞ」
一同は練習をおわって汗をふいた。
「集まれい」と先生は号令をかけた、一同は集まった。
「みんなはだかになれ」
一同ははだかになった。
「へそをだせい、おい」
一同はわらった、しかし先生はにこりともしなかった。一同はさるまたのひもをさげてへそをだした。先生は第一番の五大洲(投手)のへそのところを押してみた。
「おい、きみは下腹に力がないぞ、胸のところをへこまして下腹をふくらますようにせい」
「はい」
先生はつぎのクラモウのへそを押した。
「おい、大きなへそだなあ」
「ぼくはいま力を入れてつきだしてるのです」
「いかん、へそのところをつきだすのじゃない、へその下へ食べたものをみんなさげてやるんだ、いいか、胸がせかせかして負けまい負けまいとあせればあせるほど、下腹がへこんで、肩先に力がはいり、頭がのぼせるんだ、味方が負け色になったらみんなへそに気をおちつけろ、いいか、わすれるな、黙々塾は一名へそ学校だぞ、そう思え」
先生はひとりひとりにへそを押してみた。
「あまり押すと先生、小便がもります」と二塁手のすずめがいった。そこで先生もわらった。
その日の試合は製粉会社の裏の広場でやることになった、中学の運動場は修繕のために使用ができなかった、朝からの快晴でかつ日曜であるために見物人はどしどしでかけた、豆腐屋の覚平は早く商売をしまって肩にらっぱをかけたままでかけた、見ると正面に大きな網をはり、白い線を大地に引いて、三ヵ所に大きなまくらのようなものをおいてある、二本の長い線の両側に見物人が陣どっているが、草の上に新聞紙を敷いて座ってるのもあり、またむしろやこしかけを持ち出したのもあった。覚平はかくまで野球が人気をひくとは思いもよらなかった。かれは野球とはどんなことをするものか知らなかった。かれは豆腐おけをになって町を歩くとき、おりおり子供等に球を頭にあてられたり背骨を打たれたりするのでむしろ野球に対して反感をいだいていた。
「すりこぎをふりまわすなんてつまらねえまねをするもんだ」
こうかれはいつもいった、だがいまきてみると子供等ばかりでなく、労働者も商人も紳士も役人も集まっている。
「大変なことになったものだ」
かれは肝をつぶしてまごまごしていると後ろから声をかけたものがある。
「覚平さん」
ふりかえるとそれは八百屋の善兵衛であった、善兵衛はなによりも野球が好きであった、野球が好きだというよりも、野球を見ながらちびりちびりと二合の酒を飲むのが好きなのである、かれもあまり野球の知識はないほうだが、それでも覚平よりはすべてを知っていた。
「やあおまえさんもきてるね」と覚平がいった。
「おらあハア三度のご飯を四度食べても野球は見たいほうで」と善兵衛がいった。
「おれにゃわからねえ」と覚平がいった。
「じゃおらあ教えてやるべえ」と善兵衛はいった。
「ところで一杯どうです」
「これはこれは」
ふたりは一つのさかずきを献酬した。善兵衛はいろいろ野球の方法を話したが覚平にはやはりわからなかった。
「つまり球を打ってとれないところへ飛ばしてやればいいんです」
「なるほどね」
ふたりが草に座ってかつ飲みかつ語ってるうちに見物人は刻々に加わった。中学の生徒は制服制帽整然とうちそろうて一塁側に並んだ。その背後には中学びいきの大人連が陣取っている、その中に光一の伯父さん総兵衛がその肥った胸を拡げて汗をふきふきさかんに応援者を狩り集めていた、かれは甥の光一を勝たせたいために商売を休んでやってきたのである。
この日師範学校の生徒は黙々塾に応援するつもりであった、師範と中学とは犬とさるのごとく仲が悪い、だがこの応援は中止になった、いかんとなれば審判者は師範の選手がたのまれたからである、で師範は中立隊として正面に陣取った。
「早く始めろ」
「なにをぐずぐずしてるんだ」
気の短い連中は声々に叫んだ、この溢るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっそうとして場内に現われた、揃いの帽子ユニフォーム、靴下は黒と白の二段抜き、靴のスパイクは日に輝き、胸のマーク横文字の urachu はいかにも名を重んずるわかき武士のごとく見えた。
見物人は拍手喝采した、すねあてとプロテクターをつけた肩幅の広い小原は、マスクをわきにはさみ、ミットをさげて先頭に立った、それにつづいて眉目秀麗の柳光一、敏捷らしい手塚、その他が一糸みだれずしずかに歩を運んでくる。
「バンザアイ、浦中万歳」
総兵衛はありったけの声で叫んだ。浦中応援隊は応援歌をうたった、手に手に持った赤い旗は波のごとく一起一伏して声調律呂はきちんきちんと揃う。
選手は入場するやいなやすぐキャッチボールを始めた、それがすむと、一同さっと散ってめいめいのシートシートに走った。やがてノックが始まった。ノッカーは慶応の選手であった山田という青年である、正確なノックは士気を一層緊粛させた、三塁から一塁までノックして外野におよびまた内野におよぶまでひとりの過失もなかった、次第に興奮しきたる技術の早業はその花やかな服装と、いかにも得意然たる顔色と共に見物人を圧倒した、ダブルプレー、トリプルプレー、その中に手塚のできばえはべっしてすばらしかった、かれはどんなゴロでも完全につかんだ、かれは頭上高き球をジャンプしてとった、左側に打たれた難球を転んでつかんだ、つかむやいなや二塁に送った。その機敏さ、洒脱さはさながら軽業師のごとく見物人を酔わした。
「手塚! 手塚!」
の声が鳴りわたった。ちょうどそのとき黙々塾の一隊が入場した。
「きたきたきた」
見物人は立ちあがってその方を見やった、同時に「わあッ」という笑声が一度に起こった。
見よ! 黙々塾の一隊! それはマークの着いた帽子もなく揃いのユニフォームもない、かれらは一様にてぬぐいで鉢巻きをしていた、かれらのきたシャツにはメリヤスもあればねずみ色に古びたフランネルもあり、腕のないじゅばんもあった、かれらは大抵さるまたの上にへこ帯をきりきりと巻き、結び玉を後ろへたれていた、かれらのはいてるのは車夫のゴム足袋もあれば兵隊の古靴もある。九人はことごとくちがった服装、その先頭にコーチャーの安場は七輪のような黒い顔をしてこけ色になった一高の制服制帽で堂々と歩いてくる。
いずれを見てもそれはいかにもみじめな一隊であった、かの花やかな浦中と対照してこれは何というきたならしい選手達だろう、見物人は戦わぬうちに勝敗を知った。
「だめだよ、つまらない」
もう見かぎりをつけて帰ったものもある。一同は肩ならしをやったうえで、さっとシートに着いた、安場は上衣を脱いでノックした。それはなんということだろう。
元来晴れの戦場におけるノックには一種の秘訣がある、それは難球を打ってやらぬことである、だれでも取れるような球を打ってやれば過失がない、過失がなければ気がおちつく、特に試合になれぬチームに対してはノッカーはよほど寛大に手心せねばいたずらに選手をあがらしてしまうおそれがある。
なにを思ったか安場のノックは峻辣をきわめたものであった、難球また難球! 第一番に三塁手がミスする、ついでショートの青木、これもみごとにミスする、やりなおす、またミスする、三度、四度! 千三は次第に胸が鼓動した、見物人は口々にののしる。
「やあい、豆腐屋、だめだぞ」
嘲笑罵声を聞くたびに千三は頭に血が逆上して目がくらみそうになってきた。かれが血眼になればなるほど、安場のノックが猛烈になる。やっと球をつかんだかと思うと一塁へ三尺も高い球をほうりつける。見物人はますますわらう。
さんざんな悪罵の中にノックはおわった。千三はいくどもいくども滑ったので身体はどろだらけになった、その他の人々も同様であった。
やがて審判者がおごそかに宣告した。
「プレーボール!」
浦中は先攻である。黙々の投手五大洲ははじめてまん中にたった、かれは十六歳ではあるが身長五尺二寸、投手としてはもうしぶんなき体格である、かれは手製のシャツを着ていた、それは白木綿で母が縫うてくれたのだが、かれはその胸のところに墨黒々と片仮名で「モクモク」と右から左に書いた。かれがこれを着たとき、すずめがそれだけはよしてくれといった、かれは頑としてきかない。
「おれは日本人だから日本の文字のしるしを書くんだ、毛唐のまねなんか死んでもしやしないよ」
これをきいて黙々先生は感歎した。
「松下! おまえはいまにえらいものになるよ」
見物人はいまかれの胸の片仮名を見て一度にどっとわらった。
「やあい、モクモク」
「モクネンジンやあい」
「モク兵衛やあい」
だがかれは少しもひるまなかった、かれの鉄砲のごとき速球はまたたく間にふたりを三振せしめた、つぎは柳光一である。光一はボックスに立ってきっと投手を見やった、かれは速球に対して確信がある。千三は小学校にありしとき光一のくせをよく知っている、かれは光一がかならず自分の方へ打つだろうと思った。
「打たしてもいいよ」と千三は五大洲にいった。
「よしッ」
五大洲はまっすぐな球をだした。戞然と音がした、見物人はひやりとした、球ははたして千三に向かった、千三は早くも右の方へよった。
「しめたッ」
と思う間もなくかれは足をすべらした、喝采の声が起こった、球は一直線に中堅の方へ転がった。千三の目から涙がこぼれた。光一は早くも二塁に走った。
つぎの打手は敵の主将小原である。ホームランか三塁か、いずれにしても一点は取るだろうと人々は思った、投手五大洲はじっと腕をくんで捕手のサインを見やった。第一球は高目のカーブであった。五大洲はそのとおりに球を投げた。小原はボールを取るだろうと思いのほか、かれはおどり上がってそれを打った、球はショートの頭をはるかに高く飛んだ、千三はうしろに走った、と球は伸びるかと思いのほか、途中で切れてさか落としに落ちた、ハッと思う間もない、光一は疾風のごとく本塁を襲うた、千三はあわててホームに投げた、球は高くネットを打った。
次の打者の三振でわずかに食い止めたものの、第一回において黙々は一点を負けた。千三は顔をあげることができなかった、かれはなくにもなけなかった。
ぼんやりベンチへ帰ると安場はにこにこしていた。
「おい、だいじょうぶ今日の試合はこっちのものだぞ」
「ぼくはだめだ」と千三がいった。
「いやなかなかいい、すてきにいい」と安場はいった。
柳がダイヤモンドに立ったとき群集は一度に喝采した。実際柳の風采、その鷹揚な態度はすでに群衆を酔わした。それに対して小原の剛健沈毅な気宇、ふたりの対照はたまらなく美しい。
「柳!」
「小原!」
この声と共に学校の応援歌がとどろいた。黙々の第一打者は五大洲である。かれはかんかんにおこっていた。かれは頭の鉢巻きをかなぐりすてたとき、その斑々たる火傷のあとが現われたので見物人はまたまた喝采した。
柳は静かに敵の姿勢を見やった、そうして美しいボディスイングを起こした。のびのびとした四肢や胴体のあざやかさ、さながら画に見るがよう、球が手をはなれた。五大洲がバットをふったかと見ると球は左翼の頭上はるかに飛んだ、外野手は走った、内野手も走った、陣営騒然とみだれた、小原はあっけに取られてマスクをぬぎ捨てたまま本塁に立っている。
「ホームイン」
五大洲の一撃で一点を恢復した。このとき三塁の背後の松の枝高くらっぱの音が聞こえた。ついで気違いじみた声!
「もくもく万歳! もくもく勝ったぞ」
「ぷうぷうぷうぽうぽうぷう」
らっぱは千三の伯父覚平で、叫んでるのは善兵衛である。
この声援と共にここにおどろくべき声援者が現われた、それは製粉会社の職工四、五十名と、木材会社その他の労働者、百姓、人足、馬夫! あらゆる貧民階級が一度にどっとときの声をあげた。
「もくもく勝った勝った」
これに対して総兵衛ははじめは羽織を脱ぎつぎは肌脱ぎになりおわりにすっぱだかになっておどりだした。
「フレー、フレー、浦中!」
野球場は見物人と見物人との応援戦となった。
回が進んだ、一対一が二対二となり、五回、六回におよんだとき、浦中は五点、黙々は三点になった。二点の相違! このままで押し通すであろうか。千三は回ごとにミスをした、しかもかれは三振二つ、ピーゴロ一つを打っただけである。かれはすみに小さくなって涙ぐんでいた。覚平はもう松の枝に乗りながららっぱをふく勇気もなくなった。
「勝てないかなあ」とかれは善兵衛にいった。
「勝てそうもないなあ」と善兵衛がいった。すべての応援者も力が抜けてしまった。実際柳の成績はおどろくべきものであった、かれの球は速力において五大洲におとっているが、その縦横自在な正奇の球は回が重なるにしたがって熱気をおびてきた、どうかしてかれが敵に打たれこむときには小原がマスクをぬいでダイヤモンドへ進んでくる、そうしてこういう。
「おい、おれの鼻穴になにかはいってないか見てくれ」
「なにもないよ」と柳は小原の鼻を見ていう。
「そうか、かにが一ぴきはいってるような気がするよ」
「そんなことがあるもんか」と柳はわらいだす。
それを見て小原はまたいう。
「五大洲の頭にかにを這わせてやろうか」
「なぜだ」
「天下横行だ」
「はッはッはッ」
これで柳の気がしっかりとおちつくのである、柳は小原の老巧に感謝するのはいつもこういう点にある。
柳ばかりでない、手塚もいろいろな快技曲技をやって見物人を酔わした、かれはもっとも得意であった、ファインプレーをやるたびに見物人の方を見やって微笑した、ときには帽子をぬいで応援者におじぎをした。
千三は暗い暗い気分におされてだまっていた。かれはこのままこの場を逃げだしたいと思った。と安場がにこにこしてきた。
「そろそろいい時分だよ」
「なにが?」
「ラッキーセブンだ」
「ぼくにラッキーはない、だめだ」
「ばかいえ、きみはたしかに勝てるのに勝たずにいるんだ」
「どうして?」
「きみは大事なことをわすれてる」
「なにを? 大事なことを?」
「うむ、先生に教わったことを」
千三はじっと考えた。
「あッ、へそか」
「人間がへそをわすれたら、もうおしまいだ」
「そうか、うむ、ああへそだ、はッはッはッ」
と千三はわらった。
「わかったか」
安場はぐっと千三のへそを押した。ふしぎに千三は頭がすッと軽くなった、胸につかえたもじゃもじゃしたものが煙のごとく消えて、どっしりと腹の底に重みができた。
「見ろ! あの手塚てえやつはいまに大変なミスをやるぞ、見物人に賞められることばかりを考えてるからね」
「やる! きっとやる」と千三はいった。このとき五大洲は安打して一塁をとった、つぎのクラモウはバントした、手塚はそれを取って二塁へ投げようか一塁へ投げようかと疑惧してるうちに双方を生かしてしまった。三番は千三である。
「ぷうぷうぽうぽう」とらっぱが鳴った。
「青木! 青木! フレイフレイ」と善兵衛がどなる。
「豆腐屋ア」と敵方がひやかす。
千三はボックスに立つ前にバットを一ふりふった、それは先生の手製のこぶこぶだらけのバットである。かれは血眼になって光一をにらんだ。いままでかれは光一を見るとき一種の弱気を感じたのであった、かれはわが伯父が入獄中に受けた柳家の高恩を思い、わが貧をあわれんで学資をだしてやろうとした光一の友情を思うと、かれの球を打つ気合いが抜けてどうすることもできないのであった。
いまかれは臍下に気をしずめ、先生のバットをさげて立ったとき、はじめて野球の意義がわかった。
私情は私情である、恩義は恩義である、だが野球は先生および全校の名誉を荷のうて戦うのである、私情をはなれて公々然と戦ってこそそれが本当の野球精神である、このバットは先生を代表したものである、ぼくが打つのでない、先生が打つのだ。
こう思って光一の顔を見やると光一は微笑している、その男らしい口元、上品な目の中にはこういってるかのごとく見える。
「おたがいに全力を尽くして技術を戦わそうじゃないか、負けても勝ってもいい、敵となり味方となってもよく戦ってこそおたがいの本望だ」
千三はたまらなく嬉しくなった、かれはボックスに立った。それを見て光一は思った。
「かわいそうに青木は今日はばかにしょげかえっている、一本ぐらいは打たしてやりたいな」
だがかれはすぐに考えなおした。
「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことはかえって青木を侮辱しかつ学校と野球道を侮辱するものだ」
実際敵の走者が第一第二塁にある、少しもゆだんのならぬ場合である、かれは捕手のサインを見た、小原はすでに青木をあなどっている、かれは第一にウェストボールをサインした、第二もまた……第三には直球である。それは青木の予想するところであった。
かれは光一の球が燦然たる光を放ってわが思う壺をまっすぐにきたと思った、かれは八分の力をもってふった。
わっという喊声と共に千三は球がたしかに手塚に取られたと思った、が球は手塚の靴先にバウンドした、手塚はダブルプレーを食わして喝采を博そうとあせったのでスタートをあやまったのである、かれはバウンドした球をつかもうとしてグローブの上ではね返した、ふたたび拾おうとしたとき二塁手と衝突して倒れた。かれは起きあがったがあわてたために球が見えなかった、球はかれの靴のかかとのところにあったのである。
「ボールがボールが」とかれは悲鳴をあげた。中堅手がそれを拾うてホームへ投げた、がこのときはすでにおそかった、五大洲とクラモウは長駆してホームへ入り、千三は三塁にすべり込んだ。
「バンザアイ」
天地をゆるがすばかりに群集は叫んだ、この叫びがおわらぬうちにすぐにふしぎな喝采が起こった。
松の枝に乗っていた覚平と善兵衛はバンザイを叫んだ拍子に両手をあげたので、松の上から転がり落ちたのであった。落ちたまま覚平はらっぱをふくことをやめなかった。
「ぷうぷうぽうぽう」
「バンザアイ」
こうなってくると黙々隊は急に活気づいてきた。一塁手の旗竿は二塁打を打って千三が本塁に入った。黙々は一点を勝ち越した。つぎのすずめはバウンドを打って旗竿を三塁に進めた。
とつぎには安場の作戦が奇功を奏し、スクイズプレーでまた一点を取った。
浦中は必死になった、小原、柳は死に物狂いに戦った、が千三の快技はあらゆる難球を食いとめた、かれはしっかりと腹を落ちつけた、かれの頭は透明で気がほがらかであった。
七==五
黙々は勝った、波濤のごとき喝采が起こった、中立を標榜していた師範生はことごとく黙々の味方となった。安場が先頭になって一同は中学の門前で凱歌をあげた、そうして町を練り歩いた。町々では手おけに水をくんで接待したのもあった。善兵衛は自分の店のみかんを残らずかつぎ込んでみかんをまきながら選手の後について行った。一同は喜び勇んで塾へ帰った。かれらは塾の前でみんなシャツを脱ぎ、へそをだして門内へはいった。
先生は一帳羅の羽織とはかまをつけて出迎えた。
「勝ちました」と安場がいった。
「それは最初からわかってる」と先生がいった、そうして「ボールをやると同じ気持ちで学問をすれば天下の大選手になれる」とつけくわえた。
十
へその秘伝をおぼえてから千三はめきめきと腕が上達した。浦中と黙々は復讐戦をやる、そのつぎには決勝をやる、復讐のまた復讐戦をやるという風にこの町の呼び物になった。
「チビ公のやつ、どうしておれの球をあんなに打つんだろう」
光一はふしぎでたまらなかった、実際千三はいかなる球をも打ちこなした、対師範校との試合にはオールヒットの成績をあげた。それは光一に取ってもっとも苦しい敵であったが、しかし光一はそのためにおどろくべき進歩を示した、かれはどうかしてチビ公に打たれまい、チビ公を三振させようと研究した。昔武田信玄と上杉謙信はたがいに覇業を争うた、その結果として双方はたがいに研究しあい、武田流の軍学や上杉風の戦法などが日本に生まれた。もっともよき敵はもっともよき友である、他山の石は相砥礪して珠になるのだ。千三があるために光一が進み、光一があるために千三が進む。
戦場においては敵となりしのぎをけずって戦うものの光一と千三は家へ帰ると兄弟のごとく親しかった。
「今日は一本も打たせなかったね」
「このつぎにはかならず打つぞ」
二人はわらって話し合う。どんなに親しい間柄でも公の戦場では一歩もゆずらないのがふたりの約束であった。時として光一は家へ帰ってもものもいわずにふさぎこんでることがある、だが千三がたずねてくるとすぐ愉快な気持ちになるのであった。
あるとき光一はまじめな顔をしてこういった。
「青木君、ぼくの学校へ入学したまえよ」
「いまさらそんなことはできないから、一高で一緒になろう、もう二、三年経てばぼくの家も楽になるから」
「検定を受けるつもりか」
「ああ、そうとも」
「じゃ一高で一緒になろう、きみがショートでぼくが投手で小原さんが捕手だったら愉快だな」
ふたりは顔を見るたびにそれを語りあった。ふたりははたして一高で一緒になり得るだろうか、いまは読者にそれをもらすべきときでない。とにかく花はさき花は散り、月日は青春の希望と共に伸びやかに輝きながらうつりゆく。柳光一は四年生になった。
そのころ学校内で奇怪な風説が伝わった、生徒の中で女学生と交際し、ピアノやバイオリンの合奏をしたり、手紙を交換したり、飲食店に出入りしたりするものがある、いまのうちに探しだして制裁を加えなければ浦和中学の体面に関する。
憤慨の声々が起こった。
「だれだろう」
「だれだろう」
最初のうちはこの風評をとりあげるものはなかった。
「師範のやつらがいいふらしたんだ」
実際それは師範生徒からでたうわさである、師範生徒は中学生にくらべると学資も少ないし、また富める父兄をもたぬところからなにかにつけて不自由勝ちである、それに反して中学生は多くは相当の資産ある家の子である、かれらは自由にぜいたくなシャツを買い、ハイカラな文房具を用い、活動や芝居などを見物し、洋食屋へも出入りする、そうさせることを不純だと思わない父兄が多いのである。
寄宿舎に閉じこめられてかごの鳥のごとく小さくなっている師範生の目から見ると、中学生の生活はまったく不潔であり放縦であり頽廃的である。
久保井校長のつぎにきた熊田校長というのはおそろしく厳格な人であった、久保井先生は温厚で謙遜で中和の人であったが、熊田先生は直情径行火のごとき熱血と、雷霆のごとき果断をもっている。もし久保井校長が春なら熊田校長は冬である、前者は春風駘蕩、後者は寒風凛烈! どんなに寒い日でも熊田校長は外套を着ない、校長室に火鉢もおかない、かつて大吹雪の日、生徒はことごとくふるえていた日、校長は校庭にでて雪だるまを転がしまわった、その髪となく目となく口となく、雪だらけになったが少しもひるまなかった。
久保井先生が去ってからつぎにきたるべき校長に対して生徒も町の人も一種の反感をもっていた、だが日を経るにしたがって新校長の実践躬行的な人格は全校を圧し、町を圧しいまではだれひとり尊敬せぬものはない。
「黙々先生と熊田先生とどっちがこわいだろう」
町の人々はこううわさした。それだけ厳格な熊田先生が今中学校内に不良少年があると聞いたのだからたまらない。
「厳罰に処すべしだ、よく調べてくれ」
校長の命令に職員は目を皿のごとく大きくしてさがしたてた。
と、まただれがいうとなくそれは手塚だといううわさが立った。このことを申し立てたのは中村という同級生であった、中村は善良な青年だが、思慮にとぼしく言葉が多いのが欠点である、かれは学校中のすべてのことを知っているのでみながかれを探偵と呼んでいた、だがこの探偵は決して人に危害を加えない、口からでまかせにすきなことをしゃべりちらして喜んでいるだけである。中村は手塚が昨日不良少女と活動写真館からでたのを見た、そうして後をつけていくと洋食屋へはいったというのであった。
級の重なるものが五人集まって相談会を開いた、もし手塚であるなら同級の恥辱だからなんとかいまのうちに相当の手段を講じなければなるまい。これが会議の主眼であった。
「きゃつは一体生意気だからぶんなぐるがいいよ」
と浜本という剣道の選手がいった。浜本はすべてハイカラなものはきらいであった、かれは洋服の上にはかまをはいて学校へ来たことがあるので、人々はかれを彰義隊とあだ名した。
「なぐる前に一応忠告するがいいよ」と渋谷がいった、渋谷は手塚と親しかった、かれは日曜ごとに手塚の家へいってご馳走になるのであった。かれはまた手塚から真珠入りの小刀だの、水晶のペンつぼなどをもらった。かれが手塚をかばったことがかえって一同の憤激をたきつけることになった。
「ばかッ、きさまは医者の子からわいろをもらってるからそんなことをいうんだろう、だれがなんといってもおれはなぐる、あいつは一体小利口で陰険だぞ」
「そうだそうだ」とみなが賛成した。
「いつか生蕃カンニング事件のときにも生蕃は手塚の犠牲にされたんだぞ」
こういうものもあった。
「待ってくれ」と光一はいった。「一体手塚のなにが悪いんだ、問題の要点がぼくにわからないから説明してくれたまえ」
「飲食店へ出入りするが悪いよ」と彰義隊がいった。
「それはね、学生としていいことではないが、ぼくらだってそばが食いたかったり、しるこ屋へはいることもあるから手塚ばかりは責められないよ」と光一はいった。
「活動を見にゆくのはけしからん」
「しかし、諸君の中に活動を見ない人があるかね、どうだ」
光一は四人を見まわした、一同はだまった。
「女と合奏したり、手紙をやりとりするのはどうだ」
「それはぼくもよくないと思う、しかしそんなことは忠告ですむことだ、一度忠告してきかなかったらそのときに第二の方法を考えようじゃないか、ぼくは生蕃のことでこりた、生蕃は決して悪いやつじゃなかった、だがあのとき諸君がぼくに同情して生蕃を根底からにくんだ、そのために彼はふたたび学校へくることができなくなった、ぼくはいつもそれを思うと、われわれは感情に激したためにひとりの有為の青年を社会から葬ることになったことが実に残念でたまらん、人を罰するには慎重に考えなければならん、そうじゃないか」
光一の真剣な態度は一同の心を動かした。
「そういえばそうだ」と彰義隊は快然といった。
「それじゃだれが手塚に忠告するか」
「ぼくでよければぼくがいおう」と光一はいった。
「よし、それできまった、だがもしそれでも反省しなかったらそのときにはだれがなんといってもぼくはあいつをなぐり殺すぞ」
「よしッ、ぼくはかならず反省さしてみせる」
会議はおわった、光一はみなとわかれてひとり町を歩いた。悲しい情緒が胸にあふれた。かれは他人の欠点をいうことはなにより嫌いであった、ましてその人に向かってその人を侮辱するのは忍び得ざることである。
だがいわねばならぬ、いわねば手塚はなぐられる、なぐられるのはかまわないとしたところで、手塚は自分の悪事を悪事と思わずにますます堕落するだろう、かれには美点がある、だが欠点が多い、かれは美点を養わずに欠点をのみ増長させている、かくてかれは終生救うべからざる淵にしずむだろう。
こうかれは決心した。かれはすぐ手塚の家をたずねた。ちょうど勝手口に手塚の母が立っていた、光一は手塚の母がおりおり三味線を弾いているのを見たことがあるので、いつもなんとなく普通の人でないような気がするのであった。
「手塚君は?」
「まだ学校から帰りません」と母がいった。
「いいえお帰りになりました」と女中が横合いから声をだした。
「そうかえ」
「お着かえになってすぐおでましになりました」
「どこへいったんですか」と光一がきく。
「さあどこですか、なんだか大変にお急ぎでいらっしゃいました」
「活動じゃないかえ」と母がいった。
「そうかも知れません」
光一は一礼して外へ出た。
「活動だ、それにちがいない」
光一は手塚の母が平気で、「活動じゃないかえ」
といった言葉をおもいだした。
あの家では活動を見ることを公然ゆるしていると見える、お母さんが承知の上なのだ、それに対して学校がいくら活動を禁じてもなんの役にもたたない話だ。
一体あの家では手塚が学校から帰ったかどうかもよく知らずにいる、それでは手塚が外でなにをしてるかを知らないのも無理がない。
「手塚は不幸な男だ」
光一はふとこう考えると目が熱くなった、家庭に楽しみがないから、外に楽しみを求めるのだ、活動、飲食店、不良少女、遊びの友達! かくてかれはなぐられねばならなくなる。
いろいろな感慨が胸に溢れた、かれはそのまま足を活動小屋に向けた。
光一とても絶対に活動写真を見ないではなかった、かれは新聞や雑誌や世間のうわさに高いものを五つ六つは見にいった、だがかれはいつもたえきれないような醜悪を感じて帰るのであった。
活動館の前に五色の旗が立って春風にふかれている、そこからいかにも無知な子守りや女工などが喜びそうな楽隊の音がもれて聞こえる、小屋の前の軒の下に写真がいくつもいくつも掲げられてその下に大勢の子供、米屋の小僧、小料理屋の出前持ち、子を背負う女中などが群れていた。光一が第一に不愉快なのは切符の売り場に大きなあぐらをかいてしりまであらわしているほていのような男が横柄な顔をしてお客を下目に見おろしていることである、それと向かいあって栄養不良のような小娘が浅黄の事務服を着てきわめてひややかに切符を受けとる。光一はそれをがまんしなければならなかった。
暗い幕をくぐって中にはいると正面のスクリーンに西洋人の女の顔が現われた、うす明かりに見物人の頭が見える、土曜日のこととてお客は一ぱいである。光一はようやく中ほどへ進んでようやくこしかけの端に腰をおろした、手塚がきていやしまいかとあたりを見まわしたが暗がりで見えない。
場内にはたばこの煙がもうもうと立ちこもって不潔な悪臭が脳を甘くするほどに襲うてくる、こしかけといってもそれはきわめて幅のせまい板を杭にうちつけたもので、どうかすると尻がはずれて地にすべりこみそうになる、それを支えているのはなかなか容易なことではない、なぜこんな不親切な設備をするかというに、三等席を不自由にしておくとお客はすぐ疲れて二等席に移るからである。お客を苦しめて金もうけをしようという興行師の策略だからたまらない。
実際興行師ばかりが悪いのでない、お客そのものも、そんなことは平気である、そのかわりにかれらはたばこものめば、物も食う、みかん、塩せんべい、南京豆、キャラメル、かれらは絶えず口を動かしている。みかんなどは音がせぬから無事だが、隣席の人が塩せんべいをボリボリ食うのでその音だけでも写真を見る興味を減ずることおびただしい、いろいろな食物から発する臭気やたばこの煙や不潔な身体から発する熱気が混合して一種のにごった空気となり、人間の鼻穴や口腔から侵入するために、大抵の人は喉の渇きを感ずる、ここにおいてラムネを飲んだりサイダーを飲んだりする。足元はどうかというとみかんの皮や南京豆のから、あらゆる不潔物ではきだめのごとくみだれている。
かくのごとく無知で不行儀な客を相手にするのだから興行師もそれ相当に不親切をつくすことになる。
「こんなきたないはきだめによくがまんができるものだ」と光一は思った。
写真は西洋のもので、いやにきらきら針のような斑点が光って見えるおそろしく古いものであった、光一はだまってそれを眺めた。ひとりの男とひとりの女が現われて肩に手をふれあった。見物人は声を挙げて喝采した。光一は思わず目を閉じた。それはいやしくも潔白な人間が目に見るべからざる不純な醜悪な光景である。
「ばかやろう!」
見物人の拍手の音の中でわれがねのようにどなったものがある。
「毛唐のけだものめ、ひっこめ」
声は彰義隊であった、かれは光一のちょうど鼻先にじんどっていた。
「おい」と光一は肩をたたいた。
「おう」
彰義隊はふりかえった。
「きてるのか」
「うむ、きみが忠告するはずだったが、おれはどうしてもあいつをぶんなぐらなきゃ腹の虫がおさまらないからやってきた」
「待ってくれよ、ね、決議にそむいちゃいかんよ」
「いや、おれはなぐる、忠告なんて手ぬるいことではだめだ、あれを見い、毛唐人は犬やねこのようなまねをしてそれが愛だというんだ、おれはそれが気に食わねえ、日本の写真はそのまねをしてるんだぜ、日本の役者……そうだおれはなにかの雑誌を読んだがね、米国では人間のうちで一番劣等なものは活動役者だって……そうだろう、劣等でなければ、あんな醜悪な動作をしてはずかしいとも思わず平気でやっておられんからな、けだものめ」
あたりの人はみなわらいだした。
「なにをわらうかばかやろう、おまえ達は趣味が劣等だから劣等なものを見て喜んでるんだ、うじ虫がくそを臭いと思わないように、おまえたちは活動写真を劣等だと思わないんだ、気の毒なやつだ、ばかなやつだ、死んでしまう方が国家の経済だ、やいそこにいる会社員見たいなやつ、帽子をぬげよ、そんな安っぽい帽子をおれに見せようたっておれは見てやらないぞ、インバネスを着やがってするめじゃあるまいし、やい女、ぼりぼりせんべいを食うなよ」
彰義隊はすっかり昂奮してどなりつづけた。
「もういいよ、どなるのはよせよ」と光一はなだめた。
「おれだってどなりたくはないさ、だが……ああ女がでた、あれはなんとかいう女なんだね、どうだ、毛唐の面はみんなさるに似ているね」
写真はおわった、場内が明るくなった。彰義隊は立ちあがって前後左右を見まわした。光一も同じく見まわした。かれは二階の欄干にひたと身体を添えて顔をかくしている手塚の姿を見た、はっと思ったがすぐ思い返した、いまここで彰義隊に知らしたら大さわぎになる。
「いないね」と彰義隊がいった。
「いないよ」
「畜生め、どこかにかくれてるんだ」
こういったときふたたび電灯が消えた。
「この間に手塚が逃げてくれればいい」と光一は思った。とこのとき彰義隊は拍手喝采した。
「やあやあ、近藤勇だ、やあやあ」
かれは「幕末烈士近藤勇」という標題を見て拍手したのであった。とすぐちょんまげの顔が現われた。
「あれは近藤勇か」と光一がきいた。
「ちがう、近藤勇はあんな懦弱な顔をしておらんぞ」
「きみは近藤勇を知ってるのか」
「知らんよ、だがあんな下等ないものような面じゃない」
「元来ちょんまげの頭は下等なものだよ、ぼくはあれを見るとたまらなくいやになる」
「それでも近藤勇ならいいよ、国定忠治だの鼠小僧だの、博徒やどろぼうなどを見て喜んでるやつはくそだめへほうりこむがいい、おれは近藤勇だ」
だが彰義隊君の期待するような近藤勇は現われなかった、のどに魚の骨を刺したような声で弁士は説明した、それによるといものような面は近藤勇なのである。
「だめだだめだ」と彰義隊はまたもや憤慨した。
「そら敵がきた、足をくばって、足、足! 足を……右足を軽くせんと横から斬りこまれたときに体が固くなるぞ、ああああだめだ、あの役者はすきだらけだ、あんな近藤勇があるもんか、ああばかッ、上段にふりかぶるやつがあるか、手元につけこんで胴を斬られるぞ、ばかッ切っ先がさがってる、切っ先が、そんな剣客が、ああああばかばかばか」
彰義隊があまりに憤慨するので周囲の人々はこそこそと逃げてしまった。実際彰義隊の目から見ると……光一の目から見てもこの役者の剣闘はめちゃめちゃなものであった、それでも見物人は喝采していた。
「おれは帰る」と彰義隊は立ちあがった、「ばかばかしくて見ておられん」
彰義隊はかんかんにおこって帰った、光一はほっと溜め息をついた。そうしてしずかに二階へあがった。暗がりの欄干のそばに手塚は頭から羽織をかぶって一生懸命にスクリーンを眺めながら声をかけている。
「いよう、大統領!」
その隣にいた小さい女の子が皮もむかずにりんごをかじっている、その隣で手塚より首一つだけ背の高いろばとあだ名されてる青年が奇妙な声で叫んだ。
「いよう、せいちゃん!」
「清ちゃん、しっかり!」と手塚は叫んだ。近藤勇に扮した役者は清ちゃんという名前なのだ。手塚はこういう場所で、役者やなにかの事をくわしく知っているということを見物人にほこりたいのであった。
「手塚君」と光一は声をかけた。手塚はふりむいたがすぐ横を向いた。
「手塚君」と光一はそばへ歩みよったときろばのひざに足をあてた。
「痛えな、気をつけやがれ」とろばはいった。
「失敬」
光一はあやまった、ろばは中学を二度ほど落第して退学してから、ぶらぶら家に遊んでは手塚とともにどこへでもいく男である。
「手塚君、ぼくはちょっときみに話したいことがあるんだが外へでてくれんか」と光一はいった。
「いやだ」と手塚はいった。
「ちょっとでいいんだよ」
「いやだというものを無理にひっぱりださなくたっていいだろう」とろばがいった。
「大事なことだからさ、でないときみの身体が危ないんだ」
「いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、面白いなぐってもらおう」
ろばはほえた。
「おまえはだまってろ」と光一はきっといった。「おまえに用があるんじゃない、手塚に用があるんだ」
「なにを?」
「喧嘩か、喧嘩するなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て」
光一はこういってじっとろばの顔をのぞいた、ろばはだまった、そうして隣席の女の子がかじりかけたりんごを取ってがぶりとかじった。
手塚は光一の権幕におそれてしぶしぶ席を立った。ふたりは外へでた。と向こうのくだもの屋の前で彰義隊がひとりの学生と話をしていた。光一はハッと思った。
「手塚隠れろ、荷車の横を歩いていこう」
ふたりは彰義隊に見つからぬように群衆にまぎれて材木屋の前へ出た。
「なんの用だ」と手塚は不平そうにいった。
「きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの忠告をきいてくれたらぼくは生命にかえてもきみを保護しようし、また学校でもきみをゆるすことになっている」
「ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない」
「それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」
「ぼくに改めるべき点があるのか」
「あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、その候補者としてきみが数えられている」
「ぼくが不良?」
「きみはよく考えて見たまえ」
「ぼくは考える必要がない」
「じゃ君、活動へいくのは?」
「活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ」
「そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ」
「面白いからさ」
「面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものが面白いかね」
「人はすきずきだよ、他人の趣味に干渉してもらいたくないね」
「いやそうじゃない、ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみの堕落を見すごすことはできない、ねえ手塚、きみは活動が好きだから見てもさしつかえないというが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動はもっとも低級で俗悪で下劣な趣味だ、下劣な趣味にふけると人格が下劣になる、ぼくはそれをいうのだ」
「活動は決して下劣じゃない」と手塚はいった、かれは光一のいったことが充分にわからないのである。
「じゃきみは活動のどういう点がすきか」
「近藤勇は義侠の志士じゃないか」
「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が扮した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野やただしは君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚で健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれを考えないのか」
「ぼくは劣等だとは思わない」と手塚はくりかえした、光一はどうしても高尚な意義を理解することができない手塚の低級にあきれてじっと顔を見つめた。歴史を読み聖賢や英雄の伝記を読み、山に野に遊び、野球を練習する。それだけでも活動よりはるかに面白かるべきはずなのに、どうして見る見るはきだめの中におちていくんだろう。
「気の毒だ、かわいそうだ」
光一は胸一ぱいになった。
「じゃ活動のことはそれでよしにしよう、第二にきみは飲食店へ出入りするそうだね」
「ああ、それがいけないのか、だれだって飲んだり食ったりするだろう」
「手塚君、ぼくだって人が洋食を食えば食いたくなる、そば屋へはいることもある、だがね、学生はどこまでも純潔でなければならないのだ、飲食店は大抵大人にけがされている、不潔な女が出入りする、学生はそういう……少しでも不潔な場所へいってはいけないのだ、身体がけがれるからだ、いいか、りっぱな玉はきりの箱に入れてしまっておくだろう、学生はけがれのない玉だ、それをきみはどぶどろの中に飛びこんでるのだ、きみは家にいれば洋食でもなんでも食える身分じゃないか、なぜ食べたければ家で食べないのだ、学校でやかましくいうのも形式ではない、そんなくさった趣味を喜ぶようにならないようにするためだ、きみのことばかりをいうのじゃないよ、ぼくだっておりおり大人のまねをしたいと思うことがある、だがそれはいやしいことだと思いかえすだけだ」
「いやだ、ぼくはぼくの銭でぼくの好きなところへゆくのに学校がなにも干渉するにはあたらないじゃないか」
「手塚君、きみはどうしてもぼくの忠告をきいてくれないのか」
「いやだ、ぼくに悪いことがないんだ」
「それではきみ」と光一は憤然として目をみはった。「ぼくはきみを侮辱したくないからこれだけいって後はきみの反省にゆずるつもりでいたのだ。が、きみがあくまでもがんばるならぼくはいわなきゃならん」
「なんでもいうがいい」
「きみの心は潔白か」
「無論だ」
「良心に対してやましくないか」
「やましくない」
「きみは不良少女と遊んでるね、いまきみの隣にいてりんごをかじっていた女の子はなんだ」
「あれは……」と手塚はどもった。
「あれはどろぼうして二、三度警察へあげられた子じゃないか」
「あれは……ろばの友達だよ」
「ろばはきみの親友だろう」
手塚はだまった。春の日は暮れかけて軒なみに灯がともりだした、積みあげた材木にかんなくずがつまだちをして風にふかれゆくとはるかに豆腐屋のらっぱがあわれに聞こえる。光一は手塚の肩に寄り添うてその手をしっかりとにぎった。
「手塚! いま聞こえるらっぱはだれだか知ってるだろう、青木だ、青木は学校へ行きたくても銭がない、小学校にいたときはかれはいつも一番か二番であった、きみやぼくよりも頭がいいのだ、学問をしたらぼく等よりはるかにりっぱになる人間だ、それでも家が貧乏で父親がないために、毎日毎日らっぱをふいて豆腐を売り歩いている、きみやぼくは両親のおかげで何不自由なくぜいたくに学問しているが、青木は一銭二銭の銭をもうけるにもなかなか容易でない、きみが活動を見にいく銭だけで青木は本を買ったり月謝を払ったり、着物も買うのだ、きみの一日の小遣いは青木の一ヵ月働いた分よりも多い、そんなにぜいたくしてもきみやぼくはありがたいと思わない、あんなに貧乏しても青木は伯父さんをありがたいと思っている、なあ手塚、青木は活動も見ない、洋食も食べたことはない、バイオリンもひかない、女の子と遊びやしない、かれはただ一高の寮歌をうたって楽しんでいる、不器用な調子はずれな声をだして、ああ玉杯に花うけてとうたっている、それだけが彼の楽しみだ、この楽しみに比べてきみの楽しみはどうだ、活動、洋食、バイオリン、君の楽しみは金のかかる楽しみだ、青木は堤の草に寝ころんで玉杯をうたってるとき、きみはがま口から銀貨をつかみだして不良共にふりまいている、どっちの楽しみが純潔だろう、ぼくはきみを攻撃する資格がない、ぼくだって青木に比べるとはるかに劣等だ、劣等なぼくらが不自由なく学問しているのに、優秀な青木は豆腐を売っている、もったいないことだ、もしぼくらが親を失い貧乏になったら青木のごとく苦学するだろうか、きみはいつも青木を軽蔑するが、それがきみの劣等の証拠だ、活動に趣味を有するものは高尚な精神的なものがわからない、なあ手塚、腹が立つなら奮発してくれ、ぼくのお願いだ、ぼくは一生きみと親友でありたいのだ」
光一の言葉は一語ごとに熱気をおびてきた、かれは手塚の自尊心を傷つけまいとつとめながらも、次第にこみあげてくる感情にかられて果ては涙をはらはらと流した。
「柳!」
手塚はぐったりと首をたれていった。
「堪忍してくれ、ぼくは改心する」
「そうか」
光一は嬉しさのあまり手塚をだきしめたが急に声をだしてないた。手塚もないた。日は暮れてなにも見えなくなった。横合いの小路をらっぱをふきふきチビ公が荷をゆすってうたいゆく。
「……清き心のますらおが、剣と筆とをとり持ちて、一たびたたば何事か、人生の偉業成らざらん、ぷうぷう、豆腐イ、ぷうぷう」
十一
柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、かれの一番好きなのは朝である。かれは朝に目をさますと寝床の中で校歌を一つうたう、それから床をでて手水をつかい茶の間へゆくと父と母と妹が待っている。
「お兄さんは寝坊ね」
妹の文子はいつもこうわらう、兄妹の規約としておそく起きたものがおじぎをすることになっている、光一は毎日妹におじぎをせねばならなかった。癪にさわるが仕方がない。
茶の間にはさわやかな朝日が一ぱいに射しこむ。飯びつやなべからあがる湯気はむつまじげに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、母は三人のお給仕にいそがしく自分で食べるひまもなかった。かの女は光一と文子の食力を計算する事を決してわすれなかった、今日はいつもより多く食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではないかと心配する。大抵光一は五杯の飯を食べるが文子は三杯であった、5対3ではあるが、光一の方はスピードが速いのでほとんど同時におしまいになる、それから一緒に家をでる。
「おまえ後からおいで」
「兄さんは男だから後になさいよ」
この争いは絶ゆることがない、二、三年前までは一緒に肩を並べていったものだが、このごろではふたり揃うてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては迷惑至極であった。
「きみの妹は綺麗だね」
こう友達にいわれてからかれはたとえ親父の葬式の日でも妹と一緒には歩かないと覚悟を決めた。
だがかれは妹が好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの脳天に水色のちょうちょうのリボンをつけているが、それが朝日に輝いていかにもかわいらしい、かれはまた文子の長いえび茶のはかまやその下から見えるまっすぐな脚と靴の恰好が好きであった。文子は洋服よりも和服が似合う。文子はまただれよりも兄さんが好きであった、野球試合のあるときにはかの女はいつも応援旗を持ってでかけた、兄さんが負けたときには家へ帰って夕飯も食べずに寝てしまうのでいつも母にわらわれた。
そのくせふたりはおりおり喧嘩をした、文子の一番嫌いなことは顔がふくれたといわれることである。
「おい、おまえの頬っぺたがだんだんふくれてきたね」
「いいわ」
「後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてるぞ」
「いいわ」
「ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの頬っぺたを売ってたよ、買ってこようと思ったら丸いなすだった」
「いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの?」
「これはじきなおるよ」
「口のはたに黒子があるから大食いだわ」
「食うに困らない黒子なんだ」
喧嘩のおわりはいつも光一が母に叱られることになっている。だがふたりのむつまじさはよその見る目もうらやましいほどであった。文子は心の底から兄を尊敬していた、というのはかの女は学校から帰って兄に英語や漢文の下読みをしてもらう、それには一つもあやまりがないからである。かの女の友達もことごとく光一を好きであった、かの女等が文子のもとへ遊びにくると、文子は兄の書斎を一覧させる、大きな書棚に並べられた和洋の書籍を見てかの女等はいずれも驚歎の声をあげる。兄がほめられるのは文子に取って無上の喜びであった。
ある日文子は雑誌を買おうと思ってがま口を懐にして外へでた、雑誌屋の店頭に男女の学生が群れていた。この店は二年前までは至極小さな店で文房具少しばかりと絵本少しを並べていたのだが、見る見る繁昌しだして書籍や雑誌がくずれるまでに積まれてある。やせた神経質らしいおかみさんはひとりのいつも眠そうにしている小僧をひどくどなりつけてお客の手先と商品とを監視させているが、それでも毎日一冊ぐらいは盗まれるのである。
学生の中には毎日決まって雑誌を読みにくるのがある、それが一冊でも買うのかと思うと一冊も買わない、二時間も立って一とおり読みおわると翌日また別なのを読みにくる、こういうのはただ読んでゆくだけだから罪が軽いが、ひどいのになると五、六人団結してあれやこれやとひっくりかえしてその混雑にまぎれてふところへかきこむ。大抵はその顔を知っているものの、ことをあらだてるとかえって店の人気がなくなる。そこでおかみさんの癇癪が小僧の頭に破裂する。
「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしゃりッ。
小僧だって朝から晩までどろぼうのはり番をするということはなかなかつらい、かれは十七になるが、十三か十四ぐらいにしきゃ見えない、毎日毎日頭をなぐられるから上の方へ伸びないのだとかれ自ら信じている。
文子は新刊の少女雑誌と英語の雑誌を買った、それから書棚を見ると漢文の字典があったのでそれを引きぬいた、それでやめにしようと思ったがこのときかの女は現代名画集というのを見た、それは叢書の第一巻でかの女がつねにほしいほしいと思っていたのであった。かの女はそれもひきぬいておかみさんにいった。
「これだけでいくらですか」
おかみさんはこれが柳家の令嬢だとは気づかなかった。
「五円六十銭です」とかの女はいった。
「そう?」
文子はがま口をあけて銀貨を掌に数えた、一枚二枚三枚……。五円二十銭しきゃない。
「あら、たりないわ」
文子は顔をまっかにしていった、かの女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を見てるような気がした。おかみさんは冷ややかに文子を見やった。
家へ帰ってお母さんにお銭をいただいてこようかしら、と文子は考えた、だがそのあいだにこの本が他人に買われると困る、かの女はまったく途方にくれた。もしかの女が私は柳の娘ですから宅へ届けてくださいといったなら、おかみさんは二つ返事で応ずるのであった、ところが文子にはそれができなかった。
「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。
「四十銭足りないのよ」
「へえ」
おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が文子に声をかけた。
「文子さん、私だしてあげますわ」
文子はその人を見た、それはかの女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした手提げ袋から銀貨を取りだした。
「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。
「いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ」
「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」
「あらいいわ」
文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んでもらった。
「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない? お金をお返しするから」と文子はもう一度いった。
「いやねえ、あなたは水臭いわ」
文子は水臭いという意味がわからなかった。
「でもお借りしたんだから」
「一緒に散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは大通りからはすの横町に出た、そこの材木屋の材木の上に大勢の子供が戦争ごっこをしていた、それから少しはなれて生け垣の下で三人の学生がなにやらこそこそ相談をしていた。
「いやだ」とひとりがいう。
「おれもいやだ」と他のひとりがいう。
「おれにまかせろ」と背の高いひとりがいう、それはろばというあだ名のある青年であった。かれらは新ちゃんと文子を見るやいなやだまった。
「なにをしてるの?」と新ちゃんがいった。
「ちょっとおいで」とひとりがいった。新ちゃんは三人のまどいにはいった。四人は顔をつきあわしてなにか語った。文子はろばをはじめとして他のふたりの少年とはあまり親しくなかったのでなんとなき不安を感じながら立っていた。
「いきましょう」と新ちゃんは文子に近づいていった。
「私の家へいってくださる?」
「ああおよりするわ、でもなにか食べてからにしましょうよ」
「なにを食べるの?」
「私ね、おしるこを食べたいわ、それともチャンにしましょうか」
「チャンてなあに」
「支那料理よ」
「私食べたことはないわ」
「おいしいわ」
文子は学校で友達から支那料理のおいしいことを聞いていた。どんなものか食べてみたいと母にいったとき、母はそんなものはいけませんと拒絶した。
「だが食べてみたい」
好奇心が動いた。
「でも私お金が……」
「私持ってるからいいわ」
「いけない」と文子は猛然と思い返した、母に禁ぜられたものを食べること、他人のご馳走になること、これはつつしまねばならぬ。
「私叱られるから」
「叱られる?」
新ちゃんはにやにやとわらったがやがてまたいった。
「じゃよしましょうね」
ふたりは活動写真館の前へ出た、日曜のこととて館前は楽隊の音にぎやかに五色の旗がひるがえっている。新ちゃんは立ちどまった。
「はいってみましょうか、私切符があるわ」
「ああちょっとだけね」
文子はこのうえ反対ができなかった、かの女は五、六度女中や店の者と共にここへきたことがあるのだ。写真を見たとて母に叱られはしまい。こう思った。
新ちゃんと文子は暗がりを探って二階の正面に陣取った、写真は一向面白くなかった、がだんだん画面が進行するにつれて最初に醜悪と感じた部分も、弁士の黄色な声もにごった空気もさまでいやでなくなった、そうして家庭や学校では聞かれない野卑な言葉や、放縦な画面に次第次第に興味をもつようになり、おわりには筋書きの進行につれてないたりわらったりするようになった。
「面白い?」と新ちゃんはいくどもきいた。
「面白いわ」
ぱっと場内が明るくなるといつのまにかさっきの三人が後ろにきていた。
「出ようよ」とひとりがいう。
「うむ」
新ちゃんと文子も二階を降りた。
「こっちが近い」
ひとりがいった、一同は路地口からどぶいたをわたった、そうして、とある扉を押してそこから階段を昇った、昇りつめるとそれは明るいガラス戸のついた支那料理屋の二階であった、向こう側の呉服屋その隣の時計屋なども見える。
「私帰るわ」と文子はおどろいていった。
「いいじゃないの? ワンタンを一つ食べていきましょう」と新ちゃんがいった。
「でも……私」
「お金のことを気にしてるんでしょう、かまわないわ、この人達はねいま材木屋の前でお金を拾ったんですとさ、いくらおごらしてもかまやしない、ねえろば」
「ろばろばというなよ」とろばがいった。
新ちゃんはだまってがま口をろばになげつけた。銀貨がざらざらとこぼれた。
「いくら使ったえ」と他のひとりがいった。
「二人前の切符代だけもらったよ」と新ちゃんがいった。
「拾ったお金で活動を見たの?」と文子は仰天していった。だれもそれには答えなかった。
「帰らして頂戴」と文子はなき声になった。
「帰ってもいいよ、どうせおれ達の仲間になったんだから、帰りたければ帰ってもいい」
「私が仲間?」
「おまえ達はだまっておいで」と新ちゃんは男共を制した、そうして文子にこうささやいた。
「こわいことはないのよ、あの人等はばかなんだから……でも文子さん、あなたも同じがま口の金を使ったんだからお友達におなりなさいね、そうしないとあの人等はお宅へいってお母さんになにをいうか知れませんよ、ねえ、毎日でなくても、たまにちょいちょい私達と遊びましょう、ね、お母さんに知れたら困るでしょう」
文子は呼吸もできなかった、実際すでに不正な銭のご馳走になったのである、こんなことが母に知れたら母はどんなに怒るだろう、怒られても仕方がないが、母が歎きのあまり病気になりはしないか、それからまた兄さんは……兄さんの名誉にかかわることがあると……。
哀れ文子は四苦八苦の死地に陥った、かの女は去るにも去られなくなった。と階段の音が聞こえてひとりの学生が現われた。
「やあ」
文子は顔をあげた、それは兄の友の手塚であった。かれはロシアの百姓が着るというルパシカに大きな縁のあるビロードの帽子をかぶっていた。
「どうしたの? 文子さん」とかれはいった。文子は手塚の腕にすがりついてなきだした。
「お前達はどうかしたんじゃないか」と手塚はなじるように一同に向かっていった。
「なにもしないよ」とろばがいった。
「悪いことを教えると承知せんぞ」
手塚の語気はますます鋭い。
「いやにいばるのね」と新ちゃんがいった。
「だまってろ」と手塚はどなりつけて文子の涙をハンケチで拭いてやり、
「心配しなくてもいいよ、さあ僕と一緒に行きましょう」
手塚につれられて文子は外へ出た、文子は歩きながら一伍一什を手塚に語った。
「わかってるよ」と手塚はいかにも侠客のような顔をしていった。
「あいつらはね、あなたをわなにかけて銭をゆすろうて計略なんだ、ぼくが引きうけていいようにするから安心していらっしゃい」
「でも私新ちゃんに四十銭と活動のお銭を返さなきゃならないわ」
「いいよ、それも僕が引きうけたから」
手塚は文子の家近くまで送ってきた。かれはわかれぎわにこういった。
「兄さんに秘密だよ」
「ええ」
読者諸君! 世に不良少年少女というものがある、かれらとても決して生来の悪人ではないのだ、だがそれらの多くは意志が薄弱で忍耐力がなく、健全な道徳観念がないところからわがままになり野卑になり学校が嫌いになり、そのかわりに娯楽を求める念が盛んになる、上品な娯楽は人間の霊の慰安になるが、下等な娯楽は霊を腐食する黴菌である。
読者諸君! 諸君は決してゆだんをしてはならぬ、諸君の前にいろいろな陥しあなが口をあいて待っているのだ、諸君は右を見ても左を見ても諸君を誘惑するものが並び立っているとき、自らの理性に訴えて悪をしりぞけ善を採用せねばならぬ、諸君の思慮にあまる場合にはそれを隠さずに父母や兄や姉や学校の先生に相談せねばならぬ。
災難や過失は何人もまぬかれることはできない、が、その場合に父母に叱られることをおそれたり、先生にわらわれることをおそれたりして浅墓な自分の知恵で秘密にことを運ぼうとするとその結果たるやますます悪くなるばかりである。もし文子が早くも父母もしくは兄の光一にすべてを打ちあけたなら、災難はその日かぎりで無事にすんだのである。人の子たるものは父母に対して秘密を作ってはならぬ、人の弟や妹たるものは兄や姉に対して、そうして人の弟子たるものは師に対して秘密を作ってはならぬ、秘密を打ちあけることははずかしいが、打ちあけなければ罪が次第に深くなるのだ。秘密を打ちあけたとて決してそれをしかったりわらったりするような父母兄弟や先生はこの世にない。
読者諸君! 少年時代に一番つつしまねばならぬのは娯楽である。娯楽にはいろいろある、目の娯楽、耳の娯楽、口の娯楽、それらよりももっとも有益なのは心の娯楽である。
活動写真、飲食店、諸君がいつも誘惑を受けるのはこれである。娯楽には友達が必要である、諸君はこのために活動の友達や飲食の友達ができる。不良気分がここから胚胎する。そのうちに奸知あるもの、良心にとぼしきものはこの娯楽を得るために盗賊を働く、ひとりでは心細いから相棒を作る、弱いものを脅迫して金品をまきあげる、他の子女を誘惑して同類にひっこむ、一度この泥田に足をつっこむともう身動きができなくなる。
読者諸君! 孝子は巌牆の下に立たずといにしえの聖人がいった、親のあるものは自重せねばならぬ、兄弟姉妹のあるもの、先輩のあるものは自重せねばならぬ、いやしい娯楽場へ足をふみ入れて生涯をあやまることは愚のきわみである。
さて文子はどうなったか、文子の兄光一はそのころ野球にいそがしかった、かれの学業はますます進み同時に野球の技術がすばらしいものになった。かれの身の丈は五尺四寸、腕は鉄のごとく黒く、隆々とした肉が肩に隆起し、胸は春の野のごとく広く伸びやかである。かれの母はいつもかれを見やって微笑した。
「私より首一つだけ大きくなった、この子はしようがないね、去年の着物がみんな間にあわなくなった」
こうこぼしながらも心中の喜びは抑えきれない。それと同時に文子も次第に美しくなった、が文子の顔に何やら一点の曇りがたなびきはじめた。
「おまえどうかしたのかえ」と母がきく。
「なんでもないわ」と文子はわらった。だが文子は決してなんでもなくはなかったのである。かの女は例の一件があってからその秘密を手塚ににぎられてしまった。もしかの女が家へ帰って母に打ちあけたなら、こんな苦しみはせずにすんだのである。
手塚は一旦光一に忠告されて改心したもののそれはほんのつかの間であった、かれはどうしても娯楽なしには生きていられなかった、活動写真で低級な演劇趣味をふきこまれたかれは自分で芝居をして見たくなった。かれは活動を見ては家へ帰ってそのまねをした、もしかれが恥を知る学生であったなら、本当の正しき魂がある少年であるなら、国定忠治だの鼠小僧だの、ばくち打ちやどろぼうのまねを恥ずべきはずだが、かれにはそんな良心はなかった、かれはただ人まねがしたいのである、実際かれはそれがじょうずであった、かれはしゃものような声で弁士の似声を使ったり、また箒を提げて剣劇のまねをするので女中達は喜んで喝采した。
「坊っちゃまはお上手でいらっしゃること」
「男ぶりがいいから役者におなんなさるといい」
この声々を聞くと手塚はすこぶる得意であった、それと同時に母は鼻の下を長くして喜んだ、かれの母はすべて芸事が好きで一月に三度は東京へ芝居見物にゆくのである。
父は患者をことわっておおかみのような声で謡をうたう、母は三味線を弾いてチントンシャンとおどる、そうして手塚は箒をふるって、やあやあ者共と目玉をむき出す。大抵この場合に箒で斬られる役になるのは代診の森君や車夫の幸吉である。だが森君も幸吉もそうそうはいつも斬られてばかりいられぬ、たまに癇癪を起こして国定忠治を縁側からほうりだすことがある。そこで手塚の機嫌が悪くなる、したがって奥様も、だんな様も一家が不機嫌になる。
それやこれやで家の中ばかりの芝居は面白くなくなった、そこで手塚は同志を糾合して少年劇をやろうと考えた。幸いなことにろばの父は製粉工場の番人である、この工場は二年前に破産していまではなかば貸し倉庫のようになっている、その一部分だけでも優に芝居に使用することができる。
手塚は毎日そこへ出張して芝居の稽古をした、かれは監督であり座長であった、ろばは敵役や老役を引きうけた、新ちゃんは母親やお婆さんになった、若くてきれいで人気のある役は手塚が取ったが、ここに一番困ったのは若い娘に扮する女の子がないことである、手塚はそれを文子にあてた。
「いやよ、私いやよ」と文子は顔をまっかにして拒絶した。
「いやならいいよ、ぼくはあなたのお母さんにたのんでくる、これこれのわけで文子さんはぼくらの仲間になったのだからってね」
文子は当惑した、母に秘密をあばかれては大変である。
「じゃ私やるわ」
毎日集まるたびに一同は何か食べることにきまっていた、うなぎやてんぷら、支那料理、文子はいろいろなものをご馳走になった、それらの費用は大抵手塚からでた。だが手塚とても無尽蔵ではない、かれも次第に小遣い銭に困りだした。
「文子さん、どうにかならないか」
毎日人のご馳走になってすましているわけにゆかない、文子は母に貰った小遣い銭を残らずだした、二、三日すぎてかの女は貯金箱に手をつけた、それからつぎに本を買うつもりで母をだました。そうしなければ秘密をあばかれるからである。こういう状態をつづけてるうちにかの女はだんだんこの団体の不規則で野卑な生活が好きになった、母の前で行儀をよくしたり、学校の本を復習したりするよりも男の子と遊んで食べたいものを食べているほうがいい。
文子の母はいままでとうってかわった文子の態度に気がついた。かの女は文子をきびしくいましめようと思った、だがその原因をきわめずにいたずらにさわぎを大きくしてはなんの役にも立たぬ、これにはなにか力強い誘惑があるにちがいない。
こう思うものの悲しいかなかの女はそれを探偵すべき手がかりがないのであった、父にいえばどんなに叱られるかしれない、十六にもなれば人の目につく年ごろだからめったなことをして奉公人共に後ろ指をさされることになると、あの子の名誉にもかかわる、さりとてうちすておくこともできない。
わが子を叱りたくはないが、叱らねば救うことはできない、母は思案に暮れた。かの女はとうとう光一の室へいった。
「光一、おまえに相談があるんだが……」
「なんですか、なにかうまいものでもぼくにくれるの?」と光一は微笑していった。
「それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?」
「変ですな」
「そうだろう」
「ほっぺたがますますふくれる」
「そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい」
「居残りの稽古があるんです」
「でもね、お金使いがあらいよ」
「本を買うんです、いまが一番本を買いたい年なんです、ぼくにも少しください」
「おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろうか」
「そうです」
「でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ」
「作文の稽古ですよ、あいつなかなか文章がうまいんです」
「このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ」
「男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道づれになることがある、隣の珠子さんが犬に追われたとき、ぼくはおんぶして帰ってきた」
「おまえはなんとも思わないかね」
「だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あなたの娘です」
「そうかね、それならいいが」
母は安心して室をでた、あとでひとり光一はテーブルにほおづえをついて考えこんだ、文子が毎日晩く帰る、たまに早く帰っても道具をほうりだしたままどこかへでてゆく、それについては光一も面白からず思っている、のみならず、このごろはしみじみと話をしたこともない、母の言葉によってさてはなにかよからぬことがあるかも知らぬ、と思ったものの、母に心配をかけるのはなによりつらい、できることなら自分ひとりで事の実否をきわめてみたい、そうして不幸にも妹に危険なことがあるなら母にも父にも知らさずに、自分ひとりで万事を解決してやろう、こう思ってわざと平気を装うて母に安心さした。
だが文子ははたして悪魔の手に落ちたであろうか。
光一は、じっとそれを考えつづけるうちに階下の方で文子の声がした。
「ただいま!」
光一は立ちあがった、二階を降りると文子は靴をはくところであった。
「文さん」と光一は呼びとめた。
「なあに?」
「どこへいくの?」
「お友達が待ってるのよ、テニスよ、今日は復讐戦よ、大変よ」
「ちょっと待ってくれ」
「だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ」
かの女は風呂敷包みをほうりだしてさっさとでていった。光一は風呂敷包みを持ったまましばらく妹の後ろ姿を見送ったが、急に二階の書斎へかけあがった。かれは風呂敷包みを解いた、中から歴史や地理や図画や筆箱などがでた、かれはそれらを一つ一つしらべると雑記帳の間から一封の手紙が落ちた。封筒にはただ「文子様」と書いてある。
かれは中をひらいた。
「一昨日逢って昨日逢わなかった、いつものところへ来てください、今日は大事な相談があります。文子さん……千三より」
「あっ」とばかりに光一は思わず声をあげた。
「千三! 千三! 青木か、ああ青木が……あのチビ公が、畜生!」
茫然としりもちをついた光一の顔は見る見る火のごとく赤くなった。畜生! 恩知らず! あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつがおれもおれの父もあれだけにつくしてやったにかかわらず妹を誘惑して妹から銭を取りやがった、ああチビ公! そんなやつだとは思わなかった、おれは売られた、おれは……おれは……。
光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐに千三の家へ走った。
「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は留守ですよ」と千三の母がいった。
「商売から帰らないのですか」
「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」
「さようなら」
光一はすぐ引きかえして黙々塾へでかけた。塾にはだれもいなかった。光一はひっかえそうとすると窓から瘠せたひげ面がぬっと現われた。
「やあ柳君、ちょっとはいれ」
「ぼくは急ぎますから失礼します」
「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ」
「ですが先生、ぼくは……」
「敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者は浦中にあるかも知らんが、黙々塾にはひとりもないぞ」
「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は中腹になっていった。
「よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか」
「飲みます」
「一日何升の水を飲むか」
「そんなに飲みません」
「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回は一瓢の飲といったが、あれは三升入りのふくべだ、聖人は」
「さようなら」
光一はたまらなくなって逃げだした。
「ばかにしてやがる、塾長があんな風だから弟子共までろくなものがない、あん畜生! チビのやつ、どこへいったろう」
光一は赫々と燃え立つ怒りにかられながら血眼になって千三を探しまわった、かれは大抵千三が散歩する道を知っていたので調神社の方へ走った。かれは夢中に並み木と並み木の間をのぞいたりお宮をぐるぐるまわったりした。と、かれはふと大きな松の下で人影を見た。
十二
わが妹を誘惑して堕落の境にひきこもうとしつつあるチビ公をさがしまわった光一がいま松の下陰で見たのはたしかに妹文子の片袖とえび茶のはかまである。
「ひとりだろうか、ふたりだろうか」
かれにはそれがわからなかった。十幾本となく並んだ松と松との間はせまい。
「どうしてこんなところへ来てるんだろう、多分チビと一緒だろう」
光一はこう考えた、だが急にふたりの前へ出たらふたりはおどろいて逃げるかもしれない。かれはこう思ってしずかに足をしのばした。と突然横合いの松かげから口笛が起こった。と思う間もなく石のつぶてが四方から飛んできた。
「だれだ」と光一は背後を向いていった。が人の姿は見えない。菜の花畑の間や肥料小屋の間からさかんにつぶてが飛んでくる。
「卑劣なやつだ、でてこい」
かれはこういいながら八方を睨んだ。そうしてふたたび文子の方を見やると文子の姿はもう見えない。
「しまった、どこへ逃げたろう」
かれは血眼になってさがした。もうつぶては飛んでこないが、お宮の境内はしんとして人の音もない。風が出て松のこずえをさらさらと鳴らした。こまかい葉の影のところどころに春の日がこぼれたように大地に光っている。光一はお堂の前にでた。そこの桜の下に千三が立っている。光一は赫とした。かれは野猪のごとく突進した。
「おい、チビ!」とかれは叫んだ。千三はおどろいて顔をあげた。かれはいま石獅子の写生をしていたのであった。
「やい、きさまはおれをだましたな、きさまはおれの妹をきさまは……きさまは……」
あまりにせきこんだので光一の声が喉につまった。千三はあきれて目をきょろきょろさせた。かれは光一がいたずらにこんなことをいってるのだと思った。
「やい、きさまはここでなにをしてるんだ」
「ぼくは高麗犬の写生をしてるんだよ、どうもね、一つの方が口をあいて一つの方が口をしめてるのがふしぎでならねえ」と千三はいった。
「なにがふしぎだ、きさまがここにいる方がよっぽどふしぎだ、ばかやろう!」
「きみは本当にそんなことをいってるのか」と千三は改まった。
「あたりまえだ、きさまはおれの妹を誘惑したろう」
「ぼくが!」
「あそこの松のところで妹と話をしていたのだ、それをおれが見た、きさまから妹にやった手紙も見た、知らないとはいわせないよ、ばかッ」
「おい柳! どうしたというんだ、ぼくがきみの妹を? きみ! きみ! それは嘘だ、とんでもないことだ、きみ、誤解しちゃいけないよ」
「白ぱっくれるなよ、おれには証拠がある」
「じゃ証拠を見せたまえ」
「証拠はこれだ」
光一は拳骨を固めて千三の横面をなぐった。あっと千三は頬に手をあてた。かれは火のごとく顔を赤くしたがやがて目に一ぱいの涙をためた。
「きみはぼくをなぐったね」
「無論だ、文句があるならかかってこい」
「柳君!」と千三は光一の腕をとった。「きみは後悔するぞ、きみはぼくをそんな人間だと思っていたのか、きみは……」
「なにを? 生意気な」
光一は千三を横に払った。千三は松の根につまずいて倒れた。筒袖の袷にしめた三尺帯がほどけて懐の写生帳が鉛筆と共に大地に落ちた。このときお宮の背後から手塚が現われた。
「やあ柳! どうしたのだ」と手塚がいった。
「こいつはね、不都合なことをするからこらしてやったんだ」
「チビじゃないか、おいチビ、おまえ一体生意気だよ、おまえはなんだろう、いま、ここで文子さんと話していたんだろう」と手塚はいった。
「ぼくはひとりだよ」と千三は起とうともせず大地に座りながらいった。
「隠すなよ、おれがちゃんと見ていたんだ、なあ柳、こいつはゆだんがならないよ、気をつけたまえね、しかしこのくらいやっつけたら二度と悪いことはしまいから堪忍してやれ、可哀そうに、おいチビ、改心しろよ」
手塚は光一をなだめなだめして手を曳いて去った。境内はふたたびもとの静寂にかえった。さらさらさらと動く松の梢の上に名も知らぬ小鳥が一つどこからともなく飛んできてさえずりだした。その間から遠くの空の白い雲が見える。千三は座ったまま動かなかった。かれはなにがなにやらわからなかった。かれの第一に感じたのは光一の乱暴! そのつぎに起こったのは金の力と腕の力の相異によってだまって侮辱に甘んじなければならぬ悲しさであった。柳は財産家の子だ、それに腕力が強い、貧乏で身体が小さいおれはかれに対して抵抗することがない。
いやいやとかれは思い返した。これにはなにか事情がある。おれが第一になすべきことはおれの潔白を明らかにすることだ。もし文子さんを誘惑したという疑いがおれにかかってるものとすればおれはその事実をきわめて柳に謝罪させなければならぬ。そのときこそはおれは決して一歩もゆずらない。かれがいま、おれをなぐったほどおれもかれをなぐってやる。
このことがあってから光一と千三は仇敵のごとくになった。ふたりは道で逢っても顔をそむけた。
「いまに復讐してやるぞ」
千三はこう肚の中でいった。文子は光一にきびしく説諭されてふたたび手塚の許へゆかなくなった。月日はすぎて、暑中休暇が近づいた。するとここにめずらしい事件が起こった。
浦和学生弁論会!
野球の試合ばかりが学生の興味でない。体力を養成するとともに知識を求めなければならぬ。浦和各中等学校の学生が一堂に会して弁論を研究しよう、これが目的で学生弁論会なるものが組織された。元来浦和に他山会なるものがあって、師範学校と中学校の学生有志が一つの問題を提供して両方にわかれて討論したのであった。だがこの会には弊害があった。師範学校と中学校と、学校によって議論をわけたので、つまり対校試合と同じものになった。それがために中学生が師範生の説に賛成することができなかったり、師範生が自分の校友の説に反対することができなかったりそのために個人個人の自由意志が束縛されて弁論の主義が立たなくなった。そこで浦和弁論会はいずれの学校に属する学生でも自由に所懐を述べてさしつかえないことにした。そうして黙々塾をも勧誘した。いよいよ当日となった。場所は師範学校の大講堂である。時は夕方から。
この催しを聞いて浦和の町の父兄達も定刻前に会場へつめかけた。各学校の先生達はわが生徒に勝たせようとしのびしのびに群集の中にまぎれこんでいった。時刻になると師範生のおそろしく丈の高い男が演壇に現われた。かれはすこぶる愛嬌者で頭の横に二銭銅貨ぐらいのはげがあるので銅貨のあだ名があった。かれは妙にきどって両手を腰の左右にくの字につっぱった。
「玩具の兵隊!」とだれかが声をかけた。かれはそれを聞いて脚を固くつっぱって歩くまねをしたので群集はどっとわらった。こういう滑稽な男が司会をしたということは会の威厳を損じたに違いないが、しかし二つの学校の生徒がしのぎをけずって戦おうという殺気立った会場を春のごとく平和にしたのはこの男のおかげである。
弁論の題はこの席上で多数決で決めることになっている。
各自の抱負をのべること、
科学について、
英雄論、
この三つが提出された。英雄論を提出したのは手塚であった。司会者は採決した。英雄論が大多数をもって通過した。それはいかにも青年にふさわしき題であった。学生の眼はことごとく異様に輝き、その呼吸が次第にせまってきた。しかしだれあってまっさきに立つ者がなかった。すべてこういう場合に先登をする者はきわめて損である。いかんとなれば後の弁士に攻撃されるからである。中学生はことごとく手塚と柳の方を見やった。手塚はしきりにノートをくっている。光一は微笑している、師範学校側では野淵という上級生と矢島というのが人々に肩をつかれていた。黙々塾ではみながチビ公をめざした。チビ公は頭を縮めてひっこんだ。と、突然演壇に立った青年がある。それは例の浜本彰義隊であった。かれは剣道の稽古着に白いはかまをはき、紐の横にきたない手ぬぐいをぶらさげたまま、のそのそとテーブルの上の水さしからコップで水を飲んだ。
「水を飲みにあがっちゃいかん」とだれかがいった。実際彰義隊は弁舌がへたなので何人もかれが演説をすると思わなかったのである。
「満場の諸君!」
彰義隊はきっと直立して両手をはかまの紐の間にはさみ、おそろしく大きな声でどなった。会衆はわっとわらいだしたがすぐしずかになった。
「満場の諸君!」とかれはふたたびいった。そうしてまた「満場の諸君!」とどなった。会衆はわくがごとくわらった。
「わが輩は英雄を崇拝する、わが輩は英雄たらんとしつつある。わが輩は諸君が英雄たることを望む、小説や音楽や芝居やさらにもっとも下劣なる活動写真を見るようなやつは到底英雄にはなれない。わが輩はそいつらをばかやろうと呼ぶ、今夜ここに英雄もきているだろうが、ばかやろうもなかなか多い、わが輩は片っ端からぶんなぐって首を抜いてやるからそう思え」
「脱線脱線」と叫んだものがある。
「なにを? ……」
「暴言はやめてください」と司会者の銅貨が注意した。
「よしッ、わかりました、そこで満場の諸君!」
彰義隊はこう向きなおってなにかつづけようとしたがなにをいうつもりであったか忘れたのでしきりに頭をかいた。
「おわりッ」
かれは壇を降りた、拍手と笑声とが一度にとどろいた。
「ただいまのは少し脱線しました、次は……」と銅貨がいった。このとき手塚がみなに押されて座席をはなれた。会衆は波の如く動いた。手塚は器用で頓知がある、人まねがじょうずで、活動の弁士の仮声はもっとも得意とするところであり、かつ毎月多くの雑誌を読んであらゆる流行語を知っている。かれは新しい制服を着てなめらかに光る靴をはいていた。
拍手に送られてかれは演壇に立った。
「私は英雄を非認するためにこの演壇に上がりました、私は歴史のあらゆる頁から英雄を抹殺したいと思います。英雄なる文字は畢竟奴隷なる文字の対象であります、私共の祖先は英雄の奴隷であったのです、個人の権利を侵掠して自己の征服欲を満足させたものは英雄であります、もし今日……デモクラシーの今日においてなお英雄を崇拝するものあらばそれは個人の生存権利を知らない旧い頭の持ち主であります」
一気にすらすらといいだした流暢な弁舌はさわやかに美しい、彼の目はいかにも聡明に輝き、その頬は得意の心状と共にあからんだ。
「よくしゃべる奴だ」と彰義隊が叫んだ。
「しッしッ」と制する声。
手塚は会衆を満足そうに見おろしてつづけた。
「一将功成りて万骨枯るという古言があります、ひとりの殿様がお城をきずくに、万人の百姓を苦しめました、しかも殿様は英雄とうたわれ百姓は草莽の間につかれて死にます、清盛、頼朝、太閤、家康、諸君はかれらを英雄なりというでしょう、しかしかれらがどれだけ諸君の祖先を幸福にしましたか、個人がその知力と腕力をもって他の多くの個人を征服し、侵掠し、しかもその子孫にまでおよぼすということは今日の世にゆるすべからざることであります、すでに世界においては欧州戦争以来すべてがデモクラシーになりました、民衆がすなわち国家であります、民衆の意志が国家の意志であります、ここにおいて昔のように英雄なる一人の暴虐者の下に膝を屈するということは断じてやめなければなりません。諸君はナポレオンを英雄なりという、しかしナポレオンのためにフランスはどれだけ英国やロシアやドイツの圧迫を受けたか、一英雄のために国は疲れついにめめしくも城下のちかいをなして彼の英雄をセントヘレナへ流したではないか、おそるべきは英雄である、忌むべきは英雄である、現代の日本は英雄崇拝の妄念を去って平等と自由に向かって進まねばならぬ、すべての偶像を焼いて世界の趨勢にしたがわねばならぬ、私の論はこれをもっておわりとします」
会衆は恍惚としてかれの声をきいていた、それはきわめて大胆で奇抜で、そうして斬新な論旨である、偶像破壊! 平等と自由! デモクラシーの意義!
わるるばかりの拍手に送られて手塚は壇をおりた。かれの左右から校友がかわりがわりに握手するやら肩を打つやらした。手塚は揚々として席についた。
「反対!」と叫んだものがある。人々はその方を見ると師範学校の野淵であった。野淵というのは模範生と称せられている青年で、漢文や英語に長じその学問の豊かな点において先生達も舌を巻いておそれている。かれは底力のある声量と悠然たる態度でまずこういった。
「ただいまの弁士の新知識を尊敬するとともにわが輩はその論旨に大なる疑いをはさまねばならないことを遺憾に思います、弁士は英雄不必要を唱えました。英雄の対象は奴隷であるといいました。偶像を破壊して民衆的にならねばならぬといいました。はたしてそうでしょうか、ああはたして然るか」
語調は一変して大石急阪を下る勢いもって進行した。
「もしこの世に英雄なかりせば人間はいかにみじめなものであろう、古人は桜を花の王と称した、世の中に絶えて桜のなかりせば人の心やのどけからましと詠じた、吾人は野に遊び山に遊ぶ、そこに桜を見る、一抹のかすみの中にあるいは懸崖千仭の上にあるいは緑圃黄隴のほとりにあるいは勿来の関にあるいは吉野の旧跡に、古来幾億万人、春の桜の花を愛でて大自然の摂理に感謝したのである、もし桜がなかったらどうであろう、春風長堤をふけども落花にいななける駒もなし、南朝四百八十寺、甍青苔にうるおえども鎧の袖に涙をしぼりし忠臣の面影をしのぶ由もなかろう、花ありてこそ吾人は天地の美を知る、英雄ありてこそ人間の偉なるを見る、人類の中にもっとも秀でたるものは英雄である、英雄は目標である、羅針盤である、吾人はその経歴や功績を見てたどるべき道を知る、前弁士は清盛、頼朝、太閤、家康、ナポレオンを列挙し吾人の祖先がかれらに侵掠せられ、隷使されたといったがいずれのときに於いても民衆の上に傑出せる英雄が生ずるのである。清盛、頼朝、太閤、家康、ナポレオンが生まれなければ、他の英雄が生まれて天下を統一するであろう、非凡の才あるものが凡人を駆使するのは、非凡の科学者が電気や磁気や害虫や毒液を駆使すると同じである。露国はソビエト政府を建てたがかれらを指揮するものはレーニンとトロツキーである。イタリーはデモクラシーを廃してムッソリーニを英雄として崇拝している、英雄主義は永遠にほろびるものでない、英雄のなき国は国でない、宇宙に真理があるごとく人間に英雄があるものである、いたずらに英雄を無視せんとするものは自ら英雄たるあたわざる者の絶望の嫉妬である」
「そうだそうだ」と彰義隊は頭に鉢巻きをしておどりあがった。「おれのいいたいことをみんないってくれた」
人々は野淵の荘重な漢文口調の演説を旧式だと思いつつもその熱烈な声に魅せられて、狂するがごとく喝采した、手塚はきまりわるそうに頭を垂れた。実をいうとかれの論旨はある社会主義の同人雑誌から盗んだものなので、その新しそうに見えるところがすこぶる気にいったのであった。かれはこの演説で大いに「新人」ぶりを見せびらかすつもりであったが、野淵に一蹴されたのでたまらなく羞恥を感じた。そうして救いを求むるように光一の方を見やった。
光一はだまって演壇の方へ歩いた。人々はさかんに拍手した。光一は平素あまり議論をこのまなかった。かれは自分でも演説はへただと思っている。だがみなのすすめをこばむことはできなかった。かれは演壇にのぼったとき胸が波のごとくおどった。そうして自分ながら顔がまっかになったことを感じた。だがそれを制することもできなかった。かれは躊躇した。それはさながら群がるとらの前にでた羊のごとく弱々しい態度であった。
千三はじっと目をすえて光一をにらんでいた。
「畜生! あいつなにをいやがるだろう、へんなことをいったらめちゃめちゃに攻撃していつかの復讐をし、満座の前で恥をかかしてやろう」
おそらく当夜の会場で千三ほど深い注意をもって光一の演説を聴いていたものはなかったろう。
一方において手塚はほっと息をついた。救いの船がきたのである。師範の野淵をやっつけてくれるだろう。
「ぼくは演説がへたですからよくしゃべれません」
いかにもおずおずした調子でしかも低い活気のない声で光一はいった。
「へたなやつだなあ」と千三は肚の中でいった。
「ふだんにいくらいばっても晴れの場所では物がいえないだろう、へそに力がないからだ」
会衆もまた光一が案外へたなのに失望した。
「しかしぼくは野淵君の説に賛成することはできません、野淵君は英雄と花とを比較して美文を並べたがそれはカアライルの焼きなおしにすぎません、いかにも英雄は必要です、だが野淵君のいうような英雄は全然不必要です、いかんとなれば昔の英雄は国利民福を主とせずして自己の利害のみを主としたからです、豊臣が諸侯を征した。家康が旧恩ある太閤の遺孤を滅ぼして政権を私した、そうして皇室の大権をぬすむこと三百余年、清盛にしろ頼朝にしろ、ことごとくそうである、かれらは正義によらざる英雄である、不正の英雄は抜山倒海の勇あるももって尊敬することはできません、武王は紂王を討った、それは紂王が不正だからである、ナポレオンは欧州を略した、それは国民の希望であったからである、木曽義仲を討ったとき義経は都に入るやいなや第一番に皇居を守護した、かれは正義の英雄である、楠正成の忠はいうまでもない。藤原鎌足の忠もまたいうまでもない。そもそも諸君は足利尊氏、平清盛、源頼朝をも英雄となすであろう。かれらは国賊である、臣子の分をみだすものは他に百千の功ありとも英雄と称することはできない、古来英雄と称するものは大抵奸雄、梟雄、悪雄の類である、ぼくはこれらの英雄を憎む、それと同時に鎌足のごとき、楠公のごとき、孔子のごとき、キリストのごとき、いやしくも正義の士は心をつくし気を傾けて崇拝する、それになんのふしぎがあるか、万人に傑出する材ありといえども弓削道鏡を英雄となし得ようか、三帝を流し奉りし北条の徒を英雄となし得ようか、諸君! 諸君は西郷南洲を英雄なりと称す、はたしてかれは英雄であるか、かれは傑出したる人材に相違ないが、いやしくも錦旗にたいして銃先を向けたものである、すでに大義に反す、なんぞ英雄といいえよう」
ひつじは俄然虎になった。処女は脱兎になった。いままで湲々と流れた小河の水が一瀉して海にいるやいなや怒濤澎湃として岩を砕き石をひるがえした。光一の舌頭は火のごとく熱した。
「野淵君は漫然と英雄のご利益をといたが、いかなるものがこれ英雄であるかを説かない、正しき英雄とよこしまなる英雄とを一括して概念的にその可不可を論ずるは論拠においてすでに薄弱である」
「ひやひや」と手塚は立ちあがって叫んだ。
「待ちたまえ、さらに手塚君の説を駁さねばならん、手塚君は英雄は個人主義である、英雄は民衆を侵掠したといった、侵掠か征服かぼくはいずれたるかを知らずといえども、弱者が強者に対して侵掠呼ばわりをするのは今日の悪思想であります、婦人は男に対して乱暴よばわりをなし、貧者は富者に対して圧迫よばわりをなし、なまけ者が勤勉者に対して傲慢よばわりをなす、ここにおいてプロレタリアはブルジョアをのろい、労働者は資本家をのろい、人民は政府をのろい、人は親をのろい、妻は良人をのろう、そもそもそれははたして正しきことであるか、思うに民衆といいデモクラシーと叫ぶこと今日ほどさかんなときはない、しかし心をしずめ耳をそばだてて民衆の声を聞きなさい、かれらはこういっている。『首領がほしい』『私達を指導してくれる人がほしい』『レーニンがほしい』『ムッソリーニがほしい』『ナポレオンがほしい』と、いかなる場合にも団体は首領が必要である。首領は英雄である。フランス人は革命をもって自由を得た、しかし革命には十人をくだらざる首領があった、ローマの国民はなにを望んだか、シーザーにあらずんばブルタスであった。日本の国民はなにを望んだか、源にあらずんば平であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民であったことをわすれてはならない。しかるに手塚君はなんのために英雄を非認するか、英雄いでよ、正しき英雄いでよ、現代の腐敗は英雄主義がおとろえたからである、ぼくのいわゆる英雄は活動写真の近藤勇ではない、国定忠治ではない、鼠小僧次郎吉ではない、しかもまた尊氏、清盛、頼朝の類ではない、手塚君の英雄でもなければ野淵君の英雄でもない、ぼくは正義の英雄を讃美する、いやしくも正義であれば武芸がつたなくとも、知謀がなくとも、学校を落第しても、野球がまずくとも、金持ちでも貧乏でも、すべて英雄である、この故にぼくはこういいたい、『すべての人は英雄になり得る資格がある』と」
なんともいいようのない厳粛な気が会場を圧してしばらく水をうったように沈黙したかと思うと急に拍手喝采が怒濤のごとくみなぎった。手塚はどこへ行ったか姿が見えない。千三は呼吸もつけなかった。かれは光一の論旨には一点のすきもないと思った。
「畜生ッ、うまくやりやがった」
こう思うとせっかくの復讐心も一半はくじかれてしまった。
「つまらない、こなければよかった」
かれはいまいましさにたえかねて会場をでた。外は漆のごとくくらい。ふりかえってみると学校の窓々からこうこうと灯の光がほとばしっていた。千三は一種の侮辱を感じながら歩くともなく歩きつづけた。とかれは路傍の石につまずいてげたのはなおをふっつりと切らした。
「大変だ」
かれは途方にくれた。
「なわきれが落ちてなかろうか」
こう思って暗い地面を探り探り並み木の間を歩いた。いままで気がつかなかったがこのとき足の拇指が痛みだした。手をやってみると生爪がはがれてある、かれは大地に座りこんだ。そうしてへこ帯をひきさいて足を繃帯することに決めた。
とどこからとなく人の声が聞こえる。
「きたか」
「まだまだ」
「気をつけろよ」
「にがしちゃいかんよ」
ひとりの声は手塚らしい。あとは四、五人、しのびしのびに三方に埋伏する。
「なにをしてるんだろう」
千三はこう思った。こういうことはめずらしくない。青年の喧嘩だ。毎日一つぐらいはあるのだ。
「だがねえ、文子はこのごろちっともこないじゃないか」
ひとりの声がきこえる。
「手紙を見られたらしいよ」と他の声。
「見られてもかまやしない、あれはねチビの名にしてあるんだから……はッはッはッチビのやつそれでひどくなぐられたっけ」
千三の総身がぶるぶるとふるえた。かれははじめてそれが手塚の奸策だと知ったのである。かれは立ちあがってかれらのあとを追いかけようと思った。が足の痛みは骨をえぐられるようにはげしい。
「待て畜生! ああいまいましいな」
千三は足をきびしくしばった。そうして残りの布ではなおをすげた。とこのとき五、六間先に叫び声が起こった。
「なにをするんだ」
「たたんでしまえ、やれやれ」
「どこだ」
「ここだ」
「こん畜生!」
なぐり合う音、倒るる音、ばたばたと走る音。
「おいおいみんなこい」とよぶ声。
「生意気な、きさまは手塚だな」
こういう声は光一であった。千三ははっとおどりあがった。かれは片方のげたを手に持ったまま走りだした。と見ると三人を相手に光一は奮闘最中である。一旦逃げたふたりは引きかえして共に光一につかみかかった。光一は一人の頭をけった。けられながらにその男は光一の脚を一生懸命につかんだ。背後から光一の喉をしめているのはろばらしい。手塚は前へ出たり後ろへ出たりして光一の顔を乱打した。五人と一人かなうべくもない。
「柳、しっかりしろ」
千三はこう声をかけて手に持ったげたで手塚の横面をしたたかに打った。
「チビ!」
手塚は叫んで鼻に手をあてた。千三はろばの顔を打とうとしたが小さいのでとどかなかった。かれはおどり上がった。が足の痛みがますますはげしい。かれは手塚に首根をおさえられた。手塚は力まかせにチビをなぐった。なぐられながらチビは手塚の手をしっかりとつかんではなさない。
「だいじょうぶか柳」とチビが苦しそうにいった。
「だいじょうぶだ。青木、すまないな」と光一はいった。そうしてもののみごとにろばを大地にたたきつけた、その拍子にかれは片ひざを折った。三人はその上におりかさなった。
「なにを……くそッ」
こういう光一の声はおぼつかなく聞こえた。
「やられたな」
こうチビは思った。とたんに手塚の手がぐたりとゆるんだ。と思うやいなや手塚はさながら犬の屍のごとくたたきつけられた。
「青木じゃないか」
「ああ安場さん」
「うむ、おれだ」
「柳を助けてください」
「よしッ」
安場がひらりと動いた。ふたりの姿がもんどりうって倒れた。いまひとりは光一がしっかりとひざに組みしいていた。
「しばれしばれ」と安場がいった。
「しばるものがない」
「ふんどしでしばれ」
「ぼくはさるまただ」
「心がけの悪いやつだ」
「安場さんのは?」
「おれは無フンだ」
千三はまたしても帯をといて手塚をしばりあげた。投げられたろばといまひとりは安場がしばった。安場は三人を電柱にしばりつけた。
光一の横顔は腫れ、手首はくじかれていた。千三にはなんのけがもない。
「おい青木」と光一は千三の前にひたと座っていった。「おれをなぐってくれ、おれは悪かった、さあおれがきみにしたようにおれの顔のどこでもなぐってくれ」
「なにをいうか柳」と千三は光一にひたとより添うて手をしっかりとにぎった。
「ぼくは今夜きみの演説で真の英雄がわかった、ぼくらはおたがいに英雄じゃないか、正義の英雄だよ」
「ゆるしてくれるか」
「ゆるすもゆるさんもないよ」
「ありがとう」
ふたりはふたたび手をにぎりしめた。
「やい、凡人主義のデモクラシーの偶像破壊者共」と安場は三人に向かっていった。
「平等と自由はどんなものか明日の朝までそこで考えて見ろ」
「なわだけはといてやってくれ」と光一が安場にいった。
「いやいや」と安場は頭をふった。「英雄にしばられてなわをとくのはデモクラシーの役目なんだ、さあゆこう」
こういって安場はマッチをパッとすって三人の顔を見た。手塚は涙ぐんでうなだれていた。ろばはきょとんとして首を上げて手塚をののしった。
「だからおれはいやだというにおまえが加勢してくれというもんだから」
「ざまあみろ」と安場はわらった。「それが平凡主義の本性なんだ」
安場は歩きだした。そうして快然とうたいだした。
「ああ玉杯に花うけて、緑酒に月の影やどし、治安の夢にふけりたる、栄華の巷低く見て……」
読者諸君、回数にかぎりあり、この物語はこれにて擱筆します。もし諸君が人々の消息を知りたければ六年前に一高の寮舎にありし人について聞くがよい。青木千三と柳光一はどの室の窓からその元気のいい顔をだしてどんな声で玉杯をうたったか。それから一年おくれて入校した生蕃とあだなのつく阪井巌という青年が非常な勉強をもって首席で大学にはいったことも同時に聞くがいい。
さらに安場のことがしりたければ黙々先生をたずねなさい。先生は多分こういうだろう。
「安場ですか、あれはいまロンドンの日本大使館にいます」と。
さらに諸君は「安場はロンドンでなにをしてるんですか」ときいてごらんなさい。先生は多分こう答えるでしょう。
「へそをなでています」