一

「今のは、」
 初阪はつざかものの赤毛布あかげっと、というところを、十月の半ば過ぎ、小春凪こはるなぎで、ちと逆上のぼせるほどな暖かさに、下着さえかさねて重し、野暮なしまも隠されず、頬被ほおかぶりがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波つくば、はじめて、出立いでたつを初山ととなうるにならって、大阪の地へ初見参ういけんざんという意味である。
 その男が、天満橋てんまばしを北へ渡越した処で、同伴つれのものに聞いた。
「今のは?」
「大阪城でございますさ。」
 と片頬かたほ笑みでわざと云う。結城ゆうき藍微塵あいみじんの一枚着、唐桟柄とうざんがら袷羽織あわせばおり、茶献上博多けんじょうはかたの帯をぐいとめ、白柔皮しろなめしの緒の雪駄穿せったばきで、髪をすっきりと刈った、気の利いた若いもの、風俗は一目で知れる……俳優やくしゃ部屋の男衆おとこしゅで、初阪ものには不似合な伝法。
「まさか、天満の橋の上から、淀川よどがわを控えて、城を見て――当人寝が足りない処へ、こうてりつけられて、道頓堀どうとんぼりから千日前、この辺のにえくり返る町の中を見物だから、ぼうとなって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事はたしかに承知の上です――言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。」
御道理ごもっともで、ふふふ、」
 男衆はまた笑いながら、
「ですがね、欄干へ立って、淀川堤を御覧なさると、貴方あなた恍惚うっとりとおなんなさいましたぜ。じっと考え込んでおしまいなすって、何かお話しするのもお気の毒なような御様子ですから、私もだんまりでね。ええ、……時間の都合で、そちらへは廻らないまでも、網島の見当は御案内をしろって、親方に吩咐いいつかって参ったんで、あすこで一ツ、桜宮から網島を口上で申し上げようと思っていたのに、あんまり腕組をなすったんで、いや、案内者、大きに水を見て涼みました。
 それから、ずっと黙りで、橋を渡った処で、(今のは、)とお尋ねなさるんでさ、義理にも大阪城、と申さないじゃ、第一日本一の名城に対して、ははは、」とものありげにちょっと顔を見る。
 初阪は鳥打のひさしに手を当て、
「分りましたよ。真田幸村さなだゆきむらに対しても、決して粗略には存じません。萌黄色もえぎいろの海のような、音に聞いた淀川が、大阪を真二まっぷたつに分けたように悠揚ゆっくり流れる。
 電車のちりも冬空です……澄透すみとおった空に晃々きらきら太陽が照って、五月頃のうしおが押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士をながめるように、あの、城が見えたっけ。
 川蒸汽の、ばらばらと川浪をるのなんぞは、高櫓たかやぐらかわら一枚浮かしたほどにも思われず、……船に掛けた白帆くらいは、城の壁の映るのから見れば、些細ささいな塵です。
 その、空に浮出したような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思うと、歴然ありありと、ああ、あれが、嬰児あかんぼの時から桃太郎と一所にお馴染なじみの城か、と思って見ていると、城のその屋根の上へ、山も見えぬのに、ぬえが乗って来そうな雲が、真黒まっくろな壁で上から圧附おしつけるばかり、鉛をかして、むらむらと湧懸わきかかって来たろうではないか。」
 初阪は意気を込めて、ステッキをわきに挟んで云った。

       二

 七筋ばかり、工場の呼吸いきであろう、黒煙くろけむりが、こう、風がないから、真直まっすぐ立騰たちのぼって、城のやぐらの棟を巻いて、その蔽被おおいかぶさった暗い雲の中で、末が乱れて、むらむらと崩立くずれたって、さかさまに高く淀川の空へなびく。……
 なびくに脈を打って、七筋ながら、処々ところどころ、斜めに太陽の光を浴びつつ、白泡立ててうずまいた、そのすごかった事と云ったら。
 天守の千畳敷へ打込んだ、関東勢の大砲おおづつが炎を吐いて転がる中に、淀君をはじめ、夥多あまたの美人の、練衣ねりぎぬくれないはかま寸断々々ずたずたに、城と一所に滅ぶる景色が、目に見える。……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、もつれて乱れるよう、そして、さかさまに立ったのは、とこしえに消えぬ人々の怨恨うらみと見えた。
 大河おおかわ両岸りょうぎしは、細い樹の枝に、薄紫のもやが、すらすら。蒼空あおぞらの下を、矢輻やぼね晃々きらきらと光る車が、けてもいたのに、……水には帆の影も澄んだのに、……どうしてその時、大阪城の空ばかり暗澹あんたんとして曇ったろう。
「ああ、あの雲だ。」
 と初阪は橋の北詰に、ひしひしと並んだ商人家あきんどやの、軒の看板に隠れた城のやぐらの、今は雲ばかりを、フト仰いだ。
 が、俯向うつむいて、足許あしもとに、二人連立つ影を見た。
「大丈夫だろうかね。」
「雷様ですか。」
 男衆は逸早いちはやく心得て、
串戯じょうだんじゃありませんぜ。何の今時……」
「そんならいが、」
 歩行あるき出す、と暗くなり掛けた影法師も、はげしい人脚の塵に消えて、天満てんま筋の真昼間まっぴるま
 初阪ははれやかな顔をした。
すごかったよ、私は。……その癖、この陽気だから、自然と淀川の水気が立つ、陽炎かげろうのようなものが、ひらひらと、それが櫓のおもてへかかると、何となく、ぱっ[#「火+發」、450-1]と美しい幻が添って、城の名を天下に彩っているように思われたっけ。その花やかな中にも、しかし、長い、濃い、黒髪がひそんで、滝のように動いていた。」
 城を語る時、初阪の色酔えるがごとく、土地れぬ足許は、ふらつくばかりあやぶまれたが、対手あいてが、しゃんと来いの男衆だけ、たしかに引受けられた酔漢よっぱらいに似て、擦合い、行違う人の中を、傍目わきめらず饒舌しゃべるのであった。
「時に、それについて、」
「あの、別嬪べっぴんの事でしょう。私たちが立停たちどまって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方をながめていた、あれでしょう。……貴方あなたが(今のは!)ッて一件は。それ、やっこを一人、お供に連れて、」
「奴を……十五六の小間使だぜ。」
「当地じゃ、奴ッてそう言います。島田まげ白丈長しろたけながをピンとねた、小凜々こりりしい。お約束でね、御寮人には附きものの小女こおんなですよ。あれで御寮人の髷が、元禄だった日にゃ、菱川師宣ひしかわもろのぶえがく、というんですね。
 何だろう、とお尋ねなさるのは承知の上でさ、……また、今のを御覧なすって、お聞きなさらないじゃ、大阪がうらみます。」
「人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちとしゃくだろうじゃないか。」
「はははは。」
「しかし縁のない事はない。そうして、じっとあの、煙の中のすごい櫓をながめていると、どうだろう。
 四五間さきに、上品な絵の具の薄彩色うすさいしきで、たたずんでいた、今の、その美人の姿だがね、……淀川の流れに引かれた、私の目のせいなんだろう。すッと向うに浮いて行って、遠くの、あの、城の壁の、矢狭間やざまとも思う窓から、顔を出して、こっちをのぞいた。そう見えた。いつの間にか、城の中へ入って、向直って。……
 黒雲の下、煙の中で、凄いの、美しいの、と云ッて、そりゃなかった。」

       三

「だから、何だか容易ならん事が起った、と思って、……口惜くやしいが聞くんです。
 実はね、昨夜ゆうべ、中座を見物した時、すぐ隣りの桟敷さじきに居たんだよ、今の婦人おんなは……」とうなずくようにして初阪は云う。
 男衆はまた笑った。
「ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、唯今ただいま一見いちげんという顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。」
「だって、住吉すみよし、天王寺も見ないさきから、大阪へ着いて早々、あのおんなは? でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖にけつまずいて転ぶようだから、痩我慢やせがまん黙然だんまりでいたんだ。」
「ところが、辛抱が仕切れなくなったでしょう、ごもっともですとも。親方もね、実は、お景物にお目に掛ける、ちょうどいからッて、わざと昨夜ゆうべも、貴方あなたを隣桟敷へ御案内申したんです。
 附込つけこみでね、旦那と来ていました。取巻きに六七人芸妓げいこが附いて。」
 男衆の顔を見て、
「はあ、すると堅気かい、……以前はとにかく、」
 また男衆は、こう聞かれるのを合点がってんしたらしくうなずくのであった。
「貴方、当時また南新地から出ているんです。……いいえ、旦那が変ったんでも、手が切れたのでもありません。やっぱり昨夜ゆうべ御覧なすった、あれが元からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四五日前まで、久しく引かされて、桜の宮の片辺かたほとりというのに、それこそ一枚絵になりそうな御寮人で居たんですがね。あの旦那の飛んだものずきから、洒落しゃれにまた鑑札を請けて、以前のままの、おさんという名で、新しく披露ひろめをしました。」と質実じみに話す。
阪地かみがたは風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで手活ていけにした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、おかげで土産にありついたという訳だ。」
「いいえ、隣桟敷の毛氈もうせん頬杖ほおづえや、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、翌々日あさっての晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市のねりに出て、下げ髪、緋のはかまという扮装なりで、八年ぶりで練りますから。」
 一言ひとこと、下げ髪、緋の袴、と云ったのが、目のあたり城の上の雲を見た、初阪の耳を穿うがって響いた。
「何、下げ髪で、緋の袴?……」
「勿論一人じゃありません――確か十二人、同じ姿で揃って練ります。が、自分の髪を入髪いれげなしにときほぐして、その緋の袴と擦れ擦れに丈に余るってのは、あのおんなばかりだと云ったもんです。一度引いて、もうそんなにちますけれども、わっしあ今日も、つい近間で見て驚きました。
 苦労も道楽もしたろうのに、雁金額かりがねびたい生際はえぎわが、一厘だって抜上がっていませんやね、ねえ。
 やっぱり入髪なしを水で解いて、宝市は屋台ぐるみ、象をつないできましょうよ。
 旦那もね、市に出して、お珊さんのその姿を、見たり、見せたりしたいばかりに、素晴らしく派手をって、披露ひろめをしたんだって評判です。
 その市女いちめは、芸妓げいこに限るんです。それも芸なり、容色きりょうなり、選抜えりぬきでないと、世話人の方で出しませんから……まず選ばれたおんなは、一年中の外聞といったわけです。
 その中のお職だ、貴方。何しろ大阪じゃ、浜寺の魚市には、きた竜宮があらわれる、この住吉の宝市には、天人の素足が見えるって言います。一年中の紋日もんびですから、まあ、是非お目に掛けましょう。
 貴方、一目見てたちすくんで、」
「立すくみは大袈裟おおげさだね、人聞きが悪いじゃないか。」
「だって、今でさえ、悚然ぞっとなすったじゃありませんかね。」

       四

 男衆の浮かせ調子を、初阪はなぜか沈んで聞く。……
「まったくそりゃ悚然ぞっとしたよ。ひとりでに、あの姿が、城の中へふいと入って、向直って、こっちを見るらしい気がした時は。
 黒い煙も、お珊さんか、……その人のために空にかぶさったように思って。
 天満の鉄橋は、瀬多の長橋ではないけれども、美濃みのへ帰る旅人に、怪しい手箱をことづけたり、俵藤太たわらとうだに加勢を頼んだりする人に似たように思ったのだね。
 由来、橋の上で出会う綺麗なおんなは、すべてすごいとしてある。――
 が、場所によるね……昨夜ゆうべ、隣桟敷で見た時は、同じその人だけれど、今思うと、まるで、違ったおんなさ。……君も関東ものだから遠慮なく云うが、阪地かみがたおんなはなぜだろう、生きてるのか、死んでるのか、血というものがあるのか知らん、と近所に居るのも可厭いやなくらい、ひどく、さました事があったんだから……」
「へい、何がございました。やたらに何か食べたんですかい。」
「何、つまらんことを……そうじゃない。余りと言えば見苦しいほど、大入芝居の桟敷だというのに、旦那かね、そのつれの男に、好三昧すきざんまいにされてたからさ。」
「そこはてかけものの悲しさですかね。どうして……当人そんなぐうたらじゃないはずです。意地張いじッぱりもちっと可恐こわいようなおんなでね。以前、芸妓げいしゃで居ました時、北新地きたのしんち新町しんまち、堀江が、一つ舞台で、芸較べをった事があります。その時、南から舞で出ました。もっとも評判な踊手なんですが、それでもほか場所の姉さんに、ひけを取るまい。……その頃北に一人、向うへ廻わして、ちと目に余る、家元随一と云う名取りがあったもんですから、生命いのちがけに気を入れて、舞ったのは道成寺どうじょうじ。貴方、そりゃ近頃の見ものだったと評判しました。
 能がかりか、何か、白のうろこ膚脱はだぬぎで、あの髪をさっと乱して、ト撞木しゅもくかぶって、供養の鐘を出た時は、何となく舞台が暗くなって、それで振袖の襦袢じゅばんを透いて、お珊さんの真白まっしろな胸が、銀色に蒼味あおみがかって光ったって騒ぎです。
 そのかわり、火のように舞い澄まして楽屋へ入ると、気を取詰めて、ばったり倒れた。後見が、回生剤きつけを呑まそうと首を抱く。一人が、装束の襟をくつろげようと、あの人の胸を開けたかと思うと、キャッと云って尻持をついたはどうです。
 鳩尾みずおちめた白羽二重しろはぶたえの腹巻の中へ、生々なまなまとした、長いのが一ぴき、蛇ですよ。畝々うねうねと巻込めてあった、そいつが、のッそり、」とあわただしい懐手、黒八丈をかさねた襟から、拇指おやゆびを出して、ぎっくり、とまむしこさえて、肩をぶるぶると遣って引込ひっこませて、
「鎌首を出したはどうです、いや聞いても恐れる。」とばたばたと袖をはたく。
 初阪もそれはしかねないおんなと見た。
「執念の深いもんだから、あやかる気で、生命いのちがけのはだまとったというわけだ。」
「それもあります。ですがね、心願も懸けたんですとさ。何でも願がかなうと云います……咒詛のろいも、恋も、なさけも、よくも、意地張も同じ事。……その時鳩尾みずおちに巻いていたのは、高津こうづ辺の蛇屋で売ります……大瓶おおがめの中にぞろぞろ、という一件もので、貴方御存じですか。」
 初阪は出所を聞くと悚然ぞっとした。我知らず声をひそめて、
「知ッてる……生紙きがみ紙袋かんぶくろの口を結えて、中に筋張った動脈のようにのたくるやつを買って帰って、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放すんだってね。」

       五

「ええ、そうですよ。その時、願事ねがいごとを、思込んで言聞かせます。そして袋の口をほどくと、にょろにょろと這出はいだすのが、きっと一度、目の前でとぐろを巻いて、首をもたげて、その人間の顔をじって、それから横穴へ入って隠れるって言います。
 そのくらい念のった長虫ですから、買手が来て、蛇屋が貯えたその大瓶おおがめ圧蓋おしぶたを外すと、何ですとさ。黒焼の註文の時だと、うじゃうじゃ我一われいちに下へ潜って、瓶の口がぐっと透く。……放される客の時だと、ぬらぬら争って頭を上げて、瓶から煙が立つようですって、……もし、不気味ですねえ。」
 初阪は背後うしろざまに仰向あおむいて空を見た。時に、城の雲は、にぎやかな町に立つほこりよりも薄かった。
 思懸おもいがけず、何の広告か、屋根一杯に大きな布袋ほていの絵があって、下から見上げたものの、さながら唐子からこめくのに、思わず苦笑したが、
昨日きのうもその話を聞きながら、兵庫の港、淡路島、煙突の煙でない処は残らず屋根ばかりの、大阪を一目に見渡す、高津の宮の高台から……湯島の女坂に似た石の段壇を下りて、それから黒焼屋の前を通った時は、軒から真黒まっくろ氷柱つららが下ってるように見えてひやりとしたよ。一時いっときに寒くなって――たださえ沸上にえあが湧立わきたってる大阪が、あのまた境内に、おでん屋、てんぷら屋、煎豆屋いりまめや、とかっかっぐらぐらと、煮立て、蒸立て、焼立てて、それが天火にさらされているんだからね――びっしょり汗になったのが、おかげですっかり冷くなった。但し余り結構なお庇ではないのさ。
 大阪へ来てから、お天気続きだし、夜は万燈の中に居る気持だし、何しろ暗いと思ったのは、町を歩行あるく時でも、寝る時でも、黒焼屋の前を通った時と、今しがた城の雲を見たばかりさ。」
 男衆はことばを挟んで、
「何を御覧なさる。」
「いいえね、今擦違った、それ、」
 とちょっと振向きながら、
「それ、あの、忠兵衛の養母おふくろといった隠居さんが、紙袋かんぶくろを提げているから、」
串戯じょうだんじゃありません。」
「私は例のかと思った、……」
「ありゃ天満のかめ子煎餅こせんべい、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが禁厭まじないの蛇なんぞを、」
「ははあ、わかいものでなくっちゃ、利かないかね。」
「そりゃ……色恋の方ですけれど……よくの方となると、無差別ですから、老年としよりはなお烈しいかも知れません。
 分けてこの二三日は、黒焼屋の蛇が売れ盛るって言います……誓文払せいもんばらいで、大阪中の呉服屋が、年に一度の大見切売をしますんでね、市中もこの通りまた別してにぎわいまさ。
 心斎橋筋の大丸なんかでは、景物の福引に十両二十両という品ものを発奮はずんで出しますんで、一番引当てよう了簡りょうけんで、禁厭まじないに蛇の袋をぶら下げて、杖をいて、お十夜という形で、夜中に霜を踏んで、白髪しらがで橋を渡る婆さんもあるにゃあるんで。」

       六

 男衆もちょっと町中まちなか※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわした。
「まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千すじですかね、黒焼屋のかめ空虚からになった事があるって言いますから。慾は可恐おそろしい。悪くすると、ぶら提げてるのに打撞ぶつからないとも限りませんよ。」
「それ! だから云わない事じゃない。」
 内端うちわながら二ツ三ツステッキって、
「それでなくッてさえ、こう見渡した大阪の町は、とおりも路地も、どの家も、かッと陽気にあかるい中に、どこか一個所、陰気な暗い処がひそんで、礼儀作法も、由緒因縁も、先祖の位牌いはいも、色も恋も罪もむくいも、三世相一冊と、今の蛇一疋ずつは、ぬしになって隠れていそうな気がする処へ、蛇瓶の話を昨日きのう聞いて、まざまざと爪立足つまだちあしで、黒焼屋の前を通ってからというものは、うっかりすると、新造しんぞも年増も、何か下掻したがいつまあたりに、一条ひとすじ心得ていそうでならない。
 昨夜ゆうべも、芝居で……」
 男衆は思出したように、如才なく一ツ手をった。
「時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……」
「まあ、お聞き――隣合った私の桟敷に、髪を桃割ももわれに結って、緋の半襟で、黒繻子くろじゅすの襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、つむぎか何か、かすりの羽織をふっくりと着た。ふさふさのかんざしを前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、口許くちもと柔順すなおな、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいいうちの娘じゃないらしいのが、」
「居ました。へい、親方が、貴方に差上げた桟敷ですから、人の入る訳はないが、と云って、私が伺いましたっけ。貴方が、(構いやしない。)と仰有おっしゃるし、そこはね、大したお目触りのものではなし……あの通りの大入で、ちょっと退けようッて空場あなも見つからないものですから、それなりでお邪魔を願ッておきました。
 後で聞きますと、出方が、しんせつに、まあ、喜ばせてやろうッて、内々で入れたんだそうで。ありゃ何ですッて、逢阪下おうざかしもの辻――ええ、天王寺にく道です。公園寄の辻に、屋台にちょっと毛の生えたくらいの小さな店で、あんころ餅を売っている娘だそうです。いいですね。」
 それは初阪がはじめて聞く。
「そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居のべんじょに番をしている、じいさんね、大どんつくを着たたくましい親仁おやじだが、影法師のように見える、ひどく、よぼけた、」
「ええ、駕籠伝かごでん、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう年紀としの上に、身体からだを投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?」
「娘の、爺さんか父親おやじなんだ。」
 これは男衆が知らなかった。
「へい、」
「知らないのかい。」
「そうかも知れません、わっしあ御存じの土地児とちっこじゃないんですから、見たり、聞いたり、透切すきぎれだらけで。へい、どうして、貴方?」
「ところが分った事がある。……何しろ、私が、昨夜ゆうべ、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに一間ひとま、」
「そうですよ。」
「その二間しかなかったんだ。二丁がカチと入った時さ。娘を連れて、年配の出方が一人、横手のとおりの、竹格子だね、中座のは。……ひらきをツイと押して、出て来て、小さくなって、背後うしろの廊下、おきまりだ、この処へ立つ事無用。あすこへ顔だけ出してしゃがんだもんです。(旦那、このを一人願われませんでござりましょうか。内々うちうちのもので、客ではござりません。お部屋へ知れますと悪うござりますが、貴下様あなたさま思召おぼしめしで、)と至って慇懃いんぎんです。
 資本もとでかからず、こういう時、おのぼりの気前を見せるんだ、と思ったから、さあさあ御遠慮なく、で、まず引受けたんだね。」

       七

「ずっと前へお出なさい、と云って勧めても、隅の口に遠慮して、膝に両袖を重ねて、こぼれる八ツ口の、綺麗な友染ゆうぜんを、たもとへ、手と一所に推込おしこんで、肩を落して坐っていたがね、……可愛らしいじゃないか。赤いひもめて、雪輪に紅梅模様の前垂まえだれがけです。
 それでも、幕が開いて芝居に身がって来ると、身体からだをもじもじ、膝を立てて伸上って――背後うしろ引込ひっこんでいるんだから見辛いさね――そうしちゃ、舞台を覗込のぞきこむようにしていたっけ。つい、知らず知らず乗出して、仕切にひったりと胸を附けると、人いきれに、ほんのりとまぶたを染めて、ほっとなったのが、景気提灯けいきぢょうちんの下で、こう、私とまず顔を並べた。おのぼり心のうちおもえらく、光栄なるかな。
 まあ、お聞きったら。
 そりゃかったが、一件だ。」
「一件と……おっしゃると?」
「長いの、長いの。」
「そのが、蛇を……嘘でしょう。」
「間違ったに違いない。けれども高津で聞いて、平家の水鳥で居たんだからね。幕間まくあいにちょいと楽屋へ立違って、またもとの所へ入ろうとすると、その娘のたもとわきに、紙袋かんぶくろ[#「紙袋」は底本では「紙装」]が一つ出ています。
 並んで坐ると、それがちょうど膝になろうというんだから、おおいひるんだ。どうやら気のせいか、むくむく動きそうに見えるじゃないか。
 で、私は後へ引退ひききがった。ト娘の挿したかんざしのひらひらする、美しいふさ越しに舞台の見えるのが、花輪で額縁を取ったようで、それもよしさ。
 所へ、さらさらどかどかです。荒いのとやわらかなのと、急ぐのと、入乱れた跫音あしあとを立てて、七八人。小袖幕で囲ったようなおんなの中から、かっ真赤まっかな顔をして、せた酒顛童子しゅてんどうじという、三分刈りの頭で、頬骨の張った、目のぎょろりとした、なぜか額の暗い、殺気立った男が、詰襟の紺の洋服で、靴足袋を長くあらわした服筒ずぼん膝頭ひざがしらにたくし上げた、という妙な扮装なりで、そのおんなたち、鈍太郎殿の手車から転がり出したように、ぬっと発奮はずんで出て、どしんと、音を立てて躍込おどりこんだのが、隣の桟敷で……
 唐突いきなり、横のめりに両足を投出すと、痛いほど、前の仕切にがんといたひじへ、頭を乗せて、自分でくびつかんでも、そのまま仰向あおむけにぐたりとなる、いかね。
 顔へ花火のように提灯の色がぶツかります。天井と舞台を等分ににらみ着けて、(何じゃい!)と一つ怒鳴どなる、と思うと、かっと云う大酒の息を吐きながら、(こら、入らんか、)とわめいたんだ。
 背後うしろに、島田やら、銀杏返いちょうがえしやら、かさなって立ったてあいは、右の旦那よりか、その騒ぎだから、みんなが見返る、見物の方へ気を兼ねたらしく、顔を見合わせていたっけが。
 この一喝をくらうと、べたべたと、蹴出けだしも袖も崩れて坐った。
 大切な客と見えて、若衆わかいしゅが一人、女中が二人、前茶屋のだろう、附いて来た。人数にんずは六人だったがね。旦那が一杯にのしてるから、どうして入り切れるもんじゃない。随分ふとったのも、一人ならずさ。
 茶屋のがしきりに、小声でわびを云って叩頭おじぎをしたのは、御威勢でもこの外に場所は取れません、と詫びたんだろう。(構いまへんで、お入りなされ。)
 まずい口真似だ、」
 初阪は男衆の顔を見て微笑ほほえんだが、
「そう云って、茶屋の男が、私にことばも掛けないで、その中でも、なかんずくしりの大きな大年増を一人、こっちの場所へ送込んだ。するとまたそのおんなが、や、どッこいしょ、と掛声して、澄まして、ぬっと入って、ふわりと裾埃すそごみで前へ出て、正面充満いっぱいに陣取ったろう。」

       八

「娘はこの肥満女ふとっちょに、のしのし隅っこへ推着おッつけられて、可恐おそろしく見勝手が悪くなった。ああ、可哀そうにと思う。ちょうど、その身体からだが、舞台と私との中垣になったもんだからね。可憐いじらしいじゃないか……
 そっと横顔で振向いて、俯目ふしめになって、(貴下あんたはん、見憎うおますやろ、)と云って、きまりの悪そうに目をぱちぱちと瞬いたんです。何事も思いません。大阪中の詫言わびごとを一人でされた気がしたぜ。」
 男衆はつむりを下げた。
御道理ごもっともで。」
「いや、まったく。心配しないで楽に居て、御覧々々と重ねて云うと、芝居で泣いたなりのしっとりしたまみえを、嬉しそうに莞爾にっこりして、向うを向いたが、ちょっと白い指でおさえながら、その花簪はなかんざしを抜いたはどうだい。染分そめわけふさだけも、目障りになるまいという、しおらしいんだね。
(酒だ、酒だ。はやくせい、のろま!)とぎっくり、と胸を張反はりそらして、目をく。こいつが、どろんと濁って血走ってら。ぐしゃぐしゃ見上げしわ揉上もみあがって筋だらけ。その癖、すぺりとひげのない、まだ三十くらい、若いんです。
(はいはい、たった今、きに、)とひょこひょこと敷居に擦附ける、若衆は叩頭おじぎをしいしい、(御寮人様、行届きまへん処は、何分、)と、こう内証で云った。
 その御寮人と云われた、……旦那の背後うしろに、……髪はやっぱり銀杏返しだっけ……お召の半コオトを着たなりで控えたのが、」
「へい、成程、背後うしろに居ました。」
「お珊のかたかね、天満橋で見た先刻さっきのだ。もっとも東の雛壇ひなだんをずらりと通して、柳桜が、色と姿を競った中にも、ちょっとはあるまいと思う、容色きりょうは容色と見たけれども、歯痒はがゆいほど意気地いくじのない、何ての抜けた、と今日より十段も見劣りがしたって訳は。……
 いずれめかけだろう。慰まれものには違いないが、若い衆も、(御寮人、)と奉って、何分、旦那を頼む、と云う。
 取巻きの芸妓げいしゃたち、三人五人の手前もある。やけに土砂を振掛けても、突張つッぱり返った洋服の亡者一個ひとりてのひら引丸ひんまろげて、さばきを附けなけりゃ立ちますまい。
 ところが不可いけない。その騒ぐ事、暴れる事、桟敷へ狼を飼ったようです。(泣くな、わい等、)とわめく――君の親方が立女形たておやまで満場水を打ったよう、千百の見物が、目も口も頭も肩も、幅の広いただ一にんの形になって、啜泣すすりなきの声ばかり、誰が持った手巾ハンケチも、夜会草の花を昼間見るように、ぐっしょりしぼんで、火影の映るのが血を絞るような処だっけ――(芝居を見て泣く奴があるものかい、や、怪体けたいな!
 舞台でも何をえくさるんじゃい。かッと喧嘩けんかを遣れ、面白うないぞ! 打殺たたきころして見せてくれ。やい、はらわた掴出つかみだせ、へん、馬鹿な、)とニヤリと笑う。いや、そのね、ニヤリと北叟笑ほくそえみをするすごさと云ったら。……待てよ、この御寮人が内証ないしょ情人いろをこしらえる。嫉妬しっとでその妾のはらわた引摺ひきずり出す時、きっと、そんな笑い方をする男に相違ないと思った。
 可哀あわれとどめたのは取巻連さ。
 夢中になって、芝居を見ながら、旦那がわめくたびに、はっとするそうで、みんなが申合わせた形で、ふらりと手を挙げる。……片手をだよ。……こりゃ、私の前をふさいだ肥満女ふとっちょも同じく遣った。
 その癖、黙然だんまりでね、チトもしおしずかに、とも言い得ない。
 すると、旦那です……(馬鹿め、めちまえ、)と言いながら、片手づきの反身そりみの肩を、御寮人さ、そのお珊の方の胸の処へつきつけて、ぐたりとなった。……右の片手を逆に伸して、引合せたコオトの襟を引掴ひッつかんで、何か、自分の胸が窮屈そうに、こう※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいて、引開ひっぱだけようとしたんだがね、思う通りにならなかったもんだから、(ええ)と云うと、かとはだけた、細い黄金鎖きんぐさり晃然きらりと光る。帯を掴んで、ぐい、と引いて、おんなの膝を、洋服の尻へ掻込かいこんだりと思うと、もろに凭懸もたれかかった奴が、ずるずるとすべって、それなり真仰向まあおむけさ。傍若無人だ。」

       九

「膝枕をしたもんです。その野分のわきに、衣紋えもんが崩れて、つまが乱れた。旦那の頭は下掻したがいの褄を裂いたていに、紅入友染べにいりゆうぜんの、膝の長襦袢ながじゅばんにのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。
 大蛇のようないびきく。……めかけはいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。
 江戸児えどっこだと、見たが可い! 野郎がそんな不状ぶざまをすると、それが情人いろならかんざしでも刺殺す……金子かねで売った身体からだだったら、思切って、つっと立って、袖を払って帰るんだ。
 処を、どうです。それなりに身を任せて、じっとして、しかも入身いれみ娜々なよなよとしているじゃないか。
 掴寄つかみよせられた帯もゆるんで、結び目のずるりと下った、扱帯しごき浅葱あさぎは冷たそうに、提灯のあかりを引いて、寂しくおんなの姿をかばう。それがせめてもの思遣おもいやりに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、青光あおびかりのするはらわたのように見えて、あわれに無慚むざん光景ようすだっけ。」
「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜかに落ちぬらしく聞えたのである。
「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇をめた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯しごきが鎌首をもたげりゃかったのにさ。」
「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、あおいの上などという執着しゅうぢゃくの深いものは、立方たちかた禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのあるおんなですが……金子かねの力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」
「気の毒だね。」
「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧ざんまい我儘わがままを、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」
「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。身体からだを売って栄耀えよう栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。」
「ですがね、」
 と男衆は、雪駄せったちゃらちゃら、で、日南ひなたの横顔、小首をひねって、
「我儘もしなによりまさ。金剛石ダイヤモンド黄金鎖きんぐさりならめかけの身じゃ、我儘という申立てにもなりませんがね。
 自動車のプウプウも血の道にさわるか何かで、ある時なんざ、やっこの日傘で、青葉時に、それ女大名の信長公でさ。鳴かずんば鳴かして見しょう、日中ひなか時鳥ほととぎすを聞くんだ、という触込ふれこみで、天王寺へ練込みましたさ、貴方。
 幇間たいこもちが先へ廻って、あの五重の塔の天辺てっぺんへ上って、わなわな震えながら雲雀笛ひばりぶえをピイ、はどうです。
 そんな我儘より、もっと偉いのは、しかもその日だって云うんですがね。
 御堂みどう横からはすの池へ廻る広場ひろっぱ大銀杏おおいちょうの根方にむしろを敷いて、すととん、すととん、と太鼓をたたいて、猿を踊らしていた小僧を、御寮人お珊の方、扇子を半開はんびらきか何かで、こう反身で見ると、(可愛らしいぼんちやな。)で、俳優やくしゃの誰とかにてるッて御意の上……(私は人の妾やよって、えらい相違もないやろけれど、畜生に世話になるより、ちっとはましや。旦那に頼んで出世させて上げる、来なはれ、)と直ぐに貴方。
 その場から連れて戻って、否応いやおうなしに、だん説付ときつけて、たちまち大店おおだなの手代分。大道稼ぎの猿廻しを、しまもの揃いにきちんと取立てたなんぞはいかがで。私は膝をつッつく腕に、ちっとは実があると思うんですが。」
 初阪はこれを聞くと、様子が違って、
「さあ、事だよ! すると、昨夜ゆうべのはその猿廻しだ。」

       十

「いや、黒服の狂犬やまいぬは、まだめかけの膝枕で、ふんぞり返って高鼾たかいびき。それさえ見てはいられないのに、……その手代に違いない。……当時の久松といったのが、前垂まえだれがけで、何か急用と見えて、逢いに来てからの狼藉ろうぜきが、まったく目に余ったんだ。
 悪口あっこうくのに、(猿曳さるひきめ、)と云ったが、それで分った。けずり廻しとか、摺古木すりこぎとか、けだものめとかいう事だろう。大阪では(猿曳)と怒鳴るのかと思ったが。じゃ、そのお珊の方が取立てた、銀杏いちょうの下の芸人に疑いない。
 となると!……あの、おんなはなお済まないぜ。
 自分の世話をした若手代が、目の前で、額を煙管きせるたれるのを、もじもじと見ていたろうじゃないか。」
「煙管で、へい?……」
「ああ、垂々たらたらと血が出た。それをどうにもし得ないんだ。じゃ、天王寺の境内で、猿曳を拾上げたって何の功にもなりゃしない。
 まあね、……旦那は寝たろう。取巻きの芸妓げいこ一統、たがいにほっとしたらしい。が、私に言わせりゃそのてあいだって働きがないじゃないか。何のための取巻なんです。ここは腕があると、取仕切って、御寮人に楽をさせる処さね。その柔かい膝に、友染も露出あらわになるまで、石頭の拷問ごうもんに掛けて、芝居で泣いていては済みそうもないんだが。
 しさ、それも。
 と、そこへ、酒さかな、水菓子を添えて運んで来た。するとね、円髷まげった仲居らしいのが、世話をして、御連中、いずれもお一ツずつは、いい気なもんです。
 さすがに、御寮人は、かぶりをちょっと振って受けなかった。
 それにも構わず……(さあ一ツ。)か何かで、美濃みのから近江おうみ、こちらの桟敷にあふれてる大きなおしりを、隣から手をのばして猪口ちょくふちでコトコトと音信おとづれると、片手でかんざしつまんで、ごしごしとびんの毛を突掻つッかき突掻き、ぐしゃりとひしゃげたように仕切にもたれて、乗出して舞台を見い見い、片手を背後うしろへ伸ばして、猪口を引傾ひっかたむけたまま受ける、ぐ、それ、こぼす。(わややな、)と云う。
 そいつが、私の胸の前で、手と手を千鳥がけにはじまったんだから驚くだろう。御免も失礼も、会釈一つするんじゃない。
 しかし憎くはなかったぜ。君の親方が舞台に出ていて、みんなが夢中で遣る事なんだ。
 憎いのは一人狂犬やまいぬさ。
 やっと静まったと思う間もない。
(酒か、)とわめくと、むくむくとおきかかって、引担ひっかつぐようなひじの上へ、妾の膝で頭を載せた。
(注げ! 馬鹿めが、)と猪口を叱って、茶碗で、苦い顔して、がぶがぶと掻喫かっくらう処へ、……色の白い、ちと纎弱ひよわい、と云った柄さ。中脊の若いのが、しまの羽織で、廊下をちょこちょこと来て、ト手をちゃんといた。
(何や、)と一ツ突慳貪つッけんどんに云ってにらみつけたが、低声こごえで、若いのが何か口上を云うのを、フーフーと鼻で呼吸いきをしながら、目をねむって、真仰向けに聞いたもんです。
(旦那の、)旦那と云うんだ。(旦那のここに居るのがどないして知れた、何や、)とまた怒鳴って、(判然はっきりぬかしおれ。何や? 番頭が……ふ、ふ、ふ、ふん、)とあざけるような、あの、すご笑顔わらいがお。やがて、苦々しそうに、そして切なそうに、眉をしかめて、唇を引結ひんむすぶと、グウグウとまたいびきを掻出す。
 いや、しばらく起きない。
 若手代は、膝へ手をいたなり、中腰でね、こう困ったらしく俯向うつむいたッきり。女連は、芝居に身がってことばも掛けず。
 そのうちに幕がしまった。
 満場わッと鳴って、ぎっしりつまったのが、真黒まっくろに両方の廊下へ溢れる。
 しばらくして、大分しずまった時だった。幕あきに間もなさそうで、急足いそぎあしになる往来ゆききの中を、また竹のひらきからひょいと出たのは、娘を世話した男衆でね。手に弁当を一つ持っていました。
(はいよ、お弁当、)と云って、娘に差出して、渡そうとしたっけが……」

       十一

「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女ふとっちょの込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女あんたきまりが悪いやろ。そしたらわしが方へ来てあがりなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々にこにこ笑う、気のい男さ。(えらいお邪魔にござります。)と、かがんで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退ひきさがった。
 娘がね、仕切に手をくと、向直って、抜いた花簪はなかんざしを載せている、涙に濡れた、ほっそり畳んだ手拭てぬぐいを置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つあおぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……
 私は煙草たばこがなくなったから、背後うしろ運動場うんどうばへ買いに出た。
 余り見かねたから、背後うしろ向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬やまいぬはそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。
 西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直すわりなおしている、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身のった芝居ほど、運動場は寂しいもんです。
 風はつめたし、呼吸いきぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、かしながら、堅い薄縁うすべりの板の上を、足袋の裏冷々ひやひやと、い心持ですべらして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違はすかいに薄暗い便所が見えます。
 そのね、手水鉢ちょうずばちの前に、おおきな影法師見るように、脚榻きゃたつに腰を掛けて、綿の厚い寝子ねこうずくまってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」
「ぼけましたよ、ええ、裟婆気しゃばっけな駕籠屋でした。」
「まったくだね、股引ももひきの裾をぐい、と端折はしょった処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくのおしに打たれて、猫背にへたへたと滅入込めいりこんで、へそからおとがいが生えたようです。
 十四五枚も、うずたかく懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭てふきに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、つぶれた古無尽ふるむじんの帳面の亡者にそっくり。
 一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。
 小さな銀貨を一個ひとつにぎらせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有ありがと、難有、難有、)と懐中ふところあご突込つッこんで礼をするのが、何となく、ものの可哀あわれが身に染みた。
 その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡いねむりか、と思うともがいたんだ。仰向あおむけにって、両手の握拳にぎりこぶしで、肩をたたこうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。
 うん、と云う。
 や、老人としよりの早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座げざ三味線さみせんが、ト手首を口へ取って、湿しめりをくれたのが、ちらりと見える。
 どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。
 突然いきなり爺様じいさんの背中へつかまると、手水鉢のわきに、南天の実の撓々たわたわと、霜に伏さった冷い緋鹿子ひがのこ真白まっしろ小腕こがいなで、どんつくの肩をたたくじゃないか。
 青苔あおごけ緑青ろくしょうがぶくぶく禿げた、湿ったのりの香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸よっかかって、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐なつかしじった。
 そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代――君が云う、その美少年の猿廻さるまわし。」

       十二

「急いで手拭を懐中ふところへ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後あとさき※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわした、……私は書割の山の陰にひそんでいたろう。
 誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣おしやって、手代が自分で、爺様じいさんの肩をたたき出した。
 二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」
「ほう、」
 と唐突だしぬけに声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。
「私は旅行たびをしたかいがあると思った。
 声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘がかないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいとうなずく風でね、老年としよりいたわる男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹のひらきを出る時、ちょっと襟を合せましたよ。
 私も帰った。
 間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖けんぺきほぐれた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝つきひざ以前もとのごとし。……
 真中まんなかはさまった私を御覧。美しい絹糸で、身体からだ中かがられる、何だかくすぐったい気持に胸がしまって、妙に窮屈な事といったらない。
 狂犬やまいぬがむっくり、鼻息を吹直した。
(柿があるか、けやい、)とよだれ滑々ぬらぬらした口を切って、絹もはだにくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤まっかな目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらくと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(なんしとる? わりゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。
(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定ほしい、と取りに来た金子かねなら、払うてやるは知れた事や。何ぬかす。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんでたたきつけろ、と番頭にそうかせ。)
(はい、)と、手をく。
(さっさとね、こない場所へのこのこと面出しおって、なんさらす、去ねやい。)
(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手をみながら、手代が立って、五足ばかりきかかると、
(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。
(待てい、)と云う。はっと引返して、また手をくと、おんなの膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子かねくれい、と使が来て店で待つじゃな。人寄越よこいたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」
「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」
「そうかね、(丸官は催促されて金子かね出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒げいこてあいの顔をずらりと見渡すと、例のすごいので嘲笑あざわらって、軍鶏しゃもつけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人いていた柿を引手繰ひったくる、と仕切にひじを立てて、あごを、新高しんたかに居るどこかの島田まげの上に突出して、丸噛まるかじりに、ぼりぼりとくいかきながら、(めちまえ、)と舞台へわめく。
 御寮人は、ぞろりとつまを引合せる。多一は、その袖の蔭に、うずくまっていたんだね。
 するとね、くいほじった柿のたねを、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。
(鉄砲て、戦争押始おっぱじめろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、とがった顔をして、じろりと多一をにらみつけた。
(何しとる、うむ、)と押潰おしつぶすように云います。
(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行あるき出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。
丁稚々々でっちでっち、)と今度は云うのさ。」
 聞く男衆は歎息した。
「難物ですなあ。」

       十三

「それからの狂犬やまいぬが、条理すじ違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。
わりゃ、はいはいで、用を済まいた顔色がんしょくで、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が吩咐いいつけたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子かねを払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)とおおきな声して、(端金子はしたがね、)で、底力を入れてなすりつけるように声をひそめて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ! 大白痴おおたわけ、その位な事が分らんか。)
 で、また追立おったてて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。
(分ったか、何、分った、偉い! 出来でかす、)と云ってね、ふふん、と例のいや笑方わらいかたをして、それ、直ぐに芸妓連げいこれんの顔をぎょろり。
(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌しゃべれ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向あおむけに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管きんぎせるを握って、立続けに、ふかふか吹かす。
判然はっきり言え、判然、ちゃんと口上をもってかせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子かねを払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と可恐おそろしい顔になった。(誰が?)とえるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!
 丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つにゆすり上げて、(大胆ものめが、土性骨の太いやちや。主人のものだとたかをくくって、大金を何のかすとも思いくさらん、乞食を忘れたか。)
 と言う。
 目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退すさって廊下へ手をくと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、わりゃ動くな。)とまた柿を引手繰ひったくって、かツかツと喰いかきながら、(めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。
(旦那様、旦那様、)多一が震声ふるえごえで呼んだと思え。
(早いな、われがような下根げこんな奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処たちどころは偉い。おれを呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美ほうびを遣る。そりゃ頂け、)と柿のへたを、色白な多一の頬へたたきつけた。
(もし、御寮人様、)とじっと顔を見て、(どうしましたらよろしいのでございましょう、)とすがるようにして言ったか言わぬに、(猿曳さるひきめ、われゃ、おんなに、……畜生、)とわめくがはやいか、伸掛のしかかって、ピシリと雁首がんくびで額をったよ。羅宇らう真中まんなかから折れた。
 こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。
 芸妓達も一時いっときに振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一がおさえた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子ようすには弱ったね。おまけに知らないふりをして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。
 私は、ふいと立って、部屋へ帰った。
 そばに居ちゃ、もうこっちが撮出つまみだされるまでも、横面よこつら一ツ打挫うちひしゃがなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合とっくみあった、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。
 頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。
 そのおんなだ、呆れたぐうたらだと思ったが、」
「もし、もし、」
 と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。

       十四

 歩行あるくともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直まっすぐに見渡す。――狭いが、群集ぐんじゅおびただしい町筋を、斜めにやっこを連れて帰る――二個ふたつ前後あとさきにすっと並んだ薄色の洋傘こうもりは、大輪の芙蓉ふよう太陽を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。
 水打ったつちに、もすそあやの影もす、色は四辺あたりを払ったのである。
「やあ、居る……」
 と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、かさなり合って露店もあり。軒にも、路にも、透間すきまのない人立ひとだちしたが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見赤毛布あかげっとのその風采ふうで、あわただしく(居る、)と云えば、くだんおんな吃驚びっくりした事は、往来ゆききの人の、近間なのには残らず分った。
 意気な案内者おおいに弱って、
「驚いては不可いけません。天満の青物市です。……それ、真正面まっしょうめんに、御鳥居を御覧なさい。」
 はじめて心付くと、先刻さっきながめた城に対して、稜威みいずは高し、宮居みやいの屋根。雲に連なるいらかの棟は、玉を刻んだ峰である。
 向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽ひおおい葭簀よしずを払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男もおんなも、折から市人いちびと服装なりは皆黒いのに、一ツ鮮麗あざやかく美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。
「音に聞いた天満の市へ、突然いきなり入ったから驚いたんです。」
「そうでしょう。」
 擦違すれちがった人は、初阪ものの顔を見て皆わらいを含む。
 両人ふたりは苦笑した。
「ほっこり、あったかい、暖い。」
 蒸芋ふかしいもの湯気の中に、紺の鯉口こいぐちした女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。
「おでんや、おでん!」
饂飩うどんあがんなはらんか、饂飩。」
煎餅せんべい買いなはれ、買いなはれ。」
 すし香気かおりぷんとして、あるが中に、硝子戸越ガラスどごし[#「硝子戸越」は底本では「硝戸戸越」]くれないは、住吉の浦の鯛、淡路島のえびであろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺のかぶらと見た。……頬被ほおかむりしたお百姓、空籠からかごにのうて行違ゆきちがう。
 軒より高い競売せりもある。
 からかささした飴屋あめやの前で、奥深い白木のきざはしに、二人まず、帽子を手に取った時であった。――前途ゆくてへ、今大鳥居をくぐるよと見た、見る目もあやな、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病きやみの床を小春日和こはるびよりに、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯しごきつま取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々しずしずと拾ったのが、たちまちいなずまのごとく、さっと、照々てらてらとある円柱まるばしらに影を残して、鳥居際からと左へ切れた。
 が、目にも留まらぬばかり、掻消かきけすがごとくに見えなくなった。
 高く競売屋せりうりやが居る、古いが、黒くがっしりした屋根ごし其方そなたの空、一点の雲もなく、えた水色のくまなき中に、浅葱あさぎや、かばや、朱や、青や、色づきめた銀杏のこずえに、風のそよぐ、とながめたのは、皆見世ものの立幟たてのぼり
 太鼓に、かねに、ひしひしと、打寄する跫音あしおとの、遠巻きめいて、はるかに淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数にんず。お珊も暮るれば練るという、宝の市のをかけた、大阪中のにぎわいである。

       十五

「御覧なさい、これが亀の池です。」
 と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すためにけたと云うより、築山つきやまの景色に刻んだような、天満宮てんまんぐうの境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池はないで、向う岸へれた。
 きざはしを昇ってひざまずいた時、言い知らぬ神霊に、引緊ひきしまった身の、拍手かしわでも堅く附着くッついたのが、このところまで退出まかんでて、やっとたなそこの開くを覚えながら、岸に、そのお珊のたたずんだのを見たのであった。
 でも投げたか、やっこと二人で、同じさま洋傘こうもりを傾けて、じっと池のおもを見入っている。
 初阪は、不思議な物語に伝えるたぐいの、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕たちあらわれた、世にもすごいまで美しいおんなの手から、一通玉章たまずさを秘めた文箱ふばこことずかって来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人たおやめが受取りに出たような気がしてならぬ。
 しかもそれは、途中たがいにもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑いんしん心斎橋しんさいばし高麗橋こうらいばしと相並ぶ、天満の町筋をとおしてであるにもかかわらず、説き難き一種寂寞せきばくの感が身に迫った。参詣群集さんけいぐんじゅ、隙間のない、宮、やしろの、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中ひなかは分けて見る事がおりおりある。
 ちょうど池のほとりには、この時、他に人影も見えなかった。……
 橋の上に小児こどもを連れた乳母が居たが、此方こなたから連立って、二人が行掛ゆきかかった機会しおに、
「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮のかた徐々そろそろ帰った。そのさまが、人間界へ立帰るごとくに見えた。
 池は小さくて、武蔵野の埴生はにゅうの小屋が今あらば、そのにわたずみばかりだけれども、深翠ふかみどり萌黄もえぎかさねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつこけなめらか牡丹ぼたんを彫らぬ欄干も、いわおを削ったおもむきがある。あまつさえ、水底みなぞこぬしむ……その逸するのを封ずるために、雲にゆわえてくろがねの網を張り詰めたように、百千のこまかな影が、ささなみって、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満みちみちた亀なのであった。
 枯蓮かれはすもばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄いおうヶ島の赤蜻蛉あかとんぼ
 鯡鯉ひごいの背は飜々ひらひらと、お珊のもすその影になびく。
 居たのは、つい、橋の其方そなたであった。
 半襟は、黒に、あしの穂がかすかに白い、紺地こんのじによりがらみの細い格子、お召縮緬めしちりめんの一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。
 髪のつやも、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽いちらくらしいくすんだ中に、晃々きらきらえがある、きっぱりした地の藍鼠あいねずみに、小豆色あずきいろと茶と紺と、すらすらと色の通ったしま乱立らんたつ
 蒼空あおぞらの澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆はくれないに、茶は萌黄もえぎに、紺は紫のくまを染めて、あかるい中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年る池に、ただその、すらりと雪をつかねたのに、霧ながらの葉にあやなす、にじを取って、細くなめらかに美しく、肩に掛けて背にさばき、腰に流したようである。みぎわは水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。
 光線は白かった。

       十六

 そのえんなのが、わらわを従えた風で、やっこたたずむ。……汀に寄って……流木ながれぎめいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗こけまみれに生簀いけすふたのように見えるのがあった。日は水をくぎって、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。
 それへ、ほかほかとこうらを干した、の葉に交って青銭の散ったさまして、大小の亀はウ二十、かわらの石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――
 いずれ一度はとりことなって、供養にとて放された、が狭い池で、昔売買うりかいをされたという黒奴くろんぼ男女なんにょを思出させる。島、海、沢、やぶをかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜やみにはひそんで、ひそひそと身の上話がはじまろう。
 故郷ふるさとなる、何を見るやら、むきは違っても一つ一つ、首を据えて目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはる。が、人も、もの言わず、いきものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかがかすかに、えへん、と咳払せきばらいをしそうでさみしい。
 一頭ひとつ、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長くって、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人とひとしく、絹糸の虹をながめたに違いない。
「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」
 男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干にもたれて低声こごえで云う。あえて忍音しのびねには及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、じかに話すほど、間近な人に皆聞える。
「まったく、うおじゃぼら面色かおつきが瓜二つだよ。」
 その何に似ているかは言わずとも知れよう。
「ああああ、板の下から潜出もぐりだして、一つ水の中からあらわれたのがあります。大分大きゅうがすせ。」
 成程、たらたらとうるしのような腹を正的まともに、こうらに濡色の薄紅うすべにをさしたのが、仰向あおむけにあぎと此方こなたへ、むっくりとして、そして頭のさきに黄色く輪取った、その目がなかだかにくるりと見えて、うろこのざらめく蒼味あおみがかった手を、ト板のふち突張つッぱって、水から半分ぬい、と出た。
「大将、甲羅こうら干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」
 と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。
 が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。
「今度は乗るぜ。」
 やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張ふんばった。が、力足らず、乗出したいきおいが余って、取外ずすと、ずんと沈む。
「や、不可いけない。」
 たちまち猛然としてまた浮いた。
 で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上のしあげる。
「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、またすべった。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。
 汀のお珊は、つまをすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田やっこしまだは、洋傘こうもりを畳んでいて、直ぐ目の下を、前髪に手庇てびさしして覗込のぞきこむ。
 この度は、場処を替えようとするらしい。
 ななめに甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、さおで操るがごとくになって、夥多あまたいい心持に乾いた亀の子を、カラカラとせたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、じっとしてくしゃみしたもの一つない。
 板の一方は細いのである。
 そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込かかえこめそうに見えた。
 いや、困った事は、重量おもみされて、板が引傾ひっかたむいたために、だふん、と潜る。
「ほい、しまった。いや、串戯じょうだんじゃない。しっかり頼むぜ。」
 と、男衆は欄干をトントン叩く。
 あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手がかかった。と思うと、ずぼりと出る。
かわずだと青柳硯あおやぎすずりと云うんです。」
「まったくさ。」

       十七

 けれども、その時もし遂げなかった。
「ああ、おしい。」
 男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。
「執念深いもんですね。」
「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」
 と言う間もなかった。
 この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲のゆらぐばかり力が入って、その手を扁平ひらたく板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。
「ははあ、考えた。」
「あいつを力に取って伸上のしあがるんです、や、や、どッこい。やれなさけない。」
 ざぶりと他愛たわいなく、またもや沈む。
 男衆が時計をた。
「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々そろそろ帰りましょう。」
「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」
「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまでかかるかも知れませんから。」
「妙に残惜のこりおしいようだよ。」
 男衆は、みぎわおんなにちょいと目を遣って、そっ片頬笑かたほおえみして声をひそめた。
串戯じょうだんじゃありませんぜ。ね、それ、何だかうっすりと美しい五色の霧が、冷々ひやひやかかるようです。……変にすごいようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会はずみに、黒雲を捲起まきおこして、震動雷電……」
「さあ、出掛けよう。」
 二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央なかばから取って返す。
 やがて、渡果わたりはてようとした時である。
「ちょっと、ちょっと。」
 と背後うしろから、やさしいがはりのある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細しさいなしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。
 袖を合せて、前後あとさきに、トひとしく振返ると、洋傘こうもりは畳んで、それはやっこに持たした。縺毛もつれげ一条ひとすじもない黒髪は、取ってさばいたかと思うばかり、やせぎすな、透通るような頬を包んで、正面まともに顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉のどが細かった。
「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。
 奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。
「そうどす。」と判然はっきり云って莞爾にっこりする、まぶたに薄く色が染まって、たぐいなき紅葉もみじの中のおもかげである。
「一遍お待ちやす……おもいを遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。あてが手伝うさかいな。」
 猶予ためらいあえず、バチンとはすの飛ぶ音が響いた。お珊は帯留おびどめ黄金きん金具、緑の照々きらきらと輝く玉を、烏羽玉うばたまの夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染ゆうぜんやわらかな膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て――あたかも腹を空に突張つッぱってにょいと上げた、藻を押分けた――亀の手に、すがれよ、引かむ、とすらりと投げた。
 帯留は、しろがねの曇ったような打紐うちひもと見えた。
 そのさきは水にくぐって、亀の子は、ばくりと紐をむ、ト袖口を軽くたもとを絞った、小腕こかいな白く雪を伸べた。が、重量おもみがかかるか、引く手にかすかに脈を打つ。その二の腕、顔、襟、うなじはだに白い処は云うまでもない、袖、つまの、えんに色めく姿、爪尖つまさきまで、――さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。

       十八

 池のおもは、あおく、お珊の唇のあたりに影をめた。
 風少し吹添って、城あるいぬいそら暗く、天満宮の屋の棟がどんより曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、のぼりの声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形をかすめて。……この水のある空ばかり、雲に硝子がらすめたるごとく、美女たおやめにじの姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めたの葉は淡く、松の影がさっと濃い。
 打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、かいなの色ながら、しろじろとうろこが光って、その友染にからんだなりに懐中ふところから一条ひとすじくちなわうねり出た、思いかけず、もののすさまじい形になった。
「あ、」
 と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口にくわえたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。
 やっこはじりじりと後に退すさった。
 お珊はみぎわにすっくと立った。が、血が留って、おもかげ瑪瑙めのうの白さを削ったのであった。
 このおんなが、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。
 日も待たず、そのあけの日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、――丸官が昨夜ゆうべ芝居で振舞った、酒の上の暴虐ぼうぎゃく負債おいめを果させるため、とあって、――南新地の浪屋の奥二階。金屏風きんびょうぶ引繞ひきめぐらした、四海しかいなみしずかに青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶めちょうおちょう長柄ながえを取って、たちばなけた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。
 晴の装束は、お珊が金子かねかして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。
 まず上席のお美津をおう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七がつぶし島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬ひぢりめんのかけおろし。橘に実を抱かせたこうがいを両方に、雲井のかおりをたきしめた、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ朱総しゅぶさの紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞うすがすみ朱鷺色絹ときいろぎぬに白い裏、はだえの雪のくれないかさねに透くようなまめかしく、白のしゃの、その狩衣を装い澄まして、黒繻子くろじゅすの帯、箱文庫。
 含羞はなじろまぶたを染めて、玉のうなじ差俯向さしうつむく、ト見ると、雛鶴ひなづる一羽、松の羽衣掻取かいとって、あけぼのの雲の上なる、うたげに召さるる風情がある。
 同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏おもぶせそうな、多一は浅葱紗あさぎしゃ素袍すおう着て、白衣びゃくえの袖をつつましやかに、膝に両手を差置いた。
 前なるお美津は、小鼓に八雲琴やくもごと、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵きんまきえ銀鋲ぎんびょう打った欄干づき、やぼねも漆の車屋台に、前囃子まえばやしとて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。
 後囃子あとばやしが、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児ちごばかり、すりがねに太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。
 二人を前に、銚子ちょうしを控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊のよそおいは、また立勝たちまさって目覚しや。

       十九

 宝の市の屋台に付いて、市女いちめまた姫ともとなうる十二人の美女が練る。……
 練衣ねりぎぬ小袿こうちぎくれないはかま、とばかりでは言足らぬ。ただその上下うえした装束そうぞくにも、支度の夜は丑満うしみつ頃より、女紅場じょこうばに顔を揃えて一人々々沐浴ゆあみをするが、雪のはだえも、白脛しろはぎも、その湯は一人ずつべにを流し、白粉おしろい汲替くみかえる。髪を洗い、くしを入れ、丈より長く解捌ときさばいて、緑のしずくすらすらと、香枕こうまくらの香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結もとゆいに染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣からごろもを着け、袴を穿くと、しらしらと早やあさひの影が、霧を破って色を映す。
 さて住吉の朝ぼらけ、白妙しろたえの松のの間を、静々ともうで進む、路のもすそを、皐月御殿さつきごてんいちの式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……
 その市の姫十二人、御殿の正面にゆうしてづれば、神官、威儀正しく彼処かしこにあり。土器かわらけ神酒みき、結び昆布。やがて檜扇ひおうぎを授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄もえぎや、金銀の縫箔ぬいはく光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白くこずえめぐ松林しょうりんに日のす中に、一列に並居なみいる時、巫子みこするすると立出たちいでて、美女のおもていち人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もてまゆずみを描く、と聞く。
 素顔の雪に化粧して、皓歯しらはに紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の沐浴もくよくに、美しきはだを衆にき、解き揃えた黒髪は、夥間なかまの丈をおさえたけれども、一人かれは、住吉の式につらなる事をしなかった。
 間際に人が欠けては事が済まぬ。
 世話人一同、袴腰を捻返ねじかえして狼狽うろたえたが、お珊が思うままな金子かねの力で、身代りのおんなが急に立った。
 で、これのみ巫女みこの手を借りぬ、容色きりょう南地なんち第一人。袴の色の緋よりも冴えた、笹紅ささべに口許くちもとに美しく微笑ほほえんだ。
「多一さん、美津みいさん、ちょっと、どないな気がおしやす。」
 唐織衣からおりごろもに思いもよらぬ、生地きじ芸妓げいこで、心易げに、島台を前に、声を掛ける。
 素袍のしゃに透通る、ともしの影に浅葱あさぎとて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた面色おももちだった。
「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数をかさねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。
「御寮人様。」
 と手を下げて、
「何も、何も、わたくしは申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、しもときずに、無慚むざん繃帯ほうたい
 お珊は黒目がちに、じっ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、
「ほんに、そう云うたら夢やな。」
 と清らかなふすまのあたり、座敷を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわした。
 ト柱、ふすま、その金屏風に、人の影が残らず映った。
 映って、そして、緋に、紫に、朱鷺色ときいろに、二人の烏帽子、素袍、狩衣、あやあるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、一条ひとすじ長く、横雲掛けて見えたのである。

       二十

 時に、を隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋とひとしく、毛氈もうせんつらねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の稚児ちごが通り、前囃子まえばやしの屋台をさしはさんで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、檜扇ひおうぎ取って練る約束の、おのがお珊の、市随一のはれの姿を見ようため、芸妓げいこ幇間たいこもちをずらりと並べて、宵からここに座を構えた。
 が、その座敷もまだ寂寞ひっそりして、時々、階子段はしごだん、廊下などに、遠い跫音あしおと、近く床しき衣摺きぬずれの音のみ聞ゆる。
 お珊は袖を開き、居直って、
「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」
 と、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけたまゆずみ恍惚うっとりと、多一の顔をみまもりながら、
「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……三々九度さかずきやさかい、ああしたわがままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、承合うけおうて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。
 美津みいさん、」
 と娘の前髪に、瞳を返して、
「不思議な御縁やな。ほほ、」
 手を口許にかざしたが、
「こう云うたかて、多一さんと貴女あんたとは、前世から約束したほど、深い交情なかでおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。
 思うてみれば、一昨日おとといさり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会じょうらくえにも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。
 一見いちげんでこうなった。
 貴女あんたな、ようこそ、芝居の裏で、おじいはんの肩さすって上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条ひとくさりなと、可愛い可愛い女房おかみはんに、沢山たんと芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取くみとって、うずら嬉々いそいそお帰りやした、貴女の優しい、仇気あどけない、可愛らしさも身に染みて。……
 私はな、丸官はんに、軋々ぎしぎしと……四角な天窓あたま乗せられて、鶉の仕切も拷問ごうもんの柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節みふしゆるんで、恍惚うっとりするまでながめていた。あの………ひらきの、お仕置場らしい青竹の矢来やらいの向うに……貴女等あんたたち光景ようすをば。――
 悪事は虎の千里走る、い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女あんた二人は孝行の徳、恋のてがら、恩愛のむくいだすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。
 逢阪に店がある、餅屋の評判のおさん、御両親おふたおやは、どちらも行方ゆきがた知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。
 天満の天神様へ行た、その帰途かえりに、つい虚気々々うかうかと、もう黄昏たそがれやいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」
 と微笑みながら、二人を前に。
「多一さんが、使のをちょっと逢いに寄って、町並あかりともされた中に、その店だけはもつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」

       二十一

 小指をらして指の輪を、我目のさきへ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭まじないであるようにした。
密々ひそひそ、話していやはったな。……そこへ、私が行合ゆきあ[#ルビの「ゆきあ」は底本では「ゆきわ」]わせたも、この杯の瑞祥ずいしょうだすぜ。
 ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯しょたい持ってそこから本店ほんだなへ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らしてかはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんにいやは言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津みいさんが、あの、嬉しそうなえ。
 どうや、九太夫くだゆうはん。」
 と云った、お珊は、そっと声を立てて、打解けた笑顔になった。
 多一は素袍の浅葱あさぎを濃く、袖をめて、またその顔を、はッと伏せる。
「ほほほほ多一さん、貴下あんた、そうむつかしゅうせずと、胡坐じょうら組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんのそばに居るのやない、この一月は籍のある、富田屋とんだやの以前の芸妓げいこ、そのつもりで酌をするのえ。
 仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。のちにまたあらためて、歴然れっきとした媒妁人なこうど立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯わやくは言えやへん。
 そないきまらずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」
「御寮人様。」
 と片手を畳へ、
「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫はなさけのうござります。」
 と、術なき中にも、ものの嬉しそうなえみを含んだ。
「そうやかて、貴方あんた一昨日おとといの暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛かまちの縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」
 言う――それは事実であった。――
「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。そのかまちへ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。
 その上、入る穴はなし、貴女様の召しもののかおりが、魔薬とやらをぎますようで、気が遠くなりました。
 その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」
「ほほほ可厭いやな、この人は。……最初はな、内証で情婦いろに逢やはるより何の余所よその人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心のうちが、水臭いようにあって、口惜くやしいと思うたけれど、な、……手をいてわびやはる……その時に、かどのとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、おおきな猿が、土間へ跳下とびおりて、貴下あんたと一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。
 柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。
 天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方さきを話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切だいじとこに居るやもの。
 おお、それなりで、貴方あんたたちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」
「はい、」
 と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景ようす、踊のさらいに台辞せりふを云うよう、細くとおる、が声震えて、
「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」

       二十二

「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」
 多一は片手に胸をおさえて、
「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」
「何や……怪我けが貴方あんたは何やかて、美津みいさんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、ひなを並べたようやないか。
 けどな、多一さん、貴下あんたな、九太夫やったり、そのな、額のきずで、床下から出やはった処は仁木にっきどすせ。沢山たんと忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」
 と軽口に、奥もなく云うて退けたが、ほんのりとうるみのある、まぶたに淡く影がした。
「ああ、わやく云う事やない。……貴方あんた、その疵、ほんとにもう疼痛いたみはないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私がそばに居たものを。美津みいさんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。
 そやけど、美津さん、うらみにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲ちょうちゃくされて、じっこらえていやはったも、辛抱しとげて、貴女あんたと一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中しんじゅう極印ごくいん打ったも同じ事、喜んだかていのどす。」
 お美津はこらえず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色ときいろ衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手にからむ、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬のえくぼに、前髪の艶しとしとと。
 お珊はまなじりを多一に返して、
「な、多一さんもそうだすやろな。」
「はい!」と聞返すようにする。
「丸官はんに、柿のたね吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇らうのポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身しにみになって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」
「…………」
「なあ、貴方、」
「…………」
「ええ、多一さん、新枕にいまくら初言葉ういことばと、私もここでちゃんと聞く。……女子おなごは女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」
 と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向うつむいて見なかった。
「……ものやさかい、美津さんの後の手券てがたに、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」
「ええ、」
「あの、美津さんへの心中だてかえ。」
 多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫さしぬきに、刀なき腰は寂しいものであった。
「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」
 お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れにいていた、かんざしたちばな薫りもする。
「おお……嬉し……」
 と胸を張って、思わず、つい云う。声のあやに、我を忘れて、道成寺の一条ひとくだりの真紅の糸が、鮮麗あざやかに織込まれた。
 それは禁制のにしきであった。
 ふと心付いたさまして、動悸どうきを鎮めるげに、襟なる檜扇ひおうぎの端をしっかとおさえて、トうしろを見て、ふすまにすらりなびいた、その下げ髪の丈をながめた。
 お珊の姿は陰々とした。

       二十三

 夫婦が二人、その若い顔を上げた時、お珊は何気なき面色おももちした。
「ほんになあ、くどいようなが多一さん、よう辛抱しやはった。中の芝居で、あの事がなかったら、幾ら私が無理云うたかて、丸官はんにこの祝言を承知さす事はようせんもの。……そりゃな、夫婦にはならはったかて、立行くように世帯が出来んとならんやないか。
 通い勤めなり、別に資本出すなりと、丸官はんに、応、言わせたも、皆、貴方あんたが、美津みいさんのためにこらえなはった、心中立しんじゅうだて一つやな。十年七年の奉公を一度に済ましなはったも同じ事。
 額のきずは、その烏帽子に、金剛石ダイヤモンドを飾ったような光がす……おお、天晴あっぱれなお婿はん。
 さあ、お嫁はん、お酌しょうな。」
 と軽く云ったが、艶麗あでやかに、しかも威儀ある座を正して、
「おさかずき。」
 で、長柄の銚子ちょうしに手を添えた。
 朱塗の蒔絵まきえ三組みつぐみは、浪に夕日の影を重ねて、蓬莱ほうらいの島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。
「さ、お受けや。」
 と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、騒立さわぎたつらしい胸の響きに、烏帽子のふさの揺るるのみ。美津は遣瀬やるせなげに手を控える。
 トじって、
「おお、まだ年のかぬ、嬰児ねねはんや。多一はんと、酒事ささごとしやはった覚えがないな。貴女あんた盞を先へ取るのを遠慮やないか。三々九度は、嫁はんが初手に受けるが法やけれど、別に儀式だった祝言やないよって、どうなと構わん。
 そやったら多一さん、貴方あんた先へお受けやす。」
「はい、」とひとしく逡巡しりごみする。
「どうしやはったえ。」
「御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……」
 とちょっと目を合せた。
「女から、お盞を頂かして下さりまし。」
「そやかて、含羞はにかんでいて取んなはらん。……何や、貴方あんたがた、おかしなえ。」
 ふと気色ばんだお珊のさまに、座がしんとして白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、じめの音が響いたのである。
 二人は黙って差俯向さしうつむく。……
 お珊は、するりと膝を寄せた。きっとして、
「早うおしや! 邪魔が入るとならんよって、私もきに女紅場へ行かんとならんえ。……な、あの、酌人が不足なかい。」
 二人は、せわしげに瞳を合して、しきりに目でものを云っていた。
「もし、」
 と多一がいた声で、
「御寮人様、この上になお罰が当ります。不足やなんの、さような事がありましていものでござりますか。御免下さりまし、申しましょう。貴女様、その召しました、両方のおたもとの中が動きます。……美津は、あの、それが可恐こわいのでござります。」と判然はっきり云った。
 と、おとがい檜扇ひおうぎに、白小袖の底をすかして、
「これか、」
 と投げたように言いながら、と、両手を中へ、袂を探って、肩をふらりと、なよなよとその唐織の袖を垂れたが、ひんを崩して、お手玉持つよ、と若々しい、仇気あどけない風があった。
「何や、この二条ふたすじの蛇が可恐い云うて?……両方とも、言合わせたように、貴方あんた二人が、自分たちで、心願掛けたものどっせ。
 餅屋の店で逢うた時、多一さん、貴方あんたはこの袋一つ持っていた。な、買うて来るついではあって、一夜ひとよさいのりはあげたけれど、用の間が忙しゅうて、夜さり高津の蛇穴へ放しにひまがない、頼まれてほしい――云うて、美津さんにことづきょう、とそれが用で顔見にかはった云うたやないか。」

       二十四

「美津さんもまた、日が暮れたら、高津へ行て放す心やった云うて、自分でも一筋。同じ袋に入ったのが、二ツ、ちょんと、あの、猿の留木とまりぎの下に揃えてあって、――その時、私に打明けて二人して言やはったは、つい一昨日おとといの晩方や。
 それもこれも、貴方あんたがた、芝居の事があってから、あんな奉公早うめて、すぐにも夫婦になれるようにと、身体からだは両方別れていて、言合せはせぬけれど、同じ日、同じ時に、同じいのりを掛けやはる。……
 蛇も二筋落合うた。
 案の定、その場から、思いがかのうた、お二人さん。
 あすこのな、蛇屋に蛇は多けれど、貴方がたのこの二条ふたすじほど、げんのあったは外にはないやろ。私かて、親はなし、ちいさい時からつとめをした、辛い事、悲しい事、口惜くやしい事、恋しい事、」
 と懐手のまま、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、
「死にたいほどの事もある。……何々のおもいが遂げたいよって、貴方あんた二人に類似あやかりたさに、同じ蛇を預った。今少し、身に附けていたいよって、こうしておいておくれやす。
 貴方、結ぶの神やないか。
 けどな、思い詰めては、自分の手でも持ったもの。一度、ねがいが叶うた上では、人の袂にあるのさえ、美津さん、おんなは、蛇は、可厭いやらしな!
 よう貴女あんた、これを持つまで、多一さんを思やはった、おんな同士や、察せいでか。――袂にあったら、粗相して落すとならん。憂慮きづかいなやろさかい、私がこうするよって、大事ないえ。」
 と袖の中にて手を引けば、内懐うちぶところのあたり、浪打つように膨らみたり。
おんなの急所でおさえておく。……乳くわえられて、私が死のうと、盞の影ものぞかせぬ。さ、美津さん、まず、お前に。」
 お珊は長柄をちょうと取る。
 美津は盞を震えて受けた。
 手の震えで滴々たらたら露散たまちるごとき酒のしずくくちなわの色ならずや、酌参るお珊の手を掛けてともしびの影ながら、青白きつやが映ったのである。
 はたはたとお珊が手をたたくと、かねて心得さしてあったろう。廊下の障子の開く音して、すらすらと足袋摺たびずれに、一間を過ぎて、またしずかにこのふすまを開けて、
「お召し、」
 とそこへ手をいた、すそ模様の振袖は、島田の丈長たけなが舞妓まいこにあらず、うちから斉眉かしずいて来ているやっこであった。
いかい。」
「はい。」と言いさま、はらはらと小走りに、もとの廊下へ一度出て、その中庭を角にした、向うの襖をすらりと開けると、ねやくれないに、みどりの夜具。枕頭まくらもとにまた一人、同じ姿の奴が居る。
 お珊が黙って、此方こなたから差覗さしのぞいて立ったのは、竜田姫たつたひめたたずんで、霜葉もみじの錦の谿たに深く、夕映えたるを望める光景ありさま。居たのが立って、入ったのと、奴二人の、同じ八尺対扮装ついでたち。紫の袖、白襟が、紫の袖、白襟が。
 袖口燃ゆる緋縮緬ひぢりめん、ひらりと折目に手を掛けて、きりきりと左右へ廻して、枕をおおう六枚屏風びょうぶ、表にいたも、錦葉にしきばなるべし、裏に白銀しろがねの水が走る。
「あちらへ。」
 お珊が二人を導いた時、とかくして座を立った、美津が狩衣の袴の裾は、膝を露顕あらわな素足なるに、恐ろしい深山路みやまじの霜を踏んで、あやしき神の犠牲にえく……なぜか畳は辿々たどたどしく、ものあわれに見えたのである。奴二人は姿を隠した。

       二十五

 屏風を隔てて、このくれないの袴した媒人なこうどは、花やかに笑ったのである。
 一人をしとねの上に据えて、お珊がやがて、一人を、そのあとからねやへ送ると、前のが、屏風の片端から、烏帽子のなりで、するりと抜ける。
 下髪さげがみであとを追って、手を取って、枕頭まくらもとから送込むと、そこに据えたのが、すっと立って、裾から屏風を抜けて出る。トすぐに続いて、すがって抱くばかりにして、送込むと、おさえておいたのが、はらはら出る。
 素袍すおう、狩衣、唐衣、あやと錦の影を交えて、風あるさまに、裾袂、追いつ追われつ、ひらひらと立舞う風情に閨をめぐった。巫山ふざんの雲にかけはしかかれば、名もなき恋のふちあらむ。左、たちばな、右、桜、きぬの模様の色香を浮かして、水はともえに渦を巻く。
「おほほほほ、」
 呼吸いきも絶ゆげな、なえたような美津のせなを、屏風の外で抱えた時、お珊は、その花やかなわらいを聞かしたのである。
 機会しおとや思いけん。
 廊下に跫音あしおと、ばたばたと早く刻んで、羽織袴の、宝の市の世話人一人、真先まっさきに、すっすっすっと来る、当浪屋の女房かみさん、仲居まじりに、奴が続いて、迎いの人数にんず
 口々に、
「御寮人様。」
「お珊様。」
「女紅場では、屋台の組も乗込みました。」
「貴女ばかりを待兼ねてござります。」
 襖の中から、
「車は?」
 としずかに云う。
「綱も申し着けました、」と世話人が答えたのである。
「待たせはせぬえ、大事な処へ、何や!」
 と声がりんとした。
 黙って、すたすた、一同は廊下を引く。
 とばかりあって、襖をあけた時、今度は美津が閨に隠れて、枕も、袖も見えなんだ。
 多一が屏風の外に居て、床の柱の、釣籠つりかごの、白玉椿しらたまつばきの葉の艶より、ぼんやりとした素袍で立った。
 襖がくれの半身で、廊下の後前あとさきじって、人の影もなかった途端に、振返ると、引寄せた。お珊のかいなうなじにかかると、倒れるように、ハタと膝をいた、多一の唇に、俯向うつむきざまに、と。――
 丸官の座敷を、表にながめて、左右に開いたに立寄りもせず、階子段はしごだんさっと下りる、とたちまちかどへ姿が出た。
 軒を離れて、くるまに乗る時、欄干に立った、丸官、と顔を上下うえしたに合すや否や、矢を射るような二人曳ににんびき。あれよ、あれよと云うばかり、くるわともしに影を散らした、群集ぐんじゅはぱっと道を分けた。
 宝の市の見物は、これよりして早や宗右衛門町の両側に、人垣を築いて見送ったのである。
 その年十月十九日、宝の市の最後のは、稚児ちご市女いちめ、順々に、後圧あとおさえの消防夫しごとしが、篝火かがりび赤き女紅場の庭を離れる時から、屋台の囃子、姫たちなど、傍目わきめらぬおんなたちは、さもないが、真先まっさき神輿みこしにのうた白丁はくちょうはじめ、立傘たてがさ市女笠いちめがさ持ちの人足など、しきりに気にしては空をながめた。
 通り筋の、屋根に、ひさしに、しばしばからすが鳴いたのである。
 次第に数が増すと、まざまざと、薄月うすづきの曇った空に、くちばしも翼も見えて、やがては、ねりものの上を飛交わす。
 列が道頓堀に小休みをした時は、立並ぶ芝居の中の見物さえ、頻りに鴉鳴からすなきを聞いた、と後で云う。……

       二十六

宗八そっぱ宗八そっぱ。」
 浪屋の表座敷、床の間の正面に、丸田官蔵、この成金、何の好みか、例なる詰襟つめえりの紺の洋服、高胡坐たかあぐら、座にある幇間ほうかんを大音に呼ぶ。
「はッ、」
「き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、後押あとおし駈着かけつけて、今帰った処じゃな。」
「御意にござります、へい。」
「何か、直ぐに連れてここへ来る手筈てはずじゃった、猿は、留木とまりぎから落ちて縁の下へ半分身体からだ突込つッこんで、斃死くたばっていたげに云う……嘘でないな。」
「実説正銘にござりまして、へい。餅屋みせでは、じじいの伝五めに、今夜、貴方様あなたさま、お珊の方様、」
 と額をたたいて、
「すなわち、御寮人様、市へお練出しのお供を、おこのみとあって承ります。……さてまた、名代娘のお美津さんは、御夫婦これに――ええ、すなわち逢阪の辻店は、戸を寄せ掛けた明巣あきすにござります。
 処へ宗八、丸官閣下お使者といたし、車を一散に乗着けまして、隣家の豆屋の女房立会い、戸を押開いて見ましたれば、いや、はや、何とも悪食あくじきがないたいた様子、お望みの猿は血を吐いてち果てておりましたに毛頭相違ござりません。」
「うむ。」
 と苦切にがりきってうなずきながら、
「多一、あれを聞いたかい、その通りや。」と、ぐっと見下ろす。
 一座の末に、うら若い新夫婦は、平伏ひれふしていたのである。
 これより先、余り御無体、お待ちや、などと、あわただしいおんなまじりの声の中に、丸官の形、猛然と躍上おどりあがって、廊下を鳴らして魔のごとく、二人のねやへ押寄せた。
 襖をどんと突明けると、床の間の白玉椿、怪しき明星のごとき別天地に、こは思いも掛けず、二人の姿は、綾のとばりにもおおわれず、指貫さしぬきやなど、烏帽子のひもも解かないで、屏風びょうぶの外に、美津は多一の膝にし、多一は美津のせなに額を附けて、五人囃子のひな二個ふたつ、袖を合せたようであった。
 揃って、胸先がキヤキヤと痛むと云う。
「酒くらえ、意気地なし!」
 で、有無を言わせず、表二階へ引出された。
 欄干の毛氈もうせんは似たりしが、今夜は額を破るのでない。
「練ものを待つ内、退屈じゃ。多一やい、皆への馳走ちそうに猿を舞わいて見せてくれ。恥辱はじではない。わりゃ、丁稚でっちから飛上って、今夜から、大阪の旦那の一にんむかしを忘れぬためという……取立てた主人の訓戒いましめと思え。
 呼べ、と言えば、おんなどもが愚図ぐず々々ぬかす。新枕にいまくら長鳴鶏ながなきどりがあけるまでは待かねる。
 主従は三世の中じゃ、遠慮なしに閨へ推参に及んだ、悪く思うまいな。わりゃ、天王寺境内に太鼓たたいていて、ちょこんと猿負背おんぶで、小屋へ帰りがけに、太夫どのに餅買うて、われも食いおった、行帰りから、その娘は馴染なじみじゃげな。足洗うて、丁稚になるとて、右の猿は餅屋へ預けて、現に猿ヶ餅と云うこと、ここに居るおんなどもが知った中。
 田畝たんぼの鼠が、蝙蝠こうもりになった、その素袍すおうひらつかいたかて、今更隠すには当らぬやて。
 かえって卑怯ひきょうじゃ。
 ってくれい。
 が、聞く通り、ちゃと早手廻しに使者を立てた、宗八が帰っての口上、あの通り。
 残念な、猿太夫はちたとあるわい。
 唄なと歌え、形なと見せおれ。
 何ぬかす、」
 と、とりなしを云った二三人の年増の芸妓げいこ睨廻ねめまわいて、
「やい、多一!」

       二十七

「致します、致します。」
 と呼吸いきを切って、
「皆さん御免なさりまし。」
 多一はすっと衣紋えもんしごいた。
 浅葱あさぎの素袍、侍烏帽子が、丸官と向う正面。芸妓、舞妓は左右に開く。
 その時、膝に手をいて、
「……ま猿めでとうのうつかまつる、踊るが手許てもと立廻り、肩に小腰をゆすり合せ、静やかに舞うたりけり……」
 声を張った、扇拍子、畳を軽くちながら、「筑紫下りの西国船、ともに八ちょうに八挺、十六挺の櫓櫂ろかいを立てて……」
「やんややんや。ああおしい、太夫がらぬ。千代鶴やい、猿になれ。一若、立たぬか、立たぬか、此奴こいつ。ええ! ばばどもでまけてやろう、古猿こけざるになれ、此奴等こいつら……立たぬな、おのれ。」
 と立身上たちみあがりに、さかずきを取って投げると、杯洗はいせんふちにカチリと砕けて、さっかけらが四辺あたりに散った。
 色めき白けるともしびに、一重瞼ひとえまぶちの目をすずしく、美津は伏せたるおもてを上げた。
「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ[#「舞いまっせ」は底本では「舞いまつせ」]。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の銀杏いちょうの下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう貴下あんた、多一さんをいじめんとおくれやす。
 ちゃとひまもろうてぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」
 と、襟の扇子をと抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京はべに、雪の狩衣けながら、下萌したもゆる血の、うら若草、萌黄もえぎ難波なにわの色である。
 丸官はこぶしを握った。
 多一の声は凜々りんりんとして、
「しもにんにんの宝の中に――火取る玉、水取る玉……イヤア、」
 と一つ掛けた声が、たちまち切なそうにかすれた時よ。
(ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる錦葉もみじの音かと、虚空に響いた鼓の掛声。
(コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)摺鉦すりがね入れた後囃子あとばやしが、はるかに交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な気勢けはい
 が、座を乱すものは一人もなかった。
「船の中には何とおるぞ、とまを敷寝に、苫を敷寝に楫枕かじまくら、楫枕。」
 玉を伸べたるはぎもめげず、ツト美津は、畳に投げて手枕たまくらした。
 その時は、別に変った様子もなかった。
 多一が次第に、歯もきしむか、と声を絞って、
「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまたゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」
 ト袖を捲いて、扇子おうぎかざし、胸を反らしてじっと仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、またたさもせず※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはるとひとしく、笑靨えくぼさっと影がさして、爪立つまだつ足が震えたと思うと、唇をゆがめた皓歯しらはに、つぼみのような血をんだが、烏帽子の紐の乱れかかって、胸に千条ちすじ鮮血からくれない
「あ、」
 と一声して、ばったり倒れる。人目もふりも、しどろになってせなすがった。多一の片手のてのひらも、我が唇をおさえ余って、血汐ちしおは指をあふれ落ちた。
 一座わっと立騒ぐ。階子はしごげて落ちたのさえある。
 引仰向ひきあおむけてしっかと抱き、
美津みいさん!……二、二人は毒害された、お珊、お珊、御寮人、お珊め、おんな!」

       二十八

床几しょうぎ、」
 と、前後まえうしろの屋台の間に、市女いちめの姫の第五人目で、お珊が朗かな声を掛けた。背後うしろに二人、朱の台傘をひさしより高々と地摺じずれの黒髪にさしかけたのは、白丁扮装はくちょうでたち駕寵かご人足。並んで、萌黄紗もえぎしゃに朱のふさ結んだ、市女笠を捧げて従ったのは、特にお珊が望んだという、お美津のじいの伝五郎。
 印半纏しるしばんてん股引ももひき、腹掛けの若いものが、さし心得て、露じとりの地に据えた床几に、お珊は真先まっさきに腰を掛けた。が、これは我儘わがままではない。ねりものは、揃って、宗右衛門町のここに休むのがならいであった。
 屋台の前なる稚児ちごをはじめ、間をものの二けんばかりずつ、真直まっすぐに取って、十二人が十二のきぬ、色をすぐった南地の芸妓げいこが、揃って、一人ずつ皆床几に掛かる。
 台傘の朱は、総二階一面軒ごとの毛氈もうせんに、色映交さしかわして、千本ちもと植えたる桜のこずえくるわの空に咲かかる。白の狩衣、紅梅小袖、ともしびの影にちらちらと、囃子の舞妓、芸妓など、霧に揺据ゆりすわって、小鼓、八雲琴やくもごと調しらべを休むと、後囃子あとばやしなる素袍の稚児が、浅葱桜あさぎざくらを織交ぜて、すりがね、太鼓のも憩う。動揺どよめき渡る見物は、大河の水をいたよう、見渡す限り列のある間、――一尺ごとに百目蝋燭ひゃくめろうそく、裸火をあおらし立てた、黒塗に台附の柵の堤を築いて、両方へ押分けたれば、練もののみが静まり返って、人形のように美しく且つすごい。
 ただその中を、福草履ひたひたと地を刻んで、はかまの裾をせわしそう。二人三人、世話人が、列の柵れにきつかえりつ、時々顔を合わせて、二人ささやく、直ぐに別れてまた一人、別な世話人とちょっと出遇であう。中に一人落しものをしたように、うろうろと、市女たちの足許あしもとのぞいて歩行あるくものもあって、おおきな蟻の働振はたらきぶり、さも事ありげに見えるばかりか、傘さしかけた白丁どもも、三人ならず、五人ならず、眉をひそめ口を開けて空を見た。
 その空は、暗く濁って、ところどころ朱の色を交えて曇った。中を一条ひとすじ、列を切って、どこからともなく白気はっきが渡って、細々と長く、はるかに城あるかたなびく。これを、あたりの湯屋の煙、また、遠い煙筒えんとつの煙が、風の死したる大阪の空を、あらん限り縫うとも言った。
 宵には風があった。それは冷たかったけれども、小春凪こはるなぎの日の余残なごりに、薄月さえ朧々おぼろおぼろと底の暖いと思ったが、道頓堀で小休みして、やがて太左衛門橋を練込む頃から、真暗まっくらになったのである。
 鴉は次第に数を増した。のみならず、白気のあやしみもあるせいか、誰云うとなく、今夜十二人の市女の中に、姫の数が一人多い。すべて十三人あると言交わす。
 世話人てあいが、妙に気にして、それとなく、一人々々数えてみると、なるほど一人姫が多い。誰も彼も多いと云う。
 念のために、他所見よそみながら顔をのぞいて、名を銘々に心に留めると、決して姫がえたのではない。おきての通り十二人。で、また見渡すと十三人。
 ……式の最初、住吉もうで東雲しののめに、女紅場で支度はしたが、急にお珊が気が変って、やしろへ参らぬ、と言ったために一人俄拵にわかごしらえに数をやした。が、それは伊丹幸いたこう政巳まさみと云って、お珊がわかい時から可愛がった妹分。その女は、と探ってみると、現に丸官に呼ばれて、浪屋の表座敷に居ると云うから、その身代りが交ったというのでもないのに。……
 それさえ尋常ただならず、とひしめく処に、てて加えて易からぬは、世話人の一人が見附けた――屋台が道頓堀を越す頃から、橋へかけて、列の中に、たらたら、たらたらと一雫ひとしずくずつ、血が落ちていると云うのである。

       二十九

 一人多い、その姫の影はおぼろでも、血のしたたりは現に見て、誰が目にもまさしく留った。
 灯の影に地を探って、おだやかならず、うそうそさがしものをして歩行あるくのは、その血のあとを辿たどるのであろう。
 消防夫しごとしにも、駕籠屋にも、あえて怪我をしたらしいのはない。おんなたちにも様子は見えぬ。もっとも、南地第一の大事な市の列に立てば、些細ささいきずなら、弱い舞妓も我慢してかくして退けよう。
 が、市に取っては、上もなき可忌いまわしさで。
 世話人は皆激しくひそんだ。
 知らずや人々。お珊は既に、襟にかくし持った縫針で、裏をとおして、左の手首の動脈を刺し貫いていたのである。
 ただ、はじめから不思議な血のあとを拾って、列を縫ってしらべてくと、静々しずしずと揃って練る時から、お珊の袴の影で留ったのを人を知った。
 ここに休んでから、それとなく、五人目の姫の顔を差覗さしのぞくものもあった。けれども端然としていた。まゆずみの他に玲瓏れいろうとして顔に一点の雲もなかった。が、右手めてに捧げたたちばなに見入るのであろう、さみしく目を閉じていたと云う。
 時に、途中ではさもなかった。ここに休む内に、怪しき気のこと、点滴したたる血の事、就中なかんずく、姫の数の幻に一人多い事が、いつとなく、伝えられて、はげしく女どもの気を打った。
 自然と、髪を垂れ、袖を合せて、床几なる姫は皆、ひとしくお珊が臨終の姿と同じ、肩のさみしい風情となった。
 血だらけだ、血だらけだ、血だらけの稚児だ――と叫ぶ――柵の外の群集ぐんじゅの波を、しゃちに追われて泳ぐがごとく、多一の顔が真蒼まっさおあらわれた。
「お呼びや、私をお知らせや。」
 とお珊が云った。
 伝五じじいは、懐を大きく、仰天した皺嗄声しわがれごえを振絞って、
「多一か、多一はん――御寮人様はここじゃ。」とわめく。
 早や柵の上を蹌踉よろめき越えて、虚空をつかんで探したのが、立直って、と寄った。
 が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。
「ああ、待遠まちどおな、多一さん、」
 と黒髪ゆらぐ、吐息といきと共に、男の肩に手を掛けた。
「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をばねむったやろ。やっとここまでこらえたえ。も一度顔を、と思うよって……」
 丸官の握拳にぎりこぶしが、時に、かわら欠片かけらのごとく、群集を打ちのめして掻分かきわける。
「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。
 台傘がさっと斜めになった。が、丸官の忿怒ふんぬは遮り果てない。
 靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、懐中ふところと手を入れて、両方へ振って、しごいて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋いなずまのごとく光って飛んだ。
 わ、と立騒ぐ群集ぐんじゅの中へ、丸官の影は揉込もみこまれた。一人かれのみならず、もの見高く、推掛おしかかった両側の千人は、一斉に動揺どよみを立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋揚屋あげやの軒に余って、土足の泥波を店へどっと……津波の余残なごりは太左衛門橋、戒橋えびすばし相生橋あいおいばしあふれかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。
 見よ、見よ、鴉がおおいかかって、人の目、かしらに、はしを鳴らすを。
 お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑にげまどうた。その数はただ二条ふたすじではない。
 屋台から舞妓が一人さかさまに落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。
 それ、怪我人よ、人死ひとじによ、とそこもここも湧揚る。
 お珊は、心しずかに多一を抱いた。
「よう、顔見せておくれやす。」
口惜くちおしい。御寮人、」と、血を吐きながらかぶりを振る。
貴方あんたばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血がれて、蒼白あおじろんで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血からくれないに染まったのが、重く多一の膝に落ちた。
 男はしばらく凝視みつめていた。
「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、いとしい事だけには、立派に我ままして見しょう。
 宝市のこの服装なりで、大阪中の人の見る前で、貴方あんたの手を引いて……なあ、見事丸官をて見しょう、と命をかけて思うたに。……先刻さっき盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。
 一昨日おとといの芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、こらえやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、貴下あんた二十はたち。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」
 とて、はじめて、はらはらと落涙した。
 絶入る耳に聞分けて、納得したか、一度ひとたびうなずいたが、
「私は、私は、御寮人、生命いのちおしいと申しません。可哀気かわいげに、何で、何で、お美津を……」
 と聞きも果さず……
「わあ、」と魂切たまぎる。
 伝五じじいの胸をおさえて、
「人が立騒いで邪魔したら、撒散まきちらかいて払い退きょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その懐中ふところ沢山たんとある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。
 お聞きやす、多一さん、美津みいさんは、一所に連れずと、一人かいておきたかった。貴方あんたと二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。
 違うたかえ、分ったかえ、冥土めいどへ行てかて、二人をば並べておく、……遣瀬やるせない、私の身にもなってお見や。」
 かすかながらに声はとおる。
「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……――左のこの手の動く方は、義理やあのの手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」
 と床几を離れて、すっくと立つ。身動みじろぎに乱るる黒髪。もとどりふつ、と真中まんなかから二岐ふたすじさっとなる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握ってさばいたのを、かざすばかりに、浪屋の二階を指麾さしまねいた。
「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」
 練ものの列はく、ばらばらに糸がれた。が、十一の姫ばかりは、さすが各目てんでに名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、飛々とびとびに、せなひそめ、おもておおい、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島めた群集ぐんじゅ叫喚きょうかんすさまじき中に、くれないの袴一人々々、点々として皆とどまった。
 と見ると、雲の黒き下に、次第に不知火しらぬいの消え行く光景ありさま。行方も分かぬ三人に、遠く遠く前途ゆくてを示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。
 お珊は、かすかに、目も遥々はるばると、一人ずつ、その十一のともしびた。
明治四十五(一九一二)年一月

底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店
   1942(昭和17)年3月10日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月2日作成
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