あらすじ
大正十二年九月一日、東京は大地震に見舞われた。芥川竜之介は、その混乱と恐怖に満ちた日々を、冷静な観察眼と独特のユーモアを交えながら、淡々と記していく。焼け跡の風景、避難民の姿、そして人々の心の揺れ動きが、彼の筆によって鮮やかに浮かび上がってくる。
     一 大震雑記

      一

 大正十二年八月、僕は一游亭いちいうていと鎌倉へき、平野屋ひらのや別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先のきさきはずつと藤棚ふぢだなになつてゐる。その又藤棚の葉のあひだにはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架こうかの窓から裏庭を見ると、八重やへ山吹やまぶきも花をつけてゐる。
  山吹をすや日向ひなた撞木杖しゆもくづゑ    一游亭
   (註にいはく、一游亭は撞木杖をついてゐる。)
 その上又珍らしいことは小町園こまちゑんの庭の池に菖蒲しやうぶはすと咲ききそつてゐる。
  葉を枯れてはちすと咲ける花あやめ  一游亭
 藤、山吹、菖蒲しやうぶと数へてくると、どうもこれは唯事ただごとではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来じらい人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰もに受けない。久米正雄くめまさをの如きはにやにやしながら、「菊池寛きくちくわんが弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄てうろうしたものである。
 僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。だい地震はそれから八日やうか目に起つた。
「あの時は義理にも反対したかつたけれど、実際君の予言はあたつたね。」
 久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状してもい。――実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ。

      二

浜町河岸はまちやうがしの舟の中にります。桜川三孝さくらがはさんかう。」
 これは吉原よしはらの焼け跡にあつた無数のり紙の一つである。「舟の中にります」と云ふのは真面目まじめに書いた文句もんくかも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行いちぎやうの中に秋風しうふうの舟を家と頼んだ幇間ほうかんの姿を髣髴はうふつした。江戸作者の写した吉原よしはらは永久にかへつては来ないであらう。が、かく今日こんにちいへども、かう云ふ貼り紙に洒脱しやだつの気を示した幇間ほうかんのゐたことは確かである。

      三

 だい地震のやつと静まつたのち屋外をくぐわいに避難した人人は急に人懐しさを感じ出したらしい。向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草やなしをすすめ合つたり、互に子供のりをしたりする景色は、渡辺町わたなべちやう田端たばた神明町しんめいちやう、――ほとんど至る処に見受けられたものである。殊に田端たばたのポプラア倶楽部クラブ芝生しばふに難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアのそよいでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何いかにも楽しさうに打ちけてゐた。
 これはつとにクライストが「地震」の中にゑがいた現象である。いや、クライスト[#「クライスト」は底本では「クイラスト」]はその上に地震後の興奮が静まるが早いか、もう一度平生の恩怨おんゑんおもむろに目ざめて来る恐しささへゑがいた。するとポプラア倶楽部クラブ芝生しばふに難を避けてゐた人人もいつ何時なんどき隣の肺病患者を駆逐くちくしようと試みたり、或は又向うの奥さんの私行を吹聴ふいちやうして歩かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢おほぜいの人人の中にいつにない親しさのいてゐるのはかく美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。

      四

 僕も今度は御多分ごたぶんれず、焼死した死骸しがい沢山たくさん見た。その沢山の死骸のうち最も記憶に残つてゐるのは、浅草あさくさ仲店なかみせの収容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸もほのほに焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまつ黒だつた。が、湯帷子ゆかたを着た体やせ細つた手足などには少しも焼けただれたあとはなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ為ばかりではない。焼死した死骸は誰も云ふやうに大抵たいてい手足をちぢめてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふわけか、焼け残つたメリンスの布団ふとんの上にちやんと足をばしてゐた。手もまた覚悟をめたやうに湯帷子ゆかたの胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみもだえた死骸ではない。静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへげずにゐたら、きつとあをざめたくちびるには微笑に似たものが浮んでゐたであらう。
 僕はこの死骸をものあはれに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と云つた。成程なるほどさう云はれて見れば、案外あんぐわいそんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである。

      五

 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛きくちくわんはこの資格に乏しい。
 戒厳令かいげんれいかれたのち、僕は巻煙草をくはへたまま、菊池と雑談を交換してゐた。もつとも雑談とは云ふものの、地震以外の話の出たわけではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池はまゆを挙げながら、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだよ、君」と一喝いつかつした。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だらう」と云ふほかはなかつた。しかし次手ついでにもう一度、なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)か」と忽ち自説(?)を撤回てつくわい[#ルビの「てつくわい」は底本では「てつくわ」]した。
 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきをよそほはねばならぬものである。けれども野蛮やばんなる菊池寛は信じもしなければ信じる真似まねもしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄はうきしたと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団じけいだんの一員たる僕は菊池の為にをしまざるを得ない。
 もつとも善良なる市民になることは、――かく苦心を要するものである。

      六

 僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処ここを通るのは二度目である。この前来た時には馬場先ばばさきほりに何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのあるほりの向うを眺めた。堀の向うには薬研やげんなりに石垣のくづれた処がある。崩れた土はのやうに赤い。崩れぬ土手どては青芝の上に不相変あひかはらず松をうねらせてゐる。其処そこにけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興すゐきやうに泳いでゐるわけではあるまい。しかし行人かうじんたる僕の目にはこの前も丁度ちやうど西洋人のゑがいた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日けふもそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層いつそう平和に見えた位である。
 僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「なつかしのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬のあひだにいつか僕をとらへてゐた否定の精神を打ち破つたのである。
 芸術は生活の過剰くわじようださうである。成程なるほどさうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又たくみにその過剰を大いなる花束はなたばに仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
 僕はまるうちの焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火もまた焼き難い何ものかだつた。

     二 大震日録

 八月二十五日。
 一游亭いちいうていと鎌倉より帰る。久米くめ田中たなかすが成瀬なるせ武川むかはなど停車場へ見送りにきたる。一時ごろ新橋しんばし着。直ちに一游亭とタクシイをり、聖路加せいろか病院に入院中の遠藤古原草ゑんどうこげんさうを見舞ふ。古原草は病ほとんえ、油画具などもてあそび居たり。風間直得かざまなほえと落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装とう清楚せいそ甚だ愛すべきものあり。一時間ののち、再びタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端たばたへ帰る。
 八月二十九日
 暑気はなはだし。再び鎌倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮はくぼより悪寒をかん。検温器を用ふれば八度六分の熱あり。下島しもじま先生の来診らいしんを乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母をば、妻、児等こら、皆多少風邪ふうじやの気味あり。
 八月三十一日。
 病いささこころよきを覚ゆ。床上「澀江抽斎しぶえちうさい」を読む。嘗て小説「芋粥いもがゆ」をさうせし時、「ほとんど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽斎」を読めば、鴎外おうぐわい先生もまた「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずるあたはず。
 九月一日。
 ひるごろ茶のにパンと牛乳をきつをはり、まさに茶を飲まんとすれば、忽ち大震のきたるあり。母と共に屋外をくぐわいづ。妻は二階に眠れる多加志たかしを救ひに去り、伯母をばは又梯子段はしごだんのもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、すでにして妻と伯母と多加志をいだいて屋外に出づれば、さらに又父と比呂志ひろしとのあらざるを知る。しづを、再び屋内をくないに入り、倉皇さうくわう比呂志をいだいて出づ。父また庭をめぐつて出づ。このかん家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦をくぐわ乱墜らんつゐするもの十余。大震漸く静まれば、風あり、おもてを吹いて過ぐ。土臭ほとんむせばんと欲す。父とをくの内外を見れば、被害は屋瓦のちたると石燈籠いしどうろうの倒れたるのみ。
 円月堂ゑんげつだう、見舞ひにきたる。泰然自若じじやくたる如き顔をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病をつとめて円月堂と近鄰きんりんに住する諸君を見舞ふ。途上、神明町しんめいちやう狭斜けふしやを過ぐれば、人家の倒壊せるもの数軒を数ふ。また月見橋つきみばしのほとりに立ち、はるかに東京の天を望めば、天、泥土でいどの色を帯び、焔煙えんえんの四方に飛騰ひとうする見る。帰宅後、電燈の点じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蝋燭らふそく米穀べいこく蔬菜そさい罐詰くわんづめの類を買ひ集めしむ。
 よるまた円月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災いよいよ猛に、一望大いなる熔鉱炉ようくわうろを見るが如し。田端たばた日暮里につぽり渡辺町等わたなべちやうとうの人人、路上に椅子いすを据ゑ畳を敷き、屋外をくぐわいに眠らとするもの少からず。帰宅後、大震の再び至らざるべきを説き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯ガス共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色てんしよく常に燃ゆるが如くくれなゐなり。
 この日、下島しもじま先生の夫人、単身たんしん大震中の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするをささふ。為めに出火のうれひなきを得たり。胆勇たんゆう、僕などの及ぶところにあらず。夫人は澀江抽斎しぶえちうさいの夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし。
 九月二日。
 東京の天、いまだ煙におほはれ、灰燼くわいじんの時に庭前につるを見る。円月堂ゑんげつだうに請ひ、牛込うしごめ芝等しばとうの親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南しやうなん地方全滅の報あり。鎌倉にとどまれる知友を思ひ、心しきりに安からず。薄暮はくぼ円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土せうどと化せりと云ふ。あねの家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。
 この日、避難民の田端たばた飛鳥山あすかやまむかふもの、陸続りくぞくとして絶えず。田端もまた延焼せんことをおそれ、妻は児等こらをバスケツトに収め、僕は漱石そうせき先生の書一軸を風呂敷ふろしきに包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾もとよりきはまりなしとは云へ、存外ぞんぐわい又あきらめることも容易なるが如し。に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つあたはず。円月堂、僕の代りに徹宵てつせう警戒の任に当る。脇差わきざしを横たへ、木刀ぼくたうひつさげたる状、彼自身宛然ゑんぜんたる○○○○なり。

     三 大震に際せる感想

 地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三をしるしてやむべし。幸ひに孟浪まんらんとがむることなかれ。
 この大震を天譴てんけんと思へとは渋沢しぶさは子爵の云ふところなり。誰かみづから省れば脚にきずなきものあらんや。脚に疵あるは天譴てんけんかうむ所以ゆゑん、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以ゆゑんなるべし、されど我は妻子さいしを殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂いはゆる天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるにかざるべし。いな、天の蒼生さうせいに、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
 自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとをわかたず。猛火は仁人じんじん溌皮はつぴとを分たず。自然の眼には人間ものみも選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間のうちなる自然も、人間の中なる人間に愛憐あいれんを有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷ひびや公園の池に遊べる鶴と家鴨あひるとをくらはしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉をくらひしやも知るべからず。
 日比谷ひびや公園の池に遊べる鶴と家鴨あひるとをくらはしめし境遇のさんは恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉をくらひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間のうちなる自然も又人間の中なる人間に愛憐をるることなければなり。鶴と家鴨とをくらへるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――いては一切人間を禽獣きんじうと選ぶことなしと云ふは、畢竟ひつきやう意気地いくぢなきセンテイメンタリズムのみ。
 自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑けいべつすべからず。人間たる尊厳を抛棄はうきすべからず。人肉をくらはずんば生き難しとせよ。なんぢとともに人肉をくらはん。人肉をくらうて腹鼓然こぜんたらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇ちうちよすることなかれ。そののちに尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。
 誰かみづから省れば脚にきずなきものあらんや。僕の如きは両脚りやうきやくの疵、ほとんど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴てんけんなりと思ふあたはず。いはんや天譴てんけんの不公平なるにも呪詛じゆその声を挙ぐる能はず。唯姉弟していの家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、み難き遺憾ゐかんを感ずるのみ。我等は皆なげくべし、歎きたりといへども絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
 同胞よ。面皮めんぴを厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずることなかれ。僕のこのげん所以ゆゑんは、渋沢しぶさは子爵の一言いちげんより、滔滔たうたうなんでもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷どれいとなることなかれ。

     四 東京人

 東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕はいまかつて愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。
 元来愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介やくかいにもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例にれない。兎角とかく東京東京と難有ありがたさうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者ゐなかものに限つたことである。――さう僕は確信してゐた。
 するとだい地震のあつた翌日、大彦だいひこ野口のぐち君につた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は気楽さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端たばたの空さへにごらせてゐる。野口君もけふは元禄袖げんろくそでしやの羽織などは着用してゐない。なんだか火事頭巾づきんの如きものに雲龍うんりゆうさしと云ふ出立いでたちである。僕はその時話の次手ついでにもう続続ぞくぞく罹災民りさいみんは東京を去つてゐると云ふ話をした。
「そりやあなた、お国者くにものはみんな帰つてしまふでせう。――」
 野口君は言下ごんかにかう云つた。
「その代りに江戸えどだけは残りますよ。」
 僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。それは君の服装の為か、空を濁らせた煙の為か、或は又僕自身も大地震におびえてゐた為か、その辺の消息せうそくははつきりしない。しかしかくその瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい。

     五 廃都東京

 加藤武雄かとうたけを様。東京をとむらふの文を作れと云ふあふせは正に拝承しました。又おひきうけしたことも事実であります。しかしいざ書かうとなると、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうばうの際でもあり、どうも気乗りがしませんから、この手紙で御免ごめんかうむりたいと思ひます。
 応仁おうにんの乱か何かにつた人の歌に、「も知るや都は野べの夕雲雀ゆふひばりあがるを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。まるうちの焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。水木京太みづききやうた氏などは銀座ぎんざを通ると、ぽろぽろ涙が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな気もちなしにと云ふことわり書があるのですが)けれども僕は「落つる涙は」と云ふ気がしたきり、実際は涙を落さずにすみました。そのほか不謹慎の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事実であります。
「落つる涙は」と云ふ気のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した為であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふわけぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に余り愛惜あいじやくを持たずにゐました。と云つても僕を江戸趣味の速断そくだんしてはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依依恋恋いいれんれんとする為には余りに散文的に出来てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳のうわつてゐた、汁粉屋しるこやの代りにカフエのえない、もつと一体に落ち着いてゐた、――あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽むぎわらばうはかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消えせたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処どこか折り合へない感じを与へられてゐました。それが今焦土せうどに変つたのです。僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思ひ出しました。が、俗悪な東京を惜しむ気もちは、――いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもそのへんはぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから。つまり一番確かなのは「落つる涙は」と云ふ気のしたことです。僕の東京をとむらふ気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、――これだけではいけないでせうか?
 なんだかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうかしからず御赦おゆるし下さい。僕はこの手紙を書いてしまふと、僕の家に充満した焼け出されの親戚しんせき故旧こきうと玄米の夕飯ゆふめしを食ふのです。それから堤燈ちやうちん蝋燭らふそくをともして、夜警やけい詰所つめしよへ出かけるのです。以上。

     六 震災の文芸に与ふる影響

 だい地震の災害は戦争や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地だいちの動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に与へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生観を一変することなどはないであらう。もし、何か影響があるとすれば、かういふことはいはれるかも知れぬ。
 災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動揺を与へた。我我ははげしい愛や、憎しみや、あはれみや、不安を経験した。在来、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものがあらたに加はるやうになるかも知れない。勿論もちろんその感情の波を起伏きふくさせる段取りには大地震や火事を使ふのである。事実はどうなるかわからぬが、さういふ可能性はありさうである。
 また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景さつぷうけいをきはめるだらう。そのために我我は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か楽みを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人はさらにそれを強めるであらう。つまり、乱世に出合つた支那の詩人などの隠棲いんせいの風流を楽しんだと似たことが起りさうに思ふのである。これも事実として予言は出来ぬが、可能性はずゐぶんありさうに思ふ。
 前の傾向は多数へうつたへる小説をうむことになりさうだし、のちの傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。即ち両者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと断言しがたい。

     七 古書の焼失を惜しむ

 今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思ふ。表慶館へいけいくわんに陳列されてゐた陶器類はほとんど破損したといふことであるが、その他にも損害は多いにちがひない。然し古美術品のことは暫らくき古書のことを考へると黒川家くろかはけの蔵書も焼け、安田家やすだけの蔵書も焼け大学の図書館としよかんの蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だらう。商売人でも村幸むらかうとか浅倉屋あさくらやとか吉吉よしきちだとかいふのが焼けたからその方の罹害りがいも多いにちがひない。個人の蔵書はかくも大学図書館の蔵書の焼かれたことは何んといつても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近してゐるのも宜敷よろしくない。休日などには図書館に小使位しか居ないのもよろしくない、(その為めに今度のやうな火災にもどういふ本が貴重かがわからず、従って貴重な本を出すことも出来なかつたらしい。)書庫そのものの構造のゾンザイなのも宜敷よろしくない。それよりももつと突き詰めたことをいへば、大学が古書を高閣かうかくつかねるばかりで古書の覆刻ふくこくを盛んにしなかつたのも宜敷よろしくない。いたづらに材料を他に示すことを惜んでつひにその材料を烏有ういうに帰せしめた学者の罪はつづみを鳴らして攻むべきである。大野洒竹おほのしやちくの一生の苦心に成つた洒竹しやちく文庫の焼けせたけでも残念で堪らぬ。「八九間雨柳はつくけんやなぎ」といふ士朗しらうの編んだ俳書などは勝峯晉風かつみねしんぷう氏の文庫と天下に二冊しかなかつたやうに記憶してゐるが、それも今は一冊になつてしまつたわけだ。
(大正十二年九月)

底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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