志賀直哉氏編、座右宝の中に、除熙の作と伝えられている蓮花図がある。蓮池に白鷺が遊んでいるところを描いたものだが、花をつけた蓮に比べて白鷺が大変小さいように描いてある。いかにも大きく古き蓮池に霊のような白鷺の遊ぶ趣が幽婉に捕えられている。蓮花の茎が入り乱れてぬきんでている下に鷺を配したところも凡手でなく、一種重厚な、美を貫く生の凄さに似たものさえ、その時代のついた画面から漂って来るのだ。

 その絵から私は強い印象を受け、こうやって書いていても、黝んだ蓮の折れ葉の下に戦ぐ鷺の頸の白い羽毛を感じる。――その絵の中に一本のたでがある。蓮の中から高く空中に花を咲かせている。不思議な奥深い寂寞の感じは、動かぬその蓼の房花によって語られているかと思われる。
 ところが、偶然その蓼の花を、今年は近く毎日眺め暮すことになった。
 私共の家の裏に、一軒小さな家がある。そこに一人のお爺さんが暮していた。私共が引越して来た以前から住んでいた人で、隠居住居らしく、前栽にダリアや豌豆などを作っている。夕方まだ日があるのにポツと一つ電燈が部屋の中に点いているのなど、私の家の茶の間から樫の木の幹をすかしてよく眺められた。一人で、さっぱりした座敷の真中に小机を持ち出し書類を調べているひっそりした姿も見た。女気がない。
 時々、若い女の人が前栽に見えたり、
「たくさん買っていらっしたのね、おじいさん、五十銭!」
などという声が聞えた。土曜から日曜にかけては、男の児が遊びに来た。尺八を吹く男の人も来たし、犬も来る。賑やかなのは一時で、然しじきもとの独り住みの静けさに戻る。ダリアの盛りの頃、私共はその若い女の人から一束の美しい花を貰った。夜にでもなれば、互に互の灯かげを眺めて暮しながら、そうはかばかしくは口もきかない、そういう交際のうちに、三月ばかり前、突然おじいさんは引越しをしてしまった。
 そこがおじいさんの隠居所で、永く住む人と思っていたのが或る朝荷物を運び出し、やがて人夫が来て物干の杙を倒し始めた。人夫が働くのがひどく淋しかった。生活がそこにないという前の棲み主の心持が露骨に働いているようなのであった。

 丁度、今年の若竹が育つ盛りの時分で、おじいさんの庭にもはぐれて生えた数本の若竹があった。日毎に、日の光を梳いてあつみの増すそれ等の若竹の葉越しに、私共は毎日雨戸をしめた裏の家の軒下を眺めて暮すことになった。
 入梅があけると、空家の庭に苔がつき、めっきり青草が伸びた。雨戸はしまったままだ。
 夏になったので、何処かの子供が、空地を見つける子供の本能で早速その叢へ躍り込んで来た。豌豆の手に立ててあった細い竹ぎれを振廻す男の児の裸の腹。
「アラ! いた、いた」
 草の葉を掻き分け、見えたり隠れたりする小娘の赤い兵児帯。――
 子供の心にも、白々と雨戸のしまった空家は、叢が深ければ深いだけ、フッと四辺が森閑とした時変な気持を起させるのか、荒庭は直放棄されてしまった。
 もう子供の声もしない。草がのびる。草ばかり夜昼繁茂する。夜半、目が醒める。微に草の葉のすれ合う音がする。月を吹く風か? いやあの青草のまた伸び上る戦ぎであろう。菁は凄に通ずると感じながらその戦ぎを聞いた。
 その空家の叢の蔭に、いつからとなく一条草が踏みつけられた。そこから白黒斑の雄犬が一匹私共の家へ来る。自由な、親密な感情を持ったこの動物は、主人が、人夫を入れて物干杙を引き抜かせて去っても、私共が彼を呼んだ声を覚えていると見えて、来るのだ。尤も、これには一つ話がある。
 まだ春も夜寒な頃、十時過ぎて或る印刷所の使が玄関に来た。見ると、一匹の犬が、その使の若者と共に、三和土たたきのところに坐っている。
「まあ犬をつれて来たの?」
「いいえ。どっかの犬がついて来て離れないんです」
 使は程なく帰ったが、その犬ばかりは三和土から外へ出ようとしない。
「サアもうお帰り」
「サヨナラ。サヨナラ」
 お辞儀をして見せても去らぬ。敷台へ前脚をかけ、頻に尾を振り、いた。
「何だポチ、帰った、帰った」
 一層、足袋をはいた足許にまといつくし、頸環もこわれているし、ブルドッグの雑種らしいところもあるし、私は遂に、
「じゃあお泊り」
と云った、風呂から上ったばかりであったが、私はミルクを振舞われた犬を引いて、茶の間の裏へ廻った。ラジオの柱から繩をつけて椽の下の箱へ寝られるように繋いで自分も眠った。

 次の朝、日曜日であったが、起きると犬は居ぬ。犬は、裏の家へ来る人の犬であったのだそうだ。男の児が今朝、樫の木の彼方から、
「や、ポチがいらあ」
と叫んで、連れ戻した。――私と倶に暮しているYは、女ながらおかしい心をもっていて、往来で犬に出会うと、
「S、エス、エス」
と大きな声で呼ぶ。犬は尾を振らぬ。
「おや、Sじゃなかったか。ポチ、ポチ、――ポチふうむ、ポチでもないのか」
 夜、暗く長い桜並木の間を家へ帰る途中、よく犬と道づれになる。彼女は、そのように、道づれになった犬と問答するのであったが、この時ばかりは、ポチが本当にポチであったから、呼ばれたポチも他人とは思えず、つい一晩泊ってしまったのだろう。
 そのポチの、鼻の先に我家を眺めながら寝込んだどこやら呑気な性質が愛嬌で、その後も、思い出してはやって来た。
 ポチが潜るのも面倒がる程、土用の間に裏の夏草は高くなった。コスモスの葉も見える。あの根方の茂みには蛇も昼寝するであろう。
 蓬々とした青草の面に、乾いた、何処やら白いような光線が反射し始めた。七月に吹いていたのとは違った風回りで、風が室を吹きぬけた。風のない午後四時、蝉は鳴きしきっているが、庭の芝、松の木などの間から漂う香が、何か秋らしさで私の脈搏を速める。
 朝、私は全く思いがけず、裏の叢の上に蓼の花の咲き出したのを見つけた。
 蓼の花は高く咲いている。
 秋が更けて空が澄んだら蓼の花は美しさを増すであろう。
 心にある除熙の絵が働いて、私は朝靄の裡に開いたばかりの一輪の白蓮の花を思い浮べた。そこは鎌倉、建長寺の裏道だ。午前五時、私共は徹夜をした暁の散策の道すがら、草にかこまれた池に、白蓮を見た。靄はれきれぬ。花は濡れている。すがすがしさ面を打つばかりであった。
 模糊とした私の蓮花図のむこうに、雨戸は今日も白々としまった一つの家がある。
〔一九二七年九月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「アサヒグラフ」
   1927(昭和2)年9月7日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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