一

 一九四三年だったかそれともその翌年だったか、ある夏のことであった。ある晩わたしは、中野鷺宮の壺井栄さんの家の縁側ですずんでいた。そのころ、わたしにとって栄さんの家は生活の上になくてはならない休みどころであった。手拭の新しいので縫った小さい米袋に、ひとにぎりの米を入れ、なにかありあわせたおかずがあればそれも買物籠に入れて栄さんのところに出かけた。そして栄さんの家族にまじって賑やかな、それでいてしっとりした御飯をたべさせてもらい、大抵の時はそのまま腰がぬけて泊めてもらった。それはわたしの「里がえり」とか「やぶ入り」とかいう名がついていた。
 その晩もやっぱりそういう「里がえり」の一日であったのだろうと思う。縁側で涼しい風にあたっている時、栄さんが、もしかしたらいまに櫛田さんがくるかもしれませんよといった。わたしはその人が誰だか知らなかったし、おちあったこともなかった。その頃栄さんは、若い婦人のためのある雑誌に連載小説をかいていた。その雑誌の編輯者が櫛田ふきさんというその人であった。本当は今日原稿をわたす約束だったのだけれども、何しろこのありさまでね、と栄さんはすっかり筋をぬいてそこにたぐまっているわたしを見て笑った。わたしも笑って、いいことよ。わたしが実物証明をしてあげるから、あなたの小説が書けなかったわけは、これだけかさばった証明があれば許してくれるわよ、などといっていたときに、玄関で、ごめんなさいという元気なはりのある声がした。つづいてあがってもよくてというなり、もうその足音は廊下をつたわってきた。
 わたしはふざけて、そら来たといってあやまる仕度に坐りなおした。そこへ小柄な中年の女の人と二十四、五の若々しい人とがつれだって入ってきた。入ってきた人は、知らない人がいたので、あら、ごめんなさい、いきなり入って来てしまって、とふすまぎわに立ちどまった。栄さんが櫛田ふきさんと娘さん、わたしとを紹介した。
 このようにして櫛田さんとわたしとは初対面した。やがてわれわれみんなの間に新しい友情や仕事がもたらされるということについては、その時は何もしらずに。
 やがて櫛田さんが帰ってから、栄さんはその人について少し説明した。もうその頃は男女学生の勤労動員もはじまっていて、日本青年団の女子部の仕事は戦争協力一点ばりであった。おそろしい運命にさらされて勉強もできずにいる若い女性に、せめて人間らしいよみもののひとつも与えたいと、編輯者である櫛田さんはいつも努力しているということ。それというのも、さっき一緒に来た娘さんが出征させられている婚約の人をもう六、七年まちつづけているから一層若い人々の今日の境遇を思いやってのことだという話だった。いわばあてのない人をそうして幾年も待っていても、と周囲がとやかく云いだして来ている。娘さんとしてはそれらの言葉に動かされる心持がない。母としての櫛田さんは、ぐるりの人々の親切から出る忠告をやわらかくうけながら、娘さんの一途な心をいじらしく思って、母と娘と心は一つにして婚約の人の帰るのを待っている。若い人々が戦争によって不幸になっている。その日々の気のはり、笑いの中に涙を母の実感としているのだということだった。

          二

 この話はわたしにつよい感銘を与えた。娘さんがひとすじに愛する人との再会を確信し、それを待っている心持、それはその頃のわたしが生きている毎日の心持そのものであった。だけれども、戦争は惨酷であり、日本中には幾千人が同じようにあつい心で待っているか知れない、その人々の生命と愛情とを保証するどんな小さい条件も約束していない。壺井栄さんの物語をきいたとき、わたしはすずんでいる夏の夜の暗さが、ひとしお濃くあたりに迫るように感じた。もし万一その婚約の人が生きてかえることができなかったら。――ある日、その人の戦死が知らされたら。――櫛田さんは何として娘さんを支えるだろう。櫛田さんの母としての心、娘さんの心もち、どちらも、その期待、その不安によってわたしの実感にしみとおるものだった。その辛さにかかわらず若い娘さんのその心を共に生きて、守ってやっている母としての櫛田さんにわたしは、母というあたたかさにふさわしい、いいものがあることを強く印象づけられた。

 一九四六年の一月にどちらかといえば偶然な動機から、婦人民主クラブが誕生して、クラブの実際的な活動の中心になれる人をみんなでさがしたとき、わたしとして櫛田ふきさんをおもいうかべたのは、ゆきあたりばったりではなかった。クラブのような仕事は、本当に人々の話相手になれるだけの婦人として人生の経験をゆたかにもった人が中心にいなければならないし、同時に常にわかわかしくて、人間の希望的な情熱を失わない人でなければならない。日本は半封建の社会で婦人の活動場面が非常に狭いから、婦人団体といえばその狭いなかで、互にぶつかりあったり、そのぶつかりを既成勢力に利用されて結局、婦人ボスのあらそいとなったりしてきた。婦人民主クラブは、少くとも人間として社会に生きようとする全日本の婦人の友だちでなければならないし、どんなに弱々しい誕生をしたにしても、日本がまた再び戦争にまきこまれないためには、真実の努力をおしまず平和をかちとるための存在でなければならない。
 当時クラブ出発に関係していたいろいろの婦人たちの賛成を得て櫛田ふきさんが、実務の担当者となったことは、彼女の亡き良人が経済学者の櫛田民蔵氏だからではなかった。ふき子という彼女その人の婦人としての生活経験と、人間としての可能性によってみんなの信頼を得たのであった。
 婦人民主クラブの小さい看板が鷺宮の櫛田ふきさんの住居にかけられた。そして趣意書を印刷し、それを発送する仕事がはじまった。創立大会を準備する仕事がはじまった。同時に、敗戦後第一回の選挙がせまって、日本の婦人たちがはじめて政治上に意志をあらわす機会もきた。この事情は、はじめぼんやりとした日本の社会と婦人の生活の民主化を希望して集りはじめていたクラブの発起者たちの間に変化をもたらした。ある人はこの第一回選挙に立候補してまっすぐ政治生活に入っていったし、ある人は婦人労働問題や教育問題で専門の方面に新しい活動分野をひらかれるようになっていった。
 婦人民主クラブが実務の担当者として櫛田さんを見出したのは、決して間ちがっていなかったことが、この時期からますますはっきりしてきた。櫛田さんの骨惜しみをしない忠実さ、よい主婦、きちんとした母親らしい仕事ぶりが、全く不如意で物も人手もたりないづくしのクラブの事務に大きいプラスとなった。

          三

 クラブが出発した半年後に、『婦人民主新聞』が発行される計画ができた。用紙割当のことでは羽仁説子氏の尽力もあった。新聞経営の実際面は、当時、外地からひきあげてきていた数名の専門新聞人が引き受け、婦人の新聞として独自の編輯面をクラブの人々がうけもつという仕組みにされた。つまり、クラブの発起人であった人々は、執筆者としての関係におかれ、クラブの実務者である櫛田ふきさんが名目上の編輯人であった。
 婦人民主新聞の編輯局は、銀座裏の中部日本の一部におかれた。そしてなんとなくこれでいいのかしらと思うような出発をはじめた。婦人民主クラブはまだやっとヒヨッコのあゆみだし、新聞が特別な性質のものである上に用紙の制限その他の理由で一躍商業新聞と競争してゆけようとも思えない。だけれども事務所へ来てみると六、七人の男の人がぞっくりとつめていて、それぞれに家族もあるだろうのにどうしてやってゆけるだろう。いかにもそこが不安だった。日本の民主化、婦人の民主化。これは何年もかかる歴史的な仕事である。一時「感激」がどんなにはげしくても、そして、その「感激」をわけあう男の人たちが数人集ったにしろ、仕事そのもののじみな本質は必ず経済問題にぶつからずにはすまない。その現実はどう解かれてゆくのだろう。これこそみんなの不安であった。
 いよいよ八月二十六日、週刊『婦人民主新聞』がおくり出されることになった。名目上の編輯人である櫛田ふきさんの活動は、不思議な忙しさをもってきた。毎朝、鷺宮から銀座裏へ出勤してくる櫛田さんの大きい手提袋の中には、のりと鍋と刷毛が入れられるようになった。クラブの事務をたすけている若い人々と櫛田さんは、新しく出る婦人民主新聞のために宣伝のビラをはり、発送を担当し、ある時には新聞の立ち売りをやらなければならなかった。
 櫛田さんは夏の陽にやけて色が黒くなった。そのように働いた。それは彼女にはげしい疲れを与えることであったが、その頃八年ぶりで婚約者がやっと、生きてかえることができた。十九から二十七までその人を待っていた娘さんのよろこび。櫛田さんのよろこび。それは言葉につくせない大きさであったろうと思う。互いに支えあって苦しい年月をしのいできた母と娘の生活に大きい変化がおこった。娘さんはその人と結婚し、そのような結婚がどれほど愛情を集中させるかということは誰にも分ることである。櫛田さんが娘さんをそのような若妻としての位置において眺めて、衷心からともによろこび、安心することができたのは、母としての櫛田さんが何時の間にか広い社会的な活動の中に自分をおくようになっていたからではなかっただろうか。
 父親に早く別れた男の子と女の子とを櫛田さんがよい母として育てあげて、しかも子供たちがより複雑にくみ合わされた大人としての愛情の中で、やっぱり櫛田さんをよい母として信頼し愛してゆけるように生活する条件をひろげていたことは、多くの主婦、母、そして家庭の内では姑といわれる立場におかれる婦人の生き方について示唆するところが少くないと思う。
 婦人民主クラブの活動を通して櫛田ふきさんの社会的な視野はひろがり、いつもわかわかしい人々の中で働いていることは、彼女の母性を拡大して日本の若い女性の世代への母性としていった。

          四

 クラブの仕事も、たえ間ない困難と障害にぶつかった。考えてみればこれらすべての困難は、みんな過去四年間の日本の社会そのものが旧さと闘い、民主化のすりかえと闘いつづけてきたその困難であった。
 一九四八年一月から半年のあいだ、婦人民主クラブは特別むずかしい問題にぶつかった。婦人民主新聞が経営難から身売りしなければ立ゆかないという事情におかれた。それまで執筆者としての関係にだけおかれていたクラブの人々は、この危機にはっきり自己批判した。もう経営のことは男の人たちにまかせておいてもいいなどという料簡ではいられないこと。クラブの機関紙としてこそ用紙の割当が許可され、みんなも慾得ぬきに執筆し、クラブそのものは少しずつでも大きくなってきているのに、ここで新聞を経営部の主張によって売ることになってはならないという結論がでた。半年間あれこれのいきさつがあって、婦人民主新聞は、クラブの機関紙として続刊される条件を闘いとった。この時期に新聞の編輯委員会に関係のあった大勢の婦人たち、クラブ書記局の人たちが、それぞれに職業上の経験と性格とを生かしてはげしく活躍した物語は、何時かまた話される折もあるだろう。新聞は松岡洋子を編輯長とした。
 櫛田さんは当時クラブの書記長であった。新聞そのものを実質的にクラブの機関紙としてゆくための闘いの時期、当然櫛田さんの心労ははなはだしかった。ちっとも金をもたない婦人民主クラブが、ともかくひとつの週刊紙を借金の上から送りだしつづけてゆくことは、楽なやりくりでありようなかった。また、クラブの仕事も新聞の仕事もひどかったから、そこにはどうしてもいろいろの摩擦がおこってくる。みんなのくたびれて泣き出したい気持がうずまいて、それは書記長である櫛田さんをひきずりこまずにはおかない。あんまりつらかったときには、櫛田さん自身もきっと泣いただろうと思う。心で泣くなどというしゃれた泣きかたではなく、ポロポロ涙をおとして泣いただろうと思う。わたしまで泣いたりしてごめんなさい、でもわたし、やっぱり泣けるのよ、といいながら。――櫛田さんにはこういう飾らない、人柄まるむきのところがある。そこが彼女を型にはめず、すました女史にしてしまわないところではないだろうか。
 今日婦人民主新聞は四周年を迎える。こんにちまでに編輯長は、松岡洋子、湯浅芳子、厚木たか子、水沢耶奈子とうつってきた。のりと鍋と刷毛とをもって、生れ出る婦人民主新聞のためにビラをはって歩いた初代の編輯長櫛田ふきののちに。
 婦人民主新聞は、これらの人々の努力と読者の支援によって、だんだん新聞らしくなり、生活的になり、歴史のすすみゆく日日に役割をふかめてきている。婦人民主クラブと婦人民主新聞が、はじめからきょうまで平和のために発言しつづけてきていることは注目されなければならない。同時に終始一貫して、婦人と子供の幸福が守られない社会に、全体としての生活の安定もあり得ないことをはっきりとみ究めている態度も支持多い理由である。その上にたって日本のまじめな婦人大衆の生活の闘いと平和への発言を世界の婦人の活動の一部としててらし出してきた。
 櫛田さんが、「あたりまえ」の一人の婦人であるということは、何といいことだろう。日本でも婦人の生活のあたりまえさが、櫛田さんのきょうの生き方にまでのび拡がってきている。このことは、わたしたち婦人のすべての前に展望される新しい「あたりまえ」さとは、どういうものかということを暗示していると思う。
〔一九五〇年三―四月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人民主新聞」
   1950(昭和25)年3月31日、4月8、15、22日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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