一

 馬方の三吉というよりも、のっぽの三公という方が分り易かった。それほど彼は背が高かった。背が高いばかりでなく、肩幅も広く、筋骨も逞ましく、力も強く、寧ろ大男というべきだったが、それに似合わず、どこか子供らしい無邪気な気質を持っていたので、のっぽの三公という綽名がよく人柄についていた。底知れぬ酒飲みで、飲むと気嫌がよくなるということも、如何にものっぽらしかった。
 その日のっぽの三公は、可なり酒を飲んでいい気持になっていた。索麪そうめんの箱を二つ積んだばかりの空車にも等しいのを、馬の気儘に引かせながら、自分は馬車の上に乗っかって、酔心地をがらがら揺られてると、ついうっとりとした気持になっていった。
 ぼんやりした薄暮の明るみが、山裾や野の上に淀んでいた。遠く打続いた麦畑の青や丘々の新緑が、ひっそりと静まり返って、街道の淋しい松の梢に小鳥がちちと鳴いていた。
 明日も天気らしいな。
 ――西は……追分東は……関所……浅間山から……。
 子供の時から歌い覚えたのを口ずさんで、それから彼は黙り込んでしまった。丘の袂を廻ると、茫とした山影に呑み込まれた。
 だらだらの坂を下りきったら、平兵衛の立場茶屋で提灯を……と、そんなことをぼんやり思いついた時、彼の頭の中に、平兵衛の孫の平吉の顔が、可愛くにこにこっと映った。と同時に、腹掛の底の三本の栗羊羮の重みが、貨幣の重みみたいに、ずっしりと腹にこたえた。
 折角貰ってきたんだが、一本を平吉にくれてやるか、と彼は考えた。残りの二本じゃあ家の三人の子供等がまた喧嘩あ初めるかも知んねえ。だが、半分ずつにして……半分を婆さんに……うむ。……平吉は喜ぶだろうな……。
 立場茶屋の近まったのを知ってか、坂道の余勢をもって、ぱっかぱっかと馬が足取を早めて、そこの曲り角を曲った時、向うの人家からぱっとさす光の中に、黐竿もちざおを持った平吉の姿が、くっきりと浮び出した。
 やあ!
 夢からさめたような、咄嗟の出来事だった。何に慴えてか[#「慴えてか」は底本では「摺えてか」]馬が駈け出した……までは覚えていたが、彼が荷馬車から飛び降りて、馬の轡を押え止めた時には、平吉は俯向にぶっ倒れて、足をぴくりぴくりやっていた。肋骨から頭半分へかけて、車輪の下に押し潰されていた。

      二

 のっぽの三公は、二週間ばかり警察に留め置かれた。
 平吉を轢き殺したことについて、彼はただ、俺が悪かった、許してくれ……と打歎くばかりで、そういう場合に誰でもがする通り、向うが悪いんだと昂然と云い張ることをしなかった。それがいけなかった。夕暮に提灯もつけないでいたことについて、彼はただ、もっと早く灯をつけていたらなあ……と云うきりだった。それもいけなかった。荷馬車に乗っかっていたことについて、彼はただ、俺が馬を引張って歩いていたらなあ……と云うきりだった。それもいけなかった。前後の事情について、彼はただ、羊羮のことを考えていたんで何にも分らない……と云うきりだった。それもいけなかった。酒を飲んでいたかと聞かれて、彼はただ、飲んでいたが酔ってはいなかった……と答えるきりだった。それもいけなかった。そして更にいけないことには、彼は平兵衛からだいぶ借りがあって、前々日酒のことで平兵衛と口論をした、ということが分った。結局腹が満足するだけ酒を飲まして貰って、仲よく分れたということは、余り足しにはならなかった。それから最も不幸なことには、そして不思議なことには、あの時平吉が黐竿を持っていたということを、誰も注意しなかったし、誰も気に止めなかった。最後に最も不運なことには、ぎょろりとした眼、荒い眉、狭い額、太い口、厚い唇、偉大な体躯、何かしら獰猛らしい感じのする肉体を、彼は生れつき所有していた。
 警察の方では、何かしら犯罪の片鱗というようなものを、彼から嗅ぎ出そうとしていた。そして事件は、片田舎特有の緩慢さで調べられていった。遠くの大きな町から、少しの微笑も見せない厳めしい顔付の役人が、書記を連れてやって来たりした。
 そして二週間ばかりして、漸く彼は一応放免された。その間に、病中だった彼の老母は死んでいた。

      三

 警察署から戻って来て、のっぽの三公は暫くぼんやりしていたが、やがてまた荷馬車屋の仕事をやらなければならなかった。女房と子供とを抱えていて貧乏で酒飲みな彼は、遊んでいるわけにはゆかなかった。そして材木や穀類などの運送の荷は、部落といってもよいその小さな町にも、もう可なりたまっていた。
 彼は不在中の老母の死を、さほど悲しみはしなかった。と云うよりも寧ろ、長い間病気で寝てた老母の死を悲しむ余裕が、余り残されなかったほど、彼は意外な驚きを他の方面に感じたのだった。
 彼は先ず、平兵衛の家へ線香を持って、平吉の仏を拝みにいった。すると、彼が詫言を云わない先に、平兵衛の方からいろいろ云い訳を初めた。平吉がああなるのも前の世からの約束だったに違いない、こちらは何とも思ってはしないから、前々通り懇意にして貰いたい、全くお前さんの方に罪はない、罪があろうとは誰も思ってやしない……などと口説き立てて、酒肴の馳走をしてくれた。恕み小言を並べられるに違いないと思っていた彼は、張り合いぬけのした気持で、ぼんやり杯を重ねた。
 煤けた三尺の仏壇に、小さな新らしい位牌がぽつりと立っていて、豆ランプがぼーっとともっていた。平兵衛は婆さんに云いつけて、豆ランプを消させ仏壇の開扉を閉めさした。そして彼へしきりに酒を勧めながら、町へ行ってる息子にはまだ大勢子供がいるから大事ないとか、いつまでも死んだ子のことを考えるには及ばないとか、お前さんに罪があろうとはこれんばかしも思ってやしないとか、お前さんは立派な申立をしてくれて有難いとか、そんなことをのべつに饒舌り続けた。そして彼の顔色を窺っては、云い直したり口籠ったりした。婆さんも室の隅っこに控えていて、恐る恐る彼の方を見ていた。じ……じ……じ……とかすかな音を立ててるランプの光が薄暗くて、しいんとした夜だった。表の街道には人通りも絶えていた。
「わし達のことを悪く思ってくれるでねえよ、なあ。」
「何で悪く思うもんか。ははは……。」
 突然の彼の笑い声に、老人達はぎくりとしたように身を引いた。息をつめて眼ばかり光っていた。その慴えた[#「慴えた」は底本では「摺えた」]顔付を見て、彼の方で喫驚した。
 俺をおっかながっていやがるな。だが……実際、殺そうと思やあ、こんな奴の二人や三人くれえ……。
 彼は落付かなかった。酒もよく廻らなかった。そこそこに辞し去った。
 何というこった、俺は……。
 その心持がいつまでも納まらなかった。
 町の旦那のところへ行くと、彼はやはり向うから弁解めいたことを云われた。お前は立派な人間だ、お前に罪なんかあるものか、私はお前を信じてる、などと顔色を見い見い云われた。外を通ってると、今迄威張りくさってた奴等までが、向うから道を譲って挨拶してくれた。
 彼は俄に恐ろしい豪い者になったのを知った。何故だかはさっぱり分らなかった。そしてどうも工合が悪かった。
 なあに構わねえ、やっつけてやれ。
 しまいに心を据えて、昂然と反り返りながら、五六里先の町との間を、荷馬車を引いて往来し初めた。

      四

 向うの町にも彼の噂は伝わっていた。仲間の馬方達と飲み合う時には、四方から杯が集ってきた。面と向うと、三公兄貴と呼ばれることが多くなった。彼はそれに次第に馴れてきて、気に喰わぬことがある時には、太い拳を握りしめながら怒鳴りつけた。本当に腕力沙汰に及んだこともあるが、彼の強い腕っ節にかなう者はなかった。
 然し平素は、彼は極めて無口だった。その上次第に憂鬱になっていった。荒い眉根をしかめてることが多かった。そして大抵早めに家へ帰っていった。
 家に帰ってから、いつも酒を飲んだ。女房や子供達に対しても、ひどく無口に冷淡になってきた。一人でむっつりとやたら飲みをしては、酔っ払って寝てしまった。
 彼のそういう憂鬱の種は、或る漠然とした一種の気掛りだった。日が没してから街道を辿っていると、どこかの暗がりから、平吉の姿が――平吉ともいえそうな小さな奴が、ひょっこり出て来て、荷馬車の下に横たわりそうな気がした。馬鹿馬鹿しいと思うと、其奴が可愛くにこにこっと笑い出しそうになった。
 この荷馬車がいけないのだ、と彼は思うこともあった。然し新らしく荷馬車を買代えるほどの金はなかった。それにまた、荷馬車のせいばかりでもなかった。
 平吉が荷馬車に轢かれた時、彼は平吉の叫び声を何一つ耳にしなかった。そのことがいつまでも忘れられなかった。果してあの場合平吉は叫び声を立てたかどうか、それは全く彼にも分らなかったが、何の叫び声も聞えず黙って轢き殺されたということが、あの生々しい傷口や痙攣などよりも、何物よりも、不思議に不気味に思われた。そしてそのことが、時や場所を択ばず、ひょいひょいと彼の頭にからみついてきた。
 平吉か何かの姿が夜の暗がりから出てくることは、彼には恐ろしくも何ともなかったが、それが音も声もなくすーっと荷馬車に轢かれる、そういう感じが、変に彼をぞーっとさした。それに対して彼はどうすることも出来なかった。
 そして彼は益々無口に憂鬱になると共に、一方では益々人を見下すようになった。しようと思えば人間の一人や二人訳もなくひねりつぶせる、そういう感じが自然と表面にも出て、傲然と周囲を見廻した。そして実際、彼の膨大な体駆と憂鬱などこか獰猛な顔付とには、何となく人を押し伏せるだけのものがあった。彼の町でもまた向うの町でも、正面から彼に対抗しようとする者はなかった。彼は人々から恐れられながら、一人黙々として歩いていた。ただ自分の馬に対してだけはやさしかった。秣草や糠水などにもよく気を配った。
 或る時、向うの町で、自転車に乗った男が子供を突き倒したことがあった。彼はいきなりその男を引捕えて、横っ面を張り飛してやった。貴様なんか殴り殺すなあ雑作もねえが……と云いながら眉をしかめて去っていった。
 或る時、彼は平兵衛の店先に腰を下して煙草を吸っていた。すると隣りの家で、木の枝に縄を引っかけ、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の首を結えてぶら下げた。※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は声も立て得ず宙に※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)きながら、次第に弱っていった。それをじっと見ていた彼は、ふいに立ち上って怒鳴りつけた。
「俺の前で何ちゅうことをしてるだ。ぐずぐずしていりゃあ、貴様を叩き潰してくれるぞ。あっちい持ってけ。」
 隣りの男は呆気に取られた。平兵衛も固唾かたずをのんだ。が、彼はやがて、くしゃくしゃな渋め顔をして、ぷいと向うを向いてしまった。手が震えていた。
 何かしら彼のうちに、調子のとれないものが二つあって、あんぐり口を開いていた。

      五

 朝から薄曇りのした、風のない蒸し蒸しする日だった。のっぽの三公兄貴は、珍しく午後遅くまで、町の居酒屋で仲間達と一緒になっていた。
「どいつもこいつも、余り気に喰う野郎じゃあねえが、我慢してつきあってやるだ。」
 酔った揚句に云ったそんな言葉が、後まで伝えられた。
 四時頃彼は、からの荷馬車を引いて帰っていった。途中で真暗になった。手に提灯をぶらさげて、手綱を短く取って、高い大きい身体をのっそりと急ぐでもなく、何やらぼんやり考え込んで歩いていた。ぽつり……ぽつり……というほどでもなく、小さな雨が降り初めたようだった。彼は時々立止っては、馬の平首を手で撫でてやった。
 平兵衛の立場茶屋から半里ばかり行ったところに、昼間でも暗い森があった。それにさしかかった時、彼はふいにびくりとした。とたんに、森の木影から小さな姿が、提灯の光を受けた闇の中から、ぼーっと浮び出してきた。また気のせいかな、と思いながら二足三足機械的に進むうち、そいつが大きく伸び上って、森の梢までもとどきそうになった。ぞーっと髪の毛が逆立つ思いに、彼は却って無鉄砲になって、やっつけてやれと、手綱を一つぐいと引きしめながら、すたすたとぶつかっていった。が……何の手答えもなく、馬も荷馬車も影のうちに呑みこまれてしまって、しいんとなった。彼は無我夢中に森を駆けぬけた。
 冷たくねっとり額と背中とに汗をかいていた。手綱を取ってる左の手の甲で額を一拭きした時、細かな雨が降ってるのに気付いた。そして何気なく空を見上げて、その眼をやった彼方の山裾に、ぱらぱらっと……消えたりついたり、よく見ると美事な狐火が、一面に押し動いていた。
 おや。
 見とれた瞬間に、何か明るい晴々としたものが、ふいに彼の胸の中に飛びこんできた。彼はあっと眼と口とを打開いたまま、思わず提灯を取落してしまったが、それから先はもう覚えないで、狐火の方へ足を宙に駈け出してしまった。
 真暗な中に取残された馬は、嘶きもせず慌てもせず、暫く其処に立っていたが、それからことりことり荷馬車を引いて、通い馴れた街道を自分の家の方へ、そぼ降る雨の中を帰っていった。
 彼の家では、一番年上の十二になる子供が、表の戸がごとりごとり叩かれるのを聞きつけて、立っていって戸を開けると、にゅっと馬の頭がはいってきた。たしかに自分の家の馬で、荷馬車を引いて、雨に濡れてしおしおとした悲しげな眼付をしていた。
 彼の姿は見えなかった。
 家中の者が騒ぎ出した。やがて町の人達も騒ぎだした。噂は界隈に拡まった。がいつまでたっても、彼は戻って来なかった。それらしい姿を見かけた者もなかった。
 のっぽの三公の消息は、それきり全く分らなかった。或る古老から聞いた通りに、この話を綴ってる私自身にも、勿論分りようはない。

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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