寝台車に一通り荷物の仕末をして、私は食堂車にはいっていった。暑くてとても眠れそうになかったので、ビールの助けをかりるつもりだった。ビールを飲めば、後で却って暑くなることは分っていたが、どうせ暑いんだから、多少酔った方がごまかしがつく……とそう考えたのだった。
 食堂の中はこんではいなかったが、それでも五六人の客が、方々の卓子で、酒を飲んだり料理を食ったりしていた。私は片隅の方に腰かけて、一寸した料理とビールとを取った。丁度箱根の山にさしかかったところなので、窓は開けられなかったが、煽風器の風のあおりで、いくらか涼味があった。
 そこで出来るだけゆっくり時間をつぶして、それから喫煙室にはいってみた。夜更けのことで誰もいなかったので、そこでまた暫く時間をつぶした。
 いつまでそうしてもおれないので、自分の寝台へ戻っていった。どの寝台も寝静まって、カーテンがはたはたと揺めいているきりだった。
 ところが、私は喫驚して立止った。中程に一つぽかんと口を開いてる私の寝台の、すぐ上の段のカーテンの裾のところから、こちら向きに、人の足がぶら下っていた。膝から先だけのむき出しな片足で、だらりと垂れ下って、それが列車の動揺につれて、ゆらゆら……ゆらゆら……手招きでもするように動いていた。
 よく見ると、死人の足でもなさそうだった。
 寝呆けてるんだな。
 そう思ったとたんに、足が寝呆けてると口の中でくり返して、私は一人で可笑しくなった。
 が不思議な足だった……というよりも、初めてつくづくと眺めたので、不思議だったのかもしれない。
 浅黒い男の右の足だったが、見れば見るほど変な恰好に思われてきた。向う脛の骨が張子の骨のように際立って見える、痩せた細長いやつで、黒い毛が一本一本粗らになって生えていた。それが次第に、骨と皮ばかりに細っていってる先に、くるぶしの骨が腫物のように高まって、そこから、がくりと斜めに折れ曲って、馬鹿に大きな足先きとなっていた。太い針金のような筋が甲に五本分れ出て、細長い先の円い指を吊していた。その指が少し上向き加減にうち開いて、守宮やもりの足の指のように見えた。それが、その全体が、ゆらゆら……ゆらゆら……何かを招いているようだった。
 寝呆けやがって……化けるな、化けるな。
 ビールの酔も手助って、私はそんなことを腹の中でくり返しながら、そっと足先を通りぬけた。
 然し、愈々寝る段になると、足のぶら下ってる下にもぐりこむのは、どうも我慢がならなかった。
 私は手を伸して、上の寝台の縁をこつこつ叩いた。
「危いですよ……落ちますよ……足が落ちかかっていますよ……足が……。」
 カーテンの中で、眼ざめた息のがした。
「危いですよ。足が落ちかかっていますよ。」
「それは……どうも……有難う。」
 と同時に、足がすっと引込んでしまった。私はほっと安心して、寝台の中にもぐり込んだ。そしてカーテンを引いた。
 ところが何だか変に眠れなかった。その上、列車は間もなく沼津駅に停車して、夜更けの駅の淋しい物売りの声などに心惹かれて、眼は益々冴えて来た、私は仕方なしに、雑誌を取出して、カーテンを少し開いて、薄暗い中で読み初めた。がそれも気乗りしなかった。いつしか雑誌を投り出して、先刻の足のことなんかを考えていた。
 その男は、東京か横浜あたりから乗り込んで、十時に私が国府津で乗車した時には、もう寝入っていたに違いない。なぜなら、上の段にいる彼の存在が、少しも私の気にとまらなかったから。そして彼は、私が食堂にいってるうちに、熟睡の余り足を投げ出したのだろう。……それにしても、汽車の寝台から、それも下の段ならまだしも上の段から、足をぶら下げるなんて、随分思いきった不作法な寝相だ。そして……片足だけのところをみると、或は一本足か跛足か、そういった不具者かも知れない。……然し、ぶら下る足はみんな片足にきまってる。伝説の中だって……。夜遅く、ぶらりと馬の足が天からぶら下る。それが、四本の足でなくていつも一本きりだ。……だが、人の足がぶら下るのは、まだ聞いたことがない。二十世紀のハイカラなお化かな。汽車の中とは振ってる……。
 私はもううとうととしていたらしい。先刻の足がばかに大きなものとなって、妖怪味を具えていった。薄暗い電燈、カーテンの揺れ、車輪の響き、何かしら途方もない夜汽車内の幻想、そんなものが私を夢現ゆめうつつの中に誘っていった。
 どれくらい時間がたったか覚えない。或は一寝入した後かも知れなかった。私はふと眼を覚した。閉め忘れたカーテンの隙間から、ぼんやりした明りがさしていた。そのカーテンを閉めようと思って、一寸上半身を起しかけた時、何気なく上の方を見ると、上の段のカーテンの裾から、先刻の片足が、ぶらりと下っていた。
 私は急にかっとなった。失礼なと思った。大きい声を出して、上の寝台の縁を叩いた。
「危いですよ……足が落ちかかってるじゃありませんか……足が……足が落ちかかっていますよ。」
 一寸間があった。
「いや、どうも……。済みません。」
 寝呆けたような声がして、足が引込んで、それから、暫くごそごそと物音が続いた。がやがて、ひっそりとして、列車の響きだけになった。
 私はカーテンを閉め切った。変にむし暑かった。足の幻想が消えて、現実的な醜い印象だけが残った。私は腹立たしくなったり可笑しくなったりして、長く寝つかれなかった。二つばかり駅を過ぎた。そしてなお闇夜の中を汽車は走り続けていた。
 翌朝遅く私は起き上った。遅くと云っても列車内のことで七時頃だったろう。
 寝台から飛び出して、真先に覗いて見ると、上の段はカーテンを開け放してあって、男はどこかへ行っていた。
 顔を洗って帰ってくると、ボーイが座席を片付けていてくれた。上段の男は、もう汽車から降りたのか、それらしい姿も見えなかった。
 汽車は琵琶湖の岸を走っていた。どんよりと曇った風のない朝だった。
 私は食堂へ行った。睡眠不足と疲労とのために、頭が重苦しかった。
 それから自分の座席に戻ると、私の側に、四十年輩の飛白かすりの着流しの男が坐っていた。そしてふいに私へ声をかけた。
「どこまでおいでになります。」
「下関まで行きます。」
 それには何とも返辞をしないで、だいぶ暫くたってから、ふいに云い出した。[#「ふいに云い出した。」は底本では「ふいに云い出した。」」]
「昨晩は、どうも……とんだ失礼をしました。」
「え?」
「少し飲んでいたものですから、よう寝込んでしまって、度々どうも……。」
「じゃあ……あの……。」
「え、足を……どうも……。」
「ああそうですか。私こそ失礼しました。」
「いや、どうも……その……習慣になってるものですから。」
 繰返される「どうも……」という言葉の響きに、私は彼の人の善さを感じながら、初めてその様子を見調べてみた。髪の毛の薄い、痩せ細った、病身らしい男で、長い首に喉仏が高く出ていた。浅黒い顔の色艶は、呼吸器か消化器かが悪い者のようで、眼の光が疲れて、黝ずんでいた。
 彼は私の顔を時々偸み見ながら、ゆっくりした調子で云っていた。
「どういうものか、横になると膝から下がだるくて、かないません。それで、いつも膝の下に物をあてて寝る癖がついて、どうもそうしないと、よく寝つけないです。で、昨晩も、この鞄を膝の下にあてて寝ましたところが、どうも……。」
 隣席との境のゆかに、大きなトランクがあって、その上に、小さな赤革のスーツケースがのっていた。彼はそれを指し示していた。
「どうも……汽車が揺れるせいか、かたっぽの足が滑りおちて、それも知らずに、ぐうぐう寝込んでしまいまして、恥しいお話です。けれど、そういうわけで、決して無作法な真似をしたのではありませんから……。」
 彼は昨夜のことを弁解してるのだった。私は気の毒な思いをして、笑い話にしてしまおうとした。
「私はまた、あなたが落っこちでもされたら危いと思って、とんだお節介をしたんですが、初め……足が片方ぶら下ってるのを見た時は、喫驚しましたよ、お化かと思って……。」
「それは……まあ何とも……。」
 彼は私の笑顔にも応じないで、真面目な憂欝な顔を崩さなかった。
「然し、癖もいろいろありますが、膝の下に物をあてがって寝るというのは、珍らしい癖ですね。ずっと以前からそうなすってるんですか。」
「もう五六年にもなりますかな……。私は慢性の胃病で、そのために足がだるい、そう医者は云いますが、どんなもんですか。……家内が心配してくれまして、膝の下に何かあてて寝たらよいと云うて、小さい厚布団を作ってくれましたんで、至極工合がよろしゅうて、それが習慣になりましてな、家では不自由しませんが、旅に出ると、よく困ることがあって、どうも……時々やりぞこないましてな……。」
 その調子は別に困ってるようでもなかったが、何かしら彼の全体から、変に憂欝なものを私は感じて、何と云っていいか分らなかった。
 やがて大津に近づくと、彼は慌てて帯をしめ直して、それから暫く黙って坐っていたが、汽車が駅にはいりかけた頃には、もう立ち上っていた。
「つまらんお饒舌をしまして、失礼しました。私は此処で降りますから……。」
 そう云い捨てて、彼は少し猫背加減のひょろひょろした身体付で、スーツケースを下げて車室から出ていった。
 私は一人で、その男のことを考え続けていた。慢性の胃病で、足がだるくて、細君の注意で足の下にあてがう布団が発明されて、それが習慣になって、五六年続いて、寝台車では鞄まで使って、足をぶら下げるようなことになって……。
 そこまで考えてくると、私は何だか馬鹿にされたような、また妙に憂欝にとざされたような、訳の分らない気持に沈んでいった。
 汽車の窓から、曇り空の下に、湖水の面が遠くにちらちら隠見していた。

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「新小説」
   1925(大正14)年9月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
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