一

 比較的大きな顔の輪郭、額のぶあつい肉附、眼瞼の薄いぎょろりとした眼玉、頑丈な鼻、重みのある下唇、そして、いつも櫛のはのよく通った髪、小さな口髭……云わば、剛直といった感じのするその容貌の中で、斜に分けられてる薄い頭髪が微笑み、短く刈りこまれてる口髭が社交的に動くのである。むろん、肩幅が広く、背が高い。前陸軍少佐…………。
 陸軍少佐の職を弊履の如く捨てた、彼である。退職将校というよりも、落選代議士という感じの方が強い。
 酒に酔うと、右の膝をまくって見せる癖がある、膝頭より上、大腿部の外方に、長さ七八センチの、可なり深そうな傷痕がある。
 有吉の例の武勇談……そういった微笑で、親しい友人等は眼を見合った。
「天保銭」をねらわず、語学の勉強に力を入れ、外国語学校、大使館附武官、教育総監部、陸軍省……と、そういった方面を重にめぐってきて、実戦は勿論、実地兵科の方に縁の薄かった、そしてそれを一面得意とした有吉祐太郎のことだから、その「武勇談」といっても、ごくつまらないことだった。然し……。
「君たちだったら、美事に、横っ腹をぶすりとやられるところだ。それを……その時まで全く冗談だったが……冗談にせよ、はずみで……ぱっと払ったのが、腿にきた。彼奴あいつ案外真剣だったらしい……。」
 そして、そのぎょろりとした眼付に、心をこめて、遠く、上海にいる杉本浩の面影を、追い求めるのだった。
「不徳漢で……卑怯者で……。」
 だが、口で云うほど実は憎んではいなかった。何としても、憎悪の念なしに対抗意識が自然とその方へ向いてゆく、親しい対象だった――感情的にも、思想的にも。
 彼の交友仲間――彼が中立候補としてたった代議士にも落選後、ひそかに結束の機運が醸成されかかってる少数の一団――の中には、日本ファシズムの気分が多く支配していた。その原動力の一つは、彼が大腿部の傷痕にあることは事実だった。
「彼奴が、日本に舞い戻ってきたら……。」
 一種のなつかしみと力の自負とを以て、有吉祐太郎はそう思うのである。

     二

 杉本浩は粗末なアパートの一室に住んでいた。そして彼の生活は、飜訳と、雑文執筆と、読書と、漫歩と……。
 浅草、銀座、新宿、その表通りや裏通りの雑踏の中に、彼の茫漠たる風貌がよく見られた。
 いつも一人。古ぼけた帽子の下から、蓬髪の縮れが少し覗いている。肉の豊かな赤みの濃い頬に、そして円みのある※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)に、黒いこわ髯が、根強く、芽を出しかかっている。鼻が目立たず、口が小さく、強度の近眼鏡の下に、底深く眼が光っている……。その眼が、舗装道路の上に踊ってる衆人の足先を見る。そして彼は考えるのである。――人は次第に、ダンスや靴の影響よりも先んじて、踵より足先に力を入れて歩くようになった。これは生活が苛立ってる証拠だ。もし体重の百パーセントが足先にかかるようになれば、その時は、生活が狂うだろう。――そんなことを、全く没我的に考えながら彼自身は、踵と足先とに体重の五十パーセントずつを托して、のっそりと、漫歩するのだった。太いステッキを引きずって、和服の襟をはだけ加減に、そして時々朝日の煙を吐いて……。何かしら、茫漠としている。
 高層建築、自動車の疾駆、燈火、器械音楽、騒音、色彩、蟻の巣をかき廻したような、人、人、人……。
「おい、杉本!」
 通りすがりに、声のした方へ振向いて、足を止めて、相手の顔を見て取る――その眼には、人なつこそうな笑いが浮びその顔には、よくいろんな男に逢うものだなという表情が浮ぶのだった。
「どうだい。」
「うむ……。」
 漠然と答える時には、もう眼の笑いも顔の表情も消えて、掴みどころのない顔付になっていた。
「どっかで、いいだろう、一寸……。」
 その先の、酒かお茶かを察しながら、にやりと彼は笑った。
「駄目だ、今日は……。」
「急ぐのか。」
「いや。……ないんだ。」
「少しなら、持ってるよ。」
「少し……。」そして眼が揶揄的に光った。「だが、腹がいてるわけでもなし、喉がかわいてるわけでもなし……。」
 酒を飲んでは止度のない彼だった。また、飲むことにさほど興味を持たない彼、相手の議論を聞くことにも興味を持たない彼だった。
「いやに、はっきりしてるね。……この頃、何かしてるのか。」
「何にも……。」
 その、仕事の上に就ての彼の口癖の返辞だけで、友は満足して、それ以上は徒労だと見た。
「じゃあ、また……。」
「失敬……。」
 赤みの多い顔に、蒼白い笑いを浮べて、杉本は、また、雑踏の中の孤独な漫歩を続けるのだった。光と色と音との錯雑した卑俗な渦巻きの中に、何を見るでもなく、何を聞くでもなく、背はさほど高くない肉附のいい身体を運んで、そして心には、周囲と全く別な、朗かな而も何かしら退屈なものを湛えて……。
 倦きてくると、帰りは、バスで……。
 金はなくとも、バスの切符はいつも用意があった。
 なぜなら、彼は市街電車が嫌いだった。市街電車は、どこから云っても、箱の感じだ――出入口の小さな踏段と、扉と窓と、堅牢そうな車体と、前後につっ立ってる制御機の鉄の円筒と……を以てして。それが人間を一杯つめこんで、二本のレールの上を、のろのろと走るのである。牢獄的交通機関……。だが、バスの方は、フォードの古型でも、まだよい。電車よりも、軽快で、自由で、危険な愛嬌があって、速力が早い。速力……汽車や高架地下の電車のことを思えばこれが最も肝要な点……。
 杉本はぼんやり考えながら、バスを待つのだった。
 そのバスに乗った或る時――
 昼間の散歩の帰りで、没しかねてる夕日に、慌しい街路がぱっと照らされていた。そういう時刻に、時折、妙にすいたバスが通ることがある――一寸息をついたという形で。不安なせかせかした夕方の、ひと時の隙間なのだ。
 杉本は一層茫漠たる様子で、五六人の乗客を、ぼんやり眺めていた。
「……頼みますよ。」
 声に気がついた時、バスは上野広小路から、切通下で一寸とまったのが、もう動きだしていた。車外に、白シャツ半ズボンの、商店の若者らしいのが、ちらりと見えた。
 田舎の街道を走る、自動車や馬車や電車などには、殊に夕方など、私用の伝言や品物を車掌に頼むのが、よくある。頼む方でも頼まれる方でも、無償で、親しげに笑っている……。
 その、ちらと頭に沈んだ印象に、杉本はうっすらと微笑みかけたが、見ると、女車掌の習慣的な掌で背を支えられて、五六歳の女の子が、ひょいと、入口近くの席に坐った。
 おかっぱの、しなやかな髪。怜悧にませて見える、整った顔立。金と黄との、胴のつまった上衣。桃色の短いスカート白の靴下。リボンのついた可愛いい黒靴……。宙にういた足をきちんと揃えて、五十銭銀貨を差出した。
「まさご町……。」
 そして、車掌から渡された、切符を右手に、つり銭は、紐のついた赤い小さな金入と一緒に、左手に握って、肩を斜めに、首をねじって、窓から外を見てるのである。
 その利発そうな顔、柔かな白い皮膚、支那めいた服装を、夕日が赤く反映で染めて……。
 杉本は、やさしい眼付をその少女から離さなかった。せめて、つり銭をあの金入に入れてやるくらいの親切が……と一種の公憤を、疲れてぐったりしてる女車掌の背中に投げながら、それとは全く別な、少女の可憐な姿を見守った。
 停留場を二つ過ぎて、真砂町になると、少女はすぐに、切符を渡して、金と金入とを片手に握ったまま、車掌の機械的な掌に送られて、バスから降りた。
 杉本も慌てて立上って、降りた。
 電車通りを少し、それから左へ横丁……。手を振り振り、飛びはねるように歩いてゆく、少女の後から、のっそりした杉本の姿が、ついていった……。

     三

 軽く、形式だけのノックをして、扉を開いてはいって行くと、待ち受けてたらしい英子の顔と、ばったり出逢った。尋ねるまでもなく、見合せた眼色で、互に、何か変ったことがあったこと、話があることが、分った。
「今ね……。」
 だが、杉本は気を変えて、帽子を釘に投げかけると、横倒しに坐って、云った。
「腹が空いた。飯にしよう。」
「ええ、じきよ。……なあに?」
 いつも、自分のことを先に、快活に、話してのけて、けろりとする彼女だったが、それが、妙に慎重に、尋ねかけてきた。
「何よ?」
 杉本は苦笑した。そして変に憂欝な調子で、バスの少女のことを話した。
 無雑作に束ねた若々しい髪、細く長い眉、下眼瞼の円く開いた眼、理知的に尖った※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)、口角の頸にある贅肉のふくらみ……そのふくらみを中心に、彼女は可愛い笑いを浮べた。
「それから……。」
「それきりさ。いくら待っても出て来ない。何だかうまそうな料理の匂いがしてきた。犬にでも吠えられそうだ。急に、腹がへったのを思い出して、帰ってきた。」
「…………」
「あれが、自分のうちらしい。遊びに行って、戻ってきた……。待ったって、出て来やしない。」
「それが、初めから分らなかったの。」
「ばかな。そんなこと、そんな時に、初めから考える奴があるか。」
 彼女は笑わなかった。真面目に、つんとして――多少真剣な時はつんとなるのが癖で――彼の方をじっと見た。
「あなた、そんなに子供が好きなの。」
「好きか嫌いか、分らないが、兎に角、いいよ、可愛いのは……。」
「そして、御自分には、可愛い子供が出来ないと思ってるの。」
「自分……僕に……?」
「…………」
 下眼瞼の円く開いた眼が、一脈の皮肉を湛えて、光っていた。
「ばか……ばか……そんなことを、云う奴があるか、そんな……。」
 だが、彼女は云っていた。
「生殖と、性慾満足と、性慾享楽……。第一のに立戻ることは、人間の生活が許さない。第三は、頽廃階級のことだ。第二だけが、生活的に正しい……。君は……君は……子供を産んじゃいけない……。また、浪費的に……。」
 記憶の奥を見つめた眼付で、舞台で台詞を云うような調子で……。
「ばかなこと、止せよ、そんな……。」
 彼は立上って、彼女の肩を捉え、笑ってるその両の頬を押え、仰向かして、接吻してやった。彼女は静な息をついた。
「どうしたんだ、今日は……何か……。」
「変に見えて? 自分でも分らないわ。いろんなことを考えたの。おかしいわ。ばか、ばかって、自分に云っても、ひとりでに、頭の中に、いろんなことが浮んでくるのよ。……あたし、随分、なまけ者になっちゃったわ。特別にして貰ってるけれど、いくらなんだって、場銭を出す時なんか、おかみさんの前に、顔が挙げられやしない。みんなにも、極りが悪くって……。そりゃあ、そんなことをして、何になる……そう、あなたと同じことを、自分で云うこともあるけれど、それだって、生活のためじゃないの。……いいえ、そうよ。だけど、やっぱり、生活って、一体、何だろう。ばかげてるわ。……女の仕事というものは、結局、百パーセントの媚を呈しなければならなくなる。男からそれを要求される。要求されてそうなる時には、百パーセントの媚が、百パーセントの犠牲になる。そして……その……百パーセントの犠牲を払って、少しの……十パーセントの生活を……。ああ面倒くさい! でも、よく覚えてるでしょう。あなたが云った通りよ。あたし、女優になればよかった。立派に台詞を云ってみせるから……。頭がいいんだわ。……安心してて大丈夫よ。よく覚えてるわ。決して、百パーセントの媚なんか……。いえ、五十パーセントの媚も……。それこそ、断じて! だけど、あたしが、あんなことしてるのを、やはり、女給なんかに出てるのを、あなたは嫌なんでしょう。あたしも嫌。……だと云って、どうすればいいの、働くことがいいんだ! 何をして働いたらいいの……。そんなこと、頭がくしゃくしゃしちゃったわ。自分で考えるわけじゃないけれど、いろんなことが、変に……。」
 どこか甘えたような、笑いをさえ含んだ調子で、彼女は口を利いていた。頭と心とがちぐはぐになってるような様子だった。その顔を、彼は見守りながら、底にあるものを探りあてようとした。
「何か、何かあったのか。」
「…………」
 暫く、眼を見合って、ふいに、彼女は快活に叫んだ。
「あれがいけないんだわ。」
「何?」
「軍人……将校よ、立派な。襟に赤と、肩に金線の、軍服をきて、サーベルの音をさして……。あたし、帽子をぬいで、丁寧にお辞儀をされて……びっくりしちゃった。」
「誰だい。」
「……アリヨシ……。」
「え、有吉……有吉が来たのか。」
「知っていらっしゃるの。アリヨシと、そう云えば分るって……。そしてまた、丁寧にお辞儀をして……。あの人、なあに?」
「少佐になったばかりの、なかなかやりてだ。何か云っていったのか。」
「何にも。ただ、また来ると……。」
「うむ……。」
「どうした人なの。」
「そら、僕が大変世話になった田代さん、その親戚なんだ。」
「あら、田代さんの……。あたしが逢って、悪かったかしら……。」
「ばかなことを……。」
「あなたと、懇意なの。」
「うむ……一寸した知り合いで……。」
 それ以上、彼は有吉のことを云わないで、口を噤んでしまった。眼鏡の奥に眼の光を沈めて、心を遠くに走せて……。
 二人の生活では、饒舌と沈黙とが急に移り変った。それが、いつしか習慣のようになっている。
 窓硝子越しに、戸外はほのかに暮れていた。電燈の光が増した。英子は、有吉のことが気にかかりながらも、それを聞くには時機を待つがよいことを、本能的に感じて、と同時に、何だか薄ら淋しく、食事のことを思い出した。
 粗末な餉台の上で、じゃがいもの煮たのと、鮭の焼いたのと……。
「御馳走はないのよ。」
「断るまでもないさ。だが、こんなのは、滋養分が多い……。」
「カロリーに富んでる……。」
「また、台詞か……。」
 二人は笑った。が言葉少なに……。
 食後、英子が俗謡を口ずさみながら、元気よく後片附けをやってる時、扉を開いて、小林の、日焼けのした、にこにこした顔が、そっと覗いた。
「お邪魔じゃありませんか。」
「やあ、はいれよ。」
 杉本の眼は、いつもより、急にやさしく輝きだして、小林を迎えた。
 隣室に、二人の大学生と一緒に住んでる、年の若い自由労働者だった。一日働いて疲れきっても、仕事にあぶれて時間をもてあましても、平気でいた。金はないか、と大学生から云われると、持ってるだけのものをすぐ出してやった。大学生が外をぶらついて、自分は仕事がなくて、困りきっても、平気で水ばかり飲んでいた。余り腹がすくと、飯を一杯食わしてくれと、杉本のところへやって来て、二三度分を一度に平らげて、けろりとして、親方のところへ、仕事を貰いに出かけていった。勉強しなくちゃ駄目だ……というので、杉本の書物を借りていった。日々の簡単な手記を、杉本に添削して貰った。
 その一種の日記……二枚の紙を、小林は杉本の方へ差出した。
「これ、今日んです。」
「ほう、早いね。」
「今日は、つまらない仕事なんで……。」
 だが顔付では、別につまらなくもなかったような……その様子を、杉本は、頭から足先まで一度に抱き取る眼付で、じっと見ながら、前日の、赤字で一杯になってる原稿を、返してやった。小林はそれを丁寧に読み分けて、腑に落ちないところは質問した。それを少し写し出してみれば――。
 ――鉄筋の運搬だ。五メートル物の束を、前方に一人、後方に一人、二人でかつぐのだ。この仕事、力の不公平は、随って労力の不公平は、寸分も許されない。同じ重量が、二人の肩にかかっている。だが、一種の義侠心と名誉心とから、強い方が前方を受持つ。前方には、重量を支える以外に、注意が必要だ。鉄筋の頭を、物にぶっつければ、その反動で、肩にずっしり喰いこんでるやつが、着物越しに、肩当越しに、肉を破る。而も、ぶっつかる危険物は、足場の粗雑な組立のために、随分多い。こういう狭いところを、人間の肩で運ばせるのが、間違ってるんだ。だが、狭いから、機械や馬車で運べないから、人間がやるんだ。重い鉄棒に向って、俺の力で、という気持から、誰も皆、責任感が強い。重量の下に、死んでも、膝を屈げる者や、肩から投げ出す者は、いない。ただ、不注意だけだ。うかと、物にぶっつけて、その反動で肩の肉を破る者は、時々ある。人間には、機械的な注意は……。
 そんな風に、まだ続くのを、小林は読み終って、首肯いて、出て行こうとした。
「まあいいじゃないか。」
「隙なんですか。」
「うむ……。あの、例の先生たちは?」
「いませんよ。」
「また、君から金をまき上げて、酒を飲みに行ったんだろう。」
「…………」
 小林は黙って、薄ら笑いをしていた。
「まだ君は、ああいう連中と別れられないのか。」
 杉本の鋭い視線を、小林は意外に感じたらしく、暫くその眼付を窺ってから、云った。
「別れられるとか、別れられないとか、そういうんじゃありませんよ。同県人で、ああして一緒にいる……。だから、一緒にいるだけです。金のことなんか、向うにない時、僕にあることが多いんで、それで、持っていくんでしょう。あの連中は、酒が飲みたいんです。僕は飲みたくない。だから……。それに、これは僕の修養です。隣人愛というものが、どこまで持ちこたえられるものか、神というものが、窮極まで信じられるものか、どうか、そんなことが、やはり問題になっているから……。」
「そんな個人主義は、駄目だ。」
 杉本は叫ぶように云って、相手を遮った。そして、小林がまだぬけきらないでいる、トルストイ主義のことに、話を進めていった。――トルストイの豪いのは、隣人愛でも、無抵抗主義でもない。彼の偉大な個性だ。
 その個性は、結局、個人主義の行きづまりである。彼は個人として、凡てのものにぶつかっていった。信仰が人を生かすものかどうか、神が正しいものかどうか、そんなことに、個人的批判を下そうとした。人間は如何にあるべきものか。そういう問題を、個人的に解決しようとした。それは、云わば、自然そのものに対する巨人の争闘だ。その争闘に、あくまで突進したところが、彼の偉大な点だ。然し、そんな方法では、愛も、神も、見出せるものではない。益々影が薄らぐばかりだ……。
 杉本はいつになく熱心に、自説を主張し続けた。それに、小林は注意深く耳を傾けていた。奇矯にわたる説に出逢っても、驚きもせず、腹も立てず、神妙に聴いているのである。
 そしてこの、短く刈りこみ、日焼けの額に老けた筋が通り、善良な眼付と口付……骨格は頑丈だが、栄養が不良らしい肉附の、若いトルストイヤンと、茫漠たる風采の杉本との対話……その傍で、それには一言も口を出さず、強いて理解しようともしないで、英子は、しきりにリリアンを編んでいた。
 赤や黄や紫や白や桃色の、艶やかな絹糸が、サファイアの指輪をはめたしなやかな白い指先に、やさしく戯れて、編台の上に、留針に刺されながら、単調だが微笑ましい模様を、形づくってゆく……。
 それにも倦きると、彼女は、リリアンの長い一筋を取って、その切口の、細かな絹糸が無数に乱れてる中の、一つを探りあて、すーと引張る。組糸がほぐれて、長く伸びて……。屈托が晴れてゆくような感じだ。ほぐれた絹糸は、綯りの力で、縮れてぼけて、ふうわりと、綿のように……。それを彼女は、掌で柔かく円める……。新鮮な色彩の入り乱れた、宙に浮きそうな絹糸の球が、次第に大きくなってゆく……。その子供らしい、何か底に熱をもった、無邪気な遊びに、英子は眼を光らしていた。
 杉本と小林との対話は、落付いた足取りで進んでゆく……。

     四

 有吉が杉本を訪れてきたのは、晩、英子がカフェーに出て不在の時だった。
 杉本は物を書いていた。そういう時の癖で、書き損じの原稿紙を、机の左右に散らかしていた。それを無雑作に、室の片隅に払いやって、彼は有吉を迎えた。
 有吉は和服の着流しであったが、当時まだ現役で、短く刈った頭髪と長い口髭、外気に曝された皮膚、軍帽に練えられた額の肉附、じかに露骨に対象へ向けらるる大きな眼玉……などを以てして、明かに軍事的なものを一身に帯びていた。そして主客顔を見合した瞬間、その軍事的なものが、互の頭にはっきりと映った。――杉本は学校を卒業した時、在学中の徴兵検査で第一乙種合格のため、兵役についての境界線に立っていたので、何等かの便宜を望んで、有吉の助力を求めに行った。すると意外にも、国民皆兵主義の理論にぶつかった。其後彼は徴集を免除されはしたが、そのため、つまらないことをしたものだと思ったのである。――有吉は其後杉本に逢うと、彼に後ればせの好意を示すためか、或は世界的思潮に共鳴してか、国費全体と軍備費との数字的比率を持出し、軍備制限の必要を説き、最小限度の軍備に就ての自説を主張した。すると意外にも、極端な軍国主義か全然の軍備撤廃か、初期マホメット教国かイワンの国か、どちらかを選択すべきだという意見にぶつかった。そして、つまらないことを云い出したものだと思ったのである。
「君とは随分、議論を闘わしたが、其後……。」言葉を切って有吉は室の中を見廻した。「相変らず勉強のようですね。……僕も、この頃、軍事の中だけに籠らないで、一歩ふみ出したいと思ってるから、君に教えを乞わなくちゃならんことも、いろいろ出てきそうで……。」
 変な挨拶である。その裏の気持を読み取ろうとして、杉本は、相手の顔色に眼をつけた。有吉は眼を外らして、書棚に並んでる、和洋雑多な書籍を物色し初めた。
 バラックとも云ってよいほどの、粗末なアパートの、和洋折衷の室である。四角な区劃、それが、入口の控室で切取れ、押入で切取られ、下が三尺の戸棚になってる床あきで凹み、奥の室に通ずる襖、硝子戸の六尺の窓……。片隅に机を据えて、その横で……。主客とも、何だかその処を得ないような様子である。杉本は、不器用な手附で、茶と菓子とをすすめ、有吉は、書棚の方へにじり寄っていた。
「ほう、随分多方面なものが……。クロポトキン……明快な論理だそうですね。」
「少し集めていますが、隙が出来たら読んでみるつもりです。」
「アナトール・フランス……面白いですか。」
「それも、まだ読んでいないんです。」
「マジー……と、魔法ですか。これは愉快でしょう。」
「それも、実はまだ……。」
「…………」
 ちぐはぐな問答が続く……。
 有吉は坐り直して、渋茶をすすった。
「君は、自由に研究が出来て、羨しいですね。僕なんか、隙がないものだから……。それで、ロシア通の話を聞けば、労農政府に同感してくるし、イタリア通の話を聞けば、黒シャツに同感してくるし、去就に迷う始末なんで……は、は、はっ……。」
 突然笑い出した。が、案外真剣で……。
「君はどう考えるですか。」
「え?……。」
 そして二人の間に、全く観念的な会話が展開していった。要約すれば――
 杉本は云うのである。――ファシズムには、それ自身二つの矛盾を含んでいる。ファシズムは元来、ブールジョアジーの攻勢的武器であって、その対敵目標は、ブールジョアジー以外の凡てにある筈だ。それが、発展の道程に於て、広く大衆に――小ブールジョアジーのみならず、小農民階級やプロレタリアートの或る層にまで、立脚しようとする。そこに機構的矛盾がある。また、ファシズムは、それ自身の独裁を目的とする。随って、議会政治の無用――立法権に対する執行権の優越を、肯定するものである。然るに、それを議会政治の基礎の上に獲得しようとする。そこに手段的矛盾がある……。
 有吉は心持ち眉をひそめていた。が敢て抗弁はしなかった。杉本はその肉の厚い顔付に、かすかな笑いを漂わしていた。
 杉本は云うのである。――ボルシェヴィキは仮面によって成立つ。彼等一派は、民衆の仮面をつけた纂奪者である。民衆の手に政権を戦い取ったと称しながら、実は民衆を戦い取ったのだ。十パーセントの譲歩をして、九十パーセントの権力を掌握する。そしてこの権力の獲得と維持のためには、手段と目的とを置換することさえ辞さない。マルクスの理論は正しかろうとも、それが彼等労働政治家の手に渡る時には、そこに反対物への転化的飛躍が起る。近代の政治は、権力の予想なしには成立しない。権力の予想を失う時、それはもはや政治ではなくなる。この思想を彼等は理解しない。なぜなら、それは彼等の政治的権力と矛盾するからだ……。
 此度は杉本が、かすかな苛立ちで眉をひそめていた。そして有吉は、薄笑いを含んで、髭をひねっていた。
 二人の視線が逢った時、有吉は云った。
「君の説は独特で、なかなか面白い……。」
 それが、一閃の光みたいに、杉本の顔を輝かした。思想の底に触れない相手の微笑が、自然と、彼をも微笑ました。
「なあに、みな受売りです。」
「受売り……。」
 そして、杉本の微笑につりこまれて、突然声高に笑い出した。
「はっはっは……そう韜晦せんでもいいでしょう。意見は意見だし……。」
 云いかけて彼は、忘れてたものを急に思い出したように、眼玉をぎょろりとさして、あたりを見廻した。
「一体君は、韜晦癖があっていかん。あの……今日は、どうしたんです。僕に紹介してもいいでしょう。」
「誰のことです。」
「この前、誰か、女のひとが、いたようですが……。」
 彼の揶揄的な微笑に対して、杉本は直截に答えた。
「あの女ですか。今日は……出勤していますよ。」
「出勤……。」
「カフェーの女給です。」
「ほう……。そして君と……。」
「共同生活を、一時、しているんです。そのうちには、また、別れることになるでしょう。」
 有吉は、此度は本当に眉をひそめた。下唇の厚いその口から、強い語気が洩れた。
「いかん、それはいかん。」
 有吉は云うのである。――くろうとの商売人と遊ぶのは、男として、場合によっては恕すべき点がある。然し、しろうとの女を弄ぶのは、断じて排斥すべきだ。ヨーロッパの大都市では、男女関係に於て、くろうと、しろうとの区別が、一般に殆んど無視されている。それは、徳操が頽廃してる証拠だ。日本人はまだ、両者の区別をはっきりつけている。そこに、日本の立派な徳操がある。その徳操こそ、日本の善良な風俗を維持するものだ……。
 杉本は平然としていた。そして云うのである。――そういう説は、女に対する封建的な奴隷制度を是認する、誤った立脚点からのみ出発するものだ……。
 有吉は、大きな眼玉を心持ちほてらして、相手の顔を見据えていた。長い髭がしゃちこばった。
「理屈と実行とは別だ。君は、そんな……不徳な心でいるから……この頃、田代さんのところにも……。」
「…………」
「自分でやましいと思うから、顔出しが出来ないのならば、まだ取柄があるが……。」
「それは別のことです。」と杉本はあくまでも冷かった。「時々伺いたいと思っていますが、何だか、共通の話題もないし、余りに生活の距りが大きいので、ただお邪魔になるばかりのような気がして……。」
「ばかな、それは君の方のひがみだ。田代さんとは、よく君の噂が出る、君のことを聞かれる……。だいぶ左傾してるようだが、どうだろう、少し意見を闘わしてみたいものだと、そんなことも云われていた。時々顔を出すくらいのことは……。」
「それはよく知っています。父が死んでから、ずっと学費のお世話になってきたんですから、影で、感謝しています。僕が、個人的に感謝していいのは、世の中に、あの人一人くらいなものです。」
 云いすぎたかな……という気持で、杉本は相手の顔色を窺った。が有吉は、何か別なことを考えてるらしく、煙草を吹かしながら、窓から夜の空を眺めていた。やがて、その眼を手首の時計に落しながら、ふいに云った。
「君のそういう気持が確かなら、こんど、田代さんのところに来ませんか。」
「…………」
 杉本は、自分の皮肉な言葉が、逆の効果を持ったらしいのを感じた。
「実は、来月、十月の一日に、暑気のため一月くり延して、震災の思い出……といったような主旨で、内輪の者だけが集る筈です。毎年やってきたので……君も知ってるでしょう。……昨年は、君はたしかに来なかったが……今年は是非出たらどうです。」
 杉本は、奥深く、眼を光らした。
「昨年も……一昨年も……通知が来なかったものですから……。」
「手落だな。今年は僕が通知を出す筈だから……。」
「出席しましょう。」
 その後の沈黙に、何かしら敵意らしいものが感ぜられた。有吉は俄に坐り直した。
「長くお邪魔してしまった……。ではその時までに、こちらも、論鋒を研いておきますよ、ははは……。」
 有吉はも一度室の中を見廻して、悠揚たる様子で帰っていった。
 杉本は、立ったまま、灰皿に堆くつもった煙草の吸殼を眺めた。それから、窓際に腰を掛けた。
「スパイめ!」
 だが、変に憂欝に、膝頭に両肱をつき、両手に※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)をもたして、考えこんだ……。
 長くたってから、彼は顔を挙げて、室の中を見廻した。有吉の来訪が、不思議なものを齎して、彼は自分の住居を、初めて見るように眺めたのである。
 向うの隅の、英子の小さな机、婦人雑誌、鳥の羽をさした筆立、電燈の笠にかかってる、凉しい色どりのリリアンの編物……。更に、奥の室との仕切が払われて、そこに、大きな鏡台、無数という感じの雑多な化粧壜、化粧刷毛、バスケット、派手な衣類が取散らされてる、仰向けの甲李の蓋……。
 あの晩、夜更けに、彼女は破れるように扉を叩いて、彼のところへ飛込んできた。
「あたし、あたしだって……意趣返しをしてやる。」
 視線をくうに据え、下眼瞼と黒目の縁と、二つの円弧の間の、純白な一線から、大粒の涙を、ぼろぼろとこぼした。それから突然、笑い出して、彼の茫然とした顔を、不思議そうに眺めた。いきなり彼の首に飛びついてきた。
「さあ、キスして頂戴、キスして……。それだけ。それ以上は求めないことよ!」

 英子が帰ってきた時、杉本はまだ瞑想に沈んでいた。彼女は静に歩み寄った。
「どうしたの?」
 彼の顔に、苦笑の波紋がゆるやかに拡がっていった――徐々に夢からさめる者のように……。
 彼女は急に、彼の肩と頸とに取縋って、木像をでも抱くように、抱きしめた……。

     五

 座敷には煌々と電燈がともり、障子を取払った縁先には、岐阜提燈がまたたき、庭の芝生には、あちこちに、高張が白面をそば立てていた。それから先は植込で、初秋の星空の下に、高く、黒々と蹲っている……。
 座敷の正面、床柱のわきに、主人の田代芳輔は、老いた……というより、歳月に磨かれた渋い顔を、屈託のない微笑に和らげて、人々の談話よりも、その上を流れる戸外の夜気を楽しむ様子で、言葉少なに控えていた。縫紋の絽の羽織が上布の単衣の肩をすべっているのは、膝をくずしているからであろう。葉巻の煙が、ゆるく立昇る……。周囲には、年齢の意味でなく仕事の意味での、少壮の、代議士、実業家、官吏など、和服や洋服が、置き並べた食卓を取巻いている。食卓の白布に、水盤の盛花がはえて……料理は質素で、銚子の数が多く……。そして賑かに、だがどことなく落付いて、互に献酬したり、或は手酌で……。食卓の列の、半ばから後は人がなく、卓布と花と陶器とが淋しそう……。
 その、座敷をすてた人々は、庭に散在していた。二三ヶ所に、卓子の寄合、椅子、長椅子、木のベンチ……。花も卓布もないが、大きな皿に堆く、サンドウィッチ、菓物、そして、サイダー、ビール、ウイスキー、コニャックなど。和洋種々の煙草……。強いリクールの、とろりとした液体が、煙草の煙にくもって……座敷よりも遙に、電燈の光と高張提燈の光との差を逆に、元気で粗野で騒々しく……。そしてあらゆる意味で少壮の、或は未完成の、型の出来ていない人々だった。
 座敷では、時々、銚子を運ぶ女中たちが、酌はしないで往き来するだけが、無言の色彩を添えていた。彼女たちが、提燈の蝋燭を取代えたのは、もうだいぶ前のことだった。
 この、田代家の、大震災記念の宴は、おかしな集会だった。料理が粗末で飲物が豊富なのは、多少その名にかなっていたが、そうした集りに当然あるべき、婦人や少年の姿は、少しも見えなかった。そしてただ、田代芳輔が、苦の活動範囲内の――今でも一派の糸を引いてる範囲内の、縁故の深い、重立った、男子ばかりであった。彼等は、何等かの意味で、田代芳輔が再び起つ――或は新らしく起つことを、信じていた。世間には発表されずにしまった或る対宮中問題の責を引いて、今ではただ、余生を楽しむらしい風をしているが、精力や富力からして、それで終るべき人物ではなかった。で、この集りでは、大震災の思い出も、話の主題となり得ないで、時事を中心とする政治経済の談話の、随伴物たるに過ぎなかった。而も、その政治経済上の問題も、断片的に、諷刺的に、暗黙の理解のうちに取扱われて、言葉で語られるよりも、言外の気味合で触れられることが多かった。外見、一夕の宴は、世間的な談笑のうちに過ぎていった。賢明な田代夫人は、早めに形式的に飯を出してしまうと、後の酒宴からは席をさけて、女中たちをも侍らせなかった。
 その全体とは、少し調子がちがって、露骨に、辛辣に[#「辛辣に」は底本では「辛棘に」]、詭弁的に、だが多少鈍重に、鈍感に、憚りなく談笑してる一群が、庭の一方にあった。強いリクールの瓶は多く、彼等の手に奪われていった。多くの漫画が、時には田代芳輔自身の漫画までが、或は細密に、或は横顔だけ、漫談のうちに描かれていった。哄笑が起った。そういう時、彼等の癖として、坐り直したり、立上ったり、一二歩あるき出したり……。その中に、有吉祐太郎が、愉快そうに髭をひねっていた。軍服で、勲五等の旭日章を一つ、胸につけていた。赤い太陽と白銀の光線とが、笑うたびに、光の反映を受けて、茶褐色の服地の上に浮出した……。
 時間が過ぎて、夜空に、星の光がました。露の結ぼれかけてる気配けはいの、植込から向うは、しんと静まり返って……。
 やがて、座敷の方の人数が、少しずつ減っていった。田代芳輔は席を立って、袴なしの細そりした身体を、庭の方へ、一巡、静に運んでまわった――居間に引込む前に。
 有吉等の一群の横に、高張の柱の影を受けた暗がりに、杉本浩は、卓子に肱をついて、ウイスキーの瓶を引寄せて、無言で、夢想に耽っていた。異邦人といった気持の、孤独感の中で、その夢想は幻覚的な形を取っていった――
 ――田代さんは、夫人を相手に、夕食の膳に向っている。膳――黒塗りの大きな餉台、その横手に、彼杉本も、同じ料理を前に、膝を正している。夫人の手で、二人の杯へ、九谷の銚子から、燗のぬるめの白鶴が、代る交る注がれる。その杯と、生物なまものの多い新鮮な料理の箸との、合間合間に、田代さんは、杉本へ言葉をかける。最近の動静……未来の抱負……日常生活……それも、何をしてるか……何をするつもりか……どんな風か……といった調子の軽い問い。杉本は出来るだけ、当らず触らずの返事をする。話が、夭折した杉本の父親のことに及ぶ。豪い男だった、と田代さんは云う。君も父の子だ……と。どうにか生活出来るか……と。酒がうまそうである……。年齢の渋みのかかった艶のいい皮膚、半白の髪、毛の長い眉、底の見透せぬ老成した眼付、意志の頑強そうな口元……。そして、それを包んで、好々爺らしい鷹揚な態度……。酒がうまそうである。が杉本は、酒がうまくない。鼻のつんと高い、怜悧な、勝気な、痩せた夫人から、一挙一動を見て取られる、という意識ばかりではない。話が、杉本の身辺のこと以外に、一歩も出ないのである。学費を無条件で支給してくれたばかりでなく、卒業後のことは全く放任してくれてる。有難い恩人ではあるが……。
 ――俺はただ、この人にとっては、酒の肴になるだけのことだ。俺がこうして、御機嫌をとってるそのことが、俺の精神にどれだけの犠牲を要求するか。俺が貰った学費が、この人の富に、どれだけの犠牲を要求したか。両者のパーセンテージは……。恩義は、与える方では、与えることの享楽で償われ、受ける方では、受けることの感謝で払われてる筈だ。……この人は俺に、学費を与えることによって、奴隷根性を押付けるつもりではなかった筈だ……。
 生活の距りが大きくて、話の接穂がないだけに、杉本は、そんなことを考えるのである。田代さんに、自慢話をするだけの老いこんだ自惚か、杉本に、気焔をあげるだけの軽薄な自信か、それが少しでもあったならば、その場は救われるのであろうが、生憎……。
 だが、床柱を背に、後輩の代議士や実業家に囲まれてる田代さんも、やはり、杉本を晩酌の相手にしてる時と同じように、話頭の及ばない高みにあって、にこにこしながら、うまそうに酒を飲んでるのである……。
 旋風の中の、そこだけ静かな、中心点……。この人は今に何かやるな……とそう杉本も思うのである。――
 杉本は顔を挙げた。田代芳輔が通りかかっていた。杉本は立上った。
「やあ……。」眼にちらと、微笑の閃めきがよぎった。「ゆっくりしていってくれ給え。」
 それだけで、彼はもう次の人へ眼を向けていた。
 杉本はその後姿を見送った。最初の挨拶の時は兎も角、こんどは何か……。と思っていたのが、「ゆっくり議論を闘わしてみたい、」どころか、まるで違っていた。肩の少しこけた、肉附はよいが小柄に見える、なみの老人にすぎないが……。
 田代芳輔の姿が奥に引込むと、元気な一団の中から、声が起った。
「さあ、これからが吾々の世界だ。」
 大きな西瓜が一つ、宙に投り上げられた。
「早いぞ、西瓜は。」
「まあ見てろよ。」
 先の尖った大きな三角ナイフを取って、ずぶりと二つに割って、中身をえぐって、ウイスキーを注いだ。
「こいつ、うまいことをしてやがる。」
 四方から、大匙でしゃくい取られて、西瓜の一つは見るまに皮になった。
 杉本も、いつか、そういう仲間に引入れられていた。が、多くは黙って飲食するだけで……。手入の届いた頭髪、口髭、ネクタイピン、勲章、胸のポケットから覗いてるハンカチ、折目の正しいズボン、とも糸の縫紋の羽織、軍服、絽の袴……そういうものの中にあって、彼の皺の多い古い合服が、変に目立っていた――それが、彼自身の意識にもうつって……。
「西瓜で思い出したが、」と杉本の側で声がした、「震災の時、河岸縁を、西瓜を一つ抱えて、一生懸命に走って行く小僧がある……。走っても走っても、どこも火事だ。息が切れて、立止ったとたんに、思いついた。西瓜を割って、中身で喉をうるおして、その皮を頭にかぶって、大河につかった。そして生命を助かったそうだが……。これなんか、恐らく東京中で、一番賢明な奴だったろう。」
「初めは、夢中で抱え出したんだな。とかく、智恵は後から湧くって謎か。」
「後から智恵が湧くどころか、終始一貰、あの時は誰も夢中だった。君なんか、外は歩けなかった組だね。」
 言葉を向けられた、背の高い、大陸的な風采の男は、昂然と笑った。
「ばかな、大手を振って出歩いたさ。そして警戒線にぶつかると、アイウエオやいろははおろか、逆に、すせもひゑしみめゆきさあてえ……。どうだ、云えるか。」
「す……せ……も……。ははは、ばかだなあ。」
「あの時だけは、有吉、君たちの軍服も、感謝の光栄に浴したわけだね。」
「なあに、ただ、辻々に立って……街路樹みたいなものさ。」
 有吉は事もなく云って、微笑していた。
「街路樹よりも、もっと本物らしいのがあった……。」
 先程から、有吉の軍服と旭日章とをぼんやり眺めていた杉本が、ふいに口を開いたのである。皆の視線がその方を向いた。
 ――九月三日の夜……といえば、戒厳令が布かれた直後のことである。流言浮説は深刻の頂上に達していた。自戒団や避難民で街路は湧き立っている。……が、その間に、まだ電燈のともらない裏通りなどに、変に薄暗い、人気の少い穴みたいなところがある。そんなところが最も危険だ。特に、広い墓地を控えた寺の入口など……。その或る寺の入口に、石の仏像が一つあった。すると、三日の夜、誰かが、気転を利かして、在郷軍人の、軍服の上衣と帽子を、その石の像にかぶせた。そして、軍服をきた石の像が、四日をすぎて、五日の朝まで、そのままつっ立っていた……。畑の中の案山子なんかより、もっと有効に……。
「ばかな!」
 有吉が一喝した。
 その時になって、話のおかしな感銘を一同は感じたらしかった。それが、杉本の口を噤ました。
「愚弄するのか……。」
「…………」
 杉本は腑に落ちない顔付で、ぼんやり立上った。その腕を、有吉は掴んだ。
「案山子とは何だ、案山子とは……。」
「然し、街路樹よりも……。」
 杉本は突き飛されたのを感じた。それをふみこたえた瞬間、顔の前に、大きなこぶしが突出された。
「こい!」
 酔っていた。何のことかよく分らなかった……誰にも。好奇の色を帯びた真剣な眼が、幾つも光った。
 大きな拳が、有吉の鼻の頭をこすって、ぬっと、も一度前に出た――極度の侮蔑で卓子の上に、尖った三角ナイフが光っていた。それを掴んで、杉本の顔に皮肉な笑いが上って、どうだ……といった調子で、つきつけたのが、手首をぐっと引かれた。はずみをくって、よろけながら、握りしめた手先の力が籠って、全身の重みがかかった……。
 杉本は、前のめりに、ぱったりと倒れた。
 瞬間の出来事だった。
 次の瞬間、杉本は飛び起きて、顔色を変えて、震える手にナイフを握りしめていた。その腕が、人の手に押えられた。眼の前に有吉はつっ立って、頬に微笑の影を湛えていた。が、その右の大腿部の、軍服が裂けて、血が……。
「ば、ばかなことを! 気をつけろ!」
 そして彼は、一歩よろめいて、卓子につかまった。顔をしかめた。眼を落して、腿の血を見た。
「出て行け!」
 杉本は、歯をくいしばって、憎悪に燃ゆる眼を、相手の眼に据えた。が有吉の眼は、自若としてそれを迎えた。蔑すんだ色が動いた。
「帰してやれ。」
 命令的な、逆う余地のない語気だった。杉本の腕を捉えてる手は放された。杉本は、ナイフを取落し、首垂れて、歩み去った。
 その時、人々に取囲まれながら、有吉は、急に腿の傷口を押えて、椅子に倒れた……。

     六

 静かな、そよとの風もない、星の光の強い深夜だった。
 杉本は古い洋服のまま、半身を机にもたせて、坐っていた。その額に、今まで見られなかった皺を刻んで……。口のあたりの頬が、かすかに震えていた。
「別れるのは、嫌だというのか。」
「…………」
 無言で、英子は唇をかんでいた。頬の贅肉がいつもよりふくらみ、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)がいつもより尖って、自然の媚と我執との、ちぐはぐな顔付だった。
「僕たちは、互に、奴隷にはならなかった。それが、僕たちの夢の取柄だ。」
「夢……。」
「……じゃあない、といって、生活でも……。」
 皮肉な色が、さっと彼女の眼に浮んだ。
「では、何……何なの?」
「何か……僕にも分らない。今になってみると、間違ってたようだ。」
「あなたは、後悔してるの?」
「いや、そんなことじゃない。君は、あの男に対する嫉妬心だけで、あんな狂気じみたことをしてしまった。嫉妬心の腹癒せ……そんな、ちっぽけな、個人的な心がいけなかったんだ。もっと怒るんだ、もっと、本当に、腹の底から、怒るとよかったんだ。」
「怒ったからこそ、……分らないのよ、あなたには。」
「それが、実は本当に怒っていなかったのだ。僕にはそれが分る。今も云ったように、僕は今夜、有吉に対して、初めは冗談のつもりだった。ところが、その後では、本当に憎んだ。もし腕を押えられなかったら、即座に刺し[#「刺し」は底本では「剌し」]殺していたろう。……向うはそうじゃなかった。初めはわりに真剣で、後ではもう僕を憎んではいないようだった。それが、有吉との本質的な違いだ。今になって分ったのだ。そして僕は、ああいう人物に対して、ああいう存在に対して、腹が立った。本当に怒った……。」
「だから、あたしとも別れようというの。」
「本当に怒って、それから、分ってきたのだ。僕は一人だった、一人ぽっちだった。向うは、大勢……ああいう階級全部を背負っていた。……君だって、嫉妬心にかられた時は、一人ぽっちだった。だが、向うは、あの男は、ああいう人間共……ああいう生活、それ全体を背負っている……。」
「…………」
 彼女は無言で、彼の顔を見つめた。その眼から……下眼瞼の円く開いてる縁から、しみ出すように、涙が……。それがこぼれかけた時、急に、彼の頭に縋りついた。
「いや、いやよ、別れるのは。」
「淋しいのか、一人ぽっちなのが……。」
 彼女はなお強く、彼の肩を抱いた。
「それを、一人ぽっちでなくなすんだ。」
「では、別れない?」
 彼は彼女の手を静かに離して、その額に接吻してやった。白粉のついた冷い額を、差出して、彼女は眼をつぶっている……。
「分るだろう……こんなことをしていては、いつまでたっても一人ぽっちだ。二人できつく抱き合ったところで、やはり、一人ぽっちの淋しい気持は、無くなりはしない。」
 彼女は強く頭を振った。
「それが、男と女との違いだ。」
 云ったあとで、彼の眼の底は、熱くうるんだ。
「僕は、いつか云ったことを、いさぎよく取消そう。女は、子供を産まなければいけない。子供だ。男は……。僕は、久しぶりに、母のことを思い出した。僕がまだ小さい時に死んだ母だ……。」
 開いたままの窓から、冷い夜気が流れこんできた。彼は立上って、窓のところへ行って、空を眺めた……。
 いつのまにか、その後ろに、彼女も立っていた。
「どうするの、これから……。」
「沢山仕事がある。先は遠い。ゆっくり、あせらずに歩くんだ。君と別れて、僕は却って、君と強く結びつくような気がしそうだ。」
「…………」
 見返すと、彼女の若々しい髪が、肉体が、電気の光を滑らして、息づいていた。それ全体が、一の抗弁のよう……。
 彼はいきなり彼女を捉えて、胸に抱きしめた。
「許してくれ、それより外に、仕様がないんだ。」
「自由になりたいのね。」
「…………」
「いいわ。あたしも……自由に……。大丈夫よ。自暴やけは起さないから。」
「誓う?」
「…………」
 彼女はただ笑った。彼も憂欝な微笑を浮べた。

 隣りの部室には、昼間の労働に疲れた、若いトルストイアンの小林が、深い寝息を立てていた。

     七

 有吉祐太郎の大腿部の傷は、快癒までに二週間を要した。彼はその間に、休職を願った。そして一年ばかり過ぎて、免官の許可を得た。蔭で、田代芳輔の口添があったのは勿論である。
 有吉は軍服をすてて、背広にかえた。頭髪を伸して、代りに、口髭を短く刈りこんだ。
 その頃、杉本はもう上海に行っていた……。その断片的な消息を、有吉は警視庁の内部から得た。
彼奴あいつ……。」
 そう独語しながら、有吉は、やはり憎悪の念を持ち得ないのである。――

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1929(昭和4)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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