一

 牧野良一は、奥日光の旅から帰ると、ゆっくり四五日かかって、書信の整理をしたり、勉強のプランをたてたりして、それから、まっさきに、川村さんを訪れてみた。
 川村さんはもう五十近い年頃で、妻も子もなく、独りで老婢をやとって暮していた。学者だが、何が専門で何が本職だか分らなかった。書斎にはいろんな書物がぎっしり並んでおり、雑誌や新聞に詩や批評や随筆などいろいろなものを書き、私立大学に少しばかり勤めていた。ひどく真面目なところと出たらめなところとがあった。その川村さんを、良一は尊敬もし好きであった。自分の遠縁にあたるのが自慢だった。
 風のない薄曇りの日で、雪にでもなりそうな底冷があった。良一はマントの襟を立てて、川村さんの家へ急いだ。
 老婢が出て来た。暫く考えてから答えた。
「いま、お留守ですよ。あとで電話をかけてごらんなさい。」
 この婆や、いつもとぼけた奴だが、留守なのにあとで電話をしろとはおかしかった。だが、良一はそのまま、暫く外を歩き、それから見当り次第の喫茶店にはいり、時間をつぶして、電話をかけて見た。すぐに来てよろしいとの返事だった。
 行ってみると、川村さんは熱をだして寝ていた。痩せた頬に髭がもじゃもじゃはえていた。
「おうちだったんですね。留守だというんで、時間をつぶすのに困りました。」
 良一が不平そうに云うのを、川村さんはほほえんできいていた。
「うむ、誰にでも、留守だから電話をしろと、そういうことになってるんだ。面倒くさい者には会わないことにしてるものだから……。」
 良一は苦笑した。――元来、川村さんは電話がきらいで、こんな不都合なものはないと不平を云っていた。戸締りをしておいても、夜遅くでも、電話というやつは、いきなりりりんととびこんできて、話しかける。家の中を往来と同じものにするというのだった。そんな嫌なものならやめたらいいでしょう、というと、それでも使いようによっては人間以上に役にたつ、というのだった。病気の時なんかうまく使ってるというわけなのであろう。
 そこへ若い女が茶をくんできた。一度も見たことのない女で、それも、普通の女ではなさそうだった。洋髪に結った髪がばかに綺麗にさらっとカールしていて、黒襟のかかったはでなお召の着物をきていた。襟頸がすっきりとぬけて、顔の皮膚が不自然になめらかだった。木の葉にちらつく日の光のようなものが眼の中にあって、それが淡い香水のにおいといっしょに、良一の方へおそってきた。
 女が出てゆく後ろ姿を、良一がけげんそうに見送っていると、川村さんは事もなげに云うのだった。
「ちょっと、手伝いに来てる女だよ。」
「ひどくお悪いんですか。」
「なあに、心配して来てくれてるんだが、ただの感冒かぜだ。熱が少し。九度五分ばかりあるきりで、それも、すぐにさがる筈だ。」
 ただの水枕きりで、氷もあててなかった。頬が少し赤くほてってるだけで、元気ではっきりしていた。酒に強いと同じに、熱にも強い、四十度くらいまでは平気だ、と彼は笑っていた。そして良一の旅の話をききたがった。
「奥日光……あの辺はいいね。戦場ヶ原から湯本温泉へかけて……。あすこに、温泉の湖水があるのを知ってるかい。湖水のふちから熱湯がわきだして、それが一面にたたえている。そして湖水の底からは、清水しみずがわいている。そこに姫鱒が養殖してある。釣りに出ると愉快だよ。舟にのって出かけるんだが、よく釣れる。針にかかったやつを、ゆっくり遊ばせながら引上げると、湖水のおもては熱い湯だろう、手元にくるまでには、鱒がほどよく煮えて、それを、酢醤油で食べるってわけだが……。」
 湯の湖のことだなと良一は思いながら、笑ってききながして、スキーの話や熊の話をした。
「ずっと奥までは、雪のために行けないんだろうね。」と川村さんは云った。「こんど雪のない時に行ってみ給え、あれから山を越した先に、面白いところがあるよ。やはり温泉がふきだしているんだが、どういうわけか、温泉の中にとけこんでいる鉱物質がわかれて、それが岩のように固まり、次第に高く積って、今では小さな山ほどになっている。温泉は無限にわきだすし、鉱物質はかたまりつづけるし、毎日毎日高くなるので、何年か後には、世界にくらべ物のない名物となるだろう。湯の中の鉱物質、まあ湯の花だね、それがつもって富士山みたいになり、更に日に日に高くなりながら、その頂上からは温泉がふいている……。すばらしいじゃないか。」
 川俣の噴泉塔のことだなと良一は思ったが、こうなると、少し腹がたった。子供あつかいにばかにされてるような気もしたし、或は川村さんはやはり熱にうかされてるんじゃないかと思った。そして何だか落付がなく、その上、菓子や珈琲をもって、ちょっと顔を出してはまた引込んでゆく、若い美しい女のひとのことがへんに気にかかった。そしていいかげんに帰ろうとした。
 その時、川村さんは急にまじめな顔をした。
「実は、君に少し頼みがあるんだが……。」
「ええ。何ですか。」
「金が、五千円ばかりいるんだが……どこか、僕に借してくれるようなところを、心当りがあったら、頼んでみてくれないか。担保になるようなものが何にもないので、全く信用だから、少しむずかしいかも知れないが……。」
 良一は眼を見張った。
「ほんとですか。さっきの……湖水や山の話みたいに……。」
「いや、これはまじめな話だ。五千円ぜひいるんだ。もし出来なければ、出来ないだけの覚悟をしなければならない。」
 良一は考えこんだ。
「急ぎなんですか。」
「一日も早い方がいいが、いつと期限はきまってはいない。」
「そうですね、五千円なんて、僕から話せるようなところはありませんが……考えて見ましょう。」
「ああ、頼むよ。五千円出来たら、ほんとに助かる。」
 とにかく奔走してみると約束して、良一は辞し去った。玄関で、黒襟の女のひとが、馴れた手付でマントを着せてくれた。

     二

 良一は狐にでもつままれたような気持だった。元来掴みどころのない川村さんのことではあるが、九度五分の熱、黒襟の女、人をばかにした話、それから五千円……。然し、この五千円だけはどうもまじめらしかった。金のことなんか今迄に一度も口にしたことのない人だけに、よほど困った事情があるのかも知れなかった。
 良一は心当りを物色してみた。話してみるようなところは一人きりなかった。それは彼の伯父で、川村さんとも知合いだった。然しそんな話は、伯母さんや家族の人たちの前ではしにくいので、会社の方に行くことにした。他に用もあったので、なか一日おいて、電話できき合せると、四時頃来てくれとのことだった。
 丸の内のオフィス街は、冬の四時頃にはもう日の光がなく、退出の会社員等が散乱して、慌しい気分にぬられていた。良一は他国にでも来たような気持で、伯父の会社にはいっていったが、その応接室で、三十分ばかり待たされた。それから伯父の室に案内された。
 古ぼけた羅紗で蔽われた大きな卓子の前に、革の椅子にぎごちなく腰掛けた時、良一は用件をきりだすのに困った。伯父は何かの印刷物をもてあそびながら、鼇甲ぶちの[#「鼇甲ぶちの」はママ]大きな眼鏡ごしに、じろじろ良一の方を眺めた。めったに顔をみせたことのない良一が、しかも会社の方で逢いたいというので、好奇心を起したのであろう。それでもやさしい調子で、いろいろなことを話してくれた。そして遂に向うから、何の用事かと尋ねた。
「少しお願いがあって参ったのですが……。」
「だから、その用向は……。」
「伯父さんは、あの、川村さんをよく御存じですね。」
「川村好太郎さんか、知っている。」
 その時伯父は、探るようにじっと良一の方を眺めた。良一はその視線に堪えられなくて、用件を簡単に述べた。――川村さんがひどく困った事情になってるので、五千円かして頂きたい……。
 かなり長い間、伯父は黙っていた。良一は不安になった。
「どういう事情で五千円の金がいるか、君は知っているのか。」
 良一は返事が出来なかった。
「どうして困るようなことになったのか、君は知ってるのか。」
 それも、良一には返事が出来なかった。
 暫く沈黙が続いた。
「何にも事情の説明も出来ないで、ただ五千円かしてくれとは、君にもあきれたものだ。それはまあいいとして、君は川村さんのことをいったいどう思っているかね。」
「…………」
「あの人は、気狂いだよ。」
 良一は眼を丸くした。一昨日逢ったばかりなのだ。感冒でねていたのだった。
「尤も、どこがどうと目立つところはないから、ちょっと分らないが、あんなのが、実は一番始末に悪い。」
「伯父さん。」と良一は身をのりだした。「くわしく説明して下さいませんか。」
「ははは、こんどは僕に説明せよというのか。まあこっちに来給え。」
 彼は良一をそばの椅子によんで、それから話した。――本郷神明町の高台に、非常にみごとな椎の大木がある。根本の周囲は二丈にあまる古い木で、それが、一丈ばかりの高さのところから、四方に枝を出し、枝は水平にのびて、百坪ほども拡がり、そして全体がこんもりと、円屋根のように茂っている。珍らしい木で、市の指定保存木となっている。ところが、その木をこめて、三百坪ばかりの地面が、更地さらちとなって売物に出ていた。川村さんは所有者と交渉して、椎の木のところ百五十坪だけを借り受けた。それも、よくは分らないが実は年賦で買い取る約束だとの話もある。いずれにせよ、椎の木のところ百五十坪を、年賦の条件か、高い地代を払ってか、とにかく自分の権利にして、板塀をめぐらした。それがこの夏のことで、何をするかというと、毎日のようにそこへ散歩にいって、椎の木の下でぼんやり一二時間をすごして帰ってくる。ただそれだけだった。それでももう充分、正気の沙汰ではない上に、これは内密のことであるが、或る青年をそそのかして、いろいろ非常識な悪事を行わせ、その気持をこまかくきいて、何かの研究の材料にしてるということである。本当かどうか分らないが、もし少しでもそういうことがあれば、これは常人のやるべきことではない。それにまた、さる芸妓となじんで、それを家に引き入れたり、外に連れ歩いたりして、そのために経済状態がめちゃだという。いろいろ考えて見ると、狂人としか思えないのである。
「そういうわけだから、君も、あの人と親しくしてるなら、それとなく様子を探ってみないか。僕もあの人を学者としては尊敬しているから、いよいよの時には何とか考えてみることにしよう。」
 良一はさっぱり腑におちなかった。芸奴の一件は、あの女かと見当はついたが、椎の木とか青年のことになると、時々出入りしてるのに、さっぱりそんな様子は見えなかった。何かの誤解かも知れないし、も少し調べてみなければなるまいと、良一は気にかかってくるのだった。
 そして用件はそれだけにして、良一は誘れるままに、支那料理をたべに伯父のお伴をした。伯父は老酒らおちゅうが好きだったので、良一もその相手をしてるうちに、いいかげんに酔ってきた。
 伯父と別れて八時頃、良一は川村さんの方へまわってみた。
 川村さんの家は、ちょっと引込んだ構えで、通りから五六間はいったところに、すぐ洋式の扉となっていた。良一がそこにはいりかけると、軒燈の光がうすくさしてる石の門柱のうしろに、背のひょろ長い青年が、帽子はかぶらず、外套の上から腕組をしてつっ立っていた。良一は伯父の話を思いだし、嫌な気持になって、一先ず通りすぎた。暫くして、戻ってきてみると、青年は先程と同じ姿勢で立っていた。良一は顔をしかめたが、思いきってはいっていった。
「もしもし……。」
 声がしたので振向くと、良一の方をすかし見て云った。
「川村さんをお訪ねなさるんですか。」
 良一は黙っていた。
「只今、お留守ですよ。」
 良一がなお黙っていると、青年は鋭い眼付で見つめながら寄ってきた。
「もう一時間ばかりすれば、帰ってこられます。僕も先生に逢いに来たんです。ここで待っていても仕様がないから、一緒にお茶でものみにいきませんか。」
 別に危険な人物でもなさそうだったので、良一はつき合うことにした、或はそれが伯父の話の男かも知れなかった。或は川村さんが逢うことをきらってる男かも知れなかったし、それならば、それをはぐらかすことは川村さんのためになるにちがいなかった。
 良一は彼と並んで歩きだした。彼は既に行先がきまってるかのように、黙ったまま良一を導いていった。長髪をかき乱した浅黒い横顔。じっと据ってる眼付、すりきれた外套に破れかけた古靴、そしてへんに足が早かった。
 だいぶたってから、彼はふいに云った。
「あなたは、川村さんとどういう関係の人ですか。」
 良一はありのままを答えた。遠縁にあたるので昔から知っていて、時々遊びにくるんだと。
「それじゃあ、牧野さんですか。」
 名前を云われて、良一は少し驚きもし、安心もした。自分の名前を知ってるくらいなら、この青年は川村さんとよほど親しいのであろう。
 川村さんの家のある本郷林町の高台から、上野広小路の方へ、良一は彼についていった。途中、すれちがう人の顔を彼は次第に注視するようになり、そしていつしか彼に話しかけていた。
「……その好き嫌いという感情は、決定的なもので自分でどうすることも出来ないものです。電車にのっても、一寸見ただけで、好きな奴と嫌いな奴とは、はっきり別れるじゃありませんか。これは、相手の性質とか身分とか、そんなものできまるんじゃない。顔付です。ただ顔付だけです。それも、綺麗だとか醜いとか、色が白いか黒いか、そんなことじゃあない。もっと根本的なものがあります。猫は犬の顔をきらい、犬は猫の顔をきらうんです。それで僕は、そういうことを研究しようと思って、人間の顔を写真にとって歩いています。小さなコダックを胸にかかえて、向うから来る奴を、まず好きか嫌いか見ておいて、それを写真にとってやる。そういう写真を集めて、好きから嫌いへ順々に並べてみると、根本的な研究が出来るんです。ありふれた写真は、大抵にせものが多いから、本当に研究するには、どうしてもまず実物をみておいて、それからありのままの写真をとる、そういうことにしなくちゃいけない。それはいろんな程度があって、微妙な差ですからね。ところがこの、人の顔を写真にとることがなかなか厄介で、技術がいるんです。うっかりしてると通りすぎちまうし、横を向いちまう。邪魔するやつもいる。政府では僕のこの研究をねたんで、警察に内命を下したとみえて、しじゅう探偵しています。僕の一番嫌いな奴が、自分の顔をとられるのをこわがって、密告したんです。然し、きっととってみせます。そいつの顔をとるまでは、僕は頑張ってやります。その写真がなければ、研究が完成しません。川村さんは僕のこの研究に賛成して、いろいろ注意を与えて下さるが、ただ一つ僕の腑におちないことがある。凡ては無限で、宇宙の中に何一つ有限なものはない。だから、どんな研究でも、ある範囲内に止めなければ、永久に完成の期はない、とそういうんです。僕の研究も、もうほぼ完成している、とそういうんです。然しそれは、研究者としては卑怯な態度です。現に、僕の研究を邪魔してる奴がいる。僕の一番嫌いな奴がいる。現実にいる。そいつを一枚とれば、それでいいんです。それから先は架空なもので、想像によるものだから、そこで範囲をきめればいいわけです。もう一歩のところです……。」
 良一は少しまいった。好きな方はどうかとききたかったが、どんなことになるか分らないので、黙っていた。青年は一人で饒舌った。間をおいて、考え考え、ただ自分の意見を述べるだけで満足して、良一の意見は求めなかった。
 池の端から切通し下へ出て、その向うのこみ入った裏通りの、小さな家の前に、青年は立止った。表に「御仕立物」という看板がかかっていた。
「ここです。」
 青年は格子戸をあけて、良一を中に迎え入れた。それから自分一人上っていった。良一はあっけにとられて、障子のかげに、土間に立って、待った。

     三

 六畳ほどの茶の間で、長火鉢の向うに、肩のほっそりした女が縫物をしていた。粗末なじみな服装で、少い髪の毛を無雑作に束ねた、四十二三歳の女だった。すっきりした眉と肉のおちた頬に、或る淋しげなひんをもっていて、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)のまるみに、やさしい温良さが現われていた。相当な生活をしてきたひとで、中年になって突然不幸にみまわれて零落し、その運命にあきらめて落付いている、そういった人柄に見えた。
 とびこんできた青年の姿を、彼女は、小さな子供をでも見るようなやさしい目付で迎えた。
 青年は外套をぬぎすてて、その前に膝をそろえて坐った。
「ただいま。」
 古いすりきれたものではあったが、ともかくも背広服の、その姿が、外を歩いてた時とはまるで別人のように善良だった。
 女は赤いはでな仕立物をわきに押しやって、お茶をいれていた。
「早かったですね。」
「お留守なんです。」
「そう。」と気のない返事だった。
「待ってればよかったんだが……。」
 その時初めて彼は良一のことを思い出したように、急いで立ってきた。
「さあ、どうぞ……。」
 云わるるままに良一はあがっていくと、母です、と彼は云いすてて、横手の室へ案内した。
 そこも六畳で、机と本棚とが高窓の下にあって、本棚と並んで、大きな卓子があった。卓子の上には、いくつもの瓶や鉢が混雑していて、大きな赤い電球が一つころがっていた。多分そこで彼は写真の現像を[#「現像を」は底本では「現象を」]するのであろう。
 彼は押入から黒い箱をとりだした。中にはたくさん写真がはいっていた。それを順次に、畳の上に、並べ初めた。
「茂樹さん?」
 咎めるような声に、彼は顔をあげて、襖のかげから覗いてる母親を見た。
「あ、このひと、川村さんの親戚なんですよ。僕の味方です。」
「まあ、左様でございましたか。」と母親は丁寧に頭をさげた。「先生には、もう始終お世話になっておりまして……茂樹がいつも……。」
 あとは口籠って、うつむいて涙ぐんでしまった。良一は、挨拶のしように困った。
 茂樹はもう畳の上に、小さな写真を並べながら、母親のことも忘れてるようだった。写真が並ぶに従って、後へしざってゆき、母親はそれに押出されるようにして、黙って襖の向うにかくれた。
 古い汚れた畳の上に、不思議な光景があらわれた。正面だの横向だの、或は顔半分など、瞬間のスナップの小さなものだが、そうした人間の顔がずらりと並ぶと、その一つ一つが妙に生きあがってきて、何か意味をもつようだった。その上、並べ方の順序に、驚くべき統一調和があった。殊に、男女のものがまじってるのに、その顔付だけを見ていると、男と女との区別がつかないほど、全体の統一調和がとれていた。
「先ず、最初のは……あれです。」
 震えをおびた指先で茂樹がさしたのは、机の上方の壁にかけてある写真だった。紋服をつけた女の半身で……よく見ると、それは、幾年か前の彼の母親の姿なのである。それから畳の上に眼を転ずると、母親に似たものから、順次にちがったものへとなってゆく……。額がさみしく、頬のあたりに弱々しい神経的なものが漂い、鼻が目立たず、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)が温和な円みをもっているもの。それから次第に、頭がある重みをもち、鼻が目立ち、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)が尖ってくる。そして更に、額がつまり、鼻が頑丈になり、頬がふくれ、※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)が短くなる……。それは美の標準によるのではなくて、何か特別な順序にちがいない。そして最後の……彼が最も嫌いだといってるその一つは、最初のを母親として、いったい誰なのであろう。良一はそっと茂樹の顔をうかがった。その顔は、全体の中程にでもあったろうか……。
 茂樹は腕組みをして、室の隅を見つめていた。その眼には何にも映ってはいなかった。頭の奥で、何か一心に考えつめているか、或はただ茫然としているか、どちらかの様子だった。
 隣りの室でも、母親は何をしてるのか、ことりとの物音もしなかった。写真の顔の列が浮上ってきて、良一は不気味な気持で、眼をそらした。
 表の格子戸が、ばかに大きな音をたてて開かれた時、良一はほっと息をついた。その瞬間、茂樹は夢からさめたようにあたりを見廻し、おびえた様子で、手早く、写真を片付け初めた。不意に盗人にでも襲われたような慌てかたで、眼付が荒々しく、手がおののいていた。
 玄関で、母親が誰かに応対していたが、やがて、茂樹を呼ぶ声がした。茂樹は返事もせず、写真を箱にしまってから、その箱をまた戸棚にしまい、そして出ていった。
 良一はひとり取残されてぼんやりしていた。暫くたつと、茂樹がとびこんできて、彼の耳に囁いた。
「川村さんが来ています。ひょっとすると、くるかも知れません。すぐに出かけましょう。」
 さも秘密らしく囁いて、じっと良一の顔をのぞきこんでくるのだった。
「母にはないしょにしといて下さい。心配するといけないから。」
 良一は彼の顔を見返したが、何にもよみとることが出来なかった。ともかく、立上って、すぐ玄関に出てみたが、そこには誰もいなかった。
 引返してくると、母親は丁寧に挨拶をした。
「もうお帰りでございますか、何にもおかまいも致しませんで……。あの……先生にお逢いの時には、どうぞよろしく申上げて下さいませ。私へまで、こんな御馳走をいただきまして……。」
 そこには、何か料理らしい折詰のものが置いてあった。
「じゃあ、そこまで送ってきます。ちょっとお茶をのんでくるから、少しかかりますよ。」
 茂樹は母親へそう云って、もう先に立って玄関へ出ていた。
 良一は後につづいた。二三間行くと、茂樹は彼の耳に囁いた。
「川村さんのためには、僕は生命をなげだしてもいいんです。安心していて下さい。」
 良一には何のことやら分らなかった。茂樹の足はばかに早かった。なかば小走りについていきながら、良一はもう考えるのをやめた。伯父のところへ行くと、川村さんは狂人だと言われるし、川村さんのところを訪ねると、本当に気が少し変らしい青年に逢うし、それから不思議な写真のこと……。そして川村さんは、一昨日まで九度五分の熱でねていたのに、いったいどこへ来ているのか。そしてどういう事が起りかかっているのか……。良一は大体の輪郭だけに迷いこんで、成行に従おうと心をきめた。夜もだいぶ更けたらしい、まばらな通行人の姿が肩をすくめていた。白く引いて流れる息をマントの襟につつんで、彼は茂樹に後れまいと足を早めた。

     四

 街角まちかどを二三度まがって、電車通りにつうずる横町の、構えは小さいが、小綺麗な料理屋の前で、茂樹は立止った。そして内部を窺いながら躊躇していたが、良一の方へ振向いて囁いた。
「ここです。川村さんをたずねてみて下さい。」
「ええ……だが、あなたの名前は……。」
「僕の名前ですって?」
 茂樹はじっと良一の顔を見つめた。川村さんの家の前で逢った時と同じような鋭い不気味な光が、眼の中にあった。
「分ってるじゃありませんか。竹山茂樹です。」
 良一は中にはいっていって、下足番に、川村さんのことを尋ねた。出て来た女中に、自分たちの名前を通じてもらった。上ってこいとの返事だった。
 良一は竹山茂樹をうながして、座敷に通った。
 川村さんは酔ってるようだった。二人の顔を見て、頓狂な眼付をした。
「ほう、これは珍らしい。君たちは知り合いなのかい。いつのまに懇意になったんだい。俺にないしょでくっついちゃいかんぞ。」
 良一は少々当が外れた気持だった。竹山の言葉によって何か変事を予想させられていたのだが、川村さんは一人でのんきに酒をのんでるのだった。一昨日まで高熱でねていた川村さんが、髯をそってさっぱりした顔付になって、元気そうに若々しくなってる。それだけの変事にすぎなかった。
 ところが、竹山と川村さんの対話が、まるで謎みたいなものとなっていった。女中が出て行くと、竹山は拳をにぎりしめて口を開いた。
「もう帰りましたか。」
「誰が……連れの人か。」
「ええ。」
「さっき帰ったよ。この通り僕一人。」
「ほんとうですね。」
 念をおしておいて、竹山は室の中を見廻した。
「スパイだったんですか。」
「いいや、ちがうよ。」
「ハラゴンですか。」
「いいや。君の知らない人だよ。」
「それじゃあ、大丈夫ですね。」
「心配することはないよ。」
「研究も、椎の木も、無事ですね。」
「無事だとも。安心し給え。僕が請合ってるから大丈夫だ。」
 竹山は安堵したように息をついて、にっこり笑った。
「万一の時には、私がついていますから、心配はいりません。」
「ははは、そう気をもまんでもいいよ。」
「然し、先生は、どうも呑気だから、うっかりするとひっかかりますよ。」
「そこは、注意してるよ。」
「用心していて下さい。」
「ああ、大丈夫だ。まあ飲めよ。」
 そして、不思議なことには、竹山が落付いてくるにつれて、川村さんの方が何か気懸りらしく、竹山の様子をそれとなく観察しだしたのだった。それと共に、妙に考えこんで、憂欝な影が眼の中にさしてきた。
「どうだい、お母さんは……。」
「ええ、母は……。」
 云いかけて竹山は、ふいに思いだしたように、あらたまってお辞儀をして、先刻の届物の礼を述べた。
「ほんとに喜んでいました。涙ぐんでいました。……そうだ、私を待ってるんです。もう用はありませんね。」
「まあ飲んでいけよ。」
「また来ます。母が待ってるんです。」
 そして竹山は、も一度室の中を見廻したが、立上ったとたんに、違い棚の方へ眼をつけて、つかつかと寄っていった。その時、川村さんははっと顔色をかえた。
「それ、いけない。」
 川村さんが叫んでつっ立った時、竹山の手には、違い棚の上の小さな袱紗づつみが握られていた。
 とっさの出来事で、良一には訳が分らなかったが、やがて川村さんが諦めたように席についた時には、竹山の手の中で、袱紗づつみがとけて、小さな拳銃が光っていた。彼の眼は全く狂人らしく没表情にこわばって、その眼には底知れぬ疑惑の念がこもっていた。
「まあ坐り給え、話してあげよう。」
 川村さんの声には、先刻の慌てた様子とちがって、人を威圧するようなものがあった。
 竹山は拳銃を握ったまま、黙って席についた。
「それは、さきほど、或る人から預ったものなんだ。その人は、大変悲しいことがあって、自殺しようとまでした。然し思い返して、不用になったその拳銃を、僕に当分預けた。僕にとっては、それは大事な預り物なんだ。嘘ではない。君は僕を信頼してるなら、その信頼にちかって、嘘は云わない。信じてくれ。」
 その、川村さんの言葉には、心からの誠実がこもっていた。それにうたれてか、竹山は静にうなだれていた。それからきっと顔を上げた。
「私に預らして下さい。」
 二人はじっと眼を見合った。魂と魂とがじかにふれあうような見合いかただった。
「よろしい。」とやがて川村さんは云った。「その代り、誓ってくれるだろうね。君の全心をあげて誓ってくれ。それを決して使わないで、ただ預っておくだけだと……。」
「よく分りました。誓います。」
「お母さんに対する君の心にかけても、誓うかね。」
「はい。」
 厳粛だとさえ云えるほどの情景だった。良一は心打たれてただじっと坐っていた。川村さんと竹山とは、いつまでも黙っていた。やがて、竹山はふいに、眼をくるくるさした。
「母が待ってるから、行ってやりましょう。」
 そしてもう彼はけろりとして、無雑作に拳銃を弾丸たまらしい紙箱と共に袱紗にくるんで、ポケットにつっこんだ。
「お母さんによろしく。」
「ええ。」
 竹山は朗かな微笑を浮べて、出て行った。
 川村さんはその後ろ姿を見送ったきり、黙って考えこんでしまった。いつもの呑気な調子とはすっかり違っていた。良一は何とも言葉が出なくて、火鉢の火を見つめていた。暫くたって、川村さんは一つ大きく息をしてから、杯をとりあげ、不思議そうに良一を見まもった。
「君は、竹山と前から懇意なのかい。」
 川村さんの眼にはもう、穏かな色がただよっていた。それを見て、良一はかすかな微笑を浮べた。
「今日知り合になったばかりです。」
「今日……。」
「ええ。」
 そこで良一は、川村さんの家の前で竹山に出逢った時からことを、あらまし話した。
「そうか、そして君は、あの男のことをどう思う。」
「どうって……。」
「正直だと思うか、それとも、少し変だと……。」
 良一は返事に迷った。そしてふと、川村さんに対する伯父の言葉を思い出した。
「尤も、変だと云えば、僕だってそうだが……。正気の沙汰じゃないと云われたことがある。」
「誰にですか。」
「たしか、君の伯父さんだった……そしていろいろな意見をされた。」
 良一はぽかんとした。川村さんは苦笑していた。
「実は……今日、伯父に相談にいってみたんです。」
「相談だって……。」
 良一は仕方なしに、金策のことを伯父に頼みにいったことを、そしてうまくいかなかったことを、うちあけた。
 川村さんは笑いだした。晴れやかな笑いだった。
「それゃ、駄目だよ。僕の方が先に話しちゃった後だからね。どうも、不思議なまわり合せだね。伯父さんのところへ行って、それからまた竹山に逢って……。」
 川村さんは急に顔を曇らせた。そしてひどく真面目な調子になった。
「これも何かの縁だ。君にすっかり話してあげよう。だが、もう遅いし、ここの家じゃ迷惑だろうから……構やしない一緒に来給え。」
 川村さんは勘定をすました。その時、女中がそっと云った。
「あの……もうじきに参る筈ですが……。」
「なにいいよ。この人と少し話があって、ほかに寄ることになったから、そちらで……。」
「では、そう申しておきましょう。」
 良一は気になった。
「誰か、お連れでもあるんですか。」
「うむ……あるような、ないような……。」
 川村さんは朗かに笑っていた。

     五

 良一がつれられていったのは、待合の一室だった。しんみりと落付いた室で、酒をのみながら、川村さんの話をきいた。

 僕のつとめてる学校の教授室に、若い給仕がいた。後で分ったことだが、中学二年を卒えたきりで、長らく勉強を中絶していたところ、学校の給仕になってから、また勉強をはじめて、中学卒業の検定をとるつもりだった。隙があると書物ばかり読んでいた。
 僕はその男に好感がもてた。先方でも僕を好きだとみえて、僕が著わした小さな詩集に署名を求めたこともあった。僕が時々書く詩だの随筆だのは、見当る限り読んでるとのことだった。
 人間の好き嫌いというものは妙なもので、どこがどうと取立てて云うことも出来ない。まだ漠然とした気持の上の事柄だ。僕はその青年が何となく好きだったし、先方でも僕を何となく好きだったらしい。僕は週に三回きり出ていなかったが、時々話をしたり、一寸した質問に応じてやったりしてるうちに、ひどく親しい気持になっていった。
 そして、一年ばかりすると、彼は前から余り快活な方ではなかったが、急に目立って、顔色が悪くなり、神経質になり、憂欝になってきた。身体を大事にするように、度々注意してやった。彼はどこも悪くないと答えて、淋しい微笑を浮べるのだった。そして休むことが多くなった。
 或る日、僕は彼の様子を見てびっくりした。丁度一時間ひまがあって、教授室で書物をよんでいたのだが、その間、彼は自分の卓子に両手をくんでよりかかって、じっと眼を宙に据えている。顔は総毛だって、さわったら石のように冷たそうだ。いつまでも同じ姿勢で動かない。その、宙に据って何にも見えない眼には、不気味な光がただよっている……。
 僕はたまらなくなって、どうかしたのかと尋ねた。彼はけげんそうに顔を見上げたが、ふいに、にっこり笑った。そして、もう何もかも駄目だと云う。その笑いかたと言葉とがまるでちぐはぐで、調和がとれないんだ。心配なことがあるなら、うちあけて話してみないかと、僕はやさしく云ってやった。彼は暫く考えていてから、急につっ立って、聞いて下さいますかと、烈しい語調なんだ。
 その夕方、約束どおり落合って、僕は彼を鳥屋に案内して、夕食をおごってやりながら、話をきいた。話の調子が少し変で辻褄の合わないところもあったが、大体次のようなことだった。
 十年ほど前まで、彼の家は相当に裕福で、父親は或る百貨店の係長の地位を占めていたが、ふとしたことから、赤坂の芸妓に深くなって、めちゃくちゃな生活に陥ってしまった。そしてせっぱつまった揚句、その女と大阪に逃げだして、一年ばかりどうにか暮していたらしい。それから、よく分らないが、その女がまた芸妓に出たとか、或はどこかに勤めに出たとか、まあ堅気な暮しはしていなかったらしいが、情夫をこさえて、彼を顧みなくなった。彼はかっとなって、女を殺そうとして、仕損じて、つかまった。
 そうした父親の行跡が、彼と彼の母親の生活に、どういう影響を与えたか、君にも大凡想像出来るだろう。負債と屈辱……、肩身せまく世間を渡りながら、彼は中学二年までは修了したが、もう後は学業も続けられなくなった。夜逃げ同様にして何度も移転した。それでも、母親と彼とは一緒に住み続けた。別々の暮しが出来なかったのだ。そうした悲惨のなかに於ける母と子との愛情がどんなに強く深かったか、心ある者には分る筈だ。助力をあおぐ親戚とて殆んどなかったので、二人の心はなお深く結びついた。
 母親は針仕事をなし、彼は小さな工場の事務見習に通勤した。そのうち彼は肋膜を病んだ。解雇と療養……。生活はどん底に陥った。近所の人の世話で、借金を拵えた。その借金がまた不幸の種だった。彼は回復して、僕の学校の給仕にはいることが出来、新たに奮発して、中学卒業の検定試験を受けようと勉強をはじめ、母親もほっと息をついたところ、六ヶ月期間の借金――それも二百円だが――それには、期限後は損害賠償の意味で、日歩二十五銭という高利の条件がついていた。二百円の利子十五円を毎月払うことが、彼等にどうして出来よう。そこへ、彼の母親に対して、半ば強請的な再婚の勧誘だ。再婚と云えば体裁はいいが、何でも或る老人相手の、妾とも世話人ともつかないような話だったらしい。彼女はもう四十近くなっていた。見たところ一寸上品な若さのある顔立が、いけなかったらしい。世間というものは、搾取価値のあるものは決して見逃さないのだ。
 彼女は最後の覚悟をきめた。そして彼に向って、それとなく意中をうちあけた。そうした時、彼女がどういう言葉使いをし、どういう云い廻しをしたかは、普通の人にはとても分らない。彼は僕にその時のことをこう云った。
「母は少しも悲しそうな様子を見せませんでした。切ない眼色も見せませんでした。そして世間話でもするような調子で、人の運命というものは、大きな深い河に流されてるようなもので、※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)けば※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)くほど溺れるばかりだから、じっと流されていった方がよいだろうと、そんな風に話をしました。はっきりした事柄は一つも云わないで、よく分りよく腑におちるような、そうした話しかたでした。他人の噂さのような云いかたをして、その次に一言、わたしたちだってそうでしょう、と云いそえるのでした。ああ、わたしたちだってそうでしょう。たったその一言で、全体の話が実はわたしたちだけのことだと分るのでした。その言葉を云う時、鬢のほつれ毛が、こまかく震えていました……。」
 僕にはその時の情景が眼に見えるようだ。母は今まで守り通してきた貞操を――それも夫に対してではなく、子の名誉のために守り通りしてきた貞操を――僅かな金銭のために、自分でふみにじろうとしていたのだ。それが、子の胸にもひしとこたえた。而も、長い間、悲惨のうちにも頼りきり愛しきって、崇拝に近い感情を寄せていた母親なのだ。
 彼はその晩まんじりともしないで、幼い時からのことを考えなおしてみた。そして、悲しみの余り疲れて寝入ってる母の顔を、つくづく眺めた。それは神々しい顔だった。
 彼は[#彼は」は底本では「僕は」]そっと起きだして、古い手文庫を持ちだし、中の写真をしらべてみた。母の写真が幾枚かあり、父の写真も二枚ほどあった。彼はそれを見比べた。それから、釘をとってきて、父の写真のあらゆる輪廓や顔立の線を、ぶすりぶすり突き刺した[#「突き刺した」は底本では「突き剌した」]。二枚の写真は、釘の穴だらけになって寸断された。悪夢を見てるような気持だった。
 突然、とほうもない大きな声がして、彼は我に返った。母が泣いている。振向いた彼の顔を見ると、畳につっ伏して泣いた。悲しいというよりも、苦痛にたえないような泣きかただった。
「あんな泣きかたを、私は嘗て見たことがありません。」と彼は話した。
 その時から、彼の頭の中で、父の面影と母の面影とが、全く相対立したものとなって分離したらしい。母の面影でさえ、もう現実の母の顔から遊離してしまった。そして彼は始終その二つの面影を見つめるようになった。一つは悪魔であり、一つは神であったろう。
 こう云えば、彼というのが誰だか、もう君にも分った筈だ。あの、竹山茂樹なんだ。
 竹山の話をきいて、僕はその家を訪れてみた。惨めな生活らしい様子だった。その頃、僕には多少余裕があったので、高利の負債の方は払ってやった。それから、竹山の家が丁度この土地の花柳界のそばなので、懇意な芸妓にわけを話して、平素着の仕立直しだのつまらない物の手入れなどを、出来るだけ頼むように計らってもらった。
 母親の方は、それでまあどうにかなったが、困ったのは竹山だ。学校の給仕も勤まらなくなり、勉強も出来なくなった。別に精神に異状があるようにも見えないが、それかって普通とはちがっていた。初めは家に引込んで、へたな絵ばかり書いていたが、或る時、月末の金をひっさらって、写真器を買いこんできた。それから、君も見せて貰った通りの、その写真マニアだ。好悪の容貌の研究という理論だ。
 写真器をもち歩いて、やたらに人の顔ばかりうつすものだから、警察の厄介になったことも二度ばかりある。母親からの知らせを受けて、僕が貰いさげてやったが、真実の精神病者でないという説明には弱った。一更になお、彼を説服してその所謂研究をやめさせることは、到底僕の力では出来そうもなかった。警察に連れて行かれたりしたために、彼はばかげた幻影を描いて、自分の研究を邪魔しようとしてる者があると想いこみ、始終スパイにつけねらわれてると考えるようになった。
 時機を待つ……或は何かの機会を待つ……それより外に方法はないと思って、それまでのつもりで、ごく僅かなことだが、僕は母親の生活を時々助けてやっている。
 ところで、話は少し前に戻るが、竹山のスパイの幻影とならんで、も一つの幻影が描き出されるようなことになった。

     六

 神明町の崖の上に、もと木戸さんの邸内だったところに、ひどく美事な椎の木がある。それが……ほう、君はもう伯父さんから聞いたのか。実はそのことなんだ。散歩の折、ふと眼についたのだが、僕はとても好きになった。木に惚れこむなんて、おかしいだろうが、古人は、木や石を神にまで祭りあげたことさえある。
 僕はその後度々その椎の木の方へ散歩の足を向けた。百坪ほども枝葉をのばして、こんもりと茂ってる、その若々しい大木を見るのは、何とも云えない喜びだった。するうちに、だんだんその木がほしくなって、そのあたりの更地三百坪余りを管理している人のところへ行き、どれほどの値段かなどと、勿論買えやしないが、試みに聞きに行ったものだ。ところが、その家の息子に顔を合わせると、どうだろう。僕の学校の卒業生で、而も僕が教えたことのある男なんだ。
 座敷に引っぱり上げられて、いろんな話をし、あの椎の木が好きなことなど、笑い話にもち出したところ、先生なら……ということで、土地の買手がつくまでの条件で、椎の木のところ百二十坪ばかりを借りることになってしまった。そして、子供たちがはいりこんで木に登ったりして遊んでいるのが、木にさわるだろうというので、鉄条網をめぐらしたり、植木屋に手入をさしたり……他人から見たら正気の沙汰ではなかったろう。だが、僕はどんなに嬉しかったか知れない。その上、その木が市の指定木になっていて、個人の勝手にはならないので、そんな不自由な土地を買う者もなかなかあるまいから、僕がもし買うようなら、相当の便宜をはかって貰えることにもなっていた。買えるような金は到底なかったが、然し買うことも出来るということは嬉しい希望をもたらしてくれる。
 僕は、恋人にでも逢いに行くような気持で、その椎の木を見に行ったものだ。木戸の鍵をあけて中にはいると、頭の上すれすれに、椎の枝葉が、百坪ほども伸び拡っているのだ。それは青葉の殿堂で、美しい日の光の斑点が天井一杯に戯れているし、凉しい風がかなた田端辺の高台から吹いてくる。
 そして或る時、途中で竹山に出逢ったので、彼の頭にはよい影響を与えるかも知れないと思って、その椎の木のところへ連れていった。果して、竹山の喜びかたは大変なものだった。幹に手を廻してみたり、低い枝に登ってみたり、青葉天井に見入ったりして、ただ感歎し続けていた。新たに眼覚めたようないきいきとした光がその眼にあった。
 僕は彼に木戸の合鍵をやって、いつでもはいれるようにしてやった。
 彼は殆んど毎日行ったらしい。そしてその頃が、彼の頭の調子も最もよかった。
 それまでは無事だったが、実はもう、そんな呑気なことをしながらも、僕の経済状態は破綻に瀕していた。少々てれる話だが、この土地の小鈴という芸妓と、いつのまにか深くなって、もうどうにもならないほどお互に愛し合っていた。そのために、可なりの金を使っていた。そこへ、或る義理合から、可なり多額の借金の連帯保証人となっていたのが、本人の歿落のために、すっかり僕へかぶってきた。学校の俸給と僅かな文筆の収入とでは、もうおっつかなくなった。負債の利子さえも払いかねた。そこで、椎の木――月に三四十円の借地料だが――それをも切りつめようとした。
 竹山には気の毒だが、仕方がないので、そして彼の母親への立場もあるので、嘘を言って、椎の木の土地に買手がついたらしいから、近いうちにあけ渡さなければならないかも知れないと、それとなく暗示してみた。
 竹山の精神は、その暗示にひどく敏感に反応した。そして彼特有の鋭い疑念をこめた眼付で、いろんなことを尋ねはじめた。僕がいい加減にごまかしていると、しまいには彼の方から、椎の木の土地を買おうとしている男が分ったと云いだした。
「原野権太郎という男ですよ。」
 僕はあっけにとられた。何処に住んでるどういう男か分らないが、とにかく原野権太郎という男だというのである。彼はそれを後にハラゴンとつづめて云うようになった。
「大事な木です。ハラゴンなんかに渡しちゃいけません。もしこっちが負けたら、私はあの木に、首をくくってぶら下ってやります。」
 ほんとにやりかねない気勢なんだ。これは危い、と僕は思った。ハラゴンなんかに負けるものかと、そんな気持で、実は君の伯父さんに金を相談したり、他にもあたってみたりした。
 原野権太郎……どこから出てきたか分らないその名前が、竹山にばかりでなく、僕にとっても、一種の対抗的存在となっていった。そして僕は、本気で、椎の木の土地を年賦払いで買い取ろうと考えたりしたものだ。
 そうした気持の動きは、君には分るまいが、恋するものにはよくあることだ。僕と小鈴との仲は、恋愛といってもよかった。お互に始終想いあっていた。僕から出かけて行けないと、向うから僕の家にやって来た。僕たちは飽きるということがなかった。こんなに長く続く恋愛を、僕は嘗て知らない。彼女は固より知識の低い女で、僕たちの間には深い精神的なつながりはなかった。然しほんとの恋愛は、そんなものよりも、気分の融和とか、息の香りや肉体の触感、そうしたところにあるらしい。彼女は僕の経済状態もよく知っていた。どうにもいけなくなったら死のう、そういう気持で二人ともいた。そんな場合だったから、椎の木の土地を買おうなどと僕が本気で考えたのも、決して不自然ではなかったようだ。
 まあ大体そういう情況だったところへ、思いもよらない人物が登場してきた。

     七

 或る朝、小鈴から、竹山茂吉という人を知らないかとの電話だった。僕も驚いた。竹山茂吉というのは、かねてきいていたところによると、竹山茂樹の父親なのだ。
 大体のことを電話できいて、僕はすぐ小鈴にあってみた。
 彼女は前夜、ある大勢の宴会の席に出て、その後で、他の料理屋からかえってきた。行ってみると、前の宴会に出ていた客なのである。黙りこんで酒ばかり飲んでいた。何となくうすっ気味のわるい、もう相当年配の男だった。彼は変にふさぎこんだ様子で、わざわざお呼びしてすみませんと、いやに丁寧だった。それからすぐに、先程の話の竹山という人のことを聞きたいのだとのことだった。
 その先程の話というのが、小鈴の記憶にはよく残っていなかった。――もう宴会も終りに近く、座が手持不沙汰になってきた時、芸者たちだけ四五人集って、なんでも写真の話がでたらしかった。そして写真と素顔とがどうだとかいうことから、小鈴は僕からきいていた竹山茂樹のことを思いだし、写真もばかに出来ないと主張し、百枚近くも生顔をうつしとってる人があると云った。川村さんの知り合いの人だとも云った。ところが、その頃僕は酔っ払うと、しきりに椎の木の話をはじめ、ハラゴンに対する憤慨をのべ、どこのどいつだというような調子だったものだから、それは「椎の木の先生のハラゴンさん」みたいな話だとまぜっ返す者がでてきて、彼女はつい、竹山という実際の人だと口を滑らしたらしい。多少酒のまわってる芸者どうしの饒舌なので、実際のところはどうだったかはっきりしない。
 ただそれだけのことで、竹山とはどんな人かと改めてきかれてみると、小鈴は用心してかかった。が先方は、自分だけの考えに耽っているらしく、実はこうこういう竹山茂樹という青年を探ってる者で、なおよくその「椎の木の先生」に尋ねて貰えまいかと、返事の日を約束し、名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]おいて帰っていったのである。
 もう疑う余地はなかった。僕が自身で逢ってみることにした。
 約束の日の夜、小鈴から電話があると、僕はすぐに出かけていった。
 その時も、先程のあの料理屋なんだ。
 五十年配の男で、短くかりこんだ硬い髪の毛に、さえない白髪がへんに多いのが目立っていたが、眼には妙に沈んだ鋭い光があった。僕はその眼を一目見ると、竹山茂樹の眼をすぐに思いだした。それは狂人と犯罪人との中間の眼だ。次に僕の心を打ったのは、狭い額や、ふくれた頬や、短い※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)など、全体の丸い輪郭と、太い鼻とだった。竹山茂樹の写真の配列法に随えば、最も嫌いな部分に置かれる顔立だった。そして古ぼけた洋服に、金鎖をからませていた。
 そういう男に対して、僕がどんな感情を懐いたか、君にも想像がつくだろう。それは反感に近いとさえ云えるのだった。僕は冷決な態度をとった。先方はばかに丁寧に、わざわざ卑下してるかと思えるほど卑屈だった。然しそれにも拘らず、話は直ちに用件にはいっていった。実子の竹山茂樹に一目逢いたいとの一心で生きているので、もし御存じだったら願望をかなえさして頂きたいと、そういうのだった。
 それから彼は現在の境遇を話した。大阪で女を殺害しかけてつかまった時、その少しまえに犯した詐欺まで発覚して、三年半の刑期をつとめなければならなかった。出所後、京城へ行った。覚悟をきめて働き通し、数年後東京へまい戻って、製菓会社に勤めていた。刑余の身をこうして無事に暮せるのも、其後の正しい決心の賜物だというのだった。そしてただ一目茂樹に会いたいと、始終探しているのだった。
 云うことは正しく、調子は鄭重で、態度は卑屈だった。僕は変にちぐはぐな印象を受けて、初めの反感が消えなかった。それで思いきって――そうでなくとも僕の性質としては同じことをしたろうが――茂樹親子の境遇をぶちまけ、茂樹の精神状態まで話してきかした。
「どうしても、逢ってはいけないものでございましょうか。」と彼は云った。
「時機があると思います。その時が来たら僕が取計らってあげましょう。ただ、今すぐはいけません。」と僕は云いきった。
 その時の僕の態度を、小鈴はあとで、まるで裁判官のようだと云った。然し僕は、彼の過去の行為を責める気は少しもなかった。ただ、現在の彼に対して、何かしら腹に据えかねるものがあった。それは殆んど動物的な感情だったかも知れない。
 それから一ヶ月ばかり、竹山茂吉からは何の消息もなかった。そして突然、昨日電話があって、今晩、先程のあの料理屋で逢った。
 茂樹がもっていったあの拳銃を、君はどう思ったかね。あれは、竹山茂吉から僕に預けた品なんだ。彼はこんな風に云った。
「あの後で、私はいろいろ考えましたが、結局、茂樹に逢うことは到底出来ないような気が致しました。絶望のあまり、今迄の生活も無駄だったように考えまして、朝鮮からもってきたこの拳銃で、自殺しようと思いました。その決心の最中に、たまらなく淋しくなりました。笑って下さい。どうせ死ぬなら、茂樹の手にかかって死にたいと、それが最後の希望になりました。刑務所内で、茂樹にも一度逢いたいと考えたのと、同じ気持でした。母親……前の妻……のことは、殆んど心にかかりませんでした。ただ、茂樹のことだけでした。血のつながりというものは、恐ろしいものです。とてもこのまま一人では死ねないと考えまして、この拳銃はあなたにお預け致します。一目でもよろしいですから、茂樹に逢えるまでは預っておいて下さいませんか。そうしないと、私は自殺ではなく、ほかに何か恐ろしいことを仕出来しそうな気が致します。」
 僕はそこに、常識とか理性とかをのりこして、最後のところまで押しつめられた魂を見てとった。決して手段や策略はなかった。心からの欲求なんだ。一歩の差で、どんな善行にもどんな悪行にもなりそうな堺目なんだ。そして顔には、或る云い知れぬ輝きがあった。僕はそれに逆らわないで、拳銃を預ることにした。
 それでも、彼に対する最初の動物的な本能的な反感は、どうしても消えなかった。それは単に彼の容貌や態度から来るものではないらしい。この点では、竹山茂樹の好悪の研究など、浅薄なものとなる。それよりももっと根深いものなんだ。
 僕は両方の気持に板挾みになって、それでも、彼の慾求に逆らえなかった。近日中に茂樹に逢えるように取計ってやろうと約束した。
 彼が[#「彼が」は底本では「僕が」]帰ったあとで、僕は底の知れない夢想に沈んだ。酒をのんだ。それからふと思いついて、茂樹の母親へ、料理物を届けてやった。あの母親のことを考えると、何かしら気持がやわらぐのだ。
 それから、君達が来て、あの通りの仕末だ。竹山の敏感さにも驚かされる。スパイだのハラゴンだの、見当はちがっていたが、とうとうあの拳銃を見つけてしまった。
 だが、僕はもうわりに楽観している。父親が心をこめたるあの拳銃だ。それが何かの影響を竹山に及ぼすかも知れない。感応だの、霊感だの、そうした超自然的なことは信ぜられないとしても、父親の指跡の残ってる鋼鉄が、或は単に鋼鉄が、彼になにかよい影響を与えるかも知れない。
 愛するものには、そうした空想も許されるだろう。

 川村さんはそこで話をうちきった。
 ここで一寸断っておきたいのは、実は右の話の中途に、小鈴がやって来ていたのである。川村さんの話の腰を折らないために、筆者はわざと黙っておいたが、一時話が途切れて、三人の間に短い対話があった。小鈴は良一に向って、いきなり、先日は……と挨拶をした。川村さんの家の時とちがって、彼の表情がひどく自由で活溌だった。がやがて、川村さんはまた話を続けて、小鈴の存在をまるで気にかけない調子に戻った。小鈴は黙ってお酌をしていた。
「愛する者には、そうした空想も許されるだろう。」と最後に云って川村さんが口を噤んでしまった時、良一は実に変な気がした。小鈴はじっとうつむいていた。額に勝気らしい嶮があり、口もとに大まかな愛嬌があって、すずしい小さな眼をした、大柄な顔立だったが、その真白な顔が電燈の光を斜に受けて、何かじっと考えこんでいるらしいのを見ると、良一は気懸りになった。竹山たちよりも、川村さんや小鈴の方が何となく危険だという気がした。
 川村さんはやはり竹山のことを考えていたらしく、ふいに云いだした。
「どうなろうと、大したことはあるまい。近日中に逢わしてやろう。その時は、牧野君もいっしょに来てくれないか。一人でも多く立合った方が、互の打撃が少いかも知れない。うまくいったら、あとでゆっくり逢えばいい。まあなるようになるだろう。人の運命というものは、大きな深い河に流されてるようなもので、自然の勢に任せるより外はない――とそういうことを、竹山の母親は云った。そうだ。こうなってみると、あの母親が一番えらいような気がする……。」
 その時、小鈴が不服そうな顔をして云った。
「だけど、いくじがないわね。」
「そりゃあ、君たちみたいな稼業をしてる人とはちがうさ。」
「それもそうだけれど……。」そして彼女は一寸考えた。「おかしいわ、あの竹山のお父さんの方、どうして、前の奥さんには逢おうと云わないんでしょう。あれでも、極りがわるいのかしら。」
「そんなことはないさ。だが、実はそれなんだ、問題は……。細君にはどうでもいいが、子供には逢いたい……そこが何だかちがってる。」
 言葉がとだえると、良一は落付けなかった。それをみて、小鈴は酒をすすめた。
「そうだった、今日は僕の回復祝いだ。出かけよう。知ったところをみんな廻ってやるんだ。」
「だめよ、もう遅いから。いけませんよ。」
 小鈴は頭ごなしに押えつけようとしたが、川村さんは駄々をこねだした。話をしながら飲んでいたその酒が、話がすむと共にいちどに発してきたものらしい。小鈴は叱るようにしてなだめるし、川村さんは駄々っ児のようにむちゃを云いだした。
「ごらんなさい、牧野さんが笑ってるじゃありませんか。」
「ははあ、牧野君か、飲んでくれよ、僕の回復祝いだ。」
 良一は川村さんのそんなところを初めて見たし、一昨日まで高熱でねていた川村さんのことを思いだしたりして、不思議な気持になると共に、いつしかもう酔っていた。そして自動車で家へ送りとどけられたのは、三時近い頃だった。

 十日ばかり過ぎて、良一は川村さんから速達の葉書を受取った。――この葉書読み次第、電話をかけてほしい。とそれだけの、如何にも川村さんらしいものだった。
 良一は竹山のことが気になっていたので、近くの自働電話へかけつけていった。川村さんが電話へ出て、隙だったらすぐに来いとのことだった。
 行ってみると、川村さんは二階の書斎にねそべって、何の屈託もなさそうな様子をしていた。小鈴が来ていて、やはりこの前のような束髪で、はでではあるが素人らしいみなりをしていた。彼女も朗かな顔付だった。
「やあ、こないだは……。家に帰って、叱られやしなかったかい。」
 むっくり身を起した川村さんは、言葉の調子にも似ず、そして屈託のなさそうな様子にも似ず、何となく元気がなかった。
「実は、竹山のことを君に報告しようと思って来て貰った。思いがけない結果になったものだから……。」
 その結果というのが、良一には想像もつかないことだった。――
 あれから、川村さんはどういう風に竹山父子を対面させようかと思いあぐんで、一日一日延していた。すると、この前の日曜の午後、竹山茂樹がやって来た。
「先生、研究が完成しました。すぐに来て下さい。」
 その、語尾が曇って、眼は全く据ったきりで動かなかった。そして靴のまま座敷にあがりこんでいた。
 川村さんは首を傾げたが、とにかく、訳をたずねてみると、最も嫌いな最後の一つの顔が、写真にとれたというのだった。而も何枚もとれた。大勢のスパイが出て来て邪魔しようとしたが、遂に勝利を得た……。
 川村さんはぎくりとした。竹山を連れて自動車を走らせた。
 家の中はしいんとしていた。上りこむと、母親が真蒼な顔をして、彫像のように坐っていた。
「どうしたんですか。」と川村さんは声をかけた。
 彼女はなかなか返事も出なかった。恐らく心は深い淵の中へでも落込んだようで、浮出してくるのに骨が折れたのであろう。ようやくにして彼女は挨拶をして、それから話し初めた。
 その日は、穏かな好天気だった。竹山はいつのまにか、母親が隠しておいた例の写真器をとりだして、ひそかに出ていったらしい。そして二三時間たつと、表から勢こんでとびこんできた。
「お母さん、喜んで下さい。研究が出来上りましたよ。これから川村先生をよんできて、いっしょに現像するんです。」
 そして彼は写真器を自分の室の卓子の上において、また飛びだしていった。
 母親は不安な予感に駆られた。騒ぐ胸を抑えてじっとしていると、茂樹が出ていってから暫くして、のっそりはいりこんできた男があった。一目見て、彼女はあっと声を立てた。夫の茂吉だった。
 茂吉はつっ立って、彼女を見据えていた。彼のうちにはひどく狂暴なものきり認められなかった。
「お前は、茂樹を、よくも立派に育てたな!」
 その一言が、彼女のあらゆる感情を押し潰してしまった。
「茂樹の居間はどこだ?」
 彼女には返事が出来なかった。身動きも出来なかった。
 茂吉はつかつかと横手の室にはいっていった。物をぶっつけ破壊する激しい音がした。それから暫くひっそりとなって、やがてそこらをかきまわす音が続いた。
 長い時間がたったようだった。声をかけられて彼女が顔をあげると、茂吉は死人のような顔色でつっ立っていた。手に小さな拳銃と小さな紙箱とを持っていた。
「これはどうしたんだ?」
 彼女もびっくりした。それはまるで見覚えのないものだった。が彼女がもっと驚いたことには、茂吉の声はもう張りがなくて震えていた上に、拳銃をもってる手がわなわなとおののき、その眼から、はらはらと涙が流れだしたのだった。彼は拳銃をもってる手の甲でその涙を拭いた。そしてなおつっ立っていた。膝頭の震えるのが見えた。それから突然、彼はぎくりとしてあたりを見廻し、逃げるように出ていってしまった。最後に振向いて唇を動かしたようだったが、彼女の耳には何の言葉も達しなかった……。
 彼女は一人残されて、全身麻痺したように坐り続けていた。そこへ川村さんと茂樹とがはいって来たのである。
 なお、後できき合して分ったことであるが、竹山の家から程遠からぬ処で、幾人もの人が不思議な光景を見たのだった。そこの広い街路の片端で、五十年配の男が、突然棒のように立止った。いつまでも棒のようにつっ立って、真直のところを凝視し続けている。その視線を辿ると、多少その辺で気が変だと知られていた竹山茂樹が、コダックを胸にかかえて、つっ立ってる男を写真にとってるのだった。一枚写し終えると、此度は方向をかえて写し、二三枚の写真をとった。その間、男は全く棒のようにまた殉教者のようにつっ立っていた。最後に茂樹は、男の方へ一瞥をなげて走りだした。男もその後を追って駆けていった……。
「僕がぐずついてたので、竹山の父親はまちきれなくて、やたらに歩き廻ってたものと見える。」と川村さんは云った。「然し、二人を対面さしたところで、結果は同じだったかも知れない。或はもっと悲惨な結果になったかも知れない。竹山の頭の中の幻影は、もう父親を見分けることを許さなくなってたらしい……。」
 川村さんが竹山の母親から大体の話をきいてる間、そしてその後になっても、竹山は自分の室にはいったきり出て来なかった。見にいってみると、写真器の破片がちらかってる中に、竹山は茫然と坐りこんでいた。身体が硬直していた。精神までも硬直していたらしい。じっと眼を据えたきりで、誰が何と云っても、もう一言も口を利かなかった。それでも、手を引いてやると、おとなしくついてくるのだった。
 その夜、竹山茂吉が、アパートの自分の室の中で、拳銃で心臓を弾ち貫いて自殺したことが、中一日おいて分った。最後の苦悶のうちにも握りしめていたらしい拳銃が、自殺を立証した。遺書めいたものは何も見当らなかった。
 それらのことを、川村さんは話し終えてから、良一の意見を求めるもののように、しばらく口を噤んでいた。良一は言葉が見当らなかった。川村さんは煙草をふかしながら云った。
「今になって僕は、竹山の父親に対する僕の本能的な反感の理由が、ぼんやり分るような気がするんだ。彼は行きづまってから、女と出奔した。女から裏切られると、それを殺そうとした。それから子供に無理にも逢おうとした。そして遂に自殺するようなことになった。ところが、僕なら、最初の第一歩で自殺してるね。それが、僕のようなインテリの弱さかも知れないが、また強みでもあり、朗かさでもある。要するに性格の相違だ。」
 良一は、川村さんの冷いところと温いところに、同時にふれたような気がした。それと共に、もし小鈴との愛がなかったら、川村さんは竹山の事件をどう感ずるだろうかと、考えてみるのだった。やはり川村さんも、自分の現状を超越した心境にはなり得ないのであろう。川村さんと小鈴との関係を新たに見直さなければならないと、良一は思うのだった。
 ただ、良一が安心したことには、皆でこれから椎の木に別れを告げに行こうと、川村さんは云いだした。竹山茂樹の憎しみの幻影がこわれると共に、原野権太郎の幻影もこわれてしまったらしい。川村さんはしみじみと云うのだった。
「椎の木などは、実はどうでもいいのだ。竹山があんまりこだわるものだから、僕もつい変な気になったが、自然の美は、個人で所有すべきものじゃないだろう。」
 川村さんも小鈴も良一も、自動車の中では無言だった。椎の木の下へ、木戸をあけてはいっていっても、誰も余り口をきかなかった。日は西に傾いて、椎の木の影が崖下に長くのびていた。昔は田園だった低地の家根並の彼方、田端一帯の高台は、正面に日光を受けて、明るく暖く輝いていたが、椎の木の下はとっぷりと影になって、ほろろ寒かった。良一はその椎の木をさほど立派だとも思わなかった。
「ここは、朝日の光を受ける時でなくてはだめだ。」と川村さんは云った。
 それが、別れを告げる言葉のように響いた。短い間で、三人はそこを出て、待たしておいた自動車に乗った。そして上野の池の端の方へ、支那料理をたべに行った。
「今日は贅沢してもいいが、明日からはずっと倹約だ。」と川村さんは云って笑った。「これからはもう、君の伯父さんにも狂人だと云われなくともすむだろう。」
「結婚なさるんですか。」と良一はとっさに尋ねた。
 川村さんと小鈴とは眼を見合って、晴れやかな微笑をかわした。
「すぐそれだから、君たちには困るよ。もっと自由な考え方をするんだね。」
 良一は何故ともなく顔を赤らめた。そしてまた、川村さんの気持が分らなくなるのだった。

 竹山茂樹は、施療の精神病院にはいった。父親の遺骨は、故郷の山形へ送られ、母親は、川村さんの家で、家政婦として働くようになった。そして神明町の椎の木は、それから数年後、現在も、天然記念物として市の管理に属し、生々としている。

底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「経済往来」
   1934(昭和9)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年1月12日作成
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