私は今茲に作品の倫理的批評に就いて一二のことを云ってみたい。此の頃大分倫理的批評ということが人の口に上ってきたし、また将来も益々深く進んでゆかなければならないと思うので。但し茲で云う所はほんの雑感という位のものに止めておく。
 私はよく、作者の態度が徹底していないとか、体験が足りないとか、真の苦しみ方が足りないとか云う言葉を聞く。確かに、我国の作者を見廻してもまた私自身の作品を顧みても、そういう欠点は随分と見出し得る。然し乍ら、評者がほんとうに苦しんだか、ほんとうに体験したかという言葉は、聞くことが甚だ少い。これはどういう理由であろうか。又実際我国の批評家を見廻す時、その少しの例外を除いては、彼等が果して作家ほど深い倫理的試練を経ているかどうかに就いては、私は随分疑問を持っている。勿論作家と批評家とは可なり異る立脚地に立つものであるが、問題が倫理的の範囲内に止まる場合には、この言は正当に許さるべきであると信ずる。私は先ず第一にこの疑問を発しておいて次の問題にはいりたいと思う。
 或る作品の主人公なり其他の人物に対して倫理的批判を下すのは普通ありがちのことである。私は別にそれに異論を挟まんとする者ではない。然し私の求むる所はも一歩進んだ、も一歩深くつき込んだ批評である。
 私は、如何に客観的の作品にしても必ずその底に流るる作者の主観が存するものと信ずる。これは作者の見方なり取扱方なりから自然ににじみ出す作者の人格である。人格と云って悪ければ、作品のうちに吹き込まれて漂っている作者の生きた息吹きである。即ち作品中に取扱われた人物なり事件なりの背景をなし底流をなす作者の主観である。私は、その主観に対する倫理的批評をも求めたいのである。そしてそういう批評こそ本質的に作家を導き、また芸術を導くものであると信ずる。苦しい自然主義の運動もその真の本質に於ては、こういう作家の主観を排しなかったのみでなく、一面より云えば却ってそれを高調したのであった。そしてまた芸術の本質は、こう云う境地にまで足をふみ入れた人々によって導かれて来たのであった。
 然し乍ら私が我国の批評家に対して多少の杞憂を懐くのは、作品の主人公に対する倫理批評と作家の主観に対するそれとが混同されんとする傾きがありはしないかということである。従ってまた、その傾向よりして余り喜ばしくない種類の創作を助長しはしないかということである。
 例えば或る自叙伝的な作品の主人公に対して倫理的批評をするとする。そしてその人格的欠陥なり弱点なりを抉出するとする。そしてそれを以て直ちに作者の主観そのものに矛を向けるとする。その時作者が、「あれはああいう人物を描写した作だ。」と云ったならば、評者は何と答えるだろう。これは作者の大なる手腕の勝利だ、そして批評者に対する致命的な反語だ。然しそれはそれとして、その裏を返して云うと斯ういうことになる――或る他の作品に対してその評者はこんなことを云うだろう、「この作品は如何にもまずい。丸で何にも描かれていない。然し其処には作者の力強い主観が現われている。貴い作者の人格の努力がある。それでこの作は救われている。」此の言は或る特別の場合にはその作家に対する親切な激励となる。然し多くの場合には、その作家に危険な影響を与える。
 茲で一寸芸術に対する私の考えを述べなければならないが、それは長くなるから、先ず概略を云うと、私は芸術に或る点まで具象性と独立性とを要求する。芸術は丸彫にされたものでなければならない。(この丸彫という言葉はいつか武者小路氏によって使われていたように記憶する、但し茲に私が謂うのと同じ意味でかどうか覚えてはいないが。)換言すれば、芸術は単なる感想ではない。思想のみを内容とする芸術を私は信じない、芸術のうちには思想と共にそれを容るる血と肉とがなければならない。即ち丸彫にされたものでなければならない。それ自身に具象性と独立性とを有するものでなければならない。そしてその背景に、真に見えざる背景に作者の主観が存するのは前にも述べた所である。即ち芸術は作者の主観を担いながらそれ自身で立っているべきである。
 然しながら、私と雖も真の祈祷的作品、換言すれば作者が自己の血と肉とをそのままに投げ出して其間に何等間隙のない作品、その存在を肯定し得る、その場合には作品の主人公は即ち作者たり得る。然しこの場合に於ても、否特に、その作品は丸彫にせられたものである。それは自己を丸彫にしたものだ。そしてかかる作品に対してはじめて、主人公に対する倫理批評は作家に対するそれと一致し得る。
 即ち何れにしても、深くつき込んで見た倫理批評は、本当に作家をいい方に導くものである。特に近頃となえらるる人道主義なるものは、もしそういうものがあるとしたら、かかる風潮によって益々しっかと根を張るべきである。私は我国の批評家に対して、作家と同じく真剣に苦しむことと、作家にまで迫ってゆく根本的な倫理批評とを求むる。それとともに私はまた作家に向っても、倫理批評を絶するほどの作品を求めたい。
 例えば、ドストエフスキーの或る作品は真に倫理批評を絶したものと私は信ずる。其処にはもう倫理を絶した大きい深い輝きが在る。然しかく云うは批評家を軽蔑するのではない。もし作家が其処まで進んだ暁は、私はまた新たに批評家に向って求むる所のものが在る。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
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