秋と云えば、人は直ちに紅葉を連想する。然しながら、紅葉そのものは秋の本質とは可なりに縁遠いことを、私は思わずにはいられない。
 楓の赤色から銀杏の黄色に至るまでのさまざまな紅葉の色彩は、その色彩からじかに来る感じは、しみじみとした専念の秋の感じとは、よほど距っている。都会にいてはそうでもないけれど、一歩田舎に踏み出してみると、山裾の木立の紅葉や、田畑の熟しきった黄色い農作物や、赤々とさす日脚などは、それをそのまま抽出して観ずる時には、寧ろ残暑に属すべきもので、真の秋の領域ではない。試みに、吾々の住宅や居室を、それらの色彩の何れかで塗りつぶすとしたならば、吾々の生活気分は、可なりに落付のないものとなることであろう。そしてこの落付のなさは、秋の頼りない気分とは、全く別種のものである。
 紅葉に秋の気分を与うるものは、紅葉のうちの活力の欠如である。私は茲に、緑葉が何故に紅葉するかという、科学的の説明を持出したくはない。ただ紅葉に活力のないことだけを云いたい。かりに、野山の紅葉が、あのままの色彩で生々と生育する世界を想像してみれば、それが秋の世界だとは誰も云い得ないであろう。活力のない紅葉なればこそ、秋にふさわしいものとなる。秋の山野を冠する赤や黄の色彩は、房々とした少年の金髪ではなくて、生活をしつくした初老の人の赤毛である。
 生活力のない紅葉は、一夜の冷風に散ってゆく。そしてこの落葉こそ、本当の秋のものである。庭に散り落ちる桐の一葉から、林の中に舞い落ちる無数の木の葉、または半ば霜枯れた野の草葉に至るまで、悉く秋の気分に濃く塗られている。かさかさと鳴る落葉を踏んで林中の小径を辿る時、人は最も深く秋を感ずる。
 何処からともなく流れ来る微風に、常緑樹の病葉や落葉樹の紅葉は、何等の努力もなく如何にも自然に、梢から地上へと舞い落ちる。地のものは地へと大自然の声が囁く。而も地面へ落ちついた枯葉は、なお其処に安住し得ないで、何処ともなく風のまにまに吹き散らされる。その方向を辿って林から出れば、収穫後の広々とした田畑が、露わな肌を眼の届く限り展べていて、霜枯れの叢からは、実をつけた雑草の茎が、淋しげにすいすいと伸びている。そして人の心も、己自身の肌寒い淋しさに駆られて、遠い地平線のあたりへとさ迷い行く。その地平線の彼方には、淡い夢のような憧れの世界がある。
 秋は淋しい、というのは真実である。秋はあらゆるものの外皮を、不用なものも必要なものも、凡ての外皮を、自ら振い落さしめて、万物を裸のままでつっ立たせる。秋を淋しくないと云う者は、衣服を脱いで真裸でつっ立つ折の、妙に佗しい頼り無い淋しさを、鈍感のためにか或は厚顔無恥のためにか、身に感じないていの者であるに相違ない。
 かかる落葉の――剥脱の――世界に、更に特殊の気味を添えるものは、淡いながらに鋭い日の光である。やや南方に傾いた日脚と北から来る冷かな微風との為に、その光は弱く淡くなりながらも、極度に澄みきった空と大気とのために、非常に鋭くじかに射してくる。宛も真空しんくうの中に於けるがように、何物にも遮らるることのないその光が、如何にくっきりとした日向と影とを、地面の上に投げてるかを見る時、人は殊に深く秋を感ぜさせられる。落葉の上の木立の影、田の畝の草葉の影、野の上の鳥の影、そして狭苦しい都会の中にあっても、苔生した庭の上の軒影、障子にさす植込の枝影、それらのものが、明るい日向ときっぱり区劃せられてるのを見る時、人の心には云い知れぬおののきが伝わってくる。
 このおののきこそ、秋が持ってる本来の感じである。静まり返り澄み返ってる剥脱の世界に、まざまざと現出せらるる明暗の区劃は、じかに人の心に迫ってきて、真裸な心のうちにも、くっきりとした光と影とが投げられる。そして人は知らず識らずに、自分の心を凝視する専念のうちにはいってゆく。純なるもの、不純なるもの、澄んでるもの、濁ってるもの、それらがきっぱりと形を現わしてくる。
 斯かる赤裸な凝視の眼は、それ自身の性質上、未来に向けられないで、ただあるがままの自分自身――過去を荷ってる現在の姿にのみ向けられる。そして自然も人も、秋の世界全体が、自分の赤裸な姿を見守る専念のうちに沈黙する。
 この専念の沈黙、それを堪えることが出来、それを真に味感することが出来る者にとってのみ、秋は淋しくも佗しくもない。其処にはただ、清浄なる瞑想のみがある。遠い地平線の彼方へまでさ迷い出る魂が、そのままの憧れを懐いて胸の中に戻ってくる。そして健かな清い感激が、あらゆる雑念を吹き払って、自己の存在感――じかに胎にこたえる存在感――を強調する。
 こういう意味に於てのみ、秋は讃美すべきである。そして、修道院の祈願を思わせるような爽快な夜明と、霊的な恋愛を思わせるような月明の夜とは、何等の卑俗な気分にも濁らさるることなく、そのまま人の心に受け容れられる。
 秋は、凝視の季節、専念の季節、そして、自己の存在を味うべき季節である。秋の本当の気魄に触るる時、誤った生存様式――生活――は一たまりもなくへし折られてしまうであろう。その代りに、正しい生存様式――生活――は益々力強く健かに根を張るであろう。春から夏へかけていろんな雑草に生い茂られた吾々の生は、秋の気魄に逢って、その根幹がまざまざと露出されて、清浄な鏡に輝らし出されるのである。秋に自己を凝視してしみじみとした歓喜を味い得る者こそは、幸なる哉である。
 秋には、狭苦しい書斎から、もしくは、蒸し暑い工場から、戸外の大気中に出でて、野や山に遊ぶがよい。遊んでそして、地面の上に寝そべるがよい。大空の下大地の上に、ぽつりと投げ出された孤独な自己を、あくまでも見守りそして味うがよい。――然しながら、その時真に秋を讃美し得る者が、果して幾人あるであろうか。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
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