小説の書かれたる内容が問題となってもいい位に、吾国の小説界は進んでいると思う。またそれを問題となさなければならない位に、小説界は或る壁に突き当っていると思う。

 私は今、「書かれたる内容」と云った。このことについて、一言しておく必要がある。
 如何なる材料を取扱おうと、それは作者の自由である。愚劣なる人物を描こうと、或は賢明なる人物を描こうと、それは作者の勝手である。然るに、作品の批評に当って、作中人物と作者とを混同するが如き誤謬が、往々にして見られる。作中人物が、その境涯に於て作者と非常に異る場合には、かかる誤謬は殆んどない。けれども、年齢に於て境遇に於て、両者の間の距りが少なければ少ないほど、かかる誤謬が益々多くなる。この誤謬に陥った批評家は、作中人物が利己主義者なるの故を以て、作家に利己主義の態度を非難する。作中人物が神経衰弱なるの故を以て、作家をも神経衰弱だとする。これは宛かも、某々の作品は事実かと作者に尋ねるが如きものである。もし一歩進んで、作中人物が狂人なるの故を以て、作者をも狂人なりとしたならば、その愚さに呆然たらざる者はあるまい。
 無理解な批評家をかかる誤謬に陥らせるのは、一方から云えば、作品の優れたる所以となる。なぜなら、作中人物が実在の作者と同一視せられるまでに、生々と描写せられてるわけになるから。然しながら、理解ある批評家をかかる誤謬に陥らせるのは、一方から云えば、作品に欠陥ある所以となる。なぜなら、作中人物に対する作者の眼が、徹底を欠いてるわけになるから。
 創作中の作者には、二つの働きがある。一は描出の働きであり、一は批判の働きである。
 作者は、あくまでも作中人物を生かしぬこうと努める。それがために、その人物に独自の個性を与えんとする。この個性は、作者が勝手に手を触るることを得ないものである。作者は、その人物が狂人ならばあくまでも狂人たらしめ、賢者ならばあくまでも賢者たらしめんとする。即ち狂人として描き、賢者として描く。この時作者は、作中人物になりきると云ってもいい。かかる働きを「描出の働き」と、かりに私は名づけたい。そして、この描出の働きの結果が、即ち作品の「書かれたる内容」となる。之を具体的内容と云ってもいい。
 作者はまた一方に、絶えず作中人物を見守ってゆく。その一挙一動を見守って、それに或る意義を持たせてゆく。かかる作者の眼は、作中人物の意識しない底にまで透徹せんと努める。また透徹しなければいけない。なぜなら、芸術品は写真であってはならないから。かかる眼の働きが、真に作品の深さと価値とを生ぜしむるのである。作者が豪ければ豪いほど、この眼が益々強く深く働く。かかる働きを「批判の働き」と、私はかりに名づけたい。そして、この批判の働きの結果が、即ち作品の「書かれざる内容」となる。なぜなら、右の批判は、決して文字に現わすべきものではないから。もし之を文字に現わす時には、その作品は単なる感想文もしくは批評文となる恐れがある。芸術品に最も忌むものは、具体的表現を取っていない文字である。(一人称もしくは自叙伝的作品に於ても、之は真実である。なぜなら、それが一個の創作である限りは、作者と作中人物との区別ははっきり生ずるから。)こういう批判は、厳密に云えば、行と行との間に、もしくは作品の底に、暗示さるべきものである。それ故に、作品の「書かれざる内容」は、之を暗示的内容と云ってもいい。
 一の作品の、具体的内容と暗示的内容とを弁別するのは、最も困難なことである。低級な作品に於ては、本来よりして両者の区別がないし、また優れたる作品に於ても、両者は一体をなしているものであるから。それを両者に分解するは、優れたる批評家の眼力に俟つの外はない。然し私は、論旨を進める便宜のために、今かりに両者を区別してみた。

 さて、本論の最初に立ち戻ってみる。作品の書かれたる内容を、即ち具体的内容を問題となすべき時期に、吾が文壇は辿りついていると私は思う。
 一般的に云って、表現の技巧が可なり進んでることは事実である。云い換えれば、文壇の水準線が高まったのである。毎月発表される多くの作品を見ても、その技巧の方面に於て大なる欠陥を有するものは、極めて稀である。所謂新進作家の作品を見れば、この感が殊に深い。更に、各種の投書的作品を見ても、これは明かに感ぜられる。それらの作品は、みな可なりうまいものであり、更にその「うまさ」なるものが、表現の技巧のうまさであることを考える時、吾が文壇の技巧的水準線が、如何に高まったかは明かであろう。実際文壇に出ている多くの作家は、その表現の技巧に於て、可なりに確実な腕前を有している。大概の材料はこなせるだけの手腕を有している。
 また一方に、批評界の方では、表現の技巧を以て作品の価値の標準としている。技巧の巧拙を云々することが、批評の唯一の役目であるかの如き観がある。近頃になって、作の内容に対する論が多少現われてきはしたけれども、それは暗示的内容と具体的内容とを混同したものが多く、そして結局は、やはり作者の表現的手腕が最後の評価対象となりがちであった。
 かく表現の技巧を第一の問題とし、作者の方でも表現の技巧を磨くことに主なる努力を重ね、而もこの技巧が一般に可なり進歩してきた、その結果は何であったか。それは現に月々の作品が説明している通りである。即ち、凡庸事を内容とする巧なる作品の過多である。作者の方では、なるべく手頃な材料をなるべく巧に描かんとする。評者の方では、描写の巧拙を以て作品の価値を律せんとする。両者相俟って、玉砕を捨て瓦全を取らんとするに至る。かかる状態が続く時には、文壇は遂に行きづまることを免れない。なぜなら、技巧的の進歩のみあって内容的の進歩がないから。これだけの事件もしくは人物を巧に描いただけだという歎声は、何に由来するかを考えてみるがよい。それは行きづまった一つの証拠でないか。
 かかる行きづまった状態から文壇を救う方法は、作品の具体的内容を問題とすることである。具体的内容のみを問題とするの危険を認むることに於ては、私は人後におちないつもりである。然し一般に技巧の進歩を来した吾が文壇は、進歩の余り一の扉にぶつかってる吾が文壇は、具体的内容を問題としてもいい位の境地にまで、辿りついてるのであると私は思う。特に大家連に於て然りである。
 表現の技巧が或る程度に進歩する時、それから先の作品の価値は内容の深浅によって定まる。Aの事件もしくは人物は、如何によく描写されようとも、要するにAの事件もしくは人物である。Bの事件もしくは人物についても同様である。そして意義的価値に於てBがAよりも優る時には、Bを内容とする作品がAを内容とする作品に優ることは自明の理である。勿論Aを内容とする作品を書くも、Bを内容とする作品を書くも、それは作者の自由である。然しながら、独立した作品としての見地に立つ時、また評者もしくは読者としての見地に立つ時、B内容の作品はA内容の作品の上に位する。そして、真に自覚ある作者ならば、なるべく上位の――有意義な――作品を書かんとする位の精進は、有する筈であり、有すべきである。かくて、作品の具体的内容が問題となり、具体的内容の進歩が企図される時、文壇は行きづまるということを知らず、常に溌剌と進んでゆくであろう。

 この小論の第一の論旨は、右のことで尽きる。然しこれは常識的な議論である。更に論旨を、もう一つ深い所へ進めてみよう。
 私は前に、作品の具体的内容と暗示的内容とをかりに区別してみた。けれども実際に於ては、この両者は分つべからざる関係にある。両者一体をなして、作品の内容を形成している。ただ作品によって、両者結合の状態が異ってくる。所謂通俗的作品にあっては、殆んど具体的内容のみである。それが芸術的になればなるほど、暗示的内容が多くなる。更に、芸術的進化が大なれば大なるほど、暗示的内容が具体的内容として現われてくる。
 真の芸術家にとっては、あらゆる事物人物もしくは現象は、それが依存しまたそれに内在している所の、より広きより深きより大なるものに対する、一の門戸である。芸術家はこの門戸を通じて、その奥底のものへまで探り入らんと努める。探り入った結果、それらのものは一の象徴として彼の眼に映ずる。偉大なる芸術家にとっては、一本の樹木の枯死は、「死」の象徴として現われる。一本の手は、「人間」の象徴として現われる。そして彼が、かかる象徴としての事物人物、もしくは現象を描く時には、それに芸術的表現を与える時には、彼の眼が見た暗示的内容は具体的内容となってしまう。これを私はかりに、現化(インカーネーション)と名づけたい。暗示的内容が具体的内容として現われると前に云ったのは、即ちこの現化の謂である。
 芸術品の本質的な価値は、この現化の多少によって定まる。(云う意味が、象徴主義の芸術を主張するのでないことは、行き方に於てはその反対でさえもある場合があることは、現化の意義によって分ると思う。)この現化されたるものこそ、作品の熱であり力であり気魄であり魂である。そしてこの現化の領域を拡げることが、芸術家としての第一義的の努力であらねばならぬ。
 かかる努力を刺戟するものは、作品の具体的内容である。芸術上の現化(インカーネーション)は、表現の技巧と啓示的内容とより来るものではあるけれども、技巧論は単なる描写をのみ対象としがちであり、暗示的内容論は単に作者の眼をのみ対象としがちである。表現の技巧と作の暗示的内容とが切り離される所には、現化は決して起り得ない。深い意味に於ける具体的内容が問題となる時、初めて、作の魂たる現化が問題のうちに完全に取り入れられる。
 以上で私の論旨は尽きる。忙中忽卒に筆を走らせたものであり、また出来るだけ簡略にとつとめたものであるから、文意の明瞭さを欠いではしないかを恐れるけれども、好意ある読者には分って貰えることと思う。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月8日作成
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