私は初め、父と母とのことを書くつもりだった。そして愈々ペンを執って原稿紙に向うと、それが書けなくなった。
 父と母とに対する私の感情のうちには、何かしら神聖なるものがある。その神聖なるものが、父と母とのことを書くのの妨げとなる。父と母とを自分からつき離して客観的に眺め、具体的に描写し、それを公表する、そういったことを今の私は為し難い気持でいる。或は今後、父と母とのことを、父と母とに関係ある何かのことを、小説や随筆などの中に、書くかも知れないしまた書かないかも知れないが、今の気持ではとても書けないしまた書きたくもない。
 私の父と母とは、私のものである。而も私の胸の中の最もよき部分に、手を触れたくない神聖な奥殿に、祭りこまれてるものの一つである。畏敬すべき尊いなつかしい記念、そういった感じのするものである。それに手をつけてあばき出すことは、今の私の本意ではない。
 私情をすてて赤裸々な心で物を書くことが、芸術にたずさわる者の態度であるべきことを、私は知らないではない。然しながら、そういう態度の上に――もしくは奥に、強く燃えてる熱意こそ、芸術の生命であることを、私は知らないではない。そして私のそういう熱意は、今の所では父と母とのことを書く方へ向ってこない。
 それ故に私は、父と母とのことを書くのを止めて、父と母とに対する私の感情を書くことにする。それならば書ける、何の妨げもなしに書ける。そして、父と母とのことが書けない理由をくどくどと述べた所以も、それがやがて、父と母とに対する私の感情の一部をなすものであるからである。
 私は自分の一身上のことについて、父母と真面目な話を交わしたためしが、殆んどない。思想とか感情とか、そういった方面についても、父母と真面目に語り合った記憶がない。それは、十五歳の時中学校にはいってから、父母の膝下を離れて暮してきたために、私はいつまでも父母にとっては甘えっ児にすぎなかったからでもあろうが、単にそればかりでもなかったように思われる。親と子という関係に対する、余りに微細な鋭敏な感情が、私のうちに常に働いていたために、また掌中の玉を愛しいたわるというような、盲目的な一図な愛情ばかりが、父母のうちに常に働いていたために、私達の間には真面目な話題が顔を出さなかったものらしい。
 それが、今になって考えると、非常に淋しく思われる。然し父母にとっては、私よりも更に淋しかったろうと思われる。
 私は兄弟も姉妹もない全くの一人子である。それなのに、田舎の父祖の業を継ぐことをしないで、中学を卒業するとすぐ東京に出で、文学の方面に進み、東京で暮すようになった。そんなことが、何等の障害もなく、全く私一人の意志で、すらすらと運ばれてしまった。然しながら、私を故郷に引止めたい感情を、母は多分に持っていたろうし、また、政治や実業などに関係ある生活をしてた父は、文学なんかより法律などを私にやらせたかったに違いない。それなのに、父母と私とは、未来の抱負とか目的とか生活とか、そんなことに就て真面目に語り合ったことがなく、凡てはただ一二言で片付いてしまって、私は自分の思う通りに進んでき、父母はそれを黙って許してくれた。
 中学を卒業して東京に出てくる時、または、大学を卒えて東京に定住する時、父母と私とは、故郷の清らかな河原なんかに、夕凉みのそぞろ歩きをすることもあった。そんな時、夕映の空や河原の野花などを眺めながら、父母は私の今後の生活について話したかったろうし、私も自分の志望や目的などについて話したかったが、然しただ一二言のうちに互に首肯し合って、つまらないことばかりを話題にした。私が結婚する時だってそうだった。
 かく暗黙のうちに、父母は私に凡てを許し、私は自分一人で勝手な道を進んできた。それが、今になって振返ってみると、非常に有難いなつかしいことのようにも思えるし、何だか淋しいことのようにも思える。
 それは、理解などということを超越した、ただ心と心との繋がりだった。父母は私を広い深い慈愛のうちに包み込んで、凡てを私の意のままに任してくれたし、私は父母の慈愛に甘えながら、一人で勝手なことばかりしてきた。人と人とのこうした関係を、私は二度と経験したことがないし、また今後も二度と経験しそうには思われない。
 そして、私が今感謝の念に堪えないのは、そういうことによって私は、自分の生活の全責任を自分で負うという力強い感じを、胸の底にしっかと得てきたことである。
 父に対する感情は、常に私を鼓舞し力づけてくれる。
 私は実は、学校を卒えても父母の財産で生活していって、除々に創作などをする、そういった呑気な気持でいた。所が、家庭のことなんかには全く無頓着だった私は、学生生活を終える間際になって、父はいろんなことに失敗していて、財産どころか莫大な負債を持ってるのを知った。それで私は、学校を出るとすぐに自活しなければならなかった。先輩の紹介で学校の教師をし、傍ら創作をしていった。そしてなお金が足りないと、可なり向う見ずな借金をした。随分苦しい生活だった――今でもそうであるが。それでも私は呑気で且つ力強かった。莫大な負債を荷いながら呑気に落付いてる父の殿様然とした気質、それが私にも伝わっているようだけれど、然し父のそういう気質を思うことは、やはり私には力となった。負債なんかどうにだってなる、兎に角私は力強く働いている、という気持を父に伝えたかった。そして実際、次第に大きくなる負債のことは隠したが、俸給と原稿料とで立派に生活してると父へ云った。父は非常に喜んでくれた。もう心配はないとも云ってくれた。
 私は力強く働き続けた。朝早く込み合った電車にゆられて、毎日出勤しなければならなかった。午後になって帰ってくると、頭も身体も疲れていた。それでも晩には、頼まれるままにせっせと原稿を書き、なおその上に飜訳までやった。実際いやになることが多かった。生活するために人はかくまで働かなければならないかと、人生が味気なく思われることが多かった。そしてそんな時、父を思うことは私の力となった。何故だか私自身にも分らないが、父を思うと必ず私は、この通り立派に働いて暮しています、とそう父に云いたい気がしたし、どんなことにもへこたれるものか、という勇気が湧いてくるのだった。
 それは、父を安心させ慰めたいのとは違う。男の意気地とも違う。しっかりしていなければ父に済まない、そういった気持である。お父さん、あなたの子は健在です、立派な生き方をしています、と父に向って――天に向って、叫びたい気持である。
 母に対する感情は、常に私をしみじみと落付かせてくれる。
 私は嘗て、頽廃的な自暴自棄な生活に陥りかけたことがある。尋常なことは凡て面白くなくなって、何か非常識な突飛なことばかりに心惹かれた。明るい輝かしいものが厭わしく、暗い悲惨なものばかりが好ましかった。昼間はぼんやりと下宿の室に籠っていて、夜になるとのこのこ出かけてゆき、都会の暗い穴を探し求めるような気で、酒を飲んだり彷徨したりした。最も多く狂人に出逢ったのも、最も多く無駄な金を使ったのも、最も多く健康を害したのも、最も多くドン・ファン的な気持になったのも、みなその頃のことだった。また嘗て私は、ひとなみに恋をしたこともあった。はっきり自分の意中を打明けることも出来ず、はっきり相手の気持を掴むことも出来ず、ただ胸苦しい悲しい甘い心地に沈み込んで、草原の上に寝転んでは、すいすいと伸び出してる草の芽を無心に掴み取りながら、いつまでもぼんやりしてることがあった。
 そういう時、悪魔的な暗澹たる気持に浸ってる時や、切ない悶えに悩んでる時など、私が兎も角も余り変な方向へ踏み迷わないで、どうにか自分の道を歩み続けてきたのは、母に対する感情からでもあった。
 母を思うと、私は心がしみじみと落付いてきた。何をするのも嫌になり、生きてるのさえ嫌になって、死を決しようとしたり、または狂暴な感情に駆られたりする時、私はよく母のことを思い出した。すると私自身そのものが、取るに足りないちっぽけなものになって、母の温い懐の中に飛び込んでいった。何かこう大きな柔かいもの、自分を生んでくれた母胎、そういうものに静によりかかった気持だった。そしてただ在るがままのちっぽけな自分自身が、しみじみと感じられていとおしくなった。何がどうなろうと構うものか、私はここにこうしている、というその最小限度の存在感、云わば、富貴を願わず栄達を求めず、一介の虫けらに等しい自分自身の存在感、それが胸の底までしみこたえた。自分自身がいとおしく自分の生がいとおしかった。そして私はじっと自分を愛護する気持になって、その気持を母に伝えたくなるのだった。
 それは、母を安心させ落付かせたいのとは違う。母に甘えるのとも違う。生れたままに生きていたい、そういった気持である。お母さん、私はここにこうしています、自分の在るがままの生を愛して生きています、と母に向って――大地に向って、囁きたい気持である。
 然しながら、自分の胸の底を、も一つ奥深く覗いてみると、右のように二つに分けられないものを、父と母と一体をなしてるものを、其処に見出すのである。それのことを思うと私は、何かしら神秘的な涙ぐましい而も力強いものを感ずる。
 平素私はそれを忘れがちである。今では私は、ただ輝かしい健かな世界を求めて自分一人で生きている。然しどうかした拍子にふと父母のことを思うと、自分に生を与えてくれた両親のことを思うと、そしてそれに思い耽っていると、明るくもなく暗くもなく、健全でも不健全でもない、或る隠秘な仄かな底深い気持に陥っていく。それは一種の宗教的な気持である。
 そういう父母に向って――父はもうこの世にいないし、母もいないが、その両者が一体をなしてるものに向って、私はただ、自分の子供達が丈夫に生長してることだけを云いたい。私のことも妻のことも、私達の生活のことも、其他凡てのことは、私の気持の中では、父母と大した関わりはない。ただ私は、子供達のことをいろいろと細かな点まで、父母に伝えたい。平素子供達のことは多く妻に任せきりで、余り気にかけない私ではあるが、父母のことを思う時だけは、ただ子供達のことばかりが頭に浮んでくる。そして私は切にこう云いたい――私の子供達は、あなたの孫達は、健かにのびのびと育っています、だんだん可愛く大きくなってきます、私と妻とによく似ています、元気でいます……。
 父母よ安らかなれ! それが私の最後の願いである。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
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