爪の先を、鑢で丹念にみがきながら、山口専次郎は快心の微笑を浮かべた。
 ――盲目的に恋する者はいざ知らず、意識的に恋をする者は……。
 この、意識的に恋をするという自覚が、なにか誇らしいものと感ぜられたのである。そして今や、それにふさわしいだけの身づくろいが出来上りつつあった。
 手の爪をみがくのが終りである。足の爪はもうきれいにつんであった。顔はきれいに剃られて、香りのよいクリームが皮膚にすりこまれていた。頭髪は昨日洗われたばかりで、櫛の歯が目立たぬようにとかされていた。髪を分けるのは気障であり櫛の歯の跡を残すのは野暮であって、長髪をふうわりとそして自然らしくとかすのが現代的技巧であった。
 ――なりふり構わずに女を想いつめる、そんな青年をよく見かけるが、それはただ性慾の奴隷にすぎない。真の恋をする者、つまり、精神と肉体との一如の恋をする者には、それにふさわしいだけの身だしなみがあるべき筈だ。風呂には、少くとも三日に一度ははいる。頭髪は、少くとも一週に一度は洗う。髯は、少くとも隔日に剃る。爪はいつも、長すぎず短かすぎず、そして決して垢を止めない。頸筋はもとより、特に耳朶を、きれいにしておく。鼻毛と指先のささくれ、これが何より禁物である。そういう身だしなみを、恋する者は当然に持たなければならない。なぜなら、恋は精神の美しさを要求し、その表現たる身体の清潔さを要求するからだ。当事者にとって、恋はすべて美しく清く、恋人はすべて美しく清く、随って恋する者自身も、美しく清くあらねばならぬ。醜く穢れた者の恋愛などは、自家撞着の甚しいものだ。もっとも、敗戦と衣食住窮乏と栄養不足とのこの時代には、多少の……。
 多少の……例外は、彼自身にもあった。殊に、身だしなみとは何の関係もない生れつきの方面のことは、どうにも仕方がなかった。彼の手の甲の静脈は、三十五歳の年齢にしては余りに太すぎて、酒を飲んだり昂奮したりする時には、盛り上った網の目を拵えた。それから、横額の皮膚に、ごく薄くではあるが、点々と汚点があって、余りにととのって何等の特長もない顔立だっただけに、よけいに目立った。それら二つのことについて、彼は、栄養による手の甲の肉附と、栄養による額の皮膚の色艶、つまりは栄養に、救済を求めていたのである。だが、それほどの栄養を摂取することは出来なかった。彼はさほど富裕ではなかったし、また倹約家でもあった。
 この二つの例外が、彼の気分にちょっと陰翳を投じた。なぜなら、その二つがまた、彼と彼の恋人たる彼女とを隔てるものでもあったのである。美しい手指と、顔の表情の特殊な美しさとを、彼女は持っていた。
 彼が吉村氏を久しぶりに訪問した時、彼女がそこに来ていた。室にはいると、吉村氏と彼女とが同時に彼の方へ向けた眼色の動きで、彼は自分のことが二人の口にのぼせられたのを知った。理由はすぐ腑に落ちた。彼が時々出入りする波多野邸に、彼女は寄寓していたし、彼は面識があったのである。だが、ちと不思議なことには、吉村氏も彼女もそのことについては何とも言わなかった。それで彼も、ただ会釈しただけで、そのことには触れなかった。
 吉村氏と彼女とは、先刻からの続きらしい話をはじめた。戦争のこと、蜜柑畑のこと、温泉のこと、病気のこと、奇術のことなど、話題はさまざまに変転し、而も二人の間だけの暗黙の了解の上に変転したので、第三者には何のことかよく分らなかった。その上、文学者吉村氏の話なるものが元来、現実の事柄と小説中の事柄とが同じ比重で混交する性質を持っていた。それ故、山口は二人の話に興味も持たず、煙草をふかしながらぼんやり他事を考えていたが、その時、ふと彼女の美しい手指が眼にとまった。
 彼女は紫檀の机の上に両手をのせて、一冊の書物をもてあそんでいたが、硝子戸ごしにさしてくる光線のなかで、指先の爪が薄桃色の貝殻のように光った。殆んど関節の存在をも示さずに、先細りにすんなりと伸びた指の先に、その可愛いい貝殻の爪がはめこまれていた。光線のなかにあるせいか、指全体が、生きてるのか死んでるのか分らず、ただこまかく自在に動き、爪の表面が時々光った。
 そういう指先に、山口は心惹かれた、見てはならないものを見るような気持ちで、彼はひそかに視線を向けた。そのうち、なにか異様な沈黙が続いたと思われた時、彼女はもう立ち上りかけていた。
 彼女は山口の方へは挨拶もせずに席を立った。吉村氏は彼女を玄関まで送り出した。随分暫くしてから、吉村氏は室に戻ってきた。
 山口は尋ねた。
「あの人、先生のお弟子ですか。」
「弟子じゃないよ。」と吉村氏は答えた。「僕は嘗て弟子を持ったことはないし、これからも、弟子などは持たない。」
 傍見をしながら答える吉村氏の顔を、山口はじっと眺めた。
「私はあの人を知っていますよ。」
「そうらしいね。」
 冷淡な返事で、吉村氏は眉根も動かさなかった。が山口の方は、殆んど習慣的な微笑を浮かべた。そして吉村氏がそれきり黙ってるので、彼は言った。
「私は顔を知ってるだけですが……何という名前ですか。」
「え、名前って……。」
「さきほどの、あの人の名前ですよ。」
「あ、そう……。」
 そして山口は、彼女が魚住千枝子という名前であることを知った。
 これは、山口にとっていい収穫であったが、その後のことはうまくゆかなかった。山口はもともと、外交官を志望して、外務省に勤めていたが、終戦後すぐ、官省に見きりをつけて、新らしい政党の書記局にはいった。政治家も一種の対内的外交官だとの見解を持っていた彼としては、目的変更ではなくて、外務省の機能喪失を先見したわけである。そして彼が時折、一年に二回ばかり、吉村氏を訪問するのも、なにかやさしい飜訳の仕事、片手間で出来るような仕事を、探りに来るためであった。外交官或は政治家たる者は、一二冊の著書は持っている方がよく、少くともそれは下らない勲章ほどの価値はあるだろうと、考えていたのである。然し何か独自の著述をやるだけの自信はさすがになく、まあ飜訳ぐらいならと思ったのである。ただそれぐらいのところだったので、随って、吉村氏への用件は、頼む方も聞く方も、いい加減な数語で済んだ。その後は雑談で、山口としては、政治界の内幕などを大に談じたかったのだが、吉村氏はただ簡単な返事をするきりで、いつもそっぽを向いていた。自分からは殆んど口を利かず、没表情のなかに閉じこもっていて、何を言いかけても反応がなかった。それを文学者の偏屈だと、山口は解釈してみたが、先刻の魚住千枝子とのなごやからしい対話との対照が余りに甚しかったので、これは自分に対する反感の故でもあろうかと気づいた。然し吉村氏の反感などには一顧の価値も見出さなかったので、ただ魚住千枝子のことをも少し聞き出し得ないのが心残りなだけで、やがて程よく辞し去った。
 その数日後、山口は波多野邸で、思わぬ好機会を得た。
 党からの一寸した挨拶を口実に、波多野未亡人を訪問すると、乾燥芋の生干しが茶菓子の代りに出た。
「素人作りですけれど、たいそう甘いんですよ。ちょいちょい頂きますので、すっかり干しあがるまでには、半分はなくなってしまうでしょうと、皆さんが仰言いますし、またそれくらい甘くなければ、乾燥にする甲斐がないとも仰言いますが、まったくですよ。これで自信がつきましたから、今日もまた干しているところですよ。」
 未亡人は嬉しそうだった。
 出されたのをつまんでみると、なるほど甘かった。それで山口は、そのような物を茶菓子に出されたことを、自分に対する未亡人の寵遇だと解釈し、これほど甘いものなら自分も拵えてみたいからと媚びて、実地見学を申し出た。
 干し場は二階のバルコニーにあった。薩摩芋をごく柔くふかし、皮をむき、半センチぐらいの厚さに切り、簾の上に並べて、太陽の光に数日間曝すのである。
 山口がそのバルコニーに出ると、丁度、魚住千枝子が、簾の上の干し芋を裏返してるところだった。
「おや、あなたもお手伝いですか。いま、奥さんから、さんざん自慢されたところです。」
 彼女は立ち上って、真面目なお辞儀をした。それで山口は、ちょっとまごついて、お辞儀を返しながら言った。
「先日は失礼しました。吉村さんのところで……。」
 彼女はちらと微笑んで、また芋の方にかかった。
「時々、吉村さんのところへお出でになるんですか。」
「ええ、書物を拝借しましたり、お話を伺ったりしますので……。」
 彼女は振り向きもせずに答えたが、その横顔が、さっと血の色を湛えたまま緊張して、殆んど透明と言えるほどに冴え返った。山口はなにか病的な印象を受けた。それも瞬間で、彼女はまた、皮膚が薄くそして固い感じの顔容に戻り、額と鼻とが依怙地に白々しく、美しい手先が器用に芋を裏返し、桃色の爪がちらちら光った。
 防空壕の跡らしい黒い庭土、こんもりとした庭木、黄葉しかけてる高い銀杏の樹、ちらちら見える家並、その向うの焼け跡らしい広い空間、どこからか聞えてくる雀の声、それらに、太陽の光がいちめんに降りそそいでいた。
 山口は男性らしい微笑を意識しながら、干し芋を裏返してる彼女に話しかけた。
 ――吉村氏のような文学者と彼女が交際してるのは、大変床しい立派なことであり、今後の日本婦人は、知情意全般に亘る教養を高めなければならないので、彼女などもその方面に大に働いて貰いたい。今度出来た自分たちの政党は、知識階級を背景とするもので、婦人参政権を主張する恐らく唯一の政党であろう。戦争中に於ける婦人の働きを知る者は、今後の政治に於ける婦人の力を高く評価している。だから、彼女のような知識層の若い婦人たちには、その活動分野が広く開かれているし、彼女たち自ら進んで、その活動分野を利用しなければいけない、それが充分に利用されるように、吾々も力をつくすつもりでいるし、殊に……。
 彼はバルコニーの木の手摺によりかかって、ゆっくり話していたが、その時、一歩ふみだそうとして、足が重いのを感じた。それを無理にふみだすと、ねっとりした重さが伝わった。足先を返して、草履の裏を見れば、芋の一片が踏み潰されているのだった。
 彼は無邪気に笑い、草履の裏から芋をはぎとって、庭に投げすて、手先をハンカチで拭きながら、また無邪気に笑った。
「罠にかかりましたよ。」
 然し、彼女への反応はなかった。彼女は微笑すらしなかった。その顔は緊張して、殆んど透明と言えるほどに冴え返ったが、こんどは血の気が引いてしまったかのようであって、輝きを含んだ両の眼がじっと彼を見戌っていた。だがそれもまた瞬間で、彼女は額をそむけて、芋の方にかかった。
 彼は狼狽した気持ちになり、眉をしかめて、手摺を指先で打ちたたき、それから煙草を吸った。彼女の仕事は終った。
「失礼致しました。」
 はっきりした挨拶、だが、にっこり笑った。そして彼女はそこを去った。
 その最後の笑顔に、山口はすがりついた。
 山口が彼女と相対したのは、その時が最も長かった。其後は、波多野邸で数回顔を合せたきりで、ゆっくり話す隙はなかった。けれど、彼女は彼に対して、つめたくはあるがやさしい笑顔を見せるようになった。その笑顔と、美しい指と、瞬間的な不思議な表情とは、しばしば彼の頭に蘇ってき、やがては胸の奥に頻繁に蘇ってきた。そこで彼は自分は恋をしているのだと自認した。
 この恋は至って清らかなものである筈だった。彼女の指も、不思議な表情も、冷かなほどの清い美しさを持っていたし、その笑顔に妙なつめたさがあるのも、清いからに外ならないと彼は思った。そして、恋人の清い息吹きにふさわしいだけの清さに、自分の心身を維持してゆかねばならぬと、彼は考えた。
 心の清らかさについては、彼は自信があった。身体の清らかさについても、今や自信が持てた。
 手の爪ももうみがきあげられた。
 背広服は少し古いが、純毛のもので、丹念にブラシがかけられていた。腕時計の腕輪は、革では汗や埃がしみるので、クロームの鎖に代えられていた。上衣の腕ポケットにわざと無雑作らしくつきこんだハンカチは、縁に空色の縫い取りがしてあった。少し洗いざらしで地質が損じてるのは残念だったが、綺麗でさえあればよく、実際に使用することはないものだった。それから鹿革の手套は今では自慢だった。他の如何なる布地のものも革のものも、彼に言わすればそれはただ手の袋であって、手套という文字にふさわしいのは鹿革あるのみだった。其他にはあまり自慢になるものはなかったが、その代り、全くと言ってよいくらい目立たぬほどに、香水を身にふりかけた。ただ悲しいことに、それが如何なる花のエキスだか彼自ら知らなかった。
 特におめかしをした所以は、その日、波多野邸でゆっくり彼女に逢える筈だったからである。逢ってそして、彼女に意中を打ち明けるつもりだったからである。

 その日の、波多野邸に於ける集りは、なにか変な工合だった。
 もともと、故人波多野氏を偲ぶ夕として、その知友たちが、世話役側の知慧で、日取りを、故人の命日から未亡人の誕生日と変えたので、一種の社交的な意味合を帯びて、誰でも参集出来た。故人が多彩な政治家だったために、各方面の有力者がはいっていて、談話にも生気があった。然しこの三四年、戦争やなにかのために、その人数は次第に少くなり、前年からは、食料や交通の関係上、午後のお茶の集りということになり、時間も自由だった。
 その昔[#「 その昔」は底本では「その昔」]故人からたいへん世話になったという豪商の野崎氏が、物資の方の面倒をみ、昔から波多野邸の台所をきりまわしてるお花さんが、万事を取り計らった。
 広間のなかに、幾つかの大卓が置き合せられて、真白な卓布に覆われていた。その真中に、蘇鉄の鉢植えが一つ置かれていたが、これがたいへんよかった。青い鉢、苔むした土、大小五本の茎から出てる雄壮な葉など、見る眼に楽しかった。それをかこんで、いろいろなものが並んでいた。ビスケット、ホットケーキ、紅茶皿、干柿、鰺の乾物、塩ゆでの車鰕、こまかく裂いた※[#「魚+昜」、146-下-16]、南京豆、ビール瓶、コップ、茄子と瓜の味噌漬、林檎と蜜柑、小皿類……。
 中央の鉢植えの蘇鉄が、一座を幾つかに仕切った恰好だったので、誰もすべての人々の眼に曝される危険がなかった。そして、自由に飲食が出来たばかりでなく、各所に自由な話題を展開することが出来た。――或る将軍は、東京が空襲下にあった時のことを追想し、地方に逃避した人々のことを偲び、戦場生き残りという感懐を語った。――或る伯爵は、干柿の味をほめ、各地の名産物についての知識を披瀝した。――或る官吏は、ダンスを論じて、欧米のサロンに於けるダンスは自然に自由に座席を転じ得る社交方法だと説いた。――或る政治家は、新たに参政権を与えられる婦人の投票が、保守的な方面に多く集るだろうと予測した。
 そういうところへ、半白の髪を短く刈った肥満した人がはいって来た。その人は上席の方について、真先にビールの杯を取り上げた。
「ぶらぶら歩いて来て遅くなりましたが、焼け跡も楽しいものですな。」
 その声は大きく、一座のすべての人に話しかけるような調子だった。そして彼は、焼け跡の畑について語った。麦のこと、大根のこと、菜つ葉のことを語った。
「然し、収穫は乏しいでしょう。大根の根は筋ばって細いし、麦の穂も大して実りますまい。肥料が平衡を得ていませんからね。加里と窒素が多すぎて、燐酸分が足りないですよ。」
 すると、末席の方から、佐竹という若い人が言った。
「そうです。すべてに燐酸が足りません。」
「なるほど、すべてに燐酸が足りないかな。」
 肥満した人は笑い、佐竹は顔を赤めていた。
 それだけのことが、奇妙に一座の空気をはっきり照らしだした。実は、それまで、ごく普通の話題ばかりであり、ごく普通の意見ばかりにすぎなかったが、そのごく普通のことが蘇鉄の葉蔭で話されてることに、なにか普通ならぬものがあった。十二月九日のことで、昨年までは開戦記念日の翌日だったのが、今では日本が偉大な錯誤にふみこんだ記憶すべき日の翌日、連合軍司令部の記述した「太平洋戦史」が新聞紙上に発表され初めた日の翌日、そのことも、ここには少しも反映していなかった。然し反映していないそのことが、なにか普通でなかった。それが今、はっきりしてきたのである。謂わば、卑怯らしいもの、卑屈らしいものが、あったのであろうか。
 思い出されたように、ビールが盛んに飲まれた。
 波多野未亡人が時々出て来て、来客たちに愛敬をふりまいた。その態度のなかに一種の気位と羞みとがこもっていて、彼女はいつもより若々しく見えた。末席に控えていた山口専次郎は、彼女の肉附の豊かな柔かさに眼をとめた。と同時に彼は、魚住千枝子の皮膚の緊張した薄さを思い浮べた。が千枝子自身はそこに姿を見せなかった。未亡人も別室に女客達があって、そちらへ行くことが多かった。
「日本のビールは世界的なものですな。アメリカの兵隊も、これだけは讃美していますね。」
 そういうことから、戦争犯罪のことに及んでいって、猪首の人が、犯罪人としての通告を受けた人々について話をした。或る者は泰然自若として、顔色一つ変えなかった。或る者は蒼白になって、来客の前にも拘らず手の煙草を取り落した。或る者は渋柿をなめたようなしかめ顔をした。或る者は……。
 それらの話は、まるででたらめのようでありながら、その本人を識ってる人々にとっては躍如たる面目を伝えるような点があって、一座の注意を惹いた。ところが、個人的なその事柄に注意を集めたためか、戦争犯罪自体の問題は白々しいものとなり、その白々しいなかで、あなたは誰かと互に尋ね合っているような雰囲気を拵えた。これにも鉢植えの蘇鉄が役立った。蘇鉄の葉蔭で、知人同士、あなたは誰かと尋ねあった。
「ばかばかしいことですよ。責任のないところに犯罪はない。而もその責任がどこにも見付からない状態でしたからね。」
 そういう議論になった時、山口専次郎は言葉を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだ。
「犯罪のことは、つまりは、精神的貞節の問題ではありませんでしょうか。」
 彼は魚住千枝子のことを考えていたのである。そして彼女に対する自分の気持ちから、うっかり、取って置きの考えを言ったのだった。
 ところが、山口自身で最も驚いたことには、その精神的貞節論は一座から歓迎された。多くの人々がそれに賛成した。要するに、貞節の保持者は犯罪者でないというのである。
「まるで、風儀の問題のようですな。」と先刻の燐酸の先生が大笑した。
 その笑いに応ずるかのように、佐竹が言った。
「貞節なんかよりも、忿怒でしょう。現在、何物かに忿怒を感じてるかどうかによって、犯罪人であるか否かが決定されると思いますね。」
 そして彼が言うところによれば、これまでの偽瞞に対して忿怒を感じてる者は無罪で、忿怒を感じない者は有罪だった。その説には何か痛烈なものがあった。然し、誰も問題に深入りしたがらなかった。故人波多野氏は怒り易かったと、変なところへ話がそれた。
 故人の思い出やその頃のことが話題になった。そして一座の空気は和やかなものになった。ビールの酔いも加わってきた。
 山口は故人と面識がなく、追憶の話に興味も覚えなかったので、そっと席を立った。
 襖を開け放した隣室で、故人と真の親友であった井野氏が、広間の話などには全く無関心に、或る青年と碁をうっていた。この痩身長躯の篤学者は、日本服の着流しにあぐらを組み、ビールを数本ひきつけて、飲みながら碁に夢中になっていた。
 山口は暫く碁を眺めた。それから外を眺めた。朝のうち切れぎれに浮んでいた雲は、四方の地平線に低く沈んで、上空は遙けく青く、庭の木の葉に斜陽が輝いていた。
 いま山口は、得意でもあり不満でもあった。精神的貞節論に知名の先輩達が賛成してくれたのが得意であり、それを戦争犯罪などに自ら結びつけたのが不満だった。それは彼の身心清潔法の一部を成すもので、恋人の前でこそ語るべきものだったのである。
 得意と不満との交錯は彼を大胆ならしめた。彼はそこにあった庭下駄をつっかけて、外に出た。一面に斜陽を浴びた庭はなにか寒々としていた。その彼方、袖垣の向うに、濃い煙がたち昇っていて、子供の笑い声がした。その方へ彼は歩いていった。
 空樽や木の株がころがってるその空地の真中で、落葉が焚かれていて、煙りがちなのを、男の子が頬をふくらまして吹いていた。
「焚火をしているのかい。どれ……。」
 山口は木の小枝をとって、煙ってる落葉をかきたてようとした。子供はそれを遮った。
「いけないよ。」
「だって燃えないじゃないか。」
「いけないよ。」
 積みかさなって煙ってる落葉を、子供はしきりにかばう様子だった。
 のびのびと発育した体躯の大きな子で、もう学齢ほどらしいのに、長い髪の毛を女の子のように額に垂らしていた。織目の見える古生地の粗服を着ていたが、それと対照に、ふっくらとした頬が如何にも瑞々しかった。
 子供は急に嬉しげな表情に変った。建物の蔭から、彼女が、魚住千枝子が、出て来た。
 いつもの端麗な顔だった。羽織なしに、紫と臙脂との縞お召の襟元を、窮屈そうなほどきりっと合せていた。その身扮で藁俵と枯枝とを胸いっぱいに抱えていた。
 彼女は黙って山口を見た。
 山口は会釈をした。
「お座敷の方へ、いらっしゃいませんの。」
「先程から、もう充分、御馳走になってきました。」
 彼女は胸の荷を焚火のそばに投りだして、子供の方へ言った。
「たくさん焚物を貰ってきましたよ。」
 子供相手に、彼女はひどく嬉しそうだった。胸元や、帯の御所車の刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]から、ちょっと埃を払っただけで、まだ藁屑をそこらにつけたまま、持ってきた芋俵らしいのを焚火にくべた。
 火は横にはい、それから一斉に燃え上った。焔の先は人の顔ほどに達した。
 子供は声を立てた。千枝子は飛びのいて、棒切れを拾い、俵の燃え残りを押えつけた。
 山口は呆気にとられた。
「こんなに燃やして、どうなさるんですか。」
 千枝子は返事をせずに、ただ自分の心に答えるように微笑した。
 俵が燃えつきると、枯枝を、こんどは少しずつくべた。子供は枯枝をぽきぽき折った。真赤な藁灰の上に枯枝は爽かに燃えた。
 山口は先刻の肥料の話を思いだした。
「肥料の灰でも拵えるのですか。」
 千枝子は彼の方を見て、くすりと笑った。それから急に真面目になった。
「芋を焼いていますの。」
 そのあとを、彼女は子供に話しかけた。
「ねえ、この薩摩芋は、畑に出来たのを、おしまいまで残しておいた、そのおしまいのものだって、ほんとうですか、それから、この里芋は、畑のはじめて掘ったものだって、ほんとうですか。」
「ほんとだよ。僕は畑の番人をしてるから、すっかり知ってるよ。」
「そう。とっておきのものに、おはつほ、嬉しいことね。だから、一番おいしくして食べましょうよ。煮るより、ふかすより、ゆでるより、こうして焚火で焼いたのが、一番おいしいんですよ。」
「僕知らなかった、お母さんに教えてやろう。」
「お母さんにも、食べて貰いましょうね。」
 千枝子は灰の中から、芋をかきだした。もう半ば焦げたのや湯気を吹いてるのがあった。彼女はそれを選り分けた。
「待っていらっしゃいね。」
 千枝子はあちらへ急いで行った。
 山口は彼女のあとを引き受けて、灰の中の芋をかきだした。薩摩芋と里芋とがたくさん出てきた。そうしながら彼は子供に話しかけて、彼の母親はもと波多野邸にいた人であること、彼等一家は空襲に罹災して焼け跡にバラック生活をしてること、周囲に菜園を拵えてること、などを知った。
 千枝子が戻って来た。美しい青磁の鉢を持っていた。その鉢に彼女は、灰まみれの焼芋を盛りこんだ。芋は鉢にはいりきれなかった。
 子供がすぐ駈けだしていった。
 山口はそこに屈みこんだまま、灰のなかを掻き廻しながら、言いだした。
「あなたに、ゆっくりお逢いしたいと思っていました。」
 千枝子はちらと眼を挙げて、また眼を伏せた。
「いろいろなことを、お話しして……。」
 そこで、彼は閊えた。心の思いと言葉とが一致しなかった。ばかりでなく、突然、新たな想念がはいりこんできた。彼はこれまで、彼女を恋してると自分できめていた。恋している、それだけで充分だった。ところが、いま突然、結婚という想念が浮んできたのである。不思議なことに、三十五歳の現在まで、彼は幾度か縁談にも接したし、結婚を考えさせられる女性との交際もあったが、此度ばかりは、結婚などということを全然頭に浮べなかった。そういう想念を拒む何かが、彼女のうちにあったのであろうか、彼のうちにあったのであろうか、それとも終戦後の社会情勢のうちにあったのであろうか。それはすべてに於てそうだ、と彼は漠然と咄嗟に感じた、然しそれは恋愛を妨げるものではなかった。
「私のことも、いろいろお話ししたいし、あなたのこともいろいろお聞きしたいし、とにかく、あなたの身の上のことを聞かして下さいませんでしょうか。」
 彼女は立ち上った。その額や頬から血の気が引いて、緊張した皮膚が透明なまでに冴えた。そして刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ような眼眸で、じっと彼を見下した。それに彼は対抗出来ず、すぐに眼を伏せて、灰の中をやけに掻き廻した。ひどい失策をしたように感じた。
 子供が笊をさげて走って来た。
 千枝子と子供は、残りの芋を笊の中に入れた。そして、彼女は青磁の鉢を持ち、子供は笊を持った。
「わたくし、そのようなことは一切、お話しできません。」と彼女は言った。
 それは先刻の言葉に対する返事だと、山口にも分った、そしてその返事を、彼は独り藁灰のそばで噛みしめた。灰の中には、まだ二つ三つの小さな芋が残っていた。彼はそれを拾いあげたが、すぐに投げ捨てた。
 すると局面が変ったのを、彼は感じた。彼は彼女の姿を思い浮べた。お召の着物や刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]の帯に、汚れた芋俵を抱えていた彼女、青磁の鉢に、灰まみれの焼芋を盛った彼女、その無頓着なやり方が、ただ愛すべき子供っぽさに思われた。山口自身の家庭では、両親の厳格な監督のもとに、そういう無頓着さは許されなかったのである。それと対照して、彼女のやり方は全く愛すべき子供っぽさだと、彼には思われた。ひいては、彼女のあの返事も、決定的なものではなくて、なにか子供っぽい愛すべきものではなかったであろうか。
 彼は自分の話し方が拙劣だったのを認めた。そしてこの自分の失策を認めることが、今は却って幸福だった。単に話し方がいけなかったのである。恋にふさわしい清らかな身の持ち方をしていることなど、そういうことを先ず語るべきであろう。
 彼は上衣の胸ポケットのハンカチで、決して使わないつもりだったハンカチで、汚れた手を丁寧に拭き、そのハンカチをズボンのポケットにつっこんで、しっかり立ち直った。そしてなお暫くその辺を歩いてから、座敷の方へ戻っていった。
 斜陽は赤みを帯び、物蔭は暗かった。
 来客はもう帰りかけていた。波多野未亡人は忙しそうに往き来していた。
 そういうことをも、やはり意に介しないかのように、井野氏はまだ碁に耽っていた。山口はその側に坐りこんで、ビールを井野氏についでやり、自分も飲んだ。まだ居残ってもよい気がしたし、彼女にもなお逢いたかったし、どうせ辞去するにしても、誰か有名な人と一緒になりたかった。帰りぎわが大切だと彼は考えた。
 然し彼の方を顧る人はいなかった。彼はそこに、碁客のそばに、置きざりにされた形になった。
 近く、広縁のところで、話し声がした。「落葉樹の森」という言葉が山口の注意を惹いた。声には覚えがあった。
「前半はたいへん面白く思いましたが、後半が少し退屈でした。」
「ええ、小説にしては、少し思想的すぎると、先生も御自身で仰言っていましたわ。」
「あの思想には、僕も賛成です。ただちょっと、拗ねてるような、へんなところがありますね。」
「私にはよく分りませんけれど……。」
「前から、お逢いしたいと思っていました。こんど、ついでの時に誘って下さい。」
「ええ、先生の御都合を伺ってみますわ。」
「気むずかしい人ではありますまいね。」
「いいえ、決してそんな……。」
 そして笑い声がした。
 どうも吉村氏のことらしいと、山口は思った。そして立っていった。佐竹と千枝子が、立ち話をしていた。彼女は先程の身扮の上に小紋錦紗の羽織をひっかけていて、なにか老けたように見えた。山口から顔をそむけた。
 山口は快活そうに言った。
「吉村さんのお話のようですね。」
「そうです。」
 佐竹は怪訝そうに山口を眺めた。
「吉村さんなら、僕はよく知っていますよ。御一緒に訪ねてみましょうか。」
 それが、なにか大きな衝動を与えたらしかった。千枝子は向うをむいたまま、振り向きもしないで、そこから出て行ってしまった。佐竹は眉をしかめたが、それを押し殺すように煙草に火をつけた。
「佐竹君。」
 声がして、あの燐酸の先生がのぞいた。
「君は残っておれよ。君がいないと、どうも話が面白くない。」
 そして彼は高声に笑った。
 佐竹は黙って山口の側を離れ、広間の方へ行った。
 山口はそこに取り残されて、唇をかんだ。何か体面にでも関するような失策をしでかしたようだった。而もそれが明瞭に分らないので、なお失策が大きく感ぜられた。ただ他日を期して……そう思った。そしてこの他日に倚りかかった。と同時に、彼はひどく冷淡になった。すべてのことに冷淡になった。波多野未亡人に礼を言い、人々に挨拶をし、玄関で外套を着せてくれたお花さんに会釈をし、鹿革の手套を片手に掴んで歩きだすまで、すべてのことを冷淡にそして冷静に紳士らしくやってのけた。
 ところが、波多野邸の門から一歩ふみだした時、彼は全身の力がぬけたような状態になった。何かの重圧から遁れると共に、自身もくずおれてしまう、そういう状態だった。
 彼は足を止めた。殆んど無意識に振り返った。山茶花の粗らな枝葉からすかして見える玄関前に、人影があって真白なものを撒布していた。人影はすぐ扉に隠れたが、千枝子らしかった。彼は忍び足でそこへ立ち戻った。扉の前のコンクリートから地面へかけて、真白なものが点々としていた。彼はその一塊を拾い、口になめてみた。
 しおばな……と彼は呟いたが、それと知ると同時にもうそれにも無反応になった。そして何かえたいの知れない沈思に陥って、ただ機械的に足を運び、そこを去った。

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「世界」
   1946(昭和21)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。