悲しみにこそ生きむ
楽しさにこそ死なむ
 この二つの文句が、どうしてこんなにわたしの心を乱すのであろうか。二つが妖しく絡みあい、わたしの胸に忍びこみ、わたしの心を緊めつけて……誘うのである。いずこへ誘うのか。何の誘惑なのか。
 その文句を、わたしは思い違いしてるのではあるまいか、そんな気持ちがふっと湧くこともある。だけど、いいえ、わたしの思い違いではない。たしかにそうなのだ。あの人は、机の上の原稿用紙に、鉛筆でいたずら書きをしていた。鳶が鳴いていたので、片仮名で、ピーとか、ヒョロとか、ヒョロヒョロとか、そんなのが幾つも書き散らされてるうちに、とつぜん、悲しみにこそ、が二度つづいて、生きむ、生きむ、生きむ、と三度かさなり、それから、楽しさにこそ、が一度、そして、死なむ、死なむ、と二度で終った。たしかに、悲しみに死ぬるのでもなく、楽しさに生きるのでもない。いいえ、そんなこととは全く違う。
悲しみにこそ生きむ
楽しさにこそ死なむ
 わたしにはよく理解できないけれど、感じだけは分る。二つ別々なものではなくて、一緒のものなのだ。一つだけでは意味をなさない。ヘルメスの杖についてる、二つの翼……二つの蛇……。あの人にとって、それは、翼なのかしら、蛇なのかしら。どちらだって、つまりは、ヘルメスにとって同じなように、あの人にとっても同じなわけだ。けれども、わたしとしては……いえ、もうどちらでもよい。
 あれを、あの人は明らかに、わたしが見てることを知っていて、わたしに見せるために書いた。わたしは見た。それをあの人は知っている。けれど、わたしは何とも言わなかった。あの人も何とも言わなかった。
 直截に、簡明に、ぶしつけに、いろんなことを話せないのが、淋しい。お互に、愛し合ってることが分っておりながら、なぜそうなのであろうか。
 わたしはいろいろなものに囚われている……とも違う。いろいろなものに束縛されている……とも違う。そうだ。なにかきまりきったものの中にわたしは置かれているのだ。そういう所にわたしは置かれているのだ。だから、例えば……。ああ、例えばなどという言葉がなぜ必要なのかしら。それもまあいい。例えば、愛情の問題にしても、結婚という枠の中に封じこめられてしまうのだ。
 わたしにはいろいろな縁談があるらしい。あると言うよりは、周囲の人たちがそれを探し求めているらしい。母が時々、若い男の写真を見せて、それとなくわたしの意向をさぐろうとする。だけど、わたしに意見のありようはない。美醜の点にしても、ある水準以下は嫌だけれど、その水準だってどうにでもなる。映画俳優のブロマイドを見るのとは違って、愛情の問題なのだ。わたしはいつも、曖昧な微笑と冷淡な言葉とで、うっちゃることにしている。
 けれども、生きてる人間については、そうはいかない。家のお客さんの中や、弟の年上の知人の中には、わたしとの結婚が可能な人もいるらしい。結婚可能……わたしはこの言葉を口の中で繰り返して、腹がたってきた。如何にたくさんの男が、そして如何にたくさんの女が、結婚可能なことか。わたしもその一人なのだ。ああ、せめてわたしだけは、わたし一人だけは、結婚不可能であり得るとしたら、どんなに素晴らしいことだろう。
 いろいろな人の名がほのめかされ、そして消えたり現われたりしてるうちに、いつしか、田島章吾さんの名だけが、大きく浮き出してきた。章吾さんの亡父の一周忌がすんでからのことだ。家と家との交際もあり、わたしも章吾さんを識っている。だから、この話は、わたしには苦手だ。その上、父との応対という、いちばんの苦手が加わった。
 母との応待ならば、のらりくらりと、なんとでもごまかせる。けれど、父とはそうはいかない。父の前に出ると、裁判官の前にでも出たように、わたしは自然に、身も心も縮みこませてしまう。わたしたち姉弟三人ともそうなのだ。つまり、親に対して甘えたり我儘をしたりする方面を、すっかり母へ持ってゆき、親に対する畏敬礼節の方面を、すっかり父へ持っていってるのであろうか。一家うち揃っての楽しい談笑の時間が殆んどない家庭の中の、父と母との長年の夫婦生活というものが、この頃わたしには奇妙なものに思われてきた。それかといって、父はいつも無口で厳格なだけで、怒り猛けるようなことはないし、酒に酔えばすぐに寝てしまう。社会に出てはどうだか分らないが、家庭では孤独な人のようにも見えるのだ。
 父は、わたしをじっと見つめるでもなく、わたしから眼をそらすでもなく、やり場に困ったような眼差しで、それでも言葉はぴしぴしと、のっぴきさせず問いつめてくるのだった。
「こんどの話、先方ではたいへん乗気だし、こちらでも異存はない。然し、当人のお前があやふやでは困る。お前の意見をはっきり言ってごらんなさい。」
 ところが、はっきりした意見なんか、わたしにはなかった。
「いったい、お前は、田島君を好きなのか、それとも、嫌いなのかい。」
 困ったことに、わたしは別に好きでも嫌いでもなかった。ただのありふれた普通の人にすぎないのだ。その普通の人、何の恩怨も関心もない人に対して、好悪の感情を持てというのは、わたしのプライドを傷つけることではあるまいか。然しこんなこと、どういう風に父に説明してよいか、わたしには分らなかった。
「好きなところがあるなら、これこれの点が好き、嫌いなところがあるなら、これこれの点が嫌いと、はっきり説明してごらんなさい。」
 いたずらめいた眼色が動きかけたのに、わたしは自分で気がついて、つとめて神妙にいった。
「箇条書きでも宜しいんですの。」
「箇条書きでもなんでも宜しい。はっきりした方がよい。それから、田島君の将来の方針というようなことも、考慮に入れておく必要がある。」
 驚いたことには、田島さんの将来の方針などについては、実業界によりも政治界の方に野心があるようだという推測以外に、わたしは何も知るところがなかった。けれど、父が田島君の、とだけ言って、お前の将来の方針などと言わなかったので、わたしはほっとした。将来の方針など、わたしに何があろう。
 わたしは父の顔色を窺って、最後に返事をした。
「よく分りましたわ、も少し考えさして下さい。」
「うむ、軽率にことをきめてはいかんから、よく考えておきなさい。」
 それでおしまいだった。そして父の癖として、これから先の返事はなかなか催促しないだろうと、わたしはすっかり安心してしまった。へんにおかしかった。父との話の間にちらと浮んだことが、あれが、はっきり思い出された。ソロバン……父の話はソロバンをはじくような工合なのだ。
 わたしは学校で、ソロバンが下手くそだった。どうにも気乗りがしなくて、うまくいかなかった。その後も、家で、母や女中が家計をソロバンではじいてるのを見かけると、なんだかおかしくなった。あの丸い珠が、加え算や引き算で、指先から押し動かされるのを見ていると、珠の方が却って、人をこばかにしているようだ。そのソロバンを、父の話の間にふと思い出したのが、わたしにはまたおかしかった。わたしは父を軽蔑しているのではない。おそらく父を愛してもいるし、畏敬している。けれど、ソロバン……は別のことだ。
 ソロバン、ソロバン……そのことを、わたしはあの人に、菅原洋平さんに、話してしまった。つとめて面白そうに話した。父のことは伏せて、例えば結婚では……というように話した。
 ああ、良家の令嬢が――わたしはこの言葉を決して自ら恥じはしない――若い男性に向って、自分の縁談のことを打ち明けるのが、どういう意味のものだか、わたしは知らないではなかった。知っていながら、眼をつぶった気持ちで敢てした。わたしに勇気づけたのは、あの人が、あなたをとわたしをはっきり名指しはしなかったが、愛していますという言葉を、ごく自然に、微風のように、わたしの耳に入れていたからなのであろう。
 ところが、あの人には、ソロバンのおかしさが少しも通じなかった。
「愛情の問題と結婚の問題とは、社会が今よりずっと進歩しない限り、なかなか一致しませんよ。例えば、僕はあなたを愛していますけれど、それはソロバンには……。」
 おう、あの人の方でも、例えば……なんだ。わたしの方からは、例えば……ときりだしたからといって、それは女のことだもの、男の方には、何とかほかに受け応えの仕様はある筈だ。それとも、わたしへの返報のつもりだったのかしら。いいえ、そのようなけちな返報をするような人ではない。
 あの人の愛について、わたしは苦しい疑いを持ちはじめた。あれから一度か二度、ソロバンはどうなっていますかと、冗談のように聞かれたことがあったけれど、わたしはそれに返事をしなかった。例えば……についてばかり思い悩んでいた。
 とうとう、わたしの方から、はしたないぶっつかりようをした。
「わたしを愛していると、仰言ったわね。だけど、それ、ほんとの愛かしら……。」
 ああなんというよそよそしい言葉だったろう。けれど、良家の令嬢として――わたしはこの言葉にむしろ誇りを持つ――それが精一杯だったのだ。
 あの人の確信は小揺ぎもしなかった。
「ほんとの愛です。ほんとにあなたを愛しています。」
「そんなら、例えば……。」
 あ、またしても、例えば……が出てきた。わたしは自分に腹が立った。むちゃくちゃになった。
「いいえ、愛するとだけなら、誰だって言えます、誰に向っても言えます。売笑婦に向っても言えます。ほんとの愛は、誓うことです。誰よりも深くとか、生命にかけてとか、生涯つづけてとか、永遠にとか、何でもよいから、誓うことです。あなたは卑怯よ。それとも……。」
 あの人の眉根がぴくりと動いた。なにか切なそうな眼色だった。しばらく間をおいて、でも静かな調子だった。
「あなたの言うことはよく分ります。けれど、誓うのは人間のすることで、それが守れるかどうかは、自然の手の中にあるんです。」
 自然か、天か、神かが、それを決定するとは、わたしもそうだと思う。そして、生涯変らず永遠にという誓いは、ただ文学的な表現だということを、いくらか小説なども読んでるわたしは、知らないではない。けれど、わたしがうっかり言った卑怯だということ、それに対してあの人は何も抗弁しなかった。いいえ、わたしは決してあの人を卑怯だなどと思ってはいない。その反対だとさえ思っている。それなのに、愛について、恋愛について、なにか卑怯に似た影を感ずるのは、どうしてなのだろうか。
 言葉がとぎれて、無言のまま、あの人は殆んど無意識のように、原稿紙にいたずら書きをしていた。鳶の鳴き声が聞えていた。
 それから、あの文句が出て来た。わたしはそれをはっきり読み取った。
 深い謎に包みこまれていくような気持ちだった。硝子戸の外にはちょうど、その謎をますますぼかすような強烈な光景が、かなたに展開されていた。
 雑木の茂みがこんもりと高まってる、その上に、椎の古木が更に高く聳えている。その巨大な幹は、梢近くでぶつりと断ち切れて、幾つもの空洞をこさえ、太い腕を四方に伸して、小枝の茂みを作っている。そこに、多くの小鳥が住んでいる。椋鳥や雀が群がり、尾長や燕の姿も見える。その中の王者のように、二羽の鳶が巣くっていた。
 その一羽が、今、美しい声で鳴きながら、ゆるやかに舞いながら、腕木に戻って来た。足に何かを掴んでいる。鳩ぐらいの大きさの鳥らしい。足でしっかと押えて、嘴で羽根をむしりはじめた。白い羽根が微風に散って、花ふぶきのようだ。初夏の緑葉の茂みが、燃え立ち盛り上ってるのへ、羽根のふぶきが散りかかる。鳶は時々、頭を真直に立て、あたりを睥睨し、それからまた獲物の羽根をむしり、その臓腑を喙むらしい。やがて、他の枝へ飛び移り、小首をかしげ、両翼を少しくいからせる、ぱっと、白いものを尻から放出した。
「あ。」
 わたしは思わず声を立てた。
 まだ粘質の糞は、日光に白く光りながら、長く伸び、曲線を画いて、緑葉の中に没していった。
 わたしはちょっと戸惑った気持ちで、そして顔が少し赤らむ気持ちで、振り向くと、あの人は、わたしの視線を避けて、立ち上ってゆき、硝子戸を一杯に明け放した。そしてそこの縁側の手摺にもたれて立ち、独語のようにわたしへ言った。
「あの鳶の声を、この春から聞きなれているので、もう、家族の一員のような気がしますよ。けれど、今日は少し不作法でしたね。あなたは、あんなところ、はじめてでしょう。」
 返事の代りにわたしは微笑したが、あの人はあちらを向いたままなのだ。
 わたしの返事がなかったからか、あの人は向き返った。とつぜん、どうしたというのだろう。ひどく憂鬱な表情になっている。
「千重子さん。」
 ああ、はじめてあの人はわたしの名を呼んだ。いつもは、松本さんと姓の方を呼んでいたのだ。
「誓いの代りに、ただ一つ約束しましょう。時が来たら、いろいろなことを、なにもかも、お話します。待っていて下さい。」
 あの人は手を差出した。わたしの方から立ってゆかねばならなかった。屈辱ではない。その時はそれが自然だった。あの人はわたしの手を執り、片手を更に持ちそえて、両手でわたしの手をしっかり握りしめた。逞ましいそして少し冷い掌だった。その重圧が、あの人のその時の憂鬱な様子と一緒に、わたしの胸をしめつけた。わたしは首垂れて、もしそのままでいたら、泣き出したかも知れなかった。やがて、あの人はわたしの手を離した。
 鳶の声がした。鳶は獲物をまだ掴んだまま、飛び立って、横手の方へ舞い失せていった。
 わたしも辞し去った。
 それからのわたしには、あの人のことを想い耽る日が多くなった。しかしそれは、愛とか恋とかいうものとは少し違う。わたしが想像したり小説で読んだりしたものとは、だいぶ違う。それでもよろしい、とわたしは思った。あの人はわたしとは異った世界に住んでるようだ。その世界に対して、窓が開かれたような思いだった。窓から外を覗くことが、あの人を想うことになる。でも、何にもはっきりは見えなかった。待とう。あの人がすっかり話すのを待とう。約束を破るような人ではないのだ。
 それでも、あの人はいつまで待たせるつもりなのだろう。あれから幾度かわたしたちは逢った。前とちがって、眼差しには、心と心とが通じ合うような親しい笑みを浮べたが、言葉には、愛のことも、ましてソロバンのことも、少しも出なかった。何かちらちら閃めくものはあったが、それもはっきりは捉えがたく、ただ、一緒に鳶を眺めたり、コーヒーを飲んだり、新聞記事のことを話したり、それきりだった。
 わたしの方では、田島さんとの話は小康を得ていた。さっぱり要領を得ないように母をごまかしておいた。先方にも、亡父の三周忌がすんでからでも、という肚があったらしい。ところへ、思いがけないことが起った。北村さんが、酔っぱらった上のことではあるが、田島章吾さんをさんざん悪口して、あんな奴は社会の蛆虫だと言ったらしい。その話を弟から聞いて、わたしは胸がどきりとした。北村さんの二階に、あの人が、菅原洋平さんが、同居しているのだ。しかし、弟は何にも感ずいていないらしいし、北村さんはたぶん、菅原さんのことなどは匂わせなかったのだろう。そして北村さんのその悪口が、いくらか母に影響を与えたらしくも考えられる。
 わたしとしては、田島さんとのことばかりでなく、すべての縁談を、中ぶらりんにしておきたかったのだ。どうせ、一つを拒絶すれば、次のが現われるにきまっている。煩わしいだけだ。柳に風、暖簾に腕押し、そういうのが、いちばん巧妙な作戦らしい。どうせソロバンの中に坐らせられてるからには、じたばたすれば怪我するにきまっている。
 それにしても、ああ、時々胸が切なくなるのは、なぜだろう。その辺に、わたしのとは異った世界に、何かわたしの知らないものがある。そこまでわたしは飛び出してゆきたい。しかし、わたしにも人間としての矜持があり、はしたない真似はしたくない。待とう。あの人がきっと手引きして下さるだろう。
 その、菅原洋平さんが、八月のはじめに九州方面へ旅行して、それきり帰って来ないのだ。一週間ばかりというお話だったが、四週間たっても、五週間たっても、音沙汰がない。せめて絵葉書の一枚でも、わたしのところへは来る筈だ。ほかのところへはとにかく、わたしのところへだけは、何か便りがあってもよい。
 わたしはそれとなく、北村さんに尋ねてみた。菅原さんが関係してる天元社という出版所にも、二度ほど電話してみた。それでも、何の手掛りも得られなかった。
 天元社では、いつ帰って来るか分らないと、ひどく曖昧なことを言う。北村さんは、そらとぼけた調子なのだ。
「そう、一週間ばかりだと言っていたが、なあに、菅原君のことだから、いつ帰って来るものやら、分りゃあしないよ。然し、大丈夫、心配なことはない。」
 そうは言うものの、北村さん自身、なにか気にかかることがあり、それを自分で打ち消そうとしてるのが、言葉の調子や様子に現われている。
 不安なものが、しだいに、わたしの胸に濃く淀んでいった。何かある。わたしの知らない秘密が、何かある。
 わたしは紹興に行ってみようと思いついた。一人ではへんだから、北村さんをそそのかして、連れていって貰うことにした。家の人たちには内緒なのだ。北村さんは家と親戚になるのだが、あまり評判はよくない。飲んだくれということになっていて、酒と貧乏とがつき物だ。またペンキ屋さんという影口もある。あの人の書く絵がペンキ屋の絵に似てるというのだ。北村さんに言わせると、それは、極端にマチエールを生かしてるからだとの自慢になる。そのペンキ屋さんに、わたしは気まぐれな絵を習ってるのである。
「表向きには営業は出来ないことになっているから、うまい物はないよ。ただ……君が酒を飲むといいんだがね……。」と北村さんは言った。
 料理も酒も、わたしにはどうでもよいのだ。菅原洋平さんが、北村さんの二階に住んでいて、朝食はそこですまし、夕食はたいてい紹興でする、そのことをわたしは知っていた。
 往来からすぐ硝子戸になってる粗末な家で、とっつきの土間のわきに、二階への階段がある。その階段を北村さんが昇ろうとするのを、わたしはさえぎって、他に客がないのを幸に、土間の片隅の卓をえらんだ。北村さんは怪訝な眼付きでわたしを見た。
 背の高い中国人の給仕が、うす汚れの割烹着をつけて、流暢な日本語をしゃべった。
「お食事なら、うえがあいております。」
「ここでいいわ。」とわたしは北村さんに言った。「ほんのつまみ物でいいの。わたくし、ビールにしようかしら……。」
 それだけでも、わたしとしては一生懸命のことだった。でも効果はあった。北村さんは腑におちない顔付きだったが、わたしのビールを大喜びで、自分はウイスキーにした。
 背の高い給仕は、やがて、物を運んでくると、思い出したように北村さんに聞いた。
「菅原さん、どうしましたか。まだ帰りませんか。」
 北村さんは何か考えている。
「あの人、のんきですね。無籍者ののんきだから、あてがない。」
 北村さんは酒のコップで卓上を叩いた。
「もう一杯。」
 わたしは眼を見据えて囁いた。
「無籍者って、何ですの。」
「……渾名だろう。」
 北村さんはじっとわたしの方を見た。それからもう、菅原さんのことも、この紹興の店のことも、天元社のことも、ちょいちょい話しかけていたのを、すっかり口にしなくなった。わたしは失敗したのだ。あまり真剣になりすぎたため、肝腎なところで北村さんに気付かれてしまったらしい。
 考えてみると、そういうことがすべて、怪しいのだ。わたしが不安を感ずるのも、実は根拠のないことかも知れないし、無籍者という言葉にびっくりしたのも、実は思いすごしかも知れないし、北村さんがへんに隠し立てするようなのも、他に何の理由もないのかも知れないし、すべて取るに足らないことかも知れない。しかし、その取るに足らないことごとが、へんにわたしの気持ちを波立たせるのが、怪しいのだ。これも、ああ、愛情の故か。いいえ、違う。何かある、たしかに何かある。
 わたしは無理にビールを飲んだ。そして他に事もなく、用があると言って北村さんに別れ、不忍池のまわりをぶらついた。
 菅原さんは、やがて東京に帰って来るだろう。それは確かだ。あの人が無籍者だというのは単なる渾名だろう。あの人にはそういう色合いがある。けれど、あの人が東京に帰って来たら、きっと、なにか変事が起りそうだ。わたしの身にとってではない。あの人の身にとってでもない。あの人を中心に、その周囲に、なにか変事が起るに違いない。それが、恐ろしいとか怖いとかいうのではないが、やはり、大きな不安の影をわたしの心に投げかけるのだ。

 菅原洋平が旅に出たまま、音沙汰なしに数週間経過したことは、松本千重子に不安の念を懐かせたが、他の知人たちにも、それぞれ、不吉な印象を与えたらしかった。――ところへ、天元社にいやな事件が起った。
 天元社所有の印刷紙、時価にして凡そ五十万円ばかりの量が、ひそかに他へ転売されて不足してることが、発見された。如何にして何処でごまかされたものか分らず、よほど巧妙な手段がめぐらされたものらしい。――このことを知ってるのは、今のところ、発見者の営業主任とそれから社長だけだ。
 天元社としては、五十万円ぐらいはなんでもない。然し事柄によりけりで、もし今後もこのようなことが起ると、その影響は測り知れないものがある。それかといって、やたらに社員の誰彼を疑うわけにはゆかない。
 社長の佐竹次郎は、営業部と編輯部の重立った者を、一人一人社長室に呼んで、今後のことを注意してくれるように頼む形式で、それとなく探りを入れてみた。誰の様子にも、嫌疑をかける余地は見出せなかった。ところが、三四の者の表情や言葉尻に、へんに暗合するものがあって、犯人は分ってるが言えないということを推測させた。――その結果を、佐竹は営業主任に話し、なおひそかに調査を続けることにした。その時、紙の問題から、営業主任は菅原のことをちょっと尋ねた。
 菅原が九州に旅したのは、天元社に関する限りでは、福岡と熊本との書籍売捌店への連絡という、ごく軽いもので、なお希望的な附帯事としては、九州で印刷用紙が多少とも入手出来ないものか、機会があったら探ってみるということだった。――その旅行は、一週間か十日間ほどの予定だったが、菅原からは、帰りが後れるとの電報が一つ社長宛に来たきりで、もう数週間を経過している。第一、旅費の点などもどうしているのであろうか。
 菅原に対して、佐竹は嫌疑をかける気はなかった。だが、菅原は少々型破りに勝手気儘すぎる。ちょっと当ってみる必要はあった。
 一年あまり前、菅原は京都の長谷部先生の手紙を持って天元社にやって来た。この長谷部先生は、佐竹が最も尊敬してる思想家なのだ。手紙には、有為な才能だから是非使ってみてくれとあった。菅原自身が言うには、週に四日ばかり、つまり見習とか嘱託とかいうことにして、自由に働かせてくれとのこと。そして彼は、眼を丸く見開いて、じっと相手の眼を見つめた。その彼の目には、策略とか媚びとか卑下とか或は威嚇とか、そのようなものは少しもなく、ただ一徹な純真さだけしかないと、佐竹は感じた。――その時の感銘を、佐竹は今に持ち続けている。と共に、少し当惑してもいる。菅原は頭もよいし才能もあるが、凡そ一徹な純真さにつきものの不遠慮さがある。何事にも勝手な意見を持ち出すし、或は何事にも冷やかな沈黙を守るのだ。
 北村庄作が天元社に立寄った機会を、佐竹は捉えた。――書物の装幀や雑誌のカットなど、天元社の仕事を北村はやってるのである。
 四十五歳のこの画家は、社長室にはいってゆくと、横手の壁にかかってる自作の風景画を、何より先に眺めるのである。彼に言わせると、そこには、強烈な外光の中で、大地がのたうち、樹木が踊り、遠景の丘陵が深呼吸をしているのだ。それをじっと眺めて、それから手当り次第の椅子に腰を下し、十歳ほども年下の佐竹に、至って世間なみな口を利く。
「暑くてかないませんね。お家の方、皆さんお丈夫ですか。」
 佐竹は機会を捉えたものの、いざとなると、話し出すのに困った。開襟シャツの胸元へ扇子で風を送り、それからウイスキーの瓶を取り出した。
「暑いから、却って、こういうもの、いかがですか。」
「いやあ、結構ですな。」
 帽子から服から靴まで、北村は夏でも黒色好みであるが、その黒の上衣を、酒となると脱いで、つぎはぎのあるシャツの上半身姿が、へんに年老いて見える。
 佐竹はおもに煙草で、北村はおもに酒なのだ。
 佐竹は煙ごしに尋ねてみた。
「菅原君から、先生のところへは、なにか、便りがありましたか。」
「菅原……。」北村はぐっと酒をあおった。「あれは手紙を書くのが嫌いな男ですな。」
「どうしてですか。」
「つまり、なかなか書かないから、書くのが嫌いだということになるわけですな。」
 暫く間をおいて、北村は言った。
「菅原君が鉄砲玉のようになってしまった、そんな風に、友人たちは心配をしてるようですが、なあに、私は心配はしない。鉄砲玉は行方不明になるものだが、菅原君は行方不明にはなりはしない。いつか、ひょっこり帰って来ますよ。」
 佐竹は酒をのみ、北村にもしきりにすすめた。
「ところで、先生、僕は気にしてることがあるんです。菅原君には、実は気の毒ですが、なにしろ嘱託ということになってるので、手当も充分には出していません。菅原君はあんな風で、何とも言いませんが、生活をどうして立てているか、先生のお宅にいるので、先生は御存じでしょうね。」
「ああ、そのことですか。金なら、多いにこしたことはない。いくらでも、出せるだけ出してあげなさい。」
「菅原君は、ふだん、困ってるんでしょうね。」
「ところが、困っておらん。私はこの通り、酒飲みで、金がはいればすぐに飲んでしまう。家内がまた、感心な……善良な女で、私にいくらでも飲ませる。つまり、これは、私たちの生活の、家庭の、一種の惰性ですな。私は無一文になると、泣きたいほど憂鬱になる。だが、家内は、いっこう憂鬱にならん。まったく、感心なほどの善良さです。そこへもってきて、うわての善良さが現われて来た。誰だと思いますか。菅原君です。私に酒をひかえなさいと、たった一度、たった一度ですよ、意見したことがあったが、それきりもう何とも言わなくなった。言わないばかりか、時々、ウイスキーにせよ、日本酒にせよ、ビールにせよ、ひそかに家内の手許に届けておいてくれるんです。それで、自分は酒が嫌いかというと、嫌いどころか、いくらでも飲む。だが、ふしぎなのは、つまり、私から見てふしぎなのは、飲んでもよいし、飲まなくてもよいという、自由自在な点ですな。私はかなわんと思いますよ。」
「すると、菅原君には、財産でもあるんですか。」
「財産……そんなものはない。それかといって、ヤミ商売をやるとか、特別な金儲けの手腕があるとか、そんなことでもない。ただ、何かがある。何だかよく分らないが、まあ言わば、パトロンとか、後立てとか、一種のファンですな。それも、俳優とか、画家とか、文学者とか、音楽家とかなら、まだ分るが、そうでないんだから、これもふしぎなことで、つまり、人徳の然らしむるところでしょうな。」
「そうですか。然し心配なのは、こんどの旅行のことです。僕のところからは、せいぜい十日分ぐらいの旅費しか出ていないのに、こう長引くとなると、入費をどうしているか、心配になりましてね……。」
「あ、そうですか、それは気がつかなかった。あとから、金を送っていないんですか。」
「送ろうにもどうにも、居所を知らせてくれないんです。」
 佐竹は立ち上って、窓の扉を少し引きおろした。もし窓が閉っていたら、その扉を引きあげるところだったろうが、すっかり開いていたので、その扉を少し引きさげたに過ぎない。そして彼は室の中をぐるりと歩いて、北村のすぐ側に腰かけた。
「これは、先生にだけ申上げるので、必ず秘密にしておいて下さいよ。実は、困ったことが起りましてね……。」
 佐竹は簡単に要領よく、印刷用紙に関する不正行為のことを話した。
 北村はしばらく佐竹の顔を見ていた。その話をよく咀嚼しようとつとめてるようだった。それから突然、一息うなった。
「犯人は、菅原君だと言うのですか。」
「いいえ、僕は菅原君を疑いはしません。然し、そういう事実があるから、菅原君に早く帰って来て貰いたいんです。」
「違う。断然違う。菅原君はそのようなことをする人間ではありません。」
「勿論そうでしょう。だから、早く帰って来てくれるといいんです。いろいろ、色眼鏡で見る者もありますからね。それに、これは噂というほどのものでもなく、ただちょっとした戯れでしょうが、菅原君は無籍者だなどという影口さえありますから、たいへん不利ですよ。」
 北村は何か衝激を受けたようにきっとなったが、次には急に変って、笑いだした。
「ははは、無籍者とは愉快だ、私もなれるものなら無籍者になりたい。菅原君が聞いたら喜ぶだろう。」
 彼はたて続けにウイスキーをあおった。それから立ち上った。
「私は断言する。菅原君に限って、そのようなけちな不正はやらない。やるなら、もっと大きなことをやるだろう。あなたのところで、天元社で、ばかげた嫌疑を菅原君にかけるようなら、私も、この私も、もう此処には足を踏み入れない。」
 彼は上衣を着た。その袖を佐竹は捉えた。
「分りましたよ。先生の仰言ることはよく分りました。僕も先生と同じ考えです。ただ、このことはくれぐれも秘密に願います。まあも少し、あがっていって下さい。」
 北村は力がぬけたように椅子に掛けた。そしてまた酒を飲んだ。もうだいぶ酔っていた。
「今の話、全く秘密に願いますよ。」
「大丈夫、誰にも言わん。」
 佐竹は階段のところまで送ってきた。北村は挨拶もせずに、真直におりてゆき、真直に街路を歩いていった。突き当りが堀割になる。満潮近い水面からの斜陽の反射が、河岸の柳並木の葉裏に戯れている。
 北村は柳の木影にはいって、帽子をぬぎ、顔の汗をぬぐい、握り拳で額をとんとんと叩いた。
 奇妙な連想が、ふいに頭に浮んだのだ。
 天元社というのは、碁盤の中央の星の天元から取ってきた名前だ。社長の佐竹が碁が好きで、日曜には専門棋士や同好の知人を招いて、碁会を催したりしている。その天元の語感から、一脈の糸を引いて、紹興のことが浮んできた。――料理店紹興は、地名から来たものではなく、支那酒老酒の本場物たる紹興酒から来たものだ。菅原洋平は終戦後だいぶたってから中国から帰国し、東京に出て来た当時は、紹興の奥の一室に寄宿していた。天元社に勤めるようになってから、北村庄作と識り合い、北村の二階に移転して来たのである。
 ――俺は迂濶だった。千重子を紹興に案内した時に、なぜそれを思いつかなかったのだろう。菅原の後援者は、恐らく紹興の主人だろう。
 もっとも、あの時には、菅原の後援者などは必要なかったのだ。然し、今では事情が違う。天元社の不正行為について、たとい幾分でも菅原に疑いがかかっているとすれば、その疑いを晴らすために、菅原の経済的援助者が必要となってくる。それとも、菅原は秘密の財産を持っているのであろうか。
 北村はまた、顔ににじみだしてくる汗を拭った。

 たとい揶揄にせよ或は冗談にせよ、菅原洋平に対する無籍者だとの影口には、その原因があった。
 天元社は終戦直後に出来た出版社で、気勢を揚げるために、主要な関係者や執筆者を招き、社員一同で、ちょっとした宴会を催すことになっていた。社長佐竹次郎の好みで、春秋の彼岸の期間に、年二回なされるのである。
 今年の春には、料亭閉鎖と人員との関係上、上野の精養軒でお茶の会ということになった。茶菓は精養軒で出して貰い、折詰の料理と豊富な酒類はよそから搬入された。印刷や執筆の方面からは、目ぼしい人々は出席せず、ただ雑然たる集合に過ぎなかった。――それが済んで、夕刻、社内の主な人々を中心に、謂わば社長の側近の人々だけ、十五名ばかり、不忍池に臨んだ焼け残りの料理屋で、二次会をやった。
 その中に、田島章吾がはいっていた。彼が天元社への大出資者であることを知ってる者は、社長以外には二三人に過ぎないし、それも田島自身の希望で秘密にされていた。それ故、はたから見れば、彼の存在は聊か場違いの感じがあって、知人も少なく、ただ社長のそばに笑顔で控えてるだけだった。ところが、二次会の料理屋では、顔が、利いてるらしいし、社長をさしおいて何かと指図がましく振舞い、女中風には装ってるがそれと分る芸妓をも四人ほど侍らした。一座が少し白けかけると、彼は隠し芸を提案した。――東京出身者も地方出身者もそれぞれ、郷土の民謡を一つ唄うことにしたい。唄えない者は、なにか郷土自慢の話をすること。
「ついては、僕から言い出したのだから、僕から先ず始めますが、僕は唄の方はだめなので……。」
 そして簡単に要領よく話をした。社長の佐竹君とは同郷の親友であるが、吾々の郷土信州は、北アルプス及び南アルプス其他の高山名山を持っており、人々はそれらの山を観るのに、己が庭に在り己が掌に在るもののように、親愛の情を以てする。そして、山岳に対するこの親愛の情は、人々の気宇を高邁にし、同時に団結を強固にする、云々。
 その自己宣伝は拍手で迎えられた。それから次々に、俗謡や挨拶が続いた。もうしたたか酔っている北村庄作は、立ち上って怪しげな小唄振りをやってのけた。
 菅原洋平の順番になると、彼は煙草を手にしたまま、極めて、平気な顔付で言った。
「僕は郷土という観念を持ち合わせません。僕にもし郷土というものがあるとしたら、その自然、つまり山川草木については、もう倦き倦きして、少しの新鮮みも感じませんし、その人間、つまり同郷人については、汗や垢にまみれた自分の肉体に対すると同様、古くさいその体臭に、嫌悪の念を覚ゆるばかりです。だから、郷土に自分自身を繋ぎとめるもの、例えば戸籍というようなものが、もし売れるものなら、僕は喜んでそれを売り払ってしまうでしょう。国籍とかいうものについても同様です。戦争中、上海では、某々国の領事国でひそかに国籍を売っていたことがありますが、そんなものを買う人間こそ、たとい実際上の必要から出たことかも知れませんが、僕から見れば、実にばかの骨頂です。」
 調子は皮肉でもなく、ふざけてもいず、至極当り前だという風だった。余りに当り前だという風だったので、却って、その言葉は妙な印象を与えた。ふーっと陽が陰ってくるような印象だった。二三の拍手が起りかけて、すぐに静まった。まぜっ返す者もなかった。
 その時、田島が少し勢いこんで反駁した。
「只今の菅原君の説には、僕は賛成しかねますな。そのようなのは、最悪のニヒルとさえ思います。敗戦によって、吾々は、郷土を遠くへ失ったという感じを覚ゆるし、祖国を遠くへ失ったという感じさえ覚えます。その郷土を身近に取り戻すことと、祖国を身近に取り戻すこと、つまり、郷土愛や祖国愛を新たに覚醒させることが、日本の再建に最も必要なことと考えます。現在、右翼にせよ左翼にせよ、政治界に、民族主義的理念が生れかけているのは、新たな日本再建を目指すからに外ならないし、その理念も、郷土愛や祖国愛に立脚するものです。ところが、敗戦当時から今日に至るまで、往々にして見かけられるニヒリズムは、これと全く反対の方向に向いてるものだと思いますが、如何でしょうか。」
 田島はもう直接に菅原へ話しかけてるのではなかったが、それにしても、菅原はそれを完全に黙殺して、平然と煙草をふかし酒を飲んでいた。それがまた異様な印象を与えた。――然し、酒は或る場合には謂わばニヒルなもので、酔った一座は議論を素通りして、次の俗謡に移っていったのである。
 恐らく、その時のそういうことが起因で、菅原洋平に無籍者という影の渾名がついたのであろう。然しそれには、なにか秘密な匂いが多分にこもっていた。――これに反して、支那料理店紹興での同じ渾名は、ふしぎに、一種の親愛の調子で言われていた。
 不忍池のまわりを逍遥しながら、北村庄作は、右のことを頭の中でこね返していた。あの時の菅原の言葉、平明な調子の底にさしている深い憂鬱の影など、へんに気にかかってくるのだった。それから、彼の旅行の遅延、天元社の不正事件、紹興の主人との不明な関係、いろいろなことが気にかかってきた。然し、元来が磊落な性質の北村は、それらの気懸りを一方では楽しむ気持もあった。清水町の家からこの池のほとりへ逍遥に出てくると、たいてい、あらゆる屈託が晴れるのである。
 池の大部分は、戦時中からの名残りの田圃で、爽かな稲の葉先を微風が渡っていた。そこをぐるりと廻って、西側のボート小屋の近くへ来ると、蓮の葉が重なり合って茂っている。後れ咲きの小さな花もあるが、既に大きくなってる実の方が多い。北村は単衣の着流しの足を留め、籐のステッキを両手でついて、蓮を眺めた。画家としての視力に、彼の精神は集中してくる……。
 すぐ後ろに、無関係な通りがかりの人とは違った、なにか気配を感じて、彼が振り向くと、松本千重子の空色の洋装姿が、微笑んでいた。
「なんだ、君か。」
「ずいぶん、一心に見ていらしたわね、これで、花の見おさめ、と思っていらっしゃるみたいよ。」
「そんなことを言うから、君はだめなんだ。私は花を見ていたんじゃない。蓮の葉と蓮の実、これが面白い。ただ少し……。」
「柄が長すぎる。」
「ばか、色彩が足りない。」
「だって、小父さまの絵は、実物にないような色でも、自由自在にお塗りなさるんでしょう。色は物にあるのでなく、光線にあり、でしょう。」
「そう、その通り。」
 北村は笑って、ゆっくり歩きだした。千重子の方でそれに歩調を合わせた。
「ところで、この頃なまけて、休んでばかりいるじゃないか。忙しいのかい。」
「夏休みよ。」
「ああ、そうか。」
 北村はさっぱりしたものだったが、千重子の顔には、さっと或る閃めきが走った。――彼女の顔は、額が広く下廻りに鷄卵形をなし、小さな※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)が少しくしゃくれ、日本人としては異常に色が白く、一面に産毛が密生してるような感じで、長い睫毛の奥の黒目が冴えて見えた。その白い皮膚と黒い瞳に、強い感情の動きにつれて、一種の閃めきがさっと走るのである。
「その夏休みが、早く済めばいいと、思ってるんだけれど……。」
 北村は足をとめて、千重子の顔を見た。
「ははあ、分ったよ。菅原君が早く帰ってくればいいというんだろう。」
「知らない。意地わるね。」
「それだから、私はインテリお嬢さんは嫌いだ。よく分ってることを知らないと言う。嬉しいことを、意地わると言う。もっと素直になりなさい。」
「ほんとは、菅原さんが早く帰っていらっしゃればいいと思うの。だけど、なんだか、それが怖いような気もするの。へんなことが起りそうで……。」
 北村は返事をせず、考えこんだ。暫く無言が続いた。
「それに、もう今から、なんだか、へんなことばかりあるの。」
 彼女の顔に、また、閃めきがさっと走った。
「どんなことだい。」
「お父さまが、御病気らしいのよ。」
「病気らしい……そんなのは、ちっともへんじゃない。たとい病気でも、生き身だから、ふしぎはない。だが、ほんとに病気なのかい。」
「御病気らしいの。それも、とつぜん、ガチャリときて、それからのことだから、心配なの。」
「ちっとも分らん。はっきり言いなさい。」
 千重子はちょっと考えて、それから話した。
 いったい、千重子の父の松本順造は、北村もよく知ってることだが、無口で几帳面であって、激情などは外面に現わさず、如何なる不都合に対しても怒鳴りつけることをせず、常に常識的で冷厳であった。長年大蔵省に勤めた官吏上りの経歴がそこに看取される。特別の趣味も道楽もなく、晩酌の酒を少しく嗜むぐらいなもので、数種の新聞雑誌を精読するのと、或るつまらない会社へ隔日に出かけてゆくのが、唯一の仕事である。まだ六十歳になったばかりの、見たところ頑丈な身体には、それだけでは勿体ないことだが、実は生活疲労と心臓故障とが内部にあった。
 三日前の晩、茶の間の隣りの六畳の室で、松本は晩酌をやっていた。――秩序を重んずる彼は、八畳の茶の間で家族一同と食事を共にし、その後で六畳に引込み、晩酌をする習慣なので、つまり、食事と晩酌とが普通の人とは逆な順になる。その六畳に、ピアノもラジオも蓄音器もあるが、それは晩酌がすむまで使ってはならないのである。
 娘たち、千重子と八重子は、茶の間に居残り、映画や野球の話をしていた。松本のそばには、富子夫人がついていて、途切れがちな低い言葉があった。暫くひっそりとした後、突然、ガチャリ、ピシリ、と大きな響きが起った。
 千重子は隔ての襖を開いて覗いた。父も母も、いつもの通り坐っていたが、父は赤い顔をし、母は蒼い顔をしていた。すぐに、父は立ち上って、奥の書斎の方へ行った。母は身動きもせず、縁側の硝子戸を見つめていた。硝子が一枚、隅っこに破片を残したまま、飛び散っていて、後で分ったのだが、その外の庭石に、九谷焼の銚子が砕けていた。
 父の激怒の乱暴な発作は、嘗てないことで、全く予想外のことだった。原因が不明なだけに、なおさら不可思議だった。母は何とも言わなかった。家中が霹靂に打たれたようにひっそりとなった。――女中が恐る恐るやって行くと、父はもう寝所に寝ていて、氷枕を用意せよと命じた。
 翌日、父は一日寝ていた。頭痛がすると言った。――それきりだが、父はなお、軽微な頭痛と不眠から脱けきれないでいるらしい。
 北村と千重子は、ただ何ということなしに、木影の石に腰をおろして、話していた。北村はステッキの先で地面をかき廻した。
「いったい、お父さんは、何をそんなに怒ったのかね。」
「それが分らないの。あとで、お母さま、裏木戸の夜分の締りを、女中たちにきつく言いつけていらしたから、そのことかしら。あすこは、締りをよく忘れるから、朝早く庭をお歩きなさるお父さまに、何度も見付かるんですの。でも、少しへんね。」
「なにを言うんだ。それぐらいのことで、九谷焼の銚子を投げつけて、硝子戸を打ち破ったりするものか。」
「だからおかしいわ。」
「硝子戸を打ち破れば、それだけ、戸締りが不用心になるわけだ。」
 戸締りを厳重にすることは、松本夫妻の殆んど性癖とも言ってよいほどだった。建物の戸口は固より、表門やその潜り扉、裏庭の木戸、板塀の強弱などまで仔細に見調べねばならなかった。それでも、裏庭の木戸、簡略に裏木戸と言われてるものは、日常の買物への近道に当っていて、時に締りが忘れられることもあった。――そういう事情と関連して、北村は、側に千重子がいるせいか、菅原洋平のことを思い浮べた。菅原は全く反対で、一切戸締りをしない癖があった。夜遅く帰って来ても、表戸を引き寄せただけで、二階の室に上ってゆく。二階の雨戸は昼も夜も明け放したままで、何の締りもない硝子戸一枚きりで、寒中でも寝てしまう。硝子戸きりだと、月も見え、星も見え、室内の空気は爽かだと言う。不用心なことなどは、全然考えていないらしい。戸締りを厳重にするなどは、自分で自分を縛りつけて安心するたぐいの欺瞞的心理に由るものだと、彼は言う。
 北村は愉快そうに笑った。
 千重子は振り向いた。
「なにがおかしいの、小父さま。」
「いや、笑ったのはわるかった。ちょっと、菅原君のことを思い出したものだから……。」
「なにか、お便りがありましたの。」
「すぐそれだ。まあ気にしないがいいよ。ところで、お父さんの方は、つまりその憤怒とか病気とかの方は、なにか原因の手掛りがあったかね。」
「それが、さっぱり分らないの。」
「分らないというのは、まあ結構。心配することはあるまい。」
 北村は立ち上ったが、そこでちょっと考えこんだ。
「小父さま、家まで送って来て下さるんでしょう。」
「そうだね、暫く御無沙汰してるから、伺ってもいいが……。どうも私は、君の家では、あまり歓迎されない部類らしいんでね。」
「あら、そんなことないわ。わたくしだって、八重子さんだって、順一さんだって、小父さまを歓迎してよ。」
「その代り、お父さんやお母さんにはどうかね。殊に、お父さんがほんとに病気とすれば、喜ばれない見舞人は、招かれざる客と同様、ちと肩身が狭いね。」
「お酒もあってよ。」
「誘惑するな。ところで、君はどこに行ったんだい。」
「わたくし……三共の本店に行ったの。グレランの注射薬を買うつもりだったけれど、今は製造元で造っていないそうで、なかったから、ピラビタールの注射薬にしたわ。どちらも同じようなものだと言われたけれど、そうでしょうかしら。」
「薬屋でそう言うなら、そうだとしとく外はあるまい。君が注射するのかい。」
「いやだわ。わたくしどこも痛くはないし、よく眠れてよ。お父さまが、御自分で注射なさるのよ。」
 北村は感心したように首を傾げたが、ちらと眉をひそめた。
「とにかく、私が診察にいってあげよう。」
「お父さまの方はどうでもいいけれど、お酒の方をね。それから、わたくしがいろんなことをお話ししたこと、内緒にね。」
「分っている。どうも私は、君にまで子供扱いにされて、悲観するよ。」
 却って彼は、嬉しそうだった。千重子も微笑したが、その顔はやがて、なにやら打ち沈んだ色に蔽われて、産毛の密生したような感じの皮膚が、生きた表情を失っていった。
 池から広い街路と少しの焼け跡を越えて、その向うの弥生町のとっつきに、松本家は在る。二人は肩を並べて歩きながら、もう黙りこんでしまった。

 松本家へ行って、北村庄作はちと勝手がちがった。ふだんは、富子夫人から、つんと澄した顔で迎えられ、そのすっきり高い鼻に気圧されるのだが、その日は、彼女の鼻がさほど目につかなかった。
「しばらくお見えになりませんでしたね。お忙しかったのですか。」
「お隙なのよ、小父さまは。池の端をぶらついていらしたわ。きっと喉がかわいていらしてよ。」
 千重子は母へ、小賢しげな目配せをした。北村はハンケチで額を拭いた。
「なあに、私にとっては、忙しいのも隙なのも、結局同じことですが……。」
 順造への見舞の言葉を、北村は言うつもりだったが、中途でやめた。病気かどうかも千重子の話だけでは、まだはっきり分らなかった。そして遠慮なく、冷たいビールよりも、熱い酒の御馳走になることにした。千重子が父の書斎の方へ行くと、富子夫人は北村の相手をしながら、いつしか饒舌になった。
 いったい、彼女には妙なところがあった。元から小柄な体躯だが、五十歳近くなってからは、別に背が屈んだとか腰が曲ったとかいうわけでもないのに、いっそう小柄になった感じで、すっきり高い鼻がよけい目立った。その鼻に一種の貫祿を持たせて、多人数の中ではあまり口を利かなかったが、相手と二人きりの時にはよく饒舌り、而も時に応じて、鼻が目立つ高慢な饒舌り方をすることもあれば、鼻が目立たない打ち解けた饒舌り方をすることもある。
「困ったことが出来ました。」と富子は打ち解けた調子で言った。
「田島さんとの縁談、御存じですね。はじめは、ゆっくりしたお話で、わたくしどももそのつもりでおりましたところが、仲人のかたが急に熱心におなりなすって、なんども催促をなさいますし、千重子の方ではあの通り、いつも要領を得ない始末でございましょう。そこへもってきて、松本が、どういうつもりか、おかしいことを言い出しました。まず参考のため、本人の章吾さんの健康診断書が見たいと申すんですよ。そうしますと、仲人のかたは、それはよいことで賛成だと申されて、近日中に、章吾さんの健康診断書と、千重子さんの健康診断書とを、交換することにしたいと、そう言い出されました。きっと、診断書の交換は、結婚の約束の一つと、そんな風にお考えなすったらしいんです。ところが、松本は怒りだしました。千重子に限って、診断書の必要などはない、大事に育てた娘のことだ、そこらのモダンガールとは違うと、たいへんな見幕なんです。仲人のかたもびっくりなすって、失礼なことを申してすみませんと、お謝りなさいましたが、松本はまだ釈然としないらしく、わたくしに対してまでも怒っているらしいんですよ。けれど、考えてみますと、少し妙ですわね。先方の診断書を求めておいて、こちらの診断書を求められると、怒りだすんです。それは、男と女とは違いますし、悪い病気なんかについてのものでしたら、わたくしだって腹を立てますけれど、診断書といっても、女の方は、肺だとか胃腸だとか、それぐらいのところで宜しいではありますまいか。」
「勿論、そうですよ。然し、あの縁談、まだくすぶっているのですか。」
「仲人のかたが、たいへん乗気になっておられますし、こちらからは、はっきりした御返事を申さないでいるものですから……。いつぞや、あなたは、田島章吾さんのことを、社会の寄生虫とか蛆虫とか仰言いましたけれど、それも、言葉通りにお考えなすっているのではございますまい。甘えた総評の仕方もありますものね。例えば、わたくしどもの子供たちなど、あなたのことを、ペンキ屋さんなんて……。」
「いやどうも、手酷しいですね。然しそれも一面の真理で、私はその評語に甘んじていますよ。」
「いいえ、その失礼な言葉も、新聞紙上とちがって、子供たちが申す場合には、親しみを持った甘えたものになりますんですよ。千重子がいつでしたか、松本のことをソロバンだと申しましたが、あの理詰めな物の言い方を、そんな風に甘えて批評したのだと思われます。けれどふしぎに、松本にはこの節、ソロバンらしくないところが出てきました。健康診断書のことで怒ったのも、まあそうですが、天神下の家のことも、そうなんです。御存じでしょうね、あの湯島天神の下に、貸家を一軒持っております。あすこに住んでいる人が、こんど、地方へ越してゆかれることになりまして、そのあとを、ほかのかたへ貸して貰えまいかという話がありました。がわたくしどもでは、売り払いたいと存じますんですよ。小さな家ですが、ちょっと洒落れた造りで、手離すのは惜しい気もしますが、貸家を持っていることは何かと面倒なもので、それに、生活だって楽ではございませんものね。その家に、幸いと、よい買い手がついたんですよ。価額はこちらの希望通りいくらでもよいから、是非譲ってくれと、以前町会の役員をしていた人を仲に立てて、申し込んできました。ところが、その買い主が、中国の人とかいうことで、松本はなかなか承知しません。中国人だからいやなのではない、朝鮮人でも、ヨーロッパ人でも、アメリカ人でも、とにかく外国人には、あの家は譲りたくないと、そう申すんですよ。理由は別になにもなく、あの家は実はあまり手離したくないのだと、それだけのことなんです。手離したくない家を売却するからには、価額のことや其他で面倒な交渉をするよりも、こちらの言い値で、それもそっくり現金で、いつでも取り引きをしたいという人へ、お譲りした方が、いちばんソロバンに合ったことではありますまいか。わたくしには、どうも、腑に落ちないことが多いんですよ。」
「一度言い出したら、松本さんは頑固ですからね。」
「それも、筋の通った理屈に合ったものでしたけれど、この節は、思いがけないことにこだわる場合がありますので、年をとったせいかとも思いますけれど……。」
「いや理屈に合わないへんなことに固執するのが、頑固というものですよ。」
「その代り、以前よりは気が弱く、素直になった点もありますのよ。天神下の家を手離すことも、わたくしから言い出したことで、二日ばかり考えたあとで、お前の好きなようにしなさいと承知してくれました。」
「そんなら、誰に売ろうと、奥さんの自由じゃありませんか。」
「それでも、肝腎なことはやはり相談致さなければなりません。」
「その買い主の中国人は、いったい、どういう人なんですか。」
「自分で住むつもりだというお話でした。周組南とか、学者みたいなお名前ですよ。」
「え、周組南……。」
「御存じですか。」
「或は、私の知ってる人かも知れません。その人なら面白い人物です。少し待って下さい。私が調べてきてあげます。」
 周組南……支那料理店紹興の主人の名がそれだった。まさか同名異人ではあるまい、と北村は思った。よい老酒を飲ませるという意味で、老酒の本場物の紹興酒からとってきた紹興だが、今ではその老酒が手にはいらないのを、周さんは悲しんでいると、菅原洋平から聞いたことがあった。――果してその周さんなら、家のこともひとつ尽力してやろう、それにしても、菅原が早く帰って来れば好都合だが。……思いはまたその方へ行って、北村はいまいましく酒を飲んだ。
「よい値にさえ売れますれば、わたくし、中国の人にでも、どなたにでも、お譲りして構わないと思っております。このようなこと、簡単なソロバンの上のことですもの。株券のことにしましても、わたくしは簡単に考えておりますが、松本ときましては、時々、へんなことにこだわる場合がございますのよ。」
 そして富子の話は、株式のことに及んでいったが、その方面のことは北村にはさっぱり不案内だった。ばかりでなく、彼女の話はあちこちへ飛び移るので、全体の印象は甚だ稀薄で、いったい何を話しているのか、彼女自身にも分っていないのではあるまいかと思われた。北村がひそかに期待していたこと、松本順造の病気、或はその乱暴な振舞のことは、彼女の口には少しも上らなかったし、北村も言い出しそびれてしまった。
 千重子と八重子がいっしょにやって来た。
 八重子はくすりと笑って言った。
「お姉さま、とてもずるいのよ。」
 富子が探るような顔をその方へ向けた。
「お父さまが、あのビラ……なんとかいう薬を、お姉さまに、注射してみろと仰言ったのよ。これからの家庭の婦人は、皮下注射ぐらい覚えておかなければいけないんですって。すると、お姉さま、親の肌に針を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ことは気持ちが許しませんと、大真面目に仰言るのよ。注射の仕方を知らないと、簡単に言えばよいのに、ねえ。」
「あら、八重子さんだって、同じことを言ったじゃないの。」
「わたくしの方へお鉢が廻ってきたから、お姉さまの真似をしただけよ。」
「真似するのは、なおわるいわ。……でも、お父さま、嬉しそうにお笑いなすったわね。よく見覚えておきなさいと、御自分でなさりながら、嬉しそうだったわ。」
「もう済んだんですか。」と富子夫人は尋ねた。
「ええ、すっかり。」
 富子夫人は黙って立っていった。
「ねえ、小父さま、このお酒、どう。」
「うむ、上等だ。」
「わたくしも、一杯いただこうかしら。」
「一杯でも二杯でも、遠慮なく飲みなさい。」
 八重子が、まるい眼をくるりと動かした。
「小父さま、酒をあがると、よい絵がおかけになるんですって、ほんとうなの。」
「誰がそんなことを言ったかね。」
「だって、小父さまの絵は、物の形がみんなまがっていて、酔っ払いのかいたものだって……。」
「ははあ、絵の分らない奴の影口だな。然し、いいかね、物をじっと見つめていてごらん。この銚子でも皿でもいいから、じっと見つめていてごらん。必ず、形がまがってくる。なぜまがるか、分るかね。眼の錯覚じゃないんだ。光線のせいだ。つまり、色彩のせいだ。まっすぐな形ばかり書く奴は、色盲患者か、本当の盲人かだ。明るい光りの中に生きていて、色彩がはっきり見える画家には、物の正形というものはない。すべての物体は、光線によってデフォルメされるんだ。」
「だから、小父さまのお弟子さんの、お姉さまの絵も、へんな恰好になるのね。」
「ばかね。お酒をぶっかけるわよ。」
 千重子がお銚子を持ちあげると、八重子は縁側まで逃げていった。
「あ。」
 そして静かに言った。
「お父さまが、お庭に出ていらっしゃるわ。」
 あちらの、奥の座敷の前庭に、藤棚があり、その青葉の影に設けられてる円卓と腰掛に、松本順造が休らっている。
「私が挨拶してこよう。酒を飲んでいたんで、少し工合が悪いな。」
 北村は庭におりていった。
 松本順造はもう六十の年配だが、身体は頑丈で、印刷物を読む時以外は老眼鏡を用いず、浅黒い顔と禿げ上った前頭部とに重々しい貫祿がある。――北村にちょっと会釈を返し、傍の腰掛をすすめたまま、機嫌がよいのか悪いのか分らない表情だった。
 千重子が用を聞きに来ると、彼は紅茶を求め、北村のために酒を持ってこさした。
「ちょっと眠りたいから、薬が利くまで、三十分ばかりで御免蒙るよ。」
「どこか、お悪いのですか。」
「この頃、どうも体の調子が悪いので、小泉博士に詳しく診察して貰うことにしているが、さし当っては、なるべく眠るように心掛けている。睡眠が第一だからね。」
「小泉さんから、なにか、注意でもありましたのですか。」
「いや、まだ診て貰ったわけではない。」
 そこで、暫し言葉がとぎれた。
「さあ、遠慮なくやってくれ。」
 すすめられるままに、北村はまた酒を飲みはじめた。
「どうも、わるい予感がしていかん。実際のところ、僕がどっと寝ついたりすると、富子はあまり丈夫な方ではないし、順一はまだ学生だし、娘は二人とも世の中のことを知らないし、困ることが多いだろうと思って、ばかな取越し苦労をするんだよ。そこへゆくと、君なんか、いつも呑気でいいね。」
「それもまあ、酒飲みの特権みたいなもので、あまり自慢にはなりません。」
 北村は唇を噛んだ。心にもないことを言ったものだと自分でいやになったのだ。そして言いなおした。
「それとも、画家の性分かも知れませんね。」
 それでも、まだ、しっくりしなかった。
 松本は黙っていたが、やがて言いだした。
「取越し苦労ばかりでなく、どうも、僕の方の心境にもいけないとこがある。家の者たちにとって、僕が重荷になっているのではないかと、そのように感ずることがあるよ。僕が重苦しく、みな僕を敬遠しているのではないかと、そのように感ぜられるのだ。なるべく僕を避けようとしている。僕が出て行くと、賑かな空気は薄らいで、やがて一人ずつどこかへ逃げてゆく。そしてもう僕という者には無関心だ。彼等の眼の前に僕がいさえしなければ、それでよいのだ。そのくせ、富子は些細なことまで僕に相談して、僕の指図を受けなければ、自分一人では何事も決断出来ない。子供たちも、富子に相談して、お父さまに聞いて下さいと言う。万事の重荷を僕一人に背負わせるのだ。その重荷を背負った僕が、一方ではまた逆に、皆を重苦しくさせている。これはどういうことかね。時々僕は癇癪を起したくなる。じっと我慢をしてはいるが、どうにもやりきれなくなって、癇癪を破裂させることもある。要するに、神経衰弱だ。それが僕の主な病気だよ。然し、この病気には、やはり肉体上のはっきりした原因がある筈だ。それを、小泉博士につきとめて貰いたいと思っているのだ。」
 彼は口を噤んだが、北村にも言葉は出なかった。――一家の主長、それも謂わば絶対的な主権者が、右のような打明け話をするのも、而も平素あまり好まれていないらしい北村に向ってするのも、やはり一種の神経衰弱のせいだったろうか。偶然の機会で打明話の相手になった自分の立場を、北村は不思議なものに感じたし、松本の立場を痛々しいものにも感じた。その感じを押し隠すようにして、彼は卓上に眼を伏せたままでいた。
 松本は立ち上った。
「それでは、これで失礼するよ。あちらで、ゆっくりしていってくれ給い。田舎からの到来物だが、折よく酒があるから、子供たちと遊んでいってくれよ。子供たちには、君のような遊び相手がいちばん嬉しいらしい。」
 思いがけないほど元気に彼は笑った。
 北村はつっ立って、松本の前屈みの後姿を見送った。それから、銚子や猪口などの盆を自分で持って、茶の間へ戻って行った。
 縁側の柱にもたれて、千重子が立っていた。その白い顔に、さっと閃めきが走った。
「お父さまと、どんなお話をなすったの。」
 北村は頭を振って、上にあがり、食卓の前に胡坐をかいた。
「小父さま、御診察の結果を聞かして。」
 北村は煙草を勿体らしく吹かした。
「なあに、病気でもなんでもないよ。診察どころか、あべこべにやられた。君たちの相手に、つまり子供たちの遊び相手に、私は丁度向いてるんだそうだ。も少し飲むよ。」
「何か、隠していらっしゃるのね。」
「いや隠すことなんか何もない。飲みたいというのが、僞りのない本音さ。」
 然し、北村は落着かない気持ちだった。酒のまわり工合もわるかった。やがて、八重子も出て来、富子夫人も出て来たが、松本は一人で書斎に寝ているのかしらと考えると、それがへんに気になり、自分の様子や言葉を三人から注視されてるらしいのも、へんに気になり、いい加減に辞し去った。まだ陽が沈まず、ぎらぎらした外光が大気に漲っているのが、変梃だった。
「お大事に。私も健康に気をつけます。」
 妙な挨拶を彼はした。

 小さな台風が房総半島の沖合を通過した、その影響で、東京は、午頃から可なりの暴風雨となった。風と雨との圧力が大地に押っ被さり、板塀を揺ぶり、樹木の枝を折り曲げ、水沫を立て、荒々しい呼吸をなして秒を刻んだ。夜になってもやまなかった。戸外には出られないが、屋内にあっても落着けなかった。
「なにか、ゲームをしない?」
 言い出したのは千重子で、八重子がすぐに賛成し、順一は曖昧な表情をした。
 ゲームといっても、マージャンは道具がないし、誰も知らない。トランプかハナフダの遊びだ。人数も三人で足りる。
「貴重な時間だが、お相手をしてやるから、それ相当なもてなしをするんだよ。」
「するわ。何がいいの。」
「紅茶と、水菓子と……お酒。」
「お酒なんか、お父さまに叱られてよ。」
「大丈夫だ。知ってるよ。安物の下等なウイスキーがある筈だ。あんなもの、お父さん飲みはしないよ。」
「いよいよもって……。」
「なんだい。」
「不良大学生。」
 その不良大学生の、靴下のつぎをしていたみよやが、仕事を置いて立ち上ろうとするのを、千重子はとめた。
「いいわ、わたしたちがするから。」
 トランプなら、茶の間より、洋間の応接室の方がよい。またその方が、父順造の書斎からも遠い。
 飾附から家具の類まで、極めて尋常でそして可なり贅沢な応接室の片隅、円卓のまわりにソファーを引き寄せて、席を拵えた。洋間のせいか、風雨の音は柔らいだように思え、そしてむし暑い。順一は風下の方の窓を開いた。
 ゲームとなれば、トランプにしてもハナにしても、八重子は慎重に一手一手を考え、千重子はめくり札の天運を楽しみにし、順一は無理やりに大きなヤクを狙うのが、いつもの癖だ。順一の狙いが偶然に当ると、八重子は札を投げ出して口惜しがり、千重子はけろりとして言う。
「山勘も、たまには成功さしてやらないと、可哀そうじゃないの。」
「負け惜しみを言うなよ。」と順一は応酬する。「山勘というのは、自分の能力に自信がなくて、お姉さんのように、ひたすら天運を当にすることだ。僕のは違う。自分の能力を自覚し、それに信頼して、大事を企てるんだ。山勘じゃないよ。」
「それでは、野心……野望……。」
「卑俗な言葉きり知らないんだな。そんなことを言うから駄目さ。自分の全能力を挙げて運命を開拓する、そういうチャンスを発見し、そのチャンスを確実に把握する……そんなこと、女には分らないかも知れない。」
「分るわよ。」
「じゃあ、それを何と言ったらいい?」
「そうね、挺身は……。」
「語感がわるいよ。僕たちの文学の方では……。」
 順一は額に掌をあてた。
「ごらんなさい。良い言葉がないじゃないの。」
「あるさ。自己主張、自己表現……。」
「なんだか、少し違うようだわ。」
「文学が分らない者には、そんなことは分らないさ。」
「だって、おかしいわ。スペードばかり狙ったり、カスばかり拾ってワラヒを狙ったりするのが、自己表現になるの。」
「そんなことを言ってるんじゃないよ。例えば……。」
 八重子はトランプの札をきりながら、つまらなそうに促した。
「早くしましょうよ。」
「まてよ。いまお姉さんを教育してるんだから。」
 順一は室の中を見廻して、ちょっと憂鬱そうに眉をしかめた。
「この室を眺めてごらん。相当に贅沢な応接室だ。大蔵省の局長まで勤めあげた官吏で、退職後は、一流銀行の取締役をしている人、それにふさわしいだけの応接だ。然し、僕はこの室を眺めていると、なんだか淋しくなる。じかにお父さんのことを考えるからだ。この室のどこに、お父さんと、お父さんという人と、直接に繋がりのあるものがあるだろうか。何もない。煖炉棚の上の陶器類、戸棚の中にぴかぴか光ってる小筥類、それから卓子や椅子やクッションや絨緞など、どれもこれも、今時としては立派なものではあるだろうが、謂わば、どこにでもある普通なものに過ぎないじゃないか。要するに、特性がなく個性がない。この応接室は、お父さんのものとは限らず、誰のものだっていいんだ。凡そ応接室にあるべきものは一通り揃っているが、特別なものは何もない。万人向きの極めて平凡普通な応接室だ。」
 千重子が黙っているので、八重子が言った。
「何の特長もないことも、やはり一つの特長だって、何かに書いてあったわ。」
「そんなことを言う奴は、個性というものを知らない阿呆さ。何の特長もないというのは、つまりゼロのことだよ。ところが1、2、3……または、マイナス1、マイナス2、マイナス3、……みなそれぞれ特性があり、個性がある。だが、ゼロにはなにもない。ゼロはどこまでもゼロさ。ゼロに個性があるかい。」
「あるわ。」
「じゃあ言ってごらん。」
「わたしにはうまく言えないわ。お姉さま、説明してよ。」
 千重子は微笑していた。
「ふしぎねえ。順一さんは、お父さまの応接室のことなんか、勇敢に批評するけれど、お父さまの前に出ると、すっかり黙りこんで、ろくに口も利けないじゃないの。」
「お父さんの方で黙ってるから、僕の方でも黙ってるだけさ。お父さんがいろんなことを話して下すったら、僕だってなんでも饒舌る。だがお父さんは、まるで僕が一つの家具みたいに、少しも言葉をかけて下さらない。だから僕の方でも、お父さんを……一つの偶像として、黙っているんだ。」
「順一さんの方はそれでもいいけれど、お父さまは、きっと淋しいのよ。それで、癇癪を起しなさったりするんじゃないかしら。」
「僕としては、大いに癇癪を起して貰いたいね。器物を投り出して壊したりするのは、つまらんが、雷が落ちるように怒鳴りつけることは、お父さんのために却っていいと思うよ。お父さん自身の形式打破になるんだ。あらゆる種類の形式に囚われて、お父さんはがんじがらめになっておられる。世間的な体面だとか、家の格式だとか、誕生日やお正月やお盆や、あらゆる祝儀不祝儀のおつきあい、庭の草むしりから戸締りまで、無言のうちに生活様式が規定されてしまってるじゃないか。お父さんの生涯だって、長年の官吏勤め、一歩一歩の昇進、局長までいって辞職して、銀行の取締役、すっかり型にはまった経歴じゃないか。食後に別室で晩酌をなさるのなんか、形式主義の最も象徴的なものだ。そういうあらゆる種類の形式に対して、お父さん自身で癇癪を起しなさるのに、僕は同情と同感を持つよ。」
「御病気に対しても?」
「御病気というけれど、大したことじゃないだろう。小泉先生にはまだ診察をお受けにならないの。」
「はじめは、くわしく診察をして貰うつもりだと仰言っていらしたけれど、この頃では、も少しよくなってから診て貰うんだと、へんなことを仰言るのよ。」
「も少しよくなってから診て貰うって……それじゃあ、ほんとに御病気かなあ。」
 そこで、話はとぎれた。戸外の暴風雨は、強まるとも衰えるとも分らず、ごうごうと荒れている。父も母も女中も、どこで何をしているのであろうか。応接室の片隅に寄り集ってる三人だけの世界が、他から切り離されて、ぼっと明るかった。
「こんどは、何をしましょう。」
 八重子は不満げに、トランプとハナの札をいじくった。
「女たち相手ではつまらんよ。それよりは……。」
 順一はウイスキーを飲んだ。がすぐに、また言った。
「ね、コリントをしない。あの方が嵐の晩にふさわしいよ。」
「ごろごろっと雷の代り。」と千重子が言う。「どこにあったかしら。」
「わたし知ってるわ。」
 八重子が立って行った。
 やがて、八重子はにこにこして戻って来た。
「お母さまに、お菓子をねだってきたわ。」
 それはよいが、コリント・ゲームの鉄の丸は、久しく使わないので、赤く錆びていた。ぼろ布と油とを取りに、八重子はまた立って行った。そして三人で、鉄の丸を磨いた。
「ずいぶんひどいわ。これで出来るかしら。」
「出来るよ。だが、少し意外だね。鉄の丸がこんなに錆びてる、それだけ僕たちは成長したというわけか。感慨無量だね。」
「まあ、順一さんにも似合わない台詞ね。今晩、順一さんはどうかしてるわ。」
「見損っちゃいかんよ。僕だって日に日に成長してるんだからね。」
 電燈が二回ばかり瞬いて、すーっと消えてしまった。暗闇になるかと思われたが、眼が馴れると、ぼんやりした明るみが戸外の大気中にあって、暴風雨の音がひときわ烈しい。
「ランプを持って来ましょうか。」と八重子が言う。
「まあ待てよ。野蛮趣味もたまにはいいよ。」
「なあに、野蛮趣味って。」
「電線はあっても、電燈がつかないことだ。水道の鉄管はあっても、水が出ないことだ。瓦斯管はあっても、瓦斯が出ないことだ。つまり、鳥や獣と同様、太陽といっしょに起きて、太陽といっしょに眠り、天然の水を飲み、煮炊きしない生の物を食うのさ。」
「そんなこと、お兄さま好きなの。」
「好き嫌いの問題じゃない。ちょっとした趣味さ。」
「だから、分ったわ……ねえ、お姉さま。」
「なんだよ。」
「不良趣味。」と千重子が言った。
「また、ばかなことを言う。不良というものはね、身を持ち崩すことを言うんだ。道徳的な行いをするにしても、不道徳な行いをするにしても、自分自身を持ち崩すことを言うんだ。たとい品行方正であるとしても、自分自身を持ち崩せば、不良なんだ。その代り、どんな不埓なことをして、どんなに羽目を外しても、自分自身を持ち崩さなければ、善良というものさ。それが近代道徳だよ。」
「おかしいわ、順一さんが道徳の講義をするなんて。嵐のせいね。」
「そしてずるいわ。」と八重子も言った。「暗いのをいいことにして、お酒ばかりのんで、ちっともコリントの丸を磨かないんですもの。」
「下らない仕事は、男子のすべきことじゃないよ。」
「だって……男女同権……。」
 ぼーっと明りがさして、火のともった蝋燭をみよやが持って来た。その燭台の乗ってる盆には、菓子鉢と茶の土瓶もあった。
「ランプがくらいものですから、お蝋燭に致しました。」
 蝋燭の火がちらちら揺ぐので、みよやは開いてる窓をしめて、急ぎ足に廊下へ出て行った。
「停電で忙しいんだよ、きっと。手伝っておいでよ。」
 そして順一はもう、菓子鉢の羊羮を一切れつまみあげていた。
「お兄さま、ずるい。わたしたちがいない間に、お羊羮をみんな食べてしまうつもりよ。」
「ふふふ、ばれたかな。だけど、僕の策略を見破るとは、八重子さんもずるいぞ。」
「だってこのお羊羮、わたしがお母さまにおねだりしてきたのよ。」
「その功績は認めるよ。」
 順一はまた一切れつまみあげて、ちょっと宙を見つめた。
「いったい、贅沢だな。」
 彼は羊羮を肴にウイスキーを飲んで、言い出した。
「家のことだよ。お母さんはまだ丈夫だし、健康な御令嬢が二人もいて、そして女中まで使っている。今時、贅沢なことじゃないか。」
 千重子が眼を挙げて、順一の顔をじっと眺めた。
「今日は順一さんどうかしてるわね。それとも、もう酔ってるの。」
「酔ってるものか。どうもしていない。ただ、少し心配だよ」
「家のことが?」
「そうさ。収入なんか殆んどないだろう。お父さんは銀行の取締役をしておられるが、常務とか専務とかではないし、所謂サラリーマン重役で、報酬は従業員なみだ。それぐらいのこと、僕だって知ってるよ。こないだ、靴と鞄を買いたいとお母さんに言ったら、ちょっと待ちなさいという御返事だった。株券をだいぶまとめて手離しなさるつもりらしいんだ。それから、天神下の貸家も売るとか売らないとか……お姉さん知ってるだろう。」
「よく知らないけれど、お母さまがなんどもお勧めなすって、お父さまも決心なすったらしいの。」
「お父さんはいつも現状維持主義だから、ちょっとした決心でも容易でない。そこへゆくと、お母さんは呑気でもあるし、思い切りがいい。だから、お母さんはお父さんにとって、いつもプロモーターの役目をなさるんだ。お父さんがもし僕にいろんなことをお話しなすったら、僕はもっと有力なプロモーターになるんだがなあ。」
「有力かも知れないけれど、有害ね。」
「家のように旧弊なところでは、現状打破は、有害どころか、常に有効だよ。」
「没落のためにね。」
「そうさ、没落のために。お姉さんが言うのとは、たぶん、意味がちがうかも知れないが、没落が必要だよ。ところが、お父さんは没落を最も嫌っておられるし、お母さんは没落の意義がお分りになっていない。没落というのは、単に経済的破綻を指すのではなく、経済的破綻をもひっくるめて、すべてを救うための、精神の落着け方を言うんだ。精神をどういう所に落着けて、そこからどういう風に立ち直るか、その地盤が問題なんだ。」
 ぱっと、電燈がついた。蝋燭の火が夢のように薄らいで見える。三人は顔を見合わせて、ぼんやり微笑んだ。順一は蝋燭を吹き消した。
「没落の話なんかつまらん。コリントをやろう。」
 暴風雨は、電燈がついたせいか、多少静まりかかってるようにも思われたが、まだなかなか止みそうにはなかった。室内はむし暑かった。風下の窓を開くと、冷かな夜気が流れこんできた。盤上をころがる鉄の丸が、風雨の音に調子を合せて、ゲームに気乗りがした。
 コリントでも、八重子はいちばん慎重であったし千重子は二つ丸を突くのを喜んだ。順一は中央の五十点を陥れるのが得意だった。
「どうだい、五十点が六つも並んだ。」
「盤を傾けてやしないの。」
「やきもちやくなよ。フェアー・プレーさ。」
 一人がやってる間、二人は遊んでおられるが、別に話すこともなく、鉄丸の行方を皆の眼が見つめていた。
 みよやが静かにはいって来た。
「お嬢さまに、お電話でございます。北村さまから。」
「あら、北村の小父さま、今頃なんだろう。」
 千重子は廊下に出て、電話室の方へ行った。
 北村庄作の声の調子は、ずいぶん酔ってるようだった。
「どうしたんだい。電話がいっこう通じない。何度もかけさしたんだよ。君を喜ばせようと思ってね。私が言った通りだ。菅原君が帰って来たよ。」千重子は息をのんだ。「無事に帰って来たよ。元気だ。おみやげが、話のおみやげが、君へはたくさんあるそうだ。とにかく、それだけ知らせておく。」どこから電話しているのかと、千重子は尋ねた。北村の家に電話はないのだ。「どこでもいいさ。いずれ逢ってから話す。愉快なことがあるよ。菅原君が帰って来たんだから、安心して、ゆっくりやすみなさい。」
 千重子は応接室に戻っていった。
 順一と八重子が、千重子を見上げた。千重子の顔は蝋のように緊張していた。
「何だい。」と順一は尋ねた。
「うん、何でもないの。」
 だが、千重子は立ったまま、暫く席につかなかった。
「グラスは……。わたしも少し飲むわ。」
「あの小父さんのことだから、どこかで飲んでるんだろう。電話口で、名前を間違えたんじゃあるまいね。僕にかければ、すぐに飛び出してゆくんだがなあ。」
 誰も返事をしなかった。風雨の音が続いていた。
「ゲームを始めるよ。いいかい。」
 順一はコリントにかかった。
 八重子はそっと千重子に囁いた。
「何のことだったの。」
 千重子は黙っている。
「わたし、分ったわ。菅原さんのことでしょう。」
 千重子は頷いた。
「帰っていらしたの。」
 千重子は頷いた。
「あら、そう。」八重子は大きな声をした。「旅から帰っていらしたの。」
 順一が振り向いた。
「誰が帰って来たんだい。」
「菅原さんよ。旅に出たっきり、あんまり長びくから、みんな、心配していたところなの。帰っていらしたんですって。」
「なあんだ。旅に出た者は、帰って来るにきまってるじゃないか。十万億土の旅じゃあるまいし、それで、どうしたんだい。」
「それだけよ。」
「呆れた人たちだ。それだけの電話か。」
 順一はまたコリントにかかったが、ふと、その手を休めた。
「もっとも、北村の小父さんは子供っぽいところがあるね。画家はいったいに子供っぽいものだが。あれで、も少し勿体ぶらなくて、子供っぽさに徹するといいんだがね。やはり成年者だよ。」
 八重子は頓狂な円い眼付をした。
「成年にきまってるわ。もう四十と幾つかでしょう。」
「困るねえ。一々説明をつけなくちゃ、話が通じやしない。僕の言うのは、年令のことじゃないよ。精神のことだよ。人の精神には、成年者と未成年者とがある。そのことで、こないだ、友人たちと大議論をしたんだ。戦争後、人類は新たな時代にふみこんだと言われている。日本だけのことじゃないよ。第二次大戦後、新たな時代が開けかけた。一口に言えば、原子力時代だ。ところが、この新時代を背負って立つ者は、現在の未成年者でなければならない。現在の未成年者が、やがて成年者になった暁に、初めて新時代がほんとに開けてくる。現在の成年者はすべて、その新時代には何の役にも立たない。だから、ここで、新時代のために有能な未成年者の陣営と、新時代にとっては無価値な成年者の陣営と、二つに人間は分れるんだ。政治的イデオロギーのことを言うんじゃないよ。精神の在り方のことを言うんだ。」
「また、お兄さまの話はいつも、精神の在り方ね。そんなの、大学生の議論よ。ねえ、お姉さま。」
 千重子は黙っていた。
「大学生の議論だっていいさ。とにかく、精神上の成年者と未成年者とがある。北村の小父さんは、惜しいことに成年者だ。そのほか、たいていは成年者ばかりだ。田島さんにしろ、井上さんにしろ、野口さんにしろ、若いくせにみな成年者だ。菅原さんは、僕はよく識らないけれど、未成年者らしいところを多分に持ってるようだが、その代り、ニヒリストらしいところがある。」
 八重子は微笑んだ。
「そんなら、わたしたちは?」
「結婚前の女は、たいてい未成年者さ。それが、結婚するとすぐ、豹変し変質して、成年者になってしまう。浅間しいものだ。」
「そうすると、未成年者は、お兄さま一人と、天下の処女たちね。おかしいわ。」
「ばか。僕の友人に、未成年者はたくさんいる。」
「お酒は?」
「永遠の未成年者だ。」
「コリント・ゲームは?」
「今晩だけの未成年者だ。」
「暴風雨は?」
「これも、永遠の未成年者だ。」
「お羊羮は?」
「成年者だね。」
「あら、とうとう成年者が出て来た。」
「成年者は早く食べてしまえよ。目障りだ。」
 羊羮をかじり茶をすすり、順一と千重子はウイスキーも飲んだ。
「実は、僕たち友人数名で、未成年者の仲間というのを拵えてるんだよ。新らしい人間の探求が目的だ。これがなかなか厄介でね、新らしい人間とはどういうものであるか、それを規定するには、在来の形式的なもの、つまり人間を歪めてるものを、まず摘発しなければならないんだ。だからさし当っては、あらゆる方面での形式打破。そして更に本質的には、成年者排斥だ。それからまた、一層面倒なことが起ってきた。未成年者はこれから、驚異的に発達する科学を制御しなければならないから、人間としての深い智慧を持たねばならない。その智慧をどこに求めるかが、重大な問題だ。そんなことを僕たちは研究している。途方もない意見が出てくるよ。こんど会合に連れていってやろうか。傍聴者に門戸は鎖さないんだ。」
「会合の場所はどこなの。」と千重子が尋ねた。
「どこと定ってやしないよ。喫茶店のこともあれば、おでん屋のこともあれば、野原でやることだってある。ウイスキーが二三本あればいいんだからね。」
「まあ、あきれたものだ。」
「勿論、書斎でやることもあるよ。こんど、この応接室を使わして貰おうかな。」
「性格がないわよ。」
「野原だって性格はないさ。僕たちの会合にはその方がいいんだ。」
「いつかのお集りはそうだったの。」と八重子が言った。「ずいぶんおかしかったわ。」
「何が?」
「山男のお話。」
 順一は怪訝な眼付をした。
「山奥で山男に出逢ったとかいう……。」
「あ、あれか。帆刈の話だから、当にはならないがね。」
 ――帆刈が友人と三人で、奥秩父に旅行した時のことだ。秩父の山はさほど高くはないが、奥が深い。どうしたことか道に迷って、大木の根本で一夜を明かすことになった。毒虫や獣を避けるために、火を焚いて、三人で元気をつけ合った。夜が更けるにつれて、寒さが増してきた。ますます火を焚いた。ところが三人ともしきりに睡気を催す。うっかりしていると、眠りこけてしまいそうだ。我慢していたが、とうとう、三人ともうとうと眠ってしまったらしい。そしてふしぎに、一度に眼を覚した。見ると、誰か怪しい者が、焚火にあたっている。髪がぼうぼうと伸び乱れ、顔半分は髭にかくれ、ぼろぼろの布を身にまとい、手足の爪は長く、眼ばかりきらきら光っている。それが、いつまでも黙って火にあたっている。三人も黙っていた。少し馴れてくると、三人は焚火に枯枝をなげこんで、火勢を大きくした。虚勢を張って煙草を吸った。怪しい男はまだ黙っている。どうやら、山男らしく思われる。山に住んでる人ですかと、一人が決心して尋ねた。山男はただ頷いた。いろいろ不自由でしょうねと、尋ねてみた。山男は頭を振った。それでも何か不自由な物はありませんかと、尋ねてみた。山男は煙草を指差した。上げましょうと、煙草を差出すと、山男は頭を振り手を振った。煙草は吸わないらしい。ほかに不自由はありませんかと、尋ねてみると、山男は靴を指差した。仕方なしに、一人が靴をぬいで差出すと、山男は頭を振り手を振った。彼はいつも跣だから、靴をはく必要はないらしい。ほかに何かいりませんかと、尋ねてみると、山男は頭を振って、立ち上り、すたすた彼方へ歩き去っていった。
「どうも作り話らしいが、僕たちの結論はこうだ。人間というものは、日常、必需品のためにばかり齷齪しているが、何かほしい物はないかと改まって聞かれると、最も不必要なもの、つまらない物を、ほしがるのだ。」
 千重子はウイスキーを飲んだ。
「それが、あなたたちの文学なの。」
「文学の素材だよ。」
 順一はにこにこ笑っていた。
「ばかねえ。そんなことより、コリントでもしましょうよ。もうわたし、決して負けないわ。」
「よし、やろう。」
 ゲームになると、千重子は今迄よりは見違えるように強かった。
「ふしぎだなあ。酒のせいかな。」
「くやしかったら、しっかりおやりなさい。」
「僕の方は少し飲みすぎてるんだ。」
 暴風雨はだいぶおさまりかけていた。雨音は弱まり、風の息吹きが長くなった。話が途切れると、盤上の鉄丸のころがりだけが、心を奪った。
「あ。」
 低い声を八重子が立てた。扉のところに、父が立っていた。単衣の着流しに帯をぐるぐる巻きつけてるだけだが、その頑丈な体躯と、禿げ上ってる額と、たじろがない眼差しとに、なにか威圧的なものがあった。
 三人とも立ち上った。黙っていた。
 父は真直に歩いて来た。
「なんだ、コリントか。」
 にこりともせず、眉も動かさなかった。
 父は室の中をぐるりと見廻した。
「遊んでしまったら、窓をよく閉めておきなさい。」
 そして父は真直に出て行った。
 三人はつっ立ったままでいた。父の出現は夢のような印象だった。風の音が急に耳に響いてきた。千重子は八重子を軽く突っついた。
「おやすみなさいと、なぜ御挨拶をしなかったの。」
「だって、お姉さまも、黙っていらしたんじゃないの。」
 千重子は唇をきゅっと歪めた。窓の方へ行って、開いてる扉をしめきり、なにか考えながら戻ってきた。
「も少し、飲んでもいいかしら。」
「遠慮はいらないよ。お父さんだって、何とも仰言らなかったじゃないか。」
 でも順一は、ふしぎそうに千重子の顔を眺めた。
「お姉さんこそ、どうかしてよ、今日は。」
「少し酔ったのよ。」
「わたしも飲もう。」
 八重子もグラスを取り上げた。それから誰へともなく言った。
「もうゲームはやめるの。」
「もっとやりましょう。」と千重子が答えた。「嵐の晩の、よい思い出だわ。順一さんの打明け話を聞いたし……。」
「打明け話なら、ほかに沢山あるよ。お姉さんこそ、打明け話をしたらどうだい。」
 千重子は返事をしなかった。
 ウイスキーをなめながら、風の音のなかで、三人はまたゲームを続けた。

 午後の陽のまだ高い頃、菅原洋平は紹興の店にはいって来た。スーツケースと手提鞄を卓上に投げ出し、料理場の方を覗いた。料理人の楊さんと給仕人の陳さんとが、世間話をやめて、いちどに立ち上った。
「久しぶりですね。」
「どこに行っておりましたか。面白いことありましたか。」
 菅原は両腕を頭上に差し上げて伸びをした。
「今日は、特別になにかうまいものを頼むよ。何でもいい。うまいものにかつえてるんだ。痩せちゃったよ。」
 よく見ると、いくらか痩せてるようでもあるし、肉がしまって却って元気になってるようでもある。眼は以前ほどまん丸く開かず、少しく眠たそうだ。
「旦那は、奥にいますよ。お客さんだが、すぐ帰るでしょう。」
「そう。あとにしよう。まず食事をしてからだ。」
 菅原は二階の室に通った。カーテンを引いてある窓際の卓に倚って、煙草をふかしながら、時々眼をつぶった。考えこんでるのか、うっとりしてるのか、どちらとも分らない様子だった。陳さんが、コニャックの瓶に摘み物を添えて持って来た。
「特別のサーヴィス……旅の疲れがなおりますよ。」
「ほう、こんなものがあるのかい。」
「ふだんはありませんが、特別の時だけあります。」
 菅原はそれを幾杯か飲んで、いい気持ちになった。すると、奥の方からゆったりした足音が近づいてきて、周組南が現われた。
「やあ。」
 差し出された手を、菅原は強く握りしめた。
「いつ帰りましたか。」
「さきほど。まだ上野駅に着いたばかりです。」
「それからすぐこちらへ?」
「ええ。何よりもまず、胃袋の要求を満たしておいて、それからと思ったので……。」
 周は笑い菅原も笑った。笑ったあとで、暫くじっと顔を見合った。
「とにかく、ここではいかん。奥へ行きましょう。」
 周は菅原を奥へ誘った。奥というのは、店から区切られていて、つまり周夫妻の住居である。そこの二階の、六畳の日本室に、菅原はくつろいだ。これは周の研究室でもあり、昼寝の場所でもあり、また特別な応接室でもある。
 一方の壁一面に、作り附けの戸棚があり、曇り硝子の戸がしめられていて、その中に、各種の漢法医薬が並んでいる。薬草の類はたいてい揃っており、その他に、黒焼のものや、動物の肝や虫の干物など、さまざまだ。両方の欄間に向いあって漢文の扁額が懸り、一つには、「其人ヲ看テ其病ヲ看ズ」とあり、一つには、「静ニ処シテ以テ動ヲ観ル」とある。前者は漢方医学の真諦であり、後者は周自身の心境であろうか。
 夫人の素英が茶菓を運んできたあと、周ははじめて尋ねた。
「旅行が少し長すぎたようだが、何をしていましたか。」
「山を見てきたんです。阿蘇、高千穂、桜島、それから慾をだして、浅間まで廻ってきました。」
「ほう、それは大変だ。旅費はあれで足りましたか。」
「すみません、電報なんかうって。おかげで、充分でした。もっとも、学生旅行のつもりで、思いきって倹約はしました。」
「そういうことなら、もっと送るんでした。」
「いや、学生旅行の方がよかったんです。ただ残念なのは、僕に薬草の知識がないものだから、そのお土産がなにもないんです。」
「その代り、話のお土産がたくさんあるでしょう。」
「それも、たいしてありませんね。」
「こちらには、たくさんありますよ。それで、あなたの帰りを待っていました。まあ、ゆっくりしましょう。」
 周はなにか嬉しそうに、眉根を開いていた。
 菅原は手提鞄をかきまわして、手拭と石鹸を取り出し、風呂に行くことにした。
「風呂なら、うちで沸かさせましょう。」
「いや、ちょっと行ってきますよ。その間には……。」
 周は笑いだした。
「分った、分った。胃袋の方のことでしょう。大丈夫間に合せます。」
 菅原は上衣をぬぎすて、下駄をかりて、風呂屋に出かけた。そして戻ってくると、階下の周の居室に、既に食卓が調えられていた。
 菅原は電話を天元社にかけた。旅行から帰ってきたことを告げ、万事うまく運んだと言い、少し疲れているから二三日静養してから出社すると伝えた。その言葉を周は耳にした。
「二三日静養するというが、どこか悪いんですか。」
「いや、なんともないんです。ただ二三日眠ってみようと思って……。」
「疲れているんですか。」
「疲れてもいません。眠って考えてみたいんですよ。」
「眠って考える……。」
「つまり、眠ったり覚めたりしながら、寝たまま考える。旅行の印象の整理ですよ。」
「ははあ、それなら分る。」
「いつも、旅行したあとの、僕の癖です。」
 先刻のコニャックの瓶のほかに、ビール瓶も並んでいた。冷い料理の鉢が数種出ており、温い料理は次々に出された。素英も食卓に同席した。
「実は、失礼な提議があるんですが、どうでしょうか。」
 菅原は言いだした。――敬語交りの語調では、なんだかよそよそしくて、本当の話がしにくいから、ざっくばらんに、君僕の調子を、これから許して貰えまいか。これは大変失礼なことだし、殊に、周の方が五歳ばかり年長であるから、中国の慣習としては猶更そうであろうし、二人の使用人もおり、一人の日本人の女中もおり、いささか憚りがあるとされるならば、この議は取り消しても宜しいが、もしも差障りがないならば、最も話しよい調子で話すことにしては、どうであろうか……。
 菅原がそんなことを言ってる間、周夫妻は目配せをしたり、微笑みあったりしていたが、最後に、周は大声で笑った。
「それはこちらで言うことだよ。日本の敬語は、外国人には何より苦手だ。妻はいつも、そのことでいちばん苦労している。日本人にとっても、不便かね。」
「不便でなく、自然に出る場合もあるが、肝腎なことを話す場合には、いつも厄介になるよ。」
「それでは、肝腎なことを話そうか。だが、こちらの方はあとにして、そちらの方はどうだった。旅行の用件は、うまくいったかね。」
「だいたいうまくいったよ。あとはただ、山を見て歩いただけだ。」
 天元社の用件は元来たいしたものではなく、いい加減に片付けてきたことを、菅原は話した。それから、阿蘇と高千穂と桜島と浅間との、ある限りの絵葉書や写真を集めてきたのを周夫妻に見せた。
「これだけきりないんだから、情けないものだ。」
「みな火山だね。」
「そう。高千穂は休火山だが、ほかのは活火山の代表的なものだ。」
「どうして、火山だけに興味を持ったのか。」
「別に理由はないが、阿蘇を見てから、ほかのも見たくなった。」
「登ったんですか。」と素英が尋ねた。
「桜島だけは行かなかったが、ほかはみな登りましたよ。」
「きれいでしょうね。」
「きれいというより、凄い感じですね。」
 火山の話が、飲食の興を助けた。周も菅原もだいぶ酔ってきた。火山はつまり酔っ払いみたいなものだ。
「その印象を整理するために、二三日寝て暮すというのか。」
 菅原は返事をせずに、考えこんだ。
「違うのか。」
「いや、まあそんなものだ。」
「どこで寝るのか。」
「うちで。北村さんとこさ。」
「あすこはだめだろう。食事に困る。ここで寝ていかないか。君の室に、朝も晩も食事を運ばせるよ。」
「さあ、も少し考えてからにしよう。」
「も少し飲んでからにしたまい。きっとつぶれるから。」
 周はグラスを挙げた。そして祝杯だと言った。
「近いうちに、君にも戻ってきて貰うよ。はじめからの約束だ。家が一軒見当ったよ。」
 近所に、手頃な売家があったから、それを買うことにした、と周は話した。もう契約をすまして、登記をするばかりになっている。菅原に適当な室もある。第一に、漢方医学の薬局をそこへ公然と設けるのが、何よりの楽しみだ。日本の法律ほど面倒な煩雑なものはないが、彼は幸にも日本の医学専門学校の卒業生だから、薬局ぐらいは開くことが出来るだろう。固より名目だけのことで、顧客はない方がよい。自由気儘な研究が目的だ。モルモットを飼って、動物実験もしてみたい。ペニシリンだって、青黴の一種から発見されたのだ。どんな草根木から、結核菌に対する的確な薬剤が発見されるか、分ったものではない……。
 そういう話になると、周は途方もない夢想を披瀝するのである。ただ不思議なのは、彼にあっては、なにかしら実行力とも言えるような感じの裏付けがあることだ。殊に漢方薬のことについては、さまざまな専門的知識が織り込まれる。菅原はぼんやり聞きほれていた。酒に赤らんだ周の顔が、殆んど微笑することはなく、突然に呵々大笑する。粗末な室で、絨氈を敷いた上に支那風の卓や椅子を置き並べ、連句の柱掛だけがやたらに多い。その中に、洋装の周夫妻がゆったりおさまってるのだが、少しも不調和な感じはしない。縁先に狭い庭があって、こおろぎが鳴いている。
 いつのまにか電燈がともっていた。
 新居についての夢想が一通り終ると、周はなおいろいろなことを話した。その中に、菅原の注意を惹く一事があった。――兄の周志淵が、近いうち日本に来るかも知れないというのである。彼は今、上海市庁の要職に就いているが、日本視察団の一行に加わりたがって、いろいろ画策しているらしい。そのことを、周は憤慨しているのだ。
 周は菅原の顔に眼を据えて言う。
「兄と君との間の感情を、僕はとやかく言うのではない。兄は心から君に感謝しているし、君もたぶん兄に好意を持っているだろう。それはそれでよい。だが、僕の意に満たないのは、兄が役人になったことだ。政府の役人になったことだ。これからも、役人として出世しようと考えてることだ。日本でも、官僚というものが問題になっているね。あれと同じような官僚が、中国にも出来かかっている。もしそのようなものが出来たら、中国はもう滅亡だ。中国がこれまで存立し得たのは、官僚という機構がまだなかったからだ。それが、終戦後しだいに出来かかってきた。その一人に、兄も加わっているかと思うと、僕は骨肉の情を超えて、憤慨せずにはいられない。もし兄が日本にやって来たら、僕は喧嘩を吹っかけてやるつもりだ。」
 菅原の注意を惹いたのは、つまり、兄の周志淵が日本に来るかも知れないということではなく、官僚というものに対する周の反感なのである。周は吐きすてるように言った。
「君はどう思う。」
 事実については菅原には何も分らなかった。
「官僚などというものは、まだ中国にはあるまいよ。内戦の方に忙しすぎるんじゃないか。」
「それでも、国民政府内に官僚の芽生えは既にある。憲法とか国会とか、そういうものの外にある。大使館の連中を見たまえ。外交官だが、ずいぶん官僚くさくなっている。」
 菅原には判断のしようがなかった。だが、事実はともかくとして周の意見はじかに心に通ずるものがあった。周の方でも、或はそのことだけを目あての話だったのかも知れない。周は高らかに笑った。
「分ってくれるね。それでいいよ。」
 周は握手を求め、乾杯を求めた。菅原は喜んでそれに応じた。
 周の憤慨はそれで終り、あとはなごやかな談笑となった。菅原はすっかり酔い、おまけに満腹して、もう体を動かすのもいやになり、勧められるまま、泊ってゆくことにした。泊るとなれば、最初に言った通り、二三日は寝て暮したいのだ。彼はそれをだいたい実行した。そして眠ったり覚めたりしながら深い瞑想の中に沈湎した――その時の彼の思念を、次に聞こう。

 俺の心の底に憂鬱や寂寥が濃く淀んでくるのは、何故であろうか。
 それを乗り越えるための火山めぐりであったが。
 阿蘇の噴火口から噴出し突き上げてくる白熱の溶液が、火口壁を越えるほどの高さで散って、美しい玉簾を宙に懸ける、それに見入っていると、妖しい戦慄が伝わってくる。轟々たる地鳴りや、呼吸を塞ぐ噴煙も、いつしか忘れられて、白熱の玉簾だけが眼底に焼きつけられる。周文圭の頸飾、襟のレース、それが拡大されてそこに在る。彼女自身だけは、もうこの世にいないのだ。
 彼女の生命を救うことは、俺に出来なかったであろうか。いや、出来た筈だ。ただ危難を予知しさえすればよかったのだ。俺に出来なかったのは、その予知だけだ。
 周志淵の生命は救うことが出来た。危難を予知したからだ。
 それだけのこと、ただそれだけのことに過ぎない。
 然し、動乱の上海にあっては、人は己が身の安全も保証出来なかった代りに、己が力も測り知ることは出来なかった。日本語新聞の一介の記者に過ぎない俺も、自分の力の限界が自分で分らなかった。すべては、入り乱れてる無数の糸のその一端にすぎなかった。ただ俺の糸は少しく強力で、海軍武官府の高級参謀に繋っていた。
 それらのことも、今では悪夢のように、この肉体をくすぐる。すっかり洗い落したつもりだが、皮膚のどこかに一筋の糸の切れ端でも残っていやしないかと、ふと気になることがある。
 噴火口は何もかも一緒くたに熔解して、ぐらぐら沸き立っている。それが、浅間の火口では眼下に俯瞰されるあの中に飛び込んで身を浄めたらと、妖しい誘惑が伝わる。危い、真に危いのだ。
 ただ然し、俺は良心に恥じる糸につかまっていたのではない。日華事変中から太平洋戦争中にかけて、重慶政府へ、大小さまざまの幾筋かの和平の糸がくり出された。それらはみな内密にされていたので、一本の大きなものに綯り合わされることがなかった。そのため、すべての糸がなおさら陰謀の色合を帯びた。だが、糸をあやつる方では誠実だった。俺の知友の海軍参謀も、ひそかにではあるが、誠実だった。その糸の筋途に沿って、俺は周志淵と親しくなった。周志淵は浙江財閥の一人であって、市内に潜居の様子だった。ところがこの糸筋が、戦争末期に、陸軍憲兵隊に探知されたらしく、不安な情報がはいった。陸軍の方は焦燥にかられており、海軍の方は諦めきってる頃のことだ。事態はさし迫っている。俺は海軍参謀に涙を以て訴え、不信を中国人に植えつけてはいけないと説き、海軍の手で周志淵を逮捕した形にして、彼を逃亡させることに成功した。――これらのことを、俺は良心に恥じはしない。然しなにかしら忌々しいのだ。すべてが秘密の影に蔽われており、秘密は人を拘束する。そのようなものはすべて、噴火口に投げ込んでしまうがいい。
 この周志淵の家に、周文圭がいた。同姓だが、外戚になるそうで、秘書とも小間使ともつかない役目をしていたようだ。彼女は日本語が可なり出来た。俺は支那語が殆んどだめだ。随って、彼女と話をすることが多かった。周志淵が放任主義だったらしく、彼女は俺と一緒に外出もした。いつも洋装で快活な様子で、ただ口数は少なかった。カフェーでぼんやり微笑んでいたり、ジェスフィールド公園を歩きまわったりした。月明の夜、周家の客間のカーテンの陰で、俺は彼女を抱きしめて、生涯の愛を誓った。彼女は何も誓わなかった。周志淵が逃亡した後のことだ。然し間もなく、彼女自身、家から数歩のところの街路で刺殺[#「刺殺」は底本では「剌殺」]された。犯人は何者とも分らなかった。当時の俺の狂乱した気持ちは、今から思えば愚劣極まる。
 彼女の面影はいくぶんぼやけている。眉根が少しく開き、その細い眉の下に瞼がふくらみ、眼眸に理知的な光りがあり、顔色があくまで白く、その顔立全体が、晴れたり曇ったりする。――桜島は日に七度も色が変ると言われる。微妙な色合の変化は無数であろう。俺はそれを眺めて数日暮した。その山肌の色の移り変りを急速にすれば、周文圭の面影のそれに似てくる。而もその上にまた、松本千重子の面影が重ってくるのだ。いったい桜島の山肌の本色は何なのか。彼女等の面影の本色は何なのか。如何に美しく七色に変ろうとも、俺にとっては、そのこと自体が淋しく悲しいのだ。俺は涙ぐましい眼を挙げて、山頂に薄くなびいてる噴煙を見つめた。
 いったい俺は何がほしいのか。何もかも打ち捨てた後でなければ真実に何がほしいかは分らないのだ。
 俺の郷里広島は、世界最初の原子爆弾で破壊された。両親と姉夫婦と弟、親しい身内の全員が死んだ。これですべてを失ったと俺は思ったのだ。――上海での終戦の混乱、乞食の群れのような生活、豚の群れのような船中、それから広島へ戻って、惨憺たる焼野原を眺め、家の者たちの死亡をだいたい知った時、まさしく、すべてを失ったと俺は思ったのだ。
 その時、自分でも不敵なと感ぜられる微笑を俺は浮べた。俺の戸籍も無くなってるであろうと思ったからだ。
 戦死の公報があり、遺骨も到着し、葬式も済まされ、既に仏さまとなり、戸籍面から抹殺されてる者が、終戦後、ひょっこり生き身で帰って来た、そういう話が幾つも伝えられていた。悲惨な話として伝えられていた。然し悲惨なのは、家族の者たちが現存しているからだと、俺は解釈した。その帰還者が全然の独り者だったら、悲惨なことなどありはしないのだ。その上、俺は上海で、無籍者に知人があった。勿論これは国籍がないという意味であるが、国籍がなければ随って国内戸籍もないわけだ。彼は至極朗かで呑気だった。書店に勤めて、かたわら詩を書いていた。飲食物は固より、日光と空気とを充分に享楽してるのだ。
 俺は全く独り者だった。そして戸籍も恐らく無くなってるだろう。随って国籍も無くなったわけだ。つまり、直接に人類の一員となったのだ。この思いは、青天白日の気持ちだった。――それが、俺をいつも誘惑する。
 そのまま広島を立ち去れば、俺はどうなっていたか分らないが、或は立派であったろう。だが俺は、のこのこと、二駅先の田舎に縁者を訪ねて行ったものだ。そしてそこで、身内の者たちの墓地も知り、俺自身の戸籍も明確にし、一年ばかり暮した周志淵から東京の周組南に宛てた長文の手紙が、上海を立つ時周志淵から貰ったまま、鞄の中にはいっていた。それから俺は、旧師の長谷部先生を京都に訪れ、この老先生の日本再建に関する情熱に、ふしぎな驚嘆を感じた。それでも俺は、天元社への先生の推薦文を有難く頂いた。
 思い出の調子が皮肉になるのは、浅薄な孤独者の通弊だ。俺は今このような皮肉を憎む。
 高千穂では、俺はつつましい孤独者だった。一人で登った。幽邃な天然林のなか、ささやかな溪流に沿わず離れず、ただひそひそと坂道を登った。それから高燥な屋根の小松林の中を、ひたひたと急いだ。最後には、代赭色の火山礫に蔽われた急斜面を、足場を求めながら攀じ登った。旧火口の縁をまわり、馬の背越を過ぎると、急峻な斜面の上方に、高千穂の頂が頭を出す。その頂上附近に数人の人影が見えるのだ。麓からそれまで、約七キロほどの間、俺は一人の人間にも逢わず、姿をも見かけなかった。そして突然、頂上附近に数人を見出したのだ。ばかりでなく、馬の背越の彼方側には、一面に濃霧が渦巻いていて、その濃霧の底の遥か下方から、仏法僧の鳴き声が聞えてくる。二三ヶ所から、互に鳴き交しているのだ。つつましい孤独者だった俺は、眼がさめたような思いで佇み、頂上の人々を仰ぎ見、また霧の底の鳥の鳴き声に耳を傾けた。
 意外な温い思いである。遠く人寰を離れて、千五百メートルの寂寥な高所での、その温い思いは、天の逆鉾に纏わる伝説などから得らるるものではなく、平凡な人の姿と鳥の鳴き声から得られるのだ。
 ただ、この場合に重要な条件は、それらの人々が俺にとって無関係な他人だということだ。仏法僧がそうであることは言うまでもない。つまり俺自身が孤独者でなければならないのだ。もしそれらの人々が俺の知人であり同行者であるならば、俺の言動、俺の感情は、必ずや何等かの制約を受け、つまり俺は孤独者でなくなる。そしてさまざまな煩わしさが生じてくる。――孤独は、つつましい孤独でさえも、絶対に自由だ。それがいつも俺を誘惑する。
 浅間では、俺はそうでなかった。登山はやはり一人でやった。夜のうちに出発して、夜明け前に頂上に着くのが、最もよいとされている。噴火口内の赤熱が見易いし、なお日の出も見られるからだ。提灯の光りで足元を照らして登ってゆく。沓掛口からなら、頂上までいくらもない。ただ盛り上ってるだけの山で、中腹から上は木立もなく、道に迷うこともない。岩と砂との斜面だが、散歩のような気楽さだ。頂上近くは少し嶮しい。そこを攀じ登ると、すぐに火口壁だ。謂わば端正な噴火口で、円く深く落ち窪んでる底に、熔岩が煮え立ち、濃霧のような噴煙が立ち昇っている。
 水筒の水を飲み、岩に腰掛けて煙草を吸っていると、東天が白んできた。明るみは速く、弁当を食べようかと思ってるうちに、もう火口の縁全体が見渡される。あちこちに、人がいた。立ってる者、坐ってる者、火口を眺めてる者、弁当を食べはじめてる者……すべて、同じ登山者だ。そのことが、俺の気持ちをつまらなくさせてしまった。
 高千穂とどう違うか。高千穂では、広い山肌に自由に散らばってる小鳥のようなものだった。ここでは、火口の縁に、つまり一つの棲り木に、並んでとまってる小鳥のようなものだ。誰も彼も、全く無縁の他人ではない。同じものを見、同じものを感じ、同じようなことをしている。俺もその中の一人だ。せめて誰か一人でも、別な所に立ち、別なものを見たらどうか。高千穂ではまだその自由があった。ここにはない。それはほんの紙一重の差だ。然し重大な差だ。そのために俺は、ここでは孤独でなかった。自由でなかった。もし俺が火口に飛び込んだら、皆も同様に飛び込んだかも知れない。
 俺が甘んじて周組南の世話になってるのも、俺の孤独、俺の自由が、そのために少しも妨げられることがないからだ。彼の世話を当然のことと俺は考えてるのではない。相済まぬと心から感謝し恐縮している。だが、受ける気持ちは朗かで、何の曇りもないのだ。固より、周志淵は、俺に託した手紙で、なお其他の手紙で、俺のことをこまごまと弟へ知らせただろう。或は俺を生命の恩人だとも思ってるかも知れない。また、俺は軍の機密に関しない限り、日本側の民政上の意向を多少とも周文圭に話したので、それを彼は伝え聞いて、人を使って物資の取引きをし、多大の利益を得たのも事実であり、そのことも弟へ知らせたかも知れない。また、俺と文圭との恋愛も、彼は後に知ったらしく、俺が上海を立つ前、文圭の死について逆に俺へ悔みを言ったが、そのことも弟へ知らせたかも知れない。まあそれらのいろいろなことがあって、周組南は俺を、無縁の他人とは思っていないのでもあろうか。俺の方でも彼を、無縁の他人のような気はしないのだ。然し、それだからといって、俺にとって彼が中国人たることに変りはない。俺にとって彼は、他国人であり、異民族である。それ故に俺は、何のこだわりもなく、甘んじて、彼の世話を受けることが出来るのだ。相手がもし日本人だったら、例えば長谷部先生にせよ、天元社の佐竹にせよ、或は北村庄作にせよ、俺の気持ちはこんなに平らではないだろう。
 親類縁者の間の世話は、受くるにしても与えるにしても、最も慎重な配慮を要する。知友の間では、僅かな配慮で足りる。赤の他人の間では、殊に異邦人の間では、殆んど配慮はいらない。何故か。その間の行為が、功利的なものから次第に無償的なものへと高まるからだ。相手の自由を拘束することが次第に少くなるからだ。
 無償の境地、自由の境地に、俺は自分の坐席を据えたいのだ。そのためにしばしば、国内的にも国際的にも俺は無籍者となることを夢想する。
 俺がもし無籍者であったならば、恐らく周文圭は殺されずにすんだであろう。彼女の被害は俺との恋愛が原因だと諸般の事情から推察される。そしてあの場合には、戦争のこと国際政治のこと裏面工作のことなど、種々の複雑な非常事態が交錯していたとはいえ、かりにそれらをすべて取り除いたならば、果して二人の恋愛は安全であったろうか。そうだとは言えない。俺が日本人という壁から外に出ない限り、そして彼女が中国人という壁から外に出ない限り、別種の障碍が起ったに違いない。俺は現在、松本千重子に愛情を懐いているが、そして彼女の愛情も信じられるが、然しこの同国人間の愛情とても、如何なる障碍によって中断されるかも分らないのだ。
 恋愛は火山の如きものでありたい。轟々と地鳴りをさせ、熔岩をたぎり立たせ、噴煙を中天に立ち昇らせ、そして何物にも憚ることなく、何物からも邪魔されることなく、それ自体の存立を宣言しているのだ。これほど完全な自己表現はない。固よりこれは科学的に言うのではなく、主観的に主体的に言うのだ。而も火山はああいうことをして、いったい何になるのか。その自己表現が何の役に立つのか。何の役にも立ちはしない。斯く在るが故に斯く在るのだ。それ以外に意味はない。意味がないからこそ自由であり、意味がないからこそ美しい。
 けれども、火山をじっと見ていると、はじめは、その豪壮の気に打たれ、その力に圧倒されるが、それも長くは続かない。なにかしら、胸のうちが、心の奥が、大きく抉り取られるようで、淋しく悲しくなるのだ。いったいこれはどうしたことであろうか。そしてその淋しさ悲しさのなかに、つまらないものが点景として残る。――浅間では、褐色の岩の上に、数羽の鳥が足で跳んでいた。高千穂では、旧火口の中を、燕が一羽矢のように横切った。浅間では、中腹のあたりに、二羽の鳶が静かに舞っていた。桜島にはいつも、鴎が前景に点綴されていた。それらの鳥を、みな鳥なのもおかしいが、俺はその時は大して気にかけなかったが、後の印象の中では、どれもみな淋しく頼りなく、火山の哀愁のなかにふっと浮んできた涙の粒のようでもある。
 これも、それらの火山がそうだと言うのではない。俺の心がそうだったのだ。――実は、すべてを噴火口の中に俺は投げ棄てるつもりでいた。身についてるすべて、心についてるすべて、内臓についてるすべてを、さっぱりと脱ぎすて焼きすてて、ま新らしい人間になるつもりだった。昔話には、蛙が内臓を口から吐き出して洗濯するということがある。蛇は実際にしばしば脱皮する。俺にだってそれぐらいなことは出来るだろう。だがいざとなると、やはり未練が残る。執着が残る。
 上海で懇意にしていた無国籍者のことを、俺は思い出す。紅毛碧眼白肌の中年者だったが、或る時、二人で飲んでいると、彼は突然声を挙げて泣きだした。俺は呆気にとられて、理由を聞くこともちょっと出来ない。彼はひとしきり泣いてから、自分で話しだした。或るバーのマダムと愛し合ったのだが、彼は少し酒癖が悪いので、マダムは条件を持ち出した。余儀ない場合の外、他の店では酒を飲まないこと、平素は彼女の店でだけ飲み、而も分量は彼女の指定だけに止めること、さもなければ愛情関係を絶つというのである。彼は俺に言った。「別れる。断然別れるとも。」そして彼はまたしゃくりあげた。「人間の行為というものは、大部分が習慣に依るのだ。習慣を無くして見給え、舵を失った船と同然じゃないか。どんなところへ流れつくか分ったものではない。僕の飲酒も、酔っ払いも、習慣がさせるのだ。僕は習慣を愛する。彼女よりも愛する。断然飲む。酔っ払うまで飲む。」そして勢よく酒をあおったが、此度は怒りだした。「人間も犬と同様だと言うことがなぜ悪いか。犬がいつも同じ道を通るのに、なぜ人間は同じ道を通ってはいけないか。人間が犬の真似をしては、なぜいけないか。僕は人間だ。犬の真似をしようと、猫の真似をしようと、僕の勝手だ。」そして怒ってるうちに、彼はもう泣くのを忘れて、酔っ払ってしまった。
 その男を、無国籍者のくせに、実にくだらぬと俺は思う。俺は身についた一切の習慣から脱出したいのだ。習慣ばかりではなく、過去の一切を脱ぎ捨てたいのだ。上海でのことを葬り去ろう。周文圭のことも忘れよう。松本千重子との愛情も胸の奥に埋めよう。そして全くの孤独者となり、全くの無籍者となり、やがては、真の世界人へと飛躍しよう。そこに、自由があるのだ。――周組南に向って、礼節を無視した言葉遣いを提案したのも、実はその第一歩なのだ。これは幸先のよい成功だった。だが、相手が周組南だから、謂わば同質の人間で、成功などとは言えないのかも知れない。闘争はこれからだ。然しこれは謙譲な闘争でなければならない。
 阿蘇の噴火口を眺め、噴煙の中に奔騰する白熱の玉簾を見ているうち、俺はそこに周文圭とそれから松本千重子の面影を描き出して、涙ぐんだ。不覚の至りだ。然しもう、夕陽に照らされた桜島を眺めていても、涙ぐみはしなかった。ただ美しいと観た。
 このまま、俺はも少し寝ていたい。充分に睡眠は取ったし、適度に食いまた飲んで、体力に不足もないが、ふしぎに憂欝だ。この憂欝の影はどこから差してくるのか。俺自身の内部からなのか、外部の世界からなのか。恐らくは両方からだろう。外部の方は今後に処理しよう。内部の方を先ず処理することだ。そのためにも少し寝ていたいのだ。胸のうちを大きく抉り取られたような哀感は、火山から来たものであるにしても、そこに空所をあけたのは俺自身だ。それを填たすのも俺自身でしなければならない。
 室の一方の壁一面にある戸棚には、各種の漢方薬がはいっている。錠がおろしてあるから、中は見調べるわけにはゆかないが、多分そこには猿の肝もある筈だ。嘗て祖母から聞いた昔話を俺は思い出す。――むかしむかし、竜宮の乙姫様がかげんがわるくて、猿の肝をたべたいと言いだされました。家来たちは相談したうえ、猿をつれてきてその肝を貰うほかはあるまいというので、亀が使いに行くことになりました。亀ははるばる海を渡り、海岸にやってきて、一匹の猿を見つけました。そしていろいろ竜宮の面白い話をしてきかせ、猿を背中にのせて竜宮へ連れてきました。ところが、おしゃべりの海月が、実はこれこれだと猿に話してしまいました。猿はびっくりして、海岸の木の上に肝を干しておいたのを忘れていたが、雨でも降ると困るなあと言いだしました。それでは肝を取りに行くよりほかはあるまいと、亀はまた猿を背中にのせ、はるばる海を渡って、もとの海岸へ戻っていきました。猿は海岸の木の上にのぼって、笑いながら亀へ言いました。海中に山なし、体をはなれて肝なし、亀は瞞されたのを悟って、すごすご竜宮へ帰っていきました。
 そうだ、海中に山なし、体を離れて肝なし。俺は自分の古い肝を噴火口の中に投げ込んできたつもりだったが、体を離れて肝はなく、それはやはり俺の胸の中にあるのだ。瞞されてはいけない。ただ、その古い肝を新らしいものに更生させなければならないのだ。まだ未練があるのか。古い肝の憂愁が俺を苦しめるのか。もうたくさんだ。秋晴れの好天気が続く頃だ。起き上ってやれ。

 北村庄作はしずかに眼覚めた。泥酔後のこととて、徐ろに晴れてゆく霧の中に意識はまだ半ばたゆたってる気持ちで、謂わば水中の魚の眼覚めもそのようなものであろうか。
 もはや陽も高く昇っているらしい明るみが、障子一面にさしていた。北村は布団の中で思いきり伸びをし、枕頭の水をがぶがぶ飲み、煙草を吸った。だが意識は冴えなかった。布団を頭まで被ってみた。ふっと、涙が出てきた。
 その涙に、彼は駭然とした。悲しいことがあったのではない。泣きたいことがあったのではない。理由もなく流れだした涙なのだ。それ故に却って、根深く心に痕を止めて、漠然たる恐怖を起させる。自分自身が、すべてのものが、宙に浮いて頼りない感じだった。
 足場を求めて、彼は昨夜来のことを思い起してみた。泥酔の後のくせで、多くは忘却の淵に沈みこみ、ただ所々に、幾つかの印象が峙ってるだけである………。

 前日の午後、北村は数名の画家仲間と共に、若竹で飲んでいた。
 若竹はもともと、下谷花柳界のなかで最も美術家に親しまれた待合である。空襲のためにこのあたりは、不忍池に面した僅かな一部を残して、すべてが焼かれてしまったが、終戦後次第に復興してきた。若竹もそのうちの一つで、平家建てながら、わりに広々とした間取りである。待合や料亭の閉鎖中のこととて、表面は貸席となっているが、昔からの馴染みの客にとっては、却って気楽に我儘が出来る。
 正午すぎ、上野の都美術館に集まって、展覧会に関する用事をすました時、誰が言い出したともなく、久しぶりに若竹へ寄ってみようということになったのである。雨と風の天候が、酒席に足溜りを求めさせたとも言える。
 若竹のお上さんは、楽しそうに彼等を迎えた。その顔立ちが示す通り、ぱっとした派手な気性だ。贅沢なもてなしをされそうなので、彼等は、仲間の一人が金を持ち合せていたとはいえ、少し心細くなって、この頃すっかり貧乏でねと、ケチなことを言い出した。貧乏は昔からでしょうと、お上さんは笑った。お金が足りなかったら、絵を書いていきなさい、とも言った。以前この家には、日本画家の軸物ばかりでなく、洋画家の余技のものまで沢山あった。それらを空襲の火災に焼いてしまったことを、お上さんはひどく残念がっている。
 芸者まで交えて、一座は賑やかになった。放談と酒がはずんだ。ところが、はじめは酒興をそそった筈の風雨が、烈しさをまして重苦しくなってきた。紀州沖に来ていた台風が、関西方面に上陸する予定を変え、次には静岡方面に上陸する予定を変え、房総沖を通過することになったらしく、東京の被害も予想された。何よりも交通機関が心配だった。夕刻、一同は早めに引上げることにした。
 その時を待ち構えていたように、北村のところへ一枚の名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]を女中が持って来た。北村はうなった。菅原洋平の名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]なのだ。ちょっとお目にかかりたいと書いてある。
「この家に来ているのかい。よろしい、私の方から行く。」
 北村は仲間と別れた。

 北村は呆れた。
 奥の静かな八畳の室で、菅原は酒を飲みながら碁をうっていた。相手は、天元社の若い編輯者の須田正太郎である。菅原は顔を挙げて、丸い眼付きでじっと眺めた。
「こちらから伺うつもりだったんです。あちら、もう宜しいんですか。」
 北村は席について、勧められるまま猪口を手にした。なにか腑に落ちない気持ちだ。
「一体どうしたというんだい。いつ旅行から帰って来たのかい。」
 帰るといえば、北村の家より外にない。
 菅原は微笑した。
「これから帰るところですよ。然し、この雨だから明日にしましょう。」
「なに、家へはどうでもいいが、東京にはいつ帰って来たのかね。」
「二三日前でしょうか。疲れていたものだから、少し静養したんです。」
 須田がくすくす笑った。――彼は社の用で、急ぎの画稿を北村のところへ頼みに行った。北村は不在だった。菅原が旅から帰ってることを聞いていたので、北村の奥さんに尋ねると、まだ帰らないとの返事。少し不審になって、菅原の以前の居所の紹興へ、雨の中をわざわざ訪れていった。菅原はいた。二三日、ほんとに寝たっきりで暮したというのである。少し退屈になったから、碁でもうとうとここへ引っぱって来られた。すると、北村がいることが分った。
「先生、急いでお願いしたいんです。」と須田は改めて画稿のことを頼んだ。
 用件をすまして須田が帰りかけるのを、菅原は引きとめた。そして北村へ言った。
「久しぶりで、ゆっくりやりましょう。今に、あなたへ紹介したい人も来ますから。」
 ゆったりと落着いている。女中を呼んで、芸者などはいらんと言い、銚子をどしどし持ってくるように頼み、そして碁の話などを始めた。相当にうてる須田に六目も置かせる腕前である。酒量のほどはちょっと測り難い。丸く見開いて人を見つめる眼付きに、冴えた光りが籠っている。
 北村はすっかり信頼する気持ちになった。しみじみと言った。
「君が帰って来てよかった。」
「何かあったんですか。」
「いや。少し気になることがあってね……。どこをぶらついていたんだい。」
「火山めぐりですよ。阿蘇、桜島、高千穂、浅間と……。あなただったら、いい収穫があったでしょうけれど。今年の展覧会、何点か出品なさいましたか。」
 北村は眉根をしかめた。
「今年はやめた。」
「どうしてですか。」
「気に入る作品が出来なかったんだ。」
「それはいい、賛成ですね。気に入る作品が出来なかったから出品しない、その態度は立派だと思います。祝杯を挙げましょう。」
「その代り、こんどは、個展をやるつもりだ。」
「いいですね。自分一人だけの個人展覧会、大賛成です。祝杯を挙げましょう。」
 北村は菅原の顔を見つめた。
「君は、私をからかってるのかい。」
「とんでもない。真面目に言ってるんです。」
 北村は急に笑った。
「うむ、分ったよ。私は怒りだすところだった。君のいつもの悪い癖だ。人に誤解されるよ。そんなだから、無籍者なんて噂も立つ。不正事件の嫌疑も受ける……。」
 北村は酔うと、ものを胸にしまっておけなくなるのだ。――彼は天元社内の不祥事件を打ち明けた。印刷用紙の一部がひそかに他へ転売されたらしいこと、その不正行為の疑いが菅原にもかけられてるらしいことなど。
 菅原はしばらく考えこんだ後、軽蔑的な微笑を浮べた。
「そいつは、おかしな話ですね。」
「そうさ、ばかばかしいことだ。然し、君の方もあまりよくはない。旅に出たきり音沙汰なしだからね。」
「いえ、僕のことではありません。不正事件そのものが、おかしいですよ。そこには、なにか巧妙なトリックがあるような匂いがしますね。」
「巧妙なトリックによって不正が行われたんだ。」
「むしろ、不正事件が捏造されたんだと、僕は言いたいですね。些細な不正は、或は幾度かくり返して行われてるかも知れません。大きな不正も、或は企まれてるかも知れません。その両者に対する警告として、手頃な五十万円ばかりのものを捏造し、最も痛痒を感じそうにない僕にその罪を着せる。而も僕は、印刷用紙の問題をも持って旅に出ているので、僕に対する警告ともなる。見事な計略じゃありませんか。天元社にも案外知恵者がいますね。社長の頭から搾り出されたことではありますまい。」
 余りに善良すぎる考え方だ。然しその底に、ひどく辛辣なものを含んでるようでもある。つまり、人の心を冷りとさせるような善良さだ。
 沈黙が続いた。風雨はますます勢を増してゆくようだった。平家建てが並んでるせいか、屋根の上を、轟々と荒れ狂った巨大なものが押し通ってゆき、庭先や路地には闇が深かった。

 何がどうしたのか分らなかったが、須田がもうすっかり酔っ払って、涙声で叫びだした。
「僕は悲しいんだ。ちきしょう、僕は悲しいんだ。」
「悲しかったら飲めよ。」と菅原は言った。
「僕は悲しいんだ。菅原さんまで、嘘をつくかと思うと、僕は悲しい。菅原さんは決して嘘をつかない人だと、僕は信じていた。」
「嘘なんかつかないよ。」
「いや、でたらめな嘘をついた。あれが嘘でなかったら、菅原さんは天使の仲間か、さもなくば、悪魔の仲間だ。」
「天使も悪魔も、つまりは同じことじゃないか。」
 須田は黙った。しばらくして言った。
「いや違う。天使も悪魔も人間じゃない。人間とは違う。ねえ北村先生、そうでしょう。」
 北村はきょとんとしている。
「俺は無籍者だなんて、人間の言うべきことじゃない。食糧の配給を受けて生活してる以上、無籍者はない、これは常識です。そんな常識のことじゃありません。心の持ち方だということぐらい、僕にも分る。だが、人間は無籍者にはなれない。どこにも籍がないのは、天使か悪魔だけだ。」
「その天使か悪魔に、人間もなっていいじゃないか。少くとも、なり得る権利を、人間は持っているよ。なぜなら、天使も悪魔も、人間が作り出したものだから。」
「僕はそんな権利を信じません。人間には、人間になるだけの権利しか認めません。これは僕が戦地で得てきた確信です。神になってもいけない、動物になってもいけない、虫けらになってもいけない、ただ人間にならなければいけない。人間以外の一切のものになる権利の否定です。そうしなければ、人間は救われません。」
「君の言うことはよく分るよ。僕も賛成だ。然し、それは道徳の問題だ。僕の言うのは、人間の本質の問題で、つまり人間の領域を拡げたいのだ。権利の拡張によって、領域を拡張したい。そうしなければ、人間は狭い地域に閉じ込められて、窒息してしまう。殊に機械文明の世の中ではそうだ。」
「今の僕には、そんなことは考えられません。たとい窒息しても、あくまでも人間でありたいんです。僕には一人の母があります。その母を安心させたいんです。もし恋人があるとしたら、どんな犠牲を払ってもその恋人を愛したいんです。それが最も人間らしいことだからです。人間……人間……そればかり僕は考えています。然し考えれば考えるほど、人間は僕の手から遠くへ逃げていきます。なぜでしょう。人間を考えることが、なぜこう淋しいんでしょう。」
 須田は泣きながら酒を飲み、酒を飲みながら泣いた。菅原も憂鬱そうに黙りこんだ。
 暴風雨はやみそうになかった。

「周さんが見えましたよ。」
 女中の後からすぐ、周組南とも一人がはいって来た。
 その機会に須田は帰っていった。
 菅原は北村と二人を紹介した。周の連れについては、ただ本堂誠と名前だけしか言わなかった。
 周と北村とは、全然の初対面ではない。紹興の店で顔を合せたことがあるし、名前は菅原を通じて互に知り合っている。
 席が落着くと、菅原は周に尋ねた。
「わりに早かったね。駄目だろう。」
 周は曖昧な微笑を浮べた。
「僕が言った通りだ。嵐の中を御苦労さまだな。」
「いや、得るところもあったよ。君の火山のようなものさ。」
「言葉には言えないことか。そんならまあいいが、本堂君こそ災難だね。」
「その代償は約束ずみだ。」と本堂は笑った。「周さん、あれ、本当でしょうね。」
「あ、忘れるところだった。すぐ取り寄せます。」
 周は北村の方を向いた。
「北村さん、あなたは洋画家だから、洋酒もお好きでしょうね。ウォートカは如何ですか。」
「ほう、それは珍らしい。昔はずいぶん飲んだものです。」
「それは丁度よかった。いっしょにやりましょう。」
 周は電話に立って行った。戻って来ると、北村の方へ坐り直した。
「菅原君が長い間お世話になりましたが、こんど、ようやく家が見付かりました。喜んでやって下さい。」
 北村には思いがけない話だ。菅原の方を見たが平然としている。
「菅原君から、まだ何も話していませんか。」
「いいえ。」
「そうですか。もっとも、菅原君は、どこのどんなところに住もうと、同じことだという、そんな人ですが……。」
 紹興の近くに家が一つ見つかったから、それを買い取ったと、周は話した。二階に適当な室があるから、菅原に住んで貰う。階下は周夫妻の住居だが、一部を、漢方医局か或は漢方薬局かにしたい。両方とも面倒なら、ただ周個人の研究室としてもよい。――彼は妙に、医局とか薬局とか公然の名称に執着していた。
「ただ研究室でいいじゃないか。」と菅原は言った。
「いや、君には分らないよ。草根木皮の薬剤にしても、沢山並べておくと、警察の方がうるさいんだ。」
「そうですよ。菅原君は何にも知らん。」と本堂が同意した。
 北村にも漸く理解された。その家は松本の所有だったものに違いない。家の売主を尋ねてみると、果して松本順造だった。
「松本さんなら、私の親戚に当りますよ。」
「僕も知っている。」と菅原が言った。
 周は二人の顔を見比べた。
「買ってはいけなかったのでしょうか。」
「いいですとも。私もあなたに買って貰いたかった。あの家へなら、喜んで菅原君をお譲りしますよ。」
 ウォートカの一瓶が紹興から届いた。
「乾杯しましょう。」と周はグラスを挙げた。
「菅原君の幸福のためにも。」と北村は言った。
「菅原君、どうも、彼女は君を愛してるらしいよ。」
 菅原は珍らしく顔を赤くした。それが北村には嬉しかった。
 北村は松本千重子に電話をかけた。なんどやっても先方に通じなかった。それから停電となり、蝋燭の火で酒を飲んだ。再び電燈がついてから後、暫くして電話が通じた。菅原が帰ったことを知らせたが、千重子は黙っていて、何にも尋ねなかった。そのことがへんに北村の気にかかった。

 周が取り寄せたウォートカは、芳醇で強烈だった。その合間には日本酒も味が増して感ぜられた。北村は殆んど料理に手をつけず、ただ飲んだ。思わず深い酔いに陥っていった。酔いの底からぼんやり、菅原と周と本堂と、この三人は何のために集まってるのだろうと、妙なことを思った。
「私はもう御免蒙って帰るよ。」
 よろよろと立ちかけると、いつのまにか来ていた芸者が、体を支えるようにして逆に坐らせた。
「外はあぶないわ、こんな嵐ですもの。」
「なに、そんなら君はどこから来た。」
「天から降って来たのよ。もうお忘れなすったの。そんなぺらぺらな着物、まるで天の羽衣みたいだって、あちらで、なんども仰言ったじゃないの。」
「ああ、天の羽衣か。よし、飲もう。」
 風雨は静まりそうになかった。風の方向から察すれば、台風は果して房総沖を通過してるらしかった。
「昨年の台風と、全く同じコースを辿ってるようだね。」と本堂は言った。
「全く同じコースだということはあるまい。」と菅原が応じた。
「そう厳密に言うなよ。大体同じさ。この通り、日本へ襲来する台風がどれもこれも、同じようなコースを辿るものとしたら、対策も立て易いし、被害なんか恐るるに足りないね。」
「然し、僕は不賛成だ。台風にしたって、いつも同じコースを辿るのは、退屈極まるだろうじゃないか。自由奔放な進路を取ることにこそ、台風の生命はある。」
「またいつもの議論だな。競馬場のコースだけを駆け廻る競馬馬には、馬の生命はない。いつも同じ所を流れる潮流や、同じ河筋を流れる河水には、水の生命はない。そういうばかな結論に君は陥らざるを得なくなるよ。」
「ちょっと違う。競馬馬だって狂奔することがある。潮流だって時には変化する。河水だって時には洪水となる。」
「それでも構わんと言うのかい。」
「構わんどころか、その方がいいんだ。」
「洪水讃美者だね。僕も敢て反対はしないよ。然し、台風のために起される洪水には反対だ。政治のために起される洪水には反対だ。」
「勿論のことだ。政治というものは、各方面に洪水ばかり起してやがる。どんなに人を溺らしてるか分りはしない。」
「また始まったね。君たちの話は、僕にはまるで天界の言語みたいで、何のことかさっぱり分らん。」
 周は楽しそうに笑った。
「天界の言語のために、乾杯。」
 三人はグラスを挙げた。
 何のために彼等は集まってるのだろうと、北村はぼんやり眺めるのだった。
 周は少し間のびのした顔立ちで、眼尻が長く切れている。だが、その眼にも鼻にも口にも頬の肉にも、いつどんな変化が起るか分らないという感じがある。変化が起ったら、表情がまるで違うようになるかも知れないのだ。
 本堂は痩せ型で、精力的な男に見える。頬の蒼白さは腺病質らしいが、高く張ってる額は知性と意志力とを示すようだ。手指や握り拳が、体のわりに目立って大きい。
「ねえ、先生、今年は展覧会に何も出品なさらなかったそうね。なまけなすったの。お酒がすぎたんでしょう。」
「ばか言うな。気が向かなかったんだ。私は気が向かないことは断じてせん。」
 北村は誰に対しても私(わたし)という言葉きり使わない。彼の黒好みの洋服とその私とが、時によって調和したり不調和になったりするのだ。
 今はなにか不調和だった。気持ちも不調和だった。彼は自分のうちに、制作に対するモチーフの涸渇を感じていた。形態と色彩とを酷使する裏面には、強烈なモチーフが常に必要だった。それが今年は一向に湧き上って来なかった。なぜだ、どうしたのだ、と彼は自ら反問した。答えは得られなかった。むりにもモチーフを湧き立たせるために、酒を飲んだ。飲めばますますモチーフは萎んでいった。だからますます飲んだ。新たに何かが湧き上ってくるまではと、そういう気持ちで飲んだ。――酔えば、心がしんしんと深いところへ沈んでゆく。だが、そこを手探りしてみても、空白だ。
 戸外には風雨が荒れていた。
 菅原は両の掌に額をあてて、何か考えこんでいる。周が静かに本堂と話している。
「極東は、少くとも仏教地域は、宗教的に空白地帯ですよ。仏教の行事が単なる風俗となってから、無信仰の心理状態が瀰漫してしまった。だから、さまざまな迷信邪教が起ってくる。凡そ世界中で極東ほど、多くの迷信邪教が起ったり消えたりするところはありますまい。新宗教或は反宗教に徹底すればまだよいが、単なる無信仰のままに放置されてるからです。つまり宗教的に空白地帯なんです。」
「だから、それを新たなもので満たせばいいでしょう。」
「そうです。自由に対する信仰、と菅原君は言うけれど、それは容易なことでは得られません。やはり迷信邪教の方に人は就き易い。この空白地帯をうまく利用してるのが、天理教です。日本には今、五百万の信者があると言われています。戦時中、中国にもずいぶん多くの信徒を獲得していました。これは注目すべき事柄です。」
「どういう布教の方法を採っているんですか。」
「いや、私にはよく分りません。あなたがたの方が、それは詳しいんじゃありませんか。」
「だが、五百万も信者があるでしょうか。」
「確かです。もっとも、官吏系統の人数には及びませんけれど……。」
「官吏組織には、布教の苦労がいりませんからね。」
「その代り、金がいりますよ。」
「天理教にも金はある筈です。」
「あっても、限度があるんです。国庫の金は、国民がある限り、殆んど無尽蔵と言ってもいいでしょう。」
 菅原がむっくり顔を挙げた。
「無尽蔵じゃないよ。少くとも近い将来には、日本に関する限り、無尽蔵ではなくなる。」
「また、菅原の空想が始まったね。」
「君達はいったい、空想力が足りない。もっと空想を逞しゅうすることだ。」
「それもよかろう。」
「じゃあ、乾杯。」
「私も賛成だ。」と北村が突然叫んだ。「空想力のために、乾杯。」
 立ち上って、グラスを干すと、眼がくらんだ気持ちで、ふらふらとよろけてしまった。

 獣の唸り声がしていた。眼を開くと、風の音だった。
 女がしょんぼり坐っていた。見つめていると、にっこり笑った。
 はっと思い出した。羽衣だ。
「ああ、君か。」
「誰だか、分って。」
「分るさ。天の羽衣。」
「渾名はいや。本当の名を言ってね。」
「言ってやるとも。喜代香、喜代香、喜代香……。」
「もういい。嬉しいわ。」
 眼をつぶると、獣の唸り声が起った。
「お冷、あがりますか。」
 水を一口飲んだが、まずい。
「あれ……ウォートカ……なかったかい。」
「まだあがるの。毒よ。」
「ちょっと垂らすだけだ。」
 コップの水にウォートカを垂らすと、氷のような味になった。また垂らした。何度も垂らした。瓶の底には少ししか残っていなかった。コップの水を飲み干して、全部あけた。
「これでいいでしょう。あちらへ行きましょうよ。あたしが持ってってあげるわ。」
 手を引かれて行った。
 布団に躓いて転び、そのまま寝てしまった。
「まるで、赤ん坊ね。」
 服をぬいで貰い、襯衣は自分でぬぎすて、寝間着を布団といっしょに被ってしまった。獣の唸り声が遠くに聞え、それが次第に遠く遠く、消えてしまった。
 眠ったのではなかった。意識の方が途絶えたのだ。
 知覚だけがあった。
 円い肉体だった。どこもかしこも円い。
 水母の背中のようなものが無数にあって、それが固く、弾力性を帯びていた。無数に並んでいた。押し潰そうとかかったが、こちらが滑り落ちた。先方からのしかかってきた。
 息がつまりそうで、首筋がぎいぎい鳴った。
 しいんと静まり返った。ほんとに眠ったらしい……。

 もう陽が高く昇ってるらしい明るさの中で、北村は恐怖に近い感情に駆られ、布団をはねのけて起き上った。見ると、水のコップに並んで、美しく透明に光る液体が半ばはいってるコップがあった。彼はそれをかざして眺め、少しく口に流しこんだ。口腔から喉へかけて、薄荷のようにしみ渡った。水をわって、むりやりに飲んでしまった。
 気持ちが少しはっきりしてきた。
 室の中はきちんと片付いていた。彼自身も寝間着をつけて、帯をしめていた。彼は服に着換えた。腰から下に力がなく、ふらついて倒れそうだった。
 障子を開けると、濡縁になっている。陽が当っていた。狭い庭だが、水のない小池があり、小池と板塀との間に布袋竹が並んで、風にそよいでいる。北村は濡縁の日向に出て、布袋竹の茂みに眼をやった。長い間じっとしていた。
 ふと、大事なことに思い当った。昨夜来のことを、雲海の上につき出てる山の峯々を飛び歩くような思いで、飛び飛びに辿っているうち、胸を突くような峯が一つあった。モチーフの涸渇、そうだ、モチーフの涸渇だった。それは昨夜来のいろいろな事柄とは無関係な、ただ自分一個のものに過ぎなかったが、それが実は、すべてを超えて聳える高峯だった。それが前途の展望を塞いでいた。酔い痴れたのもそのためだった。考えてみれば、彼はすべてのことについて、後から後からと気を揉むだけで、先に立って歩いたことは一つもなかった。若竹に泊りこんで喜代香の肉体に触れたことなど、彼にとっては問題でなかったし、嘗て何度かしたことの繰り返しに過ぎなかったが、それを繰り返すような地位に自分を置いたことが、既に、自分一人置きざりにされたようなものだった。最も実際的なこの行為についても、彼には何等のモチーフもなかったのだ。ただ置きざりにされた結果だった。あらゆる方面に於けるモチーフの涸渇、制作上のそればかりでなく現実上のそれは、いったいどこから来たのか。四十五歳ではまだ年齢のせいとはし難い。酒に親しんでるとはいえアルコール中毒とは思えない。
 原因は分らなかったが、とにかく、その高峯を乗り越えなければならなかった。
 北村は肚を据えた。お上さんを呼んで、昨夜来の自分の勘定を聞くと、すべて周さんの方へとなっていた。軽い朝食に銚子を一本頼み、喜代香の方は断った。
 宿酔の気味で、パンも喉へ通らず、酒だけを飲んだ。雀の声がどこかにした。それにつれて思い出した。自宅から真正面に見える椎の大木に、今でも鳶がいる。親ではなく、どうも仔鳶が育ったものらしい。二羽いる。朝や夕方によく鳴く。ピーヒョ、ピーヒョ、と鳴く。まだヒョロヒョロとは鳴けない。形も小さく、飛び方も低い。だが、それが他の群鳥を威圧している。可愛いながら威圧している。烏も寄りつかないのだ。雀だけがその下枝の茂みに戯れている。
 その鳶を北村は見たくなった。胸に抱きしめたい思いだった。
 彼は若竹を出て、真直に家へ帰った。台風はもうすっかり通り過ぎたらしく、晴れた空には秋の気があった。風だけがまだ少し強かった。彼は帽子をぬいで、頭を風にさらした。

 何故ともなく、これからしっかりしなければいけない、何が起ってもそれに対応するだけの心構えを準備しておかなければいけないと、そんな気持ちが、ふっと、然し徐々に根深く、起ってくることが往々ある。心境の推移というほどのものではなく、漠然たる予感に似たものである。北村庄作もそれを感じた。そしてこの気持ちを大切なものとして、心の底に落着けるために、制作に没頭しようとしたが、なかなかうまくゆかなかった。いろいろなことが気に懸るのだ。気懸りの一つの種である松本家を、彼は訪れてみた。
 家の中の様子が、平素とはなんだか違ってるようだった。
 彼は茶の間に通された。その表向きでない待遇はいつものことだが、千重子は外出しているし、順造のところへ挨拶に行こうとすれば、寝ているとのこと。
「どうも、病気ではないかと思われますのよ。」と富子夫人は言うのである。「昼間も晩も、寝ている時の方が多くなりましてね。眠っているかと思うと、眼をあいておりますし、眼を覚しているかと思うと、うとうと眠っておるようです。自分では、少しも眠れない、不眠症だと、そう申すんですよ。頭痛がしましたり、目まいがしましたりするようです。鎮静剤ばかりでなしに、催眠剤まで注射するようになりました。はじめは、小泉先生に診察して頂くつもりでおりましたが、どうしてですか、気持ちが変って、いくら勧めても、受けつけてくれません。いずれすっかり元気になってから小泉先生に診て貰うのだと、へんなことを申しますんですよ。たびたび勧めますと、ほんとに怒りだしますので、これには困ります。」
 それでも、困ってるような様子は殆んど見えなかった。彼女はなおいろいろなことを話した。――順造は怒りっぽくなると共に、一方ではひどく涙もろくなった。ちょっとした世間話とか、雑誌新聞の記事などで、一片の人情に触れると、たあいなく涙ぐむことが多い。必ずしも美談めいたものとは限らない。悲壮なものとは限らない。可憐なものとは限らない。ただ一片の卑俗な人情でよいのだ。意外な時に彼の涙が見られる。それと同じようにまた、意外な時、何でもない時に、彼は突然憤怒に駆られて、それをじっと抑制してるらしいこともある。抑制しきれなくなると、大声に怒鳴りつけはしないが、手当り次第に物を放りだす。注射器を壊したこともある。コップを砕いたこともある。土壜をひっくり返したこともある。そのあとでは、自分も不愉快になるとみえて、むっつりと黙りこんでしまうのだ。――それから、額や頭によく汗をかいた。たいてい食事や晩酌の時で、頭から仄かに湯気を立てることがある。――いったいに物ぐさとなり、投げやりになり、富子夫人に万事を一任した風が見えだした。社交上のことや、金銭上のことまで、相談してもただ聞き流して、黙殺してしまうことが多い。
 そのような富子の話も、いつもの調子で、小鳥のようにあちこちへ転々して、全体としてはなんだか要領を得ないものになってくる。体は小柄であるが、鼻がつんと高く、きりっと取り繕ってる様子には、他からの窺※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)を許さぬ趣きがあった。
「それから、気になることがありますのよ。はたから何やかや言われるのを煩さがり、独りで静かにしていたい様子ですが、そのままそっとしておきますと、淋しくなるらしいんです。用もないのにみよやを呼びつけたり、うちの誰はどうしているか、彼はどうしているかと、別にそれが気にかかるわけもありませんのに、いろいろ尋ねます。病気で寝ついているのならとにかく、家の中や庭をいつも歩き廻って、戸締りなどをやかましく言いますのに、一方ではそうなんでしょう。おかしくはございませんか。こないだなんか……。」
 言いかけて、富子はぱちぱち目ばたきをして口を噤んでしまった。そうなると、もう彼女は決して先を言わないのである。北村は何も尋ねなかった。第一、先日といい、今日といい、ふだん無視されがちな北村へ向っての彼女の打ち明け話なるものが、そもそも変梃なのである。打ち明け話というよりもむしろ、彼女の独白なのであろう。じっと聞いていてやればよいのだ。何か質問でもしたら、恐らく彼女は、貝が貝殻をぴたりと閉じるように、驚いて唇を閉じてしまうだろう。うっかり自分の心に響くことを言い出しても、驚いて口を噤んでしまうのだ。触れないに限る、触れないに限る。そのように北村は感じた。当らず障らずの受け応えをしてる北村へ、富子は妙なことを尋ねかけてきた。
「あなたは、鵞鳥の絵をおかきになったことがございましょうね。」
「鵞鳥の絵ですって……よく覚えていませんが………あ、ありますよ、鵞鳥の群れを、風景の一部に取り入れたことがありました。」
「それなら、御存じでしょうが、鵞鳥というものは、水がなければ、池とか川とかいう水がなければ、育たないものでしょうかしら。」
 相手が真面目なだけに、北村は返答に困った。鵞鳥の絵をかいたとて、鵞鳥の生態を知ってるとは限らない。また、鵞鳥の生態などに、なんで富子は興味を持ち出したのか。――だが、富子は案外正直だった。主人が夜間の戸締りをうるさく言う由を開いて、親しい某夫人が、鵞鳥をお飼い遊ばせと勧めたそうである。盗人よけには鵞鳥に限る。どんな番犬でも、その道の方法を以てすれば、容易く手馴ずけることが出来るし、飼養料は高くかかる。電気器具の類は電線を切ればすべてだめになる。ところが鵞鳥は、何でも食べるし、卵も産むし、どんなことをしても知らない人には馴ずかないし、些細な物音にもガアガア鳴き立てる。この鳴き声がまた大変なもので夜、夜中でも、誰だって眼をさます。四五羽の鵞鳥さえおれば、盗人の心配は決してなく、枕を高くして眠れるというものだ。ただ困ったことには、水がなくて、つまり池か川がなくて、果して鵞鳥が育つものやらどうやら、誰も知らない。松本家には池も川もないのである。
「そんなことなら、私が調べてきてあげますよ。」
 北村は気安く言った。どうせ富子の気まぐれな話だと彼は思ったのだ。昼間ならともかく、夜中に鵞鳥がそんなに鳴き立てる筈もない。
 そこへ、みよやが来客を報じた。井上の奥様という名前を開いて富子はちらと眉根を寄せたが、応接室へ通しておくように言いつけ北村に言った。
「鵞鳥のこと、まだ内緒にしておいて下さいね。わたくし、鵞鳥にはどうしても水が必要だと思いますのよ。池が一つほしいんです。家鴨ではきたないし、白鳥というわけにもまいりませんし、まあ鵞鳥ぐらいなところでしょうね。よいことを聞きました。水が必要だということ、よく調べておいて下さい。あなたにお酒が必要なのと同じですよ。ゆっくりあがっていって下さい。もう千重子も帰ってまいりますでしょう。」
 北村が辞退するのも構わず、富子は酒の仕度をした。然しもうその時、彼女の頭には鵞鳥のことも北村のこともないらしく、何か考えこんだ様子で、鼻がつんと高く聳えていた。居室にはいり暫く身繕いをして、応接室に出て行った。
 北村は腰を据えた。どうとでもなれと思った。物事に動じないだけの心構えは出来てるつもりだったし、前には酒がある。軒影が庭に長く伸びてゆくのを、彼は無心に眺めやりながら、何も考えまいとした。
「失礼でございますけれど、あちらへいらして頂きたいとのことでございます。」
 みよやの言葉に、北村はへんにびくりとしたように立ち上った。
「たいへん散らかしておりますけれど……。」
 導かれたのは台所の方で、新らしい庭下駄が揃えてあった。靴下をずらして下駄をつっかけ、外に出ると、千重子が駆けて来た。
「なあんだ、君か。」
 その大声を、し、と千重子は制した。
 そこの空地に、竹の縁台が一つある。平素は、菜っ葉とか芋とかその他の洗い物などが、水を切るために並べられるぐらいなものであろう。その縁台に、古い畳表を展べ、座布団を敷き、大きな盆を置き、盆には酒肴が並んでいた。柿の葉の茂みが、深い木影をあたりに落している。
「いかが? お酒には涼しい方がお宜しいでしょう。」
 洋装では少し肉付の不足を思わせる彼女のすらりとした姿を、北村は初めて見るもののように眺めた。
「だしぬけに、いつ帰って来たのかね。」
「さっきよ。井上のおばさまがいらしたでしょう。」
「私の知らない人だ。」
「小父さまはそうでも、わたし、今ちょっと、井上のおばさまにお逢いしたくありませんの。さっき、遠くからおばさまの姿を見かけて、家にいらっしゃるのを見届けて、よっぽど、も少し外をぶらついてこようかと思ったけれど、重い荷物をさげてたものだから、置きに帰って来たの。すると、小父さまがいらしてるんでしょう。助かったわ。これで一生懸命、知恵をしぼったつもりよ。屋台店、ね、屋台店を小父さまは讃美していらしたわね。この屋台店、いかが?」
「そりゃあ、申し分ないがね。然し、どうも理屈が違うようだ。屋台店が主なのか、その井上のおばさんとかを避けるためのカムフラージュが主なのか、そこのところがはっきりせんね。」
「一挙両得………一石二鳥……。」
 歌うように言って、千重子は笑った。それから突然、縁台に腰掛けてる足先で地面を二三度強く蹴った。
「井上のおばさま、ずいぶん失礼よ。ほんとは田島さんの方が失礼なんだけれど、それはあのひとの持ち前だもの、井上のおばさままで失礼にならなくったっていいわ。例のわたしとの縁談のことよ。こうなんです。いつまでもあやふやなままでは困る。田島さんにもほかに幾つも縁談があるが、こちら様との話がはっきりしないうちは、先方へ返事のしようがないし、こちら様もたぶん同じことだろうし、この際、はっきりした御返事が承りたいと、そう仰言ったそうですの。だからわたし、はっきり、お母さまにお断りしたわ。田島さんとの縁談をきっぱり断ったわ。それから、わたくしはまだ縁談の行列の中に並ぶつもりはございませんと、はっきり言ったの。だって、行列をつくって、あとがたくさんつかえているから、先頭から順々に片付けてゆかなくてはならないと、そういう考えですもの。何もかも行列ね。縁談まで行列ね。わたし、いや、そんな行列、いやだわ。」
「その、君の返事を、お母さんが今日なさるのかい。」
「いいえ、こないだなさった筈よ。だから、今日またおばさまがいらしたのには、なにか、別な失礼なお話でもあるんでしょう。考えてみると、お母さまも失礼よ。お父さまもちょっとね。みんな失礼ばかり。わたし癇癪を起して、はっきりお断りしてよかったわ。なんだかさっぱりして、自由な身になったような気がするの。」
 千重子は猪口を取って酒を飲んだ。
「お母さま、なにか仰言いませんでしたの。」
「君の所謂失礼の問題かね。そんなこと、お母さんには分りはしないよ。何の話もなかった。」
 北村は煙草に火をつけて、少しく歩いた。鵞鳥の話を思い出しておかしくなり、くるりと千重子の方へ向き返った。
「君は、鵞鳥の絵をかいたことがあるかね。」
「鵞鳥の絵……ないわ。」
「一度も。」
「ええ。なぜ?」
「それじゃ話にならん。」
 北村は縁台に戻ってきて、酒を飲んだ。
「これは内緒の話なんだがね……。君のお母さんはすばらしい空想家だ。」
 鵞鳥を飼えば最上の泥坊よけになるという話を、富子の説に更に尾鰭をつけて披露してやった。
「それを、知人から聞いたように話すんだから、お母さんもなかなか技巧家だ。」
 千重子は薄笑しながら聞いていた。北村が話し終っても、まだ微笑していた。
「嘘じゃない。ほんとの話だよ。」
「ええ、ほんとの話よ。」
「なにが。鵞鳥のことかい。」
「いいえ、それをひとからお聞きなすったということ。須永のおばさまからよ。なんかの時、ひょっとお洩らしなすったことがあるの。須永のおばさまからからかわれたことには、ちっとも気がおつきにならないんですもの。わたしだったら、須永のおばさまに御返事してあげるわ。わたくしどもでは、お説に従いまして、鵞鳥を飼うことに致しました。お宅さまでは、驢馬をお飼い遊ばしてはいかがでございますか。驢馬の肉は、牛肉よりもおいしいそうでございますし、驢馬の乳は、牛乳よりも滋養が豊かだそうでございますし、驢馬はたいへんおとなしくて、子供の遊び相手に丁度よいそうでございますし……。もっともっと、たくさんでたらめを並べ立ててあげるわ。」
「なんだい、それは。」
「鵞鳥にしろ、驢馬にしろ、ヨーロッパでは、おばかさんという意味にも使われるんでしょう。」
「ああ、おばかさんか。」
「須永のおばさまは、面白いかたよ。」
「然し、ねえ、私の話し方がまずかったが、実は、お母さんとしては、鵞鳥が主じゃなくて、鵞鳥を飼う池の方が主らしいんだ。よくは分らないがね。」
「池のことなら分るわ。言ってみれば、老後の楽しみで、また老後の見栄ね。お父さまも賛成よ。ただ、順一さんの口真似をすれば、実行に移すプロモーターがなかった。」
「鵞鳥がそれだと言うのかい。」
「お母さまの中で、ガアガア鳴き立てているんでしょう。」
「それこそ、失礼な言い草だ。」
「小父さまの中には、お酒がぐつぐつ沸き立っている。」
「千重子の中には……。」
「とんびが、ヒョロヒョロ鳴いている。」
 二人は声を揃えて笑ったが、千重子の笑いが哀調に変ろうとするとたん、二人とも笑いをやめて、ひたと眼を見合った。先刻から、最も大切な事柄の外側をぐるぐる廻って戯れてたようなものだが、もうごまかしがきかなくなった。
「どうして来なかったんだい。」と北村は言った。
 千重子は黙っていた。房々と縮れてる髪の毛の中で耳が真赤になった。
「菅原君が帰って来たと聞いたら、すぐにも飛んで来るかと思って、待っていたよ。」
「意地わる。」
 千重子は睨むまねをしたが、瞬間、その眼にいっぱい涙がわき、立ち上ってくるりと向うをむき、こんどは、倒れるように北村の胸に倚りかかってきた。そしてそこに顔を隠して泣いた。
「どうしたんだい。何かあったのかい。」
 千重子は頭を振った。暫くして、顔を挙げ、極りわるそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。」
「まあいいさ、飲もう。」
 千重子が熱い銚子を二本いっしょに持って来ると、北村は手酌でしきりに猪口を重ねながら、菅原洋平のことを話した。彼の旅行のこと、帰って来てからのこと、新居のことなど……だが実は、北村もよくは知らないのである。
「あの天神下の家に菅原君が住むようになろうとは、これは奇縁だね。」
 それについては、千重子は何の興味も持たないらしかった。その家屋の様子も全然知らないのである。その代り彼女は、周組南一家のことをいろいろ尋ねた。だがこれについては、紹興の店以外、北村は殆んど知るところがないのである。
「小父さま、これから淋しくおなりなさるわね。」
「菅原君がいなくなるからかい。なあに、もともとだ。初めから臨時のつもりだったんだ。」
「わたし、時々伺うわ。絵も勉強するつもりよ。」
「お父さんが、どうやら病気らしいじゃないか。そんなに出歩くわけにもゆくまい。」
「大丈夫よ、八重子さんがいるから。八重子さんて、この頃まったく感心よ。いつもお父さまの側につきっきりなの。そしてめちゃくちゃに編物ばかりしてるのよ。毛糸の玉を幾つもころがして、手袋だの靴下だの、帽子だの、スエータだの……今に外套まで編むんだと言い出すかも知れないわ。そりゃあ器用よ。一つの編み方を幾通りにも応用するの。そして夢中になってるかと思うと、お父さまがちょっと身動きなすっても、すぐ御用をしてあげるのよ。言われない先にお父さまの気持ちを察してしまうのね。八重子さんが側にいないと、お父さまはよけい淋しそうなの。今も八重子さん、お父さまの側で編物をしてるんでしょう。」
 北村の眼に涙が浮んできた。それを怪訝そうに千重子は見守った。
「酒に酔ってくるとね、私も君のお父さんと同様、感傷癖に囚えられるんだ。私の方が病気なのか、お父さんの方が酔っているのか、どっちかだね。ただ一つ、ふしぎなことがある。私はもともと、君の家とは親戚の間柄だというばかりでなく、お父さんにはたいへん世話になった。いろいろ援助を受けた。世話をし援助をするからには、する方にも好意があったわけだ。其後、どうしたものか、まあ私の不徳の至すところ、ふしだらの至すところ、だんだん疎遠になり、飲んだくれとか、ペンキ屋さんとか、有難くない愛称を頂戴した始末さ。ところが、最近、様子が変ってきた。君たちのことを言ってるんじゃないよ。お母さんや、お父さんのことだ。やって来ると、嫌な顔一つ見せられないし、親しくもてなされ、酒まで充分に飲まされる。つまり、松本家の酒庫が私に喜んで解放される。これは一体どうしたことなんだ。どういうわけなんだ。私はへんに落着かない気持ちだ。ひがんでるんじゃないよ。なんだか腑に落ちないんだ。どういうわけなんだ。」
 酔いながら、饒舌りながら、北村は酒を飲んだ。千重子は考え深そうな眼付きになっていった。
「それはね、小父さまの存在の問題よ。」
「なんだい、存在の問題て。」
「小父さまがいらっしゃるということ、それが、お父さまにもお母さまにも、やはり心強いのよ。」
「ばか言っちゃいかん。却って荷厄介さ。」
「厄介な荷物でも、無いより有った方がいいわ。」
 北村は千重子の顔を見つめた。
「そんなことは、哲学者の言うことだ。詭弁家の言うことだ。」
「わたし考えたのよ。小父さまのように、ただ存在してるということだけでも何かになるという、そういう人間になりたいと……。」
「誰だって、そんな風に言えばそうじゃないか。」
「いいえ、違うわ。ちょっと説明しにくいけれど………。」
 話が通じなくなると、二人はぼんやり顔を見合せて頬笑んだ。頬笑みがすべてを解決してくれるのである。
 然し、その時、北村も千重子も全く予期しないことが起った。

 台所口から顔を覗かせて、富子夫人があわただしく呼びかけた。
「そんなところで、何をしているんですか。小泉先生と、大勢いらしてるんですよ。いろいろ御用があります。北村さんも、ちょっと手助って下さい。」
 富子の顔は、言葉といっしょにそこから消えた。
 対外的には、つまり社交的には、富子は聊かも取り乱したところを見せない代りに、内部では、つまり家庭の裏面では、せかせか駆け廻ることがある。今ちょうど、そうしてるところだった。
 小泉先生と大勢、と富子は言ったが、来客は三人に過ぎなかった。先刻からの井上夫人と、新たに小泉博士と田島章吾がやって来ただけだ。但し、こちらにとっては不意打ちではあるが、先方にも手違いがあった。
 章吾と千重子との縁談の仲人として、井上夫人は、幾度か松本家へやって来るうちに、近頃の順造の様子を富子から聞かされ、これはどうしても小泉博士の診察を受けさせねばいけないと考えた。その意を田島にも伝えた。縁談とは別な問題だ。そして井上夫人が富子を説き伏せに来てるところへ、田島が小泉博士を連れて来てしまったのである。
 小泉博士と松本順造とは昔から懇意な仲だ。小泉は松本が寝ついてるものと思ったらしく、すぐに病室へ通ろうとした。富子は困った。散らかしているからと口実を設けて、順造のところへ行った。
 順造は寝ながら書物を読んでおり、縁側で八重子が毛糸の編物をしていた。
「なんです、いつもいつも編物ばかりして。少し片付けなさい。」
 心にもなく小言を言って、それから、小泉博士が来てることを順造に知らせた。
 順造は半身を起した。
「なに、小泉君。お前が呼んだのか。」
「いいえ。ふいにいらっしゃいました。」と富子はきっぱり答えた。
「診察に来たのか。通りがかりに寄ったのか。」
「さあ、よく分りませんが……。」
 富子はその先を言いかねて、息を呑んだ。順造が癇癖を起しはしないかと恐れた。
「小泉君一人か。」
「田島さんと御一緒です。それに、先程から、わたくしのところへ、井上の奥様が見えております。」
 順造は暫く黙っていた。庭の方に眼をやって、その様子は、何も考えていない風だった。
「わしの方から行こう。」そしてちょっと間を置いた。「着物を替えよう。」
 ふしぎなことに、順造の表情はなんだか明るくさえなったようである。禿げあがってる頭から額へかけて、外光の反映がさしてるせいか、精力的にさえ見える。茶の間の廊下を通る時、彼はじろりと北村の方を一瞥した。
 順造が応接室に姿を現わすと、一同はびっくりしたように立ち上った。順造は頬に微笑を刻んで、井上夫人と田島とに軽く会釈をし小泉の方へ真直に進んでいった。
「やあ、暫くだね。」
 小泉は頷いて、相手の様子を、見るような見ないようなずるい眼差しで観察し、ソファーに身を落して煙草に火をつけた。
「君は、病気ではなかったのかい。」
「いや、仮病さ。僕が仮病をしておると、まわりの者は本当の病気だと思うし、本当に病気をしたら、こんどは仮病だと思うだろう。」
 微笑の皺が頬には寄ったが、笑いはしなかった。
「然し、医者はそんなことにごまかされんね。」
「ごまかされるようでは、こちらが助からん。いずれ、病気になったら、君に診て貰うよ。」
「なるべく、そんなことにならん方がいいね。」
 言葉がとぎれると、突然、田島が饒舌りだした。
「おじさん、僕はびっくりしましたよ。おじさんが寝たっきりで、まだ小泉先生にも診て貰ってない、と聞いたものだから、驚きましたね。御存知の通り、僕の父は手後れで、あんなことになりましたが、その父が、つくづく言いました。人間、年をとると、月に一回ぐらい、健康診断をする必要がある。松本君なんか、あの通り……気丈夫だから、猶更、健康診断の必要がある。少しでもおかしな点があったら、小泉先生に密告しろ。とそんなことを言い残しました。僕は父の言葉を、忠実に実行するつもりです。いつでも、小泉先生に密告しますよ。然し、密告なんて、卑劣ですからね。僕をそんな立場に置かないためにも、おじさんは、健康診断をお受けなさらなければいけませんよ。」
 順造は眉根に不快な皺を寄せて、田島の方をじろりと見やったが、返事はしなかった。返事の代りに、紅茶へウイスキーをたらした。そして小泉にもすすめた。
「サントリーの最上品だそうだが、僕には洋酒のことはよく分らん。君はくわしいから、味ってみてくれ。」
「この頃は、味覚もすっかり下落してしまったよ。」
「そうだ。何もかもだ。」
 順造は富子の方を顧みた。
「北村君がいたじゃないか。あれがいちばん喜びそうだ。呼んで来いよ。」
 富子は暫くして戻って来て、北村さんはあちらで日本酒を飲んで、少し酔っているから……と返事をした。
「酔っておればなおいい。呼んで来い。」
 富子がはっと思ったほどきつい調子だった。
 こんどはすぐ、富子は北村を連れて来た。
 北村は古ぼけた黒服の上衣に釦をきっかりはめ、酔ってるとは見えない態度で、一同に挨拶して、順造のそばに行き、いきなりウイスキーの瓶を取り上げて眺めた。
「どうだい。」と順造は微笑した。
「飲んでみなけりゃあ、分りませんね。」
「それはそうだ。」
「も少しつぎましょうか。」と北村は順造の紅茶茶碗を指した。
「いや、もういい。小泉君の方はいけるよ。」
 北村は小泉の紅茶へ少したらして、ウイスキーの瓶をかかえたまま、片方の小卓の田島のそばに坐った。
「しばらく。この方は、君もまんざらではないでしょう。」
 彼は二つのグラスにウイスキーをついだ。田島はなにか腑に落ちないらしく、低く囁いた。
「あなたは、松本さんと懇意だったんですか。」
「いやあ、懇意でもあり、懇意でもなし、というところですかな。」
 声が大きいので、田島はすぐ話題を変えた。
「松本さんの肖像でもかかれましたか。」
「いや、一向にかきませんよ。私の肖像画なんか、実物と少しも似ないから、誰も頼みてがない。こちらも、実物に似た肖像画なんか、かきたくない。つまり、意見が一致してるわけだ。」
「然し、実物に少しも似ない肖像画なんて、あり得るでしょうか。」
「そこが、凡慮の、いや凡眼の、悲しさですな。少しも似ていないようでいて、実は大いに似ている。大いに似ているようでいて、実は少しも似ていない。そんなものばかり流行する世の中だ。政治だってそうでしょう。真実だ真実だと唱導されるものが、みな嘘っぱちで、嘘だ嘘だと唱導されるものが、みな真実ですからね。」
「いや、これからの政治はそうでありませんよ。少くとも、そうでないように立て直さなければなりません。そのために、吾々同志は、今から、着々準備を整えているんです。面白くなってきますよ。国会の解散も近いうちに必至です。衆議院議員の総選挙となります。それが絶好の機会です。選挙運動に乗じて、全国に同志を叫合する手筈です。勿論、同志の中から、議員候補者も立てますよ。私も立つつもりです。然し、当選するかどうかは問題ではありません。目的は同志の叫合にありますからね。あなたの仰言る真実の政治、それを日本に確立するための運動です。」
「いったい、君たちは、何党に属するんですか。」
「既成政党には一切属しません。全く新らしい党派です。既成政党員の離合集散、醜態の極みではありませんか。あれでは、何も出来はしません。一体に、所謂陣笠連が多すぎるんです、それというのも、何々党の公認候補ということになれば、当選するとしても、一列に、その党の陣笠に追い込まれてしまうからです。中立として当選すれば、あとで何党にはいろうと、まあ大抵は、その党の中軸どころか、幹部どころに、納まり返ることが出来ます。政党とはそのようなものですよ。だからもし、政見が一致する党派が見つかって、それに入党するにしても、まず中立で当選して、その後のことにした方が有利です。」
 次第に彼は、北村相手ではなく、一座の人々を相手に饒舌ってるらしかった。ところがふしぎなことに、彼のその意識がはっきり外に見えだすにつれて、耳を傾ける者は少くなった。当の北村はそっぽ向いて、ウイスキーをなめているし、小泉と順造は窓の外を眺めているし、井上夫人と富子は、時々小声で何か囁き合っている。
 田島の声がとだえて、ひっそりとなった時、順造は立ち上って、小泉になにか合図をした。そして二人は室から出て行った。そのことがなにか奇怪な印象を与えた。富子夫人さえ、二人のあとに随うのをためらった。
 後に、千重子の言うところによれば、順造と小泉とは、話をしながら縁側を一往復し、それからなおちょっと立ち話をした、ただそれだけのことだったらしい。
 応接室では、北村がふいに立ち上って、壁にかかってる画面の前に佇み、両腕を拱いてじっと眺めた。
「これは実にふしぎな絵だ。遠くの山はまあいいとして、近くの丘と野原がおかしい。あの丘には、到底、人間はのぼれやしない。あの野原は、どうも、人間は歩けやしない。つまり大地がないんだ。それでいて、これは写実的な絵だからな。ねえ、田島君、君はあの野原が歩けますか。」
 田島はぼんやり画面を見上げた。
「然し、美しい風景ではありませんか。」
「いくら美しくても、大地がなくては何にもならん。つまり架空の拵え物だ。」
 北村はぷいと画面の前から離れ、室の中を歩き廻った。
 沈黙が続いた。
 小泉がはいってきて、富子に言った。
「御主人がお呼びですよ。」
 順造は茶の間で、千重子と八重子に両手を出さして、その指先の指紋を比較していた。
「袴。」と彼はただ一言、富子に言った。
「袴を、どうなさいますの。」
「ちょっと出かけるんだ。」
「どちらへ。」
「いいから袴を出しなさい。小泉君といっしょだ。洋服は面倒くさいから、このままでいい。」
 なんだが、俄に上機嫌らしい。富子ははっと肩の荷を下した気持ちになった。
 袴をつけ、白足袋をはき、茶を一杯のんで、立ち上った順造は、もうどこにも不健康そうな陰は見えなかった。もともと、がっしりした骨格なのだ。
 彼は応接室へ行き、井上夫人と田島に鷹揚に詫びた。
「急に用事が出来て、小泉君といっしょに出かけます。どうぞゆっくりしていって下さい。」
 自動車は、小泉のが表に待たしてあった。その自動車のところまで一同が送って出ようとするのを、順造は激しい身振りで断った。それからもう見向きもしなかった。
「わたくしどもも、もうおいとま致しましょうか。」
 玄関につっ立ったまま、井上夫人は田島を顧みた。田島が黙ってるので、富子へ言った。
「御診察でしょうか。」
「そうではないようでございますよ。どこへ参りますのか、見当がつきませんわ。」
「でも、小泉先生とごいっしょですものね、御心配なことはございますまい。」
「まあどうぞ、あちらへ。」
 そろそろと、応接室へ戻って行った。
 北村だけは応接室へ戻らなかった。茶の間の方へ行くと、千重子と八重子が、まだ指紋を見比べあっていた。
「おい、も少し酒をつけてくれ。飲み直しだ。」
「ええ、いくらでもつけてあげるわ。」と千重子が言った。「今日は珍らしく、お父さまに、二人ともほめられたのよ。二人とも、指紋がきれいだって。ほら、みんな渦を巻いてるのよ。流れてるのは、両手でたった二本だけ。八重子さんは三本だけよ。小父さまのは……。」
「私のはみな巻いてるさ。完全無欠だ。」
「うそ。そんな指紋てないわ。」
「ここに現にあるよ。」
 だが、北村は指を見せはしなかった。妙に気が滅入って仕方がなかった。泣きたくさえなった。それをじっと押し堪えていると、突然、はっと夢から覚めたような気持ちが開けた。何たるばかげた感傷だ。――彼はまじまじと千重子や八重子の顔を眺めた。一面に産毛が密生してるような白い丸っこい顔、薄い皮膚が透いて見えるような少し細長い顔、どちらにも眼がくるくるちらちら動いている。彼女たちはいったい何を見てるのであろうか。北村は自分の両眼をごしごしこすった。
(未完)

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説)」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「芸術」
   1948(昭和23)年7月、9月、11月
   1949(昭和24)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「憂鬱/憂欝」の混在は底本の通りです。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年7月4日作成
2011年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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