焼跡の中に、土蔵が一つある。この土蔵も、戦災の焔をかぶったので、ずいぶん破損している。上塗りの壁土は殆んど剥落して、中塗りの赤土や繩が露出し、屋根瓦も満足でなく、ひょろ長い雑草が生えて風にそよいでいる。二階の窓には、錆び捩れた鉄格子がついていて、その外側に白木の小さな庇が取り附けてあるので、一層さびれて見える。中は薄暗いらしく、昼間でもぽつりと電灯がともってることが多い。窓の鉄格子からは、時折、年老いた女の白い顔が、ぼんやり外を眺めている。一階の入口の鉄扉は、さすがに頑丈で、天気のよい日はすっかり開け放たれ、その南向きの石段の上で、小さな男の子が二人、おとなしく遊んでいたりする。――戦後、この土蔵の内部が改造されて住宅にされているのだ。
 この辺は、もともと、住宅街で、復興も後れている。道路に沿って、新築の店屋が少しくあるきりで、他は空地のまま耕作されている。野菜畑もあれば、麦畑もある。土蔵の家は、以前は広い家敷だったらしく、周囲に充分の空地があるが、樹木の植込みもしてなく、耕作もしてなく、片隅に小さな竹の茂みがあるのも、恐らく戦災後に芽を出したものであろう。
 土蔵の二階に一人で寝起きしてるお婆さん、カヨが、突然へんなことを言いだした。
「わたし、どうしたんだろう、耳がおかしくなった。」
 夜中に目を覚して、床の中で、はて何時頃だろうと、柱時計の音に注意してみるが、時計はいつも一つしか打たない。柱時計は一階にあるのだが、その音は二階にもよく聞える。昼間だったら、十一時には十一、三時には三つ、ちゃんと打ってるのに、夜中に床の中で聞くと、いくら耳をすましていても、一つしか聞き取れない。一時間待っても二時間待っても、時計は一つしか打たない。いつも一時か三十分かだが、そんな筈はない。耳の方がどうかしてるのかとも思うのだが、そうでもないらしい。裏の笹藪の音までよく聞こえる。笹藪に風のあたる音、笹藪の中を犬が歩く音、みんな聞こえる。夜中の時計の音だけ、いつも一つしか聞こえない。夜中に限って時計が狂うわけもないし、やはり、耳がおかしくなったのであろうか。
 彼女は穿鑿するように相手の顔色を窺うのである。
 桂介は眉をひそめたが、おとなしく説明してやった。
「それは、お母さんの思い違いですよ。」
 夜中に眼を覚して、眠れないといっても、長い間眼がさめてるものではない。不眠症で夜通し一睡もしなかった、などと訴える人もあるが、医者に言わせれば、実際は相当に眠ってるものらしい。夜中に眼がさめて、一時間も二時間も時計の音に注意してるつもりでも、実際はその間にうとうとして、時計の音を聞きもらすことがある筈だし、三十分毎の一つの音だけを耳に入れるのであろう。
「それにしても、丁度三十分の音だけ聞こえるというのが、ふしぎだよ。」
 それを不思議とするならば、実は、実の笹藪の音をはっきり聞き取るというのが、第一に不思議だった。土蔵の中には、だいたい、屋外の物音はあまり伝わらない筈である。桂介はそれを何度か経験した。まだ子供の頃、暴風雨の烈しい折、建て直し以前の古い家屋がみしみし揺れて、恐ろしくなり、泣きだしたくなり、祖母に連れられて土蔵の中に避難したことがある。土蔵の中にはいると、まるで夢のような心地だった。外に荒れ狂ってる暴風雨の音は、遠くへ消え去ってしまい、土蔵の中はひっそりと静まり返っていて、別世界の感じだった。想像も及ばないほどの不思議さだ。ふだんは、土蔵の中は薄暗い冷々とした不気味な場所だったが、暴風雨の時には、全く安らかな隔離された場所だった。母も一緒に土蔵へはいったことがあるし、あの時のことを、年老いた今でも覚えてる筈である。――その同じ土蔵なのだ。戦災に破損しているし、内部は住居向きに改造してはあるが、それでも土蔵たることに変りはない。入口の扉を閉め切ると、屋外の物音はあまり聞こえなくなる。二階とて同じであろう。実の笹藪の中の犬の足音など、果して聞き取れるであろうか。
 然し、そのようなこと、桂介は胸にひめて黙っていた。
 そのようなことを知らない久子の方が、桂介に囁くのである。
「お母さんの話、なんだかへんね。」
 へんだというのは、遠慮してるので、実は気味わるがってるのである。
 カヨに向っては、久子は、皆と一緒に一階に寝ることを勧めた。
 カヨはちょっと襟を正すような様子で、きっぱり言うのである。
「わたしが下に寝たら、二階には誰が寝ますか。二階を空け渡すようになったら、この家ももうだめですよ。」
 それは彼女の持論だった。二階には誰も寝なくてよいということが、どうも納得ゆかないらしい。彼女が一階に寝ることは、二階を誰か他人に空け渡すことで、そうなっては、白井家ももう全く没落だと思ってるのである。
 戦時中、地方へ疎開することが問題になったが、カヨはどうしても自家を離れたがらなかった。利根川べりの知人の家に適当な室が見付かって、東京からさほど遠くもないのに、彼女はそこへ行くことを承知せず、ごたごたした揚句、久子だけが幼児を連れて疎開することになった。それも、東京空襲が始まってからのことで、荷物はもう余り運べなかった。それから家には、罹災者の寄寓がふえ、遂には家も焼けてしまった。直接に焼夷弾を受けたのではなく、つまり類焼ではあったが、桂介は老母を連れて避難するのにたいへん苦労をした。
 自家のその焼け跡に、土蔵が破損しながらも立ち残ってるのを見て、カヨは眼に涙をためて喜んだ。
「土蔵が残ったよ、土蔵が。」
 そして終戦後、焼け跡に小さな家でも建てようかという話になった時、カヨは断然反対し、土蔵の中に住めばよいと主張した。他の家作も炊けてしまい、資産も心もとなかったので、桂介はそれに同意して、土蔵の内部を改造し、一家中で住むことになった。――その時から、カヨは一人で二階を占領し、そこに腰を据えてしまったのである。
 あちこちに、新築の家がふえていった。カヨは憐れむように言う。
「あんなお粗末な家をつくって、どうするつもりでしょう。こんど戦争になったら、ひとたまりもあるまい。それに比べると、うちは安心ですよ。」
 再び戦争が始まるものと、彼女は確信してるのである。戦争になれば、この前と同じ情況になるものと、思ってるのである。だから、土蔵は最も安全なのだ。
 隣りに、鉄管を扱う家があった。径二十センチほどの長い鉄管を、トラックに満載してどこからか運んで来、空地にそれを積み重ね、暫くすると、またトラックに満載して、どこかへ運び去るのである。その家が、新たに建て増しを始めて、白井家の敷地とすれすれに地割りをした。カヨはその方へ気を配った。
「家というものはね、地境いから軒先三四尺は離して建てるものですよ。お隣りはどんな建て方をなさるか知れないが、地境い一杯に建てられるといけないから、前以て注意しといてあげなさいよ。」
 三四尺のことなら、どうだってよい、と桂介は思った。
「三四尺といっても、火事の時にはたいへん違います。」
 隣家の火事の場合を、カヨは考えてるのである。こちらで新築はしないつもりでも、現在の土蔵の住居に関係があるのだ。それだとすれば、椎の木はたいへん防火に効果があるそうだから、境界近くに椎の木を並べ植えたらよかろうと、桂介は言った。
「椎の木が何の役に立つものですか。一乗寺の大椎さえ燃えてしまったじゃありませんか。いざ火事となれば、立木も却って火を呼びます。」
 空襲の大火のことが、カヨの頭には深く刻みこまれているのである。
 つまらないことを隣家へ談判にも行けないので、桂介は打ち捨てておいた。ところが、カヨ自身で、工事をしてる大工に探りを入れて、建築は境界から六尺ほど引込んだ設計であり、境界には低い四つ目垣を拵える予定であることが、はっきりした。
「やっぱり、お隣りでも、火事のことを考えていると見えますよ。」
 カヨは安心したように眉根を開いた。
 然し、周囲に対するそういう配慮は、カヨとしては特別なことで、たいていは二階の室に閉じ籠っているのである。それは蝸牛の殻のようなもので、彼女はその室を背負い、その室の中に生きてるのだった。
 一階には桂介夫婦と二人の子供とが暮していて、手狭なところから、日用品以外の家具什器の類はみな、二階の片隅の板戸で仕切った中に納められている。それらの物品も、嘗て、罹災者などに分ち与えたり売り払ったりした後の残りだから、大したものでもないが、それをカヨが後生大事に張り番してる、というような恰好に見える。その上、彼女自身、いろんなつまらない物を大切に保存している。
 第一に、大小さまざまなぼろ布が、行李二つほどある。絹布、綿布、洋服地、毛布、などの切れ端で、かき廻すと、絵具箱をひっくり返したような色彩の花が開く。そのぼろ布をためてゆくのが、彼女の楽しみらしい。何に使うという当はないが、ただ、各種の衣裳の象徴なのでもあろうか。それから、桐箱や紙箱にはいってる風呂敷がたくさんある。
 次に、彼女は貨幣をたくさん集めている。小さな仏壇のわきに、白木の平たい箱があって、その中に、手にはいる限りの貨幣を投げ込む。古銭蒐集という趣味ではないから、珍らしいものは殆んどなく、小額紙幣の間合に時折出てくる安っぽい貨幣を、見当り次第に貯えるのであり、桂介や久子から貰ったものが多い。明治時代の銀貨や銅貨も少しあるが、多くは近頃のもので、まあ一種の蒐集癖であろう。生活が苦しくなると、まだ多少残った株券の類を、彼女は惜しげもなく売り払ってしまった。そのことから見ても、貨幣集めは吝嗇からではない。ただ、金属の重みが嬉しいのであろうか。役にも立たない錆びついた短刀や懐剣も幾つか、大切に保存してある。
 面白いのは、高さ二尺ほど吊鐘だ。鋲紋だけ打ち出してある無銘のもので、どうしてそんなものが家にあったのか、カヨ自身にも分らない。それが、階段口の壁わきに、天井から吊してある。
 カヨは二階に落着いてから、どんな用があっても、階下の人を呼ばず、自分から階段を降りていった。ちょっとした物を持ち運ぶにも、自分で階段を昇り降りした。呼んで下さればわたくしが、といくら久子が言っても、自分で動いた。随って、階段の昇降が頻繁だった。そして或る日、途中で踏み外して転げ落ち、足首の筋をたがえて、三日ばかり不自由をした。その時、今後のことが気遣われると、桂介と久子は相談して、室の片隅に伏せてあった吊鐘を、階段口に吊したのである。あまり大きな音を立てると、近所に憚られるので、小さな木槌を添えておいた。カーン、カーン、と二つばかり叩くと、階下から誰か昇ってゆくのである。鐘の音は清澄だった。カヨの気に入った。やはり自分で階段を降りてゆくこともあったが、鐘を用ゆることが次第に多くなった。
 そして彼女は終日、たいてい室に籠っている。家の用は殆んどしない。久子が配給物を取りに行ったり、其他の用たしに外出する時、留守番をするぐらいのもので、家事の手伝いはしない。ただ子供達の靴下の繕いだけは、一手に引き受けている。つまり、仕事の部面をはっきり区別づけているのだ。靴下の繕いがすむと、自分の古い着物を縫ったりほどいたり、ぼろ布をいじりまわしたりする。
 最も時間をかけるのは、経文を写すことである。これは神聖な仕事で、先ず手を洗ってきて、紫檀の机の前に端坐し、ゆっくり墨をすりはじめる。それから写経用の唐紙の巻物をくり拡げる。写すのは、法華経の四要品とされている、方便、安楽、寿量、普門の四品である。そのむつかしい漢文を一字一字入念に写してゆく。いくら時間がかかっても構わない。間違いさえなければよいのである。この写経には、彼女は老眼鏡をかけ、白昼でも必ず電燈をつける。いや白昼に限るのであって、夜分は決して写経はしない。
 人は写経をするようになると、或は写経を終えると、あとの寿命は長くない。そういう不吉なことを、久子はどこからか聞いてきた。桂介はそれを迷信だと笑ったが、カヨの生活状態を見ていると、いくらか気にかからないでもない。写経が遅々としてなかなか進捗しないのを、ひそかに窺って、二人は却って喜んでいる。
 カヨの唯一の贅沢は、寝酒を飲むことだ。土蔵の中は冷えるし、風邪の予防に、というようなことから、いつしか毎晩の癖となってしまった。卵酒を一合五勺ほど、二階に持って上って、炬燵にはいり、ぼんやりなにか考えこみながら、または娯楽雑誌などを眺めながら、ゆっくり味って、それから寝床にはいるのである。ラジオは嫌いで、嘗て二階に桂介が取りつけてやったが、少しも聴かないので、一階に移してしまった。静かな環境を彼女は好きなのだ。
 毎晩の卵酒には、桂介夫婦は経済的に困った。酒ばかりでなく、鷄卵と砂糖がいるので、それがつもると、桂介の収入では容易なことではない。だがカヨは、そんなことは殆んど顧慮しなかった。家計がつまってくると、株券でも物品でも、惜しみなく売り払わせた。食物の贅沢などは少しも言わず、何でも食べた。そして寝る前の卵酒だけが、その日その日の楽しみのようである。楽しみばかりでなく、昔の裕福な生活の名残りの夢のようでもある。
 家に仔猫が一匹いる。というよりも寧ろ、カヨがそれを飼っている。彼女が十日に一度ぐらいお詣りする一乗寺の、隣りの家から、貰って来たのである。全身真白で、一本の色の差し毛もなく、眼は水色をしていて、短かめの尾の先端が少し太くなっている。その仔猫をカヨはたいへん可愛がり、子供達にもあまりいじらせず、いつも身辺で遊ばせ、夜は抱いて寝る。二階の隅に、糞便用の砂の箱を置き、それの掃除はいつも自分でする。猫もまたすっかり彼女になつき、彼女が外出する時は、犬のように後を追う。彼女が食べる物なら、たいてい食べる。菓子も食べるし、ほうれん草のうでたのも食べる。卵酒の中にとけてる卵のみも、酒の気をしぼってやれば食べる。
 或る晩、二階で、猫がひどくあばれ騒ぐ音がし、それから、猫は階段に出て来て、駆け降りたり、駆け昇ったり、途中に止って身を隠したりした。気が狂ったようでもあり、楽しそうでもあった。カヨが追って来て、猫を抱き取った。
「静かになさい。なんですか、少しのお酒に酔ったりして。」
 猫に卵酒を飲ましたのである。
 猫の玩具には、ビー玉だの糸巻だのがあるが、新聞紙を小さく切って丸めたのが、いちばん倦きないらしい。その紙のつぶてを投げてやると、猫はあちこちへ転がし駆け廻って遊ぶ。紙のつぶてが隅っこへはいると、口でくわえて室の真中に持って来、なおしばらくじゃれて、それからつぶてを喰いやぶる。また新たな紙のつぶてを投げてやると、猫は同じようにして遊ぶ。しまいには、食いやぶられた新聞紙の破片が室中にちらかる。それをカヨは丹念に掃き清める。猫はもうくたぶれて、炬燵布団の上に寝てしまう。カヨは写経の神聖な仕事にかかるのである。
 或る時、夜中に、二階で鐘の音がした。いつもより強く、数も多い。しかも夜中だ。久子は驚いて、寝間着の上に丹前をひっかけるなり、駆け昇っていった。カヨが仔猫を抱いて、寝床の上に坐っている。仔猫は二三日前から病気らしく、あまり物を食べず、泡みたいなものを吐いていた。それが、急に様子がおかしくなり、手足はもう冷たくなった、とカヨは言うのである。久子にはよく分らず、桂介も起きて来た。猫はぐったりしていた。ともかくも、奇猫散をのませた。
 そういう騒ぎのあとで、猫は虫下しの薬をのみ、寄生虫が果して出たかどうかは分らないが、まもなく回復した。そしてカヨの肩にも駆け上るようになった。肩に乗るのが猫は好きで、彼女が坐っていても、立っていても、さっさと駆け上り、彼女が静かにしておれば、その後ろ襟の頸もとにうずくまって、眠ることさえある。カヨは髪を染めることをせず、もうだいぶ白毛も目立ってきたが、その赤らんだ半白の束髪のうしろに、真白な仔猫が乗っかってるさまは、いささか奇異な感じである。
「この頃、お母さんはなんだかへんですね。どうなすったんでしょう。」と久子は桂介に言った。
 庭というほどの作りは何もない傍の空地には、大きな石灯籠が一つあり、大きな庭石が幾つも残っている。春先のことで、暖い日など、カヨはそこに出て、石の上に腰をおろし、日向ぼっこをしながら、じっと思いに沈んでることがある。肩には仔猫が乗っている。猫はその辺を駆け廻ろうともせず、彼女の肩に乗っかったまま、やはり日向ぼっこをしながら、時に頭を動かして、あちこち眺め渡している。カヨと猫は一体で、カヨは物を考え、猫は物を探索してるかのようだ。
 怪しいことがある、とカヨは言いだしていた。耳がおかしいと言いだした、その後のことである。耳の方は、夜中に時計の音がいつも一つしか聞こえなくとも、それは錯覚としてもよく、裏の笹藪のかすかな音まで聞こえるとしても、それも錯覚としてもよかった。だが、耳についで、眼もおかしくなった。
 二階の窓には、鉄格子の内側に、新たに硝子戸が取り付けてある。その硝子戸の外から、誰かが室の中をじっと覗いてることがあるのだ。はっとして、注意をこらすと、その怪しい人影は消えてしまい、あとには、こちらの姿がぼんやり映ってるだけである。その自分の姿に邪魔されて、怪しい人影の正体は一層見極めにくい。
 それはただ気のせいで、錯覚にすぎない、と桂介は考えたい。
「いいえ、そればかりじゃありません。」とカヨは言う。
 夕方など、表の薄暗いところから、誰かがじっと家の中を覗いているのを、確かに彼女は見たのである。炊事場などは、更に怪しいことが多かった。
 土蔵の内部を改造して住居にしたとはいえ、それだけでは、どうにもならなかった。横手の壁をくりぬき、小さな潜り戸をつけ、その外にくっつけて炊事場や物置や便所を作った。トタン屋根の簡単な造作である。盗人の用心のため、潜り戸は厳重にし、炊事場には大事な物は一切置かないことになっている。そこには硝子戸が多い。その硝子戸に、しばしば人影がさすのである。勿論、夕方から夜にかけてのことだ。こちらの姿はいつもぼんやりしか映らないが、怪しい人影は、ちょっとの間のことで而も極めてくっきりと見える。
 やはり錯覚だ、と桂介は判断した。闇に限らずすべて薄暗いものを背景とすれば、硝子は光りの工合で鏡の役目をする。僅かな視角の差で、鮮明にも映れば朦朧にも映る。その映像は甚だ不安定だ。カヨは恐らく、自分の不安定な映像を、或る瞬間に異物と感ずるのであろう。そして驚いた身振りのために、視角が変って、映像はすっかり消え失せることもあろうし、自分の映像だと認知されるものだけが残ることもあろう。
 勤務先の会社や、自宅で、桂介は硝子に自分の姿を映してみた。鮮明度はさまざまで、全身がくっきり浮き出すこともあれば、ただぼんやりした薄ら影がさすこともある。顔だけのこともあり、額だけのこともあり、手だけのこともある。その不安定な映像、往々にして寸断された映像を、面白半分に弄んでいるうちに、彼はなにか不気味な気持ちになってきた。怪しいものが身内に浸みこんでくるような厭らしさだ。彼は母に言った。
「そんなつまらないものに気を取られていると、こちらの影が薄くなりますよ。」
「そうですよ。影が薄くなってきました。耳もおかしいし、眼もおかしいし……。」
 カヨは何のつもりか、頭を振った。
 実のところ、なんだかへんなのである。久子が注意していると、カヨは猫を抱いて外に出ることが多くなった。春先の暖気のせいばかりではなさそうだ。石に腰かけて、彼女は物を考え、猫は物を探索している。
 カヨはまだ腰が曲ったというほどではないが、めっきり背が低くなったようである。だいたいが小柄である。肉附きはいい加減で、下脹れの頬の肉はたるんでいる。いつも着附けが正しく、だらしない様子を見せることはない。もう顔にお化粧はしないが、色白の滑らかな皮膚である。その、見たところ上品な小さな彼女と、肩に乗っかってる白猫と両者をよくよく眺めると、なんだかへんで、怪しいのだ。彼女が読経は殆んどせず、写経にばかり凝ってることを、久子はやはり怪しく思い起した。
 土蔵の二階などに籠りがちな生活が、カヨのためによくないのではあるまいかと、桂介と久子は話し合った。然し、その対策はもう出来ている。家屋を新築することだ。
 家屋新築は、資金の点から見ても容易でなかった。ところが、亡父正秋の知友で、衆議院議員になってる木村又太郎から、耳よりの話があった。木村自身からというよりも、夫人の美津子からの話である。邸宅新築のために材木を買い入れておいたところ、建築法令に抵触して、予定通りの家屋を建てることは危険となり、だいぶ材木が余った。二三室の家屋を建てるには充分の量である。土蔵住いでは御老母にも気の毒だし、思い切って新築しないか、そういう話なのである。大工などもこちらから差向けてよろしいとのこと。材木代や工賃などは、すぐに頂けないとすれば、証書を入れておいて貰いたいと、それだけの条件である。
 桂介と久子は相談の上、新築の決心をした。桂介が勤めてる会社は、陶器工業の本社で、将来発展の見込みは充分ある。いずれ金の融通ぐらいは出来るだろう。一時、木村から借りておくのだ。ただ問題は、母カヨを説得することだった。
 土蔵のカヨの生活は、どこから見てもよろしくない。子供達にも土蔵はよろしくないようだ。なんだか暗い影がさすのである。新築の明るいところへ移ったら、カヨの気分も違ってくるだろう。たとい二室ほどでもよい。一室をカヨの居室にし、一室を子供達の居室にする。
 カヨは子供を嫌いではない。二階で遊ぶことは禁じているが、靴下の繕いは一手に引き受けている。桂一が感冒で熱を出した時には、いろいろと面倒をみてやり、夜中にも数回、二階から降りて来るのだった。足音を盗んでまで階段を降りて来た。久子がふと眼をさますと、桂一の枕頭にカヨが木像のように坐っていた。二燭光の電球に更に覆いをした薄暗いなかに、半白の髪の頭を傾け、仄白い顔を冷たくして、桂一の寝息をじっと窺っている。久子はまだすっかり覚めきらぬ心地のなかで、ぞっと冷水をあびた思いがして、飛び上るように身を起した。
「静かに。」とカヨは振り向きもせずに手で制した。「このぶんなら、じきになおりますよ。」
 カヨは足音を盗んで階段を昇っていった。
 そのようなことが、久子には夢かとも疑われた。気持よい夢ではなく、悪夢のような感じだった。土蔵の雰囲気のせいなのであろうか。然し桂一の病気は、予言通り間もなくなおった。
 新築について、カヨを説得しなければならない。これが困難だった。耳の錯覚とか、眼の錯覚とか、土蔵の雰囲気とか、戦争についての謬見とか、そんなことでは、彼女にとっては理由になりそうにない。考えあぐんだ末、桂介はよいことを思いついた。白壁造りの家にするのだ。縁側や雨戸は見遁して貰う。だいたい三方とも、羽目板ではなく白壁にする。それなら土蔵と大した変りはない。たとい火災があったとて、まあ大丈夫だろう。建築費の点も、僅かな坪数だから、大したこともあるまいし、そのようなことをとやかく言うカヨではない。
 白壁造りの家のことを、桂介がぽつりぽつり匂わせると、カヨは次第に乗り気になってきた。
「そのような家は、今はなくなったけれど、昔はよくありましたよ。」
 而も、由緒ある旧家に多かったのだ。カヨは白壁造りに賛成した。白壁造りに賛成したことは、つまり新築に賛成したことである。それでもやはり、彼女は白猫を抱いて何やら考えこんでいる。彼女の顔を見ても、猫の顔を見ても、何を考えてるのかさっぱり分らない。
 美津子夫人は、白壁造りの話を聞いて、呆れたように眼を丸くした。
「まあ、今じぶん、なんて考えでしょう。」
 彼女は自らカヨを訪れて来た。
 客まで一切、二階の室には通さないのである。二人は一階で、親しげに話をした。久子はお茶をいれて、しばらく世間話に加わり、それから子供達を連れて菓子を買いに行った。帰って来ると、二人の気色が変っていた。美津子は菓子にも手をつけず、そこそこに辞し去った。
 珍らしいことには、カヨはしんから腹を立てていた。
「あんな厚かましい、恩知らずの成り上り者は、もう家に寄せつけてはいけません。」
 何をそんなに怒ってるのか、久子は尋ねかねたし、カヨもそれより口を噤んで、二階にひっこんでしまった。
 食事は一階でみな一緒にするのである。桂介が帰ってきて、夕食の時に、カヨは言った。
「戦争に負けて、人間もみな悪くなった。昔は、政治に関係すると、損をしたものですが、今では儲けています。木村さんがそうです。あんな人と交際してはいけません。」
 何のことか桂介にはよく分らなかった。亡父の正秋は、晩年、政治に関係するようになって、だいぶ家産を傾けたことは、桂介も知っている。家屋や敷地をカヨの名儀にしてあるのも、万一の場合を慮ってのことであろう。然しそれが、木村又太郎と何の関わりがあるのだろう。
 カヨはもう、怒ってるというより、心配してる方が多いようだ。桂介が尋ねるのに応じて、美津子との破談の理由を打ち明けた。白壁造りの普請のことは、口に上る隙がなかったらしい。材木代や建築費はさし当って木村が立替えておいてもよいが、見積り金額の借用証を一札入れて貰いたく、ついては、昔から知り合いの間柄ではあるが、確実を期するため、白井家の現在の土蔵と地所とに抵当権を設定さして貰いたく、その代り利子はいらない、という条件に、カヨは腹を立てたのである。つまり抵当云々が気に入らないのだ。その地所、殊に土蔵は、彼女の唯一の棲息場所であり、白井家の家名を担ってるものである。それを抵当とは、とんでもないことだ。
 桂介は意外だった。抵当の条件は、美津子からちょっと聞いてはいたが、一時のこととして、気にも止めなかった。家屋や地所がカヨの名儀であることさえ思い浮べなかった。抵当に入れたらそのまま騙り取られるもののように、彼女は思ってるのであろうか。
「わたしはもう決して、実印のはんこはおしませんよ。ほかに使うものも無くなったし、この家きりだから、実印はどこかに捨ててしまいます。」
 彼女名儀の株券などがまだ残っていた頃、それを売り払うのに、彼女は実印を桂介に預け放しだった。ところが、土蔵の件になって、鉄壁のように抵抗しだした。理屈ではなく、感情なのだ。
 桂介も久子も、もう何も言えなかった。新築のことなど、夢のように消えた。
 カヨは無言がちな日々を送り、風呂にも行かず、引っ籠ってばかりいたが、突然、深川の不動様にお詣りしてくると言って、出かけた。
 だいたい、カヨの信仰は深いものではない。久子のお産の時、水天宮様のお札を受けてきたが、それは常識的な慣習にすぎない。神社仏閣にわざわざお詣りすることなど、昔は殆んどなかった。近頃になって、一乗寺に時たま出かけるが、仏道に帰依してるわけではない。写経に凝りだしたのも、特別な求道心からではない。すべて、外部的な形式的な支柱、そういった趣きがある。ただ、そのような支柱を必要とするほど、必死に縋りつこうとするものが内に在るらしい。内に在るそのものの邪魔になる場合には、逆に、写経の巻物など破り捨てるかも知れない。
 深川の不動様も、それが目的ではなかったらしい。帰って来て、カヨは言った。
「久しぶりに、両国橋の上から、大川を見てきました。」
 そして久子が初めて聞くような話をした。カヨの祖母にあたるひと、白木家の長命なお婆さんが、巣鴨のとげぬき地蔵様をたいへん信仰して、そのお札を一万枚、供養のため、両国橋の上から大川に流したことがある。お札には、地蔵様のお姿が捺印されている。捺印の版木と墨は家にあった。版木を一万枚おすのは大変なことだった。それを祈祷してもらって、大川に流したのである。その地蔵様の版木はどうなったか、いくら探しても見えないが、誰かお嫁に行く時にでも持って行ったのであろう。
 そのような話をしたあとで、カヨはぽつりと言った。
「あすこから、わたしの実印を、大川に投げ込んできました。もう安心ですよ。」
 嘘の気はみじんもない言葉の調子だった。不動様も、とげぬき地蔵様も、実印の一件に重みをつける役に立ったのである。それにしても、カヨはどんな風に印形を川に沈めたのであろうか。橋の上につっ立ち、手を振り上げて、投げ込んだか。または、欄干によりかかり、水の上を覗きこんで、ぽとりと落したか。たぶん後の方だろう。紫水晶の小さな印形だった。
 そのことを、桂介は久子から聞いて、眉をひそめた。カヨになおただしてみると、カヨは何かを嘲けるように頷いた。
「誰がねらっても、この家だけはもう大丈夫です。」
 それでもカヨは、白猫を抱いて日向ぼっこに表へ出ることは、少くなった。もう樹々の若芽も出かかっているのに、二階の薄暗い室に籠りがちなのである。
 ところが或る日、彼女は炊事場をかきまわし、久子を呼んで、塩はこれきりかと尋ねた。小さな壜に少ししかはいっていない。久子は塩の壜を持ち出した。それで全部なのだ。家にありったけのその塩を、カヨは笊にあけ、黙って、裏の笹藪の方に出て行く。久子もついて行った。
 小さな竹が粗らに立ってる藪のはじの、朽葉のなかに、蔓が二本はえている。足がひょろ長く、傘が薄く、大きく全体に黄色みを帯びている。季節外れの見馴れない蔓だ。その蔓を、カヨは下駄で踏みにじり、あたり近所に塩をふり撒き、笊まで裏返してぱっぱっとはたいた。ひどく不機嫌そうで、久子の方をじろりと見たが、何とも言わずに立ち去ってゆく。
 久子はなにか不吉な感じを受け、意外なことを思い出した。カヨは時とすると、桂一にお噺をしてきかせる。短い昔噺だが、訳の分らないへんなのもある。
 ――むかし、或るところにお化屋敷があった。荒れはてた庭に、大きな蔓がいっぱい生えている。それが化物だった。化物退治に、力の強い人や武芸の秀でた人が、次々に出かけたが、庭にはいると、大きな蔓の傘におっかぶせられ、その傘がじわじわ縮まってきて、息絶えてしまう。
 勝つ者が[#「 勝つ者が」は底本では「勝つ者が」]なかった。ところが、一人の智恵者があって、塩をたくさん持って出かけ、蔓の上にふりかけると、蔓はしぼんでしまう。そしてみごとに、蔓の化物を退治してしまった。
 わきから聞きかじったその噺を、久子は思い出した。塩は何のまじないなのであろうか。不吉な上に嫌な気持ちだった。
 カヨは手を洗って、独語のように言う。
「蔓が生えるようでは、この家もあぶなくなった。」
 そして久子に、卵酒を拵えてくれと頼んだ。
 カヨが昼間から酒を飲むことは、これまでになかった。特別なことで、草のせいなのであろう。
 二階がいつまでもひっそりしているので、久子は階段をそっと昇って、覗いてみた。カヨは卵酒を飲んで、そのお盆を階段口に押しやり、机の上に写経の巻物をひろげ、その上に両手を置き顔を伏せて、眠っている。坐った姿は小さく、頬は白く、赤毛や白毛の髪が、少し乱れたまましんと静まっている。猫の姿は見えなかった。その猫を眼で探すことさえ久子は恐れ、お盆を持って階段を忍び降りた。
 その晩、カヨは夕食に降りてきて食卓にはついたが、箸は取らなかった。蔓のことを久子から聞いていた桂介が、カヨの顔色をちらちら窺っていると、カヨは、家の壁を白く塗り直そうと言いだした。
「土蔵の壁のままでは、それも剥げ落ちてますからね、あまりみっともないですよ。あれでは蔓だって生えます。白く塗り直しましょう。」
 独りできめて、独りでのみこんでいるのである。桂介はいい加減に聞いていた。反対がないので承知したものと、カヨは思ったらしく、何度もひとり頷いた。それから、食事の代りにも一度卵酒を飲みたいと言い、猫を抱いて二階に上った。
 久子が卵酒を拵えて持ってゆくと、二階は新聞紙の紙屑だらけで、カヨと白猫と遊んでいる。カヨが紙つぶてを作り、投げてやると、猫はそれにじゃれつき、喰い破って、駆け廻る。その紙屑を、久子は拾おうとしたが、カヨはとめた。
 久子がおりてくると、桂介は冷酒をコップで飲んでいた。家を白壁に塗り直すなんて、大変なことだろうと、久子は尋ねた。
「なあに、塗り直しはしないよ。ただ聞き流れしておけばいいんだ。」
 彼はしばらく考えこんで、突然、顔を挙げて言った。
「母がいなかったら、母でなかったら、僕は、こんな土蔵なんか、ぶっ壊してやる。」
 その顔を、久子は見つめ、それから急に、眼にいっぱい涙をためた。
 二人ともそれきり黙りこんだ。二階では、白猫も遊び疲れたのか、何の物音もなく静まり返っている。

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「思索」
   1949(昭和24)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
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