あらすじ
平田先生は、国民文庫刊行会の「世界名作大観」の第一部の十六冊の大部分を翻訳された瀟洒な先生です。その翻訳の中には、デイケンズ、サツカレエ、ラム、メレデイス、ジエエムス、ハアデイイ、ワイルド、コンラツド等の作品が含まれています。先生は、瀟洒な外見とは裏腹に、難解な英語作品を数多く翻訳されており、その熱意と実力は並大抵のものではありません。翻訳は、単に意味を理解するだけでなく、原文の持つ深みや美しさを伝える難しい仕事です。しかし平田先生は、その重責を担い、我々日本人にとって貴重な英吉利文芸の世界への橋渡し役を果たしています。これだけの翻訳をすることは勿論容易ならぬ仕事である。殊に平田先生のやうに真剣に翻訳することは愈容易ならぬ仕事である。僕の信ずる所によれば、我々日本人は日本語の中にも無数の英語を用ひてゐる癖に存外英吉利文芸に親しんでゐない。なぜ又親しんでゐないかと言へば、一つは英語の普及してゐる為に却て英吉利文芸を軽視することであり、もう一つは又不幸にも英吉利は丁度前世紀末の文芸的中心にならなかつた為に自然と英吉利文芸を等閑に附し易いことである。しかし前世紀末の英吉利文芸は必ずしも光彩に乏しい訣ではない。ペエタアの如き、ワイルドの如き、シヨウの如き、ムウアの如き、幾多の才人が輩出してゐる。のみならずたまたま前世紀末の文芸的中心ではなかつたにもしろ、その為にヴイクトリア王朝を始め、歴代の英吉利文芸を顧みないのは余りに手軽すぎると言はなければならぬ。現に一デイケンズを以てしても、その澎湃たる人道的精神の影響はトルストイやドストエフスキイにも及んでゐるではないか? 若し夫れ英語の普及してゐる為に英吉利文芸を軽視するに至つては石や砂の普及してゐる為に日本アルプスを軽視するのと選ぶ所はない。第一意味をとるだけでも、メレデイス、ジエエムス、ペエタア等の英吉利文芸の峯々に攀づることは好い加減の語学力では出来ぬことである。平田先生の翻訳はかう言ふ我々日本人にかう言ふ英吉利文芸を紹介する上に大益のあるのは言ふを待たない。実はこの翻訳のある為に(おまけに原文さへついてゐると言ふから)「デエヴイツド・カツパアフイルド」「チヤンス」「テス」等を語学の教科書に用ひることは不可能になりはしないかと思ふ位である。
僕の平田先生の翻訳を読んだのは「ヴアニテイ・フエエア」(虚栄の市)と「エゴイスト」(我意の人)とだけである。が、読んだ所を以て読まない所を推すとすれば、今度の「テス」や「チヤンス」の翻訳も定めし立派なものであらうと思ふ。元来後学僕の如きものは先生の翻訳を云々する資格のないものに違ひない。が、万一先生の仕事も如何はしい世間並みの翻訳と同様に扱はれた日には心外だと思ひ、敢てこの悪文を草することにした。次手を以て平田先生の高免を得れば幸甚である。
了
底本:「芥川龍之介全集 第十二巻」岩波書店
1996(平成8)年10月8日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:松永正敏
2002年5月17日作成
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