一

 黄昏たそがれ――その、ほのぼのとした夕靄ゆうもやが、地肌からわきのぼって来る時間になると、私は何かしら凝乎じっとしてはいられなくなるのであった。
 ことにその日が、カラリと晴れた明るい日であったならば猶更なおさらのこと、恋猫のように気がせかせかとして、とても家の中にこもってなぞいることは出来なかった。さも、そのあたりに昼の名残なごりが落ちているような、そして、それを捜しまわるように、ただ訳もなく家を出、あてどない道を歩いて行くのだ。
 ――その当時、私は太平洋の海岸線に沿った、小さな町にいた。自分から、あの華やかな「東京」を見棄みすててこんなネオンライト一つない町に、進んで来たわけではなかったが、医者に相当ひどい神経衰弱だ、といわれたのを機会しおに、失恋の東京から、しばらく遠ざかるのもよかろうと、小別荘を借りて移って来たのだ。
 東京との交渉は、月の下旬に、老いた母の手を通して送られて来る、生活費に添えられた手紙と、それに対する私の簡単な返事とだけであった。汽車に乗れば、たった二時間たらずのところでありながら、それ以上の交渉を、わざとろうとはしなかった。それは東京の何処どこかに、ネネ(ああ、私は今でも、つて恋人と呼んだ彼女の姿体すがたをハッキリと思い出すことが出来る、しかし、それも、不図ふと女優などの顔を思い出した時のような、妙に期待めいたものは寸毫すんごうもなく、狂おしくも無慙むざんな、苦しみを伴なった思い出なのではあるが……)そのネネが、新しき情人、木島きじま三郎と、親しく暮しているであろうことを思うと、それだけで東京全体が、ひどくけがらわしくみだらがましく、酸ッぱいものが咽喉のどの奥にこみ上って来るのだ。
(それを忘れるまで、東京へは帰るまい……)
 私は、そう思っていた。そう思って東京を棄て、まだ春も浅い、さびれた海岸町に来たのだ。
 だが、忘れようと、焦慮あせれば焦慮るほど、私はあのネネの、真綿で造られた人形のような、柔かい曲線に包まれた肉体を想い出し、キリキリと胸に刺込む痛みを覚えるのだ。黄昏になると、殊にその誘惑がひどくなる。
 その上、糸の切れた凧のようなその日その日であったせいか灯ともし頃になると、どうしても凝乎じっとしてはいられなくなって、あてもない道を、まだ肌寒い風に吹き送られながら、防風の砂丘を越えて、野良犬のように迂路うろつき廻るのであった。
 時には潮の引いた堅い砂の上を、すたすたと歩き、あるいマストのように渚に突立って、くろみゆく水平線のこんもりふくれた背を、瞬きを忘れて見詰め、或は又、右手めて太郎岬たろうみさきの林を染めているかすかあかねに、少女のような感傷を覚えたり、さては疲れ果て、骸骨がいこつのような流木に腰を下し、砂に潜った足先に感ずる余熱の温りを慈しみ、ざざあ、ざざあ、と鳴る単調な汐の音に、こと新しく聞き入るのであった。
 さて、そんな、ひどく無為のうちに、心の落著かぬ日を、この海岸に来て一ト月余りも過した時であろうか。
 その黄昏の散歩の時に、何時いつとはなく、一人の男が現われて来たのだ。
 その男は、盲縞めくらじまのつかれたあわせに、無造作に帯を巻きつけ、よもぎのような頭の海風かいふうに逆立たせて、そのせいか、際立って頬骨ほほぼねの目立つ顔を持った痩身そうしんの男であった。
 もっとも、考えてみれば、私がその男に気づいたのは、散歩に出た最初の時からであったらしく、それが、いつもこの男も私と同じ時刻に、海岸を散歩するものと見えて、人ッ子一人いないこの海岸に、彼の蹌踉そうろうとした姿のあることだけが、さもあたりまえのように、知らず知らず思われていたのだ。
『やあ――』
 はじめに口を切ったのは、その男であった。それは十年も前からの友人に、ふと道できあった時のような、く自然な言葉であった。すくなくとも、私にはそう感じられた。それは全然の初対面という訳ではなく、前からの顔見知りだったせいかも知れない――。それで、
『やあ――』
 私も、すらすらと返事をして、こっくり頭を下げた。だがその次の言葉が、私を驚かせた。
『失礼ですが、あなたはツベルクローゼじゃありませんか』
 私は、
『え』
 と詰って、
『まさか、――私が肺病に見えますか』
 と、いささか憤然むっとして答えた。
『や、そうですか、失礼失礼……。どうも今頃、あなたのような青年が、こんな淋しい海岸に来てぶらぶらしていると、どうもそんな気がしましてね……、しそうだったら私の経験したいい方法をお知らせしようと思ったもんですから……』
 その男は、ひどく恐縮したようにいった。
『肺病じゃないですが、でも、胸のやまいですよ、女という病菌の……』
 と、冗談にまぎらして、私は彼を恐縮から救った。それはその男の持つ、何処どことなく異状な雰囲気に、うから好奇心を持っていたからであったろうし、又、話し相手を欲しいと思っていた気持が、つい、そういわせたのかも知れない。
『おやおや、そりゃ顕微鏡じゃなくて、望遠鏡を持って来たいような病菌ですね。その病菌は色々な症状を呈しますよ、発熱したり衰弱したり、遂には命をとられたりするのもね、……その病気については、私も経験がありますよ、私も』
 そういって、その男は、最初の失言を訂正するように、
『あはははは……』
 と笑った。そして、
『その為に、僕もこんな淋しい忘れられた町に来たっていう訳ですよ――』
『ほほう、同病ですか、あなたも……』
 私も彼の軽い口に、すっかり気が溶けて、いつか肩を並べて渚を歩いていた。今日も海風かいふうは相当に強く、時々言葉が吹きとばされることがあったが、ようやく夕焼もうすれ、すすめられるままに、太郎岬の上にある、という彼の家を訪れることを決心した。それは、
『僕は医科をやったんですが、今は彼女のために、すべてをなげうって手馴れぬ作曲に熱中しているんですよ……』
 といった言葉が、ひどく私の好奇心をそそったからであった。

      二

 その男の家は、太郎岬の上の、ぽつんとした一軒家であった。
 其処そこまで登るには、細いザラザラした砂岩を削ってつけられた危なっかしい小径こみちを、うねうねと登って行くのであるがしかし、さて登り切って見ると、其処そこからは相模湾が一望の下にくり展げられて、これが昼間であったならば、どんなにか素晴らしい眺めであろうと思われた。が、今は陽も既に落ちて、うすら明りの中に、薄墨を流したような、ひだを持った海が、ふっくらたたえられ、空には早くも滲出にじみでた星が、次第にうるみを拭ってキラキラと輝きはじめていた。
 しかし、その素的すてきな眺望にも増して、私の眼をそばだたせたのはその八畳と四畳半の二間きりのちんのような小住宅こじゅうたくに、どうして引上げられたのか、見事な黒光りをもったピアノが一台、まるで王者のように傲然ごうぜんと君臨している様であった。
『自炊をされているんですか――』
 やがて私は、一向に台所道具が眼につかないので訊いてみた。
『いや、町の仕出屋から三度三度とっているんですよ……、それも此処ここが不便なもんですから出前の小僧の奴に月三円のコンミッションを約束させられたという曰くがあるんですが、でもここなら幾ら日がな一日、ピアノを叩いていようと、大声で唄っていようと、一向気兼ねがありませんからね』
『まったく、うまいところがあったもんですね』
 と、私は無意味に合槌あいづちを打って、
『で、もう大分作曲されましたか』
『いや、もうそろそろ一年が来ますが、まだ序の口にも達しませんよ』
『へえ、たいしたもんですね、なんですか、シンフォニーですか』
『いやいや、ただの流行歌ですよ――』
 思わず唖気あっけにとられた私は、その男の顔を見かえした。
 ところが、その男は、至極しごく真面目な顔をしていうのであった。
『流行歌です、――流行歌ですが、僕のはありふれた流行歌ではないんです。必ずヒットしなければならぬ、という論理的に割出された曲なんですよ……
 流行歌のすうは、実におびただしいものです。しかしその結果、どこかで使われたメロディが、他の歌にちょいちょい出て来ます(これはあなたも既にお気づきでしょうが)それはそうなるべきで、人間の声に限度があり、テンポにも制限があるとすれば、いつかは作曲も、殊に流行歌なんてものはメロディが割に単純なもんだから、じきに種切れになるわけじゃないでしょうか、だから、流行歌のようなものには、他で一度ヒットしたメロディが、屡々しばしば、編曲という名で現われたり、或はその一部が使われたり、はなはだしいのになると、そのまま、又はテンポだけ違えて新しいもののように、使われたりしてしまうのです。どうですお解りでしょう、それで僕は、すべての場合のメロディを、すべての場合のテンポで著作権をとってやろうと考えたんですよ……、だから僕はすべての流行歌を分析し演繹し、帰納しようとかかっているんです』
 男はなおも熱して、その奇妙な話を続けた。
『あなたは「都々逸どどいつ」が採譜さいふの出来ないことを知っていられますか、謡曲も採譜が出来ません、あれは耳から耳へ伝わっている曲で、同じ「ア」というおんを引伸ばしながら、微妙な音の高低があるんです。ですから「都々逸」をピアノで弾くとしてご覧なさい、実におかしなものですよ、そう思って聴けばそうも聞える、といった程度のものしか再現出来ないのです。これはピアノには半音しかないということが、その原因の第一だと思われます、だから私はその微妙なメロディを採りいれる為に、四分音を弾けるピアノを特に作ったんですよ……』
 彼はそういいながら、つと立ってピアノの鍵盤を開けた。なるほどそこには白いキーと、黒いキーと、も一つ、緑色りょくしょくに塗られたキーとが、重なりあって、羊羹箱ようかんばこを並べたように艶々つやつやと並んでい、見馴れぬせいか、ひどく奇異な感じを与えていた。
 ――私は、先刻さっきから、このなんとも批評の仕様もない、狂気染きちがいじみた夢物語に、半ば唖然あぜんとして、眼ばかりぱちぱちさせていた。
 やがて、
『どうです、あなたはどう思いますか』
 その男は、覗込のぞきこむように、私の顔を見上げた。
『なるほど……、よくわかりました、しかし、そういってはなんですが、あなたの努力は、結局は無駄じゃないんでしょうか』
『無駄――。駄目だというんですね、ナゼ、なぜですか』
 彼は、眼を光らせて私のそばに膝を寄せて来た。その膝は気のせいか、かすかにふるえていた。
『いや、駄目だというのではありません、でも、非常に困難なものだろうと思うんです。流行歌の分析と組立てというのは、大変に面白いのですが、しかし、こういう話があるんですよ、今、日本で切実に求められているのはゴムです、人造ゴムの製法ですよ、それでそれを専門に研究している人が沢山にいるそうですが、どうもうまく行かんそうです、それはゴムを分析して、ゴムを形成している元素に分析して、うでなければならぬ、という十分の化学式を発見みつけます。それは既に発見られたのです、だから、その化学式を満足させるようなものを合成すればいい訳ですが、ところが化学式には「弾力」というものが表わせません、ゴムの生命ともいっていい弾力が表わせないんです、それが合成して目出度めでたく出来上ったものは、一見ゴムみたいなものでありながら、弾力のない、くだらぬものでしかなかった、という、まあそんな訳ですが、失礼ですが、あなたの場合、音譜に「音色ねいろ」というものが表わせるでしょうか「音色」という弾力を、マキシマムに発揮しなければ、その流行歌は人の心を、芯底からつものとは思われませんね。
 また、流行歌に限らず、私は「流行」というものにはひどい疑惑をもっているんです、流行というのは、恰度ちょうど恋愛みたいなもので、その時は最上無二のように思われるんですが、さて、あとから見てどうでしょう……』
『君』
 その男は、激しく私の言葉を遮った。
『君、しかし誰が僕の作曲した歌を唄うと思っているんですか、僕が、僕がすべてをなげうってこんなに苦しみ通しているのは誰の為にだと思うんです、彼女、彼女のために、ですよ、彼女は実に素晴らしい声を持っているんですぜ、その合成ゴムにける弾力とかいう奴を、彼女は十二分に持っているんです……全然、あなたの危惧きぐですよ、
 僕がすべてを抛って悔まぬ彼女、それは、最近だいぶ方々ほうぼうに名が出て来たようですが、非常に素質のいいステージシンガーです、――レコードにも相当吹きこんだようですから、あるいは知っていられるかも知れません――、秋本ネネという、まだ二十歳はたちの女ですが』
『えッ』
 私は愕然がくぜんとした。まったく、その時は、自分でも顔色がサッと変ったのを意識した――。私を、こんな失意の底に投込んでしまったその女、ネネが、この変屈者の愛人であるとは……。
 しかし、そうすると、今、木島と同棲どうせいしている彼女は、私と同様、矢張りこの男のことをも忘れてしまったのであろうか。
(渡り鳥のようなネネ!)
 私は眼をつぶった。そして、
(そうかも知れぬ)
 と、口の中でつぶやいた。

      三

『何を驚かれたのです、あなたは、ネネをご存知なのですか……』
 その哀れな男は、不安そうにまゆを寄せると、じっと私の顔を覗込のぞきこんだ。
『………』
 しばらく躊躇ためらったけれど、本当のことをいってしまう以外に、私の驚きの意味を、この男に呑込ませることは出来まいと思った。
『驚きました、驚きましたよ、そのネネという女に、この私も恋をしたのです』
『え、ネネに――。で、どうでした。ネネはあなたに何んといいました?』
『ふっふふふ……私が、こんな淋しい町に一人ぽっちで神経衰弱を養いに来ていることで十分おわかりでしょう』
『そうですか、あなたは失恋したのですね、お気の毒ですが――。でも、悪く思わないで下さい。ネネには僕と前からの約束があったんですから……』
 男は、かすかに現われた安堵の表情を、強いて隠すようにすれた小声でいった。
 だが、私は眼をつぶって、
『いや、ネネは結婚したんです――』
『えッ』
 その男の驚きの声が、いきなり私の眼をつぶった耳元でした。それはハッハッというような、激しい呼吸の音と一緒であった。
 そして、「まさか……冗談でしょう」といいたげな彼の気持を、十分に感じた私は、なおも眼をつぶった儘、二三度頭を振って、
『結婚したんですよ、本当に――。その為に私は失恋ふられたんです。ご存知かも知れません、木島三郎という男のところへ行ったのです』
『ああ、木島。東洋劇場の支配人……だった』
『そうです。若くて、金があって、しかもいい地位にいる、あの男です。私は残念ながら、ネネを最後まで満足させることが出来なかったんです、ネネは大勢の人々に讃美渇仰かつごうされる為には、何物も惜しまぬ女ですからね。ネネは例えば心の底では一人の男を愛してはいても、それが守って行けない女なのです。彼女は本当に都会の泡沫あわの中から現われた美しい蜉蝣かげろうですよ、ネネは、そのわずかな青春のうちに、最も多くの人から注目されたい、という、どの女にもあるその気持を、特に多分に、露骨に持っただけなんですね。
 あの、華やかなスポットライトに浮び出た彼女の厚いドーラン化粧の下にも、その焦燥が痛々しくうかがわれるではありませんか。私はその気持を、ネネのたゆまぬ向上心だと思って愛しました。しかし、彼女は、私が仕得しえられるだけのことをして、どうにか世の中に出したかと思うと、すぐ次へ移って行ったんです、あの大劇場の支配人だという木島のところへ――。あの男の地位は、ネネにとって大変役立つことに違いありません、だから、ネネにとっては、私などよりも、ずっとずっと強い吸引力を持つその地位に引かれて行ったのも、考えてみれば無理からぬことなのですけど、でも、おはずかしいことには、とり残された私は、神経衰弱になってしまったというわけなんです――』
 思わず饒舌じょうぜつに、さも悟ったかのように、そういった私は、ここで笑って見せねばならぬ、と知ったが、わずかに片頬かたほほ痙攣けいれんしたようにゆがんだきりであった。
『そうですか――』
 しばらく経って、その男は重たげに顔を上げた。そのひたいには、この世のものとも思われぬ、激しい苦悩のたてじわ刻込きざみこまれ、強いてこらえる息使いと一緒に、眼尻から※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみにかけての薄い皮膚がぴくぴくとふるえ、突然気がついたようにタバコをつけると、スパスパと咽喉のどを鳴らして吸った。
『そうですか、ネネは、ネネはもう僕を忘れてしまったのですね……僕はネネの為に、囚人のような生活を苦しみつづけて来たのだけれど、ネネはそれを待っていてはくれなかったのだ、
 同じ女を愛し、そして、その女から飛去られた二人が、偶然にめぐり合うとは……』
 其処そこで二人は、無意味に、
『ふふふふ……』
 と笑合わらいあったが、それもすぐに杜絶とだえてしまった。
 深閑とした部屋の中に、天井から蜘蛛くものようにぶら下った電球たまの下で、この哀れな二人の男は、不自然に向き合ったまま黙々として畳の目をにらみ、タバコをふかしていた。
 それぞれの胸の中には、あのネネの姿体したいが様々なかたちでうかいで、流れ去っていた。
 が、そればかりではなく、私はこの偶然な邂逅かいこうという宿命的な出来事に、ひどくたれてしまったのだ。そして、この寂しい部屋の中にまで響いて来る風の音、潮のさわぎまでが何かしら宿命的な韻律をもって結ばれているのではないか、と疑われて来るのであった。夜の更けたせいか、一瞬、寒む寒むとしたものを感じた私は、ほっと重い溜息ためいきを落したのと共に、鈍い音をたてた柱時計に気がついた。
『――じゃ、失礼します、どうも大変お邪魔してしまって……』
 しわがれた咽喉のどから咳払せきばらいと一緒にいった。
『おや、そうですか』
 そういって、その男も気がついたように上げた顔は、思わずドキンとするほどの殺気を持って歪んでいた。その血ばしった眼、心もち紅潮させた蒼黒い皮膚の下には、悪鬼の血潮が脈々と波打っているかのようであった。
 私はその時確かに彼の周囲に慄然ゾッとするような鬼気を感じた。
(この私でさえ、あの時は一思いにネネを殺して自分も死のうか、とすら思ったのだから)
 と、この男が、今いだいているであろう血腥ちなまぐさい想像の姿が私にはアリアリと写るのであった。
 そして又、気の弱い私には、到頭とうとうそれは実行出来なかったけれど、この、狂気染みた男なら、或はそれをやってのけるかも知れない、というありそうな怖れに、思わず胸の鼓動がどきどきとたかまって来るのであった。
 そしてそれが、このネネを囲んだ三人の間の、宿命なのかも知れぬ、とすら思われた。
 ――然し、その男は、思ったより落著いた口調で、
『や、どうも遅くまで引止めてしまって、かえって済みませんでしたね、もうお休みですか――』
 と、ゆっくりいって、淋しく笑った。
『いや――、どうも近頃少しも寝られなくて閉口しているんですよ』
 私も、さり気なく答えて、又タバコをくわえた。
『そうですか、それは困りますね、こういう薬があるんですが、飲んでみませんか、よく利きますよ』
 そういうと、その男は、机の抽斗ひきだしから名刺を出して、その裏に、すらすらと処方を書いてくれた。受取っておもてをかえして見ると、そこには「医師、春日行彦かすがゆきひこ」とあった。
 私は彼から懐中電燈を借りると、危なっかしい小径こみちを分けて、町へ帰って来ながら、まだ起きていた一軒の薬局へ寄って、
『この薬をくれたまえ――』
 といってから、
『この薬の中には毒になるようなものはないね』
 とたしかめ、
『ございません、神経衰弱の薬として、立派な処方と思います』
 そういった薬剤師の言葉に、あのゾッとするような顔は、ネネ一人に向けられたものだったのか、とうなずかれた。
 もっとも、私は遂に、その薬には手をつけず、アダリンの売薬を買って済まして仕舞ったのだが……。

      四

 翌日。私は昨夜借りて帰った懐中電燈を返すのを口実に、春日の家へ行って見た。
 行ったのは、もうおひるをまわっていたが、勝手口のところには、うに冷め切った味噌汁おみおつけを入れた琺瑯ほうろうびんと一緒に、朝食と昼食の二食分が、手もつけられずに置かれてあるのを見、
(留守かな――)
 とも思ったが、案外、彼はすぐ声に応じて出て来た。
『ゆうべは失礼しました』
『いや、僕こそ、……どうぞ上って下さい』
 私は、何気なく上ろうとして、一眼ひとめで見渡せるこの家の中の、余りの乱雑さに、思わず足が止ってしまった。
 その、二間だけの座敷全体には、ずたずたに引裂かれた楽譜や五線紙が、暴風雨あらしの跡のようにきちらかされ、そればかりではなく、あの高価らしい漆黒しっこくのピアノまでが、真ン中からなたでも打込んだように、二つにへし折れているのであった。
 春日は、まぶしげに顔を外向そむけて苦笑いをし、
『どうぞ、どうぞ……』
 といいながら、楽譜の反古ほご掻分かきわけて僅かばかりの席をつくってくれたが、
『いや、いいんですよ。今一寸ちょっと用があるんで、又来ますから、……これをお返しに来たんです、じゃ、また晩にでも……』
 私は懐中電燈を置くと、わざと座敷の中から眼をらして何んにも見なかったように、さも忙しそうに、早々と崖をりはじめた。なんだか、彼の一ヶ年の苦心を一瞬にぶち壊してしまった心の苦悶が、特に私にだけよく解るような気がし肉親の苦しみを見るような、胸の痛みを覚えたのであった。
 ――それっきり、彼は黄昏たそがれの散歩にも現われなかった。それを心配して私は二三度彼の家を訪ねて見たが、昼も夜も、いつも春日は不在であった。そして、何時か私の足も遠のいてしまった。
 ――そのうちに、私の借りている別荘を管理している植木屋の口から、太郎岬の一軒家にいる変り者の男が、何を思ったのか、近頃しきりと、この町からバスの通じている隣り町まで行き、そこの私娼窟ししょうくつにせっせとかよっているといううわさを聞いた。
 そして、その男は其処そこの花子という若い私娼に夢中になって「ねんね、ねんね」などと子供のように可愛がるのだそうだ、という話を、この話題に乏しい町の噂が伝えて来たのであった。
 私にはその「ねんね」は「ネネ」の誤りであろうことは、すぐ想像出来たが、それと同時に、彼がネネと呼んで愛撫するという女性に、ひどく興味を覚えて来た。
(ほんとにネネのような女であろうか)
 それとも、
(その女が、偶然、ネネの姉妹であったとしたら……)
 あの、春日との偶然な宿命的な邂逅を思うと、そんなロマンチックな好奇心が、ついに抑えきれなくなってしまった私は、町の顔見知りを恐れて、バスにも乗らず、わざわざ歩いてその私娼窟へ行って見たのだ。
 其処そこは、町すみの一かくではあったが、しかし全然別世界のように感じられた。というのは、露地のように細いみちが軒下を縦横に通じ、歩く度に、ばたんばたんとドブ板が撥返はねかえって、すえたような、一種異様な臭気が、何かしら、胸に沁みいるようにあたりにこもっていたからであった。そして、時々、蒼白いカサカサな皮膚をした若い男が、懐手ふところでをしながら、巧みに、ついついと角を曲って行く姿が、ふと蝙蝠こうもりのように錯覚されるような四辺あたりであった。
 私は、長いこと、矢張り懐手をしてその迷路のような一廓の中を、彷徨さまよい歩いた、胡粉ごふんを塗ったような女共の顔が、果物屋の店先きのような匂いを持ってさらされていた。
 然し、いに、春日の姿も、花子という女の姿も発見することは出来なかった。
 それは、あとから考えれば、当り前であった、その噂が拡まる頃には、もう春日はその女と、太郎岬の一軒家で同棲していた、というのだから……。
 遅蒔おそまきに、それを知った私は、いくらかの躊躇ちゅうちょは感じたが、そしてその口実にあれこれとさんざ迷ったのだが、遂に好奇心の力に打まかされて訪問を決心したのは、それから又、一週間も経ってからであった。
 あの崖の小径を登り切って見ると、彼は、その女と暮しながらも、なお、仕出屋の食事をつづけているらしく、勝手口の外には喰いちらかされた二人分の食器と、やっと暖かくなって来たかと思われるこの頃だのに、もうむくむくと肥った青蠅あおばえが、ぶーんと飛立つのが見られ、ひどく不潔な彼の生活が其処に投出されているかのように眺められた。
 春日は、ピアノも何もない殺風景な部屋の中に、あかじみた蒲団を敷っぱなして、独りゴロンと寝そべっていた。近寄って見ると、気のせいか、彼の顔色は土色にせ、カサカサした皮膚が、痛々しくさえ思われた。
『や――』
 彼はゆっくり起上って、笑顔を見せた。
『しばらくでしたね、ま、どうぞ――』
『結婚されたそうじゃないですか』
 これが、私の訪問の口実であった。
『結婚? いいや今は一緒にいる、っていうだけですよ。こんどの女もネネのように、機会さえあれば僕を踏台にしてゆこうという女ですよ、それはわかっているんだけれど、……』
『今は――』
 私は一眼ひとめで見渡せる家の中を、もう一遍見直した。
『いま、町まで買い物に行っていますよ』
『ばかに顔色が悪いようですが、何か――』
『これですか』
 彼はせた手で顔を撫でると、
『病気のせいでしょう……ジフィリスになってしまったんですよ、ふふふふ』
『それは――』
 私はまゆをひそめて、花子という女からだな、と思いながら、
『そんなら早くなおさなけりゃいかんでしょう、医科をられたんだから、自分で静脈注射も出来ませんか……』
『いや、もう病気を癒そうなんて気力は、うになくなってしまった僕ですよ。未だにそれだけの気力を持っているほどなら、ッそネネを殺ってしまっていたでしょう、ふッふふふ……ネネは僕に何一つ思い出をのこしてはくれなかったんですが、こんどの女は、こんなに消えぬ思い出を与えてくれたんです、久劫くごうに消えぬ、子孫にまで遺ろうという、激しい恋の思い出の華を……』
 私はこの狂気きちがい染みた彼の言葉に、返事を忘れてしまった。
(春日は、頭を冒されたのではないか――)
      ×
 早々に引上げた私は、その帰り道、あの崖の細路ほそみちの中ほどで、一人の女と行き違った。この路の果てには春日の家しかないのだから、その女が私の興味をいた花子であることは疑いもないことであったけれど、その女は、余りにも、私の想像とはかけ違ったものであった。
 真ッ昼間だというのに、黄色のドーラン化粧に、青のアイシャドウ、おまけに垂れしたたるような原色のくちびるをもった、まるでペンキを塗った腸詰のようなその黴毒女ばいどくおんなを、春日が、例え噂にもしろ「ネネ」と呼んだ、ということについては、激しい不満を感ぜずにはいられなかった。私は、すれ違った瞬間に受けた職業的な、いやらしい流し目ウィンクを、いつまでも舌打ちをしながら思い出し、よくもまあ、あの時、崖の上から突飛ばさずに、無事に帰って来たものだ――とすら思われた。
 が、しかし、考えてみると、あの一風変った春日にしてみれば、ネネも、ただあの醜い花子を美しく包装しただけであって、内容はまるで同じものだと思っているのかも知れぬ、イヤ、「美」の感点などというものは、人に依って違うのだ、彼はネネの声をほめたけれど、つてネネの美しき容姿については一言もいってはいなかったではないか。春日はネネの声に恋していたのかも知れぬ、そして、聞いてはみないが、ひょっとすると花子の声はネネ以上に美しいのかも知れないと思われた――でも、でも私には、余計なことかも知れないが、その花子という女は、とても我慢のならぬ代物であった。
(ネネの姉妹きょうだい?――)
 などという甘いロマンチズムは、かくして虚空の外にケシ飛び、はかなくも粉砕してしまったのだ。

      五

 日増しにく暖かくなって、藤の花が一つ二つ咲きはじめた日であった。
 あれから、思っただけでも虫酸むしずの走る花子のことを考えると、私は絶えて春日を訪れることもなかった。
 海に面した縁先に、寝椅子を持出して、目をつぶったまま
(東京へ帰ろうか――)
 などと思われる日であった。
 思えば、なぜ「この日」を其処で迎えてしまったのであろう。その前になぜ東京へ帰って仕舞わなかったのであろう、と悔まれるのであるが、しかし、それもまた、宿命という説明し尽されぬ魔力に、まだ私はとらわれていたのに違いないのだ。
 それは、花子との二重写しに依って、ようやく薄れて来たネネの面影が、又々生々しく甦って来、私の胸を騒がすような事件が待設まちもうけていたのであった。
 午後であった、しかし、まだひるを廻って間もない時分だ。裏木戸を蹴飛ばすような騒々しい音と一緒にあの植木屋が大事件だ、というような顔をして飛んで来た。
『いま、自動車が崖から落ちて怪我人が出たというんで大変な騒ぎで……』
『ほう、東京の人かね』
『そうで……なんでも若い者のいうことでは秋本ネネとかいう女優かなんかだそうでして……』
『ナニ――』
 私は、ガバとはね起きた。
『死んだか――』
 その返事も聞かずに、飛出した。
 太郎岬の下を廻る県道まで一気に馳けつけて見ると、成るほど一台の緑色りょくしょくに塗られた新型のクウペが、玩具おもちゃのように二丈ばかりもある岩磯の下に転げ込み、仰向あおむけにひっくりかえって、血かガソリンか、其処らの岩肌には点々と汚点が飛んでい、早くも馳けつけた青年団の連中が、その車の下から、一人の男をひきずり出しているところであった。
 そのそばの岩の上には、あの、ネネが、前よりも一層美しくなったように思われるネネが、喪心そうしんしたように突立って、手を握りしめ、帽子を飛してしまった頭髪かみのけを塩風になびかせながら、凝乎じっと、青年団の作業を見守っているのであった。
(ネネは怪我をしていない――)
 私は、「ネネ、ネネ」と大声で呼びたい心をやっと押えつけて、転がるように磯にまで行ったが、さて、真近に行って声をかけようとした時、又もグッとその声を飲んでしまった。
 其処に、春日がいるのである。
『やあ――』
 私は、わざとゆっくり声をかけた。ネネは素早い視線で私達を認めると、流石さすがに、はっとした心の動揺は隠せなかったらしい。
『…………』
 唯、無言でうなずいたきりであった。そして又、ちらりと春日の横顔を偸見ぬすみみた。
『怪我はしませんか』
 私が訊いた。
『ええ、あたしは……あら、どうでしょう』
 彼女はいきなり自動車から引出された男のそばにかけ寄った。そこにぐったり寝て、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに血の塊りをつけた男は木島三郎であった。私がぐずぐずしているに、春日はその木島を抱え起し、脈を診ると、
『まだ大丈夫だ、すぐ手当をすれば受合うけあう……』
『そう、それじゃすぐ病院へ……』
 ――手廻しよく呼ばれて来たタキシーで、木島をはじめ私達四人は、すぐこの町で一番大きい村田医院へかけつけた。
 折よく村田氏は在院していてしばらく春日と何か専門語で話合った揚句あげく、春日は、
『ネネさん、一刻を争いますから僕が血を提供して輸血します』
『え? あたしも、あたしの血も採って……』
 ネネは、この春日の、思いがけぬ義侠的な言葉に、かえってひどく狼狽ろうばいしたようであった。
 村田氏は構わず春日とネネの耳朶みみたぶから一滴ずつの血を載物硝子さいぶつガラスの上に採ると、簡単な操作を加えてから、
『秋本さん、あなたのは合いません、春日さんのは幸い合っていますから春日さんから輸血させて戴きます……』
『さ、すぐやって下さい』
 春日は、平然としていった。
 ネネは、感極かんきわまったように、手を堅く握りしめて胸のところに合せたまま、眉一つ動かさぬ春日の横顔を見守っていた。
 私は、春日の血液が、様々な硝子器具を通って、木島の体へ送られて行くのをじっと見乍みながら、フト、
(春日はジフィリスだったが……)
 と思った、と同時に、愕然がくぜんとした。春日は今、ネネの眼の前で復讐をしつつあるのだ。彼からネネを奪った男の体に、み嫌われた細菌の群が、真赤な行列をつくって移されているのだ……。
 それをネネは心からの感謝をもって見ている……。
 春日は、平然と、むしろ、心地よさそうに眼をつぶっている。
 そして、そのわずかばかり口元を歪めて笑った顔は、あの最初の邂逅かいこうの夜に、私を慄然ぞっとさせたのと同じ、鬼気を含んだ微笑ほほえみであった――。
 私はジッと見詰めているうちに、握りしめたや脇の下からネトネトとした脂汗が滲出にじみで、眼も頭も眩暈くらみそうな心の動揺に、どうしてもその部屋を抜出さずにはいられなかった。
 ともすれば、眼の前にちらつく、ネネの感謝のひとみが、たまらなかったのである。
      ×
 木島は、この時宜じぎを得た処置のためか、ぐんぐん恢復してやがて、東京に帰って行った。
『君、少しひどすぎないかね。君も医者ならあんまりじゃないか――』
 二人っきりになった時に、私は春日をなじった。
『――なるほど、病気にはなるかも知れんが、しかし命は助かるじゃないか。僕は医者のつとめは十分に果したのだ』
『だが、これは僕だけの想像だが、木島は本当にあの時、輸血を必要としたのだろうか……』
 春日は、それを聞くとサッと顔色をかえた。しかし、しばらくして首を振りながら、
『それは君の想像にまかせる……だが、君自身は輸血をしようとは義理にもいわなかったじゃないか……。ネネは僕に感謝していたぞ。そして、木島とはただの友人にしか過ぎない、私はただあの人の地位を利用しようとして、誘いを断り切れず、ドライヴに来たのだけれど、木島が片手で運転しながら片手で私の肩を抱きすくめたので、それを振り払った途端、カーヴを切りそこなってあんなことになってしまったのです、と涙を流して言っていたんだ。そして、この来月末にある公演の主役をすましたら屹度きっと僕のところへ帰って来るというのだ。――これも、君が信じようと信じまいと、どちらでもいいのだがね、かく、僕も今度は病気をなおそうと思う……』
 彼は、ゆるやかに口笛を吹くと、やがて、空中で、いきなりピアノを弾くように両手を踊らせ、あはははは、と笑った。
『信じられぬ……』
 私は、反撥的にそうつぶやいた、しかしその語尾は淡く消えてしまった。
 私もまた、彼にとっては敵の一人であったのだ。この背負投げは、事実であるかも知れぬ……。口惜くちおしくも私は半信半疑のもやにつつまれて来るのであった。――

      六

 既に、ネネと木島とが東京へ帰ってから、三月が経った。
 春日のところへ、ネネが来るのを待っていた訳ではないのだが、あの気まずい別れぎわの春日の揚言ようげん哄笑こうしょうとが、私の耳の底に凝着こびりつき、何とはなくぐずぐずしているうちに、もう、明るい陽射しの中を、色鮮やかな赤蜻蛉あかとんぼの群が、ツイツイと庭先の大和垣やまとがきの上をかすめるような時候になってしまった。私は、その夏ほど、重くるしい暑さにさいなまれたことはなかった。来る年々の夏は、なるほど暑いものではあったが、しかし紺碧こんぺき大穹おおぞらと、純白な雲の峰と、身軽な生活とから、私の好きな気候であった筈なのだが――。
 春日のところへも、ネネから、一向音沙汰がないらしかった。それは、し彼をよろこばすような便りでも来れば、あの男には、とても私に話し誇らずにはいられないであろうことからも、容易に想像出来た。
 そのうち、人の噂に、花子が又もとの所で商売に出ている、ということは聞いたが、既に約束したという公演も、うに過ぎてしまったのに、更にネネの影も見えぬというのは、一寸ちょっと待ち呆けのような気もするが、しかしそれと同時に、心の底にはたまらない皮肉なわらいがこみ上って来るのだ。むしろ、ネネが春日のところへ来る位なら、一っそ、木島のところにいた方が面白い――。それが私の本心であった。
 復讐と同時に、ネネの歓心をったと信じ、必ず帰って来ると高言し哄笑した春日の尖った顔が、ざまァ見ろ、とばかり、私の胸の中で快よく罵倒ばとうされ尽すのだ。
      ×
 ――秋もふかまるにつれて、ようやく繁くなった帰京を促す手紙に、私もいつかその気になって来た。
 久しぶりに、あのねっとりとした都会の空気を吸ってみたくなった。……それから……ネネの其後そのごの消息も尋ねたい……そう思うと、私はすぐに帰京を決心した。
 私が、春日にも告げず、帰京したのは、キメの細かい濃密な霧のある日であった。
(もう、こんな気候になったのだ……)
 駅のプラットホームを歩きながら、不図ふとそう呟いて仰向いた時、ポンと肩を叩くものがあった。
『やあ、どうしたい――』
 振返って見ると、同級生だった友野とものが、にやにやしながら立っていた。
『しばらくだったなァ、勤めたのかい』
『うん』
 友野は、少しばかり反身そりみになって、胸のバッチを示した。そこには帝国新聞の社章が、霧に濡れて、鈍く、私の無為徒食むいとしょくあざわらうようにくっついていた。
『君は』
『……病気をしちゃってね、やっと今、海岸を引上げて来たんだ……ふっふっふっ』
『そりゃいけない、少し痩せたかな……』
『そうかしら……お茶でも飲もうか……仕事は何をやってんだい』
『学芸部さ……でもなかなか忙しいぜ』
 友野は、忙しいというのを誇るようにいった。そして、駅前の喫茶店に這入はいって、さて、コーヒーを注文してから、
『東洋劇場は何をやっているんだ、今――』
『ええと……』
 友野は一寸眼をせると、すぐすらすらと出し物をいった。しかし、その中にはネネの名はなかった。
『秋本ネネ……というのはどうしたね』
 私は恐る恐る、それでも、思わず胸をときめかせ乍ら訊いた。
『ああ、あれはね……、変な話があるんだ、というのはやまいなんだよ、そのやまいも、一寸人にはいえん、という奴でね、話によると、東京の医者は顔を知られてるから駄目だというんで、わざわざ埼玉の方の小さい開業医のところへ名を変えて通っている――っていう話だ、人気者もまたつらいね』
 友野は、タバコの煙と一緒に、それだけを排出はきだすと、愉快そうに笑った。
 私はコーヒーをがぶがぶと飲んで、やっと、
『うん、うん』
 とうなずいた。そして
『……ああいう人気者は蜉蝣かげろうだね、だからわずかな青春のうちに、巨大な羽ばたきをしようと焦慮あせるんだ――ね』
『それで、もう腐ってしまった、というんかい、あははは……』
 だが、私は笑えなかった。
 私の持っていた、かすかな、ほんとに幽かなロマンチズムも既にことごとく壊滅し去ってしまったのだ。
 あの、卑猥ひわい牝豚めすぶたのような花子につちかわれた細菌が、春日、木島、そしてネネと、一つずつの物語を残しながら、暴風のように荒して行った痕跡あとに、顔を外向そむけずにはいられなかった。
(春日の馬鹿野郎!)
 私は大声で、夕暮の、潤んだともしび這入はいった霧の街の中をそう呶鳴どなって廻りたかった。
 急に顔色をかえた私に、友野は唖気あっけにとられたらしく、匆々そうそうと別れて行った。
 結局、その方が、私も気らくであった。
      ×
 ……何処どこをどう歩いたのか、したたかに酔痴よいしれた私は、もう大分夜も更けたのに、それでも、見えぬ磁力に引かれるように、郊外にあるネネの住居すまいを捜し求めた。
 やがて、さんざ番犬共に咆えつかれた揚句、夜眼よめにも瀟洒しょうしゃな文化住宅と、外燈の描くぼんやりした輪の中に「木島」の表札を発見した時は、もうその無意味な仕事の為に、心身ともに、泥のように疲れ果てていた。が、勿論もちろん、私はその門をたたこうとはしなかった。
 そして尚も、飢えた野良犬のように、その垣の低い家の周りを、些細ささいな物音をも聴きのがすまいと耳をそばだてて、ぐるぐるぐるぐるとまわっていた。
 さっきから、たった一つの窓が、カーテン越しに、ぼーっと明るんでいるきりだった。おそらくネネはいるのであろう、しかし何の物音もしなかった。その馬鹿にされたような静けさが、余計私の神経を掻乱かきみだすのだ……。
 と、突然、まったく突然、その家の洗面所と思われる方にすさまじい水道のほとばしる音が、あたりの静けさと、欹てた耳とに、数十倍に拡大されて、とどろきわたった。途端に私は、巨大な「洗浄器」を錯覚して、よろよろッとその低い白く塗られた垣にもたれてしまった。その垣は霧のためにべっとりと湿っていた。そしてネネの肌のように水々しかった。私はそこへ、ガクッとくびを折ると、熱い頬を押しつけた、そして、ひしとその濡れた垣を抱しめた……。と同時に、不思議にも込上こみあがるような微笑を感じて来た。
 四辺あたり、には厚い霧が、小雨のように降りそそいでいた。
 そして私は、浪に濡れた太郎岬の上で、今日も、独りしょんぼりとネネを待っているであろう春日行彦の、せさらばえた姿を、ひどく馬鹿馬鹿しく、いきどおろしく思い出すと共に何かしら解放されたような、安易さを覚えて来るのであった。

底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
   2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「探偵春秋」春秋社
   1937(昭和12)年8月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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