フランスにおける原著の最初の出版は一八九六年で、四十五の項目しかなかった。一九〇四年にフラマリオン社から出たのが、まず当時の決定普及版と言ってよく、七十項目から成っている。この訳はそれに拠ったものである。ボナールの挿絵もこの版では原本から引き写すことにした。
さきに、若干部の限定版を作ったが、それには明石哲三君が特別に描いてくれた絵を数枚入れた。念のためにここに記しておく。
ルナールの死後、全集に収められている『博物誌』は、多少、この版と内容が違うけれども、わざわざそれに従う必要はないと思った。
なお、同じ著者の『葡萄畑の葡萄作り』にも、この『博物誌』にある数項目が加えられているが、『葡萄畑……』は、もちろん『博物誌』よりも前に世に出たのである。
ルナールの作品としては、この『博物誌』が『にんじん』に次いで人口に膾炙している。それにはいろいろの理由がある。まず、その頃のフランス文壇及び読書界は、この作家の独特な才能を、かかる「影像」のうちにだけしか見いだし得ず、ジャーナリズムはまた、彼にファンテジストのレッテルを貼って、一回何行という短文をやたらに書かせた。
彼が自然を愛し、草木禽獣のいのちを鋭く捉えたことは事実であるが、その奇警な観察をこういう形式で纏めようという意図はもともと著者自身にはなかったかも知れないのである。
ところが、この類のない形式は、たまたま彼の存在を明確に色づけ、大衆の記憶に入り易くした。
同時に、「ちっちゃなものを書くルナール」の名声は、彼をますます「小さなもの」のなかに閉じこめたことは争うべからざる事実である。
しかし、彼の本領は必ずしも、文字でミニアチュールを描くことではない。『博物誌』のなかのあるものは、既にそれを証明している。ひろい正義愛、執拗な真実の探求、純粋な生活の讃美、ことにきびしいストイシスム、高邁な孤独な魂の悲痛な表情がそこにある。
なかには訳しては面白くもない言葉の洒落や、若干、安易な思いつきもあるにはあるがしかし、全体から言って、やはり、「古典」のなかに加うべき名著だと思う。
西欧には、わが俳文学の伝統に類するものは皆無だと言っていいが、この『博物誌』をはじめ、ルナールの文学のなかには、いくぶんそれに近いものがありはせぬか、ということを、私はかつて『葡萄畑……』の序文のなかで指摘した。
ルナールの簡潔な表現、というよりもむしろ、その「簡潔な精神」が、脂肪でふとった西欧文学のうちにあって、彼を少なくとも閑寂な東洋的「趣味」のなかに生かしていると言えば言えるだろう。「蟋蟀」「樹々の一家」などその好適例である。
フランス近代の最も独創的な作曲家、モーリス・ラヴェルが、この『博物誌』のなかから数編を選んで、自らこれを作曲した。「孔雀」「蟋蟀」「白鳥」「かわせみ」「小紋鳥」の五つである。ルナールは性来の音楽嫌いを標榜しているが、皮肉にもその作品が世界中の美しい喉によって普く歌われているのである。
序ながら、フランスの小、中学校では、よく書取の問題がこの書物のなかから出るという話を聞いた。彼の文章は、単純なようでいて「間違い易く」、ひと癖あるようで、その実、最も正しいフランス語という定評のある所以であろう。
(昭和二十六年一月)