公爵 伊藤博文

     個人としての伊藤侯と大隈伯

 伊藤侯と大隈伯とは當代の二大政治家なり、隨て其人物に對する批評の紛々たるは亦此侯と此伯を以て最も多しとす。是れ其の個人としての性格未だ明かならざるに由る。故に之を觀察して甲乙性格の異同を對照するは實に多少の趣味なからんや。
 概していへば、伊藤侯と大隈伯とは互ひに相似たる所之れなきに非ず。才を愛し士を好むは相似たり※(白ゴマ、1-3-29)辭令に嫻ひ談論に長ずるは相似たり※(白ゴマ、1-3-29)莊重にして貴族的姿致あるは相似たり※(白ゴマ、1-3-29)博覽多識にして思想富贍なるは亦相似たり※(白ゴマ、1-3-29)然れども同中固より異質なくむばあらじ。
 大隈伯の思想は經驗より結撰し來る※(白ゴマ、1-3-29)故に其の開展するや歸納法の形式を具ふ※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯の思想は讀書より結撰し來る※(白ゴマ、1-3-29)故に其の開展するや演繹法の形式を具ふ※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯固より讀書を嗜む※(白ゴマ、1-3-29)然れども抽象的理論よりも寧ろ具象的事實を貴ぶ※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯固より經驗を非認せざる可し※(白ゴマ、1-3-29)然れども侯の得意とする所は寧ろ學理に在りて事實に存せじ、是れ其の均しく博覽多識なるに拘らず、一は最も經濟に精しく、一は最も立法に長ずる所以なり。
 伊藤侯は公卿華族の如く、大隈伯は大名華族の如し※(白ゴマ、1-3-29)故に莊重の中に優美を寓するは伊藤侯にして、莊重にして且つ豪華なるは大隈伯なり※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯は威儀を修めて未だ雋俗ならず※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は偉觀を求めて終に閑雅の風に乏し※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯に逢ふものは、其の敬す可くして狎る可からざるを思ひ、伊藤侯に接するものは、其の悦ぶ可くして畏る可からざるを感ず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其の均しく貴族的姿致あるに拘らず、一は武骨を以て勝ち、一は文采を以て優る所以なり。
 伊藤侯の辭令は滑脱婉麗にして些の圭角なし、以て夜會の酬接に用ゆ可く※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯の辭令は機鉾鏃々として應答太だ儁、以て戰國の外交に用ゆ可し※(白ゴマ、1-3-29)其の言を發して情致あるは伊藤侯の長所にして、其の語を行ること奇警なるは大隈伯の妙處なり※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ談論滔々として竭きざるの概に至ては、未だ遽かに軒輊し難きものありと雖も、伊藤侯の音吐朗徹聲調抑揚あるは演壇の雄辯として大隈伯に優ること一等※(白ゴマ、1-3-29)唯だ精明深刻舌端に霜氣あり座談久うして益々聽者を倦ましめざるは是れ寧ろ大隈伯の特絶にして、其の一たび佳境に到れば、眉目軒昂英氣颯爽として滿座皆動く※(白ゴマ、1-3-29)故に大隈伯の雄辯は對話に適し、伊藤侯の雄辯は公會に利あり。
 才を愛し士を好むに於て、伊藤侯と大隈伯とは共に他の元勳諸公に過ぐ※(白ゴマ、1-3-29)故に其の門下生に富むも亦實に當代に冠たり※(白ゴマ、1-3-29)然れども伊藤侯の愛好するものは、柔順御し易きの徒に非むば巧慧※[#「にんべん+鐶のつくり」、3-下-27]の輩多し※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は然らず、伯は唯だ人を智に取りて其の清濁を論ぜず※(白ゴマ、1-3-29)故に愚者を近けざるの外一藝一能あるものは勉めて之れを容れんとす※(白ゴマ、1-3-29)量に於ては大隈伯確かに伊藤侯の上に出るを見る※(白ゴマ、1-3-29)蓋し伊藤侯は勉めて他の信服を求むと雖も未だ意氣を以て人を感ぜしめたるを聞かず※(白ゴマ、1-3-29)天下知己の恩あり、一たび之れに浴するものは爲に死を致さむことを思ふ※(白ゴマ、1-3-29)然れども知己の恩は私恩に同じからず※(白ゴマ、1-3-29)私恩を介するものは概ね利害にして、知己の恩は則ち意氣を通じて來る※(白ゴマ、1-3-29)或はいふ侯は私恩を賣るに巧みなりと※(白ゴマ、1-3-29)夫れ私恩は以て面從を得可く、以て信服を求む可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も面從一變すれば主を噬むの狗となり、獅子身中の蟲となる※(白ゴマ、1-3-29)唯だ侯の聰明能く此の憂を免かるるのみ※(白ゴマ、1-3-29)顧みて大隈伯を見るに、伯は必ずしも信服を人に求めずと雖も其の自ら來て信服するものは亦善く之を用ひ善く之れを導く※(白ゴマ、1-3-29)是れ其伊藤侯と大に異同ある所以なり。
 大隈伯の特質として最も著明なるは、精神常に活動して老て益々壯んなるに在り※(白ゴマ、1-3-29)伯曾て人に語て曰く、隱居制度は亡國の條件なりと※(白ゴマ、1-3-29)其の春秋漸く高くして壯心次第に加はる如き、其の向上精進毫も保守の念なき如き、其の冀望抱負常に新たなるが如き、伯は實に天性進歩主義の人物なり※(白ゴマ、1-3-29)伯の進歩主義は獨り政治上の智識より出でたるに非ずして即ち伯の生命なり伯の理想なり※(白ゴマ、1-3-29)之れを伊藤侯の動もすれば林下退隱の状を爲すに比す、則ち本領の甚だ差別あるを知るに足る※(白ゴマ、1-3-29)伯又口を開けば常に自由競爭を語る※(白ゴマ、1-3-29)自由競爭は乃ち伯の人生觀たる莫らんや※(白ゴマ、1-3-29)人生既に自由競爭の運命ありとせば、優勝劣敗は天則にして、世界は優者の舞臺なり※(白ゴマ、1-3-29)伯の老て益々壯んなるは顧ふに之れが爲のみ。
 伊藤侯の特質として最も著明なるは、風流韻事自ら高しとするに在り※(白ゴマ、1-3-29)暇あれば必ず詩人を邀へて共に煙霞を吐納し、筆墨を揮灑す※(白ゴマ、1-3-29)是れ胸中の閑日月を示さんとすればなり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は伊藤侯の風流韻事なく、未だ詩を作り文を品するの談あるを聞かずと雖も、伯の嗜好は反つて一種瀟脱の天地に存するものあり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞや、曰く園藝に對する嗜好是れなり※(白ゴマ、1-3-29)伯は園藝を以て啻に一身を樂ましむるのみならず、亦交際を醇潔にし、人心を調和し、道心を養ふの益ありと信ぜり※(白ゴマ、1-3-29)伯曾て客に戲れて言ふ、世間予の庭園に耽るを笑ふものあれども、彼の千金棄擲解語の花を弄するものと得失孰れぞやと※(白ゴマ、1-3-29)要するに伊藤侯の風流は東洋的にして、大隈伯の嗜好は西洋的なると謂ふ可し。
 伊藤侯の銅臭なくして艶聞ある、大隈伯の艶聞なくして銅臭ある、世之れを稱して好個の一對と爲す※(白ゴマ、1-3-29)然れども財を好て私徳を傷るに至らずむば、未だ之れを以て大隈伯を譏る可からず※(白ゴマ、1-3-29)色を好て公徳を紊さずむば、未だ之れを以て伊藤侯を累はすに足らず※(白ゴマ、1-3-29)况んや大隈伯の財に於ける、善く積て善く散ずるの道に依り、伊藤侯の色に於ける、是れ英雄懷を遣るの餘戯に過ぎざる可きをや※(白ゴマ、1-3-29)之れを聞く、前年伊藤侯の邸に舞踏會あるや、偶々醜聲外に傳りて、都下の新聞日として侯を議せざるなし※(白ゴマ、1-3-29)人あり侯に勸むるに新聞記事の取消を以てす※(白ゴマ、1-3-29)侯笑つて曰く、事の公徳に關するものは予固より之れを不問に附する能はず區々一身上の誹毀何ぞ意に挾むに足らんやと※(白ゴマ、1-3-29)侯の磊落なる洵に斯くの如し、是れ其の割合に世の憎疾を受けざる所以なり※(白ゴマ、1-3-29)獨り大隈伯は、其の貨殖に巧みに經濟に長ずるを以て、人或は伯の平生を疑ひ、奸商と結托して往々私利を謀るものと爲す、是れ亦思はざるのみ※(白ゴマ、1-3-29)世には其の言を孔孟に借て盜跖の行あるもの少なからず※(白ゴマ、1-3-29)伯や固より清貧を裝ふの僞善家を學ぶ能はずと雖も其の决して黄金崇拜の宗徒たらざるは伯が親近するものゝ反つて廉潔の士多きを以て之れを知る可し
 伊藤侯は信仰を有せず※(白ゴマ、1-3-29)若し之れありとせば唯だ運命に對する信仰あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)故に侯は屡々高島嘉右衞門をして自家の吉凶を卜せしむ※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は宗教信者に非ず※(白ゴマ、1-3-29)然れども一種敬虔の情凛乎として眉目の間に閃くは以て伯が運命の外別に自ら立つ所あるを見るに足る※(白ゴマ、1-3-29)蓋し伊藤侯の屡々失敗して毎に之れが犧牲と爲らざるは殆ど人生の奇蹟にして、大隈伯の屡々失敗して飽くまで其の自信を枉げざるは猶ほ献身的宗教家の如し※(白ゴマ、1-3-29)故に伊藤侯は得意の日に驕色あり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は得失を以て喜憂せず。伊藤侯は英雄を尚び大隈伯は功業を尚ぶ※(白ゴマ、1-3-29)夫れ英雄を尚ぶものは人の又己れを英雄視せんことを求む故に伊藤侯は外に向て英雄らしき詩を作り※(白ゴマ、1-3-29)内に向て伊藤崇拜の隷屬を作る※(白ゴマ、1-3-29)夫れ功業を尚ぶものは唯だ自家の經綸抱負を布かんことを望む※(白ゴマ、1-3-29)故に大隈伯は必ずしも英雄を畏れず必ずしも歴史上の人物に感服せず※(白ゴマ、1-3-29)其の古今を呑吐し、天下を小とするの概あるは蓋し之れが爲めなり。
 個人としての伊藤侯と大隈伯とは夫れ斯の如し※(白ゴマ、1-3-29)約して之れをいへば、伊藤侯は太平時代の英雄にして、大隈伯は亂世時代の巨人なり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯の隆準豺目にして唇端の緊合せる、自然に難を排し紛を釋くの膽智あるを示し、伊藤侯の象眼豐面にして垂髯の鬆疎たる、自然に無事を喜び恬※(「(冫+臣+犯のつくり)/れんが」、第3水準1-87-58)を好むの風度あるを見る※(白ゴマ、1-3-29)又以て此の二大政治家の個性を諒す可し。(廿九年七月)

     伊藤侯の現在未來

      藩閥控制
 嚮に伊藤侯が、自ら骸骨を乞ふて大隈板垣兩伯を奏薦し、以て内閣開放の英斷を行ふや、藩閥家は侯を目して不忠不義の臣と爲し、極力其擧動を詬罵するに反して、侯の政敵は寧ろ侯の英斷を賞揚し、或は侯を以て英國の名相ロペルトピールに比するものあり※(白ゴマ、1-3-29)或は侯の内閣開放は、恰も徳川慶喜の政權奉還に似たる千古の快事なりといふものあり※(白ゴマ、1-3-29)中には其擧動の意表なるに驚きて、反つて侯の心事を疑ふもの亦之れなきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)既にして侯は遽かに遊清の擧あり、詩人及び記室を携へ、輕裝飄然として西行するや、世間復た侯の未來をいふもの紛々として起る※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、是れ侯が永訣を政界に告げて老後の風月を樂むなりと※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、是れ卷土重來の隱謀を蓄へ、暫らく韜晦して風雲を待つなりと※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、是れ大隈板垣の兩伯をして苦がき經驗を甞めしむる爲なりと※(白ゴマ、1-3-29)されど余を以て侯を視るに、侯の退隱は舊勢力と分離して將に來らむとする新勢力と統合せむが爲めのみ※(白ゴマ、1-3-29)侯は善く此の過渡の時局を處したるのみ※(白ゴマ、1-3-29)豈他あらむや
 舊勢力とは何ぞや、藩閥是れなり※(白ゴマ、1-3-29)新勢力とは何ぞや、政黨是れなり※(白ゴマ、1-3-29)初め憲政黨の成立するや、侯は三策を建てゝ藩閥の元老に謀る※(白ゴマ、1-3-29)上策に曰く内閣を維持すると共に別に政府黨を作りて憲政黨に當らむ※(白ゴマ、1-3-29)中策に曰く若し上策を非なりとせば侯は自ら野に下りて政府黨を作り以て内閣を援けむと※(白ゴマ、1-3-29)下策に曰く、二策共に非なりとせば斷然内閣を擧げて大隈板垣の兩伯に與へむと※(白ゴマ、1-3-29)而して上中二策は終に行はれずして事※(白ゴマ、1-3-29)下策に決す※(白ゴマ、1-3-29)是れ寧ろ侯の豫期する所にして又侯の目的なり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し政黨は一夜作りの産物に非るは、侯の明固より之れを知るのみならず、侯は元來政黨の歴史を有する政治家に非るに於て、自ら新政黨を作りて大隈板垣の爲す所を學ぶは、恐らくは侯の本意に非ず※(白ゴマ、1-3-29)侯は勢力を自製するの人に非ずして之れを發見し之れを利用するの智略ある人なればなり※(白ゴマ、1-3-29)故に侯が内閣開放を斷行したるは是れ實に今日を以て舊勢力と分離するの好機會なりと信じたるに由れり※(白ゴマ、1-3-29)政黨組織の策行はれざりしが爲めには非らじ
 夫れ藩閥は三十年間我政界の主動力たり※(白ゴマ、1-3-29)殆ど專制的性質を有せる一大勢力たり※(白ゴマ、1-3-29)此勢力を利用するものは順境に立ち之れに反對するものは皆逆境に陷る※(白ゴマ、1-3-29)是れ侯が從來藩閥と結合して久しく國民と爭ひたる所以なり※(白ゴマ、1-3-29)されど侯は決して藩閥の代表者に非ず※(白ゴマ、1-3-29)侯の藩閥を好まざるは猶ほ大隈板垣兩伯の藩閥を好まざるが如し※(白ゴマ、1-3-29)唯だ兩伯は藩閥を好まざると共に餘りに政黨を好み侯は政黨にも亦甚だ冷淡なるを異とするのみ※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに、侯が三十年間に於ける政治的傳記は、侯が如何なる塲合にも善く自家の據る可き勢力を發見して、善く之れを利用したるの事實を説明すと雖も、此れと共に其思想の藩閥と相容れずして動もすれば之れが爲めに苦められたるの事實も亦其傳記中に認識するを得可し※(白ゴマ、1-3-29)故に侯は外に對して藩閥を利用しつゝある間に内に在ては絶えず其勢力を控制するの術數を施したるは亦歴々として認む可きものあり※(白ゴマ、1-3-29)試みに其一二を言はむか。
 侯は明治十四年、大隈伯と相約して、十六年を以て國會開設の議を奏請せむとしたりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ國會に依りて藩閥を控制するの意より出でたるに非りし歟※(白ゴマ、1-3-29)其計畫未だ成らざるに破れて、藩閥の爲めに謀叛を以て擬せらるゝに及び、侯は飜然として其計畫を中止し、獨り大隈伯をして之れが犧牲と爲らしめたるは他なし、是れ唯だ成敗の勢を悟りて急遽の改革を不利と認めたるに由るのみ※(白ゴマ、1-3-29)藩閥を維持するの必要を信じたるが爲に非ず。尋で明治十八年官制を改革して、文治組織と爲し、官吏登庸法を制定して、選叙を嚴にしたる如き皆主として藩閥を控制するの意より出でずむんばあらじ※(白ゴマ、1-3-29)世間或は侯が總理大臣を以て宮内大臣を兼攝したる當時の位地を評して曰く、是れ侯が信用を宮中に固めて、自家の權勢を保全するの秘策なりと※(白ゴマ、1-3-29)夫れ然り然りと雖も此秘策は國民に對して壓制政治を行ふの準備に非ずして亦實に藩閥を控制するの意に外ならざるが如し※(白ゴマ、1-3-29)之れを要するに侯の施設は大抵藩閥と利害を異にするものたるに於て藩閥者流は漸く侯に慊焉たらざるを得ざるに至り其結果として所謂る武斷派なるもの起り而して山縣内閣と爲り而して松方内閣と爲り終に選擧干渉に失敗して藩閥大に頓挫したると共に伊藤侯復た出でて内閣を組織したるは第四議會將に召集せむとするの時なりき
 第二伊藤内閣組織せらるゝや、侯は竊かに故陸奧伯の手を通じて自由黨と提携するの端を啓き、日清戰爭の後に至て終に公然提携の實を擧げ、板垣伯に内務大臣の椅子を與へて、一種の聯立内閣を形成したりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ一は議院操縱の必要より來れるものなる可きも、其主要の目的は實に藩閥を控制せむとするに在りしや疑ふ可からず※(白ゴマ、1-3-29)此を以て最も伊藤内閣に反感を抱きしものは藩閥武斷の一派にして彼の藩閥の私生兒たる吏黨が民黨と聯合して極力伊藤内閣の攻撃を事としたるは適々以て其由る所を察し得可し※(白ゴマ、1-3-29)或は伊藤内閣が二囘までも議會を解散したるの擧を非立憲的と爲して、大に之れを論責するものあり※(白ゴマ、1-3-29)余も亦敢て侯の解散手段を贊するものに非ずと雖も、是れ勢の致す所にして侯の本意には非らず※(白ゴマ、1-3-29)若し當時の民黨より之れを觀れば侯が解散してまでも内閣を維持したるは單に民黨を苦めたるに似たりと雖も其實之れが爲めに最大失望を感じたるものは寧ろ藩閥及び藩閥を助くるの吏黨にして民黨の爲めには解散は却つて幸福なりき※(白ゴマ、1-3-29)何となれば侯にして若し解散の代りに辭職を行はゞ侯の後を受けて内閣を組織するものは必らず民黨に非ずして藩閥の武斷派なる可ければなり※(白ゴマ、1-3-29)之れを聞く、第二伊藤内閣の將に成らむとするや、陸奧伯其親近に語て曰く、民黨たるものは宜しく其擧動を愼み漫に吏黨の激論に煽動せられて我れより解散を求むるの愚を爲す可からず※(白ゴマ、1-3-29)是れ民黨の不利益なりと※(白ゴマ、1-3-29)則ち伯が伊藤侯の謀士として自由黨と提携せしめたるも其意の藩閥控制に在るや論なきのみ、伊藤侯が藩閥を利用すると共に、又之れを控制せむと勉めたるは既に斯くの如し※(白ゴマ、1-3-29)故に其信任する所の人物も、亦大抵藩閥に敵視せらるゝものか、若くば藩閥以外の出身者ならざるなく、例へば、故陸奧伯の如き伊東末松兩男の如き、渡邊子金子氏の如き、以て見る可し※(白ゴマ、1-3-29)果して然らば今囘の大英斷が亦藩閥打破の目的より出でたると謂ふも豈余が一個の臆斷ならんや

      未定數
 伊藤侯は既に藩閥を打破して舊勢力と全く分離せり※(白ゴマ、1-3-29)知らず侯の未來は如何※(白ゴマ、1-3-29)一見せば侯の現在の位地は孤立の二字を以て善く之れを説明するを得可し※(白ゴマ、1-3-29)侯は舊勢力と分離して未だ新勢力を發見せず※(白ゴマ、1-3-29)曾て侯と提携したる自由黨は今や憲政黨の名の下に抱合せられて侯と反對の方面に立ち而して侯に依て政黨を組織せむとするものは唯だ憲政黨の勢力に辟易して殆ど爲す所を知らず※(白ゴマ、1-3-29)侯の現在の位地は實に孤立なりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)されど余を以て之れを觀るに、侯の位地は未定數にして必らずしも孤立ならず※(白ゴマ、1-3-29)憲政黨は大なりと雖も其組織未だ堅確ならず其主義未だ明白ならざるに於て一朝變を生ずれば更に如何なる現象を生出せざるも保す可からず※(白ゴマ、1-3-29)否其分裂の機は漸く※(「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70)促し來れり※(白ゴマ、1-3-29)憲政黨一たび分裂すれば舊自由黨が再び侯を擁するの必要あるに至るは自然の情勢にして侯は唯だ其機會の到來するまで孤立の位置に在るのみ
 凡そ今日の所謂る政黨なるものは、主義政綱に依りて進退するに在らずして、唯だ利害に依て分合するものたるに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯が位地の未定數なるは蓋し政黨の主義政綱未だ分別せざるが爲めなり※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに政治家の世に立つや、先づ自ら其主義政綱を發表して、同志を天下に求むる固より可なりと雖も、今日の如く未だ主義政綱を以て爭ふの進境に達せざるの政界に在て自ら主義政綱を發表して同志を天下に求むるは恐らくは侯の迂濶とする所なる可し※(白ゴマ、1-3-29)况むや侯は大隈板垣伯等の如く政黨上の歴史を有せざるが故に今日直に政黨を組織せむとする如きは到底言ふ可くして行ふ可からざるの談なるに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)若し侯の中心の冀望を言はゞ、此際永く、政界を退隱せむと欲するに切なるやも知る可からず※(白ゴマ、1-3-29)されど侯を叢圍せる門下生は决して侯の退隱を許さゞるの事情あり※(白ゴマ、1-3-29)侯は此等の門下生の爲めに勢ひ再度の出馬を爲さゞる能はざるは無論なるを以て侯の清國より歸朝するの日は乃ち政界復た一變動を見るの時なりと知らざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)侯の運動の妙所は虚無縹緲の間に於て巧みに最後の勝利を制するに在り※(白ゴマ、1-3-29)侯が明治十四年來藩閥控制の術數を用ゐたるも世間啻に其然るを知らざるのみならず藩閥自身も亦然るを知らずして獨り其術中に陷りて怪まず※(白ゴマ、1-3-29)侯が自由黨と提携したるに及でも明かに政黨内閣を主張せずして而も次第に今日の時局を導くの動機を啓きたり※(白ゴマ、1-3-29)侯は曾て其持説を確言したることなきも其實際に施設したる例少なからず※(白ゴマ、1-3-29)侯も亦一代の政治家なるかな。(三十一年九月)

     伊藤侯は黨首の器なるや

 伊藤侯が頃ろ政黨改造の意見を發表して、既成政黨の弊害を矯正せんとするや、侯の機關紙たる『日々新聞』は、侯の目的、模範政黨を作るに在りと暗示し、憲政黨の機關紙たる『人民新聞』は、侯の位地を論じて、憲政黨に入るの侯の志に合ふ可きを諷告したり※(白ゴマ、1-3-29)侯果して憲政黨に入りて其首領たらむと欲する乎。或は既成政黨以外、新たに同志を糾合して模範政黨なるものを作らむとする乎※(白ゴマ、1-3-29)是れ恐くは政治的數學の例題ならむ※(白ゴマ、1-3-29)近かき未來の政局を打算するが爲には、先づ此例題を解决せざる可からず。
 然れども憲政黨及び其他の伊藤崇拜者が果して能く伊藤侯の人物を領解したるや否や※(白ゴマ、1-3-29)試に問はむ侯は黨首の器を備へたる人物なる乎※(白ゴマ、1-3-29)具體的にいへば侯はグラツドストンたるを得る乎※(白ゴマ、1-3-29)サリスバリーたるを得る乎と※(白ゴマ、1-3-29)凡そ黨首に最も必要なる資格は、國民を指導して國民を專制せざるに在り※(白ゴマ、1-3-29)但國民を指導すといふは、國民を煽動するの謂に非ず※(白ゴマ、1-3-29)衆愚の感情を迎合し、一時の俗論を鼓吹し、己れの信ぜざる所を語り、我が欲せざる所を行ひ、詐謀僞術を挾みて強て多數の好尚に阿ねるは、是れ煽動家の事のみ※(白ゴマ、1-3-29)余が所謂る黨首に非ず※(白ゴマ、1-3-29)マツヂニー曾て多數政治に定義を與へて曰く、多數政治とは最も聰慧にして最も善良なる首領の指導に依れる政治なりと※(白ゴマ、1-3-29)故に黨首は其智見判斷に於て固より一代に超絶するものたる可く、則ち國民の未だ知らざる所を知り、國民の未だ見ざる所を見るの賢明なる人物ならざる可からずと雖も、此れと同時に其智見判斷を以て國民の意思を壓服せむとするは是れ專制家の事なり※(白ゴマ、1-3-29)余が所謂る黨首には非ず※(白ゴマ、1-3-29)煽動家はモツブの頭領たる可し政黨の首領たるを得ず專制家は宮廷政治の宰相たる可し多數政治の宰相たるを得ず
 余は伊藤侯が當今第一流の政治家として、其智見判斷固より一頭地を地平線上より抽むずる者あるを認識す。されど侯は政黨の首領として、國民を指導するの適才なりや否やと問はゞ、余は容易に之れを首肯する能はず※(白ゴマ、1-3-29)有體にいへば侯は宮廷政治の宰相なり※(白ゴマ、1-3-29)侯は自負心に富みて昂然自ら標置し平生私智を恃むこと餘りに多くして輿論を視ること極めて輕く個人的利害個人的感情に傾き易き國民を指導して與に國家の公問題を處决する如きは恐らくは潔癖ある侯の能く忍ぶ所にあらず。余は侯を目して東洋のビスマークなりと信ずるほどに侯を崇拜せざるのみならず、侯を以てメツテルニヒの惡血を混じたる奸雄なりとも思はず。蓋し侯は天性神經過敏なれども政治上に於ては極めて小心にして英斷に乏しく謹愼餘りありて強固なる意力を缺きたる人なればなりされど侯に期するにグラツドストンサリスバリーの事を以てするは其見當違ひなる更に最も太甚し
 侯はビスマークの大膽雄略なく、又メツテルニヒの隱險佞惡なしと雖も、其專制主義を喜び、宮廷的攻略に長ずるに至ては、侯は稍此二人に類似したる所あり。顧ふに侯が近來政黨に接近したるは明白なる事實なり※(白ゴマ、1-3-29)特に憲政黨と頗る親密なる交通を爲しつゝあるは、最も新らしき事實なり※(白ゴマ、1-3-29)されど侯の憲政黨と交通するや猶ほ文明國人の未開國人と交通するが如し※(白ゴマ、1-3-29)侯の眼中に映ずる憲政黨は尚ほ是れ政治上の未開國のみ※(白ゴマ、1-3-29)侯は此未開國の法律に服從するの危險を恐る※(白ゴマ、1-3-29)故に之れと交通すと雖も常に傲然として思想上の治外法權を維持せり※(白ゴマ、1-3-29)侯或は此未開國を征服するの野心ありとせむ※(白ゴマ、1-3-29)されど侯は果して善良なる君主たるを得る乎※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯と大隈伯とは、政界の兩雄なりと公認せらるゝものなり※(白ゴマ、1-3-29)其政治的手腕は眞に兩々相當るが爲めなり※(白ゴマ、1-3-29)されど黨首として之を論ずれば、伊侯は到底大隈伯の對手に非ず※(白ゴマ、1-3-29)世間動もすれば伯を稱して煽動家と爲すものあれども、是れ伯を侮辱するに非ずむば、伯を誤解するなり※(白ゴマ、1-3-29)伯の煽動家ならざるは、猶ほ伊藤侯の黨首の器に非ざるが如し※(白ゴマ、1-3-29)伯は意見に富み判斷に長じ特に其記性非凡にして英敏なる組織力あるは善く伯を識るものゝ皆許す所なり※(白ゴマ、1-3-29)試に見よ會計法の未だ整頓せざるに際して豫算編製の創意を出だしたるものは大隈伯に非ずや※(白ゴマ、1-3-29)始めて統計事業を成案し會計檢査法を設けて行政事務の改良を謀りたるものは亦大隈伯に非ずや※(白ゴマ、1-3-29)伯は曾て紙筆を執りたることなく算盤を手にしたることなきも善く複雜なる事實と數字とを記憶して其解紛按排頗る迅速なり※(白ゴマ、1-3-29)此點より言へば伯は大事務家なり※(白ゴマ、1-3-29)大行政家なり※(白ゴマ、1-3-29)されど伯の最も偉なる所は、國民を指導するの力量ある是なり※(白ゴマ、1-3-29)伯は獨自一己の意見を有すると共に雜駁なる國民問題を溶解して更に之れを清新なる晶形と爲すの陶鑄力クリスタリゼーシヨンあり伯は此陶鑄力に依りて國民の偏見私情迷想に屬する分子を除却し以て其醇分を代表するの意見を製造するものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)是れ自ら黨首の器にして伊藤侯の企て及ばざる所と爲す。若し此陶鑄力を以て煽動家の破壞力と同視せば、其謬見や大なり※(白ゴマ、1-3-29)煽動家は國民の偏見、私情、迷想に投じて之れを死地に陷る※(白ゴマ、1-3-29)其目的唯だ破壞に在り。例へば獵官熱の熾なるを見れば、直に官吏登庸法全廢を主張する如き、或は議員歳費増加案を提出して腐敗せる人心を收攬する如き、是れ實に煽動家の手段なりと謂ふを得可きも、若し夫れ大隈伯に至ては、曾て此般の言動に出でたることなし※(白ゴマ、1-3-29)地租増加に反對したるを以て伯を煽動家と爲さん乎※(白ゴマ、1-3-29)市民を誘導して地租増加に贊成せしめたるも亦煽動家なり※(白ゴマ、1-3-29)否、政治上の論爭は總て煽動的なりと謂はざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)亦奇怪ならずや※(白ゴマ、1-3-29)唯だ大隈伯の長所にして短所なるは其意見を公言するの大膽に過ぐること是れなり※(白ゴマ、1-3-29)伯は其語らむとする所を語るに於て頗る無遠慮なり而も其語る所は大抵未來の問題に關するものたるを以て其發表したる意見は往々言質と爲りて※(白ゴマ、1-3-29)反對黨に攻撃の材料を供給せり※(白ゴマ、1-3-29)意見を公言するは政治家の美徳なれども、時としては沈默を守るの反つて政治家の利益たるを知らざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)伯は他の政治家に比して割合に變説少きに拘らず、伯の政敵は、主として伯の變説最も著しきを言ふ※(白ゴマ、1-3-29)是れ他の政治家は意見を發表すること少なきが故に其變説世に知らるゝこと少なく伯は意見を發表すること多きが故に其言質を執らへらるゝこと隨て多きのみ
 されど政治家は道徳家に非ず※(白ゴマ、1-3-29)苟も國民の利害國家の公問題と兩立せざる意見は之れを守るも政治家の名譽に非ず之れを捨つるも政治家の恥辱に非ず※(白ゴマ、1-3-29)變ず可くして變じ捨つ可くして捨つ唯自己の智見と良心とに是れ任す可きのみ※(白ゴマ、1-3-29)特に國民を指導する黨首に於て最も其然るを見る
 伊藤侯は大隈伯の如く未來の問題を語ること少なく其語るや大抵過去帳の展讀のみ※(白ゴマ、1-3-29)故に其言質を作ること稀れなる代りに其發表せる意見は國民の記憶を喚び起すの力あれども國民を指導するの生命あるもの甚だ希れなり※(白ゴマ、1-3-29)是れ亦黨首として大隈伯に及ばざり所以なり
 之を要するに、伊藤侯は政治家としては當今第一流の人物なれども、黨首としては大隈伯の對手に非ず※(白ゴマ、1-3-29)然るに憲政黨は侯を誘ふて黨首の位地に立たしめむとす※(白ゴマ、1-3-29)是れ果して憲政黨の利益なる乎※(白ゴマ、1-3-29)侯にして若し憲政黨に入らば憲政黨は其組織を一變して更に侯の理想に依て着色せられたる新政黨と爲らむ※(白ゴマ、1-3-29)而して自由主義は專制主義と爲り而して指導者を得る代りに命令者を得む。(三十二年八月)

     立憲政友會の創立及び其創立者

      (一)新組織の政黨
 立憲政友會の創立は、確かに政治上の一進歩なり。少くとも近かき未來に於ける局面展開の動力たる可きは、何人も疑はざる所なり。但だ其の組織の果して健全なる發達を遂げ、其實力形貌共に果して能く完全なる政黨たるを得可きや否やは、是れ固より前途に横はれる未解の設題たるのみ。余は敢て之が解釋を今日に試みむといふには非ず
 立憲政友會の創立者を見るに、資望朝野の間に高き伊藤侯以下或は曾て臺閣に列したる人あり、或は前日まで一黨の領袖たりし人あり、或は敏腕の名ある舊官吏あり、或は地方の豪紳あり、其の他間接直接に立憲政友會の創立に與かりたるものは、孰れも所謂當代の名士にして、其自ら揚言する所を聞けば、遖ぱれ憲政の完成を期するを以て任と爲し、私利を謀らず、獵官を願はざる忠誠明識の政治家なるものゝ如し。余豈其の醇駁を判じ清濁を斷ずといはむや
 且つ政友會の總裁たる伊藤侯は、久しく既成政黨の弊害を憂へ、屡々公私の集會に臨みて之れが矯正の必要を唱へたるを見るに於て、其の今囘自ら起て立憲政友會を組織したるもの、蓋し亦平生の理想を行はむと欲するに外ならじ。余は此の點に於て深く侯の志を諒とし唯熱心に侯の成功を祷ると共に侯の幕下に集まれる諸君子が始終善く侯の指導に服從し以て國家の爲めに侯の志を成さしめむことを望むや極めて切なり有體にいへば余は不幸にして侯の人物及び經綸に深厚なる同情を表する能はずされど其の六十有二の高齡に達して意氣未だ毫も衰へず自ら政友會を發起して政治的新生涯の人たるを期す其の頭腦精神の強健なる亦一代の豪といふ可し
 余は侯が政友會を發起したるを以て政治的新生涯に入るといふは何ぞや。侯が藩閥の範疇を脱して國民的政治家と爲るの序幕は、疑ひもなく政友會の組織なればなり。侯は曾て超然主義の政治家なりき。今や侯は其の宿見を抛棄して自ら政黨を組織せり。是れ侯の歴史に一大段落を作りしものに非ずや。唯だ侯が淡泊に舊自由黨に入らずして、別に自家の單意に依りて政友會を發起したるは、稍々狹隘自重に過ぎたるの嫌あれども、是れ寧ろ侯の老獪のみ
 曩に舊自由黨總務委員が伊藤侯を大磯に訪ふて、侯に入黨を勸め、以て全黨指導の位地に立たむことを請ふや、侯は更に熟考の必要ありと稱して即諾を與ふるに躊躇したりき。余を以て其の心事を推すに、第一歴史あり情實ある既成政黨に入るときは勢ひ自家の自由手腕を拘束せられて十分其の意見を行ふこと能はざる恐れあり第二舊自由黨には政敵多く特に侯の政友は侯と倶に舊自由黨に入るを好まざりし事情あり第三舊自由黨は當時局面展開を唱へて山縣内閣と提携を絶ち隨つて事實上山縣内閣に反對する態度を執りしを以て若し伊藤侯にして此の際舊自由黨に入りて之れを指導するに至らば是れ恰も政權爭奪の野心を表示するに同じく山縣内閣の手前甚だ面白ろからず第四舊自由黨たとひ侯を首領として忠實なる服從を誓ふも他の爲に迎立せられたる首領は何時其の廢黜する所と爲るを知る可からず苟も一たび侯の指導行はれざる場合と爲れば侯は板垣伯と同一運命に遭遇するか然らざれば自ら脱黨の擧に出でざる可からず主權自由黨に存すればなり第五舊自由黨の政綱主義及び組織は總べて侯の理想と合致せず之れを改造せむとすれば其の全部を破壞せざる可からず寧ろ新政黨を創立するの便宜なるに如かむや。是れ侯が舊自由黨に入るを避けて、別に立憲政友會を發起したる所以なり。
 侯が新政黨を組織するに付ては、頗る經營慘憺の苦心を費やし、之れに着手するの前、先づ藩閥元老の承認を求むるの手段を執りたり。井上伯は政治上の主義に於てよりも、寧ろ私交上の關係に於て伊藤侯の政黨組織に同情を表し、以て一種の任侠的援助を侯に與へたりと雖も、他の藩閥元老は、中心實に侯の政黨組織を喜ばざりしに拘らず、猶ほ強て之れを表面より妨害したるものなかりしが如し。葢し藩閥元老の意氣漸く衰へて、復た自ら今後の難局に當らむとするの抱負あるものなく、而して現に内閣の首相たる山縣侯の如きも、最近二年間の經驗に依りて、到底政黨の勢力を無視する能はざるの趨勢を認識したれば、たとひ憲法上の解釋に於て多少伊藤侯と見を異にするものあるも、敢て成敗を賭して自家の所信を徹底せむとするの勇氣ありとも見えず。是れ終に伊藤侯の政黨組織を承認せざるを得ざる所以なり。侯は又舊自由黨の熱心なる主張を排し、故らに黨名を採らずして會名を用ゐたるは、識者より見れば、殆ど兒戯に類すと雖も、是れ一は黨と稱すれば自由黨の變名なるが如き嫌あると一は全く既成政黨の組織を踏襲するを欲せざる爲なる可し、其の宣言及綱領を發表するに侯の單名を以てして、何人をも之れに加へざるは、是れ侯の最も意を用ゐたる所にして、其の理由は次の二點に歸着すべし。曰く立憲政友會は伊藤侯の創立したるものなれば其の存廢を決するは伊藤侯の自由意思にして何人も之れを掣肘するを得可からず曰く宣言及び綱領は侯の單意に成りたるものなれば之れを修正變更するは侯の獨裁たる可く隨つて立憲政友會に入るものは徹頭徹尾侯に盲從し何人も侯に容喙するを許さゞる是れなり。此の推測の正當なるは、政友會發會式の日に發表したる會則を一讀せば更に明白なり。其の會則に據れば、總務委員幹事長以下の選任より、大會、議員總會等の召集まで、一切總裁の權能に屬すること、恰も文武百官の任命乃至議院の召集解散等、總て君主の大權に屬するが如し。而して其の總裁の就任に關して何等の規定なきを以て、立憲政友會の總裁は固より一般政黨の推選首領と其の性質を異にせり。要するに總裁は立憲政友會の主體にして、其の機關には非ず。換言せば伊藤侯の立憲政友會に總裁たるは猶ほ專制國に君臨せる元首の如く其の權能は絶對にして無限なり一般の政黨首領は亦黨の一機關たるに過ぎざるを以て先づ政黨ありて而る後に首領あれども獨り立憲政友會に在ては總裁は即ち立憲政友會にして立憲政友會ありて而る後に總裁あるに非ず。報知記者伊藤侯を評して、日本政黨界のルイ十四世といひたるもの誠に當れり。
 自由黨は立憲政友會に合同すと稱して解黨したり。既に合同といへば立憲政友會は對等なる位地に於て自由黨を迎へざる可からず。而も立憲政友會の組織は、個人の加入を許すと雖も、對等なる團體の合同を許さず。則ち舊自由黨が自ら合同と稱すと雖も、立憲政友會に於ては、唯だ舊自由黨員たりし各個人の加入を認むるのみ。顧ふに政友會の最大多數は舊自由黨員たるを見るに於いて、事實上政友會の大幹部は隨つて舊自由黨たる可きは無論なり。されど伊藤侯の意思は即ち政友會の意思にして、舊自由黨は之れに柔順なる服從を表するの外、何等の意思もなき勢力もなきものなりと認めざる可からず。伊藤侯が單名を以て政友會を組織するに付て用意の周到なる實に斯の如きものあり。

      (二)宣言及綱領
 伊藤侯の發表したる宣言の大要は、既成政黨の言動を論じて、或は憲法の原則と相扞挌するの病に陷りたりと爲し、或は國務を以て黨派の私に殉ずるの弊を致すと爲し、或は宇内の大勢に對する維新の宏謨と相容れざるの陋を形したりと爲せり。是れ舊自由黨の言動に就て特に戒飭したる意もある可く、將た他の黨派に對して非難を加へたる點もある可し。舊自由黨が之れを以て毫も自由黨に渉らずと辯じ、百方牽強附會の辭を費やしたる報告を配布したるは、唯だ滑稽の極といはむのみ。宣言の内容は三段に分つ可し。其の一は閣臣任免の本義を説き、其の二は政黨の國家に對する關係を説き、其の三は政黨の規律を説けり。閣臣任免の本義に付ては曰く、抑も閣臣の任免は憲法上の大權に屬し、其簡拔擇用、或は政黨員よりし、或は黨外の士を以てす、皆元首の自由意思に存す。而して其の已に擧げられて輔弼の職に就き、献替の事を行ふや、黨員政友と雖も、決して外より之れに容喙するを得ずと。是れ純意義に於ける政黨内閣を否定して人材内閣パーソナル、ガバーメントを主張したるものなり乃ち其の内閣と議會との關係を明かにするの文字なきは何ぞ怪むに足らむ。舊自由黨總務委員の意見書中、此點に關する陳辯の如何に苦澁を極めたるかを見よ、曰く趣旨綱領中大臣輔弼の責任に言及する所なきが爲め、内閣と議會との關係如何にも要領を得ざるの疑をなす者なきにあらずと雖も、大臣は天皇に對し輔弼の責に任ずるは、既に憲法の條章に明にして、其の輔弼の責を全くし、以て國家の要務を擧げんとせば、議會の多數と調和伴行せざる可からざるは事實に徴して明なり。則ち内閣は人心を失し、議會の多數は到底内閣に贊同せず、立法豫算の政務を擧げて曠廢に歸せんとするに關せず、議會の調和伴行せざるを以て、一に之を大權干犯と爲し、頑として其の位地に據り、進で調和伴行の道を講ぜずんば、以て輔弼の責任を全くするものと云ふを得ざるべし。而して之を其の發起者たる伊藤侯に見るに、其の超然主義を標榜としたるの當時に於てすら、議會の反對に遇ふて國務を擧ぐる能はざるに至て、其の任免の大權に屬するを以て輔弼の責を忽にせず、表を捧げて罪を闕下に待ち、又先年自由進歩兩黨の合同するや自ら之を後任に奏薦して、引退したる實例あり。今又其の趣旨に於て、輿論を指導して國政の進行に貢献せん、或は帝國憲政の將來に裨補せんと言明せり。一たび此等の諸點を輳合せば立憲政友會の趣旨は、憲政の完成を期し、閣臣の責任を明にしたるものなること釋然たらんと。夫れ議會と調和伴行の道を講じたるは獨り伊藤侯のみに非ず、他の藩閥元老亦皆之れを講じたり。其の多數の反對に遇ふて國務を擧ぐる能はざるに至て終に表を捧げて罪を闕下に待つの擧に出でたるものは、他の藩閥元老も亦皆然らざるなし。唯だ伊藤侯の如く再囘議會を解散して尚ほ内閣を固守したるものなかりしのみ、問題は此に在らずして伊藤侯は果して衆議院の多數少數を以て内閣進退の條件と爲すを趣旨とするや否やに在り。而して伊藤侯は此の點に於て何の言ふ所なく、自由黨總務委員の陳辯亦此の意義を明解する能はず。
 其の政黨と國家との關係を説ては曰く、凡そ政黨の國家に對するや、其の全力を擧げ、一意公に奉ずるを以て任とせざる可からず。凡そ行政を刷新して以て國運の隆興に伴はしめむとせば、一定の資格を設け、黨の内外を問ふことなく、博く適當の學識經驗を備ふる人才を收めざる可からず。黨員たるの故を以て地位を與ふるに能否を論ぜざる如きは斷じて戒めざる可からず。地方若くは團體利害の問題に至りては、亦一に公益を以て準と爲し、緩急を按じて之れが施設を決せざる可からず。或は郷黨の情實に泥み、或は當業の請託を受け、與ふるに黨援を以てするが如きは斷じて不可なりと。其の意專ら獵官收賄の行動を排斥するに存し、舊自由黨の如き最も中心忸怩たらざる可からず。而も其の總務委員の陳辯を見るに、反つて過を蔽ひ非を飾りて侯の訓戒を無視せむとするは又何の醜ぞ。其の官吏任用に對しては、資格限定の程度と方法は別問題なりと設辭して、尚ほ獵官の餘地を後日に留め其の收賄行動に對しては、此等弊竇は我黨の深く戒規したる所にして、今更之を一洗するの必要を感ぜず。之を以て暗に我黨を指すの言とするに至りては、己れを卑うして自ら疑ふの嫌あるを免かれずといひ、以て毫も自ら反省囘悟するの赤心を示さゞるは、伊藤侯亦恐らくは其の厚顏に驚きたる可きを信ぜむとす。最後に政黨の規律を説て曰く、政黨にして國民の指導たらむと欲せば、先づ自ら戒飭して紀律を明にし其の秩序を整へ、專ら奉公の誠を以て事に從はざる可からずと。是れ既成政黨の無紀律不秩序を咎め、此れより生じたる黨弊を革むるを趣旨としたるに在り。余は伊藤侯が主として此の趣意を實行せむことを望まざるを得ず。
 綱領や約九個條にして、宣言の註脚といふ可く、其の外交に關しては、文明の政以て遠人を倚安せしめ法治國の名實を全からしめむことを努む可しといひ、其國防に關しては常に國力の發達と相伴行して、國權國利を充全ならしめむことを望むといひ、其の學政に關しては國民の品性を陶冶し、公私各々國家に對する負擔を分つに耐ゆるの懿徳良能を發達せしめ、以て國礎を牢くせむことを希ふといひ、其の實業に關しては、農商百工を奬め、航海貿易を盛にし、交通の利便を増し、國家をして經濟上生存の基礎を鞏からしめむことを欲すといふの事項稍々政綱らしきを見るのみ。而も是れ何人も異存なかる可き名辭ステートメントの排列にして、一黨の政綱としては、餘りに漠然にして殆ど要領を認むるに難し。されど余の政友會に期する所は國家經綸の施設よりも寧ろ黨弊刷新に在り是れ伊藤侯の政友會を發起したる主要の目的亦此に存すればなり但だ最も黨弊に浸潤せる舊自由黨を最大要素とせる政友會を率ゐて果して能く黨弊刷新の目的を達し得可しとする乎是れ甚だ余の疑ふ所なり。現に侯が田口卯吉氏に請ふに政友會に入らむことを以てするや、彼は侯に向て極度に腐敗せる舊自由黨を主力としたる政友會の、到底黨弊刷新を期し得可き謂れなきを論じて入會を謝絶したり。島田三郎氏の如きも亦彼れと同一なる觀察に依りて政友會と接近するを避けたり。清流の士の政友會に赴かざる所以は實に此れが爲めなり。

      (三)創立の參謀
 政友會の創立に與かれる參謀としては、先づ舊自由黨總務委員を以て重もなる人物と爲さざる可からず。されど伊藤侯の計畫は、勉めて各種の人物と各階級の代表者を網羅するに在り故に投票權の多少よりいへば、舊自由黨最も多數の創立委員を出だす可き筈なれども、十二人の創立委員中舊自由黨より擧げたるものは僅に四名の總務委員にして、其の餘は總べて舊自由黨以外の人物を指名したりき。
 此等の創立委員中最も新らしき印象を世人に與へたる人物は、男爵本多政以氏と爲す。彼れは前田家の舊大老にして、維新前は五萬石を領したる加賀の名族なり。其の公人生涯に入りしは、今囘の政友會創立に與かれるを以て始めと爲すが故に、其の人物經歴共に未だ多く人に知られずと雖も、傳ふる所に依れば、彼は從來實業に從事して嘗て政治運動に關係したることなく、唯だ其の名望の高きと、其の風采の酷だ近衞公に肖たるものあるを以て、加賀の近衞公と稱せられたりといふ。彼れが伊藤侯の勸誘に應じて政友會に入り、以て不慣れなる政治劇の舞臺に立つに至りしは、唯だ伊藤侯其人に傾倒せるが爲めなりと聞く。伊藤侯が先年加賀地方を遊説したるに際し、彼れは初めて伊藤侯の謦咳に接すると同時に、遽かに侯の崇拜家と爲りたるものゝ如し。彼れ政友會に入るに臨み、極めて正直に、有りのまゝに、自己の心事を人に語りて曰く、我家の資産は祖先が政治上に於て獲得したるものなり乃ち之れを政治上に於て蕩盡するも亦憾みなしと奇男子なるかな
 都筑馨六氏が政友會の創立委員たるも亦一異色たるを見る。何となれば、彼れは最も黨人を忌み、政黨を嫌ひ、政治上に於ては極端の保守主義を持するを以て、曾て屬僚中の頑冥派なりとの目ありたればなり。憲政黨内閣の成るや、彼れは大隈伯を訪ふて憲法上の論端を開き、帝國の憲法と政黨内閣とは決して兩立す可からざる所以を切論して、大隈伯の持論を打破せむと試みたるほどの熱心なる非政黨内閣論者なり。彼れ又曾て人に語りて曰く、大隈伯は其品性識量共に立派なる政治家なり。唯だ其の周圍を叢擁する者は、大抵無頼野性の黨人にして、伯の徳を累はすものたらざるなし。伯が此等の黨人を相手として國事を謀るの意甚だ解す可からずと。其の黨人を視るや殆ど蛇蝎の如し。今や政友會には最惡最劣の黨人頗る多くして清流の士皆※(「戚/心」、第4水準2-12-68)顰を禁ずる能はざるに拘らず彼れは此輩と相追隨して前進せむとするは豈奇ならずや。知らず彼れは其の主張を棄てゝ政黨に降りし乎。將た其の岳父井上伯が伊藤侯を援助するが爲に、義に於て政友會に入らざるを得ざるの事情ある乎。
 西園寺公望侯渡邊國武子金子堅太郎男の三氏に至ては、是れ純然たる伊藤侯の門下生なれば、則ち侯と進退趨舍を倶にするは亦怪む可きなし。大岡育造氏は、曾て國民協會を自由黨に合同せしめて、伊藤侯を其の首領たらしめんと試みたる策士にして、侯の今囘發起せる政友會の創立委員たるは、其の最も滿足とし、榮譽とする所たるは無論なる可し。渡邊洪基氏は一たび伊藤侯の四天王の一人なりと稱せられたる人なり。其志を政界に得ざるや、乃ち身を實業社會に投じて久しく政治的野心を抑損し、隨つて侯と彼れとの關係は次第に杳遠と爲りつゝありしと雖も、侯の政友會を組織するに及び成る可く多く舊政友を糾合するの必要あると渡邊氏と實業社會との間には多少の連絡あるを以て彼を通じて實業家を招徠するの必要あるとに依りて殆ど相忘れむとしたる一門下生に復舊を求めて之を政友會創立委員の一人に指名したりき長谷場純孝氏の創立委員に加へられたるは、彼れが薩派を代表するが爲めにして、彼に取ては寧ろ望外の榮譽なる可し。彼れは思想に於ても、感情に於ても、若くは其の人格に於ても決して伊藤侯に容れらる可き點を有せず。其の容れられたるは是れ侯が彼れの代表權に重きを置きたる證なればなり

      (四)歸化したる敵將
 伊藤侯は勉めて各種の要素を收容せむと欲し、敵黨の人物と雖も來るものは之を拒まざるの概を示したり。此を以て新を喜び舊を厭ふの輕佻者流、若くは侯の資望勢力に依りて萬一の倖進を冀ふものは、爭ふて政友會に赴きたり。獨り進歩黨の領袖として、操守堅固の壯年政治家として議院の内外に高名なりし尾崎行雄氏が十數年以來利害苦樂を共にせる政友に別れて、一人の知己を有せざる政友會に投じたる行動の如きは、一個未了の疑問として政界に存在せり。されど余を以て之れを觀れば、彼れの行動は極めて單純なる目的に出でたるに外ならじ。有體にいへば、大隈伯よりも伊藤侯を以て自家の榮達を謀るに便宜なりと信じ進歩黨よりも政友會を以て多望の未來を有すと認めたればなり。固より其の觀察と判斷とは、種々の方面と複雜なる材料を基礎としたるを疑はずと雖も、其の出發點の功名心にして、其の歸着點の榮達に在る可きは、何人も疑ふものある可からず。其の進退條件が政見の異同に關せざるは、彼れが曾つて進歩黨に對して何等の提言なかりしを以ても之れを知る可きのみならず、彼れが終始其の心事を秘密にして、一政友にすら眞實を語りたることなしいふを聞ても、其の如何なる動機に依りて進退したりしかを察するに足る。
 凡功名心に富める政治家は、往々榮達の爲に主義政見を一擲するの例少からず。英國現内閣の殖民大臣チヤムバーレーンは、初め急進黨として、愛蘭自治論主張者として、チヤーレス、ヂルクの最親なる政友として、愛蘭黨首領パーネルの熱心なる辯護者として議會に立てり。然るにグラツドストンの自治案一たび出るや、彼れは遽かに之れに反對して終に保守黨と提携したり。其の表面の辭柄は大英國の統一を維持すといふに在れども、其の豹變の倏忽なるは、今尚ほ嚴酷なる批評家の冷笑を免がるゝ能はず。頃日米國の雜誌『アウトルツク』に掲載せるヂヤスチン、マツカーシー氏のチヤムバーレーン論を讀むに、其のチヤムバーレーンの自治案に反對したる當時の事情を説て頗る詳悉なり。其中にいへるあり、曰く愛蘭尚書ウイリアム、フオスターの辭職するや、其の後任としてチヤーレス、ヂルクを推薦する者あり、而もヂルクは内閣に座次を有せざれば、到底愛蘭に於ける自治政略を内閣に行はしむる能はずと稱して之れを謝絶したり。此に於てかチヤムバーレーンを以て之れに擬するものあり、彼れ亦竊に其の位置を希望し、且つ之れを得むが爲に、あらゆる手段を盡くしたり。彼れ以爲らく、我れは當然愛蘭尚書に推薦せらる可し、我れ能く其の任務を全うするの準備ありと。而して彼れは愛蘭の國民黨員ナシヨナリストと或る協商を繼續し、而して其の國民黨員は、彼れにして若し愛蘭尚書たらば、必らず自治案主張者として行く可しと信ぜり。然るにチヤムバーレーンの豫期したる愛蘭尚書の位地は彼に與へられずしてフレデリツク、オヴヱンデス卿に與へられたり。間もなくフレデリツク卿被害の報は倫動に來れり。余(マツカーシー)自身はパーネル氏と相伴ひて、ヂルク及チヤムバーレーンの二氏を訪問し以て愛蘭の善後策を談ぜり。當時チヤムバーレーンは尚愛蘭國民黨に信任せられ、彼等はチヤムバーレーンを以て自治案に對する愛蘭人の要求に深厚なる同情を有するものなりと思へり。されど彼れは依然商務局長たるのみ、愛蘭尚書たるの機會は來らざりき。彼れが自治案に反對したるは此の以後に在りと。此に依りて是れを觀れば、チヤムバーレーンが其の持説を一變したるは、自由黨内閣が彼れに愛蘭尚書の位地を與へざりしもの其の主因たりしが如し。マツカーシー又曰く、初めグラツドストンの自治案に反對したる者は、自由黨にも亦頗る多かりき。されど反對の燒點たりし條項はグラツドストンに依て修正せらるゝに至て、彼等は皆グラツドストンの指導の下に復歸したり。獨りチヤムバーレーンは全く彼等と其の行動を異にしたりきと。余はマツカーシーの鋭利なる觀察に依て、チヤムバーレーンの進退に關する眞相を知ると共に、移して以て日本のチヤムバーレーンたる尾崎氏の行動を判斷するの參考と爲さむと欲す。故に特に其の大要を此に譯載したるのみ。

      (五)交渉の失敗
 政友會が各種の要素を收容せむとして、諸ろの方面に交渉したる畫策は大抵失敗に終れり。最も與し易しと爲したる貴族院研究會すら、宣言及綱領には贊成なれども研究會の會則は會員をして他の團體に加はるを禁ぜりとの口實に依りて入會を拒絶し、初めより伊藤侯の屬望したる實業家の如きも、東京大阪に於ける高級分子は、亦皆入會を避けて其の藥籠中の物とならず。而して其來り投ずるものは、大抵政治を以て營利の目的を達せむとする政商か、若くは中流以下の地方實業家のみ。侯の失望亦以て察すべし。
 元來侯が實業家を收容せむとするの畫策は既に選擧法改正案提出の時に成り而して其の改正案を成立せしむるが爲めには或は當局者として之れを議院に論じ或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ或は地方を遊説して其の所見を發表し以て市の獨立市民の投票權擴張を主張したるは蓋し亦實業家を味方として政界に立たむとするの後圖に非るはなかりき。此の點に付て井上伯は深く侯の苦衷を諒とし、侯が政友會を發起するや、竊に親近なる都下の實業家に内意を傳へて有樂會の會合を催ふさしめたり。伯は自ら此會席に列して政友會の代辯人と爲りたりき。而して其の勸告の切偲を盡くしたるに拘らず、雨宮一派の相場師を除くの外、多數の實業家は孰れも申し合せたる如く、其の入會を辭謝したりき。蓋し彼等は必ずしも政治と實業との關係密切なる所以を解せざるに非ずと雖も、日本の政黨界には尚ほ多くの缺點あり。特に黨爭の結果個人的取引及び個人的交際までも其の餘累を及ぼすの弊害あるを見るに於て、未だ政友會の進行を檢するに及ばずして、輕ろ/″\しく之に入會するは、思慮ある實業家の爲さざる所なり。且つ入會勸告者たる井上伯は自身先づ政友會に入りて而る後他人の入會を勸告す可き筈なるに現に政友會の名簿中には伯の記名なくして反つて他人の之れに記名せむことを望むは頗る蟲の善き話なり天下豈斯くの如き勝手氣儘の事ある可けんや
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 之れを要するに立憲政友會は資望當世に比なき伊藤侯の發起に係れると其の朝野に亙りて比較的多數の政友を有すると其の主要の目的實に既成政黨の陋弊を刷新するに在るとに依りて頗る一時の人心に投ずるものありと雖も其の團體の大幹部は最も腐敗を極めたる舊自由黨たるを見るに於て其の果して能く伊藤侯の理想を實行するを得可きや否やは暫らく政治的設題として之れを後日の解答者に待たむのみ。(三十三年十月)

     第四次の伊藤内閣

      (上)伊藤侯と憲政
 幸運なる伊藤侯は、政治上最も多望なる時代に於て第四次内閣を組織せり。顧ふに侯の出づるや常に時代に歡迎せらる而も其の末路は常に失敗に終る。知らず、第四次内閣の進行は如何。是れ實に、政治家たる伊藤侯の死活問題なり。若し能く國民の冀望を滿足せしむるの施設あらむか既徃幾多の失敗は之を償ふて餘りあるのみならず侯は明治年間第一流の政治家として永く歴史上の大人物たるを得可し若し之れに反して萬一失敗せむか侯は到底虚名の政治家たるを免がる可からず
 薩長元勳にして内閣總理大臣たりしものは、侯を外にして故黒田伯あり、松方伯あり、山縣侯あり。されど黒田伯は唯だ一囘内閣を組織したるのみにて、而も極めて短命なる内閣なりき。松方伯と山縣侯とは、内閣を組織したること前後各二囘なりしも、之れを伊藤侯に比すれば、共に人氣ある總理大臣たるを得ざりき。伊藤侯の内閣を組織するや最初は常に天下に歡迎せられて最後は常に國民を失望せしむ。侯が明治十八年自ら總理大臣と爲りて第一次の内閣を組織するや、始めて政綱を發表し、官制を改革し、文官任用令を設け、天下をして齊しく其の風采を想望せしめたりき。而も其の辭令の立派なる割合には實際に成功したる事績甚だ少かりしのみならず、繁文縟禮の弊反つて此間に生じたり。加ふるに浮泛なる歐化政略は、内治外交の兩面に救ふ可からざる壞膿を生じて、遂に内閣の瓦解を見るに至りき。第二次内閣は、選擧干渉に失敗したる松方内閣の後に組織せられ、山縣、黒田、井上、大山、仁禮の薩長元老も相携へて入閣したれば、世間之れを稱して元勳内閣といひたりき。侯は意氣軒昂我れ能く政黨の外に超然として議會を操縱するを得可しと信じたるに拘らず、議會は寧ろ侯の行動を非立憲的と爲して、荐りに不信任動議を提出したりき。一たびは和衷協同の勅諭を奏請したりき。二たびは議會の解散を斷行したりき。而も議會は容易に武裝を解くを肯んぜずして依然内閣の攻撃を事としたりき。此にて侯は超然主義の到底保持す可からざるを自覺し、自由黨と提携して内閣組織に多少の變更を加へたりと雖も、其の姑息※[#「糸+彌」、15-下-6]縫の政策手段は、漸く内閣の統一を破りて内部より崩壞したりき。
 第三次の内閣組織に際しては、侯は初め之を大隈板垣兩伯に謀りて、所謂る三角同盟を作らむと試みたりき。其の行はれざるに及で、一切政黨との交渉を避けて超然内閣を組織したりしは、其の無謀固より論ずるに足らず。是れ半歳ならずして内閣總辭職の止む可からざりし所以なり。されど侯は此の失敗に依りて其の政治思想に一大發展を爲したり。乃ち今日政友會を組織して自ら政黨の首領と爲り、其黨員を率ゐて此に第四次内閣を組織したるは、是れ安んぞ超然主義の失敗に原本せざるなきを知らむや。侯は大隈伯に比すれば獨自一己の識見に缺くる所あり大隈伯は明治十四年改進黨を組織してより飽くまで政黨内閣を主張し且つ其の主張の早晩實行せらる可き時機あるを確信して毫も疑はざりしに反して侯は政黨内閣の運命に對して近年まで半信半疑の間に彷徨したりき。今や侯は政黨内閣を組織して、憲政の完成を以て自ら任とせり。而かも今日は侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なるを見るに於て、侯たるもの亦大に奮ふ所なかる可からず。何故に今日を以て侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なりといふや。曰く侯にして若し其の理想を新内閣の上に行ふこと能はずして之れをして見苦るしき失敗を取るが如きことあらしめば其の結果として畏る可き保守的反動を惹き起すことなきを保す可からざればなり此の點よりいへば侯は實に憲政の安危に負ふ所の責任甚だ大なりといふ可し
 惡口に長ずる批評家は、侯を目して觀兵式の大將なりといへり。是れ侯が無事の日に壯言大語すれども、一たび難局に逢へば、心手忽ち萎縮して自己の責任を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)がるゝ迹あるを以てなり。侯の政友會を創立するや、其堂々たる宣言實に人聽を聳かすに足る者あり。而も之を實行するは談決して容易ならず。所謂る政黨の弊害を矯正すといふ如きも、先づ内閣の威信を立て、行政の紀律を振肅するに非ずむば、政黨の弊害を矯正すこと頗る難事に屬せり。例へば政黨の行政權に干渉するの行動あるは内閣に之を排除するの威信なきが爲にして苟も内閣自ら憲法上の權域を正うして政黨に臨まば政黨漫りに自ら行政權に干渉し得可きに非ず。侯は首相獨裁の内閣を理想とすといふ。是れ大に可なり。宜しく此の理想を實行して新内閣の統一を謀り、各大臣をして悉く侯の手足たらしむべきのみ。是れ曾てビスマークの實行したる理想にして、獨逸の内閣制は實に此の理想を基礎としたるものなり。されどビスマーク死するや、獨逸復た之れに次ぐの實力ある政治家なく、隨つて首相獨裁の内閣制は、事實に於て空名に歸したりき。伊藤侯にして果して之れを實行し得るの實力あるに於ては内閣の威信を立て行政の紀律を振肅する亦易々の業のみ余は政黨の矯正よりも先づ此の理想の實行を以て侯に望まざるを得ず
 顧ふに侯は先づ十分政友會を訓練し、然る後、内閣を組織して其の理想を實行せむと期したるものゝ如し。されど山縣内閣は、侯の成算未だ熟せざるに早くも總辭職の擧に出でたり。侯の狼狽想像するに餘りありと雖も、侯にして苟くも既に自ら起ちたる以上は、唯だ勇往邁進して其の理想を實行するを期す可きのみ。又何ぞ成算の未熟を以て念とすべけんや。

      (下)新内閣の人物
 伊藤侯の最初の内閣役割案には、政友會以外に於て井上伯及び伊東男の二人を算入したりしは殆ど疑ふ可からず。但し井上伯は老來野心漸く消磨したりといへば、自ら進で閣員たらんとするの目的ありしとは信ずる能はずと雖も、伯は政友會の創立には熱心なる世話人たり、新内閣の出産には老練なる産婆役たりしを以て、更に新内閣の保姆として重要なる一椅子を占むる權利を有したりしは無論なり。而して伊藤侯も亦之れを以て、伯に望みたりしは、既に公然の秘密なり。單に新陳代謝の必要より論ずれば、老骨井上伯の如きは、むしろ新内閣の伍伴たらざるを喜ぶべしと爲す。されど伯にして若し内閣の一員たりしとせむか、其の一種の潛勢力は多少内閣に威重を加へたりしやも知る可からず。伊東男に至ては、其の人品或は議す可きものありと雖も、其行政の才固より當世に得易からず。伊藤侯が彼れを新内閣に羅致せむとして慫慂頗る勉めたるは又當然といはんのみ。况んや彼れは伊藤侯と切て切れざる關係あるに於てをや。
 然るに伊東男は、最初より入閣を肯んぜず。井上伯は内閣組織の間際に於て突然失蹤したるは何ぞや。世間傳ふる所に依れば、伊東男は近頃漸く伊藤侯に親まずして反つて山縣侯に接近しつつあり。是れ入閣の勸告を拒絶したる所以なりと。此の説恐らくは揣摩臆測にして眞相を得たるものにはあらじ。余の聞ける所にては、伊藤侯は二三年以來頓に健康に異状を呈し筋肉の機能次第に衰憊したると共に神經系統の感應作用は反つて過敏と爲り隨つて喜怒愛憎の變轉甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと。侯の近状果して斯くの如しとせば、其何等かの刺戟に由りて、一時若くは或場合に於て、伊東男と感情上の衝突ありしやも知る可からず。されど此れが爲に侯と伊東男との關係一變したりとは想像し得可くもあらず。而も伊東男の新内閣に入るを避けたるは他なし。一言にしていへば、侯は政友會の創立に付ても將た新内閣の組織に付ても多くは伊東男に謀らずたとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや蓋し彼れは新内閣を認めて豫後不良の症状ありと爲し伊藤侯をして早晩之れを自覺せしめて局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し唯だ此の推定は彼と伊藤侯との關係に就て常識上より觀察したるに出づ若し彼れに別種の隱謀奇策ありとせば是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず
 井上伯の失蹤は、渡邊子の心機一轉と相反襯して一幅の奇觀を表出せり。世間の取沙汰にては、渡邊子自ら新内閣の大藏大臣たらむことを豫期したるに、松方伯は伊藤侯に向て子を大藏大臣の器に非ずと爲し、此の椅子は斷じて子に與ふ可からずと説き、侯の意亦稍々之に動かされて井上伯を大藏大臣たらしめむとするの傾向ありしを以て、子は憤々の情に堪へずして伊藤侯と絶交せむとしたるのみと。而も子が心機一轉の喜劇を演じたる瞬間に於て井上伯失蹤の一珍事起りしを見れば渡邊子の心機一轉は安ぞ井上伯の入閣中止の結果ならざるを知らむや。されど此の際に於ける出來事は一切暗黒より暗黒に移りて方物す可からず。之れを批判するの必要もなく、又批判し得可くもあらずと雖も、獨り渡邊子が心機一轉問題を以て無用の人騷がせを爲したるに拘らず、其の豫期したる大藏大臣の椅子を得たるはめでたし。されど政友會總務委員等は、渡邊子の心機一轉問題に付て物々しく爭ひ騷ぎ、終に報告書を發表して、子の罪過を數へ、子の行動を稱して狂亂といひ、伊藤侯に向て其の處分を強請したるほどなるに、彼等は箇の狂人と内閣に并び立て怪むの色なきは、亦古今無類の一大奇觀なりといふ可し。元來渡邊子は疳癖ありて、往々常軌を逸する行動あり。而も之れを托するに無意義なる禪家の裝姿を以てするが故に、其の一擧手一投足は殆ど常識を以て料る可からざるものあり。政治家としては或は要領を得ずとの評を免れずと雖も、新内閣の大藏大臣としては子を外にして其の適任者を求む可からざれば子を狂人視せる政友會總務委員等は到底子の位置を動かすこと能はじ
 末松謙澄男の内務大臣たるは、最適任といふ能はざれども、又大なる不可もあらず。彼れは内務に多少の經驗と學識とを有し、且つ其の資性も比較上廉潔に近かきものあるを以てなり。特に彼れは伊藤侯の愛婿として殆ど侯と一身同體の個人的關係あるが故に、侯は自由に之れを指揮監督するを得可きは無論なり。則ち末松男を内務大臣たらしめたるは是れ事實に於て侯が自ら内務大臣を兼攝したるものと認めて可なり。政友會の一部人士は星亨氏を内務大臣たらしめむと欲して、熱心に運動したるに拘らず、侯が毫も是れに掛意せずして末松男を擧げたる良工の苦心亦想ふ可し。
 金子男は心竊に農商務大臣たらしむことを期せり。彼れの實業奬勵策は、何人も甚だ感服せざるものなれども、兎に角一度は農商務大臣たりしこともあり。實業上に關しては、曲りなりにも組織的意見を有せる一個の人才たるを以て、新内閣中彼れの爲めに最好の位置は確かに農商務大臣の椅子なりき。而も侯が彼れに與ふるに司法大臣の閑職を以てしたるは彼れが如何に侯の爲めに輕視せられ居るかを見る可し。松田正久氏の文部大臣たるは世人の均しく意外に感ずる所なる可し。世人は寧ろ尾崎行雄氏か否らずむば西園寺侯を以て文部大臣に擬したりき。西園寺侯は健康未だ恢復せざるの故を以て、自ら新内閣に入るを好まざりしといふの事情はあれども、尾崎氏に至ては然らず。彼れは曾て文部大臣として頗る好評あり、其の人物技倆亦松田氏と同日に語る可らざれば、則ち西園寺侯にして自ら起たざるに於ては、尾崎氏こそ寧ろ新内閣の文部大臣として最好の人物なれ。知らず彼れは内閣大臣を目的として進歩黨を脱したりといはるゝを氣にして自ら入閣を避けたる乎將た彼れ自身は入閣を望みたるも伊藤侯は彼れを閣員に加ふるを好まざりし乎
 星亨氏を遞信大臣たらしめ、林有造氏を農商務大臣たらしめたるは、恰も膏肉を餓虎に與へたる如しとて、國民の頗る寒心する所なり。されど伊藤侯は政黨に於ては首領專制を唱へ、内閣に於ては首相獨裁を主義とするの政治家たり。侯にして果して能く其の主義を實行するの決心あらばたとひ詐僞師を内閣大臣たらしむるも亦必らず之れをして其詐僞を行ふに由なからしむるを得む况んや星林の兩氏の如きは共に材幹手腕ある一廉の人物にして若し之れを善用すれば相應の治績を擧げ得可き望みあるに於てをや唯だ侯が之れを善用するを得るや否やは甚だ世人の危む所たるのみ
 新内閣員として最も注目す可きは、加藤高明氏の外務大臣たること是なり。彼は久しく英國駐在の帝國公使として令名あり。其の外交上の技倆よりいへば、新内閣の外務大臣として何人も故障をいふものある可からず。彼れは啻に外務大臣として適任なるのみならず、内閣大臣たるの人格より見るも、新内閣中實に第一流の地歩を占むるものなり。彼れは名古屋出身たるに拘らず毫も名古屋人の特色たる纖巧輕※[#「にんべん+鐶のつくり」、18-上-6]の處なく極めて硬固にして冷靜の頭腦を具へ決斷に長じ抵抗に強く言笑亦甚だ不愛嬌なれども常識豐富にして其の思想は頗る健全なり。彼を知るものは彼れを稱して英國紳士の典型を得たるものなりといへり。故に彼れの新内閣に在るは、確かに中外に對する重鎭たらむ。余は伊藤侯が彼れを入閣せしめたるを以て内閣組織上の一大成功と爲す
 第四次伊藤内閣は、斯の如くにして組織せられたり。其從來の内閣に比すれば、形式に於ても實質に於ても共に進歩したるものたるは疑ふ可からず。一人の元老を加へずして悉く後俊を以て組織したるは實質上の進歩なり陸海軍大臣を除くの外全然藩閥の分子を一掃したるは形式上の進歩なり其の閣員の多數政友會より出でたるを以て之れを政黨内閣といふ可なり其の老骨を排して後俊を網羅したるを以て之れを人才内閣といふ亦可なり。余は此點に於て新内閣の成立を祝するに躊躇せず。若し夫れ實際の施設は、今後の進行如何に由て更に評論せむと欲す。(三十三年十一月)

     伊藤侯の現位地

 英國の名宰相ロバート、ピールが曾て保護政策を棄てゝ穀物輸入税廢止論に同意するや、保守黨は彼れを罵つて、變節の政治家なりといひ、一般の批評家は亦彼れの行動を稱して矛盾といひたりき。然れども彼れは此の變節に由りて反つて國家國民の福利を増進したれば則ちたとひ黨首としては一時の物議を免がれざりしも政治家としては確かに偉大の成功を奏したりといふべし。佛國のギゾー(有名なる文明史の著者)彼れを論じて曰く、ロバート、ピールは、單純なる理論家にあらず又た原理原則に拘泥する哲學者にもあらず彼れは事實を較量するの實際家にして其の終局の目的は成功に在り然れども彼れは主義の奴隷たらざると共に必らずしも主義を輕蔑するものにあらず彼れは政治的哲學を全能なりとも若くは無益なりとも信ぜざるがゆゑに敢て之れを崇拜することなしと雖も而も之れを尊重せりと。是れ實にピールの人物を正解したる言なり。
 顧みて我伊藤侯の出處進退に視る、侯は多くの點に於て亦頗るピールに似たるものあり。侯は黨首としては固より缺點なきの人物にあらずと雖ども、政治家としては、朝野の元老中兎も角も大體に通ずるの士なり。今や侯は桂内閣と政友會とを妥協せしめたるの故を以て、世上の非難攻撃を一身に集中したり。獨り反對黨の盛んに侯を攻撃するのみならず、侯の統率の下に立てる政友會も、亦動搖に次ぐに動搖を以てして自ら安むぜざるものゝ如し。是れ侯を目して政黨に不忠實なりと認めたるが爲なり。唯だ此の見解に依りて、尾崎行雄氏は去れり、片岡健吉氏は去れり、林有造氏は去れり、其餘の不平分子は去れり。彼等は以爲らく、政友會總裁たるものは、唯だ政友會の利害を以て進退の凖とせざる可からず、唯だ政友會の主義綱領を保持する限りに於て會員指導の任に當らざる可からず、然るに侯の爲す所は、黨首たるの責任よりも、寧ろ元老たるの位地に重きを置きて、政府と妥協を私約し、以て專制的に之れを政友會に強ゆるの擧に出でたり、是れ到底忍び得べき所にあらずと。然り侯は既に自ら公言して乃公は一身を擧げて政友會に殉ずる能はずといへり是れ尋常黨首の言ふ能はざる所にして適々以て侯の侯たる所以の本領を見るなり
 然れども侯は決して他の藩閥者流の如き政黨嫌ひの政治家にあらず、政黨嫌ひの政治家にして焉んぞ自ら政友會を組織することあらむや。唯だ侯は黨首たるには餘りに執着心に乏しくして黨派の主義綱領を輕視するの傾向あるのみ。凡そ主義綱領といふが如きは、黨派あつて始めて現はれたるに過ぎずして、惡るくいへば、源氏の白旗、平家の赤旗といふに異る所なし。赤旗白旗は源平戰爭の標幟には必要なりしも、鎌倉幕府の政治家には、何の必要なかりき。固より立憲國の黨派は公黨にして私黨にあるざるがゆゑに、其の主義綱領は、即ち國家に對する公念の發動にして、黨派の私意にあらざる可し。然れども同一主義の政友會憲政本黨が故らに對壘相當りて相爭ふは何ぞや知らず所謂る主義綱領なる者は黨派に於て何の用を爲しつゝある乎余は現時の黨派が使用しつゝある主義綱領が殆ど赤旗白旗と何の選む所なきを惜まざるを得ず。故に若し黨派の利害と國家の利害と兩立せざる場合に於いては、眞の政治家は往々黨派の主義綱領を輕視することあり、ピールの穀法廢止論を採用して變節の名を甘むじたる如き、正さしく其の一例たり。或は政黨は公黨なるがゆゑに、其の利害は國家の利害と衝突せずといはむか、是れ亦黨人の自觀なるのみ。人は言ふ、伊藤侯は黨首の器にあらずと、余も亦爾かく信ぜり、何となれば彼は此の自觀を固執する能はざるの位地に在ればなり然れども是豈侯の政治家たるに害あらむや
 抑も侯の政友會を組織したるは、實に模範政黨を作らむが爲なり。模範政黨とは、黨派的私情を去り國家的公見に就くの政黨なるべし。侯は此の目的に依りて政友會を指導せむとしたるを以て、其の黨首としての行動は、反つて黨人の意に滿たざるもの多きが如し。有體に評すれば彼等は侯が國家元老の一人として政友會に總裁たるを以て唯だ此の一點のみにても頗る政友會に利ありと信じたりき何となれば元老たるの資望は單純なる黨首の勢力よりもより大なる勢力を有すと想像すればなりされば彼等は第十七議會に於て桂内閣と衝突するに當り侯の勢力善く桂内閣を屈服して解散の代りに内閣を交迭せしむるを得べしと豫期したりしならむ而も解散は來りて交迭は來らざりき何となれば桂内閣は彼等の想像するが如き腰の弱き内閣にあらざるのみならず伊藤侯自身の如きも亦自ら取つて代るの成算なかりしを以てなり是に於て乎彼等は大に失望したり第十八議會開くるや彼等は竊に謂へらく今度こそは一擧して内閣を倒すを得むと而も彼等の御大將は戰略を講ずる代りに和約を講じ其の結果は妥協と爲りて發表せられたりき彼等は豈再び失望せざるを得むや然れども假りに侯をして妥協の申込を拒絶せしめ飽くまで桂内閣と戰はしむるとせむ余は尚ほ彼等が失望より脱する能はざりしを信ず何となれば妥協成らずんば復た解散を見るの外なければなり彼等の侯に期する所は侯が元老たるの勢力資望を利用して第一には解散を避け第二には政友會内閣を組織するに在る可し中には内閣を交迭せしむるまでは幾囘の解散をも畏れずと稱する硬派と交迭にして容易に庶幾し得可からずば唯だ成る可く解散を避けむことを望むの軟派あるべしと雖ども多數の會員は伊藤侯の勢力を過信し侯にして政友會を指導する限りは桂内閣は解散を行ふ能はずして總辭職を行ふの運命に遭遇すべしとの夢想を描ける連中なり伊藤侯の勢力を以てすと雖ども固より斯の如き都合善き希望を滿足せしむるの魔術を有せざるは無論なり
 然れども侯は大局の利害を打算すると共に又た出來得る限り善く政友會の利害をも考量したり。侯は桂内閣が猫撫聲を使ふに似ず、案外其の決意の堅固なるをも認識したりき。妥協の申込を素氣なく拒絶せば、其の結果は再解散あるをも疑はざりき。故に侯は會員を諭して曰く、此の上政府と衝突して解散を重ぬるは國家の不利益なりと。其の實解散は政友會の不利益なれば妥協は一面に於て政友會の爲に謀りたるものといふべし政友會員たるものは又何の總裁に慊焉たらざる所ぞ
 夫の脱會諸氏の中には、侯が妥協の爲に反對黨としての立場迄をも全く失はしめたるを稱して、政黨の本分を紊りたると爲すものありと雖も、妥協は政府と議會との衝突を避くるを大趣意としたるがゆゑに若し形式的に妥協を是認して他の方法例へば豫算問題の討議に於て側面より政府を苦むるが如き擧に出でむか妥協の大趣意は全く破れむ伊藤侯にして斯くの如き馬鹿らしき演劇を承認すべしと謂はむや但だ侯が黨首として部下を指導するの術を盡さざる所ありしは何人も亦之れを否定する能はざるを惜むのみ。蓋し妥協の内容に付ては、侯は詳細に常務委員に説明せずして、彼等をして突然現内閣と交渉せしめたり、彼等は總裁が唯だ妥協の端緒を開き置きたるのみにて、其の内容は更に之れを協定するに十分の餘地あるべしと信ぜしならむ。而も一たび現内閣員と交渉するに及び、妥協の内容は、既に政府と伊藤侯との間に協定を經たるを審かにして一驚を喫したりしが如し。是れ殆ど常務委員を死地に陷れたるものに非ずや。其の專制を用ゆる度に過ぎて、會員をして侯の一擧一動を端睨する能はざらしめたるは、決して人心を收攬するの道にはあらず。侯は此點に於て部下の離叛を招ぐに至りたるは、亦止むを得ざるの數なりといふべし。
 或は曰く、侯は黨首の責任を忘れて、單に元老たるの位地に於て政府と妥協せり、是れ立憲政治家より藩閥政治家に退却するの態度に非ずやと。黨派政治と立憲政治とを混同する黨人は、動もすれば此の言を爲して侯を議せむとせり。然れども是れ恐らくは侯を誤解するものならむ。蓋し侯は黨派に殉ぜざると同じく、亦藩閥にも殉ぜざるの政治家なり。侯にして藩閥に殉ずるほどの愚人ならば初めより政友會を組織する如き無益の勞苦を爲すの謂れなく、さりとて黨派に殉ずるには、侯の思想は餘りに經世的なり。侯は藩閥を超越すると共に黨派をも超越して高く自ら地歩を占めたり是れ侯が黨人に喜ばれざる所ある如くに又た藩閥者流にも嫌はるゝ所ある原因なり侯は國家の元老たる身分を自覺するがゆゑに時としては黨派の側に立ちて藩閥と爭ふことあるべく時としては藩閥の忠言者と爲りて黨人の疑惑を惹き起すことあるべく則ち今囘の和協問題の如き其一發現なりといふも可也要するに侯は近かき將來までは暫らく政界の大導師として朝野政治家の過失を矯正するを任務とするの最も適當なるを見る是れ侯の如き有力なる元老が國家に對する最高の義務なるべし
 若し夫れ政界の革新を號呼して、漫に元老を無用視する黨人輩は、是れ未だ政界の現状を領解せざるものなり。歐洲立憲國には固より我國に存在する元老の如きものなし。然れども我國に於ては、元老は實に一種の政治的勢力なり。政友會は伊藤侯を離れて必らず存立を危くすべく、憲政本黨は大隈伯に依りて僅に其の形體を維持せり。世に新政黨組織を傳ふるものありと雖ども孰れの元老かを奉じて之れを首領と爲すに非ずむば、政黨らしき政黨は容易に生まれざるなり。されば總裁の行動に不平なるが爲に政友會を退會したる諸氏の如きは、今や立場なき沙漠の亡者にして、殆ど其の身を寄するの地なからむとするにあらずや。彼等は孰れも個人として未だ元老に代るの資望を有せざれば、現存政黨以外に新政黨を造るの困難なるは論ずるまでもなく、たとひ之れを組織することありとするも之れが首領たるものは必らず元老の一人たるべし。而して伊藤侯以上の首領を現存元老中より得るの望みなきこと明白なりとせば、彼等は遂に再び政友會に復歸するか、然らずむば憲政本黨に投ずるの外ある可からず。若し二者其の一を選まざれば、地方選擧區に籠城するか、若くは中央政界の批評家たるに過ぎざるべし。此の趨勢を考ふれば政友會の分裂に依て誘發せらるべき政界の革新は革新といふよりは寧ろ政界の退歩といはざる可からず余は伊藤侯が憲政有終の美を爲すの志を諒とし其の政友會を模範政黨と爲さむとするの精神尚ほ存するものあるを信じ其の會員の指導訓練に於て更に大に努力あらむことを望むや隨つて切ならざるを得ず。(三十六年七月)

     韓國皇帝と伊藤統監

 一昨年三月伊藤侯が特別の使命を帶びて韓國に赴き、始めて伏魔殿の主人公たる皇帝に對面したる時、蜜の如き辭令に富みたる皇帝は、侯に望むに永く京城に淹留して啓沃の任に當らむことを以てし、且つ自ら金尺大綬章を賜はりて、侯を尊信するの意を表したりき。其の際侯は此の人格上の一問題たる皇帝を如何に觀たるかを知る能はずと雖ども兎に角應酬の結果は極めて良好にして日韓兩國の新關係も大體に於て侯と皇帝との間に或る默契の成れるを想はしめたりき
 昨年十一月侯が日韓協約締結の大命を啣みて再び韓國に使するや、皇帝は侯の奏陳を聞て頗る驚惑し、次ぐに悲痛の語を以てせり。曰く、韓國は曾て支那の正朔を奉じて其の屬邦たることありしも、未だ外交權を之れに委任したることあらざりき。今卿の提示せる協約は、朕が祖宗五百年の社稷を全く滅亡せしむるものなりと。其の聲惻々として人の腸を斷つに足れり侯亦豈多少の感動なきを得むや况むや參政韓圭咼は歔欷流涕の餘殆ど喪心し元老趙秉世は阿片を呑で自殺し前參政閔泳煥は精神逆上して狂死したるを見るをや。然れども皇帝は侯の剴切周到なる説明によりて、協約締結の止む可からざるを了悟し、終に各大臣に命じ、韓國及び皇室の位地面目に利益ある修正を施すを條件として日本の大使と商議せしめたるに、侯は啻に其の修正案の全部を容れたるのみならず、更に皇帝の直接の希望に應じて新たに一條を加へたりき。第五條の日本政府は韓國皇室の安寧と尊嚴を維持するを保證すといふもの是れなり。尋で侯は韓國統監に任ぜられ本年三月を以て京城に駐剳したれば、皇帝は待つに師父の禮を以てし、且つ各大臣に諭して、萬機總て侯の指導に從はしめたり。是に由て之れを見れば韓國の皇帝は實に無限の信任を侯に寄せたるものゝ如し
 斯くて日本は韓國の保護者となれり。伊藤侯は韓廷の指揮者となれり。統監府は半島政治の中心となれり。侯は何時なりとも皇帝に謁見し得るの特權を有し、又何時なりとも各大臣を統監府に召集して内閣會議を開くの威勢を有せり。侯は命に背くものあれば大臣と雖も、之れが免黜を奏請し得べく、場合に依りては内閣の更迭をも謀るを得べく、兵力をも使用するを得べし。然れども是れと同時に侯は韓國上下の誤解を招くを恐れて成る可く急激なる改革を避け温和漸進の方針を執り一面に於ては政府の現状を維持して政治的動搖の發生を防ぎ一面に於ては恩威兼用の施設に依りて信義を八道に光被せしめんとせり侯は日本の韓國を保護するは之れを亡ぼす所以に非ずして却つて其の興國の要素を開發せしむる所以なるを韓民に教へむとせり侯は文明式の行政と平和の經世術とに依りて韓國の秩序を整調し韓民の生活状態を一變し以て韓國の歴史に新性格を賦與せんと企てたり侯は領土擴張の主義を含める覇道を排斥して誠心誠意に王道を以て李家の天下を綏むずるに外ならざるを皇帝に領會せしめむと努めたり約言せば侯の爲す所は韓國の上下をして日韓協約の意義を善意に解釋せしめ疑はず惑はず恐れずして全く日本政府に信頼せしむるを計るに在り
 勿論韓國は事實に於て日本の殖民地なり。然れども侯は日本人をして韓國の利益を壟斷せしむる如き何等の偏頗なる政略を行使せず總ての外國人に對して機會均等主義を適用せり。侯は寧ろ居留日本人の取締を嚴重にすること度に過ぎたりと非難せられたりき。蓋し日本政府の對韓策は、二十年來一貫して始終渝る所なく、常に正義と友誼とを以て、韓國の平和及び文明を發達せしむるに力を致したると共に、又韓國に於ける日本の權利及び利益を保護するを旨としたりき。而も此政策は、韓國に出入する不道徳の日本人に障害せられて、十分韓民に徹底せざりしこと往々之れありしのみならず、極言せば韓民の日本に對する惡感情は、主として韓國に出入する日本人の行爲に基くもの多かりき。是れ伊藤侯が特に居留日本人の取締を嚴重にして公明正大なる日本政府の措置を中外に彰表し以て韓民の心を安むじ併せて關係列國に平靜を與へむと欲する所以なるべし。要するに侯が韓國統監としての第一用意は日本に對する韓國上下の誤解を排除するに在るものゝ如し。是れ易きに似て實は最も難儀なる仕事なれども、世間多くは侯の用意を是認し、且つ侯の老練と聲望とを以てして必らず成功に到達するの時期あるを信ぜり。
 然るに本年五月、侯が凱旋大觀兵式に參列せむが爲に歸朝したるまゝ、月を越えて東京に淹流するに乘じ、韓國の各地に宮中の隱謀と關聯したる暴動は起れり。而して其の頭目とも見るべきは、多少韓國に名を知られたる閔宗植、崔益鉉、柳麟湯の輩にして、中に就き崔益鉉の如きは韓國屈指の碩儒と稱せらる。彼等の揚言する所に依れば、彼等は皆宮中より賜はれる馬牌、鍮尺を有し、皇帝の密勅を奉じて協約の實行を妨ぐるの同盟を爲せりといふに在り。更に事實を究むるに、内官姜錫鎬及び參領李敏和の二人相謀り妖僧金升文を皇帝に引見せしめて無稽の惑言を爲さしめ終に皇帝を動かして宮廷を暴動の策源地たらしむるに至れりと信ぜらる是に於て韓國皇帝は依然として人格上の一問題たり
 由來韓國の憂は政令二途に出づるに在り。是れ宮中府中の別明かならざるに由れるは論なしと雖も、之れをして然らしむる所以のものは單に其の制度の確立せざるが爲めのみに存せずして實に韓國皇帝其の人の陰謀好きなるに在り。皇帝は不幸にして陰謀の外何事をも見聞せず、又其の性格は陰謀に適するやうに造られたり。其の言語の才は能く人を籠絡するに足り、其の反覆表裏の心術は巧に權變を弄するに足り、而して其の小事に聰明にして大局に瞹昧なるは、奸小の徒をして最も玉座に親近し易からしむ。故に韓國皇帝の人格上に不思議なる變化を見ざる限りはたとひ宮中府中の權域を法定すと雖も之れに依りて全く韓國の寧靖を期するは容易ならずと謂ふべし何となれば韓國に於ては皇帝は唯一の政治家にして曾て各大臣の補弼を藉りたることなきのみならず常に各大臣を操縱し若しくは之れを掣肘して内閣の統一を困難ならしめ延て各大臣をして互ひに狐疑せしめ互ひに皇帝の寵遇を爭はしめ其の極内閣をして亦同じく陰謀の府たらしむるに過ぎざればなり
 侯が今次の暴動を使嗾するものゝ宮中に伏在するを見て、必らず宮中を肅清すべしと誓ひ、決然として韓國に向ひたるは甚だ人意を強うするに足りき。侯の京城に入るや、直に皇帝に謁見して宦官閹竪の皇室を誤まるを痛言すること二時間に亙り、直に勅許を得て宮中肅清に著手し、一夜にして王宮の各外門は悉く警務部の日本巡査に依て守備せらるゝを見たり。宮禁令は發布せられたり、其の結果として雜輩の出入は嚴禁せられ、禮式院長李容泰は禁令違反の罪に問はれて免職せられたり。是れと同時に奸魁處罰の詔勅は出でたり、皇帝は李敏和を以て人材の選擇を誤り國體を損失したりとし、姜錫鎬を以て中間に在りて周旋の勞を執り、共に罪状を極むとし、法部をして速に拿捕せしめ、宜しく懲犯すべしと宣へり。姜等の罪状は果して皇帝の與知せざる所なるか。皇帝は又宮中肅清に關し、詔して曰く、宮中の肅清は、屡々勅諭を下して之れを誡めたるに、久しければ輙ち懈弛して秩序を紊るの失態を見ると。知らず皇帝は曾て宮中肅清を誡めたることあるか
 此の間に於ける伊藤侯の措置は實に迅雷疾風の如くなりき。韓國の上下震慴して、殆ど其の爲す所を知らざるの状想ふ可し。侯の初めに綏撫手段を採りたるもの、今や一轉して壓威手段を執るの止むを得ざるに至れり。斯くの如く侯が前後全く別人に似たるの擧に出でたるは、以て侯の決心の頗る固きものあるを知るべく、侯若し此の機會に於て韓國皇帝の人格を研究せば、其の發明する所亦必らず多からん。顧ふに宮中肅清の事たる、從來日本政府が施政の改善を助言する毎に、先づ第一に之れを勸むるを例とせり。然れども皇帝自ら正うせずして宮廷の正しかるべきやうなく特に韓國皇帝は最も夜の趣味に感ずること深きがゆゑに魑魅魍魎は時を得顏に君側を徘徊して毒焔を煽ぐに於て宮中の肅清何を以て行はれむや所詮陰謀は韓國皇帝の附き物なり雜輩の出入は之れを禁じ得べしと雖も宮廷の陰謀は終に之れを根絶す可からず今日宮門の警衞を如何に嚴重にするとも陰謀は外より來らずして内より發生するを如何せむ區々たる門鑑に依りて之れを防遏せむとするは寧ろ或は徒勞に屬するなきを得むや
 然らば韓國宮廷の陰謀を根絶するに策なきか、曰く是れ有り、唯だ時間の力是れのみ。即ち陰謀を其の發生するに一任し、而して其の發生を檢出する毎に之れを鎭壓し、漸次に其の醗酵力の消滅するを待つのみ。夫れ韓國の禍源は群小に非ず、雜輩に非ず、大臣の無能に非ずして、皇帝の人格に在り。韓國問題は政治上に於ては既に解決せられたりと雖も、其の禍源は猶ほ依然として皇帝の人格に存す。苟も韓國保護の實効を奏せんとするに於ては、時間は必らず最後の斷案を皇帝の人格に下だすに至らむ要するに伊藤侯の成功の遲速は此の時間の到來の遲速に在りと認むべきのみ。(三十九年八月)

     伊藤侯、クローマー、及びラネツサン

 現代に於て、保護國の統治者として最も成功したる人を問はば、第一に英國のクローマー男を指名し、次に佛國のラネツサン氏を以て答ふるもの多かるべし。クローマー男の埃及に於ける位地は、僅に英國總領事兼外交事務官たるに過ぎざりき。又英國の埃及に對する保護權は、公然法律を以て設定せられたるにはあらざりき。而もクローマー男は二十餘年間の拮据經營によりて、英國の埃及保護を既成事實として列國に承認せしめたりき。佛國の殖民政策は大抵失敗の歴史を有すれども、比較的効果を擧げつゝあるものは、印度支那に於ける保護政治なりとす。而して其の功勞は主として之をラネツサン氏に歸せざるべからず。我が伊藤統監を以て此の二人に比するは、未だ其の時機を得たるものに非ずと雖も、侯が日本に於て最初の保護國統治者たる名譽を得たると共に、其の韓國に施設する所は、事の大小を問はず、均しく内外の注目を集中すること、恐らくはクローマー男にも將たラネツサンにも過ぐるものあるべし。况むや侯は政治家としての聲望固より夐に此の二人の上に出づるをや。
 クローマー男は模範英人ともいふべき實行家にして、其の精敏堅實なる事務的能力は、埃及に於ける諸般の施設に顯はれたる成績能く是を證明せり。彼は高遠なる理想を以て埃及を指導するよりも、直に手を眼前の行政事務に下だして、實際上より之れを改良するの得策なるを知りて、先づ灌漑工事を興して水利を治めたりき。是れ埃及の唯一財源は耕地の收穫に在るが故に、治水を以て財政整理の前提と爲さむとするに外ならざりき。此成算は果して誤らずして財政漸く整理の緒に就き、公債を償還し徭役を全廢し、窮民地方の地租十分の三を輕減したるも猶ほ豫算に剩餘を見たりき。尋で兵制、獄制、地方行政及び司法制度の整改理革一として成功せざるなかりき。其の間撤兵問題、蘇丹事件等ありしも、彼は英京政府を助けて著々之れを解決し、終に埃及に於ける英國の保護權を確保して最早動かすべからざるものならしめたり。
 佛國が安南に對して保護關係を生じたるより既に百餘年を經過したりき、而も紛亂相繼ぎて、保護政略容易に實効を擧ぐる能はざりしが、千八百八十六年ラネツサン氏は議會の委任を受けて安南地方を巡視し、深く其の國情を調査して、既徃に於ける佛國殖民政策の弊害を洞察し、歸來一書を著はして大に當局者を啓發する所あらしめ、終に自ら進みて印度支那總督となり、頗る安南保護の組織を改めたり。彼は大統領より附與せられたる廣濶なる全權によりて東京と交趾とを直轄し、安南及び東埔塞の統監を廢し、商高理事官をして印度支那總督の監督の下に保護事務を行はしむることゝなせり。彼は深く安南王の信任する所となりしが、千八百八十四年罷められて國に歸へるに及で、總督制度は稍々挫折したりと稱せらる。
 伊藤侯が今囘締結したる日韓協約は、列國の承認せる既成事實を成文に章明したるに過ぎずして、是れ位の措置は侯に在ては寧ろ牛刀割※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の感あらむ。然れども余は侯に望むに佛國流の殖民政治家を以てせずして、虚名を棄てゝ實績を收めたるクローマーを以てせむとするが故に、侯が韓國統治者としての事業は、更に大に將來に規畫する所多かるべきを思ふ。協約の締結は僅に保護事業の豫備たらむのみ。(四十年九月)

     立憲史上の伊藤公

 伊藤公は新日本の建設者として、總ての史的事業に關係し、且つ他の何人よりも大猷參畫の功勞多き人なり。若し公の働らきたる部分の一つにても、完全に仕遂ぐるものあらば、彼は亦明治時代の一名士たる價値を得るに足るべし。公の政治生涯は多面にして而も面々華麗なり。燦然として悉く人目を集むるものにあらざるはなし。凡そ政治家の功名心を飽かすべき最好の機會は、殆ど一として公の手に觸れざることなく、是れと同時に其の政略及び行動は時として物議の中心たることありと雖も、終始善く皇上の御信任を全うして頭等元勳の待遇を受けたり。後世より公を見ば恐らくは維新の三傑よりも一層偉大なる人物なりと信ぜらるべし。
 然れども公が新日本建設者の一人として優勝特絶の地歩を占むる所以は言ふまでもなく立憲政治の創設を大成したるに在り。顧ふに立憲政治の創設は、岩倉、木戸、大久保の諸賢夙に之れを 聖天子に獻替して其の基を啓らき、爾來補弼の重臣之れを内に翼贊し、在野の政治家之れを外に唱道して、遂に欽定憲法の發布を見るに至りたりと雖も、此の憲法の立案、及び之れを實施するが爲に必要なる一切の準備は、殆ど專ら伊藤公の手に成れりと謂ふべし。蓋し立憲政治を創設するに於て最も困難なる問題は日本固有の國性と歐洲立憲制との圓滿なる調和を實現すること是れなりき若し國性に適合せざる憲法を制定するときは啻に之れを運用するの難きのみならず到底其の効果を收むる能はずして却つて帝國の發達と繁榮とを阻害するに至らむ。公は理想よりも歴史に重きを置き、國性と兩立し得る限りに於て、歐洲立憲制の組織を斟酌採擇せむとし、其の聖鑒を蒙りて任に憲法立案の事に膺るや、一面に於ては歐洲各國の憲法を調査して、二年の歳月を海外に費し、一面に於ては自ら專門の國學者を相手とし、心血を竭くして古今の沿革を講究したり。當時憲法を私議するもの、大抵其の範を民政主義の立憲制に採らむとするに傾き、之れに反して民政主義を悦ばざるものは、動もすれば極端なる神權政治を主張して、立憲政治を否認するの論結に歸著し、共に皇謨の大精神と相距る甚だ遠かりき。而も公は政治家たるの識見と立法家たるの才智とを兼備するの資を以て純然たる君主的立憲制の日本の國性に適合するを確信し且つ之れを確立するに於て周到なる意匠と愼重なる考慮を凝らし以て遂に千古不磨の大典を立案するを得たり
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 斯くて憲法を發布せられたりと雖も、之れを實施するに方りては先づ行政各部の機關をして立憲的動作を爲さしむるに適當なる諸般の改革を行はざるべからず否らざれば未だ立憲政治の創設を完成したりと謂ふを得ざればなり。而して此の改革は政府の組織を根本より變更するものなるが故に、其の影響の及ぶ所は極めて廣汎にして、直接に之れが打撃を受くるものは政府部内の藩閥者流なり。例へば會計法の如き、文官任用令の如きは、事實上藩閥の勢力を削小するの結果を生ずるを以て、最も藩閥者流の感情を刺戟したりしは自然の勢なるべし。然れども 皇上は憲法調査の全權と共に、憲法實施に關する凖備をも擧げて之れを公の自由手腕に委任せられたりき。是れ改革の容易に行はれたる所以なり。且つ憲法實施の準備整頓するや、公は自ら新官制に基きたる内閣の總理大臣と爲りて、各行政機關の運用を試みたりき。是れ將に來らむとする議會に對せむが爲に政府の立憲的動作を訓練するに外ならざりき。斯くの如く公は一身を立憲政治の創設に捧げて其の能事を盡くしたれば、憲法の効果を收むるに就いても亦無限の責任あるを感ずるは當然なり
 初め歐洲に於ては、日本の果して憲法政治に成功するや否やを疑ふの學者少なからざりしが、顧みて憲法實施後の經過を見れば、政府と議會との行動に於て大に非難すべき點なきに非ずと雖も、全體の成績よりいへば、何人も憲法の効果に對して疑惑を挾むものあるべからず。但だ公は憲法と一身同體の關係あるを自信して、憲法實施以來、其の朝に在ると野に在るとを問はず、絶えず其効果の如何を監視して、立憲政治の健全なる發達を助けむとするものゝ如し。曾て屡々議會に現はれたる大臣責任問題に關しては、公は君主的立憲制の本義を固執して英國流の責任論を排斥するに餘力を遺さざりき。何となれば日本の内閣は帝室内閣にして、大臣は天皇に對して補弼の責に任ずと憲法に明記したればなり。然れども公は帝室内閣を廣義に解釋し原則としては政黨をして天皇の大權を侵犯せしむるを許さずと雖も日本臣民は均しく文武官に任ぜらるゝの權利を與へられ又文武官の任免は大權の發動に屬するものたる以上は政黨を以て内閣を組織せしむるも决して君主的立憲制と相悖らずと説けり。是を以て公は大隈板垣兩伯を奏薦して内閣を組織せしめたることありしのみならず、自ら政友會を組織し、其の會員を率ゐて内閣を組織したることありき。要するに公が政友會を創立したるは日本立憲政治史に一新紀元を劃するものなり
 公が憲法の効果を收めむが爲に、常に朝野の間に立ちて、憲法の活ける註解者として働らき、今尚ほ働らきつゝあるは、憲法起草者たる公として避くべからざる責任を感ずるが故なるべし。今や憲法發布二十年期に際し、皇上特に憲法紀念館を公に下賜して、其の晩年の光榮を限りなからしめ給ふ。拜聞す此の建物は皇室の典範、帝國憲法、其他附屬法の議事所に充てられ、陛下日夕親臨せられたる御由緒ありと。然らば是れ實に憲法紀念館たると同時に又公の偉勳を表彰する永遠の紀念たるべし。(四十一年三月)

   伯爵 大隈重信

     現時の大隈伯

      理想的大隈内閣
 大隈伯は終始政黨内閣を主張して、曾て渝らざるの政治家なり。啻に之れを持論として主張したりしのみならず、亦自ら之れを組織して、滿腹の經綸を實施せむと欲したるや久し※(白ゴマ、1-3-29)而も其容易に之れが目的を達する能はざりしは、時勢未だ政黨内閣に可ならざるものありしに由る※(白ゴマ、1-3-29)故に時勢苟も政黨内閣に可ならむか其第一次の内閣を組織するものゝ大隈伯たる可きは殆ど十年以來の政治的信號にして國民の聰慧なる部分は大抵之れを默會して疑はざりしものたり※(白ゴマ、1-3-29)葢し木戸、大久保の死後、維新の元勳にして大宰相の器あるものは、唯だ伊藤侯と大隈伯あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)而して伊藤侯の藩閥に對する情縁の絶つ可からざるものあるや、侯の進歩的思想を以てするも、到底自ら政黨内閣を組織する能はざるは、自然の勢なるが故に、大隈伯を外にして、復た政黨内閣を組織し得るものなきは、亦殆ど確定の運命なりき。
 されど最初の理想的大隈内閣は現内閣とは大に其實質を異にするものなりき※(白ゴマ、1-3-29)現内閣は大隈伯を首相とすと雖も其實質よりいへば、大隈伯の内閣にも非らず、又板垣伯の内閣にも非ずして、異形の組織を有せる一種の聯合内閣のみ※(白ゴマ、1-3-29)余は現内閣を稱して憲政黨の内閣と爲すの見に反對せず※(白ゴマ、1-3-29)其閣員の多數が憲政黨に屬するを認むるに於て、單に陸海軍兩省の憲政黨以外に特立する故を以て、其主力の憲政黨に存するの事實を否認する能はざればなり※(白ゴマ、1-3-29)されど憲政黨は果して一政黨たるの要資を具へたるものなりやと問はゞ憾むらくは未だ之れに答へて然りと明言する能はざるを奈何※(白ゴマ、1-3-29)余は敢て憲政黨の主義綱領明白ならざるを以て、一政黨たるの要資を缺きたりとはいはず、主義綱領は末なり※(白ゴマ、1-3-29)勢力の統一は本なり勢力統一を得れば主義綱領は何時にても之れを創定し若くは之れを更改するを得ればなり※(白ゴマ、1-3-29)勢力の統一とは何ぞや、一個の首領ありて一黨の勢力を集中する是れなり、然るに憲政黨には勢力の統一なくして、進歩自由兩黨の舊形依然として實存し、隨つて其内閣は勉めて兩黨の均勢を保持するの組織法より成れり※(白ゴマ、1-3-29)啻に内閣に於て然るのみならず、次官以下の屬僚までも、其配置は一に兩黨固有の勢力を均分せんことを目的と爲し、必らずしも適材を擧ぐるを以て方針と爲さゞるは、其形迹歴然として觀る可し※(白ゴマ、1-3-29)是れ豈憲政黨に中心なく、又勢力の統一なきが爲ならずや。
 故に現内閣は形式に於ては憲政黨の内閣なりと雖も其實質に於ては則ち進歩自由兩黨の聯立内閣なりと謂はざる可からず、唯だ夫れ然り、此を以て大隈伯はたとひ現内閣の總理たるも憲政黨は未だ大隈伯を中心とせざるの事實あるに於て現内閣は決して世人の豫期したる如き理想的大隈内閣に非るは復た言ふを俟たず、然らば理想的大隈内閣とは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)名實共に大隈伯を首領としたる黨與に依て組織せらるゝもの是れなり、蓋し伯も亦曾て此冀望を抱て多數の俊髦を糾合したること此に年あり※(白ゴマ、1-3-29)其徒沼間守一、小野梓、藤田茂吉等諸氏は、既に故人に屬すと雖も、尚ほ矢野文雄、島田三郎、犬養毅、尾崎行雄の四氏舊に仍て意氣軒昂たるあり、加ふるに鳩山和夫、大石正巳、加藤高明等の如き、伯と深縁あるもの亦之れなきに非ざるが故に、其多士濟々たる、以て優に理想的大隈内閣を組織するに餘りあらむ※(白ゴマ、1-3-29)然るに現内閣中純然たる大隈派と目す可きものは僅に尾崎大石の兩氏あるに過ぎずして其他の閣員は皆大隈伯と政治上の經路を異にしたる人物なり是れ豈世人の豫期したる如き大隈内閣ならむや

      大隈伯の同化力
 第一次の大隈内閣は、不幸にして世人の理想に描かれたる大隈内閣にはあらじ※(白ゴマ、1-3-29)伯亦自ら之を認識して、之れを名くるに一種の聯立内閣たるを以てす※(白ゴマ、1-3-29)されど現内閣をして純然たる大隈内閣たらしむると否とは實に伯の同化力の大小如何に在り※(白ゴマ、1-3-29)同化力とは何ぞや種々の意見議論を鎔解して悉く之れを自己の模型に鑄合せしむるを謂ふ※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに進歩自由の兩派は從來政敵として氷炭相容れざりしものなり※(白ゴマ、1-3-29)特に大隈伯は最も自由派の爲めに忌まれて、其深刻なる批評を受け、其激烈なる反感に觸れたるや久し※(白ゴマ、1-3-29)是れ決して偶然の機會に於て善く一變し得可きものに非るなり※(白ゴマ、1-3-29)故に若し大隈伯をして一大同化力を有するの政治家ならしめば、或は能く進歩自由の舊形を撤廢して之を混一するを得可しと雖も、否らずむば憲政黨は遠からずして分離し、現内閣も亦隨つて土崩瓦解の虞あるを免かれざらむ、知らず大隈伯は果して一大同化力を有する乎。
 政黨の首領に必要なる第一資質は偉大なる同化力なり※(白ゴマ、1-3-29)厖大なる政黨をして勢力の統一を得せしむるは其黨員をして首領の意見に同化アツシミレートせしむるに在り※(白ゴマ、1-3-29)ジスレリーは英國保守黨の首領として、屡々内閣を組織したる大政治家なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曾てダービー内閣の出納尚書たるや、其施設動もすれば保守主義に矛盾する所あり※(白ゴマ、1-3-29)一保守黨員彼れに問ふに保守主義の如何なるものなるかを以てす、彼れ曰く、我れは即ち保守主義なりと※(白ゴマ、1-3-29)言太だ倨傲に似たりと雖も、彼れが同化力の偉大なる、初めは彼れを喜ばざるもの多かりしに拘らず、後皆終に彼れに同化せられて、ジスレリーの意見は總べて保守黨の信條と爲り其曾て保守黨員に答へたる放言をして事實と爲らしめたりしに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)グラツドストンの英國進歩黨に於けるも亦然り※(白ゴマ、1-3-29)グラツドストンの施設は、必らず悉く英國進歩黨の主義を條規としたるに非らざりしのみならず、進歩黨は反つて彼れの意見に服從したるもの多し、凡そ政黨は主義綱領に據つて進退すといふと雖も事實に於ては其主義綱領は大抵首領の製造したるものに非るは莫し※(白ゴマ、1-3-29)但だ同化力を有せざる人物一たび首領と爲れば其政黨をして到底統一ある行動あらしむるを得ざるのみ
 大隈伯は日本に於ける當今有數の大政治家なり※(白ゴマ、1-3-29)されど其の政黨の首領として果して幾許の同化力を有するや※(白ゴマ、1-3-29)其分量の大小多少は、實に現内閣の運命を決す可く、又實に伯と憲政黨との關係を解釋す可し※(白ゴマ、1-3-29)人或は曰く、憲政黨は大隈伯の黨與に非ずして、自存獨立の政黨なりと※(白ゴマ、1-3-29)されど大隈伯をして偉大の同化力あらしめば憲政黨は終に大隈黨と爲らむ憲政黨をして大隈黨たらしめずむば現内閣は必らず瓦解す可く憲政は必らず分裂す可し※(白ゴマ、1-3-29)何となれば首領專制行はれずむば黨派政治は到底行はれざればなり
 顧ふに維新の元勳にして、直接に政黨に關係したる者は唯だ大隈板垣の兩伯あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)而して黨首として兩伯の人物を比較せば大隈伯稍々板垣伯に優れるものあり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば大隈伯は板垣伯よりも同化力を有すること大なればなり※(白ゴマ、1-3-29)板垣伯の政黨扶植に盡力したるや到らずとせず※(白ゴマ、1-3-29)其自由黨に總理たりしこと久しからずとせず※(白ゴマ、1-3-29)而も自由黨は伯の故を以て必らずしも膨脹せざるのみならず、反つて次第に其黨勢を削減せり※(白ゴマ、1-3-29)伯は曾て馬場辰猪大石正巳末廣重恭の三氏を抑留する能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)曾て革新派の一大分裂を禦ぐ能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)大井憲太郎氏の一派を容るゝ能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)河野廣中氏の一派を脱黨せしめたりき※(白ゴマ、1-3-29)星亨氏の強頂を制する能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)松田正久氏の剛直を融和する能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)時としては自由黨をして四分五裂の危機に瀕せしめたることありき※(白ゴマ、1-3-29)斯くして自由黨は尾大不掉の状態を現出したりき※(白ゴマ、1-3-29)其同化力の缺乏せる以て見る可し※(白ゴマ、1-3-29)然るに大隈伯は之れに反し、其率ゐる所の黨與をして次第に膨脹せしめたり※(白ゴマ、1-3-29)明治十四年改進黨の成立するや、當時伯の眞黨與と目す可きものは實に少數の人物にして、所謂る嚶鳴派と稱するものは、河野敏鎌氏を中心として大隈伯に頡頏せむとしたりき※(白ゴマ、1-3-29)されど伯は次第に之れを同化して終に忠實なる大隈黨たらしめたりしに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)例へば伯が二十二年の入閣に際して、改進黨中之に反對するもの少なからざりしに拘らず、條約改正問題起るに及んで、全黨一致して伯の政略を辯護したる如き、蓋し大隈伯の同化力が能く改進黨の勢力を統一せしめたる結果に外ならじ※(白ゴマ、1-3-29)爾後大隈伯は直接に改進黨に關係せず、早稻田に退隱して、悠々閑日月を送りしと雖も、改進黨が常に其歩武を整齊して議會に屹立し以て能く非藩閥同盟の中堅たりしもの亦大隈伯に依て其勢力を統一せられたるに由れり、二十九年進歩黨の成立と共に、改進黨は直に解黨して其一分子と爲りと雖ども、是れ改進黨の解黨に非ずして寧ろ改進黨の膨脹したるものと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)適切にいへば大隈伯の發達したる現象に過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば、此進歩黨は大隈伯を以て事實上の首領と爲し、一切の行動大抵大隈伯の指揮より出でたればなり※(白ゴマ、1-3-29)進歩黨は由來理窟屋の集合にして、特に或る一派は久しく大隈伯を敵視したるものなりき※(白ゴマ、1-3-29)而も其一旦進歩黨の名の下に大隈伯と接近するに及で自然に大隈伯の意見に同化せられ自然に大隈伯に服從して毫も疑はざるに至りしは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)是れ豈伯が黨首として最も必要なる同化力を有する爲ならずや
 今や其進歩黨は更に自由黨と合併して憲政黨と爲り、大隈伯を總理として内閣を組織したるに於て、伯にして苟も偉大の同化力を有せば其憲政黨を同化して大隈黨たらしむること、猶ほ進歩黨を同化したるが如くなる可きも憲政黨は果して大隈伯に同化せらる可きや否や※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は果して憲政黨までも同化するの力量あるや否や※(白ゴマ、1-3-29)是れ確かに目下に横はれる試驗問題なり。

      大隈伯と憲政黨
 憲政黨は成立日尚ほ淺くして、未だ混沌の境を出づる能はず※(白ゴマ、1-3-29)况むや進歩自由兩派の舊形依然として實存するに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)されど余は憲政黨の爲めに單に形式的統一を望まず若し強て形式的統一を求めむとせば之れを合議體と爲して多數決政治を行ひ總べて黨議を以て黨員を節制すると共に内閣をして亦黨議に服從せしめ若し内閣にして之れに服從せずむば直に其閣員を黨籍より除名して内閣と政黨との關係を絶つまでの事なりされど是れ決して政黨の本色に非らず※(白ゴマ、1-3-29)政黨には必らず統一の中心たる首領を要し首領は名義上の首領にあらずして實權を有する首領ならざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)實權ある首領とは則ち黨員を同化し得るの首領を謂ふ同化の結果は首領の專制と爲り黨員の盲從と爲りて主權首領に歸す※(白ゴマ、1-3-29)則ち形式上の統一と全く其根本的意義を異にするものなり※(白ゴマ、1-3-29)英國政黨内閣の妙處は、實に首領專制、黨員盲從の慣例能く行はるゝが爲めならずや。
 されど此慣例は黨規を以て定む可からず又首領と黨員との約束に依て成立す可からず※(白ゴマ、1-3-29)唯だ一大同化力ある人物ありて自然に黨員を服從せしめ以て自然に全黨を左右するの實權を握るに在るのみ、大隈伯にして果して憲政黨を同化するの力量あらむか、必ずしも進歩自由兩派の舊形依然たるを憂へず※(白ゴマ、1-3-29)必ずしも兩派の嫉妬軋轢熾んなるを憂へず※(白ゴマ、1-3-29)必らずしも異論群疑の紛々囂々たるを憂へず※(白ゴマ、1-3-29)爭ひは益々大なる可し議論は益々騷然たる可し※(白ゴマ、1-3-29)同化力ある人物は必らず之を統一せむ※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如くにして統一せられたる政黨は始めて眞個の力量ある首領を發見せむ※(白ゴマ、1-3-29)されど同化の前には淘汰を必要とす※(白ゴマ、1-3-29)漫に大食すれば必らず胃病を生ずるを以てなり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯の同化力を以てすと雖も、豈悉く憲政黨を同化すべけむや※(白ゴマ、1-3-29)之れを同化する能はずして唯だ一時の姑息を事とするときは、堅實なる政黨内閣は終に見る可からず※(白ゴマ、1-3-29)大隈内閣は遂に土崩瓦解せざる可からず、知らず大隈伯は如何にして目下の問題を解釋せむとする乎。(三十一年八月)

     人民の代表者

 興國の機運に乘じて、露國征伐を斷行したる現内閣は、今や國民の全後援を集中して、徐ろに未來の成功を望みて前進しつゝあり。特に總理大臣桂伯と直接に和戰の票決を爲したる外務大臣小村男とは唯だ此の一擧に由りて遽かに古今無雙の英雄となりたるものゝ如し然れども彼等は其の展開したる大舞臺の役者としては餘りに陰氣にして且つ餘りに沈欝なるが爲に世界は彼等以外に更に實力ある人物の國民を指導するものあるを信ぜり而して伊藤侯の如きは今日に於ても亦最も世界の注目を惹ける日本代表者の一人たるは疑ふ可からず。事實に於ても、伊藤侯が現内閣の後見職たる威信を有し、隨つて重大なる問題に對して常に勢力ある發言權を行ひつゝあるがゆゑに、總理大臣桂伯よりも、外務大臣小村男よりも、侯爵伊藤博文といへる名は、今尚ほ日本を談ずる外人の口頭より之れを逸せざるを見る。
 然れども余は茲に大隈伯を紹介するの亦必らずしも無意義ならざるを思ふ。何となれば桂伯を政府の代表者とせば若し又た伊藤侯を帝國の代表者とせば大隈伯は人民の代表者といふべき模範的人物なればなり。伯は憲政本黨の首領なり、現内閣に對しては當面の政敵たると共に、民間に於ても固より多數の反對黨に依て圍繞せらる。而も其統率せる政黨は、未だ議會の過半數をも占むる能はざるを以て、此の點よりいへば、伯を稱して人民の代表者と爲すべからざるに似たり。唯だ伯の最近生涯に於て現はれたる行動は次第に政黨首領たるの範圍を脱して寧ろ人民の代表者たる位地に接近せむとするの傾向あるを知るざる可からず
 顧ふに政黨の信用未だ高からざる日本の如き國に在ては、政黨の首領たるものゝ社會的境遇は、頗る窮屈にして自由ならざるものなり。彼れは政權爭奪の外、何等の目的を有せずと認めらるゝがゆゑに、政治上の關係なき社會の各階級は、動もすれば彼れと相觸著せむことを避くるのみならず、彼れ自身も亦自然に之れと相隔離せざるを得ざるに至る。板垣伯の如き即ち其一人なり。自由黨の全盛時代に於ては、板垣伯といへば恰も日本人民の崇拜せる自由の化身の如く見えたれども、其の一旦黨籍を去りて在野の一個人となるや、伯の存在は忽ち國民の記憶より去りたるに非ずや。之れに反して大隈伯は明治十四年改進黨を組織してより二十餘年間一日の如く政黨と旅進旅退したるに拘らず其の社會的境遇は曾て之れが爲めに檢束せられずして其の住居せる早稻田の邸宅は殆ど東京社交の中心たり伯の門戸は常に開放せられたり伯と社會各階級との交渉は間斷なく繼續せられたり伯は政黨の首領たる故を以て毫も其の社會的境遇の寂寞を感ぜざるなり
 伯が他の政黨政治家と其の生涯を異にする所以は、蓋し一は其の理想の同じからざるに由れり。凡そ黨派政治家は、大抵政治を狹義に解釋せり。彼等は政治を以て一種の專門技術と爲し、政治團體を以て特別なる社會の一階級と爲し、其の極端なる個人主義を抱けるものに在ては、社會の進歩と政治の進歩とは殆んど相關せざるものゝ如くに信ずるものなきにあらず。然るに大隈伯は、絶對的政治萬能主義にして、社會に於ける一切の改良及び進歩は唯だ善政を行ふに依て之れを庶幾し得べしと信ぜり。出世間的なる宗教すらも、大隈伯の見る所にては、亦政權の援助を借りて始めて其の健全なる發達を期し得べきものゝ如し。其の理想は斯くの如くなるがゆゑに、伯は勉めて社會の各階級と交渉し之れをして政治と同化せしめずむば止まざらむとせり。若し政治家をして一種の專門技術家たらしめば、伯の政治に於ける趣味は必らず索然として消滅せむ。何となれば伯の頭腦は總合的にして個人的ならざればなり。一言にして伯を評すれば、伯は靈魂ある新聞紙なり伯は善く貴族と平民との思想を聯結せり官吏と代議士との感情を聯結せり軍人と文學者との意見を聯結せり銀行家も工業家も地主も小作人も若しくは相場師貿易家鐵道屋海運業者も皆伯の不思議なる概括力に依て聯結せられ毫も伯の性格に於て相扞格すべき障害あるを見ざりき要するに伯は社會各階級の思想感情を總合して之れに政治的著色を施し以て其の獨占權を有せむとするの人なり
 世間或は伯の耳學を笑ふ。然れども伯の伯たる所以は、其の受納力大にして偏狹なる個人的意見なき處に在り、其の社會の各階級と善く適合して、善く各種の意見を攝取し、又た善く之れを消化するの力は、之れを稱して一個の天才なりといふも可なり。
 故に伯は狹義に於ける政治家に非ずして寧ろ大なる市民なり日本人民の總代表者なり故に又た伯にして假りに政黨首領たることを罷むることありとするも其の大市民たる位地には何の影響する所なかるべし。伊藤侯は日本帝國の代表者として久しく外人に知らる。而も侯は伯に比すれば稍々個人的にして、其の頭腦は獨自一己の圭角を有せり。侯は決して大隈伯の如く社會の各階級と適合し得るの性格を有せず。大隈伯は落々たる自由心胸オープンハートを有すれども、伊藤侯は快活なる間にも多少の保守的精神あり。大隈伯は好んで言論を公表し、而も之れを公表するに於て殆ど時と場所とを選まざるの傾あれども、伊藤侯は天賦の辯才あるに拘らず、之れを使用するに於て頗る謹愼なり。
 されば大隈伯は其の生活に於ても飽まで現在的社交的にして一點山林の氣象なしと雖も伊藤侯は江湖の詩趣を解するに於て稍々東洋賢人の面目あり。侯は一年中の多くの時間を大磯の閑居に費やし、公務の外帝都に出づること極めて少なく、俗客と酬接するよりも、寧ろ讀書に親しむの性癖あるを以て、必らずしも社交の中心たるを求めざるが如し。大隈伯は決して一日も此般の生活状態を忍ぶ能はざるなり。伯は早稻田に廣大なる庭園を有し、園中には無數の珍奇なる花卉を蓄へり。特に其温室は伯の最も誇りとする所にして、室内は四季常に爛漫たる美花を以て飾れり。伯は園藝道樂を最も高尚なるものとし、屡々人に向て、花を愛するものは善人なりとの格言を繰り返へして自ら喜ぶと雖も、伯の花を愛するは詩人の美神に※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)するが如くならず又た聖者の自然を樂むが如くならずして唯だ其の社交に色彩を添ゆるが爲に之れを愛するのみ。若し早稻田の庭園にして一たび社交と隔離せば伯の園藝に對する趣味は、恐らくは彼れが如く濃厚ならざる可し。何となれば伯の園藝道樂は頗る共同的なればなり。故に早稻田の庭園は公開せり。且つ人は、未來の短かきを感ずれば感ずるほど、漸く靜止の生活状態に傾くものなり。然れども大隈伯は其の未來の短かきを感ずるに由りて却つて一層猛烈なる現在主義の信者と爲り勉めて其生涯をして掉尾の活動あらしめ以て賑やかなる晩年を送らむと欲せり故に伯の性格は老て益々發揮し他の元老政治家が或は客を謝して隱棲し或は美田を買ふて子孫の計を爲すの際に在りて伯は其の門戸を開放して社會の各階級と盛むに自由交通を行ひ財を吝まず勞を厭はずして八面應酬の活動を繼續せり。見よ伯の門前は日々殆ど市を爲すに非ずや。何時にても三十人以上を饗するの食膳は準備しつゝありといふに非ずや。其毎年議會開會前後に於ける憲政本黨員の饗應のみにても、外務大臣の夜會に劣らざる莫大の費用を抛つ上に、或は觀菊の會といひ、或は早稻田大學の卒業式といひ、或は遭難紀念會といひ、孰れも毎年一定の期節に於て貴顯紳士を早稻田の庭園に招待するの慣例なれば、其の費用は亦少なからざるべし。此頃全國商業會議所聯合會の開會したるを機とし、盛宴を張て其の議員を饗應したる如き、亦甚だ勉めたりと謂ふ可し。或る好事者流あり、伯の生活の贅澤なる殆んど王侯を凌ぐの勢あるを見て、竊に財源を探究したるに、伯は遠く手を英國の倫敦市場に延ばして巧に銀塊相場に從事しつゝあるの事實を傳聞し、頗る其の大膽の財政規模に驚きたりとの説あり。惟ふに是れ或は齊東野人の説たるに過ぎざるべきも、伯の財政が世上の疑問となるを見るに就ても亦其の生活の如何に贅澤なるやを知るに足るべし
 伯は啻に門戸を開放して、善く客に接し、人を饗するのみならず、更に善く馬車を飛ばして公私の會合に出席せり。而して伯の往く所必らず一段の活氣ありて場屋に磅※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)せり蓋し總べての雄辯家が皆失敗する場合に於ても獨り伯は辯論演説に於て常に成功するを以てなり。伯は沈默を守る能はざる人にして、曾て不言實行といへる流行語を冷笑して曰く、言語あるもの必らず實行家にあらずと雖も實行家にして不言なるものあらず所謂る不言實行とは意見もなく自信もなき人物の遁辭のみと。此の斷定の正當なるや否やは遽に判ず可からずと雖も、伯が言論を好むの性癖あるは、此の一語に依て之れを察すべし。
 從來伯は其の言論の餘りに多きが爲に、所謂不言實行を以て自ら任ずる政治家は、伯を稱して大言放論家と爲し、以て其の信用を傷けむとしたり。而かも伯は其の言論の力に依りて反つて市民の崇拜を鍾めたり是れ他なし伯は最も聰慧なる市民の思想を語るの豫言者なればなり伯は好で意見を吐露すれども敢て異を立てゝ高く自ら標置するの論客にあらずして輿論の代言者なり伯は個人的意見の創造者に非ずして人民の聲の寫眞機なり。是故に伯は精確の意義に於ける英雄に非ず。伯は偉大なる凡人なり。國民の運命を左右せむとする主我的人物に非ずして、國民の運命と倶に進退するの時代的人物なり。維新の三傑と稱せられたる西郷、木戸、大久保は、各々維新の大業を以て自己の獨力に依りて成したるものゝ如くに思惟したりしやも知る可からず。軍制を改革し、自治制度を制定したる山縣侯は、此等の事業を以て自己の創意に出でたりと思惟するも知る可からず。又た憲法を立案したる伊藤侯は、固より議會を開きたるを以て自己の功なりとすべく、露國を征伐する現内閣員は、興國の雄圖は我等の手に依て斷ぜられたりと思惟すべきは無論なり。然れども大隈伯は個人の伎倆に重きを置かざるがゆゑに維新の大業も法制の改良制定も議會の開設も大陸戰爭も其他既往三十餘年間に於ける日本の發達進歩は總べて國民的運動の結果なりと思惟せり
 唯だ伯は善く時代精神を攝取し、善く人民の希望と一致するの性格を有すと雖も、之れを行ふの權力と久しく遠ざかりたるを以て、政治上に於ては長く逆境の人たらざるを得ざりき、然れども伯は其の朝に在ると野に在るとを問はず常に人民の代表者たるを失はざるがゆゑに其の社會的境遇は甚だ幸福にして其の生涯は頗る快活なり伯は不幸にして權力を有せざるがゆゑに至尊に侍して獻替の任を盡くすに由なしと雖も人民の代表者として間接に國家に貢獻するの功は復た沒す可からざるものあり特に日本國民の大飛躍を試みたる今日に際し伯の如き人民の代表者を民間に有するは國家の代表者として伊藤侯を朝廷に有すると相待つて時局を運爲するの二大勢力たるべし
 凡そ國際問題は政府と政府との間に於て主として解决せらると雖も、最後の解决者は寧ろ國民なりといはざる可からず。故に内に在て民心を統一し外に向て人民の思想感情を代表する人物の存在は國際問題の解决に對して大なる共力となるべし今や日露戰爭は啻に列國政府の注意を牽引したるのみならず又た深く列國人民の耳目を動かしたり隨つて其の人民の思想感情が其の政府の政策に隱然たる影響を與ふるものあるを知るときは我日本人民と環視列國人民との間に思想の交通を開くの必要あるは論ずるを待たず而して大隈伯の如きは思想交通の一機關として頗る有効なる働らきを爲しつゝあるを記憶せざる可からず
 元來大隈伯は、未だ一たびも海外に出でたることなしと雖ども、其の屡々外務の當局者たることありしと、其の外交的辭令に嫻へる故とを以て、其の外人に知らるゝことは伊藤侯に亞げり。故に伯が野に在るの時と雖も、外國使臣は常に伯の門に出入して伯と意見を交換するを喜び、又た來遊外人の重もなるものは、其の公人たると私人たるとに論なく、大抵伯を訪問して其の謦咳に接せざる者なし。伯は此等の外人を待遇するに於て亦能く親切鄭寧を盡くすがゆゑに、伯と會見して不快の感を殘すものは一人もあらずといへり。而も伯は此の場合に於て最も善良にして最も進歩したる日本人民の思想を紹介するがゆゑに其の外交上に寄與するの利益は甚だ偉大ならむ。伯は實に無冠の外務大臣として外人と應接するものにあらずや。
 日露戰爭起るや、外國の新聞記者は、軍事通信の任務を帶びて續々我國に來朝せり。彼等の中には始めて日本を觀たるもの少なからざれば、往々日本を誤解して日本に不利益なる報告を本國に送るものなしとも限らず。是れ决して輕視すべきものに非ざるを以て、大隈伯は屡々彼等を早稻田に招きて日本の眞相を説明するに勉めたり。曩に開國五十年紀念會を開くや、伯は亦奮つて周旋の勞を執り、居留米人をして頗る滿足せしめたりき。當日會場整理の任に當りし米人ドクトル某氏が、我米人は最も大隈伯を愛好せりといひしを見るも、伯が如何に外人間に信用あるかを想ふ可し。
 英國史傳家エワルド曾て其の著『代表的政治家』に於てパルマルストンを評して曰く、彼れは最高の能力に依りて英國を支配せざりき然れども彼れは忠實にして不撓不屈なる愛國者なりき彼れは正直にして善良なる信條を有したりき彼れの智識は精確にして多種なりき彼れの國民に對する同情は眞摯にして决して僞りならざりき彼れの趣味及び性格は全然當時の英國人民を代表したりき彼れの生涯は必らずしも偉大なりといふ可からず然れども我政治家中にては最も英國的なりきと余は此の語を移して以て我大隈伯を評するの甚だ適當なるを思はずむばあらず。(三十七年六月)

     進歩黨の首領

 進歩黨の中には、總理大隈伯の退隱を希望するもの少からずと傳へらる。其の意蓋し進歩黨不振の原因を以て伯の指導宜しきを得ざるに歸し伯の退隱に依りて進歩黨の門戸を開放し廣く人才を招徠し新たに適當の首領を求め以て黨勢を擴張すると共に又政權に接近せむと欲するに在るものゝ如し。近時新聞紙上の一問題となりたる進歩黨の改革運動なるものは、此の希望を有する黨員を中心として起りたるに外ならじ。彼等は政友會と提携して却つて其の賣る所となれる幹部の無策に憤慨し、堂々たる一大政黨を以てして其の言動の毫も議會に重きを置かれざるの現状に煩悶し、進では政權に接近するの機會に益々遠ざかり、退ては政界に孤立して漸く民心に厭かれむとするの非運に苦惱し、而して斯くの如き苦惱煩悶憤慨より生ずる自然の反動は終に彼等を驅て馬鹿らしき謀叛を企てしむるに至れり大隈伯の退隱を希望すといふ如きは馬鹿らしき隱謀に非ずして何ぞや
 大隈伯の進歩黨に總理たるは則ち正當の人物に於ける正當の位地なり伯の健康にして猶ほ黨務に堪ゆる限りは進歩黨は伯を總理とするに依りて其の存在を保つを得可く又其の存在をして生命あり光輝あらしむるを得可し若し伯にして一たび進歩黨を去らば何人が代つて之れが總理となるも啻に黨勢をして今日以上の發展を爲さしむる能はざるのみならず恐らくは進歩黨の存在を危くするに至るなきを保す可からず。勿論舊自由黨は板垣伯を伊藤侯に乘り替へたるが爲に其の輪廓を擴大したる政友會となれり。政友會は伊藤侯の相續者として西園寺侯を得たるが爲に、頗る其の統一を鞏固にしたるものに似たり。然れども大隈伯は板垣伯の如き好々翁に非ず而して不幸にして良相續者を有する伊藤侯とも其の境遇を同うせざるがゆゑに現時の進歩黨は大隈伯を外にして復た適當なる統率者を發見する能はざるなり大隈伯有て始めて進歩黨有り大隈伯の威望と伎倆と有て僅に進歩黨の頽勢を支持すと謂ふべきなり
 然れども進歩黨が大隈伯に期するに政權に接近するの途を以てするは根本的謬見なり伯は才力偉大なる政治家たるを失はずと雖も是れと共に無遠慮なる討論家なり掛引なき自由發言家なり、是れを以て、伯は松方伯と聯合して、之れと調和を全うする能はず、板垣伯と同盟して亦之れと調和を全うする能はず、伯は才力を以て人を壓服するを知りて才力の以て壓服し得べからざるものあるを顧慮せざる風あり故に伯は政黨内閣の首相としては或は理想的首相たるを得可く單に政權に接近するの目的を以て思ひ切つたる大々讓歩を爲すことは伯の性格に於て能く忍び得る所に非ず。此の點よりいへば、伯の進歩黨に總理たるは、或は進歩黨をして永く逆境に沈淪せしむるの一原因たるやも知る可からず。是を以て、唯だ政權に※(「糸+二点しんにょうの遣」、第4水準2-84-58)戀する黨員は、動もすれば伯の行動に慊焉たるの状ありと雖も、而も彼等は大隈伯を退隱せしめて、何人を以て之れに代らしめむとするか。將た彼等は政友會の故智を學び、相應の讓受人を求めて、之れに無條件讓與を爲さむとするか。世間果して進歩黨を讓受けむとする野心家あるか。
 彼等は兒玉子の名を呼び、又山本男に望を屬すといふと雖も、是れ彼等の片思ひのみ。此の一子一男は、たとひ未來の首相候補者なりと稱せらるゝも、首相の位地を得るには、必らずしも政黨の力を藉るの必要なきのみならず、利口なる兒玉子、聰明なる山本男は、又能く政黨の價値と其の利弊とを知れり。時勢にして大なる變化あらざる限りは、豈輕ろ/″\しく其の身を政黨に入るの愚を爲さむや。
 抑も進歩黨の急要なる問題は總理の廢立に非ずして其の主義綱領が時勢に適するや否やを講究するに在り余を以て之れを觀れば進歩黨が久しく逆境に沈淪したるは進歩黨の自ら招く所にして獨り之れを大隈伯に責むべき理由はあらず。蓋し進歩黨は、智辯能力に富めるに於て、遠く政友會の上に出づるに拘らず、其の割合に黨勢の振はざるは他なし、進歩黨の主義政策は十年一日の如く些しの變化なければなり。近代の政治は國際競爭ナシヨナル、ストラツグルを本位として組織せられ、且つ運用せられつゝあり。然るに進歩黨は徹頭徹尾黨派本位の思想を以て行動しつゝあり。今や國民として成功せむとせば、國民的勢力の總べての要素を發達せしめざる可からず。國際競爭の未だ激烈ならざる時代に在ては、國内に於ける階級の爭鬪、權力の與奪は實に政治家の重なる仕事なりき。然れども近代の國際競爭は、國民的勢力の集中を必要とするが故に、階級の爭鬪、權力の與奪を目的としたる政治は、最早時代と兩立し得べからざるに至れり。其の結果として立法行政に於ける科學的組織の廣大なる發達となり國民を一體としたる新愛國心の勃興と爲り從つて國民としての成功を遂げむが爲に政治家は國民の心理的及び物質的強力を増加するを方針と爲さゞる可からず而して此の方針に基ける政治は總て積極的にして消極的なるを許さず總て統合的にして分離的なるを許さず是の時に當り進歩黨の主義綱領を見るに常に消極的にして常に積極的政策に反對し軍備擴張といへば之れに反對し地租増徴といへば之れに反對し擧國一致といへば之れに反對せざるまでも之れに難癖を附け國際競爭を本位としたる施設に對しては唯だ之れに反對して政府を苦むるの外何の能事なし是れ豈に信を天下に得る所以ならむや
 國際競爭を本位とするの政治は、各種の專門智識と專門技術とを以て組織せられ、且つ運用せらる。故に斯くの如き政治に於ては多數の國民よりも寧ろ國民中より抽出したる少數の人才之れが指導者たらざる可からず然るに進歩黨は往々此の少數者の意見を無視して却つて所謂る國民の輿論なるものに媚びむとするの迹あり彼等は學者の同情專門家の援助を度外して偏へに選擧區の俗情を迎合するを是れ勉む彼等の智辯能力なるものは要するに選擧區民の歡心を得るの術なるのみ其の黨勢の振はざるは亦當然のみ。之れに反して、政友會は智辯能力の士に富まざるに拘らず、其の主義綱領は進歩黨の其れの如くに固定せず、時としては進歩黨と均しく消極的に陷ることあるも、指導其の宜しきを得ば、必らずしも消極的政策に同意せしめ難きに非ず。其の淡泊にして與みし易き所以は、却つて其の善導し易き所以たるを見るべく、彼等が比較上政權に接近するの便宜あるは此れが爲めなり。
 されば進歩黨にして黨勢を發展せしめむとせば先づ其の主義綱領をして時勢と適合するものたらしめざる可からず即ち從來の消極的政策を棄てゝ斷然積極的政策を執らざる可からず。顧ふに彼等の非難攻撃する官僚政治なるものは、固より多少の弊害なきに非ざるべし。其の動もすれば行政機關を過大に擴張して國費の膨脹を顧みざる傾向ある如きは其の一なり。然れども行政機關の擴張は、國際競爭より來れる必然の結果にして、到底之れを避けむとして避くべからず。唯だ一方に於て行政機關を必要の程度に擴張すると同時に一方に於て成るべく國費を有効に使用し以て濫費の弊なからしむるは是れ精確なる科學的智識と行政的手腕に俟つべし無責任なる放言の能く爲す所にはあらず。故に進歩黨にして改革の意あらば、總理の廢立よりも其の政策の上に一生面を開くの擧あるを急務とせむ。
 然れども大隈伯は漸く老ひたり。其の黨務に堪ゆるの健康は今後久しきに保つ可からず、若し伯にして進歩黨の永久なる繁榮を望むに於ては、一日も早く適當なる相續者を發見するの必要あるべきは無論なり。苟も適當なる相續者を發見するに於ては、伯亦必らず自ら喜で總理の位地を退かむ。唯だ今日未だ伯の相續者として耻しからざる首領的人物を發見する能はざるのみ。是れ黨員の苦惱煩悶する所たるのみならず、又總理大隈伯の苦惱煩悶する所たるべし。(三十九年五月)

     黨首を辭したる大隈伯

 一月第三日曜日に開きたる憲政本黨大會は、總理大隈伯の思ひ掛なき告別演説を以て、沈痛無量なる光景の間に閉ぢられたりき。伯は豫告なくして突然辭職の述懷を爲したるがゆゑに、内心伯の退隱を希望し居たる儕輩も、事の意表に出でたるに錯駭して、頗る擧措を失したるものゝ如し。顧ふに伯が辭職を申出でたる所以は、單に一身上の自由を欲すといふに過ぎずして、他に特別の理由あるを認めざるも、深く其の語る所を玩味せば、今日伯をして自ら辭意を表明するに至らしめたる動機の存するもの固より之れなきに非ず
 伯は一面に於て本黨發展の路を開かむが爲に總理を辭するを必要なりと唱へつゝ、一面に於ては總理を辭するも决して本黨を去らずと斷言せり。則ち其の辭職なるものは唯だ形式的退隱たるに止まり伯の猶ほ間接にも直接にも本黨との關係を絶つの意なきや無論なるべし且つ伯が政治を生命と爲し總理を辭すとも决して政治的活動を中止せずと言明したるを見れば伯の辭職を求むる理由は殆ど解すべからず。伯は本黨に總理たるも總理たらざるも舊に仍りて政治的活動を繼續せむとす。知らず本黨總理として正々堂々政治的活動を繼續するの何故に本黨に利あらずとするか。此の點よりいへば伯は無意義の辭職を申出でて徒らに黨員の感情を惑亂せしめたるに似たるも實は伯の心奧に感慨自ら禁ぜざるものあり乃ち名を辭職に藉て一大警告を黨員に與へむと欲したるに外ならじ
 伯は黨則改正黨勢擴張に關する大會の討論を評して、本黨の大活動と爲し、口を極めて英氣の勃々たるを激賞したりと雖も、今其の所謂る黨則改正なるを見るに、從來の首領政治を廢せむが爲に、之れに代ゆるに合議制度を以てしたるのみ、是れ總理大隈伯に對する信任缺乏の投票に非ずして何ぞや。伯は自ら謙遜して黨勢の振はざる原因を伯の微力爲すなきに歸すと雖も、本黨の僅に存在するを得るは、唯だ大隈伯あるを以てなり。伯は本黨に何の負ふ所なきも、本黨は全く伯の理想に依て活けり。若し本黨より伯の理想を拔き去らば本黨の實體は次第に腐敗して終に※(「さんずい+斯」、第3水準1-87-16)滅するの時あらむ又何ぞ黨勢の盛衰を言ふの遑あらむや然るに今や本黨は大隈伯の理想に叛逆するものを以て多數を占め其の結果は直に黨則改正の上に現はれて首領政治の組織を破壞せむと企てたり是れ本黨自ら衰亡に進むの凖備のみ伯豈今昔を俯仰して感慨に堪へむや
 抑も大隈伯の理想は、國民の代表機關を完全に運用して、英國風の憲政を日本に扶植せむとするに在り。伯は曾て此の理想によりて改進黨を組織し、進歩黨を指導し、又現に憲政本黨を率ゐ來たれり。伯は固より單純なる批評家を以て自ら居らむとするものに非ざるべく、苟も其の懷抱する理想にして實現するを得るの成算あるに於ては、進むで政權に接近するも亦敢て避くる所に非ざるべし。然れども伯は政權に接近するの前に於て先づ國民の輿望を要求せり國民の輿望を要求するが爲に先づ主義によりて政黨の性格を鮮明ならしめむと努めたり。初め西園寺内閣の成るや、伯は首相の人と爲りに對して多少の同情を表したりしも、其の施設の漸く伯の信ずる所と違ふや、伯の批評的態度は一變して露骨なる攻撃者の位地に立つに至れり。何となれば伯は西園寺内閣を目して、全く官僚團の勢力に支配せられ、最早一政黨を代表したる面目の以て中外に示すに足るものあらずと爲したるがゆゑなり。伯は官僚政治を認めて、憲政の健全なる發達に害ありと信ずる人なり。故に偏へに政權に接近せむが爲に主義の消長を顧みずして官僚團と結托するは其の甚だ喜ばざる所なり伯は斯くの如き行動を以て政黨の性格を喪失すと爲すなり
 然れども本黨の改革派なるものは、寧ろ大隈總理と其の見解を異にするものゝ如し。彼等は政友會が曲がりなりにも政權に接近したるを得意の境遇なりと思へり。西園寺内閣を以て恰も自黨の内閣なるかの如くに吹聽し、意氣揚々として國民に誇らむとする政友會を見て、彼等は殆ど本黨の秋風索莫たる逆境に堪へざらむとするの状あり。彼等は政治上に於ける官僚團の勢力甚だ強大なるを知るに及で、政友會が之れと相結托したるの却つて利口なるを信ぜむとするに至れり。彼等の中には、大隈伯にして本黨を退隱せば、啻に官僚團の一角と連絡し得るの門戸開通するのみならず、更に本黨の運命を開拓すべき新首領の官僚團より出現せむことを夢想するものすらありといへり。本黨にして大隈伯の理想に服從する限りは其の境遇の順逆如何に拘らず兎に角一個の性格ある政黨として存在し得べきも伯に棄てられたる本黨は其の烏合の群衆たるに於て大同倶樂部と又何の選む所あらむ。勿論本黨が天下を取るの時機を待つは愚に近かしと雖も、是れ特に本黨に於て然りと言ふに非ず。凡そ孰れの政黨を問はず、其の能く上下の信任を得て内閣を組織せむことは當分望みなしと謂はざる可からず。故に若し本黨の改革派にして、政黨に關する根本の觀念を抛棄せむとせば別問題なれども、眞面目に政黨の名に依りて天下を取らむとする如きは餘り蟲のよき沙汰なりといはまくのみ。敢て問ふ公等は天下を取るの資格ありや、其の自信ありや、將た其の信任ありや。且つ天下を取るのみが政黨の能でもあるまじ、政權に接近するのみが黨勢擴張の唯一手段にもあるまじ。眞に黨勢を擴張せむとせば、何ぞ其の本に反へらざる。本とは他なし、順逆に頓著せず、主義によりて進退する是れなり。其の本を脩めずして唯だ政權に接近せむことを求む。是れ本黨の深患なり。大隈伯が總理を辭せむと欲するは其の意實に此の深患に陷りて自ら悟らざる黨人に警告を與へむとするのみ
 是に由て之れを觀れば、大隈伯の辭職は、本黨の發展上必要なるものに非ず、要するに其の申出は唯だ本黨の將來に對する一大警告たるに過ぎざるのみ。然れども政治の全局より案ずれば余は寧ろ伯が斷然本黨を棄つるの擧に出でたるを歡迎す。蓋し伯は伯自ら聲言したる如く、たとひ本黨との關係を絶つも、活動の餘地は到る處に之れあるなり。伯は單身にして偉大なる勢力を民間に有すること、猶ほ伊藤侯が丸腰にして能く威望を朝廷に有するが如し。伯は元來本黨に依て重きを爲し居るの政治家に非ざるなり。本黨或は亡ぶるとも、伯は未だ遽に政治的死亡を遂ぐるの癈人に非るなり。一政黨を指導訓練するは必らずしも無用なりと謂ふべからずと雖も國民を指導訓練するは更に最も必要なりと謂はざる可からず。今の黨人は、智識に於ても、品性に於ても、决して國民の高級分子に非ず。高級分子の政黨に入らざる所以は、國民全體の政治思想に進境なきが爲なり。而して國民の政治思想は、單に一般教育の力のみに依て之れを發達せしむべきに非ず、別に偉人の人格より發動する感化力に待つもの多し。伯にして若し狹隘なる一政黨の範圍を脱して自由の地歩を占め政府の元勳たる伊藤侯と相對し國民の元勳として黨派以外に活動の餘地を求めば伯の大なる人格は必らず國民全體を指導するの明星たらむ是れ伯の晩節を善くするの道なり。(四十年二月)

     大隈伯と故陸奧伯

 十二月十日及び二十四日に於て、余は無限の興味と大なる敬意とを以て二個の盛典を見たり。一は早稻田大學の學園に擧行せられたる大隈伯の銅像除幕式にして、一は外務省構内に擧行せられたる故陸奧伯の其れなり。大隈伯は現在の人にして、且つ若干の未來を有し、陸奧伯は過去の人にして、其の傳記は十年以前に終結せり。然れども偉人傑士は、千古尚ほ毀譽褒貶の定らざる半面を存すると共に、他の半面の妍醜は、寧ろ其の觸接したる同時代の國民に審判せらるゝを適當とするの理由なきにあらず。余は此の理由に於て、兩伯に關する少許の智識を語らむとす。
 大隈伯の公生涯に於て、其の歴史的價値の最も大なる部分二つあり。新らしき政治的日本を建設せむが爲に政黨を組織したることゝ學問の獨立を謀らむが爲に官學に對抗すべき私學を興したること是れなり。板垣伯は亦政黨を組織したるによりて、明治時代の一代表的人物となりき。福澤翁は亦曾て私學を興したるによりて、不朽の紀念を文化事業に遺したりき。今ま大隈伯の能く一人にして板垣伯及び福澤翁の爲したるものを兼濟したるを見るものは、誰れか伯を近世の偉人と稱するに反對するものあらむや。且つ夫れ板垣伯は、始めて自由黨を組織するに方てや、其の名望勢力實に一時を曠うするの概ありしも、年所を經るに從つて漸く尾大不掉の状を示し、終に殆ど國民の記憶より遠ざかりて、杳然聞ゆるなきの末路に立てり。之れを大隈伯が久しく政權と近接せざるに拘らず常に夫の終始順境を來往する伊藤山縣兩公と盛名を※(「にんべん+牟」、第3水準1-14-22)うし既に政黨の總理を辭任したる後すらも尚ほ且つ生氣溌溂たる政治家たるを失はざるに比すれば其の差果して奈何と爲すや。是れ現在の大事實なり。何人も之を抹殺すべからず、又之れを顛倒するを得べからず。更に他の一大事實を注視せよ、是れ一層明白にして且つ永續性を有するものなり。大隈伯の創立したる早稻田大學の驚くべき發達是れなり。其の明治十五年東京專門學校の名を以て起るや、當時福澤翁の慶應義塾は校齡方に二十五年を重ねて基礎漸く固く所謂る三田の學風を鼓吹して海内を風靡し、隱然として私學の泰斗官學の敵國たりき。而も東京專門學校は、經營二十星霜にして、明治三十五年早稻田大學と改稱するの域に達し、其の實力及び位地は、啻に慶應義塾と相對峙して毫も遜色なきのみならず、漸次準備の熟するを待つて理、醫、農、工等の學科を増設し、以て完全なる大學の性質を具備するに至らむことを期せり。六千有餘名の卒業生を出だしたる過去の成績、日々八千有餘名の學生を出入せしむる現在の收容力、創立二十五年の祝典を壯にする一萬餘名の提燈行列、是れ豈福澤翁をして獨り其の美を教育界に擅まにせしめざる儼然たる大事實に非ずや。たとひ大隈伯に政治上の成功なしとするも唯だ此の早稻田大學の繁榮以て能く伯の徳を後代に傳ふに足るべし是に於てか銅像建設も決して無意義に非ずと謂ふべし
 若し夫れ陸奧宗光伯は、未だ天壽を全うせずして十年前に病死したる人なり。若し伯をして尚ほ今日に健在せしめば、必らずや其の傳記に一段の光彩を添ゆるの事功ありしを疑はず。然れども伯は少なくとも日本の外交史に新紀元を開きたる中興の外務大臣なりき第一外交機關が殆ど全く藩閥の勢力圈を離れて獨立の位地を占むるに至りたるは伯の力與つて最も多きに居れり。外交を專門の技術とせる近世の傾向に順應して、訓練ある外交官を登庸するの方針を確立したるは伯なりき。貴族若くは耆宿の名譽職たりし公使の任務を有能者に引渡して、日本の外交機關を刷新するの計畫は、主として伯の手を藉つて行はれたりき。今の林外務大臣を始め、小村壽太郎、加藤高明、高平小五郎、原敬等の諸氏を重用して、外交政略の効果を大ならしめたるものは伯に非ずや。元來伯の人と爲りは、深く藩閥者流の信頼せざる所なりしに拘らず、獨り伯の指導する外交機關に對しては復た一指を染むる能はずして、伯の自由手腕に任かさゞるを得ざりき。從つて外務省は殆ど十分に伯の感化を受けたりしに似たり。第二に伯は條約改正の成功者なり日清戰爭の執行者なり。伯が新條約案を英國に提出したるの時は、方に日清和戰の機關、髮を容れざるの危急に迫まるの際なりき。若し尋常外交家をして此の場合に處せしめば、或は一方の爲に他方を犧牲に供したりしやも知るべからず。况んや是れと同時に第三者に對する外交關係漸く過敏ならむとしたるに於てをや。勿論當時伯が果して韓國問題を以て和戰を斷ずるの腹案ありしや否やは疑問なれども、兎に角韓國問題と條約改正とは、伯に於て輕重し難き二大懸賞案たりしは言ふを待たず。而も伯は屡次白刄の下を潛ぐるが如き態度を以て、巧みに韓國問題の解決手段を進行すると共に、斷然條約改正の談判を開始して遂に其の目的を達したりき。此の期間は伯の智力の最も發越したる絶頂にして、又實に外交劇の能事を盡くしたる一齣なりき。且つ伯が外交團に於ける英國の優勝位地を認識して、先づ之れと條約改正を商議したるは、單に條約改正の成功を早めたるに止らず、其の將來の帝國外交を支配する大方針は、亦既に此の時に於て定まれりと謂ふべし。則ち日露戰爭前後二囘に締結せられたる日英同盟の如き、蓋し伯の政略より胎生したる産物たるに過ぎず。第三に伯は世界主義を外務省に輸入したりき。伯は以爲らく、帝國をして國際會議の一員たらしめむとせば先づ形式實質共に歐洲文明と諧調する政略を執らざるべからずと。此の政略は往々非愛國的なりと認められて、保守派より最も激烈なる攻撃を受けたりと雖も、後年日露戰爭起るに及びて、宗教人種を異にする列國の同情を最後まで維持し得たるは、主として此の政略の賜なりと謂はざる可からず。要するに伯は新旗幟を霞ヶ關に樹てゝ帝國の外交を彰表し新生命を外交機關に賦して外務省の性格を一變し後の當局者をして其の率由する所以の大本を知らしむるに於て晩年の心血を傾倒したりと謂ふべく即ち今に於て伯の銅像の外務省構内に建設せらるゝを見るは事と人と處と三者均しく宜しきを得て※(白ゴマ、1-3-29)長へに霞ヶ關の紀念たるを失はざるべし
 然れども陸奧伯は外務省の陸奧伯に非ずして、日本の陸奧伯なり。大隈伯は早稻田大學の大隈伯に非ずして、日本の大隈伯なり。特に大隈伯の如きは、啻に日本の大隈伯たるのみならず、其の名聲は漸次世界的音色を帶び來らむとせり。顧ふに陸奧伯を以て大隈伯に比すれば、其の人格に於て大小の品異なるあり、其の頭腦に於て廣狹の質同じからざるありと雖も、共に藩閥以外の出身者にして、自己の手腕を以て自己の天地を開拓したるに於ては則ち一なり。而も兩伯の出處進退には自ら兩樣の意匠ありて好個の對照を爲せり。大隈伯の出處進退を見るものは、先づ其の公生涯の前半期に於て、伯が内より政治を改革せしむとして全力を之れに用ひ、其の志の行はれ難きを悟るに及び、更に政治改革の手段を變じて、國民的運動の指導に其の後半期を費やしたるを認むべく、陸奧伯の出處進退を見るものは、伯が初め屡々外より政治改革の氣運を促がさむとして成らず、一朝心機轉換するや、自ら進むで政府の使用人となり、其の權變の才を竭くして内より藩閥を控制せむとしたるを認むべし。是を以て兩伯は終始殆ど反對の側面に立てり。
 大隈伯は藩閥の後援を有せずと雖も、維新の文勳は毫も藩閥者流の武勳に讓らざりしが故に、明治初年に於て既に樞要の位地を占め、藩閥をして勢ひ伯の勢力を敬重せざるを得ざらしめたりき。伯は急激なる民選議院建白者に誘はるゝには其の思想餘りに秩序的にして且つ實際的なりき伯は前原一誠江藤新平等の暴動に與みするには其の識慮餘りに進歩的にして且つ冷靜なりき伯は土佐派の空漠たる自由論を迎合するには其の智見餘りに經世的にして且つ老熟なりき。伯は馬上を以て天下を取りたる藩閥の、到底永く馬上を以て天下を治むる能はざるを知りたれば、時の政府の中心たる大久保利通の威望を利用して、自己の長所を縱横に揮灑し、以て徐ろに政治改革の雄心を逞うせむとしたりき。然れども大久保の死すると共に、政府は忽ち茲に適當なる統率者を失ひ、單に藩閥の利害を一致せしめて、漸次勃興し來れる國民的運動を頑強に抑遏せむとしたりき。是に於てか、伯が内より政治を改革せむとするの計畫は失敗に歸し、時代は伯を促がして國民と握手せしめ、以て伯の公生涯に分界線を劃したりき。伯が明治十五年を以て政黨を組織したるは蓋し新らしき政治的日本を建設せむが爲に新らしき手段を必要なりと自覺したる結果のみ。爾來伯は稀れに政府に出入し、一たびは自ら首相となりて内閣を組織したることあれども、常に政黨を基礎としたる立憲政府の完成を期せざるなく、殆ど一身の得失を忘れて藩閥と奮鬪したりき。
 顧みて陸奧伯の行徑を見れば、伯の前半期は、藩閥に對する謀叛を以て一貫したりき。勿論伯は著名なる維新の功臣にも非ざれば、明治の初期に於ける伯の資望は、未だ甚だ言ふに足るものなかりき。加ふるに伯の人格は藩閥の大勢力たる大久保利通の理想に適合せざりしを以て互ひに相反撥し、終に伯を驅つて不平黨の一人たらしめたりき。伯は木戸孝允に説くに國民主義と薩摩征伐の策を以てしたれども、謹愼なる木戸は持重して敢て妄りに動かざりき。獨り今の井上侯は大久保攻撃の勇將として聞え、頗る伯と意氣投合したりし如しと雖も、其の勢力孤弱にして固より大久保黨と對抗するに足らざりき。
 其の大阪府判事、神奈川縣知事、租税權頭、及び元老院幹事等の諸官を歴任して、前半期の終結たる明治十一年の隱謀事件に至るまで、伯の胸中に畫きしものは唯だ藩閥政府を顛覆せむとするの戯曲のみ。而して其の最後の幕は、伯の戯曲中最も奇矯にして最も露骨なるものなりき。斯くて伯が七年間の囹圄に於て領悟したる眞諦は、恰も大隈伯と正反對の方向を取ることなりき。伯の獄を出づるや、其の曾て敵視したる藩閥者流の助力を得て歐洲に遊び、其の歸るや直に外務省に入りて辨理公使となり、尋いで米國公使となり、轉じて山縣内閣の農商務大臣となり、伊藤内閣の外務大臣となり、子爵となり、伯爵となり、勳一等となりき。此の間に於ける伯の政府改造策は、先づ藩閥と政黨とを結合するを第一着手としたりき。故に伊藤内閣の策士たる伯は、同時に自由黨の謀主たりき。伯が其の後半期に於て、伊藤公の信頼を藉つて自己の理想を實現せむとしたるは、猶ほ大隈伯が其の前半期に於て、自己の經綸を行はむが爲に、必らずしも大久保黨たりと目せらるゝを避けざりしに同じ、以て兩伯の出處進退に兩樣の意匠あるを見るべし。
 世或は大隈伯の後半期を以て失敗の歴史と爲す。若し政權に近接せざるが故に失敗なりといはば、明治十五年以後の大隈伯は實に失敗の政治家なり。伯の後半期二十五年間の大部分は、全く政府と絶縁せられたる歳月なればなり。然れども伯が政治家としての實力及び偉大は寧ろ此の後半期に於て十分發揮せられたりき。朝側の二大勢力たる山縣伊藤兩公も、時としては此の二大勢力の聯合したる政府も、其の系統を承けたる桂内閣も、乃至西園寺内閣も、最も大隈伯の存在を重視し、大隈伯の活動を畏憚し、大隈伯の監視、批評、向背に對して喜憂を感じたるのみならず、伯の意見は往々日本國民の利害を代表するものとして列國の政府及び國民を聳動したる場合少なきに非ず。伯豈失敗の政治家ならむや。但し伯は政權に近接したる機會に於ても、亦久しからずして之を喪ふが故に此の點よりいへば、伯は疑ひもなき政治上の失敗者なるに似たり。伯は條約改正問題を以て黒田内閣を瓦解せしめたりき。松方侯と聯合内閣を造りて其の終りを善くする能はざりき。憲政黨内閣の首相として其の統一を維持すること能はざりき。伯を閣員としたる内閣は、不幸にして必らず内部の分裂より破れたりき。之れを伯の失敗といはゞ失敗たるに相違なきも、其の失敗は未だ以て伯の政治家たる名聲を毀傷するに足らざるなり。元來伯は常識の天才なれども伯は其の常識を行ふに當つて動もすれば物理學上の重力法を無視するの嫌ひあり。例へば伯は決して單純なる放言壯語家にあらずして、又實に謹愼自重の徳あり。而も伯は屡々此の兩極の垂直を保つの用意を缺けることあるが爲に或る社會の人は伯を無責任の政治家なりと冷嘲せり。伯は必らずしも剛情我慢、他を壓例して自ら喜ぶものに非ず、又善く交讓し、善く調和し得るの雅量を有せり。而も伯は屡々此の雅量と剛情との水準を秤るを忘るゝことあるが爲に共同者の憤懣を買ふことあるを見たり。伯は反對黨の惡口する如くに、常に便宜に從つて意見を製造する臨機主義者に非ずして、又一家の信條と一貫の理想とを有する政治家なり。而も伯は屡々臨機主義者なりと誤解せらるゝの傾向あるは何ぞや。是れ重力法の原則に頓著せざるが爲なり。今一つ伯に於て發見する所は、伯が清濁併せ呑むの大度と、群情を駕御するの術との間に重力法を應用すること周到ならざるの迹あること是れなり。蓋し伯は自信強きが故に如何なる人物をも包容して其の材料を盡さしめむとし且つ如何なる不平の聲も之れを鎭撫するに於て多くの苦心を要せずとするの風あり概言せば伯の人格は圓滿といふよりは寧ろ多面といふべく完美といふよりは寧ろ偉大といふべく而して其の本領は目前の成敗を顧みずして我が爲さむとする所を爲すの男性的活動に在り
 陸奧伯の人格は、大隈伯と自ら別種の模型を有せり。伯は神經質の才子にして若し伯より野心と覇氣とを除かば或は詩人文學者の質に近かきやも知るべからず伯は天才の詩人に見るが如き鋭敏特絶なる直覺力を有し又泰西著名の文學者に見る如き深刻なる觀察眼を有せり然れども此の直覺力と觀察眼とは伯の野心及び覇氣と抱合して聰明自ら恃むの政治家を鑄造したりき。伯は人の隱微を讀み、敵の弱點を指し、世の情僞を察し、事の利害を斷し、理の是非、機の先後を判ずるに於て、電光の暗室を照らすが如し。唯だ伯は聰明自ら恃むが故に毫も衆俗を送迎して人望を收めむとすることなく、衆俗も亦伯の豺目狼視に觸るゝを好まずして自ら伯と親まざるに至る。是を以て伯には獨り個人的能力の伯を重からしむるものありて、國民に對しては殆ど何等の感化をも及ぼしたるものなかりき。伯は曾て伊藤内閣と自由黨との連鎖たることありしも、若し伯をして自由黨統率の任に當らしめば、到底星亨の爲し得たりしものを爲し得ざりしならむ。伯或は政黨の謀主たるを得たらむも、理想的黨首の器は之れを伯に望むべからず。伯は智力の輪轉機なり滿身總べて是れ智力にして其の道徳も其の勇氣も其の感情も皆智力を以て指導せらる故に伯に在ては智力と一致せざる道徳は愚なり智力より生ぜざる勇氣は暴なり智力に伴はざる感情は痴なり眞の道徳眞の勇氣眞の感情は智力を本位としたるものにして智力は眞なり美なり善なり絶對的尊貴なり。故に伯は智者を服すれども、勇者を服する能はず、血性家を服する能はず。是れ伯の勢力圈の甚だ狹かりし所以なり。
 然れども伯の智力本位は、其の人格の色彩輪廓を瞭然たらしむるを以て伯と相見るものは伯に於て一の僞善を認めず心々直に相印するの感を生じて伯に信服するものは恰も宗門的關係を胥爲するに至るべし。故に伯は多數の信服者を作る能はざりしも、其少數信服者は悉く小陸奧宗光なり。否らざるは陸奧宗光の熱心なる崇拜者なり。唯だ夫れ輪廓の餘りに瞭然たる人格は、其の實質概して狷介にして餘裕なし。偉大なる人格の第一特色は、受納力の宏博なるに在り。概括力の富贍なるに在り。統率力の優勝なるに在り。此の點に於て大隈伯は獨り當代に雄を稱し得べく、陸奧伯の極めて個人的獨尊的なると頗る其の人格を異にせり。大隈伯は政治に於てデモクラシーを主張すると同時に其趣味に於てもデモクラチツクなり之れに反して陸奧伯は政治の原則としては亦均しくデモクラシーを信ずと雖も其の趣味は或る意義に於て全くアリストクラチツクなり彼は凡俗を好まず又凡俗の好む所を好むこと能はず彼は凡俗と天才との間には踰ゆべからざるの鴻溝あるを信じ滔々たる凡俗は到底天才者の頭腦を領解する能はずと思惟せり若し大隈伯を以て思想界のトルストイとせば陸奧伯は稍々ニイチエに類似すと謂ふべし。ニイチエの奇崛獨聳は嶄然として時代の地平線を超越したるものありと雖も、終にトルストイの感化の偉大なるに及ばざるなり。陸奧伯の大隈伯に於けるは、猶ほニイチエのトルストイに於ける如きのみ。(四十年十一月)

   伯爵 板垣退助

     板垣退助

 世に傳ふ、板垣伯は兩面ある人物なり※(白ゴマ、1-3-29)外は粗放磊落なるに似て内は反つて細心多疑※(白ゴマ、1-3-29)外は直情徑行なるに似て内は反つて險怪隱密※(白ゴマ、1-3-29)外は剛愎偏固なるに似て内は反つて温柔滑脱※(白ゴマ、1-3-29)常に赤誠を口にして善く慷慨すれども、身を處するに巧詐あり世を行くに曲折あり、圭角ある如くにして圭角なく、平板なる如くにして表裏あり※(白ゴマ、1-3-29)是れ其の伊藤侯と合ひ易き所以なりと※(白ゴマ、1-3-29)然れども余の彼れに見る所は別に是れあり
 余の別に見る所とは何の謂ぞ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは民選議院の設立を建白せり、故に彼れを目して自由民權の創見者と爲す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)彼れは曾て木戸大久保諸氏と大阪に會合して議する所あり、次で明治八年遂に立憲の聖詔煥發せられたりき※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れを稱して立憲政體創造の首功と爲す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)彼れ或は愛國社を興し、或は立志社を設け、或は立憲政黨、或は愛國公黨自由黨等を組織して毎に之れが牛耳を執りき※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れを指して政黨政社の開山と爲す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)曰く皆然り※(白ゴマ、1-3-29)曰く皆然らず※(白ゴマ、1-3-29)彼れの力を此の數者に致せしの事實は何人も認むる所にして、彼れも亦之れを以て竊かに自ら誇るものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)故に皆然りといふ※(白ゴマ、1-3-29)然れども大阪の會議と民選議院の建白とは、共に獨り彼れ一人の發意したるものに非ざるは論なく、政黨政社の類に至ても、切に論ずれば唯だ時勢の産物たるに過ぎずして固より彼れの私生兒にはあらず※(白ゴマ、1-3-29)故に皆然らずといふ※(白ゴマ、1-3-29)余の別に彼れに見る所ありとは他なし※(白ゴマ、1-3-29)日本の政黨首領として比較的成功あるを得たる即ち是れのみ
 元勳諸老にして政黨を組織したるものは、彼を外にして大隈伯の改進黨あり、後藤伯の大同團結あり、西郷侯の國民協會ありき※(白ゴマ、1-3-29)然れども之れを組織して忽ち其の黨籍を脱し若くは之と全く干係を絶ち若くは一時之れを利用するに止り未だ板垣伯が能く自由黨と進退を倶にし終始其の黨の意思を代表して立つが如く熱心ならざるなり※(白ゴマ、1-3-29)故に政黨首領としての成功は亦彼れを以て最も優れりといはざる可からず
 西郷侯の國民協會を組織するや、自ら樞密議官を抛つて公然之れが首領となり、以て一旦大に爲すあらんとするの意氣ありしにも拘らず、其一躍して内閣に入るや復た冷然として一顧を協會に與へざるの奇觀あり※(白ゴマ、1-3-29)後藤伯の如きは特に甚しといふ可し※(白ゴマ、1-3-29)其の大言壯語到る處亡國論を唱へ、天下を麾て大同團結を號乎したるに方り、誰れか之れに依て入閣を計るの野心ある可しと想はんや※(白ゴマ、1-3-29)然るに入閣の勸誘一たび來るや勅命と稱して直に之れに應じ以て其の政友を賣り以て其の糾合せる同志に背き之れと共に大同團結は極めて短命なる不幸の運命を見たりしに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ大隈伯に至ては、其の改進黨を組織して未だ久しからざるに、乃ち亦總理の任を辭して脱黨し、尋で一個人の大隈伯として黒田内閣に入り、爾後復た直接に改進黨と關係なかりしは固よりいふを待たず※(白ゴマ、1-3-29)其の黨勢の思ふほど擴張せざりしは盖し亦是れが爲ならずとせんや※(白ゴマ、1-3-29)獨り板垣伯は然らず※(白ゴマ、1-3-29)其の自由黨に於ける十年一日の如く、自ら黨員の前驅となりて四方に奔走し、間斷なき運動と恒久なる熱心とは、深く黨員の信望を收めて能く之れを統一し、時に或は黨中紛擾の事ありと雖も、彼れと黨員との關係は、是れを以て必ずしも冷却するに至らず※(白ゴマ、1-3-29)而して今や彼は、其の黨與を挈けて伊藤内閣と結托し、遂に自由黨總理たる勢力を擁して入て内相の椅子に就く※(白ゴマ、1-3-29)是れ政黨首領として他の一侯兩伯に比し明かに體裁善き成功を得たりと認む可きものなり※(白ゴマ、1-3-29)余は即ち此の一事を擧げて以て彼れの人物を偉なりといはむ※(白ゴマ、1-3-29)彼れが最も誇る可きは亦恐らくは此一事に在らん歟。
 人或は曰く板垣伯入閣は無條件なり、彼れは總理の資格を以て入閣する能はずして元勳の名義に依りて入閣す※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤内閣に欺かれたるなりと※(白ゴマ、1-3-29)然れども其の如何なる名義に依て入閣せるに拘らず彼れと自由黨との關係實際に消滅したりとは何人も認むる能はじ※(白ゴマ、1-3-29)况んや彼の入閣は自由黨と伊藤内閣との結托に原づき自由黨一致の同意を得自由黨全體の意思を代表して入閣したるを事實とす可きをや※(白ゴマ、1-3-29)假りに伊藤内閣の爲に欺かれたりとせむ※(白ゴマ、1-3-29)是れ自由黨全體の欺かれたるのみ彼れが自由黨を代表して入閣したる事實を抹殺する能はざるなり
 故に彼れの入閣は、少なくとも政黨内閣に進むの門戸を開き、以て今後の政局に一變化を與ふるの動機となりたるものなり※(白ゴマ、1-3-29)固より彼れが果して能く其の目的を達し得るや否やは容易に斷言す可らざるのみならず、寧ろ技倆の稱すべきなき一老漢を以て内務の難局に膺る※(白ゴマ、1-3-29)其の或は久しからずして一敗するに至るも亦未だ知る可からず※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れは既に根據を自由黨に有するに於て再び野に下るの日は之れを率ゐて以て其の敵とするものと戰ふの力あり※(白ゴマ、1-3-29)伊藤内閣にして彼れを欺き自由黨を欺くの事實明白となることあらば、彼れは直に復讎的姿勢を取て伊藤内閣に向はむ※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤内閣の大に苦む所にして自由黨の竊かに負む所なり。彼れが伊藤内閣と結托したるは、彼れの名譽に於て大なる損失あり※(白ゴマ、1-3-29)人は彼れを變節者と呼べり、軟化したりと笑へり※(白ゴマ、1-3-29)太甚しきは彼れを嘲つて主義と利福を交換したりといひ、彼れが岐阜の遭難に死せざりしを不幸と爲すに至れり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは方にあらゆる醜詬詆辱の重圍に陷り、滿身悉く傷痍を受けて殆ど完膚なきを見る※(白ゴマ、1-3-29)然り彼れが盛名の時代に死せざりしは實に彼れの不幸なりき※(白ゴマ、1-3-29)大不運なりき※(白ゴマ、1-3-29)さもあらばあれ彼れは他の元勳政治家に比して最も堅固なる根據を有せり※(白ゴマ、1-3-29)政黨の首領として最も素養ある位地を有せり※(白ゴマ、1-3-29)他の元勳政治家は未だ利害を同ふするの政黨を擁するものなく、一旦政黨に頼るの必要を認むるに於て、唯だ現存の政黨を利用するか、若くは新たに之れを製造するの二途あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)然るに板垣伯の自由黨に於けるは多くの年所を閲みして終始相提携し以て離る可からざるの關係を爲せしに由り彼れは尚ほ儼として政界の一勢力たるを失はざるなり
 彼れは能く始めより政黨の眞意義と眞作用とを融會したりしや否や將た政黨内閣を組織するの自信を有して自由黨と飽くまで進退を倶せんとするや否や共に吾儕の知る所に非ずと雖もとにかく日本政黨中に在て彼れは最も舊き歴史ある自由黨の首領として比較的成功を得たるの事實は甚だ多とするに足れり※(白ゴマ、1-3-29)余は彼れが心術の正邪醇駁分明ならざるを以て此の一成功を沒するに忍びざるなり。(廿九年五月)

     最近の板垣伯

      其一 劈頭の喝破
 曾て自由神の化身として、憲政の天國を建設す可く藩閥の惡魔と健鬪したる老英雄も、今や其の屠龍搏虎の手を收めて、平和にして且つ女性的なる社會事業に老後の慰藉を求むるの人となりぬ。曰く風俗の改良、曰く日本音樂の改良、曰く勞働者の保護、曰く盲人の教育、曰く女囚乳兒の保育、是れ彼れが老夫人の熱切なる同情と協力とに頼りて現に社會に寄與しつゝある生涯の殘光なり。彼れの前世紀は、血の歴史なり、戰鬪の歴史なり、波瀾多き歴史なり。彼れは屡々不忠不臣の名を受けたりき。彼れの一擧一動は常に探偵の報告資料たりき。彼れの黨與は總て叛逆匪徒を以て目せられたりき。あらゆる迫害、あらゆる追窮は、高壓力に富める武斷政府に依りて間斷なく試みられたりき。豈唯だ此に止らむや。彼れは反對黨の毒刄に傷けられて殆ど生命を喪はむとしたりき。嗚呼當年の彼れを以て之れを現時の彼れに比せば、殆ど喬木を出でて幽谷に遷りしが如し、誰れか其の變化の甚しきに驚かざるものあらむや。
 然れども彼れは二十餘年間國民的運動の首領たりしが爲に其の資望は尚ほ隱然として重きを公私人の間に有せり彼れが勢力の源泉たりし一大政黨は既に彼れの手を離れて伊藤侯の領有に屬したれども新首領の訓練未だ到らずして往々舊首領の復活を希望するものあるのみならず世には人の美徳を歎美するもの稀れにして寧ろ他の意中を曲解するを喜ぶの批評家多きがゆゑに彼れ少しく動けば揣摩臆測紛然として隨ひ起る自由黨再興の風説の如き即ち其の一なり
板垣の復活、自由黨の再興、何たる捏造説ぞ、余の夢にも覺えざる虚聞なり。
是れ彼れが記者を其の應接間に迎へて、微笑を帶びながら、而も極めて明白に喝破したる劈頭語なりき。曩に高知政友會支部に紛擾あるや、彼れは老躯を起して故郷に歸れり。其の紛擾に對して、自ら責任ある裁决を與へむが爲には非ず、唯だ郷黨の要望に應じて、情誼上の忠告を與へむが爲に外ならざりき。彼れは一種の意見書を發表したりき。此の意見書には政治哲學の旨義を含蓄せる文字あれども、政黨首領の宣言書マニフエストと全く其の體樣を異にしたる個人的立案なり。彼れ豈當世に野心あらむや。

      其二 時代の事業
 彼れは白縞の綿服に紺太織の袴を着け、籐椅子に凭れて日本製のシガレツトを吹かしながら、反切明亮なる土佐音にて談話を續けたり。
政治界は權勢、名譽、利祿及び人爵の中心點なり。故に世俗の欲望皆此に集注す。獨り社會事業に至ては、本來無報酬にして一も如上の欲望を※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)かしむるに足るものなし。是れ政治的退隱者たる板垣の爲に好個の事業に非ずや。
 彼れは斯く語りつゝ、眞摯なる鳶色の目にて記者を見詰めたり。三分の神經質と七分の多血質とを調和したる相貌は今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども其の額際より頬の邊りを繞りて蜘蛛の巣の如く織り出されたる無數の皺紋は深刻にして精苦なりし閲歴の默示として頗る記者の同情を刺戟したりき村夫子らしき質朴の風采にも流石に第一流の國士たる品位は備はりて侵かし難く純白にして柔滑なる絹樣の美鬚髯は奇麗に梳られて顏面の高貴なる粧飾と爲れり凡そ人物の精力は大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり。明治の時代を見るに、維新政府の建設より國會開設に至るまでを第一期と爲す可く、國會開設より憲政黨内閣の組織に至るまでを第二期と爲す可く、第一期の時代事業は、專制主義の政府に代ゆるに立憲政府を以てして、國民に參政權を享有せしむるに在りき。是れ最も重大にして最も困難なる時代事業にして、歐洲に在ては、之れを仕遂ぐるが爲に殆ど百年以上の苦がき運動を要したりき。日本の板垣伯は、明治六年始めて其の同志と與に民選議院の建白を提出したり。而して十四年には、國會開設を豫約し給へる詔勅の煥發あり、二十二年には國民歡呼の間に憲法發布せられ、其の翌年には待ち設けたる初期の議會は召集せられたりき。是れ豈驚く可き速力を示せる成功に非ずや。彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり彼れは他の如何なる政治家よりも此の第一期の時代事業に貢献したる功勞多きは爭ふ可からざる事實なり。伊藤侯は憲法立案者の名譽を獨擅し得可し、然れども此の名譽は、板垣伯が國民的運動の首領として根氣よく國會論を繼續したる賜のみ。故に伊藤侯が故陸奧伯の献策を納れて、彼れの率ゐたる舊自由黨と提携せむとするや、先づ彼れと會合し、徐ろに説て曰く、足下は國會開設の主動者なり、我輩は憲法の立案者なり、乃ち立憲政治の美を濟すの責任は、懸つて足下と我輩との双肩に在らずやと。是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も事實は之れを眞理として承認せざる可からず彼れは日本憲政史上に永久磨滅す可からざる千古の格言を留めぬ如何に其の沈痛にして天來の音響を帶びたるかを記臆せよ曰く板垣死すとも自由は死せずと是れ實に國民的運動の大精神を代表したるものに非ずして何ぞや彼れの名は此の格言に依て萬世に感謝せらる可したとひ岐阜の遭難に死したりしとも彼れに於て復た何の遺憾あらむ况むや生きて第一期の時代事業を完成し併せて其の當初の理想を實現したる政黨内閣をも一たびは大隈伯と聯合して之れを組織したることあるをや彼れは第一期の時代事業に竭くす可かりし精力を餘まして之れを第二期の事業にも使用したるがゆゑに是れ所謂る強弩の末魯縞を穿たざるもの記者は寧ろ彼れが退隱の遲かりしを惜む
 顧ふに舊自由黨は、彼れと與に産まれて、彼れと與に成長したるものなり。彼れ一旦悟る所あるや、何の惜氣もなく、無代價にて之れを伊藤侯に讓與したりき。是れ人情の忍び難しとする所なれども、彼れに在ては疑ひもなく明哲の處置たり。蓋し今の政治界に立つものは、皆權勢利祿を得むことを目的とし、此の目的を達するに最も都合善き首領を求めて之れに頼らむと欲するものに非るなし。而も彼れの位地及び人物は此の點に於て黨人の望を繋ぐに足らざるを如何せむや。彼れが人情の忍び難きを忍びたるは、更に之れよりも一層忍び難きものあるを恐れたればなり。

      其三 社會改良
 圓卓を隔てゝ彼れと語れる記者は、如上の理由に依りて彼れの退隱に同情を表するを禁じ得ざりき。此に於てか彼れの社會事業は、又た滿腔の敬意を以て之れを迎へざること能はざりき。彼れは社會改良の必要なる所以を説て曰く、
憲政の完美を謀らむとせば、社會の根柢を鞏固ならしめざる可からず。社會の公徳腐敗しては、獨り政治の健全ならむことを望むも難からずや。而して社會の公徳は、宗教家若くは道學先生の説教のみにて維持し得可きに非ざれば、先づ有形上の禮節作法より矯正し始むるを要す。是れ余が風俗改良に着手したる所以なり。
彼れは※(「女+尾」、第3水準1-15-81)々として順序正しく語り出だせり、彼れは風俗改良の手段としては、次に國民の音樂にも注意せざる可からずといひて、泰西の樂譜曲調を直譯したる學校音樂は、日本國民の趣味に適せざるがゆゑに之れを改良すべき必要ありと説きたり。彼れは憐れなる盲人の生活状態を進めむが爲に、盲人教育の必要ありと説きたり。彼れは鰥寡孤獨の救恤男女勞働者の保護は、共に國家の責任に屬する重要なる問題なるがゆゑに、前年内務大臣たりし時、既に屬僚に命じて調査せしめたることありと説きたり。彼れは之れを説きつゝ、或は瞑目して熟考する如く、或は眉を軒げ手を搖がして語氣を助けたりき。最後に彼れは最も興味ある佳語を以て、記者の傾聽を促がしたり。
余を顧問としたる婦人同情會は女囚携帶乳兒保育會なるものを組織したり。是れ其の名の如く女囚の携帶乳兒を引取りて、之れを保育するを目的とする慈善事業なり。凡そ襁褓の乳兒にして其の母の有罪なる爲めに均しく獄中に伴はれて陰欝なる囚房の間に養育せらる天下豈此に過ぐるの慘事あらむや彼れ携帶乳兒の斯く獄舍の生活に慣るゝや反つて普通兒童の活溌なる遊戯を喜ばずして再び獄舍に入らむことを望むものあるに至る
彼れは談じて此に至り、殆ど感慨に堪へざるものゝ如く、其の瞼邊は少しく濕るみ、其聲は少しく顫ひぬ。
一女囚の携帶せる乳兒は、母乳の不足なるが爲に、麥飯の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)オモユを飮用せしめたるに、激烈なる下痢を起して死に瀕したり。婦人同情會は之れを引取りて治療を加ふるや、此の半死半生の乳兒は、忽ちにして健康體に復したりき。母の刑期滿つるを聞きて、其の監獄に携へ往きて母子を會見せしめたるに、母は喜び極まつて泣き以後決して罪惡を犯さずと誓へりとぞ。又た一乳兒あり、聲を發する毎に臍凹み頭腦は腫張して頗る畸形なりき。其の病源は不明なれども兎に角之れを引取りて養育したるに、頭腦は常態に復し臍部の奇觀も止みたりき
彼れは※(「口+荅」、第4水準2-4-16)然として笑へり。冷やかなる笑に非ずして温かなる笑なりき。彼れは遽に容を改め、極めて莊重なる辯舌を以て犯罪を天性に歸するの理論を否定せり。彼れは犯罪を以て人生の不平に原本すと爲し、家に財なく、身に技術なきは不平の由て起る所なるがゆゑに、犯罪を減少せむとせば、國家は貧民に教育を與へて、生活に必要なる技術を授けざる可からずと熱心に論じつゝ、靜に椅子を離れて傳鈴を押せり。彼れは響に應じて來れる書生に、婦人同情會規則を持參す可きを命ぜり。斯くて一葉の印刷物を記者に渡たしたる彼れは、稍々其の顏面を曇翳を浮かべつゝ、
眞の慈善家は大抵資財なく富めるもの多くは慈善家にあらず儘ならぬ世や
と語り終りて座に復せり。

      其四 彼れの人格
 記者が彼れに於て見たる人格には膽識雄邁霸氣人を壓する大隈伯の英姿なく聰敏濶達才情圓熟なる伊藤侯の風神なく其の清※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)孤峭にして儀容の端※[#「殼/心」、43-上-8]なる其の辯論の直截明晰にして而も謹嚴なる自ら是れ義人若くは愛國者の典型なり。土佐人士には二種の系統あり、一は冷腦にして利害に敏なる策士肌の系統にして、故後藤伯之れを代表し、大石正巳林有造等の人格は之れに屬せり。一は温情にして理想に富める君子肌の系統にして、板垣伯之れを代表し、故馬場辰猪植木枝盛等の人格之れに屬せり。谷干城子の如きも、孰れかといへば寧ろ後者に近かく、唯だ其の板垣伯と異る所は、主義のみ、信條のみ、有體に評すれば谷子は保守主義の板垣伯にして板垣伯は進歩主義の谷子なり更に語を換へていへば谷子は東洋的板垣伯にして板垣伯は歐化したる谷子なり
記者は彼れの應接間を辭せむとしつゝ、端なく三個の額面に注目を導かれぬ。彼れは記者の問に應じて身を起し、先づ南面の壁上に掛れる金縁の大額を説明して曰く、
是れ普佛戰爭後に於ける第一囘の佛國國民議會なり。左側に起立し、頻りに手を揮つて何事か發言しつゝあるの状を爲せる鬚武者の男は、有名なるガムベツタなり。彼れは急進過激黨の首領として、斷然共和政府を建設す可しと主張し、當時盛むに國民議會の議場に暴ばれたりき。中央の椅子に坐を占め、群衆に取り圍まれて沈思默考しつゝあるは、穩和黨の首領チエールなり。彼れは共和政府建設論に對して、猶豫決する能はざるが爲に、急激黨の難詰を受けつゝあるなり。
彼れは更に他の一額に向へり。是れ伊太利統一後始めて開きたる伊太利議會の寫眞なりき。彼れの持てる扇子は、起立せる異裝の一漢子に觸れたり。彼れは曰く、
見よ、破れたる軍帽を冠むり、長がき外套を着し、一人の從者を伴ふて議場の片隅に起てる質朴漢は、是れ議會の光景を見むとて來れるガリバルヂーなり。
彼れは曾て日本のガリバルヂーを以て稱せられたりき其の多感にして侠熱ある夫れ或はガリバルヂーに私淑する所あるに由るか。最後に彼れの説明せる石版繪の額は、此應接間に於て最も珍奇なる紀念品たりき。舊式の武裝を爲したる十四五人の軍人は、或は鐵砲を捧げ、或は刀を撫して撮影せられぬ。而して彼れは三十歳前後の血氣盛りなる風貌に於て其の中に見出されしが其の面影は今も爭はれぬ肖似を認識せしめたりき。此石版繪は、彼れが會津征伐より凱旋して、部下の士官を隨へ、江戸市中を遊觀したる時、通り掛けの寫眞屋にて撮影したるものゝ複製なり。彼れは之れを説明しつゝ滄桑の感に堪へざるものゝ如し
 顧れば彼れの出發點は軍人にして、中ごろ改革家と爲り、國會論者と爲り、政黨の首領と爲り、終には社會改良家と爲りて、最も平和なる生涯に入る。是れ譬へば急湍變じて激流と爲り更に變じて靜流と爲り而して後一碧洋々たる湖沼と爲れるが如し。此の點よりいへば、人生自然の順序を經過したりといふ可し。然れども彼れの生涯を一貫して渝らざるものは、利害よりも良心に動され易き性情是れなり。是れ彼れの彼れたる所以なり。(三十五年十月)

     古稀の板垣伯

 ※(丸中黒、1-3-26)三月十八日紅葉館に開かれたる板垣伯古稀の壽筵は、無限の同情と靄々たる和氣とを以て滿たされた近年の盛會であつた。伯の晩年は甚だ寂寞で、殆ど社會に忘られて居つたが、而も伯は社會に忘れらるゝのを怨みもせず、悲みもせず、又毫も自分に對する國民の記憶を要求もしない。こゝらが板垣伯の人格の尊い所であらう。
 ※(丸中黒、1-3-26)元來伯は犧牲的精神に富める義人の典型であつて、政治家といふ柄ではない。故に政治上に於ては、伯よりも大なる事業を成した人は幾らもある。併し功勞の多少は別問題として、伯は明治史劇の或る重なる部分を勤めた役者であるに相違ない。
 ※(丸中黒、1-3-26)民權自由論は決して伯の專賣品ではない。故木戸公や、今の伊藤侯大隈伯などは、伯よりも以前に、少なくとも伯と同時代頃には、民權自由の意義を領解して居つたのである。士族の特權を廢して四民平等の制度を設けたのは、即ち民權自由論より割り出した改革で、此の改革は、勿論伯一人の發議ではないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)民選議院設立の建白といつても伯の首唱ではなく、當時の政府反對黨が案出したる政略的意見であるといふ方が適當である。伯は其の連名の一人たる外に、更に特筆大書すべき異彩を有した譯ではないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)立憲政治を最も親切に研究した政治家は、故木戸公で、地方官會議を開いたのは其の準備であつたといつても宜しい。故木戸公のみならず、維新の元勳諸公は總て立憲政治の必要を認めて居つたのである。論より證據、維新の元勳中、誰れあつて立憲政治に反對した者がなかつたのを見ても分かる。
 ※(丸中黒、1-3-26)切にいへば、明治政府は最初より立憲政治を主義としたものである。維新の大詔に、萬機公論に決すべしとありしは、最も明快に此の主義を宣示したので、明治初年早くも集議院といへる會議組織の官衙を設けたのも、立憲政治の地ならしを試みたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)されば二十三年の國會開設は、明治政府が維新以來準備して居つた大事業を完成したまでゝあつて、板垣伯の運動に餘儀なくされたのでも何んでもないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)且つ板垣伯の主張したる民權自由論は、佛國革命時代に行はれたルーソー民約説の流れを酌んだもので、日本の國體とは兩立し難き危激な理想を含んで居つた。今日では何人も斯る民權自由論を唱ふるものがない、恐くは伯自身に於ても全く其の持論を一變したのであらうと考へる。
 ※(丸中黒、1-3-26)要するに、伯は立憲政治の建設に第一の功勞ある人ではない。伯は夢の如き理想を以て夢の如き公生涯に浮沈したに過ぎないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)併しながら伯のエライ所がないでもない。それは私黨を作らずして公黨を作つたことである。老西郷の私學校は一種の私黨で、老西郷の人物を崇拜する連中の團體であつた。當時政府に反對するものは、動もすれば私黨を作るの傾向があつて、前原一誠の如き、江藤新平の如き、皆私黨を率ゐて事を擧げたのであつた。然るに伯は民權自由論の一點張りで、唯だ理想を宣傳することのみを勉めた。畢竟伯は政權を得むとするの野心がなく、偏へに民權自由論を鼓吹するを目的としたからである。自由黨は其の結果として生れたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)若し伯にして政權の分配に與らむとする意があつたとすれば、民權自由論は極めて不利の武器であつた。伯は此の武器に依て却つて政權より遠かつたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)一體伯は私黨を作るには不向の性格を有して居るかも知れない。私黨は人を本位としたもので、其の人に黨すれば位地を得る望みがあると考へる野心家とか、若くは其の人に首領的器局があつて何となく群衆を引き付ける所があるので、從つて人物を崇拜するものとかゞ結合した團體である。然るに伯は自分の部下となるものに青雲の志を遂げしむる勢力と手腕とを持つては居らなかつた。又群衆を引き付ける首領的器局を備へた人でもないやうである。
 ※(丸中黒、1-3-26)伯は巧みに風雲を指麾し、機會を利用して權勢を博取する故後藤伯の智略を缺いて居る。伯は利害を打算して進退する策士でないから、功名を懷ふものは伯の旗下に集らなかつた。たとひ一たび伯の門を潛つても大抵は失望して逃げ出すものが多かつたやうである。
 ※(丸中黒、1-3-26)且つ伯は自由民權論の大宗師で、理論に於ては平民主義を信じて居つたに相違ないが、伯自身は平民らしくなく、寧ろ貴族風の人といふものがある。
 ※(丸中黒、1-3-26)それから伯は極めて潔癖で、憤りつぽくて、人を容るゝの量に富んだ方でもない。又赤心を人の腹中に預けて置て毫も疑はぬやうの英雄收攬術には頗る缺けて居るらしい。曾て馬場辰猪、大石正巳、末廣重恭などが伯と喧譁別れをしたのも之れが爲である。
 ※(丸中黒、1-3-26)故に伯は個人として餘り士心を得た方でなかつた。併し伯は人氣を取ることを目的としないで、唯だ自由民權論を終始一日の如く唱道した。伯の政治生涯は性格に依て指導せられたる所少なく、理想に依て指導せられた所が多い。伯は理想を以て國民を教化せむと勉めたのであつた。其の結果板垣黨が生れずして自由黨が生れた。伯を中心としたる私黨ではなく、理想を中心としたる公黨が出來上つたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)自由黨に續て改進黨が現はれたが、此の改進黨は本來をいへば大隈伯が自分の直參や郎等を集めて作つたもので、實際初めは伯を中心として組織せられたものであつたから、何となく大隈臭い所があつた。世人も亦一名之れを大隈黨といつたのである。然るに自由黨は少しも板垣臭い所はなかつた。どう見ても板垣黨といふべき形も色もなかつたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)勿論當時自由黨は屡々過激の行動が有て、政府より革命黨か叛逆人の寄合かのやうに思はれ、世間も亦自由黨といへば粗暴なる壯士の團體であると認めたものも多かつたから、着實に政治の改良を企てやうとするものは、自由黨よりも改進黨に赴くの傾向があつた。
 ※(丸中黒、1-3-26)併し伯の東奔西走の勞苦は空しからず、追々自由黨の勢力は擴がつて、地方の政治的地圖の大部分は、自由黨に依て占領せられた。今の政友會が政黨中で最も幅を利かして居るのは伯の植ゑ付けた苗木の伸びたのに過ぎない。
 ※(丸中黒、1-3-26)伯の事業として特筆すべきものは即ちこれであつて、明治の政黨史を編するものは、必らず伯の爲に多くの頁數を割愛せねばならぬと考へる。
 ※(丸中黒、1-3-26)勿論議會開設後の自由黨は、最早自由民權論といふやうな理想ばかりで動いて居る譯には往かない。政黨の仕事は、重に議會の掛引で空理空論よりも實際問題を處置せねばならぬ。そこで自由黨は次第に板垣伯の指導に滿足しなくなつた。伯も亦餘り政治には熱心でなかつたやうで、事實をいへば、唯だ名ばかりの首領であつた。
 ※(丸中黒、1-3-26)星亨の如き腕白者が自由黨の實權を握つたのも、即ち其の爲めであつて、伯の政治生涯は此の時代には既に終りを告げて居つたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)伊藤侯が政友會を組織して自由黨を改宗させたのは、板垣伯に取つても渡りに船で(伯はさう思つて居らぬかも知れぬが)若し此の過渡の一時期がなかつたならば、伯は自由黨の始末に窮したであらう。
 ※(丸中黒、1-3-26)兎に角伯は自由黨の爲に餘程苦勞されたものである。其の後身たる政友會は決して伯の前功を忘れてはならぬ。(三十九年四月)

   公爵 山縣有朋

     山縣有朋

 世間、山縣有朋を見る何ぞ其れ謬れるや。彼を崇拜するものは曰く、重厚端※[#「殼/心」、45-下-16]古名臣の風ありと※(白ゴマ、1-3-29)彼を輕蔑するものは曰く、小膽褊狹毫も人材を籠葢するの才なしと※(白ゴマ、1-3-29)或は彼を政界の死人なりと笑ひ、或は彼を文武の棟梁なりと稱し、毀譽褒貶交々加はるも渾べて皆誤解なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は伊藤博文の如く圓轉自在ならず※(白ゴマ、1-3-29)大隈重信の如く雄傑特出ならず※(白ゴマ、1-3-29)又井上馨の如く氣※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)萬丈ならず※(白ゴマ、1-3-29)即ち唯だ平凡他の奇あらざるものに似たりと雖も、余を以て之を觀れば、井上や、大隈や、伊藤や、皆露骨裸體の人物にして其長所と短所と共に既に明白なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は獨り然らず、彼は政治家として記憶す可き一の成功もなく失敗もなし※(白ゴマ、1-3-29)而も彼は巧みに隱れて巧みに現はるゝの術を善くし曾て其の行藏を以て人の指目を惹くの愚を爲さず故に彼は一種の秘密なり
 伊藤前内閣倒れて松方内閣將に成らんとするや、衆皆彼を以て首相に擬し、慫慂已まず※(白ゴマ、1-3-29)而して彼は固辭して烟霞の間に去れり世間輙ち之を以て彼れの雄心既に消磨せるの兆と爲す※(白ゴマ、1-3-29)特に知らず是れ唯だ巧みに隱れたるに過ぎずして以て彼れが決して再現せざるの永訣と爲す可からざるを※(白ゴマ、1-3-29)何を以て之れを言ふや、彼れは曾て前内閣に公然反對は爲さゞりしも亦其の交迭の機終に近づけるを知りたりき※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れの露國に往けるに及て、世間彼が外遊の所由を察せざるに拘らず、政變は必らず彼れの歸朝後に起る可きを豫想したりき※(白ゴマ、1-3-29)果然彼の歸朝と共に一個の公問題は政變の前驅となり出でたりき※(白ゴマ、1-3-29)曰く大隈を外務に入れ松方を大藏に擧ぐるは戰後に經營を全うする刻下の急要なりと※(白ゴマ、1-3-29)而して彼は此問題の發議者として數へらるゝのみならず、又之れを實行するに於て朝野の間に斡旋したりき※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如くにして前内閣倒れたりとせば、之に代るの内閣が彼に首相たるを求むるは自然の情勢なり※(白ゴマ、1-3-29)而かも彼は周圍の慫慂に應ぜずして反つて新内閣の組織に干渉せず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其の志決して政界に永訣せるに非ず彼は巧みに隱れたるのみ
 試に彼が黒田内閣の時代に於ける出處を見よ※(白ゴマ、1-3-29)彼は條約改正に反對するが爲に一の機關新聞を起して頻りに大隈攻撃を事とせしめ、而して當時彼は外國を漫遊して恰も政變を待つものゝ如く、其歸朝せるの日は、大隈難に逢ふて内閣方に動くの際にして、彼は内閣交迭の主謀者たらざるも、亦敢て黒田内閣の不幸を助くるの意思はなかりき※(白ゴマ、1-3-29)故に黒田首相職を辭するや、衆彼に擬するに首相を以てすること亦猶ほ伊藤前内閣崩壞後に於けるが如くなりき※(白ゴマ、1-3-29)而も彼が固辭して受けざるや、故三條公乃ち已むを得ずして首相となれり※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼が巧みに隱れたる所以にして其の機熟し時來れるを見るや彼れ果して巧みに現はれて山縣内閣は忽如として成りたりき※(白ゴマ、1-3-29)歴史は反復す山縣有朋は未だ死せざるを知らずや。抑も彼は前内閣の後を受けて自ら内閣を組織せざるは何の故ぞ、蓋し大隈を畏れたるに由る※(白ゴマ、1-3-29)大隈を畏るゝは大隈と進歩黨との關係に顧みる所あるが爲なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの進歩黨を好まざるは自由黨を好まざるに同じきなり※(白ゴマ、1-3-29)然らば何故に前に大隈の入閣に贊成せる乎※(白ゴマ、1-3-29)蓋し大隈出でずむば内閣改造の事成す可からざればなり※(白ゴマ、1-3-29)今や彼は京攝の間に優悠して復た人世に意なきが如しと雖も、彼と同腹一體の苦談樓主人は縱横策を畫して風雪を煽ぐに日も維れ足らざるに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)彼は巧みに現れんが爲に巧みに隱れたるのみ※(白ゴマ、1-3-29)彼は遲鈍なる如くにして反つて巧遲に※(白ゴマ、1-3-29)容易に放たず容易に動かずして出でても身を保つを思ひ處りても身を保つを思ふ※(白ゴマ、1-3-29)而して人は終に彼れの智術を知らざるなり
 彼は最も失敗を恐る※(白ゴマ、1-3-29)失敗を恐るゝは名を惜む所以にして名を惜むは身を保つ所以なり※(白ゴマ、1-3-29)故に彼は隱忍愼密先づ自ら布置せずして他の石を下すを待つの碁法を用ゆ※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤春畝先生と雖も未だ悟入せざるの奇法にして、流石に滑脱なる先生も、其出處進退の巧みなるに至ては遠く彼に及ばざるもの洵に此れが爲なり※(白ゴマ、1-3-29)余は彼が未來の運命を豫言し得るものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば政界今後の未來は容易に豫言し得るものならざればなり※(白ゴマ、1-3-29)若し萬々一大隈をして失敗を再びせしめ國民派をして其の理想を實行せしむる不思議の政變あらば固より山縣時代を見るに至らずと謂はず※(白ゴマ、1-3-29)然れども斯くの如くして成りたる内閣は能く政治上の進歩と兩立し得る乎※(白ゴマ、1-3-29)自由黨に反對せられ、進歩黨に背かれて能く幾何日月を維持し得る乎※(白ゴマ、1-3-29)或は議院を解散して露國を征伐するの夢を見む乎※(白ゴマ、1-3-29)或は伊藤、井上を聯ねて長州内閣を組織するの算ある乎※(白ゴマ、1-3-29)均しく皆一場の空想たるに過ぎずむば、彼れが身を保つの最好秘訣は唯だ今日に於て實際に政界と永訣するに在るのみ。(二十九年十二月)

     山縣侯の政治的系統

      其一 山縣侯の潛勢力
 有體に云へば山縣侯は政治家として今尚ほ顯勢力を有するの人に非ず※(白ゴマ、1-3-29)其思想は時代の精神に後れ其手腕は立憲機關の運用に適せず※(白ゴマ、1-3-29)而して其名望を視れば固より國民的基礎の上に立てる大隈板垣等の政黨首領と同じからず※(白ゴマ、1-3-29)况むや侯は元來馬上の雄にして政治は其長所ならざる可きに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)侯曰く、余は一介の武辨、敢て現時の難局に當るに足らずと※(白ゴマ、1-3-29)是れ謙抑の言に似たれども、實は自己の眞價を語りたる自然の自白なり
 されど不思議なるは侯の位地なり※(白ゴマ、1-3-29)現時の難局は有力なる政治家の擧げて手を燒きたる所なるに侯は所謂る一介の武辨を以て之に當らむとし自ら椿山莊を出でて第二次の山縣内閣を建設す※(白ゴマ、1-3-29)顧るに第一次の山縣内閣は、伊藤大隈の連敗の後を受けて起り、今や第二次の山縣内閣も亦伊藤大隈連敗の後に出でたり※(白ゴマ、1-3-29)夫れ伊藤大隈は當世の二大政治家にして、之れを山縣侯に比すれば、政治に於て一日の長あること何人も疑はざる所なり※(白ゴマ、1-3-29)而も侯は前後共に此二大政治家の持て餘ましたる難局に當りて敢て怪まざるは奇なりと謂ふべし※(白ゴマ、1-3-29)進歩派の領袖大石正巳氏の如きは、侯の内閣を冷笑して、鎧袖一たび觸るれば忽ち倒る可しといひたれども、啻に倒れざるのみならず反つて之れを助くるもの朝野に少なからざるは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)蓋し侯は政治上の顯勢力を有せずと雖も尚ほ一種の潛勢力を有すればなり※(白ゴマ、1-3-29)侯の現在の位地を知らむとするものは先づ此潛勢力を觀察せざる可からず
 品川子は、侯及び伊藤井上の三老を崇拜して長州の三尊と稱す※(白ゴマ、1-3-29)若し子に向て三尊中の第一座たる人を指名せよと求めば、子は必ず山縣侯を指名せむ。是れ侯は三尊中最も大なる潛勢力を有する人たればなり。伊藤侯は潛勢力なきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど其現在の位地は寧ろ孤立なり※(白ゴマ、1-3-29)一見すれば其名望甚だ廣大なる如くなれども、實は漠然として定形なき名望のみ※(白ゴマ、1-3-29)侯と利害休戚を同うするものは、伊東巳代治、末松謙澄、金子堅太郎の二三あるに過ぎずして、其領分は頗る狹隘なるものなり※(白ゴマ、1-3-29)井上伯に至ては、殆ど純然たる政友を有せず、其有する所のものは山縣侯の系統に屬する人物にして伯に專屬するものにはあらじ。例へば都筑馨六小松原英太郎藤田四郎古澤滋の如き其他中央官府及び地方廳に散在する屬僚の如き、皆是れなり。
 顧みて山縣侯の系統を見よ、現内閣に於ては、清浦奎吾曾禰荒助桂太郎の三氏固より侯の直參たり※(白ゴマ、1-3-29)荒川顯正子の如きは、世人或は伊藤系統に屬するものなりと想像するものあれども、子は夙に山縣侯の推挽によりて漸く顯要の位地を占めたる人なるを以て若し兩侯兩立せざるの時あらば子恐らくは伊藤侯に背くも山縣侯に背く能はず※(白ゴマ、1-3-29)青木周藏子の傲岸不遜は、伊藤侯にも井上伯にも忌まるれど、獨り山縣侯は善く之れを容れ第一次の内閣にも外務大臣の椅子を與へ今の第二次内閣にも又子を外務大臣と爲す※(白ゴマ、1-3-29)故に子は深く侯を徳として其腹心なるを甘むず兒玉臺灣總督は、伊藤内閣の時代に用ゐられたる人なれども、其系統をいへば山縣派に屬し、前々警視總監たりし園田安賢男及び現警視總監大浦兼武氏は、長化したる薩人を以て目せられ共に山縣侯の幕下たり園田男は曾て伊藤侯にも信任せられたる人なれども、大隈内閣の成立せる當時より、遽かに伊藤侯の政見を非として純然たる山縣崇拜家と爲れり※(白ゴマ、1-3-29)會計檢査院長渡邊昇子は世人之れを伊藤系統の人なりといへども、其思想感情は寧ろ山縣侯に近かく、檢査官中の老功中山寛六郎氏は、今や滿身錆※(「金+肅」、第3水準1-93-39)の廢刄なれども一時は屬僚中の尤たりしが氏も亦山縣侯に恩顧ある人なり※(白ゴマ、1-3-29)現宮内大臣田中光顯子は土佐出身なれども、其精神は夙に之れを山縣侯に捧げたる人なり※(白ゴマ、1-3-29)現法制局長平田東助氏は、政府部内に於ける一方の領袖にして、而も山縣侯の參謀と稱せられ、現内閣書記官長安廣伴一郎氏は、後進の一敏才にして、而も山縣侯の智嚢たり※(白ゴマ、1-3-29)野村靖子は第二次伊藤内閣の遞信大臣たりし時、屬僚の爲めに放逐せられたる敗軍の將にして、今は樞密院に隱るゝ人なれども、山縣侯一たび之れを招げば履を逆まにして之れに馳せむ※(白ゴマ、1-3-29)看來れば山縣系統の四方に蔓引すること實に斯くの如きものあり。
 此故に侯が政府部内及び貴族院に於ける潛勢力は薩長の元勳中一人として之れに及ぶ者あるなし※(白ゴマ、1-3-29)先づ政府部内に就ていはむか、内務省は近來自由派の爲めに踏み荒されたれども、山縣侯が曾て久しく統治したる領分なれば其根據の鞏固なる容易に拔く可からざるものあり※(白ゴマ、1-3-29)司法省に於ける山縣系統は亦頗る廣く、清浦派と目せらるゝものは總べて山縣系統と認めて可なり、遞信省は之を前にしては野村靖子に依て、之れを中ころにしては、故白根專一男に依て、之れを今にして芳川顯正子に依て其山縣侯の領分を開拓したること少なからず※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ陸軍省に至ては、是れ殆ど侯ありて始めて陸軍省ありと謂ふ可くして侯が外に在るの日と雖も侯の威信は隱然として省中の魔力たり※(白ゴマ、1-3-29)而して侯の系統の及ばざる所は、薩人の領分たる海軍省と赤門、茗溪兩派の爭點たる文部省及び松方伯の根據たる大藏省にして、農商務省は曾て品川子の大臣たりし時、多少山縣侯の系統を引き入れたることあるは人の知る所なり※(白ゴマ、1-3-29)次に貴族院に就て之れをいはゞ、彼の研究會の如きは其初め實に第一次の山縣内閣に依て種子を播き山縣派の人物に依て次第に培養せられたるものなり※(白ゴマ、1-3-29)現に清浦氏は研究會の領袖として之れを操縱するに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)伊東巳代治男の如きは、一時研究會の黒幕と稱せられたることありしも、其信用は到底清浦氏の敵に非ざる無論なり。

      其二 山縣侯と國民協會との關係
 國民協會は山縣侯の直接に關係したる政團に非ず※(白ゴマ、1-3-29)之を組織したる張本は西郷侯品川子の二人にして、組織に參與せるものは、樺山伯高島子及び故白根男なり※(白ゴマ、1-3-29)而して其最初の目的は實に藩閥を擁護せむとするに在りき※(白ゴマ、1-3-29)されど第二次松方内閣起るに及て協會員中の薩派に屬するものは大抵分離し去て今や協會は殆ど純粹の長派と爲れり※(白ゴマ、1-3-29)但し佐々友房氏は、今も尚ほ薩長聯合の舊夢に迷ふ人なれど多數の會員は全く長派に傾き中にも山縣崇拜の感情を有するもの最も多し。首領品川子は、山縣崇拜の隨一にして、大岡育造氏の如きも寧ろ山縣系統に屬せり大岡氏は井上侯にも、伊藤侯にも親密の關係あれども、個人としては最も山縣侯に深縁あり。されど氏は常に長派の統一を謀るを以て念とし、特に伊藤山縣兩侯の調和者として近來頗る努力しつゝあるは既に公然の秘密なり
 案ずるに山縣侯は、其思想性格に於て大に伊藤侯と合はざる所あり。山縣侯は保守的思想を有し伊藤侯は進歩的思想を有し山縣侯は謹嚴端實の性格にして伊藤侯は磊落滑脱の氣質なり且つ山縣侯は由來神經質の人物にして動もすれば厭世主義に傾けども伊藤侯は快豁なる多血質にして樂天主義の人物なり。其公私の行動に於て往々衝突することあるは、亦已むを得ずと謂ふ可し。大岡氏は政治家としては固より伊藤侯を推す可きも山縣侯とは亦切て切れられざる關係あるに於て、其兩侯の睚眦反目を融解せむと勉むるは何ぞ怪むに足らむや。
 山縣侯が第二次内閣を組織するや、協會員中議論二派に分かる。甲は絶對的に内閣を助けむと主張して乙は超然内閣にては反對するの外なしと主張し大岡氏の如きは寧ろ後者の主張者たりしと雖も、是れ唯だ一時の權略にして實は山縣内閣をして自由派と提携せしめむとするの意たりしならむのみ。蓋し山縣内閣をして自由派と提携せしむるは、是れ山縣伊藤兩侯をして調和せしむる所以なればなり。而して大岡氏は終に其目的を達せり。山縣侯は一切の感情を棄てゝ自由派と提携し、伊藤侯も亦其擧を贊して、背後より山縣内閣に應援す可きの約を爲したり。此に於て國民協會は純然たる山縣内閣の與黨と爲ると共に衆議院に一名の政友を有せずと目せられたる山縣侯は此に新たなる忠實の政友を有するに至れり

      其三 山縣系統の兩派
 國民協會は既に山縣侯の忠實なる政友と爲れりと雖も其中固より兩派あり保守主義を有するものと進歩主義を有する者と是れなり。首領品川子は稍々保守主義に近く政黨内閣には反對の意見を有する人なり佐々氏の熊本國權派は、初めより絶對的に政黨内閣を非認する保守主義を有するものたり。之に反して大岡元田等の一派は、時勢の變に際して政黨内閣の避く可からざるを信ずるものなり。彼等は精確の意義に於ける進歩主義を有するものにあらざれども、少なくとも時勢と推移するの術を解するものなり。此點に於て佐々等の國權派と内政に對する政見を異にするは疑ひもなき事實にして、其山縣侯の爲に謀る所以のもの隨て自ら徑庭あるを見る可し。國民協會以外に於ける山縣系統の人物を見るに、亦進歩保守の兩派に分かれたり。保守派の最も極端なるものは、都筑園田野村古澤等にして、彼等は啻に政黨内閣を忌むこと蛇蝎の如くなるのみならず政黨と提携するすら既に内閣の尊嚴を失ふものなりと信ずるものゝ如し。憲政黨内閣の成るや、園田男は其内閣を認めて帝國の國體を破壞するの内閣なりと罵り自ら警視廳を煽動して之れに反抗を試みむとしたる人なり野村子は曾て客に語りて、議會は幾たびにても解散して可なりと主張し豫算不成立の不幸は内閣大臣以下腰辨當にて之れを償ひ得可しとの奇論を吐きたる人なり古澤氏は往時自由黨に入りて民權を唱へたる人なれども、其後長派の恩顧を受くるに及で、一變して藩閥黨と成り、近來は帝王神權説を主張して極力政黨内閣に反對し都筑氏は、井上伯が嘗て官吏と爲るの外には潰ぶしの利かぬ男なりと評せしほどの自然的吏人にして吏權萬能の主義を固執せる保守的人物なり。山縣内閣の將に自由派と提携せむとするや、氏は最も強硬なる非提携論者にして、山縣侯に勸むるに飽くまで超然内閣の本領を立つ可きを以てしたりといふ。聞く氏は山縣系統中に在て、最も才氣峻峭なる壯年政治家なりと然るに其時務を辨ずるの迂濶なること斯の如きは豈學に僻する所あるが爲ならずや朝比奈知泉二宮熊次郎の兩氏は、山縣侯に深厚なる同情を表する政論家なり。朝比奈氏は曾て侯の機關たる東京新聞主筆として、夙に非政黨内閣を主張し、其後日々新聞に筆を執るに及でも、終始其主張を改めざる人にして其屠龍縛虎の雄文一世を傾倒して何人も敵するものなし聞く非政黨内閣は氏の持論なりと二宮氏は曩きに獨逸に留學して、國家主義を齎らし歸り、今や現に『京華日報』の主筆として、日に政黨攻撃の文を草し伊藤侯が内閣を憲政黨に引渡したるの擧を目して亂臣賊子の所爲なりと極論したることあり此兩氏は共に山縣系統の保守派にして唯だ朝比奈氏は二宮氏に比して少しく温和にして變通あるを異りとするのみ
 更に山縣系統の進歩派を見るに、實は極めて少數にして、正直に政黨内閣を信ずる者は恐らくは絶無なる可し。されど清浦曾禰等の諸氏は半ば政黨内閣を信じ青木子に至ては十中八九までは政黨内閣論に傾き現に山縣内閣成るの前自ら憲政黨に入黨を申込みたりといふを見れば子は遠からずして政黨員たるの日ある可し
 山縣系統は以上の如く兩派に分かれ、兩派互に侯を擁して、第二次内閣を組織したるを以て、其内閣は超然を本領とするにもあらず政黨を基礎とするにもあらざる雜駁の内閣を現出するに至れり。世間或は山縣侯を以て憲法中止論者とするものあれども、事實は大に然らず。侯は謹愼周密の小心家にして決して憲法を中止するが如き大英斷を施し得る如き人物に非ず。唯だ侯の系統に屬する屬僚中に無責任の激論を爲すものあるが爲め、世人をして侯を誤解せしめたるのみ。但し昨年伊藤内閣の末路に方りて、宮中に元老會議あり。伊藤侯の提出したる善後策に對して黒田伯の憲法中止論出でたるは事實として傳へられたれども是れとても伯が熱心に主張したるには非ざりしといふ山縣侯の謹愼を以てして豈斯くの如き暴論を唱ふることあるべけんや
 余は曾て侯は出處に巧みなる人なりと評したることあり。其今囘に處する所以の者を觀るに、亦頗る其巧處あるに感服すと雖も、侯は到底政治家に非ず久しからずして必らず退隱せむ唯だ其現在の位地は侯が從來養ひ來れる潛勢力によるものなるを知らば侯の潛勢力にして存在する限りは侯は決して未だ政界の死人に非ずと知るべし。(三十二年一月)

     山縣首相に與ふ

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 侯爵山縣公閣下、我輩は多年閣下の政敵として論壇に立つものなりと雖も、閣下の徳を頌するに於て、亦敢て政府の屬僚に讓らざるの誠實を有せり、彼の政府の屬僚が閣下の徳を頌するや、動もすれば其過失をも辯護して閣下を誤らむとするものあり、我輩の閣下の徳を頌するや、唯だ其頌す可き所以を頌して、有りのまゝに所見を披陳するに外ならず、隨つて閣下の過失を擧示して忌憚なき所あるも故らに訐いて以て直とするには非ずして之れを閣下の聰明に訴へて萬一の反省を求めむと欲するの微意のみ、我輩は曾て閣下に何の恩怨なく、又何の求むる所なし、則ち其歎美す可きを歎美し、攻撃す可きを攻撃するに於て、一に事實と理義に據りて公明正大の論斷を下だすに過ぎざるなり。
 相公閣下、率直にいへば、我輩は閣下を當世の大政治家として、其人物を崇拜するものに非ず、又内治外交の政策に付ても、我輩は不幸にして多く閣下に同情を表する能はざるを悲む、さりながら維新の元勳として閣下の功勞は遠く伊藤井上の二者に出で、其維新後に於ける文武の事業も、亦赫々として人目に輝くもの多し、乃ち我輩は閣下の人物及其政策に敬服せざるの故を以て決して閣下の國家に貢献したる功勞を忘るゝものに非ずと雖も此れと同時に我輩は近來閣下の政治的過失頗る少なからざるを認識し而して閣下の晩節之れが爲めに大に負傷したるの事實をも認識するに於てこゝに謹で閣下の處決を促がすの公開状を與へんとす
 相公閣下、閣下は議會の盲從に依りて、既に二大宿題を解釋し得たり、一は第十三議會に於ける増租案にして、一は第十四議會に於ける衆議院議員選擧法なり、此二大宿題は共に前代内閣の持て餘ましたるものたりしに拘らず、閣下の内閣は終に能く議會の協贊を得たり、閣下の得意も亦想ふ可しと爲す、而も此れを以て、閣下の内閣極めて鞏固たるの證と信ぜば甚だ誤れり、况むや其の二大宿題の通過の如き、國家の利害より見れば、必ずしも喜ぶ可き成功なりと認む可からざるに於てをや、且つ閣下は内閣組織以來、前代未聞の政治的過失を行へり、顧ふに此の過失は半ば受動的行爲に出で閣下の本意に非るもの多からむ凡そ人を殺すは罪惡なれども故殺と謀殺とは其犯罪の度合に輕重あり閣下の過失は譬へば故殺罪の如く始より豫備あるの着手に非る可きもさりとて閣下固より其過失に對する責任を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)がるゝこと能はず是れ我輩が閣下の爲に深く悲む所なり、但だ我輩は閣下の名譽の爲に、閣下が此の過失を重ねて益々其徳を傷けざらんことを望み、誠意誠心を以てこゝに謹で閣下の處決を促がすの公開状を與ふ、閣下願くは我輩が以下篇を累ねて説く所を諒とせよ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、世には閣下を目して出處進退に巧みなる人なりといふ者あり、我輩も亦閣下が謹愼にして、常に出處進退に注意するの周到なるを信ずれども、獨り閣下が餘りに國家を憂ふるに切なるが爲に反つて自家の本領に背きて漫然今日の難局に當りたるは我輩甚だ閣下の爲に歎惜する所なり、閣下或は國家の急、敢て一身の利害を顧るに遑あらずと言はむ、此の類の言語は、古來往々愛國者の口より聞く所なりと雖も、國家の急は決して斯る單純なる思想の能く濟ふ所に非るを奈何せむや。
 曩に閣下の内閣を組織するや、自ら天下に告白して、我れは一介の武辨なりといへり、是恐らくは閣下の謙辭に過ぎざる可しと雖も、其の中亦閣下が自ら知るの明あるをも表示せり、今此の自知の明ありて尋常愛國者の軌轍を脱する能はず強て國家の急に赴て之を濟ふ所以の經綸なく而して其の有る所のものは一時姑息の施設に非ずむば則ち行政の紊亂と議院政略の小成功とを見るのみ是れ豈閣下の初心ならむや
 相公閣下、閣下にして若し其初心を點檢せば、閣下恐らくは一日も現時の位地に晏然たる能はじ、我輩の見る所に依れば閣下は初期議會を切り拔けたる時を以て正さしく閣下が政治舞臺の千秋樂と爲すべかりき、蓋し初期議會は、我國方に憲法政治の開闢時代に屬し、内外の人、皆半信半疑の眼を以て、政府及議會の行動を凝視したり、現に歐洲の學者中には、憲法政治を以て東洋人種に適せずと論ずるものありしを見るに於て、政府も議會も、當時實に世界の公試驗を受くるの位地に在りたりと謂ふべし。果して大衝突は始まれり、議會は殆ど解散の危機を踏まむとしたりき、而して閣下は當時の内閣に首班として慘憺の經營を竭くし、終に能く議會を平和の間に閉會せしむるを得たりしは、固より閣下の名譽ならずと謂ふ可からず、閣下乃ち此の時を以て内閣を退きたるは、其の出處進退亦巧みならずと謂ふ可からず、閣下若し當時の隱退を以て永久の政治的訣別としたらむには閣下は清淨圓滿なる晩節を保全し得て帝國憲法史上の第一頁を飾るの人物たらむなり而して斯くの如きは實に閣下の初心たりしや疑ふ可からず
 惜いかな閣下は稀有の愛國者たる故を以て反つて其初心を喪ひ國家の急を坐視するに忍びずと稱して敢て今日の難局に當り以て初期議會に博し得たる名譽を臺無しにするの過失を行ひたり、一昨年閣下が内閣を組織するや、識者は閣下の聰明に異状あるを注目して、竊かに其前途を危みたり、是れ他なし、議會開設以來既に十餘年を經過したる時代は、人文の進歩よりいふも、内外形勢の變化より見るも、到底前世紀の賢人等が出現す可き幕ならずと信じたればなり、我輩は必ずしも此見地に雷同するものには非ず、世の所謂る前世紀の賢人中にも、智力根氣共に強壯にして、尚ほ能く時代の精神を驅使する人物なきに非ざれども、而も此の見地は、大體に於て眞理を外づれざる鐵案たるは論ずるまでもなし。
 相公閣下我輩は閣下の尊敬す可き賢人たるを知る之を知るが故に我輩は閣下の生涯に汚點少なからむことを望みたり之れを望みたるが故に今や其晩節を傷けたるを見て閣下の爲に※(「りっしんべん+宛」、第3水準1-84-51)惜するの情も亦隨つて切なり之れを※(「りっしんべん+宛」、第3水準1-84-51)惜するが故に乃ち忠實に閣下に向て其の處決を勸告す是れ負傷したる閣下の晩節に對する唯一の臨床療法なればなり

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下にして若し初期議會以後の時代を領解し、曾て超然として政界の外に高踏したりとせよ、我輩は決して閣下の徳を頌するに吝ならじ、顧ふに閣下は前には軍制の改革家として全國皆兵の主義を實行し後には市町村制度の創意者として地方自治の基礎を確立したる人なり閣下は唯だ此の二大事績に依りて優に明治第一流の元勳たる名譽を要求し得可し又何ぞ多きを望みて反つて大に失ふの愚を爲す可けむや
 閣下が明治五年陸軍の編制に着手するや、之に反對せるものは、當時軍職を失ひたる多數の舊藩士のみに止まらず、彼の軍人の大首領たる西郷隆盛すらも、亦實に之れに異議を唱へたりき、而も閣下は敢て之れを畏れずして其の所信を斷行し、遂に全國皆兵の徴兵令を發表したりしは、之れも伊藤侯が憲法制定の事業に比して、寧ろ著手の困難なりしを疑はず、而して閣下が此の軍制の改革に成功するや、一躍して直に陸軍部内の指導者と爲り、特に十年の役には、閣下の最も憚りたる西郷黨を殘滅して、武力に誇れる薩閥の根據を拔き以て陸軍省をして遂に長閥の勢力範圍たらしめたりき、今や閣下は、元帥の待遇と陸軍大將の軍職とを有し、凡そ軍人としては此の上もなき最高の位置及び之れに伴へる君寵を享け、即ち所謂る功成り名遂げ、復た世に遺憾なきの人なり、顧みて更に大政治家たらむことを望むは、豈閣下の有終の美を成す所以ならむや。
 相公閣下、人生の樂事は自己の天職に忠實なるに在り、閣下曾て日本のモルトケを以て自ら任じたりといふ、而もモルトケは軍人より起りて、軍人に終り、曾て其意を政治上の功名に動かされざりき、是軍事を以て自己の天職なりと信じたればなり、固より我輩は閣下が日本モルトケの自任ありといふを聞て竊に其の抱負の盛大なるに敬服し以て伊藤侯が日本ビスマークを自任する意氣と併稱して近代の雙美たるを疑はずと雖も但だ我輩は閣下が日本モルトケの自任ありて而もモルトケの如く政治上の功名に淡泊ならざるを甚だ惜むのみ
 或は閣下が自治制度の創意者たりしを以て、閣下に亦た政治的能力ありといふ者あらむ、是れ必らず佞者の妖言にして、閣下は斷じて之れに耳を借す可からず、案ずるに自治制度の實施は實に閣下の大功なり、我輩豈に其の大功を滅せむとするものならむや、さりながら政治は別才にして閣下の長所に非らざるは、閣下自から之れを知れり、自から其の長所に非らざるを知りて久さしく之れに干渉するは、恐らくは智見ある閣下の本意なりとも認む可からじ、見よ自治制度は、現に閣下の統督せる内閣の下に於いて、頗る壞敗したるが爲に、之れを制定したる閣下の名譽に大なる損害を與へたるに非ずや、蓋し自治制度の壞敗は、一は之れを運用する地方自治體の腐敗にも由れど、之れが監督者たる行政官廳の職責を竭さゞるもの亦其の一大原因たり、而して閣下は啻に行政官廳の曠職を匡救する手段を取らざりしのみならず、又明かに其の手段にも乏しきの失體を現はしたり、此點に付ては、我輩更に後文に於て其事實を擧示す可しと雖も、要するに政治上の位地は、決して閣下の久しく居る可き所に非ず、閣下何ぞ早く之れを自覺して、將に來らむとする運命の危機より脱せざるや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下頃ろ某貴族院議員に對して、余は政治上如何なる困難に遭遇するも、決して自ら骸骨を乞ふが如きの擧には出でず、既に第十四議會も幸ひに無事の通過を得たれば、余は來る第十五期及第十六期の議會までも此の内閣を持續して、百般の政務に改善を加ふる心算なりと語れるを傳ふるものあり、是れ之れを傳ふるものゝ妄に非ずむば、恐らくは閣下の心事を誤解するものゝ臆測ならむ。
 事實を直言するに閣下の内閣は過去一年有半の間に於て啻に政務に付て何の改善したるものなきのみならず反つて其失政の大なる議會開設以後の内閣中最も顯著なるものなり議會若し健全にして良心に富み眞に國民の利害を代表するの行動あらば必らず一日も閣下の内閣と兩立せずして早く第十三議會に於て破裂を見たりしや疑ふ可からず、然るに内閣の相手とせる議會は、醜怪なる多數黨派の毒泉に涜がされて其の良心を喪ひ、内閣の失政を匡救するを爲さずして、寧ろ之れを助長せしむるの行動に出でたり、是れ閣下の内閣が、幸ひに原形を今日に保つを得たる所以なり。
 故に閣下の内閣にして依然今後に存立することあらむか此一方に於て議會の愈々腐敗する運命を豫想す可く一方に於ては又閣下の失政益々増加するをも豫想せざる可からず、斯くの如きは豈國民の能く忍ぶ所ならむや、我輩は必らずしも好で閣下の過失を追究せむとするものには非ず、さりながら閣下にして之れを自覺せざる以上は、我輩は有りのまゝに事實を擧示して閣下の反省を求めざる可からず、顧ふに閣下が一介の武辨を以てして今日の難局に當る初より經綸の一も觀る可きものなきは又當然なりとせむ、而も閣下が自ら天下に宣言したる言責を實行せずして、隨つて國民の閣下に豫期したる冀望の悉く水泡に歸したるは、我輩の甚だ遺憾とする所なり。
 相公閣下、閣下内閣組織以來屡※(二の字点、1-2-22)官紀振肅秩序保持の美辭を使用したり、而も閣下の内閣は、官紀振肅の代りに、官紀大に紊亂したる事實を示し、秩序保持の代りに、秩序頗る壞頽したる證迹を現はしたるは何ぞや、但し此般の事實は既に天下公衆の知悉する所たるに於て、今敢てこゝに之を詳述するの必要を見ずと雖も、我輩は閣下が有名なる謹嚴方正なる風采家たるを尊敬し、而して閣下の内閣が、斯る謹嚴方正なる風采家と背馳するの行動あるを怪事とし、乃ち次に其の大要を擧げて閣下の明鑑を仰がむとす。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩は曾て多くの冀望を閣下の内閣に屬せざりしと雖も、獨り官紀振肅の一事は閣下專賣の政綱たりしを見るに於て、中心實に此點に於ける閣下の特色が十二分に發揮せられむことを期したりき、而も其事實に現はれたるものを觀れば閣下專賣の貴重なる政綱は殆ど悉く破壞せられて完膚なく國民をして閣下の特色の果して何れに在るやを怪ましめたるは我輩甚だ意外の感に打たれざるを得ず手短かに我輩の記憶に殘れるものをいへば昨年の地方議員選擧に際し地方官が行政權を濫用して其選擧に干渉したる如き其一なり、一昨年増租案の衆議院に提出せられたるに際し、小山田某の議員買收に盡力したる勞に酬ひむが爲に、竊に横濱工事受負を某に許可するの私約が、西郷内相と自由黨領袖星亨氏との間に成立したりし如き其二なり、官林拂下問題の醜聞頻りに出でて、曾禰農相の名屡々此間に流傳し、現に農相を黒幕として組織したる帝國黨の領袖が、上毛江州石川青森福井等の各地に於て、官林拂下を條件として黨員を募集したるは世に隱くれなき事實にして、而も曾禰農相の直接間接に之と關係ありしを認識せられたる如き其三なり、凡そ此類の事實は、明々白々掩はむと欲して掩ふ能はざる所にして特に横濱埋立事件の眞相に至ては、在野黨代議士の爲めに公然第十四議會に暴露せられ、以て其餘沫の西郷内相の面上に瀝げるも、内相は曾て一言も之を辯解する能はざりしのみならず列席の議員孰れも之を默聽して相爭はざりしを見れば、閣下の失策は自ら官紀紊亂の事實を認めつゝありと斷言せざる可からず、而して是れ實に方正謹嚴の風采家を以て有名なる閣下の統督せる内閣の現状なり、相公閣下、我輩をして有體に閣下の失策を語らしめば、閣下は不幸にして議院政略を何よりも大切とするの謬見に陷りたり顧ふに立憲國の内閣に在ては議院政略も亦一の重要なる政略たるを疑はずと雖も單に内閣の存立を謀るを目的として之れを濫用するに於ては其の弊の極る所殆ど底止す可からず、乃ち閣下が官紀振肅の言責を實行する能はざるも、亦閣下存立の爲めに議院政略を濫用したる結果に外ならず、英國のワルポールは、此の議院政略に成功して能く其の内閣を十餘年間の久しきに維持したりしも、此が爲めに人心を腐敗せしめ、政界を汚濁せしめたる罪惡は擧げて言ふ可からざるものあり、但だワルポールは初めより正人君子を以て自任せず、其言動亦放膽磊落にして、其人物と頗る相照應したりしも獨り閣下は方正謹嚴の風采家たるを以てして漫にワルポールの故智を學ばむとするは我輩甚だ奇異の感なき能はざる所なり

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩は特に閣下の議院政略を攻撃するものに非ず、總て既往十餘年間に於ける藩閥政府の議院政略に對しては中心實に感服する能はざるもの多し、最初は超然主義を表面の口實として、裏面に於ては竊に吏黨を製造し、而も輿論の勢力終に當る可からざるを見るや、解散を以て議院を威嚇するを唯一の政略と爲し、屡々無名の解散を奏請して徒らに民心を激昂せしめ、而して立憲内閣の責任に付ては曾て自ら反省する所なかりき、是れ單に内閣の存立を目的として、時局の大體を觀察せざるより來れる暗愚の政略にして、其の最後の勝利が常に議院に歸したりしも復た怪むに足らず、此に於て乎次に政黨提携の事あり、稱して國務を分擔すといふと雖も、實は官祿を懸けて獵官者を買收したるに過ぎずして、眞に政黨を基礎として内閣の鞏固を謀るの意には出ざりき、憲政黨内閣起るに及んで、稍々政黨を基礎とするの體相を表示したりと雖も、政黨の訓練未だ到らずして權力分配の愚論黨人の間に唱道せられ、流石に國民の輿望を負へる内閣も、是れが爲に遂に無殘の末路を見たりき。
 今や閣下の内閣は既に二囘の議會を經過して、閣員に一人の更迭なく、内閣改造の説幾度か自由黨に依て唱らるゝも、未だ一個自由黨員の入閣したる者あらず閣下は此點に於て確に議院政略の成功を自負するも可なり、さりながら閣下の議院政略は其實質に於て既往政府の取りたる政略に比して更に恐る可き濁浪を政界に汎濫せしめたり此の濁浪は黨人を溺死せしめ議院を溺死せしめ延て政府をして亦溺死せしめむとするの猛力を以て進行しつゝあり、顧ふに閣下は内閣組織の當初より、早く其の政略の弊害斯くの如くならむことを豫期せざりしなる可し、唯だ其の如何にもして内閣の存立を永からしめむと欲するに急なる、自ら過失の極處に達するを覺らざるのみ、蓋し閣下は初め獵官を制せむとして或は官吏登庸法を改正し、或は議員の歳費を増加したれども、此れと同時に政治的射利熱を利用して議院を操縱したる結果は萬般の問題總べて賄賂と報酬とに依て決定し神聖なる議院をして殆ど一種の株式市場たらしめたり、夫れ政治的射利の弊風一たび行はるれば、議員は毫も國庫の支出を惜まずして、唯だ其地位を營利の具たらしめむと謀る、自由黨が鐵道國有法案を提議したる如きは即ち此れが爲なり、世間或は當期の議會が比較的巨多の議案を成立せしめたるを見て其の成績を著大なりといふものあれども、是れ寧ろ當時議會の腐敗を證するの事實たらむのみ、我輩請ふ閣下の爲めに少しく其理由を語らむ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩の見る所にては、第十四議會の如きは、我國議會有つて以來最も醜惡の議會なりと斷言せざる可からず、我輩は單に九十三日の期間に於て殆ど其の三分二を休會したる故を以て、直に當期議會を怠慢の議會なりと論ずるものに非ず、是れ最初より政府に盲從するを目的としたる議會に於て亦當然の顯象なればなり、如何に盲從の暗號たる讀會省略説の歡迎せられたるかを見よ如何に盲從の傳令使たる恒松某が政府の爲に重寶がられたるかを見よ斯くの如くにして盲從相談の委員會は本會議の議事を奪ひ斯くの如くにして政府の提案は大抵討論を用ゐずして通過せらる則ち我輩は二億五千四百萬餘圓の大豫算を提出したる政府の大膽を不思議とも思はず又此未曾有の巨額に對して僅に軍事費に於て四十餘萬圓を削減したる議會の柔順なるにも驚かざるなり
 議者又當期議會が建議案の頗る多かりしを奇異の顯象なりといふ、然り貴族院に於て十二種、衆議院に於て七十二種の建議案を見たるは、實に初期議會以後の一大奇觀たるに相違なし、特に政府が國庫の負擔を増加するを憂へずして動もすれば漫然之れを迎合するの状ありし如き、固より常識あるものゝ判斷に苦む所たり、さりながら其の原因は頗る單純にして唯だ是れ議會の壞血症に罹りたる事實を表示する顯象なりといはむのみ、案ずるに此等の建議案中には間々國家的問題を含めるものなきに非ざれども、其の相爭ふて提議したるものは、總じて政治的營利の黴菌に襲はれざるものなし、例へば利益分配の事情の爲に或る黨派の間に紛擾あり、以て一旦衆議院に於て否決せられたりし若松港築港問題の如き、最初は自由黨の黨議とまでなりたる鐵道國有法案が、中ごろ同一事情の爲に除外例を主張する二十七人組を出だし、其の極遂に之れを委員會に握り潰ぶしたる如き、即ち明白に議會腐敗の事實を説明するものに非ずして何ぞや、且つ他の一方に於て、議員涜職法案が薄弱不明なる理由の下に否決せられたること、尾崎發言に關する事實調査の動議が空しく委員會に握り潰ぶされたるとは亦實は議會腐敗の反影なるを認識す可き一大顯象にして、凡そ斯る顯象を以て滿たされたる議會が、國民の利害を顧念とせざる行動あるは又唯だ當然なりといはむのみ。
 相公閣下、閣下は二億五千四百萬圓の大豫算を無難に通過したるを以て十分の欣榮とする所なる可し、政治的營利を事として國民の負擔を増加するの建議案を提出する議會は、固より閣下の内閣が提出したる大豫算に削減を加ふる理由はある可からず、閣下も亦寧ろ此の弱點を利用せむとしたり、故に國庫の負擔を増加する建議案も勉めて之れを迎合し、以て財政上他日の破綻を見るを毫も意とせざるなり、而して是れ實に國家の爲めに悲む可きの不幸なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩は閣下の議院政略が、市價を有する多數の人頭を買收したる點に於て成功したるを認識す、而して累々たる多數の人頭は、金錢若くば、其他の利益を條件として、爭ふて良心を賣り、意見を賣り、投票を賣り、起立を賣りたる政治的市場の取引に對し、敢て張膽明目して精嚴なる道徳上の批評を加ふるは、我輩寧ろ其の徒爾に屬するを知る、さりながら閣下にして自ら其の初心を點檢せば、閣下は宜しく漫りに議院政略の成功に誇るべからず、閣下或は議會を盲從せしめたるを以て能く内閣の目的を達したりとせむ、而も事實をいへば閣下の議會に盲從したるもの亦少しとせず、試に閣下の爲めに一二の實例を開示せむ。
 曩きに閣下が第十三議會に臨むや、財政計畫の唯一基礎として地租率を百分の四に増加するの法案を衆議院に提出したりと、其意地租以外の財源を以て到底財政計畫の基礎を鞏固ならしむるに足らずと爲し、即ち他の零細なる歳入に求めずして、專ら地租増徴に依頼せむとするに在りき、然るに閣下の提携を約したる自由黨が多く之れに反對するに及で、遂に最初の提案を一變して、五箇年期を條件とせる三分三厘説に折合ひ、以て僅に議會を通過するを得たり、之れを表面より見れば、單に四分案に對して七厘の減率を爲したるに過ぎずと雖も、實は財政計畫を根本より變更して議會の要求に盲從したるに外ならず何となれば一定の年期を條件とせる課税法は既に鞏固なる財政計畫の目的と兩立せざるのみならず現に此の減率の結果として別に歳入の補填を他の三税に求めたる如きは明白に最初の計畫を破壞したるものなればなり即ち定見ある政治家に在ては、斯くの如きは實に不面目の甚だしきものたるに拘らず閣下の内閣が淡然として毫も之れを恥とせざりしは何ぞや。
 若し夫れ第十四議會に至ては、唯だ愈々出でて愈々奇なりといはむのみ、試に思へ衆議院の或る一派は、閣下の提出したる未曾有の大豫算に協贊する代償として、運動費セシメの魂膽より生じたる幾多の建議案を提出し、恰も國庫の空巣覗ひを働くが如きの状あるも、閣下の内閣は一も二もなく之れを迎合したるに非ずや、又宗教法案は閣下の内閣に於ける最大最重の提案にして、歐洲の立憲國に在ては實に内閣の進退に關する大問題なり、而も閣下は此の法案の貴族院に否決せらるゝを見て痛痒の表感なかりしのみならず、曾て之れが通過を計る爲に熱心の盡力なく、初めより議會の爲すがまゝに盲從するの態度を示したるは何ぞや、相公閣下、議會は唯だ金錢若くは其他の利益を條件として閣下に盲從し、閣下は唯だ内閣の存立を目的として往々定見なき行動に出づること斯くの如し、我輩は閣下の名譽の爲めに、閣下が内閣首相たる責任の爲に斷々然として此の失體を問はざる可からず、况んや閣下の失體は尚ほこゝに止らざるに於てをや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、顧ふに閣下の議院政略は、單に政治道徳上の一問題として後世史家の評論に任かす可き者に非ず、何となれば閣下の議院政略より岔出したる毒泉は、現に閣下の司配せる各部の行政體統をも膿壞せしめたればなり、夫れ議會の腐敗は主として議會自身の責任に存すといふを得可きも行政體統の膿壞は閣下直接に其の責任を負はざる可からず是れ即ち政治道徳上の一問題に非ずして直に内閣大臣の實際的責任問題なり
 例へば横濱埋立事件に就て之を見るも、閣下を辯護するものは、是れ首相の知る所に非らずして粗放なる西郷内相の失體といひ、西郷内相を辯護するものは、亦是れ内相の知る所に非ずして、小松原内務次官の非行なりといふ、抑も知ると知らざるの爭點は自ら別問題なり、乃ち閣下の責任は決して知覺缺乏の故を以て解除せらるゝを得ず、事實たとひ小松原次官一個の非行に屬すとするも、之れに對する匡救の責任は懸つて閣下の肩上に在らずや、然るに閣下は曾て何等の處置を此の間に取らざりしのみならず、其の關係者の一方に自由黨領袖星亨氏あるが爲に、一方は閣下の畏敬せる西郷内相たるが爲に、遂に躊躇して手を下だすを憚りたるは首相たるの威嚴を失墜したるものに非ずして何ぞや更に地方議員選擧干渉に就て之れを見るも閣下は斷じて此の事實を認めずといふを得ざるものたるに拘らず、閣下の内閣は、亦唯だ與黨に壓迫せられて地方官の亂憲的行爲を制する能ざりしに非ずや、其他最近の事實に現はれたるもの、一として行政體統の膿壞と閣下の無能力とを表示するものたるは、我輩の甚だ閣下の爲めに悲む所なり。
 聞く閣下は街鐵市有の意見を有する人なりと、其意見の當否は暫らく措くも、内務次官たる小松原氏が擅まに一派の政商と結托して職權を亂用したる罪案を決する能はず、以て頗る内閣の威信を輕からしめたるは、斷じて閣下の失體なりと謂はざる可からず、宗教法案に關しては、閣下初めより一定の成算を有せず偏へに斯波社寺局長平田法制局長等の献策を聽きて生硬未熟の法案を提出し、而も往々地方官をして各地信徒の運動を妨害せしめ、若くは行政權を借て東本願寺に干渉したる如きは、亦閣下の失體ならずと謂ふを得ず、凡そ事斯くの如きは恐らくは閣下の本意に非る可し閣下は常に官紀振肅行政統一を以て自ら標榜するの人たればなりさりながら閣下内閣を組織してより曾て官紀振肅行政統一の實を擧ぐることなく動もすれば與黨の專横と屬僚の跋扈との爲に内閣の威信と行政機關の紊亂を來すを見るは何ぞや又兩院より建議したる學制調査會設置案の如きは、實際に於て文部省不信任の意義を表明したるもの也何となれば學制の方針を定むるは文部大臣の職責にして他の容喙を要す可きものに非ず、若し學制調査會の設置するの必要ありとせば外交調査會を設置して外交の方針を諮詢し、内務調査會を設置して内務の方針を諮詢し、財政調査局を設置して財政の方針を諮詢せざる可からず、斯くの如くば内閣大臣なるもの殆ど無用の長物たる可きを以てなり、然るに文部省は頃日兩院の建議を容れて省内に學制調査局類似のものを設置するに決したりとは又何の咄々怪事ぞや、此の一事を見ても我輩は行政機關の大に荒廢したるを想像せざる能はざるなり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下の内閣時代に及で、各部の行政機關が頗る荒廢したる事實は、獨り我輩内國人の眼中に映ずるのみに止らずして、東京駐在の列國外交官中にも往々帝國政府の不統一無能力を私議する者あり、現に我輩の聞く所に依れば外人居留地に關する登記事項すらも、政府は容易に其處置を施す能はずして時日を遷延し、其他新條約實施上の交渉案件にして、今も尚ほ滿足なる解答を得ざるもの多きが爲めに、彼等は已むを得ずして當局者以外の勢力家に協議を求むることありといふ、特に私立學校令に付て、文部當局者が外交官の反對の爲に左支右吾の行動ありしは、殆ど公然の事實にして、凡て此般の事、其の帝國政府の威信に關するや頗る大なりと謂はざる可からず。
 相公閣下閣下は元來職守に嚴に職權を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行するを以て高名なりし人なり井上伯は閣下に比すれば機略に富み決斷に長ずれども其の趺宕の性動もすれば法律規則を無視するの弊あり伊藤侯は閣下に比すれば立法の才組織の能力に於て超絶すれども其の文采言語の多き割合には其の實行躬踐の分量甚だ少なきの缺點あり閣下は固より伊藤侯の才能なく井上伯の膽氣なしと雖も而も曾て重きを藩閥政府に有したるは實に官府の秩序と威權とを保維するを以て行政の要と爲したるに由れり、其の或は極端なる法治主義に偏して時に精刻峻急に陷るの病ひあるのみならず規摸も亦甚だ狹小にして、官權擴張の外殆ど大なる主張なかりしに拘らず、我輩は尚ほ此點に於ける閣下の本領を認めて、所謂る藩閥武斷派の代表者と爲したりき、今や閣下の本領は全く消磨して精刻峻急の角度を取り除きたる代りに秩序もなく節制もなく官紀を紊亂し行政機關を荒廢して唯だ内閣一日の姑息を謀らむとす何ぞ其の老ゆるの太甚しきや
 思ふに閣下は漫に屬僚の小献策に氣觸れて大局を觀るの眼識を失ひ、單に議院政略に成功するを以て能事と爲したるもの、是れ實に閣下が政治の大道を踏み外づしたる所以なり、蓋し彼の屬僚輩の頭腦には、唯だ内閣を出來得るだけ永く維持せんと欲する目的の外には一物なく、而も此の目的は、國家經綸の抱負より來れるには非ずして、實は官職を生活問題より見たる劣情より出でたるに過ぎず、而して彼等が生存競爭の大敵として常に忌憚するものは黨人なるが故に、彼等は先づ此の黨人の獵官心を抑制するに於て如何なる手段方法をも顧みざるに至れり、是れ議院政略の由て生ずる所にして、而も其の之れを施して底止する所なきや、反つて内閣の威信と行政機關の壞敗とを招くに至れるを知らざるなり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十一※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下が屬僚の進言を納れて柄にもなき議院政略を亂用したる結果は、殆ど政治をして私利私慾を目的とする一種の營業たらしめ、其の爭ふ所は、官職若くは利益上の條件にして敵味方の分かるゝ起點は亦唯だ此の一事に在り、是れ固より政治階級の總墮落といふの外なしと雖も、一は閣下等を包擁せる屬僚の行動も、亦與つて大に咎めありと斷言せざる可からず。
 凡そ今の藩閥家にして最も多數の屬僚を有するものは閣下に過ぐる者なく而して其の屬僚の爲めに政治上の過失を犯したるもの亦閣下より太甚しきものあらじ伊藤侯は自己の伎倆を信ずるの政治家なるを以て閣下に比すれば屬僚を有すること少なきのみならず其の屬僚の侯に對するや隨がつて唯だ服從的状態を有するに過ぎずと雖も而も尚ほ屬僚の爲めに大事を誤まらるゝことなきに非ず况むや閣下に於てをや蓋し閣下は常に政治家の位地に※(「糸+二点しんにょうの遣」、第4水準2-84-58)戀する人なるも未だ政治家の任務に付て自己の伎倆を信ずる人に非ず故に屬僚の閣下に對するや始めより服從的状態を有せずして寧ろ顧問的關係若くは師傅的關係を有せり是れ閣下の内閣が屬僚政治の爲めに其の威信を失ひたる所以なり
 相公閣下、閣下は多數の屬僚を有するに於て今も尚ほ政治上の一勢力たるを失はずと雖も之を政治家の名譽より見れば、決して自ら誇る可きの勢力に非ざるを如何せむ、眞に伎倆ある政治家は、一人の屬僚を有せずして、其の勢力自ら天下に展ぶるを得れども閣下の政治上に於ける勢力は唯だ屬僚の爲に存在し、屬僚の爲に利用せらるゝ勢力たるを見るのみ、閣下の名譽に於て又何の加ふる所ぞ、議會開設以來屬僚は常に褊僻なる國家至上權と、頑愚なる超然内閣論を唱へて藩閥家を利用したりき、是れ黨人に對する屬僚の作戰計畫にして、其の計畫の迂なるや、戰ひ遂に利あるずして政黨の提携と爲り、一轉して憲政黨内閣の時代と爲りたるは、實に最近の事實なり此の間屬僚中にも分裂を生じて自ら政黨に接近するものを出だせりと雖も、其の多數は依然として政黨と利害を異にするものたり、而して閣下は現に此の多數の屬僚に依て包擁せらるゝを見る彼等は閣下を以て最も自己の生存に便利なる人なりと認め、曩きに憲政黨内閣の時代に於て、常に閣下の椿山莊に會合して當時の内閣を破壞するの陰謀を企てたり、顧ふに當時の内閣は、一は自由黨の遠見なき行動に由て破壞したれども、其の破壞の主因は内閣の一部と閣下の椿山莊とを傳流せる一種の電氣力に在りたるは復た疑ふ可からず、閣下願くは我輩をして其説を悉さしめよ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十二※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩の記憶する事實に依るに憲政黨組織當時に於ける椿山莊は、實に明治時代の鹿谷として時人の注目を惹きたる位地に在りき、初め伊藤侯が地租問題に失敗して内閣瓦解の危機に立つや、閣下の屬僚は以て閣下再び世に出づる機會と爲し、閣下も亦自ら伊藤内閣の後繼者たる可き運命あることを信じたりき、此に於て乎椿山莊は、閣下を議長としたる大小屬僚の密議所と爲り、伊藤侯が一方に於て早くも内閣を憲政黨に引渡すの準備を爲しつゝある間に閣下の屬僚は迂濶なる内閣相續策を畫して大に閣下の野心を煽揚したりき、而して御前會議と爲り、而して閣下と伊藤侯との物別れと爲り、而して閣下に於ては寢耳に水の憲政黨内閣突如として出現したりき、斯くの如くにして閣下の内閣を夢想したる屬僚の絶望と憤恚とは、殆ど名状す可からざりしなり。
 當時閣下の屬僚は、此急激なる政變を目して、伊藤侯の不忠不臣なる行動に歸因すと爲し、中には侯を罵つて國賊といふものすらありしと雖も、國民は寧ろ侯の公明磊落なる心事を歎稱して、古名相の出處進退にも讓らずといひたりき、而も閣下より之れを見れば閣下は恰も伊藤侯の爲に出し拔かれたる觀ありしを以て其の伊藤侯の行動に慊焉たらざりしは亦無論たる可し、此に於て乎椿山莊は再び隱謀の策源地と爲り、閣下の屬僚は日夕出入して憲政黨内閣の破壞に着手したりき、此れを聞く、憲政黨内閣組織の發表せられたる頃、石黒忠悳翁偶々椿山莊を訪ふ、都筑馨六氏先づ在りて翁と政變を語り、頗る時事に憤々たるものゝ如し、翁諭して曰く、足下等常に元勳に依頼して大事を濟さむとするは甚だ誤まれり、何ぞ自家の實力と運動とに依りて天下を取るの計を爲さゞる、一時の政變に驚くは年少政治家の事に非ず、氣を吐き才を展ぶるは寧ろ今後に在り、足下宜しく大に奮へよと而も都筑氏及び其他の屬僚は、閣下の威名を借らずしては、何等の着手をも爲し能はざりしなり。
 既にして閣下の屬僚は憲政黨内閣の破壞に着手したり、當時の警視廳たる園田安賢男は公然部下の廳吏を集めて煽動的演説を爲し、當時の無任所公使たる都筑馨六氏は自ら内閣の最大有力者なる某伯を訪ふて政黨内閣の攻撃を試み、而して一方に於ては自由黨の權力均分論を奇貨とし、桂子爵の手に依りて内部より内閣分裂の端を啓かしめたり、是れ實に伊藤侯が清國漫遊の留守中に起りたる現象なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十三※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下と伊藤侯とは、其人格に於ても、思想に於ても、本來決して兩立す可き契點あらざるに拘らず、其表面上久しく相互の調和を保持し得たりしは、唯だ藩閥擁護の共同目的に對して、離る可からざる關係を有したりしを以てなり、然るに侯は一朝此の共同目的より解脱し、敢て内閣の門戸を開放して、之れを藩閥の當の敵たる大隈板垣の兩伯に與ふ、是れ事實に於ては閣下に向て政治的絶交を告示したると共に、又其の持説と認められたる超然内閣制を固執せざる心事をも表明したる擧動なり、當時世人は此の擧動を以て、英國のロベルト、ピールが保守黨の反對を顧慮せずして穀法廢止案を採用したるに比し、以て其の明達の見に服するものありしと雖も閣下より之れを見れば、固より驚く可き豹變たりしに相違なし。
 伊藤侯は獨り此の擧動に於てピールに似たる者あるのみならず人物に於ても亦稍々相類したるものなきに非ず、例へば其性情必らずしも極冷ならざれども少なくとも微温にして事物に執着せざる所其の知覺鋭敏にして囘避滑脱に巧みなる所其の敵にも味方にも敬愛せらるゝ割合に親密なる多數の政友に乏しく又自ら之れを求むるの熱心なき所ピール然り伊藤侯も亦然り、是れ侯が藩閥家の反對に頓着せずして、大隈板垣の兩伯を奏薦したりし所以、さりながら伊藤侯は此の一擧に於て、從來の位地に著ぢるしき變化を生じたりき、一方に於ては國民の新同情を得たりと雖も他方に於ては藩閥及び之れに屬したる人士の憎疾を蒙ること少なからずして、曾て侯に服從したるものまでも遽かに侯に背き去れるを見たりき、而して閣下は實に伊藤侯の失ひたるものを得て隱然として憲政黨内閣の一大敵國たる趣ありき
 伊藤侯は周圍の繋累を免かれむが爲め、飄然として清國漫遊の途に上りたる間に、閣下の屬僚は、憲政黨内閣に對して嫉妬的妨害を加へ、たとひ閣下の指揮に出でざるも亦閣下の傍觀したる種々の馬鹿らしき舞劇を演じたりき、特に尾崎氏の共和演説問題に至ては、政治問題として殆ど半文の價値なきものたるに拘らず、閣下の屬僚等は、自由黨の暗愚なる擧動を迎合して、頻りに尾崎排斥の火の手を煽り立て、遂に此に依りて以て憲政黨内閣の破壞に成功したりき、而して憲政黨内閣の倒るゝと共に、閣下の屬僚は早くも閣下を椿山莊より起して、伊藤侯の未だ清國より歸朝せざる前に内閣を組織せしめたり、是れ正さしく伊藤侯を出し拔きたる復讐的手段なりといふも亦可ならむのみ、斯くの如くにして成立したる閣下の内閣は、其の自然の運命として、近き未來に於て伊藤内閣に代はらる可きは誰れか復た之れを疑ふものぞ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十四※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下と同主義同臭味の野村靖子は、伊藤侯が大隈板垣兩伯を奏薦したる擧動を評して、是れ神經錯亂の表現なり到底本氣の沙汰に非ずと散々に言ひ罵りたることあるを記憶すと雖も、當時閣下にして若し自ら難局を切り拔くの成算を開示せむか、伊藤侯は必らず喜びて閣下に後事を托したりしや疑ふ可からず、而も閣下は唯だ伊藤侯の政黨論に反對して時局と乖離せる超然内閣制を主張し以て天晴れ大忠臣の肝膽を見せたる外には曾て政治家として責任ある發言を爲したるを聞く能はざりき乃ち此の事情を領解するものは恐らくは何人も伊藤侯の擧動を否定するを得可からじ
 特に怪む、閣下は憲政黨内閣の後を受けて自ら現内閣を組織するに及で、忽ち其前日の主張を抛棄し少なくとも其の持説を變更して一二の政黨と提携したるのみならず、嚮に閣下の屬僚等が不忠不臣の賊子とまで痛罵したる伊藤侯に對して、今日唯だ其の款心を失はむことを是れ恐れ、大小の事總て侯の意見に聽きて僅に辨ずるを得るが如きの状あるは何ぞや、我輩を以て閣下を觀れば閣下は元來氣むづかしき神經質の人物なれども實は決して強固なる意思を有する武斷家に非ず其の權勢を喜び名爵を好むの天性或は人に過ぐるものあらむ而も閣下は政治家として別に卓然自ら立つ所の見地なく有體にいへば唯だ臺閣の氣象に富める一種の貴人たるに過ぎず是れ政府を世界とせる屬僚の盟主たるには最も適當なる人格にして隨つて動もすれば彼輩の爲めに利用せられて大事を誤る所以なり
 案ずるに憲政黨内閣の破壞は、たとひ閣下の爲には幸運の發展たりし變局なりといふを得可きも、其變局の決して伊藤侯の本意にも非ず、又自由黨多數の冀望にも非ざりしは無論なるを以て、閣下は宜しく閣下の前途に政治上必然の反動あるを豫期し置かざる可からず、世には伊藤侯の心事をさま/″\に臆測するものあれども、我輩の見る所に依れば、閣下の内閣は恐らくは伊藤侯の理想に適合したる内閣に非ざると共に、自由黨に於ても初めより閣下の内閣に同情を表するに非ず、我輩の所謂る政治上必然の反動とは即ち此の形勢より出現す可き第二の變局をいふなり、請ふ閣下の爲に其の大略を語らむか。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十五※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩が憲政黨内閣の破壞を以て伊藤侯の本意に非ずといふは何に由るや※(白ゴマ、1-3-29)蓋し其の理由は極めて單純明白なり、曩に憲政黨の成立するや、伊藤侯は政黨内閣の機運既に到りたるの現象と爲し閣下等に向て政府黨組織の議を詢りたるも、閣下等は狹義の憲法論を主張して之れに同意を表せず、太甚しきは憲法の一部を中止す可しと唱へたる黒田伯の如き妄論家すらありたるを以て、乃ち一は閣下等の守舊思想を打開せむが爲めに、一は政局の進轉を利導せむが爲めに、現に憲政黨の統率者たる大隈板垣兩伯に向て斷然政府を引渡したる伊藤侯の心事に至ては、世間何人も復た之れを疑ふものなかる可きを信ず、侯の心事實に斯くの如しとせば、侯たるもの又何が故に其の自ら助成したる内閣の遽かに破壞するを望むと謂はむや、是れ豈極めて單純明白の理由に非ずや。
 當時閣下の屬僚等が百方憲政黨内閣の破壞を企つるや、世人は之れを伏見鳥羽の一揆に比して、頗る其の頑愚を冷笑したりと雖も、不幸にして憲政黨内閣は此の頑愚なる一揆の爲めに取つて代はらるゝの運命に遭遇し以て政局をして再び舊世界に退却せしめたり是れ獨り伊藤侯の本意に非ざるのみならず自由黨の多數も亦决して之を冀望せざりしは明白なるに當時自由黨が一二の野心家の爲めに操縱せられて自ら建設したる内閣の破壞を招きたるは我輩唯だ其の無謀無算に驚かざるを得ざりき、我輩は伊東巳代治男及び星亨氏が、前後外務大臣候補者として失敗したるを遺憾とし愚直なる板垣伯を煽動して權力均衡の提議を爲さしめたるを認めて、其の最初の目的が決して閣下の内閣を造り出だすに在りと信ずるものに非ず、何となれば此の二政治家は單に進歩派の勢力膨脹を妬みたる外には、別に何等の成算ありしと思はれざればなり、去りながら權力均衡の題目は、最初より憲政黨内閣の破壞を計畫したる藩閥の殘黨の爲には、最も便利なる最も都合善き政變の導火線なりき、何となれば此權力均衡論を決定するの投票權は、當時内閣の中立者たる西郷侯と桂子との手中に在りたるに於て、藩閥の殘黨にして之と相策應せば、輙ち内閣破壞の目的を容易に達し得可かりしを以てなり、而して西郷侯の機を見るに敏なるを知り、又桂子の純然たる山縣系統として閣下の屬僚と親密の關係あるを知るものは此の一侯一子が文相更迭問題に付て閣議分裂したる際にも、曾て適正なる調停の手段を取らざりしを怪まざる可く、將た板垣伯が乖謬無名の辭表を天※(「門<昏」、第3水準1-93-52)に捧げて宸襟を煩はし奉りたる際にも此の一侯一子が閣僚として曾て板垣伯に善を責むるの道を盡さず、以て内閣をして無慘の末路を見せしめたるを不思議とせざる可し、乃ち憲政黨内閣が此の事情によりて遂に破壞せられ其の自然の結果として閣下の内閣を造り出だしたるも亦豈偶然ならむや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十六※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、幸福なる閣下は、憲政黨内閣の破壞と共に、端なく其の舊勢力を復活して政治上の主人公と爲り、而して内閣組織の使命は閣下に傳へられ、而して閣下は恰も謝安を氣取りて椿山莊を出で、而して國民は唯だ目を圓くして閣下が如何なる内閣を組織するかを注視したりき、顧みて此際に於ける自由黨の行動を見れば、全く當初合同の精神を忘れて自ら造りたる内閣の破壞を快とせしものゝ如く私鬪術に巧みなる星亨氏を軍師として一時の小成敗を爭ひ卑劣なる投機手段に成功したるを稱して黨略の能事終れりと爲し而も坐して江山を將て他人に附與するの愚に陷りて自ら覺らざりし如き識者は唯だ其淺陋を憫笑するのみ、既にして閣下の内閣成るや政治上の立場を失ひたる自由黨は、其の主義政見を犧牲にして閣下と提携を約したりと雖も、實は互ひに欺き合ひ詐り合ふて政治上のポン引を働かむとしたるに過ぎず、初め閣下が策士の言を聽きて自由黨と提携せむとするや、閣下の屬僚中には此の提携を非として飽くまで超然内閣の實體を保持す可しと主張したるものあり、閣下の歴史及び内閣組織の初一念より察すれば、閣下恐らくは眞に肝膽を披て自由黨と提携するを欲したりとも思はれず、現に自由黨が提携の條件として二三黨員の入閣を要求したるに際し、閣下は之れに答へて單に人才としてならば自由黨より閣員を拔くも可なれど、黨員としてならば入閣の要求に應じ難しといひたりしを見れば、閣下の意亦超然内閣の本領を以て立つに在りしを知る可し、且閣下が當時自由黨領袖等と屡々提携に關する交渉を試みつゝある間に、板垣伯は公然自由黨員に向て、何種の内閣を問はず善政を行へば之を援くるに躊躇す可からずと演説して、有りの儘に閣下の内閣が超然内閣たることを承認したりき、而も自由黨の多數は、閣下の内閣をして超然内閣の裝姿を脱せしむるの冀望ありしが爲めに、斯る意義に於ける提携の交渉は一旦破裂に歸したりしに拘はらず、閣下と自由黨とは更に瞹眛なる交渉を經由して、終に怪しき提携を約したり、此の提携の結果として閣下の内閣は純然たる超然内閣にも非ず又政黨を基礎とするの内閣にも非ざる一種の間色内閣と爲りたるに於て閣下と自由黨との關係は隨つて唯だ政略的關係若くは利益的關係たるに止まり曾て主義政見の契點に依りて渾然融和したる事實を示すこと能はざるに至れり是れ閣下が政治上の過失を犯したる最初の起點に非ずして何ぞや

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十七※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下と自由黨との提携は、唯だ政略的關係若くは利益的關係に依りて成立したるを以て、閣下は自由黨を待つに眞の政府黨を待つの道を以てせずして、唯だ之れを操縱して盲從せしむることを努め、自由黨も亦閣下の内閣に對して眞の政府黨たる觀念なく、唯だ其の位地を利用して政治的營私の目的を達せむことを圖る、而も閣下は宣言して曰く、諸君と相倚り相助けて進取の宏謨に答へむと、嗚呼誰れか其の自ら欺くの甚しきに驚かざるものあらむや、顧ふに憲政黨の分裂に付ては、伊藤侯が進歩自由兩派の孰れにも多少の遺憾ありしは無論なる可しと雖も、我輩の見る所に依れば侯の最も遺憾としたるは、恐らくは憲政黨内閣の破壞餘りに脆くして、端なく超然内閣を再興せしむるに至りたる一時ならむ、何となれば是れ侯が閣下等の異論を排して敢て大隈板垣兩伯を奏薦したる當初の意思に背きたればなり、然るに侯の直系に屬する伊東巳代治男等が自由黨の策士と相呼應して極力憲政黨の破壞に從事したるは何ぞや、蓋し進歩派の勢力次第に膨脹して自由派の分子までも漸く進歩化するの傾向ありと認め憲政黨内閣の維持一日を長うすれば獨り進歩派の爲めに一日の利あるを恐れて其の大勢未だ定らざる前に之れを破壞するの優れるに如かずと信じたるを以てなり、彼輩の心事は唯だ此の一點に存したりき、當時固より閣下の内閣を造り出だすの目的なかりしのみならず、別に善後の策に付ても何等の成竹なかりしは復た言ふを俟たざるなり。
 自由黨が二三策士の術中に陷りて、自暴自棄の行動に出でたるは、其の愚誠に憐む可しと雖も、一旦斯くの如くにして政治上の立場を失ひたるに於ては其の如何なる内閣たるを問はずして之れと相結托するは止むを得ざる窮策たりしと同時に閣下の内閣が政見の異同を論ぜずして自由黨と提携を求むるに至りしも亦止むを得ざるの窮策なりと謂はんのみ、而も閣下は自由黨に誓ふに休戚利害を倶にして永く相渝らざる可きを以てす、是れ正さしく自ら欺くの虚言にして、其意唯だ一時を糊塗するに在りしは決して疑ふ可からず、閣下乃ち自由黨をして單に政略的關係若くは利益の下に永く盲從せしめんと欲する乎、我輩は斷じて其の目的の空想に屬するを信ぜむとす、閣下願くは我輩をして閣下の未來を説かしめよ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十八※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、今や我輩は閣下の未來を指示するに當て、先づ閣下の内閣が如何なる現状の下に存在するかを觀察せざる可からず、顧ふに閣下の内閣は、議會開設以後の内閣中に於て、最も平和らしき、最も鞏固らしき状態を保てる内閣なり、議會は既に二會期を經過したれども、遂に一たびも解散の危機に際したることなく、内閣改造の説屡々起りたれども其の閣員には亦一人の交迭したるものなし、是れ前代の内閣に在て曾て觀ざるの現象にして、殆ど閣下の獨占せる慶事なりと謂はざる可からず、さりながら閣下若し我輩に直言を許さば、我輩は閣下の内閣を稱して僅かに外援の支持に頼りて存在せる大厦なりといはむと欲す而も其の外援すら今や漸く去らむとするを見るに於て閣下の内閣は正さしく存在の資力を失ひたるものと斷言せざる可からず、大石正巳氏が第十四議會に於て、閣下の内閣を評して借馬内閣といひたるも、亦實に此の意に外ならざるのみ。
 さりながら閣下願くは我輩の説を誤解する勿れ、我輩は決して立憲國の内閣を以て或る勢力の援助なくして存在するものなりとは信ずるものに非ず、或る勢力とは議會に絶對的多數を占むるの政黨即ち是れなり、而して斯くの如き大政黨の援助は、固より立憲國の内閣に必要なるを疑はずと雖も、閣下の内閣は唯だ一時の利害に依りて政府を辯護する聯合黨を有するに過ぎずして主義政見に依りて統一せる一大政府黨を有せざるを奈何せむや、人あり閣下に向て閣下は眞の政府黨を有するやと問はゞ、閣下は必らず然りと答ふるの勇氣なかる可し、是れ事實に於て眞の政府黨なきのみならず、閣下は曾て公然眞の政府黨を作りたることなければなり、則ち我輩は唯だ閣下が議院政略を亂用して政黨を操縱したるを見る未だ閣下が主義政見に依りて進退を倶にす可き眞の政府黨に援助せらるゝを見ず
 相公閣下、我輩の聞く所に依れば、伊藤侯は改正選擧法通過の後、竊に閣下に向て政府黨組織の計畫目下に必要なるを説き、暗に此の大任を伊藤侯に委するの内勅を得るの手段を盡さむことを求めたるに閣下之を肯んぜずして曰く君にして苟も政黨を組織せむとせば則ち君自ら之れを爲して可なり内閣は斷じて其の議を贊するを得ずと、此に於て乎伊藤侯は閣下の與に爲すあるに足らざるを怒りて、爾來閣下と益々情意の疏通を缺くに至れりと、是れ閣下が伊藤侯の野心測られざるを恐れたるにも由る可しと雖も、一は閣下が強て超然内閣の外觀を維持せむとするの謬見より出でたるものに非ずして何ぞや、要するに閣下は現在に於て眞の政府黨を有せざるのみならず、其の政府黨らしきものすらも、日に閣下の内閣と相離れて反つて閣下の死命を制するの政敵たらむとするが如きは、亦豈閣下の宜しく警戒す可き一大危機に非ずと謂はんや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十九※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下は或は帝國黨を以て内閣の忠僕なりと信ぜむ、然り其の歴史よりいふも、其の關係よりいふも、帝國黨は確かに内閣の忠僕たる可き傾向を有するものなり、さりながら僅々二十餘名の代議士を有する眇たる一小黨は、閣下が果して頼つて以て有力なる忠僕とするに足る可き乎、況むや帝國黨は政治的投機師を以て組織したる烏合の政團にして、殆ど政黨と名く可き實質を具へざるに於てをや、先づ試に其の領袖たる者の如何なる人物なるかを見よ、佐々友房氏は自ら大策士を以て任ずるに拘らず、識慮頗る暗昧にして確然たる定見なき人なり、曾て獨逸に遊ぶや、其の國の各政黨が大抵宗教問題を政綱に掲ぐるを見て以爲らく是れ我國の宜しく學ぶ可き模範なりと、歸來直に帝國黨の政綱に宗教事項を加ふるの必要を唱へたる如き愚論家なり、而して、此の愚論家にして且つ自稱大策士たる彼れは、唯だ毎日根氣よく書簡を手記して、己惚れと迂濶とを扱き雜ぜたる報告を選擧區民に爲すの外には、巧みに元勳政治家の間を周旋し、區々の縱横説を進むるを以て獨り自ら得意とするのみ、元田肇齋藤修一郎の兩氏は、彼れに比すれば智見も思想も數等進歩したる人物なれども、一は小膽にして大事を擔當するの器なく、一は不謹愼にして公人としての信用缺げたり、斯くの如き人物に依て指導せらるゝ帝國黨は復政治上に於て何事を爲し得可しとする乎。
 相公閣下、閣下の閣僚たる清浦曾禰の兩氏は、曩きに帝國黨の組織に後援を與へ、今も現に其の黒幕として頗る盡力すといふと雖も是れ恐らくは閣下の利益に非らずして寧ろ閣下に禍ひせむ、何となれば是れ徒らに伊藤侯及び自由黨の反感を買ふに過ぎざればなり、昨年國民協會の解散するや大岡育造氏は伊藤侯を擁して新政黨を組織せむとしたるも、其の計畫は佐々元田等の反對に沮まれて行はれざりしのみならず、閣下は清浦曾禰等の閣僚に誤られて帝國黨の成立を助け地方議員選擧の際の如きは竊かに地方官に向つて帝國黨の候補者には十二分の援助を與よ其他の政黨員に對しては局外中立を守れと内訓して自由黨の激昴を招きたるは公然の事實なり、大岡氏は舊國民派中には比較的智慮に富める人物なり、乃ち此般の現状を見て、頗る憤々の情に禁へざるものありしが爲に、終に飄然として外國漫遊の客と爲り、以て暫らく政變を待つの已むを得ざるに至れり、一の大岡氏を失ひたる如きは、たとひ帝國黨を輕重するに足らずとするも、閣下の閣僚にして帝國黨と密接の關係あるものは、唯だ清浦、曾禰の兩氏のみにして、其他の閣僚は孰れも帝國黨の微弱にして頼む可からざるを知り、現に桂子の如きは、寧ろ自由黨と深く結托して、之れを利用せむとするの野心あり、西郷侯は頃日帝國黨の首領たるを密約すと稱せらると雖も、侯は自由黨に對しても如何なる密約を爲し居るやを知る可からざるに於て、閣下と帝國黨との關係は反つて内閣の統一を破るの原因たらむ、閣下果して帝國黨を以て頼むに足るの忠僕なりと信ずる乎。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩の見る所に依れば帝國黨は清浦曾禰の兩氏と直接の關係あるに過ぎずして、其の他の閣員は初めより之れと利害を倶にするの意なきに拘らず、閣下輕ろ/″\しく此の兩氏に致されて、竊かに帝國黨の成立を助けたるは、是れ實に閣下の一大失策なりと謂はざる可からず、葢し帝國黨は自ら内閣の忠僕たるを以て任ずと雖も、實は清浦曾禰兩氏の忠僕にして、純然たる政府黨には非ず、假りに之れを政府黨と認むるも、其の勢力は固より閣下の内閣を維持するに足らず、况むや政府黨に非ずして一個の私黨たるに於てをや、然るに閣下は斯る私黨を以て直參の忠僕たらしめむとして、反つて内閣の統一を破るの結果を考慮せざるは何ぞや。
 桂子は閣下の内閣を組織するが爲に、憲政黨内閣の末路に當りて頗る如才なき立ち※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りを爲したる人なり、而も此れと同時に、子は自由黨と閣下の内閣とを提携せしむるが爲めに、亦た政治的桂庵として周旋甚だ勉めたりしを以つて、今も尚ほ双方の連鎖たる位地に在るは衆目の視る所なり、青木氏は初じめ自由黨に入黨の申込を爲したるほどの人にして、入閣の際俄かに其申込を撤囘し、以つて大に自由黨の感情を破りたりと雖もさりとて自由黨と全く關係を絶てりと謂ふ可からざるは無論なり、西郷侯は憲政黨内閣時代に於て、既に岡崎邦輔氏の媒介に依りて星亨氏と相識り、爾來横濱海面埋立事件にも、市街鐵道問題にも、常に星氏の秘密協議を受けて、次第に相接近し來れるものなり、即ち此の三閣僚は閣下の爲に、屡絶えむとしたる自由黨の提携を維持し得て今日に到りたるに於て、閣下にして單に帝國黨を頼みて自由黨を無視するが如き行動に出でむか、閣下は先づ此の三閣僚と併び立つこと能はざるに至る可きは自然の傾向なり、而して閣下の行動は往々之に類するものあるを以て、今や自由黨は漸く閣下の内閣に向て鼎の輕重を問はむとするの意向を表現したるに非ずや、所謂る局面展開論の如き實に此の意向の表現に外ならじ。
 相公閣下閣下の最大謬見は唯だ議院政略を以て能事と爲し金錢若くは其の他の利益を懸けて自由黨を操縱せむとしたるに在り、顧ふに現時の自由黨は殆ど腐敗の極度に達したるに於て、閣下の議院政略が其弱點に投じて十二分の成功ありしは、我輩と雖も亦之を認ざるに非ず、さりながら自由黨員の中には亦多少時勢の要を識る者なきに非ざるが故に、單に閣下の内閣に盲從して永く藩閥の奴隷たるに滿足せざる人物亦少なきに非ず、彼等は閣下と共に到底立憲政治の實効を擧ぐるに足らざるを自覺し、別に新機軸を出だして政局の進轉を計らむとせり、是れ閣下の内閣が漸く内部の動搖を始めたる所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十一※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下の内閣が近時漸く動搖し始めたるは疑ひもなき事實にして、帝國黨の代表力たる清浦曾禰の兩氏は、專ら閣下の參謀として内閣の政略を指導するの位地を占め、閣下の屬僚たる都筑、平田、安廣等の頑夢派と相策應して、自由黨を牽制するの運動に着手しつゝあるは、亦既に公然の秘密なり、我輩の聞く所に依れば、彼等は閣下に向て總べて自由黨の要求を峻拒す可しと勸告したり、此れが爲めに自由黨と提携を絶つに至るも復た畏るゝに足らずと説きたり、第十五議會までには、帝國黨と中立派とを連合せしめ、更に進歩自由の兩黨代議士中より幾多の醜漢を買收せば、優に多數を議會に制するに得ること掌を反へすよりも易しと進言したりといふ、其の無稽無謀の太甚しき、殆ど閣下を死地に陷ゐるゝにあらずむば止まざるものなるに拘らず、閣下の意思稍※(二の字点、1-2-22)彼等の献策に動かさるるの傾向ありといふは何ぞや、彼等は以爲らく、第十五議會の形勢にして若し閣下に利非ずとせむか、即ち斷然議會を解散し改正選擧法に依りて進歩自由の兩黨と爭ひ大に選擧干渉を行ふて多數の御用代議士を選出せしむること敢て難しと爲さず、而も尚ほ不幸にして議會の多數を制すること能はずむば、内閣は此の時を以て始めて總辭職の擧に出づるも未だ晩からず、而して是れ實に立憲政治家の責任に背かざるの名を得るに庶幾しと、意氣頗る正大なるに似たりと雖も、斯くの如きは主義あり政綱ある政黨内閣に於て言ふ可く、單に閣下の内閣を維持して其の恩惠の下に生存せむとする屬僚等の言ふ可き所に非ざるを奈何せむや、さりながら閣下亦自ら其運命の窮せるものあるを知らざる可からず、葢し自由黨が今日まで閣下に盲從したるは唯だ伊藤侯の起たざるを以てのみ苟も侯にして自ら起つて自由黨を率ひば閣下の内閣は鎧袖一たび觸れて忽ち倒れたりしや久しきなり、而も侯の容易に起つの色なきは、自由黨の組織が侯の理想に適合せざるが爲にして、自由黨にして眞に能く侯の理想を攝取するの内容を有せば、侯或は自由黨に入りて其の首領たるを辭するものに非じ、但だ自由黨の内容は、侯の理想を攝取するには餘りに雜駁にして、且つ餘りに彈力に富めり、案ずるに侯が政黨の規律節制を説くは太だ善しと雖も、是れ單に外部より訓練し教育し得可きものに非ずして、自ら其の黨人と爲りて内部より改造せざる可からざるものたり、侯は何が故に自ら自由黨に入りて其の理想を實行するを勉めざる乎、是れ頗る怪む可しと雖も、實は自由黨が到底侯の理想を攝取するの受容力を有せざればなり、さりながら侯も自由黨も、閣下の内閣に對しては均しく結局の利害を異にするものあるに於て、此の一點に於て常に相接近するの關係を保持して、共に局面展開の時機を待てり、局面の展開は如何なる裝姿を以て現はれ來る可きかは一個の疑問なれども、其の現状維持に倦みて局面の展開を望むの心は侯も自由黨も亦同一なり、而して閣下の屬僚等は、強て現状を維持せむとして無稽無謀の擧を閣下に慫慂するを見る、是れ豈伊藤侯と自由黨との共に隱忍して已む能はざる時期ならずや、閣下尚ほ首相の椅子に緊着して離れざらむとする乎。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十二※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、世に傳ふ、頃ろ自由黨は閣下に向て内閣の三四脚を要求し、若し聽かれずむば提携を謝絶して内閣に反對するの決意を示したりと、是れ恐らくは局面展開の第一着手たる可し、さりながら閣下にして此の要求に應ぜむとせば、先づ閣下に最も親近なる閣僚を引退せしめざる可らず、今や此等の閣僚は、自己の運命を迫害せむとする自由黨に對して防禦の策を講じ、閣下の屬僚と倶に極力現状を維持するの成案を具して閣下に迫りつゝあり、此の成案は固より閣下を死地に陷ゐるゝものなりと雖も、自由黨の要求とても亦閣下を窘窮せしむるの毒計たるが故に、閣下は殆ど進退維れ谷まれるの位地に在りと謂ふ可し。
 抑も自由黨が果して既に斯くの如き要求を閣下に提供したるや否や、たとひ既に之れを提供したりとするも、是れ自由黨多數の冀望なりや否やに付ては、我輩未だ輙すく明言し能はざる所なりと雖も、自由黨が之れに類するの運動を開始しつゝあるの事實は斷じて疑ふ可くもあらじ、或は曰く末松謙澄男主として内閣割込の議を唱へ、自ら閣下に向て談判の任に當れりと、末松男が内閣改造の張本人たるは、我輩の甚だ信ずる能はざる所にして、若し彼れにして此の議を唱へたりとせば、是れ必らず伊藤侯の承認を得たる上の事ならざる可からず、さりながら伊藤侯は决して現在の自由黨と意氣相許すものに非ず、隨つて自由黨にして侯を擁立せむとせば、大に其の内容を變更して、更に侯の理想に適合せる新衣裳を着用せざる可からず、然るに現在の自由黨は、其の内容頗る雜駁不規律にして、動もすれば一二の無頼漢に致されて、政治上の罪惡を犯せること尠なからず、而して其の罪惡の主動力として目せらるゝものは現に總務委員の一人たる星亨氏なるに於て、自由黨は先づ彼れの專制政治を離れたる後に非ずむば、到底伊藤侯を起して自由黨の首領たらしむるを得可からず、我輩は伊藤侯を認めて眇たる一の星亨を畏るものなりとも信ずるものに非ずと雖も、自由黨が彼れの專制的手腕に左右せられて之れを奈何ともする能はざるの醜態あるは、既に天下公衆の認識する所たり、自由黨の腐敗するや久し、我輩は其の原因を以て決して一二無頼漢の非行に歸するものに非ず、さりながら現時の自由黨が星亨氏に掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)されて其の腐敗の區域を擴張したるは著明の顯象にして特に閣下の内閣が彼れの野性を利用して遂に自由黨を操縱し以て自由黨をして腐敗の極に達せしめたるは世間何人も之れを否認するものある可からず、是れ伊藤侯が局面展開の必要を認めたると同時に、尚ほ容易に自由黨の爲めに擁立せられざる所以なり、然らば星亨氏は何人ぞ、我輩少しく次に其の性格を説かざる可からず。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十三※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下は星亨氏を以て如何なる人物なりと爲す乎、彼は閣下の内閣を成立せしめたるに付て間接の功あり、自由黨を閣下の内閣に盲從せしめたるに付て直接の功あり、而して今や彼は内閣改造の技師長として、局面展開の魔術家として、動もすれば閣下を威嚇し、強迫し、若くは誘惑して、先づ其の怪腕を現状打破に着けむとするの野心あり、夫の自由黨が政權分配を提携の報償として、内閣の三四脚を要求したりといふ如きは、又安んぞ其の策源の彼れが帷幄より出でざるなきを知らむや。
 若し理を以て之れを論ずれば、自由黨は決して閣下に向て政權分配を要求するの權利あるものに非ず何となれば最初より無條件提携を約して後日に其の報償を要求するは是れ分明に詐僞を自白するものなればなり、さりながら閣下と自由黨との提携は本來主義政見の一致より成りしにも非ず、又肝膽相許し意氣相投じたる結果にも非ずして、唯だ一時の利害に依りて偶然相合したるに過ぎざるを以て、其の提携の亦利害に依りて破るゝに至るも自然の勢なりと謂はざる可からず、而して星亨なる人物は實に自由黨の代表者として、前には閣下と共に詐僞の政治的約束を締結し、後には謂れなき報償を強請して閣下を陷擠せむと試むるの主謀者なり。
 彼は曾て剛腹破廉耻の議長として衆議院を除名せられたるほどの不名譽の人物なり、今こそ自由黨の專制君主として、凶炎赫灼たれども、是れ自由黨の無能力なるが爲にして、必らずしも彼れの資望獨り高きが故に非ず、現に憲政黨内閣時代に於て、時の自由派大臣は、彼れが外務大臣たらむとする野心を牽制せむとして、伊東巳代治男を外務大臣候補者に推薦したる事實ありしは、豈其の明白なる證據に非ずや、而も一朝憲政黨内閣倒れて閣下の内閣起るに及で、彼は恰も風雲の際會を得たる惡龍の如く、遽かに飛舞騰躍して自由黨を惑亂し、曾て自由黨の中堅たる土佐派すらも殆ど屏息して彼れの指命を受くるの止むを得ざるに至る、亦憐まざる可けむや。
 世間或は彼れを時代の權化として、其の技倆手腕に畏服するものあり、我輩を以て彼れを觀れば彼は高等長脇差の隊長にして僅に政治家の外套を着けたる一個の野人のみ其の最も長ずる所は唯だ善惡是非を問はずして然諾を實行するの大膽即ち是れなり、彼れが政治上の罪惡を犯したるも此に在ると同時に、彼れが黨與の歡心を得るも亦此に在り、而して政治道徳の問題の如きに至ては、彼れ固より冷眼を以て之れを度外に附したり、是れ其の爲す所一も常識を以て測る可からざるものある所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十四※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下が星亨氏を利用して自由黨を操縱したるは、即ち可なり、さりながら此れと同時に、閣下は絶えず彼れの爲に詛はれつゝあるを自覺せざる可からず、彼は如何なる沒義道の策略をも實行して閣下の内閣に自由黨を盲從せしめたり、閣下或は之れを徳とするも亦可なり、さりながら此れと同時に閣下は彼れが無報償にして一事をも爲さざる三百代言的氣質あることをも認識せざる可からず、顧ふに閣下は彼れが曾て急激なる自由主義の論者として慓悍猛戻なる言動ありしを記憶し以て其の今日に於て反つて閣下等の主張せる國家萬能主義を迎合するの態度を意外とするならむ、怪むなかれ是れ彼れに在ては實に尋常の事のみ彼れは理想を有し主義を尊重するの政治家に非ずして、唯だ獸力最も逞ましき野心家の雄のみ、彼れ往々大言壯語群小を驚かすものありと雖も、其の胸中には濟國安民の經綸あるに非ずして、唯だ政治上の狗儒教信者なり、世には正義人道の罪人たるもの少なからずと雖も、彼れが如く冷酷にして善く正義を笑ひ人道を嘲けるものは、古今の歴史に於ても甚だ稀有なり試みに彼れが第十四議會に於て尾崎行雄氏を陷擠せむとしたる手段の如何に忍刻なりしかを見よ、彼は尾崎氏が豫算全部に反對なりといへる片言を捉らへて、直ちに之れを皇室費にも反對するの意を表示したりと誣ひ以て氏を大不敬罪に問はむとしたりしに非ずや、其の敵黨に對する戰法の卑劣にして且つ陰險なるは暫らく之れを措くも、其の正義人道に對する思想の冷酷なる、決して公人の行爲として之れを見る可からざるものあり、誰れか彼を稱して主義あり理想ある政治家とするものぞ。
 相公閣下、曾て民黨に推薦せられて衆議院議長と爲り、而も自ら民黨の聯合を破りたるものは則ち彼れ星亨氏なり、彼は閣下の内閣に自由黨を盲從せしめたるも、今や彼は局面展開の魔術を講じて閣下の内閣を破壞せむとするを見る、是れ彼れに在ては殆んど尋常の事のみ、何ぞ怪むを須ゐむ、獨り我輩の怪む所は一百餘の代議士を有する大政黨が斯くの如き醜怪なる人物をして擅まに其黨規を紊亂せしめて憂へざること是れなり、我輩豈一の星亨氏に重きを置きて區々の言を爲すものならむや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十五※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、道路傳ふる所に據れば、自由黨の總務委員も亦星亨氏の局面展開論に一致し、聯立内閣の名義の下に政權分配を閣下に要求するの議を決したりと、而して斯る要求の到底閣下に容納せらる可きものたらざるは、我輩既に之れをいへり、閣下にして若し之れを拒絶せば、自由黨は如何なる態度を以て所謂る局面展開の實效を擧げむとする乎、或は曰く、事此に至れば自由黨は唯だ閣下の内閣と提携を絶つの外なきのみと、顧ふに此種の局面展開論は、恐らくは伊藤侯の同意を得るものにあらざる可く、侯は曾て自由黨の爲めに屡々政權分配を要求せられて屡々手を燒きたるの人なり、侯が政黨改造を唱道するの一要義は實に自由黨が常に政權分配を口實として、侯の所謂る大權の作用に干渉するの行動を抑制するに在り、侯が容易に自由黨の擁立を肯んぜざるは、亦誠に此れが爲のみ、而も星亨氏の一たび自由黨の實權を握るに及で自由黨は唯だ政治を以て專ら私利私福を營むの具と爲し閣下も亦其の私情を利用して議院政略を運用し其の結果として自由黨は益々腐敗すると共に閣下の内閣も亦漸く威信を失ふの擧措に出でたること少なからず是れ伊藤侯が別に局面展開の必要を認むるに至りたる所以なり、但だ侯は局面展開に付て別種の成算あるを以て、今日尚ほ局外に中立して自由黨の爲に自ら起つの愚を爲さゞるのみ。
 相公閣下、伊藤侯は今日自由黨に擁立せられて直に閣下の内閣に肉薄せざる可し、さりとて閣下は自由黨と提携を絶ちて、果して能く内閣の存立を保ち得可しと信ずる乎、閣下の屬僚は第十五議會を解散するの覺悟を閣下に求めたりといふも、閣下にして若し此の覺悟を以て自由黨の要求を拒絶せば閣下は議院の多數を敵とするのみならずして、閣下に對する伊藤侯の反感も亦必らず此の時を以て事實に現はれむ、何となれば閣下の内閣にして議院の多數を敵とするに至れば、伊藤侯は必らず自ら起つて其の難局を匡救せむとし、以て侯の最も得意なる内閣乘取策を行ふ可ければなり、侯の最も得意なる内閣取乘策とは、他の窮處を見澄まして始めて自ら起つこと是れなり、換言せば侯は水到りて渠自ら成るの機會を待つものなり、故に侯が今日の心事を測れば、閣下の内閣と自由黨とが益々衝突せむことを望み自由黨が閣下の内閣と提携を絶つに至らむことを望み而して自由黨が勢ひ侯の命令の下に左右せらるゝに至らむことを望めり是れ閣下の宜しく領解せざるべからざる事情にあらずや

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十六※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、閣下の内閣が近き未來に於て伊藤侯の内閣に代らる可き運命あるは、殆ど一種の豫言として國民に信ぜらるゝのみならず、伊藤侯亦自ら取つて代るの野心勃々たるは、天下何人も恐らくは之れを疑ふ者ある可からず、但だ自由黨が伊藤内閣の成立を望むの意たとひ熱切なりとするも、其意單に侯を擁立して私利私欲を遂げむとするに在らば、到底再び衝突するの外なきは明白の理勢なるを以て、侯にして愈々自ら起つの時は、是れ自由黨が大に其の内容を改造して、侯の理想に適合せる政黨と爲りたるの日ならざる可からず、是れ自由黨に在ては頗る困難なりと雖も、其の成ると成らざるとは別問題とするも、兎に角閣下の内閣が現に局面展開の機運に襲はれつゝあるは事實にして、閣下は決して此機運に抵抗すること能はざるを自覺せざる可らず、葢し閣下の内閣は獨り伊藤侯に倦まれたるのみならず獨り自由黨に倦まれたるのみならず又既に國民に倦まれたること久し隨つて局面展開は獨り伊藤侯の冀望のみならず獨り自由黨の冀望のみならずして又國民多數の冀望なるを以てなり
 相公閣下、今の時に於て閣下の内閣を維持せむとするものは、天下唯だ閣下の屬僚あるのみ、閣下は此の屬僚の援助に依りて何時までも内閣の現状を維持し得可しと信ずる乎、夫れ立憲政治の内閣にして一旦國民の多數に倦まるゝことあらば、是れ其の内閣が直に倒るゝの運命を示すものなり、夫の自由黨は一二の野心家の爲めに操縱せられて區々たる目前の利害に制せらるゝが爲めに、眞の局面展開未だ行はれずして、閣下の内閣亦僅かに一日の休安を保つを得ると雖も、自由黨亦必ずしも達識遠見の人なきに非ず、苟くも其主義政見を同うするものと大に合同して、先づ藩閥を殲滅するの壯志を奮へば、閣下の内閣は唯だ一擧にして輙ち倒れむのみ、而も是れ我輩の空想に非ずして自然の趨勢なる可きを信ず。
 天下定まる可くして定らざるは其の罪實に在野の黨人に在り、彼等は初め藩閥打破を旗幟として起りたるに拘らず、其の目的未だ成らずして早く藩閥と提携したりき、是れ實は藩閥を利用せむとするに在りたるも、反つて多く藩閥の爲めに利用せられたりき、是れ今に於て尚ほ眞の局面展開を見る能はざる所以なり、我輩の所謂る局面展開とは、完全なる政黨内閣を建設すること是れなり、完全なる政黨内閣を建設するの策は他なし、唯だ最初の民黨合同を實行するに在り、是れ曾て憲政黨内閣時代に於て既に之れを實行し、不幸にして一二野心家の自由黨を惑亂したるものありしが爲めに忽ちにして其の合同を破りたるも、是れ人爲の破壞にして當然の破壞には非ず、我輩は自由黨中にも、閣下の内閣に於ける失敗の經驗に鑑みると同時に、其必らず大悟徹底して眞の局面展開を實行するの準備に着手する人ありを信ぜむと欲す。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十七※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、自由黨を惑亂して其の良心を壞敗せしめたるものは、之れを前にしては伊東巳代治男あり、之れを後にして星亨氏あり、自由黨が自ら主義政見を棄てゝ藩閥の奴隷と爲りたる所以は、一は其の薄志弱行にして眼前の小利害に制せられたるに由ると雖も、一は此の兩野心家の爲めに大に誤られたるものなくむばあらじ、是れ閣下の既に之れを目撃し、且つ現に之れを目撃しつゝある事實なり※(白ゴマ、1-3-29)而して此兩野心家の性格意見は本來全く相異るものあるに拘らず、嚮きに憲政黨内閣の破壞と閣下の内閣組織とに付て共力したる迹ありしは頗る奇異の感なきに非ずと雖も、是れ實は偶然の共力にして初めより一致したる目的を有したりしには非ず、當時若し此の兩野心家の胸中に一致したる點ありとせば、即ち唯だ閣下の内閣を以て次の内閣を作るの踏臺と認めたること是れなり、星氏の頭腦に描かれたる次の内閣は如何なる内閣なりし乎、彼は時として西郷内閣を夢想したりといふ、而も西郷侯は彼れの傀儡と爲る如き癡人に非ずして、其の實頗る老獪なる人物なり、彼は又た時として桂子を中心とせる第二流の内閣を夢想したりといふ、而も桂子は到底内閣を組織するの威望勢力なき一介の武辨なり、此に於て乎、彼は更に名を積極主義に借て、自由帝國及中立の大合同を立案したりといふ、さりながら如何に血迷ひたる自由黨にても、未だ此般の喜劇に雷同するものなかりしを以て、彼は終に陳套なる政權分配論に依りて閣下の内閣を強迫するの方針を執りたり、此方針に對して自由黨總務委員が同意したるは、唯だ其の伊藤内閣をして取つて代らしむるの動機たらむことを信ずればなり、而も伊藤侯が自由黨の冀望に應ずるの意思あるや否やは一個の疑問たるに於て、侯の唯一崇拜家たる伊東男は、尚ほ其の機關紙をして自由黨の政權分配論に反對せしめつゝあり、伊東男が閣下の内閣を援助して現状維持を勉むるは、蓋し伊藤侯をして最も適當なる機會に於て閣下の内閣に代らしめむとするに在り、彼は此の目的を達せむとして、先づ伊藤侯に最も接近し、且つ最も馴致し易き土佐派をして自由黨の中心たらしめむことを計れり、故に横濱海面埋立問題起りたる時には、竊に土佐派を使嗾して星氏を排擠せしめ、以て自由黨の内容を改造せむと欲したりき、而も彼れの自由黨に於けるは猶ほ星氏の自由黨に於ける如く、其一擧一動は總べて自由黨を惑亂して之れを自己の野心の犧牲たらしむるに在るを以て、自由黨の健全なる分子は、寧ろ彼れの隱謀に反對して自由黨の原形を保持したりき、之を要するに自由黨は、一方に於ては星氏に惑亂せられ、一方に於ては伊東男に惑亂せられて當初の主義政見を忘れ其の清醇なる分子すらも、往々薄志弱行にして一時の利害に迷ひ、敢て自ら進で自由黨の根本的刷新を加ふるの勇氣なし、是れ我輩の所謂る眞の局面展開未だ行はれざる所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十八※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、看來れば閣下の前途も暗黒なる如く、自由黨の前途も暗黒なる如く、隨て政界總體の前途も殆ど混沌として判別す可からざる如しと雖も、國民多數の冀望は自然に歸着する所ありて、我輩の所謂る眞の局面展開を見るの時機決して遠きに非ざる可きは、我輩の固く信じて疑はざる所なり、而して是れ啻に大勢に於て然るのみならず、又國家の必要なりと謂はざる可からず、試に閣下の爲に先づ其の必要ある所以を説かむか。
 相公閣下、今の時に於て國家に最も必要なるは漫に租税を増徴して國民の負擔を加重するに非ず、若くは漫に軍備を擴張して外國と事端を啓くにも非ず、世間動もすれば積極主義を唱へて好で大言壯語する者ありと雖も、是れ實は政治上に於て全く無稽無意義の話たるに過ぎず、夫れ國家を經綸する消極なる可くして消極主義に據り積極なる可くして積極主義に據り一に唯だ國家の利害を標準として經綸の策を立つ斯くの如きは是れ政治の要道に非ずや我輩の國家に必要とする所は必ずしも消極主義の經綸に在らず必らずしも積極主義の經綸に在らずして國民多數の信用を基礎とせる政黨内閣の建設に在り、到底此れに非ずむば以て内治外交の政策を確立すること能はざればなり、顧ふに閣下の内閣は、既に二會期の議會に於て共に衆議院の多數を得たりしが故に表面より見れば、頗る鞏固なる内閣に似たりと雖も、顧みて其の施設したる所を見れば、内治外交一切の政策唯だ姑息と※[#「糸+彌」、68-下-10]縫とを勉めて毫も國民を滿足せしめざること、我輩の篇を累ねて叙述したる所の如く、而して閣下の内閣が最大成功として誇る所は實に人心を腐敗せしめ公徳を破壞せしめたる議院政略是れのみ、蓋し閣下の内閣は少數微力なる帝國黨及び時代の精神を領解せざる頑愚の屬僚を味方と爲すの外には、眞に主義政見を同うしたる黨與を議會に有せず、夫の自由黨との提携の如きは、原と相互の詐術に依りて成りたるものなるを以て、其の相献酬するや又唯だ詐術を是れ事として曾て利害存亡を倶にするの誠實あることなし、是れを以て閣下は單に議院政略に苦心して内治外交に對する經綸を考慮するに遑あらず、其の一たび重大なる時局に際會するに及べば、常に姑息の手段に依りて内閣一日の安を謀らむとせり、是れ果して鞏固なる内閣なりと謂ふを得可き乎。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十九※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、若し夫れ閣下にして自由黨の強迫に屈して内閣の椅子を自由黨に割讓せむか、是れに依りて一時或は自由黨の反抗を禦ぎ得可しと雖も、是れと同時に内閣の基礎は反つて益々動搖の度を高むるを如何せむや、蓋し閣下は單に自由黨と提携してすら、尚ほ且つ動もすれば屬僚の不平、及び自由帝國兩黨間の嫉妬軋轢の爲に屡々惱殺せられたり、一旦自由黨員を内閣に入れて之れに政權を分與せば自由黨は勢に乘じて更に其の權力範圍を擴張せむとし屬僚及び帝國黨は自己の位地を嬰守せむとして種々の隱謀を企てむ、其の結果として内治外交の機關益々停滯して内閣の威信愈々降らむ、是れ豈閣下の前途をして一層暗黒ならしむる所以に非ずや、且つ閣下は曾て他の藩閥元老中に在て最も貴族院の望みを屬したる人なり、然るに自由黨と提携してより、閣下漸く貴族院の歡心を失ひ、現に宗教法案の如きは、法案其物既に不完全なりしは無論なりしも、其の貴族院に於て大多數を以て否決せられたるは亦貴族院が閣下の内閣を信任せざる明證に非ずや、今若し自由黨員を閣員として聯立内閣を造らば、貴族院の閣下に對する反感は恐らくは測る可からざるものあらむ、閣下何を以て内閣の安全を保たむとする乎。
 相公閣下、閣下今日の計は唯だ斷然闕下に拜趨して内閣の總辭職を奏請するに在り、閣下の内閣にして此の擧に出でむか、後に現はる可き内閣は、其の何人に依て組織せらるゝものたるに拘らず、必らず政黨を基礎とする内閣なる可きは必然の趨勢なり、但し其の内閣の完全なる政黨内閣たるを得るや否やは固より未だ知る可からずと雖も、其の内閣の閣下の内閣よりも進歩したるものなる可きは決して疑ふ可からず、たとひ然らずとするも一變局を經る毎に漸次政黨内閣に近づくの動機を促進するものたるに於て我輩は一日も早く閣下をして過渡の時代を善くせしめ、以て閣下の名譽を後昆に垂れむことを望むこと切なり、世に一種の俗論あり曰く、今日は孰れの政黨も絶對的多數を有するものなし、現内閣にしてたとひ總辭職を爲すことあるも、之れに代りて内閣を組織し得るの準備ある政黨は一も之れあることなし、内閣は遽かに更迭せしむ可からず、又更迭せしむるの必要なしと、我輩請ふ其の俗論たる所以を解説せむ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、凡そ立憲國の内閣に貴ぶ所は、唯だ其の存立の長期なるに在ずして、其の施設の多く且大なるに在り、長期の内閣と雖も、其の施設毫も觀る可きものなくば、則ち短期の内閣と又何の撰む所ぞ、故に我輩は寧ろ能力ある内閣を望みて、單に長期なる内閣を望まず、何となれば能力ある内閣は、たとひ短期にして斃るゝことあるも、尚ほ能く光輝ある成績を留むるを得るに反して、能力なき内閣は、たとひ長期の存立を保つことあるも、決して國家に多大の貢献を爲すこと能はざればなり、况むや長期の内閣は反つて政治上の罪惡を作ること古今其の例に乏しからざるに於てをや。
 相公閣下、閣下の内閣は、議會開設以來最も長期の内閣にして、又議會開設以來最も無能力の内閣と稱せらる、顧ふに閣員悉く無能無力なるに非ず、中には多智多才の人物ありと雖も内閣の基礎頗る薄弱にして内は統一の形全く破れて行政機關の作用大に頽廢し、外は野心ある政治家若くは黨與の爲に牽制せられて、曾て自由手腕を揮ふ能はず、而して閣下は強て内閣を維持せむとして、沒主義沒政見の行動を事とするの外、復た何等の顯著なる成績を擧げたるものなし、閣下の内閣を評するものは曰く現内閣の長期なる所以は、唯だ其の無能無力なるが爲めのみ、能力ある内閣は、彼れが如き姑息にして活動せざる長期の舞臺に耐へざるなりと、言稍々苛刻なりと雖も、亦半面の眞理を道破したるものなり、斯る不名譽なる内閣を維持するは、啻に閣下の利益ならざるのみならず、又決して國家の利益に非ず、閣下乃ち今に於て斷然闕下に伏して骸骨を乞ひ、以て國家の爲めに賢路を開くは是れ豈閣下有終の美を成す所以に非ずや。
 閣下にして苟も内閣の總辭職を奏請せば、陛下は更に他の有力なる政治家をして新内閣を組織せしめ給ふ可し、而して次に來る可き内閣は其の必然の組織として政黨を基礎とするものたる可く、其の内閣にして議會に多數を占むる能はずむば、多數を議會に占むる内閣を見るまで幾囘更迭するも亦可なり、是れ立憲政治の發達史上殆ど免がる可からざるの經過なり、さりながら我輩の見る所に依れば政黨内閣を今日に建設するは敢て難事に非ず必ずしも絶對的多數の大政黨出づるの後を俟たざるなり今一人の有力なる政治家ありて純然たる政黨内閣を建設せよ絶對的多數の大政黨は必らず此れと同時に出現せむ要は斯る英斷ある政治家の自ら起つに在り、今の政治家動もすれば絶對的多數の大政黨なきを以て政黨内閣組織の最大要件を缺けるものといふと雖も、是れ取るに足らざる俗論のみ、蓋し絶對的多數の大政黨は自ら行政權を把握するの冀望あるに於て始めて出現す可し單に立法部たる議會に於て絶對的多數の大政黨出現せむことを期するは是れ猶ほ搭載す可き船舶なくして漫に貨物を港灣に集めむとするが如し若し眞に政黨を基礎とするの内閣を組織する政治家あれば主義政見の異同に依りて天下必らず二大政黨に分かれむ二大政黨に分かれざれば政黨終に行政權を把握するの時期なければなり、是れ我輩が朝野の政治家に向て大に警告せむとする所なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十一※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、既に政黨内閣の已む可からざるを認識するときは、宜しく此の大勢を利導して圓滑なる變局を謀る可し、宜しく漫に此の大勢に逆抗して立憲政治の發達を阻碍す可からず、是れ朝野の政治家が國家に負ふ所の責任に非ずして何ぞや、閣下にして自ら之れを爲さむとせば則ち之れを爲すも亦可なり、苟くも之れを爲すこと能はずむば、寧ろ他の政治家をして之れを爲し得可からしむるの疏通手段を取るに如かず、而も前者は閣下の境遇及び本領の許さゞる所たるに於て我輩は閣下に望むに、斷然後者の擧に出づるの一大決心を以てせむと欲す、之れを爲すこと極めて容易なり、唯だ内閣より退引する即ち是れのみ。
 相公閣下、今の政黨内閣を難しとするものは、往々辭を絶對的多數の政黨なきに藉ると雖も、實は政黨内閣に反對して藩閥内閣を維持せむとする頑夢者流の俗論にして、彼等は中心實に政黨の支離滅裂して徒らに議會に紛爭するを喜ぶものなり、其國家の利害と人民の禍福とに付て、曾て意を致さゞるものたるは復た疑ふ可からず、夫れ今日の憂は絶對的多數の政黨なきに在らずして能く大勢を利導して政黨内閣を建設するの一日も速かならざるに在り、伊藤侯にても善し、大隈伯にても善し、今日假りに純然たる政黨内閣を組織し見よ、天下必ず主義政見の異同に依りて二大政黨に分れむ、是れ必然の趨向にして又立憲政治に於ける當然の歸宿なり、嚮きに伊藤侯が大隈板垣兩伯を奏薦したるは、實に此大勢を利導せむと欲する精神に外ならざるなり、我輩は、當時深く侯の光明磊落なる心事に敬服したりと雖も、不幸にして憲政黨の組織餘りに尨大なりしが爲に、權力の集中點未だ定まらざるに早く既に權力平衡の愚論起り、遂に政敵をして乘じて以て内閣破壞の目的を達せしめたり、さりながら當時若し假すに尚ほ數月を以てせば權力の集中點自然に定まる所あると同時に政黨の淘汰作用も適當に行はれて去るものは去り留まるものは留まりて天下は必ず二大政黨の分有する所となりしや明かなり、故に我輩は憲政黨内閣の瓦解を以て政黨内閣制を否定するの原由なりと信ぜざるも、憲政黨の組織に關しては初より大に遺憾なくむばあらず、何となれば當時憲政黨には第一統一に必要なる首領あらざりしを以てなり、即ち今若し名實兼備の首領ある政黨にして内閣を組織せばたとひ現に絶對的多數を議會に占むる能はずとするも其の内閣一たび成立して議會に臨めば議會必らず之れを歡迎して一大政府黨忽ち出現せむ或は然らざるも亦必らず絶對的多數の他の政黨によりて内閣を相續せらるるの機運を作らむ又何ぞ絶對的多數の政黨あるを待て始めて政黨内閣を建設し得可しと謂はんや

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十二※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、今日若し政黨内閣に反對せんとせば、先づ之れに代る可き内閣の主義を一定せざる可からず、閣下の屬僚は官屬主義の内閣を建設せむと欲すと雖も之れ徒勞のみ、若し官屬主義にして成立し得可くむば、初期議會に於て既に成立す可き筈なるに、當時僅かに超然内閣の名義によりて一時を糊塗したるに止まり、事實は反つて政黨の援助を得て内閣を支持したるは何ぞや爾來官屬主義は獨り藩閥者流若くは藩閥に隷事せる屬僚の間に唱へらるゝに過ぎずして、年々歳々唯政黨の勢力次第に膨脹するを見るのみ、是豈政黨内閣の到底否定す可からざる理由に非ずや。
 相公閣下、自由黨が閣下の内閣と提携したるは、蓋し閣下の内閣をして官屬主義の内閣ならしめんとするにあらずして、實に政黨内閣に入る可き過渡時代の内閣と認めたるに由れり、切言せば閣下の内閣は、自由黨の爲に試驗せられつゝあるなり、此の試驗にして自由黨の豫期したる如き結果を見ざれば、自由黨は如何なる手段を使用しても其當初の目的を達せずむば休止せざる可し、而して閣下は今や一方に於ては官屬主義の屬僚に擁せられ一方に於ては政黨内閣を目的とせる自由黨に援助せられ恰も南面すれば北狄怨み北面すれば南蠻怨むの境遇に在り閣下の現位地は亦頗る不思議なりと謂ふべし、其不思議なるは尚ほ可なり、是れ疑もなき閣下の災難なり、閣下にして苟くも進退其の機宜を誤まれば遂に屬僚にも離畔せられ、自由黨にも反對せられて、政界の立往生を爲すの外なきに至らむ、亦閣下の宜しく熟慮すべき場合に非ずや。
 閣下漫に政界の前途を憂ふる勿れ、國家は何時までも老骨を煩はすの必要なく、後進の人物にして國家の大事に耐ゆるもの亦少なきに非ず、閣下の内閣にしてたとひ直に更迭すと雖も、之れに代るの内閣を組織するは必らずしも難事に非ず、况むや天下既に閣下の内閣に倦みて、人心變を思ふの今日に於てをや、且つ國家方に鞏固なる内閣を得て内外の政務を刷新せむことを望むに際して、微弱にして統一なき閣下の内閣をして尚ほ今後に存立せしめば、政界益々沈滯して國家毫も活動する能はざるに至らむ、是れ我輩が閣下に向つて斷然たる辭職を勸告する所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十三※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山縣相公閣下、我輩は閣下頃ろ辭任の意あると聞き、竊かに閣下が處决の時機を得たるを賀したりしに、今や又閣下が策士の言に動かされて忽ち留任の心を起したりといふを聞きては、我輩深く閣下の聰明頗る蔽はるゝ所あるを惜まずむばあらず、閣下に留任を勸告するものは自由黨の毫も畏る可からざると、伊藤侯の遽かに起つの意思なきとを以て閣下の聰明を蔽はむとすと雖も是れ姑息の計を進めて反つて閣下の過失を再三せしめむとするの妖言なり、閣下が既往三年間の歴史を觀るに閣下の過失は實に此の類の妖言に原本したるもの多し、閣下は元來謹厚愼密にして進退を苟もするの人に非ず、而も其の屬僚を有すること他の元勳よりも多數なるを以て、動もすれば佞嬖の小人に擁せられて不測の過失に陷ること少なきに非ず、今に於て尚ほ自ら悟らずむば、閣下恐らく恢復す可からざる汚名の下に沒了せむ。
 相公閣下、閣下は政治家として他の元勳に卓出したる技倆を有するに非ず、而も其の内閣を組織してより既に二會期の議會を通過し、兎も角も比較的長期の内閣の首相として今日まで無事なるを得たり、此の點よりいへば、閣下は藩閥元勳中最も幸運なる位地に立てりと謂ふ可し、夫れ賢者は名を惜み哲人は身を保たむことを思ふ閣下はたとひ政治家たるの技倆なきも賢哲の用意を爲すに於て未だ必らずしも晩れたりと謂ふ可からず閣下何ぞ之れを熟計せざる※(白ゴマ、1-3-29)且つ夫れ閣下は蒲柳の質、氣力亦頗る衰へたり、曾てサーベル政略を以て黨人に畏怖せしめたるもの今は黨人を迎合して僅に一時の苟安を謀るに汲々たり、顧みて内外の形勢を觀れば、國務益々多端にして、總て盤根錯節を斷つの利器を待つものたらざるなし、閣下たとひ愛國の至情自ら禁ずる能はざるものあるも閣下の健康到底之れに堪へざるを奈何せんや、想ふに閣下亦必ず負荷の難きを知らざるに非らじ之れを知つて尚ほ且つ自から斷ずる能はざるは唯だ屬僚に對する關係より脱離するを得ざるが爲めのみさりながら閣下にしても苟も此般の情實に拘束して自ら斷ずる能はざれば閣下は終に屬僚に誤まられて末路必らず悲む可き運命あらむ乃ち我輩は閣下の名譽の爲めに閣下の晩節を保つが爲に將た局面を展開して政界を一新せむが爲めに茲に謹で閣下の辭職を勸告す閣下果して我輩の言を納るれば是れ獨り閣下の利益のみならず又國家の利益なり閣下幸に之れを諒せよ。(三十年四月)

     山縣公爵

 現代日本に於て最も秘密多き人物は恐らくは山縣公爵なるべし彼れの性格伎倆及び政策は伊藤公爵若くは大隈伯爵等の如く分明に表現せられざるが故に國民は唯だ彼を政治界の一勢力として其の存在を認識する外復た彼れの眞價に就て何等の知る所なきものに似たり、例へば世人は彼を稱して最も頑固なる保守主義の代表者と爲すも、彼れの保守主義の如何なるものなるかを精確に領解するもの果して之れあるや。世人は又彼を目して政黨内閣制に反對する政治家と爲すも、誰れか果して彼れの口より公然たる非政黨内閣論を聞きたるものありや。或は彼を陰險といひ、或は彼を壓制家といふも、其の批判は果して事實を根據としたるものなりや。頗る疑はし。然れども彼れの眞價の知られざる處は是れ却つて彼れの眞價の存する處にして彼れが伊藤公爵大隈伯爵等と相對峙して別種の勢力を有する所以亦此にあり
     *  *  *  *  *  *  *
 大凡政治家に二樣の模型あり。公衆と倶に語り、公衆と倶に喜憂し、常に門戸を開放して、勉めて公衆と接近し、以て自己の存在を社會に記憶せしむるを平生の用意と爲すもの是れ一、大隈伯爵の如きは此の模型の政治家にして、伊藤公爵も亦稍々之れに近かし。第二は全く反對の模型にして、敢て漫りに公衆と親まず、必らずしも社會に自己を領解せしむるを求めずして、唯だ其の信ずる所を行ひ、其の爲さむとする所を爲し、名聲よりも實功を重むじ、人の是非よりも事の結果を考へ、且つ言行謹愼にして、持重の念頗る強し。山縣公爵の如きは則ち是れなり。前者は社會の感情中に生活し後者は少數者の信任に身を托し前者は公衆を對象として客觀し後者は自己及び自己の職分を本位として主觀す前者は共和國に在ても猶或は政治家たるを失はずと雖も後者は獨り君側輔弼の宰相として立つに非ずむば政治家たるよりも寧ろ軍人として成功せむ。山縣公爵が常に一介の武辨と稱し曾て政治家を以て自ら任ぜむとするの口吻を漏らしたることなきは、則ち彼れに自知の明あるが爲に非るなきか。
 試に大隈伯爵を見よ、彼れの門前は日に各種各樣の來客を以て市を成せり。政黨員も往き、新聞記者も往き、實業家も往き、相場師も往き、紳士も往き、貴婦人も往き、學者も、書生も、浪人も爭ひ往けり。而して一たび早稻田邸の玄關を辭したるものは、皆大隈伯爵の寫聲機となり、喇叭管となり、讚美者となりて、彼れを社會に吹聽し、紹介し、推奬して、彼れに對する記憶を深からしめざるなし。是れと同時に、彼は自ら進むで活溌なる社會的運動に關係し、或は好むで公私の會合に出席し、或は屡々大なる園遊會を開き、以て自己と公衆との連絡を謀るが故に、彼は既に政黨總理を辭して直接に政治界と交渉せざるも、其の存在は依然として公衆瞻仰の標目たり。特に彼れの有する廣大なる庭園は、殆ど一種の高等公園として公衆に公開せられたるものゝ如く、彼れの誇りとする園藝の如きも、彼に在ては閑人の道樂に非ずして多忙なる社會的運動の一方便たり。彼は其の庭園に瀟洒たる一茶室を有せり。而も余は未だ曾て彼れが宗匠を呼びて茶會を催したるの風流ありしを聞かず。閑寂を旨とする茶會の如きは彼れの到底堪ゆる所に非ればなり。彼は陽氣を好み多事を好み、活動を好み、變化を好む。彼は一日も懷抱を封鎖する能はず、一日も談論を廢する能はず、一日も社交と隔離する能はず、一日も沈欝なる天地に俯仰する能はず。彼は山を樂むの仁者たるよりは水を樂むの智者たるを喜べり。彼は安心立命を求むるの達人たるよりは、一生奮鬪を繼續するの戰士たるを選べり。
 伊藤公爵を以て彼れに比すれば、其の人格に大なる相違ありと雖も、其の名譽心の頗る旺盛にして、常に身を公衆の眼前に置き、自己の存在の社會に意識せられむことを求むるの點に於ては則ち一なり。彼は大隈伯爵の如く放膽無雙ならず、又大隈伯爵の如く非常に多方面ならず。彼れの世界は殆ど政治に限られたり。然れども彼は此の限られたる世界を成るべく華やかにして、働らき甲斐あらむことを期するが故に、自己の存在の社會に忘れらるゝは、最も彼れの恐るゝ所なり。彼は又大隈伯の如く單に社會の潮流に乘ずる巧妙なる舟子たるを以て甘むぜずして、潮流其物を指導せむとするの慨ありと雖も、要するに風潮以外に立つて獨自一己の理想を保守する人にあらず。若し伊藤公爵と大隈伯爵とを對照せば、伊藤公爵は歐洲大陸の政治家たる面影あり、大隈伯爵は英國政治家の風ありと謂ふべくして孰れも歐洲式の政治家たり。轉じて山縣公爵を觀れば、其生涯は夐然別種なり。彼は明治の歴史に於て最も重要なる部分を働らきたる一人なり。彼は自ら首相となりて内閣を組織したること前後二囘、其の内閣を組織せざる場合に於ても、屡々内閣の製造者たることありて、其の發言は往々内閣の更迭に影響を示したり。彼は所謂る元老團の要素として天皇陛下より特絶の待遇を受け、内外の重大なる國務は、一として彼れの與かり知らざるものなく、恐らくは最後の眞理を最初に聞くべき位地に居るものは彼なるべし。蓋し日清戰爭以來、軍事は政治機關の強部を占め、所謂る戰後經營なるものゝ如き、畢竟軍事を主として財政を從としたる立案たるに過ぎざるの觀あり。之れに加ふるに日露大戰の經驗を以てしたるに於て總ての政治問題は殆ど軍事萬能主義に依て左右せらるゝの傾向を現はせり。則ち是の時に當りて、政府の樞機は軍事を心軸として囘旋するが故に、政治問題の秘鍵を握るものは亦軍事當局者なりと推定するも可なり。而して山縣公爵は軍國の大首領として優越的威望を有するのみならず、軍事と政治の關係を研究するに於て又他の元老の何人にも勝れるは言ふを俟たず。斯くの如き威望と長所とを兼備せる山縣公爵が最も早く政治問題の極意に通じ得べき地位に在るは當然なりと謂ふべし。但だ彼は當局者としても、局外者としても常に超然として公衆環視の圈外に特立せむとするの態度を執るものゝ如く、伊藤公爵大隈伯爵等が終始公衆の耳目を聳動せむとすると頗る其の趣を異にせり。されば伊藤公爵大隈伯爵等は、其の妍醜瑕瑜大概露見して蔽はるゝ所なきも、山縣公爵の眞價は容易に公衆の窺ひ知る所とならず。彼は輪廓明白なる一人格としてよりは寧ろ人格化したる一勢力として國民の眼に映ぜり從つて國民は彼れの存在を政權と聯結して觀察するに止まり眞に能く彼れの人格を領解し得るものは甚だ少なきに似たり
 且つ伊藤公爵も、大隈伯爵も、其の私生涯と公生涯とを問はず、均しく之れを公處の白堊光裡に展開して彼等の自由批評に任ずと雖も、山縣公爵に至ては、公私の生涯に截然たる分界あるが故に其の私生涯は醇粹なる私生涯にして殆ど公衆と何の交渉する所なし。彼は朝廷の大禮、若くは官務的性質を帶びたる會合以外に出席すること甚だ稀なり、單に社交を目的とする普通の公會に周旋して、八面酬接の交渉を事とするは、彼れの性向に適せざる所なるべし。時として椿山莊園遊會を見ることあるも、是れ大切なる外國の貴賓に敬意を表する場合か否らずむば一家の賀儀を機會として少數の親近者を招待する場合に行はるゝのみ。彼は政治家として國民の輿論に拘束せらるゝを避くるとともに其の私生涯に於ても亦公衆の心理に煩はさるゝを免かれむと欲するものゝ如く則ち其の庭内境靜かにして風塵到らざる處に安置したる彼れの銅像は無言の間に善く活ける主人公の理想を語る者に非ずして何ぞや。されば彼の私生涯は、豪華の以て世に誇るべき者なく、盛裝の以て人を驚かすべきものなく、彼れの位地よりいへば、寧ろ極めて單純簡朴なりと評すべし。此の私生涯に含蓄せられたる趣味も亦從つて公衆的ならずして個人的なり一般的ならずして家族的なり。私生涯の彼は書院の人にして、彼は僅に漢詩を作り、和歌を詠ずるの閑趣味を解するのみ。圍碁を弄し謠曲を奏するの娯樂あるのみ。有體にいへば山縣公爵は決して公衆の好愛する政治家に非ず。然れども世には一般公衆に好愛せられずして、却つて鞏固なる勢力を有する政治家あり。彼は一般公衆に對しては一の快感を與ふべき態度を示さず彼は自己の能事を盡くして必らずしも其の公衆に知られむことを願はず彼は浮泛なる群情に殉ずるを爲さゞる代りに少數の共同者に信頼せらるゝを以て滿足せり彼は細心にして愼獨の工夫あり謹嚴にして妄りに放言高論せざるが故に彼れの共同者は彼れと秘密を語り大事を謀りて危まざるなり彼は批評せずして計畫し實行し否らずむば沈默するが故に國民の眼には頗る陰氣にして腹黒き政治家に見ゆるも彼れの親近者及び共同者に對する行動は眞摯なる考慮動搖せざる決斷負托に背かざる信義責任に對する大なる信念を以て表現せらる山縣公爵は稍々是れに類する政治家なり。其の公衆に歡迎せられずして、而も猶ほ能く政治界の一大勢力たるは、彼れの人格が少數共同者に信頼せらるゝ所あるが爲なり。顧ふに彼れの共同者若くは親近者の中にも、感情趣味に於て彼れと相容れざるもの之れあらむ。然れども終に彼れに對して惡聲を放つものなきは、彼を以て與に樂むべからざるも相信頼するに足るの人なりと爲すに由れり。世間或は彼を徳川家康に比す。蓋し陰忍老獪にして權謀に富めること二人相同じと爲すなり。安んぞ知らむ二人の最も相似たる所は其の共同者をして信頼せしむるに足るの確乎不拔なる資質に存することを豈唯だ陰忍老獪にして人の信頼を得ること彼れが如きことあらむや
 彼れの人格思想は、伊藤公爵大隈伯爵等と對照すれば、より多く東洋的なりと雖も、若し強ひて歐洲に其の比倫を求めば、英國のウエリントン其の人を擧げざるべからず。出でては元帥たり入つては宰相たる所、我が山縣公爵とウエリントンと東西の好一對なるべく、其の政治思想の保守的に傾けること亦二人甚だ相遠からず。唯だウエリントンは殆ど政治家たるの一能力だも備へざりき。彼は經綸若くは政術に就いては僅少の智識を有したるのみ。彼れが唯一の注意は女皇内閣の權力を完全に維持せむとするに在りき。彼は過失多き政治家なりき。無策の政治家なりき。而も其の能く首相として内閣を組織し得たるは、彼れが赫々たる戰功に伴へる威望の力に由りたるのみ。我が山縣公爵が、其の本領の亦軍事に在るに拘らず、其の政治の方面に於ても偉大の勢力を有すると同日にして語るべからず。然れども二人に共通する特色は社交的色彩を放てる生涯を有せざる是れなり。ウエリントンは毫も公衆の感情に頓着せざると共に、又公衆に好愛せらるべき、傾向を其の天分に發見せざりき、彼れの態度は冷靜なりき、乾燥なりき、生硬なりき。彼れの言行には、一點の衒耀なく、夸張なく、文采の燦爛たるものなく、活氣の飛動せるものなく、常に克己、自制、規律を以て鍛錬せられたる軍人氣質の標本たりき。是れ必らずしも温暖なる情緒を缺けるが爲に非ず。彼れの友誼心の深厚にして且つ恒久的なりしは、彼れの親近者の皆認識する所にして、是を以て彼は好愛せられざりしも、信頼せられ、歸依せられ、服從せられたりき。而も彼れをして人望の偶像たらしむるには、彼れの人格は餘りに嚴肅にして陰氣なりき。之れが我が山縣公爵に見るも、亦大同小異の模型に逢ふの感なからずや。
 若し政治家を俳優と同視し、其の世に處するや、恰も俳優の舞臺に立つが如く、其の言行絶えず公衆の耳目に印象を與ふるを以て能事とすること、猶ほ俳優が一に大向ふの喝采を博するの技術を盡すに似たるを取るべしとせば、山縣公爵の如きは最も割の惡しき政治家なり。若し之れに反して、公衆には好愛せられざるも共同者には信頼せらるゝの徳を有し新聞紙の寵兒とはならざれども上御一人の覺え頗るめでたく名聲に於ては甚だ揚らざるも勢力に於て確實なる基礎を有するものありとせば其政治家として成功するの要素果して孰れに多しとすべきか山縣公爵は完全なる政治家に非ざるべし然れども少なくとも彼は俳優的政治家に非ずして實質ある成功を期圖するの政治家なり彼は此の實質ある成功を期圖するに於て毫も公衆の聲援を藉るの手段を執らざるものゝ如し公衆の聲援なきも實權を有するときは政治に成功するの難からざるを知るの政治家なり。故に彼は國民に接近するよりも先づ權力に接近するの地盤を作るに努めたり。此の點に於て大隈伯爵は固より彼れに及ばず、伊藤公爵と雖も或は彼れの用意の周到に如かざるべし。
 現時の政治界は漸く元老の手を離れて新人物の斡旋に附せられむとするに於て、山縣公爵の勢力は遠からずして實存の形を失ふべきや必然なり。而も所謂る山縣系と目せらるゝ桂、清浦等の一派が、尚ほ新時代の勢力として優に大政黨と對抗するに足るを見れば、山縣公爵の涵養したる勢力の鞏固にして、其の根柢の深かきものあるを想ふべし。大隈伯爵の周圍には一人の小大隈と認むべきものなく、伊藤公爵の幕下にも亦小伊藤と稱すべきものあらざるに、獨り山縣系に屬する遊星の多數は、孰れも小山縣の面目を備へたり。是に由て之れを觀れば、彼れの感化力も亦驚くべきものなくむばあらず。以て彼れの眞價の存する所を知るべし。(四十一年一月)

   活動したる河野廣中

 △河野廣中の奉答文事件は、一時疑問の中心と爲つて、是れには黒幕があるの、進歩黨の策略だのと、いろ/\揣摩憶測をするものがあつたが、追々事實が擧がるに從つて、黒幕の仕事でも何でもない、河野一己の腦中から生れた趣向であつたことが分明わかるやうになつた。
 △兎角政治社會には、政略とか利害とかいふものがあつて、總ての觀察が色眼鏡を通して來るから、動もすると事實を曲解する傾があつて困まる。河野のやうな自ら欺くことの出來ない男が自分に何等の信念もないのに唯だ策士の入智惠でアンな際どい芝居が演られるものでない又た河野は正直だからといつて一から十まで人の御先に遣はれる役目と極まつて居る道理もないソンな河野なら福島事件の張本と爲つて七年も八年も監獄の飯を食ふやうな陰謀を企てない
 △奉答文事件は河野本來の面目を遺憾なく發揮したものである
 △一體當世の策士といふ奴は、陰險だの狡猾だのといつても、其の策略は大抵常識から割り出したもので、萬朝報の寶探しよりはモソツと判り易いやうに仕組まれて居る。河野は策士といはれる方でないから、所謂る策略といふやうなことは出來ぬかも知れない。併し策士の思ひも寄らぬ非常の決斷は河野の如き眞面目の人物に見出ださるゝことが多い
 △常識から見れば、河野の奉答文私製は、到底正當の處爲と認め難い。英國の議會では、勅語奉答は直に内閣の不信任案となることがあつて、其の討議の爲に二日も三日も朝野の論戰を續ける慣例であるが、我國の議會では、勅語奉答は唯だ至尊に敬意を表する儀式的奏文とする慣例で、政治上の意味を含ませないことになつて居る。此の慣例は永久變更が相成らぬという譯でもないから、變更する必要と機會があらば、之れを變更しても一向差支がない。併しソレをするには適當の方法手續に依らざるべからずだ、然るに河野は適當の方法手續に依らずして、獨斷を以て從來の慣例を破つた。
 △凡そ閣臣の失政を彈劾するのは、憲法より與へられたる議院の權能であるけれども、討論を用ゐずに之れを決することは出來ない又た之れを討論に附するには議院法の規定に依て議員より發議せしむるを要するのである
 △河野の朗讀したる勅語奉答文は、形式上討論に附した姿になつて居るが、實際は討論を用ゐずに可決したのである。否討論が出來ないやうに仕向けたといつても宜しいと考へる。内閣の彈劾上奏案とも見るべきほどのものを議長の勝手で拵らへて議長の單意で提出して討論の準備なき議院に可否を問ふといふ法はない。ソンな大切な問題を夢中に拍手して通過せしめ、後で大騷ぎを遣らかした議員も議員だが、其議員に不意打を喰はした河野議長の處爲も、决して正當とは謂はれない。
 △内政は彌縫を事とし、外交は機宜を失すといへる奉答文中の文字は、或は衆議院多數の意向を表現したものかも知れない。併し討論なしに之を可決しては、其文字は全く無意義の空文字となるのである。又た理由を説明せずに斯る上奏文を捧呈するのは、陛下に對する敬禮を缺て居ると思ふ。
 △熟ら/\開會以前の形勢を見るに、政友會と憲政本黨とは相聯合して内閣に當らうといふ攻撃同盟が成立つたのであるから、議事の進行次第で、閣員彈劾の上奏案が現はるゝのであつたかも知れない。併しソレにしても、十分當局者に質問をしたり、説明を求めたりして、其の上で正々堂々たる討論をも悉くし、今度こそは大に内閣の油を搾つて遣らうといふのは、聯合黨領袖株の心算であつたらしい。ソレデ河野が若し聯合黨の爲に謀つたならば、彼れは獨斷でアのやうな奉答文を朗讀する事は出來ぬ筈である。大石正巳は河野議長の處爲を非常に喜むで居つたさうだが、ソレハ一時の感興に打たれたからであつて深く考へて見たら決して喜ぶべき譯のものでない
 △如何に目的が正しくても、手段が正しくなくては憲政を圓滿に發達せしむることが出來ない。少々は目的が間違つて居ても、之れを達するの手段が正しければ天下の同情を得ることがある。かるがゆゑに、政治家の苦心は、どうしたら手段が正しく見えるだらうと工夫することであつて、所謂る策士といふ奴は目的は兎も角も手段を正しく見せ掛けるやうに仕組むのが巧みである。河野の今囘の遣り口は、全く之れとは反對であるから、たとひ河野自身では俯仰天地に恥ぢざる積りでも、世間では陰險悖戻の策略を用ゐたものゝやうに彼れを非難するのである。
 △河野自から語る所では、奉答文を政治上の意義あるものとするのは、彼れの年來の持論で、彼れは議長の候補者に推された時、『若し當選して議長の椅子に就くことゝなつたら、此の持論を實行して見ようと決心した』さうだ。是れは眞實の自白に相違ない。要するに朝野を驚かした奉答文も、唯だ此の單純なる功名心から生れたので、策略だの陰謀だのといふほどのものでもないと考へる。
 △然らば彼れは何故に此の事を一應政友に相談せずに獨斷に遣つたかといふに、ソコが則ち河野本來の面目で彼れは大事を行ふ場合に人と相談する男でない又た責任を人と分かつやうなことは好まない方だ度量が濶いやうで狹まいやうでチヨツと尋常人と異つた點がある
 △勿論從來の慣例を破つて、奉答文に閣臣彈劾の意義を含ませるといふことは、相談しても容易に同意を得るものでないことは、河野も能く知つて居たのである。コンな話を正面から持ち掛けて見給へ、代議士などは唯だ膽を潰ぶすばかりで、政黨の領袖で候のといつて居る手合でもイザとなると腰を拔かすに極つて居る。相談なんてソンなこと非常の英斷を下だす場合に禁物である。
 △元來河野は、如何なる地位に居ても、如何なる時代に在ても間斷なく仕事をするといふ性格の人でない。彼れは感情の最高潮に達した時でなくては活動を顯はさない質である。世は彼れが久しく蜚ばず鳴かずに居つたのを嘲つて無能といつたが、是れは蜚むだり鳴いたりする動機に觸れなかつたので、無能には違ひないが、活動力は消滅した譯でないのである。
 △算盤を彈じくとか、理窟を捏ねるとかいふことは、能者のすることで、河野のやうな性格の人には出來ぬ藝だ。利害を離れ政略を離れて唯だ一個河野といふ人格の自我を發揮する時でなくては彼れの本領が見えぬのである
 △トコロが當世は小刀細工の流行する時節であるから、河野の自我が發揮された奉答文事件を認めて、誰れか背後に黒幕が隱くれて河野を操つたのだと推測するものがある。誠に河野の爲に氣の毒の感に堪へない。特にニコチン中毒の説を流布して、河野と煙草屋との間に何か秘密でも在るかのやうに言ひ做すに至つては、餘り酷どい穿ち樣であると考へる。ソンな河野なら、今のやうな貧乏はして居ない。
 △政府に買收されたといふのも黨派根性から割り出した推測で、愚にも附かない話ぢや。マー河野よりも政府の都合を考へて見給へ、解散の結果は、前年度の豫算を執行することゝなるのだ。第十七議會は解散で三十六年度の豫算が不成立となつて居るのだから前年度の豫算といへば三十五年度の豫算である三十七年度の歳計を立つるのに三十五年度の豫算に依るといふのは政府の大困難であつてワザ/\ソンな大困難を引受くる爲めに河野を使つて解散の口實を作る如き馬鹿な狂言をするでもなからうぢやないか
 △又た西園寺侯が河野を煽てゝ遣らせた狂言に過ぎないといつてつうがつて居るものあるが、コレは西園寺侯が優しい顏をして居つて、なか/\惡戯を弄ぶ人であるとの推測から來たのであらう。併しあんな常識を外れた策略は侯の柄に箝まるものでない。考へて見ると奉答文事件は侯の作戰計畫を全く打ち壞はしたので、侯は大に目的の齟齬したのを失望したに相違ない。
 △併しドンな批評があらうとも、河野は河野の爲さむとする所を決行し了せたのであるから、毀譽褒貶は度外に置くべしだ。兎に角彼れは十分自我を滿足せしめたのだから外に何も遺憾なことがなからう今度のやうな機會は再び來るものではない彼れも此に於て始めて歴史上の一人物と爲つたのである。(三十七年一月)

   尾崎行雄

     尾崎行雄

      學堂の英雄崇拜
 博學多識の小野東洋早く歿し、敏警聰察なる藤田鳴鶴尋で逝き、俊邁明達の矢野龍溪は、中ごろ久しく政界と絶縁して、隈門の人才、爲めに人をして寂寞を感ぜしめ、今や世間島田沼南、犬養木堂、尾崎學堂を隈門の三傑といひ、而して學堂最も當世に稱せらる※(白ゴマ、1-3-29)凡そ新進政治家にして學堂の如く顯著なる進歩を得たるものは近來絶えて其比を見ず※(白ゴマ、1-3-29)彼れは啻に沼南、木堂より遙に後輩なるのみならず、現今著名なる黨人中に在ては、彼れは最も年少なるものゝ一人にして、且つ其從來の經歴よりいへば、箕浦青洲、肥塚巴月等も皆彼れの先輩にして、彼れは僅に加藤城陽、角田竹冷等と略々伯仲の間に在りしものなり※(白ゴマ、1-3-29)然るに今や彼れは多數の先輩を凌駕して、沼南、木堂と併び稱せられ、其名聲は却つて此二人の上に出でむとするは何ぞや。
 顧ふに議會開設以前までの學堂は、唯だ夸大なる空想と奇矯なる言動とを以て漫に聞達を世間に求め天下經綸の實務は一切夢中にして獨り氣を負ひ才を恃み好むで英雄を氣取り大政治家を擬したる腕白書生たりしに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)試に其事實を擧げむか、明治二十年、時の伊藤内閣の歐化政略が、激烈なる輿論の攻撃を受け、物情洶々として形勢穩かならざるや、忽焉として保安條例なるもの天來し、處士政客大抵京城の外に放逐せられ、滿城肅然たり※(白ゴマ、1-3-29)當時學堂亦逐客の伍伴となるや、彼れ莊嚴正色人に語つて曰く、伊藤博文はナポレオン三世を學びて、クーデターを行ふ、我れは即ち當年のユーゴーたらむと※(白ゴマ、1-3-29)是れ一時の諧謔に非ずして實に彼れの肺肝より出でたる眞面目の語なりき※(白ゴマ、1-3-29)聞く者皆其抱負の不倫を笑ふと雖も、當時彼は疑ひもなく、一個愛す可き小ユーゴーたりしなり※(白ゴマ、1-3-29)後ち彼れが英京龍動に遊ぶや、日に學者政治家と來往して氣※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を吐く、其論往々無責任にして放縱に屬するものあり、英人某氏諭して曰く、政治家は言に小心にして、行に大膽なるを要す※(白ゴマ、1-3-29)子夫れ少しく修養を積めよ、彼れ聲に應じて曰く、我は言行共に壯快偉大なる政治家たるを望む腐儒俗士の事は我れの知る所に非ずと※(白ゴマ、1-3-29)其の氣を負ひて自ら大とするの概以て見る可し。
 彼れが曾て報知新聞に在るや、文を屬して容易に成らず、編輯人之れを督促して急なり、彼れ大聲叱して曰く、我れは未來の立憲大臣たらむと期するもの何ぞ數々として我れを累はすの太甚しきやと、是れ猶ほ昔者ジスレリーが、メルボルン公の、『足下は政論家と爲て何を爲さむとするか』と問へるに答へて、我れは唯だ英國の總理大臣たらむとするのみといへると一對の大言なり※(白ゴマ、1-3-29)此れより世人彼れを呼て未來の立憲大臣と稱す※(白ゴマ、1-3-29)故に未來の立憲大臣といへば世間直に尾崎學堂を聯想せざる莫し※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに彼は夙にジスレリーの人物に私淑し、曾て『經世偉勳』を著はして、ジスレリーの傳を記す、其立憲大臣の豫告を爲したるもの安ぞ經世偉勳中の一節を換骨脱胎せるものに非らざるなきを知らむや。
 彼れが曾て東京府會の議員たるや、例に依りて放言高論動もすれば議場を惱殺せしめんとす※(白ゴマ、1-3-29)蓋し府會の議事は、瑣々たる地方行政の問題にして、天下經綸の大問題に非ず※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼れは常に立憲大臣の心を以て、堂々たる議論を試みんとするの癖あり※(白ゴマ、1-3-29)當時の府會議長たる沼間守一深く之れを患へ、務めて彼れの氣※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を抑へむとしたるに拘らず、彼れは傲然として飽くまで沼間と頡頏せむとせり※(白ゴマ、1-3-29)以て其抱負の凡ならざるを諒す可し。
 彼れが自負心強く夸大の空想に耽り莊嚴なる英雄の舞臺に神迷するの状は亦明かに彼れの風采にも躍然たり※(白ゴマ、1-3-29)其昂々焉として鷹揚なる處、其冷靜にして容易に笑はざる處、其動もすれば氣を以て人を壓せむとする處、皆彼れが氣象の外表たらざる莫し※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れ不幸にして、如何なる時代の英雄にも大抵普通なる特質を其風采に缺けり。英雄の特質とは何ぞや曰く磊落粗朴の野性曰く道理に拘泥せずして盲進する獸力是れなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの衣貌は寧ろワザとらしき躰裁を示すに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)彼れは一髮を櫛るにも、香水と鏡臺とを要すといふに非ずや、其蝮蛇の如き眼光もて四方を睥睨するの、如何に注意深き神經質を表するかを見よ※(白ゴマ、1-3-29)其一言一句を苟もせずして勉て多辯の弊を避くるの、如何に小心翼々として或る點に謹愼なるかを見よ、單に彼れの風采よりいへば、彼れは虚飾にして異を衒ふの癖あるものゝ如く即ち衣冠の英雄にして裸躰の英雄に非らざるの嫌あるを免かれず。此に彼れの性格を判斷せしむる面白き一事實あり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが前年井上條約案に反對運動を試み居るの際なりき※(白ゴマ、1-3-29)一日故後藤伯の馬車を借り、俄に立憲大臣に假裝して、意氣揚々と早稻田の大隈邸に乘り込み、以て衆人に一驚を喫せしめて自ら喜びたること是れなり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ其れポンチ畫中の滑稽人物に近きの太甚しきや※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如き風采は、決して英雄普通の性質と兩立せざるものなり。
 彼れは常に矢野龍溪に兄事し、龍溪を以て大臣以上の人物なりと尊崇し、其人品を評して少なくとも當代一流といひたるものなり※(白ゴマ、1-3-29)料るに彼れ龍溪を自己の模型となして之れに陶鑄せられんと欲するの餘り、遂に一個の小龍溪と爲りたるもの歟、然れども今や彼れは龍溪よりも大なる成功あり、多望なる前途を有するのみならず、比較的年少の身を以て多數の先輩を凌駕し、現に進歩黨中最も有力なる領袖と爲り、彼れの豫期せる立憲大臣の位地も遠からずして彼れを迎へんとするに至れるは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)請ふ少しく余をして彼れが成功の原因を説かしめよ。

      學堂の成功
 學堂が成功の一原因は、政治家の凖備と修養とを怠らざる是れなり※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに藩閥の諸老は、大抵立憲大臣としての伎倆なく、取て代る可きの後進政治家も、未だ經國の大才と認む可きもの實際に出現せずして、到る處夜郎自ら大なりとするの斗※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)漢が、紛々として互ひに短長を爭ひ、雌雄を問ふを見るのみ※(白ゴマ、1-3-29)稱して政治家といふと雖も、未だ知らず、政治家たるの準備と素養あるもの果して幾人ぞ※(白ゴマ、1-3-29)夫れ經國の大才は難し※(白ゴマ、1-3-29)學堂亦嘗て此れに當るの實力を世間に示したることあらず※(白ゴマ、1-3-29)故に世間唯だ彼れを大言壯語の虚才として、寧ろ之れを譏笑する多しと雖も、彼れは大言壯語を以て世間を虚喝すると同時に其平生の抱負を苟且にせずして孜々として大臣學を修め英雄の課業を研究して休まざるの熱心あり※(白ゴマ、1-3-29)此熱心ありて而る後、大言壯語するときは、即ち其大言壯語も亦終に徒爾ならざる可きを信ずるに足る。
 彼れは斯くの如き抱負と熱心とを以て帝國議會に入れり※(白ゴマ、1-3-29)其言動豈尋常一樣なるを得むや※(白ゴマ、1-3-29)議會を傍聽する者は、必ず先づ異色ある一代議士を議場に目撃せむ※(白ゴマ、1-3-29)此代議士は、常に黒紋付の羽織に純白の太紐を結び、折目正しき仙臺平の袴を着けて、意氣悠揚として壇に登るを例となす※(白ゴマ、1-3-29)是れ衆議院の名物尾崎學堂なり※(白ゴマ、1-3-29)人は未だ其發言を聞かざるに先づ其態度の莊重なるに喫驚し以爲らく未來の立憲大臣たるものゝ態度正に爾かく莊重なるべしと※(白ゴマ、1-3-29)其一たび口を開くや、議論堂々として常に高處を占め、大局に居り、其眼中復た區々の小是非小問題なきものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)然り唯だ百姓議論地方問題を以て終始囂然たる現時の衆議院に在ては學堂の演説の如きは實に未來大臣の準備演説ともいふ可き名譽を要求し得るものなり※(白ゴマ、1-3-29)試に見よ、三百の頭顱中、其伎倆彼れに優るもの必ずしも之れなきに非らじ※(白ゴマ、1-3-29)而も學堂の如く功名心に富み學堂の如く大臣學を專攻するものありや否や※(白ゴマ、1-3-29)ありと雖も恐らくは極めて少し※(白ゴマ、1-3-29)是れ學堂の漸く頭角を現はすに至れる所以なり。
 且つ彼れは衆議院に於て、討論家として卓越なる能力を顯はしたり※(白ゴマ、1-3-29)是れ實に彼れが成功の第二原因なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの討論は深遠博大なる思想を表現せず光怪陸離たる情火を發起せず又長江大河一瀉千里の雄辯を認識せしめず※(白ゴマ、1-3-29)然れども論理痛快法度森嚴にして往々大膽不敵の硬語あり以て能く議場の群囂を制するに足るの力なきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)特に其論敵に對するや逼らず激せず熱殺の奇なきも冷殺の妙あり※(白ゴマ、1-3-29)婉約の巧なきも辛辣の趣味あり※(白ゴマ、1-3-29)如何なる大嘲罵の言も彼れは之れを出だすに極めて沈着の辭氣を以てし如何なる滑稽笑※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)の意義も彼れは説教師の如く襟を正だし眉を昂げて表白する如きは實に一種の討論術を得たりと謂ふ可し
 伊藤内閣の時なりき、彼れは渡邊侠禪と、一錢一厘の問答を試みて侠禪を飜弄せり※(白ゴマ、1-3-29)一錢一厘の問答、何ぞ其れ滑稽なる※(白ゴマ、1-3-29)而も學堂は極めて嚴格なる聲色を以て、此奇劇を演じたりき※(白ゴマ、1-3-29)大抵學堂の討論は、詈罵笑※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)を交へざるものなしと雖も、彼れは曾て笑ひたることなく、又怒りたることなく※(白ゴマ、1-3-29)飽くまで冷々然たり、飽くまで從容自若たり※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如き討論家は往々大激論大爭議の壇上に於て顯著なる成功を博し得ること多し
 彼れが成功の原因は、更に焉れより大なるものあり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞや、彼れが黨人として極めて忠實なる黨人たるに在り※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曾て大隈伯を論じて曰く、人或は進歩黨の一擧一動を以て悉く大隈伯の指揮に出づるが如くに想像するものあり※(白ゴマ、1-3-29)是れ何の謬見ぞや※(白ゴマ、1-3-29)凡そ一政黨の進退を指揮するの首領は、常に黨員と實際の運動を倶にするものならざる可らず※(白ゴマ、1-3-29)然るに伯は早稻田に閑居して、唯だ客と政談を試むるを樂みとし、復た自ら出でて事を政界に見ることなし、夫れ戰場の外に居て大將軍の事を行はむとす、是れ世間決して有る可からざる道理なり※(白ゴマ、1-3-29)進歩黨の實力首領は他日必らず議院より出現せむ※(白ゴマ、1-3-29)復た何んぞ大隈伯の力を借るを要せむや※(白ゴマ、1-3-29)彼れの自ら任ずるもの洵に斯くの如し、是を以て議院の内外に於ける彼れの言動は、一に進歩黨の利害得失より打算したるものを準と爲し、則ち進歩黨の爲めに盡す所以のもの、亦隨つて熱心到らざるなきを見る※(白ゴマ、1-3-29)其今日あるを致すは豈夫れ偶然ならむや※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが成功の第三原因とす。
 然りと雖も、彼れが進歩黨中最も有力の位地を得たる所以のものは、唯だ伎倆と勉強との力に是れ由るに非ずして別に之れが原因たるものあり、品性高潔にして體面を重んじ清澹の生活を樂みて鄙劣の念なき即ち是れなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ常に武士道を説く、何となれば武士は最も體面を重むずればなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ又金錢を輕んじて生産を治めず、鄙吝の念或は之れと共に生ずるを恐るればなり※(白ゴマ、1-3-29)是れ實に當世罕に見る所にして、彼れが内、政友に信任せられ外、敵黨の敬憚を受くる所以のものは此れが爲めなり※(白ゴマ、1-3-29)夫れ才は得易らず、徳も亦豈得易からむや※(白ゴマ、1-3-29)况むや黄金の魔力横行して、敗徳の政治家頻りに輩出するの今日に於てをや※(白ゴマ、1-3-29)今日の所謂政治家は、ワルポールの所謂市價を有する動物に近し※(白ゴマ、1-3-29)故に其爲す所人身賣買に異らざるものあるも、曾て自ら之れを耻とせざるのみならず※(白ゴマ、1-3-29)又人に向ひて之を説くを意とせざるに至る※(白ゴマ、1-3-29)此時に當り、金錢を輕んずること彼れが如く體面を重んずること彼れが如き人物は一黨の領袖として人意を強うし國民の代表者としては正義を擔保するに足る※(白ゴマ、1-3-29)是れ余が深く彼れを多とする所以なり※(白ゴマ、1-3-29)余之れを聞く、西郷南洲翁の信望一代を蓋ひたるは、必ずしも翁が伎倆の大なるが爲に非ずして、唯だ金錢を輕むずるの一美徳あるに由れり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し薩人は概して鄙吝の質あり、翁獨り高擧超脱夐然として俗流に出づ※(白ゴマ、1-3-29)是れ其能く信望を天下に博せし所以なりと。古への大政治家は多く文臣錢を惜まざるの士なり※(白ゴマ、1-3-29)ピツトの如き、ジスレリーの如き皆然らざる莫し※(白ゴマ、1-3-29)學堂が身を濁世に處して曾て公徳を破るの行爲なきは職として文臣錢を惜まざるの氣象に由るのみ※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが信望の日に高きを致せる第四の原因なり。

      學堂の人物
 政治家としての學堂は、策略縱横、權變百出、能く一時の利害を制するに於て木堂に及ばず※(白ゴマ、1-3-29)博辯宏辭、議論滔々として竭きざるは沼南に及ばず※(白ゴマ、1-3-29)然れども志氣雄邁器識超卓常に眼を大局に注ぎ區々の小是非を爭はずして天下の事を以て自ら任ずるの大略あるに至ては學堂實に一日の長ある如し※(白ゴマ、1-3-29)余は彼れを以て未だ經國の大才なりと認むる能はず、然れども其抱負の偉大にして自信の深きは薄志弱行の徒累々相依るの今日に於て亦容易に得易からざるの士なり※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ彼れを粗放の虚才と爲すは、聊か深刻の評たるを免かれず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼れは平生大言壯語の癖ありと雖も、彼れは其實一個謹愼の天分あり、責任を重んずるの操守あり、事を苟もせざるの眞面目あり、彼れの大言壯語は、、彼れが大舞臺に立て大作爲を試みんとするの英雄的思想より來る※(白ゴマ、1-3-29)彼れは草※[#「くさかんむり/奔」、80-上-20]に在りと雖も、其志既に臺閣に存すればなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが一たび外務參事官の位置を甘むじたるは、是れ豈彼れの本心ならむや、故に彼は之を棄つること弊履の如く夫れ輕かりき。要するに彼の未來は最も多望なるものゝ一なりと謂可し。(三十年十一月)

     尾崎東京新市長

 ▲政友會を脱して、遽かに政治的孤兒となつた尾崎行雄君は、棄てる神あれば助くる神ありで、同情ある東京市民に拾ひ上げられて市長の地位に安置せられた。君は曾て言つたことがある。我輩の生涯は恰も隧道の多い鐵道旅行をするやうなもので時々暗黒の處に差し掛つては再び前途の光明を認めてヤツト安心することがあると。なるほど考へて見ればさうかも知れない。
 ▲君がジスレリーを氣取て居るといふのは有名な話であるが、近頃は君をチヤムバーレーンに較べるものがあるやうだ。チヤムバーレーンはバーミンガムの市長と爲つたこともあるから、此の點だけが似て居るやうだが、人格は全く反對で少しも似て居る處がない
 ▲チヤムバーレーンは理想家でなくて、實行家である。但し何んな政治家でも、苟も政治家であつてみれば、何かの理想を持つて居らぬものはないのである。チヤムバーレーンにも、赤いとか白いとかいふ理想あるに違ひない。しかし彼れは自己の理想よりも更に政治家に大切なものがあるといふことを心得て居る即ち時代の精神である彼れが時代の精神に觸接するの鋭敏なることは殆ど天才の詩人が無意識に自然と觸接するやうな趣がある。初めは自治法案に贊成して居つたが、時代精神が漸く大英統一主義に傾いて來たのを察して、潮合を計つて自治法案反對と出掛けた處などは凄い腕だ。此頃は復た保護貿易主義らしいものを唱へて居るが、元來自由貿易策は英國の國是ともいふべき位のもので、自由黨でも保守黨でも此の政策には今が今まで指一本も差しかねたものであるが、彼れが大膽にも之れを變更しようと試みるのは全く時代精神の傾向を見拔いて居るからだ其の目先の早いことは疑ひもなき天才である
 ▲尾崎君はさういふ柄ではない、一體は主觀的理想家であるから其の頭腦は一定の型に這入つたやうに固まつて居るそれであるから君の政治論は十年前も今日も少しも變化もなければ進歩もないやうである。進歩黨を去て政友會に赴いた時は、世間から變節だとか無節操だとかいはれたが、實は變節でも何んでもない。唯だ一寸乘替汽車に乘つて見たばかりで其の行先はチヤンと極まつて居つたのである
 ▲理想家に免がれない短所は、常に自己に重きを置きすぎる弊があつて、兎角時代の精神を看過するから、實行的手段には迂濶であるやうだ。此の社會を自己の理想通りにして見たいと思ふのは面白いことは面白いが社會は自己の理想より進歩して居ることもあり後れて居ることもあつて平行して居ることは少ないものだから理想家は何うかすると社會の孤兒となるのである
 ▲尾崎君の行徑を見るに、多少其の傾向があるではなからうか。政友會を脱したのも、自己の理想が行き詰つた爲めであつて、別段深い考があつたものと見えない。世間には、君が伊藤侯を見損つて政友會に飛び込むだのが誤りであつたと評するものもあるが、強ち見損なつた譯ではなからう唯だ自己の理想を餘り大事にし過ぎた爲に當時の境遇に堪え得なかつたのである
 ▲しかし茲が尾崎君の人氣のある所以で、失敗しても世間の同情が君を離れないのであらう。チヤムバーレーンのやうな人物は、成功すれば世間から同情を受けるが、失敗でもしたら最後、名譽も信用も忽ち去つて仕舞うのが必然だ。其處になると理想家は一得一失で失敗しても左ほど世間から憎まれない。尾崎君は即ち其の一例で、君は自ら言つて居るやうに、屡々暗黒の隧道に行き當ることがあるが、暫らくして再び光明の出口に送り出さるゝのである。
 ▲政友會を脱したのは、丁度隧道に向つた處であつて、君自身も此先どうなることかと氣が氣でなかつたに相違ない。其處へ都合よく東京市長が缺けて居つて、後任問題の持ち上がつた際であつたから、人氣は恐ろしい勢で君に集つた。これだけは君の夢にも思はなかつたのであらうが君に取つて所謂る渡りに舟で人氣といへる不思議の魔力に引かれたのである
 ▲凡そ聰明な人物は、自分で自分の運命を開拓するものであるが、餘り聰明でない人物でも人氣といふ魔力に擔がれると豫期せざる仕合せに逢ふものらしい
 ▲ソンなことはどうでも宜いとして、さて君はチヤムバーレーンに比較されて居るから、どうかチヤムバーレーンに劣らないやうに、緊かり市政を行つてもらひたいものだ。市政といへば小さいやうであるがなか/\さうでない國務大臣の仕事にも劣らぬほどの難役であるのだ
 ▲チヤムバーレーンがバーミンガムの市長と爲つたのは未だ國會議員とならない前であつて、政治家としては經驗が甚だ少なかつたのである。しかし會社事業や何かで實務上の手腕が十分認められて居つたから、市民の信用を得て市長に選まれたのである。果して彼れは市民の希望に背なかつた新たに大規模の公園を造くる自由圖書館を建てる市民の大會堂を設ける水道及び瓦斯の供給を市有にする貧民窟を市外に移して市の體裁を綺麗にするそれは/\目醒ましき働きを現はしたのである。隨て彼れの市長たりし時代はバーミンガム市の歴史上、最も記憶すべき重要の時代といはれて居るが、尾崎君も市長となつた序に思ふ存分に手腕を示してもらひたいものである。
 ▲唯だ市政はヂミな仕事でハデでない代りに、隨分細かい、面倒臭い處があるから、何でも根氣よく、勉強するに限る。それに東京の市政にはいろ/\の歴史もあり、込み入つた情實もあるから、政黨を率ゐたり、國會議場で討論するやうな譯に往かない。君は市會を小國會にし、市廳を小内閣にする抱負があるさうだが、ソンなことは市政には餘り必要がない市政は直接に市民の生活問題に關係するものだから教育とか衞生とか交通機關とかいふ實際の施設に最も注意してもらひたいのである。市會がどうの、市廳の組織がどうのといふやうなものは、格別大事でないと考へる。
 ▲どうも理想家は、空理空論に流がれて、實務の上に手を拔く弊があるから、尾崎君も餘つぽど用心しないと、つまらない失敗を取らないとも限らない。君は宜しく市民の人氣に背かないやうに甘く遣るべしだ。(三十七年八月)

     尾崎行雄氏の半面

 此頃外債問題討議の市會議場に於て、市長尾崎行雄氏は、久しぶりにて大氣焔を吐きたり。氏は某議院が、外債のコムミツシヨンを如何に處分するやと言へるを聞き咎めて、行雄は二十年來政海の激浪を經來れり、十萬二十萬の端金の爲に名節を汚すものに非ずと傲語し、以て頗る世間の耳目を驚かしたるものゝ如し。
 尾崎氏の品性廉潔なるは何人も之れを疑ふものなく、市民が氏を市長に戴きたるも、實は其廉潔を信じたるに外ならず。然れども世間は氏に望むに、更に廉潔以上何事か市政の上に施設する所あらんことを以てしたり。有體にいへば、世間漸く氏が市長として餘りに無爲なるに失望したり。氏より見れば今の市會議員なるものは箸にも棒にも掛らぬ連中なるべし。而も氏は斯る連中の爲に往々愚弄せられ、若くは鼎の輕重を問はれむとするの状なきに非ず。是れ平生氏を知るものゝ甚だ心外千萬とする所なり。
 勿論人は動いて一事を爲す能はず、靜かにして却つて多くの爲すことあり。氏が二十年間の政治的活動は、隨分目覺ましからざるに非ずと雖、其の迹を見れば唯だ廉潔の美名を得たるのみにて、是れといふべき格別の事業もなきに似たり。されば市長となりて以來氏が殆ど寂然として聞ゆるなきに至りしもの、或は氏が實質上大に爲しつゝある所以なるも知るべからず。是を以て氏の靜かなるは毫も咎むべきに非ず、要するに其の平生の抱負に背かざるだけの仕事を爲すことを得ば足れり。今や氏は千五百萬圓の外債募集に成功したり。氏は此の金額を以て市區改正其他の事業を未來の短かき時日内に遂行せむとすと聞けり。是れ恐らくは東京市の戰後經營なるべし。其の成敗は則ち市の能否を試驗する所以なれば、氏夫れ二十年來鍛錬し得たる手腕を揮つて世間の群小を一齊屏息せしむるを得るや否や。(三十九年八月)

     尾崎市長と大岡市會議長

 尾崎行雄氏は東京市長として未だ世間に誇るに足るものなくして、却つて群小嘲弄の標的たらむとするは氣の毒の至りに堪へず。前に氏の市長に就任するや、故星亨の殘黨たる郡市懇話會、之れに反對して起りたる公民會、及び餘の中立派は、悉く相一致して氏を助くるの態度を示したりき。而も時を經るに從ひ、氏は漸く市民の代表者に重むぜられず、最も氏を信用したる公民會派すらも、氏に對する同情は以前の如く深厚ならざむとするに至れり。氏の位地は幾たびか危急に迫れりと報ぜられたりき。氏の名節を惜むものは寧ろ氏が辭職の斷あらむことを望みたること一再に止らざりき。特に電車問題に關する氏の失敗は、氏をして最後の處決に出でしむるに十分の理由あるものなりき。氏は東京市會が電車市有の決議を爲したるを見て、直に屬僚に命じて市有案を編制せしめつゝありしに、市參事會員は其の同一屬僚をして更に反對の立案を爲さしめたりといへり。市參事會員の行動斯くの如く、市會の形勢亦飜雲覆雨して、氏に求むるに市有案の撤囘を以てしたるに至ては、是れ氏に向て詰腹を切らしめむとするに均し。而も氏は尚ほ晏如として市廳に眠る。知らず氏の意氣銷沈したるか、將た大に將來に期する所あるか。
 茲に東京市會議長の大岡育造氏といへる大政治家あり。世間或は氏を以て市長の椅子を窺※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)し、陰に尾崎氏を構陷するの謀主と爲すものあり。其の果して然るや否やは記者の知る所にあらざるも、兎に角尾崎氏は自己の身邊に油斷のならぬ強敵を控へ、絶えず其の脅かす所となるものゝ如くに見做されたり。誠に危險千萬の話なれども、而も此の強敵あるが爲に、此の位地は却つて倒れむとして倒れず、今日まで安全に支持し得らるゝの状あるは奇なりと謂ふべし。
 大岡氏は巧慧機敏の才子にして善く謀り善く働くと稱せらる。之れに反して尾崎氏は正直なる神經質の人物にして、常に上品の手段を以て上品の目的を達せむとし、其の心術に一點の横着なきがゆゑに、頗る野暮にして融通の利かぬ堅氣者に似たり。されば小手先の器用を喜ぶものは、大岡氏に意を寄する多かるべきも、唯だ東京市民は市長として一事の尾崎氏に信頼すべきものあるを了解せり。氏の清廉潔白なること是れなり。東京市政は、久しく不淨なる人物に依て攪亂せられたりき。是を以て他の資格に於て缺くる所あるも、清廉潔白の人格を有するものは東京市長として最も安心すべき人物なりと東京市民は思へり。尾崎氏にたとひ事務の能の甚だ稱すべきものなしとするも、其の清廉潔白なる美質は東京市民の毫も疑はざる所なり。但し市會及び市參事會の小野心家小陰謀家は、却つて此の清廉潔白を窮屈に感ずるものあるやも知れざれども、市民の輿望は此に歸せり。故に若し清廉潔白に於て尾崎氏の如く明白ならざる人物ありて市長の椅子を窺※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)すと假定せば、其の人如何に巧慧機敏の才子なりとも、東京市民は恐らく過去の市政史を囘顧して尾崎氏を助くるに傾かむ。大岡氏も亦清廉潔白の士君子なるべし。而も此の點に於ける尾崎氏の信用は大岡氏に比して優れり。是れ尾崎氏の位地尚ほ容易に動かざる所以か。
 斯くて尾崎氏の位地は當分安全なれども、實は脆弱なる安全なり。實力を以て支持したる安全に非ず。氏にして若し小心翼々唯だ過失なきを勉むるのみならば、氏の位地安全なるが爲に東京の市政に何の加ふる所あるを見ざらむ。元來氏は豁達にして腹心を披くの門戸開放家にも非ず。さりとて術數を蓄へ陰謀を成すの策士にも非ず、要するに氏は一種の獨善主義者にして名節を貴ぶの君子人なり。故に品性は極めて立派なれども、俗人を相手にして俗事を處理するに於ては、其の頭腦餘りに窮屈にして狷介なり。氏は熱心なる味方を作る能はず、又忠實なる子分を得る能はず。首領たるの器局は到底氏に於て求むべからず。故に氏に望む所は、思ひ切つて自己の所信を斷行し、何人の反對をも畏れずして獨り其の爲さむとする所を爲し、位地を賭して驀進するに在り。然らずして唯だ無爲無能の好々先生に終らば、氏の政治的生命は遠からずして絶えむ。位地の安全なるを以て自ら甘むぜば、氏の末路は知るべきのみ。(四十年二月)

   公爵 近衞篤麿

     近衞篤麿

      一代記の序言
 近衞篤麿公の名が世に出でたるは、漸く最近十年間の短日月のみ。而も彼れの春秋尚ほ高きを見るに於て、此短日月は僅かに彼れが公人歴史の初期たるに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)彼れは多くの懸賞問題を未來に有せり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは任重く道遠く其期する所のものは固より未來の成功に在らむ※(白ゴマ、1-3-29)今日豈輙すく彼れの人物を評論するを得むや※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れが初期の公人的歴史は其善く彼れの人物性格を説明したる點に於て實に彼れの一代記の序言たる可き意義を有せり、乃ち其一は彼れが統御の器あることを説明し、其第二は彼れが公平忠忱の情に富めるを説明し、其第三は彼れが自任自信の極めて高きを説明し、其第四は彼れが謹愼にして責任を重むずるを説明し、其第五は彼れが主義定見を守るの固きを説明せり※(白ゴマ、1-3-29)然らば彼れの人物亦豈觀察し得可からざらむや。

      統御の器
 彼れが歐洲より歸るや、久しからずして帝國議會開會せられ、彼れは憲法より與へられたる特權に依りて貴族院の一席を占めたり※(白ゴマ、1-3-29)當時貴族院には、或は學識を以て、或は勳功を以て、或は閲歴を以て、既に世に聞えたる先輩の士甚だ多くして、彼れは恰も大人群中の小兒の如き觀ありき※(白ゴマ、1-3-29)則ち誰れか此小兒が大人を統御し得るの器を具へたるを知るものあらむや※(白ゴマ、1-3-29)此を以て時の貴族院議長伊藤博文が、偶々故ありて自ら事を觀る能はざるに際し、彼れを假議長として指名するや、滿場皆其意外に驚かざる莫く、中には冷笑を以て彼れを迎へたるものありしと雖も、彼は何の遲疑する所なくして議長の椅子に就きたり※(白ゴマ、1-3-29)滿場は再び意外の感に打たれたりき※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼れの安詳沈着たる態度明敏果斷なる處置は自然に議長たるの伎倆を示したればなり
 松方内閣成るや、彼は遂に議長に勅選せられて第十議會に膺りたりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れが議長としての伎倆は益々世間に認識せられたりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れの政敵は彼れを呼で壓制議長といひ彼れの政友は亦彼れが餘りに公平なるを喜ばざりしと雖も其善く議場を整理し善く討論を指導したるに至ては恐くは帝國議會あつてより貴族院第一流の議長ならむ統御の器あるに非ずして何ぞや

      忠忱の人
 彼れは久しく貴族院に於ける硬派の首領たり※(白ゴマ、1-3-29)第一期の議會以來彼は大抵政府の反對に立てり※(白ゴマ、1-3-29)政府に反對するに非ずして藩閥に反對せるなり※(白ゴマ、1-3-29)而も其進退動もすれば衆議院の非藩閥派と同うするものあるを以て、政府者の彼れを憎むや最も太甚し※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れの藩閥を攻撃するは、衆議院の非藩閥派と其精神を異にせり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し衆議院の非藩閥派は政權爭奪を以て結局の目的と爲すと雖も彼は單に藩閥の情弊を打破して憲政の實を擧ぐるを中心の冀望と爲したればなり
 故に彼は一方に於ては藩閥を攻撃すると共に、一方に於ては又屡々衆議院の行爲を非難したりき※(白ゴマ、1-3-29)前伊藤内閣の第四議會と衝突するや、紛爭に始まりて紛爭に終り、九旬の會期唯だ怒罵忿恚の聲を以て喧擾したるに過ぎざりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ他なし、内閣は常に輕佻驕傲にして責任を顧みず常に袞龍の袖下に隱れて衆議院を威嚇せむとするあり衆議院は噪暴急激にして沈重なる思慮を缺き動もすれば上奏權を假て内閣に逼らむとするあり其行動兩つながら極端に失して一點和協の意なければなり※(白ゴマ、1-3-29)其結果として衆議院は内閣の處決を促がすと稱して自ら停會し、内閣は之れに酬ひんと欲して恐れ多くも詔勅の降下を奏請し奉る如き、殆ど共に大義名分の何物たるを知らざるものに似たりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れは此事態を歎じて慨世私言を述べ、以て其機關雜誌に掲出せしめたり※(白ゴマ、1-3-29)固より寥々たる短章に過ぎずと雖も、中に彼れが滿腹忠忱の情躍々として掬す可きものあり※(白ゴマ、1-3-29)其内閣に對しては藩閥の情弊に拘泥して改善の實蹟なきを責め擧措の不親切にして眞面目ならざるを責め誠意誠心の毫も認む可きものなきを責め其衆議院に對しては妄りに政府彈劾を事として紛然囂然たるを咎め上奏權を濫用して陛下を政海の渦中に誘ひ奉るの不敬を咎め政府乘取の野心に驅られて國家民人の康福を度外視するを咎めたり※(白ゴマ、1-3-29)忠忱の人に非ずして何ぞや。
 第五議會の解散するや、彼れは其同志と共に伊藤首相に忠告書を贈りて、首相の反省を求めたり※(白ゴマ、1-3-29)首相之れが復書を作りて相酬ゆるや、彼は更に辯妄書を公にして其謬見を指摘すること太だ痛切※(白ゴマ、1-3-29)而して彼れを知らざるものは、此一事を以て單に伊藤攻撃の策より出でたりといふものあり※(白ゴマ、1-3-29)是れ實に彼れの心事を誤解したるの太甚しきものなり。彼は伊藤侯の政略こそ初めより非難もしたれ、一個人としての伊藤侯に對しては、常に敬愛の心を以て之れを待つは、彼れの自ら明言する所なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ辯妄書に於て其心事を吐露して曰く、篤麿が私交上に於て伊藤伯※(始め二重括弧、1-2-54)當時は伯爵たり※(終わり二重括弧、1-2-55)に對するの情實に師父に對するの情に異らざるもの在て存す篤麿一個の冀望に於ては伊藤伯の統督する内閣をして過誤なき内閣たらしめ伊藤博文伯をして維新の元勳立憲國大首相たるの擧措あらしめむと欲するに外ならず※(白ゴマ、1-3-29)然れども今や篤麿は私情を去て公議に依り舊來の情誼を棄てゝ斷然伊藤内閣反對の側に立ち公然其非を鳴らさざるを得ざるに至れりと※(白ゴマ、1-3-29)何等正大の辭ぞ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈他の伊藤派と其心事を同うするものならむや※(白ゴマ、1-3-29)

      自任に高き人
 松方内閣組織せらるゝに及び、人あり彼れを誘ふに文部大臣の椅子を以てす※(白ゴマ、1-3-29)彼れ冷然之れを拒絶して敢て應ぜず※(白ゴマ、1-3-29)客あり彼れに逢ふて其理由を問ふ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曰く、余は學習院長として今方に其改革に從事しつゝあり※(白ゴマ、1-3-29)華族教育は余に於て最大の職任にして、且つ最重の義務なり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ此れを棄てゝ一伴食大臣の地位を望まむやと※(白ゴマ、1-3-29)蓋し彼れは何時なりとも内閣大臣たるを得るの自信を有する者なり※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れは他の一般野心家の如く必らずしも焦燥煩悶して大臣たらむとするものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)必らずしも大臣の地位を最上の名譽と爲すものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れは華族が皇室の藩屏たるを念ひ自ら華族の矜式たらむと任ずるや太だ高し※(白ゴマ、1-3-29)其氣格の雄大なる其品性の清高なる固より華族の代表者として内外の信用を博するに足るは言ふを俟たざるのみならず※(白ゴマ、1-3-29)彼れは日本華族の改革者として最も力を此に致たしつゝあるは亦世間の均しく認むる所なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが曾て華族の腐敗を國家學會に痛論するや、一部の華族は彼れを咎めて華族を侮辱したりと爲し、太甚しきは彼れを以て華族中の壯士と爲すものありき※(白ゴマ、1-3-29)然り、其言稍々矯激に過ぐるものなきに非ざりしと雖も、華族の腐敗は天下の公認にして、獨り彼れ一人の私言に非ず※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈好むで同族の醜事を暴露するものならむや※(白ゴマ、1-3-29)彼れ以爲らく、華族の腐敗今日の如くむば啻に皇室の藩屏たる能はざるのみならず延て或は皇室の威嚴を傷け奉るの虞なきを得ず※(白ゴマ、1-3-29)是れ華族改革の到底已む可からざる所以なりと※(白ゴマ、1-3-29)苟も貴族院に於ける華族の行動を目撃するものは、誰れか竊に華族の前途を憂へざるものあらむや※(白ゴマ、1-3-29)唯だ時の内閣に忠勤を勵むを以て華族の本分なりと誤想し、俗吏の頤使を受けて、犬馬の勞を執るものあるに至て、華族の體面幾ど地に墜ちたりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)此くの如き華族にして安ぞ能く皇室の藩屏たるを得むや※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが熱心なる華族改革論者たる所以なり※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れは現代華族の終に濟ふ可からざるを知る※(白ゴマ、1-3-29)故に自ら進で學習院に長と爲り、以て華族の子弟を教育し、以て第二代の華族を作らむと欲するのみ※(白ゴマ、1-3-29)自任の高きものに非ずして何ぞや。

      謹愼の人
 昔者孔明、漢後主に上表して曰く、先帝臣が謹愼なるを知る、故に臣に託するに大事を以てせりと※(白ゴマ、1-3-29)藤田東湖評して曰く、謹愼の二字實に孔明の人物を悉くせりと※(白ゴマ、1-3-29)夫れ社稷の名臣は多く謹愼の人なり※(白ゴマ、1-3-29)謹愼の人に非ずむば決して天下の大事を託す可からず※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに近衞公を知らざるものは其言動の往々矯激に失するあるを以て、或は誤りて不覊粗放の人物と認むるものなきに非ず、然れども彼れは本來謹愼にして責任を重むずること人に過ぐ※(白ゴマ、1-3-29)其謹愼なる點に於て彼は酷だ故三條公に類するものあり※(白ゴマ、1-3-29)唯だ三條公の女性的氣象なるに反して彼は男性的氣象を以て其謹愼の天分を包めるを異りとするのみ※(白ゴマ、1-3-29)則ち彼は三條岩倉二公を調和したる資質を具へ徳量は三條公の體を得て沈勇は岩倉公の血を受けたり

      主義の人
 彼れ前年獨逸大學に在るや、其卒業論文として責任内閣論を草し、以て名譽ある學位を受けたり※(白ゴマ、1-3-29)人は曰く、責任内閣は近衞公の初戀なり※(白ゴマ、1-3-29)故に終生志を渝へざる可しと※(白ゴマ、1-3-29)彼れが初期議會以來、常に責任内閣、藩閥打破を主張して、所謂る貴族院に於ける硬派の首領たるは、即ち其初志を貫徹せむとするが爲めのみ、彼れが其平生師父の禮を以て待てる伊藤侯と政敵たるを辭せざるも、亦此れが爲めのみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れが衆議院の非藩閥派と屡々提携して、其運動を倶にするの迹あるも、亦此れが爲めのみ※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れは伊藤侯の一派に敵視せられ、大隈伯の一派に多くの政友を有すと雖も、是れ唯だ政見の異同より來れる結果のみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは決して大隈派に非ざるのみならず大隈派の盛んに伊藤攻撃を事としたるの時は彼れは未だ大隈伯に一面識すらなきの日なりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れは主義の爲めに伊藤侯と爭ひたるも曾て黨派的感情の爲めに其去就を定めたることはあらじ

      華族社會の好一對
 近衞公と西園寺侯とは華族社會の好一對なり、近衞公は現に貴族院議長たり、西園寺侯も亦曾て貴族院に副議長たりき※(白ゴマ、1-3-29)西園寺侯は現に伊藤内閣の文部大臣たり、近衞公も亦曾て松方内閣より文部大臣を擬せられたりき※(白ゴマ、1-3-29)近衞公は久しき以前より機關雜誌を發行して今も尚ほ現に之れを所有せり、西園寺侯も亦前年曾て一新聞を發行して自ら之れが記者たることありき※(白ゴマ、1-3-29)其位地境遇何ぞ太だ相似たるや。
 特に近衞公の獨逸學に於ける、西園寺侯の佛蘭西學に於ける、其素養以て相敵するに足り、近衞公の國家主義に於ける、西園寺侯の世界主義に於ける、其思想以て相爭ふに足る※(白ゴマ、1-3-29)而して其名望よりいへば、西園寺侯遠く近衞公に及ばざるは獨り何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)嗚呼是れ才の優劣に非ずして又徳の高下に由るに非ずや。(三十一年三月)

     歸朝したる近衞公

      (上)
 歸朝したる近衞公は、政治社會の未定數として一般に認めらるゝ人なり※(白ゴマ、1-3-29)從來名士の海外より歸朝するや大抵多少の新觀察を齎らし來りて、國民の聽官に或る音響を感ぜしめざるなし※(白ゴマ、1-3-29)况むや資望一代に高き近衞公に於てをや※(白ゴマ、1-3-29)さりながら我れも人も公の歸朝に待ち設けたる問題は公が如何なる新觀察を齎し來りて國民に寄與するや否やに非ずして如何なる新運動を今後の政治社會に試む可きや否やに在りとす
 余の記憶によれば、公の世界漫遊は、貴族教育の取調を第一の目的と爲し、政治上の觀察は寧ろ第二の目的なりしものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)蓋し公は現に學習院長として貴族教育の重任を負ひ、而も近來專ら心血を此の方面に注ぐと共に、政治社會に於ける態度の稍々保守に傾きたるは事實に近かし※(白ゴマ、1-3-29)公は最近數年間に起れる政變に於て幾たびか自己の運命を試驗す可き機會に遭遇したれども公は常に淡然として之れを閑却したるに反して獨り學習院の事業に至ては燃ゆるが如き改革的精神を以て自ら畫策施設したるもの頗る多し※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如きは抑も何の感ずる所あるに由る乎※(白ゴマ、1-3-29)案ずるに、公は日本の貴族に對して、平生匡濟の念禁ずる能はざるを認識するの人なり※(白ゴマ、1-3-29)是れ他なし、深く貴族院の状態に鑑みる所ありしが爲のみ※(白ゴマ、1-3-29)夫れ貴族院は、一國の富貴名爵を代表したるものなるが故に、少なくとも其品位を保持するに於て衆議院よりも優るものなかる可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も日本貴族院は不幸にして甚だ悲む可き現象を呈したりき※(白ゴマ、1-3-29)議會を開設して先づ腐敗の徴候を發したるものは衆議院に非ずして貴族院なりき※(白ゴマ、1-3-29)衆議院が政費節減民力休養を唱ふれば、貴族院は則ち之れに反對し、衆議院が行政改革情※[#「敝/犬」、86-下-14]打破を唱ふれば、貴族院は則ち之れに反對し、衆議院が新聞發行禁停の廢止を唱ふれば、貴族院は則ち之れに反對し、而して政府の提案、内閣の政略といへば、其是非得失を問はずして一も二もなく之れに盲從したりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ尚ほ可也※(白ゴマ、1-3-29)貴族院中には、藩閥と國家とを同視して、藩閥を擁護するを以て國家の大事と心得たる議員もありき※(白ゴマ、1-3-29)皇室と政府とを混同して、政府の頤使を奉ずるを以て皇室に忠義を盡す所以なりと誤解する議員もありき※(白ゴマ、1-3-29)其最も醜陋なるものに至ては、政府の恩賞を得るを以て唯一の目的とせる議員もありき※(白ゴマ、1-3-29)而して近衞公、此間に在りて、内は侃諤の正義を主張して、貴族院の品位を維持せむことを努め、外は藩閥の壓力に抵抗して、帝國憲法の神聖を保護せむことを謀りたれども、濁流滔々として殆ど塞ぐ可からず※(白ゴマ、1-3-29)此に於て乎公は以爲らく、貴族院を匡濟せむとせば、先づ其要素たる貴族の病根を治せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も現代貴族の病根の到底治す可からざるを見るに於て、唯だ宜しく少年貴族を教育して、未來の理想的貴族を作るを任とす可きのみと※(白ゴマ、1-3-29)乃ち公は眞に皇室の藩屏たる可き貴族を作らむが爲に、自ら進で學習院長と爲りたりき※(白ゴマ、1-3-29)亦以て公が志の存する所を諒とす可し。
 さりながら實際の腐敗は獨り貴族及び貴族院に止らず、近來政黨及び衆議院の腐敗は寧ろ是れに過ぎたり※(白ゴマ、1-3-29)見よ衆議院は曾て貴族院が藩閥に盲從するの賤劣を嘲笑したりしも、今や衆議院に於ては、おの/\の政黨互ひに政府に盲從せんことを競ふて、貴族院よりも一層賤劣なる行動を表明するに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)獵官に非ずんば賄賂の授受を目的とし、國家の立法機關を以て利益交換の市場と爲し、代議士の公職を利用し、政黨の佳名を藉りて營利の私計を事とし、靦然として耻づるなきは、豈衆議院の近状に非ずや。而して政府も亦衆議院の腐敗に乘じて盛に買收政略を行ひ、朝野相習ひて相怪まざるのみならず、反つて之れを怪むものを指笑して、政治の趣味を了解せざるものとするの時代とはなりぬ。
 腐敗の事實は敢て今日に發したるに非ず※(白ゴマ、1-3-29)さりながら近衞公は未だ横濱埋立事件の如く驚く可き奇觀をば目撃せざりき※(白ゴマ、1-3-29)此事件は啻に政黨の腐敗を事實上に表示したる最好の證據たるのみならず、直に是れ憲法政治の危機を表示したる一大惡兆なり※(白ゴマ、1-3-29)星亨は前年取引所より收賄したりといふの嫌疑に依りて衆議院議員より除名せられたる時、自由黨すらも亦一人の之れを惜むものなかりき※(白ゴマ、1-3-29)今や彼は公然議員買收の非行を自白するも、自由黨の多數は之れを不問に附して、隨て其迹を曲庇せり※(白ゴマ、1-3-29)特に最も奇怪なるは斯る政治的道徳を破壞して憚らざる人物が反つて益々其勢力範圍を擴張するを見て世間寧ろ其手腕の敏なるを稱すること是れなり※(白ゴマ、1-3-29)故に人は星亨を目して時代の權化といひ亦深く其非行を咎めざらむとするものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)是れ支那朝鮮に於て覩る可き現象にして、我帝國に在ては歴史あつてより以來殆ど稀有の世變と謂ふも可なり。
 近衞公は貴族の儀表にして、其高風固より國民の瞻仰する所※(白ゴマ、1-3-29)而も未來の總理大臣として公に屬望するもの亦少なからざるに於て、公は單に貴族の教育を以て目的とするのみならずして、又國民の指導を以て今後の重責と爲さゞる可からず※(白ゴマ、1-3-29)今や一般政治社會の腐敗は心あるものをして皆竊かに國家の前途を憂へしめぬ※(白ゴマ、1-3-29)是れ公が當に新運動を開始して光華ある歴史の第一章を作る可き時に非ずや。

      (下)
 近衞公にして若し新運動を開始するものとせば、公は果して如何なる方向を選む可き乎※(白ゴマ、1-3-29)或は同志を天下に求めて健全なる一政黨を組織す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)或は既成政黨の孰れにか身を投じて大に政黨革新の事に從ふ可き乎※(白ゴマ、1-3-29)又或は一切の政黨を否認して黨派の外に超然たらむ乎
 現今の政黨は、其腐敗に於て五十歩百歩の差はあれども、其腐敗は則ち一なり※(白ゴマ、1-3-29)帝國黨は自ら既成政黨の腐敗に襲はれずと揚言したれども、其實、帝國黨は最も腐敗の黴菌多かりし國民協會の變形のみ※(白ゴマ、1-3-29)其腐敗したるや固より久しと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)されば政黨は總べて腐敗す可きものなりや、若し然りとすれば、一切の政黨を非認して黨派の外に超然たるも亦已むを得ずと雖も凡そ政黨の腐敗は政黨自身の罪に非ずして時代の罪なり※(白ゴマ、1-3-29)則ち政黨を非認せむとせば先づ時代を非認せざる可からず而も唯だ時代を非認するのみにて別に經綸の策を講ぜざるものは是れ哲學者にして政治家に非ざるを如何せむ
 近時動もすれば政黨より逃がれて一身を潔くせむとするの人あり※(白ゴマ、1-3-29)其情諒す可きものありと雖も、亦一種の厭世觀のみ※(白ゴマ、1-3-29)政治家は徹頭徹尾現實世界の人なり※(白ゴマ、1-3-29)現實を離れて政治なるものなく、現實世界を外にして政治家の働く可き場所あることなし※(白ゴマ、1-3-29)時代非なればとて政治を中止す可からず※(白ゴマ、1-3-29)政黨腐敗したればとて必ずしも政黨其物を非認す可き謂れなきに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)况んや十分政黨の價値を認識せる近衞公に於てをや※(白ゴマ、1-3-29)然らば公は既成政黨に入らむ乎※(白ゴマ、1-3-29)若し既成政黨に入るとせば、孰れの政黨に入る可き乎。
 公の既成政黨に入るは絶對的に利ならず又絶對的に害ならず※(白ゴマ、1-3-29)請ふ末松男の例を觀察せんか※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに自由黨は決して末松男の理想を滿足せしむるの政黨にはあらじ※(白ゴマ、1-3-29)唯だ彼は政黨の勢力を認識する政治家なるを以て、比較上政見相接近したる自由黨に入りたるのみ、其一利一害の多少は要するに彼れの思想と自由黨との調和の度合如何に由れり※(白ゴマ、1-3-29)換言せば自由黨が彼れの理想を容るゝこと多ければ多きだけ彼れの利多く之れに反すれば其結果隨て同じからずといふまでなり※(白ゴマ、1-3-29)近衞公に於ても又然り※(白ゴマ、1-3-29)假りに公をして進歩黨に入らしめよ進歩黨には公を崇拜するもの頗る多く且つ公の人物を崇拜するのみならず公の政見に同情を表するもの亦少なからざるを以て其利必らず末松男の自由黨に於けるよりも大なるものあらむ※(白ゴマ、1-3-29)而も其の決して公の理想を滿足せしむる能はざるものたるは毫も自由黨對末松男の關係に異らざる可きのみ※(白ゴマ、1-3-29)人或は公が既成政黨の首領たる伎倆あるや否やを疑ふものあれども、是れは無益の疑問なり※(白ゴマ、1-3-29)進歩黨は百二十餘の代議士を有すと稱すれども、一人の大隈伯に代る可き好首領なく、自由黨は亦百頭顱に近かき代議士を包有すと雖も、伊藤侯に非ずむば、其全黨を壓するの資望あるものなし※(白ゴマ、1-3-29)近衞公は固より最良の政黨首領に非ざる可し※(白ゴマ、1-3-29)さりながら星亨にして犬養毅にして將た末松謙澄にして政黨の首領たるを得可くむば公は更に彼等よりも大なる首領たるを得可きに非ずや
 公若し既成政黨に入るを利あらずとして別に一政黨を組織せば如何※(白ゴマ、1-3-29)是れ亦面白し※(白ゴマ、1-3-29)既成政黨の孰れにも關係なき中立派は喜むで公を迎ふるのみならず、既成政黨の腐敗に厭き果てたる健全なる同志者は、亦必らず響應して起たむ※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤侯の曾て計畫して未だ實行せざるもの※(白ゴマ、1-3-29)公乃ち今日伊藤侯の未だ實行せざるものを實行する、亦妙ならずとせむや。
 歸朝したる近衞公は、政治上の未定數なりと雖も、其一擧一動は、少なからざる注意を以て國民に屬目せらる※(白ゴマ、1-3-29)余は公が當に如何なる態度を以て其新運動を開始す可き乎を觀むとす。(三十二年十二月)

     故近衞公を追憶す

      近衞公と政黨内閣
 故近衞公は、最も多望なる未來の人なりき。不幸にして、一朝病の爲めに過去の人となり、國家は之れによりて柱石たるべき偉材を失ひ、貴族は之れによりて好個の首領を失ひ、國民は之れによりて又た一代の儀表たるべき人物を失ひたり。余は公の知を辱うする茲に十有餘年其の間屡ば公に謁して公の指導を受けたるもの頗る多く今にして之れを追懷すれば音容尚ほ儼として目に在るが如きを覺ゆ嗟乎公薨ずるの日享年僅に四十有二識量漸く長じ威望次第に高きを加へむとするの時に方り空しく雄志を齎らして永久の眠に就く人生の恨事寧ろ是れに過ぐるものあらむや
 余が始めて公と相識りしは、明治二十七年二月中旬なりき。當時余は毎日新聞の一記者たりしを以て、主筆島田三郎君は、特に翰を裁して余を公に紹介し呉れたりき。余の公を訪問したる際は公は貴族院に於ける硬派の領袖として第二次伊藤内閣に對する隱然たる一敵國たりき。蓋し公は伊藤内閣が第五期議會を解散したるを以て、非立憲的動作と爲し、貴族院議員三十七名と連署して、忠告書を伊藤首相に與へ、首相の復書に接するや、更に復書辯妄と題する一文を草し、機關雜誌『精神』の號外として之れを發表したりき。其の論旨侃諤首相の無責任を攻撃して毫も假藉する所なきの故を以て在野の黨人は自然に公と相接近すると共に伊藤内閣は公を認めて侮るべからざるの強敵と爲せり。然れども余の始めて見たる近衞公は、極めて平允端懿なる貴公子なりき其の言動は固より尋常※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)袴者流と同じからずと雖も漫に氣を負ひ爭を好むの士に非ずして極めて眞面目なる極めて沈着なる政治家なりき
 尋で第六議會復た解散せらるゝや、公は再び非解散意見と題するものを『精神』の號外として發表し、公然伊藤内閣に宣戰状を贈りたり。其の末文に言へるあり、曰く要するに伊藤内閣の信任し難き事實は、天下の耳目に彰々として現はれ來れり。而して解散の結果として、將に來るべき總選擧の紛擾は國民の心を痛ましめ、國民の財力を費さしむること極めて大ならむとす。想ふに現内閣の言動は、今後依然として今日の如くならむ。今日の言動を以て國民の信任を全うせむと望むが如きは、斷※(「さんずい+(廣−广)」、第3水準1-87-13)に棹して海洋に浮ぶの目的を達せむとするに均し。國民は斯る内閣の言動を是認せざるべし。既に現内閣の言動を是認せずとせば、則ち現内閣の言動に反對し、死活を爭ひたる諸代議士の再選を勉めざる可からず。我愛國忠君の赤誠に富める國民にして、再三再四同一の方針を取りて動かず、同一主義の代議士を議會に送らば、輿論の光輝は、當に天※(「門<昏」、第3水準1-93-52)に達するの期遠きにあらざるべし。國民たるもの赤誠を以て其の歩を進めざるべからず。篤麿駑たりと雖も與に共に勇奮以て諸士の同伴侶たらむと欲す諸士請ふ手を携へて往かむ哉と。此の時に當り、伊藤内閣の公等一派を憎むこと絶頂に達し、同族中公の言動を議するもの亦少なからざりしに拘らず、公は能く私情に忍びて公義に殉ずるの態度を維持したりき。
 公は曾て獨逸に留學して、頗るスタインの國家主義に私淑する所多しと雖も、其の立憲政治に關する思想の傾向は大體に於て英國的なり故に初期議會以來常に藩閥内閣に反對して政黨内閣の本義を主張したりき。然れども公の政黨内閣論は、夫の政權爭奪を目的とせる黨派政治家と大に其の見地を異にせり。公の政黨内閣を主張するは之を措て憲政の運用を圓滑ならしむるの道なしと信ずるが爲めのみ故に徒らに政權の爭奪を事とする政黨は公の斷じて與みせざる所なりき
 公曾て『慨世私言』を著はして、内閣と政黨との關係を詳論したることあり。其の黨人を戒むるの言に曰く、在野政黨員たるものも、徒らに政府乘取の紛爭を愼まざるべからず。何となれば立憲政治の時運に到達したる國家に於ては、急躁焦慮する所なきも早晩政黨内閣の起るべきは其の數なり。而も今日の如く、各黨各派孰れも確乎たる一大主義を有するなく、情實に合し、情實に離れ、小黨分裂の時に於て、政府を乘取らむとするも豈得べけむや。假令幸にして乘取り得たるとするも、其れ能く一黨一派の内閣にして、久しく其の位地を支ふるを得べけむや。朝たに新内閣成りて夕べに僵る國家の爲に何の益ぞ國民の爲に何の利ぞ寧ろ國家の大勢定りて政黨の爭ふ所主義の實行に一定し一大政黨を以て一大政黨と爭ふの時期を待つの國家國民の利たるに如かずと以て公の志の在る所を知るべし
 余は二十八年二月雜誌『精神』の董刊を公より託せられ、爾來重大なる問題起る毎に、公の意見を聽くの機會に接すること益々多かりき。後ち精神を改題して『明治評論』と爲すや、公は其の立案に成れる『朝黨野黨』と題する一論文を余に與へて、其の初刊の紙上に掲げしめたり。當時伊藤内閣は自ら稱して超然内閣といひしに拘らず、竊に自由黨と提携し、又別に國民協會をも收攬して内閣の黨援と爲さむとし、其の旗幟甚だ鮮明を缺きたるのみならず、動もすれば内部の調和を謀るに急なるが爲に、彌縫と姑息とを事とするの状あり。而して在野黨の如きも、各派互ひに相分立して、一大政黨を組織するに至らず、隨つて其の在野黨としての勢力毫も發展する所あるを見ざりき。公乃ち伊藤首相に向ては、其の宜しく超然主義を棄て純粹なる政府黨を作り以て其の旗幟を鮮明にすべきを勸め在野黨の盟主たる大隈伯に向ては其の宜しく改進黨との關係を絶ちて各派合同の疏通に便ならしむべきを説きたり。是れ一篇の眼目なりき。公は此意見を以て直接間接に朝野の政治家を指導するに努めたるは言ふまでもなく、大勢亦久しからずして、遂に半ば公の意見を實現し、自由黨は公然政府黨と爲り、改進黨其餘の各派は、相合同して進歩黨を組織するに至りき。
 然れども公は唯だ至公至誠を以て時局に處し未だ曾て政權爭奪の渦中に陷りたることあらず故に二十九年松隈内閣成るや公は文部大臣の候補に擬せられ切に入閣を慫慂せられたりと雖も公は固辭して之れを受けざりき。公を知ると知らざるとを問はず、皆公の入閣を希望せざるものなく、余も亦實に公の自ら起たむことを勸告したる一人なりき。公其の心事を余に語りて曰く、松隈内閣は一種の聯合内閣なり之れを從來の内閣に比すれば稍々進歩したる體貌を有するに似たりと雖も其の實質は薄弱にして統一を缺き情弊尚ほ依然として内部に纏綿せり其の前途知るべきのみ我れ不似と雖も身華冑の首班に列し任重く途遠し又何ぞ躁進して功名を徼倖し以て自ら求めて名節を汚がすの位地に立つの愚に出でむや且つ我れ陛下の命を受けて學習院の院長たり眞に華族をして皇室の藩屏たらしめむとせば先づ華族の子弟を教育するより急なるはなし我れ既に此目的を抱て專ら措畫經營する所少なからず之れを完成するは談豈容易ならむや文部大臣たるの適材は世間自ら其の人あらむ學習院の措畫經營は斷じて之れを他人に委する能はずと。蓋し公は是より前、學習院長に任ぜられ、全力を擧げて華族の子弟教育に從事しつゝありしを以てなり。余は公の著眼の高明なると心事の純潔なるに服し益々公の人格に敬意を表せざるを得ざりき
 松隈内閣は果して公の豫想に違はず、所謂薩派と進歩派との紛爭日に絶えずして、忽ち瓦解するに至れり。政界は再び伊藤内閣を復活したりき。而も其の内閣は舊に仍りて超然主義を唱へたりしがゆゑに、自由黨は反旗を飜へして内閣攻撃の位地に立ち、尋で進歩黨と合同して憲政黨と爲るや、伊藤侯は大隈板垣二老を奏薦して新内閣を組織せしめ、茲に始めて政黨内閣の組織を見るを得たりき。而も此の内閣は、政黨内閣としては最も醜惡を極め、特に人才の選叙に於て當を得ざるもの頗る多かりき。黨派の腐敗漸く此の時より助長し、政界の溷濁復た濟ふ可からざるの状態に陷りたり。是に於てか、公の政黨内閣に對する信念は、多少の動搖を始め來りしものゝ如くなりき。公曰く、政黨内閣は暫らく斷念せざる可からずと。但だ公の君國に忠實なる、憲政の運用を圓滑ならしむるの道に於て、曾て一日も之れが講究を忘れたることあらず。故に第十八議會に於て桂内閣と衆議院と衝突するや公は無益の紛爭によりて國務の進行を阻碍するを見るに忍びず自ら兩者の間に立ちて妥協を謀らむとしたりき其の盡力は成功せざりしと雖も世人は深く公の苦心を諒としたりき
 余の見たる近衞公は、日本貴族の最高貴なる血液を遺傳したると共に又た其の最純良なる性質をも禀受したりき。其の名利の範疇を超脱して、一意唯だ君國に報効せむことを圖りたるは之れが爲なり。然れども公は黨派政治家として成功するの人に非ざりしが如し何となれば山野の習氣を帶びたる黨人を指導するよりも君側に侍して献替補弼するの寧ろ公の人格に賦與せられたる天品なればなり

      清國保全主義
 公の政治的生涯は甚だ短かりしと雖も、其の言動の録すべきもの甚だ少なからず。中に就き特筆大書すべきは、清國保全の旨義を唱道して國論を統一したる是れなり
 明治三十三年義和團の蜂起するや、清廷之れを勦討するの擧に出でず、却つて陰に之れを助けて、其の排外的暴動を煽揚したりき。是に於てか、各國は兵を北清に出して清廷の罪を問はむとし、而して露國は此の事變を奇貨として滿洲を占領せむとするの色ありしを以て、公は清國分割の端或は此の間に啓けむことを恐れ清國保全の旨義を標榜として國民同盟會を起したりき。當時國内には、或は清國分割を主張するものあり、或は滿韓交換を説くものありて、國論紛々歸著する所なく、特に政友會は、總務委員會を開きて國民同盟會の行動を非認するの决議を爲したりき。然れども各國の政府及び識者は概して清國の保全東洋の平和を聲明したるを以て公の唱道せる大旨義は殆ど世界の公論たるに至れり即ち夫の英獨協商の如きは亦清國の領土保全門戸開放を以て原則としたるものなりき
 英獨協商の成立したる時は、帝國の内閣は政友會を以て組織し、伊藤侯は實に之れが首相たりき。而して政友會は初め國民同盟會の行動を非認したるに拘らず其の内閣は英獨協商の原則を容認して之れに加入したれば内閣と國民同盟會とは其の旨義に於て遂に一致するを見たりき
 然れども露國は滿洲の情形不穩にして鐵道保護の必要ありと稱して、兵力を以て之れを占領し、尋で露國關東總督アレキシーフと盛京將軍増祺との間に、滿洲に關する密約締結せられたりとの報ありしがゆゑに、公は同盟會員を私邸に招集し、我政府をして滿洲占領の撤兵及び露清密約の成立に反對するの方法を執らしめむことを決議したりき
 既にして露清特約更に露都に於て成立を告げむとするや、公は清國の大官重臣に警告するに、極力特約に抗拒すべきを以てし、我政府も亦公等の主張を容れて、露國政府に露清特約を廢棄すべしと忠告すると同時に、清國全權に向ても特約に調印すべからずと通告したり。斯くて露清條約は成立せざるを得たりと雖も、露國は依然事實上の滿洲占領を繼續したるを以て、公は滿洲開放統治策を起草し、之れを劉坤一、張之洞の兩總督に贈りたり。其の大意、滿洲を開放して各國の利權を均霑せしめ以て其の領土を保全するの得策なるに如かずといふに在り此の論亦久しからずして世界の公論と爲れり。後ち公は自ら清韓兩國に遊び、親しく兩國の大官名士と會見し、共に力を大局の支持に致さむことを約して歸り、爾來公の意見は、大抵我當局者の施設と其の歸著を同うし、小村壽太郎氏の外務大臣たるに及で、日英同盟の締結と爲り、滿洲撤兵の談判と爲り、今や時局も遠からずして將に解決せられむとするの時機に際會するを得たり。是れ豈公が初めて清國保全の大旨義を唱道して國論を統一したるの功に由らずと謂はむや

      伊藤侯との關係
 公は内治外交の政策に付ては、終始多く伊藤侯と衝突して、多く大隈伯と接近するの傾向を有したりき。然れども其の個人的位地よりいへば公は最も早く伊藤侯に接近したる人にて大隈伯とは松隈内閣組織の頃早稻田專門學校卒業式に於て唯だ一囘會見したることあるのみと聞けり。但し公と伯との聯鎖たらむと勉め、若くは公伯をして政治的交際を開かしめむと企てたる策士は、或は之れありしを疑はず。然れども公は終に大隈伯と善く相識るに及ばずして薨じたりき。故に曾て公を目して大隈伯の系統に屬すと爲したるものは全く公の立場を誤解したるものなり
 若し夫れ伊藤侯は明治十七年公を海外に留學せしむべき勅許を奏請したりき公の獨逸ライプチヒ大學に在るや此の先輩政治家と青年學生との間には間斷なく書信の往復ありたりき公の學成りて歸朝するや時方に帝國議會の開設に逢ひ公は憲法の與へたる特權に依りて貴族院に列したりしが當時貴族院議長たりし伊藤侯は此の歸朝者の政治的技倆を試驗せむが爲に一時假議長の事を攝行せしめたりき公の議事整理上に現はしたる手腕は老年議員をして舌を卷かしめたるのみならず推薦者たる侯をして亦其の成功を祝せしめたりき伊藤侯は實に公を政治家に仕立上げむが爲に凡百の訓練指導を與へむと欲したりき。後年公自らも余に語りたることあり、余は伊藤侯の薫陶に負ふ所頗る多きものありと。公の伊藤侯に於ける關係の舊るくして且つ親しかりしこと斯くの如し。
 然るに第四期議會以後、公は伊藤侯と漸く其の政見を異にし、伊藤内閣が第五議會を解散するに及で、公は伊藤侯に對する絶交書ともいふべき『復書辯妄』を發表し、尋で『非解散意見』をも公刊して、斷然伊藤侯の政敵たる位地に立つを辭せざりき。其頃公は伊藤侯に呼び付けられて、其の言動の不謹愼なるを叱責せられたることありしを聞けり。而も公は憲法擁護の爲めに私情を抑制するの止むべからざるがゆゑに伊藤侯の喜怒に依りて進退する能はざりしものゝ如し。公は當時の境遇を余に語りて曰く、我れの伊藤侯に反對するは最大なる精神上の苦痛なりき何となれば侯は我師父といふべき恩人なればなり然れども此の苦痛を忍ぶは公義の命ずる所にして復た之れを奈何ともすべからずと。非解散意見書中にも亦言へり、現内閣總理大臣伊藤博文伯(當時は伯爵たり)に對しては、私交上寧ろ其の人を徳とする所あり。是を以て政治上の事件に就ても、伯が手際巧みに偉功を奏せむことを祈り、社會の趨勢にして、伯の施設に逆戻するが如きあらば、伯や潔く大丈夫たるの擧措に出で、勇退高踏遂に其の徳を傷けず、流石は維新元勳の言動、凡庸政治家の企及すべからざるものありとの名譽は伯の身邊に纏ひ、百年の後、伯や國民の瞻仰する所と爲り、千歳の下青史の上、模範政治家たらむことを望むの私情は胸襟の間に往來する所たり。篤麿が私交の上に於て伊藤博文伯に對するの情實に師父に對するの情に劣らざるものありて存す、豈一毫の怨恨あらむや。(中略)然れども篤麿が私情に於て伊藤博文伯に繋けたる所の希望は全く水泡に屬したり今や篤麿は私情を去て公義に依り舊來の情誼を棄てゝ斷然伊藤内閣反對の側に立ち公然其の非を鳴らさゞるを得ざるの場合に至れり國家の爲に私情を割く篤麿不敏と雖も已むべきに非るを知ればなりと。情理并び到れるの辭なりと謂ふべし。
 近衞公は私情を忍ぶに於て實に強固なる意思を有したる人なりき而も其の意思や公義の發動より出でて一點の野心を雜へず所謂る公鬪に強くして私鬪に弱きの類乎。嗟乎公や逝く、公の後繼者たるべき人物は果して有りや無しや。(三十七年二月)

   星亨

     星亨

      彼は政界の未知數なり
 星亨氏は曾て不人望を以て高名なりき※(白ゴマ、1-3-29)個人としては彼れを味方とするものも公人としては反つて彼れを敵視するもの多し※(白ゴマ、1-3-29)或は彼れの擧動を咎めて車夫馬丁に類する賤人なりといひ或は彼れの演説を評して恰も欹形の嘴を有せる怪鳥が常に惡聲を放つが如しといひ或は彼れの性格を稱して猛獸の血液を混じたる人中の惡魔なりといひ以て彼れを卑むに非ずむば彼れを畏れ以て彼れを畏るゝに非ずむば彼れを憎むもの滔々大率是れなり※(白ゴマ、1-3-29)現に彼れが外務大臣候補者として内閣の問題となりし時の如き、閣員の多數も、亦彼れの不人望を畏れて之を排斥したりといふに非ずや、余は固より傳ふる如きの事實ありや否やを證言する能はずと雖も、單に之れを一時の風説とするも、斯る風説の多少世間に信ぜらるゝを見れば、亦以て彼れが如何に政界に不人望なるかを認識するに足る。
 されど彼れを讚美する一部の聲は亦甚だ高大なり※(白ゴマ、1-3-29)一田舍新聞は、彼れを以て東洋の大豪傑と爲し未來の總理大臣と爲し我選擧區民は此の人物を代議士とするの榮譽を失ふ可からずと絶叫して彼れをビスマーク、グラツドストンにも匹敵す可き大政治家の如くに誇張したりき※(白ゴマ、1-3-29)其想像の過度なる、殆ど滑稽突梯に陷ると雖も、彼に對する想像の奇なるは其不人望の方面に於ても亦同一なり。見よ彼れが將に歸朝せむとするや、或は曰く彼れの歸朝は政界の一大恐慌なり其進退は天下の大問題なりと※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、彼れは内閣を強迫して歸朝せり内閣は彼れを覊束するの威力なきなりと、其状恰も敵國來襲を報ずる警戒の如し。既にして彼れの歸朝するや、彼れの言動は極めて沈靜なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曰く余にして若し求むる所あれば、何時にても入閣するを得可し※(白ゴマ、1-3-29)余は唯だ求むる所なきのみ※(白ゴマ、1-3-29)余は一憲政黨員として此際に努力せむと欲するのみと※(白ゴマ、1-3-29)此に於て乎彼れを崇拜するもの彼れを信用せざるもの共に彼れを暗黒の中に模索し彼は終に政界の一未知數と爲れり※(白ゴマ、1-3-29)請ふ吾人をして先づ彼れの個人的資質を觀察せしめよ。然らば彼れに對する設題は自ら解答せらるゝを得む。

      彼は天性の黨人なり
 彼れは天性の黨人なり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼れは黨人に必要なる二個の特質を有すればなり其放膽不諱にして人を人とも思はず爭氣猛烈にして常に戰を挑むの風ある如き、即ち其一なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは此特質あるが爲めに、或は平地に風波を起し、或は故らに敵を作るの弊なきに非ずと雖も、其黨人として顯著の位地を占るに至りたるもの、亦此特質あるに由らずむばあらじ。
 彼れの政治的閲歴は半ば爭鬪の事實を以て作れり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの爭鬪を開始するや其名義の撰擇に注意せずして唯だ利害若くは感情の衝突に出づるもの多く而も其作戰計畫の單純にして露骨なる動もすれば壯士の私鬪に類するの嫌なきに非ず、是れ彼れの爲に甚だ惜む可しと爲す、試に其一二を言はむか。
 曾て大隈伯等の始めて改進黨を組織するや、其主義政綱は大體に於て自由黨と其歸着を同うせり※(白ゴマ、1-3-29)故に自由黨よりいへば、たとひ改進黨を政友と認めざるまでも、必らずしも之れを正面の政敵とするの必要なかりしに似たり※(白ゴマ、1-3-29)然るに三菱問題起るに當て、改進黨が冷然之れを傍觀したるの故を以て、直に僞黨撲滅の題目の下に改進黨を攻撃したるは彼れ及び古澤滋の二人實に其張本人たりき、顧ふに是れ自由黨の黨勢を擴張するに於て多少の成功を博するに足るの一手段たりしは疑ふ可からずと雖も、自由、改進兩黨をして呉越相容れざるの關係と爲らしめたるは、蓋し亦茲に淵源する所ありき。
 既にして井上條約案出づるや、兩黨偶然其歩武を同うして之に反對し、一日兩黨の聯合懇親會あり※(白ゴマ、1-3-29)其交情大に融和せむとするに際し、何等の不作法ぞ彼れは卒然沼間守一を打撲して大に改進黨を激昂せしむるものあらむとは
 國會既に開くるに及で、自由、改進の兩黨相聯合して藩閥政府と戰ひ、稱して民黨と謂ふ※(白ゴマ、1-3-29)彼れの代議士と爲るや、亦民黨と其向背を同うし、民黨の推挽に依て衆議院議長の椅子を得たりき※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼れは倏忽手を飜へして復た改進黨を攻撃し以て民黨を破壞するの擧を行ひたりしは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)當時世間傳へて曰く、星亨の民黨破壞演説は、彼れが竊に陸奧宗光と約して、自由黨を政府黨たらしめむとするの隱謀より出でたりと※(白ゴマ、1-3-29)されど自由黨は彼れの專有物に非ざりしを以て、彼れが言動に慊焉たるものは、皆相率ゐて自由黨と分離し、自由黨は此れが爲めに一大傷痍を受けたると共に、彼れも亦一時自由黨を去るの已むを得ざるに至りたりき。
 此に於て乎彼は啻に一般政界の信用を失ひたるのみならず、自由黨も亦漸く彼れを敬して遠け、其全權公使に任ぜられて米國に派遣せらるゝや識者之れを評して自由黨の内亂豫防策なりといへり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば自由黨の内亂は、實に彼れが放膽不諱なる擧動に激成せらるる虞ありたればなり。
 彼れが爭鬪の力に富めるは恰も英國のオーコンネルに似たり※(白ゴマ、1-3-29)其口を開けば輙ち罵る所其辯論に一種の活氣ありて人を煽動するに適する所宛然として是れ日本のオーコンネルなり※(白ゴマ、1-3-29)但だオーコンネルの政敵と爭鬪するや確然たる信條と※(「火+曼」、第4水準2-80-1)たる熱誠とを以てするに反して彼れは純然たる無宗教的冷頭を有するを異なりとするのみ※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが自由黨に於ける信用の、オーコンネルが愛蘭黨に於ける當年の信用に及ばざる所以なり。
 剛愎不遜は彼れが有する特質の第二なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの剛愎は衆議院議長として第五議會に彈劾せられたるの時を以て絶頂とす※(白ゴマ、1-3-29)第五議會は、彼が取引所問題に關係したるを沒公徳の行爲と認めて、之を彈劾し、以て彼れに處決を促がすの決議を爲せり※(白ゴマ、1-3-29)此決議に對しては、自由黨員も亦贊成を表したるもの多かりき※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼れは此決議を眇視して不當の決議を議長に於て何か有らむと放言して省みざりき※(白ゴマ、1-3-29)故に議會は更に一日の休會を決議して、彼れの處決を強迫したり※(白ゴマ、1-3-29)されど總べて無効なりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れは開會と共に平然として議長席に就き以て議事の進行を命令したればなり※(白ゴマ、1-3-29)議會は終に彼を懲罰に附して、代議士籍より除名したりと雖も、此懲罰すら彼に於ては何の痛痒をも感ぜざりしに似たり※(白ゴマ、1-3-29)彼は尚ほ選擧區に歸りて再選を要求したればなり
 凡そ世間に剛愎の士多しと雖も其剛愎彼れが如きに至ては古今亦罕に觀るの異彩たらずむばあらじ※(白ゴマ、1-3-29)余は必ずしも彼れの剛愎を辯護せむとするものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)剛愎は如何なる場合に於ても、惡徳たるを免かれざればなり※(白ゴマ、1-3-29)されど黨人より之れを觀れば剛愎も亦必要の武器なるやも知る可からず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば黨人最後の目的は唯だ政敵と戰つて之れに勝つの一事なるを見ればなり

      彼は主我的人物なり
 若し彼をして單に放膽不諱、剛愎不遜の木強漢ならしめば、彼は僅に鷄鳴狗盜の雄たるに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ甚だ多とするに足らむや※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れに最も及ぶ可からざるは、其戸外の木強漢たると共に室内の讀書家たる是れなり※(白ゴマ、1-3-29)此れを聞く、彼は別に他の嗜好なく、唯だ讀書を愛して、博覽人に超え、故陸奧伯の如き亦學問に於て彼れに師事する所多かりしと※(白ゴマ、1-3-29)余は彼が果して讀書の才あるや否やを知る能はずと雖も、其讀書の嗜好ありて多讀を貪るの人たるは、彼を知るものゝ皆許す所なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが自由黨に在りて、巍然一頭地を出だす所以のものは、蓋し自由黨中復た一人の彼に優れる學者なきが爲ならずとせむや※(白ゴマ、1-3-29)而も彼は多く理窟を語らずして反つて人の理窟を喋々するを笑ふ※(白ゴマ、1-3-29)是れ所謂る知つて言はざる大智者を學ぶに在る乎※(白ゴマ、1-3-29)將た彼は議論よりも實行を主とするを以て平生の務とするに由る乎
 彼れ往時英國の某大學に在て法律を修む※(白ゴマ、1-3-29)偶々試驗あり、教授課するに『英國憲法の眞相』といふの論題を以てす※(白ゴマ、1-3-29)彼れ秒時に立案して、之れを教授に示す※(白ゴマ、1-3-29)其文唯だ『英國憲法は世界無比の良憲法なり』との一句を記するのみ※(白ゴマ、1-3-29)教授呆然、其餘りの無意義なるに驚き、之れを彼れに詰る※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曰く、先生の英國憲法を説く千言萬語の多きを以てすと雖、其要點は則ち此一句に外ならず※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ別に詳述するを須ゐむやと※(白ゴマ、1-3-29)是れ一場の逸話に過ぎざるも、彼れの政治論は大抵此試驗答案の如く、曾て煩瑣なる理窟を捏ねずして、唯だ疎枝大葉の議論を爲す※(白ゴマ、1-3-29)此を以て世間曾て彼れの學問あるを信ずるもの甚だ少なくして、寧ろ彼れを粗豪の一木強漢と思ふもの多かりき。
 顧ふに彼れが見掛によらぬ學者たるは、今や漸く多數の認識するの所となれりと雖も、其言動の毫も學者らしからざるは他なし、彼れは主我的意思を以て總べての問題を解釋し我れに利なれば理窟を言ひ我れに不利なれば無理をも言ふの傾向あればなり※(白ゴマ、1-3-29)其放膽不諱剛愎不遜の人に過ぐる所以のものは亦豈主我的意思の最も發達したるが爲に非ずや故に室内の人物としては彼は眞理を研究するの讀書家たりと雖も彼れの戸外に於ける言動は唯だ是れ一個主我的意思の強固なる人物を體現するのみ

      彼の去就は單純なり
 今や彼は一般の想像するが如き大運動なく、其擧動は頗る平和にして、僅に新聞記者を相手として無意義の評論を試みつゝあるのみ※(白ゴマ、1-3-29)知らず彼は何の考案を有し、何の抱負を今後に行はむとする乎。吾人は妄りに彼れの心事を揣摩せざる可し※(白ゴマ、1-3-29)されど吾人は一個の見地に依りて彼れの位地を觀察するの自由を有す※(白ゴマ、1-3-29)此見地は彼れの未來に關せずして、彼れの現在の位地に關する見地なり※(白ゴマ、1-3-29)曰く彼は現内閣の敵なる乎味方なる乎と。此問題を解答するものは、彼れ自身に非ずして、恐くは現内閣ならむ※(白ゴマ、1-3-29)何となれば現内閣にして彼れに利なれば、彼は現内閣の維持を冀望す可ければなり。
 世間或は彼れを以て高島一派と結托するの意ありと傳ふものあれども、高島一派の現勢力は殆ど零位なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈之れと結托するの愚を爲さむや※(白ゴマ、1-3-29)或は自由、進歩兩派以外、別に一政黨を組織して、大に他日の地を作る可しといふものあれども、彼れの根據は現在僅かに少數の關東派あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈之れを恃て有力の政黨を組織するを得むや※(白ゴマ、1-3-29)或は彼れを以て專ら力を自由派の扶植に致し、以て大に進歩派と競爭せしめ、而して憲政黨を分裂せしめ、而して現内閣を破壞せしむ可しといふものあるのみならず、彼れ亦自ら自由進歩の分裂終に已む可からざるを説くと雖も、彼れを認めて熱心なる自由派と爲すは謬見なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは自己を主とするの英雄(?)にして其眼中復た進歩派なく自由派なし※(白ゴマ、1-3-29)曩きに彼れの米國公使に任ぜられて代議士を辭するや、其選擧區民に演説して曰く、余は自己の力に依りて公使と爲れり※(白ゴマ、1-3-29)自由黨の援助に依れるに非ず※(白ゴマ、1-3-29)其心事實に斯くの如し。
 且つたとひ自由進歩の兩派をして分裂するの不幸あらしむるとするも、自由黨は彼れが爲に一種の迷室なり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し自由黨の背後には一怪物の伊東巳代治男あり※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れは自由黨と進退を倶にするに於て、先づ此一怪物と兩立し得るや否や、若くは善く之を壓服し得るの勇者たるや否やを考へざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)况むや彼は從來自由黨中の土佐分子と相容れざりしに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈熱心なる自由派たるを得むや。
 故に彼は必らずしも強て現内閣に反對するものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)現内閣にして苟も自ら彼れを敵とせずむば、彼は妄りに現内閣の敵と爲らず、彼れの放膽不諱剛愎不遜の言動あるは多く其主我的意思と衝突するの場合に在り※(白ゴマ、1-3-29)彼は自己の利害の爲に沈默の必要を知るの聰明あればなり※(白ゴマ、1-3-29)之れを要するに彼れの政界に於ける去就進退は極めて單純なり※(白ゴマ、1-3-29)而も世間彼れを風雲變幻の魔術師の如くに想像するは何の滑稽ぞ。(三十一年九月)

     星亨の自由黨

      (一)政治的喜劇
 横濱埋立事件は極めて簡短なる問題なり※(白ゴマ、1-3-29)其性質より見れば土木問題なりと謂ふ可く、其利害より見れば個人問題なりと謂ふ可く、又其範圍より見れば地方問題なりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)唯だ斯くの如きのみ※(白ゴマ、1-3-29)其一得一失何ぞ曾て天下の公是非と關せむや※(白ゴマ、1-3-29)而も此の事件の眞相一たび世間に暴露せらるゝや、忽焉として茲に政治的喜劇の舞臺を開展したりき※(白ゴマ、1-3-29)種々の脚色は幾多の人物に依て描かれ、醜陋唾棄す可きもの、滑稽笑ふ可きもの、拙劣憐む可きもの紛々として舞臺に出入し、世人をして殆ど百鬼夜行の畫圖を視るの感あらしめたり※(白ゴマ、1-3-29)其顛末を略叙すること左の如し。

      (二)排星運動の動機
 土佐派が横濱埋立事件を以て星氏の罪惡を彈劾せむとしたるは極めて滑稽なり、曰く星氏が埋立出願の許可を擔保して、議員買收金を小山田某より支出せしめたるは、自由黨の名譽を毀損したる一大非行なりと※(白ゴマ、1-3-29)言や善し、是れ或は一大非行なる可し※(白ゴマ、1-3-29)公徳上の罪惡なる可し※(白ゴマ、1-3-29)されど之れを彈劾して正義の審判を求めんとするものは、先づ天下に向て自己の良心に一點の陰翳なきを證せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)知らず土佐派は果して星氏の不道徳を論ずの權利ある乎。
 星氏は自由黨の純代表者のみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは實に自由黨の爲さんと欲する所を爲したる自由黨の實際的首領のみ※(白ゴマ、1-3-29)横濱埋立事件の如きは唯だ土佐派の爲さんと欲して爲す能はざりしものを爲したるに過ぎず自己の爲さむと欲して爲し能ざりしものを爲したるが故に其人乃ち排斥す可しと言ふ寧ろ抱腹絶倒せざらんと欲して得んや

      (三)土佐派の嫉妬
 土佐派の衰へたるや太甚し※(白ゴマ、1-3-29)板垣伯の資望、林氏の老獪、片岡氏の質實を以てすと雖も、復た一人の星氏の勢力に及ぶこと能はず※(白ゴマ、1-3-29)而も星氏の傲岸なる、殆ど土佐派を眇視して自由黨を我物顏に振舞ひ、其權勢を用ゆること往々度に過ぐるものあるも、土佐派は亦終に之れを奈何ともする能はず※(白ゴマ、1-3-29)乃ち之れを奈何ともする能はずと雖も、其自由黨を擧げて獨り星氏の脚下に拜跪せしむるは、固より土佐派の樂まざる所なり※(白ゴマ、1-3-29)横濱埋立事件起るや、土佐派は以爲らく、是れ乘ず可きの機なりと※(白ゴマ、1-3-29)此に於て乎星除名論は起りたりき※(白ゴマ、1-3-29)星除名論の内容は唯だ嫉妬以外に何物をも包藏せざるを見る※(白ゴマ、1-3-29)太甚いかな土佐派の衰へたるや

      (四)幕中の傀儡師
 伊東代治男は曾て土佐派を通じて自由黨を操縱したる人なり※(白ゴマ、1-3-29)土佐派の自由黨を左右し得たる時代に於ては、彼れは實に自由黨の黨師として其勢力頗る大なりしと雖も、星氏一たび自由黨の實權を掌握するに及で、彼れは遽かに失意の地に落ちて、復た當年の勢力を維持する能ざるに至りき※(白ゴマ、1-3-29)横濱埋立事件起るや、彼れは以爲らく是れ乘ず可きの機なりと、此に於て乎、一方に於ては其機關『日々新聞』をして星氏の攻撃を爲さしめ、一方に於ては竊に土佐派を指嗾して星除名論を唱へしめたり※(白ゴマ、1-3-29)
 彼れが横濱埋立事件を以て星氏を征伐せむとしたるは猶ほ共和演説事件を以て尾崎氏を攻撃したる戰略タクチツクに同じ※(白ゴマ、1-3-29)其妙は構陷に巧みなるに在り※(白ゴマ、1-3-29)而も正々堂々たる勝敗は決して斯くの如き戰略に依て定まることなきを奈何せむ

      (五)星征伐の失敗 
 自由黨にして若し果して黨紀を振肅するが爲に星氏を除名するの必要あらむか、何ぞ比較的信用ある末松、江原等の君子人をして之れを提議せしめざる※(白ゴマ、1-3-29)然るに黨紀振肅、星除名論を唱ふるものは、反つて社會に信用なき人士に多くして、末松、江原等の君子人は、黨紀振肅の代りに、黨の平和を主張したるは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)是れ他なし黨紀振肅は眞の黨紀振肅に非ず星除名論は亦唯だ嫉妬的感情の發現に外ならざればなり
 有體にいへば末松、江原等の君子人が、尚ほ黨の平和を口にして滔々たる濁流と浮沈するは頗る解す可からざるものあるに似たり※(白ゴマ、1-3-29)されど自由黨の現状を維持するの必要最も大なるに於ては黨紀の振肅よりも先づ黨の平和を計らざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)黨の平和を計るが爲には勢ひ星除名論を鎭撫せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)何となればたとひ星除名論を實行するも自由黨の腐敗は固より救ふに足らず適々以て自由黨の分裂を見るに過ぎざればなり

      (六)排星運動の遺算
 排星運動には確かに二個の遺算ありき※(白ゴマ、1-3-29)第一星氏の位地を誤解したるより來り、第二伊藤侯の意思と衝突したるより來れり
 星除名論者は以爲らく、横濱埋立事件に關して星氏に反對する同盟中には、星氏の直參と認む可きもの少なからず※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが全く自由黨員の心を失ひたる證なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れと進退を同うするもの恐らくは二三子のみならむ※(白ゴマ、1-3-29)今や彼れの自由黨に於ける位置は殆ど孤立なりと※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れに反對するものは悉く除名論者に非ず※(白ゴマ、1-3-29)彼等は決して星の天下を爭ふて之を他人に移さむとするものゝみに非ず※(白ゴマ、1-3-29)多數の自由黨員は尚依然として星の天下たらむことを望めり※(白ゴマ、1-3-29)星の天下を奪はむとするものは唯だ星氏の爲に失意の地に落ちたる一部の人士のみ※(白ゴマ、1-3-29)横濱埋立事件に關して星氏に反對せる信州組の如きは實は星氏を敵とするに非ずして小山田某に向て利益分配の強請を爲したる一種のユスリたるに過ぎず之れを認めて星氏に對する政治的謀叛と爲したるは排星運動の第一遺算に非ずして何ぞや
 且つ星氏を除名せば、隨て西郷内相を排斥せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば西郷内相の横濱埋立事件に關係せるは星氏の之れに關係せる事情に同じければなり。而も西郷内相の排斥は、現内閣破壞の動機と爲るを認むるに於て、星除名論者は如何にして其事後を善くせんとする乎※(白ゴマ、1-3-29)土佐派の目的は是れに依りて伊藤内閣を出現せしめんとするに在らむ※(白ゴマ、1-3-29)されど伊藤侯は決して逆取の手段を斷行する政治家に非ず※(白ゴマ、1-3-29)たとひ侯の野心勃々たるを以てすと雖も、其手を下だすや常に順境に於てするを得意とせり※(白ゴマ、1-3-29)若し山縣内閣にして自然に崩壞する日來れば、侯は固より其後を受くるを躊躇するものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)獨り自ら現状打破の主動力と爲るは、侯の本意に非るを奈何せむや※(白ゴマ、1-3-29)況むや侯の最も親善なる西郷侯を死地に陷るゝが如き隱謀の張本人たるは、侯の甚だ懼るゝ所なるをや※(白ゴマ、1-3-29)星除名論は此點に於て侯の意思と衝突したるを以て侯の聲援に須つ所ありし土佐派は遂に最初の計畫を中止せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)是れ排星運動に於ける第二の遺算なり

      (七)組織改造論
 星除名論に失敗したる土佐派は、更に組織改造論を唱へて第二の排星運動を開始せり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し是に依りて板垣總理の時代を復活し土佐派の天下を再興し以て星氏の勢力を削らむと欲するに外ならず※(白ゴマ、1-3-29)されど星除名論の失敗は星氏の勝利を意味し星氏の勝利は星氏の自由黨に於ける勢力を確保したるものなり※(白ゴマ、1-3-29)彼は既に一着を贏ち得たり※(白ゴマ、1-3-29)攻守の位地は忽ち一轉せり※(白ゴマ、1-3-29)彼は關東東北九州の諸團體に傳令して組織改造に反對するの決議を爲さしめたり排星運動の計畫者は今や星氏の逆襲を受けて意氣漸く沮喪せむとせり星氏は粗硬に似て實は機敏なる所あり土佐派は智巧なる如くにして反つて迂拙※(白ゴマ、1-3-29)自由黨は依然として星氏の手中に在り

      (八)政權分配論
 星氏は組織變更反對決議を爲さしむと同時に、一方に於ては政權分配論を唱へて、局面一變の新手段を採りたり※(白ゴマ、1-3-29)是れ自己に對する攻撃の鋭鋒を他に轉ぜしめむとするの權謀なりと雖も、亦自由黨の黨略としても時機を得たるものと謂ふ可し。
 現内閣は自由黨と休戚を共にすると揚言したるに拘らず、其爲す所は、皆自由黨の初志と背馳したりき※(白ゴマ、1-3-29)特に文官任用令を正して政黨員任官の門戸を遮斷したるは、自由黨の最も不快とする所なり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば是れ自由黨をして單に政府に盲從せしめ、無意義の提携を繼續せしむるの目的なればなり※(白ゴマ、1-3-29)故に政權分配問題は自由黨の死活問題なり※(白ゴマ、1-3-29)たとひ今日星氏に依て唱へらるる事となしとするも其早晩自由黨の大問題と爲るに至る可きは自然の數なり※(白ゴマ、1-3-29)今や自由黨の現内閣に對する不平漸く長ずるを認むるに於て、星氏の機心敏慧なる、此黨情を利用して局面を一變せむとす※(白ゴマ、1-3-29)其智計土佐派を出づること一等なりと謂ふ可し。

      (九)自由黨の實際的首領
 星亨氏は眞に自由黨の實際的首領なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は政治上の公徳を解するの君子人に非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど其百折撓まざるの堅志と、其手段の善惡を選まずして邁往するの勇氣とは、自由黨を指導するの首領として最も適當なる人物なり※(白ゴマ、1-3-29)世間或は彼れを以て浮浪の親方と爲すものあれども自由黨の首領たるものは寧ろ親方たる資質あるものに竢つ所あり※(白ゴマ、1-3-29)收賄と言ふ勿れ議員買收と言ふ勿れ今の自由黨を指導するの動力は内治問題に非ず外交政策に非ずして唯だ胃腑の問題のみ財嚢問題のみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ星氏の如きは即ち此問題の解釋者として一種の伎倆を有する英雄なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れなくむば自由黨は殆ど亡びむ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは自由黨の純代表者にして又其司命者なり自由黨は果して彼れに背き得可き乎。(三十二年十一月)

   田中正造

     田中正造氏

      下院の名物
 年々開會する帝國議會の下院に於て常に奇異なる風采言動を以て無限の興味を傍聽者に與ふる一人物あり其山猫の人化したる的の面既に甚だ愛嬌津々たるのみならず其選擧區民より贈與せられたりといへる五所紋付黒木綿の羽織を着用して古武士の純朴を存する所亦頗る異彩あり彼は誰れぞ下院第一等の名物田中正造氏其人なり
 彼は多くの場合に於て極めて沈默なりと雖も、是れ唯だ眠れる獅子の沈默のみ其勃然として一たび自席を起つや口を開けば惡罵百出瞋目戟手と相應じて猛氣殆ど當る可からず、曾て原敬氏を罵つて國賊と爲すや、叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)咆哮、奮躍趺宕、恰も狂するものゝ如く、人をして全身の血管悉く破裂せざるかを疑はしめたりき※(白ゴマ、1-3-29)當時某代議士は彼れが感情の滿潮に達するを觀て其或は氣絶せんことを恐れ竊かに介抱の準備を爲したりと語りしほどなれば其言動の激烈なりしこと以て想見す可し※(白ゴマ、1-3-29)而も世間彼れの疎狂を咎めずして反つて彼れに同情を寄與するもの多きは何ぞや
 顧ふに彼れがあらゆる惡口雜言を濫用して、往々議場の神聖を汚がすの失體あるは、固より君子の與みせざる所なるべし※(白ゴマ、1-3-29)余は此點に於て彼を辯護するの理由を有せずと雖も、若し夫れ形式禮法を以て人物の價値を律せば、今日誰か能く多少の指摘を免かれ得るものありとするぞ※(白ゴマ、1-3-29)彼は大疵あれども亦大醇あり大缺陷あれども亦大美質あり※(白ゴマ、1-3-29)豈杓子定規を以て彼を酷論す可けむや
 禮法を無視して惡口雜言を濫用するは確かに彼れの大疵なり粗暴矯激にして軌道を逸脱するの亡状は亦固より彼れの大缺陷なり※(白ゴマ、1-3-29)されど是れ特に彼れの大缺陷に非ずして下院全體の大缺陷なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は唯だ其最も著明なる代表者たるのみ而も一面に於て此の大缺陷を有すると共に他の一面に於ては爛漫たる大醇と愛す可き大美質とを有するものあるが故に單に彼れの鄙野疎狂を咎むるは甚だ苛酷なり。何をか彼れの大醇と謂ふや、惡を憎み冷血を忌むこと人に過ぎ之れを攻撃するに於て一歩も借さゞるの熱誠是れなり※(白ゴマ、1-3-29)何をか彼れの美質と謂ふや、常に弱者の味方となりて驕慢なるもの權力あるものに抵抗するの侠骨是れなり、彼れが故後藤伯と事毎に衝突したりしも此れが爲めにして、伯曾て彼れの強頂を患へ、切りに辭を卑うして彼を招がむとしたるも、彼は啻に伯に屈致せざりしのみならず、益々伯の失徳を追窮して毫も憚る所なかりき※(白ゴマ、1-3-29)余は彼れが果して後藤伯の人物を正解し得たりしや否やを知らず※(白ゴマ、1-3-29)又彼れの後藤攻撃論は果して精確なる事實に根據したりしや否を知ること能はず※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れの眼中に映じたる後藤伯は老獪にして野心深く私利私福を貪りて正義の觀念なき奸雄なりしに似たり※(白ゴマ、1-3-29)則ち彼は後藤伯を認めて奸雄の偶像と認めたるが故に之れを攻撃したるのみ
 鑛毒事件は、彼れの專賣問題にして、彼れは此問題の爲めにモツブの巨魁なり愚民のデマゴーグなりと稱せらるゝをも厭はざるなり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼は此問題を以て人情正義の問題と爲すものなればなり
 余は此問題に關して、全然彼れの主張に同意するものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど余は彼れの良心に同感せざるなき能はず※(白ゴマ、1-3-29)其主張の誇大にして且つ論理の極端なる殆ど無經綸に近かきものありと雖も其所信を固守して一點調和の意義を含まざるは决して利害に制せらるゝ政治家の夢想し得る所に非ず※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れに良心の健全なるものあればなり

      誠實なる方便家
 誠實是れ好方便なりとは、屡々余の聽く所の語なれども、之を實行するものは甚だ稀なり※(白ゴマ、1-3-29)世間誠實の君子少なきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど單純なる誠實は好方便と爲らず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば是れ無意義の誠實なればなり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し古へより能く人心を收攬するものは、决して術數權謀の士に非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど單純なる誠實も亦た能く衆心を收攬する所以に非ず※(白ゴマ、1-3-29)唯だ誠實の士にして智慧を用ゐるもの始めて能く誠實をして好方便たらしむるを得るのみ田中正造氏の如き稍々之れを得たり
 彼は熱血男兒なり※(白ゴマ、1-3-29)されど彼は决して直情徑行の純人に非ず※(白ゴマ、1-3-29)彼は粗放なる如くにして其實精細の算勘に富み直角的なる如くにして反つて曲線的の行路を歩む※(白ゴマ、1-3-29)唯だ惡を知りて惡を行はず利害に明かにして利害に拘束せられざる乃ち是れ彼れの彼れたる所以なり
 試に見よ、鑛毒問題は古河市兵衞氏と地方一部の農民との間に起れる一小事件のみ※(白ゴマ、1-3-29)决して之れを天下の大問題と謂ふ可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も田中氏が一たび此問題を持把して下院に現はるゝや其聲頗る大にして終に下院を動かし政府を動かし復た之れを一小事件と認むる能はざるに至らしめたり※(白ゴマ、1-3-29)彼は此問題に於て老獪縱横なる後藤伯と爭へり※(白ゴマ、1-3-29)才辯多智なる陸奧伯と爭へり而して一方に於ては大膽にして術數ある古河氏を相手として不撓不屈の戰鬪を繼續したり※(白ゴマ、1-3-29)種々の誘惑種々の恐嚇種々の壓力は絶えず彼れ及び彼の代表せる地方民を掩襲したるに拘らず彼は一切之れを排除して曾て窘窮したる迹を示さず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其戰略巧妙にして進退掛引善く機宜に適するものあるが爲なり。前きに松隈内閣の成るや、世間皆以爲らく、鑛毒問題或は大に其氣※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を收めむと※(白ゴマ、1-3-29)何となれば當時進歩黨は内閣の黨與たりしに於て彼れにして若し鑛毒問題を提出せば進歩黨と松隈内閣とは共に頗る困却す可ければなり※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼は反つて一層猛烈なる運動を開始して終に政府をして所謂る鑛毒事件處分案なるものを施行せしめたり是れ實に政府の一大讓與なりき其智亦侮る可からざるものあるを見る。今や彼れの先輩に依て組織せられたる現内閣は、復た鑛毒問題の襲撃を受けて、大に窘色あり※(白ゴマ、1-3-29)彼は現内閣と地方民との間に立ちて、再び此問題を解釋せざる可らざる位地に在り※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが爲めに最も困難なる位地なりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)而も彼れは雲霞の如く押し寄せ來れる請願人民に對して死を以て此問題の爲に盡力す可きを誓ふ※(白ゴマ、1-3-29)余は此の一誓言の中に亦多少の計畫多少の作用を含蓄するものあるを信ず彼れは元來非常の神經質なり※(白ゴマ、1-3-29)故に喜怒共に極めて激烈なりと雖も其人心の詭秘を見ること甚だ深刻にして容易に他の欺く所とならざらむことを勉む※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れの一政友が常に此一事を以て彼れの缺點なりとする所なり※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れが下院に於ける演説の敵の皮肉を穿つの警語多きは其能く人心の弱點を看破するの明あるが爲めにして其時として荒誕附會に類するの言論あるは亦餘りに暗黒の一面を偏視するが爲めなり※(白ゴマ、1-3-29)若し彼れをして今少し眞面目ならしめ今少し健全の思想を有せしめば彼れは代議士として實に得易からざるの人物なり※(白ゴマ、1-3-29)惜いかな無學にして大體に通ぜず無識にして組織的成見を有せず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其動もすれば正徑を誤るの盲動ある所以なり
 されど彼は兎も角下院の名物なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ動けば議場は一個の劇壇にして彼れは宛然たる政治的俳優なり※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが名の海内に持て囃さるゝ所以に非ずや。(三十一年十月)

     口碑上の豪傑

 ※(丸中黒、1-3-26)凡そ豪傑には二種の別がある。第一種は一國又は世界の問題の提出者ともなり、實行者ともなり若くは其の批評者ともなつて、其の言動が歴史上の或る部分を作る人物である。第二種は、其の事業よりいへば歴史に關係するほどの幅も厚さもないが、然しながら異常の個人性があつて、後世永く人口に膾炙する人物である。前者は之れを稱して歴史的豪傑といふべく、後者は口碑的豪傑とでもいふであらうか。
 ※(丸中黒、1-3-26)伊藤侯だとか、大隈伯だとか、東郷大將だとかいふ人物は、所謂る歴史的豪傑であつて、田中正造翁などは口碑的豪傑である。
 ※(丸中黒、1-3-26)日本には口碑的豪傑が極めて多い。單に徳川時代のみに就ていふも、大久保彦左衞門、佐倉宗五郎、幡隨院長兵衞、荒木又右衞門なんどいふ連中は、歴史的豪傑としては殘つて居ないが、兒童走卒も尚ほ能く其の名を記憶して嘖々是れを傳唱するのを思へば、彼等は正さしく口碑的豪傑の尤なるものである。
 ※(丸中黒、1-3-26)日本に講談師とか浪花節語りとかいふ藝人の起つたのは、恐らくは口碑的豪傑の多く輩出した爲であらふと考へる。而して此等の藝人に依て、口碑的豪傑が益々市井の間に持て囃さるゝやうになつたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)田中正造翁は隨分新聞紙の種を供給する人物であるが、歴史家からは多分淘汰されて仕舞ふだらうと思ふ。然しながら翁は歴史家に無視せらるゝと同時に必らず講談師や浪花節語りに拾ひ上げられて寄席の高座から口碑的豪傑となつて現はるゝの時があるに相違ない
 ※(丸中黒、1-3-26)翁は一度は代議士ともなつて、議會でも名物の一人に數へられた男であるが、翁は恰も日蓮宗徒が南無妙法蓮華經を一心に唱ふるやうに、始終唯だ鑛毒問題を怒鳴り通して居たのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)近頃翁は官吏侮辱罪で訴へられて居る。相手は巡査とか村長とかであるが、相手は誰れであらうとも、鑛毒地の人民を迫害すると信ずるものは、總て之れを敵として奮鬪する。これが翁の終生の運動である。翁は此の運動の爲に、あらゆる悲慘をも甞め、あらゆる困難にも逢遇した。然し翁は悉く之れに打ち克つだけの勇氣と忍耐とを有して居る。
 ※(丸中黒、1-3-26)金も欲しくない、命も要らない、名譽を望まないで、唯だ善と思ふ目的に向つて、側目もふらずに突進することは、常識本位の人には出來ぬ藝だ。世間は此の類の熱血漢を一種の精神病者と認むるのである。但し義人とか獻身者とかいふ奴は大抵精神病者と見えるもので、其の言動は往々軌道を外づれて居るものだ。
 ※(丸中黒、1-3-26)田中翁も即ち其れで、現代からは狂人と見做さるゝかも知れない。實に翁は現代の厄介者である。富の勢力にも屈しない、政府の權威にも畏れない、又世間の毀譽褒貶にも頓着しない。なか/\始末にいけない代物である。加ふるに根氣よく奮鬪を繼續して毫も休止しない所は、何となく其の個人性に薄氣味の惡るい點があるやうに思はれる。
 ※(丸中黒、1-3-26)翁は迷信の爲に運動するでもない又主義の爲に運動するでもない唯だ直覺に依て運動するのである翁は猛烈なる可燃質の人物であるから一旦或る動機に刺激せられて其の良心に發火するに於ては自己の身が燒け盡くるまで燃ゆるのである翁は消極的に善を行ふよりは寧ろ積極的に惡と戰ふのである
 ※(丸中黒、1-3-26)斯る個人性を有する人物は、たとひ何一つの建設した事業がなくとも、人生に深い印象を與ふるの力を持つて居るものだ。而して此の印象は容易に消ゆるものでない
 ※(丸中黒、1-3-26)講談浪花節の好題目となるのは、此の類の人物で、能く歴史的豪傑と雁行して人口に膾炙することが出來るのである。而して其の群衆に及ぼす感化力は、歴史家に依て傳へらるゝ人物よりも講談師や浪花節語りに依て傳へらるゝ人物の方が強いやうである。
 ※(丸中黒、1-3-26)講談師若くは浪花節語りの口頭では、伊藤侯も田中翁も、人物に於て大した違ひがなくなるだらう。口碑的豪傑の價値は茲に在りといふべしだ。(四十一年六月)

底本:「明治文學全集 92 明治人物論集」筑摩書房
   1970(昭和45)年5月30日初版第1刷発行
   1984(昭和59)年2月20日第4刷
底本の親本:「春汀全集 第一卷」博文館
   1909(明治42)年6月
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
2008年1月25日作成
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