公爵 伊藤博文

     個人としての伊藤侯と大隈伯

 伊藤侯と大隈伯とは当代の二大政治家なり、随て其人物に対する批評の紛々たるは亦此侯と此伯を以て最も多しとす。是れ其の個人としての性格未だ明かならざるに由る。故に之を観察して甲乙性格の異同を対照するは実に多少の趣味なからんや。
 概していへば、伊藤侯と大隈伯とは互ひに相似たる所之れなきに非ず。才を愛し士を好むは相似たり※(白ゴマ、1-3-29)辞令に嫻ひ談論に長ずるは相似たり※(白ゴマ、1-3-29)荘重にして貴族的姿致あるは相似たり※(白ゴマ、1-3-29)博覧多識にして思想富贍なるは亦相似たり※(白ゴマ、1-3-29)然れども同中固より異質なくむばあらじ。
 大隈伯の思想は経験より結撰し来る※(白ゴマ、1-3-29)故に其の開展するや帰納法の形式を具ふ※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯の思想は読書より結撰し来る※(白ゴマ、1-3-29)故に其の開展するや演繹法の形式を具ふ※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯固より読書を嗜む※(白ゴマ、1-3-29)然れども抽象的理論よりも寧ろ具象的事実を貴ぶ※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯固より経験を非認せざる可し※(白ゴマ、1-3-29)然れども侯の得意とする所は寧ろ学理に在りて事実に存せじ、是れ其の均しく博覧多識なるに拘らず、一は最も経済に精しく、一は最も立法に長ずる所以なり。
 伊藤侯は公卿華族の如く、大隈伯は大名華族の如し※(白ゴマ、1-3-29)故に荘重の中に優美を寓するは伊藤侯にして、荘重にして且つ豪華なるは大隈伯なり※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯は威儀を修めて未だ雋俗ならず※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は偉観を求めて終に閑雅の風に乏し※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯に逢ふものは、其の敬す可くして狎る可からざるを思ひ、伊藤侯に接するものは、其の悦ぶ可くして畏る可からざるを感ず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其の均しく貴族的姿致あるに拘らず、一は武骨を以て勝ち、一は文采を以て優る所以なり。
 伊藤侯の辞令は滑脱婉麗にして些の圭角なし、以て夜会の酬接に用ゆ可く※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯の辞令は機鉾鏃々として応答太だ儁、以て戦国の外交に用ゆ可し※(白ゴマ、1-3-29)其の言を発して情致あるは伊藤侯の長所にして、其の語を行ること奇警なるは大隈伯の妙処なり※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ談論滔々として竭きざるの概に至ては、未だ遽かに軒輊し難きものありと雖も、伊藤侯の音吐朗徹声調抑揚あるは、演壇の雄弁として大隈伯に優ること一等※(白ゴマ、1-3-29)唯だ精明深刻舌端に霜気あり、座談久うして益々聴者を倦ましめざるは是れ寧ろ大隈伯の特絶にして、其の一たび佳境に到れば、眉目軒昂英気颯爽として満座皆動く※(白ゴマ、1-3-29)故に大隈伯の雄弁は対話に適し、伊藤侯の雄弁は公会に利あり。
 才を愛し士を好むに於て、伊藤侯と大隈伯とは共に他の元勲諸公に過ぐ※(白ゴマ、1-3-29)故に其の門下生に富むも亦実に当代に冠たり※(白ゴマ、1-3-29)然れども伊藤侯の愛好するものは、柔順御し易きの徒に非むば巧慧※[#「にんべん+鐶のつくり」、3-下-27]薄の輩多し※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は然らず、伯は唯だ人を智に取りて其の清濁を論ぜず※(白ゴマ、1-3-29)故に愚者を近けざるの外一芸一能あるものは勉めて之れを容れんとす※(白ゴマ、1-3-29)量に於ては大隈伯確かに伊藤侯の上に出るを見る※(白ゴマ、1-3-29)蓋し伊藤侯は勉めて他の信服を求むと雖も、未だ意気を以て人を感ぜしめたるを聞かず※(白ゴマ、1-3-29)天下知己の恩あり、一たび之れに浴するものは為に死を致さむことを思ふ※(白ゴマ、1-3-29)然れども知己の恩は私恩に同じからず※(白ゴマ、1-3-29)私恩を介するものは概ね利害にして、知己の恩は則ち意気を通じて来る※(白ゴマ、1-3-29)或はいふ侯は私恩を売るに巧みなりと※(白ゴマ、1-3-29)夫れ私恩は以て面従を得可く、以て信服を求む可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も面従一変すれば主を噬むの狗となり、獅子身中の虫となる※(白ゴマ、1-3-29)唯だ侯の聡明能く此の憂を免かるるのみ※(白ゴマ、1-3-29)顧みて大隈伯を見るに、伯は必ずしも信服を人に求めずと雖も、其の自ら来て信服するものは、亦善く之を用ひ善く之れを導く※(白ゴマ、1-3-29)是れ其伊藤侯と大に異同ある所以なり。
 大隈伯の特質として最も著明なるは、精神常に活動して老て益々壮んなるに在り※(白ゴマ、1-3-29)伯曾て人に語て曰く、隠居制度は亡国の条件なりと※(白ゴマ、1-3-29)其の春秋漸く高くして壮心次第に加はる如き、其の向上精進毫も保守の念なき如き、其の冀望抱負常に新たなるが如き、伯は実に天性進歩主義の人物なり※(白ゴマ、1-3-29)伯の進歩主義は独り政治上の智識より出でたるに非ずして、即ち伯の生命なり、伯の理想なり※(白ゴマ、1-3-29)之れを伊藤侯の動もすれば林下退隠の状を為すに比す、則ち本領の甚だ差別あるを知るに足る※(白ゴマ、1-3-29)伯又口を開けば常に自由競争を語る※(白ゴマ、1-3-29)自由競争は乃ち伯の人生観たる莫らんや※(白ゴマ、1-3-29)人生既に自由競争の運命ありとせば、優勝劣敗は天則にして、世界は優者の舞台なり※(白ゴマ、1-3-29)伯の老て益々壮んなるは顧ふに之れが為のみ。
 伊藤侯の特質として最も著明なるは、風流韻事自ら高しとするに在り※(白ゴマ、1-3-29)暇あれば必ず詩人を邀へて共に煙霞を吐納し、筆墨を揮灑す※(白ゴマ、1-3-29)是れ胸中の閑日月を示さんとすればなり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は伊藤侯の風流韻事なく、未だ詩を作り文を品するの談あるを聞かずと雖も、伯の嗜好は反つて一種瀟脱の天地に存するものあり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞや、曰く園芸に対する嗜好是れなり※(白ゴマ、1-3-29)伯は園芸を以て啻に一身を楽ましむるのみならず、亦交際を醇潔にし、人心を調和し、道心を養ふの益ありと信ぜり※(白ゴマ、1-3-29)伯曾て客に戯れて言ふ、世間予の庭園に耽るを笑ふものあれども、彼の千金棄擲解語の花を弄するものと得失孰れぞやと※(白ゴマ、1-3-29)要するに伊藤侯の風流は東洋的にして、大隈伯の嗜好は西洋的なると謂ふ可し。
 伊藤侯の銅臭なくして艶聞ある、大隈伯の艶聞なくして銅臭ある、世之れを称して好個の一対と為す※(白ゴマ、1-3-29)然れども財を好て私徳を傷るに至らずむば、未だ之れを以て大隈伯を譏る可からず※(白ゴマ、1-3-29)色を好て公徳を紊さずむば、未だ之れを以て伊藤侯を累はすに足らず※(白ゴマ、1-3-29)况んや大隈伯の財に於ける、善く積て善く散ずるの道に依り、伊藤侯の色に於ける、是れ英雄懐を遣るの余戯に過ぎざる可きをや※(白ゴマ、1-3-29)之れを聞く、前年伊藤侯の邸に舞踏会あるや、偶々醜声外に伝りて、都下の新聞日として侯を議せざるなし※(白ゴマ、1-3-29)人あり侯に勧むるに新聞記事の取消を以てす※(白ゴマ、1-3-29)侯笑つて曰く、事の公徳に関するものは予固より之れを不問に附する能はず、区々一身上の誹毀何ぞ意に挟むに足らんやと※(白ゴマ、1-3-29)侯の磊落なる洵に斯くの如し、是れ其の割合に世の憎疾を受けざる所以なり※(白ゴマ、1-3-29)独り大隈伯は、其の貨殖に巧みに経済に長ずるを以て、人或は伯の平生を疑ひ、奸商と結托して往々私利を謀るものと為す、是れ亦思はざるのみ※(白ゴマ、1-3-29)世には其の言を孔孟に借て盗跖の行あるもの少なからず※(白ゴマ、1-3-29)伯や固より清貧を装ふの偽善家を学ぶ能はずと雖も、其の决して黄金崇拝の宗徒たらざるは、伯が親近するものゝ反つて廉潔の士多きを以て之れを知る可し。
 伊藤侯は信仰を有せず※(白ゴマ、1-3-29)若し之れありとせば唯だ運命に対する信仰あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)故に侯は屡々高島嘉右衛門をして自家の吉凶を卜せしむ※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は宗教信者に非ず※(白ゴマ、1-3-29)然れども一種敬虔の情凛乎として眉目の間に閃くは以て伯が運命の外別に自ら立つ所あるを見るに足る※(白ゴマ、1-3-29)蓋し伊藤侯の屡々失敗して毎に之れが犠牲と為らざるは殆ど人生の奇蹟にして、大隈伯の屡々失敗して飽くまで其の自信を枉げざるは猶ほ献身的宗教家の如し※(白ゴマ、1-3-29)故に伊藤侯は得意の日に驕色あり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は得失を以て喜憂せず。伊藤侯は英雄を尚び、大隈伯は功業を尚ぶ※(白ゴマ、1-3-29)夫れ英雄を尚ぶものは人の又己れを英雄視せんことを求む、故に伊藤侯は外に向て英雄らしき詩を作り※(白ゴマ、1-3-29)内に向て伊藤崇拝の隷属を作る※(白ゴマ、1-3-29)夫れ功業を尚ぶものは唯だ自家の経綸抱負を布かんことを望む※(白ゴマ、1-3-29)故に大隈伯は必ずしも英雄を畏れず、必ずしも歴史上の人物に感服せず※(白ゴマ、1-3-29)其の古今を呑吐し、天下を小とするの概あるは蓋し之れが為めなり。
 個人としての伊藤侯と大隈伯とは夫れ斯の如し※(白ゴマ、1-3-29)約して之れをいへば、伊藤侯は太平時代の英雄にして、大隈伯は乱世時代の巨人なり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯の隆準豺目にして唇端の緊合せる、自然に難を排し紛を釈くの胆智あるを示し、伊藤侯の象眼豊面にして垂髯の鬆疎たる、自然に無事を喜び恬※(「(冫+臣+犯のつくり)/れんが」、第3水準1-87-58)を好むの風度あるを見る※(白ゴマ、1-3-29)又以て此の二大政治家の個性を諒す可し。(廿九年七月)

     伊藤侯の現在未来

      藩閥控制
 嚮に伊藤侯が、自ら骸骨を乞ふて大隈板垣両伯を奏薦し、以て内閣開放の英断を行ふや、藩閥家は侯を目して不忠不義の臣と為し、極力其挙動を詬罵するに反して、侯の政敵は寧ろ侯の英断を賞揚し、或は侯を以て英国の名相ロペルトピールに比するものあり※(白ゴマ、1-3-29)或は侯の内閣開放は、恰も徳川慶喜の政権奉還に似たる千古の快事なりといふものあり※(白ゴマ、1-3-29)中には其挙動の意表なるに驚きて、反つて侯の心事を疑ふもの亦之れなきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)既にして侯は遽かに遊清の挙あり、詩人及び記室を携へ、軽装飄然として西行するや、世間復た侯の未来をいふもの紛々として起る※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、是れ侯が永訣を政界に告げて老後の風月を楽むなりと※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、是れ巻土重来の隠謀を蓄へ、暫らく韜晦して風雲を待つなりと※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、是れ大隈板垣の両伯をして苦がき経験を甞めしむる為なりと※(白ゴマ、1-3-29)されど余を以て侯を視るに、侯の退隠は、旧勢力と分離して、将に来らむとする新勢力と統合せむが為めのみ※(白ゴマ、1-3-29)侯は善く此の過渡の時局を処したるのみ※(白ゴマ、1-3-29)豈他あらむや。
 旧勢力とは何ぞや、藩閥是れなり※(白ゴマ、1-3-29)新勢力とは何ぞや、政党是れなり※(白ゴマ、1-3-29)初め憲政党の成立するや、侯は三策を建てゝ藩閥の元老に謀る※(白ゴマ、1-3-29)上策に曰く内閣を維持すると共に、別に政府党を作りて憲政党に当らむ※(白ゴマ、1-3-29)中策に曰く若し上策を非なりとせば、侯は自ら野に下りて政府党を作り、以て内閣を援けむと※(白ゴマ、1-3-29)下策に曰く、二策共に非なりとせば、断然内閣を挙げて大隈板垣の両伯に与へむと※(白ゴマ、1-3-29)而して上中二策は終に行はれずして事※(白ゴマ、1-3-29)下策に決す※(白ゴマ、1-3-29)是れ寧ろ侯の予期する所にして、又侯の目的なり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し政党は一夜作りの産物に非るは、侯の明固より之れを知るのみならず、侯は元来政党の歴史を有する政治家に非るに於て、自ら新政党を作りて大隈板垣の為す所を学ぶは、恐らくは侯の本意に非ず※(白ゴマ、1-3-29)侯は勢力を自製するの人に非ずして、之れを発見し、之れを利用するの智略ある人なればなり※(白ゴマ、1-3-29)故に侯が内閣開放を断行したるは、是れ実に今日を以て旧勢力と分離するの好機会なりと信じたるに由れり※(白ゴマ、1-3-29)政党組織の策行はれざりしが為めには非らじ。
 夫れ藩閥は三十年間我政界の主動力たり※(白ゴマ、1-3-29)殆ど専制的性質を有せる一大勢力たり※(白ゴマ、1-3-29)此勢力を利用するものは順境に立ち、之れに反対するものは、皆逆境に陥る※(白ゴマ、1-3-29)是れ侯が従来藩閥と結合して、久しく国民と争ひたる所以なり※(白ゴマ、1-3-29)されど侯は決して藩閥の代表者に非ず※(白ゴマ、1-3-29)侯の藩閥を好まざるは、猶ほ大隈板垣両伯の藩閥を好まざるが如し※(白ゴマ、1-3-29)唯だ両伯は藩閥を好まざると共に、余りに政党を好み、侯は政党にも亦甚だ冷淡なるを異とするのみ※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに、侯が三十年間に於ける政治的伝記は、侯が如何なる塲合にも善く自家の拠る可き勢力を発見して、善く之れを利用したるの事実を説明すと雖も、此れと共に其思想の藩閥と相容れずして、動もすれば之れが為めに苦められたるの事実も、亦其伝記中に認識するを得可し※(白ゴマ、1-3-29)故に侯は外に対して藩閥を利用しつゝある間に、内に在ては絶えず其勢力を控制するの術数を施したるは、亦歴々として認む可きものあり※(白ゴマ、1-3-29)試みに其一二を言はむか。
 侯は明治十四年、大隈伯と相約して、十六年を以て国会開設の議を奏請せむとしたりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ国会に依りて藩閥を控制するの意より出でたるに非りし歟※(白ゴマ、1-3-29)其計画未だ成らざるに破れて、藩閥の為めに謀叛を以て擬せらるゝに及び、侯は翻然として其計画を中止し、独り大隈伯をして之れが犠牲と為らしめたるは他なし、是れ唯だ成敗の勢を悟りて、急遽の改革を不利と認めたるに由るのみ※(白ゴマ、1-3-29)藩閥を維持するの必要を信じたるが為に非ず。尋で明治十八年官制を改革して、文治組織と為し、官吏登庸法を制定して、選叙を厳にしたる如き皆主として藩閥を控制するの意より出でずむんばあらじ※(白ゴマ、1-3-29)世間或は侯が総理大臣を以て宮内大臣を兼摂したる当時の位地を評して曰く、是れ侯が信用を宮中に固めて、自家の権勢を保全するの秘策なりと※(白ゴマ、1-3-29)夫れ然り然りと雖も、此秘策は国民に対して圧制政治を行ふの準備に非ずして、亦実に藩閥を控制するの意に外ならざるが如し※(白ゴマ、1-3-29)之れを要するに侯の施設は、大抵藩閥と利害を異にするものたるに於て、藩閥者流は漸く侯に慊焉たらざるを得ざるに至り、其結果として所謂る武断派なるもの起り、而して山県内閣と為り、而して松方内閣と為り、終に選挙干渉に失敗して、藩閥大に頓挫したると共に、伊藤侯復た出でて内閣を組織したるは第四議会将に召集せむとするの時なりき。
 第二伊藤内閣組織せらるゝや、侯は窃かに故陸奥伯の手を通じて自由党と提携するの端を啓き、日清戦争の後に至て終に公然提携の実を挙げ、板垣伯に内務大臣の椅子を与へて、一種の聯立内閣を形成したりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ一は議院操縦の必要より来れるものなる可きも、其主要の目的は、実に藩閥を控制せむとするに在りしや疑ふ可からず※(白ゴマ、1-3-29)此を以て最も伊藤内閣に反感を抱きしものは、藩閥武断の一派にして、彼の藩閥の私生児たる吏党が、民党と聯合して極力伊藤内閣の攻撃を事としたるは、適々以て其由る所を察し得可し※(白ゴマ、1-3-29)或は伊藤内閣が二囘までも議会を解散したるの挙を非立憲的と為して、大に之れを論責するものあり※(白ゴマ、1-3-29)余も亦敢て侯の解散手段を賛するものに非ずと雖も、是れ勢の致す所にして侯の本意には非らず※(白ゴマ、1-3-29)若し当時の民党より之れを観れば、侯が解散してまでも内閣を維持したるは、単に民党を苦めたるに似たりと雖も、其実之れが為めに最大失望を感じたるものは、寧ろ藩閥及び藩閥を助くるの吏党にして、民党の為めには、解散は却つて幸福なりき※(白ゴマ、1-3-29)何となれば、侯にして若し解散の代りに辞職を行はゞ、侯の後を受けて内閣を組織するものは、必らず民党に非ずして藩閥の武断派なる可ければなり※(白ゴマ、1-3-29)之れを聞く、第二伊藤内閣の将に成らむとするや、陸奥伯其親近に語て曰く、民党たるものは宜しく其挙動を慎み、漫に吏党の激論に煽動せられて、我れより解散を求むるの愚を為す可からず※(白ゴマ、1-3-29)是れ民党の不利益なりと※(白ゴマ、1-3-29)則ち伯が伊藤侯の謀士として自由党と提携せしめたるも、其意の藩閥控制に在るや論なきのみ、伊藤侯が藩閥を利用すると共に、又之れを控制せむと勉めたるは既に斯くの如し※(白ゴマ、1-3-29)故に其信任する所の人物も、亦大抵藩閥に敵視せらるゝものか、若くば藩閥以外の出身者ならざるなく、例へば、故陸奥伯の如き伊東末松両男の如き、渡辺子金子氏の如き、以て見る可し※(白ゴマ、1-3-29)果して然らば、今囘の大英断が亦藩閥打破の目的より出でたると謂ふも豈余が一個の臆断ならんや。

      未定数
 伊藤侯は既に藩閥を打破して旧勢力と全く分離せり※(白ゴマ、1-3-29)知らず侯の未来は如何※(白ゴマ、1-3-29)一見せば侯の現在の位地は、孤立の二字を以て、善く之れを説明するを得可し※(白ゴマ、1-3-29)侯は旧勢力と分離して、未だ新勢力を発見せず※(白ゴマ、1-3-29)曾て侯と提携したる自由党は、今や憲政党の名の下に抱合せられて、侯と反対の方面に立ち、而して侯に依て政党を組織せむとするものは、唯だ憲政党の勢力に辟易して殆ど為す所を知らず※(白ゴマ、1-3-29)侯の現在の位地は実に孤立なりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)されど余を以て之れを観るに、侯の位地は未定数にして必らずしも孤立ならず※(白ゴマ、1-3-29)憲政党は大なりと雖も、其組織未だ堅確ならず、其主義未だ明白ならざるに於て、一朝変を生ずれば、更に如何なる現象を生出せざるも保す可からず※(白ゴマ、1-3-29)否其分裂の機は漸く※(「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70)促し来れり※(白ゴマ、1-3-29)憲政党一たび分裂すれば、旧自由党が再び侯を擁するの必要あるに至るは自然の情勢にして、侯は唯だ其機会の到来するまで孤立の位置に在るのみ。
 凡そ今日の所謂る政党なるものは、主義政綱に依りて進退するに在らずして、唯だ利害に依て分合するものたるに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯が位地の未定数なるは、蓋し政党の主義政綱未だ分別せざるが為めなり※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに政治家の世に立つや、先づ自ら其主義政綱を発表して、同志を天下に求むる固より可なりと雖も、今日の如く未だ主義政綱を以て争ふの進境に達せざるの政界に在て、自ら主義政綱を発表して同志を天下に求むるは、恐らくは侯の迂濶とする所なる可し※(白ゴマ、1-3-29)况むや侯は大隈板垣伯等の如く、政党上の歴史を有せざるが故に、今日直に政党を組織せむとする如きは、到底言ふ可くして行ふ可からざるの談なるに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)若し侯の中心の冀望を言はゞ、此際永く、政界を退隠せむと欲するに切なるやも知る可からず※(白ゴマ、1-3-29)されど侯を叢囲せる門下生は、决して侯の退隠を許さゞるの事情あり※(白ゴマ、1-3-29)侯は此等の門下生の為めに、勢ひ再度の出馬を為さゞる能はざるは無論なるを以て、侯の清国より帰朝するの日は、乃ち政界復た一変動を見るの時なりと知らざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)侯の運動の妙所は、虚無縹緲の間に於て、巧みに最後の勝利を制するに在り※(白ゴマ、1-3-29)侯が明治十四年来藩閥控制の術数を用いたるも、世間啻に其然るを知らざるのみならず、藩閥自身も亦然るを知らずして独り其術中に陥りて怪まず※(白ゴマ、1-3-29)侯が自由党と提携したるに及でも、明かに政党内閣を主張せずして而も次第に今日の時局を導くの動機を啓きたり※(白ゴマ、1-3-29)侯は曾て其持説を確言したることなきも、其実際に施設したる例少なからず※(白ゴマ、1-3-29)侯も亦一代の政治家なるかな。(三十一年九月)

     伊藤侯は党首の器なるや

 伊藤侯が頃ろ政党改造の意見を発表して、既成政党の弊害を矯正せんとするや、侯の機関紙たる『日々新聞』は、侯の目的、模範政党を作るに在りと暗示し、憲政党の機関紙たる『人民新聞』は、侯の位地を論じて、憲政党に入るの侯の志に合ふ可きを諷告したり※(白ゴマ、1-3-29)侯果して憲政党に入りて其首領たらむと欲する乎。或は既成政党以外、新たに同志を糾合して模範政党なるものを作らむとする乎※(白ゴマ、1-3-29)是れ恐くは政治的数学の例題ならむ※(白ゴマ、1-3-29)近かき未来の政局を打算するが為には、先づ此例題を解决せざる可からず。
 然れども憲政党及び其他の伊藤崇拝者が、果して能く伊藤侯の人物を領解したるや否や※(白ゴマ、1-3-29)試に問はむ、侯は党首の器を備へたる人物なる乎※(白ゴマ、1-3-29)具体的にいへば、侯はグラツドストンたるを得る乎※(白ゴマ、1-3-29)サリスバリーたるを得る乎と※(白ゴマ、1-3-29)凡そ党首に最も必要なる資格は、国民を指導して国民を専制せざるに在り※(白ゴマ、1-3-29)但国民を指導すといふは、国民を煽動するの謂に非ず※(白ゴマ、1-3-29)衆愚の感情を迎合し、一時の俗論を鼓吹し、己れの信ぜざる所を語り、我が欲せざる所を行ひ、詐謀偽術を挟みて強て多数の好尚に阿ねるは、是れ煽動家の事のみ※(白ゴマ、1-3-29)余が所謂る党首に非ず※(白ゴマ、1-3-29)マツヂニー曾て多数政治に定義を与へて曰く、多数政治とは、最も聡慧にして最も善良なる首領の指導に依れる政治なりと※(白ゴマ、1-3-29)故に党首は其智見判断に於て固より一代に超絶するものたる可く、則ち国民の未だ知らざる所を知り、国民の未だ見ざる所を見るの賢明なる人物ならざる可からずと雖も、此れと同時に、其智見判断を以て、国民の意思を圧服せむとするは、是れ専制家の事なり※(白ゴマ、1-3-29)余が所謂る党首には非ず※(白ゴマ、1-3-29)煽動家はモツブの頭領たる可し、政党の首領たるを得ず、専制家は宮廷政治の宰相たる可し、多数政治の宰相たるを得ず。
 余は伊藤侯が当今第一流の政治家として、其智見判断固より一頭地を地平線上より抽むずる者あるを認識す。されど侯は政党の首領として、国民を指導するの適才なりや否やと問はゞ、余は容易に之れを首肯する能はず※(白ゴマ、1-3-29)有体にいへば、侯は宮廷政治の宰相なり※(白ゴマ、1-3-29)侯は自負心に富みて、昂然自ら標置し、平生私智を恃むこと余りに多くして、輿論を視ること極めて軽く、個人的利害、個人的感情に傾き易き国民を指導して、与に国家の公問題を処决する如きは、恐らくは潔癖ある侯の能く忍ぶ所にあらず。余は侯を目して東洋のビスマークなりと信ずるほどに侯を崇拝せざるのみならず、侯を以てメツテルニヒの悪血を混じたる奸雄なりとも思はず。蓋し侯は天性神経過敏なれども、政治上に於ては極めて小心にして英断に乏しく、謹慎余りありて強固なる意力を欠きたる人なればなり。されど侯に期するに、グラツドストン、サリスバリーの事を以てするは、其見当違ひなる更に最も太甚し。
 侯はビスマークの大胆雄略なく、又メツテルニヒの隠険佞悪なしと雖も、其専制主義を喜び、宮廷的攻略に長ずるに至ては、侯は稍此二人に類似したる所あり。顧ふに侯が近来政党に接近したるは明白なる事実なり※(白ゴマ、1-3-29)特に憲政党と頗る親密なる交通を為しつゝあるは、最も新らしき事実なり※(白ゴマ、1-3-29)されど侯の憲政党と交通するや、猶ほ文明国人の未開国人と交通するが如し※(白ゴマ、1-3-29)侯の眼中に映ずる憲政党は、尚ほ是れ政治上の未開国のみ※(白ゴマ、1-3-29)侯は此未開国の法律に服従するの危険を恐る※(白ゴマ、1-3-29)故に之れと交通すと雖も、常に傲然として思想上の治外法権を維持せり※(白ゴマ、1-3-29)侯或は此未開国を征服するの野心ありとせむ※(白ゴマ、1-3-29)されど侯は果して善良なる君主たるを得る乎※(白ゴマ、1-3-29)伊藤侯と大隈伯とは、政界の両雄なりと公認せらるゝものなり※(白ゴマ、1-3-29)其政治的手腕は真に両々相当るが為めなり※(白ゴマ、1-3-29)されど党首として之を論ずれば、伊侯は到底大隈伯の対手に非ず※(白ゴマ、1-3-29)世間動もすれば伯を称して煽動家と為すものあれども、是れ伯を侮辱するに非ずむば、伯を誤解するなり※(白ゴマ、1-3-29)伯の煽動家ならざるは、猶ほ伊藤侯の党首の器に非ざるが如し※(白ゴマ、1-3-29)伯は意見に富み、判断に長じ、特に其記性非凡にして、英敏なる組織力あるは、善く伯を識るものゝ皆許す所なり※(白ゴマ、1-3-29)試に見よ、会計法の未だ整頓せざるに際して、予算編製の創意を出だしたるものは大隈伯に非ずや※(白ゴマ、1-3-29)始めて統計事業を成案し、会計検査法を設けて、行政事務の改良を謀りたるものは亦大隈伯に非ずや※(白ゴマ、1-3-29)伯は曾て紙筆を執りたることなく、算盤を手にしたることなきも、善く複雑なる事実と数字とを記憶して、其解紛按排頗る迅速なり※(白ゴマ、1-3-29)此点より言へば、伯は大事務家なり※(白ゴマ、1-3-29)大行政家なり※(白ゴマ、1-3-29)されど伯の最も偉なる所は、国民を指導するの力量ある是なり※(白ゴマ、1-3-29)伯は独自一己の意見を有すると共に、雑駁なる国民問題を溶解して、更に之れを清新なる晶形と為すの陶鋳力クリスタリゼーシヨンあり、伯は此陶鋳力に依りて、国民の偏見、私情、迷想に属する分子を除却し、以て其醇分を代表するの意見を製造するものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)是れ自ら党首の器にして、伊藤侯の企て及ばざる所と為す。若し此陶鋳力を以て煽動家の破壊力と同視せば、其謬見や大なり※(白ゴマ、1-3-29)煽動家は国民の偏見、私情、迷想に投じて之れを死地に陥る※(白ゴマ、1-3-29)其目的唯だ破壊に在り。例へば猟官熱の熾なるを見れば、直に官吏登庸法全廃を主張する如き、或は議員歳費増加案を提出して腐敗せる人心を収攬する如き、是れ実に煽動家の手段なりと謂ふを得可きも、若し夫れ大隈伯に至ては、曾て此般の言動に出でたることなし※(白ゴマ、1-3-29)地租増加に反対したるを以て伯を煽動家と為さん乎※(白ゴマ、1-3-29)市民を誘導して地租増加に賛成せしめたるも亦煽動家なり※(白ゴマ、1-3-29)否、政治上の論争は総て煽動的なりと謂はざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)亦奇怪ならずや※(白ゴマ、1-3-29)唯だ大隈伯の長所にして短所なるは、其意見を公言するの大胆に過ぐること是れなり※(白ゴマ、1-3-29)伯は其語らむとする所を語るに於て頗る無遠慮なり、而も其語る所は大抵未来の問題に関するものたるを以て、其発表したる意見は、往々言質と為りて※(白ゴマ、1-3-29)反対党に攻撃の材料を供給せり※(白ゴマ、1-3-29)意見を公言するは政治家の美徳なれども、時としては沈黙を守るの反つて政治家の利益たるを知らざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)伯は他の政治家に比して割合に変説少きに拘らず、伯の政敵は、主として伯の変説最も著しきを言ふ※(白ゴマ、1-3-29)是れ他の政治家は意見を発表すること少なきが故に、其変説世に知らるゝこと少なく、伯は意見を発表すること多きが故に、其言質を執らへらるゝこと随て多きのみ。
 されど政治家は道徳家に非ず※(白ゴマ、1-3-29)苟も国民の利害、国家の公問題と両立せざる意見は、之れを守るも政治家の名誉に非ず、之れを捨つるも政治家の恥辱に非ず※(白ゴマ、1-3-29)変ず可くして変じ、捨つ可くして捨つ、唯自己の智見と良心とに是れ任す可きのみ※(白ゴマ、1-3-29)特に国民を指導する党首に於て最も其然るを見る。
 伊藤侯は大隈伯の如く未来の問題を語ること少なく、其語るや大抵過去帳の展読のみ※(白ゴマ、1-3-29)故に其言質を作ること稀れなる代りに、其発表せる意見は、国民の記憶を喚び起すの力あれども、国民を指導するの生命あるもの甚だ希れなり※(白ゴマ、1-3-29)是れ亦党首として大隈伯に及ばざり所以なり。
 之を要するに、伊藤侯は政治家としては当今第一流の人物なれども、党首としては大隈伯の対手に非ず※(白ゴマ、1-3-29)然るに憲政党は侯を誘ふて党首の位地に立たしめむとす※(白ゴマ、1-3-29)是れ果して憲政党の利益なる乎※(白ゴマ、1-3-29)侯にして若し憲政党に入らば、憲政党は其組織を一変して、更に侯の理想に依て着色せられたる新政党と為らむ※(白ゴマ、1-3-29)而して自由主義は専制主義と為り、而して指導者を得る代りに命令者を得む。(三十二年八月)

     立憲政友会の創立及び其創立者

      (一)新組織の政党
 立憲政友会の創立は、確かに政治上の一進歩なり。少くとも近かき未来に於ける局面展開の動力たる可きは、何人も疑はざる所なり。但だ其の組織の果して健全なる発達を遂げ、其実力形貌共に果して能く完全なる政党たるを得可きや否やは、是れ固より前途に横はれる未解の設題たるのみ。余は敢て之が解釈を今日に試みむといふには非ず。
 立憲政友会の創立者を見るに、資望朝野の間に高き伊藤侯以下或は曾て台閣に列したる人あり、或は前日まで一党の領袖たりし人あり、或は敏腕の名ある旧官吏あり、或は地方の豪紳あり、其の他間接直接に立憲政友会の創立に与かりたるものは、孰れも所謂当代の名士にして、其自ら揚言する所を聞けば、遖ぱれ憲政の完成を期するを以て任と為し、私利を謀らず、猟官を願はざる忠誠明識の政治家なるものゝ如し。余豈其の醇駁を判じ、清濁を断ずといはむや。
 且つ政友会の総裁たる伊藤侯は、久しく既成政党の弊害を憂へ、屡々公私の集会に臨みて之れが矯正の必要を唱へたるを見るに於て、其の今囘自ら起て立憲政友会を組織したるもの、蓋し亦平生の理想を行はむと欲するに外ならじ。余は此の点に於て深く侯の志を諒とし、唯熱心に侯の成功を祷ると共に侯の幕下に集まれる諸君子が、始終善く侯の指導に服従し、以て国家の為めに侯の志を成さしめむことを望むや極めて切なり。有体にいへば、余は不幸にして侯の人物及び経綸に深厚なる同情を表する能はず。されど其の六十有二の高齢に達して、意気未だ毫も衰へず、自ら政友会を発起して、政治的新生涯の人たるを期す。其の頭脳精神の強健なる、亦一代の豪といふ可し。
 余は侯が政友会を発起したるを以て政治的新生涯に入るといふは何ぞや。侯が藩閥の範疇を脱して国民的政治家と為るの序幕は、疑ひもなく政友会の組織なればなり。侯は曾て超然主義の政治家なりき。今や侯は其の宿見を抛棄して自ら政党を組織せり。是れ侯の歴史に一大段落を作りしものに非ずや。唯だ侯が淡泊に旧自由党に入らずして、別に自家の単意に依りて政友会を発起したるは、稍々狭隘自重に過ぎたるの嫌あれども、是れ寧ろ侯の老獪のみ。
 曩に旧自由党総務委員が伊藤侯を大磯に訪ふて、侯に入党を勧め、以て全党指導の位地に立たむことを請ふや、侯は更に熟考の必要ありと称して即諾を与ふるに躊躇したりき。余を以て其の心事を推すに、第一歴史あり情実ある既成政党に入るときは、勢ひ自家の自由手腕を拘束せられて、十分其の意見を行ふこと能はざる恐れあり。第二旧自由党には政敵多く、特に侯の政友は侯と倶に旧自由党に入るを好まざりし事情あり。第三旧自由党は、当時局面展開を唱へて山県内閣と提携を絶ち、随つて事実上山県内閣に反対する態度を執りしを以て、若し伊藤侯にして此の際旧自由党に入りて之れを指導するに至らば、是れ恰も政権争奪の野心を表示するに同じく、山県内閣の手前、甚だ面白ろからず。第四旧自由党たとひ侯を首領として忠実なる服従を誓ふも、他の為に迎立せられたる首領は、何時其の廃黜する所と為るを知る可からず。苟も一たび侯の指導行はれざる場合と為れば、侯は板垣伯と同一運命に遭遇するか、然らざれば自ら脱党の挙に出でざる可からず。主権自由党に存すればなり。第五旧自由党の政綱主義及び組織は、総べて侯の理想と合致せず。之れを改造せむとすれば、其の全部を破壊せざる可からず。寧ろ新政党を創立するの便宜なるに如かむや。是れ侯が旧自由党に入るを避けて、別に立憲政友会を発起したる所以なり。
 侯が新政党を組織するに付ては、頗る経営惨憺の苦心を費やし、之れに着手するの前、先づ藩閥元老の承認を求むるの手段を執りたり。井上伯は政治上の主義に於てよりも、寧ろ私交上の関係に於て伊藤侯の政党組織に同情を表し、以て一種の任侠的援助を侯に与へたりと雖も、他の藩閥元老は、中心実に侯の政党組織を喜ばざりしに拘らず、猶ほ強て之れを表面より妨害したるものなかりしが如し。葢し藩閥元老の意気漸く衰へて、復た自ら今後の難局に当らむとするの抱負あるものなく、而して現に内閣の首相たる山県侯の如きも、最近二年間の経験に依りて、到底政党の勢力を無視する能はざるの趨勢を認識したれば、たとひ憲法上の解釈に於て多少伊藤侯と見を異にするものあるも、敢て成敗を賭して自家の所信を徹底せむとするの勇気ありとも見えず。是れ終に伊藤侯の政党組織を承認せざるを得ざる所以なり。侯は又旧自由党の熱心なる主張を排し、故らに党名を採らずして会名を用いたるは、識者より見れば、殆ど児戯に類すと雖も、是れ一は党と称すれば自由党の変名なるが如き嫌あると、一は全く既成政党の組織を踏襲するを欲せざる為なる可し、其の宣言及綱領を発表するに侯の単名を以てして、何人をも之れに加へざるは、是れ侯の最も意を用いたる所にして、其の理由は次の二点に帰着すべし。曰く立憲政友会は伊藤侯の創立したるものなれば、其の存廃を決するは伊藤侯の自由意思にして、何人も之れを掣肘するを得可からず。曰く宣言及び綱領は侯の単意に成りたるものなれば、之れを修正変更するは侯の独裁たる可く、随つて立憲政友会に入るものは徹頭徹尾侯に盲従し、何人も侯に容喙するを許さゞる是れなり。此の推測の正当なるは、政友会発会式の日に発表したる会則を一読せば更に明白なり。其の会則に拠れば、総務委員幹事長以下の選任より、大会、議員総会等の召集まで、一切総裁の権能に属すること、恰も文武百官の任命乃至議院の召集解散等、総て君主の大権に属するが如し。而して其の総裁の就任に関して何等の規定なきを以て、立憲政友会の総裁は固より一般政党の推選首領と其の性質を異にせり。要するに総裁は立憲政友会の主体にして、其の機関には非ず。換言せば伊藤侯の立憲政友会に総裁たるは、猶ほ専制国に君臨せる元首の如く、其の権能は絶対にして無限なり、一般の政党首領は、亦党の一機関たるに過ぎざるを以て、先づ政党ありて而る後に首領あれども、独り立憲政友会に在ては、総裁は即ち立憲政友会にして、立憲政友会ありて而る後に総裁あるに非ず。報知記者伊藤侯を評して、日本政党界のルイ十四世といひたるもの誠に当れり。
 自由党は立憲政友会に合同すと称して解党したり。既に合同といへば立憲政友会は対等なる位地に於て自由党を迎へざる可からず。而も立憲政友会の組織は、個人の加入を許すと雖も、対等なる団体の合同を許さず。則ち旧自由党が自ら合同と称すと雖も、立憲政友会に於ては、唯だ旧自由党員たりし各個人の加入を認むるのみ。顧ふに政友会の最大多数は旧自由党員たるを見るに於いて、事実上政友会の大幹部は随つて旧自由党たる可きは無論なり。されど伊藤侯の意思は即ち政友会の意思にして、旧自由党は之れに柔順なる服従を表するの外、何等の意思もなき勢力もなきものなりと認めざる可からず。伊藤侯が単名を以て政友会を組織するに付て用意の周到なる実に斯の如きものあり。

      (二)宣言及綱領
 伊藤侯の発表したる宣言の大要は、既成政党の言動を論じて、或は憲法の原則と相扞挌するの病に陥りたりと為し、或は国務を以て党派の私に殉ずるの弊を致すと為し、或は宇内の大勢に対する維新の宏謨と相容れざるの陋を形したりと為せり。是れ旧自由党の言動に就て特に戒飭したる意もある可く、将た他の党派に対して非難を加へたる点もある可し。旧自由党が之れを以て毫も自由党に渉らずと弁じ、百方牽強附会の辞を費やしたる報告を配布したるは、唯だ滑稽の極といはむのみ。宣言の内容は三段に分つ可し。其の一は閣臣任免の本義を説き、其の二は政党の国家に対する関係を説き、其の三は政党の規律を説けり。閣臣任免の本義に付ては曰く、抑も閣臣の任免は憲法上の大権に属し、其簡抜択用、或は政党員よりし、或は党外の士を以てす、皆元首の自由意思に存す。而して其の已に挙げられて輔弼の職に就き、献替の事を行ふや、党員政友と雖も、決して外より之れに容喙するを得ずと。是れ純意義に於ける政党内閣を否定して、人材内閣パーソナル、ガバーメントを主張したるものなり。乃ち其の内閣と議会との関係を明かにするの文字なきは何ぞ怪むに足らむ。旧自由党総務委員の意見書中、此点に関する陳弁の如何に苦渋を極めたるかを見よ、曰く趣旨綱領中大臣輔弼の責任に言及する所なきが為め、内閣と議会との関係如何にも要領を得ざるの疑をなす者なきにあらずと雖も、大臣は天皇に対し輔弼の責に任ずるは、既に憲法の条章に明にして、其の輔弼の責を全くし、以て国家の要務を挙げんとせば、議会の多数と調和伴行せざる可からざるは事実に徴して明なり。則ち内閣は人心を失し、議会の多数は到底内閣に賛同せず、立法予算の政務を挙げて曠廃に帰せんとするに関せず、議会の調和伴行せざるを以て、一に之を大権干犯と為し、頑として其の位地に拠り、進で調和伴行の道を講ぜずんば、以て輔弼の責任を全くするものと云ふを得ざるべし。而して之を其の発起者たる伊藤侯に見るに、其の超然主義を標榜としたるの当時に於てすら、議会の反対に遇ふて国務を挙ぐる能はざるに至て、其の任免の大権に属するを以て輔弼の責を忽にせず、表を捧げて罪を闕下に待ち、又先年自由進歩両党の合同するや自ら之を後任に奏薦して、引退したる実例あり。今又其の趣旨に於て、輿論を指導して国政の進行に貢献せん、或は帝国憲政の将来に裨補せんと言明せり。一たび此等の諸点を輳合せば立憲政友会の趣旨は、憲政の完成を期し、閣臣の責任を明にしたるものなること釈然たらんと。夫れ議会と調和伴行の道を講じたるは独り伊藤侯のみに非ず、他の藩閥元老亦皆之れを講じたり。其の多数の反対に遇ふて国務を挙ぐる能はざるに至て終に表を捧げて罪を闕下に待つの挙に出でたるものは、他の藩閥元老も亦皆然らざるなし。唯だ伊藤侯の如く再囘議会を解散して尚ほ内閣を固守したるものなかりしのみ、問題は此に在らずして、伊藤侯は果して衆議院の多数少数を以て内閣進退の条件と為すを趣旨とするや否やに在り。而して伊藤侯は此の点に於て何の言ふ所なく、自由党総務委員の陳弁亦此の意義を明解する能はず。
 其の政党と国家との関係を説ては曰く、凡そ政党の国家に対するや、其の全力を挙げ、一意公に奉ずるを以て任とせざる可からず。凡そ行政を刷新して以て国運の隆興に伴はしめむとせば、一定の資格を設け、党の内外を問ふことなく、博く適当の学識経験を備ふる人才を収めざる可からず。党員たるの故を以て地位を与ふるに能否を論ぜざる如きは断じて戒めざる可からず。地方若くは団体利害の問題に至りては、亦一に公益を以て準と為し、緩急を按じて之れが施設を決せざる可からず。或は郷党の情実に泥み、或は当業の請託を受け、与ふるに党援を以てするが如きは断じて不可なりと。其の意専ら猟官収賄の行動を排斥するに存し、旧自由党の如き最も中心忸怩たらざる可からず。而も其の総務委員の陳弁を見るに、反つて過を蔽ひ非を飾りて侯の訓戒を無視せむとするは又何の醜ぞ。其の官吏任用に対しては、資格限定の程度と方法は別問題なりと設辞して、尚ほ猟官の余地を後日に留め其の収賄行動に対しては、此等弊竇は我党の深く戒規したる所にして、今更之を一洗するの必要を感ぜず。之を以て暗に我党を指すの言とするに至りては、己れを卑うして自ら疑ふの嫌あるを免かれずといひ、以て毫も自ら反省囘悟するの赤心を示さゞるは、伊藤侯亦恐らくは其の厚顔に驚きたる可きを信ぜむとす。最後に政党の規律を説て曰く、政党にして国民の指導たらむと欲せば、先づ自ら戒飭して紀律を明にし其の秩序を整へ、専ら奉公の誠を以て事に従はざる可からずと。是れ既成政党の無紀律不秩序を咎め、此れより生じたる党弊を革むるを趣旨としたるに在り。余は伊藤侯が主として此の趣意を実行せむことを望まざるを得ず。
 綱領や約九個条にして、宣言の註脚といふ可く、其の外交に関しては、文明の政以て遠人を倚安せしめ法治国の名実を全からしめむことを努む可しといひ、其国防に関しては常に国力の発達と相伴行して、国権国利を充全ならしめむことを望むといひ、其の学政に関しては国民の品性を陶冶し、公私各々国家に対する負担を分つに耐ゆるの懿徳良能を発達せしめ、以て国礎を牢くせむことを希ふといひ、其の実業に関しては、農商百工を奨め、航海貿易を盛にし、交通の利便を増し、国家をして経済上生存の基礎を鞏からしめむことを欲すといふの事項稍々政綱らしきを見るのみ。而も是れ何人も異存なかる可き名辞ステートメントの排列にして、一党の政綱としては、余りに漠然にして殆ど要領を認むるに難し。されど余の政友会に期する所は、国家経綸の施設よりも、寧ろ党弊刷新に在り。是れ伊藤侯の政友会を発起したる主要の目的亦此に存すればなり。但だ最も党弊に浸潤せる旧自由党を最大要素とせる政友会を率いて、果して能く党弊刷新の目的を達し得可しとする乎。是れ甚だ余の疑ふ所なり。現に侯が田口卯吉氏に請ふに政友会に入らむことを以てするや、彼は侯に向て極度に腐敗せる旧自由党を主力としたる政友会の、到底党弊刷新を期し得可き謂れなきを論じて入会を謝絶したり。島田三郎氏の如きも亦彼れと同一なる観察に依りて政友会と接近するを避けたり。清流の士の政友会に赴かざる所以は実に此れが為めなり。

      (三)創立の参謀
 政友会の創立に与かれる参謀としては、先づ旧自由党総務委員を以て重もなる人物と為さざる可からず。されど伊藤侯の計画は、勉めて各種の人物と各階級の代表者を網羅するに在り故に投票権の多少よりいへば、旧自由党最も多数の創立委員を出だす可き筈なれども、十二人の創立委員中旧自由党より挙げたるものは僅に四名の総務委員にして、其の余は総べて旧自由党以外の人物を指名したりき。
 此等の創立委員中最も新らしき印象を世人に与へたる人物は、男爵本多政以氏と為す。彼れは前田家の旧大老にして、維新前は五万石を領したる加賀の名族なり。其の公人生涯に入りしは、今囘の政友会創立に与かれるを以て始めと為すが故に、其の人物経歴共に未だ多く人に知られずと雖も、伝ふる所に依れば、彼は従来実業に従事して嘗て政治運動に関係したることなく、唯だ其の名望の高きと、其の風采の酷だ近衛公に肖たるものあるを以て、加賀の近衛公と称せられたりといふ。彼れが伊藤侯の勧誘に応じて政友会に入り、以て不慣れなる政治劇の舞台に立つに至りしは、唯だ伊藤侯其人に傾倒せるが為めなりと聞く。伊藤侯が先年加賀地方を遊説したるに際し、彼れは初めて伊藤侯の謦咳に接すると同時に、遽かに侯の崇拝家と為りたるものゝ如し。彼れ政友会に入るに臨み、極めて正直に、有りのまゝに、自己の心事を人に語りて曰く、我家の資産は、祖先が政治上に於て獲得したるものなり。乃ち之れを政治上に於て蕩尽するも亦憾みなしと。奇男子なるかな。
 都筑馨六氏が政友会の創立委員たるも亦一異色たるを見る。何となれば、彼れは最も党人を忌み、政党を嫌ひ、政治上に於ては極端の保守主義を持するを以て、曾て属僚中の頑冥派なりとの目ありたればなり。憲政党内閣の成るや、彼れは大隈伯を訪ふて憲法上の論端を開き、帝国の憲法と政党内閣とは決して両立す可からざる所以を切論して、大隈伯の持論を打破せむと試みたるほどの熱心なる非政党内閣論者なり。彼れ又曾て人に語りて曰く、大隈伯は其品性識量共に立派なる政治家なり。唯だ其の周囲を叢擁する者は、大抵無頼野性の党人にして、伯の徳を累はすものたらざるなし。伯が此等の党人を相手として国事を謀るの意甚だ解す可からずと。其の党人を視るや殆ど蛇蝎の如し。今や政友会には最悪最劣の党人頗る多くして、清流の士皆※(「戚/心」、第4水準2-12-68)顰を禁ずる能はざるに拘らず、彼れは此輩と相追随して前進せむとするは豈奇ならずや。知らず彼れは其の主張を棄てゝ政党に降りし乎。将た其の岳父井上伯が伊藤侯を援助するが為に、義に於て政友会に入らざるを得ざるの事情ある乎。
 西園寺公望侯、渡辺国武子、金子堅太郎男の三氏に至ては、是れ純然たる伊藤侯の門下生なれば、則ち侯と進退趨舎を倶にするは亦怪む可きなし。大岡育造氏は、曾て国民協会を自由党に合同せしめて、伊藤侯を其の首領たらしめんと試みたる策士にして、侯の今囘発起せる政友会の創立委員たるは、其の最も満足とし、栄誉とする所たるは無論なる可し。渡辺洪基氏は一たび伊藤侯の四天王の一人なりと称せられたる人なり。其志を政界に得ざるや、乃ち身を実業社会に投じて久しく政治的野心を抑損し、随つて侯と彼れとの関係は次第に杳遠と為りつゝありしと雖も、侯の政友会を組織するに及び、成る可く多く旧政友を糾合するの必要あると、渡辺氏と実業社会との間には多少の連絡あるを以て、彼を通じて実業家を招徠するの必要あるとに依りて、殆ど相忘れむとしたる一門下生に復旧を求めて、之を政友会創立委員の一人に指名したりき。長谷場純孝氏の創立委員に加へられたるは、彼れが薩派を代表するが為めにして、彼に取ては寧ろ望外の栄誉なる可し。彼れは思想に於ても、感情に於ても、若くは其の人格に於ても決して伊藤侯に容れらる可き点を有せず。其の容れられたるは、是れ侯が彼れの代表権に重きを置きたる証なればなり。

      (四)帰化したる敵将
 伊藤侯は勉めて各種の要素を収容せむと欲し、敵党の人物と雖も来るものは之を拒まざるの概を示したり。此を以て新を喜び旧を厭ふの軽佻者流、若くは侯の資望勢力に依りて万一の倖進を冀ふものは、争ふて政友会に赴きたり。独り進歩党の領袖として、操守堅固の壮年政治家として議院の内外に高名なりし尾崎行雄氏が十数年以来利害苦楽を共にせる政友に別れて、一人の知己を有せざる政友会に投じたる行動の如きは、一個未了の疑問として政界に存在せり。されど余を以て之れを観れば、彼れの行動は極めて単純なる目的に出でたるに外ならじ。有体にいへば、大隈伯よりも伊藤侯を以て自家の栄達を謀るに便宜なりと信じ、進歩党よりも政友会を以て多望の未来を有すと認めたればなり。固より其の観察と判断とは、種々の方面と複雑なる材料を基礎としたるを疑はずと雖も、其の出発点の功名心にして、其の帰着点の栄達に在る可きは、何人も疑ふものある可からず。其の進退条件が政見の異同に関せざるは、彼れが曾つて進歩党に対して何等の提言なかりしを以ても之れを知る可きのみならず、彼れが終始其の心事を秘密にして、一政友にすら真実を語りたることなしいふを聞ても、其の如何なる動機に依りて進退したりしかを察するに足る。
 凡功名心に富める政治家は、往々栄達の為に主義政見を一擲するの例少からず。英国現内閣の殖民大臣チヤムバーレーンは、初め急進党として、愛蘭自治論主張者として、チヤーレス、ヂルクの最親なる政友として、愛蘭党首領パーネルの熱心なる弁護者として議会に立てり。然るにグラツドストンの自治案一たび出るや、彼れは遽かに之れに反対して終に保守党と提携したり。其の表面の辞柄は大英国の統一を維持すといふに在れども、其の豹変の倏忽なるは、今尚ほ厳酷なる批評家の冷笑を免がるゝ能はず。頃日米国の雑誌『アウトルツク』に掲載せるヂヤスチン、マツカーシー氏のチヤムバーレーン論を読むに、其のチヤムバーレーンの自治案に反対したる当時の事情を説て頗る詳悉なり。其中にいへるあり、曰く愛蘭尚書ウイリアム、フオスターの辞職するや、其の後任としてチヤーレス、ヂルクを推薦する者あり、而もヂルクは内閣に座次を有せざれば、到底愛蘭に於ける自治政略を内閣に行はしむる能はずと称して之れを謝絶したり。此に於てかチヤムバーレーンを以て之れに擬するものあり、彼れ亦窃に其の位置を希望し、且つ之れを得むが為に、あらゆる手段を尽くしたり。彼れ以為らく、我れは当然愛蘭尚書に推薦せらる可し、我れ能く其の任務を全うするの準備ありと。而して彼れは愛蘭の国民党員ナシヨナリストと或る協商を継続し、而して其の国民党員は、彼れにして若し愛蘭尚書たらば、必らず自治案主張者として行く可しと信ぜり。然るにチヤムバーレーンの予期したる愛蘭尚書の位地は彼に与へられずしてフレデリツク、オヴヱンデス卿に与へられたり。間もなくフレデリツク卿被害の報は倫動に来れり。余(マツカーシー)自身はパーネル氏と相伴ひて、ヂルク及チヤムバーレーンの二氏を訪問し以て愛蘭の善後策を談ぜり。当時チヤムバーレーンは尚愛蘭国民党に信任せられ、彼等はチヤムバーレーンを以て自治案に対する愛蘭人の要求に深厚なる同情を有するものなりと思へり。されど彼れは依然商務局長たるのみ、愛蘭尚書たるの機会は来らざりき。彼れが自治案に反対したるは此の以後に在りと。此に依りて是れを観れば、チヤムバーレーンが其の持説を一変したるは、自由党内閣が彼れに愛蘭尚書の位地を与へざりしもの其の主因たりしが如し。マツカーシー又曰く、初めグラツドストンの自治案に反対したる者は、自由党にも亦頗る多かりき。されど反対の焼点たりし条項はグラツドストンに依て修正せらるゝに至て、彼等は皆グラツドストンの指導の下に復帰したり。独りチヤムバーレーンは全く彼等と其の行動を異にしたりきと。余はマツカーシーの鋭利なる観察に依て、チヤムバーレーンの進退に関する真相を知ると共に、移して以て日本のチヤムバーレーンたる尾崎氏の行動を判断するの参考と為さむと欲す。故に特に其の大要を此に訳載したるのみ。

      (五)交渉の失敗
 政友会が各種の要素を収容せむとして、諸ろの方面に交渉したる画策は大抵失敗に終れり。最も与し易しと為したる貴族院研究会すら、宣言及綱領には賛成なれども研究会の会則は会員をして他の団体に加はるを禁ぜりとの口実に依りて入会を拒絶し、初めより伊藤侯の属望したる実業家の如きも、東京大阪に於ける高級分子は、亦皆入会を避けて其の薬籠中の物とならず。而して其来り投ずるものは、大抵政治を以て営利の目的を達せむとする政商か、若くは中流以下の地方実業家のみ。侯の失望亦以て察すべし。
 元来侯が実業家を収容せむとするの画策は、既に選挙法改正案提出の時に成り、而して其の改正案を成立せしむるが為めには、或は当局者として之れを議院に論じ、或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ、或は地方を遊説して其の所見を発表し、以て市の独立、市民の投票権拡張を主張したるは、蓋し亦実業家を味方として政界に立たむとするの後図に非るはなかりき。此の点に付て井上伯は深く侯の苦衷を諒とし、侯が政友会を発起するや、窃に親近なる都下の実業家に内意を伝へて有楽会の会合を催ふさしめたり。伯は自ら此会席に列して政友会の代弁人と為りたりき。而して其の勧告の切偲を尽くしたるに拘らず、雨宮一派の相場師を除くの外、多数の実業家は孰れも申し合せたる如く、其の入会を辞謝したりき。蓋し彼等は必ずしも政治と実業との関係密切なる所以を解せざるに非ずと雖も、日本の政党界には尚ほ多くの欠点あり。特に党争の結果個人的取引及び個人的交際までも其の余累を及ぼすの弊害あるを見るに於て、未だ政友会の進行を検するに及ばずして、軽ろ/″\しく之に入会するは、思慮ある実業家の為さざる所なり。且つ入会勧告者たる井上伯は、自身先づ政友会に入りて而る後他人の入会を勧告す可き筈なるに、現に政友会の名簿中には伯の記名なくして、反つて他人の之れに記名せむことを望むは、頗る虫の善き話なり。天下豈斯くの如き勝手気儘の事ある可けんや。
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 之れを要するに、立憲政友会は、資望当世に比なき伊藤侯の発起に係れると、其の朝野に亘りて比較的多数の政友を有すると、其の主要の目的実に既成政党の陋弊を刷新するに在るとに依りて、頗る一時の人心に投ずるものありと雖も、其の団体の大幹部は、最も腐敗を極めたる旧自由党たるを見るに於て、其の果して能く伊藤侯の理想を実行するを得可きや否やは、暫らく政治的設題として之れを後日の解答者に待たむのみ。(三十三年十月)

     第四次の伊藤内閣

      (上)伊藤侯と憲政
 幸運なる伊藤侯は、政治上最も多望なる時代に於て第四次内閣を組織せり。顧ふに侯の出づるや、常に時代に歓迎せらる。而も其の末路は、常に失敗に終る。知らず、第四次内閣の進行は如何。是れ実に、政治家たる伊藤侯の死活問題なり。若し能く国民の冀望を満足せしむるの施設あらむか、既徃幾多の失敗は、之を償ふて余りあるのみならず、侯は明治年間第一流の政治家として、永く歴史上の大人物たるを得可し。若し之れに反して万一失敗せむか、侯は到底虚名の政治家たるを免がる可からず。
 薩長元勲にして内閣総理大臣たりしものは、侯を外にして故黒田伯あり、松方伯あり、山県侯あり。されど黒田伯は唯だ一囘内閣を組織したるのみにて、而も極めて短命なる内閣なりき。松方伯と山県侯とは、内閣を組織したること前後各二囘なりしも、之れを伊藤侯に比すれば、共に人気ある総理大臣たるを得ざりき。伊藤侯の内閣を組織するや、最初は常に天下に歓迎せられて、最後は常に国民を失望せしむ。侯が明治十八年自ら総理大臣と為りて第一次の内閣を組織するや、始めて政綱を発表し、官制を改革し、文官任用令を設け、天下をして斉しく其の風采を想望せしめたりき。而も其の辞令の立派なる割合には実際に成功したる事績甚だ少かりしのみならず、繁文縟礼の弊反つて此間に生じたり。加ふるに浮泛なる欧化政略は、内治外交の両面に救ふ可からざる壊膿を生じて、遂に内閣の瓦解を見るに至りき。第二次内閣は、選挙干渉に失敗したる松方内閣の後に組織せられ、山県、黒田、井上、大山、仁礼の薩長元老も相携へて入閣したれば、世間之れを称して元勲内閣といひたりき。侯は意気軒昂我れ能く政党の外に超然として議会を操縦するを得可しと信じたるに拘らず、議会は寧ろ侯の行動を非立憲的と為して、荐りに不信任動議を提出したりき。一たびは和衷協同の勅諭を奏請したりき。二たびは議会の解散を断行したりき。而も議会は容易に武装を解くを肯んぜずして依然内閣の攻撃を事としたりき。此にて侯は超然主義の到底保持す可からざるを自覚し、自由党と提携して内閣組織に多少の変更を加へたりと雖も、其の姑息※[#「糸+彌」、15-下-6]縫の政策手段は、漸く内閣の統一を破りて内部より崩壊したりき。
 第三次の内閣組織に際しては、侯は初め之を大隈板垣両伯に謀りて、所謂る三角同盟を作らむと試みたりき。其の行はれざるに及で、一切政党との交渉を避けて超然内閣を組織したりしは、其の無謀固より論ずるに足らず。是れ半歳ならずして内閣総辞職の止む可からざりし所以なり。されど侯は此の失敗に依りて其の政治思想に一大発展を為したり。乃ち今日政友会を組織して自ら政党の首領と為り、其党員を率いて此に第四次内閣を組織したるは、是れ安んぞ超然主義の失敗に原本せざるなきを知らむや。侯は大隈伯に比すれば、独自一己の識見に欠くる所あり。大隈伯は明治十四年改進党を組織してより、飽くまで政党内閣を主張し、且つ其の主張の早晩実行せらる可き時機あるを確信して、毫も疑はざりしに反して、侯は政党内閣の運命に対して近年まで半信半疑の間に彷徨したりき。今や侯は政党内閣を組織して、憲政の完成を以て自ら任とせり。而かも今日は侯の実力を試験するに最も適当なる時代なるを見るに於て、侯たるもの亦大に奮ふ所なかる可からず。何故に今日を以て侯の実力を試験するに最も適当なる時代なりといふや。曰く侯にして若し其の理想を新内閣の上に行ふこと能はずして、之れをして見苦るしき失敗を取るが如きことあらしめば、其の結果として畏る可き保守的反動を惹き起すことなきを保す可からざればなり。此の点よりいへば、侯は実に憲政の安危に負ふ所の責任甚だ大なりといふ可し。
 悪口に長ずる批評家は、侯を目して観兵式の大将なりといへり。是れ侯が無事の日に壮言大語すれども、一たび難局に逢へば、心手忽ち萎縮して自己の責任を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)がるゝ迹あるを以てなり。侯の政友会を創立するや、其堂々たる宣言実に人聴を聳かすに足る者あり。而も之を実行するは談決して容易ならず。所謂る政党の弊害を矯正すといふ如きも、先づ内閣の威信を立て、行政の紀律を振粛するに非ずむば、政党の弊害を矯正すこと頗る難事に属せり。例へば政党の行政権に干渉するの行動あるは、内閣に之を排除するの威信なきが為にして、苟も内閣自ら憲法上の権域を正うして政党に臨まば、政党漫りに自ら行政権に干渉し得可きに非ず。侯は首相独裁の内閣を理想とすといふ。是れ大に可なり。宜しく此の理想を実行して新内閣の統一を謀り、各大臣をして悉く侯の手足たらしむべきのみ。是れ曾てビスマークの実行したる理想にして、独逸の内閣制は実に此の理想を基礎としたるものなり。されどビスマーク死するや、独逸復た之れに次ぐの実力ある政治家なく、随つて首相独裁の内閣制は、事実に於て空名に帰したりき。伊藤侯にして果して之れを実行し得るの実力あるに於ては、内閣の威信を立て、行政の紀律を振粛する亦易々の業のみ。余は政党の矯正よりも先づ此の理想の実行を以て侯に望まざるを得ず。
 顧ふに侯は先づ十分政友会を訓練し、然る後、内閣を組織して其の理想を実行せむと期したるものゝ如し。されど山県内閣は、侯の成算未だ熟せざるに早くも総辞職の挙に出でたり。侯の狼狽想像するに余りありと雖も、侯にして苟くも既に自ら起ちたる以上は、唯だ勇往邁進して其の理想を実行するを期す可きのみ。又何ぞ成算の未熟を以て念とすべけんや。

      (下)新内閣の人物
 伊藤侯の最初の内閣役割案には、政友会以外に於て井上伯及び伊東男の二人を算入したりしは殆ど疑ふ可からず。但し井上伯は老来野心漸く消磨したりといへば、自ら進で閣員たらんとするの目的ありしとは信ずる能はずと雖も、伯は政友会の創立には熱心なる世話人たり、新内閣の出産には老練なる産婆役たりしを以て、更に新内閣の保姆として重要なる一椅子を占むる権利を有したりしは無論なり。而して伊藤侯も亦之れを以て、伯に望みたりしは、既に公然の秘密なり。単に新陳代謝の必要より論ずれば、老骨井上伯の如きは、むしろ新内閣の伍伴たらざるを喜ぶべしと為す。されど伯にして若し内閣の一員たりしとせむか、其の一種の潜勢力は多少内閣に威重を加へたりしやも知る可からず。伊東男に至ては、其の人品或は議す可きものありと雖も、其行政の才固より当世に得易からず。伊藤侯が彼れを新内閣に羅致せむとして慫慂頗る勉めたるは又当然といはんのみ。况んや彼れは伊藤侯と切て切れざる関係あるに於てをや。
 然るに伊東男は、最初より入閣を肯んぜず。井上伯は内閣組織の間際に於て突然失蹤したるは何ぞや。世間伝ふる所に依れば、伊東男は近頃漸く伊藤侯に親まずして反つて山県侯に接近しつつあり。是れ入閣の勧告を拒絶したる所以なりと。此の説恐らくは揣摩臆測にして真相を得たるものにはあらじ。余の聞ける所にては、伊藤侯は二三年以来頓に健康に異状を呈し、筋肉の機能次第に衰憊したると共に、神経系統の感応作用は反つて過敏と為り、随つて喜怒愛憎の変転甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと。侯の近状果して斯くの如しとせば、其何等かの刺戟に由りて、一時若くは或場合に於て、伊東男と感情上の衝突ありしやも知る可からず。されど此れが為に侯と伊東男との関係一変したりとは想像し得可くもあらず。而も伊東男の新内閣に入るを避けたるは他なし。一言にしていへば、侯は政友会の創立に付ても、将た新内閣の組織に付ても、多くは伊東男に謀らず、たとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして、反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや。蓋し彼れは新内閣を認めて予後不良の症状ありと為し、伊藤侯をして早晩之れを自覚せしめて、局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し。唯だ此の推定は、彼と伊藤侯との関係に就て、常識上より観察したるに出づ。若し彼れに別種の隠謀奇策ありとせば、是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず。
 井上伯の失蹤は、渡辺子の心機一転と相反襯して一幅の奇観を表出せり。世間の取沙汰にては、渡辺子自ら新内閣の大蔵大臣たらむことを予期したるに、松方伯は伊藤侯に向て子を大蔵大臣の器に非ずと為し、此の椅子は断じて子に与ふ可からずと説き、侯の意亦稍々之に動かされて井上伯を大蔵大臣たらしめむとするの傾向ありしを以て、子は憤々の情に堪へずして伊藤侯と絶交せむとしたるのみと。而も子が心機一転の喜劇を演じたる瞬間に於て、井上伯失蹤の一珍事起りしを見れば、渡辺子の心機一転は、安ぞ井上伯の入閣中止の結果ならざるを知らむや。されど此の際に於ける出来事は一切暗黒より暗黒に移りて方物す可からず。之れを批判するの必要もなく、又批判し得可くもあらずと雖も、独り渡辺子が心機一転問題を以て無用の人騒がせを為したるに拘らず、其の予期したる大蔵大臣の椅子を得たるはめでたし。されど政友会総務委員等は、渡辺子の心機一転問題に付て物々しく争ひ騒ぎ、終に報告書を発表して、子の罪過を数へ、子の行動を称して狂乱といひ、伊藤侯に向て其の処分を強請したるほどなるに、彼等は箇の狂人と内閣に并び立て怪むの色なきは、亦古今無類の一大奇観なりといふ可し。元来渡辺子は疳癖ありて、往々常軌を逸する行動あり。而も之れを托するに無意義なる禅家の装姿を以てするが故に、其の一挙手一投足は殆ど常識を以て料る可からざるものあり。政治家としては或は要領を得ずとの評を免れずと雖も、新内閣の大蔵大臣としては、子を外にして其の適任者を求む可からざれば、子を狂人視せる政友会総務委員等は、到底子の位置を動かすこと能はじ。
 末松謙澄男の内務大臣たるは、最適任といふ能はざれども、又大なる不可もあらず。彼れは内務に多少の経験と学識とを有し、且つ其の資性も比較上廉潔に近かきものあるを以てなり。特に彼れは伊藤侯の愛婿として殆ど侯と一身同体の個人的関係あるが故に、侯は自由に之れを指揮監督するを得可きは無論なり。則ち末松男を内務大臣たらしめたるは、是れ事実に於て、侯が自ら内務大臣を兼摂したるものと認めて可なり。政友会の一部人士は星亨氏を内務大臣たらしめむと欲して、熱心に運動したるに拘らず、侯が毫も是れに掛意せずして末松男を挙げたる良工の苦心亦想ふ可し。
 金子男は心窃に農商務大臣たらしむことを期せり。彼れの実業奨励策は、何人も甚だ感服せざるものなれども、兎に角一度は農商務大臣たりしこともあり。実業上に関しては、曲りなりにも組織的意見を有せる一個の人才たるを以て、新内閣中彼れの為めに最好の位置は確かに農商務大臣の椅子なりき。而も侯が彼れに与ふるに司法大臣の閑職を以てしたるは彼れが如何に侯の為めに軽視せられ居るかを見る可し。松田正久氏の文部大臣たるは世人の均しく意外に感ずる所なる可し。世人は寧ろ尾崎行雄氏か否らずむば西園寺侯を以て文部大臣に擬したりき。西園寺侯は健康未だ恢復せざるの故を以て、自ら新内閣に入るを好まざりしといふの事情はあれども、尾崎氏に至ては然らず。彼れは曾て文部大臣として頗る好評あり、其の人物技倆亦松田氏と同日に語る可らざれば、則ち西園寺侯にして自ら起たざるに於ては、尾崎氏こそ寧ろ新内閣の文部大臣として最好の人物なれ。知らず彼れは内閣大臣を目的として進歩党を脱したりといはるゝを気にして、自ら入閣を避けたる乎。将た彼れ自身は入閣を望みたるも、伊藤侯は彼れを閣員に加ふるを好まざりし乎。
 星亨氏を逓信大臣たらしめ、林有造氏を農商務大臣たらしめたるは、恰も膏肉を餓虎に与へたる如しとて、国民の頗る寒心する所なり。されど伊藤侯は政党に於ては首領専制を唱へ、内閣に於ては首相独裁を主義とするの政治家たり。侯にして果して能く其の主義を実行するの決心あらば、たとひ詐偽師を内閣大臣たらしむるも亦必らず之れをして其詐偽を行ふに由なからしむるを得む。况んや星林の両氏の如きは、共に材幹手腕ある一廉の人物にして、若し之れを善用すれば、相応の治績を挙げ得可き望みあるに於てをや。唯だ侯が之れを善用するを得るや否やは甚だ世人の危む所たるのみ。
 新内閣員として最も注目す可きは、加藤高明氏の外務大臣たること是なり。彼は久しく英国駐在の帝国公使として令名あり。其の外交上の技倆よりいへば、新内閣の外務大臣として何人も故障をいふものある可からず。彼れは啻に外務大臣として適任なるのみならず、内閣大臣たるの人格より見るも、新内閣中実に第一流の地歩を占むるものなり。彼れは名古屋出身たるに拘らず、毫も名古屋人の特色たる繊巧軽※[#「にんべん+鐶のつくり」、18-上-6]の処なく、極めて硬固にして冷静の頭脳を具へ、決断に長じ抵抗に強く、言笑亦甚だ不愛嬌なれども、常識豊富にして、其の思想は頗る健全なり。彼を知るものは彼れを称して英国紳士の典型を得たるものなりといへり。故に彼れの新内閣に在るは、確かに中外に対する重鎮たらむ。余は伊藤侯が彼れを入閣せしめたるを以て内閣組織上の一大成功と為す。
 第四次伊藤内閣は、斯の如くにして組織せられたり。其従来の内閣に比すれば、形式に於ても実質に於ても共に進歩したるものたるは疑ふ可からず。一人の元老を加へずして、悉く後俊を以て組織したるは実質上の進歩なり。陸海軍大臣を除くの外、全然藩閥の分子を一掃したるは形式上の進歩なり。其の閣員の多数政友会より出でたるを以て之れを政党内閣といふ可なり、其の老骨を排して後俊を網羅したるを以て之れを人才内閣といふ亦可なり。余は此点に於て新内閣の成立を祝するに躊躇せず。若し夫れ実際の施設は、今後の進行如何に由て更に評論せむと欲す。(三十三年十一月)

     伊藤侯の現位地

 英国の名宰相ロバート、ピールが曾て保護政策を棄てゝ穀物輸入税廃止論に同意するや、保守党は彼れを罵つて、変節の政治家なりといひ、一般の批評家は亦彼れの行動を称して矛盾といひたりき。然れども彼れは此の変節に由りて、反つて国家国民の福利を増進したれば、則ちたとひ党首としては一時の物議を免がれざりしも、政治家としては確かに偉大の成功を奏したりといふべし。仏国のギゾー(有名なる文明史の著者)彼れを論じて曰く、ロバート、ピールは、単純なる理論家にあらず、又た原理原則に拘泥する哲学者にもあらず、彼れは事実を較量するの実際家にして、其の終局の目的は成功に在り。然れども彼れは主義の奴隷たらざると共に、必らずしも主義を軽蔑するものにあらず、彼れは政治的哲学を全能なりとも、若くは無益なりとも信ぜざるがゆゑに、敢て之れを崇拝することなしと雖も、而も之れを尊重せりと。是れ実にピールの人物を正解したる言なり。
 顧みて我伊藤侯の出処進退に視る、侯は多くの点に於て亦頗るピールに似たるものあり。侯は党首としては固より欠点なきの人物にあらずと雖ども、政治家としては、朝野の元老中兎も角も大体に通ずるの士なり。今や侯は桂内閣と政友会とを妥協せしめたるの故を以て、世上の非難攻撃を一身に集中したり。独り反対党の盛んに侯を攻撃するのみならず、侯の統率の下に立てる政友会も、亦動揺に次ぐに動揺を以てして自ら安むぜざるものゝ如し。是れ侯を目して政党に不忠実なりと認めたるが為なり。唯だ此の見解に依りて、尾崎行雄氏は去れり、片岡健吉氏は去れり、林有造氏は去れり、其余の不平分子は去れり。彼等は以為らく、政友会総裁たるものは、唯だ政友会の利害を以て進退の凖とせざる可からず、唯だ政友会の主義綱領を保持する限りに於て会員指導の任に当らざる可からず、然るに侯の為す所は、党首たるの責任よりも、寧ろ元老たるの位地に重きを置きて、政府と妥協を私約し、以て専制的に之れを政友会に強ゆるの挙に出でたり、是れ到底忍び得べき所にあらずと。然り、侯は既に自ら公言して、乃公は一身を挙げて政友会に殉ずる能はずといへり、是れ尋常党首の言ふ能はざる所にして、適々以て侯の侯たる所以の本領を見るなり。
 然れども侯は決して他の藩閥者流の如き政党嫌ひの政治家にあらず、政党嫌ひの政治家にして焉んぞ自ら政友会を組織することあらむや。唯だ侯は党首たるには余りに執着心に乏しくして党派の主義綱領を軽視するの傾向あるのみ。凡そ主義綱領といふが如きは、党派あつて始めて現はれたるに過ぎずして、悪るくいへば、源氏の白旗、平家の赤旗といふに異る所なし。赤旗白旗は源平戦争の標幟には必要なりしも、鎌倉幕府の政治家には、何の必要なかりき。固より立憲国の党派は公党にして私党にあるざるがゆゑに、其の主義綱領は、即ち国家に対する公念の発動にして、党派の私意にあらざる可し。然れども同一主義の政友会憲政本党が、故らに対塁相当りて相争ふは何ぞや、知らず所謂る主義綱領なる者は、党派に於て何の用を為しつゝある乎。余は現時の党派が使用しつゝある主義綱領が、殆ど赤旗白旗と何の選む所なきを惜まざるを得ず。故に若し党派の利害と国家の利害と両立せざる場合に於いては、真の政治家は往々党派の主義綱領を軽視することあり、ピールの穀法廃止論を採用して変節の名を甘むじたる如き、正さしく其の一例たり。或は政党は公党なるがゆゑに、其の利害は国家の利害と衝突せずといはむか、是れ亦党人の自観なるのみ。人は言ふ、伊藤侯は党首の器にあらずと、余も亦爾かく信ぜり、何となれば彼は此の自観を固執する能はざるの位地に在ればなり。然れども是豈侯の政治家たるに害あらむや。
 抑も侯の政友会を組織したるは、実に模範政党を作らむが為なり。模範政党とは、党派的私情を去り国家的公見に就くの政党なるべし。侯は此の目的に依りて政友会を指導せむとしたるを以て、其の党首としての行動は、反つて党人の意に満たざるもの多きが如し。有体に評すれば、彼等は、侯が国家元老の一人として政友会に総裁たるを以て、唯だ此の一点のみにても、頗る政友会に利ありと信じたりき。何となれば、元老たるの資望は、単純なる党首の勢力よりも、より大なる勢力を有すと想像すればなり。されば彼等は、第十七議会に於て桂内閣と衝突するに当り、侯の勢力善く桂内閣を屈服して解散の代りに内閣を交迭せしむるを得べしと予期したりしならむ。而も解散は来りて交迭は来らざりき、何となれば、桂内閣は彼等の想像するが如き腰の弱き内閣にあらざるのみならず、伊藤侯自身の如きも亦自ら取つて代るの成算なかりしを以てなり。是に於て乎、彼等は大に失望したり。第十八議会開くるや、彼等は窃に謂へらく、今度こそは一挙して内閣を倒すを得むと。而も彼等の御大将は、戦略を講ずる代りに和約を講じ、其の結果は妥協と為りて発表せられたりき、彼等は豈再び失望せざるを得むや。然れども仮りに侯をして妥協の申込を拒絶せしめ、飽くまで桂内閣と戦はしむるとせむ、余は尚ほ彼等が失望より脱する能はざりしを信ず、何となれば、妥協成らずんば復た解散を見るの外なければなり。彼等の侯に期する所は、侯が元老たるの勢力資望を利用して、第一には解散を避け、第二には政友会内閣を組織するに在る可し。中には内閣を交迭せしむるまでは、幾囘の解散をも畏れずと称する硬派と、交迭にして容易に庶幾し得可からずば、唯だ成る可く解散を避けむことを望むの軟派あるべしと雖ども、多数の会員は、伊藤侯の勢力を過信し、侯にして政友会を指導する限りは、桂内閣は解散を行ふ能はずして総辞職を行ふの運命に遭遇すべしとの夢想を描ける連中なり。伊藤侯の勢力を以てすと雖ども、固より斯の如き都合善き希望を満足せしむるの魔術を有せざるは無論なり。
 然れども侯は大局の利害を打算すると共に、又た出来得る限り善く政友会の利害をも考量したり。侯は桂内閣が猫撫声を使ふに似ず、案外其の決意の堅固なるをも認識したりき。妥協の申込を素気なく拒絶せば、其の結果は再解散あるをも疑はざりき。故に侯は会員を諭して曰く、此の上政府と衝突して解散を重ぬるは国家の不利益なりと。其の実、解散は政友会の不利益なれば妥協は一面に於て政友会の為に謀りたるものといふべし。政友会員たるものは、又何の総裁に慊焉たらざる所ぞ。
 夫の脱会諸氏の中には、侯が妥協の為に反対党としての立場迄をも全く失はしめたるを称して、政党の本分を紊りたると為すものありと雖も、妥協は政府と議会との衝突を避くるを大趣意としたるがゆゑに、若し形式的に妥協を是認して、他の方法例へば予算問題の討議に於て側面より政府を苦むるが如き挙に出でむか、妥協の大趣意は全く破れむ、伊藤侯にして斯くの如き馬鹿らしき演劇を承認すべしと謂はむや。但だ侯が党首として部下を指導するの術を尽さざる所ありしは、何人も亦之れを否定する能はざるを惜むのみ。蓋し妥協の内容に付ては、侯は詳細に常務委員に説明せずして、彼等をして突然現内閣と交渉せしめたり、彼等は総裁が唯だ妥協の端緒を開き置きたるのみにて、其の内容は更に之れを協定するに十分の余地あるべしと信ぜしならむ。而も一たび現内閣員と交渉するに及び、妥協の内容は、既に政府と伊藤侯との間に協定を経たるを審かにして一驚を喫したりしが如し。是れ殆ど常務委員を死地に陥れたるものに非ずや。其の専制を用ゆる度に過ぎて、会員をして侯の一挙一動を端睨する能はざらしめたるは、決して人心を収攬するの道にはあらず。侯は此点に於て部下の離叛を招ぐに至りたるは、亦止むを得ざるの数なりといふべし。
 或は曰く、侯は党首の責任を忘れて、単に元老たるの位地に於て政府と妥協せり、是れ立憲政治家より藩閥政治家に退却するの態度に非ずやと。党派政治と立憲政治とを混同する党人は、動もすれば此の言を為して侯を議せむとせり。然れども是れ恐らくは侯を誤解するものならむ。蓋し侯は党派に殉ぜざると同じく、亦藩閥にも殉ぜざるの政治家なり。侯にして藩閥に殉ずるほどの愚人ならば初めより政友会を組織する如き無益の労苦を為すの謂れなく、さりとて党派に殉ずるには、侯の思想は余りに経世的なり。侯は藩閥を超越すると共に党派をも超越して、高く自ら地歩を占めたり。是れ侯が党人に喜ばれざる所ある如くに、又た藩閥者流にも嫌はるゝ所ある原因なり。侯は国家の元老たる身分を自覚するがゆゑに、時としては党派の側に立ちて藩閥と争ふことあるべく、時としては藩閥の忠言者と為りて党人の疑惑を惹き起すことあるべく、則ち今囘の和協問題の如き其一発現なりといふも可也。要するに侯は近かき将来までは、暫らく政界の大導師として、朝野政治家の過失を矯正するを任務とするの最も適当なるを見る、是れ侯の如き有力なる元老が国家に対する最高の義務なるべし。
 若し夫れ政界の革新を号呼して、漫に元老を無用視する党人輩は、是れ未だ政界の現状を領解せざるものなり。欧洲立憲国には固より我国に存在する元老の如きものなし。然れども我国に於ては、元老は実に一種の政治的勢力なり。政友会は伊藤侯を離れて必らず存立を危くすべく、憲政本党は大隈伯に依りて僅に其の形体を維持せり。世に新政党組織を伝ふるものありと雖ども孰れの元老かを奉じて之れを首領と為すに非ずむば、政党らしき政党は容易に生まれざるなり。されば総裁の行動に不平なるが為に政友会を退会したる諸氏の如きは、今や立場なき沙漠の亡者にして、殆ど其の身を寄するの地なからむとするにあらずや。彼等は孰れも個人として未だ元老に代るの資望を有せざれば、現存政党以外に新政党を造るの困難なるは論ずるまでもなく、たとひ之れを組織することありとするも之れが首領たるものは必らず元老の一人たるべし。而して伊藤侯以上の首領を現存元老中より得るの望みなきこと明白なりとせば、彼等は遂に再び政友会に復帰するか、然らずむば憲政本党に投ずるの外ある可からず。若し二者其の一を選まざれば、地方選挙区に籠城するか、若くは中央政界の批評家たるに過ぎざるべし。此の趨勢を考ふれば、政友会の分裂に依て誘発せらるべき政界の革新は、革新といふよりは寧ろ政界の退歩といはざる可からず。余は伊藤侯が憲政有終の美を為すの志を諒とし、其の政友会を模範政党と為さむとするの精神尚ほ存するものあるを信じ、其の会員の指導訓練に於て更に大に努力あらむことを望むや随つて切ならざるを得ず。(三十六年七月)

     韓国皇帝と伊藤統監

 一昨年三月伊藤侯が特別の使命を帯びて韓国に赴き、始めて伏魔殿の主人公たる皇帝に対面したる時、蜜の如き辞令に富みたる皇帝は、侯に望むに永く京城に淹留して啓沃の任に当らむことを以てし、且つ自ら金尺大綬章を賜はりて、侯を尊信するの意を表したりき。其の際侯は此の人格上の一問題たる皇帝を如何に観たるかを知る能はずと雖ども、兎に角応酬の結果は極めて良好にして、日韓両国の新関係も、大体に於て侯と皇帝との間に或る黙契の成れるを想はしめたりき。
 昨年十一月侯が日韓協約締結の大命を啣みて再び韓国に使するや、皇帝は侯の奏陳を聞て頗る驚惑し、次ぐに悲痛の語を以てせり。曰く、韓国は曾て支那の正朔を奉じて其の属邦たることありしも、未だ外交権を之れに委任したることあらざりき。今卿の提示せる協約は、朕が祖宗五百年の社稷を全く滅亡せしむるものなりと。其の声惻々として人の腸を断つに足れり。侯亦豈多少の感動なきを得むや。况むや、参政韓圭咼は歔欷流涕の余殆ど喪心し、元老趙秉世は阿片を呑で自殺し、前参政閔泳煥は精神逆上して狂死したるを見るをや。然れども皇帝は侯の剴切周到なる説明によりて、協約締結の止む可からざるを了悟し、終に各大臣に命じ、韓国及び皇室の位地面目に利益ある修正を施すを条件として日本の大使と商議せしめたるに、侯は啻に其の修正案の全部を容れたるのみならず、更に皇帝の直接の希望に応じて新たに一条を加へたりき。第五条の日本政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持するを保証すといふもの是れなり。尋で侯は韓国統監に任ぜられ本年三月を以て京城に駐剳したれば、皇帝は待つに師父の礼を以てし、且つ各大臣に諭して、万機総て侯の指導に従はしめたり。是に由て之れを見れば、韓国の皇帝は実に無限の信任を侯に寄せたるものゝ如し。
 斯くて日本は韓国の保護者となれり。伊藤侯は韓廷の指揮者となれり。統監府は半島政治の中心となれり。侯は何時なりとも皇帝に謁見し得るの特権を有し、又何時なりとも各大臣を統監府に召集して内閣会議を開くの威勢を有せり。侯は命に背くものあれば大臣と雖も、之れが免黜を奏請し得べく、場合に依りては内閣の更迭をも謀るを得べく、兵力をも使用するを得べし。然れども是れと同時に、侯は韓国上下の誤解を招くを恐れて、成る可く急激なる改革を避け、温和漸進の方針を執り、一面に於ては政府の現状を維持して政治的動揺の発生を防ぎ、一面に於ては恩威兼用の施設に依りて信義を八道に光被せしめんとせり。侯は日本の韓国を保護するは之れを亡ぼす所以に非ずして、却つて其の興国の要素を開発せしむる所以なるを韓民に教へむとせり。侯は文明式の行政と、平和の経世術とに依りて韓国の秩序を整調し、韓民の生活状態を一変し、以て韓国の歴史に新性格を賦与せんと企てたり、侯は領土拡張の主義を含める覇道を排斥して、誠心誠意に王道を以て李家の天下を綏むずるに外ならざるを皇帝に領会せしめむと努めたり。約言せば侯の為す所は韓国の上下をして日韓協約の意義を善意に解釈せしめ、疑はず、惑はず、恐れずして全く日本政府に信頼せしむるを計るに在り。
 勿論韓国は事実に於て日本の殖民地なり。然れども侯は日本人をして韓国の利益を壟断せしむる如き何等の偏頗なる政略を行使せず総ての外国人に対して機会均等主義を適用せり。侯は寧ろ居留日本人の取締を厳重にすること度に過ぎたりと非難せられたりき。蓋し日本政府の対韓策は、二十年来一貫して始終渝る所なく、常に正義と友誼とを以て、韓国の平和及び文明を発達せしむるに力を致したると共に、又韓国に於ける日本の権利及び利益を保護するを旨としたりき。而も此政策は、韓国に出入する不道徳の日本人に障害せられて、十分韓民に徹底せざりしこと往々之れありしのみならず、極言せば韓民の日本に対する悪感情は、主として韓国に出入する日本人の行為に基くもの多かりき。是れ伊藤侯が特に居留日本人の取締を厳重にして、公明正大なる日本政府の措置を中外に彰表し、以て韓民の心を安むじ、併せて関係列国に平静を与へむと欲する所以なるべし。要するに侯が韓国統監としての第一用意は日本に対する韓国上下の誤解を排除するに在るものゝ如し。是れ易きに似て実は最も難儀なる仕事なれども、世間多くは侯の用意を是認し、且つ侯の老練と声望とを以てして必らず成功に到達するの時期あるを信ぜり。
 然るに本年五月、侯が凱旋大観兵式に参列せむが為に帰朝したるまゝ、月を越えて東京に淹流するに乗じ、韓国の各地に宮中の隠謀と関聯したる暴動は起れり。而して其の頭目とも見るべきは、多少韓国に名を知られたる閔宗植、崔益鉉、柳麟湯の輩にして、中に就き崔益鉉の如きは韓国屈指の碩儒と称せらる。彼等の揚言する所に依れば、彼等は皆宮中より賜はれる馬牌、鍮尺を有し、皇帝の密勅を奉じて協約の実行を妨ぐるの同盟を為せりといふに在り。更に事実を究むるに、内官姜錫鎬及び参領李敏和の二人相謀り、妖僧金升文を皇帝に引見せしめて無稽の惑言を為さしめ、終に皇帝を動かして、宮廷を暴動の策源地たらしむるに至れりと信ぜらる。是に於て韓国皇帝は依然として人格上の一問題たり。
 由来韓国の憂は政令二途に出づるに在り。是れ宮中府中の別明かならざるに由れるは論なしと雖も、之れをして然らしむる所以のものは、単に其の制度の確立せざるが為めのみに存せずして、実に韓国皇帝其の人の陰謀好きなるに在り。皇帝は不幸にして陰謀の外何事をも見聞せず、又其の性格は陰謀に適するやうに造られたり。其の言語の才は能く人を籠絡するに足り、其の反覆表裏の心術は巧に権変を弄するに足り、而して其の小事に聡明にして大局に瞹昧なるは、奸小の徒をして最も玉座に親近し易からしむ。故に韓国皇帝の人格上に不思議なる変化を見ざる限りは、たとひ宮中府中の権域を法定すと雖も、之れに依りて全く韓国の寧靖を期するは容易ならずと謂ふべし、何となれば韓国に於ては、皇帝は唯一の政治家にして、曾て各大臣の補弼を藉りたることなきのみならず、常に各大臣を操縦し、若しくは之れを掣肘して内閣の統一を困難ならしめ、延て各大臣をして互ひに狐疑せしめ、互ひに皇帝の寵遇を争はしめ、其の極内閣をして亦同じく陰謀の府たらしむるに過ぎざればなり。
 侯が今次の暴動を使嗾するものゝ宮中に伏在するを見て、必らず宮中を粛清すべしと誓ひ、決然として韓国に向ひたるは甚だ人意を強うするに足りき。侯の京城に入るや、直に皇帝に謁見して宦官閹竪の皇室を誤まるを痛言すること二時間に亘り、直に勅許を得て宮中粛清に著手し、一夜にして王宮の各外門は悉く警務部の日本巡査に依て守備せらるゝを見たり。宮禁令は発布せられたり、其の結果として雑輩の出入は厳禁せられ、礼式院長李容泰は禁令違反の罪に問はれて免職せられたり。是れと同時に奸魁処罰の詔勅は出でたり、皇帝は李敏和を以て人材の選択を誤り国体を損失したりとし、姜錫鎬を以て中間に在りて周旋の労を執り、共に罪状を極むとし、法部をして速に拿捕せしめ、宜しく懲犯すべしと宣へり。姜等の罪状は果して皇帝の与知せざる所なるか。皇帝は又宮中粛清に関し、詔して曰く、宮中の粛清は、屡々勅諭を下して之れを誡めたるに、久しければ輙ち懈弛して秩序を紊るの失態を見ると。知らず皇帝は曾て宮中粛清を誡めたることあるか。
 此の間に於ける伊藤侯の措置は実に迅雷疾風の如くなりき。韓国の上下震慴して、殆ど其の為す所を知らざるの状想ふ可し。侯の初めに綏撫手段を採りたるもの、今や一転して圧威手段を執るの止むを得ざるに至れり。斯くの如く侯が前後全く別人に似たるの挙に出でたるは、以て侯の決心の頗る固きものあるを知るべく、侯若し此の機会に於て韓国皇帝の人格を研究せば、其の発明する所亦必らず多からん。顧ふに宮中粛清の事たる、従来日本政府が施政の改善を助言する毎に、先づ第一に之れを勧むるを例とせり。然れども皇帝自ら正うせずして宮廷の正しかるべきやうなく、特に韓国皇帝は最も夜の趣味に感ずること深きがゆゑに、魑魅魍魎は時を得顔に君側を徘徊して毒焔を煽ぐに於て、宮中の粛清何を以て行はれむや。所詮陰謀は韓国皇帝の附き物なり。雑輩の出入は之れを禁じ得べしと雖も、宮廷の陰謀は終に之れを根絶す可からず。今日宮門の警衛を如何に厳重にするとも、陰謀は外より来らずして内より発生するを如何せむ。区々たる門鑑に依りて之れを防遏せむとするは寧ろ或は徒労に属するなきを得むや。
 然らば韓国宮廷の陰謀を根絶するに策なきか、曰く是れ有り、唯だ時間の力是れのみ。即ち陰謀を其の発生するに一任し、而して其の発生を検出する毎に之れを鎮圧し、漸次に其の醗酵力の消滅するを待つのみ。夫れ韓国の禍源は群小に非ず、雑輩に非ず、大臣の無能に非ずして、皇帝の人格に在り。韓国問題は政治上に於ては既に解決せられたりと雖も、其の禍源は猶ほ依然として皇帝の人格に存す。苟も韓国保護の実効を奏せんとするに於ては、時間は必らず最後の断案を皇帝の人格に下だすに至らむ。要するに伊藤侯の成功の遅速は、此の時間の到来の遅速に在りと認むべきのみ。(三十九年八月)

     伊藤侯、クローマー、及びラネツサン

 現代に於て、保護国の統治者として最も成功したる人を問はば、第一に英国のクローマー男を指名し、次に仏国のラネツサン氏を以て答ふるもの多かるべし。クローマー男の埃及に於ける位地は、僅に英国総領事兼外交事務官たるに過ぎざりき。又英国の埃及に対する保護権は、公然法律を以て設定せられたるにはあらざりき。而もクローマー男は二十余年間の拮据経営によりて、英国の埃及保護を既成事実として列国に承認せしめたりき。仏国の殖民政策は大抵失敗の歴史を有すれども、比較的効果を挙げつゝあるものは、印度支那に於ける保護政治なりとす。而して其の功労は主として之をラネツサン氏に帰せざるべからず。我が伊藤統監を以て此の二人に比するは、未だ其の時機を得たるものに非ずと雖も、侯が日本に於て最初の保護国統治者たる名誉を得たると共に、其の韓国に施設する所は、事の大小を問はず、均しく内外の注目を集中すること、恐らくはクローマー男にも将たラネツサンにも過ぐるものあるべし。况むや侯は政治家としての声望固より夐に此の二人の上に出づるをや。
 クローマー男は模範英人ともいふべき実行家にして、其の精敏堅実なる事務的能力は、埃及に於ける諸般の施設に顕はれたる成績能く是を証明せり。彼は高遠なる理想を以て埃及を指導するよりも、直に手を眼前の行政事務に下だして、実際上より之れを改良するの得策なるを知りて、先づ灌漑工事を興して水利を治めたりき。是れ埃及の唯一財源は耕地の収穫に在るが故に、治水を以て財政整理の前提と為さむとするに外ならざりき。此成算は果して誤らずして財政漸く整理の緒に就き、公債を償還し徭役を全廃し、窮民地方の地租十分の三を軽減したるも猶ほ予算に剰余を見たりき。尋で兵制、獄制、地方行政及び司法制度の整改理革一として成功せざるなかりき。其の間撤兵問題、蘇丹事件等ありしも、彼は英京政府を助けて著々之れを解決し、終に埃及に於ける英国の保護権を確保して最早動かすべからざるものならしめたり。
 仏国が安南に対して保護関係を生じたるより既に百余年を経過したりき、而も紛乱相継ぎて、保護政略容易に実効を挙ぐる能はざりしが、千八百八十六年ラネツサン氏は議会の委任を受けて安南地方を巡視し、深く其の国情を調査して、既徃に於ける仏国殖民政策の弊害を洞察し、帰来一書を著はして大に当局者を啓発する所あらしめ、終に自ら進みて印度支那総督となり、頗る安南保護の組織を改めたり。彼は大統領より附与せられたる広濶なる全権によりて東京と交趾とを直轄し、安南及び東埔塞の統監を廃し、商高理事官をして印度支那総督の監督の下に保護事務を行はしむることゝなせり。彼は深く安南王の信任する所となりしが、千八百八十四年罷められて国に帰へるに及で、総督制度は稍々挫折したりと称せらる。
 伊藤侯が今囘締結したる日韓協約は、列国の承認せる既成事実を成文に章明したるに過ぎずして、是れ位の措置は侯に在ては寧ろ牛刀割※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の感あらむ。然れども余は侯に望むに仏国流の殖民政治家を以てせずして、虚名を棄てゝ実績を収めたるクローマーを以てせむとするが故に、侯が韓国統治者としての事業は、更に大に将来に規画する所多かるべきを思ふ。協約の締結は僅に保護事業の予備たらむのみ。(四十年九月)

     立憲史上の伊藤公

 伊藤公は新日本の建設者として、総ての史的事業に関係し、且つ他の何人よりも大猷参画の功労多き人なり。若し公の働らきたる部分の一つにても、完全に仕遂ぐるものあらば、彼は亦明治時代の一名士たる価値を得るに足るべし。公の政治生涯は多面にして而も面々華麗なり。燦然として悉く人目を集むるものにあらざるはなし。凡そ政治家の功名心を飽かすべき最好の機会は、殆ど一として公の手に触れざることなく、是れと同時に其の政略及び行動は時として物議の中心たることありと雖も、終始善く皇上の御信任を全うして頭等元勲の待遇を受けたり。後世より公を見ば恐らくは維新の三傑よりも一層偉大なる人物なりと信ぜらるべし。
 然れども公が新日本建設者の一人として優勝特絶の地歩を占むる所以は、言ふまでもなく立憲政治の創設を大成したるに在り。顧ふに立憲政治の創設は、岩倉、木戸、大久保の諸賢夙に之れを 聖天子に献替して其の基を啓らき、爾来補弼の重臣之れを内に翼賛し、在野の政治家之れを外に唱道して、遂に欽定憲法の発布を見るに至りたりと雖も、此の憲法の立案、及び之れを実施するが為に必要なる一切の準備は、殆ど専ら伊藤公の手に成れりと謂ふべし。蓋し立憲政治を創設するに於て最も困難なる問題は、日本固有の国性と、欧洲立憲制との円満なる調和を実現すること是れなりき。若し国性に適合せざる憲法を制定するときは、啻に之れを運用するの難きのみならず、到底其の効果を収むる能はずして、却つて帝国の発達と繁栄とを阻害するに至らむ。公は理想よりも歴史に重きを置き、国性と両立し得る限りに於て、欧洲立憲制の組織を斟酌採択せむとし、其の聖鑒を蒙りて任に憲法立案の事に膺るや、一面に於ては欧洲各国の憲法を調査して、二年の歳月を海外に費し、一面に於ては自ら専門の国学者を相手とし、心血を竭くして古今の沿革を講究したり。当時憲法を私議するもの、大抵其の範を民政主義の立憲制に採らむとするに傾き、之れに反して民政主義を悦ばざるものは、動もすれば極端なる神権政治を主張して、立憲政治を否認するの論結に帰著し、共に皇謨の大精神と相距る甚だ遠かりき。而も公は政治家たるの識見と立法家たるの才智とを兼備するの資を以て、純然たる君主的立憲制の日本の国性に適合するを確信し、且つ之れを確立するに於て周到なる意匠と慎重なる考慮を凝らし、以て遂に千古不磨の大典を立案するを得たり。
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 斯くて憲法を発布せられたりと雖も、之れを実施するに方りては、先づ行政各部の機関をして立憲的動作を為さしむるに適当なる諸般の改革を行はざるべからず、否らざれば未だ立憲政治の創設を完成したりと謂ふを得ざればなり。而して此の改革は政府の組織を根本より変更するものなるが故に、其の影響の及ぶ所は極めて広汎にして、直接に之れが打撃を受くるものは政府部内の藩閥者流なり。例へば会計法の如き、文官任用令の如きは、事実上藩閥の勢力を削小するの結果を生ずるを以て、最も藩閥者流の感情を刺戟したりしは自然の勢なるべし。然れども 皇上は憲法調査の全権と共に、憲法実施に関する凖備をも挙げて之れを公の自由手腕に委任せられたりき。是れ改革の容易に行はれたる所以なり。且つ憲法実施の準備整頓するや、公は自ら新官制に基きたる内閣の総理大臣と為りて、各行政機関の運用を試みたりき。是れ将に来らむとする議会に対せむが為に、政府の立憲的動作を訓練するに外ならざりき。斯くの如く公は一身を立憲政治の創設に捧げて其の能事を尽くしたれば、憲法の効果を収むるに就いても、亦無限の責任あるを感ずるは当然なり。
 初め欧洲に於ては、日本の果して憲法政治に成功するや否やを疑ふの学者少なからざりしが、顧みて憲法実施後の経過を見れば、政府と議会との行動に於て大に非難すべき点なきに非ずと雖も、全体の成績よりいへば、何人も憲法の効果に対して疑惑を挟むものあるべからず。但だ公は憲法と一身同体の関係あるを自信して、憲法実施以来、其の朝に在ると野に在るとを問はず、絶えず其効果の如何を監視して、立憲政治の健全なる発達を助けむとするものゝ如し。曾て屡々議会に現はれたる大臣責任問題に関しては、公は君主的立憲制の本義を固執して、英国流の責任論を排斥するに余力を遺さざりき。何となれば日本の内閣は帝室内閣にして、大臣は天皇に対して補弼の責に任ずと憲法に明記したればなり。然れども公は帝室内閣を広義に解釈し、原則としては、政党をして天皇の大権を侵犯せしむるを許さずと雖も、日本臣民は均しく文武官に任ぜらるゝの権利を与へられ、又文武官の任免は、大権の発動に属するものたる以上は、政党を以て内閣を組織せしむるも、决して君主的立憲制と相悖らずと説けり。是を以て公は大隈板垣両伯を奏薦して内閣を組織せしめたることありしのみならず、自ら政友会を組織し、其の会員を率いて内閣を組織したることありき。要するに公が政友会を創立したるは、日本立憲政治史に一新紀元を劃するものなり。
 公が憲法の効果を収めむが為に、常に朝野の間に立ちて、憲法の活ける註解者として働らき、今尚ほ働らきつゝあるは、憲法起草者たる公として避くべからざる責任を感ずるが故なるべし。今や憲法発布二十年期に際し、皇上特に憲法紀念館を公に下賜して、其の晩年の光栄を限りなからしめ給ふ。拝聞す此の建物は皇室の典範、帝国憲法、其他附属法の議事所に充てられ、陛下日夕親臨せられたる御由緒ありと。然らば是れ実に憲法紀念館たると同時に、又公の偉勲を表彰する永遠の紀念たるべし。(四十一年三月)

   伯爵 大隈重信

     現時の大隈伯

      理想的大隈内閣
 大隈伯は終始政党内閣を主張して、曾て渝らざるの政治家なり。啻に之れを持論として主張したりしのみならず、亦自ら之れを組織して、満腹の経綸を実施せむと欲したるや久し※(白ゴマ、1-3-29)而も其容易に之れが目的を達する能はざりしは、時勢未だ政党内閣に可ならざるものありしに由る※(白ゴマ、1-3-29)故に時勢苟も政党内閣に可ならむか、其第一次の内閣を組織するものゝ大隈伯たる可きは、殆ど十年以来の政治的信号にして、国民の聡慧なる部分は、大抵之れを黙会して疑はざりしものたり※(白ゴマ、1-3-29)葢し木戸、大久保の死後、維新の元勲にして大宰相の器あるものは、唯だ伊藤侯と大隈伯あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)而して伊藤侯の藩閥に対する情縁の絶つ可からざるものあるや、侯の進歩的思想を以てするも、到底自ら政党内閣を組織する能はざるは、自然の勢なるが故に、大隈伯を外にして、復た政党内閣を組織し得るものなきは、亦殆ど確定の運命なりき。
 されど最初の理想的大隈内閣は、現内閣とは大に其実質を異にするものなりき※(白ゴマ、1-3-29)現内閣は大隈伯を首相とすと雖も其実質よりいへば、大隈伯の内閣にも非らず、又板垣伯の内閣にも非ずして、異形の組織を有せる一種の聯合内閣のみ※(白ゴマ、1-3-29)余は現内閣を称して憲政党の内閣と為すの見に反対せず※(白ゴマ、1-3-29)其閣員の多数が憲政党に属するを認むるに於て、単に陸海軍両省の憲政党以外に特立する故を以て、其主力の憲政党に存するの事実を否認する能はざればなり※(白ゴマ、1-3-29)されど憲政党は果して一政党たるの要資を具へたるものなりやと問はゞ、憾むらくは未だ之れに答へて然りと明言する能はざるを奈何※(白ゴマ、1-3-29)余は敢て憲政党の主義綱領明白ならざるを以て、一政党たるの要資を欠きたりとはいはず、主義綱領は末なり※(白ゴマ、1-3-29)勢力の統一は本なり、勢力統一を得れば、主義綱領は何時にても之れを創定し、若くは之れを更改するを得ればなり※(白ゴマ、1-3-29)勢力の統一とは何ぞや、一個の首領ありて一党の勢力を集中する是れなり、然るに憲政党には勢力の統一なくして、進歩自由両党の旧形依然として実存し、随つて其内閣は勉めて両党の均勢を保持するの組織法より成れり※(白ゴマ、1-3-29)啻に内閣に於て然るのみならず、次官以下の属僚までも、其配置は一に両党固有の勢力を均分せんことを目的と為し、必らずしも適材を挙ぐるを以て方針と為さゞるは、其形迹歴然として観る可し※(白ゴマ、1-3-29)是れ豈憲政党に中心なく、又勢力の統一なきが為ならずや。
 故に現内閣は、形式に於ては憲政党の内閣なりと雖も、其実質に於ては則ち、進歩自由両党の聯立内閣なりと謂はざる可からず、唯だ夫れ然り、此を以て大隈伯はたとひ現内閣の総理たるも、憲政党は未だ大隈伯を中心とせざるの事実あるに於て、現内閣は決して世人の予期したる如き理想的大隈内閣に非るは、復た言ふを俟たず、然らば理想的大隈内閣とは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)名実共に大隈伯を首領としたる党与に依て組織せらるゝもの是れなり、蓋し伯も亦曾て此冀望を抱て多数の俊髦を糾合したること此に年あり※(白ゴマ、1-3-29)其徒沼間守一、小野梓、藤田茂吉等諸氏は、既に故人に属すと雖も、尚ほ矢野文雄、島田三郎、犬養毅、尾崎行雄の四氏旧に仍て意気軒昂たるあり、加ふるに鳩山和夫、大石正巳、加藤高明等の如き、伯と深縁あるもの亦之れなきに非ざるが故に、其多士済々たる、以て優に理想的大隈内閣を組織するに余りあらむ※(白ゴマ、1-3-29)然るに現内閣中純然たる大隈派と目す可きものは、僅に尾崎、大石の両氏あるに過ぎずして、其他の閣員は、皆大隈伯と政治上の経路を異にしたる人物なり、是れ豈世人の予期したる如き大隈内閣ならむや。

      大隈伯の同化力
 第一次の大隈内閣は、不幸にして世人の理想に描かれたる大隈内閣にはあらじ※(白ゴマ、1-3-29)伯亦自ら之を認識して、之れを名くるに一種の聯立内閣たるを以てす※(白ゴマ、1-3-29)されど現内閣をして純然たる大隈内閣たらしむると否とは、実に伯の同化力の大小如何に在り※(白ゴマ、1-3-29)同化力とは何ぞや、種々の意見議論を鎔解して、悉く之れを自己の模型に鋳合せしむるを謂ふ※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに進歩自由の両派は従来政敵として氷炭相容れざりしものなり※(白ゴマ、1-3-29)特に大隈伯は最も自由派の為めに忌まれて、其深刻なる批評を受け、其激烈なる反感に触れたるや久し※(白ゴマ、1-3-29)是れ決して偶然の機会に於て善く一変し得可きものに非るなり※(白ゴマ、1-3-29)故に若し大隈伯をして一大同化力を有するの政治家ならしめば、或は能く進歩自由の旧形を撤廃して之を混一するを得可しと雖も、否らずむば憲政党は遠からずして分離し、現内閣も亦随つて土崩瓦解の虞あるを免かれざらむ、知らず大隈伯は果して一大同化力を有する乎。
 政党の首領に必要なる第一資質は、偉大なる同化力なり※(白ゴマ、1-3-29)厖大なる政党をして勢力の統一を得せしむるは、其党員をして首領の意見に同化アツシミレートせしむるに在り※(白ゴマ、1-3-29)ジスレリーは英国保守党の首領として、屡々内閣を組織したる大政治家なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曾てダービー内閣の出納尚書たるや、其施設動もすれば保守主義に矛盾する所あり※(白ゴマ、1-3-29)一保守党員彼れに問ふに保守主義の如何なるものなるかを以てす、彼れ曰く、我れは即ち保守主義なりと※(白ゴマ、1-3-29)言太だ倨傲に似たりと雖も、彼れが同化力の偉大なる、初めは彼れを喜ばざるもの多かりしに拘らず、後皆終に彼れに同化せられて、ジスレリーの意見は総べて保守党の信条と為り、其曾て保守党員に答へたる放言をして事実と為らしめたりしに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)グラツドストンの英国進歩党に於けるも亦然り※(白ゴマ、1-3-29)グラツドストンの施設は、必らず悉く英国進歩党の主義を条規としたるに非らざりしのみならず、進歩党は反つて彼れの意見に服従したるもの多し、凡そ政党は主義綱領に拠つて進退すといふと雖も、事実に於ては、其主義綱領は大抵首領の製造したるものに非るは莫し※(白ゴマ、1-3-29)但だ同化力を有せざる人物一たび首領と為れば、其政党をして到底統一ある行動あらしむるを得ざるのみ。
 大隈伯は日本に於ける当今有数の大政治家なり※(白ゴマ、1-3-29)されど其の政党の首領として果して幾許の同化力を有するや※(白ゴマ、1-3-29)其分量の大小多少は、実に現内閣の運命を決す可く、又実に伯と憲政党との関係を解釈す可し※(白ゴマ、1-3-29)人或は曰く、憲政党は大隈伯の党与に非ずして、自存独立の政党なりと※(白ゴマ、1-3-29)されど大隈伯をして偉大の同化力あらしめば、憲政党は終に大隈党と為らむ、憲政党をして大隈党たらしめずむば、現内閣は必らず瓦解す可く、憲政は必らず分裂す可し※(白ゴマ、1-3-29)何となれば、首領専制行はれずむば、党派政治は到底行はれざればなり。
 顧ふに維新の元勲にして、直接に政党に関係したる者は唯だ大隈板垣の両伯あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)而して党首として両伯の人物を比較せば、大隈伯稍々板垣伯に優れるものあり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば、大隈伯は板垣伯よりも同化力を有すること大なればなり※(白ゴマ、1-3-29)板垣伯の政党扶植に尽力したるや到らずとせず※(白ゴマ、1-3-29)其自由党に総理たりしこと久しからずとせず※(白ゴマ、1-3-29)而も自由党は伯の故を以て必らずしも膨脹せざるのみならず、反つて次第に其党勢を削減せり※(白ゴマ、1-3-29)伯は曾て馬場辰猪、大石正巳、末広重恭の三氏を抑留する能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)曾て革新派の一大分裂を禦ぐ能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)大井憲太郎氏の一派を容るゝ能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)河野広中氏の一派を脱党せしめたりき※(白ゴマ、1-3-29)星亨氏の強頂を制する能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)松田正久氏の剛直を融和する能はざりき※(白ゴマ、1-3-29)時としては自由党をして四分五裂の危機に瀕せしめたることありき※(白ゴマ、1-3-29)斯くして自由党は尾大不掉の状態を現出したりき※(白ゴマ、1-3-29)其同化力の欠乏せる以て見る可し※(白ゴマ、1-3-29)然るに大隈伯は之れに反し、其率いる所の党与をして次第に膨脹せしめたり※(白ゴマ、1-3-29)明治十四年改進党の成立するや、当時伯の真党与と目す可きものは実に少数の人物にして、所謂る嚶鳴派と称するものは、河野敏鎌氏を中心として大隈伯に頡頏せむとしたりき※(白ゴマ、1-3-29)されど伯は次第に之れを同化して終に忠実なる大隈党たらしめたりしに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)例へば伯が二十二年の入閣に際して、改進党中之に反対するもの少なからざりしに拘らず、条約改正問題起るに及んで、全党一致して伯の政略を弁護したる如き、蓋し大隈伯の同化力が能く改進党の勢力を統一せしめたる結果に外ならじ※(白ゴマ、1-3-29)爾後大隈伯は直接に改進党に関係せず、早稲田に退隠して、悠々閑日月を送りしと雖も、改進党が常に其歩武を整斉して議会に屹立し、以て能く非藩閥同盟の中堅たりしもの、亦大隈伯に依て其勢力を統一せられたるに由れり、二十九年進歩党の成立と共に、改進党は直に解党して其一分子と為りと雖ども、是れ改進党の解党に非ずして、寧ろ改進党の膨脹したるものと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)適切にいへば、大隈伯の発達したる現象に過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば、此進歩党は大隈伯を以て事実上の首領と為し、一切の行動大抵大隈伯の指揮より出でたればなり※(白ゴマ、1-3-29)進歩党は由来理窟屋の集合にして、特に或る一派は久しく大隈伯を敵視したるものなりき※(白ゴマ、1-3-29)而も其一旦進歩党の名の下に大隈伯と接近するに及で、自然に大隈伯の意見に同化せられ、自然に大隈伯に服従して毫も疑はざるに至りしは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)是れ豈伯が党首として最も必要なる同化力を有する為ならずや。
 今や其進歩党は更に自由党と合併して憲政党と為り、大隈伯を総理として内閣を組織したるに於て、伯にして苟も偉大の同化力を有せば其憲政党を同化して大隈党たらしむること、猶ほ進歩党を同化したるが如くなる可きも憲政党は果して大隈伯に同化せらる可きや否や※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯は果して憲政党までも同化するの力量あるや否や※(白ゴマ、1-3-29)是れ確かに目下に横はれる試験問題なり。

      大隈伯と憲政党
 憲政党は成立日尚ほ浅くして、未だ混沌の境を出づる能はず※(白ゴマ、1-3-29)况むや進歩自由両派の旧形依然として実存するに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)されど余は憲政党の為めに、単に形式的統一を望まず、若し強て形式的統一を求めむとせば、之れを合議体と為して多数決政治を行ひ、総べて党議を以て党員を節制すると共に、内閣をして亦、党議に服従せしめ若し内閣にして之れに服従せずむば、直に其閣員を党籍より除名して、内閣と政党との関係を絶つまでの事なり、されど是れ決して政党の本色に非らず※(白ゴマ、1-3-29)政党には必らず統一の中心たる首領を要し、首領は名義上の首領にあらずして、実権を有する首領ならざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)実権ある首領とは、則ち党員を同化し得るの首領を謂ふ、同化の結果は、首領の専制と為り、党員の盲従と為りて主権首領に帰す※(白ゴマ、1-3-29)則ち形式上の統一と全く其根本的意義を異にするものなり※(白ゴマ、1-3-29)英国政党内閣の妙処は、実に首領専制、党員盲従の慣例能く行はるゝが為めならずや。
 されど此慣例は党規を以て定む可からず、又首領と党員との約束に依て成立す可からず※(白ゴマ、1-3-29)唯だ一大同化力ある人物ありて、自然に党員を服従せしめ、以て自然に全党を左右するの実権を握るに在るのみ、大隈伯にして果して憲政党を同化するの力量あらむか、必ずしも進歩自由両派の旧形依然たるを憂へず※(白ゴマ、1-3-29)必ずしも両派の嫉妬軋轢熾んなるを憂へず※(白ゴマ、1-3-29)必らずしも異論群疑の紛々囂々たるを憂へず※(白ゴマ、1-3-29)争ひは益々大なる可し、議論は益々騒然たる可し※(白ゴマ、1-3-29)同化力ある人物は必らず之を統一せむ※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如くにして統一せられたる政党は、始めて真個の力量ある首領を発見せむ※(白ゴマ、1-3-29)されど同化の前には淘汰を必要とす※(白ゴマ、1-3-29)漫に大食すれば必らず胃病を生ずるを以てなり※(白ゴマ、1-3-29)大隈伯の同化力を以てすと雖も、豈悉く憲政党を同化すべけむや※(白ゴマ、1-3-29)之れを同化する能はずして唯だ一時の姑息を事とするときは、堅実なる政党内閣は終に見る可からず※(白ゴマ、1-3-29)大隈内閣は遂に土崩瓦解せざる可からず、知らず大隈伯は如何にして目下の問題を解釈せむとする乎。(三十一年八月)

     人民の代表者

 興国の機運に乗じて、露国征伐を断行したる現内閣は、今や国民の全後援を集中して、徐ろに未来の成功を望みて前進しつゝあり。特に総理大臣桂伯と直接に和戦の票決を為したる外務大臣小村男とは、唯だ此の一挙に由りて、遽かに古今無双の英雄となりたるものゝ如し。然れども彼等は、其の展開したる大舞台の役者としては余りに陰気にして、且つ余りに沈欝なるが為に、世界は彼等以外に更に実力ある人物の国民を指導するものあるを信ぜり。而して伊藤侯の如きは今日に於ても亦最も世界の注目を惹ける日本代表者の一人たるは疑ふ可からず。事実に於ても、伊藤侯が現内閣の後見職たる威信を有し、随つて重大なる問題に対して常に勢力ある発言権を行ひつゝあるがゆゑに、総理大臣桂伯よりも、外務大臣小村男よりも、侯爵伊藤博文といへる名は、今尚ほ日本を談ずる外人の口頭より之れを逸せざるを見る。
 然れども余は茲に大隈伯を紹介するの亦必らずしも無意義ならざるを思ふ。何となれば桂伯を政府の代表者とせば、若し又た伊藤侯を帝国の代表者とせば、大隈伯は人民の代表者といふべき模範的人物なればなり。伯は憲政本党の首領なり、現内閣に対しては当面の政敵たると共に、民間に於ても固より多数の反対党に依て囲繞せらる。而も其統率せる政党は、未だ議会の過半数をも占むる能はざるを以て、此の点よりいへば、伯を称して人民の代表者と為すべからざるに似たり。唯だ伯の最近生涯に於て現はれたる行動は、次第に政党首領たるの範囲を脱して、寧ろ人民の代表者たる位地に接近せむとするの傾向あるを知るざる可からず。
 顧ふに政党の信用未だ高からざる日本の如き国に在ては、政党の首領たるものゝ社会的境遇は、頗る窮屈にして自由ならざるものなり。彼れは政権争奪の外、何等の目的を有せずと認めらるゝがゆゑに、政治上の関係なき社会の各階級は、動もすれば彼れと相触著せむことを避くるのみならず、彼れ自身も亦自然に之れと相隔離せざるを得ざるに至る。板垣伯の如き即ち其一人なり。自由党の全盛時代に於ては、板垣伯といへば恰も日本人民の崇拝せる自由の化身の如く見えたれども、其の一旦党籍を去りて在野の一個人となるや、伯の存在は忽ち国民の記憶より去りたるに非ずや。之れに反して大隈伯は、明治十四年改進党を組織してより、二十余年間一日の如く政党と旅進旅退したるに拘らず、其の社会的境遇は、曾て之れが為めに検束せられずして、其の住居せる早稲田の邸宅は、殆ど東京社交の中心たり。伯の門戸は常に開放せられたり。伯と社会各階級との交渉は間断なく継続せられたり。伯は政党の首領たる故を以て毫も其の社会的境遇の寂寞を感ぜざるなり。
 伯が他の政党政治家と其の生涯を異にする所以は、蓋し一は其の理想の同じからざるに由れり。凡そ党派政治家は、大抵政治を狭義に解釈せり。彼等は政治を以て一種の専門技術と為し、政治団体を以て特別なる社会の一階級と為し、其の極端なる個人主義を抱けるものに在ては、社会の進歩と政治の進歩とは殆んど相関せざるものゝ如くに信ずるものなきにあらず。然るに大隈伯は、絶対的政治万能主義にして、社会に於ける一切の改良及び進歩は、唯だ善政を行ふに依て之れを庶幾し得べしと信ぜり。出世間的なる宗教すらも、大隈伯の見る所にては、亦政権の援助を借りて始めて其の健全なる発達を期し得べきものゝ如し。其の理想は斯くの如くなるがゆゑに、伯は勉めて社会の各階級と交渉し、之れをして政治と同化せしめずむば止まざらむとせり。若し政治家をして一種の専門技術家たらしめば、伯の政治に於ける趣味は必らず索然として消滅せむ。何となれば伯の頭脳は総合的にして個人的ならざればなり。一言にして伯を評すれば、伯は霊魂ある新聞紙なり。伯は善く貴族と平民との思想を聯結せり、官吏と代議士との感情を聯結せり、軍人と文学者との意見を聯結せり、銀行家も、工業家も、地主も、小作人も、若しくは相場師、貿易家、鉄道屋、海運業者も、皆伯の不思議なる概括力に依て聯結せられ、毫も伯の性格に於て相扞格すべき障害あるを見ざりき。要するに伯は社会各階級の思想感情を総合して之れに政治的著色を施し、以て其の独占権を有せむとするの人なり。
 世間或は伯の耳学を笑ふ。然れども伯の伯たる所以は、其の受納力大にして偏狭なる個人的意見なき処に在り、其の社会の各階級と善く適合して、善く各種の意見を摂取し、又た善く之れを消化するの力は、之れを称して一個の天才なりといふも可なり。
 故に伯は狭義に於ける政治家に非ずして、寧ろ大なる市民なり、日本人民の総代表者なり。故に又た伯にして仮りに政党首領たることを罷むることありとするも、其の大市民たる位地には何の影響する所なかるべし。伊藤侯は日本帝国の代表者として久しく外人に知らる。而も侯は伯に比すれば稍々個人的にして、其の頭脳は独自一己の圭角を有せり。侯は決して大隈伯の如く社会の各階級と適合し得るの性格を有せず。大隈伯は落々たる自由心胸オープンハートを有すれども、伊藤侯は快活なる間にも多少の保守的精神あり。大隈伯は好んで言論を公表し、而も之れを公表するに於て殆ど時と場所とを選まざるの傾あれども、伊藤侯は天賦の弁才あるに拘らず、之れを使用するに於て頗る謹慎なり。
 されば大隈伯は、其の生活に於ても、飽まで現在的社交的にして、一点山林の気象なしと雖も、伊藤侯は江湖の詩趣を解するに於て、稍々東洋賢人の面目あり。侯は一年中の多くの時間を大磯の閑居に費やし、公務の外帝都に出づること極めて少なく、俗客と酬接するよりも、寧ろ読書に親しむの性癖あるを以て、必らずしも社交の中心たるを求めざるが如し。大隈伯は決して一日も此般の生活状態を忍ぶ能はざるなり。伯は早稲田に広大なる庭園を有し、園中には無数の珍奇なる花卉を蓄へり。特に其温室は伯の最も誇りとする所にして、室内は四季常に爛漫たる美花を以て飾れり。伯は園芸道楽を最も高尚なるものとし、屡々人に向て、花を愛するものは善人なりとの格言を繰り返へして自ら喜ぶと雖も、伯の花を愛するは、詩人の美神に※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)するが如くならず、又た聖者の自然を楽むが如くならずして、唯だ其の社交に色彩を添ゆるが為に之れを愛するのみ。若し早稲田の庭園にして一たび社交と隔離せば伯の園芸に対する趣味は、恐らくは彼れが如く濃厚ならざる可し。何となれば伯の園芸道楽は頗る共同的なればなり。故に早稲田の庭園は公開せり。且つ人は、未来の短かきを感ずれば感ずるほど、漸く静止の生活状態に傾くものなり。然れども大隈伯は其の未来の短かきを感ずるに由りて、却つて一層猛烈なる現在主義の信者と為り、勉めて其生涯をして掉尾の活動あらしめ、以て賑やかなる晩年を送らむと欲せり。故に伯の性格は、老て益々発揮し、他の元老政治家が、或は客を謝して隠棲し、或は美田を買ふて子孫の計を為すの際に在りて、伯は其の門戸を開放して、社会の各階級と盛むに自由交通を行ひ、財を吝まず、労を厭はずして、八面応酬の活動を継続せり。見よ伯の門前は日々殆ど市を為すに非ずや。何時にても三十人以上を饗するの食膳は準備しつゝありといふに非ずや。其毎年議会開会前後に於ける憲政本党員の饗応のみにても、外務大臣の夜会に劣らざる莫大の費用を抛つ上に、或は観菊の会といひ、或は早稲田大学の卒業式といひ、或は遭難紀念会といひ、孰れも毎年一定の期節に於て貴顕紳士を早稲田の庭園に招待するの慣例なれば、其の費用は亦少なからざるべし。此頃全国商業会議所聯合会の開会したるを機とし、盛宴を張て其の議員を饗応したる如き、亦甚だ勉めたりと謂ふ可し。或る好事者流あり、伯の生活の贅沢なる殆んど王侯を凌ぐの勢あるを見て、窃に財源を探究したるに、伯は遠く手を英国の倫敦市場に延ばして巧に銀塊相場に従事しつゝあるの事実を伝聞し、頗る其の大胆の財政規模に驚きたりとの説あり。惟ふに是れ或は斉東野人の説たるに過ぎざるべきも、伯の財政が世上の疑問となるを見るに就ても、亦其の生活の如何に贅沢なるやを知るに足るべし。
 伯は啻に門戸を開放して、善く客に接し、人を饗するのみならず、更に善く馬車を飛ばして公私の会合に出席せり。而して伯の往く所、必らず一段の活気ありて場屋に磅※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)せり。蓋し総べての雄弁家が皆失敗する場合に於ても、独り伯は弁論演説に於て常に成功するを以てなり。伯は沈黙を守る能はざる人にして、曾て不言実行といへる流行語を冷笑して曰く、言語あるもの必らず実行家にあらずと雖も、実行家にして不言なるものあらず。所謂る不言実行とは、意見もなく自信もなき人物の遁辞のみと。此の断定の正当なるや否やは遽に判ず可からずと雖も、伯が言論を好むの性癖あるは、此の一語に依て之れを察すべし。
 従来伯は其の言論の余りに多きが為に、所謂不言実行を以て自ら任ずる政治家は、伯を称して大言放論家と為し、以て其の信用を傷けむとしたり。而かも伯は其の言論の力に依りて、反つて市民の崇拝を鍾めたり。是れ他なし、伯は最も聡慧なる市民の思想を語るの予言者なればなり。伯は好で意見を吐露すれども、敢て異を立てゝ高く自ら標置するの論客にあらずして、輿論の代言者なり。伯は個人的意見の創造者に非ずして、人民の声の写真機なり。是故に伯は精確の意義に於ける英雄に非ず。伯は偉大なる凡人なり。国民の運命を左右せむとする主我的人物に非ずして、国民の運命と倶に進退するの時代的人物なり。維新の三傑と称せられたる西郷、木戸、大久保は、各々維新の大業を以て自己の独力に依りて成したるものゝ如くに思惟したりしやも知る可からず。軍制を改革し、自治制度を制定したる山県侯は、此等の事業を以て自己の創意に出でたりと思惟するも知る可からず。又た憲法を立案したる伊藤侯は、固より議会を開きたるを以て自己の功なりとすべく、露国を征伐する現内閣員は、興国の雄図は我等の手に依て断ぜられたりと思惟すべきは無論なり。然れども大隈伯は、個人の伎倆に重きを置かざるがゆゑに、維新の大業も、法制の改良制定も、議会の開設も、大陸戦争も、其他既往三十余年間に於ける日本の発達進歩は、総べて国民的運動の結果なりと思惟せり。
 唯だ伯は善く時代精神を摂取し、善く人民の希望と一致するの性格を有すと雖も、之れを行ふの権力と久しく遠ざかりたるを以て、政治上に於ては長く逆境の人たらざるを得ざりき、然れども伯は其の朝に在ると野に在るとを問はず、常に人民の代表者たるを失はざるがゆゑに、其の社会的境遇は甚だ幸福にして、其の生涯は頗る快活なり、伯は不幸にして権力を有せざるがゆゑに、至尊に侍して献替の任を尽くすに由なしと雖も、人民の代表者として、間接に国家に貢献するの功は、復た没す可からざるものあり。特に日本国民の大飛躍を試みたる今日に際し、伯の如き人民の代表者を民間に有するは、国家の代表者として伊藤侯を朝廷に有すると相待つて、時局を運為するの二大勢力たるべし。
 凡そ国際問題は政府と政府との間に於て主として解决せらると雖も、最後の解决者は寧ろ国民なりといはざる可からず。故に内に在て民心を統一し、外に向て人民の思想感情を代表する人物の存在は、国際問題の解决に対して大なる共力となるべし。今や日露戦争は啻に列国政府の注意を牽引したるのみならず、又た深く列国人民の耳目を動かしたり、随つて其の人民の思想感情が、其の政府の政策に隠然たる影響を与ふるものあるを知るときは、我日本人民と環視列国人民との間に思想の交通を開くの必要あるは論ずるを待たず。而して大隈伯の如きは思想交通の一機関として頗る有効なる働らきを為しつゝあるを記憶せざる可からず。
 元来大隈伯は、未だ一たびも海外に出でたることなしと雖ども、其の屡々外務の当局者たることありしと、其の外交的辞令に嫻へる故とを以て、其の外人に知らるゝことは伊藤侯に亜げり。故に伯が野に在るの時と雖も、外国使臣は常に伯の門に出入して伯と意見を交換するを喜び、又た来遊外人の重もなるものは、其の公人たると私人たるとに論なく、大抵伯を訪問して其の謦咳に接せざる者なし。伯は此等の外人を待遇するに於て亦能く親切鄭寧を尽くすがゆゑに、伯と会見して不快の感を残すものは一人もあらずといへり。而も伯は此の場合に於て、最も善良にして最も進歩したる日本人民の思想を紹介するがゆゑに、其の外交上に寄与するの利益は甚だ偉大ならむ。伯は実に無冠の外務大臣として外人と応接するものにあらずや。
 日露戦争起るや、外国の新聞記者は、軍事通信の任務を帯びて続々我国に来朝せり。彼等の中には始めて日本を観たるもの少なからざれば、往々日本を誤解して日本に不利益なる報告を本国に送るものなしとも限らず。是れ决して軽視すべきものに非ざるを以て、大隈伯は屡々彼等を早稲田に招きて日本の真相を説明するに勉めたり。曩に開国五十年紀念会を開くや、伯は亦奮つて周旋の労を執り、居留米人をして頗る満足せしめたりき。当日会場整理の任に当りし米人ドクトル某氏が、我米人は最も大隈伯を愛好せりといひしを見るも、伯が如何に外人間に信用あるかを想ふ可し。
 英国史伝家エワルド曾て其の著『代表的政治家』に於てパルマルストンを評して曰く、彼れは最高の能力に依りて英国を支配せざりき。然れども彼れは忠実にして不撓不屈なる愛国者なりき。彼れは正直にして善良なる信条を有したりき。彼れの智識は精確にして多種なりき。彼れの国民に対する同情は真摯にして决して偽りならざりき。彼れの趣味及び性格は、全然当時の英国人民を代表したりき。彼れの生涯は必らずしも偉大なりといふ可からず、然れども我政治家中にては最も英国的なりきと。余は此の語を移して以て我大隈伯を評するの甚だ適当なるを思はずむばあらず。(三十七年六月)

     進歩党の首領

 進歩党の中には、総理大隈伯の退隠を希望するもの少からずと伝へらる。其の意蓋し進歩党不振の原因を以て伯の指導宜しきを得ざるに帰し、伯の退隠に依りて進歩党の門戸を開放し、広く人才を招徠し、新たに適当の首領を求め、以て党勢を拡張すると共に、又政権に接近せむと欲するに在るものゝ如し。近時新聞紙上の一問題となりたる進歩党の改革運動なるものは、此の希望を有する党員を中心として起りたるに外ならじ。彼等は政友会と提携して却つて其の売る所となれる幹部の無策に憤慨し、堂々たる一大政党を以てして其の言動の毫も議会に重きを置かれざるの現状に煩悶し、進では政権に接近するの機会に益々遠ざかり、退ては政界に孤立して漸く民心に厭かれむとするの非運に苦悩し、而して斯くの如き苦悩煩悶憤慨より生ずる自然の反動は、終に彼等を駆て馬鹿らしき謀叛を企てしむるに至れり。大隈伯の退隠を希望すといふ如きは、馬鹿らしき隠謀に非ずして何ぞや。
 大隈伯の進歩党に総理たるは、則ち正当の人物に於ける正当の位地なり。伯の健康にして猶ほ党務に堪ゆる限りは、進歩党は伯を総理とするに依りて其の存在を保つを得可く、又其の存在をして生命あり光輝あらしむるを得可し。若し伯にして一たび進歩党を去らば、何人が代つて之れが総理となるも、啻に党勢をして今日以上の発展を為さしむる能はざるのみならず、恐らくは進歩党の存在を危くするに至るなきを保す可からず。勿論旧自由党は板垣伯を伊藤侯に乗り替へたるが為に其の輪廓を拡大したる政友会となれり。政友会は伊藤侯の相続者として西園寺侯を得たるが為に、頗る其の統一を鞏固にしたるものに似たり。然れども大隈伯は板垣伯の如き好々翁に非ず、而して不幸にして良相続者を有する伊藤侯とも其の境遇を同うせざるがゆゑに、現時の進歩党は、大隈伯を外にして復た適当なる統率者を発見する能はざるなり。大隈伯有て始めて進歩党有り、大隈伯の威望と伎倆と有て僅に進歩党の頽勢を支持すと謂ふべきなり。
 然れども進歩党が大隈伯に期するに政権に接近するの途を以てするは、根本的謬見なり。伯は才力偉大なる政治家たるを失はずと雖も、是れと共に、無遠慮なる討論家なり、掛引なき自由発言家なり、是れを以て、伯は松方伯と聯合して、之れと調和を全うする能はず、板垣伯と同盟して亦之れと調和を全うする能はず、伯は才力を以て人を圧服するを知りて、才力の以て圧服し得べからざるものあるを顧慮せざる風あり。故に伯は政党内閣の首相としては或は理想的首相たるを得可く、単に政権に接近するの目的を以て思ひ切つたる大々譲歩を為すことは、伯の性格に於て能く忍び得る所に非ず。此の点よりいへば、伯の進歩党に総理たるは、或は進歩党をして永く逆境に沈淪せしむるの一原因たるやも知る可からず。是を以て、唯だ政権に※(「糸+二点しんにょうの遣」、第4水準2-84-58)恋する党員は、動もすれば伯の行動に慊焉たるの状ありと雖も、而も彼等は大隈伯を退隠せしめて、何人を以て之れに代らしめむとするか。将た彼等は政友会の故智を学び、相応の譲受人を求めて、之れに無条件譲与を為さむとするか。世間果して進歩党を譲受けむとする野心家あるか。
 彼等は児玉子の名を呼び、又山本男に望を属すといふと雖も、是れ彼等の片思ひのみ。此の一子一男は、たとひ未来の首相候補者なりと称せらるゝも、首相の位地を得るには、必らずしも政党の力を藉るの必要なきのみならず、利口なる児玉子、聡明なる山本男は、又能く政党の価値と其の利弊とを知れり。時勢にして大なる変化あらざる限りは、豈軽ろ/″\しく其の身を政党に入るの愚を為さむや。
 抑も進歩党の急要なる問題は、総理の廃立に非ずして、其の主義綱領が時勢に適するや否やを講究するに在り。余を以て之れを観れば、進歩党が久しく逆境に沈淪したるは、進歩党の自ら招く所にして、独り之れを大隈伯に責むべき理由はあらず。蓋し進歩党は、智弁能力に富めるに於て、遠く政友会の上に出づるに拘らず、其の割合に党勢の振はざるは他なし、進歩党の主義政策は十年一日の如く些しの変化なければなり。近代の政治は国際競争ナシヨナル、ストラツグルを本位として組織せられ、且つ運用せられつゝあり。然るに進歩党は徹頭徹尾党派本位の思想を以て行動しつゝあり。今や国民として成功せむとせば、国民的勢力の総べての要素を発達せしめざる可からず。国際競争の未だ激烈ならざる時代に在ては、国内に於ける階級の争闘、権力の与奪は実に政治家の重なる仕事なりき。然れども近代の国際競争は、国民的勢力の集中を必要とするが故に、階級の争闘、権力の与奪を目的としたる政治は、最早時代と両立し得べからざるに至れり。其の結果として立法行政に於ける科学的組織の広大なる発達となり、国民を一体としたる新愛国心の勃興と為り、従つて国民としての成功を遂げむが為に、政治家は国民の心理的及び物質的強力を増加するを方針と為さゞる可からず。而して此の方針に基ける政治は、総て積極的にして消極的なるを許さず、総て統合的にして分離的なるを許さず。是の時に当り、進歩党の主義綱領を見るに、常に消極的にして、常に積極的政策に反対し、軍備拡張といへば之れに反対し、地租増徴といへば之れに反対し、挙国一致といへば之れに反対せざるまでも之れに難癖を附け、国際競争を本位としたる施設に対しては、唯だ之れに反対して政府を苦むるの外、何の能事なし。是れ豈に信を天下に得る所以ならむや。
 国際競争を本位とするの政治は、各種の専門智識と専門技術とを以て組織せられ、且つ運用せらる。故に斯くの如き政治に於ては、多数の国民よりも、寧ろ国民中より抽出したる少数の人才之れが指導者たらざる可からず。然るに進歩党は往々此の少数者の意見を無視して、却つて所謂る国民の輿論なるものに媚びむとするの迹あり。彼等は学者の同情、専門家の援助を度外して偏へに選挙区の俗情を迎合するを是れ勉む。彼等の智弁能力なるものは、要するに選挙区民の歓心を得るの術なるのみ。其の党勢の振はざるは亦当然のみ。之れに反して、政友会は智弁能力の士に富まざるに拘らず、其の主義綱領は進歩党の其れの如くに固定せず、時としては進歩党と均しく消極的に陥ることあるも、指導其の宜しきを得ば、必らずしも消極的政策に同意せしめ難きに非ず。其の淡泊にして与みし易き所以は、却つて其の善導し易き所以たるを見るべく、彼等が比較上政権に接近するの便宜あるは此れが為めなり。
 されば進歩党にして党勢を発展せしめむとせば、先づ其の主義綱領をして時勢と適合するものたらしめざる可からず。即ち従来の消極的政策を棄てゝ、断然積極的政策を執らざる可からず。顧ふに彼等の非難攻撃する官僚政治なるものは、固より多少の弊害なきに非ざるべし。其の動もすれば行政機関を過大に拡張して国費の膨脹を顧みざる傾向ある如きは其の一なり。然れども行政機関の拡張は、国際競争より来れる必然の結果にして、到底之れを避けむとして避くべからず。唯だ一方に於て行政機関を必要の程度に拡張すると同時に、一方に於て成るべく国費を有効に使用し、以て濫費の弊なからしむるは、是れ精確なる科学的智識と行政的手腕に俟つべし。無責任なる放言の能く為す所にはあらず。故に進歩党にして改革の意あらば、総理の廃立よりも其の政策の上に一生面を開くの挙あるを急務とせむ。
 然れども大隈伯は漸く老ひたり。其の党務に堪ゆるの健康は今後久しきに保つ可からず、若し伯にして進歩党の永久なる繁栄を望むに於ては、一日も早く適当なる相続者を発見するの必要あるべきは無論なり。苟も適当なる相続者を発見するに於ては、伯亦必らず自ら喜で総理の位地を退かむ。唯だ今日未だ伯の相続者として耻しからざる首領的人物を発見する能はざるのみ。是れ党員の苦悩煩悶する所たるのみならず、又総理大隈伯の苦悩煩悶する所たるべし。(三十九年五月)

     党首を辞したる大隈伯

 一月第三日曜日に開きたる憲政本党大会は、総理大隈伯の思ひ掛なき告別演説を以て、沈痛無量なる光景の間に閉ぢられたりき。伯は予告なくして突然辞職の述懐を為したるがゆゑに、内心伯の退隠を希望し居たる儕輩も、事の意表に出でたるに錯駭して、頗る挙措を失したるものゝ如し。顧ふに伯が辞職を申出でたる所以は、単に一身上の自由を欲すといふに過ぎずして、他に特別の理由あるを認めざるも、深く其の語る所を玩味せば、今日伯をして自ら辞意を表明するに至らしめたる動機の存するもの固より之れなきに非ず。
 伯は一面に於て本党発展の路を開かむが為に総理を辞するを必要なりと唱へつゝ、一面に於ては総理を辞するも决して本党を去らずと断言せり。則ち其の辞職なるものは唯だ形式的退隠たるに止まり、伯の猶ほ間接にも直接にも本党との関係を絶つの意なきや無論なるべし。且つ伯が政治を生命と為し、総理を辞すとも决して政治的活動を中止せずと言明したるを見れば、伯の辞職を求むる理由は殆ど解すべからず。伯は本党に総理たるも総理たらざるも旧に仍りて政治的活動を継続せむとす。知らず本党総理として正々堂々政治的活動を継続するの何故に本党に利あらずとするか。此の点よりいへば伯は無意義の辞職を申出でて、徒らに党員の感情を惑乱せしめたるに似たるも、実は伯の心奥に感慨自ら禁ぜざるものあり、乃ち名を辞職に藉て一大警告を党員に与へむと欲したるに外ならじ。
 伯は党則改正党勢拡張に関する大会の討論を評して、本党の大活動と為し、口を極めて英気の勃々たるを激賞したりと雖も、今其の所謂る党則改正なるを見るに、従来の首領政治を廃せむが為に、之れに代ゆるに合議制度を以てしたるのみ、是れ総理大隈伯に対する信任欠乏の投票に非ずして何ぞや。伯は自ら謙遜して党勢の振はざる原因を伯の微力為すなきに帰すと雖も、本党の僅に存在するを得るは、唯だ大隈伯あるを以てなり。伯は本党に何の負ふ所なきも、本党は全く伯の理想に依て活けり。若し本党より伯の理想を抜き去らば、本党の実体は次第に腐敗して終に※(「さんずい+斯」、第3水準1-87-16)滅するの時あらむ。又何ぞ党勢の盛衰を言ふの遑あらむや。然るに今や本党は、大隈伯の理想に叛逆するものを以て多数を占め、其の結果は直に党則改正の上に現はれて、首領政治の組織を破壊せむと企てたり。是れ本党自ら衰亡に進むの凖備のみ。伯豈今昔を俯仰して感慨に堪へむや。
 抑も大隈伯の理想は、国民の代表機関を完全に運用して、英国風の憲政を日本に扶植せむとするに在り。伯は曾て此の理想によりて改進党を組織し、進歩党を指導し、又現に憲政本党を率い来たれり。伯は固より単純なる批評家を以て自ら居らむとするものに非ざるべく、苟も其の懐抱する理想にして実現するを得るの成算あるに於ては、進むで政権に接近するも亦敢て避くる所に非ざるべし。然れども伯は政権に接近するの前に於て、先づ国民の輿望を要求せり。国民の輿望を要求するが為に、先づ主義によりて政党の性格を鮮明ならしめむと努めたり。初め西園寺内閣の成るや、伯は首相の人と為りに対して多少の同情を表したりしも、其の施設の漸く伯の信ずる所と違ふや、伯の批評的態度は一変して露骨なる攻撃者の位地に立つに至れり。何となれば伯は西園寺内閣を目して、全く官僚団の勢力に支配せられ、最早一政党を代表したる面目の以て中外に示すに足るものあらずと為したるがゆゑなり。伯は官僚政治を認めて、憲政の健全なる発達に害ありと信ずる人なり。故に偏へに政権に接近せむが為に、主義の消長を顧みずして官僚団と結托するは其の甚だ喜ばざる所なり。伯は斯くの如き行動を以て政党の性格を喪失すと為すなり。
 然れども本党の改革派なるものは、寧ろ大隈総理と其の見解を異にするものゝ如し。彼等は政友会が曲がりなりにも政権に接近したるを得意の境遇なりと思へり。西園寺内閣を以て恰も自党の内閣なるかの如くに吹聴し、意気揚々として国民に誇らむとする政友会を見て、彼等は殆ど本党の秋風索莫たる逆境に堪へざらむとするの状あり。彼等は政治上に於ける官僚団の勢力甚だ強大なるを知るに及で、政友会が之れと相結托したるの却つて利口なるを信ぜむとするに至れり。彼等の中には、大隈伯にして本党を退隠せば、啻に官僚団の一角と連絡し得るの門戸開通するのみならず、更に本党の運命を開拓すべき新首領の官僚団より出現せむことを夢想するものすらありといへり。本党にして大隈伯の理想に服従する限りは、其の境遇の順逆如何に拘らず、兎に角一個の性格ある政党として存在し得べきも、伯に棄てられたる本党は、其の烏合の群衆たるに於て大同倶楽部と又何の選む所あらむ。勿論本党が天下を取るの時機を待つは愚に近かしと雖も、是れ特に本党に於て然りと言ふに非ず。凡そ孰れの政党を問はず、其の能く上下の信任を得て内閣を組織せむことは当分望みなしと謂はざる可からず。故に若し本党の改革派にして、政党に関する根本の観念を抛棄せむとせば別問題なれども、真面目に政党の名に依りて天下を取らむとする如きは余り虫のよき沙汰なりといはまくのみ。敢て問ふ公等は天下を取るの資格ありや、其の自信ありや、将た其の信任ありや。且つ天下を取るのみが政党の能でもあるまじ、政権に接近するのみが党勢拡張の唯一手段にもあるまじ。真に党勢を拡張せむとせば、何ぞ其の本に反へらざる。本とは他なし、順逆に頓著せず、主義によりて進退する是れなり。其の本を脩めずして唯だ政権に接近せむことを求む。是れ本党の深患なり。大隈伯が総理を辞せむと欲するは、其の意実に此の深患に陥りて自ら悟らざる党人に警告を与へむとするのみ。
 是に由て之れを観れば、大隈伯の辞職は、本党の発展上必要なるものに非ず、要するに其の申出は唯だ本党の将来に対する一大警告たるに過ぎざるのみ。然れども政治の全局より案ずれば、余は寧ろ伯が断然本党を棄つるの挙に出でたるを歓迎す。蓋し伯は伯自ら声言したる如く、たとひ本党との関係を絶つも、活動の余地は到る処に之れあるなり。伯は単身にして偉大なる勢力を民間に有すること、猶ほ伊藤侯が丸腰にして能く威望を朝廷に有するが如し。伯は元来本党に依て重きを為し居るの政治家に非ざるなり。本党或は亡ぶるとも、伯は未だ遽に政治的死亡を遂ぐるの癈人に非るなり。一政党を指導訓練するは、必らずしも無用なりと謂ふべからずと雖も、国民を指導訓練するは、更に最も必要なりと謂はざる可からず。今の党人は、智識に於ても、品性に於ても、决して国民の高級分子に非ず。高級分子の政党に入らざる所以は、国民全体の政治思想に進境なきが為なり。而して国民の政治思想は、単に一般教育の力のみに依て之れを発達せしむべきに非ず、別に偉人の人格より発動する感化力に待つもの多し。伯にして若し狭隘なる一政党の範囲を脱して自由の地歩を占め、政府の元勲たる伊藤侯と相対し、国民の元勲として党派以外に活動の余地を求めば、伯の大なる人格は、必らず国民全体を指導するの明星たらむ。是れ伯の晩節を善くするの道なり。(四十年二月)

     大隈伯と故陸奥伯

 十二月十日及び二十四日に於て、余は無限の興味と大なる敬意とを以て二個の盛典を見たり。一は早稲田大学の学園に挙行せられたる大隈伯の銅像除幕式にして、一は外務省構内に挙行せられたる故陸奥伯の其れなり。大隈伯は現在の人にして、且つ若干の未来を有し、陸奥伯は過去の人にして、其の伝記は十年以前に終結せり。然れども偉人傑士は、千古尚ほ毀誉褒貶の定らざる半面を存すると共に、他の半面の妍醜は、寧ろ其の触接したる同時代の国民に審判せらるゝを適当とするの理由なきにあらず。余は此の理由に於て、両伯に関する少許の智識を語らむとす。
 大隈伯の公生涯に於て、其の歴史的価値の最も大なる部分二つあり。新らしき政治的日本を建設せむが為に政党を組織したることゝ、学問の独立を謀らむが為に、官学に対抗すべき私学を興したること是れなり。板垣伯は亦政党を組織したるによりて、明治時代の一代表的人物となりき。福沢翁は亦曾て私学を興したるによりて、不朽の紀念を文化事業に遺したりき。今ま大隈伯の能く一人にして板垣伯及び福沢翁の為したるものを兼済したるを見るものは、誰れか伯を近世の偉人と称するに反対するものあらむや。且つ夫れ板垣伯は、始めて自由党を組織するに方てや、其の名望勢力実に一時を曠うするの概ありしも、年所を経るに従つて漸く尾大不掉の状を示し、終に殆ど国民の記憶より遠ざかりて、杳然聞ゆるなきの末路に立てり。之れを大隈伯が、久しく政権と近接せざるに拘らず、常に夫の終始順境を来往する伊藤山県両公と盛名を※(「にんべん+牟」、第3水準1-14-22)うし、既に政党の総理を辞任したる後すらも、尚ほ且つ生気溌溂たる政治家たるを失はざるに比すれば、其の差果して奈何と為すや。是れ現在の大事実なり。何人も之を抹殺すべからず、又之れを顛倒するを得べからず。更に他の一大事実を注視せよ、是れ一層明白にして且つ永続性を有するものなり。大隈伯の創立したる早稲田大学の驚くべき発達是れなり。其の明治十五年東京専門学校の名を以て起るや、当時福沢翁の慶応義塾は校齢方に二十五年を重ねて基礎漸く固く所謂る三田の学風を鼓吹して海内を風靡し、隠然として私学の泰斗官学の敵国たりき。而も東京専門学校は、経営二十星霜にして、明治三十五年早稲田大学と改称するの域に達し、其の実力及び位地は、啻に慶応義塾と相対峙して毫も遜色なきのみならず、漸次準備の熟するを待つて理、医、農、工等の学科を増設し、以て完全なる大学の性質を具備するに至らむことを期せり。六千有余名の卒業生を出だしたる過去の成績、日々八千有余名の学生を出入せしむる現在の収容力、創立二十五年の祝典を壮にする一万余名の提灯行列、是れ豈福沢翁をして独り其の美を教育界に擅まにせしめざる厳然たる大事実に非ずや。たとひ大隈伯に政治上の成功なしとするも唯だ此の早稲田大学の繁栄以て能く伯の徳を後代に伝ふに足るべし。是に於てか銅像建設も決して無意義に非ずと謂ふべし。
 若し夫れ陸奥宗光伯は、未だ天寿を全うせずして十年前に病死したる人なり。若し伯をして尚ほ今日に健在せしめば、必らずや其の伝記に一段の光彩を添ゆるの事功ありしを疑はず。然れども伯は少なくとも日本の外交史に新紀元を開きたる中興の外務大臣なりき。第一外交機関が殆ど全く藩閥の勢力圏を離れて独立の位地を占むるに至りたるは、伯の力与つて最も多きに居れり。外交を専門の技術とせる近世の傾向に順応して、訓練ある外交官を登庸するの方針を確立したるは伯なりき。貴族若くは耆宿の名誉職たりし公使の任務を有能者に引渡して、日本の外交機関を刷新するの計画は、主として伯の手を藉つて行はれたりき。今の林外務大臣を始め、小村寿太郎、加藤高明、高平小五郎、原敬等の諸氏を重用して、外交政略の効果を大ならしめたるものは伯に非ずや。元来伯の人と為りは、深く藩閥者流の信頼せざる所なりしに拘らず、独り伯の指導する外交機関に対しては復た一指を染むる能はずして、伯の自由手腕に任かさゞるを得ざりき。従つて外務省は殆ど十分に伯の感化を受けたりしに似たり。第二に伯は条約改正の成功者なり。日清戦争の執行者なり。伯が新条約案を英国に提出したるの時は、方に日清和戦の機関、髪を容れざるの危急に迫まるの際なりき。若し尋常外交家をして此の場合に処せしめば、或は一方の為に他方を犠牲に供したりしやも知るべからず。况んや是れと同時に第三者に対する外交関係漸く過敏ならむとしたるに於てをや。勿論当時伯が果して韓国問題を以て和戦を断ずるの腹案ありしや否やは疑問なれども、兎に角韓国問題と条約改正とは、伯に於て軽重し難き二大懸賞案たりしは言ふを待たず。而も伯は屡次白刄の下を潜ぐるが如き態度を以て、巧みに韓国問題の解決手段を進行すると共に、断然条約改正の談判を開始して遂に其の目的を達したりき。此の期間は伯の智力の最も発越したる絶頂にして、又実に外交劇の能事を尽くしたる一齣なりき。且つ伯が外交団に於ける英国の優勝位地を認識して、先づ之れと条約改正を商議したるは、単に条約改正の成功を早めたるに止らず、其の将来の帝国外交を支配する大方針は、亦既に此の時に於て定まれりと謂ふべし。則ち日露戦争前後二囘に締結せられたる日英同盟の如き、蓋し伯の政略より胎生したる産物たるに過ぎず。第三に伯は世界主義を外務省に輸入したりき。伯は以為らく、帝国をして国際会議の一員たらしめむとせば先づ形式実質共に欧洲文明と諧調する政略を執らざるべからずと。此の政略は往々非愛国的なりと認められて、保守派より最も激烈なる攻撃を受けたりと雖も、後年日露戦争起るに及びて、宗教人種を異にする列国の同情を最後まで維持し得たるは、主として此の政略の賜なりと謂はざる可からず。要するに伯は新旗幟を霞ヶ関に樹てゝ帝国の外交を彰表し、新生命を外交機関に賦して外務省の性格を一変し、後の当局者をして其の率由する所以の大本を知らしむるに於て、晩年の心血を傾倒したりと謂ふべく、即ち今に於て伯の銅像の外務省構内に建設せらるゝを見るは、事と人と処と三者均しく宜しきを得て※(白ゴマ、1-3-29)長へに霞ヶ関の紀念たるを失はざるべし。
 然れども陸奥伯は外務省の陸奥伯に非ずして、日本の陸奥伯なり。大隈伯は早稲田大学の大隈伯に非ずして、日本の大隈伯なり。特に大隈伯の如きは、啻に日本の大隈伯たるのみならず、其の名声は漸次世界的音色を帯び来らむとせり。顧ふに陸奥伯を以て大隈伯に比すれば、其の人格に於て大小の品異なるあり、其の頭脳に於て広狭の質同じからざるありと雖も、共に藩閥以外の出身者にして、自己の手腕を以て自己の天地を開拓したるに於ては則ち一なり。而も両伯の出処進退には、自ら両様の意匠ありて好個の対照を為せり。大隈伯の出処進退を見るものは、先づ其の公生涯の前半期に於て、伯が内より政治を改革せしむとして全力を之れに用ひ、其の志の行はれ難きを悟るに及び、更に政治改革の手段を変じて、国民的運動の指導に其の後半期を費やしたるを認むべく、陸奥伯の出処進退を見るものは、伯が初め屡々外より政治改革の気運を促がさむとして成らず、一朝心機転換するや、自ら進むで政府の使用人となり、其の権変の才を竭くして内より藩閥を控制せむとしたるを認むべし。是を以て両伯は終始殆ど反対の側面に立てり。
 大隈伯は藩閥の後援を有せずと雖も、維新の文勲は毫も藩閥者流の武勲に譲らざりしが故に、明治初年に於て既に枢要の位地を占め、藩閥をして勢ひ伯の勢力を敬重せざるを得ざらしめたりき。伯は急激なる民選議院建白者に誘はるゝには、其の思想余りに秩序的にして且つ実際的なりき。伯は前原一誠、江藤新平等の暴動に与みするには、其の識慮余りに進歩的にして且つ冷静なりき。伯は土佐派の空漠たる自由論を迎合するには、其の智見余りに経世的にして且つ老熟なりき。伯は馬上を以て天下を取りたる藩閥の、到底永く馬上を以て天下を治むる能はざるを知りたれば、時の政府の中心たる大久保利通の威望を利用して、自己の長所を縦横に揮灑し、以て徐ろに政治改革の雄心を逞うせむとしたりき。然れども大久保の死すると共に、政府は忽ち茲に適当なる統率者を失ひ、単に藩閥の利害を一致せしめて、漸次勃興し来れる国民的運動を頑強に抑遏せむとしたりき。是に於てか、伯が内より政治を改革せむとするの計画は失敗に帰し、時代は伯を促がして国民と握手せしめ、以て伯の公生涯に分界線を劃したりき。伯が明治十五年を以て政党を組織したるは、蓋し新らしき政治的日本を建設せむが為に新らしき手段を必要なりと自覚したる結果のみ。爾来伯は稀れに政府に出入し、一たびは自ら首相となりて内閣を組織したることあれども、常に政党を基礎としたる立憲政府の完成を期せざるなく、殆ど一身の得失を忘れて藩閥と奮闘したりき。
 顧みて陸奥伯の行径を見れば、伯の前半期は、藩閥に対する謀叛を以て一貫したりき。勿論伯は著名なる維新の功臣にも非ざれば、明治の初期に於ける伯の資望は、未だ甚だ言ふに足るものなかりき。加ふるに伯の人格は藩閥の大勢力たる大久保利通の理想に適合せざりしを以て互ひに相反撥し、終に伯を駆つて不平党の一人たらしめたりき。伯は木戸孝允に説くに国民主義と薩摩征伐の策を以てしたれども、謹慎なる木戸は持重して敢て妄りに動かざりき。独り今の井上侯は大久保攻撃の勇将として聞え、頗る伯と意気投合したりし如しと雖も、其の勢力孤弱にして固より大久保党と対抗するに足らざりき。
 其の大阪府判事、神奈川県知事、租税権頭、及び元老院幹事等の諸官を歴任して、前半期の終結たる明治十一年の隠謀事件に至るまで、伯の胸中に画きしものは唯だ藩閥政府を顛覆せむとするの戯曲のみ。而して其の最後の幕は、伯の戯曲中最も奇矯にして最も露骨なるものなりき。斯くて伯が七年間の囹圄に於て領悟したる真諦は、恰も大隈伯と正反対の方向を取ることなりき。伯の獄を出づるや、其の曾て敵視したる藩閥者流の助力を得て欧洲に遊び、其の帰るや直に外務省に入りて弁理公使となり、尋いで米国公使となり、転じて山県内閣の農商務大臣となり、伊藤内閣の外務大臣となり、子爵となり、伯爵となり、勲一等となりき。此の間に於ける伯の政府改造策は、先づ藩閥と政党とを結合するを第一着手としたりき。故に伊藤内閣の策士たる伯は、同時に自由党の謀主たりき。伯が其の後半期に於て、伊藤公の信頼を藉つて自己の理想を実現せむとしたるは、猶ほ大隈伯が其の前半期に於て、自己の経綸を行はむが為に、必らずしも大久保党たりと目せらるゝを避けざりしに同じ、以て両伯の出処進退に両様の意匠あるを見るべし。
 世或は大隈伯の後半期を以て失敗の歴史と為す。若し政権に近接せざるが故に失敗なりといはば、明治十五年以後の大隈伯は実に失敗の政治家なり。伯の後半期二十五年間の大部分は、全く政府と絶縁せられたる歳月なればなり。然れども伯が政治家としての実力及び偉大は、寧ろ此の後半期に於て十分発揮せられたりき。朝側の二大勢力たる山県伊藤両公も、時としては此の二大勢力の聯合したる政府も、其の系統を承けたる桂内閣も、乃至西園寺内閣も、最も大隈伯の存在を重視し、大隈伯の活動を畏憚し、大隈伯の監視、批評、向背に対して喜憂を感じたるのみならず、伯の意見は往々日本国民の利害を代表するものとして列国の政府及び国民を聳動したる場合少なきに非ず。伯豈失敗の政治家ならむや。但し伯は政権に近接したる機会に於ても、亦久しからずして之を喪ふが故に此の点よりいへば、伯は疑ひもなき政治上の失敗者なるに似たり。伯は条約改正問題を以て黒田内閣を瓦解せしめたりき。松方侯と聯合内閣を造りて其の終りを善くする能はざりき。憲政党内閣の首相として其の統一を維持すること能はざりき。伯を閣員としたる内閣は、不幸にして必らず内部の分裂より破れたりき。之れを伯の失敗といはゞ失敗たるに相違なきも、其の失敗は未だ以て伯の政治家たる名声を毀傷するに足らざるなり。元来伯は常識の天才なれども、伯は其の常識を行ふに当つて、動もすれば物理学上の重力法を無視するの嫌ひあり。例へば伯は決して単純なる放言壮語家にあらずして、又実に謹慎自重の徳あり。而も伯は屡々此の両極の垂直を保つの用意を欠けることあるが為に、或る社会の人は伯を無責任の政治家なりと冷嘲せり。伯は必らずしも剛情我慢、他を圧例して自ら喜ぶものに非ず、又善く交譲し、善く調和し得るの雅量を有せり。而も伯は屡々此の雅量と剛情との水準を秤るを忘るゝことあるが為に、共同者の憤懣を買ふことあるを見たり。伯は反対党の悪口する如くに、常に便宜に従つて意見を製造する臨機主義者に非ずして、又一家の信条と一貫の理想とを有する政治家なり。而も伯は屡々臨機主義者なりと誤解せらるゝの傾向あるは何ぞや。是れ重力法の原則に頓著せざるが為なり。今一つ伯に於て発見する所は、伯が清濁併せ呑むの大度と、群情を駕御するの術との間に重力法を応用すること周到ならざるの迹あること是れなり。蓋し伯は自信強きが故に、如何なる人物をも包容して其の材料を尽さしめむとし、且つ如何なる不平の声も之れを鎮撫するに於て多くの苦心を要せずとするの風あり。概言せば伯の人格は、円満といふよりは寧ろ多面といふべく、完美といふよりは寧ろ偉大といふべく、而して其の本領は、目前の成敗を顧みずして、我が為さむとする所を為すの男性的活動に在り。
 陸奥伯の人格は、大隈伯と自ら別種の模型を有せり。伯は神経質の才子にして、若し伯より野心と覇気とを除かば、或は詩人文学者の質に近かきやも知るべからず、伯は天才の詩人に見るが如き鋭敏特絶なる直覚力を有し、又泰西著名の文学者に見る如き深刻なる観察眼を有せり。然れども此の直覚力と観察眼とは、伯の野心及び覇気と抱合して、聡明自ら恃むの政治家を鋳造したりき。伯は人の隠微を読み、敵の弱点を指し、世の情偽を察し、事の利害を断し、理の是非、機の先後を判ずるに於て、電光の暗室を照らすが如し。唯だ伯は聡明自ら恃むが故に毫も衆俗を送迎して人望を収めむとすることなく、衆俗も亦伯の豺目狼視に触るゝを好まずして自ら伯と親まざるに至る。是を以て伯には独り個人的能力の伯を重からしむるものありて、国民に対しては殆ど何等の感化をも及ぼしたるものなかりき。伯は曾て伊藤内閣と自由党との連鎖たることありしも、若し伯をして自由党統率の任に当らしめば、到底星亨の為し得たりしものを為し得ざりしならむ。伯或は政党の謀主たるを得たらむも、理想的党首の器は之れを伯に望むべからず。伯は智力の輪転機なり。満身総べて是れ智力にして、其の道徳も、其の勇気も、其の感情も皆智力を以て指導せらる。故に伯に在ては智力と一致せざる道徳は愚なり、智力より生ぜざる勇気は暴なり、智力に伴はざる感情は痴なり。真の道徳、真の勇気、真の感情は智力を本位としたるものにして、智力は真なり、美なり、善なり、絶対的尊貴なり。故に伯は智者を服すれども、勇者を服する能はず、血性家を服する能はず。是れ伯の勢力圏の甚だ狭かりし所以なり。
 然れども伯の智力本位は、其の人格の色彩輪廓を瞭然たらしむるを以て伯と相見るものは伯に於て一の偽善を認めず、心々直に相印するの感を生じて、伯に信服するものは恰も宗門的関係を胥為するに至るべし。故に伯は多数の信服者を作る能はざりしも、其少数信服者は悉く小陸奥宗光なり。否らざるは陸奥宗光の熱心なる崇拝者なり。唯だ夫れ輪廓の余りに瞭然たる人格は、其の実質概して狷介にして余裕なし。偉大なる人格の第一特色は、受納力の宏博なるに在り。概括力の富贍なるに在り。統率力の優勝なるに在り。此の点に於て大隈伯は独り当代に雄を称し得べく、陸奥伯の極めて個人的独尊的なると頗る其の人格を異にせり。大隈伯は政治に於てデモクラシーを主張すると同時に、其趣味に於てもデモクラチツクなり。之れに反して陸奥伯は、政治の原則としては亦均しくデモクラシーを信ずと雖も、其の趣味は或る意義に於て全くアリストクラチツクなり。彼は凡俗を好まず、又凡俗の好む所を好むこと能はず。彼は凡俗と天才との間には踰ゆべからざるの鴻溝あるを信じ、滔々たる凡俗は、到底天才者の頭脳を領解する能はずと思惟せり。若し大隈伯を以て思想界のトルストイとせば、陸奥伯は稍々ニイチエに類似すと謂ふべし。ニイチエの奇崛独聳は嶄然として時代の地平線を超越したるものありと雖も、終にトルストイの感化の偉大なるに及ばざるなり。陸奥伯の大隈伯に於けるは、猶ほニイチエのトルストイに於ける如きのみ。(四十年十一月)

   伯爵 板垣退助

     板垣退助

 世に伝ふ、板垣伯は両面ある人物なり※(白ゴマ、1-3-29)外は粗放磊落なるに似て内は反つて細心多疑※(白ゴマ、1-3-29)外は直情径行なるに似て内は反つて険怪隠密※(白ゴマ、1-3-29)外は剛愎偏固なるに似て内は反つて温柔滑脱※(白ゴマ、1-3-29)常に赤誠を口にして善く慷慨すれども、身を処するに巧詐あり世を行くに曲折あり、圭角ある如くにして圭角なく、平板なる如くにして表裏あり※(白ゴマ、1-3-29)是れ其の伊藤侯と合ひ易き所以なりと※(白ゴマ、1-3-29)然れども余の彼れに見る所は別に是れあり。
 余の別に見る所とは何の謂ぞ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは民選議院の設立を建白せり、故に彼れを目して自由民権の創見者と為す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)彼れは曾て木戸大久保諸氏と大阪に会合して議する所あり、次で明治八年遂に立憲の聖詔煥発せられたりき※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れを称して立憲政体創造の首功と為す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)彼れ或は愛国社を興し、或は立志社を設け、或は立憲政党、或は愛国公党自由党等を組織して毎に之れが牛耳を執りき※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れを指して政党政社の開山と為す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)曰く皆然り※(白ゴマ、1-3-29)曰く皆然らず※(白ゴマ、1-3-29)彼れの力を此の数者に致せしの事実は何人も認むる所にして、彼れも亦之れを以て窃かに自ら誇るものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)故に皆然りといふ※(白ゴマ、1-3-29)然れども大阪の会議と民選議院の建白とは、共に独り彼れ一人の発意したるものに非ざるは論なく、政党政社の類に至ても、切に論ずれば唯だ時勢の産物たるに過ぎずして固より彼れの私生児にはあらず※(白ゴマ、1-3-29)故に皆然らずといふ※(白ゴマ、1-3-29)余の別に彼れに見る所ありとは他なし※(白ゴマ、1-3-29)日本の政党首領として比較的成功あるを得たる即ち是れのみ。
 元勲諸老にして政党を組織したるものは、彼を外にして大隈伯の改進党あり、後藤伯の大同団結あり、西郷侯の国民協会ありき※(白ゴマ、1-3-29)然れども之れを組織して忽ち其の党籍を脱し、若くは之と全く干係を絶ち、若くは一時之れを利用するに止り、未だ板垣伯が能く自由党と進退を倶にし、終始其の党の意思を代表して立つが如く熱心ならざるなり※(白ゴマ、1-3-29)故に政党首領としての成功は、亦彼れを以て最も優れりといはざる可からず。
 西郷侯の国民協会を組織するや、自ら枢密議官を抛つて公然之れが首領となり、以て一旦大に為すあらんとするの意気ありしにも拘らず、其一躍して内閣に入るや復た冷然として一顧を協会に与へざるの奇観あり※(白ゴマ、1-3-29)後藤伯の如きは特に甚しといふ可し※(白ゴマ、1-3-29)其の大言壮語到る処亡国論を唱へ、天下を麾て大同団結を号乎したるに方り、誰れか之れに依て入閣を計るの野心ある可しと想はんや※(白ゴマ、1-3-29)然るに入閣の勧誘一たび来るや、勅命と称して直に之れに応じ、以て其の政友を売り以て其の糾合せる同志に背き、之れと共に大同団結は極めて短命なる不幸の運命を見たりしに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ大隈伯に至ては、其の改進党を組織して未だ久しからざるに、乃ち亦総理の任を辞して脱党し、尋で一個人の大隈伯として黒田内閣に入り、爾後復た直接に改進党と関係なかりしは固よりいふを待たず※(白ゴマ、1-3-29)其の党勢の思ふほど拡張せざりしは盖し亦是れが為ならずとせんや※(白ゴマ、1-3-29)独り板垣伯は然らず※(白ゴマ、1-3-29)其の自由党に於ける十年一日の如く、自ら党員の前駆となりて四方に奔走し、間断なき運動と恒久なる熱心とは、深く党員の信望を収めて能く之れを統一し、時に或は党中紛擾の事ありと雖も、彼れと党員との関係は、是れを以て必ずしも冷却するに至らず※(白ゴマ、1-3-29)而して今や彼は、其の党与を挈けて伊藤内閣と結托し、遂に自由党総理たる勢力を擁して入て内相の椅子に就く※(白ゴマ、1-3-29)是れ政党首領として他の一侯両伯に比し、明かに体裁善き成功を得たりと認む可きものなり※(白ゴマ、1-3-29)余は即ち此の一事を挙げて以て彼れの人物を偉なりといはむ※(白ゴマ、1-3-29)彼れが最も誇る可きは亦恐らくは此一事に在らん歟。

 人或は曰く板垣伯入閣は無条件なり、彼れは総理の資格を以て入閣する能はずして元勲の名義に依りて入閣す※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤内閣に欺かれたるなりと※(白ゴマ、1-3-29)然れども其の如何なる名義に依て入閣せるに拘らず、彼れと自由党との関係実際に消滅したりとは何人も認むる能はじ※(白ゴマ、1-3-29)况んや彼の入閣は自由党と伊藤内閣との結托に原づき、自由党一致の同意を得、自由党全体の意思を代表して入閣したるを事実とす可きをや※(白ゴマ、1-3-29)仮りに伊藤内閣の為に欺かれたりとせむ※(白ゴマ、1-3-29)是れ自由党全体の欺かれたるのみ、彼れが自由党を代表して入閣したる事実を抹殺する能はざるなり。
 故に彼れの入閣は、少なくとも政党内閣に進むの門戸を開き、以て今後の政局に一変化を与ふるの動機となりたるものなり※(白ゴマ、1-3-29)固より彼れが果して能く其の目的を達し得るや否やは容易に断言す可らざるのみならず、寧ろ技倆の称すべきなき一老漢を以て内務の難局に膺る※(白ゴマ、1-3-29)其の或は久しからずして一敗するに至るも亦未だ知る可からず※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れは既に根拠を自由党に有するに於て、再び野に下るの日は之れを率いて以て其の敵とするものと戦ふの力あり※(白ゴマ、1-3-29)伊藤内閣にして彼れを欺き自由党を欺くの事実明白となることあらば、彼れは直に復讎的姿勢を取て伊藤内閣に向はむ※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤内閣の大に苦む所にして自由党の窃かに負む所なり。彼れが伊藤内閣と結托したるは、彼れの名誉に於て大なる損失あり※(白ゴマ、1-3-29)人は彼れを変節者と呼べり、軟化したりと笑へり※(白ゴマ、1-3-29)太甚しきは彼れを嘲つて主義と利福を交換したりといひ、彼れが岐阜の遭難に死せざりしを不幸と為すに至れり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは方にあらゆる醜詬詆辱の重囲に陥り、満身悉く傷痍を受けて殆ど完膚なきを見る※(白ゴマ、1-3-29)然り彼れが盛名の時代に死せざりしは実に彼れの不幸なりき※(白ゴマ、1-3-29)大不運なりき※(白ゴマ、1-3-29)さもあらばあれ彼れは他の元勲政治家に比して最も堅固なる根拠を有せり※(白ゴマ、1-3-29)政党の首領として最も素養ある位地を有せり※(白ゴマ、1-3-29)他の元勲政治家は未だ利害を同ふするの政党を擁するものなく、一旦政党に頼るの必要を認むるに於て、唯だ現存の政党を利用するか、若くは新たに之れを製造するの二途あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)然るに板垣伯の自由党に於けるは、多くの年所を閲みして終始相提携し、以て離る可からざるの関係を為せしに由り、彼れは尚ほ厳として政界の一勢力たるを失はざるなり。
 彼れは能く始めより政党の真意義と真作用とを融会したりしや否や、将た政党内閣を組織するの自信を有して自由党と飽くまで進退を倶せんとするや否や、共に吾儕の知る所に非ずと雖も、とにかく日本政党中に在て、彼れは最も旧き歴史ある自由党の首領として、比較的成功を得たるの事実は甚だ多とするに足れり※(白ゴマ、1-3-29)余は彼れが心術の正邪醇駁分明ならざるを以て、此の一成功を没するに忍びざるなり。(廿九年五月)

     最近の板垣伯

      其一 劈頭の喝破
 曾て自由神の化身として、憲政の天国を建設す可く藩閥の悪魔と健闘したる老英雄も、今や其の屠竜搏虎の手を収めて、平和にして且つ女性的なる社会事業に老後の慰藉を求むるの人となりぬ。曰く風俗の改良、曰く日本音楽の改良、曰く労働者の保護、曰く盲人の教育、曰く女囚乳児の保育、是れ彼れが老夫人の熱切なる同情と協力とに頼りて、現に社会に寄与しつゝある生涯の残光なり。彼れの前世紀は、血の歴史なり、戦闘の歴史なり、波瀾多き歴史なり。彼れは屡々不忠不臣の名を受けたりき。彼れの一挙一動は常に探偵の報告資料たりき。彼れの党与は総て叛逆匪徒を以て目せられたりき。あらゆる迫害、あらゆる追窮は、高圧力に富める武断政府に依りて間断なく試みられたりき。豈唯だ此に止らむや。彼れは反対党の毒刄に傷けられて殆ど生命を喪はむとしたりき。嗚呼当年の彼れを以て之れを現時の彼れに比せば、殆ど喬木を出でて幽谷に遷りしが如し、誰れか其の変化の甚しきに驚かざるものあらむや。
 然れども彼れは二十余年間国民的運動の首領たりしが為に、其の資望は尚ほ隠然として、重きを公私人の間に有せり。彼れが勢力の源泉たりし一大政党は、既に彼れの手を離れて伊藤侯の領有に属したれども、新首領の訓練未だ到らずして、往々旧首領の復活を希望するものあるのみならず、世には人の美徳を歎美するもの稀れにして、寧ろ他の意中を曲解するを喜ぶの批評家多きがゆゑに、彼れ少しく動けば、揣摩臆測紛然として随ひ起る、自由党再興の風説の如き、即ち其の一なり。
板垣の復活、自由党の再興、何たる捏造説ぞ、余の夢にも覚えざる虚聞なり。
是れ彼れが記者を其の応接間に迎へて、微笑を帯びながら、而も極めて明白に喝破したる劈頭語なりき。曩に高知政友会支部に紛擾あるや、彼れは老躯を起して故郷に帰れり。其の紛擾に対して、自ら責任ある裁决を与へむが為には非ず、唯だ郷党の要望に応じて、情誼上の忠告を与へむが為に外ならざりき。彼れは一種の意見書を発表したりき。此の意見書には政治哲学の旨義を含蓄せる文字あれども、政党首領の宣言書マニフエストと全く其の体様を異にしたる個人的立案なり。彼れ豈当世に野心あらむや。

      其二 時代の事業
 彼れは白縞の綿服に紺太織の袴を着け、籐椅子に凭れて日本製のシガレツトを吹かしながら、反切明亮なる土佐音にて談話を続けたり。
政治界は権勢、名誉、利禄及び人爵の中心点なり。故に世俗の欲望皆此に集注す。独り社会事業に至ては、本来無報酬にして一も如上の欲望を※(「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73)かしむるに足るものなし。是れ政治的退隠者たる板垣の為に好個の事業に非ずや。
 彼れは斯く語りつゝ、真摯なる鳶色の目にて記者を見詰めたり。三分の神経質と七分の多血質とを調和したる相貌は、今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども、其の額際より頬の辺りを繞りて、蜘蛛の巣の如く織り出されたる無数の皺紋は、深刻にして精苦なりし閲歴の黙示として、頗る記者の同情を刺戟したりき。村夫子らしき質朴の風采にも、流石に第一流の国士たる品位は備はりて侵かし難く、純白にして柔滑なる絹様の美鬚髯は、奇麗に梳られて顔面の高貴なる粧飾と為れり。凡そ人物の精力は、大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり。明治の時代を見るに、維新政府の建設より国会開設に至るまでを第一期と為す可く、国会開設より憲政党内閣の組織に至るまでを第二期と為す可く、第一期の時代事業は、専制主義の政府に代ゆるに立憲政府を以てして、国民に参政権を享有せしむるに在りき。是れ最も重大にして最も困難なる時代事業にして、欧洲に在ては、之れを仕遂ぐるが為に殆ど百年以上の苦がき運動を要したりき。日本の板垣伯は、明治六年始めて其の同志と与に民選議院の建白を提出したり。而して十四年には、国会開設を予約し給へる詔勅の煥発あり、二十二年には国民歓呼の間に憲法発布せられ、其の翌年には待ち設けたる初期の議会は召集せられたりき。是れ豈驚く可き速力を示せる成功に非ずや。彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり。彼れは他の如何なる政治家よりも、此の第一期の時代事業に貢献したる功労多きは、争ふ可からざる事実なり。伊藤侯は憲法立案者の名誉を独擅し得可し、然れども此の名誉は、板垣伯が国民的運動の首領として根気よく国会論を継続したる賜のみ。故に伊藤侯が故陸奥伯の献策を納れて、彼れの率いたる旧自由党と提携せむとするや、先づ彼れと会合し、徐ろに説て曰く、足下は国会開設の主動者なり、我輩は憲法の立案者なり、乃ち立憲政治の美を済すの責任は、懸つて足下と我輩との双肩に在らずやと。是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も、事実は之れを真理として承認せざる可からず。彼れは日本憲政史上に永久磨滅す可からざる千古の格言を留めぬ。如何に其の沈痛にして天来の音響を帯びたるかを記臆せよ、曰く板垣死すとも自由は死せずと、是れ実に国民的運動の大精神を代表したるものに非ずして何ぞや。彼れの名は此の格言に依て万世に感謝せらる可し。たとひ岐阜の遭難に死したりしとも、彼れに於て復た何の遺憾あらむ。况むや生きて第一期の時代事業を完成し、併せて其の当初の理想を実現したる政党内閣をも、一たびは大隈伯と聯合して之れを組織したることあるをや。彼れは第一期の時代事業に竭くす可かりし精力を余まして、之れを第二期の事業にも使用したるがゆゑに、是れ所謂る強弩の末、魯縞を穿たざるもの。記者は寧ろ彼れが退隠の遅かりしを惜む。
 顧ふに旧自由党は、彼れと与に産まれて、彼れと与に成長したるものなり。彼れ一旦悟る所あるや、何の惜気もなく、無代価にて之れを伊藤侯に譲与したりき。是れ人情の忍び難しとする所なれども、彼れに在ては疑ひもなく明哲の処置たり。蓋し今の政治界に立つものは、皆権勢利禄を得むことを目的とし、此の目的を達するに最も都合善き首領を求めて之れに頼らむと欲するものに非るなし。而も彼れの位地及び人物は此の点に於て党人の望を繋ぐに足らざるを如何せむや。彼れが人情の忍び難きを忍びたるは、更に之れよりも一層忍び難きものあるを恐れたればなり。

      其三 社会改良
 円卓を隔てゝ彼れと語れる記者は、如上の理由に依りて彼れの退隠に同情を表するを禁じ得ざりき。此に於てか彼れの社会事業は、又た満腔の敬意を以て之れを迎へざること能はざりき。彼れは社会改良の必要なる所以を説て曰く、
憲政の完美を謀らむとせば、社会の根柢を鞏固ならしめざる可からず。社会の公徳腐敗しては、独り政治の健全ならむことを望むも難からずや。而して社会の公徳は、宗教家若くは道学先生の説教のみにて維持し得可きに非ざれば、先づ有形上の礼節作法より矯正し始むるを要す。是れ余が風俗改良に着手したる所以なり。
彼れは※(「女+尾」、第3水準1-15-81)々として順序正しく語り出だせり、彼れは風俗改良の手段としては、次に国民の音楽にも注意せざる可からずといひて、泰西の楽譜曲調を直訳したる学校音楽は、日本国民の趣味に適せざるがゆゑに之れを改良すべき必要ありと説きたり。彼れは憐れなる盲人の生活状態を進めむが為に、盲人教育の必要ありと説きたり。彼れは鰥寡孤独の救恤男女労働者の保護は、共に国家の責任に属する重要なる問題なるがゆゑに、前年内務大臣たりし時、既に属僚に命じて調査せしめたることありと説きたり。彼れは之れを説きつゝ、或は瞑目して熟考する如く、或は眉を軒げ手を揺がして語気を助けたりき。最後に彼れは最も興味ある佳語を以て、記者の傾聴を促がしたり。
余を顧問としたる婦人同情会は女囚携帯乳児保育会なるものを組織したり。是れ其の名の如く女囚の携帯乳児を引取りて、之れを保育するを目的とする慈善事業なり。凡そ襁褓の乳児にして、其の母の有罪なる為めに、均しく獄中に伴はれて陰欝なる囚房の間に養育せらる、天下豈此に過ぐるの惨事あらむや、彼れ携帯乳児の、斯く獄舎の生活に慣るゝや、反つて普通児童の活溌なる遊戯を喜ばずして、再び獄舎に入らむことを望むものあるに至る。
彼れは談じて此に至り、殆ど感慨に堪へざるものゝ如く、其の瞼辺は少しく湿るみ、其声は少しく顫ひぬ。
一女囚の携帯せる乳児は、母乳の不足なるが為に、麦飯の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)オモユを飲用せしめたるに、激烈なる下痢を起して死に瀕したり。婦人同情会は之れを引取りて治療を加ふるや、此の半死半生の乳児は、忽ちにして健康体に復したりき。母の刑期満つるを聞きて、其の監獄に携へ往きて母子を会見せしめたるに、母は喜び極まつて泣き、以後決して罪悪を犯さずと誓へりとぞ。又た一乳児あり、声を発する毎に臍凹み頭脳は腫張して頗る畸形なりき。其の病源は不明なれども兎に角之れを引取りて養育したるに、頭脳は常態に復し、臍部の奇観も止みたりき。
彼れは※(「口+荅」、第4水準2-4-16)然として笑へり。冷やかなる笑に非ずして温かなる笑なりき。彼れは遽に容を改め、極めて荘重なる弁舌を以て犯罪を天性に帰するの理論を否定せり。彼れは犯罪を以て人生の不平に原本すと為し、家に財なく、身に技術なきは不平の由て起る所なるがゆゑに、犯罪を減少せむとせば、国家は貧民に教育を与へて、生活に必要なる技術を授けざる可からずと熱心に論じつゝ、静に椅子を離れて伝鈴を押せり。彼れは響に応じて来れる書生に、婦人同情会規則を持参す可きを命ぜり。斯くて一葉の印刷物を記者に渡たしたる彼れは、稍々其の顔面を曇翳を浮かべつゝ、
真の慈善家は大抵資財なく、富めるもの多くは慈善家にあらず、儘ならぬ世や。
と語り終りて座に復せり。

      其四 彼れの人格
 記者が彼れに於て見たる人格には、胆識雄邁、覇気人を圧する大隈伯の英姿なく、聡敏濶達、才情円熟なる伊藤侯の風神なく、其の清※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)孤峭にして、儀容の端※[#「殼/心」、43-上-8]なる、其の弁論の直截明晰にして而も謹厳なる、自ら是れ義人若くは愛国者の典型なり。土佐人士には二種の系統あり、一は冷脳にして利害に敏なる策士肌の系統にして、故後藤伯之れを代表し、大石正巳林有造等の人格は之れに属せり。一は温情にして理想に富める君子肌の系統にして、板垣伯之れを代表し、故馬場辰猪植木枝盛等の人格之れに属せり。谷干城子の如きも、孰れかといへば寧ろ後者に近かく、唯だ其の板垣伯と異る所は、主義のみ、信条のみ、有体に評すれば、谷子は保守主義の板垣伯にして、板垣伯は進歩主義の谷子なり、更に語を換へていへば、谷子は東洋的板垣伯にして、板垣伯は欧化したる谷子なり。
記者は彼れの応接間を辞せむとしつゝ、端なく三個の額面に注目を導かれぬ。彼れは記者の問に応じて身を起し、先づ南面の壁上に掛れる金縁の大額を説明して曰く、
是れ普仏戦争後に於ける第一囘の仏国国民議会なり。左側に起立し、頻りに手を揮つて何事か発言しつゝあるの状を為せる鬚武者の男は、有名なるガムベツタなり。彼れは急進過激党の首領として、断然共和政府を建設す可しと主張し、当時盛むに国民議会の議場に暴ばれたりき。中央の椅子に坐を占め、群衆に取り囲まれて沈思黙考しつゝあるは、穏和党の首領チエールなり。彼れは共和政府建設論に対して、猶予決する能はざるが為に、急激党の難詰を受けつゝあるなり。
彼れは更に他の一額に向へり。是れ伊太利統一後始めて開きたる伊太利議会の写真なりき。彼れの持てる扇子は、起立せる異装の一漢子に触れたり。彼れは曰く、
見よ、破れたる軍帽を冠むり、長がき外套を着し、一人の従者を伴ふて議場の片隅に起てる質朴漢は、是れ議会の光景を見むとて来れるガリバルヂーなり。
彼れは曾て日本のガリバルヂーを以て称せられたりき。其の多感にして侠熱ある、夫れ或はガリバルヂーに私淑する所あるに由るか。最後に彼れの説明せる石版絵の額は、此応接間に於て最も珍奇なる紀念品たりき。旧式の武装を為したる十四五人の軍人は、或は鉄砲を捧げ、或は刀を撫して撮影せられぬ。而して彼れは三十歳前後の血気盛りなる風貌に於て其の中に見出されしが、其の面影は今も争はれぬ肖似を認識せしめたりき。此石版絵は、彼れが会津征伐より凱旋して、部下の士官を随へ、江戸市中を遊観したる時、通り掛けの写真屋にて撮影したるものゝ複製なり。彼れは之れを説明しつゝ滄桑の感に堪へざるものゝ如し。
 顧れば彼れの出発点は軍人にして、中ごろ改革家と為り、国会論者と為り、政党の首領と為り、終には社会改良家と為りて、最も平和なる生涯に入る。是れ譬へば急湍変じて激流と為り、更に変じて静流と為り、而して後一碧洋々たる湖沼と為れるが如し。此の点よりいへば、人生自然の順序を経過したりといふ可し。然れども彼れの生涯を一貫して渝らざるものは、利害よりも良心に動され易き性情是れなり。是れ彼れの彼れたる所以なり。(三十五年十月)

     古稀の板垣伯

 ※(丸中黒、1-3-26)三月十八日紅葉館に開かれたる板垣伯古稀の寿筵は、無限の同情と靄々たる和気とを以て満たされた近年の盛会であつた。伯の晩年は甚だ寂寞で、殆ど社会に忘られて居つたが、而も伯は社会に忘れらるゝのを怨みもせず、悲みもせず、又毫も自分に対する国民の記憶を要求もしない。こゝらが板垣伯の人格の尊い所であらう。
 ※(丸中黒、1-3-26)元来伯は犠牲的精神に富める義人の典型であつて、政治家といふ柄ではない。故に政治上に於ては、伯よりも大なる事業を成した人は幾らもある。併し功労の多少は別問題として、伯は明治史劇の或る重なる部分を勤めた役者であるに相違ない。
 ※(丸中黒、1-3-26)民権自由論は決して伯の専売品ではない。故木戸公や、今の伊藤侯大隈伯などは、伯よりも以前に、少なくとも伯と同時代頃には、民権自由の意義を領解して居つたのである。士族の特権を廃して四民平等の制度を設けたのは、即ち民権自由論より割り出した改革で、此の改革は、勿論伯一人の発議ではないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)民選議院設立の建白といつても伯の首唱ではなく、当時の政府反対党が案出したる政略的意見であるといふ方が適当である。伯は其の連名の一人たる外に、更に特筆大書すべき異彩を有した訳ではないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)立憲政治を最も親切に研究した政治家は、故木戸公で、地方官会議を開いたのは其の準備であつたといつても宜しい。故木戸公のみならず、維新の元勲諸公は総て立憲政治の必要を認めて居つたのである。論より証拠、維新の元勲中、誰れあつて立憲政治に反対した者がなかつたのを見ても分かる。
 ※(丸中黒、1-3-26)切にいへば、明治政府は最初より立憲政治を主義としたものである。維新の大詔に、万機公論に決すべしとありしは、最も明快に此の主義を宣示したので、明治初年早くも集議院といへる会議組織の官衙を設けたのも、立憲政治の地ならしを試みたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)されば二十三年の国会開設は、明治政府が維新以来準備して居つた大事業を完成したまでゝあつて、板垣伯の運動に余儀なくされたのでも何んでもないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)且つ板垣伯の主張したる民権自由論は、仏国革命時代に行はれたルーソー民約説の流れを酌んだもので、日本の国体とは両立し難き危激な理想を含んで居つた。今日では何人も斯る民権自由論を唱ふるものがない、恐くは伯自身に於ても全く其の持論を一変したのであらうと考へる。
 ※(丸中黒、1-3-26)要するに、伯は立憲政治の建設に第一の功労ある人ではない。伯は夢の如き理想を以て夢の如き公生涯に浮沈したに過ぎないのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)併しながら伯のエライ所がないでもない。それは私党を作らずして公党を作つたことである。老西郷の私学校は一種の私党で、老西郷の人物を崇拝する連中の団体であつた。当時政府に反対するものは、動もすれば私党を作るの傾向があつて、前原一誠の如き、江藤新平の如き、皆私党を率いて事を挙げたのであつた。然るに伯は民権自由論の一点張りで、唯だ理想を宣伝することのみを勉めた。畢竟伯は政権を得むとするの野心がなく、偏へに民権自由論を鼓吹するを目的としたからである。自由党は其の結果として生れたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)若し伯にして政権の分配に与らむとする意があつたとすれば、民権自由論は極めて不利の武器であつた。伯は此の武器に依て却つて政権より遠かつたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)一体伯は私党を作るには不向の性格を有して居るかも知れない。私党は人を本位としたもので、其の人に党すれば位地を得る望みがあると考へる野心家とか、若くは其の人に首領的器局があつて何となく群衆を引き付ける所があるので、従つて人物を崇拝するものとかゞ結合した団体である。然るに伯は自分の部下となるものに青雲の志を遂げしむる勢力と手腕とを持つては居らなかつた。又群衆を引き付ける首領的器局を備へた人でもないやうである。
 ※(丸中黒、1-3-26)伯は巧みに風雲を指麾し、機会を利用して権勢を博取する故後藤伯の智略を欠いて居る。伯は利害を打算して進退する策士でないから、功名を懐ふものは伯の旗下に集らなかつた。たとひ一たび伯の門を潜つても大抵は失望して逃げ出すものが多かつたやうである。
 ※(丸中黒、1-3-26)且つ伯は自由民権論の大宗師で、理論に於ては平民主義を信じて居つたに相違ないが、伯自身は平民らしくなく、寧ろ貴族風の人といふものがある。
 ※(丸中黒、1-3-26)それから伯は極めて潔癖で、憤りつぽくて、人を容るゝの量に富んだ方でもない。又赤心を人の腹中に預けて置て毫も疑はぬやうの英雄収攬術には頗る欠けて居るらしい。曾て馬場辰猪、大石正巳、末広重恭などが伯と喧譁別れをしたのも之れが為である。
 ※(丸中黒、1-3-26)故に伯は個人として余り士心を得た方でなかつた。併し伯は人気を取ることを目的としないで、唯だ自由民権論を終始一日の如く唱道した。伯の政治生涯は性格に依て指導せられたる所少なく、理想に依て指導せられた所が多い。伯は理想を以て国民を教化せむと勉めたのであつた。其の結果板垣党が生れずして自由党が生れた。伯を中心としたる私党ではなく、理想を中心としたる公党が出来上つたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)自由党に続て改進党が現はれたが、此の改進党は本来をいへば大隈伯が自分の直参や郎等を集めて作つたもので、実際初めは伯を中心として組織せられたものであつたから、何となく大隈臭い所があつた。世人も亦一名之れを大隈党といつたのである。然るに自由党は少しも板垣臭い所はなかつた。どう見ても板垣党といふべき形も色もなかつたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)勿論当時自由党は屡々過激の行動が有て、政府より革命党か叛逆人の寄合かのやうに思はれ、世間も亦自由党といへば粗暴なる壮士の団体であると認めたものも多かつたから、着実に政治の改良を企てやうとするものは、自由党よりも改進党に赴くの傾向があつた。
 ※(丸中黒、1-3-26)併し伯の東奔西走の労苦は空しからず、追々自由党の勢力は拡がつて、地方の政治的地図の大部分は、自由党に依て占領せられた。今の政友会が政党中で最も幅を利かして居るのは伯の植ゑ付けた苗木の伸びたのに過ぎない。
 ※(丸中黒、1-3-26)伯の事業として特筆すべきものは即ちこれであつて、明治の政党史を編するものは、必らず伯の為に多くの頁数を割愛せねばならぬと考へる。
 ※(丸中黒、1-3-26)勿論議会開設後の自由党は、最早自由民権論といふやうな理想ばかりで動いて居る訳には往かない。政党の仕事は、重に議会の掛引で空理空論よりも実際問題を処置せねばならぬ。そこで自由党は次第に板垣伯の指導に満足しなくなつた。伯も亦余り政治には熱心でなかつたやうで、事実をいへば、唯だ名ばかりの首領であつた。
 ※(丸中黒、1-3-26)星亨の如き腕白者が自由党の実権を握つたのも、即ち其の為めであつて、伯の政治生涯は此の時代には既に終りを告げて居つたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)伊藤侯が政友会を組織して自由党を改宗させたのは、板垣伯に取つても渡りに船で(伯はさう思つて居らぬかも知れぬが)若し此の過渡の一時期がなかつたならば、伯は自由党の始末に窮したであらう。
 ※(丸中黒、1-3-26)兎に角伯は自由党の為に余程苦労されたものである。其の後身たる政友会は決して伯の前功を忘れてはならぬ。(三十九年四月)

   公爵 山県有朋

     山県有朋

 世間、山県有朋を見る何ぞ其れ謬れるや。彼を崇拝するものは曰く、重厚端※[#「殼/心」、45-下-16]古名臣の風ありと※(白ゴマ、1-3-29)彼を軽蔑するものは曰く、小胆褊狭毫も人材を籠葢するの才なしと※(白ゴマ、1-3-29)或は彼を政界の死人なりと笑ひ、或は彼を文武の棟梁なりと称し、毀誉褒貶交々加はるも渾べて皆誤解なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は伊藤博文の如く円転自在ならず※(白ゴマ、1-3-29)大隈重信の如く雄傑特出ならず※(白ゴマ、1-3-29)又井上馨の如く気※(「陥のつくり+炎」、第3水準1-87-64)万丈ならず※(白ゴマ、1-3-29)即ち唯だ平凡他の奇あらざるものに似たりと雖も、余を以て之を観れば、井上や、大隈や、伊藤や、皆露骨裸体の人物にして其長所と短所と共に既に明白なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は独り然らず、彼は政治家として記憶す可き一の成功もなく失敗もなし※(白ゴマ、1-3-29)而も彼は巧みに隠れて巧みに現はるゝの術を善くし、曾て其の行蔵を以て人の指目を惹くの愚を為さず、故に彼は一種の秘密なり。
 伊藤前内閣倒れて松方内閣将に成らんとするや、衆皆彼を以て首相に擬し、慫慂已まず※(白ゴマ、1-3-29)而して彼は固辞して烟霞の間に去れり世間輙ち之を以て彼れの雄心既に消磨せるの兆と為す※(白ゴマ、1-3-29)特に知らず是れ唯だ巧みに隠れたるに過ぎずして、以て彼れが決して再現せざるの永訣と為す可からざるを※(白ゴマ、1-3-29)何を以て之れを言ふや、彼れは曾て前内閣に公然反対は為さゞりしも亦其の交迭の機終に近づけるを知りたりき※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れの露国に往けるに及て、世間彼が外遊の所由を察せざるに拘らず、政変は必らず彼れの帰朝後に起る可きを予想したりき※(白ゴマ、1-3-29)果然彼の帰朝と共に一個の公問題は政変の前駆となり出でたりき※(白ゴマ、1-3-29)曰く大隈を外務に入れ松方を大蔵に挙ぐるは戦後に経営を全うする刻下の急要なりと※(白ゴマ、1-3-29)而して彼は此問題の発議者として数へらるゝのみならず、又之れを実行するに於て朝野の間に斡旋したりき※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如くにして前内閣倒れたりとせば、之に代るの内閣が彼に首相たるを求むるは自然の情勢なり※(白ゴマ、1-3-29)而かも彼は周囲の慫慂に応ぜずして反つて新内閣の組織に干渉せず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其の志決して政界に永訣せるに非ず、彼は巧みに隠れたるのみ。
 試に彼が黒田内閣の時代に於ける出処を見よ※(白ゴマ、1-3-29)彼は条約改正に反対するが為に一の機関新聞を起して頻りに大隈攻撃を事とせしめ、而して当時彼は外国を漫遊して恰も政変を待つものゝ如く、其帰朝せるの日は、大隈難に逢ふて内閣方に動くの際にして、彼は内閣交迭の主謀者たらざるも、亦敢て黒田内閣の不幸を助くるの意思はなかりき※(白ゴマ、1-3-29)故に黒田首相職を辞するや、衆彼に擬するに首相を以てすること亦猶ほ伊藤前内閣崩壊後に於けるが如くなりき※(白ゴマ、1-3-29)而も彼が固辞して受けざるや、故三条公乃ち已むを得ずして首相となれり※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼が巧みに隠れたる所以にして、其の機熟し時来れるを見るや、彼れ果して巧みに現はれて、山県内閣は忽如として成りたりき※(白ゴマ、1-3-29)歴史は反復す、山県有朋は未だ死せざるを知らずや。抑も彼は前内閣の後を受けて自ら内閣を組織せざるは何の故ぞ、蓋し大隈を畏れたるに由る※(白ゴマ、1-3-29)大隈を畏るゝは大隈と進歩党との関係に顧みる所あるが為なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの進歩党を好まざるは自由党を好まざるに同じきなり※(白ゴマ、1-3-29)然らば何故に前に大隈の入閣に賛成せる乎※(白ゴマ、1-3-29)蓋し大隈出でずむば内閣改造の事成す可からざればなり※(白ゴマ、1-3-29)今や彼は京摂の間に優悠して復た人世に意なきが如しと雖も、彼と同腹一体の苦談楼主人は縦横策を画して風雪を煽ぐに日も維れ足らざるに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)彼は巧みに現れんが為に巧みに隠れたるのみ※(白ゴマ、1-3-29)彼は遅鈍なる如くにして反つて巧遅に※(白ゴマ、1-3-29)容易に放たず、容易に動かずして、出でても身を保つを思ひ、処りても身を保つを思ふ※(白ゴマ、1-3-29)而して人は終に彼れの智術を知らざるなり。
 彼は最も失敗を恐る※(白ゴマ、1-3-29)失敗を恐るゝは名を惜む所以にして、名を惜むは身を保つ所以なり※(白ゴマ、1-3-29)故に彼は隠忍慎密先づ自ら布置せずして他の石を下すを待つの碁法を用ゆ※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤春畝先生と雖も未だ悟入せざるの奇法にして、流石に滑脱なる先生も、其出処進退の巧みなるに至ては遠く彼に及ばざるもの洵に此れが為なり※(白ゴマ、1-3-29)余は彼が未来の運命を予言し得るものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば政界今後の未来は容易に予言し得るものならざればなり※(白ゴマ、1-3-29)若し万々一大隈をして失敗を再びせしめ、国民派をして其の理想を実行せしむる不思議の政変あらば、固より山県時代を見るに至らずと謂はず※(白ゴマ、1-3-29)然れども斯くの如くして成りたる内閣は能く政治上の進歩と両立し得る乎※(白ゴマ、1-3-29)自由党に反対せられ、進歩党に背かれて能く幾何日月を維持し得る乎※(白ゴマ、1-3-29)或は議院を解散して露国を征伐するの夢を見む乎※(白ゴマ、1-3-29)或は伊藤、井上を聯ねて長州内閣を組織するの算ある乎※(白ゴマ、1-3-29)均しく皆一場の空想たるに過ぎずむば、彼れが身を保つの最好秘訣は、唯だ今日に於て実際に政界と永訣するに在るのみ。(二十九年十二月)

     山県侯の政治的系統

      其一 山県侯の潜勢力
 有体に云へば、山県侯は政治家として今尚ほ顕勢力を有するの人に非ず※(白ゴマ、1-3-29)其思想は時代の精神に後れ、其手腕は立憲機関の運用に適せず※(白ゴマ、1-3-29)而して其名望を視れば、固より国民的基礎の上に立てる大隈板垣等の政党首領と同じからず※(白ゴマ、1-3-29)况むや侯は元来馬上の雄にして、政治は其長所ならざる可きに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)侯曰く、余は一介の武弁、敢て現時の難局に当るに足らずと※(白ゴマ、1-3-29)是れ謙抑の言に似たれども、実は自己の真価を語りたる自然の自白なり。
 されど不思議なるは侯の位地なり※(白ゴマ、1-3-29)現時の難局は、有力なる政治家の挙げて手を焼きたる所なるに、侯は所謂る一介の武弁を以て之に当らむとし、自ら椿山荘を出でて第二次の山県内閣を建設す※(白ゴマ、1-3-29)顧るに第一次の山県内閣は、伊藤大隈の連敗の後を受けて起り、今や第二次の山県内閣も亦伊藤大隈連敗の後に出でたり※(白ゴマ、1-3-29)夫れ伊藤大隈は当世の二大政治家にして、之れを山県侯に比すれば、政治に於て一日の長あること何人も疑はざる所なり※(白ゴマ、1-3-29)而も侯は前後共に此二大政治家の持て余ましたる難局に当りて敢て怪まざるは奇なりと謂ふべし※(白ゴマ、1-3-29)進歩派の領袖大石正巳氏の如きは、侯の内閣を冷笑して、鎧袖一たび触るれば忽ち倒る可しといひたれども、啻に倒れざるのみならず、反つて之れを助くるもの朝野に少なからざるは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)蓋し侯は政治上の顕勢力を有せずと雖も、尚ほ一種の潜勢力を有すればなり※(白ゴマ、1-3-29)侯の現在の位地を知らむとするものは、先づ此潜勢力を観察せざる可からず。
 品川子は、侯及び伊藤井上の三老を崇拝して長州の三尊と称す※(白ゴマ、1-3-29)若し子に向て三尊中の第一座たる人を指名せよと求めば、子は必ず山県侯を指名せむ。是れ侯は三尊中最も大なる潜勢力を有する人たればなり。伊藤侯は潜勢力なきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど其現在の位地は寧ろ孤立なり※(白ゴマ、1-3-29)一見すれば其名望甚だ広大なる如くなれども、実は漠然として定形なき名望のみ※(白ゴマ、1-3-29)侯と利害休戚を同うするものは、伊東巳代治、末松謙澄、金子堅太郎の二三あるに過ぎずして、其領分は頗る狭隘なるものなり※(白ゴマ、1-3-29)井上伯に至ては、殆ど純然たる政友を有せず、其有する所のものは、山県侯の系統に属する人物にして、伯に専属するものにはあらじ。例へば都筑馨六、小松原英太郎、藤田四郎、古沢滋の如き其他中央官府及び地方庁に散在する属僚の如き、皆是れなり。
 顧みて山県侯の系統を見よ、現内閣に於ては、清浦奎吾、曾禰荒助、桂太郎の三氏固より侯の直参たり※(白ゴマ、1-3-29)荒川顕正子の如きは、世人或は伊藤系統に属するものなりと想像するものあれども、子は夙に山県侯の推挽によりて漸く顕要の位地を占めたる人なるを以て、若し両侯両立せざるの時あらば、子恐らくは、伊藤侯に背くも山県侯に背く能はず※(白ゴマ、1-3-29)青木周蔵子の傲岸不遜は、伊藤侯にも井上伯にも忌まるれど、独り山県侯は善く之れを容れ、第一次の内閣にも外務大臣の椅子を与へ、今の第二次内閣にも又子を外務大臣と為す※(白ゴマ、1-3-29)故に子は深く侯を徳として其腹心なるを甘むず。児玉台湾総督は、伊藤内閣の時代に用いられたる人なれども、其系統をいへば山県派に属し、前々警視総監たりし園田安賢男及び現警視総監大浦兼武氏は、長化したる薩人を以て目せられ、共に山県侯の幕下たり、園田男は曾て伊藤侯にも信任せられたる人なれども、大隈内閣の成立せる当時より、遽かに伊藤侯の政見を非として純然たる山県崇拝家と為れり※(白ゴマ、1-3-29)会計検査院長渡辺昇子は世人之れを伊藤系統の人なりといへども、其思想感情は寧ろ山県侯に近かく、検査官中の老功中山寛六郎氏は、今や満身錆※(「金+肅」、第3水準1-93-39)の廃刄なれども、一時は属僚中の尤たりしが、氏も亦山県侯に恩顧ある人なり※(白ゴマ、1-3-29)現宮内大臣田中光顕子は土佐出身なれども、其精神は夙に之れを山県侯に捧げたる人なり※(白ゴマ、1-3-29)現法制局長平田東助氏は、政府部内に於ける一方の領袖にして、而も山県侯の参謀と称せられ、現内閣書記官長安広伴一郎氏は、後進の一敏才にして、而も山県侯の智嚢たり※(白ゴマ、1-3-29)野村靖子は第二次伊藤内閣の逓信大臣たりし時、属僚の為めに放逐せられたる敗軍の将にして、今は枢密院に隠るゝ人なれども、山県侯一たび之れを招げば、履を逆まにして之れに馳せむ※(白ゴマ、1-3-29)看来れば山県系統の四方に蔓引すること実に斯くの如きものあり。
 此故に侯が政府部内及び貴族院に於ける潜勢力は、薩長の元勲中一人として之れに及ぶ者あるなし※(白ゴマ、1-3-29)先づ政府部内に就ていはむか、内務省は近来自由派の為めに踏み荒されたれども、山県侯が曾て久しく統治したる領分なれば、其根拠の鞏固なる容易に抜く可からざるものあり※(白ゴマ、1-3-29)司法省に於ける山県系統は亦頗る広く、其清浦派と目せらるゝものは、総べて山県系統と認めて可なり、逓信省は之を前にしては野村靖子に依て、之れを中ころにしては、故白根専一男に依て、之れを今にして芳川顕正子に依て其山県侯の領分を開拓したること少なからず※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ陸軍省に至ては、是れ殆ど侯ありて始めて陸軍省ありと謂ふ可くして、侯が外に在るの日と雖も、侯の威信は隠然として省中の魔力たり※(白ゴマ、1-3-29)而して侯の系統の及ばざる所は、薩人の領分たる海軍省と赤門、茗渓両派の争点たる文部省及び松方伯の根拠たる大蔵省にして、農商務省は曾て品川子の大臣たりし時、多少山県侯の系統を引き入れたることあるは人の知る所なり※(白ゴマ、1-3-29)次に貴族院に就て之れをいはゞ、彼の研究会の如きは、其初め実に第一次の山県内閣に依て種子を播き、山県派の人物に依て次第に培養せられたるものなり※(白ゴマ、1-3-29)現に清浦氏は研究会の領袖として之れを操縦するに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)伊東巳代治男の如きは、一時研究会の黒幕と称せられたることありしも、其信用は到底清浦氏の敵に非ざる無論なり。

      其二 山県侯と国民協会との関係
 国民協会は山県侯の直接に関係したる政団に非ず※(白ゴマ、1-3-29)之を組織したる張本は西郷侯品川子の二人にして、組織に参与せるものは、樺山伯高島子及び故白根男なり※(白ゴマ、1-3-29)而して其最初の目的は実に藩閥を擁護せむとするに在りき※(白ゴマ、1-3-29)されど第二次松方内閣起るに及て、協会員中の薩派に属するものは大抵分離し去て、今や協会は殆ど純粋の長派と為れり※(白ゴマ、1-3-29)但し佐々友房氏は、今も尚ほ薩長聯合の旧夢に迷ふ人なれど、多数の会員は全く長派に傾き、中にも山県崇拝の感情を有するもの最も多し。首領品川子は、山県崇拝の随一にして、大岡育造氏の如きも寧ろ山県系統に属せり。大岡氏は井上侯にも、伊藤侯にも親密の関係あれども、個人としては最も山県侯に深縁あり。されど氏は常に長派の統一を謀るを以て念とし、特に伊藤山県両侯の調和者として、近来頗る努力しつゝあるは、既に公然の秘密なり。
 案ずるに山県侯は、其思想性格に於て大に伊藤侯と合はざる所あり。山県侯は保守的思想を有し、伊藤侯は進歩的思想を有し、山県侯は謹厳端実の性格にして、伊藤侯は磊落滑脱の気質なり。且つ山県侯は由来神経質の人物にして、動もすれば厭世主義に傾けども、伊藤侯は快豁なる多血質にして、楽天主義の人物なり。其公私の行動に於て往々衝突することあるは、亦已むを得ずと謂ふ可し。大岡氏は政治家としては固より伊藤侯を推す可きも、山県侯とは亦切て切れられざる関係あるに於て、其両侯の睚眦反目を融解せむと勉むるは何ぞ怪むに足らむや。
 山県侯が第二次内閣を組織するや、協会員中議論二派に分かる。甲は絶対的に内閣を助けむと主張して、乙は超然内閣にては反対するの外なしと主張し、大岡氏の如きは寧ろ後者の主張者たりしと雖も、是れ唯だ一時の権略にして、実は山県内閣をして自由派と提携せしめむとするの意たりしならむのみ。蓋し山県内閣をして自由派と提携せしむるは、是れ山県伊藤両侯をして調和せしむる所以なればなり。而して大岡氏は終に其目的を達せり。山県侯は一切の感情を棄てゝ自由派と提携し、伊藤侯も亦其挙を賛して、背後より山県内閣に応援す可きの約を為したり。此に於て国民協会は純然たる山県内閣の与党と為ると共に、衆議院に一名の政友を有せずと目せられたる山県侯は、此に新たなる忠実の政友を有するに至れり。

      其三 山県系統の両派
 国民協会は既に山県侯の忠実なる政友と為れりと雖も其中固より両派あり。保守主義を有するものと、進歩主義を有する者と是れなり。首領品川子は稍々保守主義に近く、政党内閣には反対の意見を有する人なり。佐々氏の熊本国権派は、初めより絶対的に政党内閣を非認する保守主義を有するものたり。之に反して大岡、元田等の一派は、時勢の変に際して政党内閣の避く可からざるを信ずるものなり。彼等は精確の意義に於ける進歩主義を有するものにあらざれども、少なくとも時勢と推移するの術を解するものなり。此点に於て佐々等の国権派と内政に対する政見を異にするは疑ひもなき事実にして、其山県侯の為に謀る所以のもの随て自ら径庭あるを見る可し。国民協会以外に於ける山県系統の人物を見るに、亦進歩保守の両派に分かれたり。保守派の最も極端なるものは、都筑、園田、野村、古沢等にして、彼等は啻に政党内閣を忌むこと蛇蝎の如くなるのみならず、政党と提携するすら既に内閣の尊厳を失ふものなりと信ずるものゝ如し。憲政党内閣の成るや、園田男は其内閣を認めて帝国の国体を破壊するの内閣なりと罵り、自ら警視庁を煽動して之れに反抗を試みむとしたる人なり、野村子は曾て客に語りて、議会は幾たびにても解散して可なりと主張し、予算不成立の不幸は、内閣大臣以下腰弁当にて之れを償ひ得可しとの奇論を吐きたる人なり、古沢氏は往時自由党に入りて民権を唱へたる人なれども、其後長派の恩顧を受くるに及で、一変して藩閥党と成り、近来は帝王神権説を主張して、極力政党内閣に反対し、都筑氏は、井上伯が嘗て官吏と為るの外には潰ぶしの利かぬ男なりと評せしほどの自然的吏人にして、吏権万能の主義を固執せる保守的人物なり。山県内閣の将に自由派と提携せむとするや、氏は最も強硬なる非提携論者にして、山県侯に勧むるに飽くまで超然内閣の本領を立つ可きを以てしたりといふ。聞く氏は山県系統中に在て、最も才気峻峭なる壮年政治家なりと。然るに其時務を弁ずるの迂濶なること斯の如きは、豈学に僻する所あるが為ならずや。朝比奈知泉二宮熊次郎の両氏は、山県侯に深厚なる同情を表する政論家なり。朝比奈氏は曾て侯の機関たる東京新聞主筆として、夙に非政党内閣を主張し、其後日々新聞に筆を執るに及でも、終始其主張を改めざる人にして、其屠竜縛虎の雄文一世を傾倒して何人も敵するものなし。聞く非政党内閣は氏の持論なりと。二宮氏は曩きに独逸に留学して、国家主義を齎らし帰り、今や現に『京華日報』の主筆として、日に政党攻撃の文を草し、伊藤侯が内閣を憲政党に引渡したるの挙を目して乱臣賊子の所為なりと極論したることあり。此両氏は共に山県系統の保守派にして、唯だ朝比奈氏は二宮氏に比して少しく温和にして変通あるを異りとするのみ。
 更に山県系統の進歩派を見るに、実は極めて少数にして、正直に政党内閣を信ずる者は、恐らくは絶無なる可し。されど清浦、曾禰、桂等の諸氏は半ば政党内閣を信じ、青木子に至ては十中八九までは政党内閣論に傾き、現に山県内閣成るの前、自ら憲政党に入党を申込みたりといふを見れば、子は遠からずして政党員たるの日ある可し。
 山県系統は以上の如く両派に分かれ、両派互に侯を擁して、第二次内閣を組織したるを以て、其内閣は超然を本領とするにもあらず、政党を基礎とするにもあらざる雑駁の内閣を現出するに至れり。世間或は山県侯を以て憲法中止論者とするものあれども、事実は大に然らず。侯は謹慎周密の小心家にして、決して憲法を中止するが如き大英断を施し得る如き人物に非ず。唯だ侯の系統に属する属僚中に無責任の激論を為すものあるが為め、世人をして侯を誤解せしめたるのみ。但し昨年伊藤内閣の末路に方りて、宮中に元老会議あり。伊藤侯の提出したる善後策に対して、黒田伯の憲法中止論出でたるは、事実として伝へられたれども、是れとても伯が熱心に主張したるには非ざりしといふ。山県侯の謹慎を以てして、豈斯くの如き暴論を唱ふることあるべけんや。
 余は曾て侯は出処に巧みなる人なりと評したることあり。其今囘に処する所以の者を観るに、亦頗る其巧処あるに感服すと雖も、侯は到底政治家に非ず。久しからずして必らず退隠せむ。唯だ其現在の位地は、侯が従来養ひ来れる潜勢力によるものなるを知らば、侯の潜勢力にして存在する限りは、侯は決して未だ政界の死人に非ずと知るべし。(三十二年一月)

     山県首相に与ふ

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 侯爵山県公閣下、我輩は多年閣下の政敵として論壇に立つものなりと雖も、閣下の徳を頌するに於て、亦敢て政府の属僚に譲らざるの誠実を有せり、彼の政府の属僚が閣下の徳を頌するや、動もすれば其過失をも弁護して閣下を誤らむとするものあり、我輩の閣下の徳を頌するや、唯だ其頌す可き所以を頌して、有りのまゝに所見を披陳するに外ならず、随つて閣下の過失を挙示して忌憚なき所あるも、故らに訐いて以て直とするには非ずして、之れを閣下の聡明に訴へて、万一の反省を求めむと欲するの微意のみ、我輩は曾て閣下に何の恩怨なく、又何の求むる所なし、則ち其歎美す可きを歎美し、攻撃す可きを攻撃するに於て、一に事実と理義に拠りて公明正大の論断を下だすに過ぎざるなり。
 相公閣下、率直にいへば、我輩は閣下を当世の大政治家として、其人物を崇拝するものに非ず、又内治外交の政策に付ても、我輩は不幸にして多く閣下に同情を表する能はざるを悲む、さりながら維新の元勲として閣下の功労は遠く伊藤井上の二者に出で、其維新後に於ける文武の事業も、亦赫々として人目に輝くもの多し、乃ち我輩は閣下の人物及其政策に敬服せざるの故を以て、決して閣下の国家に貢献したる功労を忘るゝものに非ずと雖も、此れと同時に、我輩は近来閣下の政治的過失頗る少なからざるを認識し、而して閣下の晩節之れが為めに大に負傷したるの事実をも認識するに於て、こゝに謹で閣下の処決を促がすの公開状を与へんとす。
 相公閣下、閣下は議会の盲従に依りて、既に二大宿題を解釈し得たり、一は第十三議会に於ける増租案にして、一は第十四議会に於ける衆議院議員選挙法なり、此二大宿題は共に前代内閣の持て余ましたるものたりしに拘らず、閣下の内閣は終に能く議会の協賛を得たり、閣下の得意も亦想ふ可しと為す、而も此れを以て、閣下の内閣極めて鞏固たるの証と信ぜば甚だ誤れり、况むや其の二大宿題の通過の如き、国家の利害より見れば、必ずしも喜ぶ可き成功なりと認む可からざるに於てをや、且つ閣下は内閣組織以来、前代未聞の政治的過失を行へり、顧ふに此の過失は半ば受動的行為に出で、閣下の本意に非るもの多からむ、凡そ人を殺すは罪悪なれども、故殺と謀殺とは、其犯罪の度合に軽重あり、閣下の過失は譬へば故殺罪の如く、始より予備あるの着手に非る可きも、さりとて閣下固より其過失に対する責任を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)がるゝこと能はず、是れ我輩が閣下の為に深く悲む所なり、但だ我輩は閣下の名誉の為に、閣下が此の過失を重ねて益々其徳を傷けざらんことを望み、誠意誠心を以てこゝに謹で閣下の処決を促がすの公開状を与ふ、閣下願くは我輩が以下篇を累ねて説く所を諒とせよ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、世には閣下を目して出処進退に巧みなる人なりといふ者あり、我輩も亦閣下が謹慎にして、常に出処進退に注意するの周到なるを信ずれども、独り閣下が余りに国家を憂ふるに切なるが為に、反つて自家の本領に背きて、漫然今日の難局に当りたるは、我輩甚だ閣下の為に歎惜する所なり、閣下或は国家の急、敢て一身の利害を顧るに遑あらずと言はむ、此の類の言語は、古来往々愛国者の口より聞く所なりと雖も、国家の急は決して斯る単純なる思想の能く済ふ所に非るを奈何せむや。
 曩に閣下の内閣を組織するや、自ら天下に告白して、我れは一介の武弁なりといへり、是恐らくは閣下の謙辞に過ぎざる可しと雖も、其の中亦閣下が自ら知るの明あるをも表示せり、今此の自知の明ありて、尋常愛国者の軌轍を脱する能はず、強て国家の急に赴て之を済ふ所以の経綸なく、而して其の有る所のものは一時姑息の施設に非ずむば則ち行政の紊乱と、議院政略の小成功とを見るのみ、是れ豈閣下の初心ならむや。
 相公閣下、閣下にして若し其初心を点検せば、閣下恐らくは一日も現時の位地に晏然たる能はじ、我輩の見る所に依れば閣下は初期議会を切り抜けたる時を以て、正さしく閣下が政治舞台の千秋楽と為すべかりき、蓋し初期議会は、我国方に憲法政治の開闢時代に属し、内外の人、皆半信半疑の眼を以て、政府及議会の行動を凝視したり、現に欧洲の学者中には、憲法政治を以て東洋人種に適せずと論ずるものありしを見るに於て、政府も議会も、当時実に世界の公試験を受くるの位地に在りたりと謂ふべし。果して大衝突は始まれり、議会は殆ど解散の危機を踏まむとしたりき、而して閣下は当時の内閣に首班として惨憺の経営を竭くし、終に能く議会を平和の間に閉会せしむるを得たりしは、固より閣下の名誉ならずと謂ふ可からず、閣下乃ち此の時を以て内閣を退きたるは、其の出処進退亦巧みならずと謂ふ可からず、閣下若し当時の隠退を以て永久の政治的訣別としたらむには、閣下は清浄円満なる晩節を保全し得て、帝国憲法史上の第一頁を飾るの人物たらむなり、而して斯くの如きは実に閣下の初心たりしや疑ふ可からず。
 惜いかな、閣下は稀有の愛国者たる故を以て、反つて其初心を喪ひ、国家の急を坐視するに忍びずと称して敢て今日の難局に当り、以て初期議会に博し得たる名誉を台無しにするの過失を行ひたり、一昨年閣下が内閣を組織するや、識者は閣下の聡明に異状あるを注目して、窃かに其前途を危みたり、是れ他なし、議会開設以来既に十余年を経過したる時代は、人文の進歩よりいふも、内外形勢の変化より見るも、到底前世紀の賢人等が出現す可き幕ならずと信じたればなり、我輩は必ずしも此見地に雷同するものには非ず、世の所謂る前世紀の賢人中にも、智力根気共に強壮にして、尚ほ能く時代の精神を駆使する人物なきに非ざれども、而も此の見地は、大体に於て真理を外づれざる鉄案たるは論ずるまでもなし。
 相公閣下、我輩は閣下の尊敬す可き賢人たるを知る、之を知るが故に、我輩は閣下の生涯に汚点少なからむことを望みたり、之れを望みたるが故に、今や其晩節を傷けたるを見て、閣下の為に※(「りっしんべん+宛」、第3水準1-84-51)惜するの情も亦随つて切なり、之れを※(「りっしんべん+宛」、第3水準1-84-51)惜するが故に、乃ち忠実に閣下に向て其の処決を勧告す、是れ負傷したる閣下の晩節に対する唯一の臨床療法なればなり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下にして若し初期議会以後の時代を領解し、曾て超然として政界の外に高踏したりとせよ、我輩は決して閣下の徳を頌するに吝ならじ、顧ふに閣下は前には軍制の改革家として、全国皆兵の主義を実行し、後には市町村制度の創意者として、地方自治の基礎を確立したる人なり、閣下は唯だ此の二大事績に依りて、優に明治第一流の元勲たる名誉を要求し得可し、又何ぞ多きを望みて反つて大に失ふの愚を為す可けむや。
 閣下が明治五年陸軍の編制に着手するや、之に反対せるものは、当時軍職を失ひたる多数の旧藩士のみに止まらず、彼の軍人の大首領たる西郷隆盛すらも、亦実に之れに異議を唱へたりき、而も閣下は敢て之れを畏れずして其の所信を断行し、遂に全国皆兵の徴兵令を発表したりしは、之れも伊藤侯が憲法制定の事業に比して、寧ろ著手の困難なりしを疑はず、而して閣下が此の軍制の改革に成功するや、一躍して直に陸軍部内の指導者と為り、特に十年の役には、閣下の最も憚りたる西郷党を残滅して、武力に誇れる薩閥の根拠を抜き以て陸軍省をして遂に長閥の勢力範囲たらしめたりき、今や閣下は、元帥の待遇と陸軍大将の軍職とを有し、凡そ軍人としては此の上もなき最高の位置及び之れに伴へる君寵を享け、即ち所謂る功成り名遂げ、復た世に遺憾なきの人なり、顧みて更に大政治家たらむことを望むは、豈閣下の有終の美を成す所以ならむや。
 相公閣下、人生の楽事は自己の天職に忠実なるに在り、閣下曾て日本のモルトケを以て自ら任じたりといふ、而もモルトケは軍人より起りて、軍人に終り、曾て其意を政治上の功名に動かされざりき、是軍事を以て自己の天職なりと信じたればなり、固より我輩は閣下が日本モルトケの自任ありといふを聞て、窃に其の抱負の盛大なるに敬服し、以て伊藤侯が日本ビスマークを自任する意気と併称して近代の双美たるを疑はずと雖も、但だ我輩は閣下が日本モルトケの自任ありて、而もモルトケの如く政治上の功名に淡泊ならざるを甚だ惜むのみ。
 或は閣下が自治制度の創意者たりしを以て、閣下に亦た政治的能力ありといふ者あらむ、是れ必らず佞者の妖言にして、閣下は断じて之れに耳を借す可からず、案ずるに自治制度の実施は実に閣下の大功なり、我輩豈に其の大功を滅せむとするものならむや、さりながら政治は別才にして閣下の長所に非らざるは、閣下自から之れを知れり、自から其の長所に非らざるを知りて久さしく之れに干渉するは、恐らくは智見ある閣下の本意なりとも認む可からじ、見よ自治制度は、現に閣下の統督せる内閣の下に於いて、頗る壊敗したるが為に、之れを制定したる閣下の名誉に大なる損害を与へたるに非ずや、蓋し自治制度の壊敗は、一は之れを運用する地方自治体の腐敗にも由れど、之れが監督者たる行政官庁の職責を竭さゞるもの亦其の一大原因たり、而して閣下は啻に行政官庁の曠職を匡救する手段を取らざりしのみならず、又明かに其の手段にも乏しきの失体を現はしたり、此点に付ては、我輩更に後文に於て其事実を挙示す可しと雖も、要するに政治上の位地は、決して閣下の久しく居る可き所に非ず、閣下何ぞ早く之れを自覚して、将に来らむとする運命の危機より脱せざるや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下頃ろ某貴族院議員に対して、余は政治上如何なる困難に遭遇するも、決して自ら骸骨を乞ふが如きの挙には出でず、既に第十四議会も幸ひに無事の通過を得たれば、余は来る第十五期及第十六期の議会までも此の内閣を持続して、百般の政務に改善を加ふる心算なりと語れるを伝ふるものあり、是れ之れを伝ふるものゝ妄に非ずむば、恐らくは閣下の心事を誤解するものゝ臆測ならむ。
 事実を直言するに、閣下の内閣は、過去一年有半の間に於て、啻に政務に付て何の改善したるものなきのみならず、反つて其失政の大なる、議会開設以後の内閣中、最も顕著なるものなり、議会若し健全にして良心に富み、真に国民の利害を代表するの行動あらば、必らず一日も閣下の内閣と両立せずして、早く第十三議会に於て破裂を見たりしや疑ふ可からず、然るに内閣の相手とせる議会は、醜怪なる多数党派の毒泉に涜がされて其の良心を喪ひ、内閣の失政を匡救するを為さずして、寧ろ之れを助長せしむるの行動に出でたり、是れ閣下の内閣が、幸ひに原形を今日に保つを得たる所以なり。
 故に閣下の内閣にして依然今後に存立することあらむか、此一方に於て議会の愈々腐敗する運命を予想す可く、一方に於ては又閣下の失政益々増加するをも予想せざる可からず、斯くの如きは豈国民の能く忍ぶ所ならむや、我輩は必らずしも好で閣下の過失を追究せむとするものには非ず、さりながら閣下にして之れを自覚せざる以上は、我輩は有りのまゝに事実を挙示して閣下の反省を求めざる可からず、顧ふに閣下が一介の武弁を以てして今日の難局に当る初より経綸の一も観る可きものなきは又当然なりとせむ、而も閣下が自ら天下に宣言したる言責を実行せずして、随つて国民の閣下に予期したる冀望の悉く水泡に帰したるは、我輩の甚だ遺憾とする所なり。
 相公閣下、閣下内閣組織以来屡※(二の字点、1-2-22)官紀振粛秩序保持の美辞を使用したり、而も閣下の内閣は、官紀振粛の代りに、官紀大に紊乱したる事実を示し、秩序保持の代りに、秩序頗る壊頽したる証迹を現はしたるは何ぞや、但し此般の事実は既に天下公衆の知悉する所たるに於て、今敢てこゝに之を詳述するの必要を見ずと雖も、我輩は閣下が有名なる謹厳方正なる風采家たるを尊敬し、而して閣下の内閣が、斯る謹厳方正なる風采家と背馳するの行動あるを怪事とし、乃ち次に其の大要を挙げて閣下の明鑑を仰がむとす。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩は曾て多くの冀望を閣下の内閣に属せざりしと雖も、独り官紀振粛の一事は閣下専売の政綱たりしを見るに於て、中心実に此点に於ける閣下の特色が十二分に発揮せられむことを期したりき、而も其事実に現はれたるものを観れば、閣下専売の貴重なる政綱は、殆ど悉く破壊せられて完膚なく、国民をして閣下の特色の果して何れに在るやを怪ましめたるは我輩甚だ意外の感に打たれざるを得ず手短かに我輩の記憶に残れるものをいへば昨年の地方議員選挙に際し地方官が行政権を濫用して其選挙に干渉したる如き其一なり、一昨年増租案の衆議院に提出せられたるに際し、小山田某の議員買収に尽力したる労に酬ひむが為に、窃に横浜工事受負を某に許可するの私約が、西郷内相と自由党領袖星亨氏との間に成立したりし如き其二なり、官林払下問題の醜聞頻りに出でて、曾禰農相の名屡々此間に流伝し、現に農相を黒幕として組織したる帝国党の領袖が、上毛江州石川青森福井等の各地に於て、官林払下を条件として党員を募集したるは世に隠くれなき事実にして、而も曾禰農相の直接間接に之と関係ありしを認識せられたる如き其三なり、凡そ此類の事実は、明々白々掩はむと欲して掩ふ能はざる所にして特に横浜埋立事件の真相に至ては、在野党代議士の為めに公然第十四議会に暴露せられ、以て其余沫の西郷内相の面上に瀝げるも、内相は曾て一言も之を弁解する能はざりしのみならず列席の議員孰れも之を黙聴して相争はざりしを見れば、閣下の失策は自ら官紀紊乱の事実を認めつゝありと断言せざる可からず、而して是れ実に方正謹厳の風采家を以て有名なる閣下の統督せる内閣の現状なり、相公閣下、我輩をして有体に閣下の失策を語らしめば、閣下は不幸にして議院政略を何よりも大切とするの謬見に陥りたり、顧ふに立憲国の内閣に在ては議院政略も亦一の重要なる政略たるを疑はずと雖も、単に内閣の存立を謀るを目的として之れを濫用するに於ては、其の弊の極る所殆ど底止す可からず、乃ち閣下が官紀振粛の言責を実行する能はざるも、亦閣下存立の為めに議院政略を濫用したる結果に外ならず、英国のワルポールは、此の議院政略に成功して能く其の内閣を十余年間の久しきに維持したりしも、此が為めに人心を腐敗せしめ、政界を汚濁せしめたる罪悪は挙げて言ふ可からざるものあり、但だワルポールは初めより正人君子を以て自任せず、其言動亦放胆磊落にして、其人物と頗る相照応したりしも独り閣下は方正謹厳の風采家たるを以てして、漫にワルポールの故智を学ばむとするは、我輩甚だ奇異の感なき能はざる所なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩は特に閣下の議院政略を攻撃するものに非ず、総て既往十余年間に於ける藩閥政府の議院政略に対しては中心実に感服する能はざるもの多し、最初は超然主義を表面の口実として、裏面に於ては窃に吏党を製造し、而も輿論の勢力終に当る可からざるを見るや、解散を以て議院を威嚇するを唯一の政略と為し、屡々無名の解散を奏請して徒らに民心を激昂せしめ、而して立憲内閣の責任に付ては曾て自ら反省する所なかりき、是れ単に内閣の存立を目的として、時局の大体を観察せざるより来れる暗愚の政略にして、其の最後の勝利が常に議院に帰したりしも復た怪むに足らず、此に於て乎次に政党提携の事あり、称して国務を分担すといふと雖も、実は官禄を懸けて猟官者を買収したるに過ぎずして、真に政党を基礎として内閣の鞏固を謀るの意には出ざりき、憲政党内閣起るに及んで、稍々政党を基礎とするの体相を表示したりと雖も、政党の訓練未だ到らずして権力分配の愚論党人の間に唱道せられ、流石に国民の輿望を負へる内閣も、是れが為に遂に無残の末路を見たりき。
 今や閣下の内閣は既に二囘の議会を経過して、閣員に一人の更迭なく、内閣改造の説幾度か自由党に依て唱らるゝも、未だ一個自由党員の入閣したる者あらず閣下は此点に於て確に議院政略の成功を自負するも可なり、さりながら閣下の議院政略は、其実質に於て既往政府の取りたる政略に比して更に恐る可き濁浪を政界に汎濫せしめたり、此の濁浪は党人を溺死せしめ、議院を溺死せしめ、延て政府をして亦溺死せしめむとするの猛力を以て進行しつゝあり、顧ふに閣下は内閣組織の当初より、早く其の政略の弊害斯くの如くならむことを予期せざりしなる可し、唯だ其の如何にもして内閣の存立を永からしめむと欲するに急なる、自ら過失の極処に達するを覚らざるのみ、蓋し閣下は初め猟官を制せむとして或は官吏登庸法を改正し、或は議員の歳費を増加したれども、此れと同時に政治的射利熱を利用して議院を操縦したる結果は、万般の問題総べて賄賂と報酬とに依て決定し、神聖なる議院をして殆ど一種の株式市場たらしめたり、夫れ政治的射利の弊風一たび行はるれば、議員は毫も国庫の支出を惜まずして、唯だ其地位を営利の具たらしめむと謀る、自由党が鉄道国有法案を提議したる如きは即ち此れが為なり、世間或は当期の議会が比較的巨多の議案を成立せしめたるを見て其の成績を著大なりといふものあれども、是れ寧ろ当時議会の腐敗を証するの事実たらむのみ、我輩請ふ閣下の為めに少しく其理由を語らむ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩の見る所にては、第十四議会の如きは、我国議会有つて以来最も醜悪の議会なりと断言せざる可からず、我輩は単に九十三日の期間に於て殆ど其の三分二を休会したる故を以て、直に当期議会を怠慢の議会なりと論ずるものに非ず、是れ最初より政府に盲従するを目的としたる議会に於て亦当然の顕象なればなり、如何に盲従の暗号たる読会省略説の歓迎せられたるかを見よ、如何に盲従の伝令使たる恒松某が政府の為に重宝がられたるかを見よ、斯くの如くにして盲従相談の委員会は本会議の議事を奪ひ、斯くの如くにして政府の提案は大抵討論を用いずして通過せらる、則ち我輩は二億五千四百万余円の大予算を提出したる政府の大胆を不思議とも思はず、又此未曾有の巨額に対して、僅に軍事費に於て四十余万円を削減したる議会の柔順なるにも驚かざるなり。
 議者又当期議会が建議案の頗る多かりしを奇異の顕象なりといふ、然り貴族院に於て十二種、衆議院に於て七十二種の建議案を見たるは、実に初期議会以後の一大奇観たるに相違なし、特に政府が国庫の負担を増加するを憂へずして動もすれば漫然之れを迎合するの状ありし如き、固より常識あるものゝ判断に苦む所たり、さりながら其の原因は頗る単純にして、唯だ是れ議会の壊血症に罹りたる事実を表示する顕象なりといはむのみ、案ずるに此等の建議案中には間々国家的問題を含めるものなきに非ざれども、其の相争ふて提議したるものは、総じて政治的営利の黴菌に襲はれざるものなし、例へば利益分配の事情の為に或る党派の間に紛擾あり、以て一旦衆議院に於て否決せられたりし若松港築港問題の如き、最初は自由党の党議とまでなりたる鉄道国有法案が、中ごろ同一事情の為に除外例を主張する二十七人組を出だし、其の極遂に之れを委員会に握り潰ぶしたる如き、即ち明白に議会腐敗の事実を説明するものに非ずして何ぞや、且つ他の一方に於て、議員涜職法案が薄弱不明なる理由の下に否決せられたること、尾崎発言に関する事実調査の動議が空しく委員会に握り潰ぶされたるとは亦実は議会腐敗の反影なるを認識す可き一大顕象にして、凡そ斯る顕象を以て満たされたる議会が、国民の利害を顧念とせざる行動あるは又唯だ当然なりといはむのみ。
 相公閣下、閣下は二億五千四百万円の大予算を無難に通過したるを以て十分の欣栄とする所なる可し、政治的営利を事として国民の負担を増加するの建議案を提出する議会は、固より閣下の内閣が提出したる大予算に削減を加ふる理由はある可からず、閣下も亦寧ろ此の弱点を利用せむとしたり、故に国庫の負担を増加する建議案も勉めて之れを迎合し、以て財政上他日の破綻を見るを毫も意とせざるなり、而して是れ実に国家の為めに悲む可きの不幸なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩は閣下の議院政略が、市価を有する多数の人頭を買収したる点に於て成功したるを認識す、而して累々たる多数の人頭は、金銭若くば、其他の利益を条件として、争ふて良心を売り、意見を売り、投票を売り、起立を売りたる政治的市場の取引に対し、敢て張胆明目して精厳なる道徳上の批評を加ふるは、我輩寧ろ其の徒爾に属するを知る、さりながら閣下にして自ら其の初心を点検せば、閣下は宜しく漫りに議院政略の成功に誇るべからず、閣下或は議会を盲従せしめたるを以て能く内閣の目的を達したりとせむ、而も事実をいへば閣下の議会に盲従したるもの亦少しとせず、試に閣下の為めに一二の実例を開示せむ。
 曩きに閣下が第十三議会に臨むや、財政計画の唯一基礎として地租率を百分の四に増加するの法案を衆議院に提出したりと、其意地租以外の財源を以て到底財政計画の基礎を鞏固ならしむるに足らずと為し、即ち他の零細なる歳入に求めずして、専ら地租増徴に依頼せむとするに在りき、然るに閣下の提携を約したる自由党が多く之れに反対するに及で、遂に最初の提案を一変して、五箇年期を条件とせる三分三厘説に折合ひ、以て僅に議会を通過するを得たり、之れを表面より見れば、単に四分案に対して七厘の減率を為したるに過ぎずと雖も、実は財政計画を根本より変更して議会の要求に盲従したるに外ならず、何となれば一定の年期を条件とせる課税法は、既に鞏固なる財政計画の目的と両立せざるのみならず、現に此の減率の結果として、別に歳入の補填を他の三税に求めたる如きは、明白に最初の計画を破壊したるものなればなり即ち定見ある政治家に在ては、斯くの如きは実に不面目の甚だしきものたるに拘らず閣下の内閣が淡然として毫も之れを恥とせざりしは何ぞや。
 若し夫れ第十四議会に至ては、唯だ愈々出でて愈々奇なりといはむのみ、試に思へ衆議院の或る一派は、閣下の提出したる未曾有の大予算に協賛する代償として、運動費セシメの魂胆より生じたる幾多の建議案を提出し、恰も国庫の空巣覗ひを働くが如きの状あるも、閣下の内閣は一も二もなく之れを迎合したるに非ずや、又宗教法案は閣下の内閣に於ける最大最重の提案にして、欧洲の立憲国に在ては実に内閣の進退に関する大問題なり、而も閣下は此の法案の貴族院に否決せらるゝを見て痛痒の表感なかりしのみならず、曾て之れが通過を計る為に熱心の尽力なく、初めより議会の為すがまゝに盲従するの態度を示したるは何ぞや、相公閣下、議会は唯だ金銭若くは其他の利益を条件として閣下に盲従し、閣下は唯だ内閣の存立を目的として往々定見なき行動に出づること斯くの如し、我輩は閣下の名誉の為めに、閣下が内閣首相たる責任の為に断々然として此の失体を問はざる可からず、况んや閣下の失体は尚ほこゝに止らざるに於てをや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、顧ふに閣下の議院政略は、単に政治道徳上の一問題として後世史家の評論に任かす可き者に非ず、何となれば閣下の議院政略より岔出したる毒泉は、現に閣下の司配せる各部の行政体統をも膿壊せしめたればなり、夫れ議会の腐敗は、主として議会自身の責任に存すといふを得可きも、行政体統の膿壊は、閣下直接に其の責任を負はざる可からず、是れ即ち政治道徳上の一問題に非ずして、直に内閣大臣の実際的責任問題なり。
 例へば横浜埋立事件に就て之を見るも、閣下を弁護するものは、是れ首相の知る所に非らずして粗放なる西郷内相の失体といひ、西郷内相を弁護するものは、亦是れ内相の知る所に非ずして、小松原内務次官の非行なりといふ、抑も知ると知らざるの争点は自ら別問題なり、乃ち閣下の責任は決して知覚欠乏の故を以て解除せらるゝを得ず、事実たとひ小松原次官一個の非行に属すとするも、之れに対する匡救の責任は懸つて閣下の肩上に在らずや、然るに閣下は曾て何等の処置を此の間に取らざりしのみならず、其の関係者の一方に自由党領袖星亨氏あるが為に、一方は閣下の畏敬せる西郷内相たるが為に、遂に躊躇して手を下だすを憚りたるは首相たるの威厳を失墜したるものに非ずして何ぞや更に地方議員選挙干渉に就て之れを見るも閣下は断じて此の事実を認めずといふを得ざるものたるに拘らず、閣下の内閣は、亦唯だ与党に圧迫せられて地方官の乱憲的行為を制する能ざりしに非ずや、其他最近の事実に現はれたるもの、一として行政体統の膿壊と閣下の無能力とを表示するものたるは、我輩の甚だ閣下の為めに悲む所なり。
 聞く閣下は街鉄市有の意見を有する人なりと、其意見の当否は暫らく措くも、内務次官たる小松原氏が擅まに一派の政商と結托して職権を乱用したる罪案を決する能はず、以て頗る内閣の威信を軽からしめたるは、断じて閣下の失体なりと謂はざる可からず、宗教法案に関しては、閣下初めより一定の成算を有せず偏へに斯波社寺局長平田法制局長等の献策を聴きて生硬未熟の法案を提出し、而も往々地方官をして各地信徒の運動を妨害せしめ、若くは行政権を借て東本願寺に干渉したる如きは、亦閣下の失体ならずと謂ふを得ず、凡そ事斯くの如きは恐らくは閣下の本意に非る可し閣下は常に官紀振粛行政統一を以て自ら標榜するの人たればなり、さりながら閣下内閣を組織してより、曾て官紀振粛行政統一の実を挙ぐることなく、動もすれば与党の専横と属僚の跋扈との為に、内閣の威信と行政機関の紊乱を来すを見るは何ぞや又両院より建議したる学制調査会設置案の如きは、実際に於て文部省不信任の意義を表明したるもの也何となれば学制の方針を定むるは文部大臣の職責にして他の容喙を要す可きものに非ず、若し学制調査会の設置するの必要ありとせば外交調査会を設置して外交の方針を諮詢し、内務調査会を設置して内務の方針を諮詢し、財政調査局を設置して財政の方針を諮詢せざる可からず、斯くの如くば内閣大臣なるもの殆ど無用の長物たる可きを以てなり、然るに文部省は頃日両院の建議を容れて省内に学制調査局類似のものを設置するに決したりとは又何の咄々怪事ぞや、此の一事を見ても我輩は行政機関の大に荒廃したるを想像せざる能はざるなり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下の内閣時代に及で、各部の行政機関が頗る荒廃したる事実は、独り我輩内国人の眼中に映ずるのみに止らずして、東京駐在の列国外交官中にも往々帝国政府の不統一無能力を私議する者あり、現に我輩の聞く所に依れば外人居留地に関する登記事項すらも、政府は容易に其処置を施す能はずして時日を遷延し、其他新条約実施上の交渉案件にして、今も尚ほ満足なる解答を得ざるもの多きが為めに、彼等は已むを得ずして当局者以外の勢力家に協議を求むることありといふ、特に私立学校令に付て、文部当局者が外交官の反対の為に左支右吾の行動ありしは、殆ど公然の事実にして、凡て此般の事、其の帝国政府の威信に関するや頗る大なりと謂はざる可からず。
 相公閣下、閣下は元来職守に厳に、職権を※(「厂+万」、第3水準1-14-84)行するを以て高名なりし人なり、井上伯は閣下に比すれば、機略に富み決断に長ずれども、其の趺宕の性、動もすれば法律規則を無視するの弊あり、伊藤侯は閣下に比すれば、立法の才、組織の能力に於て超絶すれども、其の文采言語の多き割合には其の実行躬践の分量甚だ少なきの欠点あり、閣下は固より伊藤侯の才能なく井上伯の胆気なしと雖も、而も曾て重きを藩閥政府に有したるは、実に官府の秩序と威権とを保維するを以て行政の要と為したるに由れり、其の或は極端なる法治主義に偏して時に精刻峻急に陥るの病ひあるのみならず規摸も亦甚だ狭小にして、官権拡張の外殆ど大なる主張なかりしに拘らず、我輩は尚ほ此点に於ける閣下の本領を認めて、所謂る藩閥武断派の代表者と為したりき、今や閣下の本領は全く消磨して、精刻峻急の角度を取り除きたる代りに、秩序もなく、節制もなく、官紀を紊乱し、行政機関を荒廃して、唯だ内閣一日の姑息を謀らむとす何ぞ其の老ゆるの太甚しきや。
 思ふに閣下は漫に属僚の小献策に気触れて大局を観るの眼識を失ひ、単に議院政略に成功するを以て能事と為したるもの、是れ実に閣下が政治の大道を踏み外づしたる所以なり、蓋し彼の属僚輩の頭脳には、唯だ内閣を出来得るだけ永く維持せんと欲する目的の外には一物なく、而も此の目的は、国家経綸の抱負より来れるには非ずして、実は官職を生活問題より見たる劣情より出でたるに過ぎず、而して彼等が生存競争の大敵として常に忌憚するものは党人なるが故に、彼等は先づ此の党人の猟官心を抑制するに於て如何なる手段方法をも顧みざるに至れり、是れ議院政略の由て生ずる所にして、而も其の之れを施して底止する所なきや、反つて内閣の威信と行政機関の壊敗とを招くに至れるを知らざるなり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十一※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下が属僚の進言を納れて柄にもなき議院政略を乱用したる結果は、殆ど政治をして私利私慾を目的とする一種の営業たらしめ、其の争ふ所は、官職若くは利益上の条件にして敵味方の分かるゝ起点は亦唯だ此の一事に在り、是れ固より政治階級の総堕落といふの外なしと雖も、一は閣下等を包擁せる属僚の行動も、亦与つて大に咎めありと断言せざる可からず。
 凡そ今の藩閥家にして、最も多数の属僚を有するものは閣下に過ぐる者なく、而して其の属僚の為めに政治上の過失を犯したるもの、亦閣下より太甚しきものあらじ、伊藤侯は自己の伎倆を信ずるの政治家なるを以て閣下に比すれば属僚を有すること少なきのみならず、其の属僚の侯に対するや随がつて唯だ服従的状態を有するに過ぎずと雖も、而も尚ほ属僚の為めに大事を誤まらるゝことなきに非ず、况むや閣下に於てをや、蓋し閣下は常に政治家の位地に※(「糸+二点しんにょうの遣」、第4水準2-84-58)恋する人なるも、未だ政治家の任務に付て自己の伎倆を信ずる人に非ず、故に属僚の閣下に対するや、始めより服従的状態を有せずして、寧ろ顧問的関係若くは師伝的関係を有せり、是れ閣下の内閣が属僚政治の為めに其の威信を失ひたる所以なり。
 相公閣下、閣下は多数の属僚を有するに於て今も尚ほ政治上の一勢力たるを失はずと雖も之を政治家の名誉より見れば、決して自ら誇る可きの勢力に非ざるを如何せむ、真に伎倆ある政治家は、一人の属僚を有せずして、其の勢力自ら天下に展ぶるを得れども閣下の政治上に於ける勢力は唯だ属僚の為に存在し、属僚の為に利用せらるゝ勢力たるを見るのみ、閣下の名誉に於て又何の加ふる所ぞ、議会開設以来属僚は常に褊僻なる国家至上権と、頑愚なる超然内閣論を唱へて藩閥家を利用したりき、是れ党人に対する属僚の作戦計画にして、其の計画の迂なるや、戦ひ遂に利あるずして政党の提携と為り、一転して憲政党内閣の時代と為りたるは、実に最近の事実なり此の間属僚中にも分裂を生じて自ら政党に接近するものを出だせりと雖も、其の多数は依然として政党と利害を異にするものたり、而して閣下は現に此の多数の属僚に依て包擁せらるゝを見る彼等は閣下を以て最も自己の生存に便利なる人なりと認め、曩きに憲政党内閣の時代に於て、常に閣下の椿山荘に会合して当時の内閣を破壊するの陰謀を企てたり、顧ふに当時の内閣は、一は自由党の遠見なき行動に由て破壊したれども、其の破壊の主因は内閣の一部と閣下の椿山荘とを伝流せる一種の電気力に在りたるは復た疑ふ可からず、閣下願くは我輩をして其説を悉さしめよ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十二※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩の記憶する事実に依るに憲政党組織当時に於ける椿山荘は、実に明治時代の鹿谷として時人の注目を惹きたる位地に在りき、初め伊藤侯が地租問題に失敗して内閣瓦解の危機に立つや、閣下の属僚は以て閣下再び世に出づる機会と為し、閣下も亦自ら伊藤内閣の後継者たる可き運命あることを信じたりき、此に於て乎椿山荘は、閣下を議長としたる大小属僚の密議所と為り、伊藤侯が一方に於て早くも内閣を憲政党に引渡すの準備を為しつゝある間に閣下の属僚は迂濶なる内閣相続策を画して大に閣下の野心を煽揚したりき、而して御前会議と為り、而して閣下と伊藤侯との物別れと為り、而して閣下に於ては寝耳に水の憲政党内閣突如として出現したりき、斯くの如くにして閣下の内閣を夢想したる属僚の絶望と憤恚とは、殆ど名状す可からざりしなり。
 当時閣下の属僚は、此急激なる政変を目して、伊藤侯の不忠不臣なる行動に帰因すと為し、中には侯を罵つて国賊といふものすらありしと雖も、国民は寧ろ侯の公明磊落なる心事を歎称して、古名相の出処進退にも譲らずといひたりき、而も閣下より之れを見れば、閣下は恰も伊藤侯の為に出し抜かれたる観ありしを以て、其の伊藤侯の行動に慊焉たらざりしは亦無論たる可し、此に於て乎椿山荘は再び隠謀の策源地と為り、閣下の属僚は日夕出入して憲政党内閣の破壊に着手したりき、此れを聞く、憲政党内閣組織の発表せられたる頃、石黒忠悳翁偶々椿山荘を訪ふ、都筑馨六氏先づ在りて翁と政変を語り、頗る時事に憤々たるものゝ如し、翁諭して曰く、足下等常に元勲に依頼して大事を済さむとするは甚だ誤まれり、何ぞ自家の実力と運動とに依りて天下を取るの計を為さゞる、一時の政変に驚くは年少政治家の事に非ず、気を吐き才を展ぶるは寧ろ今後に在り、足下宜しく大に奮へよと而も都筑氏及び其他の属僚は、閣下の威名を借らずしては、何等の着手をも為し能はざりしなり。
 既にして閣下の属僚は憲政党内閣の破壊に着手したり、当時の警視庁たる園田安賢男は公然部下の庁吏を集めて煽動的演説を為し、当時の無任所公使たる都筑馨六氏は自ら内閣の最大有力者なる某伯を訪ふて政党内閣の攻撃を試み、而して一方に於ては自由党の権力均分論を奇貨とし、桂子爵の手に依りて内部より内閣分裂の端を啓かしめたり、是れ実に伊藤侯が清国漫遊の留守中に起りたる現象なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十三※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下と伊藤侯とは、其人格に於ても、思想に於ても、本来決して両立す可き契点あらざるに拘らず、其表面上久しく相互の調和を保持し得たりしは、唯だ藩閥擁護の共同目的に対して、離る可からざる関係を有したりしを以てなり、然るに侯は一朝此の共同目的より解脱し、敢て内閣の門戸を開放して、之れを藩閥の当の敵たる大隈板垣の両伯に与ふ、是れ事実に於ては閣下に向て政治的絶交を告示したると共に、又其の持説と認められたる超然内閣制を固執せざる心事をも表明したる挙動なり、当時世人は此の挙動を以て、英国のロベルト、ピールが保守党の反対を顧慮せずして穀法廃止案を採用したるに比し、以て其の明達の見に服するものありしと雖も閣下より之れを見れば、固より驚く可き豹変たりしに相違なし。
 伊藤侯は独り此の挙動に於てピールに似たる者あるのみならず人物に於ても亦稍々相類したるものなきに非ず、例へば其性情必らずしも極冷ならざれども、少なくとも微温にして事物に執着せざる所、其の知覚鋭敏にして囘避滑脱に巧みなる所、其の敵にも味方にも敬愛せらるゝ割合に、親密なる多数の政友に乏しく、又自ら之れを求むるの熱心なき所、ピール然り、伊藤侯も亦然り、是れ侯が藩閥家の反対に頓着せずして、大隈板垣の両伯を奏薦したりし所以、さりながら伊藤侯は此の一挙に於て、従来の位地に著ぢるしき変化を生じたりき、一方に於ては国民の新同情を得たりと雖も他方に於ては藩閥及び之れに属したる人士の憎疾を蒙ること少なからずして、曾て侯に服従したるものまでも遽かに侯に背き去れるを見たりき、而して閣下は実に伊藤侯の失ひたるものを得て、隠然として憲政党内閣の一大敵国たる趣ありき。
 伊藤侯は周囲の繋累を免かれむが為め、飄然として清国漫遊の途に上りたる間に、閣下の属僚は、憲政党内閣に対して嫉妬的妨害を加へ、たとひ閣下の指揮に出でざるも亦閣下の傍観したる種々の馬鹿らしき舞劇を演じたりき、特に尾崎氏の共和演説問題に至ては、政治問題として殆ど半文の価値なきものたるに拘らず、閣下の属僚等は、自由党の暗愚なる挙動を迎合して、頻りに尾崎排斥の火の手を煽り立て、遂に此に依りて以て憲政党内閣の破壊に成功したりき、而して憲政党内閣の倒るゝと共に、閣下の属僚は早くも閣下を椿山荘より起して、伊藤侯の未だ清国より帰朝せざる前に内閣を組織せしめたり、是れ正さしく伊藤侯を出し抜きたる復讐的手段なりといふも亦可ならむのみ、斯くの如くにして成立したる閣下の内閣は、其の自然の運命として、近き未来に於て伊藤内閣に代はらる可きは誰れか復た之れを疑ふものぞ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十四※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下と同主義同臭味の野村靖子は、伊藤侯が大隈板垣両伯を奏薦したる挙動を評して、是れ神経錯乱の表現なり到底本気の沙汰に非ずと散々に言ひ罵りたることあるを記憶すと雖も、当時閣下にして若し自ら難局を切り抜くの成算を開示せむか、伊藤侯は必らず喜びて閣下に後事を托したりしや疑ふ可からず、而も閣下は唯だ伊藤侯の政党論に反対して、時局と乖離せる超然内閣制を主張し、以て天晴れ大忠臣の肝胆を見せたる外には、曾て政治家として責任ある発言を為したるを聞く能はざりき、乃ち此の事情を領解するものは、恐らくは何人も伊藤侯の挙動を否定するを得可からじ。
 特に怪む、閣下は憲政党内閣の後を受けて自ら現内閣を組織するに及で、忽ち其前日の主張を抛棄し少なくとも其の持説を変更して一二の政党と提携したるのみならず、嚮に閣下の属僚等が不忠不臣の賊子とまで痛罵したる伊藤侯に対して、今日唯だ其の款心を失はむことを是れ恐れ、大小の事総て侯の意見に聴きて僅に弁ずるを得るが如きの状あるは何ぞや、我輩を以て閣下を観れば閣下は元来気むづかしき神経質の人物なれども、実は決して強固なる意思を有する武断家に非ず、其の権勢を喜び名爵を好むの天性或は人に過ぐるものあらむ、而も閣下は政治家として別に卓然自ら立つ所の見地なく、有体にいへば唯だ台閣の気象に富める一種の貴人たるに過ぎず、是れ政府を世界とせる属僚の盟主たるには最も適当なる人格にして、随つて動もすれば彼輩の為めに利用せられて大事を誤る所以なり。
 案ずるに憲政党内閣の破壊は、たとひ閣下の為には幸運の発展たりし変局なりといふを得可きも、其変局の決して伊藤侯の本意にも非ず、又自由党多数の冀望にも非ざりしは無論なるを以て、閣下は宜しく閣下の前途に政治上必然の反動あるを予期し置かざる可からず、世には伊藤侯の心事をさま/″\に臆測するものあれども、我輩の見る所に依れば、閣下の内閣は恐らくは伊藤侯の理想に適合したる内閣に非ざると共に、自由党に於ても初めより閣下の内閣に同情を表するに非ず、我輩の所謂る政治上必然の反動とは即ち此の形勢より出現す可き第二の変局をいふなり、請ふ閣下の為に其の大略を語らむか。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十五※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩が憲政党内閣の破壊を以て伊藤侯の本意に非ずといふは何に由るや※(白ゴマ、1-3-29)蓋し其の理由は極めて単純明白なり、曩に憲政党の成立するや、伊藤侯は政党内閣の機運既に到りたるの現象と為し閣下等に向て政府党組織の議を詢りたるも、閣下等は狭義の憲法論を主張して之れに同意を表せず、太甚しきは憲法の一部を中止す可しと唱へたる黒田伯の如き妄論家すらありたるを以て、乃ち一は閣下等の守旧思想を打開せむが為めに、一は政局の進転を利導せむが為めに、現に憲政党の統率者たる大隈板垣両伯に向て断然政府を引渡したる伊藤侯の心事に至ては、世間何人も復た之れを疑ふものなかる可きを信ず、侯の心事実に斯くの如しとせば、侯たるもの又何が故に其の自ら助成したる内閣の遽かに破壊するを望むと謂はむや、是れ豈極めて単純明白の理由に非ずや。
 当時閣下の属僚等が百方憲政党内閣の破壊を企つるや、世人は之れを伏見鳥羽の一揆に比して、頗る其の頑愚を冷笑したりと雖も、不幸にして憲政党内閣は、此の頑愚なる一揆の為めに取つて代はらるゝの運命に遭遇し、以て政局をして再び旧世界に退却せしめたり、是れ独り伊藤侯の本意に非ざるのみならず、自由党の多数も亦决して之を冀望せざりしは明白なるに、当時自由党が一二の野心家の為めに操縦せられて、自ら建設したる内閣の破壊を招きたるは、我輩唯だ其の無謀無算に驚かざるを得ざりき、我輩は伊東巳代治男及び星亨氏が、前後外務大臣候補者として失敗したるを遺憾とし愚直なる板垣伯を煽動して権力均衡の提議を為さしめたるを認めて、其の最初の目的が決して閣下の内閣を造り出だすに在りと信ずるものに非ず、何となれば此の二政治家は単に進歩派の勢力膨脹を妬みたる外には、別に何等の成算ありしと思はれざればなり、去りながら権力均衡の題目は、最初より憲政党内閣の破壊を計画したる藩閥の残党の為には、最も便利なる最も都合善き政変の導火線なりき、何となれば此権力均衡論を決定するの投票権は、当時内閣の中立者たる西郷侯と桂子との手中に在りたるに於て、藩閥の残党にして之と相策応せば、輙ち内閣破壊の目的を容易に達し得可かりしを以てなり、而して西郷侯の機を見るに敏なるを知り、又桂子の純然たる山県系統として閣下の属僚と親密の関係あるを知るものは此の一侯一子が文相更迭問題に付て閣議分裂したる際にも、曾て適正なる調停の手段を取らざりしを怪まざる可く、将た板垣伯が乖謬無名の辞表を天※(「門<昏」、第3水準1-93-52)に捧げて宸襟を煩はし奉りたる際にも此の一侯一子が閣僚として曾て板垣伯に善を責むるの道を尽さず、以て内閣をして無惨の末路を見せしめたるを不思議とせざる可し、乃ち憲政党内閣が此の事情によりて遂に破壊せられ其の自然の結果として閣下の内閣を造り出だしたるも亦豈偶然ならむや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十六※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、幸福なる閣下は、憲政党内閣の破壊と共に、端なく其の旧勢力を復活して政治上の主人公と為り、而して内閣組織の使命は閣下に伝へられ、而して閣下は恰も謝安を気取りて椿山荘を出で、而して国民は唯だ目を円くして閣下が如何なる内閣を組織するかを注視したりき、顧みて此際に於ける自由党の行動を見れば、全く当初合同の精神を忘れて、自ら造りたる内閣の破壊を快とせしものゝ如く、私闘術に巧みなる星亨氏を軍師として、一時の小成敗を争ひ、卑劣なる投機手段に成功したるを称して党略の能事終れりと為し、而も坐して江山を将て他人に附与するの愚に陥りて自ら覚らざりし如き、識者は唯だ其浅陋を憫笑するのみ、既にして閣下の内閣成るや政治上の立場を失ひたる自由党は、其の主義政見を犠牲にして閣下と提携を約したりと雖も、実は互ひに欺き合ひ詐り合ふて政治上のポン引を働かむとしたるに過ぎず、初め閣下が策士の言を聴きて自由党と提携せむとするや、閣下の属僚中には此の提携を非として飽くまで超然内閣の実体を保持す可しと主張したるものあり、閣下の歴史及び内閣組織の初一念より察すれば、閣下恐らくは真に肝胆を披て自由党と提携するを欲したりとも思はれず、現に自由党が提携の条件として二三党員の入閣を要求したるに際し、閣下は之れに答へて単に人才としてならば自由党より閣員を抜くも可なれど、党員としてならば入閣の要求に応じ難しといひたりしを見れば、閣下の意亦超然内閣の本領を以て立つに在りしを知る可し、且閣下が当時自由党領袖等と屡々提携に関する交渉を試みつゝある間に、板垣伯は公然自由党員に向て、何種の内閣を問はず善政を行へば之を援くるに躊躇す可からずと演説して、有りの儘に閣下の内閣が超然内閣たることを承認したりき、而も自由党の多数は、閣下の内閣をして超然内閣の装姿を脱せしむるの冀望ありしが為めに、斯る意義に於ける提携の交渉は一旦破裂に帰したりしに拘はらず、閣下と自由党とは更に瞹眛なる交渉を経由して、終に怪しき提携を約したり、此の提携の結果として閣下の内閣は純然たる超然内閣にも非ず、又政党を基礎とするの内閣にも非ざる一種の間色内閣と為りたるに於て、閣下と自由党との関係は、随つて唯だ政略的関係若くは利益的関係たるに止まり、曾て主義政見の契点に依りて渾然融和したる事実を示すこと能はざるに至れり、是れ閣下が政治上の過失を犯したる最初の起点に非ずして何ぞや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十七※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下と自由党との提携は、唯だ政略的関係若くは利益的関係に依りて成立したるを以て、閣下は自由党を待つに真の政府党を待つの道を以てせずして、唯だ之れを操縦して盲従せしむることを努め、自由党も亦閣下の内閣に対して真の政府党たる観念なく、唯だ其の位地を利用して政治的営私の目的を達せむことを図る、而も閣下は宣言して曰く、諸君と相倚り相助けて進取の宏謨に答へむと、嗚呼誰れか其の自ら欺くの甚しきに驚かざるものあらむや、顧ふに憲政党の分裂に付ては、伊藤侯が進歩自由両派の孰れにも多少の遺憾ありしは無論なる可しと雖も、我輩の見る所に依れば侯の最も遺憾としたるは、恐らくは憲政党内閣の破壊余りに脆くして、端なく超然内閣を再興せしむるに至りたる一時ならむ、何となれば是れ侯が閣下等の異論を排して敢て大隈板垣両伯を奏薦したる当初の意思に背きたればなり、然るに侯の直系に属する伊東巳代治男等が自由党の策士と相呼応して極力憲政党の破壊に従事したるは何ぞや、蓋し進歩派の勢力次第に膨脹して自由派の分子までも漸く進歩化するの傾向ありと認め憲政党内閣の維持一日を長うすれば独り進歩派の為めに一日の利あるを恐れて、其の大勢未だ定らざる前に之れを破壊するの優れるに如かずと信じたるを以てなり、彼輩の心事は唯だ此の一点に存したりき、当時固より閣下の内閣を造り出だすの目的なかりしのみならず、別に善後の策に付ても何等の成竹なかりしは復た言ふを俟たざるなり。
 自由党が二三策士の術中に陥りて、自暴自棄の行動に出でたるは、其の愚誠に憐む可しと雖も、一旦斯くの如くにして政治上の立場を失ひたるに於ては、其の如何なる内閣たるを問はずして之れと相結托するは止むを得ざる窮策たりしと同時に、閣下の内閣が政見の異同を論ぜずして自由党と提携を求むるに至りしも、亦止むを得ざるの窮策なりと謂はんのみ、而も閣下は自由党に誓ふに休戚利害を倶にして永く相渝らざる可きを以てす、是れ正さしく自ら欺くの虚言にして、其意唯だ一時を糊塗するに在りしは決して疑ふ可からず、閣下乃ち自由党をして単に政略的関係若くは利益の下に永く盲従せしめんと欲する乎、我輩は断じて其の目的の空想に属するを信ぜむとす、閣下願くは我輩をして閣下の未来を説かしめよ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十八※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、今や我輩は閣下の未来を指示するに当て、先づ閣下の内閣が如何なる現状の下に存在するかを観察せざる可からず、顧ふに閣下の内閣は、議会開設以後の内閣中に於て、最も平和らしき、最も鞏固らしき状態を保てる内閣なり、議会は既に二会期を経過したれども、遂に一たびも解散の危機に際したることなく、内閣改造の説屡々起りたれども其の閣員には亦一人の交迭したるものなし、是れ前代の内閣に在て曾て観ざるの現象にして、殆ど閣下の独占せる慶事なりと謂はざる可からず、さりながら閣下若し我輩に直言を許さば、我輩は閣下の内閣を称して、僅かに外援の支持に頼りて存在せる大厦なりといはむと欲す、而も其の外援すら今や漸く去らむとするを見るに於て、閣下の内閣は正さしく存在の資力を失ひたるものと断言せざる可からず、大石正巳氏が第十四議会に於て、閣下の内閣を評して借馬内閣といひたるも、亦実に此の意に外ならざるのみ。
 さりながら閣下願くは我輩の説を誤解する勿れ、我輩は決して立憲国の内閣を以て或る勢力の援助なくして存在するものなりとは信ずるものに非ず、或る勢力とは議会に絶対的多数を占むるの政党即ち是れなり、而して斯くの如き大政党の援助は、固より立憲国の内閣に必要なるを疑はずと雖も、閣下の内閣は唯だ一時の利害に依りて政府を弁護する聯合党を有するに過ぎずして、主義政見に依りて統一せる一大政府党を有せざるを奈何せむや、人あり閣下に向て閣下は真の政府党を有するやと問はゞ、閣下は必らず然りと答ふるの勇気なかる可し、是れ事実に於て真の政府党なきのみならず、閣下は曾て公然真の政府党を作りたることなければなり、則ち我輩は唯だ閣下が議院政略を乱用して政党を操縦したるを見る、未だ閣下が主義政見に依りて進退を倶にす可き真の政府党に援助せらるゝを見ず。
 相公閣下、我輩の聞く所に依れば、伊藤侯は改正選挙法通過の後、窃に閣下に向て政府党組織の計画目下に必要なるを説き、暗に此の大任を伊藤侯に委するの内勅を得るの手段を尽さむことを求めたるに、閣下之を肯んぜずして曰く、君にして苟も政党を組織せむとせば則ち君自ら之れを為して可なり、内閣は断じて其の議を賛するを得ずと、此に於て乎伊藤侯は閣下の与に為すあるに足らざるを怒りて、爾来閣下と益々情意の疏通を欠くに至れりと、是れ閣下が伊藤侯の野心測られざるを恐れたるにも由る可しと雖も、一は閣下が強て超然内閣の外観を維持せむとするの謬見より出でたるものに非ずして何ぞや、要するに閣下は現在に於て真の政府党を有せざるのみならず、其の政府党らしきものすらも、日に閣下の内閣と相離れて反つて閣下の死命を制するの政敵たらむとするが如きは、亦豈閣下の宜しく警戒す可き一大危機に非ずと謂はんや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)十九※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下は或は帝国党を以て内閣の忠僕なりと信ぜむ、然り其の歴史よりいふも、其の関係よりいふも、帝国党は確かに内閣の忠僕たる可き傾向を有するものなり、さりながら僅々二十余名の代議士を有する眇たる一小党は、閣下が果して頼つて以て有力なる忠僕とするに足る可き乎、況むや帝国党は政治的投機師を以て組織したる烏合の政団にして、殆ど政党と名く可き実質を具へざるに於てをや、先づ試に其の領袖たる者の如何なる人物なるかを見よ、佐々友房氏は自ら大策士を以て任ずるに拘らず、識慮頗る暗昧にして確然たる定見なき人なり、曾て独逸に遊ぶや、其の国の各政党が大抵宗教問題を政綱に掲ぐるを見て以為らく是れ我国の宜しく学ぶ可き模範なりと、帰来直に帝国党の政綱に宗教事項を加ふるの必要を唱へたる如き愚論家なり、而して、此の愚論家にして且つ自称大策士たる彼れは、唯だ毎日根気よく書簡を手記して、己惚れと迂濶とを扱き雑ぜたる報告を選挙区民に為すの外には、巧みに元勲政治家の間を周旋し、区々の縦横説を進むるを以て独り自ら得意とするのみ、元田肇斎藤修一郎の両氏は、彼れに比すれば智見も思想も数等進歩したる人物なれども、一は小胆にして大事を担当するの器なく、一は不謹慎にして公人としての信用欠げたり、斯くの如き人物に依て指導せらるゝ帝国党は復政治上に於て何事を為し得可しとする乎。
 相公閣下、閣下の閣僚たる清浦曾禰の両氏は、曩きに帝国党の組織に後援を与へ、今も現に其の黒幕として頗る尽力すといふと雖も是れ恐らくは閣下の利益に非らずして寧ろ閣下に禍ひせむ、何となれば是れ徒らに伊藤侯及び自由党の反感を買ふに過ぎざればなり、昨年国民協会の解散するや大岡育造氏は伊藤侯を擁して新政党を組織せむとしたるも、其の計画は佐々元田等の反対に沮まれて行はれざりしのみならず、閣下は清浦曾禰等の閣僚に誤られて帝国党の成立を助け、地方議員選挙の際の如きは、窃かに地方官に向つて、帝国党の候補者には十二分の援助を与よ、其他の政党員に対しては局外中立を守れと内訓して自由党の激昴を招きたるは公然の事実なり、大岡氏は旧国民派中には比較的智慮に富める人物なり、乃ち此般の現状を見て、頗る憤々の情に禁へざるものありしが為に、終に飄然として外国漫遊の客と為り、以て暫らく政変を待つの已むを得ざるに至れり、一の大岡氏を失ひたる如きは、たとひ帝国党を軽重するに足らずとするも、閣下の閣僚にして帝国党と密接の関係あるものは、唯だ清浦、曾禰の両氏のみにして、其他の閣僚は孰れも帝国党の微弱にして頼む可からざるを知り、現に桂子の如きは、寧ろ自由党と深く結托して、之れを利用せむとするの野心あり、西郷侯は頃日帝国党の首領たるを密約すと称せらると雖も、侯は自由党に対しても如何なる密約を為し居るやを知る可からざるに於て、閣下と帝国党との関係は反つて内閣の統一を破るの原因たらむ、閣下果して帝国党を以て頼むに足るの忠僕なりと信ずる乎。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩の見る所に依れば帝国党は清浦曾禰の両氏と直接の関係あるに過ぎずして、其の他の閣員は初めより之れと利害を倶にするの意なきに拘らず、閣下軽ろ/″\しく此の両氏に致されて、窃かに帝国党の成立を助けたるは、是れ実に閣下の一大失策なりと謂はざる可からず、葢し帝国党は自ら内閣の忠僕たるを以て任ずと雖も、実は清浦曾禰両氏の忠僕にして、純然たる政府党には非ず、仮りに之れを政府党と認むるも、其の勢力は固より閣下の内閣を維持するに足らず、况むや政府党に非ずして一個の私党たるに於てをや、然るに閣下は斯る私党を以て直参の忠僕たらしめむとして、反つて内閣の統一を破るの結果を考慮せざるは何ぞや。
 桂子は閣下の内閣を組織するが為に、憲政党内閣の末路に当りて頗る如才なき立ち※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りを為したる人なり、而も此れと同時に、子は自由党と閣下の内閣とを提携せしむるが為めに、亦た政治的桂庵として周旋甚だ勉めたりしを以つて、今も尚ほ双方の連鎖たる位地に在るは衆目の視る所なり、青木氏は初じめ自由党に入党の申込を為したるほどの人にして、入閣の際俄かに其申込を撤囘し、以つて大に自由党の感情を破りたりと雖もさりとて自由党と全く関係を絶てりと謂ふ可からざるは無論なり、西郷侯は憲政党内閣時代に於て、既に岡崎邦輔氏の媒介に依りて星亨氏と相識り、爾来横浜海面埋立事件にも、市街鉄道問題にも、常に星氏の秘密協議を受けて、次第に相接近し来れるものなり、即ち此の三閣僚は閣下の為に、屡絶えむとしたる自由党の提携を維持し得て今日に到りたるに於て、閣下にして単に帝国党を頼みて自由党を無視するが如き行動に出でむか、閣下は先づ此の三閣僚と併び立つこと能はざるに至る可きは自然の傾向なり、而して閣下の行動は往々之に類するものあるを以て、今や自由党は漸く閣下の内閣に向て鼎の軽重を問はむとするの意向を表現したるに非ずや、所謂る局面展開論の如き実に此の意向の表現に外ならじ。
 相公閣下、閣下の最大謬見は、唯だ議院政略を以て能事と為し、金銭若くは其の他の利益を懸けて自由党を操縦せむとしたるに在り、顧ふに現時の自由党は殆ど腐敗の極度に達したるに於て、閣下の議院政略が其弱点に投じて十二分の成功ありしは、我輩と雖も亦之を認ざるに非ず、さりながら自由党員の中には亦多少時勢の要を識る者なきに非ざるが故に、単に閣下の内閣に盲従して永く藩閥の奴隷たるに満足せざる人物亦少なきに非ず、彼等は閣下と共に到底立憲政治の実効を挙ぐるに足らざるを自覚し、別に新機軸を出だして政局の進転を計らむとせり、是れ閣下の内閣が漸く内部の動揺を始めたる所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十一※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下の内閣が近時漸く動揺し始めたるは疑ひもなき事実にして、帝国党の代表力たる清浦曾禰の両氏は、専ら閣下の参謀として内閣の政略を指導するの位地を占め、閣下の属僚たる都筑、平田、安広等の頑夢派と相策応して、自由党を牽制するの運動に着手しつゝあるは、亦既に公然の秘密なり、我輩の聞く所に依れば、彼等は閣下に向て総べて自由党の要求を峻拒す可しと勧告したり、此れが為めに自由党と提携を絶つに至るも復た畏るゝに足らずと説きたり、第十五議会までには、帝国党と中立派とを連合せしめ、更に進歩自由の両党代議士中より幾多の醜漢を買収せば、優に多数を議会に制するに得ること掌を反へすよりも易しと進言したりといふ、其の無稽無謀の太甚しき、殆ど閣下を死地に陥いるゝにあらずむば止まざるものなるに拘らず、閣下の意思稍※(二の字点、1-2-22)彼等の献策に動かさるるの傾向ありといふは何ぞや、彼等は以為らく、第十五議会の形勢にして若し閣下に利非ずとせむか、即ち断然議会を解散し改正選挙法に依りて進歩自由の両党と争ひ大に選挙干渉を行ふて多数の御用代議士を選出せしむること敢て難しと為さず、而も尚ほ不幸にして議会の多数を制すること能はずむば、内閣は此の時を以て始めて総辞職の挙に出づるも未だ晩からず、而して是れ実に立憲政治家の責任に背かざるの名を得るに庶幾しと、意気頗る正大なるに似たりと雖も、斯くの如きは主義あり政綱ある政党内閣に於て言ふ可く、単に閣下の内閣を維持して其の恩恵の下に生存せむとする属僚等の言ふ可き所に非ざるを奈何せむや、さりながら閣下亦自ら其運命の窮せるものあるを知らざる可からず、葢し自由党が今日まで閣下に盲従したるは、唯だ伊藤侯の起たざるを以てのみ、苟も侯にして自ら起つて自由党を率ひば、閣下の内閣は鎧袖一たび触れて忽ち倒れたりしや久しきなり、而も侯の容易に起つの色なきは、自由党の組織が侯の理想に適合せざるが為にして、自由党にして真に能く侯の理想を摂取するの内容を有せば、侯或は自由党に入りて其の首領たるを辞するものに非じ、但だ自由党の内容は、侯の理想を摂取するには余りに雑駁にして、且つ余りに弾力に富めり、案ずるに侯が政党の規律節制を説くは太だ善しと雖も、是れ単に外部より訓練し教育し得可きものに非ずして、自ら其の党人と為りて内部より改造せざる可からざるものたり、侯は何が故に自ら自由党に入りて其の理想を実行するを勉めざる乎、是れ頗る怪む可しと雖も、実は自由党が到底侯の理想を摂取するの受容力を有せざればなり、さりながら侯も自由党も、閣下の内閣に対しては均しく結局の利害を異にするものあるに於て、此の一点に於て常に相接近するの関係を保持して、共に局面展開の時機を待てり、局面の展開は如何なる装姿を以て現はれ来る可きかは一個の疑問なれども、其の現状維持に倦みて局面の展開を望むの心は侯も自由党も亦同一なり、而して閣下の属僚等は、強て現状を維持せむとして無稽無謀の挙を閣下に慫慂するを見る、是れ豈伊藤侯と自由党との共に隠忍して已む能はざる時期ならずや、閣下尚ほ首相の椅子に緊着して離れざらむとする乎。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十二※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、世に伝ふ、頃ろ自由党は閣下に向て内閣の三四脚を要求し、若し聴かれずむば提携を謝絶して内閣に反対するの決意を示したりと、是れ恐らくは局面展開の第一着手たる可し、さりながら閣下にして此の要求に応ぜむとせば、先づ閣下に最も親近なる閣僚を引退せしめざる可らず、今や此等の閣僚は、自己の運命を迫害せむとする自由党に対して防禦の策を講じ、閣下の属僚と倶に極力現状を維持するの成案を具して閣下に迫りつゝあり、此の成案は固より閣下を死地に陥いるゝものなりと雖も、自由党の要求とても亦閣下を窘窮せしむるの毒計たるが故に、閣下は殆ど進退維れ谷まれるの位地に在りと謂ふ可し。
 抑も自由党が果して既に斯くの如き要求を閣下に提供したるや否や、たとひ既に之れを提供したりとするも、是れ自由党多数の冀望なりや否やに付ては、我輩未だ輙すく明言し能はざる所なりと雖も、自由党が之れに類するの運動を開始しつゝあるの事実は断じて疑ふ可くもあらじ、或は曰く末松謙澄男主として内閣割込の議を唱へ、自ら閣下に向て談判の任に当れりと、末松男が内閣改造の張本人たるは、我輩の甚だ信ずる能はざる所にして、若し彼れにして此の議を唱へたりとせば、是れ必らず伊藤侯の承認を得たる上の事ならざる可からず、さりながら伊藤侯は决して現在の自由党と意気相許すものに非ず、随つて自由党にして侯を擁立せむとせば、大に其の内容を変更して、更に侯の理想に適合せる新衣裳を着用せざる可からず、然るに現在の自由党は、其の内容頗る雑駁不規律にして、動もすれば一二の無頼漢に致されて、政治上の罪悪を犯せること尠なからず、而して其の罪悪の主動力として目せらるゝものは現に総務委員の一人たる星亨氏なるに於て、自由党は先づ彼れの専制政治を離れたる後に非ずむば、到底伊藤侯を起して自由党の首領たらしむるを得可からず、我輩は伊藤侯を認めて眇たる一の星亨を畏るものなりとも信ずるものに非ずと雖も、自由党が彼れの専制的手腕に左右せられて之れを奈何ともする能はざるの醜態あるは、既に天下公衆の認識する所たり、自由党の腐敗するや久し、我輩は其の原因を以て決して一二無頼漢の非行に帰するものに非ず、さりながら現時の自由党が、星亨氏に掻き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)されて其の腐敗の区域を拡張したるは著明の顕象にして、特に閣下の内閣が彼れの野性を利用して遂に自由党を操縦し、以て自由党をして腐敗の極に達せしめたるは世間何人も之れを否認するものある可からず、是れ伊藤侯が局面展開の必要を認めたると同時に、尚ほ容易に自由党の為めに擁立せられざる所以なり、然らば星亨氏は何人ぞ、我輩少しく次に其の性格を説かざる可からず。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十三※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下は星亨氏を以て如何なる人物なりと為す乎、彼は閣下の内閣を成立せしめたるに付て間接の功あり、自由党を閣下の内閣に盲従せしめたるに付て直接の功あり、而して今や彼は内閣改造の技師長として、局面展開の魔術家として、動もすれば閣下を威嚇し、強迫し、若くは誘惑して、先づ其の怪腕を現状打破に着けむとするの野心あり、夫の自由党が政権分配を提携の報償として、内閣の三四脚を要求したりといふ如きは、又安んぞ其の策源の彼れが帷幄より出でざるなきを知らむや。
 若し理を以て之れを論ずれば、自由党は決して閣下に向て政権分配を要求するの権利あるものに非ず、何となれば最初より無条件提携を約して、後日に其の報償を要求するは、是れ分明に詐偽を自白するものなればなり、さりながら閣下と自由党との提携は本来主義政見の一致より成りしにも非ず、又肝胆相許し意気相投じたる結果にも非ずして、唯だ一時の利害に依りて偶然相合したるに過ぎざるを以て、其の提携の亦利害に依りて破るゝに至るも自然の勢なりと謂はざる可からず、而して星亨なる人物は実に自由党の代表者として、前には閣下と共に詐偽の政治的約束を締結し、後には謂れなき報償を強請して閣下を陥擠せむと試むるの主謀者なり。
 彼は曾て剛腹破廉耻の議長として衆議院を除名せられたるほどの不名誉の人物なり、今こそ自由党の専制君主として、凶炎赫灼たれども、是れ自由党の無能力なるが為にして、必らずしも彼れの資望独り高きが故に非ず、現に憲政党内閣時代に於て、時の自由派大臣は、彼れが外務大臣たらむとする野心を牽制せむとして、伊東巳代治男を外務大臣候補者に推薦したる事実ありしは、豈其の明白なる証拠に非ずや、而も一朝憲政党内閣倒れて閣下の内閣起るに及で、彼は恰も風雲の際会を得たる悪竜の如く、遽かに飛舞騰躍して自由党を惑乱し、曾て自由党の中堅たる土佐派すらも殆ど屏息して彼れの指命を受くるの止むを得ざるに至る、亦憐まざる可けむや。
 世間或は彼れを時代の権化として、其の技倆手腕に畏服するものあり、我輩を以て彼れを観れば、彼は高等長脇差の隊長にして、僅に政治家の外套を着けたる一個の野人のみ、其の最も長ずる所は、唯だ善悪是非を問はずして然諾を実行するの大胆即ち是れなり、彼れが政治上の罪悪を犯したるも此に在ると同時に、彼れが党与の歓心を得るも亦此に在り、而して政治道徳の問題の如きに至ては、彼れ固より冷眼を以て之れを度外に附したり、是れ其の為す所一も常識を以て測る可からざるものある所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十四※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下が星亨氏を利用して自由党を操縦したるは、即ち可なり、さりながら此れと同時に、閣下は絶えず彼れの為に詛はれつゝあるを自覚せざる可からず、彼は如何なる没義道の策略をも実行して閣下の内閣に自由党を盲従せしめたり、閣下或は之れを徳とするも亦可なり、さりながら此れと同時に、閣下は彼れが無報償にして一事をも為さざる三百代言的気質あることをも認識せざる可からず、顧ふに閣下は彼れが曾て急激なる自由主義の論者として慓悍猛戻なる言動ありしを記憶し以て其の今日に於て反つて閣下等の主張せる国家万能主義を迎合するの態度を意外とするならむ、怪むなかれ是れ彼れに在ては実に尋常の事のみ彼れは理想を有し主義を尊重するの政治家に非ずして、唯だ獣力最も逞ましき野心家の雄のみ、彼れ往々大言壮語群小を驚かすものありと雖も、其の胸中には済国安民の経綸あるに非ずして、唯だ政治上の狗儒教信者なり、世には正義人道の罪人たるもの少なからずと雖も、彼れが如く冷酷にして善く正義を笑ひ人道を嘲けるものは、古今の歴史に於ても甚だ稀有なり試みに彼れが第十四議会に於て尾崎行雄氏を陥擠せむとしたる手段の如何に忍刻なりしかを見よ、彼は尾崎氏が予算全部に反対なりといへる片言を捉らへて、直ちに之れを皇室費にも反対するの意を表示したりと誣ひ以て氏を大不敬罪に問はむとしたりしに非ずや、其の敵党に対する戦法の卑劣にして且つ陰険なるは暫らく之れを措くも、其の正義人道に対する思想の冷酷なる、決して公人の行為として之れを見る可からざるものあり、誰れか彼を称して主義あり理想ある政治家とするものぞ。
 相公閣下、曾て民党に推薦せられて衆議院議長と為り、而も自ら民党の聯合を破りたるものは則ち彼れ星亨氏なり、彼は閣下の内閣に自由党を盲従せしめたるも、今や彼は局面展開の魔術を講じて閣下の内閣を破壊せむとするを見る、是れ彼れに在ては殆んど尋常の事のみ、何ぞ怪むを須いむ、独り我輩の怪む所は一百余の代議士を有する大政党が斯くの如き醜怪なる人物をして擅まに其党規を紊乱せしめて憂へざること是れなり、我輩豈一の星亨氏に重きを置きて区々の言を為すものならむや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十五※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、道路伝ふる所に拠れば、自由党の総務委員も亦星亨氏の局面展開論に一致し、聯立内閣の名義の下に政権分配を閣下に要求するの議を決したりと、而して斯る要求の到底閣下に容納せらる可きものたらざるは、我輩既に之れをいへり、閣下にして若し之れを拒絶せば、自由党は如何なる態度を以て所謂る局面展開の実効を挙げむとする乎、或は曰く、事此に至れば自由党は唯だ閣下の内閣と提携を絶つの外なきのみと、顧ふに此種の局面展開論は、恐らくは伊藤侯の同意を得るものにあらざる可く、侯は曾て自由党の為めに屡々政権分配を要求せられて屡々手を焼きたるの人なり、侯が政党改造を唱道するの一要義は実に自由党が常に政権分配を口実として、侯の所謂る大権の作用に干渉するの行動を抑制するに在り、侯が容易に自由党の擁立を肯んぜざるは、亦誠に此れが為のみ、而も星亨氏の一たび自由党の実権を握るに及で、自由党は唯だ政治を以て専ら私利私福を営むの具と為し、閣下も亦其の私情を利用して議院政略を運用し、其の結果として自由党は益々腐敗すると共に、閣下の内閣も亦漸く威信を失ふの挙措に出でたること少なからず、是れ伊藤侯が別に局面展開の必要を認むるに至りたる所以なり、但だ侯は局面展開に付て別種の成算あるを以て、今日尚ほ局外に中立して自由党の為に自ら起つの愚を為さゞるのみ。
 相公閣下、伊藤侯は今日自由党に擁立せられて直に閣下の内閣に肉薄せざる可し、さりとて閣下は自由党と提携を絶ちて、果して能く内閣の存立を保ち得可しと信ずる乎、閣下の属僚は第十五議会を解散するの覚悟を閣下に求めたりといふも、閣下にして若し此の覚悟を以て自由党の要求を拒絶せば閣下は議院の多数を敵とするのみならずして、閣下に対する伊藤侯の反感も亦必らず此の時を以て事実に現はれむ、何となれば閣下の内閣にして議院の多数を敵とするに至れば、伊藤侯は必らず自ら起つて其の難局を匡救せむとし、以て侯の最も得意なる内閣乗取策を行ふ可ければなり、侯の最も得意なる内閣取乗策とは、他の窮処を見澄まして始めて自ら起つこと是れなり、換言せば侯は水到りて渠自ら成るの機会を待つものなり、故に侯が今日の心事を測れば、閣下の内閣と自由党とが益々衝突せむことを望み、自由党が閣下の内閣と提携を絶つに至らむことを望み、而して自由党が勢ひ侯の命令の下に左右せらるゝに至らむことを望めり、是れ閣下の宜しく領解せざるべからざる事情にあらずや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十六※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、閣下の内閣が近き未来に於て伊藤侯の内閣に代らる可き運命あるは、殆ど一種の予言として国民に信ぜらるゝのみならず、伊藤侯亦自ら取つて代るの野心勃々たるは、天下何人も恐らくは之れを疑ふ者ある可からず、但だ自由党が伊藤内閣の成立を望むの意たとひ熱切なりとするも、其意単に侯を擁立して私利私欲を遂げむとするに在らば、到底再び衝突するの外なきは明白の理勢なるを以て、侯にして愈々自ら起つの時は、是れ自由党が大に其の内容を改造して、侯の理想に適合せる政党と為りたるの日ならざる可からず、是れ自由党に在ては頗る困難なりと雖も、其の成ると成らざるとは別問題とするも、兎に角閣下の内閣が現に局面展開の機運に襲はれつゝあるは事実にして、閣下は決して此機運に抵抗すること能はざるを自覚せざる可らず、葢し閣下の内閣は、独り伊藤侯に倦まれたるのみならず、独り自由党に倦まれたるのみならず、又既に国民に倦まれたること久し、随つて局面展開は、独り伊藤侯の冀望のみならず、独り自由党の冀望のみならずして、又国民多数の冀望なるを以てなり。
 相公閣下、今の時に於て閣下の内閣を維持せむとするものは、天下唯だ閣下の属僚あるのみ、閣下は此の属僚の援助に依りて何時までも内閣の現状を維持し得可しと信ずる乎、夫れ立憲政治の内閣にして一旦国民の多数に倦まるゝことあらば、是れ其の内閣が直に倒るゝの運命を示すものなり、夫の自由党は一二の野心家の為めに操縦せられて区々たる目前の利害に制せらるゝが為めに、真の局面展開未だ行はれずして、閣下の内閣亦僅かに一日の休安を保つを得ると雖も、自由党亦必ずしも達識遠見の人なきに非ず、苟くも其主義政見を同うするものと大に合同して、先づ藩閥を殲滅するの壮志を奮へば、閣下の内閣は唯だ一挙にして輙ち倒れむのみ、而も是れ我輩の空想に非ずして自然の趨勢なる可きを信ず。
 天下定まる可くして定らざるは、其の罪実に在野の党人に在り、彼等は初め藩閥打破を旗幟として起りたるに拘らず、其の目的未だ成らずして早く藩閥と提携したりき、是れ実は藩閥を利用せむとするに在りたるも、反つて多く藩閥の為めに利用せられたりき、是れ今に於て尚ほ真の局面展開を見る能はざる所以なり、我輩の所謂る局面展開とは、完全なる政党内閣を建設すること是れなり、完全なる政党内閣を建設するの策は他なし、唯だ最初の民党合同を実行するに在り、是れ曾て憲政党内閣時代に於て既に之れを実行し、不幸にして一二野心家の自由党を惑乱したるものありしが為めに忽ちにして其の合同を破りたるも、是れ人為の破壊にして当然の破壊には非ず、我輩は自由党中にも、閣下の内閣に於ける失敗の経験に鑑みると同時に、其必らず大悟徹底して真の局面展開を実行するの準備に着手する人ありを信ぜむと欲す。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十七※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、自由党を惑乱して其の良心を壊敗せしめたるものは、之れを前にしては伊東巳代治男あり、之れを後にして星亨氏あり、自由党が自ら主義政見を棄てゝ藩閥の奴隷と為りたる所以は、一は其の薄志弱行にして眼前の小利害に制せられたるに由ると雖も、一は此の両野心家の為めに大に誤られたるものなくむばあらじ、是れ閣下の既に之れを目撃し、且つ現に之れを目撃しつゝある事実なり※(白ゴマ、1-3-29)而して此両野心家の性格意見は本来全く相異るものあるに拘らず、嚮きに憲政党内閣の破壊と閣下の内閣組織とに付て共力したる迹ありしは頗る奇異の感なきに非ずと雖も、是れ実は偶然の共力にして初めより一致したる目的を有したりしには非ず、当時若し此の両野心家の胸中に一致したる点ありとせば、即ち唯だ閣下の内閣を以て次の内閣を作るの踏台と認めたること是れなり、星氏の頭脳に描かれたる次の内閣は如何なる内閣なりし乎、彼は時として西郷内閣を夢想したりといふ、而も西郷侯は彼れの傀儡と為る如き痴人に非ずして、其の実頗る老獪なる人物なり、彼は又た時として桂子を中心とせる第二流の内閣を夢想したりといふ、而も桂子は到底内閣を組織するの威望勢力なき一介の武弁なり、此に於て乎、彼は更に名を積極主義に借て、自由帝国及中立の大合同を立案したりといふ、さりながら如何に血迷ひたる自由党にても、未だ此般の喜劇に雷同するものなかりしを以て、彼は終に陳套なる政権分配論に依りて閣下の内閣を強迫するの方針を執りたり、此方針に対して自由党総務委員が同意したるは、唯だ其の伊藤内閣をして取つて代らしむるの動機たらむことを信ずればなり、而も伊藤侯が自由党の冀望に応ずるの意思あるや否やは一個の疑問たるに於て、侯の唯一崇拝家たる伊東男は、尚ほ其の機関紙をして自由党の政権分配論に反対せしめつゝあり、伊東男が閣下の内閣を援助して現状維持を勉むるは、蓋し伊藤侯をして最も適当なる機会に於て閣下の内閣に代らしめむとするに在り、彼は此の目的を達せむとして、先づ伊藤侯に最も接近し、且つ最も馴致し易き土佐派をして自由党の中心たらしめむことを計れり、故に横浜海面埋立問題起りたる時には、窃に土佐派を使嗾して星氏を排擠せしめ、以て自由党の内容を改造せむと欲したりき、而も彼れの自由党に於けるは猶ほ星氏の自由党に於ける如く、其一挙一動は総べて自由党を惑乱して之れを自己の野心の犠牲たらしむるに在るを以て、自由党の健全なる分子は、寧ろ彼れの隠謀に反対して自由党の原形を保持したりき、之を要するに自由党は、一方に於ては星氏に惑乱せられ、一方に於ては伊東男に惑乱せられて当初の主義政見を忘れ其の清醇なる分子すらも、往々薄志弱行にして一時の利害に迷ひ、敢て自ら進で自由党の根本的刷新を加ふるの勇気なし、是れ我輩の所謂る真の局面展開未だ行はれざる所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十八※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、看来れば閣下の前途も暗黒なる如く、自由党の前途も暗黒なる如く、随て政界総体の前途も殆ど混沌として判別す可からざる如しと雖も、国民多数の冀望は自然に帰着する所ありて、我輩の所謂る真の局面展開を見るの時機決して遠きに非ざる可きは、我輩の固く信じて疑はざる所なり、而して是れ啻に大勢に於て然るのみならず、又国家の必要なりと謂はざる可からず、試に閣下の為に先づ其の必要ある所以を説かむか。
 相公閣下、今の時に於て国家に最も必要なるは漫に租税を増徴して国民の負担を加重するに非ず、若くは漫に軍備を拡張して外国と事端を啓くにも非ず、世間動もすれば積極主義を唱へて好で大言壮語する者ありと雖も、是れ実は政治上に於て全く無稽無意義の話たるに過ぎず、夫れ国家を経綸する、消極なる可くして消極主義に拠り、積極なる可くして積極主義に拠り、一に唯だ国家の利害を標準として経綸の策を立つ、斯くの如きは是れ政治の要道に非ずや、我輩の国家に必要とする所は必ずしも消極主義の経綸に在らず、必らずしも積極主義の経綸に在らずして、国民多数の信用を基礎とせる政党内閣の建設に在り、到底此れに非ずむば以て内治外交の政策を確立すること能はざればなり、顧ふに閣下の内閣は、既に二会期の議会に於て共に衆議院の多数を得たりしが故に表面より見れば、頗る鞏固なる内閣に似たりと雖も、顧みて其の施設したる所を見れば、内治外交一切の政策唯だ姑息と※[#「糸+彌」、68-下-10]縫とを勉めて毫も国民を満足せしめざること、我輩の篇を累ねて叙述したる所の如く、而して閣下の内閣が最大成功として誇る所は、実に人心を腐敗せしめ公徳を破壊せしめたる議院政略是れのみ、蓋し閣下の内閣は少数微力なる帝国党及び時代の精神を領解せざる頑愚の属僚を味方と為すの外には、真に主義政見を同うしたる党与を議会に有せず、夫の自由党との提携の如きは、原と相互の詐術に依りて成りたるものなるを以て、其の相献酬するや又唯だ詐術を是れ事として曾て利害存亡を倶にするの誠実あることなし、是れを以て閣下は単に議院政略に苦心して内治外交に対する経綸を考慮するに遑あらず、其の一たび重大なる時局に際会するに及べば、常に姑息の手段に依りて内閣一日の安を謀らむとせり、是れ果して鞏固なる内閣なりと謂ふを得可き乎。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)二十九※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、若し夫れ閣下にして自由党の強迫に屈して内閣の椅子を自由党に割譲せむか、是れに依りて一時或は自由党の反抗を禦ぎ得可しと雖も、是れと同時に内閣の基礎は反つて益々動揺の度を高むるを如何せむや、蓋し閣下は単に自由党と提携してすら、尚ほ且つ動もすれば属僚の不平、及び自由帝国両党間の嫉妬軋轢の為に屡々悩殺せられたり、一旦自由党員を内閣に入れて之れに政権を分与せば、自由党は勢に乗じて更に其の権力範囲を拡張せむとし、属僚及び帝国党は自己の位地を嬰守せむとして種々の隠謀を企てむ、其の結果として内治外交の機関益々停滞して内閣の威信愈々降らむ、是れ豈閣下の前途をして一層暗黒ならしむる所以に非ずや、且つ閣下は曾て他の藩閥元老中に在て最も貴族院の望みを属したる人なり、然るに自由党と提携してより、閣下漸く貴族院の歓心を失ひ、現に宗教法案の如きは、法案其物既に不完全なりしは無論なりしも、其の貴族院に於て大多数を以て否決せられたるは亦貴族院が閣下の内閣を信任せざる明証に非ずや、今若し自由党員を閣員として聯立内閣を造らば、貴族院の閣下に対する反感は恐らくは測る可からざるものあらむ、閣下何を以て内閣の安全を保たむとする乎。
 相公閣下、閣下今日の計は唯だ断然闕下に拝趨して内閣の総辞職を奏請するに在り、閣下の内閣にして此の挙に出でむか、後に現はる可き内閣は、其の何人に依て組織せらるゝものたるに拘らず、必らず政党を基礎とする内閣なる可きは必然の趨勢なり、但し其の内閣の完全なる政党内閣たるを得るや否やは固より未だ知る可からずと雖も、其の内閣の閣下の内閣よりも進歩したるものなる可きは決して疑ふ可からず、たとひ然らずとするも一変局を経る毎に漸次政党内閣に近づくの動機を促進するものたるに於て我輩は一日も早く閣下をして過渡の時代を善くせしめ、以て閣下の名誉を後昆に垂れむことを望むこと切なり、世に一種の俗論あり曰く、今日は孰れの政党も絶対的多数を有するものなし、現内閣にしてたとひ総辞職を為すことあるも、之れに代りて内閣を組織し得るの準備ある政党は一も之れあることなし、内閣は遽かに更迭せしむ可からず、又更迭せしむるの必要なしと、我輩請ふ其の俗論たる所以を解説せむ。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、凡そ立憲国の内閣に貴ぶ所は、唯だ其の存立の長期なるに在ずして、其の施設の多く且大なるに在り、長期の内閣と雖も、其の施設毫も観る可きものなくば、則ち短期の内閣と又何の撰む所ぞ、故に我輩は寧ろ能力ある内閣を望みて、単に長期なる内閣を望まず、何となれば能力ある内閣は、たとひ短期にして斃るゝことあるも、尚ほ能く光輝ある成績を留むるを得るに反して、能力なき内閣は、たとひ長期の存立を保つことあるも、決して国家に多大の貢献を為すこと能はざればなり、况むや長期の内閣は反つて政治上の罪悪を作ること古今其の例に乏しからざるに於てをや。
 相公閣下、閣下の内閣は、議会開設以来最も長期の内閣にして、又議会開設以来最も無能力の内閣と称せらる、顧ふに閣員悉く無能無力なるに非ず、中には多智多才の人物ありと雖も内閣の基礎頗る薄弱にして内は統一の形全く破れて行政機関の作用大に頽廃し、外は野心ある政治家若くは党与の為に牽制せられて、曾て自由手腕を揮ふ能はず、而して閣下は強て内閣を維持せむとして、没主義没政見の行動を事とするの外、復た何等の顕著なる成績を挙げたるものなし、閣下の内閣を評するものは曰く現内閣の長期なる所以は、唯だ其の無能無力なるが為めのみ、能力ある内閣は、彼れが如き姑息にして活動せざる長期の舞台に耐へざるなりと、言稍々苛刻なりと雖も、亦半面の真理を道破したるものなり、斯る不名誉なる内閣を維持するは、啻に閣下の利益ならざるのみならず、又決して国家の利益に非ず、閣下乃ち今に於て断然闕下に伏して骸骨を乞ひ、以て国家の為めに賢路を開くは是れ豈閣下有終の美を成す所以に非ずや。
 閣下にして苟も内閣の総辞職を奏請せば、陛下は更に他の有力なる政治家をして新内閣を組織せしめ給ふ可し、而して次に来る可き内閣は其の必然の組織として政党を基礎とするものたる可く、其の内閣にして議会に多数を占むる能はずむば、多数を議会に占むる内閣を見るまで幾囘更迭するも亦可なり、是れ立憲政治の発達史上殆ど免がる可からざるの経過なり、さりながら我輩の見る所に依れば、政党内閣を今日に建設するは敢て難事に非ず、必ずしも絶対的多数の大政党出づるの後を俟たざるなり、今一人の有力なる政治家ありて、純然たる政党内閣を建設せよ、絶対的多数の大政党は、必らず此れと同時に出現せむ、要は斯る英断ある政治家の自ら起つに在り、今の政治家動もすれば絶対的多数の大政党なきを以て政党内閣組織の最大要件を欠けるものといふと雖も、是れ取るに足らざる俗論のみ、蓋し絶対的多数の大政党は、自ら行政権を把握するの冀望あるに於て始めて出現す可し、単に立法部たる議会に於て絶対的多数の大政党出現せむことを期するは、是れ猶ほ搭載す可き船舶なくして、漫に貨物を港湾に集めむとするが如し、若し真に政党を基礎とするの内閣を組織する政治家あれば、主義政見の異同に依りて天下必らず二大政党に分かれむ、二大政党に分かれざれば、政党終に行政権を把握するの時期なければなり、是れ我輩が朝野の政治家に向て大に警告せむとする所なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十一※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、既に政党内閣の已む可からざるを認識するときは、宜しく此の大勢を利導して円滑なる変局を謀る可し、宜しく漫に此の大勢に逆抗して立憲政治の発達を阻碍す可からず、是れ朝野の政治家が国家に負ふ所の責任に非ずして何ぞや、閣下にして自ら之れを為さむとせば則ち之れを為すも亦可なり、苟くも之れを為すこと能はずむば、寧ろ他の政治家をして之れを為し得可からしむるの疏通手段を取るに如かず、而も前者は閣下の境遇及び本領の許さゞる所たるに於て我輩は閣下に望むに、断然後者の挙に出づるの一大決心を以てせむと欲す、之れを為すこと極めて容易なり、唯だ内閣より退引する即ち是れのみ。
 相公閣下、今の政党内閣を難しとするものは、往々辞を絶対的多数の政党なきに藉ると雖も、実は政党内閣に反対して藩閥内閣を維持せむとする頑夢者流の俗論にして、彼等は中心実に政党の支離滅裂して徒らに議会に紛争するを喜ぶものなり、其国家の利害と人民の禍福とに付て、曾て意を致さゞるものたるは復た疑ふ可からず、夫れ今日の憂は絶対的多数の政党なきに在らずして、能く大勢を利導して政党内閣を建設するの一日も速かならざるに在り、伊藤侯にても善し、大隈伯にても善し、今日仮りに純然たる政党内閣を組織し見よ、天下必ず主義政見の異同に依りて二大政党に分れむ、是れ必然の趨向にして又立憲政治に於ける当然の帰宿なり、嚮きに伊藤侯が大隈板垣両伯を奏薦したるは、実に此大勢を利導せむと欲する精神に外ならざるなり、我輩は、当時深く侯の光明磊落なる心事に敬服したりと雖も、不幸にして憲政党の組織余りに尨大なりしが為に、権力の集中点未だ定まらざるに早く既に権力平衡の愚論起り、遂に政敵をして乗じて以て内閣破壊の目的を達せしめたり、さりながら当時若し仮すに尚ほ数月を以てせば、権力の集中点自然に定まる所あると同時に、政党の淘汰作用も適当に行はれて、去るものは去り留まるものは留まりて、天下は必ず二大政党の分有する所となりしや明かなり、故に我輩は憲政党内閣の瓦解を以て政党内閣制を否定するの原由なりと信ぜざるも、憲政党の組織に関しては初より大に遺憾なくむばあらず、何となれば当時憲政党には第一統一に必要なる首領あらざりしを以てなり、即ち今若し名実兼備の首領ある政党にして内閣を組織せば、たとひ現に絶対的多数を議会に占むる能はずとするも、其の内閣一たび成立して議会に臨めば、議会必らず之れを歓迎して一大政府党忽ち出現せむ、或は然らざるも亦必らず絶対的多数の他の政党によりて内閣を相続せらるるの機運を作らむ、又何ぞ絶対的多数の政党あるを待て始めて政党内閣を建設し得可しと謂はんや。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十二※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、今日若し政党内閣に反対せんとせば、先づ之れに代る可き内閣の主義を一定せざる可からず、閣下の属僚は官属主義の内閣を建設せむと欲すと雖も之れ徒労のみ、若し官属主義にして成立し得可くむば、初期議会に於て既に成立す可き筈なるに、当時僅かに超然内閣の名義によりて一時を糊塗したるに止まり、事実は反つて政党の援助を得て内閣を支持したるは何ぞや爾来官属主義は独り藩閥者流若くは藩閥に隷事せる属僚の間に唱へらるゝに過ぎずして、年々歳々唯政党の勢力次第に膨脹するを見るのみ、是豈政党内閣の到底否定す可からざる理由に非ずや。
 相公閣下、自由党が閣下の内閣と提携したるは、蓋し閣下の内閣をして官属主義の内閣ならしめんとするにあらずして、実に政党内閣に入る可き過渡時代の内閣と認めたるに由れり、切言せば閣下の内閣は、自由党の為に試験せられつゝあるなり、此の試験にして自由党の予期したる如き結果を見ざれば、自由党は如何なる手段を使用しても其当初の目的を達せずむば休止せざる可し、而して閣下は今や一方に於ては官属主義の属僚に擁せられ、一方に於ては政党内閣を目的とせる自由党に援助せられ、恰も南面すれば北狄怨み、北面すれば南蛮怨むの境遇に在り、閣下の現位地は亦頗る不思議なりと謂ふべし、其不思議なるは尚ほ可なり、是れ疑もなき閣下の災難なり、閣下にして苟くも進退其の機宜を誤まれば遂に属僚にも離畔せられ、自由党にも反対せられて、政界の立往生を為すの外なきに至らむ、亦閣下の宜しく熟慮すべき場合に非ずや。
 閣下漫に政界の前途を憂ふる勿れ、国家は何時までも老骨を煩はすの必要なく、後進の人物にして国家の大事に耐ゆるもの亦少なきに非ず、閣下の内閣にしてたとひ直に更迭すと雖も、之れに代るの内閣を組織するは必らずしも難事に非ず、况むや天下既に閣下の内閣に倦みて、人心変を思ふの今日に於てをや、且つ国家方に鞏固なる内閣を得て内外の政務を刷新せむことを望むに際して、微弱にして統一なき閣下の内閣をして尚ほ今後に存立せしめば、政界益々沈滞して国家毫も活動する能はざるに至らむ、是れ我輩が閣下に向つて断然たる辞職を勧告する所以なり。

      ※(始め二重括弧、1-2-54)三十三※(終わり二重括弧、1-2-55)
 山県相公閣下、我輩は閣下頃ろ辞任の意あると聞き、窃かに閣下が処决の時機を得たるを賀したりしに、今や又閣下が策士の言に動かされて忽ち留任の心を起したりといふを聞きては、我輩深く閣下の聡明頗る蔽はるゝ所あるを惜まずむばあらず、閣下に留任を勧告するものは自由党の毫も畏る可からざると、伊藤侯の遽かに起つの意思なきとを以て閣下の聡明を蔽はむとすと雖も是れ姑息の計を進めて反つて閣下の過失を再三せしめむとするの妖言なり、閣下が既往三年間の歴史を観るに閣下の過失は実に此の類の妖言に原本したるもの多し、閣下は元来謹厚慎密にして進退を苟もするの人に非ず、而も其の属僚を有すること他の元勲よりも多数なるを以て、動もすれば佞嬖の小人に擁せられて不測の過失に陥ること少なきに非ず、今に於て尚ほ自ら悟らずむば、閣下恐らく恢復す可からざる汚名の下に没了せむ。
 相公閣下、閣下は政治家として他の元勲に卓出したる技倆を有するに非ず、而も其の内閣を組織してより既に二会期の議会を通過し、兎も角も比較的長期の内閣の首相として今日まで無事なるを得たり、此の点よりいへば、閣下は藩閥元勲中最も幸運なる位地に立てりと謂ふ可し、夫れ賢者は名を惜み、哲人は身を保たむことを思ふ、閣下はたとひ政治家たるの技倆なきも、賢哲の用意を為すに於て未だ必らずしも晩れたりと謂ふ可からず、閣下何ぞ之れを熟計せざる※(白ゴマ、1-3-29)且つ夫れ閣下は蒲柳の質、気力亦頗る衰へたり、曾てサーベル政略を以て党人に畏怖せしめたるもの今は党人を迎合して僅に一時の苟安を謀るに汲々たり、顧みて内外の形勢を観れば、国務益々多端にして、総て盤根錯節を断つの利器を待つものたらざるなし、閣下たとひ愛国の至情自ら禁ずる能はざるものあるも閣下の健康到底之れに堪へざるを奈何せんや、想ふに閣下亦必ず負荷の難きを知らざるに非らじ、之れを知つて尚ほ且つ自から断ずる能はざるは、唯だ属僚に対する関係より脱離するを得ざるが為めのみ、さりながら閣下にしても苟も此般の情実に拘束して自ら断ずる能はざれば、閣下は終に属僚に誤まられて末路必らず悲む可き運命あらむ、乃ち我輩は閣下の名誉の為めに、閣下の晩節を保つが為に、将た局面を展開して政界を一新せむが為めに茲に謹で閣下の辞職を勧告す、閣下果して我輩の言を納るれば、是れ独り閣下の利益のみならず、又国家の利益なり、閣下幸に之れを諒せよ。(三十年四月)

     山県公爵

 現代日本に於て最も秘密多き人物は、恐らくは山県公爵なるべし。彼れの性格、伎倆、及び政策は、伊藤公爵若くは大隈伯爵等の如く分明に表現せられざるが故に、国民は唯だ彼を政治界の一勢力として其の存在を認識する外、復た彼れの真価に就て何等の知る所なきものに似たり、例へば世人は彼を称して最も頑固なる保守主義の代表者と為すも、彼れの保守主義の如何なるものなるかを精確に領解するもの果して之れあるや。世人は又彼を目して政党内閣制に反対する政治家と為すも、誰れか果して彼れの口より公然たる非政党内閣論を聞きたるものありや。或は彼を陰険といひ、或は彼を圧制家といふも、其の批判は果して事実を根拠としたるものなりや。頗る疑はし。然れども彼れの真価の知られざる処は、是れ却つて彼れの真価の存する処にして、彼れが伊藤公爵大隈伯爵等と相対峙して、別種の勢力を有する所以亦此にあり。
     *  *  *  *  *  *  *
 大凡政治家に二様の模型あり。公衆と倶に語り、公衆と倶に喜憂し、常に門戸を開放して、勉めて公衆と接近し、以て自己の存在を社会に記憶せしむるを平生の用意と為すもの是れ一、大隈伯爵の如きは此の模型の政治家にして、伊藤公爵も亦稍々之れに近かし。第二は全く反対の模型にして、敢て漫りに公衆と親まず、必らずしも社会に自己を領解せしむるを求めずして、唯だ其の信ずる所を行ひ、其の為さむとする所を為し、名声よりも実功を重むじ、人の是非よりも事の結果を考へ、且つ言行謹慎にして、持重の念頗る強し。山県公爵の如きは則ち是れなり。前者は社会の感情中に生活し、後者は少数者の信任に身を托し、前者は公衆を対象として客観し、後者は自己及び自己の職分を本位として主観す。前者は共和国に在ても猶或は政治家たるを失はずと雖も、後者は独り君側輔弼の宰相として立つに非ずむば、政治家たるよりも、寧ろ軍人として成功せむ。山県公爵が常に一介の武弁と称し曾て政治家を以て自ら任ぜむとするの口吻を漏らしたることなきは、則ち彼れに自知の明あるが為に非るなきか。
 試に大隈伯爵を見よ、彼れの門前は日に各種各様の来客を以て市を成せり。政党員も往き、新聞記者も往き、実業家も往き、相場師も往き、紳士も往き、貴婦人も往き、学者も、書生も、浪人も争ひ往けり。而して一たび早稲田邸の玄関を辞したるものは、皆大隈伯爵の写声機となり、喇叭管となり、讚美者となりて、彼れを社会に吹聴し、紹介し、推奨して、彼れに対する記憶を深からしめざるなし。是れと同時に、彼は自ら進むで活溌なる社会的運動に関係し、或は好むで公私の会合に出席し、或は屡々大なる園遊会を開き、以て自己と公衆との連絡を謀るが故に、彼は既に政党総理を辞して直接に政治界と交渉せざるも、其の存在は依然として公衆瞻仰の標目たり。特に彼れの有する広大なる庭園は、殆ど一種の高等公園として公衆に公開せられたるものゝ如く、彼れの誇りとする園芸の如きも、彼に在ては閑人の道楽に非ずして多忙なる社会的運動の一方便たり。彼は其の庭園に瀟洒たる一茶室を有せり。而も余は未だ曾て彼れが宗匠を呼びて茶会を催したるの風流ありしを聞かず。閑寂を旨とする茶会の如きは彼れの到底堪ゆる所に非ればなり。彼は陽気を好み多事を好み、活動を好み、変化を好む。彼は一日も懐抱を封鎖する能はず、一日も談論を廃する能はず、一日も社交と隔離する能はず、一日も沈欝なる天地に俯仰する能はず。彼は山を楽むの仁者たるよりは水を楽むの智者たるを喜べり。彼は安心立命を求むるの達人たるよりは、一生奮闘を継続するの戦士たるを選べり。
 伊藤公爵を以て彼れに比すれば、其の人格に大なる相違ありと雖も、其の名誉心の頗る旺盛にして、常に身を公衆の眼前に置き、自己の存在の社会に意識せられむことを求むるの点に於ては則ち一なり。彼は大隈伯爵の如く放胆無双ならず、又大隈伯爵の如く非常に多方面ならず。彼れの世界は殆ど政治に限られたり。然れども彼は此の限られたる世界を成るべく華やかにして、働らき甲斐あらむことを期するが故に、自己の存在の社会に忘れらるゝは、最も彼れの恐るゝ所なり。彼は又大隈伯の如く単に社会の潮流に乗ずる巧妙なる舟子たるを以て甘むぜずして、潮流其物を指導せむとするの慨ありと雖も、要するに風潮以外に立つて独自一己の理想を保守する人にあらず。若し伊藤公爵と大隈伯爵とを対照せば、伊藤公爵は欧洲大陸の政治家たる面影あり、大隈伯爵は英国政治家の風ありと謂ふべくして孰れも欧洲式の政治家たり。転じて山県公爵を観れば、其生涯は夐然別種なり。彼は明治の歴史に於て最も重要なる部分を働らきたる一人なり。彼は自ら首相となりて内閣を組織したること前後二囘、其の内閣を組織せざる場合に於ても、屡々内閣の製造者たることありて、其の発言は往々内閣の更迭に影響を示したり。彼は所謂る元老団の要素として天皇陛下より特絶の待遇を受け、内外の重大なる国務は、一として彼れの与かり知らざるものなく、恐らくは最後の真理を最初に聞くべき位地に居るものは彼なるべし。蓋し日清戦争以来、軍事は政治機関の強部を占め、所謂る戦後経営なるものゝ如き、畢竟軍事を主として財政を従としたる立案たるに過ぎざるの観あり。之れに加ふるに日露大戦の経験を以てしたるに於て総ての政治問題は殆ど軍事万能主義に依て左右せらるゝの傾向を現はせり。則ち是の時に当りて、政府の枢機は軍事を心軸として囘旋するが故に、政治問題の秘鍵を握るものは亦軍事当局者なりと推定するも可なり。而して山県公爵は軍国の大首領として優越的威望を有するのみならず、軍事と政治の関係を研究するに於て又他の元老の何人にも勝れるは言ふを俟たず。斯くの如き威望と長所とを兼備せる山県公爵が最も早く政治問題の極意に通じ得べき地位に在るは当然なりと謂ふべし。但だ彼は当局者としても、局外者としても常に超然として公衆環視の圏外に特立せむとするの態度を執るものゝ如く、伊藤公爵大隈伯爵等が終始公衆の耳目を聳動せむとすると頗る其の趣を異にせり。されば伊藤公爵大隈伯爵等は、其の妍醜瑕瑜大概露見して蔽はるゝ所なきも、山県公爵の真価は容易に公衆の窺ひ知る所とならず。彼は輪廓明白なる一人格としてよりは、寧ろ人格化したる一勢力として国民の眼に映ぜり。従つて国民は彼れの存在を政権と聯結して観察するに止まり、真に能く彼れの人格を領解し得るものは甚だ少なきに似たり。
 且つ伊藤公爵も、大隈伯爵も、其の私生涯と公生涯とを問はず、均しく之れを公処の白堊光裡に展開して彼等の自由批評に任ずと雖も、山県公爵に至ては、公私の生涯に截然たる分界あるが故に、其の私生涯は醇粋なる私生涯にして殆ど公衆と何の交渉する所なし。彼は朝廷の大礼、若くは官務的性質を帯びたる会合以外に出席すること甚だ稀なり、単に社交を目的とする普通の公会に周旋して、八面酬接の交渉を事とするは、彼れの性向に適せざる所なるべし。時として椿山荘園遊会を見ることあるも、是れ大切なる外国の貴賓に敬意を表する場合か否らずむば一家の賀儀を機会として少数の親近者を招待する場合に行はるゝのみ。彼は政治家として国民の輿論に拘束せらるゝを避くるとともに、其の私生涯に於ても亦公衆の心理に煩はさるゝを免かれむと欲するものゝ如く、則ち其の庭内境静かにして風塵到らざる処に安置したる彼れの銅像は、無言の間に善く活ける主人公の理想を語る者に非ずして何ぞや。されば彼の私生涯は、豪華の以て世に誇るべき者なく、盛装の以て人を驚かすべきものなく、彼れの位地よりいへば、寧ろ極めて単純簡朴なりと評すべし。此の私生涯に含蓄せられたる趣味も、亦従つて公衆的ならずして個人的なり、一般的ならずして家族的なり。私生涯の彼は書院の人にして、彼は僅に漢詩を作り、和歌を詠ずるの閑趣味を解するのみ。囲碁を弄し謡曲を奏するの娯楽あるのみ。有体にいへば山県公爵は決して公衆の好愛する政治家に非ず。然れども世には一般公衆に好愛せられずして、却つて鞏固なる勢力を有する政治家あり。彼は一般公衆に対しては、一の快感を与ふべき態度を示さず。彼は自己の能事を尽くして、必らずしも其の公衆に知られむことを願はず。彼は浮泛なる群情に殉ずるを為さゞる代りに、少数の共同者に信頼せらるゝを以て満足せり。彼は細心にして慎独の工夫あり、謹厳にして妄りに放言高論せざるが故に、彼れの共同者は、彼れと秘密を語り、大事を謀りて危まざるなり、彼は批評せずして計画し、実行し、否らずむば沈黙するが故に、国民の眼には頗る陰気にして腹黒き政治家に見ゆるも、彼れの親近者及び共同者に対する行動は、真摯なる考慮、動揺せざる決断、負托に背かざる信義、責任に対する大なる信念を以て表現せらる。山県公爵は稍々是れに類する政治家なり。其の公衆に歓迎せられずして、而も猶ほ能く政治界の一大勢力たるは、彼れの人格が少数共同者に信頼せらるゝ所あるが為なり。顧ふに彼れの共同者若くは親近者の中にも、感情趣味に於て彼れと相容れざるもの之れあらむ。然れども終に彼れに対して悪声を放つものなきは、彼を以て与に楽むべからざるも、相信頼するに足るの人なりと為すに由れり。世間或は彼を徳川家康に比す。蓋し陰忍老獪にして権謀に富めること二人相同じと為すなり。安んぞ知らむ、二人の最も相似たる所は、其の共同者をして信頼せしむるに足るの確乎不抜なる資質に存することを。豈唯だ陰忍老獪にして人の信頼を得ること彼れが如きことあらむや。
 彼れの人格思想は、伊藤公爵大隈伯爵等と対照すれば、より多く東洋的なりと雖も、若し強ひて欧洲に其の比倫を求めば、英国のウエリントン其の人を挙げざるべからず。出でては元帥たり入つては宰相たる所、我が山県公爵とウエリントンと東西の好一対なるべく、其の政治思想の保守的に傾けること亦二人甚だ相遠からず。唯だウエリントンは殆ど政治家たるの一能力だも備へざりき。彼は経綸若くは政術に就いては僅少の智識を有したるのみ。彼れが唯一の注意は女皇内閣の権力を完全に維持せむとするに在りき。彼は過失多き政治家なりき。無策の政治家なりき。而も其の能く首相として内閣を組織し得たるは、彼れが赫々たる戦功に伴へる威望の力に由りたるのみ。我が山県公爵が、其の本領の亦軍事に在るに拘らず、其の政治の方面に於ても偉大の勢力を有すると同日にして語るべからず。然れども二人に共通する特色は、社交的色彩を放てる生涯を有せざる是れなり。ウエリントンは毫も公衆の感情に頓着せざると共に、又公衆に好愛せらるべき、傾向を其の天分に発見せざりき、彼れの態度は冷静なりき、乾燥なりき、生硬なりき。彼れの言行には、一点の衒耀なく、夸張なく、文采の燦爛たるものなく、活気の飛動せるものなく、常に克己、自制、規律を以て鍛錬せられたる軍人気質の標本たりき。是れ必らずしも温暖なる情緒を欠けるが為に非ず。彼れの友誼心の深厚にして且つ恒久的なりしは、彼れの親近者の皆認識する所にして、是を以て彼は好愛せられざりしも、信頼せられ、帰依せられ、服従せられたりき。而も彼れをして人望の偶像たらしむるには、彼れの人格は余りに厳粛にして陰気なりき。之れが我が山県公爵に見るも、亦大同小異の模型に逢ふの感なからずや。
 若し政治家を俳優と同視し、其の世に処するや、恰も俳優の舞台に立つが如く、其の言行絶えず公衆の耳目に印象を与ふるを以て能事とすること、猶ほ俳優が一に大向ふの喝采を博するの技術を尽すに似たるを取るべしとせば、山県公爵の如きは最も割の悪しき政治家なり。若し之れに反して、公衆には好愛せられざるも、共同者には信頼せらるゝの徳を有し、新聞紙の寵児とはならざれども、上御一人の覚え頗るめでたく、名声に於ては甚だ揚らざるも、勢力に於て確実なる基礎を有するものありとせば、其政治家として成功するの要素果して孰れに多しとすべきか。山県公爵は完全なる政治家に非ざるべし、然れども少なくとも彼は俳優的政治家に非ずして、実質ある成功を期図するの政治家なり。彼は此の実質ある成功を期図するに於て、毫も公衆の声援を藉るの手段を執らざるものゝ如し。公衆の声援なきも、実権を有するときは政治に成功するの難からざるを知るの政治家なり。故に彼は国民に接近するよりも、先づ権力に接近するの地盤を作るに努めたり。此の点に於て大隈伯爵は固より彼れに及ばず、伊藤公爵と雖も或は彼れの用意の周到に如かざるべし。
 現時の政治界は漸く元老の手を離れて新人物の斡旋に附せられむとするに於て、山県公爵の勢力は遠からずして実存の形を失ふべきや必然なり。而も所謂る山県系と目せらるゝ桂、清浦等の一派が、尚ほ新時代の勢力として優に大政党と対抗するに足るを見れば、山県公爵の涵養したる勢力の鞏固にして、其の根柢の深かきものあるを想ふべし。大隈伯爵の周囲には一人の小大隈と認むべきものなく、伊藤公爵の幕下にも亦小伊藤と称すべきものあらざるに、独り山県系に属する遊星の多数は、孰れも小山県の面目を備へたり。是に由て之れを観れば、彼れの感化力も亦驚くべきものなくむばあらず。以て彼れの真価の存する所を知るべし。(四十一年一月)

   活動したる河野広中

 △河野広中の奉答文事件は、一時疑問の中心と為つて、是れには黒幕があるの、進歩党の策略だのと、いろ/\揣摩憶測をするものがあつたが、追々事実が挙がるに従つて、黒幕の仕事でも何でもない、河野一己の脳中から生れた趣向であつたことが分明わかるやうになつた。
 △兎角政治社会には、政略とか利害とかいふものがあつて、総ての観察が色眼鏡を通して来るから、動もすると事実を曲解する傾があつて困まる。河野のやうな自ら欺くことの出来ない男が自分に何等の信念もないのに、唯だ策士の入智恵でアンな際どい芝居が演られるものでない。又た河野は正直だからといつて、一から十まで人の御先に遣はれる役目と極まつて居る道理もない。ソンな河野なら、福島事件の張本と為つて、七年も八年も監獄の飯を食ふやうな陰謀を企てない。
 △奉答文事件は、河野本来の面目を遺憾なく発揮したものである。
 △一体当世の策士といふ奴は、陰険だの狡猾だのといつても、其の策略は大抵常識から割り出したもので、万朝報の宝探しよりはモソツと判り易いやうに仕組まれて居る。河野は策士といはれる方でないから、所謂る策略といふやうなことは出来ぬかも知れない。併し策士の思ひも寄らぬ非常の決断は、河野の如き真面目の人物に見出ださるゝことが多い。
 △常識から見れば、河野の奉答文私製は、到底正当の処為と認め難い。英国の議会では、勅語奉答は直に内閣の不信任案となることがあつて、其の討議の為に二日も三日も朝野の論戦を続ける慣例であるが、我国の議会では、勅語奉答は唯だ至尊に敬意を表する儀式的奏文とする慣例で、政治上の意味を含ませないことになつて居る。此の慣例は永久変更が相成らぬという訳でもないから、変更する必要と機会があらば、之れを変更しても一向差支がない。併しソレをするには適当の方法手続に依らざるべからずだ、然るに河野は適当の方法手続に依らずして、独断を以て従来の慣例を破つた。
 △凡そ閣臣の失政を弾劾するのは、憲法より与へられたる議院の権能であるけれども、討論を用いずに之れを決することは出来ない。又た之れを討論に附するには、議院法の規定に依て議員より発議せしむるを要するのである。
 △河野の朗読したる勅語奉答文は、形式上討論に附した姿になつて居るが、実際は討論を用いずに可決したのである。否討論が出来ないやうに仕向けたといつても宜しいと考へる。内閣の弾劾上奏案とも見るべきほどのものを、議長の勝手で拵らへて、議長の単意で提出して、討論の準備なき議院に可否を問ふといふ法はない。ソンな大切な問題を夢中に拍手して通過せしめ、後で大騒ぎを遣らかした議員も議員だが、其議員に不意打を喰はした河野議長の処為も、决して正当とは謂はれない。
 △内政は弥縫を事とし、外交は機宜を失すといへる奉答文中の文字は、或は衆議院多数の意向を表現したものかも知れない。併し討論なしに之を可決しては、其文字は全く無意義の空文字となるのである。又た理由を説明せずに斯る上奏文を捧呈するのは、陛下に対する敬礼を欠て居ると思ふ。
 △熟ら/\開会以前の形勢を見るに、政友会と憲政本党とは相聯合して内閣に当らうといふ攻撃同盟が成立つたのであるから、議事の進行次第で、閣員弾劾の上奏案が現はるゝのであつたかも知れない。併しソレにしても、十分当局者に質問をしたり、説明を求めたりして、其の上で正々堂々たる討論をも悉くし、今度こそは大に内閣の油を搾つて遣らうといふのは、聯合党領袖株の心算であつたらしい。ソレデ河野が若し聯合党の為に謀つたならば、彼れは独断でアのやうな奉答文を朗読する事は出来ぬ筈である。大石正巳は河野議長の処為を非常に喜むで居つたさうだが、ソレハ一時の感興に打たれたからであつて深く考へて見たら決して喜ぶべき訳のものでない。
 △如何に目的が正しくても、手段が正しくなくては憲政を円満に発達せしむることが出来ない。少々は目的が間違つて居ても、之れを達するの手段が正しければ天下の同情を得ることがある。かるがゆゑに、政治家の苦心は、どうしたら手段が正しく見えるだらうと工夫することであつて、所謂る策士といふ奴は、目的は兎も角も手段を正しく見せ掛けるやうに仕組むのが巧みである。河野の今囘の遣り口は、全く之れとは反対であるから、たとひ河野自身では俯仰天地に恥ぢざる積りでも、世間では陰険悖戻の策略を用いたものゝやうに彼れを非難するのである。
 △河野自から語る所では、奉答文を政治上の意義あるものとするのは、彼れの年来の持論で、彼れは議長の候補者に推された時、『若し当選して議長の椅子に就くことゝなつたら、此の持論を実行して見ようと決心した』さうだ。是れは真実の自白に相違ない。要するに朝野を驚かした奉答文も、唯だ此の単純なる功名心から生れたので、策略だの陰謀だのといふほどのものでもないと考へる。
 △然らば彼れは何故に此の事を一応政友に相談せずに独断に遣つたかといふに、ソコが則ち河野本来の面目で、彼れは大事を行ふ場合に、人と相談する男でない。又た責任を人と分かつやうなことは好まない方だ。度量が濶いやうで、狭まいやうで、チヨツと尋常人と異つた点がある。
 △勿論従来の慣例を破つて、奉答文に閣臣弾劾の意義を含ませるといふことは、相談しても容易に同意を得るものでないことは、河野も能く知つて居たのである。コンな話を正面から持ち掛けて見給へ、代議士などは唯だ胆を潰ぶすばかりで、政党の領袖で候のといつて居る手合でもイザとなると腰を抜かすに極つて居る。相談なんてソンなこと非常の英断を下だす場合に禁物である。
 △元来河野は、如何なる地位に居ても、如何なる時代に在ても間断なく仕事をするといふ性格の人でない。彼れは感情の最高潮に達した時でなくては活動を顕はさない質である。世は彼れが久しく蜚ばず鳴かずに居つたのを嘲つて無能といつたが、是れは蜚むだり鳴いたりする動機に触れなかつたので、無能には違ひないが、活動力は消滅した訳でないのである。
 △算盤を弾じくとか、理窟を捏ねるとかいふことは、能者のすることで、河野のやうな性格の人には出来ぬ芸だ。利害を離れ、政略を離れて、唯だ一個河野といふ人格の自我を発揮する時でなくては、彼れの本領が見えぬのである。
 △トコロが当世は小刀細工の流行する時節であるから、河野の自我が発揮された奉答文事件を認めて、誰れか背後に黒幕が隠くれて河野を操つたのだと推測するものがある。誠に河野の為に気の毒の感に堪へない。特にニコチン中毒の説を流布して、河野と煙草屋との間に何か秘密でも在るかのやうに言ひ做すに至つては、余り酷どい穿ち様であると考へる。ソンな河野なら、今のやうな貧乏はして居ない。
 △政府に買収されたといふのも党派根性から割り出した推測で、愚にも附かない話ぢや。マー河野よりも政府の都合を考へて見給へ、解散の結果は、前年度の予算を執行することゝなるのだ。第十七議会は解散で三十六年度の予算が不成立となつて居るのだから、前年度の予算といへば三十五年度の予算である。三十七年度の歳計を立つるのに三十五年度の予算に依るといふのは、政府の大困難であつて、ワザ/\ソンな大困難を引受くる為めに、河野を使つて解散の口実を作る如き馬鹿な狂言をするでもなからうぢやないか。
 △又た西園寺侯が河野を煽てゝ遣らせた狂言に過ぎないといつてつうがつて居るものあるが、コレは西園寺侯が優しい顔をして居つて、なか/\悪戯を弄ぶ人であるとの推測から来たのであらう。併しあんな常識を外れた策略は侯の柄に箝まるものでない。考へて見ると奉答文事件は侯の作戦計画を全く打ち壊はしたので、侯は大に目的の齟齬したのを失望したに相違ない。
 △併しドンな批評があらうとも、河野は河野の為さむとする所を決行し了せたのであるから、毀誉褒貶は度外に置くべしだ。兎に角彼れは十分自我を満足せしめたのだから、外に何も遺憾なことがなからう、今度のやうな機会は再び来るものではない。彼れも此に於て始めて歴史上の一人物と為つたのである。(三十七年一月)

   尾崎行雄

     尾崎行雄

      学堂の英雄崇拝
 博学多識の小野東洋早く歿し、敏警聡察なる藤田鳴鶴尋で逝き、俊邁明達の矢野竜渓は、中ごろ久しく政界と絶縁して、隈門の人才、為めに人をして寂寞を感ぜしめ、今や世間島田沼南、犬養木堂、尾崎学堂を隈門の三傑といひ、而して学堂最も当世に称せらる※(白ゴマ、1-3-29)凡そ新進政治家にして学堂の如く顕著なる進歩を得たるものは、近来絶えて其比を見ず※(白ゴマ、1-3-29)彼れは啻に沼南、木堂より遥に後輩なるのみならず、現今著名なる党人中に在ては、彼れは最も年少なるものゝ一人にして、且つ其従来の経歴よりいへば、箕浦青洲、肥塚巴月等も皆彼れの先輩にして、彼れは僅に加藤城陽、角田竹冷等と略々伯仲の間に在りしものなり※(白ゴマ、1-3-29)然るに今や彼れは多数の先輩を凌駕して、沼南、木堂と併び称せられ、其名声は却つて此二人の上に出でむとするは何ぞや。
 顧ふに議会開設以前までの学堂は、唯だ夸大なる空想と、奇矯なる言動とを以て、漫に聞達を世間に求め、天下経綸の実務は一切夢中にして、独り気を負ひ、才を恃み、好むで英雄を気取り大政治家を擬したる腕白書生たりしに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)試に其事実を挙げむか、明治二十年、時の伊藤内閣の欧化政略が、激烈なる輿論の攻撃を受け、物情洶々として形勢穏かならざるや、忽焉として保安条例なるもの天来し、処士政客大抵京城の外に放逐せられ、満城粛然たり※(白ゴマ、1-3-29)当時学堂亦逐客の伍伴となるや、彼れ荘厳正色人に語つて曰く、伊藤博文はナポレオン三世を学びて、クーデターを行ふ、我れは即ち当年のユーゴーたらむと※(白ゴマ、1-3-29)是れ一時の諧謔に非ずして、実に彼れの肺肝より出でたる真面目の語なりき※(白ゴマ、1-3-29)聞く者皆其抱負の不倫を笑ふと雖も、当時彼は疑ひもなく、一個愛す可き小ユーゴーたりしなり※(白ゴマ、1-3-29)後ち彼れが英京竜動に遊ぶや、日に学者政治家と来往して気※(「陥のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を吐く、其論往々無責任にして放縦に属するものあり、英人某氏諭して曰く、政治家は言に小心にして、行に大胆なるを要す※(白ゴマ、1-3-29)子夫れ少しく修養を積めよ、彼れ声に応じて曰く、我は言行共に壮快偉大なる政治家たるを望む、腐儒俗士の事は我れの知る所に非ずと※(白ゴマ、1-3-29)其の気を負ひて自ら大とするの概以て見る可し。
 彼れが曾て報知新聞に在るや、文を属して容易に成らず、編輯人之れを督促して急なり、彼れ大声叱して曰く、我れは未来の立憲大臣たらむと期するもの、何ぞ数々として我れを累はすの太甚しきやと、是れ猶ほ昔者ジスレリーが、メルボルン公の、『足下は政論家と為て何を為さむとするか』と問へるに答へて、我れは唯だ英国の総理大臣たらむとするのみといへると一対の大言なり※(白ゴマ、1-3-29)此れより世人彼れを呼て未来の立憲大臣と称す※(白ゴマ、1-3-29)故に未来の立憲大臣といへば、世間直に尾崎学堂を聯想せざる莫し※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに彼は夙にジスレリーの人物に私淑し、曾て『経世偉勲』を著はして、ジスレリーの伝を記す、其立憲大臣の予告を為したるもの安ぞ経世偉勲中の一節を換骨脱胎せるものに非らざるなきを知らむや。
 彼れが曾て東京府会の議員たるや、例に依りて放言高論動もすれば議場を悩殺せしめんとす※(白ゴマ、1-3-29)蓋し府会の議事は、瑣々たる地方行政の問題にして、天下経綸の大問題に非ず※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼れは常に立憲大臣の心を以て、堂々たる議論を試みんとするの癖あり※(白ゴマ、1-3-29)当時の府会議長たる沼間守一深く之れを患へ、務めて彼れの気※(「陥のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を抑へむとしたるに拘らず、彼れは傲然として飽くまで沼間と頡頏せむとせり※(白ゴマ、1-3-29)以て其抱負の凡ならざるを諒す可し。
 彼れが自負心強く、夸大の空想に耽り、荘厳なる英雄の舞台に神迷するの状は、亦明かに彼れの風采にも躍然たり※(白ゴマ、1-3-29)其昂々焉として鷹揚なる処、其冷静にして容易に笑はざる処、其動もすれば気を以て人を圧せむとする処、皆彼れが気象の外表たらざる莫し※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れ不幸にして、如何なる時代の英雄にも大抵普通なる特質を其風采に欠けり。英雄の特質とは何ぞや曰く磊落粗朴の野性、曰く道理に拘泥せずして盲進する獣力是れなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの衣貌は寧ろワザとらしき躰裁を示すに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)彼れは一髪を櫛るにも、香水と鏡台とを要すといふに非ずや、其蝮蛇の如き眼光もて四方を睥睨するの、如何に注意深き神経質を表するかを見よ※(白ゴマ、1-3-29)其一言一句を苟もせずして勉て多弁の弊を避くるの、如何に小心翼々として或る点に謹慎なるかを見よ、単に彼れの風采よりいへば、彼れは虚飾にして異を衒ふの癖あるものゝ如く、即ち衣冠の英雄にして裸躰の英雄に非らざるの嫌あるを免かれず。此に彼れの性格を判断せしむる面白き一事実あり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが前年井上条約案に反対運動を試み居るの際なりき※(白ゴマ、1-3-29)一日故後藤伯の馬車を借り、俄に立憲大臣に仮装して、意気揚々と早稲田の大隈邸に乗り込み、以て衆人に一驚を喫せしめて自ら喜びたること是れなり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ其れポンチ画中の滑稽人物に近きの太甚しきや※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如き風采は、決して英雄普通の性質と両立せざるものなり。
 彼れは常に矢野竜渓に兄事し、竜渓を以て大臣以上の人物なりと尊崇し、其人品を評して少なくとも当代一流といひたるものなり※(白ゴマ、1-3-29)料るに彼れ竜渓を自己の模型となして之れに陶鋳せられんと欲するの余り、遂に一個の小竜渓と為りたるもの歟、然れども今や彼れは竜渓よりも大なる成功あり、多望なる前途を有するのみならず、比較的年少の身を以て多数の先輩を凌駕し、現に進歩党中最も有力なる領袖と為り、彼れの予期せる立憲大臣の位地も遠からずして彼れを迎へんとするに至れるは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)請ふ少しく余をして彼れが成功の原因を説かしめよ。

      学堂の成功
 学堂が成功の一原因は、政治家の凖備と修養とを怠らざる是れなり※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに藩閥の諸老は、大抵立憲大臣としての伎倆なく、取て代る可きの後進政治家も、未だ経国の大才と認む可きもの実際に出現せずして、到る処夜郎自ら大なりとするの斗※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66)漢が、紛々として互ひに短長を争ひ、雌雄を問ふを見るのみ※(白ゴマ、1-3-29)称して政治家といふと雖も、未だ知らず、政治家たるの準備と素養あるもの果して幾人ぞ※(白ゴマ、1-3-29)夫れ経国の大才は難し※(白ゴマ、1-3-29)学堂亦嘗て此れに当るの実力を世間に示したることあらず※(白ゴマ、1-3-29)故に世間唯だ彼れを大言壮語の虚才として、寧ろ之れを譏笑する多しと雖も、彼れは大言壮語を以て世間を虚喝すると同時に、其平生の抱負を苟且にせずして、孜々として大臣学を修め、英雄の課業を研究して休まざるの熱心あり※(白ゴマ、1-3-29)此熱心ありて而る後、大言壮語するときは、即ち其大言壮語も亦終に徒爾ならざる可きを信ずるに足る。
 彼れは斯くの如き抱負と熱心とを以て帝国議会に入れり※(白ゴマ、1-3-29)其言動豈尋常一様なるを得むや※(白ゴマ、1-3-29)議会を傍聴する者は、必ず先づ異色ある一代議士を議場に目撃せむ※(白ゴマ、1-3-29)此代議士は、常に黒紋付の羽織に純白の太紐を結び、折目正しき仙台平の袴を着けて、意気悠揚として壇に登るを例となす※(白ゴマ、1-3-29)是れ衆議院の名物尾崎学堂なり※(白ゴマ、1-3-29)人は未だ其発言を聞かざるに、先づ其態度の荘重なるに喫驚し、以為らく未来の立憲大臣たるものゝ態度正に爾かく荘重なるべしと※(白ゴマ、1-3-29)其一たび口を開くや、議論堂々として常に高処を占め、大局に居り、其眼中復た区々の小是非小問題なきものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)然り唯だ百姓議論、地方問題を以て終始囂然たる現時の衆議院に在ては、学堂の演説の如きは、実に未来大臣の準備演説ともいふ可き名誉を要求し得るものなり※(白ゴマ、1-3-29)試に見よ、三百の頭顱中、其伎倆彼れに優るもの必ずしも之れなきに非らじ※(白ゴマ、1-3-29)而も学堂の如く功名心に富み、学堂の如く大臣学を専攻するものありや否や※(白ゴマ、1-3-29)ありと雖も恐らくは極めて少し※(白ゴマ、1-3-29)是れ学堂の漸く頭角を現はすに至れる所以なり。
 且つ彼れは衆議院に於て、討論家として卓越なる能力を顕はしたり※(白ゴマ、1-3-29)是れ実に彼れが成功の第二原因なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの討論は、深遠博大なる思想を表現せず、光怪陸離たる情火を発起せず、又長江大河一瀉千里の雄弁を認識せしめず※(白ゴマ、1-3-29)然れども論理痛快、法度森厳にして、往々大胆不敵の硬語あり、以て能く議場の群囂を制するに足るの力なきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)特に其論敵に対するや、逼らず、激せず、熱殺の奇なきも、冷殺の妙あり※(白ゴマ、1-3-29)婉約の巧なきも、辛辣の趣味あり※(白ゴマ、1-3-29)如何なる大嘲罵の言も、彼れは之れを出だすに極めて沈着の辞気を以てし、如何なる滑稽笑※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)の意義も、彼れは説教師の如く、襟を正だし、眉を昂げて表白する如きは、実に一種の討論術を得たりと謂ふ可し。
 伊藤内閣の時なりき、彼れは渡辺侠禅と、一銭一厘の問答を試みて侠禅を翻弄せり※(白ゴマ、1-3-29)一銭一厘の問答、何ぞ其れ滑稽なる※(白ゴマ、1-3-29)而も学堂は極めて厳格なる声色を以て、此奇劇を演じたりき※(白ゴマ、1-3-29)大抵学堂の討論は、詈罵笑※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)を交へざるものなしと雖も、彼れは曾て笑ひたることなく、又怒りたることなく※(白ゴマ、1-3-29)飽くまで冷々然たり、飽くまで従容自若たり※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如き討論家は、往々大激論大争議の壇上に於て顕著なる成功を博し得ること多し。
 彼れが成功の原因は、更に焉れより大なるものあり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞや、彼れが党人として極めて忠実なる党人たるに在り※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曾て大隈伯を論じて曰く、人或は進歩党の一挙一動を以て悉く大隈伯の指揮に出づるが如くに想像するものあり※(白ゴマ、1-3-29)是れ何の謬見ぞや※(白ゴマ、1-3-29)凡そ一政党の進退を指揮するの首領は、常に党員と実際の運動を倶にするものならざる可らず※(白ゴマ、1-3-29)然るに伯は早稲田に閑居して、唯だ客と政談を試むるを楽みとし、復た自ら出でて事を政界に見ることなし、夫れ戦場の外に居て大将軍の事を行はむとす、是れ世間決して有る可からざる道理なり※(白ゴマ、1-3-29)進歩党の実力首領は、他日必らず議院より出現せむ※(白ゴマ、1-3-29)復た何んぞ大隈伯の力を借るを要せむやと※(白ゴマ、1-3-29)彼れの自ら任ずるもの洵に斯くの如し、是を以て議院の内外に於ける彼れの言動は、一に進歩党の利害得失より打算したるものを準と為し、則ち進歩党の為めに尽す所以のもの、亦随つて熱心到らざるなきを見る※(白ゴマ、1-3-29)其今日あるを致すは豈夫れ偶然ならむや※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが成功の第三原因とす。
 然りと雖も、彼れが進歩党中最も有力の位地を得たる所以のものは、唯だ伎倆と勉強との力に是れ由るに非ずして別に之れが原因たるものあり、品性高潔にして体面を重んじ、清澹の生活を楽みて鄙劣の念なき即ち是れなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ常に武士道を説く、何となれば武士は最も体面を重むずればなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ又金銭を軽んじて生産を治めず、鄙吝の念或は之れと共に生ずるを恐るればなり※(白ゴマ、1-3-29)是れ実に当世罕に見る所にして、彼れが内、政友に信任せられ外、敵党の敬憚を受くる所以のものは此れが為めなり※(白ゴマ、1-3-29)夫れ才は得易らず、徳も亦豈得易からむや※(白ゴマ、1-3-29)况むや黄金の魔力横行して、敗徳の政治家頻りに輩出するの今日に於てをや※(白ゴマ、1-3-29)今日の所謂政治家は、ワルポールの所謂市価を有する動物に近し※(白ゴマ、1-3-29)故に其為す所人身売買に異らざるものあるも、曾て自ら之れを耻とせざるのみならず※(白ゴマ、1-3-29)又人に向ひて之を説くを意とせざるに至る※(白ゴマ、1-3-29)此時に当り、金銭を軽んずること彼れが如く、体面を重んずること彼れが如き人物は、一党の領袖として人意を強うし、国民の代表者としては正義を担保するに足る※(白ゴマ、1-3-29)是れ余が深く彼れを多とする所以なり※(白ゴマ、1-3-29)余之れを聞く、西郷南洲翁の信望一代を蓋ひたるは、必ずしも翁が伎倆の大なるが為に非ずして、唯だ金銭を軽むずるの一美徳あるに由れり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し薩人は概して鄙吝の質あり、翁独り高挙超脱夐然として俗流に出づ※(白ゴマ、1-3-29)是れ其能く信望を天下に博せし所以なりと。古への大政治家は、多く文臣銭を惜まざるの士なり※(白ゴマ、1-3-29)ピツトの如き、ジスレリーの如き皆然らざる莫し※(白ゴマ、1-3-29)学堂が身を濁世に処して、曾て公徳を破るの行為なきは、職として文臣銭を惜まざるの気象に由るのみ※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが信望の日に高きを致せる第四の原因なり。

      学堂の人物
 政治家としての学堂は、策略縦横、権変百出、能く一時の利害を制するに於て木堂に及ばず※(白ゴマ、1-3-29)博弁宏辞、議論滔々として竭きざるは沼南に及ばず※(白ゴマ、1-3-29)然れども志気雄邁、器識超卓、常に眼を大局に注ぎ、区々の小是非を争はずして、天下の事を以て自ら任ずるの大略あるに至ては、学堂実に一日の長ある如し※(白ゴマ、1-3-29)余は彼れを以て未だ経国の大才なりと認むる能はず、然れども其抱負の偉大にして自信の深きは、薄志弱行の徒累々相依るの今日に於て、亦容易に得易からざるの士なり※(白ゴマ、1-3-29)若し夫れ彼れを粗放の虚才と為すは、聊か深刻の評たるを免かれず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼れは平生大言壮語の癖ありと雖も、彼れは其実一個謹慎の天分あり、責任を重んずるの操守あり、事を苟もせざるの真面目あり、彼れの大言壮語は、、彼れが大舞台に立て大作為を試みんとするの英雄的思想より来る※(白ゴマ、1-3-29)彼れは草※[#「くさかんむり/奔」、80-上-20]に在りと雖も、其志既に台閣に存すればなり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが一たび外務参事官の位置を甘むじたるは、是れ豈彼れの本心ならむや、故に彼は之を棄つること弊履の如く夫れ軽かりき。要するに彼の未来は最も多望なるものゝ一なりと謂可し。(三十年十一月)

     尾崎東京新市長

 ▲政友会を脱して、遽かに政治的孤児となつた尾崎行雄君は、棄てる神あれば助くる神ありで、同情ある東京市民に拾ひ上げられて市長の地位に安置せられた。君は曾て言つたことがある。我輩の生涯は恰も隧道の多い鉄道旅行をするやうなもので、時々暗黒の処に差し掛つては、再び前途の光明を認めてヤツト安心することがあると。なるほど考へて見ればさうかも知れない。
 ▲君がジスレリーを気取て居るといふのは有名な話であるが、近頃は君をチヤムバーレーンに較べるものがあるやうだ。チヤムバーレーンはバーミンガムの市長と為つたこともあるから、此の点だけが似て居るやうだが、人格は全く反対で、少しも似て居る処がない。
 ▲チヤムバーレーンは理想家でなくて、実行家である。但し何んな政治家でも、苟も政治家であつてみれば、何かの理想を持つて居らぬものはないのである。チヤムバーレーンにも、赤いとか白いとかいふ理想あるに違ひない。しかし彼れは自己の理想よりも更に政治家に大切なものがあるといふことを心得て居る。即ち時代の精神である。彼れが時代の精神に触接するの鋭敏なることは、殆ど天才の詩人が無意識に自然と触接するやうな趣がある。初めは自治法案に賛成して居つたが、時代精神が漸く大英統一主義に傾いて来たのを察して、潮合を計つて自治法案反対と出掛けた処などは凄い腕だ。此頃は復た保護貿易主義らしいものを唱へて居るが、元来自由貿易策は英国の国是ともいふべき位のもので、自由党でも保守党でも此の政策には今が今まで指一本も差しかねたものであるが、彼れが大胆にも之れを変更しようと試みるのは、全く時代精神の傾向を見抜いて居るからだ。其の目先の早いことは疑ひもなき天才である。
 ▲尾崎君はさういふ柄ではない、一体は主観的理想家であるから、其の頭脳は一定の型に這入つたやうに固まつて居る。それであるから、君の政治論は、十年前も今日も、少しも変化もなければ進歩もないやうである。進歩党を去て政友会に赴いた時は、世間から変節だとか無節操だとかいはれたが、実は変節でも何んでもない。唯だ一寸乗替汽車に乗つて見たばかりで、其の行先はチヤンと極まつて居つたのである。
 ▲理想家に免がれない短所は、常に自己に重きを置きすぎる弊があつて、兎角時代の精神を看過するから、実行的手段には迂濶であるやうだ。此の社会を自己の理想通りにして見たいと思ふのは、面白いことは面白いが、社会は自己の理想より進歩して居ることもあり、後れて居ることもあつて、平行して居ることは少ないものだから、理想家は何うかすると社会の孤児となるのである。
 ▲尾崎君の行径を見るに、多少其の傾向があるではなからうか。政友会を脱したのも、自己の理想が行き詰つた為めであつて、別段深い考があつたものと見えない。世間には、君が伊藤侯を見損つて政友会に飛び込むだのが誤りであつたと評するものもあるが、強ち見損なつた訳ではなからう。唯だ自己の理想を余り大事にし過ぎた為に、当時の境遇に堪え得なかつたのである。
 ▲しかし茲が尾崎君の人気のある所以で、失敗しても世間の同情が君を離れないのであらう。チヤムバーレーンのやうな人物は、成功すれば世間から同情を受けるが、失敗でもしたら最後、名誉も信用も忽ち去つて仕舞うのが必然だ。其処になると、理想家は一得一失で、失敗しても左ほど世間から憎まれない。尾崎君は即ち其の一例で、君は自ら言つて居るやうに、屡々暗黒の隧道に行き当ることがあるが、暫らくして再び光明の出口に送り出さるゝのである。
 ▲政友会を脱したのは、丁度隧道に向つた処であつて、君自身も此先どうなることかと気が気でなかつたに相違ない。其処へ都合よく東京市長が欠けて居つて、後任問題の持ち上がつた際であつたから、人気は恐ろしい勢で君に集つた。これだけは君の夢にも思はなかつたのであらうが、君に取つて所謂る渡りに舟で、人気といへる不思議の魔力に引かれたのである。
 ▲凡そ聡明な人物は、自分で自分の運命を開拓するものであるが、余り聡明でない人物でも、人気といふ魔力に担がれると、予期せざる仕合せに逢ふものらしい。
 ▲ソンなことはどうでも宜いとして、さて君はチヤムバーレーンに比較されて居るから、どうかチヤムバーレーンに劣らないやうに、緊かり市政を行つてもらひたいものだ。市政といへば小さいやうであるが、なか/\さうでない。国務大臣の仕事にも劣らぬほどの難役であるのだ。
 ▲チヤムバーレーンがバーミンガムの市長と為つたのは未だ国会議員とならない前であつて、政治家としては経験が甚だ少なかつたのである。しかし会社事業や何かで実務上の手腕が十分認められて居つたから、市民の信用を得て市長に選まれたのである。果して彼れは市民の希望に背なかつた。新たに大規模の公園を造くる、自由図書館を建てる、市民の大会堂を設ける、水道及び瓦斯の供給を市有にする、貧民窟を市外に移して市の体裁を綺麗にする、それは/\目醒ましき働きを現はしたのである。随て彼れの市長たりし時代はバーミンガム市の歴史上、最も記憶すべき重要の時代といはれて居るが、尾崎君も市長となつた序に思ふ存分に手腕を示してもらひたいものである。
 ▲唯だ市政はヂミな仕事でハデでない代りに、随分細かい、面倒臭い処があるから、何でも根気よく、勉強するに限る。それに東京の市政にはいろ/\の歴史もあり、込み入つた情実もあるから、政党を率いたり、国会議場で討論するやうな訳に往かない。君は市会を小国会にし、市庁を小内閣にする抱負があるさうだが、ソンなことは市政には余り必要がない。市政は直接に市民の生活問題に関係するものだから、教育とか、衛生とか、交通機関とかいふ実際の施設に最も注意してもらひたいのである。市会がどうの、市庁の組織がどうのといふやうなものは、格別大事でないと考へる。
 ▲どうも理想家は、空理空論に流がれて、実務の上に手を抜く弊があるから、尾崎君も余つぽど用心しないと、つまらない失敗を取らないとも限らない。君は宜しく市民の人気に背かないやうに甘く遣るべしだ。(三十七年八月)

     尾崎行雄氏の半面

 此頃外債問題討議の市会議場に於て、市長尾崎行雄氏は、久しぶりにて大気焔を吐きたり。氏は某議院が、外債のコムミツシヨンを如何に処分するやと言へるを聞き咎めて、行雄は二十年来政海の激浪を経来れり、十万二十万の端金の為に名節を汚すものに非ずと傲語し、以て頗る世間の耳目を驚かしたるものゝ如し。
 尾崎氏の品性廉潔なるは何人も之れを疑ふものなく、市民が氏を市長に戴きたるも、実は其廉潔を信じたるに外ならず。然れども世間は氏に望むに、更に廉潔以上何事か市政の上に施設する所あらんことを以てしたり。有体にいへば、世間漸く氏が市長として余りに無為なるに失望したり。氏より見れば今の市会議員なるものは箸にも棒にも掛らぬ連中なるべし。而も氏は斯る連中の為に往々愚弄せられ、若くは鼎の軽重を問はれむとするの状なきに非ず。是れ平生氏を知るものゝ甚だ心外千万とする所なり。
 勿論人は動いて一事を為す能はず、静かにして却つて多くの為すことあり。氏が二十年間の政治的活動は、随分目覚ましからざるに非ずと雖、其の迹を見れば唯だ廉潔の美名を得たるのみにて、是れといふべき格別の事業もなきに似たり。されば市長となりて以来氏が殆ど寂然として聞ゆるなきに至りしもの、或は氏が実質上大に為しつゝある所以なるも知るべからず。是を以て氏の静かなるは毫も咎むべきに非ず、要するに其の平生の抱負に背かざるだけの仕事を為すことを得ば足れり。今や氏は千五百万円の外債募集に成功したり。氏は此の金額を以て市区改正其他の事業を未来の短かき時日内に遂行せむとすと聞けり。是れ恐らくは東京市の戦後経営なるべし。其の成敗は則ち市の能否を試験する所以なれば、氏夫れ二十年来鍛錬し得たる手腕を揮つて世間の群小を一斉屏息せしむるを得るや否や。(三十九年八月)

     尾崎市長と大岡市会議長

 尾崎行雄氏は東京市長として未だ世間に誇るに足るものなくして、却つて群小嘲弄の標的たらむとするは気の毒の至りに堪へず。前に氏の市長に就任するや、故星亨の残党たる郡市懇話会、之れに反対して起りたる公民会、及び余の中立派は、悉く相一致して氏を助くるの態度を示したりき。而も時を経るに従ひ、氏は漸く市民の代表者に重むぜられず、最も氏を信用したる公民会派すらも、氏に対する同情は以前の如く深厚ならざむとするに至れり。氏の位地は幾たびか危急に迫れりと報ぜられたりき。氏の名節を惜むものは寧ろ氏が辞職の断あらむことを望みたること一再に止らざりき。特に電車問題に関する氏の失敗は、氏をして最後の処決に出でしむるに十分の理由あるものなりき。氏は東京市会が電車市有の決議を為したるを見て、直に属僚に命じて市有案を編制せしめつゝありしに、市参事会員は其の同一属僚をして更に反対の立案を為さしめたりといへり。市参事会員の行動斯くの如く、市会の形勢亦翻雲覆雨して、氏に求むるに市有案の撤囘を以てしたるに至ては、是れ氏に向て詰腹を切らしめむとするに均し。而も氏は尚ほ晏如として市庁に眠る。知らず氏の意気銷沈したるか、将た大に将来に期する所あるか。
 茲に東京市会議長の大岡育造氏といへる大政治家あり。世間或は氏を以て市長の椅子を窺※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)し、陰に尾崎氏を構陥するの謀主と為すものあり。其の果して然るや否やは記者の知る所にあらざるも、兎に角尾崎氏は自己の身辺に油断のならぬ強敵を控へ、絶えず其の脅かす所となるものゝ如くに見做されたり。誠に危険千万の話なれども、而も此の強敵あるが為に、此の位地は却つて倒れむとして倒れず、今日まで安全に支持し得らるゝの状あるは奇なりと謂ふべし。
 大岡氏は巧慧機敏の才子にして善く謀り善く働くと称せらる。之れに反して尾崎氏は正直なる神経質の人物にして、常に上品の手段を以て上品の目的を達せむとし、其の心術に一点の横着なきがゆゑに、頗る野暮にして融通の利かぬ堅気者に似たり。されば小手先の器用を喜ぶものは、大岡氏に意を寄する多かるべきも、唯だ東京市民は市長として一事の尾崎氏に信頼すべきものあるを了解せり。氏の清廉潔白なること是れなり。東京市政は、久しく不浄なる人物に依て攪乱せられたりき。是を以て他の資格に於て欠くる所あるも、清廉潔白の人格を有するものは東京市長として最も安心すべき人物なりと東京市民は思へり。尾崎氏にたとひ事務の能の甚だ称すべきものなしとするも、其の清廉潔白なる美質は東京市民の毫も疑はざる所なり。但し市会及び市参事会の小野心家小陰謀家は、却つて此の清廉潔白を窮屈に感ずるものあるやも知れざれども、市民の輿望は此に帰せり。故に若し清廉潔白に於て尾崎氏の如く明白ならざる人物ありて市長の椅子を窺※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)すと仮定せば、其の人如何に巧慧機敏の才子なりとも、東京市民は恐らく過去の市政史を囘顧して尾崎氏を助くるに傾かむ。大岡氏も亦清廉潔白の士君子なるべし。而も此の点に於ける尾崎氏の信用は大岡氏に比して優れり。是れ尾崎氏の位地尚ほ容易に動かざる所以か。
 斯くて尾崎氏の位地は当分安全なれども、実は脆弱なる安全なり。実力を以て支持したる安全に非ず。氏にして若し小心翼々唯だ過失なきを勉むるのみならば、氏の位地安全なるが為に東京の市政に何の加ふる所あるを見ざらむ。元来氏は豁達にして腹心を披くの門戸開放家にも非ず。さりとて術数を蓄へ陰謀を成すの策士にも非ず、要するに氏は一種の独善主義者にして名節を貴ぶの君子人なり。故に品性は極めて立派なれども、俗人を相手にして俗事を処理するに於ては、其の頭脳余りに窮屈にして狷介なり。氏は熱心なる味方を作る能はず、又忠実なる子分を得る能はず。首領たるの器局は到底氏に於て求むべからず。故に氏に望む所は、思ひ切つて自己の所信を断行し、何人の反対をも畏れずして独り其の為さむとする所を為し、位地を賭して驀進するに在り。然らずして唯だ無為無能の好々先生に終らば、氏の政治的生命は遠からずして絶えむ。位地の安全なるを以て自ら甘むぜば、氏の末路は知るべきのみ。(四十年二月)

   公爵 近衛篤麿

     近衛篤麿

      一代記の序言
 近衛篤麿公の名が世に出でたるは、漸く最近十年間の短日月のみ。而も彼れの春秋尚ほ高きを見るに於て、此短日月は僅かに彼れが公人歴史の初期たるに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)彼れは多くの懸賞問題を未来に有せり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは任重く道遠く、其期する所のものは固より未来の成功に在らむ※(白ゴマ、1-3-29)今日豈輙すく彼れの人物を評論するを得むや※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れが初期の公人的歴史は、其善く彼れの人物性格を説明したる点に於て、実に彼れの一代記の序言たる可き意義を有せり、乃ち其一は彼れが統御の器あることを説明し、其第二は彼れが公平忠忱の情に富めるを説明し、其第三は彼れが自任自信の極めて高きを説明し、其第四は彼れが謹慎にして責任を重むずるを説明し、其第五は彼れが主義定見を守るの固きを説明せり※(白ゴマ、1-3-29)然らば彼れの人物亦豈観察し得可からざらむや。

      統御の器
 彼れが欧洲より帰るや、久しからずして帝国議会開会せられ、彼れは憲法より与へられたる特権に依りて貴族院の一席を占めたり※(白ゴマ、1-3-29)当時貴族院には、或は学識を以て、或は勲功を以て、或は閲歴を以て、既に世に聞えたる先輩の士甚だ多くして、彼れは恰も大人群中の小児の如き観ありき※(白ゴマ、1-3-29)則ち誰れか此小児が大人を統御し得るの器を具へたるを知るものあらむや※(白ゴマ、1-3-29)此を以て時の貴族院議長伊藤博文が、偶々故ありて自ら事を観る能はざるに際し、彼れを仮議長として指名するや、満場皆其意外に驚かざる莫く、中には冷笑を以て彼れを迎へたるものありしと雖も、彼は何の遅疑する所なくして議長の椅子に就きたり※(白ゴマ、1-3-29)満場は再び意外の感に打たれたりき※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼れの安詳沈着たる態度明敏果断なる処置は、自然に議長たるの伎倆を示したればなり。
 松方内閣成るや、彼は遂に議長に勅選せられて第十議会に膺りたりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れが議長としての伎倆は益々世間に認識せられたりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れの政敵は彼れを呼で圧制議長といひ、彼れの政友は亦彼れが余りに公平なるを喜ばざりしと雖も、其善く議場を整理し、善く討論を指導したるに至ては、恐くは帝国議会あつてより、貴族院第一流の議長ならむ、統御の器あるに非ずして何ぞや。

      忠忱の人
 彼れは久しく貴族院に於ける硬派の首領たり※(白ゴマ、1-3-29)第一期の議会以来彼は大抵政府の反対に立てり※(白ゴマ、1-3-29)政府に反対するに非ずして藩閥に反対せるなり※(白ゴマ、1-3-29)而も其進退動もすれば衆議院の非藩閥派と同うするものあるを以て、政府者の彼れを憎むや最も太甚し※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れの藩閥を攻撃するは、衆議院の非藩閥派と其精神を異にせり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し衆議院の非藩閥派は、政権争奪を以て結局の目的と為すと雖も、彼は単に藩閥の情弊を打破して憲政の実を挙ぐるを中心の冀望と為したればなり。
 故に彼は一方に於ては藩閥を攻撃すると共に、一方に於ては又屡々衆議院の行為を非難したりき※(白ゴマ、1-3-29)前伊藤内閣の第四議会と衝突するや、紛争に始まりて紛争に終り、九旬の会期唯だ怒罵忿恚の声を以て喧擾したるに過ぎざりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ他なし、内閣は常に軽佻驕傲にして責任を顧みず、常に袞竜の袖下に隠れて衆議院を威嚇せむとするあり、衆議院は噪暴急激にして沈重なる思慮を欠き、動もすれば上奏権を仮て内閣に逼らむとするあり、其行動両つながら極端に失して一点和協の意なければなり※(白ゴマ、1-3-29)其結果として衆議院は内閣の処決を促がすと称して自ら停会し、内閣は之れに酬ひんと欲して恐れ多くも詔勅の降下を奏請し奉る如き、殆ど共に大義名分の何物たるを知らざるものに似たりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れは此事態を歎じて慨世私言を述べ、以て其機関雑誌に掲出せしめたり※(白ゴマ、1-3-29)固より寥々たる短章に過ぎずと雖も、中に彼れが満腹忠忱の情躍々として掬す可きものあり※(白ゴマ、1-3-29)其内閣に対しては、藩閥の情弊に拘泥して改善の実蹟なきを責め、挙措の不親切にして真面目ならざるを責め、誠意誠心の毫も認む可きものなきを責め、其衆議院に対しては、妄りに政府弾劾を事として紛然囂然たるを咎め、上奏権を濫用して、陛下を政海の渦中に誘ひ奉るの不敬を咎め、政府乗取の野心に駆られて国家民人の康福を度外視するを咎めたり※(白ゴマ、1-3-29)忠忱の人に非ずして何ぞや。
 第五議会の解散するや、彼れは其同志と共に伊藤首相に忠告書を贈りて、首相の反省を求めたり※(白ゴマ、1-3-29)首相之れが復書を作りて相酬ゆるや、彼は更に弁妄書を公にして其謬見を指摘すること太だ痛切※(白ゴマ、1-3-29)而して彼れを知らざるものは、此一事を以て単に伊藤攻撃の策より出でたりといふものあり※(白ゴマ、1-3-29)是れ実に彼れの心事を誤解したるの太甚しきものなり。彼は伊藤侯の政略こそ初めより非難もしたれ、一個人としての伊藤侯に対しては、常に敬愛の心を以て之れを待つは、彼れの自ら明言する所なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ弁妄書に於て其心事を吐露して曰く、篤麿が私交上に於て伊藤伯※(始め二重括弧、1-2-54)当時は伯爵たり※(終わり二重括弧、1-2-55)に対するの情実に師父に対するの情に異らざるもの在て存す、篤麿一個の冀望に於ては、伊藤伯の統督する内閣をして過誤なき内閣たらしめ、伊藤博文伯をして維新の元勲立憲国大首相たるの挙措あらしめむと欲するに外ならず※(白ゴマ、1-3-29)然れども今や篤麿は、私情を去て公議に依り、旧来の情誼を棄てゝ断然伊藤内閣反対の側に立ち、公然其非を鳴らさざるを得ざるに至れりと※(白ゴマ、1-3-29)何等正大の辞ぞ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈他の伊藤派と其心事を同うするものならむや※(白ゴマ、1-3-29)

      自任に高き人
 松方内閣組織せらるゝに及び、人あり彼れを誘ふに文部大臣の椅子を以てす※(白ゴマ、1-3-29)彼れ冷然之れを拒絶して敢て応ぜず※(白ゴマ、1-3-29)客あり彼れに逢ふて其理由を問ふ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曰く、余は学習院長として今方に其改革に従事しつゝあり※(白ゴマ、1-3-29)華族教育は余に於て最大の職任にして、且つ最重の義務なり※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ此れを棄てゝ一伴食大臣の地位を望まむやと※(白ゴマ、1-3-29)蓋し彼れは何時なりとも内閣大臣たるを得るの自信を有する者なり※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れは他の一般野心家の如く、必らずしも焦燥煩悶して大臣たらむとするものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)必らずしも大臣の地位を最上の名誉と為すものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れは、華族が皇室の藩屏たるを念ひ、自ら華族の矜式たらむと任ずるや太だ高し※(白ゴマ、1-3-29)其気格の雄大なる其品性の清高なる、固より華族の代表者として内外の信用を博するに足るは言ふを俟たざるのみならず※(白ゴマ、1-3-29)彼れは日本華族の改革者として最も力を此に致たしつゝあるは、亦世間の均しく認むる所なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが曾て華族の腐敗を国家学会に痛論するや、一部の華族は彼れを咎めて華族を侮辱したりと為し、太甚しきは彼れを以て華族中の壮士と為すものありき※(白ゴマ、1-3-29)然り、其言稍々矯激に過ぐるものなきに非ざりしと雖も、華族の腐敗は天下の公認にして、独り彼れ一人の私言に非ず※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈好むで同族の醜事を暴露するものならむや※(白ゴマ、1-3-29)彼れ以為らく、華族の腐敗今日の如くむば、啻に皇室の藩屏たる能はざるのみならず、延て或は皇室の威厳を傷け奉るの虞なきを得ず※(白ゴマ、1-3-29)是れ華族改革の到底已む可からざる所以なりと※(白ゴマ、1-3-29)苟も貴族院に於ける華族の行動を目撃するものは、誰れか窃に華族の前途を憂へざるものあらむや※(白ゴマ、1-3-29)唯だ時の内閣に忠勤を励むを以て華族の本分なりと誤想し、俗吏の頤使を受けて、犬馬の労を執るものあるに至て、華族の体面幾ど地に墜ちたりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)此くの如き華族にして安ぞ能く皇室の藩屏たるを得むや※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが熱心なる華族改革論者たる所以なり※(白ゴマ、1-3-29)然れども彼れは現代華族の終に済ふ可からざるを知る※(白ゴマ、1-3-29)故に自ら進で学習院に長と為り、以て華族の子弟を教育し、以て第二代の華族を作らむと欲するのみ※(白ゴマ、1-3-29)自任の高きものに非ずして何ぞや。

      謹慎の人
 昔者孔明、漢後主に上表して曰く、先帝臣が謹慎なるを知る、故に臣に託するに大事を以てせりと※(白ゴマ、1-3-29)藤田東湖評して曰く、謹慎の二字実に孔明の人物を悉くせりと※(白ゴマ、1-3-29)夫れ社稷の名臣は多く謹慎の人なり※(白ゴマ、1-3-29)謹慎の人に非ずむば決して天下の大事を託す可からず※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに近衛公を知らざるものは其言動の往々矯激に失するあるを以て、或は誤りて不覊粗放の人物と認むるものなきに非ず、然れども彼れは本来謹慎にして責任を重むずること人に過ぐ※(白ゴマ、1-3-29)其謹慎なる点に於て、彼は酷だ故三条公に類するものあり※(白ゴマ、1-3-29)唯だ三条公の女性的気象なるに反して、彼は男性的気象を以て其謹慎の天分を包めるを異りとするのみ※(白ゴマ、1-3-29)則ち彼は三条岩倉二公を調和したる資質を具へ、徳量は三条公の体を得て、沈勇は岩倉公の血を受けたり。

      主義の人
 彼れ前年独逸大学に在るや、其卒業論文として責任内閣論を草し、以て名誉ある学位を受けたり※(白ゴマ、1-3-29)人は曰く、責任内閣は近衛公の初恋なり※(白ゴマ、1-3-29)故に終生志を渝へざる可しと※(白ゴマ、1-3-29)彼れが初期議会以来、常に責任内閣、藩閥打破を主張して、所謂る貴族院に於ける硬派の首領たるは、即ち其初志を貫徹せむとするが為めのみ、彼れが其平生師父の礼を以て待てる伊藤侯と政敵たるを辞せざるも、亦此れが為めのみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れが衆議院の非藩閥派と屡々提携して、其運動を倶にするの迹あるも、亦此れが為めのみ※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れは伊藤侯の一派に敵視せられ、大隈伯の一派に多くの政友を有すと雖も、是れ唯だ政見の異同より来れる結果のみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは決して大隈派に非ざるのみならず、大隈派の盛んに伊藤攻撃を事としたるの時は、彼れは未だ大隈伯に一面識すらなきの日なりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れは主義の為めに伊藤侯と争ひたるも、曾て党派的感情の為めに其去就を定めたることはあらじ。

      華族社会の好一対
 近衛公と西園寺侯とは華族社会の好一対なり、近衛公は現に貴族院議長たり、西園寺侯も亦曾て貴族院に副議長たりき※(白ゴマ、1-3-29)西園寺侯は現に伊藤内閣の文部大臣たり、近衛公も亦曾て松方内閣より文部大臣を擬せられたりき※(白ゴマ、1-3-29)近衛公は久しき以前より機関雑誌を発行して、今も尚ほ現に之れを所有せり、西園寺侯も亦前年曾て一新聞を発行して自ら之れが記者たることありき※(白ゴマ、1-3-29)其位地境遇何ぞ太だ相似たるや。
 特に近衛公の独逸学に於ける、西園寺侯の仏蘭西学に於ける、其素養以て相敵するに足り、近衛公の国家主義に於ける、西園寺侯の世界主義に於ける、其思想以て相争ふに足る※(白ゴマ、1-3-29)而して其名望よりいへば、西園寺侯遠く近衛公に及ばざるは独り何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)嗚呼是れ才の優劣に非ずして、又徳の高下に由るに非ずや。(三十一年三月)

     帰朝したる近衛公

      (上)
 帰朝したる近衛公は、政治社会の未定数として一般に認めらるゝ人なり※(白ゴマ、1-3-29)従来名士の海外より帰朝するや大抵多少の新観察を齎らし来りて、国民の聴官に或る音響を感ぜしめざるなし※(白ゴマ、1-3-29)况むや資望一代に高き近衛公に於てをや※(白ゴマ、1-3-29)さりながら我れも人も公の帰朝に待ち設けたる問題は、公が如何なる新観察を齎し来りて国民に寄与するや否やに非ずして、如何なる新運動を今後の政治社会に試む可きや否やに在りとす。
 余の記憶によれば、公の世界漫遊は、貴族教育の取調を第一の目的と為し、政治上の観察は寧ろ第二の目的なりしものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)蓋し公は現に学習院長として貴族教育の重任を負ひ、而も近来専ら心血を此の方面に注ぐと共に、政治社会に於ける態度の稍々保守に傾きたるは事実に近かし※(白ゴマ、1-3-29)公は最近数年間に起れる政変に於て、幾たびか自己の運命を試験す可き機会に遭遇したれども、公は常に淡然として之れを閑却したるに反して、独り学習院の事業に至ては、燃ゆるが如き改革的精神を以て、自ら画策施設したるもの頗る多し※(白ゴマ、1-3-29)斯くの如きは抑も何の感ずる所あるに由る乎※(白ゴマ、1-3-29)案ずるに、公は日本の貴族に対して、平生匡済の念禁ずる能はざるを認識するの人なり※(白ゴマ、1-3-29)是れ他なし、深く貴族院の状態に鑑みる所ありしが為のみ※(白ゴマ、1-3-29)夫れ貴族院は、一国の富貴名爵を代表したるものなるが故に、少なくとも其品位を保持するに於て衆議院よりも優るものなかる可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も日本貴族院は不幸にして甚だ悲む可き現象を呈したりき※(白ゴマ、1-3-29)議会を開設して先づ腐敗の徴候を発したるものは、衆議院に非ずして貴族院なりき※(白ゴマ、1-3-29)衆議院が政費節減民力休養を唱ふれば、貴族院は則ち之れに反対し、衆議院が行政改革情※[#「敝/犬」、86-下-14]打破を唱ふれば、貴族院は則ち之れに反対し、衆議院が新聞発行禁停の廃止を唱ふれば、貴族院は則ち之れに反対し、而して政府の提案、内閣の政略といへば、其是非得失を問はずして一も二もなく之れに盲従したりき※(白ゴマ、1-3-29)是れ尚ほ可也※(白ゴマ、1-3-29)貴族院中には、藩閥と国家とを同視して、藩閥を擁護するを以て国家の大事と心得たる議員もありき※(白ゴマ、1-3-29)皇室と政府とを混同して、政府の頤使を奉ずるを以て皇室に忠義を尽す所以なりと誤解する議員もありき※(白ゴマ、1-3-29)其最も醜陋なるものに至ては、政府の恩賞を得るを以て唯一の目的とせる議員もありき※(白ゴマ、1-3-29)而して近衛公、此間に在りて、内は侃諤の正義を主張して、貴族院の品位を維持せむことを努め、外は藩閥の圧力に抵抗して、帝国憲法の神聖を保護せむことを謀りたれども、濁流滔々として殆ど塞ぐ可からず※(白ゴマ、1-3-29)此に於て乎公は以為らく、貴族院を匡済せむとせば、先づ其要素たる貴族の病根を治せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も現代貴族の病根の到底治す可からざるを見るに於て、唯だ宜しく少年貴族を教育して、未来の理想的貴族を作るを任とす可きのみと※(白ゴマ、1-3-29)乃ち公は真に皇室の藩屏たる可き貴族を作らむが為に、自ら進で学習院長と為りたりき※(白ゴマ、1-3-29)亦以て公が志の存する所を諒とす可し。
 さりながら実際の腐敗は独り貴族及び貴族院に止らず、近来政党及び衆議院の腐敗は寧ろ是れに過ぎたり※(白ゴマ、1-3-29)見よ衆議院は曾て貴族院が藩閥に盲従するの賤劣を嘲笑したりしも、今や衆議院に於ては、おの/\の政党互ひに政府に盲従せんことを競ふて、貴族院よりも一層賤劣なる行動を表明するに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)猟官に非ずんば賄賂の授受を目的とし、国家の立法機関を以て利益交換の市場と為し、代議士の公職を利用し、政党の佳名を藉りて営利の私計を事とし、靦然として耻づるなきは、豈衆議院の近状に非ずや。而して政府も亦衆議院の腐敗に乗じて盛に買収政略を行ひ、朝野相習ひて相怪まざるのみならず、反つて之れを怪むものを指笑して、政治の趣味を了解せざるものとするの時代とはなりぬ。
 腐敗の事実は敢て今日に発したるに非ず※(白ゴマ、1-3-29)さりながら近衛公は未だ横浜埋立事件の如く驚く可き奇観をば目撃せざりき※(白ゴマ、1-3-29)此事件は啻に政党の腐敗を事実上に表示したる最好の証拠たるのみならず、直に是れ憲法政治の危機を表示したる一大悪兆なり※(白ゴマ、1-3-29)星亨は前年取引所より収賄したりといふの嫌疑に依りて衆議院議員より除名せられたる時、自由党すらも亦一人の之れを惜むものなかりき※(白ゴマ、1-3-29)今や彼は公然議員買収の非行を自白するも、自由党の多数は之れを不問に附して、随て其迹を曲庇せり※(白ゴマ、1-3-29)特に最も奇怪なるは、斯る政治的道徳を破壊して憚らざる人物が、反つて益々其勢力範囲を拡張するを見て、世間寧ろ其手腕の敏なるを称すること是れなり※(白ゴマ、1-3-29)故に人は星亨を目して時代の権化といひ、亦深く其非行を咎めざらむとするものゝ如し※(白ゴマ、1-3-29)是れ支那朝鮮に於て覩る可き現象にして、我帝国に在ては歴史あつてより以来殆ど稀有の世変と謂ふも可なり。
 近衛公は貴族の儀表にして、其高風固より国民の瞻仰する所※(白ゴマ、1-3-29)而も未来の総理大臣として公に属望するもの亦少なからざるに於て、公は単に貴族の教育を以て目的とするのみならずして、又国民の指導を以て今後の重責と為さゞる可からず※(白ゴマ、1-3-29)今や一般政治社会の腐敗は心あるものをして皆窃かに国家の前途を憂へしめぬ※(白ゴマ、1-3-29)是れ公が当に新運動を開始して光華ある歴史の第一章を作る可き時に非ずや。

      (下)
 近衛公にして若し新運動を開始するものとせば、公は果して如何なる方向を選む可き乎※(白ゴマ、1-3-29)或は同志を天下に求めて、健全なる一政党を組織す可き乎※(白ゴマ、1-3-29)或は既成政党の孰れにか身を投じて大に政党革新の事に従ふ可き乎※(白ゴマ、1-3-29)又或は一切の政党を否認して、党派の外に超然たらむ乎。
 現今の政党は、其腐敗に於て五十歩百歩の差はあれども、其腐敗は則ち一なり※(白ゴマ、1-3-29)帝国党は自ら既成政党の腐敗に襲はれずと揚言したれども、其実、帝国党は最も腐敗の黴菌多かりし国民協会の変形のみ※(白ゴマ、1-3-29)其腐敗したるや固より久しと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)されば政党は総べて腐敗す可きものなりや、若し然りとすれば、一切の政党を非認して党派の外に超然たるも亦已むを得ずと雖も、凡そ政党の腐敗は政党自身の罪に非ずして時代の罪なり※(白ゴマ、1-3-29)則ち政党を非認せむとせば、先づ時代を非認せざる可からず、而も唯だ時代を非認するのみにて別に経綸の策を講ぜざるものは、是れ哲学者にして政治家に非ざるを如何せむ。
 近時動もすれば政党より逃がれて一身を潔くせむとするの人あり※(白ゴマ、1-3-29)其情諒す可きものありと雖も、亦一種の厭世観のみ※(白ゴマ、1-3-29)政治家は徹頭徹尾現実世界の人なり※(白ゴマ、1-3-29)現実を離れて政治なるものなく、現実世界を外にして政治家の働く可き場所あることなし※(白ゴマ、1-3-29)時代非なればとて政治を中止す可からず※(白ゴマ、1-3-29)政党腐敗したればとて必ずしも政党其物を非認す可き謂れなきに非ずや※(白ゴマ、1-3-29)况んや十分政党の価値を認識せる近衛公に於てをや※(白ゴマ、1-3-29)然らば公は既成政党に入らむ乎※(白ゴマ、1-3-29)若し既成政党に入るとせば、孰れの政党に入る可き乎。
 公の既成政党に入るは、絶対的に利ならず、又絶対的に害ならず※(白ゴマ、1-3-29)請ふ末松男の例を観察せんか※(白ゴマ、1-3-29)顧ふに自由党は決して末松男の理想を満足せしむるの政党にはあらじ※(白ゴマ、1-3-29)唯だ彼は政党の勢力を認識する政治家なるを以て、比較上政見相接近したる自由党に入りたるのみ、其一利一害の多少は、要するに彼れの思想と自由党との調和の度合如何に由れり※(白ゴマ、1-3-29)換言せば自由党が彼れの理想を容るゝこと多ければ多きだけ彼れの利多く、之れに反すれば其結果随て同じからずといふまでなり※(白ゴマ、1-3-29)近衛公に於ても又然り※(白ゴマ、1-3-29)仮りに公をして進歩党に入らしめよ、進歩党には公を崇拝するもの頗る多く、且つ公の人物を崇拝するのみならず、公の政見に同情を表するもの亦少なからざるを以て、其利必らず末松男の自由党に於けるよりも大なるものあらむ※(白ゴマ、1-3-29)而も其の決して公の理想を満足せしむる能はざるものたるは毫も自由党対末松男の関係に異らざる可きのみ※(白ゴマ、1-3-29)人或は公が既成政党の首領たる伎倆あるや否やを疑ふものあれども、是れは無益の疑問なり※(白ゴマ、1-3-29)進歩党は百二十余の代議士を有すと称すれども、一人の大隈伯に代る可き好首領なく、自由党は亦百頭顱に近かき代議士を包有すと雖も、伊藤侯に非ずむば、其全党を圧するの資望あるものなし※(白ゴマ、1-3-29)近衛公は固より最良の政党首領に非ざる可し※(白ゴマ、1-3-29)さりながら星亨にして、犬養毅にして、将た末松謙澄にして、政党の首領たるを得可くむば、公は更に彼等よりも大なる首領たるを得可きに非ずや。
 公若し既成政党に入るを利あらずとして別に一政党を組織せば如何※(白ゴマ、1-3-29)是れ亦面白し※(白ゴマ、1-3-29)既成政党の孰れにも関係なき中立派は喜むで公を迎ふるのみならず、既成政党の腐敗に厭き果てたる健全なる同志者は、亦必らず響応して起たむ※(白ゴマ、1-3-29)是れ伊藤侯の曾て計画して未だ実行せざるもの※(白ゴマ、1-3-29)公乃ち今日伊藤侯の未だ実行せざるものを実行する、亦妙ならずとせむや。
 帰朝したる近衛公は、政治上の未定数なりと雖も、其一挙一動は、少なからざる注意を以て国民に属目せらる※(白ゴマ、1-3-29)余は公が当に如何なる態度を以て其新運動を開始す可き乎を観むとす。(三十二年十二月)

     故近衛公を追憶す

      近衛公と政党内閣
 故近衛公は、最も多望なる未来の人なりき。不幸にして、一朝病の為めに過去の人となり、国家は之れによりて柱石たるべき偉材を失ひ、貴族は之れによりて好個の首領を失ひ、国民は之れによりて又た一代の儀表たるべき人物を失ひたり。余は公の知を辱うする茲に十有余年、其の間屡ば公に謁して、公の指導を受けたるもの頗る多く、今にして之れを追懐すれば、音容尚ほ厳として目に在るが如きを覚ゆ。嗟乎公薨ずるの日、享年僅に四十有二、識量漸く長じ、威望次第に高きを加へむとするの時に方り、空しく雄志を齎らして永久の眠に就く。人生の恨事寧ろ是れに過ぐるものあらむや。
 余が始めて公と相識りしは、明治二十七年二月中旬なりき。当時余は毎日新聞の一記者たりしを以て、主筆島田三郎君は、特に翰を裁して余を公に紹介し呉れたりき。余の公を訪問したる際は、公は貴族院に於ける硬派の領袖として、第二次伊藤内閣に対する隠然たる一敵国たりき。蓋し公は伊藤内閣が第五期議会を解散したるを以て、非立憲的動作と為し、貴族院議員三十七名と連署して、忠告書を伊藤首相に与へ、首相の復書に接するや、更に復書弁妄と題する一文を草し、機関雑誌『精神』の号外として之れを発表したりき。其の論旨侃諤、首相の無責任を攻撃して毫も仮藉する所なきの故を以て、在野の党人は自然に公と相接近すると共に、伊藤内閣は公を認めて侮るべからざるの強敵と為せり。然れども余の始めて見たる近衛公は、極めて平允端懿なる貴公子なりき。其の言動は固より尋常※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)袴者流と同じからずと雖も、漫に気を負ひ争を好むの士に非ずして、極めて真面目なる、極めて沈着なる政治家なりき。
 尋で第六議会復た解散せらるゝや、公は再び非解散意見と題するものを『精神』の号外として発表し、公然伊藤内閣に宣戦状を贈りたり。其の末文に言へるあり、曰く要するに伊藤内閣の信任し難き事実は、天下の耳目に彰々として現はれ来れり。而して解散の結果として、将に来るべき総選挙の紛擾は国民の心を痛ましめ、国民の財力を費さしむること極めて大ならむとす。想ふに現内閣の言動は、今後依然として今日の如くならむ。今日の言動を以て国民の信任を全うせむと望むが如きは、断※(「さんずい+(広−广)」、第3水準1-87-13)に棹して海洋に浮ぶの目的を達せむとするに均し。国民は斯る内閣の言動を是認せざるべし。既に現内閣の言動を是認せずとせば、則ち現内閣の言動に反対し、死活を争ひたる諸代議士の再選を勉めざる可からず。我愛国忠君の赤誠に富める国民にして、再三再四同一の方針を取りて動かず、同一主義の代議士を議会に送らば、輿論の光輝は、当に天※(「門<昏」、第3水準1-93-52)に達するの期遠きにあらざるべし。国民たるもの赤誠を以て其の歩を進めざるべからず。篤麿駑たりと雖も、与に共に勇奮以て諸士の同伴侶たらむと欲す。諸士請ふ手を携へて往かむ哉と。此の時に当り、伊藤内閣の公等一派を憎むこと絶頂に達し、同族中公の言動を議するもの亦少なからざりしに拘らず、公は能く私情に忍びて公義に殉ずるの態度を維持したりき。
 公は曾て独逸に留学して、頗るスタインの国家主義に私淑する所多しと雖も、其の立憲政治に関する思想の傾向は、大体に於て英国的なり。故に初期議会以来常に藩閥内閣に反対して政党内閣の本義を主張したりき。然れども公の政党内閣論は、夫の政権争奪を目的とせる党派政治家と大に其の見地を異にせり。公の政党内閣を主張するは、之を措て憲政の運用を円滑ならしむるの道なしと信ずるが為めのみ。故に徒らに政権の争奪を事とする政党は、公の断じて与みせざる所なりき。
 公曾て『慨世私言』を著はして、内閣と政党との関係を詳論したることあり。其の党人を戒むるの言に曰く、在野政党員たるものも、徒らに政府乗取の紛争を慎まざるべからず。何となれば立憲政治の時運に到達したる国家に於ては、急躁焦慮する所なきも早晩政党内閣の起るべきは其の数なり。而も今日の如く、各党各派孰れも確乎たる一大主義を有するなく、情実に合し、情実に離れ、小党分裂の時に於て、政府を乗取らむとするも豈得べけむや。仮令幸にして乗取り得たるとするも、其れ能く一党一派の内閣にして、久しく其の位地を支ふるを得べけむや。朝たに新内閣成りて夕べに僵る、国家の為に何の益ぞ。国民の為に何の利ぞ。寧ろ国家の大勢定りて、政党の争ふ所主義の実行に一定し、一大政党を以て一大政党と争ふの時期を待つの国家国民の利たるに如かずと。以て公の志の在る所を知るべし。
 余は二十八年二月雑誌『精神』の董刊を公より託せられ、爾来重大なる問題起る毎に、公の意見を聴くの機会に接すること益々多かりき。後ち精神を改題して『明治評論』と為すや、公は其の立案に成れる『朝党野党』と題する一論文を余に与へて、其の初刊の紙上に掲げしめたり。当時伊藤内閣は自ら称して超然内閣といひしに拘らず、窃に自由党と提携し、又別に国民協会をも収攬して内閣の党援と為さむとし、其の旗幟甚だ鮮明を欠きたるのみならず、動もすれば内部の調和を謀るに急なるが為に、弥縫と姑息とを事とするの状あり。而して在野党の如きも、各派互ひに相分立して、一大政党を組織するに至らず、随つて其の在野党としての勢力毫も発展する所あるを見ざりき。公乃ち伊藤首相に向ては、其の宜しく超然主義を棄て、純粋なる政府党を作り、以て其の旗幟を鮮明にすべきを勧め、在野党の盟主たる大隈伯に向ては、其の宜しく改進党との関係を絶ちて各派合同の疏通に便ならしむべきを説きたり。是れ一篇の眼目なりき。公は此意見を以て直接間接に朝野の政治家を指導するに努めたるは言ふまでもなく、大勢亦久しからずして、遂に半ば公の意見を実現し、自由党は公然政府党と為り、改進党其余の各派は、相合同して進歩党を組織するに至りき。
 然れども公は唯だ至公至誠を以て時局に処し、未だ曾て政権争奪の渦中に陥りたることあらず。故に二十九年松隈内閣成るや、公は文部大臣の候補に擬せられ、切に入閣を慫慂せられたりと雖も、公は固辞して之れを受けざりき。公を知ると知らざるとを問はず、皆公の入閣を希望せざるものなく、余も亦実に公の自ら起たむことを勧告したる一人なりき。公其の心事を余に語りて曰く、松隈内閣は一種の聯合内閣なり、之れを従来の内閣に比すれば、稍々進歩したる体貌を有するに似たりと雖も、其の実質は薄弱にして統一を欠き、情弊尚ほ依然として内部に纏綿せり。其の前途知るべきのみ。我れ不似と雖も、身華冑の首班に列し、任重く途遠し。又何ぞ躁進して功名を徼倖し、以て自ら求めて名節を汚がすの位地に立つの愚に出でむや。且つ我れ、陛下の命を受けて学習院の院長たり。真に華族をして皇室の藩屏たらしめむとせば、先づ華族の子弟を教育するより急なるはなし。我れ既に此目的を抱て、専ら措画経営する所少なからず、之れを完成するは談豈容易ならむや。文部大臣たるの適材は世間自ら其の人あらむ、学習院の措画経営は、断じて之れを他人に委する能はずと。蓋し公は是より前、学習院長に任ぜられ、全力を挙げて華族の子弟教育に従事しつゝありしを以てなり。余は公の著眼の高明なると、心事の純潔なるに服し、益々公の人格に敬意を表せざるを得ざりき。
 松隈内閣は果して公の予想に違はず、所謂薩派と進歩派との紛争日に絶えずして、忽ち瓦解するに至れり。政界は再び伊藤内閣を復活したりき。而も其の内閣は旧に仍りて超然主義を唱へたりしがゆゑに、自由党は反旗を翻へして内閣攻撃の位地に立ち、尋で進歩党と合同して憲政党と為るや、伊藤侯は大隈板垣二老を奏薦して新内閣を組織せしめ、茲に始めて政党内閣の組織を見るを得たりき。而も此の内閣は、政党内閣としては最も醜悪を極め、特に人才の選叙に於て当を得ざるもの頗る多かりき。党派の腐敗漸く此の時より助長し、政界の溷濁復た済ふ可からざるの状態に陥りたり。是に於てか、公の政党内閣に対する信念は、多少の動揺を始め来りしものゝ如くなりき。公曰く、政党内閣は暫らく断念せざる可からずと。但だ公の君国に忠実なる、憲政の運用を円滑ならしむるの道に於て、曾て一日も之れが講究を忘れたることあらず。故に第十八議会に於て、桂内閣と衆議院と衝突するや、公は無益の紛争によりて国務の進行を阻碍するを見るに忍びず自ら両者の間に立ちて妥協を謀らむとしたりき。其の尽力は成功せざりしと雖も、世人は深く公の苦心を諒としたりき。
 余の見たる近衛公は、日本貴族の最高貴なる血液を遺伝したると共に、又た其の最純良なる性質をも禀受したりき。其の名利の範疇を超脱して、一意唯だ君国に報効せむことを図りたるは之れが為なり。然れども公は党派政治家として成功するの人に非ざりしが如し。何となれば山野の習気を帯びたる党人を指導するよりも、君側に侍して献替補弼するの、寧ろ公の人格に賦与せられたる天品なればなり。

      清国保全主義
 公の政治的生涯は甚だ短かりしと雖も、其の言動の録すべきもの甚だ少なからず。中に就き特筆大書すべきは、清国保全の旨義を唱道して国論を統一したる是れなり。
 明治三十三年義和団の蜂起するや、清廷之れを勦討するの挙に出でず、却つて陰に之れを助けて、其の排外的暴動を煽揚したりき。是に於てか、各国は兵を北清に出して清廷の罪を問はむとし、而して露国は此の事変を奇貨として満洲を占領せむとするの色ありしを以て、公は清国分割の端或は此の間に啓けむことを恐れ、清国保全の旨義を標榜として国民同盟会を起したりき。当時国内には、或は清国分割を主張するものあり、或は満韓交換を説くものありて、国論紛々帰著する所なく、特に政友会は、総務委員会を開きて国民同盟会の行動を非認するの决議を為したりき。然れども各国の政府及び識者は、概して清国の保全、東洋の平和を声明したるを以て、公の唱道せる大旨義は、殆ど世界の公論たるに至れり。即ち夫の英独協商の如きは亦清国の領土保全門戸開放を以て原則としたるものなりき。
 英独協商の成立したる時は、帝国の内閣は政友会を以て組織し、伊藤侯は実に之れが首相たりき。而して政友会は初め国民同盟会の行動を非認したるに拘らず、其の内閣は英独協商の原則を容認して之れに加入したれば、内閣と国民同盟会とは、其の旨義に於て遂に一致するを見たりき。
 然れども露国は満洲の情形不穏にして鉄道保護の必要ありと称して、兵力を以て之れを占領し、尋で露国関東総督アレキシーフと盛京将軍増祺との間に、満洲に関する密約締結せられたりとの報ありしがゆゑに、公は同盟会員を私邸に招集し、我政府をして満洲占領の撤兵及び露清密約の成立に反対するの方法を執らしめむことを決議したりき。
 既にして露清特約更に露都に於て成立を告げむとするや、公は清国の大官重臣に警告するに、極力特約に抗拒すべきを以てし、我政府も亦公等の主張を容れて、露国政府に露清特約を廃棄すべしと忠告すると同時に、清国全権に向ても特約に調印すべからずと通告したり。斯くて露清条約は成立せざるを得たりと雖も、露国は依然事実上の満洲占領を継続したるを以て、公は満洲開放統治策を起草し、之れを劉坤一、張之洞の両総督に贈りたり。其の大意、満洲を開放して、各国の利権を均霑せしめ、以て其の領土を保全するの得策なるに如かずといふに在り。此の論亦久しからずして世界の公論と為れり。後ち公は自ら清韓両国に遊び、親しく両国の大官名士と会見し、共に力を大局の支持に致さむことを約して帰り、爾来公の意見は、大抵我当局者の施設と其の帰著を同うし、小村寿太郎氏の外務大臣たるに及で、日英同盟の締結と為り、満洲撤兵の談判と為り、今や時局も遠からずして将に解決せられむとするの時機に際会するを得たり。是れ豈公が初めて清国保全の大旨義を唱道して国論を統一したるの功に由らずと謂はむや。

      伊藤侯との関係
 公は内治外交の政策に付ては、終始多く伊藤侯と衝突して、多く大隈伯と接近するの傾向を有したりき。然れども其の個人的位地よりいへば、公は最も早く伊藤侯に接近したる人にて、大隈伯とは、松隈内閣組織の頃、早稲田専門学校卒業式に於て、唯だ一囘会見したることあるのみと聞けり。但し公と伯との聯鎖たらむと勉め、若くは公伯をして政治的交際を開かしめむと企てたる策士は、或は之れありしを疑はず。然れども公は終に大隈伯と善く相識るに及ばずして薨じたりき。故に曾て公を目して大隈伯の系統に属すと為したるものは、全く公の立場を誤解したるものなり。
 若し夫れ伊藤侯は、明治十七年公を海外に留学せしむべき勅許を奏請したりき。公の独逸ライプチヒ大学に在るや、此の先輩政治家と青年学生との間には、間断なく書信の往復ありたりき。公の学成りて帰朝するや、時方に帝国議会の開設に逢ひ、公は憲法の与へたる特権に依りて貴族院に列したりしが、当時貴族院議長たりし伊藤侯は、此の帰朝者の政治的技倆を試験せむが為に一時仮議長の事を摂行せしめたりき。公の議事整理上に現はしたる手腕は、老年議員をして舌を巻かしめたるのみならず、推薦者たる侯をして亦其の成功を祝せしめたりき。伊藤侯は実に公を政治家に仕立上げむが為に、凡百の訓練指導を与へむと欲したりき。後年公自らも余に語りたることあり、余は伊藤侯の薫陶に負ふ所頗る多きものありと。公の伊藤侯に於ける関係の旧るくして且つ親しかりしこと斯くの如し。
 然るに第四期議会以後、公は伊藤侯と漸く其の政見を異にし、伊藤内閣が第五議会を解散するに及で、公は伊藤侯に対する絶交書ともいふべき『復書弁妄』を発表し、尋で『非解散意見』をも公刊して、断然伊藤侯の政敵たる位地に立つを辞せざりき。其頃公は伊藤侯に呼び付けられて、其の言動の不謹慎なるを叱責せられたることありしを聞けり。而も公は憲法擁護の為めに私情を抑制するの止むべからざるがゆゑに、伊藤侯の喜怒に依りて進退する能はざりしものゝ如し。公は当時の境遇を余に語りて曰く、我れの伊藤侯に反対するは、最大なる精神上の苦痛なりき。何となれば侯は我師父といふべき恩人なればなり。然れども此の苦痛を忍ぶは、公義の命ずる所にして、復た之れを奈何ともすべからずと。非解散意見書中にも亦言へり、現内閣総理大臣伊藤博文伯(当時は伯爵たり)に対しては、私交上寧ろ其の人を徳とする所あり。是を以て政治上の事件に就ても、伯が手際巧みに偉功を奏せむことを祈り、社会の趨勢にして、伯の施設に逆戻するが如きあらば、伯や潔く大丈夫たるの挙措に出で、勇退高踏遂に其の徳を傷けず、流石は維新元勲の言動、凡庸政治家の企及すべからざるものありとの名誉は伯の身辺に纏ひ、百年の後、伯や国民の瞻仰する所と為り、千歳の下青史の上、模範政治家たらむことを望むの私情は胸襟の間に往来する所たり。篤麿が私交の上に於て伊藤博文伯に対するの情実に師父に対するの情に劣らざるものありて存す、豈一毫の怨恨あらむや。(中略)然れども篤麿が私情に於て伊藤博文伯に繋けたる所の希望は、全く水泡に属したり。今や篤麿は私情を去て公義に依り、旧来の情誼を棄てゝ、断然伊藤内閣反対の側に立ち、公然其の非を鳴らさゞるを得ざるの場合に至れり。国家の為に私情を割く、篤麿不敏と雖も已むべきに非るを知ればなりと。情理并び到れるの辞なりと謂ふべし。
 近衛公は私情を忍ぶに於て実に強固なる意思を有したる人なりき。而も其の意思や、公義の発動より出でて、一点の野心を雑へず、所謂る公闘に強くして私闘に弱きの類乎。嗟乎公や逝く、公の後継者たるべき人物は果して有りや無しや。(三十七年二月)

   星亨

     星亨

      彼は政界の未知数なり
 星亨氏は曾て不人望を以て高名なりき※(白ゴマ、1-3-29)個人としては彼れを味方とするものも、公人としては反つて彼れを敵視するもの多し※(白ゴマ、1-3-29)或は彼れの挙動を咎めて、車夫馬丁に類する賤人なりといひ、或は彼れの演説を評して、恰も欹形の嘴を有せる怪鳥が常に悪声を放つが如しといひ、或は彼れの性格を称して、猛獣の血液を混じたる人中の悪魔なりといひ、以て彼れを卑むに非ずむば彼れを畏れ、以て彼れを畏るゝに非ずむば彼れを憎むもの、滔々大率是れなり※(白ゴマ、1-3-29)現に彼れが外務大臣候補者として内閣の問題となりし時の如き、閣員の多数も、亦彼れの不人望を畏れて之を排斥したりといふに非ずや、余は固より伝ふる如きの事実ありや否やを証言する能はずと雖も、単に之れを一時の風説とするも、斯る風説の多少世間に信ぜらるゝを見れば、亦以て彼れが如何に政界に不人望なるかを認識するに足る。
 されど彼れを讚美する一部の声は亦甚だ高大なり※(白ゴマ、1-3-29)一田舎新聞は、彼れを以て東洋の大豪傑と為し、未来の総理大臣と為し、我選挙区民は此の人物を代議士とするの栄誉を失ふ可からずと絶叫して、彼れをビスマーク、グラツドストンにも匹敵す可き大政治家の如くに誇張したりき※(白ゴマ、1-3-29)其想像の過度なる、殆ど滑稽突梯に陥ると雖も、彼に対する想像の奇なるは其不人望の方面に於ても亦同一なり。見よ彼れが将に帰朝せむとするや、或は曰く彼れの帰朝は政界の一大恐慌なり、其進退は天下の大問題なりと※(白ゴマ、1-3-29)或は曰く、彼れは内閣を強迫して帰朝せり、内閣は彼れを覊束するの威力なきなりと、其状恰も敵国来襲を報ずる警戒の如し。既にして彼れの帰朝するや、彼れの言動は極めて沈静なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曰く余にして若し求むる所あれば、何時にても入閣するを得可し※(白ゴマ、1-3-29)余は唯だ求むる所なきのみ※(白ゴマ、1-3-29)余は一憲政党員として此際に努力せむと欲するのみと※(白ゴマ、1-3-29)此に於て乎彼れを崇拝するもの、彼れを信用せざるもの、共に彼れを暗黒の中に模索し、彼は終に政界の一未知数と為れり※(白ゴマ、1-3-29)請ふ吾人をして先づ彼れの個人的資質を観察せしめよ。然らば彼れに対する設題は自ら解答せらるゝを得む。

      彼は天性の党人なり
 彼れは天性の党人なり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼れは党人に必要なる二個の特質を有すればなり、其放胆不諱にして人を人とも思はず、争気猛烈にして常に戦を挑むの風ある如き、即ち其一なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは此特質あるが為めに、或は平地に風波を起し、或は故らに敵を作るの弊なきに非ずと雖も、其党人として顕著の位地を占るに至りたるもの、亦此特質あるに由らずむばあらじ。
 彼れの政治的閲歴は、半ば争闘の事実を以て作れり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの争闘を開始するや、其名義の撰択に注意せずして、唯だ利害若くは感情の衝突に出づるもの多く、而も其作戦計画の単純にして露骨なる、動もすれば壮士の私闘に類するの嫌なきに非ず、是れ彼れの為に甚だ惜む可しと為す、試に其一二を言はむか。
 曾て大隈伯等の始めて改進党を組織するや、其主義政綱は大体に於て自由党と其帰着を同うせり※(白ゴマ、1-3-29)故に自由党よりいへば、たとひ改進党を政友と認めざるまでも、必らずしも之れを正面の政敵とするの必要なかりしに似たり※(白ゴマ、1-3-29)然るに三菱問題起るに当て、改進党が冷然之れを傍観したるの故を以て、直に偽党撲滅の題目の下に改進党を攻撃したるは、彼れ及び古沢滋の二人実に其張本人たりき、顧ふに是れ自由党の党勢を拡張するに於て多少の成功を博するに足るの一手段たりしは疑ふ可からずと雖も、自由、改進両党をして呉越相容れざるの関係と為らしめたるは、蓋し亦茲に淵源する所ありき。
 既にして井上条約案出づるや、両党偶然其歩武を同うして之に反対し、一日両党の聯合懇親会あり※(白ゴマ、1-3-29)其交情大に融和せむとするに際し、何等の不作法ぞ、彼れは卒然沼間守一を打撲して、大に改進党を激昂せしむるものあらむとは。
 国会既に開くるに及で、自由、改進の両党相聯合して藩閥政府と戦ひ、称して民党と謂ふ※(白ゴマ、1-3-29)彼れの代議士と為るや、亦民党と其向背を同うし、民党の推挽に依て衆議院議長の椅子を得たりき※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼れは倏忽手を翻へして復た改進党を攻撃し、以て民党を破壊するの挙を行ひたりしは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)当時世間伝へて曰く、星亨の民党破壊演説は、彼れが窃に陸奥宗光と約して、自由党を政府党たらしめむとするの隠謀より出でたりと※(白ゴマ、1-3-29)されど自由党は彼れの専有物に非ざりしを以て、彼れが言動に慊焉たるものは、皆相率いて自由党と分離し、自由党は此れが為めに一大傷痍を受けたると共に、彼れも亦一時自由党を去るの已むを得ざるに至りたりき。
 此に於て乎彼は啻に一般政界の信用を失ひたるのみならず、自由党も亦漸く彼れを敬して遠け、其全権公使に任ぜられて米国に派遣せらるゝや、識者之れを評して自由党の内乱予防策なりといへり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば自由党の内乱は、実に彼れが放胆不諱なる挙動に激成せらるる虞ありたればなり。
 彼れが争闘の力に富めるは恰も英国のオーコンネルに似たり※(白ゴマ、1-3-29)其口を開けば輙ち罵る所、其弁論に一種の活気ありて人を煽動するに適する所、宛然として是れ日本のオーコンネルなり※(白ゴマ、1-3-29)但だオーコンネルの政敵と争闘するや、確然たる信条と、爛※(「火+曼」、第4水準2-80-1)たる熱誠とを以てするに反して、彼れは純然たる無宗教的冷頭を有するを異なりとするのみ※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが自由党に於ける信用の、オーコンネルが愛蘭党に於ける当年の信用に及ばざる所以なり。
 剛愎不遜は、彼れが有する特質の第二なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れの剛愎は衆議院議長として第五議会に弾劾せられたるの時を以て絶頂とす※(白ゴマ、1-3-29)第五議会は、彼が取引所問題に関係したるを没公徳の行為と認めて、之を弾劾し、以て彼れに処決を促がすの決議を為せり※(白ゴマ、1-3-29)此決議に対しては、自由党員も亦賛成を表したるもの多かりき※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼れは此決議を眇視して不当の決議を議長に於て何か有らむと放言して省みざりき※(白ゴマ、1-3-29)故に議会は更に一日の休会を決議して、彼れの処決を強迫したり※(白ゴマ、1-3-29)されど総べて無効なりき※(白ゴマ、1-3-29)彼れは開会と共に平然として議長席に就き、以て議事の進行を命令したればなり※(白ゴマ、1-3-29)議会は終に彼を懲罰に附して、代議士籍より除名したりと雖も、此懲罰すら彼に於ては何の痛痒をも感ぜざりしに似たり※(白ゴマ、1-3-29)彼は尚ほ選挙区に帰りて再選を要求したればなり。
 凡そ世間に剛愎の士多しと雖も、其剛愎彼れが如きに至ては、古今亦罕に観るの異彩たらずむばあらじ※(白ゴマ、1-3-29)余は必ずしも彼れの剛愎を弁護せむとするものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)剛愎は如何なる場合に於ても、悪徳たるを免かれざればなり※(白ゴマ、1-3-29)されど党人より之れを観れば、剛愎も亦必要の武器なるやも知る可からず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば党人最後の目的は、唯だ政敵と戦つて之れに勝つの一事なるを見ればなり。

      彼は主我的人物なり
 若し彼をして単に放胆不諱、剛愎不遜の木強漢ならしめば、彼は僅に鶏鳴狗盗の雄たるに過ぎず※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ甚だ多とするに足らむや※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れに最も及ぶ可からざるは、其戸外の木強漢たると共に、室内の読書家たる是れなり※(白ゴマ、1-3-29)此れを聞く、彼は別に他の嗜好なく、唯だ読書を愛して、博覧人に超え、故陸奥伯の如き亦学問に於て彼れに師事する所多かりしと※(白ゴマ、1-3-29)余は彼が果して読書の才あるや否やを知る能はずと雖も、其読書の嗜好ありて多読を貪るの人たるは、彼を知るものゝ皆許す所なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れが自由党に在りて、巍然一頭地を出だす所以のものは、蓋し自由党中復た一人の彼に優れる学者なきが為ならずとせむや※(白ゴマ、1-3-29)而も彼は多く理窟を語らずして、反つて人の理窟を喋々するを笑ふ※(白ゴマ、1-3-29)是れ所謂る知つて言はざる大智者を学ぶに在る乎※(白ゴマ、1-3-29)将た彼は議論よりも実行を主とするを以て平生の務とするに由る乎。
 彼れ往時英国の某大学に在て法律を修む※(白ゴマ、1-3-29)偶々試験あり、教授課するに『英国憲法の真相』といふの論題を以てす※(白ゴマ、1-3-29)彼れ秒時に立案して、之れを教授に示す※(白ゴマ、1-3-29)其文唯だ『英国憲法は世界無比の良憲法なり』との一句を記するのみ※(白ゴマ、1-3-29)教授呆然、其余りの無意義なるに驚き、之れを彼れに詰る※(白ゴマ、1-3-29)彼れ曰く、先生の英国憲法を説く千言万語の多きを以てすと雖、其要点は則ち此一句に外ならず※(白ゴマ、1-3-29)何ぞ別に詳述するを須いむやと※(白ゴマ、1-3-29)是れ一場の逸話に過ぎざるも、彼れの政治論は大抵此試験答案の如く、曾て煩瑣なる理窟を捏ねずして、唯だ疎枝大葉の議論を為す※(白ゴマ、1-3-29)此を以て世間曾て彼れの学問あるを信ずるもの甚だ少なくして、寧ろ彼れを粗豪の一木強漢と思ふもの多かりき。
 顧ふに彼れが見掛によらぬ学者たるは、今や漸く多数の認識するの所となれりと雖も、其言動の毫も学者らしからざるは他なし、彼れは主我的意思を以て総べての問題を解釈し、我れに利なれば理窟を言ひ、我れに不利なれば無理をも言ふの傾向あればなり※(白ゴマ、1-3-29)其放胆不諱、剛愎不遜の人に過ぐる所以のものは、亦豈主我的意思の最も発達したるが為に非ずや、故に室内の人物としては、彼は真理を研究するの読書家たりと雖も、彼れの戸外に於ける言動は、唯だ是れ一個主我的意思の強固なる人物を体現するのみ。

      彼の去就は単純なり
 今や彼は一般の想像するが如き大運動なく、其挙動は頗る平和にして、僅に新聞記者を相手として無意義の評論を試みつゝあるのみ※(白ゴマ、1-3-29)知らず彼は何の考案を有し、何の抱負を今後に行はむとする乎。吾人は妄りに彼れの心事を揣摩せざる可し※(白ゴマ、1-3-29)されど吾人は一個の見地に依りて彼れの位地を観察するの自由を有す※(白ゴマ、1-3-29)此見地は彼れの未来に関せずして、彼れの現在の位地に関する見地なり※(白ゴマ、1-3-29)曰く彼は現内閣の敵なる乎、味方なる乎と。此問題を解答するものは、彼れ自身に非ずして、恐くは現内閣ならむ※(白ゴマ、1-3-29)何となれば現内閣にして彼れに利なれば、彼は現内閣の維持を冀望す可ければなり。
 世間或は彼れを以て高島一派と結托するの意ありと伝ふものあれども、高島一派の現勢力は殆ど零位なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈之れと結托するの愚を為さむや※(白ゴマ、1-3-29)或は自由、進歩両派以外、別に一政党を組織して、大に他日の地を作る可しといふものあれども、彼れの根拠は現在僅かに少数の関東派あるのみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈之れを恃て有力の政党を組織するを得むや※(白ゴマ、1-3-29)或は彼れを以て専ら力を自由派の扶植に致し、以て大に進歩派と競争せしめ、而して憲政党を分裂せしめ、而して現内閣を破壊せしむ可しといふものあるのみならず、彼れ亦自ら自由進歩の分裂終に已む可からざるを説くと雖も、彼れを認めて熱心なる自由派と為すは謬見なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れは自己を主とするの英雄(?)にして、其眼中復た進歩派なく、自由派なし※(白ゴマ、1-3-29)曩きに彼れの米国公使に任ぜられて代議士を辞するや、其選挙区民に演説して曰く、余は自己の力に依りて公使と為れり※(白ゴマ、1-3-29)自由党の援助に依れるに非ずと※(白ゴマ、1-3-29)其心事実に斯くの如し。
 且つたとひ自由進歩の両派をして分裂するの不幸あらしむるとするも、自由党は彼れが為に一種の迷室なり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し自由党の背後には一怪物の伊東巳代治男あり※(白ゴマ、1-3-29)故に彼れは自由党と進退を倶にするに於て、先づ此一怪物と両立し得るや否や、若くは善く之を圧服し得るの勇者たるや否やを考へざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)况むや彼は従来自由党中の土佐分子と相容れざりしに於てをや※(白ゴマ、1-3-29)彼れ豈熱心なる自由派たるを得むや。
 故に彼は必らずしも強て現内閣に反対するものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)現内閣にして苟も自ら彼れを敵とせずむば、彼は妄りに現内閣の敵と為らず、彼れの放胆不諱、剛愎不遜の言動あるは、多く其主我的意思と衝突するの場合に在り※(白ゴマ、1-3-29)彼は自己の利害の為に、沈黙の必要を知るの聡明あればなり※(白ゴマ、1-3-29)之れを要するに彼れの政界に於ける去就進退は極めて単純なり※(白ゴマ、1-3-29)而も世間彼れを風雲変幻の魔術師の如くに想像するは何の滑稽ぞ。(三十一年九月)

     星亨の自由党

      (一)政治的喜劇
 横浜埋立事件は極めて簡短なる問題なり※(白ゴマ、1-3-29)其性質より見れば土木問題なりと謂ふ可く、其利害より見れば個人問題なりと謂ふ可く、又其範囲より見れば地方問題なりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)唯だ斯くの如きのみ※(白ゴマ、1-3-29)其一得一失何ぞ曾て天下の公是非と関せむや※(白ゴマ、1-3-29)而も此の事件の真相一たび世間に暴露せらるゝや、忽焉として茲に政治的喜劇の舞台を開展したりき※(白ゴマ、1-3-29)種々の脚色は幾多の人物に依て描かれ、醜陋唾棄す可きもの、滑稽笑ふ可きもの、拙劣憐む可きもの紛々として舞台に出入し、世人をして殆ど百鬼夜行の画図を視るの感あらしめたり※(白ゴマ、1-3-29)其顛末を略叙すること左の如し。

      (二)排星運動の動機
 土佐派が横浜埋立事件を以て星氏の罪悪を弾劾せむとしたるは極めて滑稽なり、曰く星氏が埋立出願の許可を担保して、議員買収金を小山田某より支出せしめたるは、自由党の名誉を毀損したる一大非行なりと※(白ゴマ、1-3-29)言や善し、是れ或は一大非行なる可し※(白ゴマ、1-3-29)公徳上の罪悪なる可し※(白ゴマ、1-3-29)されど之れを弾劾して正義の審判を求めんとするものは、先づ天下に向て自己の良心に一点の陰翳なきを証せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)知らず土佐派は果して星氏の不道徳を論ずの権利ある乎。
 星氏は自由党の純代表者のみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは実に自由党の為さんと欲する所を為したる自由党の実際的首領のみ※(白ゴマ、1-3-29)横浜埋立事件の如きは、唯だ土佐派の為さんと欲して為す能はざりしものを為したるに過ぎず、自己の為さむと欲して為し能ざりしものを為したるが故に、其人乃ち排斥す可しと言ふ、寧ろ抱腹絶倒せざらんと欲して得んや。

      (三)土佐派の嫉妬
 土佐派の衰へたるや太甚し※(白ゴマ、1-3-29)板垣伯の資望、林氏の老獪、片岡氏の質実を以てすと雖も、復た一人の星氏の勢力に及ぶこと能はず※(白ゴマ、1-3-29)而も星氏の傲岸なる、殆ど土佐派を眇視して自由党を我物顔に振舞ひ、其権勢を用ゆること往々度に過ぐるものあるも、土佐派は亦終に之れを奈何ともする能はず※(白ゴマ、1-3-29)乃ち之れを奈何ともする能はずと雖も、其自由党を挙げて独り星氏の脚下に拝跪せしむるは、固より土佐派の楽まざる所なり※(白ゴマ、1-3-29)横浜埋立事件起るや、土佐派は以為らく、是れ乗ず可きの機なりと※(白ゴマ、1-3-29)此に於て乎星除名論は起りたりき※(白ゴマ、1-3-29)星除名論の内容は、唯だ嫉妬以外に何物をも包蔵せざるを見る※(白ゴマ、1-3-29)太甚いかな、土佐派の衰へたるや。

      (四)幕中の傀儡師
 伊東代治男は曾て土佐派を通じて自由党を操縦したる人なり※(白ゴマ、1-3-29)土佐派の自由党を左右し得たる時代に於ては、彼れは実に自由党の党師として其勢力頗る大なりしと雖も、星氏一たび自由党の実権を掌握するに及で、彼れは遽かに失意の地に落ちて、復た当年の勢力を維持する能ざるに至りき※(白ゴマ、1-3-29)横浜埋立事件起るや、彼れは以為らく是れ乗ず可きの機なりと、此に於て乎、一方に於ては其機関『日々新聞』をして星氏の攻撃を為さしめ、一方に於ては窃に土佐派を指嗾して星除名論を唱へしめたり※(白ゴマ、1-3-29)
 彼れが横浜埋立事件を以て星氏を征伐せむとしたるは、猶ほ共和演説事件を以て尾崎氏を攻撃したる戦略タクチツクに同じ※(白ゴマ、1-3-29)其妙は構陥に巧みなるに在り※(白ゴマ、1-3-29)而も正々堂々たる勝敗は、決して斯くの如き戦略に依て定まることなきを奈何せむ。

      (五)星征伐の失敗 
 自由党にして若し果して党紀を振粛するが為に星氏を除名するの必要あらむか、何ぞ比較的信用ある末松、江原等の君子人をして之れを提議せしめざる※(白ゴマ、1-3-29)然るに党紀振粛、星除名論を唱ふるものは、反つて社会に信用なき人士に多くして、末松、江原等の君子人は、党紀振粛の代りに、党の平和を主張したるは何ぞや※(白ゴマ、1-3-29)是れ他なし、党紀振粛は真の党紀振粛に非ず、星除名論は亦唯だ嫉妬的感情の発現に外ならざればなり。
 有体にいへば末松、江原等の君子人が、尚ほ党の平和を口にして滔々たる濁流と浮沈するは頗る解す可からざるものあるに似たり※(白ゴマ、1-3-29)されど自由党の現状を維持するの必要最も大なるに於ては、党紀の振粛よりも先づ党の平和を計らざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)党の平和を計るが為には勢ひ星除名論を鎮撫せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば、たとひ星除名論を実行するも、自由党の腐敗は固より救ふに足らず、適々以て自由党の分裂を見るに過ぎざればなり。

      (六)排星運動の遺算
 排星運動には確かに二個の遺算ありき※(白ゴマ、1-3-29)第一星氏の位地を誤解したるより来り、第二伊藤侯の意思と衝突したるより来れり。
 星除名論者は以為らく、横浜埋立事件に関して星氏に反対する同盟中には、星氏の直参と認む可きもの少なからず※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが全く自由党員の心を失ひたる証なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れと進退を同うするもの恐らくは二三子のみならむ※(白ゴマ、1-3-29)今や彼れの自由党に於ける位置は殆ど孤立なりと※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れに反対するものは悉く除名論者に非ず※(白ゴマ、1-3-29)彼等は決して『星の天下』を争ふて之を他人に移さむとするものゝみに非ず※(白ゴマ、1-3-29)多数の自由党員は、尚依然として『星の天下』たらむことを望めり※(白ゴマ、1-3-29)『星の天下』を奪はむとするものは唯だ星氏の為に失意の地に落ちたる一部の人士のみ※(白ゴマ、1-3-29)横浜埋立事件に関して星氏に反対せる信州組の如きは、実は星氏を敵とするに非ずして、小山田某に向て利益分配の強請を為したる一種のユスリたるに過ぎず、之れを認めて星氏に対する政治的謀叛と為したるは、排星運動の第一遺算に非ずして何ぞや。
 且つ星氏を除名せば、随て西郷内相を排斥せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば西郷内相の横浜埋立事件に関係せるは星氏の之れに関係せる事情に同じければなり。而も西郷内相の排斥は、現内閣破壊の動機と為るを認むるに於て、星除名論者は如何にして其事後を善くせんとする乎※(白ゴマ、1-3-29)土佐派の目的は是れに依りて伊藤内閣を出現せしめんとするに在らむ※(白ゴマ、1-3-29)されど伊藤侯は決して逆取の手段を断行する政治家に非ず※(白ゴマ、1-3-29)たとひ侯の野心勃々たるを以てすと雖も、其手を下だすや常に順境に於てするを得意とせり※(白ゴマ、1-3-29)若し山県内閣にして自然に崩壊する日来れば、侯は固より其後を受くるを躊躇するものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)独り自ら現状打破の主動力と為るは、侯の本意に非るを奈何せむや※(白ゴマ、1-3-29)況むや侯の最も親善なる西郷侯を死地に陥るゝが如き隠謀の張本人たるは、侯の甚だ懼るゝ所なるをや※(白ゴマ、1-3-29)星除名論は、此点に於て侯の意思と衝突したるを以て、侯の声援に須つ所ありし土佐派は、遂に最初の計画を中止せざる可からず※(白ゴマ、1-3-29)是れ排星運動に於ける第二の遺算なり。

      (七)組織改造論
 星除名論に失敗したる土佐派は、更に組織改造論を唱へて第二の排星運動を開始せり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し是に依りて板垣総理の時代を復活し、土佐派の天下を再興し、以て星氏の勢力を削らむと欲するに外ならず※(白ゴマ、1-3-29)されど星除名論の失敗は、星氏の勝利を意味し、星氏の勝利は、星氏の自由党に於ける勢力を確保したるものなり※(白ゴマ、1-3-29)彼は既に一着を贏ち得たり※(白ゴマ、1-3-29)攻守の位地は忽ち一転せり※(白ゴマ、1-3-29)彼は関東東北九州の諸団体に伝令して組織改造に反対するの決議を為さしめたり、排星運動の計画者は、今や星氏の逆襲を受けて意気漸く沮喪せむとせり、星氏は粗硬に似て実は機敏なる所あり、土佐派は智巧なる如くにして反つて迂拙※(白ゴマ、1-3-29)自由党は依然として星氏の手中に在り。

      (八)政権分配論
 星氏は組織変更反対決議を為さしむと同時に、一方に於ては政権分配論を唱へて、局面一変の新手段を採りたり※(白ゴマ、1-3-29)是れ自己に対する攻撃の鋭鋒を他に転ぜしめむとするの権謀なりと雖も、亦自由党の党略としても時機を得たるものと謂ふ可し。
 現内閣は自由党と休戚を共にすると揚言したるに拘らず、其為す所は、皆自由党の初志と背馳したりき※(白ゴマ、1-3-29)特に文官任用令を正して政党員任官の門戸を遮断したるは、自由党の最も不快とする所なり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば是れ自由党をして単に政府に盲従せしめ、無意義の提携を継続せしむるの目的なればなり※(白ゴマ、1-3-29)故に政権分配問題は、自由党の死活問題なり※(白ゴマ、1-3-29)たとひ今日星氏に依て唱へらるる事となしとするも、其早晩自由党の大問題と為るに至る可きは自然の数なり※(白ゴマ、1-3-29)今や自由党の現内閣に対する不平漸く長ずるを認むるに於て、星氏の機心敏慧なる、此党情を利用して局面を一変せむとす※(白ゴマ、1-3-29)其智計土佐派を出づること一等なりと謂ふ可し。

      (九)自由党の実際的首領
 星亨氏は真に自由党の実際的首領なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は政治上の公徳を解するの君子人に非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど其百折撓まざるの堅志と、其手段の善悪を選まずして邁往するの勇気とは、自由党を指導するの首領として最も適当なる人物なり※(白ゴマ、1-3-29)世間或は彼れを以て浮浪の親方と為すものあれども、自由党の首領たるものは、寧ろ親方たる資質あるものに竢つ所あり※(白ゴマ、1-3-29)収賄と言ふ勿れ、議員買収と言ふ勿れ、今の自由党を指導するの動力は、内治問題に非ず、外交政策に非ずして、唯だ胃腑の問題のみ、財嚢問題のみ※(白ゴマ、1-3-29)彼れ星氏の如きは即ち此問題の解釈者として一種の伎倆を有する英雄なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れなくむば自由党は殆ど亡びむ※(白ゴマ、1-3-29)彼れは自由党の純代表者にして、又其司命者なり、自由党は果して彼れに背き得可き乎。(三十二年十一月)

   田中正造

     田中正造氏

      下院の名物
 年々開会する帝国議会の下院に於て、常に奇異なる風采言動を以て、無限の興味を傍聴者に与ふる一人物あり。其山猫の人化したる的の面既に甚だ愛嬌津々たるのみならず、其選挙区民より贈与せられたりといへる五所紋付黒木綿の羽織を着用して、古武士の純朴を存する所亦頗る異彩あり、彼は誰れぞ、下院第一等の名物田中正造氏其人なり。
 彼は多くの場合に於て極めて沈黙なりと雖も、是れ唯だ眠れる獅子の沈黙のみ、其勃然として一たび自席を起つや口を開けば悪罵百出、瞋目戟手と相応じて、猛気殆ど当る可からず、曾て原敬氏を罵つて国賊と為すや、叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)咆哮、奮躍趺宕、恰も狂するものゝ如く、人をして全身の血管悉く破裂せざるかを疑はしめたりき※(白ゴマ、1-3-29)当時某代議士は彼れが感情の満潮に達するを観て其或は気絶せんことを恐れ、窃かに介抱の準備を為したりと語りしほどなれば、其言動の激烈なりしこと以て想見す可し※(白ゴマ、1-3-29)而も世間彼れの疎狂を咎めずして、反つて彼れに同情を寄与するもの多きは何ぞや。
 顧ふに彼れがあらゆる悪口雑言を濫用して、往々議場の神聖を汚がすの失体あるは、固より君子の与みせざる所なるべし※(白ゴマ、1-3-29)余は此点に於て彼を弁護するの理由を有せずと雖も、若し夫れ形式礼法を以て人物の価値を律せば、今日誰か能く多少の指摘を免かれ得るものありとするぞ※(白ゴマ、1-3-29)彼は大疵あれども亦大醇あり、大欠陥あれども亦大美質あり※(白ゴマ、1-3-29)豈杓子定規を以て彼を酷論す可けむや。
 礼法を無視して悪口雑言を濫用するは、確かに彼れの大疵なり、粗暴矯激にして軌道を逸脱するの亡状は、亦固より彼れの大欠陥なり※(白ゴマ、1-3-29)されど是れ特に彼れの大欠陥に非ずして、下院全体の大欠陥なり※(白ゴマ、1-3-29)彼は唯だ其最も著明なる代表者たるのみ、而も一面に於て此の大欠陥を有すると共に、他の一面に於ては爛漫たる大醇と、愛す可き大美質とを有するものあるが故に、単に彼れの鄙野疎狂を咎むるは甚だ苛酷なり。何をか彼れの大醇と謂ふや、悪を憎み、冷血を忌むこと人に過ぎ、之れを攻撃するに於て、一歩も借さゞるの熱誠是れなり※(白ゴマ、1-3-29)何をか彼れの美質と謂ふや、常に弱者の味方となりて、驕慢なるもの、権力あるものに抵抗するの侠骨是れなり、彼れが故後藤伯と事毎に衝突したりしも此れが為めにして、伯曾て彼れの強頂を患へ、切りに辞を卑うして彼を招がむとしたるも、彼は啻に伯に屈致せざりしのみならず、益々伯の失徳を追窮して毫も憚る所なかりき※(白ゴマ、1-3-29)余は彼れが果して後藤伯の人物を正解し得たりしや否やを知らず※(白ゴマ、1-3-29)又彼れの後藤攻撃論は、果して精確なる事実に根拠したりしや否を知ること能はず※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れの眼中に映じたる後藤伯は、老獪にして野心深く、私利私福を貪りて正義の観念なき奸雄なりしに似たり※(白ゴマ、1-3-29)則ち彼は後藤伯を認めて奸雄の偶像と認めたるが故に、之れを攻撃したるのみ。
 鉱毒事件は、彼れの専売問題にして、彼れは此問題の為めにモツブの巨魁なり、愚民のデマゴーグなりと称せらるゝをも厭はざるなり※(白ゴマ、1-3-29)何となれば彼は此問題を以て人情正義の問題と為すものなればなり。
 余は此問題に関して、全然彼れの主張に同意するものに非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど余は彼れの良心に同感せざるなき能はず※(白ゴマ、1-3-29)其主張の誇大にして、且つ論理の極端なる、殆ど無経綸に近かきものありと雖も、其所信を固守して一点調和の意義を含まざるは、决して利害に制せらるゝ政治家の夢想し得る所に非ず※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れに良心の健全なるものあればなり。

      誠実なる方便家
 誠実是れ好方便なりとは、屡々余の聴く所の語なれども、之を実行するものは甚だ稀なり※(白ゴマ、1-3-29)世間誠実の君子少なきに非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど単純なる誠実は好方便と為らず※(白ゴマ、1-3-29)何となれば是れ無意義の誠実なればなり※(白ゴマ、1-3-29)蓋し古へより能く人心を収攬するものは、决して術数権謀の士に非ず※(白ゴマ、1-3-29)されど単純なる誠実も亦た能く衆心を収攬する所以に非ず※(白ゴマ、1-3-29)唯だ誠実の士にして智慧を用いるもの、始めて能く誠実をして好方便たらしむるを得るのみ、田中正造氏の如き稍々之れを得たり。
 彼は熱血男児なり※(白ゴマ、1-3-29)されど彼は决して直情径行の純人に非ず※(白ゴマ、1-3-29)彼は粗放なる如くにして、其実精細の算勘に富み、直角的なる如くにして、反つて曲線的の行路を歩む※(白ゴマ、1-3-29)唯だ悪を知りて悪を行はず、利害に明かにして利害に拘束せられざる、乃ち是れ彼れの彼れたる所以なり。
 試に見よ、鉱毒問題は古河市兵衛氏と地方一部の農民との間に起れる一小事件のみ※(白ゴマ、1-3-29)决して之れを天下の大問題と謂ふ可からず※(白ゴマ、1-3-29)而も田中氏が一たび此問題を持把して下院に現はるゝや、其声頗る大にして、終に下院を動かし、政府を動かし復た之れを一小事件と認むる能はざるに至らしめたり※(白ゴマ、1-3-29)彼は此問題に於て老獪縦横なる後藤伯と争へり※(白ゴマ、1-3-29)才弁多智なる陸奥伯と争へり、而して一方に於ては、大胆にして術数ある古河氏を相手として、不撓不屈の戦闘を継続したり※(白ゴマ、1-3-29)種々の誘惑種々の恐嚇種々の圧力は、絶えず彼れ及び彼の代表せる地方民を掩襲したるに拘らず、彼は一切之れを排除して、曾て窘窮したる迹を示さず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其戦略巧妙にして進退掛引善く機宜に適するものあるが為なり。前きに松隈内閣の成るや、世間皆以為らく、鉱毒問題或は大に其気※(「陥のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を収めむと※(白ゴマ、1-3-29)何となれば当時進歩党は内閣の党与たりしに於て、彼れにして若し鉱毒問題を提出せば、進歩党と松隈内閣とは、共に頗る困却す可ければなり※(白ゴマ、1-3-29)然るに彼は反つて一層猛烈なる運動を開始して、終に政府をして所謂る鉱毒事件処分案なるものを施行せしめたり、是れ実に政府の一大譲与なりき、其智亦侮る可からざるものあるを見る。今や彼れの先輩に依て組織せられたる現内閣は、復た鉱毒問題の襲撃を受けて、大に窘色あり※(白ゴマ、1-3-29)彼は現内閣と地方民との間に立ちて、再び此問題を解釈せざる可らざる位地に在り※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが為めに最も困難なる位地なりと謂ふ可し※(白ゴマ、1-3-29)而も彼れは雲霞の如く押し寄せ来れる請願人民に対して、死を以て此問題の為に尽力す可きを誓ふ※(白ゴマ、1-3-29)余は此の一誓言の中に、亦多少の計画、多少の作用を含蓄するものあるを信ず、彼れは元来非常の神経質なり※(白ゴマ、1-3-29)故に喜怒共に極めて激烈なりと雖も、其人心の詭秘を見ること甚だ深刻にして、容易に他の欺く所とならざらむことを勉む※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れの一政友が、常に此一事を以て彼れの欠点なりとする所なり※(白ゴマ、1-3-29)されど彼れが下院に於ける演説の敵の皮肉を穿つの警語多きは、其能く人心の弱点を看破するの明あるが為めにして、其時として荒誕附会に類するの言論あるは、亦余りに暗黒の一面を偏視するが為めなり※(白ゴマ、1-3-29)若し彼れをして今少し真面目ならしめ、今少し健全の思想を有せしめば、彼れは代議士として実に得易からざるの人物なり※(白ゴマ、1-3-29)惜いかな無学にして大体に通ぜず、無識にして組織的成見を有せず※(白ゴマ、1-3-29)是れ其動もすれば正径を誤るの盲動ある所以なり。
 されど彼は兎も角下院の名物なり※(白ゴマ、1-3-29)彼れ動けば、議場は一個の劇壇にして、彼れは宛然たる政治的俳優なり※(白ゴマ、1-3-29)是れ彼れが名の海内に持て囃さるゝ所以に非ずや。(三十一年十月)

     口碑上の豪傑

 ※(丸中黒、1-3-26)凡そ豪傑には二種の別がある。第一種は一国又は世界の問題の提出者ともなり、実行者ともなり若くは其の批評者ともなつて、其の言動が歴史上の或る部分を作る人物である。第二種は、其の事業よりいへば歴史に関係するほどの幅も厚さもないが、然しながら異常の個人性があつて、後世永く人口に膾炙する人物である。前者は之れを称して歴史的豪傑といふべく、後者は口碑的豪傑とでもいふであらうか。
 ※(丸中黒、1-3-26)伊藤侯だとか、大隈伯だとか、東郷大将だとかいふ人物は、所謂る歴史的豪傑であつて、田中正造翁などは口碑的豪傑である。
 ※(丸中黒、1-3-26)日本には口碑的豪傑が極めて多い。単に徳川時代のみに就ていふも、大久保彦左衛門、佐倉宗五郎、幡随院長兵衛、荒木又右衛門なんどいふ連中は、歴史的豪傑としては残つて居ないが、児童走卒も尚ほ能く其の名を記憶して嘖々是れを伝唱するのを思へば、彼等は正さしく口碑的豪傑の尤なるものである。
 ※(丸中黒、1-3-26)日本に講談師とか浪花節語りとかいふ芸人の起つたのは、恐らくは口碑的豪傑の多く輩出した為であらふと考へる。而して此等の芸人に依て、口碑的豪傑が益々市井の間に持て囃さるゝやうになつたのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)田中正造翁は随分新聞紙の種を供給する人物であるが、歴史家からは多分淘汰されて仕舞ふだらうと思ふ。然しながら翁は歴史家に無視せらるゝと同時に、必らず講談師や浪花節語りに拾ひ上げられて、寄席の高座から口碑的豪傑となつて現はるゝの時があるに相違ない。
 ※(丸中黒、1-3-26)翁は一度は代議士ともなつて、議会でも名物の一人に数へられた男であるが、翁は恰も日蓮宗徒が南無妙法蓮華経を一心に唱ふるやうに、始終唯だ鉱毒問題を怒鳴り通して居たのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)近頃翁は官吏侮辱罪で訴へられて居る。相手は巡査とか村長とかであるが、相手は誰れであらうとも、鉱毒地の人民を迫害すると信ずるものは、総て之れを敵として奮闘する。これが翁の終生の運動である。翁は此の運動の為に、あらゆる悲惨をも甞め、あらゆる困難にも逢遇した。然し翁は悉く之れに打ち克つだけの勇気と忍耐とを有して居る。
 ※(丸中黒、1-3-26)金も欲しくない、命も要らない、名誉を望まないで、唯だ善と思ふ目的に向つて、側目もふらずに突進することは、常識本位の人には出来ぬ芸だ。世間は此の類の熱血漢を一種の精神病者と認むるのである。但し義人とか献身者とかいふ奴は大抵精神病者と見えるもので、其の言動は往々軌道を外づれて居るものだ。
 ※(丸中黒、1-3-26)田中翁も即ち其れで、現代からは狂人と見做さるゝかも知れない。実に翁は現代の厄介者である。富の勢力にも屈しない、政府の権威にも畏れない、又世間の毀誉褒貶にも頓着しない。なか/\始末にいけない代物である。加ふるに根気よく奮闘を継続して毫も休止しない所は、何となく其の個人性に薄気味の悪るい点があるやうに思はれる。
 ※(丸中黒、1-3-26)翁は迷信の為に運動するでもない、又主義の為に運動するでもない、唯だ直覚に依て運動するのである。翁は猛烈なる可燃質の人物であるから、一旦或る動機に刺激せられて其の良心に発火するに於ては、自己の身が焼け尽くるまで燃ゆるのである。翁は消極的に善を行ふよりは、寧ろ積極的に悪と戦ふのである。
 ※(丸中黒、1-3-26)斯る個人性を有する人物は、たとひ何一つの建設した事業がなくとも、人生に深い印象を与ふるの力を持つて居るものだ。而して此の印象は容易に消ゆるものでない。
 ※(丸中黒、1-3-26)講談浪花節の好題目となるのは、此の類の人物で、能く歴史的豪傑と雁行して人口に膾炙することが出来るのである。而して其の群衆に及ぼす感化力は、歴史家に依て伝へらるゝ人物よりも講談師や浪花節語りに依て伝へらるゝ人物の方が強いやうである。
 ※(丸中黒、1-3-26)講談師若くは浪花節語りの口頭では、伊藤侯も田中翁も、人物に於て大した違ひがなくなるだらう。口碑的豪傑の価値は茲に在りといふべしだ。(四十一年六月)

底本:「明治文学全集 92 明治人物論集」筑摩書房
   1970(昭和45)年5月30日初版第1刷発行
   1984(昭和59)年2月20日第4刷
底本の親本:「春汀全集 第一卷」博文館
   1909(明治42)年6月
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※圏点と傍線に関する注記は、省きました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
2008年1月25日作成
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