1

 葡萄牙ポルトガルのリスボンで、僕はリンピイ・リンプと呼ぶびっこ英吉利イギリス人と仲よしになった。
 リンピイは海から来た男で、そしてPIMPだった――あとで解る――それはいいが、ついうっかりしてるうちに僕もき込まれて、その跛足リンピイリンプの助手みたいな仕事をしなければならないことになった。これも詳しくは「後章参照」だが、早く言えば、毎晩僕が夜の埠頭ふとうへ出かけて古いINKの海を眺めてるあいだに、いつからともなくこのリンピイと知り合いになったというだけなのだ。
 ほるつがる――種が島と煙草と社交病を日本へ紹介した国。
 日本――葡萄牙ポルトガル
 東の果てと西のはずれ。
 地理的には遠く、歴史的には近い。
 両国共通の言語でちょっとこんな判じ物みたいな小景スナップが出来るくらいだ。
 彼は Raxaラシャ の「まんと」の「ぼたん」をかけていた。彼女は「石鹸さぼん」で洗ったばかりの「かなきん」の襦袢じゅばん「Jib※(チルド付きA小文字)o」に、「びろうど」Veludo の着物をきていた。「びょうぶ」の前に、ふたりは「さらさ」Caraca の座ぶとんを敷いて、Carta「歌留多かるた」をしながら飲んだり食べたりしていた。が、彼はあんまり「ふらすこ」のお酒を「こっぷ」で呑んだし、彼女が Pao「ぱん」と「こんぺいとう」を Tanto「たんと」食べ過ぎるので、お互いにいやになって離婚した。
FINIS
 といったように、これだって君、あの、この頃産業的に需用の多い「朝飯あさめしの食卓で焼麺麭トウスト・卵子・珈琲コーヒーと一しょに消化してあとへ残らない程度の退屈で幸福な近代結婚生活の小説」の作例には、ちゃんとなってるじゃないか。BAH!
 で、とにかくリンピイの Who's Who へかかる。
 彼の商売は三つから成り立っていた。
 第一にリンピイは、マルガリイダという五十近い妻と一しょに、市の山の手バイロ・アルトに独特の考案になる魔窟まくつをひらいていた。マルガリイダは、CINTRAの古城のように骨張った、そして、不平でたまらない七面鳥みたいに絶えず何事か呪いわめいてる存在で、リンピイの人生全体に騒々しく君臨していたと言っていい。そのうえ彼女は恐ろしくけちだったし、自分の思いつき一つでハウス流行はやったので、しぜん稼業のことはすっかり一人で支配していて、リンピイは more or less そこの居候いそうろうみたいに、波止場カイスの客引きだけを専門にしていた。それも、実際マルガリイダ婆さんに言わせると、リンピイなんか居てもいなくてもいいんだけれど、商売の性質上、男のにらみの必要な場合もあったし、それに、リンピイは跛足のくせに素晴しく喧嘩が上手ハンディ・アト・フィストだったから、お婆さんも重宝がって、格別追い出そうともせずにただあごだけ預けとくがいいよと言った程度に置いてやっていたのだ。この「マルガリイダの家」の呼び物は、テレサという白熊のような仏蘭西フランス女の一夜の身体からだを懸賞に博奕ばくちをさせるのだった。だから、いつ行っても寄港中の船員がわいわいしてて、マルガリイダ婆さんの靴下は紙幣束さつたばでふくれてた。が、このリンピイとマルガリイダは、お互いにどまでも経済的独立を厳守する夫婦関係――何と近代的な!――だった。と言うより、つまりそれは、彼女が彼に充分な儲けをけてらなかったからだが、そこで当然リンピイは、妻の一使用人として以外に自分だけの内職を持っていた。ここに企業家リンピイ・リンプの非凡な着眼が窺われる。すなわち、第二に彼は、一種の「船上出張商人ヴェンデドゥル・デ・アポルド」――英語でう―― ship-chandler「しっぷ・ちゃん」――を開業していたのだ。
 夜のりすぼん波止場で、僕は一つの不思議を見た――。
 AYE! 闇黒あんこくがLISBOAの海岸通りを包むとき!
 各国船員の行列パレイドあるこほるが参加し、林立するマストに汽笛がころがり、眠ってる大倉庫のあいだに男女一組ずつの影がうろうろし、どこからともなく出現するこの深夜の雑沓・桟橋の話声・水たまりの星・悪臭・嬌笑・SHIP・AHOY!
 この腐ったインクの海は、何かしら異常な事件を呑んでるに相違ない。波止場の夜気は、僕の秘有チェリッシュする荒唐無稽趣味ワイルド・イマジネイションをいつも極度にまで刺激するに充分だ。それが僕の全 being を魅了してすぐに僕を「夜の岸壁」の自発的捕虜にしてしまった。もちろんそこには、何とかして変った話材に come across したいという探訪意識が多分に動いていたことも事実だが、とにかくリスボンでは、今日のつぎに明日が来るのと同じ確実さと連続性において、毎夜の波止場カイスが浮浪人としての僕をその附近に発見していた。一晩として僕は夜の波止場を失望させることはなかった。
 が、これには単なる探険心以上に、僕を駆り立てる理由があったのだ。
 それは、こうして毎晩「夜の波止場」に張り込んでた僕へ、僕の熱心な好奇癖を燃焼させるに足る一現象が run in したからだ。
 Eh? What?
 きまって真夜中だった。暗いなかに人影がざわざわして、その黒い一団がしずかに桟橋を下りていく。桟橋の端には、物語めいた一そうの短舟ボウテが、テイジョ河口の三角浪にくすぐられて忍び笑いしていた。訓練ある沈黙と速度のうちに一同がそれに乗り移ると、そのままボウテは漕ぎ出して、碇泊ていはく中の船影のあいだを縫って間もなく沖へ消える。そして暫らく帰ってこない。が帰って来るとその一団の人かげが、同じ沈黙と速度をもって小舟ボウテから桟橋へ上り、僕の立ってる前を順々に通り過ぎて、今度は町へ消えてしまう。夜なかに海を訪問する一隊! ははあ! 奇談のいとぐちには持って来いだ。しかも、believe me, それがみんな女で、引率してるのはびっこの小男だった。
 これが毎晩である。桟橋と沖を往復する謎の女群。熟練を示すその沈黙と速度。At last, 大MYSTERYは僕のまえに投げられた。何のための毎夜のとりっぷ? 女漁師? Absurd, 密輸団? Maybe.それにしても、何と祝福すべき小説――作者ライダア・ハガアド卿――的効果とシチュエイション!
 サスペンスもある。「はてなバッフル!」もある。大通りポロット小みちカウンタ・プロットも充分ある。こいつにちょいと「予期しない捻りアンエクスペクテド・タアン」さえ与えれば、ジョウンス博士主宰通信教授文士養成協会――名誉と財産への急飛躍! はじめて万人に開かれた成功の大秘門! 変名で有名になって親類知己をあっと言わせ給え!――の「必ず売れる小説を作る法」の講義録にぴったり当てはまって、どうだ君、そろそろ面白くなって来たろう。NO?
 まだまだこのあとが大変なんだ。
 YES。港だから、そら、毎日船がはいるだろう。船乗りってやつは、女を要求して――たとえばマルガリイダの家のテレサなんかを目的めあてに――やたらに上陸をいそぐものだ。が、上陸させちまっちゃあ話にならない。いたずらに老七面鳥マルガリイダをほくほくさせるばかりで、何らわが新事業家リンピイの利得にはならないから、そこで彼らの上陸の前夜か、もしくは過半上陸しても不幸な当番だけ居残ってるところへ、暗いいんくの海を桟橋から一そう小舟ボウテがこいで来て横づけになる。女肉を満載したボウテ! すると、訓練ある沈黙と速度をもって、五、六人の女隊が、アマゾン流域特産のぽけっと猿みたいにするする船腹サイド縄梯子ジャコップを這い上って甲板へ現れる。これが真夜中の船の女客――船上商人シップ・チャンリンピイがひそかに駆り集めて来た「商品」だ。が、これも、昼間の市民としては、女中や場末の売子をしてる女達――相当若いの・かなり若いの・ほんとに若いの・少女めいたの・肥ったの・せたの・丸顔の・面長おもながなの・金毛の・黒髪の――。
 それらが次ぎつぎに船の手すりをまたぎながら、細い、太い、円い、めいめい色のかわった声を発する。
今晩はボア・ノイテ
今晩はボア・ノイテ
今晩はボア・ノイテ
 と思うとすでに、長い海によごれ切った水夫と火夫のむれが、この呼吸する商品のまわりにぐるり素早く輪を作ってる。にやにやと殺気立つ選択眼。その、天候と粉炭と余剰精力とで黒い層の出来てる彼らの首根っこへ、女たちの白い腕がいきなり非常な自信をもって巻きついていく。最初に視線を交換した船員と売春婦――これほど直截ちょくさいな相互理解はまたとあるまい。港の挨拶はこれだけでたくさんだ。何という簡潔な「恋の過程プロセス」! 何て出鱈目でたらめな壮観! そこここの救命艇のかげ、船艙ハッチの横が彼らにとって船上の即席らんで※(濁点付き平仮名う、1-4-84)うだ。そして、星くず・インクの海・町の・夜風。五、六人の女と、時として五、六十人もの海の野獣と――こうして、それらの全場面に背中を向けて忍耐ぶかく待ってるあいだに、毎晩リンピイは一たい何本の煙草をじゅっと水へ投げ込むことか?――GOD・KNOWS。

     2

 畏友リンピイ・リンプの驚嘆に値する発明的企業能力は、これだけでも充分以上に合点が往ったろうと思う。加うるに、この出張売春婦のPIMPをつかさどるかたわら、第三にそして最後に、彼はほんとの「しっぷちゃん」をも兼ねていた。ほんとのしっぷちゃんてのも変だが、実はこれも、一つの準備行動として彼にとっては必要だったのだ。と言うのはつまり、いよいよ生きた商品を持ちこむに先立ち、まず斥候といった形で、無害でゆうもらすな海の人々の日用品――それも陸での概念とは大分違うが――を詰めたケイスと、何食わぬフェイスとをぶら提げて、あたらしく入港して来た船へ、検疫が済むが早いか最初の敬意を払いにゆく。こうしてその船の徳規デサイプリンや乗組員の財布の大きさを白眼にらんでおいて、いわゆる「岸に無障害コウスト・イズ・クリア」と見ると、そこではじめて、夜中を待って本業の女肉しっぷ・ちゃん船を漕ぎ寄せる――とこういう手順だが、どうせこのほうは、まあ、小手調べのつもりだし、こっちでも幾らかの利を見たいなんてそんなリンピイでもないから、持ってく日用品なんかちっとも売れなくても困らないんだけれど、それが妙なことには飛ぶように売れて、リンピイはいつもからの鞄と、反比例に充満したぽけっととをれて陸へ帰るのがつねだった。じゃあどうしてそうリンピイの商品に限ってさばけが早かったかというと、それは何も彼の小売的商才の致すところではなく、現在あとで僕がこの役目を受持つようになってからも、品物だけは何らの渋滞なくどんどん売れてった事実に徴しても判るとおりに、商品それ自体に、「これに羽が生えて売れなければベイブ・ルースは三振してカロル親王殿下がルウマニアの王位に就く」と言ったふうな、リンピイ一流の狙いヒット仕掛卜リックが潜ませてあったからだ。では、その手品の種は?――となると、これが本筋の「何か袖の奥にサムシング・アップ・イン・ゼ・スリイヴ」の重要な一部なんだから、手法の教えるところに従い、僕としてはもうすこし取っておかなければならない。
 じっさいリンピイは、ついこないだまで、この両方の「しっぷ・ちゃん」を一人で兼ねて来ていたんだが、比較的繊細――何と貴族的に!――な彼の体質と健康がその激労を許可しなかったし、それに、幾分財政的余裕も出来かけたので、誰か「鳩の英語ピジョン・イングリシ」が話せて自分の片腕になるやつがあったら、はじめの日用品のしっぷ・ちゃんだけそいつに任せて船の探りを入れさせることにしてもいい――ちょうどこう考えてたリンピイの眼前へ、幸運にも僕という「夜の波止場カイスの常習浮浪犯」が現れたのだ。
 この、リンピイと僕――ジョウジ・タニイ――との最初の劇的面会はあとの頁に入れるつもりだが、一口には、彼が好機――僕にとって――を提出オファして、僕が即座にそれを把握グラブしたほど、それほど勇敢で利口スマアトだったというだけのことだ。じゃ、一たい何だってそんなことが「好機」かと言うと、これなしにはこの話も存在しなかったろうし、第一、僕としちゃあ得がたい冒険アドヴェンチュアを実行したわけで、全くのところ、さんざ歩き廻った末やっと棒にぶつかったDOGのよろこびが僕の感情だった。
 さきへ進むまえ、忘れるといけないからちょっとここで断っておきたいのは、リンピイと彼の周囲に、僕が支那人チンキーロン・ウウとして知られていたことだ。これは何も、ことさら僕が国籍を誤魔化ごまかしたわけではなく、全体、はじめて口を利いたとき、リンピイが頭からお前は支那公チンクだろうと決めてかかって来たので、正誤するのも面倒くさかったし、その要もあるまいと思って黙っていたら、リンピイが勝手にそう信じこんで、同時に僕も、いい気になって出放題でほうだいな名乗りを上げてしまったのだ。Long Woo ――支那にそんな名があるかどうか。なくたって僕は困らない。要するにリンピイのそそっかしいのが悪いのだ。で、このとおり、支那人なるアイデアは彼が思いついたことで、僕はただ、極力否定するかわりに、無言によってごく受働的にそれを採用したに過ぎないから――。
 だからリスボンの波止場では、全的にそう受け入れられていた支那公チンキイロン・ウウの僕だった。一つの社会を下から見るのに、これはかえって好都合だったかも知れない。と同時に、ある集団生活を知るためには、どうしてもいくぶん密偵的なこころもちでそこへ這入り込んで、現実に何かの役割ファンクションを持たなければ駄目だ。この意味で、リンピイ・リンプと彼の仕事は、僕の上に、じつに歓迎すべきLUCKの微笑だったと言ってよかろう。
 YES。港だから、毎日船がはいる。その入港船のどれもへ、間もなく支那人のしっぷちゃんロン・ウウが、商品鞄と無表情な顔を運び上げるようになった。支那人は恐ろしく無口だった。ものを言う必要がなかったのだ。いつも黙って鞄を拡げて、眠そうにハッチの端に腰かけていさえすればあとは品物自身が饒舌スピイクして面白いように売れて往った。ほんとに面白いように売れていった。海の住民――それは不具的に男だけだが――また、その男だけのためによろこばれる種々の他愛ない日用品――タオル・しゃぼん・歯みがき・小刀ナイフ・靴下・その他・それぞれにリンピイの細工がほどこしてある――それから、好運のお守りTALISMANの数かず――すべていずれ後説――そして、このしっぷ・ちゃんの支那人の訪問した船へは、必ずその夜中にリンピイのおんな舟が出張して、これも帰りには海のむこうのお金でふなあしが重かった。
 それがつづいて、何ごともなく日が滑って行った。
 が、いつまでっても何事もないんじゃ約束が違う気がするから、そこで物語のテンポのために手っ取り早くもうその「何事」が突発したことにして、ここへ、このりすぼんの水へ、問題の怪異船ガルシア・モレノ号を入港させる。
 Mind you,「がるしあ・もれの」は、一見平凡な「海の通行人」よたよた貨物船トランプ・フレイタアのひとつだった。
 しかし、もしあの時、運命がこの船をリスボンの沖で素通りさせたら?
 そうしたら、リンピイはいまだにぽるとがるりすぼん港の満足せるリンピイだったろうし、ことによると僕も、今なお支那公チンキイロン・ウウの嗜眠病的仮人格のままでいたかも知れない。
 思えば、十字路的な現出であった―― That ガルシア・モレノ、
 なぜって君、一つも売れないのだ。
 何がって君、僕の「しっぷ・ちゃん」がさ。だって変じゃないか。あれだけ「羽が生えて」売れてた、そしてほかの船ではやはり立派に売れてる――その売れるわけはあとでわかるが――同じ品物が、このガルシア・モレノ号でだけはうそのようにちっとも売れないのだ。
 すこしも売れない。奇体じゃないか。船乗りという船乗りが狂喜して手を出すことを、僕は経験によって知ってる。それだのに君、この船では、誰ひとり手に取って見ようとする者もない。振り向くものもない。船中てんで相手にしないのだ。ここをリンピイの好んで使用する表現で往くと、「がるしあ・もれの」でベイブは始めて三振し、カロルはようようルウマニアの王様になった。というところだが、売れないのは僕のほうばかりじゃなく、リンピイの「商品」なんか何度押しかけて征服しようとしても、その度にみんな綺麗に撃退されて、いつも完全な失敗におわった。お金をつかおうとしない船員、女を失望させて帰す水夫や火夫なんて、これはとても信じられないお伽話とぎばなしだ。奇蹟? 不可能。道心堅固! べらぼうな! では何だ! At last 僕とリンピイのまえに投げ出された一大MYSTERY――これを満足にまで解くところに、この物語の使命があるのだ、BAH!
 はじめて僕がガルシア・モレノ号を手がけようとして――一つの暗転。
 SHIP・AHOY!
 血だらけな晩めデ・ブラッディ・ノウイト! God damn it!
 船尾の綱板梯子ジャコブス・ラダアに揺られてる僕の眼は、すぐ鼻っ先の大きな羅馬ローマ字を綴ってた。この船にはアマゾンのにおいがする。船名、がるしあ・もれの号。船籍、ブエノス・アイレスと白ぺいんとが赤錆あかさびで消えかかって、足の下の吃水線きっすいせんには、南あめりかからくっ附いて来た紫の海草が星と一しょに動いていた。
 火夫の油服あぶらふくに、真黒なタオルで頭を結んだ僕だ。この、紙に革を張ったすうつけいすは「しっぷ・ちゃん」の商品を満腹して黒人の頭蓋のように重かった。片手にその鞄――手が切れそうに痛い――をぶら下げて、ほかの手で縄梯子ジャコップを掴んでじ登るのだから、ビスケイ湾の貨物船みたいに身体からだが傾いて、ジャコップが足に絡んで、それをほどいて一歩々々踏み上るのがハードだった。梯子はしごと僕と鞄が、すっかり仲よく船尾スタアンへこみへへばりついて、ぜんたい斜めに宙乗りしていた。陸から漕いで来た僕のはしけボウテ梯子ジャコップの下に結び着けてある。それがテイジョ河口の三角波にくすぐられて忍び笑いしていた。
 ――God damn!
 LO! 国際的涜神とくしん語がまた僕のくちばしゆがめた。なぜって君、夜の港は一めんのインク――青・黒ブルウ・ブラック―― だろう。そこにぴちぴちねてるのはいわしの散歩隊だろう。闇黒くらやみのなかの雪みたいに大きく群れてるのは恋のかもめたちだろう。むこうにちかちかするのは、羅馬ローマ七丘になぞらえて七つの高台に建ってるリスボンの灯だろう。しっぷ・あほうい! と波止場カイスのほうから声がするのは、きっとまた、急に責任と威厳を感じ出したどこかの酔っぱらい船長が女から船へ帰ろうとして艀舟ランシャを呼んでるのだろう。
 Ship Ahoy! ――そして僕はいま、うす汚ない商品鞄をさげてこのガルシア・モレノ号へ這いあがるべく努力してる最中だ。何て「血だらけブラッディ」な! O! でいむ!
 さっきから言うとおり、りすぼん港だった。葡萄牙ポルトガルの首府 LISBON ――土地の人は、何かしら異を立てなければ気の済まない、土地の人らしい一見識をもってLISBOAと書いて「リスボア」と読んでる―― anyhow, ふるい水に沿った古い開港場に、わめく人間と恐るべき言語と、日光と雨と売春と、疾病と夕陽の壁と水夫の唾と海の道徳とがごっちゃになって歴史的市場をひらいていた。そこへ、今日の夕方、この The Garcia Moreno が大西洋を撫でて入港して来たのだ。植民地の男が植民地の物産と何十日も同居して――だから、こうして植民地の船がはいると、港いっぱいに植民地的臭気エアが充満して、女達は昨夜の顔へまた紅をなすり、家々の窓へさわやかな異国の風が吹き込み、猶太人ジュウの両替屋に不思議な貨幣があふれ、船員のてた灰色猫を船員が拾ったり、三年前の海岸通りウォタ・フロントの赤ボイラのかげの女が、まだその同じ赤ボイラの陰に白く蹲踞しゃがんで待っていたりして、あはあ! いろいろな笑いごとに何と古めかしく派手な LISBOA !
 この週期的活気・海と陸との呼応・みなとのざわめきによって早くからきょうガルシア・モレノの入船いりふねを感づいた僕は、仲間パルのリンピイから預ったしっぷちゃんケイスをすっかり用意して、それでも、マストの先の青い星がともるまでぼんやり待っていた。それは、かねての契約どおりに、僕がひとりでリンピイの鞄を下げてその新入港の船へ乗りこみ、甲板に品物を拡げて、当番の乗組員クルウ相手に商売する。リンピイはリンピイで例のほかの種類の商品を積んで、僕が呼ぶと、あとから船へ上ってこようというのだ。そこで僕は、リンピイの鞄と暗黒と一しょにがるしあ・もれの号へ漕ぎ寄せてみると、長い大西洋アトランチコを済ました船員達は、上陸番なんか無視して誰もかれも「七つの丘の灯」へ逃げてったあととみえて、船尾スタアン綱梯子ジャコップが公然の秘密のようにこんなにぶらぶらしていた。ボウテをつないで、僕と鞄がそのじゃこぷを上り出したのだ。がっでいむ!
 はろう! せいの高い船だ。昇っても昇っても上へ届かないから、僕は、出張船商人シップ・チャンドラアとしての僕の到来を宣言して、now, 潮風にひとつ唄った。誰か聞きつけて出て来るだろう。
Carrrry mee
Cheerfulliee
Over de sea !
誰だ地獄フウダ・ヘル――!』
 果たしてらんかんから植民地英語の声が覗いた。
船上出張商人ヴェンデドル・デアポルド!』
『EH? WHAT?』
支那公チンキイLong Woo。』
『Well, 俺は呪われた。その支那的チンキイロン・ウウがまた何の用で上船しようてんだ。HEY?』
船商人シップチャン――旦那サア?』
『いよいよ俺は呪われた。何を持って来た一体?』
『AYE! いろんな物、sir,色んなもの。あなたをよろこばすべきたくさんの品。私はたしかにあなたを、たった六ペンスで冷たく打ち倒すことも可能でしょう。ただちょっと実物さえ御覧になれば――。』
よしライ。上って来て、見せろ。』
 だから、じゃこっぷの中途から救われて、僕と鞄がガルシア・モレノに甲板アポウルドした。
 仮死したような大煙突が夜露の汗をかいて、その下で、船のお医者シップス・ダクタア――と言うのはつまり料理番クックだ――が、愛玩ペットのポケット猿に星を見物させていた。洋隠猿パケツ・マンキーはアマゾン流域に特産する小さな小さな猿だ。手に握ると全身すっかり隠れて苦しいもんだから騒ぐし、胸のぽけっとへ入れてやると顔だけ出してあちこち眺めてる。夜は、君の脱いだ靴の奥へ潜り込んでぐっすり眠るだろう。そのぽけっと猿が、肥った料理人ダクタアの手の平から星へ向って小粒な皓歯こうしいていた。ほかに、僕を「一体誰だフウダ・ヘル」した無電技師は、士官オフィサらしく船尾を往ったり来たりしていた。こつ・こつ・こつ。Again, こつ・こつ・こつ。鉄板の跫音あしおとと自分の重大さに彼は酔っていたのだ。しっぷ・ちゃあん! と喜んだ料理番の大声で、下級員口ギャングウェイが四、五人の水夫や火夫を吐き出した。このXマス近い海の夜中に、上半身裸の彼らが、赤白く光って浮かんだ。やっぱりみんないかりを下ろすが早いか女のところへ上陸したに相違ない。ガルシア・モレノ号は僕の前にたったこれだけの人数にんずだった。が、勿論このポケット猿の連中が、総がかりで星を白眼にらみ、暴風雨のなかで左舷ポウト右舷スタボウドと叫び交し、釜をき、機関を廻して来たのではないと、who could tell? 地球の色んな隅々コーナアスから旧大陸の端のはし「ほるつがる・りすぼん港」へこうして次ぎつぎにタッチしていく貨物船の大商隊――ここには、あらゆる華やかさと恥と不可解がごく自然に存在し、事実、それらの堆積が鬱然うつぜんし醗酵してLISBOAを作ってるのだ。という証拠には、この「しっぷ・あほうい!」の物語も、前言のごとく僕じしんの経験アンダゴウしたその一つに過ぎない。Eh? What?

     3

 そもそもの葡萄牙ポルトガル入りから出直そう――。
 水は、一度低いところへ下りたが最後、どうしても上へあがらないものと決定的に思われていた。羅馬ローマ人がそう考えていたというのだ。だから彼らは、不必要にも山から山へべらぼうに巨大な水道の橋を築いて渡したもので、この、可愛らしい人智幼年時代のあとが、連々たる大石柱の遺蹟として車窓に天をしている。すると葡萄牙ポルトガルだ。何という真正直なろうま人の努力!――なんかと感心してる僕の視線を、ほるとがる荒野の石塀とコルクの樹とゆうかり橄欖かんらんと禿山と羊飼いとその羊のむれが、瞬間に捉えて離した。石塀は崩れかけたまま重畳ちょうじょうする丘の地肌を縫い、コルクの木は近代工業の一部に参与している重大さを意識して黒く気取り、ゆうかり樹は肺病を脅退スケア・アウェイするためにお化けのように葉と枝を垂らし、かんらん葡萄牙ポルトガル国民唯一の食品オリヴ油を産すべく白く威張って並び、禿山は全国を占領し、羊飼いは定住の家を持たずに年中草と羊と好天候を追って国境から国境の野原をうろうろしてるもんだから、よく殺されて有金ありがねと三角帽と毛皮付きいんばねすを奪われ、その殺したやつがまた直ぐに三角帽をかぶりいんばねすを着て、草と好天気と羊を追ってぶらぶらしてるうちにやっぱり誰かに殺され、こんどの第三人目は、やっと三角帽を戴き毛皮つきいんばねすに手を通そうとしているところで、第四人目に楽しく殺害されて往き、この第四人目は――どうもりがないが、つまり、その度に飼主が変るんだけれど、羊のむれは羊の群らしくそんなことに関係なく、しじゅう汽車に驚いてかたまってみたり、池に直面して凝議ぎょうぎしたりなんかばっかりしてる。
 SAY! 古く粗雑に幸福な影絵の国ほるつがる。
 お前は「欧羅巴ヨーロッパのKOREA」だ。絢爛の色褪いろあせた絵画織物テベストリーだ。Poogh !
大地のおわるところオンデ・テルミナ・ア・テアラ
大海の始まるところオンデ・ア・コミエンサ・ウ・マアル
 ――若いころ香水の朝風呂へ這入って金のくしで奴隷に髪をかせた史上の美女が、いましわくちゃの渋紙に白髪しらがを突っかぶって僕のまえによろめいてる。Why should I not take my hat off to thee?
 そうしたら「大地の終るところオンデ・テルミナ・ア・テアラ大海の始まるところオンデ・ア・コミエンサ・ウ・マアル」にこの海港リスボンだった。
今日はボタアル
 その古趣と不潔と野蛮と俗臭の小首府、神様と文明に忘れられたLISBOAが、こうおりぶ油くさいれ声を発して僕の入市に挨拶した。
こんちはボタアル
こんちはボタアル
 何と感謝すべきこの放浪性! その瞬間から僕はりすぼんとリスボンの古趣・不潔・無智・野蛮・神秘・俗悪のすべてを呼吸して、雑音と狭い曲りくねった街路ワインディング・ストリイツの迷宮へ深くふかく分け入った。そして当分出て来なかった。だから君、さっきから何度も保証したとおり、これはみんな、そのあいだにおける僕――ジョウジ・タニイ――のまんだりん仮装舞踏曲であることが一層うなずけよう。BAH!
 年老いた両棲動物がリスボンだ。かれは海と陸にまたがって、いつも口いっぱいオゾンを呑吐どんとしている。その土と水の境界に、石で畳んだ波止場カイスがあった。「太陽の岸コスタ・デ・ソル」と呼ばれる海岸線ゆき郊外電車発着所カイス・デ・ソウドレの近くに、入江を抱くように手を拡げてる広場の一方が、ゆるい石段になってひたひたと水に接していた。昼は、空と港が一つに煙って、へんに甘酸あまずっぱい大気のなかを黄塗りの電車がことこと揺れて通った。その警鈴は三分の一ほど東洋的にはかなかった。濡れた赭土あかつちの盛られたそばで、下水工事の人夫達が路傍に炭をおこしていわしを焼いていた。そのまま塩を振りかけてお弁当に食べるのだ。赤や青の原色の洋袴スカートをはいた跣足はだしの女たちが、何人も何人も、頭へぶりき張りの戸板を載せて続いていた。魚売りだ。元帥のような八字ひげを生やした女が多い。見つけた工夫達は黙っていなかった。
OHOY!
苦痛のまりあマリア・ドス・ドウレス
その髯を俺にくんろ!
 ひげの女らは、思いきり淫猥な言葉で応酬しながら、男たちの爆笑をうしろにお尻で調子を取っていく。その声が、片側の郵便局の前から、お爺さんの笑顔を振り向かせた。この老人は、その妻の、跛足で唖の女と、吹出物だらけの男の子と、ぼろぼろの一個の手提げとを全財産に終日あしを探してそこらを移り歩いては、しゃがんでるのだ。僕は、彼らと並んで何日も日向ぼっこをしたから、この一家族の生活はよく知ってる。老家長は代書人だった。きたない手さげのなかに、汚い紙と封筒と、きたないぺんとインクが驚くべき整頓さをもって這入っていた。書留用の封蝋や押印も揃っていた。AHA! 綺麗な花文字入りの封印まで! 蝋を垂らして印をするのが金一エスクウドだった。たまに客があると、非常な自尊と不愛想ぶあいそとに口びるを曲げた老人が、ふるえる手でその大変な事業に着手した。何一つするにも恐ろしく時間がかかった。で、ときどき八字髭の女や、霜降りの木綿軍服を着た兵隊が田舎の恋人に手紙を書いてもらうくらいのもので、たいがい老爺おやじと妻と息子と手提げが、四つぽかんとして通行人の膝から下を眺めてることが多かった。子供は痴呆らしかった。なぜなら、猫を発見すると正確に石を投げる習慣だった。そして、十か十一のくせに、しじゅう地べたに寝ころんで母親の乳房とばかり遊んでた。この一家を引率して、老人は一日じゅう陽の当るところを転々していた。が、稼業だけは忘れなかった。だから彼らは、海底のような夕方の建物の影が落ちて来ても、郵便局からはあんまり遠くへ離れようとしなかった。お昼御飯にはやはり七輪の炭火にかに鰯と塩を抛り出して、焼きながら頬張っていた。その黄白い魚臭が冬晴れの日光に波紋して、修築中の郵便局の屋根へ、鎖で縛ったかわらの束がするすると捲き上って行った。
 向う岸はカシイアスの要塞だ。正午ひるはそこにも鰯を焼く煙りがあった。蒼ぞらでは、ほるつがる国陸軍爆撃機の生意気な二列縦隊だった。その真下の沖に、鋼鉄色に化粧した木造巡洋艦が欠伸あくびしていた。これは領海に出没する隣国すぺいんの海老えび採り漁船を追っ払うための勇敢な海軍である。洗濯物が全艦を飾って、ここにも鰯をやくけむりが大演習の煙幕のようにMOMOとめわたっていた。

     4

 こういうりすぼんの波止場だ。
 この、表面白っぽく間の抜けた底に、どこか田舎者めいた強情な狡猾さがぷうんにおって、決してこれだけが全部でないことを暗示ヒントしていた。果して夜! You know, 闇黒は桟橋を物語化し、そして夜の波止場は紳士を排斥する。昼間の Seemingly に平和な自己満足のかわりに、そこには一変して酒精分の暴動ライオトだ。たいらな地面に慣れない水夫達の上陸行列だ。海の口笛と、白い女の顔だ。しなりのいいマニラ帆綱ロウプのさきに、鉄鋲ナッツを結びつけた喧嘩用武器の大見せ場デスプレイだ。放尿する売春婦プウタと暗い街灯の眼くばせだ。船員の罵声と空地の機械屑だ。飛行する酒壜と、人に肩をぶつけて歩く海の男たちの潮流。問題トラブルを求めて血走ってる彼らの眼。倉庫うらに並立する四十女の口紅。いつからともなく棄てられたまま根が生えてる赤汽缶ボイラのかげに、銀エスクウド二枚で即座に土に外套を敷く人妻。草に隠れてその張り番をする良人おっと。SO! あらゆる無恥と邪悪ヴァイス騒擾そうじょうガルフ――毎晩徹夜して、「黄色い貨物」のように忠実に僕はその渦紋の軸に立ちつくしたものだ。
 そうすることによって、僕は完全にLISBON港のお客ゲストになってたのだ。波止場のお客さんと言えば、いでたちも君、大概きまってよう。何世紀か前には地色の青だった、油で黒い火夫の仕事着に、靴は勿論片ちんばでなければならない。それに、桐油引とうゆびきの裾長すそなが外套――岬町ケイプ・タオン印し――しかし君、煙草だけはどうも他のはめない。なんて、Perfumes de Salon, 亜弗利加アフリカあるじぇりあ製のあれだ。あいつを茶色紙にこぼして、指先で巻いて端をめながら、桟橋のでこぼこ石垣に腰かけた僕の視野は、蔑晩もつづいて「古いインクの展開」とその上の植民地風だった。
 SHIP・AHOY!
 夜も煙りを吹いて船が出はいりして、何本もの航路が縦横に光っていた。波止場のそばのテイジョの河口は、青く塗った大帆前船パルコ・デ・ヴェイラの灯でにぎやかだった。この船は、「大西洋の真珠ペルラ・ド・アトランチコ」と俗称されるアゾウレスとマデイラの南島から、材木やバナナを積んでくる。昔この国の人は、リスボアから船出して三日も往くと、暗黒の海マアル・テネプロウゾがあって、船が断崖から闇黒のなかへどかんと落ち込むように信じられていた。だから、こんな浪漫的な暗黒の海が商業的にすっかり明るくなって、この、全山花にうずもれた二つの無人島が発見されたのは、海洋史上比較的近代のことに属する。何と少年的な海の時代さであろう? りすぼんはその過去性で一ぱいだ。現にこの、夜の僕の行きつけの波止場カイス・デ・テレレ・ド・パソも、バスコダガマが印度インド航路への探険に出るとき祈った聖ジェロニモの寺院――いまはそこに彼の遺骸が安置してある――や、何年となく毎日国王が頂上から手をかざして、東洋からの帰船とその満載してるはずの珍奇な財宝とを待ちあぐんだというベレンの古塔に遠くない。じっさい僕が踏んでる波止場の階段も、その黄金治世の印度インドの石材で出来てるのだ。僕の心の眼マインズ・アイを、光栄ある発見狂時代のリスボンの半熱帯的街景がよぎる。フェニキア人の頃から、何とたくさんの黒人と赤人と黄人の異装徒が、それぞれ何とおびただしい金銀・香料・海陸の物産をみつぎものに捧げて、このテイジョの河口をはいって来たことだろう! 大理石のはだの各国女奴隷・その売買所と仲買人の椰子やしむち・宗教裁判と火刑広場の野次馬・海賊きたる銅鑼どらと吊橋の轆轤ろくろを捲く大男の筋肉――そして今は、不潔と無智と猥雑と、海犬シイ・ドッグスの群と考古学的価値のほか何一つ近代文明への関点をたないりすぼあ
 世界の隅っこに、これほど地球の進展から隔離された塵埃じんあい棄て場が現存し得ようとは、たしかに何人なんぴとも想像しない一驚異であろう! その雑然たる廃頽はいたい詩と、その貧窮への無神経と、その戦慄すべき alien banality と――。
 SHIP・AHOY!
 こうして改めてあたりを見廻しながら、その晩も僕は波止場附近に張りこんでいた。何か turn up するのを待つこころで。
 真夜中だった。暗いなかに急に人影がざわざわして、一団の女がしずかに桟橋を下りて行った。桟橋の端には、物語めいた一艘の短舟ボウテが、テイジョ河口の三角浪にくすぐられて忍び笑いしていた。訓練ある静寂と速度のうちに、一同がそれに乗り移ると、そのままぼうては漕ぎ出して、碇泊中の船影のあいだを縫って間もなく海へ消えた。そして暫く帰ってこなかった。が、帰って来ると、その女群が同じ沈黙と速度をもってボウテから桟橋へ上り、僕の立ってるまえを順々に通りすぎて町のほうへ消えていった。いつものびっこの小男が隊長している。今夜も沖を訪問してきた女たち――大きな「?」のなかから一行のあとを見送ってる僕へ、最後に小舟をあがったその小男が接近して来た。
『がた・らい?』
 上海シャンハイ英語だ。紳士語では、「燐寸マッチをお持ちでしたらどうぞ」――僕が応じた。
『YA。』
 そしてまっちアモルフォスを突き出した。
 すると跛足リンピイリンプ――これはあとから酒場で自己紹介し合って判ったのだが、男は、Limpy Limp なる呼名よびなに自発的に返事して、つまりびっこだった――は、ここで一そう、ぴょこんと僕の胸へ飛びつくように現れて、それから、もう一度手を伸ばした。
『ガタ・エネ・セガレツ? HEY?』
 今度は煙草だ。はじめはマッチ、つぎにたばこと逆なところに、これも後日追々おいおい判然したんだが、愛すべきリンピイの狡才があった。仕方がないし、それに僕は、すこしでも長くこいつと会話して、出来ることならその「夜のおんな舟」の秘密へ一インチでも近づきたかったから、さっそく「客間の香気パフュウム・ドュ・サロン」のふくろを提出しながら、
『取れ。但し一本。』
勿論コース!』
 と燐寸まっちこすって、そこで彼は、その火の輪のむこうから僕の顔に驚いた。
『HUM! いよう! お前は毎晩ここらをうろついてる支那公チンキイだな!』
『YA。ロン・ウウって名だ。』いいことにして僕が答えた。『お前はまた、いつも夜中におおぜい女を連れて海へ出るじゃないか。何しに行くんだ?』
『U-hum !』
 リンピイはただ頷首うなずいた。が、彼が、いぎりす生れの「決して帰らない迷児まよいご」のひとりであることは、その語調で直ぐにわかった。とにかく、ふたりの港の客人ロン・ウウとリンピイ・リンプは、こうしてそこの、波止場カイスの夜露と「客間の香気パフュウム・ドュ・サロン」のなかではじめての握手を交したのだ。
 ぱふ・ぱふ・ぱふ――暫らく黙ってたのち、煙草のあいだからリンピイが訊いた。
『何してる今。』
『ME?』
『YEA。』
『なんにもしてない――煙草をふかしてる。』
 ぱふ・ぱふ・ぱふ―― and then,
『どこから来た。』
『ME?』
『YEA。』
『支那から。』
『英語は?』
波止場カイスの英語なら、YEA。』
『GOOD! どうせお前なんかどこへ行ったっておんなじなんだろう。どうだ、俺んとこへ来て手伝ヘルプしないか。』
『ME?』
『YEA。』
『何を――?』
『しっぷ・ちゃん。船上出張商人シップ・チャンドラアだ。知ってるだろう?』
 ぱふ・ぱふ・ばふ――何と便利に自分から持ち上りかけた大MYSTERYのふた! 眼の眩む喜望ダズリング・ホウプが僕の発声機能をまごまごさせて、ちょっと口が利けない。それをリンピイはさっさと承諾にきめて、早速踊るように歩き出した。僕はついてく。桟橋の話声・深夜の男女の雑沓・眠ってる倉庫の列・水溜りの星・悪臭・嬌笑。Eh? What?

     5

 窒息しそうな濃いけむりのなかに、海のやけで茶褐に着色された無数の顔が、呶鳴どなって笑って呪語していた。鋼鉄の指金具ナックルあき壜は星形の傷痕をのこす。頬へ受けたナイフは、古くなると苦笑に見えるものだ。マラガ生れの水夫長ボウシン、パナマ運河コロン市から来た半黒はんぐろの三等火夫、濠州ワラルウの石炭夫コウル・バサア、ジブロウタの倉番ストッキサンジャゴの料理人、ロッテルダムの給仕、各国人種から成る海の無産者と、大きな喧嘩師ブルウザアと敏捷なちびラントと、留索栓ビレイング・ピンの打撲傷と舵手甲板の長年月と、そしてそれに、荒天の名残の遠い港のにおい、強いあごきのこのような耳、桐油とうゆ外套に赤縞のはんけち――海岸通りサン・ジュアン街の酒場アベニダは、深夜の上陸船員で一ぱいだった。
 そこへ、リンピイと僕が半ドアを押したのだ。
 すると一度にこの異国語の tenor crescendo だ。どこの貨物船の乗組員にも特有な、ストックホルム産炭油タアルにおいだ。それが S57 の感情的な水平線と、snappy なケイプホウンの雲行きを思わせて、この狭い酒場タベルナ内部の色のついた空気を滅茶苦茶に掻き乱していた。
 呵々大笑するふとった酒神バッカス、習慣的に一刻も早く給料袋をからにしなければ安心出来ない船員たちのむれ!
 正面にずらり瓦斯ガスタンクのような大樽バリイルが並んでる。その金具の輪が暗い電灯に光って、工場地帯行きの朝電車みたいな混み方だ。数人の酒場男タベルネイロ酒場女タベルネイラが、この、戦時そのままの騒ぎを引き受けて、酒をつぐ・グラスをなげる・金をひったくる・お釣りを投げる・冗談を言い返す・悪口もかえす・喧嘩の相手もする・自分も呑む。酒はきまってる。燃える水アグワルデンテ。言わば、ほるつがる焼酎。一ばい金2セント――どいす・とすとんえす――也。
 壁は、十九世紀末葉の雑誌の口絵で張り詰めてある。何といううら悲しい明け方の夢の展覧会! はちのような腰の馬上貴婦人と頬ひげの馬上紳士。乳を出して笑ってるボンネット。大帆前船バアカンテン難航の図。花の代りに美人の顔が咲いてる絵――これは仏蘭西フランスしゃぼんの広告――寝台の脚とそばに脱いである男女二足の靴だけを大きく出した写真――靴屋の広告――「OH!」と題したのは、女が向い風にすそを押さえて困却してるところ。豚とダンスしてる坊さん。いかりをあしらった老船長の像。万国国旗一覧表。隣りはあめりか煙草 111 の広告画。
 郵便棚も置いてある。この酒場へ頼んで、ここを郵便の宛所アドレスにしてる各国の船乗りが大分あるとみえる。寄港のたびに立ちよって受け取る仕組なんだろう。手紙や葉書がたくさん挟んである。混雑に紛れて、僕は郵便棚へ近づいて二、三枚手に取ってみた。古いのばかりだ。手垢てあかとごみで薄黒くよごれてる。が、これは一たいどうしたというのだ?――酒場の常連はきまってるはずだ。酒番の主人に顔の知れた船員ばかりで、あす出港という晩なんか、「おい、これからちょっと地中海まわりだ。今度はひと月ぐらいだろう。手紙が来たら頼むぜ。」「承知しました。気をつけて行って来なさい。よそであんまり変なやつらねえようにね。」なんかと別れて、そして帰港するや否や、不恰好な既制服に、新しい安靴で久しぶりの固い土に足を痛めた彼らが、若いのも年寄りも、みんなどんなに期待に燃えてこの酒場タベルナの郵便棚のまえにひしめくことであろう! すると、来てる来てる! 恋人から妻から娘から老母から! 眼白押めじろおしに立って、一枚々々熱心に自分への宛名を探す海獣たち――僕もこうしていまその一人をよそおってるんだが――この時は、彼らも完全に良人おっとであり、父であり、息子であるだろう! それだのに、みんなに捜し残されて、ここにこれだけ溜ってるのはどういうわけだ? これらの宛名の主は、船出したきり帰って来ないのか? 何と、船乗りへ届かない手紙の不気味さ! 暗い海底マアル・テネブロウゾへは転送のしようもあるまい。
 が、港の酒場はすべての不可能を信じてる。じっさい、七年前に笑って地中海へ出て行ったきりのあの男、一八九三年のXマスの晩に最後に見た彼――それらがひょっこりいつあらわれないとは who could tell? だからこうして、そっくり保管して待ってるんだろうが、封筒も葉書も、それから毎日、一応出入りの客の調べを受けて真っくろだ。
 何といろいろな人生を黙示する、この、受取人のない酒場の郵便! 陸の声が、ここ「大地の果て」でぷっつり切れてるのだ。素早く僕は宛名に眼を通し出したが、急いでるのと、何しろどれもこれも非道ひどい悪筆のうえに、おまけに得態えたいの知れない外国語がおもなので、名前だけでも容易に読めない。ジョセフ何とかいう男へ、白耳義ベルギーアントワアプのKCN――これだけでは差出人の性別はわからないが、「御存じより」と言ったところだからまず女とみてよかろう――から三通来ている。三つとも1926年で、これはわりに新しい。ほかに「サルデニア島トルトリ」と投函地名だけ判読出来たのが一本、他は書体がくしゃくしゃしててどうにも手に負えない。そのうちに、英吉利イギリス Hull 港の絵葉書がひとつ出て来た。Mr.Arthur W.Cole へ宛てたもので、差出人の名は書いてないが、なくても解る間柄なんだろう。文言も、男の字で大きく Souvenir と走り書きしてあるだけだった。
 入口の横に、黒板が一枚立てかけてある。下級船員専門の桂庵けいあんの募集広告だ。が、ちっとも希望者がないとみえて、貼り出してあるのは、求人の部ばかりである。水夫・水夫・石炭夫。なになに号・なになに号・なになに号・高給・高給・高給・別待・特遇・履歴不要。なかに一つ「大工をもとむ」と特別大書してある。この黒板面はいつも変らないとみえる。何年にもこのとおりで、消すこともないらしい。あきを埋めて、一めんに船乗りの楽書きだ――。
 リンピイの声が、僕を酒台へ呼び戻す。
けれ・うま・ぴんぎにあ!
一ぱい飲まねえかケレ・ウマ・ピンギニア」――一杯てのは「ぴんが」なんだが、そのピンガに愛称をあたえてぴんぎにあ――みんな仲よくこの燃える水アグワルデンテのピンギニアをあおりつけてる。
お! いっぺえやりねえな。
けれ・うま・ぴんぎにあ!
けれ・うま・ぴんぎにあ!
ありがてえ!
おぶりがど!
おぶりがど!
おぶりがど!
 ふしくれ立った指に、幾つも並べてめた十八金の大指輪――これは伊達だてばかりじゃない。めり拳をくらわす時の実用のため――が、あちこちに毒々しくちらついて、ぺっと唾をして靴でこすりながら――。
えっ! 腹の虫を殺してやれパラ・マタアル・ウ・ビッショ
 誰もかれも、この呪文を合図に、威勢よく「燃える水」を流しこむのだ。そうだ! この強いやつで腹の虫を殺せ!
えっ! ぱら・またある・う・びっしょ!
えっ! ぱら・またある・う・びっしょ!
 とん、とんと酒台に鳴るからこっぷの音。
 ――こう明るいところへ出てみると、リンピイ・リンプは若いくせに老人オウルド・マンだった。全く、ちょっと年齢のはっきりしないリンピイだった。ひどくけても見えたし、そうかと思うとかなり若いようでもあったが、たぶん四十五、六らしかった。よれよれの茶の背広を着て、洋襟カラアのかわりに首のまわりに青い絹を結んで端をだらりと垂らしてるのが、恐らく前世紀的でもあったし、また観察によっては、領地巡視中の英吉利貴族イギリスロウドといった場外れの効果がないでもなかった。じっさい、いささか「ゴルフ・乗馬・午後の茶」の筆触タッチをつけて古風に気取ってみたいのが、この潮臭い無頼漢びっこリンピイ・リンプの趣味らしかった。しかし、その不幸な歩行機関の支障と、あまぞん特産のポケット猿みたいな小さな顔と、鼻からロへかけて間歇的にひくひくする筋肉痙攣けいれんと、悪疾のため舌の絡む語調とが、可哀そうな彼の努力のすべてを裏切って、親愛なリンピイ・リンプを、やっぱりただの「りすぼん埠頭の幽霊」びっこリンピイ・リンプ以上の何ものにも買わせていなかった。つまり事実は、彼リンピイは「港の Old Man」に過ぎなかったのだ。
 船でおやじオウルド・マンと言うと船長のことだ。そして、船から上っておかおやじさんオウルド・マンといえば、それは直ちにわがリンピイのような港の売春宿の御亭主オウルドマンを意味する。だから、リンピイは若いくせに老人オウルド・マンだった。
 PIMPという一つの職業がある。
 リンピイはそれに従事していた。
 何かと言うと、これは、不思議に女性の肉だけを食べる人喰い人種のことで、妻だの娘だの情婦だのの肉を切売りして衣食している。もっとも、こんな身辺の女肉だけじゃあ需要に応じ切れないから、そこで、あらゆる方法で女を駆りあつめるんだが、この、専門の売春婦を養成して一定の契約のもとに各地へ配給する問屋制度に、昔から有名ないわゆる白奴交易路ホワイト・スレイヴ・トラフィクなる秘密工業がある。と言うと、莫迦ばかに十九世紀的にひびくが、この事実は、いまも国際的「底の社会アンダアワウルド」の暗黒を貰いて立派に存在している。現に、国際聯盟の「世界悪」退治運動の重要項目の一つに上げられてるくらいで、パンフレットを発行したりして妨止に努めてるけれど、いくら国際聯盟あたりが躍起になって騒いだって、それは単にその暗流の実在を公表するにとどまり、何ら直接刷掃さっそうの資にはなるまい。と思われるほど、欧羅巴ヨーロッパ中の都会、ことに港町における売春婦の跳梁ちょうりょうはおびただしいものだ。が、これも古今東西を通じて、人間の集まってるところには厳然たる一つの必要らしいからまず仕方があるまいとして、個人的動機から落ちるところへ落ちてく女はそれでいいだろうが、そもそも白奴交易なるものは、PIMPの元締もとじめが映画的に活躍して、夜のピキャデリなんかを迂路うろついてるぽっと出の女や、ボア・ドュ・ブウロウニュを散策中の若奥さまや、学校帰りにそこらを歩いてる女学生などを甘言をもって誘拐し、気のついた頃は、すでに輸出向き商品として南あめりかあたりへ運送の途にあったりするんだから、これはどうも社会的におだやかでない。だいぶ赤本めいた話だけれど、知ってる人は知ってる事実である。だからこの白奴交易網に引っかかった女の多くは、新大陸の植民地でその売春婦としての教育を卒業する。それがまた市場マアケットへ出て欧羅巴ヨーロッパへ逆輸入される頃には、いかに彼女らが海一〇〇〇山一〇〇〇の物凄い莫連ばくれんになってるかは想像に難くあるまい。僕はこのカンの大音潮に多少 look into する機会を捉えたことがあるから――リスボンでのびっこリンピイリンプとの交渉もその一つだが――この歴史的潜在白奴交易路に関する多くのえぴそうどを所有している、が、それらは本篇「しっぷ・あほうい!」とは些少の接続しかないから略すとして――日本でだって君、不良の相場といえば「飲む・打つ・買う」の三拍子とちゃんとちょんまげ時代から決定してる。この酒・ばくち・女は、欧羅巴でも同じく社会悪の三頭目だが、この頃ではもう一つDOPEというのがえて来て、四つの脅威をなして文明と道徳を襲撃している。そこで坊さん・社会教育家・職業的慨世家――これはどこにでもある――がしじゅう何だかんだとやかましく言うんだけれど、これらの邪悪イヴルスのかげには「史的に約束された一つの大きな手」が動いてるので、目下急にはどうすることも出来ない形だ。事実、すべての社会的破壊作業は国際的に共同戦線を張ってる。近くはこの白奴交易路ホワイト・スレイヴ・トラフィクにしても、これは世界的に組織された well known 売春団で、リンピイ・リンプのごとき、彼じしんの自覚と無意識を問わず、その有機網の末梢神経を構成するほんの一細胞に過ぎなかった。
 それにしても、女肉を常食とする点で、リンピイもPIMPはぴんぷだった。
 で、彼がどんな猛悪な――あるいは罪のない――「ピンプ」だったかは、その女のしっぷ・ちゃんの手腕を見ただけでもおよそ判断のつくことだが、そのうえ彼は、妻のマルガリイダ婆さんから振り当てられてる手引人としての仕事も、決して忘れてるわけではなかった。
 が、どうしてリンピイが「客を引」いたのか、僕は知らない。とにかく、僕と彼のあいだに支那公チンキイロン・ウウのしっぷちゃん契約が目出度めでたく成立して、二人が酒場タベルナを出たとき、おどろいたのは、六、七人の船員たちが自進的に燃焼水アグワルデンテに別れを告げて僕らといっしょに歩き出したことだ。
 だから、リンピイを先に妙に黙りこくった一行がどんどん山の手バイロ・アルト――高い区域――の坂を登って行った。マルガリイダの家へ。
 あとが大変なんだ。Eh,What?

     6

「マルガリイダ」の家の red hot stuff がテレサという仏蘭西フランス女であることは前にも言った。テレサは、北極熊みたいな白い大きな身体からだと、いつもいま水から上ったばかりのような、濡れた感じの顔とをもっていた。その、安ホテルの二人用寝台ダブル・ベッドのように大々的に広漠としたところが荒っぽい船員達の好みに投じたとみえて、ばいろ・あるとのマルガリイダの家は、いつ行っても、まるであのサンジュアン街の酒場のように、そこには、7seas からの男たちと、その留索栓ビレイング・ピンの打撲傷と、舵手甲板の長年月と、難航の名残りと遠い国々のにおいと、怒声と罵声と笑声とがたのしく満潮していた。バイロ・アルトは、りすぼんの街が羅馬ローマの真似をして七つの丘――いまは八つにふえてるが――の上に建ってるその一つで、ちょうどテイジョ河口の三角浪が大西洋の水と争う港のうずまきを眼下に見下ろしていた。夜など、しつぷ・ちゃんの僕がすこし沖へ漕ぎ出ると、この山の手バイロ・アルト――「山の手」と当て字してみたところで、いわゆる山の手のもつ閑寂な住宅地気分とは極端に縁が遠いが――にちかちかする devil-may-care の紅灯と、河港をへだてて、むこう側の山腹、慈悲ピエダアレの村に明滅する静かな、家庭的な漁村の灯とが、高台同士で中空に一直線にむすびついて、へんになみだぐましい人生的対照をつくり出していた。こんなふうに、桟橋広場の一ぽうが胸を突く急坂になって、そこを昇り詰めた一帯がバイロ・アルトの私娼区域――と言っても、定期的に非公式の健康診断があるんだから、政府の黙許を得てる半公娼と称すべきかも知れないけれど、それがひどく不徹底なものだったし、その半公娼に伍して倍数以上の私娼が混入してごっちゃになっていたので、やはり大きな意味では、そこら全体を私娼窟と呼んでよかった。じっさい一くちにばいろあるとといえば、それは直ちに「坂の上の娼家横町」を語意していた――そして、そこの白っ茶けた建物の窓から、朝夕の出船入船の景色が、まるで大型活字の書物の一頁を読むように詳細に一眼だった。つまり、リスボンの出入港は、海事局・水上警察・税関よりも先に、逐一この女魔が丘バイロ・アルトの窓に知れてしまった。地獄ダン・ビロの釜に火がはいると煙突のけむりが太くなって、出帆旗は女たちも心得てる。すると、あのNAJIMIの男がまた闇黒の海マアル・テネブロウゾへ出てくるところだというんで、ばいろ・あるとの一つの窓で、ひとりのプウタが、ひょっと浮んだ彼の体臭の追憶のなかで思い出し笑いにふけっていようというものだ。船乗りはみんな恋巧者である。一度会った女に決して忘れさせはしない。だから、黒地に白の出港旗を見つめる女たちの眼には、めいめいの恋人を送るこころもちがあった。が、出帆の時は、これでまだいい。新入港の船がテイジョ河口の三角浪を蹴立けたてて滑りこんで、山の手バイロ・アルトの家々の窓掛けを爽やかな異国の風がなぶると、週期的活気・海と陸との呼応・みなとのざわめきが坂の上の町一帯に充満して、彼女らはゆうべの顔へまた紅をなすり、七面鳥マルガリイダ婆さんは一そうがんがんわめいて家じゅうを駈けめぐり――さあ! お部屋の用意は出来てるかい? 何でもいいから花を取り変えてお置きって言うのに! お船の人は家庭らしい空気が好きなものだから。それから掃除! リンピイ! おや! リンプ! どうしたんだろうまああの人は――しかし、テレサにだけは急に眼立って御機嫌を取り出して――テレサや、今夜も強い好い人がわざわざ海を越えてお前んとこへ来るんだよ。テレサや、お前は一たい、帆桁ほげたのような水夫さんか、手の白いボウイさんか、それとも黒輝石みたいな印度インド釜たきファイアマンさん? どんなのが一番好きでしたっけ? わたしの可愛いお猫さんのように、さ、お湯をつかって支度をしましょう――といった調子なので、テレサはテレサですっかりふくれ返って、その巨大な北極熊みたいな全身へ万遍なくおしろいを叩きはじめる。この裸体のお化粧は、何もテレサひとりの個人的趣味ばかりではなく、「マルガリイダの家の」一 attraction として大いに事務的必要があったのだ。
 テレサは、僕の知る限りにおいてすこし「二階がお留守ノウバディ・アップステアス」――頭がからっぽ――だった。さもなくて、ああのべつ幕なしに甘いもの――名物こんぺいとう・乾し無花果いちぢく水瓜すいかの皮の砂糖煮・等等等――を頬ばっていられるわけがなかったし、そのため、今にもぱちんと音がして破けそうに肥っていたが、そのうえ、恐ろしいまでにあらゆる無恥と醜行に慣れ切っていて、いかに同情をもって見ても、この女にはいささか病的に欠如しているものがあった。それでも、港々の売春婦プウタなみに彼ら社会の常識だけは心得ていて、自分ではちゃあん仏蘭西フランス生れと名乗っていた。そして、何と素晴しいふらんす語をこのふらんす女の白熊テレサが話したことよ! 「めあすい」とジョンティ・ミニョンとこむさと「ねすぱ?」と! これでも判るとおり、彼女は生え抜きの――流行雑誌のもでると、一九二七年度の巴里パリーの俗歌以外には仏蘭西なんかその smell も知らない――ほるつがる人で、現に、「太陽の岸コスタ・デ・ソル」サン・ペドロの村はずれで馬の爪へ鉄靴をはかせる稼業をいとなんでる父親が、二週間に一度のわりで小遣いをせびりに出市していた。が、なぜこう、売春婦という売春婦が、売春婦になると同時にふらんす女――ことに巴里パリーから流れてきた――をもって自任し出すんだろう? 眼の黒い女・あおい女・茶いろの女・髪の毛の黒い女・それほど黒くない女・むしろ赤ちゃけた女――要するにすべての女が、すこしでも外国めいた点地タッチがあると人工的にそこを強調し、どう探しても無いやつは無理にも作って――自由な自国語を商売のときだけ御丁寧に不自由らしく片ことで話したりなど――どれもこれも、先天的器用さをもって仏蘭西フランスうまれに化けすましてしまう。だから、ふらんす以外の土地で、売春婦というと、片っぱしから自称ふらんす女・巴里おんなにきまってる。近いためしが、このりすぼあのバイロ・アルトだけでも、テレサを筆頭に、何と多くの葡萄牙ポルトガルの女が、チェッコ・スロヴァキアの女が、波蘭土ポーランドの女が、ぶるがりあの女が、揃いもそろって仏蘭西生れ、巴里うまれであったことよ! この売春婦の非公式ふらんす帰化の心理には、いくぶんそこに、じぶんの行為によって自国の名誉を傷つけたくないという少しの愛国的作用も働いてることだろうし、それに、外国の女となると、べつの現象スペシメンに対するように男の好奇心が沸き立つところをも、彼女らは経験によって捉えているのであろう。第一、遠い国から来てると言えば、自然そこに「告白物語・涙の半生」――これでもじぶんも元は「銀のさじを口」に巴里の名家に長女と生れた身の上だったが、二十歳の春に、十も年上のゆだや人が黄金と将来と結婚指輪とをもってわたしの人生へ侵入して来た。そうしてあの退屈な「炉ばたの生活ファイアサイド・ライフ」が何年かつづいたのち、ちょうど例の結婚倦怠期に当って the War broke out。毎日々々隣近処の若者が戦線へ消えて、重い靴の音が、長いながい列を作って窓の下につづいていた。戦争とそのあとの、あの誰でもがめた恐怖パニック良人おっとの商業は犬へ行った。紙幣を焼いて暖をとった。その最中に夫アイザックの病気と死! 残されたわたしはどうして食べたらよかったろう? そのうえ、黒はいつもわたしによく似合う。洒落た喪服姿が完全にわたしをそのころ巴里パリーをうずめつくした「大戦未亡人」のひとりにして、戦後のゆるんだ気もちのなかで、男たちの同情と誘惑の手が一時にわたしに集まりはしなかったか? もちろん当時わたしは、この地球上にあなたのような親切な方が自分のために存在しようとはDREAMにも知らなかった。And the result ? Here I am. Just look at me now !  なんかと言ったような、大同小異千遍一律の身の上ばなしも出来るわけで、事実、毎夜々々の寝台で、そも何人のぷうたが、そも何人の異国の水夫に、めいめいこの「あわただしい戦時の巴里」を背景に最後は必ず「親切なあなたにもっと早く会わなかった」ことを残念がる打明け話をうちあけたろう! この浪漫さ! ここは何とあっても仏蘭西フランス女でなければ出ない色あいだし、おまけに、ふらんすの女とさえ言えば、妙に扱いの上手な経験家のように一般に信じられているので、そこで、みんな争って勝手に仏蘭西の国籍を主張するんだけれど、おかげで、婦人用手袋と香水と葡萄酒と売春婦だけを一手専売に輸出してるように思われてる肝心のふらんすこそ、好いつらの皮だ。もっとも、ほんとに仏蘭西製のこの種の豪のモノが世界じゅうに散らばってることも満更まんざらうそじゃあないんだが、その多くは、女中つきで倶楽部くらぶなんかに出没するグラン・オペラ的な連中で、このぽるとがる国リスボン市ばいろ・あるとあたりで船乗りの相手をしてる「ふらんす女・巴里パリー」は、テレサをはじめ、このとおり十中の十までFAKEである。へんな話だが、こんなことで国際聯盟あたりが仏蘭西に嫌味を言ったりするんだから、ふらんすにとっては飛んだ迷惑だろう。だいたい仏蘭西の女、ことに巴里女パリジェンヌなんて、そんな原始的に荒っぽい冒険家じゃあないんで、たとえば巴里市内の娼婦だって、大部分はチェッコ・スロヴァキアの女・波蘭土ポーランドの女・ぶるがりあの女・葡萄牙ポルトガルの女なんかなんだが、それらのすべてが、この「自称ふらんす女」と同一の心理と理由から、本場の巴里では、言い合わしたようにことごとく「西班牙スペイン女」と自己広告することにきめてるから、面白い。つまり巴里の売春婦で眼の黒い女・碧い女・茶色の女・髪の毛の黒い女・それほど黒くもない女・むしろ赤ちゃけた女、要するにすべての女が、すこしでも外国めいた点地タッチがあると人工的にそこを強調し、どう捜しても無いやつは仕方がないから無理にも作って――自由な仏蘭西フランス語を商用としてだけ御丁寧に不自由らしく片ことで話したりなど――どれもこれも、先天的俳優能力をもって器用にすぺいん生れに化けすましてしまう。だから仏蘭西の名誉としちゃあ、ここでまあ幾らか帳消しになる勘定かも知れない。BAH!
 ところで、問題は「ふらんす女」テレサだが――。
 そのテレサが、身体からだぜんたいに白粉おしろいを塗りこむ。
 何のためにそんな莫迦ばかなことをするかというと、「マルガリイダの家」では、船員を招いて博奕ばくちをさせ――これはいつも船乗りらしい簡単な歌留多かるたの勝負にきまってたが――そして単に賞品として、勝った男に一晩のテレサをあたえるという組織だったから、言わばテレサは、この場合一個の物品に過ぎない。したがって、それを目的に金を賭けるくらいだから、客のほうも前もって詳しく現物を見ておきたい。なんかと権利を主張するかも知れないし、マルガリイダ婆さんはまた、はじめに調べてもらわないと気が済まないなどとていのいいことを口実に、じつは、ただテレサの皮膚で一そう男たちの賭博心を焚きつけるための手段にすぎないんだが、その夜の客が詰めかけてるところ、からだ中に化粧をしたテレサを真っぱだかにして、「はい、これで御座います、HO・HO・HO!」なんかと挨拶に出すのだ。恐ろしいまでにあらゆる無恥と醜行に慣れ切ってるテレサが、その白熊みたいな莫大な裸形らぎょうと濡れた微笑とを運び入れて、そこで明光のもとに多勢の船員たちからどんな個人的な下検査を、平気で、AYE! むしろ大得意で受けることか。そして唯々諾いいだくとしていかなる姿態ポウズをこの半痴呆性の女がとって見せるか? つぎにまた、それによって刺激された船乗りたちが、何と、この女を所有するためなら「血だらけなブラッディ」給料の二、三個月分ぐらい前借しても構わない旺盛さをもって、ばくちに熱中し出すか――それは電灯と、偉大な舞台監督マルガリイダと and GOD・KNOWS!
「マルガリイダの家」は、ばいろ・あるとの一ばん奥まったはずれだった。白っぽい石壁に赤瓦あかがわらを置いた、そこらに多い建物のひとつで、這入ると、正面の廊下を挟んで左右に幾つも小さな部屋が並んでた。それがみんないわゆる歌留多かるた場だった。どんなにお客が来ても、夜中の二時まではお酒を売って――これがまたマルガリイダの儲けだったが――釣っておいて、二時かっきりに、例のテレサのお目見得を挙行する。それが済むと直ぐ、マルガリイダが「賭け札テップ」を売り出す。これは赤・白・黒の三種に塗られた円い木片で、赤のが五十エスクウド――約五円――白は三十エスクウド――ざっと三円――一円どこの十エスクウドのは黒のテップだった。つまり、どこの博奕場とも同じに直接現金でやり取りするんではなく、一応はじめに金をこの「賭け札テップ」にえて、これで勝負を争うのだ。そしてあとで清算してそれぞれまた現金に直すわけだが、ここでは、いくら馬鹿勝ちしたって一文にもならない。そのかわりテレサを取る。言わば、金をテップに換えてやった額だけ、そっくりそのままハウスの所得なんだから、誰が勝とうが負けようが、あとは卓子テーブルの上を色付きの木片が動くだけで、マルガリイダ婆さんは最初から取るものはすっかり取って大安心なのだ。ある者は五十の赤を二枚、または三十の白札で百五十エスクウド分、或いは黒だけ五枚で五十なんかと、どんなに細かく千切ちぎっても大きくまとめても、札は買える。が、一度テップにかえた金はすぐ婆さんのふところへ這入って、それを資本に勝ってテレサをない以上、この家のそとへ持って出たって勿論どこへ行っても金にはかわらないし、お婆さんもテップの買い戻しだけは金輪際こんりんざいしなかった。すると、それにしては、五円・三円・一円なんて安過ぎて大した儲けにもならないような気がするかも知れないが、何しろこれは下級船員間のはなしだし、また、毎晩なかなか人数にんずが多い――これにはリンピイの客引きもあずかって力がある――のだから、はじめ二時にどかんと「賭け札テップ」を売った金だけでも、往々にして、この社会ではそう莫迦にならないたかに上ることも珍しくない。それに、負け出してくると、博奕本来の興味と性質からいつの間にか熱くなって追っかけはじめる。だから中途で二度も三度も立って、ぽけっとの底を集めたので新しいテップを買いに来たり、なかには、飛び出してって波止場附近の酒場に友達の顔をさがしたり、船へ帰って金を工面して来たりするから、何度でもそれらに、金と交換に賭け札を渡していると、一夜の入金にしたところで、時としてなかなか大きくなる。テレサのことなんか忘れて、ばくちそのものへせっせぎ込む人間が、マルガリイダには何よりも有難いのだ。こうして船員の金はお婆さんへ移り、よそへ持って行っては価値のない木札テップだけが、男から男へ取引きされてるうちに、単純なかるたげいむだから興亡は転々として、やがて決勝時に近づく。五時だ。この五時になると、景気のいいものも落ち目のやつも一せいに手をめて、各自持ち札の総計トウタルをとらなければならない。赤一枚を五十エスクウドにかぞえ、白が三十、黒が十のことテップ面のとおりだ。で、全部の部屋の全部のテエブルを通じて、Aが七百八十二エスクウドで最高位、四百十七のBが次点――なんてことになるんだが、どうせお金で返ってくるんではなし、女もテレサ一人なんだから、そこでその夜の勝ちっ放しAが、テレサの待ってる二階の一室へ上ってくだけで、次点以下はいつも一さい切り捨てだった。この、負けてても勝ってても、正五時A・Mをもって打ちきり、そのときの札数スタンデングひとつで最後のTALKをすることには、さすが博奕に苦労してる連中だけに案外さっぱりしてて、出そうなもの言いもあんまり出なかった。それどころか、なかには、一番勝ちの札をぱらりと床へ撒いて、次点者にテレサを譲ってさっさと出て行ったりする見上げたSPORTYも現れたりして、この「マルガリイダの家」は大いに色彩的カラフルな人生の蛮地だった。もっとも、ときどき五時の決勝になってひねったことを言い出す解らねえ胡桃クラムズイ・ナッツも飛びだしたけれど、そんなのは大概自治的に客のあいだで押さえつけたし、すこし騒ぎが大きくなると、マルガリイダの眼くばせ一つで、跛足リンピイリンプが大見得を切って例外なく綺麗に取っちめていた。
 そして、明け方の五時から正午ひるまで――十二時になるとお婆さんが二階の戸を叩打ナックして男を追い出す――こうして、この空博奕からばくちに勝ったやつが、白熊テレサと彼女の over voluptuousness を専有し満喫するのだ。甘い物のげっぷと一しょに、いつもの「ふらんす女・涙の半生」を機械的に繰り返しながら、はなし半ばに怒濤のようないびきをかき出す可哀そうなテレサ! 何という呪われた大健康と、悲しいまでの肉体への無関心インデファレンスであろう!
 垂れたかあてんから光る海風が流れこんで、リスボンは今日も輝かしいお天気だ。
 この坂の上の魔窟町バイロ・アルトへ最初に訪れる「ほるつがるきぬぎぬ情緒」は、早朝から真下の裏街を流して歩く跣足はだしの女魚売りの呼び声である。
あう! かしゅうれ!
 というのは小鯛。
サア――ルデエイニアス!
 と聞えるのがいわし
えいる・えいる!
むしりおううん!
 ははまぐりの大きなの。

     7

けえいんてす!
い・ぼうあす!
 これは「HOT・A・GOOD!」で焼き栗屋の売り声だが、そこで、朝のりすぼん港の日課的大合唱は――
お! かしゅうれ!
さるでえにあす!
えいる・えいる!
むしりおおうん!
けええいんてす!
い・ぼおうあす!
 AHA! すると、猫・猫・猫――何てまあ古猫・仔猫・野良猫の多いLISBOA!――に、その猫の一匹のような灰色にのろ臭い一日の運転が開始されて、無自覚によごれた群集が街角に立ち話して通行の邪魔をし出し、無自覚な Rua Aurea で銀物屋が鉄の折戸を繰りはじめ、傾斜を這う電車と町なかの大昇降機に無自覚な朝陽が光り、旅行者に乞食と子供が群れて乞食よりも子供のほうがしつこく一文センテヴォをねだり、そこへ富くじロテリア売りが札を突きつけ、軒いっぱいに布片地キレジを垂らした羅紗屋の店が何町もつづき、市場をさして豚の列が大通りを追われ、弱そうな兵卒がより弱そうな士官にだらしのない失敬をし、こわれたTAXIが息を切らして黄色い風を捲きおこし、この奇蹟に驚天動地して狭い往来に雑沓が崩れ立ち、それを見物して巡査はただにやにやし、その巡査へ現政府反対の八百屋組合から袖の下が往き届き、犬は人をぎ、植物はほこりを呼吸し、RADIOの拡声に通行人の全部が足をとどめ、業病と貧困の男女から異臭が発散し、青絵の模様陶板タイルを張った無気味きわまる住宅建築に教養のない顔が出入し、この、大陸の「東部区イイストサイド」! 地球上のめにるもんたん! そして、ふたたび猫・猫・猫――何てまあ宿無し猫みたいな人間と、人間のような棄て猫とがじつに仲好くうようよしてる無秩序そのものの古河スワンプLISBOA!
 だから、何も山の手バイロ・アルトとは限らない。すこしの冒険心をもって、夜そこらの坂に沿う露地を縫ってみたまえ。くわえ込みの木賃宿 hotel para pernoitar の軒灯がななめによろめいて、ちょうど理髪屋みたいな、土間だけの小店が細い溝をなかに櫛比しっぴしている。そして、その一つ一つの入口に、今朝はだしで魚を呼び売りしてたような女たちが、それぞれ木綿レイスの編み物なんかしながら客を待ってるのを見かけるだろう。跣足はだしと言えば、ついこの先日まで、漁師やその女房子供は、天下御免にはだしで歩道の石を踏んでたものだが、そこへ急にお達しがあって、以後跣足はだし厳禁、違反者には罰金としていわし何十匹を科するなんてことになったので、この連中があわてて靴をはき出したまではいいものの、ところが、何しろ生れてはじめて穿く靴なのでどうも脱げでしようがない。おまけに、考えてもみたまえ! 固い動物の皮で石の上を歩くんだから耐らない。すっかり足を痛くしちまった。それで、この魚売りの女たちが、巡査を見かけ次第穿く用意に、手に靴をぶら下げて街上に立ってるところが新聞雑誌の漫画に出たり、寄席の材料に使われたり、当分賑やかなリスボアの話題だったが、こんなような型の口髭の女まで、夜はここらに出張って来て、酔いどれの水兵でも掴もうと希望してるのだ。人が通ると、レイス編みを中止して何か呪文を唱える、金十エスクウドの相場。戸口からほんの二、三歩むこうに敷布みたいな白い幕が引いてある。そのかげに寝台があるらしい。客がつくと幕をはぐって奥へ入れる。灯油に照し出された小さな土間だ。申しわけにちょっと幕を引くばかりで、もとよりおもての戸なんぞ開けたまんまである。こういう家が、蜘蛛くもの巣のような露路うらにびっしり密生している。ばいろ・あるとよりは、また一段下の私設市場だった。
 海岸へも遠くなかった。夜の波止場では、やはり各国船員の上陸行列に酒精アルコールが参加し・林立するマストに汽笛がころがり・眠る倉庫のあいだに男女一対ずつの影がうろうろし・悪罵と喧嘩用具が素早く飛び交し・ふるいINKの海をしっぷ・ちゃんロン・ウウの小舟ボウテが撫でまわり・あらゆる不可能と包蔵と神秘の湾――YES、港だから、毎日船がはいる。そのために来る夜もくる夜も、海岸通りサンジュアンの酒場タベルナ山の手バイロ・アルト「マルガリイダの家」にしこたまお金が落ちて、僕はリンピイの鞄と支那人の顔を提げて新入港の船へ通い、そこへ、あとから夜中にリンピイのおんな舟が漕ぎ寄せ、僕の受け持ちの商品――それぞれにリンピイの細工が加わってる日用品・タオル・石鹸・歯磨き・ないふ・靴下の類――は、彼がじぶんでやっていた時と同じに、小売的商才の皆無な僕なんかが口を利く必要もないほど、それ自体にspeakして面白いように売れて行った。ほんとに面白いように売れていった。この、僕の「しっぷ・ちゃん」の本旨は、これに事よせてリンピイの先達をつとめ、斥候としての報告さえすればいいだけなので、持ってく日常品なんかちっとも売れなくても困らないんだけれど、それが、妙なことには、値段が高いにも係わらず、いつもどの船へ行っても、翼が生えて飛ぶように売れて、僕は必ずからの鞄と、反比例に充満した財布とをれて陸へ帰るのがつねだった。そして、リンピイの女肉船も、かえりはきまって海のむこうの見慣れないお金で、毎夜の舟あしが重かった――。
 では、どうして石炭みたいに無口な支那公チンキイの僕でさえ、とよりその僕に関係なく、リンピイのしっぷ・ちゃん商品に限ってそんなに売れたか? それほど自力でさばけて往った手品の種は?――何でもない。
 1 マルガリイダに内証でいつ写したものか、リンピイは、品物の一つ一つに、例の白熊テレサの裸体写真や、それから、テレサと黒輝石のような印度インド人の火夫との春画しゃしんやなんかを上手にひそめていた。タオルには折ったあいだへ、石鹸や歯みがきは包み紙に、小刀ナイフにはへ飾り、靴下はなかへ落し、その他の小箱類には蓋の内側へ貼りつけたりして。
 2 鶏の交尾してる小さな焼物。一種の護符タリスマン的置きもの。これは巴里パリーのサクレキュウルのそばでも売ってるが、じつは日本出来である。どうやら、どんどん日本から輸出されてるらしい。
 3 用便中の婦人の像。小指のさきほどの大きさ。同じく「好運呼びポルト・ボンヌウル」のお守り。ブラセルの産。
 4 悪魔の拳フィガ・ド・デアボ。これは有名な葡萄牙ポルトガルの国産品で、やはり迷信的な厄払いのひとつだ。振りこぶしの人さし指と中指のあいだから拇指おやゆびのあたまを覗かせたもので、形は小さい。女中も売春婦プウタも奥様も紳士も、女は首から下げ、男は時計の鎖へつけたりしてしじゅう持ちあるいてる。そして、雨が降っても風邪を引いても犬が吠えても、何かすこしでも気に食わないことがあると、早速この象形物を突き出して「ふぃが・ど・であぼ!」とおまじないを叫び、これで確実に災厄を防いで当分の幸福を招いた気になってる。
 なんかとこんなような、女気のない長い海を越えて来た船員たち、迷信好きの彼らが狂喜して手を出すにきまってるものばかり精選してあるんだから、この珍奇なTALISMANだけでも、全く、これに羽が生えて売れなければ「ベイブ・ルウスは三振し・カロル親王がルウマニアの王位に就く」わけで、企業家びっこリンプの独自性はここに遺憾なく発揮されてる。
 さてこの、たがいに独立し、それでいて相関聯してる三つの商売――テレサを取りまく「マルガリイダの家」と、夜中に碇泊船を訪問するリンピイの女舟と、支那公チンキイロン・ウウとしての僕のしっぷ・ちゃんと――が、静かにつづいて、何ごともない毎日がりすぼんに滑って行った。
 が、そういつまでも何事もないんじゃあ約束が違う。そこで、おわりに近づくに従い急にスピイドを出してもう手っ取り早くFINISにしちまうとして、ちょうどここんとこへ、問題の怪異船がるしあ・もれの号が入港して来たのだ。
 もしあの時、風がこの船をリスボン沖で素通りさせたら?
 そうしたら、第一この話はなかったにきまってるし、リンピイはいまだにほるつがるりすぼあ港の満足せるリンピイだったろうし、ことによると僕も、いまもって支那公チンキイロン・ウウの嗜眠病的仮存在のままでいたかも知れない。
 思えば、十字路的な出現であった―― this ガルシア・モレノ!
 なぜって君、一つも売れないのだ。何がって君、僕のしっぷ・ちゃんがさ。あれだけ飛行するように売れてた、そして、ほかの船ではやはり立派に売れてる――その売れる理由はすでにわかった――同じ品物が、このガルシア・モレノ号でだけはうそのようにちっとも捌けないのだ。誰ひとり手を取って見ようとするものもない。」毎日通ってるうちに、しまいには船中てんで僕を相手にしないで、振り向く者もなくなった。この、売れないのは僕のほうばかりじゃなく、リンピイの「女しっぷ・ちゃん」なんか、もっと惨めで、何度押しかけてっても手ぎわよく無視されていつも徒労に帰した。これは僕とリンピイにとって全く新しい奇現象センセイションである。その原因は果して那辺なへんに存するか? 一つこいつを見きわめないでは! と言うんで、僕はすこし意地にかかって毎夜根気よく出かけてったものだが、at last, 僕とリンピイのまえに投げ出された一大MYSTERY――公式上、物語の結末エンデングは速力だけを尊重する。だから急ぐ。
 最後に僕が、何とかしてこのがるしあ・もれの号を征服すべき努力と決意のもとに――もう一つ暗転。
 SHIP・AHOY!
 血だらけな晩めデ・ブラッデイ・ノウイト! God damn it !
 じゃこっぷの中途から救われてガルシア・モレノに甲板した僕と鞄が、LO! こうまた国際的涜神とくしん語を吐き出していた。
 仮死した大煙突が夜露の汗をかいて、船料理人シップス・ダクタアの手のポケット猿、こつこつこつと鉄板を踏んでる無電技師――やっぱりみんな、上陸番なんか無視して山の手バイロ・アルトの灯へ逃げてったあととみえて、例のとおり船中はがらんとしていた。と思ったのが、これが大へんな僕のまちがいで、こつこつこつ・こつこつこつ、いつものように船艙ハッチの端に腰かけて、拡げた鞄と一しょに化石してる僕へ、靴音と、声が接近して来た。
『HUM! いようヘロウ! お前は毎晩ここへ来てるしっぷちゃん支那公チンキイだな?』
 事務長パアサアだった。僕は黙ってうなずいた。
『どうだ、どうせお前なんかどこで何をしようと同じことだろうが、一つ船へ来て働いてみないか。』出しぬけに彼が言った。
石炭夫コウルパサアだ。高給。別待。本船か! これから亜弗利加アフリカの西海岸を南下して濠洲廻りだ。WHAT・SAY? HEY?』
『ME?』
『YEA。』
 そして事務長は、ここで急に慣れなれしくにやにやし出して、
『おい、たくさん女がいるんだよ、この船には。船員の過半は女なんだ。共有さみんな。浮かぶ後宮フロウテング・ハレム! Eh, what ? ただね、今んところ、ひとり男が足らない。明朝早くの出帆だから、いま補欠が見つからなけりゃあ、今夜じゅうに一人「上海シャンハイ」しなくちゃならないんだ。支那公チンキイ、本船へ来いよ。ま、見せてやろう。』
 事務長についてって覗いた乗組員部屋クルウス・クオウタには、上陸したと思った船員がすっかり納まってて、その夜のめいめいの女――なるほど船乗りらしく男装はしていたが、見たところ美少年のような、確かに異性だった――を相手に、はなはだ貨物船らしくない空気のなかで平和に談笑していた。BAH!
 半分以上は女が動かしてるガルシア・モレノ?
 これじゃあリンピイの商売は勿論、僕の「しっぷ・ちゃん」だって上ったりなわけで、どんな不思議も、こうして解っちまったあとでは何ら不思議じゃない。
 ただ、一刻も早くリンピイにこの発見を伝えたいと思った僕が、じゃあ、ちょっと荷物をまとめて直ぐ引っ返して来るからと事務長に約束して、いそいでガルシア・モレノ号を逃げ出したことは、自然すぎるほど自然で、言うまでもあるまい。
 波止場カイスでリンピイにこの話をして、
『驚いたろう?』
 と結ぶと、リンピイは何かじっと考えこみながら、
『うん――。』
 妙にうっとりして答えてた。そして、今夜はガルシア・モレノに「上海シャンハイ」――深夜埠頭ふとうの散歩者を暴力で船へ担ぎ上げて出帆と同時に下級労役に酷使すること――があるにきまってるから、あんまり遅くまでここらをうろつかないがいい――と忠告した僕のことばが、いまから思うと、絶大な啓示として彼を打ったに相違ない。なぜって君、その晩、サンジュアンの酒場でしこたま燃える水アグワルデンテをあおって、すっかり「腹の虫」と自分の意識を殺しちまった跛者リンピイリンプは、わざとがるしあ・もれの号の上海シャンハイ隊を待って、眠る大倉庫の横町にぶっ倒れていたからだ。
 リンピイは行ってしまった。ガルシア・モレノの上海シャンハイ隊に自ら進んで上海シャンハイされて、無意識のうちに担ぎ上げられてリンピイは行ってしまった。
 船と女と whim を追って海から海をわたり歩いてるリンピイ!
 急傾斜する水平線をしばらく忘れて、内心どんなにか淋しかったリンピイ!
 どこでなにをしようとどうせ同じことなリンピイ!
 そこには、マルガリイダもPIMPもなかった。強い海の The Call と、視界外への慢性的な放浪心とがあるばかりだった。
 海から来た彼は、その誘惑に負けて故郷へ帰ったのだ。自発的に「上海シャンハイされた男」なんて、この古いインクの水にとってもはじめての実見だったろう。とにかく神様と文明のほかに、また一つリンピイがりすぼあを見すてた。着のみ着のままでリンピイは行ってしまった。暗黒の海マアル・テアネブロウゾへ!
 SHIP・AHOY!
 海には海だけにむ独立の一種族と、彼ら内部の法律と道徳と生活がある。この小別天地を積んだガルシア・モレノ号が、ひょいと過失的にLISBOAの岸へ触れて、その拍子にわがリンピイをかすめ去ったのだ。僕には、大きな未知のほんの瞥見だけを残して――。
 いま亜弗利加アフリカの西を南下しつつある The Garcia Moreno のなかで、まるで古葡萄牙ポルトガルの民族詩人ルイス・カモウエンスがその海洋詩LUCIADUSのなかで好んで描写したような、何と途轍とてつもない女護にょごが島の光景がびっこリンピイリンプを包んでることか――GOD・KNOWS。
 ――あとには、マルガリイダと、テレサと、夜の短船ボウテの女達と山の手バイロ・アルトの灯と、もう支那人チンクでなくてもいい僕と、古猫のようなりすぼんと、腐ったINKの海・テイジョ河口の三角浪・桟橋の私語ささやき・この真夜中の男女の雑沓・眠ってる倉庫の列・水溜りの星・悪臭・嬌笑。Eh, what ?

底本:「踊る地平線(下)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
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