幼きころ



 幼きいのちは他者の手にある。もし愛する者が用意されてなかったら、自分のいのちの記憶もなく、死んでしまうよりない。今日生きながらえている者は必ず愛されて育てられて来たのである。
 我々は生れた時のことを記憶していない。愛の手は、そして乳房は自分が知らぬのに待ち設けられてあった。
 人間のいのちの受け身の考え方の優先権、自主的生活の不徹底性がここに根ざしている。
 私の記憶はおぼろでそしてちぎれちぎれだ。そのフラッシュド・バック――。
 私は、母親の背中で泣いていた。母は私を揺ぶりながら、店先をあちこち歩いていた。私はハシカだったらしい。機嫌が悪く、母の背中に頬を当てて、熱ばんだ体に病覚を感じて泣いていた。あわれな、小さな生きものだ。おんぶしたまま母は後ろを振り向く。顔に涙の条が光っている。
 母親は私の尻をやさしくたたきつつ、田舎じみた子守歌をうたった。
 そのリフレーンが、へんに耳に残っている。
寝ないのかええ、こんな餓鬼やホイ
 私の目に塵が入ると母は私をかして、胸をひろげて乳房を出して、乳汁を目の中に二、三滴落した。
 やわらかい、暖かい乳汁の目ぶたににじむ感じ。それと共に塵がとれて出て来る。
「ほーら、もう痛くあるまいがの」

 火のつくように私は泣いた。何のためか母にも、乳母やにも解らない。村の医者が来た。この医者は十八番の腰湯をさせた。すると、げえっと指環を戻して吐き出した。乳母やのを呑み込んでいたのだ。

 乳母やの家に連れられて行ったらしい。わらぶきの屋根、そのまわりに実のなった柿の木があった。茶釜からひしゃくで茶を汲んでいた。ずっと年老った乳母やの母が歯のない口で、やさしく笑って、頭を撫でて柿をくれた。
 この乳母やは後に私を灰小屋の柱にくくりつけて置いて、他の男と忍び合い、とうとう駈け落ちした。

 進庄という村の妙見祭りに、山の中の宮の馬場で、鳥の尾や、獅子の面をつけた子供たちが太鼓をたたいてはおどるのを見ていた私は、折ふし痢病だったらしく、足から着物からうんこまみれになって泣いていた。
 二、三丁はなれた山の中で、御馳走をひろげていた家の者が総がかりで洗ってくれた。赤い毛布が下草の上に敷かれ、麗衣の姉たちが華やかにはしゃいでいた。私には女の姉妹ばかり――みな揃って美しかった。こうして美のヴィジョンが育ったのだろう。

 私が五つの秋、二つ年下の妹重子が、五里はなれた三次みよしという町の叔母の家へ養女に貰われて行った。もとよりそんな事情は後になって知ったのだ。その時は子守に連れられて、車に乗って行く妹を店の格子にすがって私は見送った。幼なごころに何とも言えない淋しい気がした。それから私は毎日毎日妹の帰って来るのを待った。やはり格子にすがって、妹の去った道の方を帰って来はせぬかと、長く見て立っていた。しかし妹は帰って来なかった。これが私が幼な心に哀別というものを知った初めだ。私はウロ覚えに、母が三次から帰った子守と話していた会話の一節を覚えている。それは叔母の家の直ぐ後には、綺麗な川が流れているということ。重子は初めは家へ帰ると言って泣いたが、なれた子守がついているのと、叔母夫婦がとても可愛がるので、なついて忘れて来たこと。重子を置いて、かくれるようにして、帰って来るのは辛かったことなど。
 私は幼なごころにその川を心に描き、今はちがった家で遊んでいる、帰って来ぬ妹のことを思ってひとりで泣いた。その悲しみはハッキリ覚えている。
 重子を養女にやったわけは、私の父母には子供が七人あり、私の外は女の児ばかりで、どうせ他家へ嫁にやらねばならぬのなら、子供のない叔母が是非にと欲しがるので、物心のつかぬうちにと養女にやったのであった。重子の下に二つちがいの艶子がおり、私もまだ五つでは母も手がまわり兼ねたのであろう。次女の雪子はその時すでに十六で父の実家佐々木家に養女に行っており、三女の種子は十四で尾道の伯父の家にこれも養女に行っていた。家には長女の豊子十八と、四女の政子十と、赤ん坊の六女艶子とがいた。家は太物商で裕福に暮らしていた。
 その頃は何ごとも知る由もなかったが、子供を幼いころ、養女にやるということは子供の運命にとって容易ならぬことだ。雪子姉と重子とが両親の膝元に育った私たちに比べて、その後どんなに苦しんだか、境遇の相異のために、性格までも一時は違うかと思われる程であった。しかし年けるに従い、私たち同胞は結局同じ両親から出た、同じ血液型の性格であることがハッキリとあらわれて来た。しかしそれは雪子姉や、重子が境遇にめげず、自分を失わずに切りぬけて来たからだ。
 正直で、感情が豊かで、諸芸がよく出来て、宗教心が深いこと、しかし実務上の処世術にうとく、余程がっちりと努力しなくては世間の荒波を乗り切り難いような性格――これが私たち同胞が親からけ継いだ遺伝である。

 父は正直な、謙遜な、温良な玉のような人間であった。人と争うこと、曲ったことの出来ない、羊のような人間で、全く平和の子であったが、それだけ小胆者であった。それが善、悪ともに私に遺伝した。そして私の場合では自己批判と超克とによって、大胆となること、敢えて人と争うこと、悪にも耐え得ることの自己鍛錬の課題となってあらわれて来るのだ。
 父は義理堅く、節約で、几帳面で、終生自分が養子であることを忘れなかった。父は決して自分のためには浪費しなかった。私の家が派手になったのは太物商のためと、女の姉妹が多く父は至って子煩悩なので、子供の願いをしりぞけることが出来ないためだった。娘たちは華やかに派手に装うていたが父はいつも質素な、身なりをしていた。父は決して豪放でなかったが優美を愛した。花を活け、三味線を弾き、義太夫をよくした。大阪に仕入れに行く時のたのしみは文楽を聞くことであった。しかし父は物にふけるということはなかった。実によく程を得ていた。物に耽る正反対の私の性格はどこから来たものか。父にも母にもその傾向はない。これは父が幼い時から養子となって、すべてを養父の前に控え目にしなければならなかったのに反し私は父母の寵児としてわがまま勝手にふるまって育った勢ではないかと思う。私に節約の風がなく浪費的なのもその勢であろう。
 私は父から美しい感情上の教育は十分に受けた。しかし実務上、処世上の実行教育は少しも受けなかった。父は世の風波は自分で受けて、子供にはふれさせなかった。それは父の弱い性格からの寵愛であってかえって、一生を通じて私の負い目となってしまったのであった。
 この父は角力を見に行っても、田舎まわりの角力がよく八百長にたぶさを掴んで、投げたり、面をはり合ったりするのを見ても、胸がドキドキして見ていられず、あれは八百長だとつれが言って聞かせても、不安がやまないような人間であった。
「父のように弱気でなく」
 というのは、一生私の鍛錬の課題であった。しかも私は疑いもなく、父からこの弱気を遺伝した。
 これは後に詳しく書くが、後年私が成田不動明王に断食祈願した折に、
うつそみのか弱きさがをもてあまし
  威怒のみ仏われ懸くるなり
白浪の刃を交わすすべもなく
  持てるふぐりをわれははじらう
 と詠んで願がけしたのも結局はこの親ゆずりの弱気を克服せんとの勇猛心であったのだ。
 しかし父はそういう弱気であったけれども、感情教育の上では特殊な厳しさを持っていた。たとえば家には祖母、父にとっては養母がいたが、老人を尊敬するという点に於て、もし子供たちにでも不敬な振舞いがあれば父は厳しく叱責した。
 又ある時長女の豊子姉の婿養子と、姉妹たち(従兄弟たち)が皆集まって、正月の歌かるたをして遊んでいたことがあった。私が何心なく、
「このうちで他人はこの兄さんだけだ」
と婿養子を指さした。
 すると父は顔をあからめて、恐ろしい権幕で私を叱った。
「そんな事を言うということはないぞ」
 私はいつも叱ったことの無い父なのでへんに恐かった。何か大変悪い事を言ったのだと思った。
 父は一生を通じて一度も私を打ったことがなかった。が或る時私はふと金槌で父の頭を打ったことがあった。
 父は店用の帳面の表紙にする堅紙を張物板にはってこしらえていた。私は釘を抜く金槌を手に持って、父の紙を張るのを見ていたが、何と思ったものか父の薄くなった頭をポンと槌でたたいた。
 父は驚いたが、次の瞬間には恐れと怒りとで叫んだ。
「この子は親を金槌でたたいたぞ」
 姉たちがとんで出てあやまってくれた。私は悲しく、恐しく、泣きじゃくった。
 父が叱る時はいつでもこうした道徳的、感情的な怒りの場合に限っていた。それも一生を通じて数える程しかなかった。それで父の叱責には非常に権威があった。私を初め姉妹たちは父が甘いので嘗めていたが、父を尊敬していた。わがままはしても、同胞の誰でも父を侮ったり、悪く言うことを許さなかった。どうも美しいところがあった。だから父にとって家庭は文字通り慰安の巣であった。そんなわけで子供たちが美しい着物をつけ、派手になって、我儘わがまましてもついついそのままになって行ったのであった。
 私は父の三十七の時に生れた子だが、父にも母にも色めいた波風はひとつも起らなかった。それだのに、子供たちにはどうしたわけか恋愛のアフェアと障りが多かった。
 長女の豊子姉は際立った性格者で、私に強い印象と影響とを残した。彼女は美しく派手な性格で、我儘者であった。そしてどうしたわけか強気であった。しかし何とも言えない魅力を持っていた。彼女は非常なおめかし屋で念入にお化粧した。その豊麗な、陽気な姿が店頭にあると店は明るかった。彼女は商売が好きで、そして上手でもあった。人と交際することが好きだった。しかし好き嫌いは非常に強く、それにはしっかりした理由があった。癇癪持ちだったが、その怒る動機にいつも面白いところがあった。私は一人息子で両親の寵をあつめていたが、この姉だけは気に入らないとぽんぽん私を叱りつけた。そのくせ非常に可愛がってくれるのだ。
 九の日、九の日に市が立って店が賑おうたが、ある時在方の女客が品物を盗んだ事があった。私が驚いたのには、豊子姉はその客の頬を平手で叩いた。女客は面を真赤にし、ふところから盗んだ品がころがり出た。女客はまだ若く、在方の嫁さんらしかった。
 が姉はすぐその女客が可哀そうになって、怒る店員に対して、その女をかばった。そしてそっと横門からかえしてやった。
 姉は芝居が大好きで役者をひいきした。幕を贈ったり、衣裳をやったりした。私の家は小屋元なので、いつも一番いい席に赤い毛布が敷いてとってあり、豊子姉は妹たちに着飾らせて、それをつれて、自分が女王のようにまん中に坐っていた。しかし芸を見る目は鋭かった。姉がひいきする役者は確かにいい所があった。姉はまた茶屋のお主婦や、芸者をひいきした。その時代に、狭い土地で役者買い、芸者買いするのはよ程大胆な仕打ちであった。しかし姉はそんな仕打ちをしても卑しい感じはしなかった。
 出入りの男、女には好き、嫌いをした。しかし姉の好く人間はやはりいい所があった。
 この姉は十二、三の時ロイマチスをやり、それが元で心臓を悪くし瓣幕閉鎖不全症であった。長生き出来ないことを自分も、親も知っていた。それで父母はなるべく本人の好きなようにやらせていた。この姉は我儘ではあっても親思いであった。
 私はこの姉が大好きだった。長所、短所ともこの姉から強い影響を私は受けた。
 この姉は一寸四角位な字で手紙を書いた。自分が読み役になって皆に歌かるたをとらせて楽しんだ。が自分はとった事はなかった。小説本を沢山集めていた。姉の歿後私の家では貸本をしていた程であった。私はそれを貪り読んだのだ。この姉の婿養子はまた典型的な才子だった。字も、絵も、音楽も、文学もよくした。がさすがの才子も姉には頭が上らなかった。姉は自分には芸は出来ないが芸のあるものを愛した。妹たちにも奨励した。まったく姐御らしい、女王らしい性格であった。ケチ臭いこと、卑怯なこと、心ないこと、卑しいこと、気障なことを排斥した。
 姉は地元の流行のさきがけであった。しかしその元は大阪にあるのだ。何しろそのころは、汽車に乗るにも十八里へだてた尾道まで行かねばならず、電燈もない北備の山間、小さな町なのだ。大阪で髱の長いのがはやると先ず姉の髱が長くなり、妹たちが之にならい、地方の娘たちの髱が皆長くなった。そして姉や妹たちのは大阪の娘よりまだ長いのだ。髪結いたちは姉からリイドされるのだ。勿論気に入るまでは何度でも結い直させ、思いきった厚化粧だった。
 こうした美と意気地とにふける素質はどうも両親にも見当らない。しかし子供には皆あるのはどうしたわけか今に解らない。私にもその素質がある。しかし私には一方自己反省が非常に強く、自分の弱点を超克しようとするので、それが反対のもので包まれることが多い。
 ともかくこの姉はおもしろい性格だった。一方涙もろく、手紙でも涙がポタポタ滲んでいることがあった。
 私はこの姉から影響されたことを悔いる気はない。人間としての私の肌と趣味とが卑しくないとしたら、この姉の感化が多いのだ。

 六つの歳に私は尋常小学校へ店の者につれられてあがったが、髯のある先生が恐くて、どうしても行く気がしなかった。それで一年延ばすことになった。
 この年だったと思う。私は初めて盗みをし、その良心の苦しみを知った。
 政子姉の綺麗な千代紙が欲しくてたまらず、そっと盗んで自分の箱に入れて置いた。
 政子姉が探し出した。
「あんた知らない?」
「僕知らないよ」
 しかしそれを平気な顔をして言える自分ではなかった。気どられそうだった。どうしたらそっと返して置けるかしら。それが私の心配と苦しみだった。
 豊子姉が私の心を見ぬいた。
「あんた隠したでんしょう?」
「う、うん」
 私はかぶりを振って、うなだれた。
「嘘おっしゃい。……いいからお出しなさい。姉さんがよくしてあげるから」
 私は泣き出した。
「何でもないのよ。……だけどもうそんなことしてはいけませんよ」

 七つから私は学校へ行きだした。するとたちまち学校が大好きになった。日曜でも先生が明日は休みですと言わなければ、学校へ行って見る位になった。よく出来ると言って先生にほめられた。
 が二年生の時口頭試験に先生から
「あんたが学校へ来るのは何のためですか」
 と訊かれた。
 私は返答が出来なかった。先生はほんの常識的な答えを期待しての問いだったんだろうが、私は深く考えすぎたのだ。
 学問をならいに、えらくなるために。などでは答えにならぬと思ったのだ。がそのため私は番数が下った。
 が考えて見れば、これが一生を通じての、私の思索と、世間の常識との食い違いなのではなかろうか。従って私の答えることは世間が期待するのと相違する。そこで私は世間にれられなくなるのではあるまいか。
「何のために学問するのか?」
 この問いに正しく答えることがそんなに容易いことであろうか?

 八つの歳に私は初恋をした。
 今でも名を覚えている。浅井じつという同級生の女の子であった。[#「あった。」は底本では「あった」]鼈甲べっこう屋の養女であった。私はやはり同級の世良半次郎という子と時々その家に遊びに行った。色の白い、少し髪の赤い美しい娘だった。風が吹いてその前髪が上ると、美しい額があらわれた。二人きりになると私はぽっと上気した。先方の娘はどうだったのか私はわからない。その家の前を通っても、その娘の名札を見ても胸が躍った。世良半次郎の方が親しそうに見えると私はあきらかに嫉妬を感じた。勿論心を打ちあけたりするにはあまりに子供だ。教室は一緒になったり、分れたりしたが、高等小学の三年までその娘と同級だった。そしてずっとその娘を夢見ていたが、一度も話したことはなかった。しかしその娘は私のベアトリチェであった。その娘を思うことで人生は美しく、きよらかで、また熱いものになっていた。

「百三は十になりて死す」
 私は倉の壁にこう色チョークで書いた。恐らく九つの年だろう。両親への復讐心のあらわれだ。何が気に食わなかったのかは記憶していない。とにかく愛してくれてるものへの幼稚な復讐心だ。こうしたねと甘えとは私たち同胞のつきものだ。ただし他家へ養女にやられた姉妹はこの気持は知るまい。それ程両親は私たちを愛し、私たちも両親を愛した。後年、社会が私たちに、冷たく冷たく感じられるのも、こうしたスィートな幸福を知っているからだ。今日の社会は拗ねることも、甘えることも許しはしない。しかし人と人とのつながりとはこうした機微がなくては、有機的に融け合うものでないのではあるまいか。

 尊いものとして、幼ない心に沁みついている記憶は髪の真白な、色沢のいい顔色をした祖母の姿だ。私の下には妹が二人あったので、私は十三の歳いよいよ五里離れた三次町の中学に行く時まで、この祖母と寝た。祖母と寝るものだと思っていた。たまに父母の所で寝ると勝手が違って眠れなかった。身のまわりの世話はこの祖母がしてくれたのだ。私は小学校にあがる頃まで寝小便のくせがあったが、冷たく濡れた方へ祖母が寝かえてくれたものだ。かゆいと言っては祖母にかかせた。私はこの祖母にわがままの仕放題した。
「お祖母さん、僕の痒いところ解らないの?」
 これが私が言って、むつがったという有名な言葉だ。
 私はそれを思うたびに、私がつつまれて居た恩愛の温かさを思って拝跪したくなる。人の愛と心遣いの行き届くことを俗に「痒い所に手が届く」という。お祖母さんの手は当然痒いところに届くものと思い込み、だだをこねた幼い自分。それを、又当り前に受けて叱りもせず、
「ここかい? ここかい?」
 と言って掻いてくれた祖母。後年私は世間の批評家から無理な悪口を言われ、言い訳けしても聞かれない理不尽に遇った時、この事を思い出して心中で泣いた事がある。これは実に対蹠的な世界だ。そうした愛の至妙境を味わっていたから余計苦しかったのだろう。もっと荒く育てられていたら耐えよかったろう。こうした育て方は確かに自分を弱くした。しかし私はもとより悔いる気はない。こうした愛の至妙境を知っていればこそ、人と人とのつながりの理想の浄土を構図するときに、仏とその子との融け合いを理念するときに、深い深いインテンシチィを私は持つことが出来るのだ。マルクス主義の物的平等社会位では人間の理想共同体として満足出来なくなるのだ。どんな悪をもゆるす絶対他力の救いを求めるようになるのだ。他人の愛を受け、善に遇うたものは幸いなるかな。彼は人間性への信を植えつけられるからだ。またそれだからこそ、一度でも他人を愛し、ゆるし、正義を以て遇することは尊いのだ。
 この祖母は私が二十四の時まで生きていたが、中学の時になっても、休暇が終って行く時になると、自分の箪笥たんすから銀貨を二、三枚紙に包んで握らせた。
「お祖母さん、僕いいんですよ」
「でも志だから」
 考えて見ると、私は確かに幸福な少年時代を送った。物的には知れたものだが、愛情にはつつまれていた。これという病気もしなかった。周囲は明るく、楽しかった。六人の女の中にひとり息子と生まれたので、母は時々もしかと思って私のちんぽこを探って見ては安心したと言うのだ。蝶よ、花よと私は育てられた。
 私の物語的なヴィジョンの世界でひろがったのはこの祖母の寝物語からだ。祖母の話はきまっていた。
 尾道の千光寺には珠の巖と言って、ダイアモンドの大きな珠が巖の上にあった。その光で海が明るく輝くので玉の浦と言ったのだ。が或る日異人が舟に乗って来て、その珠をとって行ってしまったという話。
 この話は今日私の情熱となって燃えている日本主義として、東洋の精神をヨーロッパの文明が奪ってしまったということへの敵愾心となって生き返っているのである。
 祖母は十六の歳尾道から庄原へ、十八里の道を馬に乗せられて嫁入りして来たのだとよく話した。
 お姫さまがはたを織っていると、あまのじゃくがそっと戸をあけてくれと言う。いやいやと言うと、指一本はいるだけと言う。それだけあけてやったら、がらりとあけて、お姫さまを連れて逃げてしまったという話。
 港市、男女ノ市などという盲目の按摩がよく来て祖母をもみながらいつも世間話をしていた。私は寝床でその話をよく聞いたものだ。
 思えばこれが私の世相への好奇と、恐れと、あわれみと、――観照のこころの芽ばえた種だったのだ。その四方山の話は人生のあらゆる面にひろがっていた。私は子供心に悲しみにつつまれて聞いた話など思い出す。自分は温い愛につつまれて暮らしていても、世の中にはそうした事がある……
 秋も暮れ近く町を行く人の息が白いころ、朝極く早く祖母は私と店の格子のところに立って町を仔馬や親馬を沢山連れて馬喰らしい人たちが通るのを見たことがある。
くひの市に行くのだよ」
 と祖母は言った。それがへんに淋しかったのを覚えている。
 私の町は備後の北、出雲路に近く、冬は雪が積もり、春先きまで炬燵こたつがあった。
「深く掘って炭をついでおくれ」
 祖母はよく女中に言っていた。老いた身は夜明けが寒かったのだ。
「もう雀がチュンチュン鳴き出した」
 目が早くさめて眠れなかったのだろう。
 或る日何心なく私が奥の間に行くと、祖母は箪笥にすがって泣いていた。
「お祖母さん、どうしたの?」
 私も泣き顔になると
「尾道の吉助さんが死んだ。遠いからもう行けない」
 と言って、又泣いた。
 弟の葬式に、汽車のない十八里を、年老っては行けないのであった。
 この祖母が或る時、私の同級の友だちの世良半次郎という子に私の着ふるしの綿入のちゃんちゃんをやった。私は恥ずかしく、悲しく見ていられなかった。着ふるしでは失礼という心、友だちの恥ずかしさを思う心、しかし祖母の慈愛をよろこびつつ、しかし気のひける心、――こうしたデリケートな心情がちゃんと七つ八つの自分にあった。そこで私は思うのだ。こうした心は教えられて生じるのではない。アプリオリに人性にそなわっているのだ。作品などもいやしくも人間の心情のニューアンスなら、万人の心に必ず解るのだ。読者を信じて高い、深いことを書くべきだ。レベェルを下げる必要はない。
 その友だちはよろこんでそのちゃんちゃんを着ていた。その友だちの家は綿屋と言って裕福だったのが落ちぶれたのであった。私が数日してその家に遊びに行くと、その子の父親の綿松という人は、私の祖母をいいお上さん(敬称)だと言い、絵本の弘法大師一代記をめくりつつ、私とその子に話してくれた。恐らくこれが初めて紫の雲などたなびいている聖人のことを印象した発端だろう。その子の父親はいつも店先きに小鳥を沢山飼い、町に葬式があれば必ず造花を引き受けていた。
 私の父は祖母を敬い、養母として厚く扶養していた。祖父は私の産れぬ前死んでいたが、父が祖母に声を高くした事など一度もなかった。お上さんという敬称で家中の者に大事にされていた。どうも父はよく出来た人だった。私などは父に比べると放逸人だ。晩年祖母が死病につかれた頃など祖母は父を一番好いていた。
 ただ私の家から二丁離れて武村という分家があり、私の母の妹が分れて出た家だが、よくある事で、分家は可愛ゆく、祖母がよく店の代物をそっと持出しては、分家へぬかすので、母にこぼしていた。しかし祖母に向けては何も言わなかった。これは後の話だが、この祖母が八十の祝いの時父は尾道や、広島や、三次の親戚たちを招き、傾きかけた家産の中から、費用を惜まず盛んな賀を張った。母のきょうだい達、孫たちが多く集まった。尾道市の長老として名のある祖母の弟新助翁が本家として正客であった。親戚の一人が祝詞を朗読して、
百平(父の名)氏温厚玉の如く、義母に仕え孝養到らざるなく、家庭に波風なく……
 父はこの時ばかりはさぞ満足であったろう。もとより父には養子として親戚への義理立てがあったのだ。しかし柔和、恭順、わざとらしくもなく、長い年月の間を、あれ以上には誰れにも出来ない気がする。
 これも後のことだが八十三でこの祖母が死んだ時、裏座敷では四女の政子姉がもう不起の床に就いており、尾道では三女の種子姉がこれも余命幾ばくもないという。同時に三人の不幸が襲って居たのだが、祖母の息を引きとった枕元で、死顔を沁々と見て、
「とうとう参らせて貰いなさいましたか」
 と静かに、実に素直に父は言った。涙は落さなかった。数十年間を見送り果したという肩の軽さと、自然の悲しみと追憶とのまじった表情であった。
 私は父を柔和な人間だと思って、心中尊敬の念を感じた。
 が幼ないころの私の心に、父が悪い印象を与えた事がひとつある。
 それは私を学校の先生に訴えたことだ。小学校の三年の初め、私が家であまりわがままで、膳を引っくり返したり、箪笥の引き手をカタカタやったり、倉へ入れられても平気で砂糖をなめたり、小便をしたり、廊下の柱にくくりつけられると足で庭木を折ったりするので、母と相談して学校の先生に訴えた。
 放課後私は残されて職員室に呼ばれた。羽場という校長さんが、
「あなたは学校ではおとなしいが、家では言うことを聞かないそうだな」
 私は胸をかれた。私は組長を止めさせられ、品行が乙になった。私はそれから家でやんちゃをしなくはなったが、たしかに父母を恨んだ。刑罰というものはどうしても精神的なものではない。良心に反省を与えるものではない。恐怖と恨みとを与えるものだ。私はそれから四年に再び組長に任ぜられ、品行が甲になる迄幼な心にどれだけ苦心したか知れない。果して名誉をとり返せるだろうかという心配、先生への不面目、裏を知られたという羞恥、キズ物になったような心持ち、九つや十の子供の心にハッキリと暗い、そしていくらか世俗的な恢復慾を起こさせたことは、どうしても父としては首尾一貫していない気がする。私の知った塵労の初めだとも言いたい。父母や先生の方ではもとより憎みのない、軽い気持ちであったろうが、幼くても本人は一生懸命だから、百パーセントに印銘するものだ。
 聖なるものでない力が自分に加えられた気がどうしてもとれない。子供にもちゃんとそれが感じ分けられたのだ。キリスト教的なものと、反対のものとは人間の心情で感じ分けられる。それは戒律の名目によるものではない。
 私は幼いころを追憶して、幼いものの先天心の権利というものを考えずにはいられない。良心と言うよりも童心、童心というよりも天心だ。大人の教えを受けない前、アプリオリの感別力である。美と醜、純正と邪悪、高貴と卑怯とをそのままに感じて、これにかれ、或いは反撥する触角である。
 私は人間の邪悪というものに初めて触れた。ハッキリした記憶は九つの年めんこの事からだ。
 私より一つ年上のすし屋の友ちゃんという子と私とは、めんこを協同でためていた。郷里の方言でもやいと言い、つまり共産にしたわけだ。二人が買っためんこ、貰っためんこ、又よそで勝負して獲得しためんこを全部二人の共有にしたわけだ。これは友ちゃんの言い出したことを私がそのまま同意したのだ。私は小遣いが比較的豊富なので新しいめんこ、金看板と言って金ピカの大将や、公使や、貴夫人などの絵のついたのを沢山買ってはつぎ込み、共同の箱に入れていた。ところが友ちゃんはもやいを止めようと言い出し、分配の段になると私のめんこを自分のだったと言い張り、明らかに烏を鷺と言いくるめて、いいめんこを沢山とりあげてしまった。私はハッキリ嘘とわかってることを友ちゃんが主張するのにはびっくりした。そんなことがあるものなのだろうかと心が苦しく、押し曲げられるようなくやしさを感じた。今でもハッキリとその時の気持が再現出来る。それから後には色々と仲間の間に不正を見、又受けつづけた。子供の間にも立派に社会があり、それは子供にとっては真剣なものだ。私は九つか、十位の時から、もう他人から不正をしかけられたらどうするか、それには力、腕力がなくては結局どうにもならないではないかという実際問題を痛切に感じている。私にとって家の中と社会とはもう違っていた。家の中には愛と平和と正しさがあったが学校や、世間での遊び仲間、私にとっての社会には常に不正と邪悪と争いとが伴った。確かにそれは大人の社会の縮図である。党派争いのようなものはいつもあった。そして強い、悪い奴の仲間に加わることをいさぎよしとせぬ良心はいつも苦しんだ。
 牧信七という子を新民の子だと言って、同級生がいじめるのが私はどうしても不満であった。その子を私はいつもかばった。[#「。」は底本では「、」]その子の家は川向こうの川手という部落にあり、家の前を西城川という川(郷ノ川の上流)が流れていた。私は放課後によくその子の家に遊びに行き、川の堤で二人で遊んだ。誰れも遊んでやらないからだ。その子は学校がよく出来、色の白い、美しい子だった。その子のお母さんは私の家へ買物に来て「お宅の坊ちゃんはうちの子とよく遊んで下さいます」
 とお礼を言っていたそうだ。私はもとよりまだ九つや、十で、異種族排斥の思想が不合理だとか、義侠心とはどんなものかというようなことなど全く教えられてはいなかったのだ。しかしどうしてもその子の味方とならずにはいられなかった。
 しかしその子をいじめる党派の頭、岡本京市と言う、年も三つばかり上の同級生はそのために私を圧迫した。そして教室の大火鉢にもあたらせなかったりした。
 そうした状態で、私が不思議に思うのは、子供たちが先生に訴える気を持っていない事だ。牧君も一度も先生に訴えたことはない。それは後のたたりを恐れるからではない。子供たちのことは子供仲間で解決つけて、大人の所へは持って行かないという不文律が支配しているのだ。そしてそんな事をするものがあれば卑怯とする気を皆持っている。
 しかも子供でも本人は大人と同じように真剣に苦しんでいるのだ。
 私も一度も先生に訴えたことも、親に訴えたこともなかった。
 が京市という子は成績がよくて、裕福な家の子である私を敵にするよりも妥協しようと努めだした。そこで私は自ずと両方の間に立つようになり、そして京市君にせがまれて、家が売っていた砂糖を持って行ってやったり、筆墨を盗んで持って行ってやったりした事もある。つまり妥協と買収とが行われたわけだ。子供の社会にももうちゃんとそれがあるのだ。そして私は京市にせがまれてそうしていることを卑怯として、良心が傷いていた。大人の心理と少しも違わない。
 陶山利一という年上の子は街の中でたこをあげるから持っていてくれと言って、私が持っていると糸枠を持って駈け出してその勢いで凧があがった。今度は私のを持っていてくれと言って、駈け出そうとすると、いきなり私の凧を破いてしまった。宮本来一という子は手の中に炭火を持っていて、いきなり、私の頬にくっつけて火傷をさせた。
 そうした事は幾らもあり子供の社会は無政府状態だ。家庭と社会とはハッキリ違っていた。子供たちは各々何かによって自分の地位を保とうとし、私の場合では優等生という事であった。
 私は幼年のころを回顧して感じることは、小学校の先生の公平ということだ。子供たちのアナーキーに対し、一方先生の神の如き正しさが立っている。小学校の先生たちは大人の世界でどんな暗闘があったか知らないが、少なくとも子供たちに対しては正しく、公平であり、道の師範であった。私は愛慕と感謝があるだけで、不平はひとつも持っていない。子供に対する小学校の先生程神の如きものは今の社会にもめずらしいであろう。私は小学校時代の先生を誰れ彼れと思い浮かべては、追慕の情に打たれる。
 羽場栄太郎という校長さんは痩躯そうくで目の鋭い精神家であった。私の町に二十年勤続し、筋のいい漢学者であった。この先生は後見出されて広島の中学に栄転したが、その訣別の辞にも、「私は庄原を忘れるのではない、しかし人間はどこまでも向上して行かねばならぬものだから……」と言ったのが私の耳に残っている。私が二十四の時、この先生の謝恩会が企てられた。何しろ郷党の先輩も皆この先生の手塩にかかっているので、大勢あつまった。私が謝恩の詞を書いた。私はこの校長さんにひざまずいてスリッパを揃えた時心から幸福であった。やはり紋付、袴に、靴といういでたちであった。
 藤井栄という受持ちの先生は、眉目清秀の詩人気風の先生だった。私の家の雪子姉はどうして知り合ったものか、私によくこの先生への手紙をことづけた。そっと渡してくれと言うのだ。それが恋文であることを気づかなかったのはさすがに私も子供だったものだ。
 和田先生という女の先生があった。私はこの先生を見ると紫色の匂いが漂うような憧憬を感じた。私がアカサタナ、ハマヤラワと得意の横読みをやって見せると、微笑んで、
「よく読めますこと」
 と言ってくれた。今から思えば、小学二年の頃で、先生は二十一、二歳だったわけだが、ずっと年上の人としか思われない。少しねじれた特色のある口もと、美しいインテリゼンスのしのばれる目つきなど今でもハッキリ浮かんで来る。しかし生きていらして、もう六十歳以上におなりになってるわけだ。この先生はじき転任されたので私はがっかりした。向こうでは御記憶あるまい。がこうして子供の美のヴィジョンは育って行くのだ。
「先生、先生をお送りして進庄の橋の袂でお別れしたときには、こんなに悲しかったことはありません。……」
 こんな転任の先生に送る作文を書いて、私が甲ノ上を貰ったのは小学四年の時だ。その時が私の文章というものへの趣味の初めだった。それ以後作文は私のひそかな得意となっていた。
 私の美の感情を培うたものには政子姉と、従姉いとこの藤子とが私より四つ、五つ年上で、美しい娘として三味線や、琴や、手芸などを競って習い、揃いの着物を着たりして、絶えず美と芸との雰囲気を発散させていたことだ。琴の相弾きなど私の家でよくやり、母が楽しそうにそれを見ていた。
「もっと大きな声でうたって」
 などと母が励ましていた。父は自分が三味線を弾き、花を活けた位だから、娘たちに芸事をすすめた。
 私は今でも思い出す。運動会の余興の折に、赤十字の真似をし、私たちは負傷兵になり、政子姉や藤子姉は四、五級上だから看護婦に扮装して、繃帯を巻いてくれた。
巻くや繃帯白妙の 衣の袖は紅に染み
真白に細き手をのべて……
 あの調べも、歌詞も実にいい「ほづつの響遠ざかり」の歌をうたいつつ、「日の本の、仁と愛とに富む婦人」の所作事が演じられた時、私は感激に涙ぐむばかりになっていた。今でもあの歌は傑作と思う。
たふれし人の顔色は 野辺の草葉にさも似たり
 感覚的にも、精神的にもいい。
 一体に私はあの頃の日本の教育を包んだ空気を思うと、今日と比べて大した相違だと思う。あの頃は日本の国中に愛と徳がみちていた。国をこぞって道義的熱情、美と仁とを追うこころにあふれていた。私は政子姉や、藤子姉を美しい白衣の天使かのように思い、繃帯を巻いてくれるのに任かせつつ、担架に載せられて実に幸福であった。
 科学的進歩と、文化の複雑性に於て、時代的に今日に遅れていたとは言え、人間として、国民としての本質的な精神と、敦みと心ばえとに於て、私の幼いころの日本は健康な、正しい道を歩みつつあったのだ。
 私はその頃の天長節のことを忘れることが出来ない。それは十一月三日、明治天皇の天長節で、恰度ちょうど菊の盛りの頃にあった。私は礼装して式場に並ぶのが大好きだった。荘重なオルガンのクラシカルな音。女の子の美しい、高い声での唱歌。おごそかな勅語捧読、最敬礼、菊の紋章のついたお菓子を貰って、その日はお休みだ。菊の薫りのように徳の薫りが漂うていた。記念の清書が張り出される。私はいつも一等賞だ。徳と美との雰囲気の中に学びの道にいそしむのは何という幸福であったろう!
 私の小さな恋人、浅井じつ子は女の級長をしていた。廊下でやはり紋付袴姿の彼女とばったり逢ったりした。私達は顔を赧らめた。しかしそれきりだった。
 これらの事は皆十四歳以下の子供ばかりの世界での出来事なのだ。どうもしっかりしていたように私は思う。庄原は広島県下で文化が高く、私たちは小学校で英語をやり、近藤先生の漢学塾、格致学院という陽明学派の塾があり、綾目女塾という女子の塾もあった。学芸の気風が流れていた。姉たちは綾目女塾に通った。何でも習えるものは習って置こうとする好学の精神が動いていた。
 キリスト教の教会が町に出来たのもこの頃だ。外国人の宣教師が二、三人来て熱心に布教した。ヴァーンスさんという年老った婦人のことはハッキリ覚えている。教会は街の真中にあり、例によって迫害があった。街の若衆は教会の提灯に石を投げた。「神は愛なり」という文字が提灯に出ていた。私たちはカードを貰いに教会へ行った。
「思案せずに何事でもイエスに話せ、イエスに話せ、イエスは君らの依るべきの友ぞ」
 こういう歌を私たちも口真似で唱った。しかし宗教のことはまだ解らなかったが、私はこのヴァーンスさんという老婦人が好きだった。エヂプトでイスラエルの人民が煉瓦づくりの労役などに酷使される絵を鞭でさしつつ話してくれた。
 こうした幼な心におぼろに印象した断片も決して無駄ではない。その時の霊の片鱗は童心の潜在意識にちゃんと印刻されているのだ。そして後年ある契機にふれるとよみがえって来るのだ。
 真理は恐しい。真理の一片鱗、いのちの言葉の一断片も、そこらにころがっていれば必ず燃えつき、又種子となって地下にくぐるのだ。
 宗教のことでも一つ書きとめて置きたい事がある。
 十一、二の頃だった。私は一人戸郷川という村境いの川堤を歩いていたら、目の前の流れにお札が一枚漂うて来た。私は川べに下りてそれを拾って見ると、木山大明神というのだった。私はその札をそっと戸郷橋の裏に張りつけた。そして目を閉じ合掌した。それから色々な事があると、私は誰れにも言わない、その私の神に祈って決めたものだ。たとえばめんこの勝負でも、めんこについてる狐を出すか、庄屋を出すか、その木山大明神にいのって決めたものだ。今日念仏申さるるようにすべてを決める私の生活法も、つまりはその同じ心のあらわれともとれる。
 久しい間そのお札は誰れにも知られず、橋の裏に張ってあった。が或る日行って見ると、どうしたものかそれは見られなかった。それからいつとはなくそのことは忘れていった。木山大明神というのはどういう神かいまだに解らない。
 しかし自分の神と、ひそかに黙契し、その守りとみちびきで物を決めるという心は、誰れにも教わらないのに、子供の心にあるものらしい。その神は万人の神であるにもせよ、自分の黙契し、自分の神でなくてはならない。イエスの神も、金光教祖の神もカルル・ヒルチイの神もそうだった。
 天理教祖が
二ににっこり授けてもろたらやれたのもしや
 と歌っている神だ。
「親鸞一人のために」五劫思惟ごごうしゆいしてくれた仏だ。
ひそやかにたのしめと我にたまひつる
春やときはに花ぐもりして
 こうした秘密の契りと法悦とのある心境がなくては、宗教は外面的な、薄っぺらな騒がしいものになってしまうであろう。
一つひろい世界を打ちまはり一せん二せんでたすけ行く
 こうした大衆的な、街頭的な、そして現世利益的な救いのための働きは、確かに宗教になくてはならないところの、それがなくては遂に享受の宗教に終って、火宅熱腸の信仰ではないところの、無くてはならないものではあるが、しかもそれにもかかわらず、信仰には又一面この秘やかな密契と面々授受との、全く私的な境地がなくては活ける信仰ではないことを牢記すべきである。

 幼ないころの神秘と小さな冒険とのなつかしい思い出の残るのは西城川だ。これは中国一の大河郷ノ川の上流にあたり、伯耆境から源を発して、北備後をめぐり流れている。私は八、九歳ころから川遊びを覚えた。初めは浅い所でペチャペチャやってたが、分家の武村の良一という年上の従兄いとこが恐れる私をいきなり丈のたたぬ流れのまん中に突きやった。私は夢中で、手足を動かしたが、それがキッカケで水胆が出来て泳げるようになった。それからというもの水胆があるという事は私の得意で、未知の淵や、急流などへ一番乗りをしたものだ。
 私は非常に川が好きだった。泳ぐのも好きだが、川瀬の音を聞いたり渦を凝視したり、水の中に透き通る自分の股の下を目高の群が泳いでくぐったりするのが不思議な、好奇を感じさせた。自然への私の詩情はこの西城川の川遊びが揺籃だったらしい。水着も手拭もなく、真裸で、帯でふくのだ。[#「。」は底本では「、」]鼻のきが光るので砂をつけて、帰ってから叱られるのをゴマ化していた。
 川原には月見草や、あざみなど咲いていた。友だちところころと堤をころがって遊んだ。帰ると祖母がお給仕して、お茶漬けと言ってらっきょうをさいに六、七杯も飯を食べた。健康な、自然児だった。
 川ではよく取っ組み合いが始まり、陸の仇を水の中でとったりした。しかし私は一度も喧嘩したことはなかった。私は今日まで人から撲られたことはない。人を撲ったことは三十八の時一度あるきりだ。それは後に書く。
 螢狩りもこの川ふちでしたのだ。私はひとりでとりに行くのが好きだった。神秘な夜の川瀬の音。高く低く迷うように飛ぶ螢。啼く虫の声。私は夜霧にぬれて飽かずに川ふちを歩いたものだ。
 七夕の笹を流しに行ったのもこの川だ。五色の色紙の短冊のついた笹は見る見る流れにまれて行く。つい一昨日この川ですずりを洗って、「七夕の天の川」とか、「彦星と織姫さま」とか一生懸命書いたばかりなのに。
 過ぎ行く歓楽、軽い無常に似た感じを持ったのをよく覚えている。
 川べには水車がまわり柳がしげり、川下には北寄りの空に勝光山という中国山脈に近い山がそびえていた。
「行く水」という想念が浮かぶときには私はいつでもこの川の岸べに立って川下を見渡した時の思いに返る。
 先に一寸書いた新平民の孤独な子供槇君と角力とり花をたたかわせつつ遊んだのもこの川堤だ。西城川というのは西城という町の傍を流れて四里川下の庄原に流れて来るのだが、少年時代になって、心に想う小さな乙女がこの川上の西城の町に出来たとき、「花束を西城川に流し給え、僕は庄原の川べに立ってその漂い来るのを拾いましょう」と書き送ったこともある。
 勝光山に学校から遠足に行った帰り、この川岸でもう日も暮れかけたころ、家の店の者が心配して提灯をつけて迎えに来てくれた。そんなに大事にされたのは全校で私ひとりだった。
 迎えで思い出すのは尾道に養女に行ってる種子姉が秋の祭りに実家へ泊りに来るのを迎えに行ったことだ。十八里の山の多い道を俥に揺られて姉は一日がかりでやって来るのだ。前の晩から眠れないのだ。私たちも同じ思いでひと月も前から噂をし、その日になると私も姉妹も皆そろって、店の者が提灯を持って、村境から一里あまりも迎えに行くのだ。朝未明に尾道を立っても、庄原へ着くのは黄昏時だ。田舎の街道を人通りは極くまれだ。途中で人に遇いさえすれば、綺麗な娘を乗せた俥を見なかったかと訊く。それなら新庄の辺で追い越したという。皆が色めく。暫くして俥のわだちの山にこだまする音が聞えて来る。(当時はゴム輪はなかった)やがて姉の乗った俥の姿があらわれる。皆歓声をあげて馳せつける。笑いと涙の爆発だ。車夫もちゃんとなじみの車夫だ。
 こんな平凡な話をなぜ私は書くのか。それはその時の愛し愛されている温い、素樸な空気の幸福がその後の私の人生にどんなにまれなものであったかを思うからだ。そんなハンブルなことで人間は幸福になれるのだ。姉の俥の前後につきそって私たちは歓談しながら歩く。一番小さい妹は姉の俥に一緒に乗せて貰う。
 こんな田舎に泊りに来るのがどうしてそんなに楽しかったのだろう。愛の空気につつまれることより外には何もない。まったく私たちの家庭は天国であった。何十倍の生活量のある今の私の都会の生活にとてもそれだけの幸福感はない。私たちきょうだいは本当に仲がよかった。
 これは父母の慈しみと柔和のたまものである。私の母は牛のような、本能的な母親だった。無学であったし、新しいものに応変して行くことが出来なかったが、家の習慣をよく守り、勤勉で自分の享楽を思わず、しきたりというものに保護されて、過ちなく日を送っていた。よい風習というものには保護作用があるのだ。
 私が十一の時だった。
「お母さん、山王さんまで遠足に行くから弁当をこさえて下さい」
 と言うと母はサッと涙ぐんで、
「今日だけは家にいておくれ。お豊姉さんが大変悪いからね」
 と言った。私は胸を衝かれて泣き顔になった。
 豊姉は心臓瓣膜閉鎖不全でよく目まいがし、ヒステリーもあった。意識不明の状態に陥って、痙攣けいれんが来、しゃくのような発作があった。
 カン水と言って頭のまん中に冷水を注いで冷やしたりしていた。
 豊姉は夢中の状態で囈言うわごとを言った。まわりには皆がとり巻いていた。
「山丈のおかみが咽喉のどをしめる」
 と口走った。まわりのものが面を見まわして動揺した。山丈という茶屋の芸者に義兄が熱くなったのを嫉妬したのだ。幼な心に私はショックを受けた。
 豊姉の写真函を探すと時々芸者の写真が出た。眼が針で突き貫かれたりしていた。
 私の家の裏の畑の傍にお茶屋があって芸者が出入りしていた。その畑の柿の樹に登って、柿をぱくつきながら私はよくその家をのぞき込んだ。
 おまんと言う丸ぽちゃの妓がいた。この妓は私を可愛いがってくれた。
「坊ちゃん、柿をほって下さいな」
「ほうら」
 と言って私は小枝ぐるみ折って、その妓の部屋に投げこんでやった。
 心易くなったので、私は近所の子供なみに、
「おまんさんのお尻ぴいーんこ、ぴいーんこ」
 と言ってからかった。
 この妓は信心深く、金毘羅さんにお百度を踏んでいた。お百度参りというものを私は初めて知った。手を合わせて拝んでは、おみくじを一本折って、又長い馬場を上り、下りしていた。若くて身を沈めたこの妓がどんな苦しみと祈願があったものか、幼い私の知るよしもなかった。
 その年に豊姉の病気は治った。私は義兄が仏間の父母の前で、「もう遊びません」と誓ってるところを見た。
 私の町では燕の巣のある家が多く、夏には街の空を燕が縦横に飛び交うていた。そして街幅は広く、人通りは少なく、私たちのいい遊び場だった。私たちは「源平」とか「津軽」とかいう遊び、又賊と官と分れて、探してつかまえる遊びをした。
 その中で私の記憶に深く残ってるのは「子買い遊び」というものだ。
 街の両側の軒下に子供たちは分れて並ぶ。
「子売ろう子売ろう」
 一方の子供たちが声を揃えると、
「子買おう子買おう」
 と他の側の子供たちが応える。
「何という子買いやるか」
「お文という子買いましょう」
「何ぼで買いやるか」
「二十両で買いましょう」
「それじゃまだ安いよ」
「三十両で買いましょう」
「連れて行って何食せる」
「お米のまんまに鯛そえて」
「それじゃ咽喉にがんが立つ」
「麦飯にとろろ」
 そこで話がまとまって、「とんび、とんび」と叫びながら買われた子は向かい側に羽ばたきの真似しつつ移るのだ。
 子供たちは皆自分の買われる番を待っているのだ。夏の夕ぐれ、ほの暗い街をこうもりなど飛び、子供たちの声はあわれにひびいた。
 子供たちは無邪気で、嬉々として戯れているとは言え、あまりに淋しい遊びである。私はませていたせいか、この遊びの時は一抹の哀愁につつまれたものだ。
 私が十三の春に大阪の博覧会があり、父は私と政子姉と尾道の種子姉との三人を連れて、博覧会見物を兼ねて、京都、奈良、伊勢等の名所古跡を連れて旅をした。
 これが恐らく父の生涯での一番楽しい華やかな旅であったろう。
 私は十三の可愛い少年。政子姉は十七。種子姉は十九の花盛りであった。(私が二十五の年この二人の姉は一カ月をへだてて二人とも肺病で死んだのだ)豊子姉はいそいそと政子姉の旅の支度をしてやり、私たちのため日照り坊主をつくって晴れを祈ってくれた。自分が行かないとて羨むようなところは微塵もなかった。旅の楽しいことを私に話してきかせてくれた。
 尾道の伯父の家で種子姉を加えて、私たち四人は楽しい春の旅に上った。娘も春、時候も春。その頃はまだ子供で私は何も解らなかったが、後になって考えて見れば、二人の姉は妙齢の美しざかりだったのだ。きれいないとはんと大阪の常宿で主婦はしきりにほめていた。事実二人とも美しかった。その頃の父が今の私位の年まわりにあたるのだ。
 私は思い出すと泣かずにはいられない。父の慈しみ、父らしきよろこび。花のような姉妹。揃って早く散って行った。同じ病気で、同じ年に……奈良や、お室や、近江の湖水で私たち父と子たちはどんなに楽しかったろう! 初々しい坊ちゃん坊ちゃんした十三の私はだだをこねては姉たちを悩ましたが、もともと父や姉たちを愛しきっているのだ。子たちは父を愛し、父は子たちを愛し、ゴット、ゼーグネット、オイヒ! と叫ばずにはいられない美しいひとかたまりであった。
 大阪では博覧会見物をすますと父は大好きな鴈治郎の芝居と、文楽の人形浄瑠璃を見せてくれた。これが私が鴈治郎と摂津大椽とを知ったはじめだ。伊勢参宮もした。旅の宿々から郷里へは手紙を寄せ書きした。私たちは東京を想い見ることはなかった。伊勢参宮迄で満足していた。私たちほど幸福なものは無いと思っていた。温く愛し合って、ハンブルに足りて、それでも芝居を見、名所もたずね自然のつくりなす娘たちは美しくないわけには行かなかった。子供を愛し、子供に生きた私の父。いい子供を持ってしあわせだとお世辞を言われて幸福そうだった父。その父はもう十年前にこの世を去り、姉たちは二十三年も前に死んでしまったのだ。そして私たちの楽しい旅をいのってくれた豊子姉はそれよりも十三年も前に死んでしまったのだ。祖母も母ももうこの世におわさぬ。諸行の無常を克服し、生滅の法を滅しおわせる道がない限りは、現世的の幸福だけで我々は満ち足り得るものではない。愛する者とも一度遇えるという指方立相の浄土を求むる止み難き念願は実にここに根ざしているのである。
 私たちが旅から帰ると入舟と言って、お酒をつけて晩餐をし、祖母や、母や、姉や、親戚の伯母や、従姉たちも集まって、私たちの旅の話を聴くのであった。
 文化の進歩、生産の増大、生活量の豊富のみによって人間は決して幸福をつくり出すことは出来ない。愛し合うこと、心の貧しいこと、この二つがあれば、幸福の材料を幾らでも周囲から見つけ出して来ることが出来る。子供のとき私たちはアイスクリームというものを知らなかった。しかし街中で一番冷たい水の湧く、寺の井戸から清水をんで来て、店にある白砂糖を入れ、トーヒーとシュセキサンを混じて蜜柑水というものをつくって飲んだ。それで十分に幸福だった。
 その年の夏休暇だ。豊子姉は西城町にいた雪子姉のところへ弟妹を皆つれて泊りに行きたいと父にせがんだ。父は店先きでアッシのようなものを着て、帳面の整理をしていたが、
「遊びに行くのはいいが、又お前がお政や、お藤や、艶子に派手ななりをさせて、西城の町を歩かれては目立って困るからな」
「でも皆で来てくれと、雪ちゃんが言ってよこしてるんですもの」
「いや、あまり仰山になるから、百三ひとり連れて行け。どこの芸者衆の道中かと言われたりしてはお父さんだって冷汗が出るからな」
 豊子姉もそれで折れて、私だけ連れて行くことになった。
 私たちは西城川の川岸づたいの街道を俥をならべて走らせた。私は先きの俥にいたが、一、二町走っては後ろを振り向いて姉を見てニッコリ笑うと、その度毎に姉もニッコリ笑ってくれた。それを飽かずくり返したが、よく姉も対手になってくれたものだ。
 雪子姉の夫は学校の先生をしていた。町で大事にされ、教え子たちがやって来た。豊子姉は自分でどんどん御馳走をしてもてなした。自分の家ででもあるように。小さい娘たちも大勢来た。その中の美しい「すみえ」という子に姉はからかって、
「うちの百三の嫁さんになって下さい」
 と言った。「すみえさん」は真赤になった。「花束を西城川に投げたまえ」と後に書きおくったのはこの娘だ。
 私たちは渓流に山の迫った西城の景色をよろこんだ。雪子姉の借家は川にすぐ[#「すぐ」は底本では「すく」]臨んでいた。姉たちと山で私ははじめて珠数花(まんじゅしゃげ)を手折った。私は今でも真紅なまんじゅしゃげを手に持って、川の見える崖道を、華やかに笑いながら、ハンカチを手にして少し婀娜あだっぽく、その花にまけず美しく見えた豊子姉の姿が忘れられない。私はも一度その時のうつし身のままの姉に逢えるものなら、この世のどんな快楽を犠牲にしてもいいとさえ思う。
 それから庄原へ帰って、秋の新学期が始まると直ぐに、伝市という先代から出入りの男が授業時間に私を呼びに来た。
「若いお郷さんがいけません」
 私は田圃道を伝市と走りながら、あわてて訊いた。
「姉さん、どうしたの? よっぽど悪いの」
 すると伝市は急に顔をしかめて泣き顔になって、
「大てい、もういけますまい。お亡くなりになったでしょう」
 私はびっくりした。その時は涙が出なかった。夢中で走り出した。家に帰るともう大勢人が集まっていた。
 裏座敷で屏風のかげに、白い着物をかけられて、姉はもの言わぬむくろとなって横たわっていた。
 心臓麻痺で急死したのだ。箪笥にすがって、夫の襦袢の襟を直しながら、そのまま頓死したのだ。
 私はわっと泣き出した。まわりの者も皆泣き出した。母は私を抱いて、皆に言うように、
「百三が可愛いからのう」
 と言って又泣いた。それで慰めるという意味だ。するとまわりのものが、「そうです。そうです」と皆言った。
 父には町中敵というものはなかった。出入りの者、近所の者皆に好かれていた。父が悲しみにくず折れているときに、近所の者、出入りの者が皆で葬式の支度万端をし、うるさい、細い相談などせず、しかも浪費にならないようチャンとやってくれるのだ。
 社会生活の単位。運命共同体の細胞というものはこうした共同的、自治的、部落的のものでなくては決して活ける共同体ではないのである。
 新しい墓が出来た。義兄は姉の法名、佳室妙豊大姉というのを彫りつける下書きを文人的凝り性から、何百枚も書き直しては丹念に書いていた。
 これが私が肉親の死に遇った初めだった。これは私には大きな、恐しい打撃だった。一体どうしてこんな事があるのだろう。もう永久にあの姉と遇うことはないのだろうか。私は考えるとたえ切れない気がした。私はその事ばかり考えて上野池の堤のまわりを歩いた。
「西城へ行かしてやってよかったのう」
 父は母とこういって又泣いていた。私もあの西城行きが一生の思い出になってしまった。二十六で死んだ姉、華やかで、強気で、涙もろくて、清らかな心情と義侠的なところのあったこの長姉のことは一生私の心に深く深くきつけられている。或る意味で私の一面の守護の女神のように立っている。私が生活にまけて貧乏臭く、ケチな量見になろうとする時、亡き姉は華やかに、女王のように笑いこぼれて私の前にあらわれる。私が持って生れた弱気を出して妥協的になろうとするとき、彼女は女だてらに平手で客の頬を張ったような威勢のいい姿を現わして、私に「やれ、やれ」と激励する。
 そして私が限りなくなつかしく忘れられないのは、あの西城行きの俥の上で、振りかえってはニッコリ笑み返してくれた笑顔である。愛し、愛されることは幸福である。素直な、よい人情、ハンブルな心ばえは幸福の源泉だ。それに比べれば富貴や、生産増大の如きは外面の外面の事にすぎない。私は少年時代私をつつんでいた天国的空気に比すべきものにその後ふれたことはないのである。まずやさしくあること、愛情に富むことそれが第一のことだ。後はそれからのことである。

 私の父は立志伝などによく出て来る父のように子供に対して、殊更らに教訓的なポーズをとるといったところは少しもなかった。自然な、素直な人間であった。しかし、言わず語らずの間に私に感化と影響とを及ぼしてることは実に深いものがある。それは私自身さえ気がつかず、折にふれてなるほどと思い当るくらいなものだ。
 ただひとつ私の記憶に残っている、父の教訓的なポーズともいうべきものがある。
 小学校の三年ごろ、私は教科書が手垢で汚れ、すりはげたので、新しい本にかえたくてたまらず、その本を雨あがりの道にわざと落して濡らして、持って帰ると父に言った。
「こんなに汚れたから、新しいの買って下さい」
 父は本と私の顔を等分に見くらべていたが、
「そんなら私が洗い張りしてあげる」
 と言った。私はあてがはずれたが、胸がドキリとしてねだる気になれなかった。
 父は日本とじのその本をほぐし、一枚一枚板張りをして乾かし、にじんだ箇所には筆を入れ、表紙は堅紙(これも張物板に幾枚も張り重ねて父がつくったものだ)を当ててとじ直おし、「国語読本」という見出しも父が書いて、
「さあ、これでいいだろう」
 と私に渡した。私はなさけない気がしたが、わざと落して汚したのが気がさすのと、そうまでして繕ってくれた本をいやとも言えず、仕方なくそれを学校へ持って行ったが、目立つので実に弱った。堅紙の表紙に父の「お家流」の見出しが敦厚な書体で書いてあるのが、見る毎に何かの咒文じゅもんのように私の目に映った。
 私がわざと本を落して汚したのが父に解ったのであろうか。十銭か、二十銭かの本を買い代えてくれなかったのは確かに教訓的意味があったに違いない。事実一生を通じて、物質を粗末に、無造作に取り扱うことは私の大きな弱点となった。今日私が貧乏するのもそのせいである。父には、慈父の直感で、私のその生来の弱点が見抜けて、それを心配していたのではあるまいか。しかもその弱点は中々なおらなかった。中学の時生徒監の鈴木蘭二先生という軍人出の体操教師で有名な節倹力行家がおられたが、私がいつでもゲートルをほうり出して置くので持って帰られる。とりに来いその時教訓してやる、という意味なのだが、私は新しいのを買ってはく、又ほうり出して置くので持ってゆかれる。又別のをはく。さすがの先生も困った奴だと思われたそうだ。しかし私はこの先生の軍事的教練には熱心忠実に従った。評点は甲だったが、どうしても肌が合わなかった。一般に謹倹力行を尊敬しながら、何故かそれが身につかぬ。この文人的、水性的素質が子供のころから私はあらわれており、父のひそかな憂いであったのではあるまいか。倉田家の婿養子となって、家産をつぶさぬようにという事は父の一生の義務感であった。ところが私はどの人相見が見ても散財の相があると言われる。理財の質でない。そこらが鋭い直感で父に解るので、そんな教訓めいたポーズをとらせたのであろうと思う。しかし私の感情的、文人的性向はそうしたもので抑えることは出来なかった。又父といえども謙遜で、義理堅いところから奢侈にならないので、金に縁のある人間ではなく、感情的、道徳的素質が濃かった。
 父は浄瑠璃が好きで自分で語り、三味線をひいた。私の家では素人の浄瑠璃会がよく催された。盲目の浄瑠璃の師匠を父が世話して家を持たせていた。太棹ふとざおも、見台も自分用のを持っていた。
 母、祖母、姉たち、武村(分家)の叔母、従姉たち、近所の人たちが聴き手であった。
 幕がつくられ、紅い毛布を敷き高座がもうけられた。
 私は姉たちと隅っこにひとかたまりに陣どって、さざめいていた。私たちはかみしもをつけて、太夫らしく他所よそ行きになって、泣いたり、大声を立てたりして見せる父に対し、一様にきまり悪さと楽しさとの混じった感情を抱いていた。父が女の声色を使う時には私は下を向いていた。父は太夫になるだけでなく、三味線ひきにもなった。その異様な掛声には私は冷汗が流れた。父は別人になったかと思われた。何かにかれたように、我を忘れていた。そうした父の空気に同化するまでには、私たちきょうだいは骨が折れた。
 まわりの人たちは皆父をうまいと言ってめた。語り終った父は、いつものなりになって、皆の所にやって来て挨拶した。いかにも幸福そうであった。
 私たちはだんだんそうした空気になれた。浄瑠璃の芸題も姉たちは殆んど皆覚え、あの段ものの、切れ切れな場面を語るのに、あれはどうした筋で、ああ見えても似せ首なのだとか、本当は腹を切って来ているのだとか、あのお姫さまは捨て児だったのだとか、何でも知っていて私に話してくれるのだった。
 私の文学の素地、その根本基調はたしかに浄瑠璃から来たものだ。私の感情教育、美的教育はその義理人情のムードと共に浄瑠璃によって養われたものだ。私の父は自分がそのムードの中に生きつつ、それを子たちに伝えたのであった。私はこれを悔いる気はない。むしろ感謝している。浄瑠璃はその感情のインテンシチーの深さ、美的幻影の濃醇さ、道義的操持の強烈さ、ものを理窟で見ず、機微でとらえる生命感、すべてを永遠なる生滅の法の光りの下に見る宗教的観照の背景等に於て、人間性のあるべき健康なるわだちの上にあるものだ。過酷な自己犠牲や、没我的美的陶酔や、世相的卑近感や、又倫常の線を逸する心中もののようなものがあっても、全体としては人間の、人間らしき感情の操練として、いささかも頽廃、麻痺、歪曲したところがなく、まっすぐな、健やかな、浪曼的精神の基調に立っているものだ。この浪曼的精神の健康児として育てられたことは私の幸福であった。もとより大く望めば際限はない。幼ない頃からの早期教育として、もっと高い音楽的教養、たとえばバッハの音楽を聞かされ、ラテン語や、フランス語を教わり、法華経や、論語や、聖書を習い、ゲーテや、ジイドや、ピカソについて聞いたり、見たりするという風だったら、今頃はどんなになっていたろう、などと思われない事はない。しかし田舎の商家の、平凡な教養を受けた私の父母と、その家庭としては、許されるかぎりのよい教養を与えてくれたのである。そして浄瑠璃は無学な父の心のかてであったのだ。父はこの中から何でも引き出して、生活と心ばえとの準拠としたのだ。実に考え方では、父は子たちに直接には教えかねることを浄瑠璃を通して教えたのだ。
 世相のこと、男女のこと、義理人情のこと、英雄主義のこと、もののあわれのこと、――教訓的なポーズを好まぬ、順直な父としてはそれが一番ふさわしかった。私たちは「きょうだい仲よくせよ」と父から教訓されたことはない。「奉公人をあわれめ」と誡められたこともない。しかし私たちがきょうだい仲よく、又奉公人にやさしかったのは、どうも父の教えにしたがったような気がするのはどうしたものだろう。
 私たちは浄瑠璃を通して父の心を知っていた。「いやみずからを、いやわらわをと死を争うきょうだいを、心にふびんと母親は、いずれをそれと言いかねて……」玉藻ノ前三段目で、私たちは父が声涙ひとつにとけて語っていた顔つきを烙きつけられているのだ。箱根霊験記の忠僕筆助、朝顔日記のみゆきの乳母朝香、塩原多助と青、忠臣蔵の平右衛門――こうしたものを聞かされていては、目下の者にやさしくせよと直接教えられるのと少しも違わない。それどころかほんの一寸した片言隻語せきご、たとえば「平次は猶もあら縄たくり」と言う一句から、荒々しいものへの嫌忌の心を植えつけられ、「と言うもほとけ気徳右衛門」という一句からやさしい、いつくしみの人への言い知れぬ敬意を催おさせられる等、あげて数えられぬ感情教育を私たちは受けた。見台に向かうとき、父はそれらの「善きもの」、「美しきもの」、「聖なるもの」への活きたる使徒となって、醜と意地悪さと、心なき業と、への憎みと嫌忌とを、いつもの遠慮深さにわずらわせることなく、ここでは思う存分叫び、泣き、訴え、かき口説くのだ。父が心のままに自分のエレメントを発露出来る世界はここだけなのだ。
 私は後年姉たちが次ぎ次ぎに死に、私も亦病んでいえぬころ、父が見台に両手をわずかに支えて、
「ままならぬは浮き世の常」
 と語るとき、父の実感そのものを聞くような気がした。又何ものにもまして私に宗教的法悦の感情を印銘したものは、見台の上に延びあがった父が、「はっ、ありがたや、ありがたや」と叫ぶところであった。沢市の目があいた時、勝五郎の足が立った時、父は霊験への驚異と、感謝と、至誠神明に通じる勝利のよろこびを声調の中にみなぎらせていた。それは技法ではない。実に自然であった。
 が父の浄瑠璃が私たちに影響したのはこうした精神的方面だけではない。美と愛慾への憧憬と感受性とを刺戟した。私たちの目の前には花ぐしの揺らぐ八重垣姫や、前髪の美しい久松や、しゅすの帯をしめたお里や、狂乱のお舟や、文箱を持った力弥や、――美しい人の幻影が絶えずちらつくようになった。それは愛と誠と誓いとを以て貫ぬかれているとは言え、日常生活の平板から、夢と飛翅とへ駈り立てるものであった。私たちの美的、文人的そして多少とも水性みずしょう的な傾向はこの刺戟が作用していることはいなまれない。私たちは幼少のころ現実的な労苦と渋みに対し、鍛錬されることがあまりに足りなかった。浄瑠璃と共に報徳教的なものを教えられたらどうだったろう。二宮金次郎的の空気は私たちにはなかった。精励はあっても書を読む方のみで、わらじをつくる方はなかった。わらじを作ることを軽蔑せずに、尊みほめる、美的感情教育においては間然するところはなかった。それは至れり尽せりであった。しかし自らわらじをつくることは無かった。まして現実の汚れた、いざこざすなわち塵労については、父はこれを身に引き受けて、私たちには触れさせなかった。かようにして悪気の少しもない、玉のような子供たちをつくりあげ、つらねた玉のようにならべて、これをめで愛するのが父の幸福であった。
 がこれは果して慈父の愛に欠けていなかったであろうか?
 世間の嵐の中に、塵労のはきだめのような現実社会へ、かようにして無抵抗のままで、押しやられた子供たちはどうなるであろう?
 城の中、保護者の下でのみ、可能なる美徳に飾られたる子供たちは、その美徳の故にますます世間の嵐を耐え難く、後にはその美徳を足手まといと感じ、遂にはその美徳そのものさえ支え難くなりはしないであろうか?
 後年子供たちがようやく巣立ちに用意しなければならなくなったころ、父は子供たちのこの美徳のために悩まされだした。
「世間はお前たちの考えているようなものではないよ」
 こんな事を言わねばならなくなった。
「そんな貸せて言うものにいちいち貸したりするんでは、わしはもう知らんよ」
 こんなことも言いだした。
「お前がそんなこと言ったって、○○さんなんかに任せられるもんか」
「あの人はうそを吐く人とは思えません。人を疑うのはよくないと思います」
 と、父は苦しそうな顔をして、歯がゆげに言うのであった。
「○○さん、○○さんと言って、お前がまだ知らないんだよ」
 がもう遅かった。子供たちは父から養われた美徳のために、人を疑うことが出来なかった。そして却って父の徳の足らぬものとして裁いた。
 あわれな父よ! かような父がやがて、子供たちの満身傷をあびて帰って来るのを見なければならぬのは遠いことではない。
 私の父が子供たちに現実の労苦と、世間の塵労への用意を教え込まなかったことは確かに人間的弱さのために厳しさが足らず、ひいては子供たちの身をあやまらせる因となったけれども、それでは私たちはそのために父につぶやく感情を抱いているか? 否。私たちがどうしてあの優しき、善き父に不平を抱くことが出来よう。父が私たちを労苦に鍛えることのできなかったのはそのあふるる溺愛できあいのためであった。世間の塵にしませなかったのはみすみす掌中の玉が汚すに忍びなかったからだ。
 炉があるのに愛児をわざわざ雪の上に立たせる父があるか。米に欠かないのに芋を食わせる母があるか。我が店で縮緬を売っているのに、女の子に真岡の晴衣もつくれまい。境遇にめぐまれてすくすくと若杉のように育ってる子供に、盆栽のようにまがりくねれと教えられるか。因業おやじさえ、懐をひらいて素直な子だと愛されているのに、人に気を許すなよと悪智慧がつけられるか。どうせ世間を知らねばならぬと思っても、必要がないのに株屋の内幕や、待合の駈引きや、商売の苦肉策を教え込む親はあるまい。人は必要に迫られて止むなく塵労を知るのだ。境遇に止むなくされて芋を食うのだ。わらじをこしらえるのだ。
 父の子供のしつけ方が十全でなかったと言って裁くことはもとより出来よう。も少しきつく仕込んで貰いたかったと思えぬこともない。「しかし感情において不平を持つことなどとても出来ない。何故私をそんなに愛し過ぎたんです?」こんな不平があるものだろうか。もしあり得るなら、それは天国的な甘き甘き不平である。天使たちの好話柄になるような地上的ならぬ話である。まことに私は天国に行って、父にそうした不平を言いたいものだ。
 父は偉大な人間でも、強い人間でもなかった。しかし善良な、人間らしい人間であった。私は父のような人間であることを以て満足することは出来ない。もっと強い、深い、徹底した人間になりたい。だがそう思いつつも父だけの善良さ、柔和さ、義理堅さにもなかなかなれないのである。私は父のことを思うとレッシングのことを思う。あの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」や、「賢者ナータン」など書いたレッシングは、私の父の、よき父であることを誰れよりも解ってくれはしないかと思うのである。
 私の父は若い時自分で町の素人芝居に出た時には女形をやったのだそうだ、鏡山のお初、忠九のおいしなどをやったのだと自分で言っていた。なる程利発な、美しい女になったかも知れないと思う。私は父のそうした思い出話を多少のくすぐったさを以て聞いたものだ。花を活け、三味を弾き、女形を勤めた父は私より器用な才であったらしい。
 父は田幸家という家の米吉という芸妓を愛したことがあった。これは豊子姉からほんの子供の時たった一度私は聞いたことがある。よく名前まで私は覚えてるものだ。しかしこれは私など物心もつかぬ昔の話らしい。私が物心ついてから父にも母にも浮いた話はひとつもなかった。
 私の幼いころは今日よりも交通不便であったが、かえって落ちついた文化的アトモスフェアが田舎の町や村をつつんでいたようだ。芝居なども、かなりまとまった田舎まわりの大阪役者の一座が巡って来た。私はほとんど大がいの歌舞伎の芸題を私の町の定小屋で見た。姫君も、娘も、腰元も、遊女もその美の幻影はこうして与えられたのだ。侍も、侠客も、白浪も、雲助も、その空想と郷愁と共にこうして種まかれたのだ。私はあの宙釣りから狐忠信があらわれて、静御前の美しい旅姿とデュエットで舞う夢のような場面を初めて見た時の驚異をいまだに覚えている。美と文化とはやはり民族的のものだ。こうした印象を幾つも幼児から積み重ねつつ[#「積み重ねつつ」は底本では「種み重ねつつ」]、美と文化との何たるかを私たちは知って来るのである。
 正月には鳥追いが来、在方の農家の娘たちは催馬楽さいばらという輪舞いのようなものをおどって来た。ひなびたものだが美しかった。それから忘れられないのは「敦盛さま」である。これは美しい旗さし物を飾った御座船を肩につるし、哀愁のこもった囃に合わせて、敦盛の討死の物語詩をうたうのだ。
敦盛さまは笛の役 その姫君は琴の役
 私はその歌を聞きながら敦盛と玉織姫とがこの地上の最も高貴な、美しい、若いそして滅びる故に尚さら惜しまれる一対の気がした。あまり高貴でもろいために、この地上に生きることの出来ない存在のような気がした。子供の心にもちゃんとそうしたヴィジョンが浮かぶものだ。こうした誰れからも教えられない理念が未経験の童子の心にどうして起り得るのだろう。
 こおろぎと蟻の話を聞いた時にも私は何ともなく蟻が下卑げびて、憎々しく、こおろぎが詩的で、美しい気がした。寓話の趣旨とはあべこべのことを考えていた。これは私の詩的素質のせいであろうか。一般人間性のひとつの要請であろうか。その両方であるかも知れない。
 だがこうしたロマンチックの方面ばかり回想するのが私の目的ではない。私の幼ない心に醜悪なものがどのようにして目ざめ、入り込んで来たかもあとづけねばならぬ。
 私が九つ多分十にはならぬ年に、前にあげた分家の武村の良一という従兄、やっと三次中学の一年生位の、これもまだ十四、五位の少年が自家の二階でへんな真似を私に教えた。つまり好奇的自慰を。その席には私だけでなく世良半次郎という友だち、私の家の政吉という店の者その他二、三人いた。少年のいたずら好奇心まがいの自慰である。しかし矢張り性の目ざめとつながりがある。子供たちは皆いたずらそうな目つきをして、それでもここだけの秘密だぞという暗黙の自覚をちゃんと思って、好奇心を満足させた。皆おかしなことだ、醜いことだ、という軽い自己軽蔑に似た気持ち――それよりかこんな事をする人間というものへの可笑おかしみと、そうしたことと学校というもの(子供の心から学校は片時もはなれぬものだ)との不釣り合いな矛盾感のようなものを持っていた。
 が一度こうした事を覚えるとその好奇心はもう取り去れるものではない。そして子供たちは私かな所に親しい仲間たちだけが集まると、そうしたことを話したがる傾向がつくものだ。く単純な、好奇的なものではあるが、しかしそれがへんな、醜いことだということを感じつつ、それに注意が向くのだ。そして子供たちの中には必ず一人、一人は露骨なことを大声で言う暴露家がいるものだ。そして奇妙なことはこうした暴露家が嫌われず観過されることだ。それを叱るものは人気を博さない。こうした子供の性慾は醜いというよりも可笑しなことと言うべきだ。造化のいたずらとも言うべきものだ。私はある日美しい浮世絵(私たちは江戸絵と言った)の美人の張ってある屏風に向けて熱心に可笑しな真似をしていた。吹き出す声が急にしたのでびっくりすると豊子姉が覗いていた。私は真赤になった。
「子供でもそんなものかなあ」
 と姉は笑っていた。また或る夜私は一緒に寝ていた祖母に、眠ってる間に可笑しな真似をしかけた。祖母は目をさまして驚いたが一笑に附した。私は何とも言えず、恥ずかしかったのをハッキリ覚えている。
 又或る日私は女の子の遊び友達のおてつという子と、どちらも露わに肌を出して、見比べていた。するとその子の母親が帰って来たので、びっくりして逃げて帰った。
 これらはむしろ無邪気の例証になる位のものだ。がそうしたことも、段々とおかしなことではなくなって、感覚の快楽というものが目ざめて来る。この快楽が独立して来るにしたがって、それは真面目な実感となるとともに、醜いものになって来るのだ。私はこの快楽の独立というものを罪悪の起源と見るものだ。快楽というものを宗教上清浄(ウンシュルド)の敵と考えなくてはならなくなるには強い動機があるのである。
 私は義兄の箪笥など掻きまわして、秘帖を見つけた。義兄は絵心があったから、自分で模写したものなどもあった。そうしたものを眺める目も子供の好奇と、いたずら心地と、大人の世界の滑稽味ではなくなって、段々と苦しい悩みをまじえるようなものに移って行った。こうして子供の無邪気さを失い、少年期が初まりかけるのだ。
 私が「捨」という犬を病的な愛し方をしたのもこの頃だ。私は田のくろから小犬を拾って来て育てた。捨て子だったからと言うので「捨」と豊子姉が命名した。私はこの犬を溺愛した。いつも抱いたり、頬ずりしたり、何でも買って食べさした。が同時にいじめて見たくてたまらず、倉の中に押し込んで泣くのを、戸の外で胸をドキドキさせながら聞いた。可愛そうでならないがしかも快楽なのだ。しばらくして出してやると、抱いたり、頬ずりしたりして寵愛するのだ。籠に入れてクルクル廻わして眩暉めまいさせたりした。虐げつつ愛しているのだ。そうして月日が立った。が或る日この犬は突然発狂して、いつもはおとなしい犬だったのに、街中の犬に噛みつき、とうとう犬殺しに殺されてしまった。
 私は私の病的な愛し方のために発狂したのだと思った。そして子供心に強い自責を感じた。私はこの事を姉たちにも誰れにも言わなかった。しかしそれからもう犬を飼わなかった。

 幼きころの思い出はつきぬ。幼年時代の幸福であった私には、それはなつかしく繰りひろげられて行く昔の絵草紙である。しかし深い、重たい目的を先きに持つ私はあまりたどたどと彷徊してはいられぬ。ここらでもう幼年期にとばりをおろそうと思う。
 しかし私は昔の幼な友だちの三、四のものに就いて何か書きとめて置かずにはおられぬ。その人たちがふとこの伝を読んだときに、自分たちのことは思い出に残っていないのであろうかと思うことは私は堪えられぬ。何故なら私がよく見る昔の夢にはいつもその人たちが出て来ぬことはないのだから。
 石畑一登という子は一里半はなれた上原という田舎の農家から庄原の学校に通っていた。これは私の小さな競争者であった。先生もクラスメートもおのずと二つのファンに分れる位であった。この子は私より気象鋭くしっかりとしていた。漢文まじりの文章を書き、非常に字がうまかった。字ではかなわなかった。先生たちはしかし純な、素直な私の方を愛していてくれたように思う。石畑君には圭角が子供ながらもう芽ばえていた。
 新任の校長がやはり同級の或る可愛らしい、才はじけた子をひいきした事があった。石畑君は教室で校長さんに皮肉を言った。私は胸がすく気がした。がそれ以来石畑君は校長ににくまれていた。が石畑君は私だけは認めていてくれた。私は内心恐れをなしていたが、向こうでは私に一歩譲っていた。
 私たちはこの新任の校長に小さな敵愾心を燃やしていた。冬になると雪の深く積む私たちの学校では教室に大きな「いろり」のような火鉢が出た。そのまわりで小さな口々に反感が述べられた。皆が同じように感じてるのには驚いた。すると或る日受持ちの田辺先生というのがふとまわって来て、
「校長がすっぱく(方言)でやりきれん」
 と憤慨したように言った。私たちは田辺先生に同情した。それから校長の修身の時間は教室が不穏であった。子供たちは何かの感覚で先生の匂いを嗅ぎ分け、気に食わないと勉強する気になれないのだ。
「愛校心なきものは日本男児にあらず」
 こうした校訓というものが、いつの頃からか五ヶ条ばかりあった。私たちの学校の伝統として朝斉唱していたのだが校長はそれを廃してしまった。
 石畑君はこの校長が不平でたまらないらしかった。そして校長の可愛いがる、小ましゃくれた美しい子をいじめだした。
「ひいきして貰いやがって、出来もしないのに」
 石畑君はそのため不遇になったが、やがてその校長は下宿している未亡人をたらして、金を使い込み、発覚して総スカンのかたちで、町にいられなくなって、学校を去ってしまった。
 私は教育者に対する反感というものを初めて知った。どことはなしに生じる人望というものの、子供にも大人にも通じて、無形の間にエーテルのようにちていることを。反逆的な気魄のようなものを石畑君から印象して私は子供ながらも不安と尊敬とを持った。そしてそれはどこから来るのだろうかと考えた。その教養の出所を知ろうとした。そしてそれは漢文的素養から来るのだと思った。
 私の家には美しい姉たちが小説本を沢山持っていて、私は大てい読みあさっていた。そして父は浄瑠璃を語り、三味線の音がし、店頭には色鮮かな丹物の切れがひるがえっていた。
 受持ちの田辺先生にたのまれて「己が罪」を家から持ち出して、宿直へ持って行ったことがあった。
 扉の美しい女学生「たまき」の絵姿をめくると、田辺先生は冒頭を一寸読んだ。
「あら、よくってよ。私知らないわ。先生にいいつけてあげるわ」
 田辺先生は面を赧らめた。側に三、四人同僚の先生がおられたが、皆気まり悪そうな、しかし好奇的な表情をした。私の作文は評判だったが、そうしたわけでいわば歎文であった。ところで石畑君の作文と言えば、
「鶴は天を舞い、亀は地を躍る」
 と言った調子だった。私は私の勉強にどこかしんの抜けてるような不安な感じがした。私が義兄にねだって日本外史を習い初めたのはそのためであった。私は毎日学校から帰ると、それを習うのが楽しみだった。それは父からは得られない別の教養の流れであった。日本の子供には漢文的な雰囲気を注ぎ込んで置くことは、日本人としての骨組みをつくるのに確かに必要なことである。私は私の資質の柔軟性をそれによって多少救い得たように思う。
 その後私は中学に進んだが、石畑君は貧乏なために進学出来なかった。そして町はずれにある陽明学派の私塾に通って僅かにその好学の渇望をいやしていた。
 中学二年の時私はこの石畑君の宅を訪ねたことがあった。私としては素直ななつかしさで訪ねたのだが、向こうでは家があばら屋なのと、進学していないのに気がさして、初めの間は不安そうであった。へんなチャンチャンのようなものを着ていた。お父さんは百姓姿であった。
 私は進化論の話をした。
「ふん、おもしろい説だな」
 と見る見る好学の目を輝して、自分は哲学の論を持ち出した。
「大とは何か知ってるか」
「知らないね」
「大とはそれより外がないということだよ」
「では小とはそれより内がないと言うことだね」
「うん、そう、そう」
 友はうなずいて、それから陽明学の格物致知の説を熱心に説いた。
 私はやはりこの友を侮り難い秀才と思った。その後だ、この友からの手紙に、
「君は順境の幸運児なり。僕は逆境の薄倖児なり」
 とあったのは。私はそれを読んで、胸を打たれた。当座はこの友のことばかり気になった。何が残酷と言っても、年少の好学の子弟を、学芸への燃えるような愛と、立派にのびる才分とを持ってるのに、学問の道から拒む貧困ほど不合理なものはない。これはまったく生命の権利、文化の権利に反する社会の罪悪である。本人はあきらめても、あきらめかねる苦痛になやむに相違ない。
「僕は東京に行って来たんだよ。ほんの一カ月だけ。ある商店へやられたんだが、つまらないから、四十七士の墓だけ参詣して、逃げて帰ってしまったんだよ。それから今の塾へ、おやじにねだって、やってもらってるのさ」
 友の言葉が頭にこびりついていた。これは私のまだ知らない現実の世界であった。
 が石畑君はその後独学して、検定をとって、六高に入り、大学を経て、高文もパスし、今は満鉄にいるという通知が来た。
 志のあるものは何とかして貫くものだ。そしてその志は双葉の時から、もう香ばしく芽を出しているものだ。
 藤久真吾という子がいた。これもやはり一里半はなれた田舎から通っていた。自作農の子で、兄は農学校を出て技師をしており、二人の姉さんは広島の師範学校を出ていた。この子は腕白で頭の骨がかぶとのように硬く、肋は一枚あばらという健康児であった。この子はそれでいて感情家で、綺麗な声を持っていた。唱うことが好きであった。同級生と喧嘩してよく泣かせたがどうしたわけか、私とは仲がよかった。時々角力をとったがかなわなかった。兄や姉のお蔭でインテリで、ハイカラな鞄など肩にかけてやって来た。いたずらして先生に引きずり出されても、地だんだ踏んで頑張っていた姿が目に残っている。
 が、この少年は小学校を出て後、軍楽隊を志願して海軍に入り、軍艦に乗り組んで、方々の外国の港などへも行った。そして熱心なクリスチャンになった。
 至る所の港から私に絵葉書をよこした。小さな拙い字で一杯通信文を書いて。それは艦上で信仰のために迫害されているということ、しかし幾ら迫害されても、主を信ずることは止めないというのであった。
 が思想の変転でアンチ、キリストになっていた私は、それを気障と感じて[#「感じて」は底本では「態じて」]、一度も返信したことはなかった。それでも少しも怒らず、いつまでも絵葉書をくれた。今になって考えると、藤久君が外国の港の艦上で昔の私のことを思い出してくれて、たとい半分は自分の心遣りであったにしろ、異境の孤独の心を寄せてよこしたのに、どうしてそれに応えなかったのであろう。私はよく人から懐しがられ、しかもそんな事をして来た。それは自分が感傷に打克とうと努力していたからではあるが、矢張り人生の事実と、人間の寂寞せきばくとの経験が足りないためであった。
 今日なら、人間がそうした、ロマンチックな、感情の濃やかな仕打ちをするものがあることを宝石の如くに、レヤーに思うであろう。そして人生と人間とに希望をつなぐために悦んで、私も返信を書いたであろう。見知らぬ国々の山や海を目の前にして、思いに堪えずにいる友の姿を思い浮かべながら……
 だが殉情な友の忍耐の勝つ日が来た。その後友が海軍を止めて、牧師となったころ、私も病んで非常に宗教的になった。そして庄原の小さな教会で、二人はあの「主のいのり」を共にしたのであった。
 あの腕白ものの友がどうしてクリスチャンになったのだろう? 私には不思議には思えない。君には昔からその声のように綺麗な、調子の高い所があった。そしてその駄々っ子の頑張りはペテロのような、烈しい信仰に通じるものがあるのだ。
 そして確かにも一つの原因は君の家庭だ。君の父母、兄弟姉妹は善良な人々だ。私は君の田舎の家に一度君にまねかれて行ったことがある。牧歌的な周囲の光景をよく覚えている。家をとり巻く樹立。後ろの小高い丘。牧草の香のする畜舎。そして和気のみなぎった家庭だった。君の姉妹たちは室内遊戯に実に詳しい。私は今でもその時習った、ツウ、ホワイトという手品まがいの遊戯を、三十年後の今日カフエーの女給たちの所で、かくし芸にしているのだ。正月で雑煮餅をよばれたが、大きくて、辛口なのには閉口した。だがそれをしきりにおかわりを勧めた君のお母さんは、見るからにグッド・ネエチュアードな方であった。君の家庭は何となく私の家庭に似ている。そして疑いもなく、それが君をクリスチャンにしたのだ。私が仏教徒になったように。
 ただ君は私より性について純潔だ。君は美に引かれても踏みはずしたりはしない。庄原で沼のほとりのひとつ家に私が病いを養ってる時にも、たまに街の芸者などが近づいて来たりすると、君は警告したものだ。
「君、不信仰になると、又病気が悪くなるぞ」
 君は遊んだりした事は絶対にない。しかしそんな君でも私の妹に手紙をよこしたそうだ。妹が言っていた。行こうか、どうしようかと迷って、裏田圃まで出て見ると、休暇の学校の庭で機械体操している君の姿が見えていた。しかしとうとう不安で得行かなかったと。私は又私で君のお姉さんが好きだった。だが君の姉さんは三次へ嫁に行かれた。私は見るのが苦しいので、その家の前をまわり道していた。しかし思えば、淡い絵本の話だ。
 私が一高にいたころ。その妹が女子大学の試験を受けに来た。その時藤久君はとうとう救世軍に入っていた。君の気性は街頭に立って太鼓をたたき、貧民窟を訪うて苦しみを救いつつ、主の教えを説くところまで行かねばおさまらなかったのだ。春の上野公園は桜が盛りだった。私たちは三人並んで歩いた。君は救世軍の制服を着ていた。当時私は冷静な哲学の学徒として行こうとしていた。
「どこどこへでも僕は行くんだ。主の命のままに」
 と君は言った。私は君でなかったら胸が悪くなったかも知れない。だが君にはそれが似あった。
 私はあのツルゲネフのゼントル・フォークの中に出て来る、自分を野の百合に比べ、雲井のひばりにたとえる弊衣の詩人青年のことを君について、思ったのであった。
「君たちは君たちだけの事を思うんだね」
 と藤久君がその時言った。私はもとよりそれは不服であった。だが君の気もちは解った。
 君にはもう青雲の志に燃えてる私達を羨むような気はなかった。女子大学に入ろうとする昔の幼ない少女よりも、今は心にまつる主キリスト、でなければ、陋巷ろうこうに沈淪してもがいている泥の中のマリヤの事を思っていたのであろう。
 綾野芳正という子は郡視学の子であった。この子は七つの年からずっと私の同級生だったが不幸な素質を受けていた。父は漢学者風の容貌で見るからに厳めしかったが、その頑固さは病的な生理的な癇癪と結びついていた。そして酒乱の性癖があった。が母は典型的な、明治風の賢夫人であった。美しく品位のある顔かたち、学問才芸と家政の切りまわし、夫に仕え、子供を教育する仕方、何ひとつ非の打ち所はなかった。自宅に綾ママ女塾という塾をひらいていて、私の姉や、従姉たちは裁縫や、手芸をこの塾に通って習ったものだ。
 夫人は時折私の家へも挨拶に来られたが、立派な奥さんだと帰られた後で父母は噂していた。そんな夫人だったから、子供への教育に抜かりがあろう筈はなかった。私は時々芳正君のところへ遊びに行ったが、夫人の教育に熱心なことはその時の様子でもすぐ解った。学校にあるような、赤や、白の玉を連ねて算術を教える大きな西洋算盤がちゃんと部屋に置いてあった。私と芳正君とに色々題を出して質問したり、字を書かせたりした。そしていろいろ批評した。
「とてもお上手ですこと。坊ちゃんの方が上手ですわ。「交」の字だけは芳正の方がいいかも知れないけど……」
「朱に交われば赤くなる」という清書をひろげて、夫人はこんな風に言うのだ。自分の子の方を決してほめず、それかと言って子供をかばっている母らしい様子はすべてのことで表われていた。
 幻燈機械のあるのはこの家だけだった。義家が馬に乗って士卒をつれて秋草の野に立ってる向こうに雁の列が見えてる絵が出た。説明者は夫人だったが、ちょうど帰って来た父親は酒気を帯びていたが、大きな声で、
「雁の乱るるは伏兵なり」
 と叫んだ。それはしかしよく調和していた。
 波止場に船。大勢の見送り人がハンカチを振ってる絵が映った。母夫人は感激的な声で、
「太郎は勉強して偉くなり、今や選ばれて、海外留学に、出帆するのであります。皆さんもこんなになるよう、よく勉強せねばなりません」
 私は青雲の志ということを考えると、いつでもこの幻燈の絵が目の前に浮ぶのだ。
 こうした教育の下にあって芳正君は秀才にならねばならぬ筈だが、どうしたものか天分がなかった。そして七つ、八つの時から病的徴候があらわれていた。頑固な半面に恐しく人のいいところがあり、それが普通でなく、今から思えば、早発性痴呆のあらわれであった。
 私はこの子と席が並んでいた。
「しつしのしの竹しのんで、ほい」
 という拳のようなものを私に教えてくれた。そして本で机を打って、拍子をとりながら、この拳をするのが得意であった。
 それから放課後に鬼ごっこをしようと言って、私を残し、
「クラタのタクラ」
 と節をつけて叫びながら私を追いかけた。それがとても愉快そうであった。他の子供たちは何がひびくのか芳正君を馬鹿にして遊んでやらなかった。いつも仲間はずれになっていた。郡視学の子なのと、母夫人の光で、先生たちは芳正君を重んじようと努めていたが、どうも致し方がなかった。しかしそれでも欠席することはなく精勤賞を貰っていた。そして何かの席で祝詞のようなものを読んだことが一度あったが、奉書を目八分にささげ持って、さすがに士族らしい位があった。どうも私の家とは仕付けが違う気がした。
 が上級になるに従いだんだん成績が悪くなった。そして変人らしい徴候がまして、クラスの子供たちは仲間はずれにしたり、からかったりして、なぐさみものにしだした。
 冬など火鉢にあたらせず、皆で手足をとらえて引きずりまわし、芳正君がそうはさせじと真赤になって、棚などにからみつくのを「猿だ、猿だ」と言ってはやした。
 母夫人に似ればいいものを、父親に似て芳正君はむっつり顔を受けついでいた。しかし決して彼は泣かなかった。
 私は級長で、そうしたことを止めねばならぬ役目であった。どうした訳か私は級長とは争いを止める役という風に考えていた。それでこれにはひどく心を苦しめた。しかし先生に訴える事だけはする気になれなかった。
 いくら止めても仲間たちのいたずらは容易に止まなかった。新平民いじめと、こうした仲間いじめほど止め難いものはない。やはり群衆心理、――ユダヤ人迫害とか、アルメニヤ人虐殺とか大人にあらわれる本能が、子供たちにも根強く動いているようである。
 私はせめて私だけでも仲よく、親切にしてやるよりないと思った。芳正君は私に親しんだ。たしかに感謝していたらしい。というのは清書の時、質の上等な紙を余分に持って来ては、私にやろうやろうと言った。
 私はあの母夫人が学校での我が子の有様をありのままに知られたら、どんなに嘆かれるであろうかと思わずにはいられなかった。
 その芳正君がある日、放課後になると、
「君、おもしろいものを見せてやろうか」
 とニヤニヤしながら言った。
「何だい」
「中原に石筆を一本やって御覧、尻からみみずを出して見せるよ」
 私は好奇心で、道に待たしてあった中原という菓子屋の子に石筆をやった。
 するとこの子は造作もなく、手をさし入れ、本当に尻から「みみず」を引き出して道の上に投げ出した。寄生虫なのだ。
「おもしろい、おもしろい」
 芳正君は手をたたいて笑った。
 この中原という子はあまり菓子を食べるので歯は全部味噌歯になってしまっていた。
 そうした節制のない家庭だから、その姉さんたちは赤いしごきを〆めて、三味線の稽古本など持って、遊芸を習いに通ったりしていたが、遂に家はつぶれ、私の中学時代にその姉さんは三次の料亭に芸者に売られた。左褄をとったその人に私は時々出遇い、さそいをかけられたが、美しくなくはないが、どこかだらしないその人には近づく気がしなかった。
 こうして庄原の町筋に店を張っていた家がつぶれて行くのを幾つも見た。町が小さいので、一軒毎に皆知ってるのだ。
 百木という宿屋があった。その家にお仲さんというおとなしい、夢見るような女の子がいた。この子はお守りと、匂い袋を腰につけていた。家の人達は皆お人好しであったが、世智がらく、運拙なく、いつしか家が傾いて、家財を売り払って負債を整理して、町を立ち退かねばならなくなった。
「今日は百木の司法だ。何の落度もないのに気の毒なことだ」
 世話人の一人である父は家を出がけに言った。
 百木の門口には町の人々がたかって、競売が初まった。家具はひとつひとつせり落とされて行った。
 父は屏風の前の火鉢の前に黙然と坐っていた。人々の後からのぞき見した私はものの滅びて行く淋しさを感じた。
「お仲さんはどうなるのだろう?」
 子供心に私はそれが不安だった。が百木の一家はやがて町並みから消え、私もいつしか忘れてしまっていた。
 がずっと後になって、そのお仲さんが遊女になってるのに逢ったという人が、武村の叔母と話しているのを聞いた。
「初めは恥ずかしがって対手がつとまりませんでしたよ」
「それはそうでしょうともね」
「でもその次ぎに行った時には、チャンとただの客なみに勤めましたよ」
「ふうーん」
 と叔母は感じたように言って沈黙した。私は中学時代だったが、傍で聞いていて、何とも言えない苦悩と、無常と、いきどおりとの混じった気持を感じた。
「あのお仲さんが?」と思うと堪えられない気がした。
 芳正君の一家もまた没落の運命を辿たどった。中学には私より二年も遅れて入ったが、同じ状態で仲間から侮られ、成績はますます悪く、とうとう中学退学してしまった。父親は頑迷のため職をくび切られ、この一家もまた庄原の町から立ち退かねばならなくなってしまった。
 婦徳のかぎりを尽したあの母夫人がどうして不幸に沈まなくてはならないのだろう。芳正君も憎むべき落度は少しもない。人は好かったし、怠け者ではなかった。父からの何か不幸な血の運命があった。夫人は女大学風に育てられ、媒介によって、家から家に嫁して来て、妻となり、母となってその婦徳と才能のかぎりを尽したのであった。
 もっと然るべき人に嫁していたらとは第三者が誰れしも思うところだ。しかしそうした結婚がなされた上は、夫人の零落と生れた芳正君の運命は殆んど避け難いものであった。すなわち夫人は第二必然とも言うべき社会の制度により、芳正君はもっと直接な遺伝の必然によって、不幸な生涯を持たねばならなかったのだ。
 生れる子供にとって親の結婚は恐るべきものである。が親たちにとっても、その結婚を司る運命は同様に恐るべきものだ。何故なら人間は自由に選び、連るように思っても、実際にははるかにより以上運命によって知り合い結び合うものだからだ。
 人間の境遇は普通に考えられているよりはるかに運命に依属したものであり、人間以上の叡智の課題にかかるものだ。我々は人間を裁くよりもそのもろさを憐れむ心に先き立たれる。
 西村恭一という子は私よりも二つ年上であった。西村家は代々伝わった由緒ある医者であった。大きな、空に聳える樅の樹と、庭に吊した駕籠とが古めかしい家柄を語るように名残を止めていた。その駕籠に乗って恭一君のお父さんは出入したのだ。
 この西村家にも不安な血があった。恭一君の伯父も、次兄も常人では無かった。一種の癇癪と誇大妄想とがあった。しかしこの二人の妄想家は気魄と潔癖と学才とがあって、卑しいところは少しもなかった。二人とも大酒であったが、理想家で慷慨家であった。
 私とはまるで年が違うので、次兄とも交際は無かったが、後に私が沼のほとりに思索してる頃に、釣竿をかついで、無造作な麦藁帽をかぶって釣りに来た。
「あの雲を見なさい。永遠の理想を追ってあんなに走っているのだ」
 と言った。その頃はもう頭が変になっていたのだ。間もなく座敷牢の中に入れて置かねばならなくなった。伯父さんは詩人肌の寒山拾得のような風貌の人だったが、これも監視をつけねばならなくなった。しかし私はこの二人とも、どうも好きであり、敬意を抱いていた。
 長兄が一番常人で軍医であった。一家はこの長兄を柱として支えられていた。
 ところが日露戦争が起って、この長兄は戦死した。町葬で庄原始まっての賑やかな葬式であった。
 が西村家にとってはこれが艱難の初めであった。恭一君のお父さんは年老って、美しく枯れた、実に気品ある人であった。がその漢方的医術ではもう時代と合わなかった。しかし恭一君はまだ子供なので、恭一君の一人前になるまで、老父が仲継ぎするよりなかった。
 患者は減り、家つきの田畑が食いつぶされた。
 恭一君は美しい心情の持主であった。竹を割ったような綺麗な腹の中に、あふれる人情を持っていた。私の幼な友だちの中では第一等の人物である。
 川をさらって魚をとったり、山から草をとって来て植えたり、画を描くことが好きだった。学校は秀才ではなかったが、自ずと人の上に立つ資質があり、親切と犠牲心とに富んでいた。そして自分の快楽というものを思うことが少なかった。私のように美に牽かれる傾向がなくて、親切と実行との聖人らしい、清い素質があった。私は少し年が違うので、小さい時はあまり遊ばなかったが、段々とこの人が好きになった。
 西村家には清い気風があった。年老ったお父さんは、いつも品よく端坐していられたが、私とは何か通じ合うものがあった。ずっと後まで私を愛していて下さった。
「倉田の百さんが一番いい。いつも道で出逢うと、恭さんはどうしてるとすぐ問いかける。何のわだかまりもない。素直な子だ」
 こう言っておられたそうだ。死なれる前ごろ、私が行くと、
「もうわきまえてはいます」
 と言葉少なく訴えられた。欠けたお椀で食事したりしていられた。家は傾ききっていた。
 恭一君は学問よりも実地がうまく、接木などでも彼がすると皆ついた。
 中学時代から酒を飲むと伯父や兄のようになるのが恐いと言って禁酒していた。運動では六百ヤードの全校一の選手だった。
 治国平天下の青雲の志があって、四高へ入っていたが、老父がどうにもならないと言うので、泣いて長崎の医専に転校した。恭一君は家は貧乏になっても、貧乏臭いことが大嫌いであった。決して派手なのではない。大柄なのだ。
「裏の田池に鯉を百ぴきほど放すかな」とか「ネクタイを三十本買って送れ」とか言った風だ。中学時代にさきの芳正君をつれて下宿し、何とかして救おうとして親切に世話したのも恭一君だった。又東と言って、家から出ると神経で動悸がして、外出出来ない子がいたが、毎日毎日通っては、激励して私のいる沼のほとりまで連れ出していた。
「逃げてはいけませんよ、いけませんよ」と東はすがりつくように言った。
「大丈夫、どこへも行きはせぬよ。はゝゝゝゝ」
 と言って笑っていた。大政治家か、宗教家になる素質があった。
「君は色っぽいのだけが欠点だよ。どうも詩人だからなあ」
 私にこう言って笑ったことがある。恭一君のは笛を吹いたり、川を乾してなまずをとったりするのが趣味なのだ。
 後に私が病気した時、どんなに我を忘れて世話してくれたろう。医者は仁術というが、恭一君のはぴったりそれであった。
 その癖私を見舞うと、
「当分は色んなことを考えたもうなよ。人間は何故他の生物を食うかなんてことは考えないんだな。人類をどうして救おうかなんか考えずに、自分と家族のことだけ考えるんだな」
 こんなことを言った。自分は自転車で、ろくに薬礼もよこさない貧乏な百姓家を飛びまわって見てやっているので、一身上のことなどうっちゃってあるのだのに。
 それかと思うと、私に宗教論をふきかけた。
「君の説は徹底していないよ。人間が生物を何故食うかと考えるようになったのも、生物を食って進化して来たからだ。その因縁を考えてみたまえ。僕なんか、っとこう目をつむればそれで解決はもうついている。哲学なんかいらない。僕のさとりはこれだ」
 とムキになって言うのであった。私は恭一君のこのさとりには深く動かされた。
 こうしたやり方で恭一君は財政的に行きつまってしまった。そして病院と、祖先から伝わった家を売って、庄原を立ち退かねばならなくなってしまった。
 それから支那に渡って、今では支那で大きくやっている。
 幼ない子供のころにあらわれていた恭一君の個性はやはりそのまま大人になっても同じだ。私は幼な友だちに二十年、三十年、四十年も隔てて逢って見て、依然として昔と同じ個性なのには驚いている。思想や、見解や、境遇はいくら変っても、人間としての質は同じだ。
 幼なかったころ、七つで小学校にあがって、十四で中学に入るまでは六、七年に過ぎぬ。その間がこんなに長く感じられ、色々な思い出にみち、人や、自然や、物が活々と印象しているのはどういう訳だろう。最近の六、七年のことを思えば、私はあわただしくてろくに生きたような気もしない。身に沁みる感じがまことに薄い。人とのふれ合い、自然との交感、生活の量から言えば比較にならないのに、しかも非常につまらない生活、乾いた、うわの空の生活を送って来たように思うのはどうした訳だろう。
 どうも生活というものは量よりも心だ。心に沁みて生きるのでなくてはすべては空しい。人との接触も甲斐がない。短い人生がますます駈足になって、あわただしく、はかない。
 私は幼年時代をも一度つくりたいとこのごろ思っている。子供のような心にもう一度なれないことはない。それは人生の晩年にもう一度恢復出来るものだ。女から女を漁り、功名と富とを追う嫌悪すべき壮年期の狩猟心が去ると、名花を追うて一本のすみれのそばを目もくれずに駈足する心、好意を以て寄ってくる隣人をうるさがって、知名の人との交友に急ぐ馳求の慾などが俗念であることが感じられて来る。それはその刻、その対象の全一なる意と味とを取り逃がすことになる。
 それは賢き人のとらぬ仕方であろう。
 ものが、身に沁まぬのは俗念のためらしい。あわただしさのあるところに観照はない。慾心はひとつの対象のために没落することを不可能にする。それが見ても見たような気がせず、触れても触れたような気のしない原因である。
 このごろ晩年の小泉八雲のものを読んで一層とそう思った。平凡な学生、つまらない門付け、ハンブルな昆虫などがあれだけ、身に沁みて印銘するのは感受性の硬くなりがちな年配に於ては、ただその俗念と馳求の慾とから釈き放たれた、賢者らしい、更らに無心となった心にのみ可能なことであるらしい。
 音楽会で、知名の指揮者の下に、何十人で奏するオーケストラに少しも感動せぬ心が、帰りに何でもない流行唄が身に沁みることもある。
 心の琴をふるわせるものの法則は別にあるらしい。幼いころ私は故郷の宝蔵寺という寺の渡殿の廊下に立って、下の蓮池に咲いた花や、円い葉の上にころがる露や、それが落ちてくる水の輪を凝っと眺め、また渡殿の欄間にかけつらねてある百人一首の額の僧や、殿上人や、上臈たちの絵姿に見入ったものだが、その時ほどの縹渺として薫った心境にその後どんな立派な寺に詣ってもなれない。又杖を突いた祖母に連れられて、勝光寺という静かな竹林のある寺の庫裡で、竹の子飯をよばれた時の記憶、眉の真白な、歯のない老僧と、歯をおはぐろで染めて、眉毛を落したとても優しかった接待の女房のことが、いつまでも柔和とやさしさの象徴のように浮んで来るのだ。
 心の中のイメージを呼びさまし、想像力の機縁となるどんな貧しい材料でもありさえすれば、人間は天国を目の前にまねき寄せ、天使たちの饗宴にも逢い、美しき夢の国の乙女たちを見ることも出来るものだ。材料の如何によるのではなく、実に心の浄さと、法慾と、対象に没落し得る殉情とによって。
 幼きものはさいわいなるかな。その汚れにしまぬひとみには、矚目のものみな象徴であって、永遠の鮮しき光を放つゆえに、願わくば、天使たちの護りいつまでも童男童女たちの上にあれ。
 私は幼年時代の追想をここらで、惜しみをもってではあるが、終ることにしよう。
[#改丁]

年少時代



比叡尾の山のあけぼのに
くれない匂う花がすみ
日熊の紅葉錦繍の
もすそに寄する霧の海

万岳の翠たたえ来て
巴えがくや三つの川
美しき巴峡の片ほとり
立てるは三次中学校

 分家の武村の従兄良一君は休暇に帰るとこの歌を唱って聞かせた。私はそのたびに好学とあこがれの心をそそられた。なるほどこの歌詞は今こうして書きつけて見ても美しいと思う。
 西城川、馬洗川、吉田川という三つの支流がひとつに合って郷の川という中国一の大河となるのが恰度ちょうど三次なのだ。それが美しい巴なりのカーヴを描いて州を抱いてる景色が、支那の巴峡を連想させるところから、この地方を巴峡と呼びならわしている。中国の諸川の中この郷ノ川だけが中国山脈を貫いて北流して日本海にそそぐのだ。そして川べに聳える比叡尾、日熊、高谷の山々がまたこの川の美しさに応えるように秀でた姿をしている。私はこの北備の別天地、巴峡の地に十四の春から二十の春まで六年間の、私の年少時代の「いのち」を置いた。
 私は十四の春高等小学校三年を卒えると、初めて父母の膝元を離れて、庄原から五里離れた三次へ、良一君に連れられて、徒歩で行った。もとよりまだ汽車はなかった。十八里離れた尾道か、二十二里ある広島迄行かねば汽車は無いのだ。
 三次には私の叔母(母の妹)が宗藤という家へ嫁いでいた。そして叔母には子供がないので、私の妹の重子が養女に貰われて行っていた。「幼きころ」のところに書いたように。そして叔父が自分があずかるとしきりに主張して私を父からあずかったのであった。この叔母が私があの「出家とその弟子」をささげた「信心深き叔母上」なのだ。そして叔父は特別な性格者であった。五年間、私はこの宗藤家に起き臥しした。これが私の現実修行の第一歩であった。
 そのころの私と言えば、赤い靴足袋を穿いて、黄色っぽい羽二重の筒袖を着て、鞄を肩から脇へかけた初々しい少年だった。菓子屋とメンコ屋の外は一人で買物にも行けないという世間知らずなのだ。女ばかりの姉妹たちの好みが服装から何まで支配しているのだ。
 ところが宗藤の家風は私の家とは全然違ったものであった。叔母の嫁したころは酒屋だったが、失敗して今は古着商であった。僅かな、見ばえのしない品物が店に並び、店頭には古着の半纏や股引きなどがぶら下っていた。屋根看板も上っていなかった。非常にきりつめた、倹約な、暮しの立て方であった。これは叔父が変質的な性格で必要以上にそうさせていたのだ。血のつながらぬ養父(叔父の)は七十歳を越えた老人であったが、これが又頑固なゆとりのない人であった。養母はもう亡くなっていたが、これは盲目で、不自由な人であったそうだ。叔母はその姑に仕えて見送り、頑固な舅をいたわりつつ、実にむつかしい、専制的な夫に仕えて、忍従の日々を送っているのであった。叔母にとって楽しみは三つの歳から貰って育てた姪の重子だけであったが、これとてまだ十一の子供でもとより相談対手にもなれる歳ではなかった。叔母を支えているものは実に浄土真宗の信仰だけだったのだ。こうした家へ三つの歳に養女にやられた妹重子が庄原の父母の家で育った私や、艶子と比べて、どんなに現実的な、辛い思いを通らなければならなかったかは言う迄もないことだ。今日重子が倉田家の伝統であるロマンチックな美しい純情を失わずにいるのは、叔母の信仰の力と、本人の健気な修養によるのだ。私は人間のいのちの小さな種子がどんな境遇に置かれるかの運命を思うと、恐れと敬虔けいけんとを感じずにはいられぬ。
 私に与えられた勉強部屋は屋根裏の、大きな梁木のむき出しになったおよそ美というイデーとかかわりのないものであった。部屋の隅には雑具が物置のようにつまれたままで、床もなく、畳は汚れて古く、他所の屋根瓦の外には眺めもなかった。一番困るのはおじいさんの刻み煙草を入れた瓶がつづらの上に載せてむき出しに置いてあることだ。私がそれを戸棚にかくすと必ず元のように出してあった。鏡台がひとつ格子窓のそばに置いてあるのも不調和であった。化粧部屋もかねるわけだ。
 こんな部屋を美しく飾ることは誰れにも出来ない。こんなことに虚栄心のある私はまことに苦しんだ。友人が遊びに行くと言うと冷汗が出た。
 私はまったく好学の心ひとつで忍耐したのであった。私はただ勉強するよりなかった。私は学校で生きていた。弁当は柳行李を小さくしたようなものに飯と、香のものが入ってるきりだった。これも並んでる友だちにきまり悪かった。中村三之助という友人と並んでいたら、自分のさいの魚の片身を箸ではさんで、私の弁当箱に入れようとした事があった。私は真赤になって烈しく拒んだ。この友だちは後に私の運命に深い影響を与えた少年だが、
「いいじゃないか。あんまり何もないからさ」
 と言った。しかし叔母はわざとそうしたのではない。宗藤の家では夕飯の外さいは用いなかったのだ。
 私は一学期の試験からもう首席だった。それは当然でもあった。私ほど勉強したものは無かったろうから、私は勉強で生きていたのだ。試験が来る毎に楽しかった。それが待たれた。
 叔父は勉強せよとやかましく言う必要はなかった。その代り身のまわりのすべてに干渉し、世話を焼いた。毎日靴を磨かした。ブラッシの使い方まで指図した。
 宗藤の家には自由の空気というものは無かった。何一つ叔父の命に背くことは出来なかった。そしてその命令というのが大らかな、堂々としたものでも、粛然と勤行すべきものでもなく、せせこましい、つまらないものだった。理窟がある時でも屁理窟だった。私の家の空気とはまるで似ていなかった。叔母はその間に立って、叔父の鋭鋒をあしらいつつ、私や、重子をかばってくれた。叔母は賢い、物やさしい、向上心の強い婦人であった。もし境遇さえよければ、何でも勉強して、偉くなれる素質であった。それが夫によってその運命を規定されてしまっていた。
 私は叔母や妹のことを思うと、彼女たちを自ら選ぶ自由をろくに与えずに、ある環境に投げ入れてしまった保護者たちの無智な暴力のようなものを呪いたくなる。事実後になって重子が悩みの果てに、庄原の父に訴えに行って家出すると言った時に、父が、
「元をただせば私が悪かったんだ。しかし今となっては廿年の育ての恩がある。義理が立たぬから忍耐しておくれ」
 と言って泣いてあやまったそうだ。私だって五つ、六つの時、毎日遊んでいた重子がいなくなった時、どうしているだろうと考え出しては淋しくなったものだが、やっぱりこうした運命のもとにいたのだ。
 しかし摂理というものはまだまだ深い。叔母のいのちとなった浄土真宗の信仰というものは実にこの叔父から貰ったものなのだ。叔父は毎日叔母をいびったが、しかし寺へは参れと言った。三次には照林坊という由緒のある浄土真宗の寺があって叔父はその檀家総代の一人であった。寺の世話はよく焼いた。家にも仏壇だけは立派なのを据えてあった。そして今の私の見るところでは叔父は他力信仰の典型的な受持者であった。叔父はああ見えても往生していたのだ。その病的な性格、頑迷な主我心、つまらない、せせこましい日常行状にもかかわらず、そうした自分が許されて救われていることだけは確信していたのだ。その事についてはいずれ後詳しく書くつもりだ。
 一方では夫にぎゅうぎゅういじめつけられ、享楽も、商業の発展の希望も封じられ、教養の機会も与えられず、そうして置いて寺へだけは参れと言われるので、唯一つの息ぬきとして叔母は照林坊へ参った。するとそこでは親鸞聖人の「このままの救い」の説教を聴く。たとい説教僧がどうであろうと、教えそのものは叔母の腹に沁み入ったに相違ない。
 邪見驕慢の悪衆生も念仏唱えれば往生する
という。自分の夫、あのひどい、分らずやの夫も「業」の催おすによってああよりないのだ。それで念仏申して助かるよりない……
 こう思うことは叔母にとってどんなに慰めであったろう。夫を許し易かったろう。夫を軽蔑せずに済んだであろう。
 叔母が浄土真宗に帰するということはまことに種が畑に落ちるように自然であった。そしてこの不幸な夫婦が破綻せずに、終りを完うしたのはまったく二人の間の共同の「信」のためであった。
 だがまだ若い妹はそうは行かない。
「私の一番苦しいことは父を尊敬することが出来ない事です」
 重子が私に沁々とそう訴えたことがある。
 さて宗藤の家へ帰ればそう言った有様だが、学校では私には光栄があった。友だちには尊敬されたし、先生には愛された。クラスのホープが私に帰した。私は級長の黄色の徽章を制服につけて登校した。また純一にそれを名誉だと思っていた。学業と教室とが私の生命だったから。
 その頃校内に白帆会という会があった。あのアララギの中村憲吉君は四年生で、その会の回覧雑誌の部長をしていた。その頃から静かな、賢い人で私は尊敬していた。その弟の三之助君に勧められて、私は白帆会に入った。
 私は初めてこの会で演説した。この一生の処女演説は「自然の美」というのであった。中村憲吉君がほめてくれた。回覧雑誌へは短い小説を書いた。「捨子」というので書き出しは今でもおぼえている。
「夜はしんしんと更け渡り、人影絶えたるここ上野の池のほとり、サツと音して吹き来る一陣の風に、木ノ葉二片三片散りたる後は、何ものもこの寂寞を破らんとするものなし……」
 まったく冷汗ものだ。だが二、三カ月も経たぬうちに、こんなのは月並みというものだということはもう会得していた。私は進んで演説をし、文章を書き、尻込みしなかった。ハニカミ屋なのだが学芸に関しては他人より劣ってはならぬという自負が強かった。植松先生という算術の先生が、同時に文学者でこの回覧雑誌の批評を受持っていられた。この先生は特別私をヒイキして下さった。その愛は私によく解った。しかしそれは自然であった。私は算術と文章とが得意だったから。私はこの先生から自由の精神、気障を嫌う卒直の態度を学んだ。文学者的気質というものの清さを感得した。この先生は「白帆」の私の文章を大変ほめて下さった。それが私を励ました。この「白帆会」というものは私の学芸の練磨、交友結社の訓練に大きな役目を持ったものだ。私は後にこの会の講演部長を勤め、やがて会長になったのだが、或る時期にはこの会のために生きてるような時もあった。中村憲吉君は卒業するまで一カ月も休まず、この「白帆」に文章を書いた。
 私が一年の時日露戦争が始まった。校長小野正治先生は講堂に全員を集めて度々激越な演説をされた。威厳と気魄のある名校長であった。蒙古来の詩吟が得意であった。人格の権威というものを私はこの校長によって教えられた。私は木村岳風の詩吟を聴くと今でもこの校長を思い出す。漢学的な空気のいい型を人品に示していた。
 日露戦争のころ健康な人格主義のモラルが思想界にも、文壇にもあった。たとい非戦論を唱えてもその態度にシンセリチーがあって、やはり人格主義の空気の中にあった。文学もローマン的な本流に添っていた。
 日本はすこやかで、正しく、美しかった。
 戦争は勝利に終り、村々に凱旋門が立てられた。私たちは通学するにも幾つもの凱旋門をくぐった。
 私たちの学校は三次の町から二十丁も離れていた。夏になると麻が小暗く道路の両側に茂り、私たちの丈よりも高くなった。竹藪があり、麦畑があり、長い橋があり、冬には雪がその道をおおうのであった。私たちはゲートルを穿いて、雪道を踏んで通学した。
 その頃三次の中学には美少年騒ぎが非常に盛んであった。但し硬派の系統のものであった。何しろ中学が地方の最高学府なので、上級生たちは筒袖がきまりなのに長い袂の着物を着て、煙草を吹かし、大人らしく振舞うのが粋とされていた。美少年のことを、チャームと言っていた。自分のチャームを持って連れて歩くのが幅利きであった。
 入学試験の時に上級生たちはもうその写真を品定めして目星をつけるのだった。
 私は美少年として選ばれた。初々しいのと、学業が出来るのと、服装に姉たちの好みが出ているのが目を惹いたのであろう。上級生たちが私のために騒いだ。
 名の知れぬ絵葉書や、レターなどがよく舞い込んだ。が私は勉強一式であった。野球というものを初めて見た。テニスは前から知っていたが、私はスポーツもやらなかった。学業と教室が生命だと思っていた。宗藤の筋向かいに野平正男という四年生の撃剣の選手で、又全校一の文章家の少年が下宿していた。この野平君が私に一番純な、思慕を寄せていた。彼は剣舞が得意であった。私は近所だし、誘われてよく遊びに行ったが、臆病な位で失敬な真似など決してしなかった。私はよく文章を教わったりしたが、同性愛めいた気持はどうしても起らなかった。「初心」という小説を書いて、中国新聞に投書したりしていたが、度々私が遊びに行くのと、本人が色々話すので、私が、野平君のチャームだという噂が立った。私はほって置いた。
 ところが或る日雨天体操場のところに野平君が緊張した顔付でやって来て、
「君と僕とをY君たちがストライキするというが君はどうする?」
「どういう訳なの?」
「例の君を好きなK君が僕に嫉妬してY君に頼んだのだ。それでYの奴僕に倉田をあきらめてK君にゆずれ。でないと殴ると言って威嚇しやがった」
「卑怯だ」
 と私は叫んだ。「そんな事なら僕は貴方となぐられてもいいですよ」
 私はゆずれとか[#「ゆずれとか」は底本では「ゆすれとか」]、何とか人を品物扱いすると思って非常に癪にさわった。野平君を愛してはいないけれど、一緒になぐられてやってもいいと思った。
 野平君は非常に感動したようだった。Kという少年は寄宿舎にいたが、酔って、やはり私の事を言って、ナイフを振りまわしたそうだが、私には何もしなかった。
 私はどうしたものか少しも恐くなかった。心はほこりに充ちていた。「上級生のおもちゃなんかになるものか」
 やはり美少年の噂のあるクラスの誰れ彼れが、その私たちをなぐると言って威した野球選手のYのチャームになったということを聞いて、私はひそかに軽蔑した。汚ないものがくっついてる気がした。
 がこの事がキッカケとなって私の注意が同性愛というものに向いた。
 野平君は薩摩の同性愛の「しづのおだまき」の一節などを唱って聞かせたことがあった。
「袖に匂いの薫り来る」とか、「契りを深く交わしける」とかいうような句があった。
 二年生の時私は同じ教室にはいって来た酒井君という同級生と手紙をやりとりしだした。この少年は鞆の古い銘酒屋の息子で、音楽と英語とが得意だった。丈が高く、声がきれいで、笑う時に尾道の種子姉に口元がどこか似ていた。それがへんに私を牽き付けた。
 私が休暇にやった手紙に響の応じるように返事をくれた。レター・ペーパーに一杯細かく書いた長い手紙を。
「ハンカチをピリピリと噛み裂いて川に流したとき」とか、「君を思って星を数え、玉藻の寄る浜べで泣いた」
 とかいうような、少年の春期の詩情のあふれたものだった。私はその空気に感染してしまった。
 休暇が終って、教室で逢った時二人の胸がおどった。酒井君は寄宿舎にいたが、時間を打ち合わせて、逢っては河原を歩いたり、麦畑をさまよったりした。酒井君は袂の長い着物を着て、帽子をわざとひと所切って、リボンで結んだりしていた。丈高い穂麦の間を歩く時、二人は手を緊く握り合ってつないでいた。
 酒井君は私にはどこかの公子のような気がした。生れがよくて、調子が高くて、性急な劇しい情熱を持っていた。手風琴など天才的にうまかった。教科書や試験勉強などかまわずに、外国の本を読んでいた。
 教室でも授業中[#「授業中」は底本では「授教中」]に振り向いて顔見合わせてはニッコリとサインしていた。
 私はこの少年から影響された。ある天才的な、自由の雰囲気を。そして海岸線の匂いのする西洋趣味の流れがそそぎ込まれた。
 私の勉強の態度はかわり始めた。学課の選り好みが始まり、席次とか、級長とかいうようなものを俗視しだした。
 教室で地理の時間に文章を書いたりするようになった。ナショナル・リーダーというのが教科書なのを、ロイヤル・リーダーという絵や、紙質の高踏なのを読んだりしだした。秀才文壇に投書したりしだした。
 この酒井君が宗藤へ遊びに来ると言いだした。それは実に自然であった。ところで、僕の部屋はひどいよと言えばよさそうなものだがへんな気がして言えなかった。それかと言って断わることは出来なかった。
 私は小さい胸をどれだけ苦しめたか。病気だと言って、庄原へ帰ろうかとさえ思った。がそれも得せず、酒井君は来てしまった。
 趣味のない書斎の恥ずかしさ、教養のない周囲のきまり悪さ。私は快活に語る勇気も、落ちつきも失ってしまっていた。私の郷里の父母の家はこうではないと知って貰いたかった。しかしそんなことは言えなかった。自分と自分の周囲とが文化が低いという屈辱は、美と高貴とを追う性向の者には堪え難い苦痛である。それを宗教の光で見る用意はもとよりまだ出来ていなかった。
 酒井君もさすがに幻滅を感じたらしかった。それを口に出さなかったが、快活さを失っていた。私たちは気拙く別れた。酒井君が帰ると私は裏口から西城川の川原に下りた。堤ひとつまたぐとすぐ川原なのだ。心はがっかりと絶望的だった。
 あの詩的な友が私との美しい場面を想像して楽しんで訪ねて来たに相違ない。私は、彼がどうも香水をつけていたような気がした。彼は私とキッスがしたかったのではなかろうか。それだのに私は田舎者じみた、おずおずした態度で彼を迎えたのだ。何の美しい、感激的な言葉も吐かなかったし、お話しにならない拙い、不細工なことで彼を帰してしまったのだ。私は彼の詩情の友、――愛人たる資質を失ったような気がした。
 そうまで思いつめなくてもよさそうなものだが、私はそれ以来酒井君に圧迫を感じだした。向こうが私よりも文化が高い気がしだした。そして前のようにスヰートに振舞えなくなった。これは私のひがみであったが、向こうへも響かずにはいなかった。二人の間から幸福があせて行った。私が自ら恥じて身を引いたかたちであったが、私の矜りと負けじだましいとは深く傷ついていた。
 そう思いだすと、酒井君の英語の発音は私と較べ垢抜けしてるような気がし、彼がテニスの鋭いサーヴをする仕方も、及び難い洗練がある気がした。そしてそれらは学校の教科書の勉強からは得られない別のある力だと思われた。その力はどうして得たらいいのか。それはどこから来るのか。
 それが私の問題になった。二年修業の時私は依然として首席ではあったが、もうそれは私に前のような喜びを与えなかった。三年の一学期は憂鬱に始められた。課業の勉強は情熱の目標として魅力を失った。私は授業時間に物を考え、文章を書いた。私の学校は、昼間さえ虫が一杯啼いていた。アカシヤの葉のそよぐのを窓から見ながら、私はその声に耳を傾けていた。
「倉田君」
 と地理の先生は私を指名した。「今日教えたアフリカの主要都市の名を言って見なさい」
 先生の鞭の指す世界地図のしるしの上を空しく見送るのみで、私はひとつも覚えてなかった。
 同級生たちは笑いだした。
 顔を赤らめて、頭を掻く私をたしなめるように先生は言った。
「授業中に作文など書いてはいけません」
 が私の興味は課業に集注しなくなって来た。向上心は燃えているが、身につけたいものが別の処にある気がするのだ。課業は勉強しようと思えばいつでも出来る。競争者はない。だが文化は(そういう言葉では考えなかったが)洗練はどこから得られる?
「海岸線の方から、都会の方から」
 これが私の触角の答えであった。
 私たちの制帽は白線が三条巻きつけてあったが、酒井君は細い絹糸のような条を巻き、ひさしの広い、別の型の帽子を被り、鞄を右肩だけにかけて、新しいスタイルをはじめた。それが一部のものに流行しだした。
 私はまた不安にされた。どこからそうした創意を持って来るのだろう。何から習うのだろう。
 私はどうも自分が山出しで、光りなきもののような気がするのであった。
 私はだんだん憂鬱になって行った。勉強が手に付かなくなりだした。
 尾道へ!
 と私は思った。南の海のほとりの尾道。商業殷賑な、花やかな港街、美しい島々と山の上の寺々。風光明媚な玉の浦の名は祖母から幾度も幾度も聞かされている。その美しい市街は一度見て知っている。それにそこにはあの大好きな種子姉がいるのではないか。尾道一のハイカラな洋品店と西洋人形を飾ったショウヰンドー。鏡と灯の多い明るい感じは今もおぼえている。
 尾道へ行こう。尾道へ!
 こう思い出すと私は矢も楯もたまらなくなった。
 私は夏休暇は少し気のあった脚気を口実にして、とうとう休学届を出してしまった。
 宗藤の人たちも、両親も私の内面の動揺のことはもとより知らなかった。学校好きの私がわざと休学するなどとは想像つかなかった。
 私は尾道の姉に手紙を書いた。すると大喜びで種子姉は一日も早く来いと言ってよこした。
 父母は直ぐに許してくれた。脚気には転地療養にもなると思ったので。
 今や人間修行への私のテーマは私の「田舎者」を克服せんとするところにあるのであった。それがつまらないことであったにもしろ、私が休学を賭してもそうしようと決意したのは、私の向上心の要求であったことだけはたしかであった。だから私はこのテーマに滑稽なほど熱中した。
 その頃私は鏡台に向かったり、そっと頬紅をつけたこともあった。帽子や、着物や、髪のかり方にこまかい注文がつき出した。
 尾道行きの仕度に私は凝りだした。帽子は吉舎の中学の友だちがいい型のを持っていたのを見て、それを買って送って貰った。
 それから眼鏡――を目を悪くないのに旅行用のを買った。ただしこれは家を出てから、車の上でかける気だった。それから二つ三つ出はじめていたニキビを苦にして風呂に入ってコスリまわした。あまりコスッたので傷になった。ぬか袋を使って丹念にやったのだが。それから何か詩集を一冊手に持っていなければならぬと考えた。そして表紙の美しい「すいかずら」というのを選んだ。
 私は人力車に乗って庄原を出発した。十八里ある尾道までは一日かかる。車の上では着いた時のポーズと挨拶の仕方についてひどく苦心した。あまりばか叮嚀にして田舎者と思われてもいけないと思って、もっともすべてにわたって自信がないので、出発する前に姉の夫である従兄に宛てて、
「田舎の、山出しの少年ですから、よろしく」
 と手紙を出して置いた。
 が尾道へ着くとまるで事情は滑稽だった。
 伯父(母の実兄)、伯母(父の実妹)たちは私をまるで子供としてしか見ず、姉は挨拶などさせなかった。従兄はまたすぐ私の黒眼鏡をはずして見て、
「ふふん、安物だね」
 と言って一笑に附した。そして「大きくなったのう」と私の顔をつくづく見るだけだった。
 十七の少年の苦心は大人には問題にならなかった。
 この家はやはり倉田姓を名乗り、屋号を山久と言った。宗藤とはまるで違って、陽気な派手な家風だった。商業を進取的にやっていた。種子姉は西洋店の看板娘と言われて、街中の評判の美人であった。この姉はおめかし屋で、小説や、芝居を好み、交際もいいくせに、少しも浮いたところがなかった。感情がふっくらとして、豊かな芍薬の花のようであった。
 私は何の遠慮もなく、この家に一カ月程身を置くことが出来た。
 十七から十八の秋までの、春期の催しの多感の日を私は思うさま尾道の港街でおくった。
 その一年は私の生涯に一枚はさまった美しい挿絵のような気がする。しかし事件は何もないのだ。ただ憧れと、少女たちの夢のおもかげと、島々や、寺々の追憶とに織り交った、純潔な、生意気さえも愛らしい人生の初春の一ページだと言うだけだ。しかし今となっては、それは惜しむべき返らぬ日である。
 自分の目の前を花片が一枚散っても、それを核にして美の幻影を結晶させようとするような多感な心で、十七になる少年は尾道の街に起るすべての美を捕えようとした。
 港をかすめて過ぎる帆影の一閃にも比すべきかりそめの人事の遭逢にも、私は浪曼的に夢をつなごうとした。
 尾道に着いた最初の夜から私は市街の明るい賑わしさと、美しい娘たちの多いのに気がついた。何の対象もないのに私は心がいそいそとした。
 何しろ学業をほうり出し、手をあげて、美と文化とを吸収しようとしているのだ。その憧憬の中心にあるものは無意識的に少女であった。
 しかし私は本は放さなかった。文章も書いた。向上の志は止む時なく、街で開かれる展覧会や、講演会や、偕楽座にかかる都の芝居などの機会を逃がすようなことはなかった。船で西洋人に逢えば会話をしかける大胆さも持っていた。美人に対し、場所に出で、会合に臨んで、すべて気おくれしない洗練の自信を得たいのが私の休学の動機だったのだからだ。
 当座は寺々を訪ねたり、渡しを渡って小歌島や、向島へ行ったりして遊んだ。恋人のない私は姉と並んで歩くのが好きであった。姉もたしかに幸福そうにしていた。人々は姉を見返った。私が感心したのは、姉の商業への熱心さであった。彼女は同じ西洋店があれば、飾窓を必ず覗き、自家のに及ばないと見て初めて安心した。思うに姉は商業に生きていたのだ。
 しかし毎日の事だから、私は大てい独りでぶらぶらしていた。天神山という山へ登って、松風の吹く岩の上に寝ころんで夕方までいたことがあった。
「今日はどこへ行ったの」
 伯母はこう訊くのが例になった。
「山の上に臥ていましたよ」
「へへえ。今までかい? この子は商人にはなりませんぜ」
 と伯母は伯父に話した。
「うむ。丸吾(私の家の屋号)の後継ぎは出来んな」
 と盃を持った伯父がいった。
「百さん。あんた何になるつもり?」
 と従兄が訊いた。
「小説家か、でなければ坊主」
 と私は答えた。実は何になるとも考えたことは無かったのだが、意表に出ようと思ってそういった。
「へえ」
 と伯父が目をまるくした。
「それがいいわ、きっと」
 と姉はまじめにいった。「いい坊さんになるかも知れないわ」
 どう考えて姉がそういったものかは私は知らない。しかし大体そうしたものになって来たのは不思議である。
 表二階で裁縫をしてる姉に、私はよく本を読んで聞かしてやった。
 蘆花の「思い出の記」や、木下尚江の「良人の告白」などそうして読んだ。
「寒竹垣の下で虫が啼いている。月の光がきらきら……信じていつまでも待っています」
 私は読みながらしきりに恋を思うのであった。
 姉はといえば、安泰そうに、ふっくらと、安楽架のようなものに背をもたせて、針を動かしながら、恋に渇いていそうにも思えなかった。
 思いつつぬればや人の見えつらん夢と知りせばさめざらましを
 うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
 私は声を高くして読んだ。
「あんた好きな人があって?」
 と姉は突然きいた。
「あるものですか。そんなもの」
「カネ久(尾道にある倉田家の宗家)のみつのさんはどう思う。お祖母さんが百松(私の幼名)といいなずけにするといいといってらしたそうだけれど」
「あんな、ちっぽけなもの。まだ子供じゃないか」
「ほゝゝゝゝ。あんたは大人? あんたなんかまだ食気の方でしょう」
「もういけません」
 と私は沈痛な声を出した。
 姉は噴き出した。
「そうかねえ」
 こんなに胸の重荷になってることが、姉にさえ解らないのだろうかと私は不思議でならなかった。人には私はお坊ちゃんらしい。甘えっ子としか映らないらしかった。
「僕は七つの時から解りましたよ」
 と私は逆襲した。
「おませだわねえ」
「姉さんは?」
「そんな事訊くもんじゃないわ」
「ずるいなあ」
「本当は私は今でも解らないわ。私たちはいとこ同士決められて一緒になったばかりだもの」
 万更うそでもないらしかった。姉夫婦の間は淡々たるものであった。
 冬になっても尾道は、暖く雪が降らなかった。海にせまった山なだりには蜜柑が熟り、石垣を築いて茶園(別荘)が幾つもあった。そして琴の音など聞えていた。山から近く見える海の色は濃くて美しかった。
 或る日、私はそうした茶園から琴の爪函を持って出て来た一人の少女に出逢った。道が狭いので、彼女は身を避けるようにしてすれすれに私の側を通りぬけた。髪はお下げにして、色が抜けるように白かった。その白さは暖色ではなく、冷たい玉のような白さであった。私はすれ違った瞬間に、彼女の首すじの美しさがチラと目にしみてしまった。彼女は声を立てては笑わぬであろうと、私は空想した。
「どこの娘だろう?」
 私はそれから幾度も同じ所に行って見た。がなかなか出遇うことはできなかった。が或る日私は天寧寺の坂のところでその娘を見つけた。私はとうとう気が咎めながらもその後をつけて行った。一つの茶園に中に入って行った。表札には岸和とあった。家が解ったからまた見られると思った。それから私はよくその茶園のまわりをさまようた。琴の音が聞えていることがあった。あの娘が弾いてるのだなと思った。
 しかしどうしようというでもなく、菫の花を見つけて詩集の栞に挟んで置くようなものだった。
 ところが或る日思いがけなくその娘が山久の店へ買物に来た。ショールを買いに、通い帳を持った女中をつれて。私はびっくりした。店には伯母が出ていた。店の者が色々品物を拡げて見せるのを、女中を頼るようにソッと何かささやいていた。
「お鶴さん。あんたにはこれがよく似合うよ」
 と伯母は娘の名を呼んで、ひとつのショールをあてがって見た。
 私は又おどろいた、伯母は知ってるのだ、そして鶴子というんだ。私は陳列棚の所に立ってそっと見ていた。
 そのショールに決めて、通い帳に書いて貰う間娘は何もいわなかった。静かに腰かけて、待っていた。
「お稽古に通ってるの」
「ええ」
「このごろはずっと茶園の方?」
「ええ」
「少しお弱いものですから」
 と女中が応えた。
 帰りしなに、
「お母さんによろしくね」
 と伯母が言った。
「綺麗な子だが、可愛そうに弱い」
 と娘が帰った後で伯母が言った。
 伯母が知ってる家の子なのか、私はうれしくなった。私はそれから暫らくのうちに、どうして聞き出したか、その娘が長屋(字の名)の畳表屋の娘で、本店は長屋の通りにあることを伯母から聞いて知っていた。
 私は時々本店の前でその娘の姿を見ることもあった。しかし知り合う機会は無かった。
 春になって桜が咲くと西国寺では毎年花供養というものがあって、賑やかな人出であった。
 鐘の音は花の雲の間から聞えて山にひびいた。門前にならぶ店々。麗衣の人や、漁民の群れ、近郷の農夫たちのおびただしい雑沓。その間を縫うて御詠歌講中の行列。
 私は伯母につれられて本堂に上り、特にゆるされて庫裡の方へまわって休息していた。稚児ちごの行列の出るのを待とうと言うのだ。伯母は小さなキセルを出して煙草を吸うていた。この伯母は私の父に似て骨細で、華奢きゃしゃな、美しい才女であった。
 と目の前の廊下を通りかかったのは彼の娘であった。
「おや、お鶴さん。一人?」
「いいえ、お母さんと。……そこへ来ました」
 彼女の母が来て、伯母と挨拶を交わした。
「これは私の甥坊です。奥から来ていますの」
 奥というのは田舎ということだ。私はきまり悪く、赤くなってお辞儀した。娘は凝っと私を見ていた。彼の女は今日は紫色の晴衣を着て、藤倉を穿いていた。長い廊下を歩くからだ。
 鐘が鳴って、稚児の行列が向こうの渡り廊下にあらわれた。しょう篳篥ひちりきの音が始まった。私たちは立ちあがってその方へ見に行った。
 私は鶴子とすぐ並んで欄杆にすがっているのだ。彼女の袂は欄杆にかかって、下へこぼれていた。私は胸がわくわくした。美しい稚児の列は目の前を過ぎて行った。ささげ持った経机、さしかけられた天蓋傘、ゆらめく瓔珞ようらく、美しくお化粧した男の子は男の子故にさらに不思議な、美しさが出ていた。何かこの世ならぬ美と浄楽の世界を、それは人間に暗示しようとするもののようであった。
 私たちのすぐ側には桜の老木が一杯花をつけていた。風に花びらは散った。そして間を置いては梵鐘が殷々と沈みとどろいて、生のうつり易いことを、この瞬刻のいのちを撞き出しているかのようであった。
 私は、彼女の横顔をぬすみ見ていた。彼女は、唇を少し開いて、身を乗り出すようにして、稚児に見とれているようであった。頬や、耳たぼのあたりの肉は薄く、透きとおるようで、冷たそうに見えた。
 行列が過ぎても、彼女はものを言わなかった。が立ち際に私を見てニッコリと首を傾けた。私もほほえみを返した。
「鶴子や、もう行きましょう」と母親が言った。
 伯母と挨拶を交わすと、母と娘とは長い廊下を歩いて行った。彼女の藤倉が私の目に残った。

 それからというもの鶴子は私の年少の夢の小さな守護神になった。むらさき色の着物をきて、藤倉の裏をひるがえして、寺の廊下を遠く歩いて去った少女の姿は、私の胸の奥に焚きもののような香を残し、私は彼女を思い見るだけで、もううっとりとなるのであった。そうした現実を離れてものをイメージ化する傾向は私には子供のころから強かったようだ。十位のころに小学校で放課後に鬼ごっこして遊んでいたとき、疲れて草生に仰向きにたおれると、二階の教室からオルガンの音が聞こえて来た。そしてとぎれとぎれに女の児の高い声が。私はそれに吸い込まれてすべてを忘れていた。天国的なものを音で描くと、どうしても私にはその時の印象がよみ返って来る。三十年も後に、築地小劇場で「リリオム」を上演した時、ある貧しい天国的なシーンでオルガンが使われたが、私の心は漂渺ひょうびょうと昔の小学校の校庭に返っていた。今でもオルガンの音と天国とは私には切りはなせないのだ。
 ひとつには鶴子とは現実に逢う機会がまれにしか与えられなかったせいかも知れない。私は他の少女たちには度々遇って遊びつつも、そして彼女たちも美しくなくはないのに、心はいつも鶴子をあこがれていた。彼女は私には何か祀られるものであった。何かを媒介しなくばかには触れられないような運命のものであった。
「あんたは一体誰れが好きなの?」
 後に種子姉が私に訊いた事があった。
「さあ、誰れか知ら」
 と私は面を赤らめもしなかった。
「あてて見ようか。渋谷のすみ子さん?」
「う、うん」
「榊原のいち子さん」
「う、うん」
「じゃあ、解った。仁田の鈴子さんでしょう」
「あれも好きだけれど、ほんとうは違うの」
「誰れだろうね。言って御覧なさい」
「本当はね……ほんとうは岸和の鶴子さん」
 私は自分の顔が蒼くなるのを感じた。
「ふうーむ」
 と姉は何か感じたらしかったが、「あんたは鶴子さんとはあまり遊んだことないでしょう」
「ええ。殆んどありません。逢うことはあっても」
「あれはおとなしい子だ。病身だからね」
 種子姉としては、いつもなら、もっと乗り出して、逢えるようにとり計ってやろうとか、何とか言ってくれる筈なのだが、どういう訳かそうは言わなかった。そして私からもその後も姉に謎をかけたりする気になれなかったのは、どうもこの少女と私との運命が非現実的なものなのだと思わずにいられなかったからだろう。
 しかし私は鶴子とまるで逢わなかったのではない。幾度かの思い出はあり、彼女の胸にも、私のおもかげが残っていることは確かである。
 千光寺が若葉で美しいころであった。私は長い石段を登って、やわらかい楓に半ば葉がくれたとある円亭で休んでいた。と長屋(街の名)の方からの参道を支那服を着た召使をつれて、登って来たのは鶴子であった。私はハッとした。鶴子も私に気付いて会釈したが、その支那人の召使は気がつかないらしく、同じ円亭にはいって来て、腰かけさせた。鶴子はかなり息切れしていたからだ。
 私の様子で私と鶴子とが顔見知りであることを召使は知ったらしく、鶴子と何かささやき合うと、私を見てニッコリした。
 目の下には青い帯のような海と若緑の島と、尾道の市街とが横たわっていた。
 支那人の召使は日本語で私に話しかけた。
「晴れて、小歌島がよく見えますこと」
「そうですね」
「あの向島の、一等高いとがった山何と申しましたっけ」
「高見山って言うんです」
「そう高見山……お嬢さま、うちの茶園はどこいらにあたりましょう」
 鶴子は立って、端に出て来て指さした。「そこに、ほら女学校のポプラが見えるでしょう。あの横のところの、赤土の見える所がそうよ」
 私は彼女と並んで立った。
 彼の女は明るい色のフランネルを着て、やはりお下げであった。若葉をもれる光りで見ると、いつもの蝋色の頬には血がさしていた。
「※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、98-14]さんのお店はどこいらか知ら」
 支那人の召使が私に言った。
「あそこの汽車のガードの少し下の、白っぽい西洋作り見たいな建物がそうです」
 と私は答えた。
「ほんとに。屋根の上の、傘を三つつけた広告が見えてますわ」
 と鶴子は私に指さした。
 私は供の女が支那人なので、鶴子に話しがしかけ易い気がした。
「珠の巖の話は本当でしょうか。西洋人に珠をとられたという――」
「本当の事だとお母さんは言いますわ」
 とすぐ向こうの朱塗りの楼門の前にある「珠の巖」を見やった。
「ぴかぴかと海を照したらきれいだったでしょうね」
「ダイヤモンドですね。きっと」
「お琴に行ってますか」
 と私はませた訊き方をした。
「ええ」
「僕のくにの姉さんはとても琴が上手ですよ」
「私は駄目。よく休んだりしますから」
 とはにかみを見せたが、「※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、99-13]の姉さんはなさいませんの」
「あれは商売一方ですよ」
「ほんとに綺麗な姉さんですわね。わたし一番好きですわ、尾道じゅうで」
 私は嬉しくなった。
「カルタ会に来ませんでしたね、あなたは」
「ええあの時は生憎あいにくと熱があって」
「すみ子さんもいち子さんも来ましたよ」
「そうですってね。後でお聞きしました」
 彼女は淋しそうな表情をした。
 姉さんの所へ遊びにいらっしゃいと言いたいのだが、どうしても言えなかった。
「奥って、どんな所ですの?」
「庄原と言って、山の中の淋しいところですよ」
「庄原? あの荷車のたくさん出るところですか」
 私は苦笑した。長屋の通りには毎朝未明から、馬の曳く荷車が奥からコトコトと一杯出て来るのであった。
「ええ。馬どころではありません。夜になると狐がコンコンきますよ」
「まあ」
 と彼女は初めて笑った。きれいな歯なみだった。
 それから二言、三言話したが、召使の女はついでに本堂にお参り致しましょうと言って、鶴子と円亭を出た。一緒について行くわけにも行かなかった。
 しかしそれとなく後から行って、獅子の背に乗っかったり、鐘を鳴らしたりして、彼女たちと附かず、はなれぬような風にしたが、鶴子の方でも終始私を意識している気がした。
 それから毎日つづけて私は千光寺へ登った。どうも彼女が来るような気がして。しかし五、六日目に本当に彼女は来た。しかも今度は一人で、雨あがりの若葉の路を蛇の目傘を持って。私は不思議な気がした。
 私たちは会釈して互いに近づき、申し合わしたように、この前の円亭の方へ並んで歩いた。
 私たちは何のために来たものか問おうともせず、並んで腰かけていた。楓の若葉はまだ雨に濡れていた。
「時々ここへいらっしゃるの?」
「ええ。時々」
 二人は別に話す事と言ってはなかった。しかしそんな事はどうでもよかった。
 そのころ児島丸という美しい連絡船が尾道と多度津との間を往復していたが、その船がちょうど目の下の海を通ったので、私は自ずと琴平詣りのことを連想した。
「こんぴら参りした事がありますか」
「ええ。いく度も。お母さんは高松から来てらっしゃるんですから」
「やはりあの船で」
「二度ほどあれに乗りました」
 児島丸の事務長の福井という人は※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、101-14]の店の常客で、姉などとからかい合ったりするほど懇意な間なので、私は他所の船のような気がせぬのであった。
「酔いませんか」
「すぐに酔いますのよ」
 と彼女は美しい眉を寄せた。その様子はいかにもデリケートな、華奢な、弱々しい生れを思わせた。
「酔いさえせねば船は愉快ですがね」
「宮島だとすぐ向こうだからいいわ。景色もこんぴらよりいいし、鹿が可愛いわね」
「餌をやるとついて来ますね」
「廻廊もきれいだし、紅葉谷もいいし……」
 と何か彼女は思い出しているように見えた。
「み仙しましたか」
「う、うん、山は駄目」
 と彼の女は思いも寄らぬという風に首を振った。私は何か胸を衝かれた。
「体が弱くちゃいけませんね」
「あたしもう遠くへは行かないの。お父さんもそう言ったわ、お舟も酔うし――茶園でお琴を弾いたり、本を読んだりして暮せって」
「小説を読みますか」
「読みますわ、少しは」
「金色夜叉や、不如帰読みましたか」
「ええ」
 それから小説の話をしたが、本当はあまり小説を読んではいけないと、とめられているらしかった。
 私たちは円亭を出て、形ばかりにお参りして別れ道の所まで一緒に歩いて別れた。
 帰っても私の胸は何かときめいていた。姉にも千光寺で逢ったことは言わなかった。
 がそれから暫らく彼女に逢えなかった。家へも茶園へも遊びに行くわけにもゆかなかった。
 が夏に入ると鴈治郎が来て偕楽座に芝居がかかった。浜吉という尾道一の茶屋の先代の追善興行というので、一座は所の習いに随って「町まわり」をした。尾道の通りは極く狭いので、一座の俥がずらりと並ぶと、見物の人だかりで街は一杯になるのであった。私は千光寺路から長屋の通りに出て見ると、ちょうど行列はとまって、口上を言っている所であった。と人だかりの後ろに私は彼女を見つけた。近づくと彼女も私を知ってニッコリと会釈した。例の支那人の召使がついていたし、人ごみで話は出来なかったので、なげかけるように、
「見に行きますか」
「ええ。行きます。明日、お母さんと」
「僕も行きます。姉さんと」
 二人はうなずき合った。やがて俥の列は賑やかな囃につれて動き出し、私たちは人波にへだてられた。
 翌る日の夕方、まだ昼の光の流れている偕楽座の平土間に私は伯母と姉と三人並んで鴈治郎の芝居を見ていた。芸題は黒田騒動と紙治と妹背山であった。私は座るとこから鶴子たちの席を探していた。二幕目ごろに鶴子たちは出孫(方言、突き出した桟敷)へ来た。直ぐに解った。彼女は今日は珍しく桃割れに結って、やはり日本風に丸髷にあげた母親につれられていた。彼の女たちが坐るとちょうどパッと堤燈に灯が入った。舞台では芝雀(後の雀右衛門)のお秀の方が若侍の刺客毛谷主水を色に誘っている所であった。彼女は暫らく舞台に引き入れられているようであった。がやがて直ぐに私たちの席を見つけた。そして母親にささやくと、母親は伯母や、姉の方を向いて、会釈した。双方の席は言葉をかけ合うには離れ過ぎていた。
「出孫」には新地の芸者や雛妓たちが大勢来ていた。暑さの頃なので一せいに扇を動かすのが華やかに見える。しかし、私には鶴子一人しか目には留らなかった。彼女は白っぽい浴衣を着て、斜に坐り、何というものか非常に高貴な感じのする帯を〆めて、時々つつましく扇を動かしていた。私の憧憬は彼女に集まって高められていた。
 私の席はそんなに後ろではなかったが、私は姉の眼鏡を使って、時々役者の顔を見た。そして時々そっとそれを鶴子の方へ向けるのを抑えることが出来なかった。
 彼女の笑ってる顔が大きく映ったりした。
 が紅葉の間の立ちまわりはしかしさすがに私を緊張させた。私はすべてを忘れて引き入れられていた。黒田騒動が終ると観客は廊下に流れ出た。私たちは鶴子たちと出合って挨拶した。
「成駒家はいつ見てもきびきびしてますことね」
 私の伯母が言った。
「福助(後の梅玉)はいいワキ役ですね。あの忠臣の人柄なことと言ったら」
 これは鶴子の母親の意見であった。
「芝雀もいいけれど成太郎(後の魁車)がいいわ。とても艶っぽくて、油があって」
 種子姉はそういう説であった。
「僕は玉七が素晴らしいと思うな。今日の主水は第一の出来だと思う」
 生意気なことを言う子だと、ほほ笑みながらも、姉たちはそれを肯定した。
 鶴子は何の批評もしなかった。恐らく彼女は芝居の芸題などよくは知らなかったのであろう。
 私たちは同じテーブルを囲んで腰かけた。姉はアイスクリームを注文した。これが私がアイスクリームというものを食べた初めであった。
 紙治が始まったので私たちは席に返った。私は父の語る浄瑠璃でなじみなのだが、舞台で鴈治郎のを見て美と恋の幻影に憑かれてしまった。私は廊下に出た時には酔ったようになっていた。私は鶴子がはばかりに立ったのを見て、後を追うた。そして彼女が鏡に向かって顔を直している時に、耳元に素早くささやいた。
「明日千光寺へいらっしゃらない?」
 が私は返事を聞く勇気は持たなかった。そう言って置いて、彼女の顔も見ずに席へ返ってしまった。胸がドキドキして、落付いて見られなかった。
 妹背山では鴈治郎のお三輪は無白であった。あのしゃがれ声を避けるためだったのであろう。あの年寄りがきれいになるものだとは驚いても、どうも不安で、美感がさまたげられた。
 芝居がはねて家へ帰ってからも、寝床の中で私は姉と長く話した。姉が疲れて寝入っても私はまだ寝つかれなかった。芝居の後味と鶴子の幻影とがひとつにもつれ合って、なやまされた。
「彼女に聞えたのだろうか。聞えたにしても来るだろうか?」
 彼女はわりに平気な顔していたようだった。別れしなに、チラと私を見た時の顔は飲み込んでいるのではあるまいか。少なくとも怒っていないことだけは確かだ……
 そんなことを色々とくり返して暁を迎えてしまった。
 来るにしても朝来るような事はないと思っても、心配で朝から千光寺へ行って見た。だが彼女は来なかった。午後に又いつもの円亭へ行って見た。長く待っても彼女は来なかった。円亭の傍には百日紅が咲いて、燕が飛んでいた。私は淋しくなって帰ろうと思った。
 と日傘で顔をかくして彼の女が登って来た。彼女は日傘をたたむと息苦しそうに側に腰かけた。
「有り難う」
 と私は言って面を赤らめた。
 二人とも真面に見合わずにしばらく黙っていた。
「またお芝居へ行きますか」
 と私は沈黙を破った。
「もう行きません。先生にとめられましたもの」
「夜ふかしになりますね」
 と私は彼女の顔を見た。蚕のような顔色が頬のところだけ赤みがさしていた。
「熱がありますの」
 と彼女は両手を頬にあてた。「一寸来ましたの。直ぐに帰らなくては」
「それはいけません。すぐお帰んなさい」
「これあげましょう」
 と彼女はとき色のハンカチで包んだ小形のものをくれた。
「ありがとう」
 私が受取ると、彼の女は赤くなって、「さようなら」と言い捨てたまま、日傘をとると、逃げるように坂を下りて行った。
 私は坂の上に立って見送った。曲り角で一度振り向いたがそのまま行ってしまった。
 私は胸をおどらせつつそのハンカチを開けて見た。美しい錦襴で張った小さな名刺入のようなものであった。いい薫りがこめてあったが、中には何も入ってなかった。私は後になって、彼女の小さな写真をこの中に挟んで置きたかったが、願いは空しかった。
 これが、私が彼女を見た最後となったのだ。
 私は程なく彼女が喀血したという事を姉から聞いた。
 私は心配したが見舞いに行く事は出来なかった。彼女の迷惑を恐れて、手紙もあげられなかった。
 しかし堪え切れなくなって、無名で見舞いの絵葉書を出した。が返事は来なかった。
 私は胸につかえるので、姉に鶴子と二、三度逢ったことを話すと、
「鶴子さんは肺病だからねえ。外の事なら何とかしてあげるけれど、もう遊ばない方がいいと思うわ」
 と気の毒そうに言った。姉にして見れば二、三度物を言い合った位の極く淡いことをとり上げる気になれないのは当然であった。それに肺病はそのころはかなり恐れられていた。
 その後私は彼女が遠くの或るサナトリウムに行ったということを聞いた。
 彼の女から便りも無かったし、私も手紙もあげられなかった。
 考えて見れば言葉を交わしたのも、三、四回、目に見たのも十度を超えない。淡い淡い思い出だ。それでも年少の胸には深く深く残った。
 しかし尾道での少女の思い出はこれだけだったのではない。もっと楽しい、軽い、そしてもう幾分性の好奇の芽ばえのあるような思い出も色々あった。たましいの深みを揺がさない程度の、アンゲネームな美の経験というものは詩人的素質の少年にはかなり拡がりを持ち得るものである。
 渋谷すみ子という少女は、尾道風の町娘で私と同い年であった。彼女はめりんすばかり専門に売る反物屋の娘であった。彼女はひどい尾道なまりをむき出しに使い、おはねなのが魅力があった。しかしそれでも下品なところは少しも無かった。大てい日本髷に結って、いつ見ても、明るく快活だった。
 私はこの少女とは鶴子の場合と違って、受身であり、私の方から心を悩ますような事はなかった。
 この子の母と伯母とは三味線の友達であった。もっとも地唄の方であった。が、すみ子は面倒臭がって、稽古事はしなかった。その代り彼女は料理と裁縫とが得意であった。※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、108-9]の山行き(野宴のこと)の時には板前の方を手伝った。そして私は或る家の葬式の時に、彼女がいろを縫ってる殊勝な姿を見た。
 がこの少女は私を好きだと言うことをあからさまに女友達に語った。
「うちは※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、108-12]の姉さんの弟さんが好きじゃけ」と言った風に。それで私はよくからかわれた。
「そら、めりんす屋のすみちゃんが歩いてるよ」
 と従兄は私が店に出ていると肱でつついた。「きっとはいって来るよ」
 厚化粧の彼女がショウ・ウインドの前に立ち止ると、
「まあ、おはいり」
 と大阪風に店の者が声をかける。すると彼女は景気よくはいって来て、腰かける。ぷんと白粉の香がする位だ。
 傍の者に照れくさいので、私が本を読んでると、
「よう勉強してじゃがのう、うちらすぐ頭が痛うなるけえどな」
「勉強じゃありませんよ、別に」
 と私は本を閉じて、火鉢のかげにかくす。
「兄さん、天勝の奇術見に行ってじゃった?」
「まだ行きません。忙しかったのでね」
 従兄がこう言うと、
「行って御ろうじ。とてもおもしろかれやん。水芸なんかほんまに不思議じゃけえ」
 そこへ伯母が出て来て、
「おかかんと行ったの?」
「ええ」
「行って御覧よ」
 と伯母は姉と私をかえり見た。
「行こうかな、百三さん」
「ええ、行きましょう」
「うち、もう一ぺん行くわ」
「へたら一緒に桟敷とろがよかれやん」
 と伯母が言った。その頃の尾道ではまだ桟敷番が常連の家へは売ってまわった。
「うち、うれしいわ」
 とすみ子はいかにも嬉しそうに胸を抱いた。
「またすみちゃんが一生懸命おめかしして行くんじゃんしょう」
 伯母がからかった。
「知りゃんせん」
 とすみ子はすねて見せた。
「黒い、たくさんの髪じゃがのう」
 姉は感心したように言った。
まめだからね。あんたることなんかないだろう」
「お薬飲んだことないけえ、でもコロダイン飲んだわ。おいしいもん、お腹が痛うないのに痛いいうて、父さんばかして飲んだわ」
 皆笑った。
 が私は鶴子と比べて考えていた。どうしてこんなに違うのだろうと思った。鶴子の頬は貝色してるのにすみ子のは、桃のような色をしているのだ。
「また来やんす」
 と彼女は立ち上った。
「おかかんにね、今度のおさらいはお師匠さんが他行ゆえ延ばしますって」
「はい。そう言やんしょう」
 それから二、三日して、私たちはすみ子も一緒に岩井座に天勝の奇術を見に行った。
 すみ子は真赤な帯を胸高に〆めて、何かキラキラするかんざしをさしていた。私と並んで坐って、前に見て知っているので、番組をひろげては得意そうに色々と説明した。私は知識慾が強く、何でも知ろうとしていたので、熱心に奇術を見た。そして芝居とはまた違った愉快な、好奇的な、活々とした雰囲気を感じて引き入れられた。
 私は世界は実に広いものだと思った。どんな美、どんな神秘があるか解らないものだ、色んなことを知って勉強しなければならぬと思った。私は奇術使いなどと内心軽蔑していたが、舞台に立った天勝にはさすがに世界の舞台を股にして来た気魄があって、下卑た感じはなかった。多少の芸人らしい自卑感はわざとくだけた感じにカムフラージして、独特な粋な感じにこなされていた。私は彼女が、「お客様」「お客様」と観客に呼びかけるのをおもしろいと思った。又「花の当所の御ひいきを」というような唄を、奇術の伴奏に使ってるのに愛を感じた。私はひとつのしょうばいと結びついた、気分上の洗練というものの力に、初めて目をひらいた。家の種子姉などにもそれがあるのだなと思った。こんなのは学校の教科書では習うことの出来ないものだ。へんなことが人生にはあるものだと思った。
「拝借致しましたるお客様のお帽子、何かひと品とりだして御覧に入れます」
 テーブルの上に載っけた帽子を魔法使の杖のようなもので軽くたたくと、鳩がパタパタと飛び立った。観客は喝采した。
「今度は兎ちゃん。白兎が出るのよ」
 とすみ子がしゃべった。
「駄目、黙ってらっしゃい。言ってしまっちゃ駄目よ」
 これも息を飲んでる姉が言った。
 が出て来たのは白兎ではなかった。真黒な、目のギラギラする猫であった。
「今日は違うわ」
 とすみ子は言った。が私の目を惹いたのはその瞬間横のビロードのカーテンの蔭から出て来て、その黒猫を抱いて一寸洋服の裾をつまんで観客にしなをして引っ込んだ洋服の少女であった。
「今の何というの?」
「天花――天勝の娘じゃそうな」
 すみ子が教えた。私は番組を見て、彼女の又出て来るのを待った。
 程なく天花が出た。彼女はばら色の洋装して片手に大きな時計の盤を持ってあらわれた。彼女の芸は客に勝手に時間を言わせて、クルクル針を廻わすと、ちょうどその位置に針がとまるのであった。
 客はめいめい時間を言った。果してキチンとその位置にとまった。喝采が起った。
「はい。どなた様か、もう一人」
「百三さん言ったがええ」
 と姉は言った。
「六時二十三分」
 と私はむつかしく出た。
「はい」
 と天花は笑いながら私の方を見て、ひよいと頭を下げて、
「お客さまのおのぞみは六時二十三分でございます。さあ、行きましょう」
 と針をまわした。針は間違いなく六時二十三分に止った。
 喝采の中に彼女は愛らしく裾をつまんで、一揖いちゆうして退いた。
 私はますます彼女に引きつけられた。彼女の出るのが待たれた。彼女は幾度も出た。鏡の中から蝶になって出て来たり、ピストルを打って花道から出たりした。
 中にも私がチャームされたのは水芸の始まる前のアトラクションのような形で、ピエロを対手におどって見せたダンスであった。私はそうした洋装になり切って、西洋のダンスをおどるような少女を初めて見たのであった。
 私の未知の美への好奇はひどく動いた。彼女は幕合に、他の二、三人のやはり洋装した少女たちと露わな腕に花籠を持って観客の間を絵葉書や、花や、サイン入りのプロマイドなど売って歩いた。私たちの直ぐ側を彼女は通った。十四か十五――十六にはまだなるまいと思われるほんの少女であった。
 姉は花とプロマイドを買った。
 私は天花に心をとられて、すみ子のことを忘れていた。すみ子はそれでも幸福そうにしていた。彼女はおぼろずしをお皿によそって私たちにすすめたり、水菓子をむいたりして世話を焼いた。手際よく、自然に見えた。ピエロが滑稽な真似をすると、彼女はお腹を押えて笑った。
 桟敷にはお雛妓など沢山来ていたが、私はすみ子が同じ日本風でも彼女たちとはハッキリ違った型であることを見分けた、すみ子は町娘であった。それには色っぽくても、水稼業に通じるものではなく、家庭に――台所につながるものであった。そう思って私は彼女を可憐な気がした。水稼業の女に私にはあこがれの対象はなかった。
 すみ子は芸を見ている最中にも、幾度となく化粧を直した。彼女には芸の巧拙などは付け足りにすぎなかったのだろう。美しい桟敷に咲きこぼれたひとつの花として自分を見出し得ればよかったのであろう。
 家に帰ってからも天花のことが胸に残った。ああいう少女と遊べたらと思った。これきり彼女たちは旅立ってしまい、もういつまた彼女を見られるかも知れないのだと思うと、私は淋しく、悲しかった。辛いことだと思った。当分彼女のプロマイドが私の机の側に置いてあった。がその後三十年の今日まで、私はいく度もそのかみの天花を思い出したが、とうとう一度も彼女を見た事はない……。
 こうしたわけですみ子とは逢う機会は幾らでもあった。美しいと思い、憎からずも思ったが、あこがれの心が高まらなかったのは、遇い易かったのと、受け身だったせいであろう。
 そうは言っても純情なすみ子は揚葉の蝶のようなその厚ぼったい愛のはねで、年少の私の多感の心をおおいつくそうとするような時もあった。
 小歌島に桃の咲くころ※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、114-14]では親類や、懇意先や、得意客など招いて花見の宴を張った。私たちは小船を島に乗りつけると、桃林の中に毛布や、茣蓙を敷いて、ひょうたんの酒を汲み交わした。
 瀬戸内海の春の濃い螺※[#「虫+田」、114-16]の島々を霞に眠らして、人の心もとけ勝ちであった。
 児島丸の事務長の福井さんは、元はそれ者だったというその夫人に弾かせて「我もの」などをおどった。伯母や、すみ子の母たちが今日を晴れと弾いたり、歌ったりしたのは勿論だ。男の客たちはそれぞれおハコを出して浮かれ騒いだ。皆酔った。酔うと新地から芸者を呼ばねばおさまらなかった。が姉も、すみ子もこんな時少しも芸が無かった。私も皆にすすめられて沢山飲んだ。
「あんたいけるね」
 と福井さんがしきりにすすめた。
「弟にはあまり飲ませないで下さい」
「大丈夫だよ、定さん(従兄)とは違うからな」
 定吉兄は真赤に酔って、「風に吹かれているわいな」とお軽のセリフを、いつものおハコを出しながら、上機嫌であった。この人は酔うほど好人物になった。
「飲め飲め。構わん、百さん、今日はやれ」
 私はうまくもないのにガブガブ飲んだ。
「止めたがええ。そんなにガブ飲みしたら、からだに悪かれやんが」
 すみ子がとめた。
「いよう貞女だな」
 と従兄はからかった。「すみちゃん弟の看護はあんたにたのみまっせ」
 皆どッと笑った。
 すみ子は真赤になったが、まけてはいなかった。
「おおきに、たのまれんでもしやんが、兄さんこそそんなに金時見たいに酔って、姉さんにきらわれんようにな」
「おやおや」
「やられたな、定さん」
 皆笑った。
 従兄はおもしろがって、「すみちゃん、あんた弟にちょいとほの字やな」
 と言ったがすぐ芝居のセリフになって「とりもってたもとおっしゃるなら、勝頼さまではなけれども、あんたの店のめりんすみんな、それが盗んでもらいたい……」
 皆どッと吹き出した。
「兄さんには往生しやんした」
 とすみ子は逃げて行った。
 尾道の宴会と言えば大阪の商人趣味で、あまり上品なものではなかった。芸者がまた「かっぽれ」をやり出さないうちにと私は酔って苦しくもあるし、座をぬけ出て、裏の海ばたで風に吹かれていた。と急に胸が悪くなって、げえッと戻して来た。もがいていると、後ろから背を抑えてくれるものがあった。
「苦しいえ。どうえ」
 すみ子の声であった。
「大丈夫。何でもないんです」
 と言ったが、頭がぐらぐらした。
「苦しいんじゃんしょう。花陰亭へ行きゃんしょう。誰もおりゃんせん」
 すみ子は私を借り切ってある茶屋へ連れて行った。道具が狼藉としてるだけで誰れもいなかった。私はひっそりした部屋に横になった。すみ子は押入れから蒲団を出してかけてくれた。
 私はこんな部屋にすみ子と二人きりいるのが気が咎めた。
「もう大丈夫。一寸休めばなおるから」
「冷やしゃんしょうか」
「いや、ありがとう。それ程でもありません」
 彼女は行きそうもないので、
「あっちへ行ってよ、おかしいから」
 すみ子は淋しそうにした。
「じゃあ、おやすみなさい。後ゆっくりと」
 彼女は襖を〆めて去った。
 私はうとうととつい睡ってしまった。目をさますとはばかりに行きたくなった。襖をあけるとちゃんとすみ子は坐っていた。私はおどろいた。それからはばかりから出ると、彼女はちゃんと廊下に待っていて手水鉢の水をひしゃくでかけて呉れた。そして手拭がひどく汚れているのを見ると自分の桃色のハンケチで私の両手を蔽うてしまった。
 私は初めてそんな目に遇って心が揺いだ。部屋に帰ると、下腹が痛いので又寝ころんだ。
「苦しいんじゃんしょう」
「少し腹が痛いの。でもすぐ直ります」
 彼女は仁丹入れから四、五粒出して飲ませてくれた。
 その儘じっと枕下に坐っていた。
「こうしてると可笑しいがなあ」
 と私は言った。と何かの爆発するような声が聞えた。
「看病させてつかあさいな」
 その声は純情と哀願とに充ちていて、私は抵抗出来なかった。私は深く動かされた。私はそのまま目を閉じて、彼女のするにまかせた。
 桃林ではまだ三味の音、歌うぞめがきこえていた。
 それ以来私はすみ子には愛と親味の何ものかを感じていた。もとよりそれは客観的には、少年と少女との愛の手習いのような、淡いものであったろう。しかし私の女性への観照と感覚とはこうしたことから育って行ったのであった。
 しかし恋愛は運命だ。すみ子への愛はそれでも憧憬にはならなかった。可愛いものであって、鶴子のようにたましいをなやますものには高まらなかった。私はすみ子には幼いころ見た絵草紙から脱け出た娘が、父の浄瑠璃の中の世話物がかった娘に対するように、その美と情緒とに受身になって流れて行くよりなかった。すみ子の方ではしかしそれでは物足りないらしかった。一見快活で、おはねに見える彼女にももっと深いたましいの要求と飢えとがあったのだ。
 天神祭と言えば、夏祭りの多い尾道でも有名な祭りであるが、その夜に私は天神山の裏でばったりすみ子に逢った。すみ子はいつものように派手に装いしていたが、どことなく疲れが見えた。そして口数が少なかった。
「あたしの手紙読んでくれちゃった?」
「ええ、読みました」
「姉さんに見せたでしょ」
「見せるもんですか」
 彼女は暫らく、黙っていたが、突然に、
「うち病気になりそうじゃけ」
 と言った。見ると彼女はすすり泣いていた。
 私はどう言っていいか解らなかった。
「返事あげたかったけど、へんだったから」
「そのことじゃなかれゃん」
「僕すみちゃんが大好きなんだけれど、毎日遊びに店へ来ない?」
「だってきまりが悪いもん」
「構やしないや。みんなすみちゃん好きなんだもの」
「うち門通ったら呼んでつかあさいな」
「通るかと思って、僕出てるんだけれど」
 こう言いながらも、私は子供心に引きずられてるような不自然さを感じるのであった。
「あああ、うち何や知らんつまんない」
「どうしてね」
「何や知らんけれど」
「おかしいな。しょっちゅう遇っているくせに。ボートに乗りに行かない。月がいいから」
「ええ。連れてって」
 と彼女は少し元気づいた。二人はそれから浜へ出て、貸ボート屋から、ボートで海へ出た。
 彼女は舵をとった。
 月の港は美しかった。はろばろと涼風が吹いて来た。潮の[#「潮の」は底本では「湖の」]向きに迷って、大分久しく漕いでから私はオールを流した。晴れた空には千光寺山が黒く影立ち、三重の塔もそれと知れた。
 私は遇い難い鶴子の事を思っていた。
「金波銀波がきれいじゃがのう」
 と少しはなれて行き違った天満船の、波のうねりを見てすみ子が言った。
 私は苦笑した。こうした事ではすみ子は平凡な事きり言えないのだ。でも私は気にもしなかった。
「向島へあがって見やんせん?」
「あがって見ようか」
 私はボートを岸につけた。岸には人影もなく、月見草が咲いて、荒れていた。材木の上に二人は腰かけた。虫が啼いていた。海藻の香がして不安であった。
「いつまで尾道へ居てん?」
「秋からは三次へ帰らねばならんでしょう」
「へたらもう逢えやせんの?」
「近いから幾らでも来られますよ」
「帰しともなや」
 と彼女は言った。そして私に身をすりつけると、
「うち、好きじゃけ」ときつく私の手を握って、そして身もだえするような恰好をした。
 何か異常な、激しい感覚が彼女の中に動いてるのが感じられた。
 彼女は私に身をもたせて、うなじを垂れた。私は反射的に彼女の肩に手をかけたが、しかし私の内には彼女のに応じる程の肉体的なものがまだ目ざめていなかった。感情がませてるほど、肉体は発育していなかった。同じ年でも身体の人なみすぐれて丈夫な彼女には、どうも大人に近いものが目ざめていて、それが彼女の物足りなさをつくったのではないかと思うのだ。

 尾道での年少の私の憧憬はもとより思春のものだけではなく、文化と学芸と――いのち一般の美しいもの、価あるものへの思慕であった。もし尾道という土地にそうした、施設と雰囲気とがありさえしたら、私は勿論燃えるような熱情をもってそれに向かって行ったであろう。しかし不幸にして尾道には商業学校以上の学校もなく、芸術的なサークルもなかった。私のいのちの中の一番のエレメントを引き出す空気が欠けていたことは惜しむべきことであった。実際私はどんな高い文化と教養との素地的な訓練にも応え得る玉のようなナイーブさと、鋭い感受性とを持った少年だったのだ。周囲は私にとって常に足りないものであったことは今なおうらみとせずにはいられない。
 思えば私は尾道でも美しいもの、価あるものを掘り出すように探し求めていたのだ。美しい、温かい瀬戸内海的な自然、クラシカルな匂いのある寺々、それは尊いものであったが、人間のつくり出す尾道のカラーは、美しい時にも多少商業的な卑俗性をもったものであった。しかし殷賑な通商、豊富な漁猟によって生気を帯びた生活エネルギーは、比較的不便な陸路のために封鎖的になったこの港街に独特な精彩と活況とを与えた。そしてそれが幾世代に渡り保存されたので、由緒ある港としてのいぶしがかって浅膚さからすくわれていた。年少の私はそうした空気の中から美と生命とを探し出そうとしていたのであった。
 尾道の思い出が、少女達との思春の絵本や、手習いのすさびのようなものしかないのはそのためであった。
 ※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、122-11]の裏門から出て、千光寺山へ登る山ふところに林にかこまれた神社があった。丑寅神社と言って氏神であった。或る日私は氏子総代の伯父につれられてこの神社に参詣した。拝殿で私たちのためにお神楽があげられた。拝殿の反り気味の欄干の側には楓の樹が燃えるように夕日に映えていた。白い装束をつけた神主が玉串をささげて祝詞のりとをささげたが、冒頭に、
秋山にもみぢ葉燃ゆる神無月、大神のみ前につつしみて申さく、氏子、倉田大人、みめぐみもて、うから健かに、なりわい栄えて……
 私は冠をかぶったその神主の品格のある挙措と、静かな、よく透る声と、祝詞の美しいのに引きつけられた。神道もいいものだなと思った。
 拝が終ると、極くささやかな、内輪的な神事が執り行われて、巫女みこがただ一人扇と鈴を以て舞をまった。横笛太鼓との物静かな伴奏に合わせて、ゆるやかに輪を描いて舞うその小さな巫女を私は美しいと思った。彼の女は青畳の上に俯すように身をかがめたり、また仰向きに反り身になったりして、鈴と扇とを品よくあしらった。彼女の髪は長くて、いく度も畳に届いた。緋の袴をはいて薄くお化粧していた。もとより一言も私たちに口をきかず、舞い納めると簾の奥に静かにかくれてしまった。
 伯父と家に帰った私には何かの移り香が残っていた。
 万葉集にある
めづらしと吾が思うきみは秋山の初もみぢ葉に似てこそありつれ
 こう言ったような気もちであった。しかし私はいつしか忘れてしまっていた。
 が或る日丑寅神社の境内にある機械体操の鉄棒で私がヱビ上りなどやっていたら、人が来て見ていた。私は少し得意になって、やれるだけの技を演じていた。が疲れて止めて、ふと見るとベンチに赤ん坊を抱いて子守りしている少女は、いつか見た巫女であった。服装のまるで違った彼女は、女学生じみていたが、それでもミスチックな顔をしていた。富士額で、刻んだような美しい鼻を持ち、背丈が高く、鹿を連想させた。
 私は咽喉がしきりに乾くので、境内の井戸から釣瓶で汲みあげて、口飲みに飲もうとした。
「あら、その水は飲めませんよ」
 と少女は言った。
「そうですか。構いません。飲んじゃいましょう」
「お待ちなさいな。あたりますから。水あげますわ」
 彼女は小走りに、自分の家の裏口に行ったので、私もついて行くと、茶碗に水を入れて持って出てくれた。
「ありがとう」
 とぐっと飲んで、茶碗を返しながら、ふと開いた門から中を見ると、いつかの神主が装束下らしい着物をきて庭を掃いていた。庭は広いが荒れていた。咄嗟に私はあまり裕福ではないのだなと子供心に感じた。
 私はベンチに引き返した。もう冬近いのだが汗でシャツはびっしょりしていた。
「鈴子、これ、こんなに茸を沢山とって来たよ」
 と籠を持って、得意そうに寄って来たのは二十歳位の青年であった。
「そうお、見せて」
 と籠を覗き込んで彼女は声をあげた。「ほんとに、まあ、よくとれたことね、兄さん」
「その代り市村奥の山をさんざん歩き廻って、くいに引っかかれたよ」
 と彼はベンチの上に茸をとり出して並べた。
「松茸なんかはありふれてつまらないよ。きんたけに、大はぎ小はぎ、ひめじ、かのこ――これは何という茸だろうね」
「木の葉かずきと言うんですよ」
 と私は口を出した。
「木の葉かずき――ふん。なるほどね」
「僕のくには奥だからこんな茸はよく知ってますよ」
「奥ってどこですか」
「庄原ですよ」
「はあ、庄原ですか。それだったら詳しいでしょう」
「これはね。お露がとてもおいしんですよ。一番おいしい茸と僕は思うね」
「じゃあお露にしましょう。今晩ね。……兄さん、庄原と言ったら、家のお父さんが子供のころ、勉強に行ってらした所でしょう?」
「そうだ。育英塾というのが昔あったんだそうだ。君知ってますか」
「話しに聞いてます。昔は県下でも庄原は学問が進んでいたんだって」
「尾道から庄原へ勉強に行くと言うのもへんな話だけれど、遅れていたんだな」
「今だって尾道は学問は駄目ですね」
「そうです。父がよくこぼしますよ。尾道には学問の話が出来る人がいないって」
 私はいつかの美しい祝詞のことを思い出した。
「君はどこの学校ですか」
「僕はこの土地の商業学校を出ました。兄は東京の国学院大学に行っていますがね。僕は後とりじゃないし、正直なところ神主にはなりたくないからね」
 彼は自分がここのお宮の子であることに、自負を持っていないらしかった。
 鈴子は心持ち顔を赤らめているようであった。何か言いたそうにして止めた。
「君はどこへ来てるんです?」
「十四日町の倉田という家です」
「はあ、倉田さんですか、あの家の御主人はうちの氏子総代でよく見えますよ」
「あれが僕の伯父です」
「そうですか」
 と彼は非常な親しみを見せた。
 それから色々と話しをした。私は同じ年頃の少年と遇えば、すぐに学芸を比べて見る競争心を持っていたが、この少年はその方面には興味を持ってない事が直ぐ解った。この少年はもっと実際的な方面に才があり、話のしぶりも社交的であった。兄は余計なことを言うと鈴子は思ってるらしかった。が兄は構わずに、私に隔てなくしゃべった。
「君は学問が好きらしいが僕の家に遊びに来ませんか。国学の本なら沢山ありますよ」
 私は直ぐと心が動いた。
「行ってもいいか知ら、僕は君のお父さんにお話が聞きたいな」
「来給え。僕がお父さんに話して置いてあげるよ。僕のお父さんは古事記と万葉集の講義が得意なんだ。僕はあまり気がないが、妹は好きで熱心に聴いている。ねえ、鈴子」
 鈴子は少し赤くなって、
「あたしなんかよく解らないけれど、好きですわ」
 私はしきりに心が動いた。
「僕、是非講義が聴きたいなあ」
「じゃ、やって来たまえ。――今日でもいいよ」
「そうだなあ。僕行きたいけど、帰って伯父に話してからにします」
「うむ。じゃそうしたまえ――茸飯とお露がたのしみだ。お父さんや、お母さんにも見せて、早く飯にしようよ」
 彼は鈴子を促して家へはいった。
 私は家へ帰ると、夕飯の時に伯父にその話をした。
「そうそう、仁田さんは育英塾に行ってたんだったな。習いに行ったらいいだろう。あの人は学者で歌よみだそうだ。お前は太夫さん(神主のこと)なんか嫌いだろうと思ってたが、そういうことならわしから仁田さんに頼んであげるよ」
「太夫さんは僕嫌いだったけれど、いつか伯父さんと丑寅さんへお参りして、祝詞を聞いてから好きになりましたよ」
「気まぐれな奴だな」
「でもあの時の祝詞と神楽とはよかったですよ」
 この伯父は金光教信者で、家には神棚があって家族を率いて毎日礼拝しておはらいをあげていた。従兄も、姉も形式的にそれをやらせられていた。従兄はいつも後ろの方にいて、お祓いをあげながらコクリコクリとやっていた。私だけはいやだと言って自由行動をとっていた。伯父も他家の子だし、我儘者と見て、見のがしていた。
 私は二、三日してから仁田を訪ねた。兄は生憎いなかったが、鈴子が取り次いでくれた。仁田さんはすぐに部屋へ上げてくれた。
「※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、128-4]さんから話があったよ。あんた国学が習いたいんだったら、四、五人習いに来てる人があるからその会にはいりなさい。学校の先生達で大人ばかりだけど。聴いてる分には差し支えないだろう」
「はい。そうさせて下さい」
 私はもう先生に対する態度になっていた。
「古事記や、万葉集読んだことありますか」
「万葉集の方はちょいちょい読みました。古事記はまだ読んだことありません」
 私は少し恥じを感じながら言った。
「うむ。この頃は英語はやっても、古学はやらんからな。特志の人きりやらんが、本当は実に立派なものなんだよ」
「教科書で、万葉や、古事記が尊い古典だということだけは教わりました」
「尊い古典だよ。まったく。世界に誇っていいものだ」
 と何かなげくように言ったが、私を子供と思ったのか「まあ、聴いて置きなさい」
「是非会の時参ります」
 鈴子が茶菓を出して、下手に坐っていた。寺とはまた違った閑寂が部屋にも、庭にも沈み、匂っていた。古びて荒れが見えてはいるが、※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、128-18]などにはない雅致が家のすべてにあった。庭には池があって八ツ橋がかかっていた。鯉のはねる音がした。
「鈴子や、万葉集を持って来ておあげ」
「はい」
 と鈴子は立って書院の棚から和綴の本を持って来て、私の机の上に置いて、また前のところに侍していた。
「万葉集という歌集はどこをあけても秀歌ばかりなんだ」
 と言って、開けたところの歌をさして、
「巻二十、大炊王の歌
天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何か思わむ
 大きな、まっすぐな歌だ。今度は巻六、船王の歌」
 私は早くめくれないので困っていると、鈴子が側に来て、「なれてますから」
 とその歌のところを出してくれた。そしてそのまま私の側についていてくれた。
「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけてこぐ舟泊り知らずも
 これは如何にもはろばろとした、寂寥感が出ている。そして感じが新しいね。一体万葉は古いものだけれども、非常に現代的なところがあるんだよ。たとえば巻四、湯原王の歌にしても」
 又鈴子がめくってくれた。
「月よみの光は清く照らせれど惑えるこころたえじとぞ思う
 これなどは現代の、君でもよみそうな歌じゃないか。はゝゝゝゝ」
 私も、鈴子も思わず笑った。
「まあ、段々と話してあげるよ、何しろ万葉や、古事記を研究しないで、文学のことなど話そうとするのは乱暴なことだよ」
 私はうれしくなった。実際三つともいい歌だと私は思った。
「今度の会から、では、参ります。どうぞよろしく。有り難うございました」
 と私は立ち上った。
「ああ、来給え。※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、130-7]さんではお祓いをあげるだろう」
「ええ、毎日あげます」
「君はあの大祓いを読んだかね」
「実はまだ読みません」
 と私は廊下に立ったまま、頭を掻いた。
「あれを読まなくっちゃ。あれは傑作だよ」
 と仁田さんは言った。
 鈴子が玄関まで送ってくれた。
 私は家へ帰ると、神棚から祝詞の小さな本を持って来て読んだ。私はすっかり魅せられてしまった。こんな厳かな、清浄な美しい詩をどうして私は食わず嫌いしていたんだろう。私はすぐに暗誦にとりかかった。何百度となく反復して一日で暗誦してしまった。そして神前で伯父が、家族や、奉公人たちと礼拝する時、私も並んで、声高く合誦した。皆驚いた。伯父は非常に悦んだ。
「どうした風の吹きまわしかね」
「伯父さん。大祓いは傑作ですよ。僕は正直な処莫迦にしていたんだけれど、僕こそ莫迦でした。この間仁田の太夫さんに教わって、初めて読んで見て驚きましたよ」
「ふうむ。それは何よりだった。どうだね、あの太夫さんは」
「なかなかエラいですよ。僕は習いに行くのがたのしみです」
 私は書店で古事記と、万葉集とを買って、読み耽った。そして読めば読む程感心した。殊に万葉集は自分のためにある歌集のような気がした。私は一週間に二度、会に出席した。
 商業学校、女学校、小学校の先生、書店の主人等が四、五人来ていた。ただ聴いてさえいればよかった。鈴子はいつでも出たが、兄の方は時々しか出なかった。
 私は仁田さんが天真な情熱家で、そして自由な人であることを知って段々敬愛を増して行った。それは万葉と古事記から来る感化と思われた。時々おもしろい事を言って笑わせた。
「いい恋文を書こうと思うなら、万葉の恋歌を研究しなくちゃ駄目ですよ。まったく歌だけで、どんな相手でもコロリと参ってしまうようないい恋歌がありますからね」
 皆笑った。胡摩塩の小学校の国語の先生が、
「先生はどの歌ならコロリと参りますかね」
「さあ」
 と仁田さんは笑って「それじゃあね。この次ぎの会の時一番好きな恋歌を一首ずつ選んで来ることにしようじゃないか」
「それは面白いでしょう」
 と商業学校の先生が賛成した。
「私のようにお婆さんになっちゃ少しテレくさい気がしますわ」
 女学校の先生が苦笑すると、
「なあに、恋歌をよむと若返りますよ。伊藤左千夫なんて人は五十を過ぎて、顔負けするような恋歌をよむじゃありませんか」
 私は鈴子のいる前で、よくこんな話をすると思って感心した。自由な人だと思った。
「僕たちはどうするんでしょう」
 と私は後で鈴子にささやいた。
「そうですね。やはり選んでいらっしゃるんでしょう」
「僕は持ってきます。あなたは?」
「さあ」
 と彼女は赤くなった。「これまでこんな事したことないんですもの」
「選んでいらっしゃいよ」
 と私はすすめた。「その方が先生よろこびますよ、きっと」
「とにかくあたしも出ますわ。休んだことないんですもの」
 と別れしなに鈴子は言った。
 私は鈴子と顔を合わせることが多くなった。会の時でなくても丑寅さんの境内に行くと、よく出遇った。彼女はこの春女学校を出たばかりで、まだ女学生くさかった。
「あなたは巫女になるととてもきれいですね」
「あら、御覧になって?」
「ええ。あの舞は誰に習ったんですか」
「母に。極く小さい時から習いましたの。信一兄さんはいやがりますのよ」
「何故だろうな。僕は巫女になったあなたが一等好きだな。女学生服なんかよりよっぽどいいと思うね」
「あなたはクラシックね。本当は私も巫女になるのいやじゃありませんの。子供の時よくお友達にからかわれて恥ずかしかったけれど」
「恥ずかしいことなんかありませんよ。とてもきれいですよ。あれはクラシックというよりミスチックですね」
「そう、ミスチックですね」
「やっぱり万葉なんかやってらっしゃるから自信が持てるんですね。――明日の会、選んでいらっしゃるでしょう」
 彼女は赤くなって、
「選んでは置きましたけれど、あたしどうしようか知ら?」
「持って出なさいよ。自分の恋歌じゃなし、自分のだって構やしないけれど……」
「お父さんの前だけれど――」
「文学は自由でなくっちゃ」
「あなたも勇敢ね。あなたは文学者におなんなさるつもり?」
「何だか解らないけど、僕は文学者は好きですね」
「私も好きですわ。万葉集には女の歌よみが多いわね」
「あなたは歌をよみますか」
「ええ。少しはよみますわ」
「僕に見せて下さい」
「だって恥ずかしいわ」
「構やしませんよ」
「そのうちお目にかけますわ。あなたも見せてね」
「僕見せるけれどまだ拙いですよ。初めだから。でも直きにうまくなりますよ」
「ええ、そうよ。作ってお父さんに見て貰いなさい」
「ええ。会は実に楽しみですよ」
「一緒に習いましょうね」
 実際私は尾道でのただ一つの「学びごと」が出来たのを喜んでいた。それに鈴子という「稽古友だち」がいることが私を牽きつけているのは争われなかった。彼女は雌鹿のような優しい目付きをして、いつも私の歌まなびに影のように付き添ってくれたから。
 翌る晩の会のときはおもしろかった。
 一等初めに小学校の若い先生が自分の選んだ一首を発表した。
言に言でていわばゆゆしみ山川のたぎつ心をせかえたりけり
「ふーむ。君の注釈を少し加えて見給え」
 仁田さんは微笑みながら言った。
「苦しい程緊張してると思います。凡そ薄っぺらではありませんね」
 と若い先生は少しせき込んで言った。「恋いる心がどんなに高調してるかが却って解りますね、僕は万葉にはこんなこころがあるから、比較的むき出しな官能表現があってもゆるされるのだと思います。でもそんなことは理窟です。どうも僕はこの歌はいいと思う」
「私も同感だ」
 と商業学校の先生が言った。
「いい歌だな」
 と皆言って、口ずさんだ。
 次ぎは商業学校の先生の選歌であった。
「ほととぎす鳴きし即時きみが家へ行けと追いしは至りけんかも
 血を吐くばかり君を思っている。と、ほととぎすが啼いた。さあ、すぐに恋人の家へ飛んで行って伝えてくれ。と言って追ったが、きっと行ったであろう。
 どうも極端で、活きていると思います。
 しかし秀歌が多くて一首だけ選ぶのは取捨に困りますな」
「鈴子書いて張り出しなさい」
 鈴子は前のと二首書いて張り出した。きれいな手蹟なのには感心した。
「血を吐くという意味があるか、どうかは知らないがたしかに秀歌だ」
 次は女学校の老先生がはにかみながら発表した。
「たく縄のながき命を欲しけくは絶えずて人を見まく欲りこそ
 お婆さんの選ぶ歌はこんなものですわ」
「御実感ですな。あなたのお宅は評判の御円満ですから」
 おかしみのある書店の主人がこう言ったので皆笑った。
 老先生は赤くなって、
「じゃあ、あなたの選歌を発表して御覧なさい」
「私のは、
遅速も汝をこそ待ため向つ峰の椎の小枝の相は違わじ
 逢い曳きの時十分遅れると、もうさっさと帰ってしまうのが、今の娘気質と聞いています。これは残念だ。椎の小枝のように、少々出足に早い、遅いがあっても、待って貰いたいものであります」
 皆吹き出した。
「しかしいい歌だな」
 と仁田さんは首を振った。「やっぱり違った人が選ばんと見落すね」
「今度は君の番よ」
 と書店の主人が私に促した。
「久方の月夜を清み梅の花心に咲きて吾が思える君」
 私はいささかきまり悪かった。
「少年らしく、純粋な感じがしていい」
 と仁田さんは言ってくれた。
「今度は鈴子さん、あなたも出しなさい」
 と進行係のつもりの書店の主人が言った。
 仁田さんはただニコニコしていた。
「どうぞ」
 と女学校の先生が促した。鈴子は恥ずかしそうにしていたが、
「茅花ぬく浅茅が原の壺すみれ今さかりなり吾が恋うらくは」
「壺すみれはいいね。可憐で、娘らしくて」
「万葉女学生と言ったところだな」
 と書店の主人がまた混ぜ返した。しかし私はいい歌だと思った。
 皆最後に仁田さんの選歌を期待した。
「わしは思い切って厳粛なのを出すことにする。
かしこきや時の帝を懸けつれば音のみし哭かゆ朝宵にして」
 皆しんとなった。
「誰の歌ですか」
「藤原夫人の歌だ。天皇を恋し奉ったのだ。こんな恋歌が世界のどこの国にあるだろう」
 私は強く打たれた。歌というものの深い世界を思った。鈴子の筆で七首の歌が書き並べて、張り出された。
 皆は口吟みながらそれを眺めた。文学への愛と、恋を思うあこがれが泉のように私の胸に湧いていた。
 私は会が楽しみで、その日の来るのが待ち遠い程であった。万葉の歌を沢山暗誦し自分でも作った。鈴子とは会のない日にもよく逢ったが、私が沢山歌を覚えているのには驚いていた。
「あなたは勉強家ね」
 と言って自分の歌を見せた。私も私のを見せたが、どうも歌では鈴子にかなわない気がした。彼女のは私のよりも直観的で、調べが婉微であった。しかし私が彼女にそれを言うと、
「あなたのは真直ぐに、押して行くような処があって、女にはああ行きませんもの」
 と言っていた。
 兄の信一は歌はつくらなかった。彼はしばらくして尾道の住友銀行に勤めるようになった。彼は※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、138-12]の店へもよく立ち寄るようになった。快活で人に好かれ、押しもあった。
 日曜日にはよく私を漁に誘った。
 このあたり一帯の海は魚が豊富で、そして美味なのであった。
「僕の家は段々古びてそして、貧乏になって行くばかりだ。僕は神主なんてものは時代に合わんと思うね。『海の幸をささげまつる』なんて、漁撈の事ひとつ言うのでも父のはこうした形なんだ」
 彼は舷から下した糸を指であつかいながらこう言って、半ば相談を持ちかけるのだ。
「しかし君のお父さんはエラいよ。神道というものも立派なものらしいし、僕は考えが変ったね。だいいち祝詞なんてものは素晴らしいものだからね」
「しかしそれは文学としてだろう。神主というものの社会的地位は一種のユーモアだね」
「それはひどいと思う」
「少なくとも一種の悲劇だよ」
「僕は小さい時から太夫さんの子だとからかわれるのが一番辛かった。神主的な空気から出来るだけ逃れたかったね」
「それはしかし君の素質にもよるよ。君は実際的で神秘とか、美とかいうものはあまり考えないらしいからね」
「それはたしかにそうだ。家の鈴子などは気もちが違うらしいものね。巫女になるのを恥ずかしがらないものね。彼奴なんかどうせ嫁入りするんだからいいが、長兄は悩んでるらしいよ。……おっと食いついたぞ」
 と彼はちた鯛を釣りあげた。
「僕は獲得する生活が好きだね」
 と彼はピンピン跳ね返る鯛を始末しながら言った。
 私の鈎には下手な故かあまり食いつかなかった。彼の獲物といつも比較にならなかった。才能が違うのだ。
 私は鈴子のことを思っていた。そうして古びて、取り残されて行く悲劇の家の中で、彼女はどういう運命になって行くであろうか。なる程そう言えば行く度びに目に付くのは塀や、廊下などの荒れであった。庭の立派な大名松も手入れが届かず枯枝がまじり、畳も神殿のと違ってすすけた儘であった。お母さんの着物も粗末であった。鈴子も流行の着物は着ていなかった。ただ彼女の天然の麗質と、すらりとした美しい姿態のために身について見えるのであった。
 仁田の家の中で目に付くものは古び、廃れて行く物質の中に活き残る品と礼と文雅との光であった。そのため私には一層鈴子の姿が美しく、浮き上って見えるのであった。
 鈴子の方でも私を文学への愛と、美への感覚のある少年として牽き付けられていたらしかった。私たちは逢うのが楽しかった。会の時は子供同士として並んで机に向かっていたし、宮の、後の林を歩く折りには花を一つ摘みとっても、歌を競う心が二人にあった。が私は彼女が草や花の名をよく知ってるのにはおどろいた。これはわれもこう、これはゆきのした、これはのりうつぎと言った風に。そして蔓草の莢がらだとか、松の花粉だとか、たんぽぽの種だとかこまかいものを直ぐに見付ける名人だった。中にも蝉のぬけがらは彼女に非常に歌心をそそるらしかった。「うつせみの」「うつせみの」と口ずさみながら彼女は林の中を歩いた。
「あなたは閨秀歌人になるがいいな」と私は或る時言った。
「なれたらなりたいわ」と彼女は気がなくもないらしかった。
「緋の袴を穿いて歌をよんだらすっかり百人一首の絵のようだ」
 と私はからかった。が彼女はどうしたものか憂鬱になってしまった。「気にさわったの?」
「そうじゃないけど、何か知ら悲しい気がするわ。私の境遇が――」
「どうしてだろう。僕は緋の袴を穿いたあなたが一等好きだと言ってるのに――」
「時代ばなれしただけじゃつまらないわ」
「なあに、ミスチックな美を今風に活かせばいいじゃないの。西洋の美人の写真なんかに幾らでもそんなのがあるじゃないか」
「サラ・ベルナールという人の舞台姿に、そんなのがあったわ。学校の図書館で見たんだけれど」
「出雲のお国なんていうのは、元は大社の巫女でしょう。巫女というものは、昔から世間の檜舞台に出る因縁があるような気がするな。それから静御前なんかでも――もっともあれは悲劇だが」
 ここで私はふと信一が言った悲劇という話を思い出した。どうも鈴子が悲劇の女主人公のように感じられるのであった。が鈴子の方ではさっきから私の言葉で機嫌を直していた。
「私思うのよ。万葉集の歌なんかでも、二千年も前のものが今の歌だと言っても、知らない人は本当にするようなのが幾らもありますものね。私だって、私のしたい通りにして、それで新しいといったような風に出来ない事はないと思うのよ」
「そうだ。あなたのしたい通りにしてという事が大事なとこなんだ」
「私のお父さんはそういう主義なのよ。私は思う通りにして、それで好いてくれない人は仕方がないと思うわ」
「そうだよ。歌をよむにしても自分の好きなようによまなかったらどんな事になるだろう。それで好く人は好くんだ」
「処女子と人はのらせどさみしけれ神の社にみ鈴ふりつつ
 この歌はどう?」
「いいね。あなたがつくったの?」
「ええ」
「待ちたまえ」と私は苦吟して、
「鈴ふりて舞いし処女子胸にもちわれの学びのたぬしくもあるか
 どうですか」
「いい歌だわ」と鈴子は赤くなった。「下の句が少し硬いけれど」
 私たちは逢う度び毎に親しくなり、趣味の一致を感じた。尾道で知った少女で話しの出来るのは鈴子一人であった。
 私たちは歌を競った。しかしどうも鈴子の方がうまい気がした。
 或る冬の日、尾道としては珍しく雪が降って、二、三寸積った。私は鈴子と二人して庭に手頃な雪達磨をつくった。
 仁田さんは雪を珍しがって、雪見をすると言って酒を暖めさした。
「あんた少しいけるか」
「二、三杯はいけます」
「盃に二、三杯か。茶碗に二、三杯か」
 こんな冗談を言いながら仁田さんは酒を飲み始めた。酔いがまわると機嫌がよくなった。
「鈴子ひとつ歌をつくって見せろ」
「紫にかそか匂いておもほゆる今朝の淡雪消えまく惜しも」
「ふーむ。いい歌だ。このごろでのお前の秀作だ」仁田さんは紅くなった額をほころばして、我が娘をほめた。
 今度は私に作れと言うだろうと思って、私は不安になった。盃を受けながらも歌ばかり考えていた。
「どうした。君は青くなってるぞ。歌というものは心配してはつくれん。どうでも構わんと思って、調子に乗って作るのだ。まあ、も少し飲め、歌は出来んでもいいよ」
 私はきまり悪いながらも、よく解ると思った。
「広前を今朝はも掃かず白がねのこの積む雪を神のまにまに」
 仁田さんは朗々とこう詠んで、ニコニコと私たちを見比べて、また盃を飲み乾した。
 私は私だけ詠まないのは癪だと思って、負けじ根性がむらむらと起ったので、
「さす竹の君とつくりし雪達磨」
 と上ノ句だけ一気呵成に言ったが、後が出なかった。
「いいぞその調子だ」と仁田さんは景気をつけてくれた。私はもう後さきを考える余裕もなく、「消えつつもとな燃ゆる思いを」とやってしまった。
 鈴子は真赤になった。が仁田さんは愉快そうに、手を打って、「うまいうまい、とても秀歌が出来たじゃないか。いいか歌はこういう風にやらんといかん。君の歌はいつでも硬いが、今日のだけはちがうだろう」
 自分でもいい歌だと思った。つくったのではなく、何か産んだような気がした。私は嬉しくなって酒を飲んだ。酒もうまかった。実際これがきっかけになって私の歌は一段飛躍した。そしてそれと共に、鈴子と私との間も飛躍した。
 鈴子と私とは歌の神に媒介されたようなものだった。少なくとも歌の上だけでは二人は相思の仲であるような空気がかもされた。それから後に見せ合う歌は相聞の部に入る歌になってしまった。しかしそれは現実の恋であるよりも歌の上の恋であった。
 香の高い柑橘類。燃えるような丹椿。濃く、暖かい潮の色、海べの砂州と、嶋々の浦わ、尾道の自然は歌の材料にみちみちていた。少女の追憶は歌の思い出とからみ合って、私の思春期の絵本を美しくしているのである。
 私たちは万葉集の恋歌を競って暗記した。もし出されて、そんなのは知らないと言ったら恥だと私たちは思っていた。しかしそんなにしてもやっぱり知らない歌が残った。それ程万葉集には恋の歌が多いのであった。
柳こそ伐ればはえすれ世の人の恋に死なむをいかにせよとぞ
 鈴子からこの歌を出された時には私は困った。下の句など見るとどうも現代人の歌としか思えないのであった。
「君がつくったんだろう」
「知らないの。こんないい歌。ちゃんと万葉の東歌の中にあるのよ」
「ふん、そうかなあ」と私は頭を掻いて、
「じゃあこの歌はどうだ。鹿のごとやさしく君が踏む路の草のあいより春立つらんか」
「万葉でしょう」
「おどろいた。僕の歌だよ」
「あなたの歌? うまくなったわね」
「馬鹿。君のことを詠んだんじゃないか。君は鹿に似ているからさ」
 私たちはもうこんな言葉使いをするようになっていた。二人は夢に充ち、歌に充ちて幸福であった。

 尾道時代の私の思春の思い出を、私にとってこんなに美しく感じさせるのは、それが初々しくて、肉体的の慾情に汚されていないからであろう。肉体的の慾情はすでに利害の意識の一端である。そのため彼女が手に入れたくて何かの技法を考え出すようになっては、もう追憶はスヰートでなくなってしまうのだ。感情が豊富で幾らかませていること、しかも感覚的にナイーヴですれていないこと。それが私の年少の恋愛の手習いを私の一生涯中の愛惜すべきひとくさりとして、可憐に思い起させる条件なのであろう。
 鈴子との歌学びにからむいきさつも所詮そうしたロマンチックな絵本の中の出来事に過ぎなかった。私たちは一度のキスもなくて過ぎた。肉体的な慾情もない代りに、リアリスチックな生活配慮もないのだから、まじめな恋愛とはもとより言えない。いわば私の恋愛の感情の操練ユーブングがこうした少女達との交友とすさびの間に行われていったのであった。
 しかしそうは言っても、もとより官能の刺激がなかったのではない。私は鶴子やすみ子や、鈴子やまた後に書く安子の美の肌ざわりをもちゃんと嗅ぎ分けていた。その皮膚の色や、髪のくせまで皆それぞれの異った魅力で私を牽き付けていたのであった。
 鈴子は丈の高い、美しい斑のある鹿の子の様な体臭を私に感じさせていた。その鹿があしびの花のかげから身をあらわすように、やさしく、ふうわりと、けれども何か躍りかかって来るように溌剌と私に印象するのであった。
 彼女は美しい西洋封筒に※[#「謹のつくり」、U+26C0C、146-7]の花など入れて恋の歌まじりの手紙をよこしたりするようになった。それがすぐ目と鼻との間にいていつでも逢える私によこすのだ。今では姉も、従兄もそれを可笑しがったが、決して開封するような事はなく、そのまま渡してくれた。どうせ子供のする事だと高をくくっていたのであろう。けれども彼女は、
「返事は手渡ししてね。家へよこさないでね」
 と言うのであった。母親は少し厳しいらしかった。それに男の子と女の子では保護者が同じようには扱えないであろう。
 私も恋の返歌まじりの手紙を書いて、逢った時渡すのであった。大概お宮の裏の林の中で逢った彼女はその手紙をその所では開かずに、懐の中にしまって持って帰って読むのである。そのくせその場では何でもべらべらおしゃべりしたり、からかい合ったり、喧嘩したりするのであった。
 が或る日彼女は非常に悲しそうな顔付をしていた。
「どうしたの?」
 と訊くと、
「あたし今日とても悲しい話を読んだの」
 と言って彼女は昔王女が伊勢の斎宮にお立ちになる時の儀式のことを話すのであった。
「処女のままの内親王様がいよいよ伊勢へ御出発になる時に、天皇は跪いてお別れの御挨拶をなさる皇女に向かって、
『ふたたび都へは帰らせられな』
 こうおっしゃって、皇女の髪にお櫛を挿しておあげになるのですって。そのまま一生大神宮さまへお仕えになって、お嫁ぎにならずに、都へもお帰りにならないんですって。……あたしとても畏れ多い、悲しい気がするわ」
 私も聞いて深く打たれた。
「うむ。尊いね。平民にはわからない犠牲と奉仕だね」
「あたしその話を聞いてから、巫女みこになることをはずかしがったり、淋しがったりするのはすまないと思いだしたわ」
「うむ。それはそうだね」
 鈴子は自分の身につまされたのであろう。ひとつには鈴子の家の家運が日に傾きつつあるということは色々なことに反映していた。それに妹もない彼女は、社になくてならぬ巫女の勤めを当分止められそうもない運命を感じたのであろう。
 真間の手児奈てこな桜児さくらごの伝説などがいつも二人の間の話題だったのは言う迄もない。
 古井の傍に名もない墓などあると、
真間の手児奈の奥津城どころ
 と彼女は口吟んだものだ。又森の下草に散りしいている花を見て、
桜の花は散りにけるかも
 桜と私がやると、彼女は直ぐに
春さらばかざしにせむといし
 と桜児の歌をつけるのであった。
 彼女の追憶は私にはどうしても巫女として浮んで来るのである。
 そうした追憶の一番濃いのは住吉神社の夏祭りの夜の神楽かぐらの折のことだ。
 尾道は夏祭りの多い港であるが、住吉明神の祭礼は「おたび」と言って、街はずれの「御所ごしょ」という海べの草っぱのあき地に神輿が移って、一夜を仮泊されるのであった。
 住吉神社は中浜なかはまという海べにあった。満灯飾した大船小舟が一杯集まった。神輿の御座船は一きわ美しい屋形船で、旗のぼりや、玉くしなどの立ち並ぶ下に、礼装した神官たちがいずまい正し、伶人が楽を奏でるなかに、私の鈴子は美しい巫女の装いして、今宵は化粧も濃く匂うばかりに立ちまじっているのであった。
 花火は打ちあげられて夜空にひらいた。山車を飾った船の列は御座船の後に続いた。幾万の拍手はひびき、神名は流された。
 私は姉と別の小舟に乗って、参詣人の乗客たちと一緒に供奉の船の行列の後ろからついて行った。私たちの舟にもやはり紅堤灯が吊してあった。「御所」まではかなり漕ぐのであった。
 御所の浜べには迎えの人が一杯集まっていた。神輿は船から担ぎおろされて仮殿に奉置され神事が恭しく、華やかに執り行われた。
 私は姉と少し離れた草地にテントを張った氷店で、涼みながらお神楽の初まるのを待った。今年は大漁の祝いもあって、夜通し神楽があるのだと鈴子から聞いていたからだ。
 張り出した神楽殿の三方をとり巻いて、野天の座席で見物人はギッシリと詰まっていた。人いきれで汗臭く、立ってる人たちは押し合っていた。
「押すなや、せぐなや、神楽場じゃないぞ」
 こういう俚言が備後にはある。それ程神楽場はこむのであった。
 お神楽が初まった。
 初めのうちは簡素な、儀式的な舞いばかりであった。そのうち信一君が出て来て、茣蓙舞というものを舞った。彼はきまり悪そうに、自信なさそうに演じた。ぽつぽつと仮面を被った、相舞いや、グループの舞いが演じられだした。見物席は色めき出し、お祭り気分が漲り初めると、舞台の方も自由になりだした。モドキ道化の舞役も出て来た。
 何という神楽なのか釣ばりを咽喉にひっ懸けて苦しんでるモドキを大国主命か誰か出て来て除ってやる滑稽な仕草と対話のある神楽が演じられる頃になると、見物の間には爆笑と歓呼とが伝わり、だんだんと狂言小屋や、角力場のような光景に化して行った。
 初めは男ばかりの演舞であったがとうとう女役が登場しだした。見物はそれを待っていたのだ。
 いの一番にあらわれた神楽乙女は鈴子であった。
 彼女は金色の冠をかぶり、千早を着てあらわれた。そして、片手に三方をささげ、他の手に木綿紙手を持って美しく清々しく舞った。地は笛と締太鼓に銅拍が加わったのが躍動的でよく乗った。
 私は息を凝らした。
「鈴子さん今夜はきれいだわね」
 と姉が言った。
「何か油が乗っていますね」
 私はそう言いつつ、彼女の手足の動きを追っていた。
 彼女は見物の歓呼のうちに退場した。
 段々と多勢出て、舞いも対話が伴いだした。その対話の中には地方の伝説があり、方言が使われていた。舞台と見物とが融け合って来た。
 剣舞も演じられた。三方荒神も舞われた。
「三方荒神、中のが大将」
 と子供たちは見物席からはやした。そうする慣わしなのだ。
 しかしこうなると場内はざわつき出し、つきものの押し合いが初まり出した。それをやりに来る若い衆や沖仲仕などもあるのだ。
「国堅め」と言って東、西、南、北、中央の五人を象る五人が五色の幣を持って舞う頃になると、めきめきと垣が折れる音などして、いよいよ神楽場の場景になったので、姉は恐れて帰ると言い出した。
「僕はもっと見たいなあ」
「じゃあんた見てお帰り。あたしだけ帰るわ」
 車に乗る姉を見送ると、私は又引き返して見物の中にもぐり込んだ。
 もう自由だ。押し合いでも、へし合いでもやってやれ。
 実際私は神楽場の空気をおもしろいと思った。民族的な、土俗的な力強い何ものかがあった。「盛んな」という感じが本当に出るのは、角力場か、神楽場である。
 何から取ったものか、太郎、次郎、三郎などと言うのが出て問答して、知恵くらべ力くらべ、などする仕組みの舞もあった。又日本武尊の故事から出たらしい火の舞もあった。征服的民族としての原始的気魄が残っていると思った。天ノ岩戸の時以来の天真な、快活な、自然人らしい空気が神楽のなかに伝統しているのだ。
 女の見物などもきゃあきゃあ声を立てながら見ていた。そして人波に押されながら楽しそうにしていた。
 大蛇退治の稲田姫は他の娘が勤めたが、八乙女と言って、八人の神楽乙女が揃って舞う神楽には鈴子が出た。見物は熱狂していた。私は鈴子が一番美しい気がした。
 私は鈴子から聞いて彼女の出る役を知っていた。後はもひとつ今夜のプリマ・ドンナともいうべき豊玉媛の役がある切りであった。それで彼女は解放されるのだ。
 私はその演舞を心待ちつつ、押し合いの波にまじっていた。
 とうとう彼女は出た。何というミスチックな原始的な、美しさだろう! 彼女が神代の女性の神々しさと竜女の不思議をひとつにこめて、潮干る珠、潮満つ珠を両手にささげ持ってあらわれた。彼女のひとみはまさしく遠い水平線の向こうの国と、恋し男神との夢を追っているようであった。笛と太鼓と銅拍子が急調に乱れて来たと思うと、彼女も劇しく、狂うような舞いながら舞台を駈け廻った。誰れが、いつの頃から振り附けたのかは知らないが、日本民族にはジャズのような音楽と、南方の土人のような踊りが伝統しているのらしい。
 私の鋭い年少の感受性は神楽というもののチャームを把握した。それはあの古事記の中に満ちている原色的な、疲れを知らぬ神秘な生命感と合調するものであった。
 私は酔ったようになって神楽場を出た。草っぱは、ひいやりとして星が爛漫としていた。月見草が夜目にやわらかく沈んで見える野を横切って、私は海べの心覚えの大岩のところに歩いて行って、身を寄せた。振りかえると神楽場の灯と、囃子のとよもしとが手にとるようであった。波が砕けていた。
 私は何か知ら悠遠な気につつまれていた。神秘というものほどたましいを覗くものはない気がした。
 私は露のある草の上にゴロリと仰向になって、夜空を仰いだ。星もささやくような気がした。疲れた身体が快く大地の呼吸にふれた。
 久しいこと私はそのまま臥ていた。
 草生を踏むやさしい足音がして、約束して置いたように彼女がやって来た。
 私は立ち上って迎えた。
「やっと手があきました。ほっとしたわ」
「今夜はすばらしかった。花を咲かせたね」
「一年に一度だわ。それに今年は特別なの」
「豊玉媛、よかったなあ」
「そうか知ら。あたしおどりは嫌いじゃないわ」
「うむ。神楽というものはおもしろいもんだ。僕非常に好きになった。――ミスチックだ」
 見れば彼女はもう無雑作な浴衣に着替えて、日常の鈴子に返っているのであった。
 が私はやっぱりさっきの夢を追っていたかった。
「八乙女の中で誰れが一等きれいだった?」
「わからないわ」
「鈴子さん」
「あら」
 と彼の女は声を立てたが、嬉しそうであった。
「色んな顔があるもんだね。あんまり丸ぽちゃは現代的で可笑しいね。あんたは冠かぶるとよく似合うよ。せているから」
 がこれには彼女は不服らしかった。
「いつも千早姿でいられやしまいし……」
 だが、それにもかかわらず、彼女の特色はその瘠せぎすな、品よさにあるのであった。ちょうど、今夜彼女が開いて舞うた扇のように、骨細の美しさが彼女にはあった。
 また彼の女の美しさは目の前の白い、円い小石の浜辺の洲に似ていると私は思った。そう思うと私は彼女とその洲を歩きたくなった。
「少し海ばたを見ない?」
「ええ」
 と彼女は並んで歩き出した。「涼しいわね。あたしあれからお湯にも入らないし、汗で[#「汗で」は底本では「汁で」]じとじとよ」
 彼女は浴衣の胸をひらいて涼風を入れた。
「今夜はいい夜だ。どこまでもこうして歩きたいな」
「ほんとにねえ」
 二人はしばらく黙って歩いた。
「光り虫が」
 と彼の女は立ち止まって海べにうずくまった。そして手の平に海の水をすくいとった。
「これ、まだ光ってるわ」
「どれ」
 と私は覗き込んだ。
「おや、これはつるんでるんだ。あんたの手の平の上でつるんだ」
「あらっ」
 と言って彼女は砂の上に振り捨てた。
「素敵だなあつるみながら光ってるなんて」
 彼女は夜目にも面を赤らめたらしかった。そして、何とも言わなかった。けれども私たちは手をとり合っていた。
 私たちは波の寄る汀をこうして長く歩いた。どうで年に一度の住吉祭りの、わけて今夜は夜通しお神楽があるのであった。
 かえり見すれば、神楽場の空は明るく、群衆のざわめきはここまでも聞えて来るのであった。
 やがて小さな谷川が清水ながらに海に注いでるところに来た。彼女は素足のままだったが、草履を脱いで、裾を端折った。小さな足が流れを横ぎり出した。二人はころばぬようにしっかりと手を握り合っていた。
 思えばその夜が二人にとっての一番の接近であった。その後間もなく、彼女一家には災難が起った。というのは仁田さんが官有林の木を伐ったという嫌疑が小林区から[#「小林区から」は底本では「木林区から」]かけられた。丑寅神社の絵馬殿を建てるために境内の樹を伐ったのが、境界の不明のために、そうした事になったのであった。
 仁田さんは裁判所へ行ったり来たり、せねばならなかった。そして仁田さんの敵はそれを色々取り沙汰して中傷に利用した。尾福日報という地方新聞がそれを取りあげて、仁田さんに不利な記事を書いた。仁田一家の人々はそのために狭い尾道の世間を憚るようになった。
 仁田さんは当分謹慎の意を表すると言って、万葉の講義も止してしまった。
 氏子総代の伯父にも裁判所から呼び出しがあって、行き違いから仁田さんとも気拙きまずい事があった。
 そんな事で鈴子の家へ私が行かなくなったのと、鈴子の方でもいじけたりして、境内などで逢いは逢いながらも、前のように滑らかに行かなくなった。
 もとより尾道にもっと長く私がいられたら、そんな偶然的な障碍は時が経てば解消したであろうが、私は程なく三次の中学へ、再び学業へと復帰せねばならなかった。
 もともとリアルな根の無い、年少のすさびはそうした境遇の変化によって、いつしか色褪せて、別の生活の波にさらわれてしまったのであった。
 むしろ今日になって昔を追憶するときに、人間の遭遇と、その別れの運命とが惻々として哀愁を私にそそるのであった。その当時にはありあまる強い生の刺激が私をまぎらしてしまったのであった。
 人間が愛して、触れ合って、やがて別れるという過程は何という悲傷であろう。何故いつ迄も別れずに愛しつづけられないのであろうか? 時と、境と、変化との法則というものが人生にはあるようだ。そしてそれはひとつの摂理である。摂理は人間的なはからいより強いのである。我々はそれに従う外はない。けれど私はその同じ摂理が別れた者を一度結んでくれる別の次元の世界がどうしてもあるように思われるのだ。私は「あの世」というものを強く要請するようになって来た。
 リアルな生活関心に根を持たぬ男女関係は所詮すさびであった。尻切れとんぼに終らざるを得ない。尾道での私の年少の恋の手習いはみなそうした結末になった。またそれでいいのであろう。男女はその感情を操練しつつ成長して行かねばならぬ。ただぶっ突かった対手が素質がいいか、どうかはその人の大きな幸、不幸になるのだ。年少のころ優れた対手と触れあう機縁を恵まれたものは幸である。よい共存者が常に周囲に見出されるような共同体を私たちがつくらぬのもそのためだ。人は自分だけよくても成長して行けるものではないのである。
 尾道での私の年少の異性の対手に、も一人の少女を書きとめて置かねばならぬ。それは安子という貧しい養鶏屋の娘であった。
 彼女は父親がハワイに出稼ぎに行ってる間に産れた子で、あちらで育ったので英語が話せた。父親はずっと若い時、広島県に多い移民の群にまじってハワイに渡って農業をやって少し目鼻が付いた時、郷里から妻を迎えて、安子が出来たのだ。がその後農業に失敗して、金もあまり溜らずに郷里に帰って、ささやかな農園と養鶏とをやっているのであった。
 彼女と初めて知り合ったのはユーモラスなきっかけによるものだった。
 私は、今もそうであるが、子供たちに滑稽な真似をして見せるのが好きであった。「赤んべ」をして見せたり、舌を吐き出してお化けの真似をしたりして、子供たちが笑うのが楽しかった。今でも時々道を歩いていて、見も知らぬ子供たちの群れに突然それをやることがあるが、子供たちは必ず反応するものだ。可愛いものである。
 その時もそれだった。私は浄土寺道の町はずれを散歩していたが、雑草の生えた広っぱで子供たちの遊んでいるのを見て、いきなり両手を拡げて身振りをしながら、大きな声で、
Children, come here, I will tell you a story about George Washington.
 と英語で出鱈目にしゃべり掛けた。何もワシントンでなくてもいいのだが、中学のナショナル・リーダーで暗誦しているのでそうやったのだ。すると果して子供たちは珍しがって私の側にやって来た。そこで私は色々と滑稽な真似をやって見せると、子供たちはきゃあきゃあ喜んで、すっかり私になついてしまった。
 私は自分の名をミノルさんということにしたので、子供たちは私が通りさえすれば、ミノルさんミノルさんと言ってたかって来た。或る時などはゾロゾロと多勢で※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、157-18]の前までついて来たので、家の者もあっけにとられていた。
 或る日私は又その広っぱを通りかかって、子供たちに例によって、英語演説をしたり、赤んべやお化けの真似をしていたが、後ろで噴き出す者があるので振り返って見ると、粗末な洋装した少女がバケツに鶏にやる餌か何か入れたのを持ってさも可笑しそうに立ち止っていた。
 それが安子だったのだ。彼女は英語が解るから余計に可笑しかったのであろう。私は少々きまり悪かった。大人のいるところでは私は神経質に返ってそんな茶目は出来なかったので、けれども彼女もまだ小娘で、腕も脛も出してる所などは子供の部類としか見えないので、私はいい気になって滑稽を演じた。すると
You make much joke.
 とその少女が言ったので、私はちょっと面食らって、
Children like joke.
 とやった。これが彼女との対話の初めだった。
 その日はそれきりだったが、その後のある日私はやはり同じ広っぱで子供たちとふざけて、子供たちがついて来るので逃げ出したが、子供たちは浄土寺の境内までついて来た。
「ミノルさん、ミノルさん」
「ミノルさん、赤んべ」
 境内の一隅で人がテニスをしていたので、私はむつかしい顔をして手を振った。
「駄目々々、今日はもう駄目だよ」
 子供たちを追っ払って、コートの側へ行って見ると、四人でスリイ・ミッスをやってる一人はこの前の少女であった。
 やはり洋服でキビキビしたプレイをしていた。が間も無く彼女は敗退して、私の方へ帰って来た。私を見覚えているらしく、私たちは同時に会釈した。
 コートと言っても地面にチョークで線を引いて、ネットだけしっかり張ってあるのだ。決ったメンバーも無いらしく、二人しか交代する人がいなかったので、
「はいりませんか」
 と安子が言ったのをしおに私もプレイに加わった。
 パートナーは無く、一人が三つしくじれば敗退するのだ。次ぎの番なのでカウントしたが、知らない人ばかりなので、遠慮してミスを見逃がすと、安子が、
「モア、シリヤスリイ」
 と言った。私はテニスは自信はなかったが奮闘した。今日は面白かったし、当りもよかった。安子が私のミスを厳しくカウントするので、
 プレイしながら「ベリイ、シイリヤス」と叫んだら、彼女は笑いながら、
「エキスキュース、ミイ」
 と言った。その後組んでやる時安子と組んだので私たちは色々と話をするチャンスがあった。
 私は安子に好奇心を感じた。彼女は色が浅黒く、目が烈しく輝いて、すべての動作がスマートだった。美しいとは言えないが、気持のいい、卒直な性格だった。すべてに渡って、いかにも、植民地で育ったらしい粗野なところがあったが、気持ちに卑しいところはなかった。
 よく英語を交えて話したが、その英語は上等なものとは言えなかった。けれども私には清新な溌剌としたものとして、彼女は印象したのであった。
Where are you going?
 と通りで見かけた時など私が呼びかけると、
I'm going to market.
 などと答えて、忙しそうに歩いて行ったりしていた。
 私はテニスが好きになって、よく浄土寺の境内に行き出した。彼女が来ていぬかと物色する気があったのは確かだ。がスポーツとか、エキササイスとか言うものへの私の興味が動きつつあったのだ。そして安子との交わりで私は甘い、こってりとした情緒でなく、キビキビした多少ラッフなものへの感覚を呼び醒まされた。それが次期の私の中学時代の雄健主義へのキッカケになったのである。
 私は安子と話すと弾力のある毬か何かに触れるような快さを感じた。ふわりとした、包むような愛ではないが、真実な卒直な友情を感じた私は彼女をミス・ヤスと呼んでいた。
「ミス・ヤス、テニスに行かない?」
「行きたいけど今日忙しいの」
「つまらないな」
「あたし家の手伝いしてるもの。あなたはいつものんきね」
「のんきでも勉強はしてるよ」
「あたしは鶏小屋の掃除やら、お洗濯やら、いそがしいのよ」
 私は安子と遊びたくても、いつも用事が引っかかるので物足りなかったが、しかし段々と自分がぶらぶらしてるのが気がさすようになった。
 彼女は時々自転車に乗って走っていた。尾道の街は極く狭くて、自転車で乗りこなすのは容易ではないのだ。そんな時には彼女はきっと家の用事で行ってるのだ。
 私は自転車に乗れないので癪だった。
 私はどことなく安子に圧迫を感じた。彼女は私よりしっかりしてる気がした。それが又私を彼女に引き付けた。
 私は彼女には甘ったるい事が言えない気がした。同じ愛情を言い表わすにもテキパキした表現を用いねばならなかった。いわばテニスの球を打つようにして、彼女にぶっ突からねばならなかった。それが少なからず私の感情を鍛錬した。
 けれども私たちは逢うと互いに楽しかった。
 彼女はハワイの話をよくして聞かせた。
「ホノルルはとてもきれいな港よ。コーヒー畑で働いていたの。熱帯植物はきれいな花が咲くし、気候はいいし、日本人が沢山いてちっとも淋しくはないし……」
 と彼女は懐かしそうに話した。それはエキゾチックではなくて、懐郷的であった。
「ミス・ヤスはこっちより向こうの方がいいの?」
「だって小さい時からのお友達が沢山いるんですもの。ここではまだそんなにお友達出来ないわ。お友達になってね」
「ええ。僕こそ。今度向島の高見山に登って見ない? そしたら瀬戸内海の景色がどんなにいいか解るよ。今にこっちの方がきっとよくなるね」
「だんだんなれて来るわ。家のお父さんなんかこっちの方がずっといいって言うもの」
「病気はどうなの?」
「この頃大分いいわ。それに病気は借金よりましだと言ってたわ。病気は責める者が無いからだって。さんざん向こうで借金で苦しんだのよ」
 彼女は問わず語りにこんなことを言った。私は彼女の生きて来た世界が私のと違うのを感じた。
 私が一番胸を衝かれたのは岩井座に人形芝居がかかった折だった。私は例によって姉と見に行ったが、仲茶屋の横手あたりに売店を出しているのは安子の兄さんだった。果物や、おカキや、ラムネの類を並べてあった。兄さんはジャケツを着てラムネを売って見物席を廻り、そして安子は店番をして、売子をつとめていた。
 華やかに装うた姉と並んで人形芝居を見ていた私は、もし私の兄がああしたなりで、物売りをしているところで、恋人に逢ったらどんなに恥ずかしく思うだろうかと思った。けれど何故恥ずかしがらねばならないのだろう? 貧乏で、働くことは少しも恥ずかしいことではないではないか。そうしたことは虚栄心に過ぎぬのだ。
 そう思いつつも私は幕が下りて、安子が今度は兄に代って、「おカキはよろーし」と言いながら籠を抱えて廻り出した時には、自分の耳たぼが赤くなるような気がした。
 私は胸が痛くなった。私は下を向いていたが、やがて彼女は私たちの側を通った。彼女ははにかんではいなかった。そんな余裕もなかった。短い幕間を客をかき別けて売って通らねばならぬのだ。姉は何も知らずにおカキを買った。彼女はエプロンから手早く釣銭を出して渡した。また売り声を上げながら、廻って行った。
 私は家へ帰ってから考えこんだ。彼女がいとしくあわれだった。どうも自分が浮いてるような気がして落付けなかった。
 それから私は私の坊ちゃんらしいところを彼女に見せたくなくなった[#「見せたくなくなった」は底本では「見せたくなった」]。けれども彼女の方では何とも思ってないらしかった。
「※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、163-9]は明るくて、きれいでいいわね。あたし西洋店は大好きよ」
 と言っていた。
 私はクリスマスに彼女に手袋をプレゼントした。それは刺繍があって、指から尖きは露出しているもので、その頃の流行であった。
 私はプレゼントというものを初めてした。
 彼女は非常に喜んだ。というのは彼女はクリスチャンだったからだ。
 彼女はホノルルでカトリックの教会に行っていた。ホノルルはローマ正教の僧正が駐在しているのであった。
 彼女は日曜毎に教会に行った。そしてよく私を誘った。彼女は膝を突いて、十字を切る形など板についていた。
 私は学校のリーダーでマッチ・ガールというのを読んで知っていた。それで彼女が貧しいクリスチャンの少女で、私がプレゼントするということが、ひどくロマンチックな気がした。
 がキリストの信仰は私にはまだ入って来なかった。
 彼女は私にキリストの復活の話などしきりにして聞かせた。私は腑に落ちなかった。
「そんな事はあり得ないと僕は思うな」
 すると彼女は一生懸命になって、私を信じさせようとした。
「奇蹟というものはきっとあるんですって。偉い学者でもそれを信じるんだもの」
 私はキリストの信仰がどんな風にして彼女を動かして来たものかを知らない。しかし恐らく境遇のせいであったろう。
 が彼女は事情があって、市の勧工場に勤めることになった。彼女は毎日弁当を持って勧工場に通い、事務の手伝いしたり、商品の番をしたりした。
 私は彼女に逢いたいためによく勧工場に行った。ああやって番をしてるのは退屈で、つまらないだろうといつも思った。辛い現実というものの力を私は感じた。何故ならその力は私と彼女とが逢って語り合ったり、テニスしたりすることを残酷に妨げたから。
 が私を突き動かして、再び学業へ復帰させた動機が、この勧工場の二階で起ったのも不思議であった。
 その頃尾道には図書館がなかった。細谷という尾道に二十年も小学校長を勤めた人が、奔走して、ようやく市民のための図書館をこの勧工場の二階に開くことになったのだ。
 私は伯父の代理にその開館披露式に出席した。私は図書目録を色々めくって見て、蔵書の貧弱なのに驚いた。殊に新しい文学書や、小説などはまるでないのだ。新井白石の「折りたく柴の記」が私の注意を惹いただけだった。
「これが尾道の唯一の図書館か」
 私は今更ながら尾道の文化のプーアなことにいや気がさした。こんな繁華な町でこんなお粗末な学芸施設で済まされる商人達への軽蔑を感じた。私は失望と憤りのようなものを抱いて、列席していた。
 来会者も寥々としていた。鬚髪霜のような老校長は沈痛な顔をして、式辞を朗読した。
「尾ノ道の地由来文化なし、いはんや文政をや。ここを以て殷賑の市いまだ一つの図書館だになし、あに恥じざるべけんや……」
 老校長の式辞はこう初まっていた。私は共鳴を感じた。彼は市当局や、有志達に当っているように思われた。つづいて彼は開館の如何に困難であったかを述べ、蔵書の甚だしく貧弱であることを訴えて後に、
「されども市民一日も心の糧なかるべからず。命をつなぐの糧は必ずしも美肴たるを要せず、米、麦、豆にて足れり」
 私はこの一句が胸にじんとこたえた。私の内の浮華なものを刺されたような気がした。私は新刊の恋愛小説などが無いと言うので軽蔑していた矢先きだったので、老校長の苦心と、その質実な心ばえとに強く打たれた。
 私はこの勧工場で毎日番をしていて、遊ぶことの許されぬ安子のことを思った。
 少女と、恋と、小説との事ばかり思って、学校まで休んで華やかな街をあこがれて来ている自分のことが浮いた、のんきな、しゃれもののような気がして恥ずかしくなった。
 私はもう田舎の中学校に帰って勉強しようとその時決心したのであった。
 つづいて私のこの決心を強める出来事が二つ起った。
 一つは安子と高見山へ登ったことだった。これは彼女に瀬戸内海の景色がホノルルのよりも美しいことを知らして、彼女の郷愁を解消させようと思って私が誘ったのであった。
 私たちは彼女と彼女の兄と三人が出かけて山に登った。
 高度はさ程でないが、坂はなかなか急であった。私は初めは威勢よく歩いていたが、段々疲れて息切れがして来た。彼女は靴で岩伝いに敏捷に歩いて元気であった。彼女の兄はまたがっしりと粘り強く余裕綽々として見えた。
「あんたは健脚だね」
 と私が言うと、安子は息切れしてる私を見て笑いながら、
「ホノルルは高い火山脈があって、登りなれてるもの」
 と言って、疲れを見せなかった。
 絶頂に辿りついた時には私には気分が悪く吐気を催して、しばらくは景色を見る気もしなかった。
「存外弱脚だわね」
 と彼女は私をからかって、美しい狐のような軽い脛付きで岩の上にひょいひょい登って、景色を見晴らしていた。
 テニス、自転車、登山、彼女はスポーツでは私より一歩上だった。
 負けじたましいの私は内心ひどく屈辱を感じた。
 私は体を練らねばならぬ。
 私は心にこう誓っていた。ところがそれから十日たたぬうちに「御所」のグランドで福山中学と尾道商業との野球の試合があった。
 スポーツ好きの安子に誘われて、私はそれを見に行った。
 雪のように白いユニフォーム。日に焼けた、単純そうな顔。選手たちは健かに美しかった。ノックの響きは夏空に快くこだました。
 両軍みどろに奮闘した。応援の旗は波がしらのようにひるがえった。歓呼と斉唱。
 安子は夢中になって試合を見ている。私はいつも見て来た試合が今日だけは特別に印象した。
 私はスポーツと体育との美的精神に目ざめた。
 試合は僅少の差で福中の勝利に帰した。
 キャプテンが選手たちを率いて優勝旗を受けに進んだ時に、息を凝らしていた安子が私に言った。
「いいわね! スポーツマンあたし大好きだわ」
 私も彼等の健康と気魄の美に打たれていた。けれども安子の言葉は何故かなやましく痛く私にひびいた。
 僕も体を練ろう!
 私はこう決心していた。母校の建物が私の目に浮んで来た。三つの川の巴を描くところ、七日市河原のグランドの清らかな姿が。
 白帆会の演説。文章。学芸。――私を待っている光栄がそこにほほえんでいるのではないか。
 恩師や、学友たちの顔、顔、顔。
 私は学校へ帰ろう。あの山間の中学校へ!
 それでは玉の浦の自然よ。寺々よ。さようなら。わけても私と睦みあった少女たちよさようなら。ありがとう! 君たちは私の年少の夢を美しく呼びさましてくれた。私の初々しい生命に火を点じてくれた。陰電気を蓄電してくれた。私は君たちによって富まされ、潜勢力を得てこれから学校へ帰るのだ。見よ、私の神経衰弱は癒された。今や私は健康に充ち、知識慾に充ちた青春十八の中学生である!
 かようにして多感の思い出を残して、私は尾道を去ったのであった。

 華やかな海辺の市を去って、山間の中学校へ帰ろうと決心した私は、もう別のイリュウジョンによって鼓吹されていた。それは力強い雄健の世界、苦痛とたたかって何ものかを獲得し、建設しようとする精神のイデアであった。
 私は、考えて見れば、年少時代から今日まで、何らかの理想――夢を最高度に描いて、それによって鼓吹されることなしには生きる力の出ない性格であるらしい。そしてその夢を夢み初めると、それに対して最高度の忠実と努力とをささげようとする型の人間であるらしい。まさしくこれはイデアリストの型であろう。そして考え方では、これは単純な、一癖も二た癖もない、含蓄のない生活法式であるでもあろう。しかしこれが私の本質である。うわべはともかくも、どんな権謀や、知略のありそうなポーズをとって、玄人らしい顔をして見ても、私の本質はそうした単純な型の生活者であり、したがってもし底の知れない、複雑味のあるのがえらい人間の資格であるのなら、私などは自分自らの本質を裏切ることなしにはえらくなる事が出来ない。
 しかし私はそれではどうも腑に落ちない故に、普通にはそうした資格を不可欠と考えられている政治の領野に於てさえも、新しい純真な理想主義の政治と、政治家との型がつくられねばならぬことを要請しているのだ。私がイギリス風の外交の型を旧い、間違ったものとして非難し、憎むのもそのためだ。私は私自身を複雑化し、一すじ縄で行かぬ人間に鋳直することで外界と順応することをせずに、外界を純一無雑につくり直すことで、私と一致せしめようと試みているものだ。
 これが私の最後の負けじ魂の発露である。
 さて十八歳の中学三年生の私は、やはり一種の負けじ魂から都会と少女とをあこがれて、一年落第したわけであるが、再び学校へ帰ろうと決心して、三次へ発足する時にはやはり同じたましいから、もう私を健脚たらしめようとして、十八里の道を徒歩で行こうと志した。それも一日行程で踏破しようと言うのだ。そのため尾道を私は未明に出発する事にした。普通に歩いたのでは一日十八里は歩けるものでない。私は車夫のように「駆け足」をまじえて、上り坂は歩くが平らな道は走って、夜まで三次に着こうという計画なのだ。
 来た時のように、車に乗って帰るのだろうと思ってた姉は、私の計画を聞いておどろいた。
「お止しよ、そんな無理なこと。あんたは脚気を治すために尾道に来たんじゃないの」
「脚気はもう直りましたよ。僕はこれからの山の中の中学に帰ってうんと体を鍛えるんです」
 姉は私の顔を見ていたが、
「でもあんたがそんなに元気になってくれたのは嬉しいわ。庄原のお父さんも、お母さんもお喜びでしょう……尾道に来ていてよかったわね」
「ありがとう。姉さん。僕とても感謝していますよ。……一寸言えない位です」
 と私は心から言った。子供のように可愛がってくれた伯父、伯母。人のいい寛大な従兄。――むつみ合った少女たち、仁田さん、福井さん、子供たち……とても忘れられないと私は心の内で思った。
 姉は明日出発する私を送る意味で、牛肉のすき焼きをして、皆で晩飯の時色々とこの一年間のことを話し合った。
「今度奥へ帰って御覧、何てきれいな、垢ぬけした子になったかとおどろかれるから」
 伯母がこう言ったのはお世辞では無かったらしい。つまり私の目的は達したわけだ。だが私は苦笑した。私の志はもう別にあったからだ。
 翌る朝まだ暗いうちに私は出発した。父の店の前髪の末吉という私より二つ年上の少年が、いいと言うのを聞かずに市村という三里ある村まで送って来てくれた。
 いよいよお別れという時、末吉は涙をこぼしていた。私の事を尾道の方言で、「坊さん、坊さん」と言って、少年同士一年間色々と親しみ合ったのだ。私も悲しくなった。橋のところで別れたが、幾度振り向いてもまだ立って見送っていた。いよいよ曲り角で、私はステッキを振って合図して別れた。
 いよいよ尾道を離れたのだという気が急にした。
 私は足を速めてスタスタと歩き出した。道路の傍の電柱を数えながら、一里をどの位早く歩けるかを測りながら歩いた。人力車も幾つも追い越した。旧道があれば、喜んで山道の坂を越えて距離を短縮した。歩くことが目的であった。その心の底には高見山で安子にからかわれたことの屈辱感があったのだ。
 がそのようにしても、宇津土、甲山を経て、吉舎に着いた時にはもう暮れ近くなって、足は棒のように疲れた。それでも豆の出来た足を引きずって歩くと、馬洗川の堤に出た。
「馬洗川だ。もう母校の歌をささやいてるような気がする」
 なつかしさがこみ上げて私は岸伝いの道路を急いだ。が三次を三里はなれた三良坂という村まで来ると、日はとっぷりと暮れてしまって道も見えなくなった。
「もう三里だ」
 と心は焦って、いやでも漕ぎ付けようとしたが、ぐったりと疲れて、どうしても足が動かなくなった。私は川堤の草の上に身を投げ出してしばらく凝っとして、動かなくなった。馬洗川の川瀬の音が高く聞えた。
 しばらくして身を起した私は、もうどうしても足が動かぬので村はずれの粗末な宿にやっとたどり着いた。つまり十五里歩いたわけだ。これが私の一生涯での一日の徒歩行程のレコードである。
 宿のランプの下で私は尾道の人々に手紙を書いた。
 私は純情というものの生活法の上での価値を幾度でも繰り返して言って置きたい。生活の思い出をつくるものは純情だ。純情こそどんなハンブルな、平凡な生活材料でも心に沁みつき烙きつき、尊い宝とするものだ。純情なかりせば、どんな絢爛たる生活材料も追憶に残らず、糧にもならない。
 市村の橋の袂で別れた前髪末吉の姿だけでも今となってはどんなに尊いものであろう。篠竹の杖、五銭位のハンカチ。それでも今日の私たちが歓楽のきぬぎぬに幾十の女人と別れても、その十分の一ほどの感激も生み得ないのである。
 一泊五十銭ほどの三良坂の宿の蒲団の中で、私はどれ程の高い、熱い、美しい感情の波を体験していたのであろう。未来に描く雄健の美的精神の夢。ロマンチックな港町への追憶と感謝、一日の奮闘の第一歩の挫折への嘆き、明日の努力への決意――それらは詩にも、音楽にも相応しい第一流の生活体験ではあるまいか。
 今日でも自分と、周囲とに純情だにあるならば、いかに物質的に貧しくとも、そうした精神と、感情との尊き波の中に生きられないことは無い筈なのである。
 人生のがらくたを引っくり返して立ち現れて来る呪うべき壮年期の乾燥と、汚濁よ! 私たちはもう一度貧しき純情をとり戻して、日々を新しい感激の中に生きねばならないのだ!
 三良坂の宿での思いがけぬ仮泊の夢がさめると、若々しい精力はもう完全に恢復していた。私は篠竹のステッキで路ばたの藪をたたきつつ、口笛まじりに、朝霧のこめた馬洗川伝いに一時間も歩くと母校の柵や、いらかがもう見え出した。
 もう三年間私のいのちをあの学校に置くのだ。あの学校を中心にして、私の年少の夢も、努力も向上もあるのだ。
 そう思いつつ、私は三次町に着いて、三年間渡りなれた長い巴橋を渡って、宗藤についたのであった。
 宗藤の家庭の空気は、前にも書いたように、※[#「仝」の「工」に代えて「久」、屋号を示す記号、172-18]とはまるで違って暗い、自由のないものであった。専制的な、せせこましい叔父一人のために、家の中の幸福がこわれてしまっていた。叔母は賢い信心深い女であり、その養女重子は私の実妹で美しく、怜悧な少女であった。叔父さえその不幸な、一種の変質的な、頑迷な性格を持っていなかったら、家の中は裕福ではないながらも、明るく、楽しく暮らせたのは確かであった。もっとも叔父の養父、叔母のためには舅にあたる老人があったが、これも頑固な人であった。股引を穿いて家付きの小さな畑を耕しに行った。夜はきまって肩衣をかけて仏壇に向かって読経し、それが終ると、寝る前にかんびんに一合ほどせんべいを肴に酒を飲んだ。外には何の趣味も無かった。毎日同じ事を繰り返していた。まったく消極そのもので、見るからに味気ない生活ぶりであった。私は仏間の隣りの八畳にこの「祖父さん」と寝るのであった。叔母はこの舅にもよく仕えた。店は古衣商で、乏しい品物が並べられ、屋根看板もなく、店頭には古衣の半纏股引とがぶら下っていた。どう見ても美とローマンスとに無縁であった。叔母は美と趣味との解らない女ではなかった。芝居も好きだったし、着物なども数無いのを美しく、品よく大事に着ていた。商業ももっと手を拡げたく、又それだけの才能もあったのだが、叔父がどうしても許さなかった。
「あなたも少し仕入れをしましょうよ。大丈夫さばけないことはないんですから。私だって商売は嫌いじゃないんですし」
 叔母が叔父の機嫌のいい時を見てこう言うと、叔父はたちまち機嫌を損じて、
「資本が無いから手は拡げられないよ。わしは派手な真似をするのはいやだ」
 とにべもなく答えるのであった。
 妹の重子が側から、口を出して、
「でも屋根看板だけはあげましょうよ。近所で家だけあがってないんですもの、私きまりが悪いわ」
 と言うと叔父は怒り出して、
「そんならお前たち勝手にしろ。お前たちは味方だからな」
 と言うのだ。重子と叔母と私とは倉田家の血つづきなのでそうしたひがみが叔父にはあった。それだけでなく、軒燈はあっても夜火を点さないのだ。昼間は近所なみだが、夜になると目立つので、重子はそれを苦しがった。私は四つまで私と遊んだ彼女が宗藤家へ養女にやられて結婚するまで、娘ざかりを、そうした心苦しさにどれ程心をなやましたかいとしさに堪えぬ。彼女には倉田の氏の伝統である美とロマンチックの花やかな本能があり、又その天成の美貌と才能とはそれに相応しいものがあった。彼女はいつでも首席であった。
「私の一番の苦しみは父を尊敬する事が出来ない事です」
 と彼女は言っていた。勝気なところのある彼女は、叔母をかばうために、叔父と争う事などあった。すると叔父は大人気もなく、真赤になって、
「わしを馬鹿にする。そんなに言うなら勝手に出て行け」
 と怒鳴るのであった。行く所がないというよりも、父の憤怒のポーズに恐れをなして、重子は泣いてあやまっていた。
 叔母と重子とは忍従の日々を送っていた。
 私は五年間同じ屋根の下で食を共にした恩のある叔父を悪しざまに言いたいのではない。叔父は実に浄土真宗の正機の凡夫であり、親鸞のいわゆる邪見驕慢の衆生であった。というのは叔父はその行持にもかかわらず、確実な他力念仏の救いを得ていた。その信心が叔母に伝わり、それが私に伝わったのだ。私は「出家とその弟子」をこの信心深い叔母にささげたが、正しくはこの叔父にささぐべきであったのだ。しかしそうした宗教的の目はずっと後にひらけたので、中学時代には私はこの叔父を敬愛することはどうしても出来なかった。私は学芸への愛と、学校での光栄がなかったら、私は到底五年間宗藤家に辛抱することは出来なかったであろう。
 尾道から帰って来た私は又以前の屋根裏の見苦しい書斎に入れられた。しかし私は今は花やかなものにあこがれているのではなく、克己と雄健とに身心を鍛えることに引かれているのであった。
 私は柔道を初めた。テニスの倶楽部をつくった。そして自転車の稽古をやり出した。
 私は前のクラスでも首席だったのに、今度は一年下級のクラスと一緒になったのだから、席次の競争などする気は起らなかった。学芸ではクラスの仲間から特別扱いされていた。しかし武芸ではそうは行かなかった。柔道もまるで新米であった。テニスもうまくはなく、自転車も初めたばかりだ。しかし私は熱心に柔道を稽古した。そしてその冬の寒稽古には、未明に起きて雪の積んだ二十丁の道を毎朝道場に通った。精勤の結果技も進んで私は級で六位に進んだ。角力では柔道で一位の堀田という少年も私にかなわなくなった。
 しかし私の重んじたのは技よりも体と精神とを練ることであった。私は反動的になって、校友会誌に「星と菫とを呪う」という文章を書いた。新聞を見ると「大学白粉」という広告がある。これは都会の大学生には白粉をつけるものがいるのだ、青年がそんな柔弱なことでどうすると慨いた。これは一年前尾道に行くころには、自分の頬に紅を塗ったりした自分の事を思えば皮肉であった。私は七日市河原で自転車に乗ることを稽古し、やっと乗れるようになると、授業を休んで自転車に乗って走った。W倶楽部というテニスのグループを作って、毎日々々テニスをやった。技はどうも上達しなかったが、他所目には私が牛耳をとってるように見えて、よく私の所に試合を申込まれた。私はエレファンというあだ名を付けられた。それは下脚部が太くて、柔道の時胴締めが強く効くのと、平和なようで案外獰猛だという意味合いであった。
 私は卒業するまでずっとこのニックネームで通った。
 この頃私はこの獰猛という言葉を合言葉にしていた。これは一高の気風の地方学生への影響でもあった。私はこの頃から一高を憧憬していた。その寮歌集を読めば惹き付けられないわけには行かなかった。
 しかし私の獰猛主義は一方学芸への尊重と、はなれないものであった。私は学芸を愛しない運動家を軽蔑した。学校の授業は別にして、残りの時間を勉強と運動とに出来るだけ精励しなければならないというのが私の主義であった。私は考えているだけでは満足せず、それを主張した。
 その頃学校に正気会という武芸のための会が出来た。これは校長や、生徒監の肝煎りで出来たもので、今から考えると勢力のある運動家を通して生徒を馴致しようとする一種のポリシイをも含んだものであったらしい。発会式の時運動家の連中が幅を利かして演説した。私は何となしにこの会の、その半官半民的の気風が気に入らなかった。
 そこで私は立って演説を初めた。
「我輩は優等生である」
 というのがその冒頭であった。趣意は学芸を愛する者のみ運動家たる資格がある。ただの暴力的な運動家が幅を効かせたりするのは学問の府として排斥すべきであるというのであった。生徒監や、運動家たちは苦い顔をした。が後で徳永先生という私を愛してくれる数学の先生が、
「痛快だった。しかし君は才気をつつしみ給え」
 と注意して下さった。
 年少の客気があふれていたのであろう。今から思えば冷汗の流れるようなことの数々がある。だがそれもなつかしい追憶だ。「学問の府として」といったのは校長さんが、「北備の最高学府」であるとよく言うからであった。中学校でもそのつもりであった。
 こうした事があってから私はいわゆる運動家の連中と、私のように一種のギリシャ的精神から身心を鍛えようと志している者との間のギャップを感じて来だした。彼等は私党を組んで下級生を撲ったり、クラスの中で幅を効かした。そして試験の時にはカンニングをやった。そしてロマンチックを伴わぬ男色を漁った。そして私が最も不快だったのは、割合いにずるくて、共同の悪事を見付けられた時に自分達は逃げ、しかも先生にとり入る傾向のあることであった。
 野球部の連中にそれがひどかった。私はだんだんとそうした運動家と自分とを区別するために、正義と美的精神から運動というものを見ることを力調するようになった。しかし正義は野暮臭く、美は柔弱に見えるのを嫌うために、少しく変態的に「意気地」というような形をもってそれは表われた。
 すなわちただの級長的方正ではないぞと言うところから、学校当局への反抗的なポーズとなり、又美の要求を柔弱性と見られないために、ひとつの男らしさの一属性として、つまりギャランテリーとして追うて行こうとするようになった。
 修業式の賞品授与式の時に、大てい品行方正、学業優等、勤勉超衆とくっついてるのだが、私のだけはいきなり学業優等きりで何も無いので、賞品を受けに出ると皆どっと吹き出した。しかし私は顔も赤くせず内心得意であった。
 私のクラスに堀野伴市という運動家があった。これは正気会の幹事でクラスが一番勢力があった。この男は確かに私に牽制されて、悪風に堕ちることからすくわれていた。私は彼を美的精神に導こうと私かに工夫していた。私の考え付いたのはまず「百人一首」であった。私はやはり同じクラスの堀江太郎という「気はやさしくて力持ち」の少年と、も一人池上正夫という非常に優美なことの好きなクラスメートを語らって、柔道場の畳の上に「歌がるた」を並べて堀野を誘ってやりだした。池上君は女性のような少年で、美しい読み方をした。堀野はまるで拙かった。私はさんざん荒してやった。そこで負けず嫌いの彼は歌を暗誦しだした。そして「かるた」が非常に好きになり、技も見る見る上達した。そこで今度は池上君にすすめて、旧館内という屋敷町で娘たちを集めさして「かるた会」を開いて、堀野を誘った。堀野は娘たちの前では意気地がなかった。尾道での私の訓練がものを言った。私は会をリードした。堀野は私たちにいわば文化的に圧迫を感じて、自分の野蛮性を美化しようと志すようになった。彼は優美への趣味を目ざました。「かるた会」が好きになった。
 或る日堀野が私にちょっと来いと言うので、博物教室に行って見ると、彼は誰れも居ない教室のボールドに、チョークをとって、
Let me open your flour-gate with my keet
 と書いて、ニコニコしながら、
「どうだ。いい文句だろう」
 と言った。
「いい文句だね」
 と私も合槌を打って、ニッコリした。
 私は彼の中に優美なものが目ざめつつあるのを知って喜んだ。彼一人がそうなることはクラスの平和のため、気風のために大変好かった。
Won't you go to play card?
 と彼の二階の部屋の窓の下で声をかけると、
Yes, I'll.
 と、返事して、一寸顔を出して、すぐ下りて来るのであった。
 私たちはグレスフリーという語を使った。「最高学府の生徒はレディに対してはグレースフリーでなくてはならぬ」
 かるた会の席で娘たちに失礼なことを言うものがあると、堀野が一番に顔をしかめるようになった。
 しかし私たちはそうして「かるた」を夜明しでとりながら、すぐその足で二十丁ある学校へ寒稽古に通ったのであった。そして授業の初まるまでには汗びっしょりになって、それで優等生でなくてはならないのだ。
 私はその頃の「かるた会」の事が忘れられない。
 私たちはギリシャ的精神の中で武と文とを追っていたのだ。
 旧館内というのは元の士族町のことでひっそりとしていた。かわるがわる読み役になる者は優美な読み方を工夫せねばならなかった。初めに空札一枚読むのに用いる歌をめいめい工夫して来たものだ。鈴木秀一という郡長の令嬢の秋子さんというのも常連の中にいた。この郡長は学校の式の時の最高官吏で、来賓総代で祝辞を述べるとき、いつでも「臣秀一」といった。そのいかめしい郡長の令嬢は私たちの「かるた」仲間で脱線的な、活々した娘であることが私たちにはおかしく楽しかった。
 かるた会がはねて興奮した顔を、夜気に冷して、郷の川に長く渡した巴橋に来ると、雪が真白に積んでいる。
白きを見れば夜ぞふけにける
 と誰れかが言うと、急に寒さを催して、外套の襟を立てながら私たちは家に帰るのだ。
 宗藤では勿論叔父の機嫌が悪い。こんな時には叔母がそっと起きて、戸をあけてくれたものだ。
 妹の重子は叔父がやかましいのでかるた会へは殆んど出ず、たまに出ても技も拙く、そして着物が羽織だけ他所行きでちぐはぐだったりして、私は裏悲しかった。何故なら彼女は桃の華のように美しく、性質も勝気で、頭もよかったから、家さえ自由であるなら、当然この小さな社交界の花形となるに相違なかったからだ。
 私がこの陰鬱な、しみったれた環境にいつつ、常に三次で文化的な明るい、第一線に立ってることが出来たのはどうしても私の内なる生命力によったものだと思わずにはいられない。
 その頃校内で、私のそうした、美と正義とに伴われた雄健趣味を満足させるような出来事が起った。
 それは上級生の運動家で、男色家で、校内で一番幅を利かせていた野蛮な、横田という寮生を、吉本という通学生の硬骨漢が発頭になって、同級生一同とはかって校庭でリンチした事件であった。この横田という男は横暴の極同級生さえ撲っていたのであった。そして寄宿寮では美少年たちを脅やかしてはもてあそんでいた。
 リンチは私の目の前で行われた。
 初め昼食後の休み中吉本君は校庭に横田君を呼んで、
「皆が君をストライキするというがどうする?」
 と言った。彼は木刀を懐にしていた。
「止むを得ん」
 と横田は答えたが顔色は青かった。
 吉本君はいきなり木刀で横田君の頭を打つと、
「みんな来い来い」
 と招いた。たちまちにして方々から同級生たちの姿があらわれ、横田君はたおされて、頭を抱えて地上に横たわり、皆がとり囲んで足蹴にした。その中にはいつも柔和な人たちの顔も見えた。
 横田君の仲間の数名の寮生も同時にリンチされ、これはほうほうの体で寄宿寮に逃げ込んでしまった。
 生徒監たちは駈けつけたが手が付けられなかった。
 リンチが終ると、その級の人たちは、「皆講堂に集まれ集まれ」
 と呼び廻った。そして全校生徒は校当局からのふれの如くに、講堂に集まった。
 吉本君はどもりであったが、壇上に立って、今日横田をリンチした理由を述べて、反対の者は言えと言った。
 反対を申し立てるものは無かった。
 生徒監や、日頃叱咤する体操教師たちは講堂に侍立してるだけで、この非合法の集会を解散させることは出来なかった。
 全校生の賛成でリンチした事になってしまった。
 それから校当局の処分になったが、横田、吉本両君共二週間の停学という事になり、以下それぞれ一週間位の停学で結末となった。
 その後は横田君は運動も止め、全然気勢あがらず、冬は火鉢にもあたれず、クラスメートから絶交されたまま、ともかく学校を卒業することだけはさせてもらった。
 この出来事は非常な、強い印象を私に与えた。
 私の感情はこの出来事を支持した。横田君のような型の運動家は私の憎む所であったし、それに彼は私に無礼なことを言った事があったからだ。私がまだ一年の頃彼は野球選手であったが校庭で私を穴のあく程見つめていたが、その態度がオフエンシヴなので私はひどく不快であった。後でN君に聞くと彼は、
「あいつはなる程シャンだ。寮にいるのならきっとやってやるんだが」
 と言ったそうだ。
 私はむらむらと敵愾心が起った。それに私の前に同級生のSという美少年が、この男の寵を得て居るのを笠に着て、級中で威張るのが不潔で、不快でならなかった。
 そうしたわけで私はこの事件を感情的には支持したが、考えて見れば、色々な疑問が群起するのであった。
 それは正義と力というものとの関係に就いてであった。
 第一に吉本君が立たなければ、横田君の二週間の停学に価する罪は咎められずに済んだのだという奇怪な事実である。撲られたという被害によって、罰が生ずるわけはない。しかるに事実は撲った吉本君等を罰しなければならないところから、その釣り合い上横田君らの罪悪がとりあげられたのだ。横田君たちを処罰しないで、吉本君らのみを[#「のみを」は底本では「のを」]罰するなら全級が同盟休校すると主張したからだ。その結果双方が、喧嘩でなくして、リンチであるから、横田君らは撲られただけであるにかかわらず、同じ二週間の停学というのも私には正しい裁きとは受けとれなかった。それなら校当局は何故二週間の停学に価する横田君らの行為をこれまで見逃して来たのであろうか。私の正義感は満足しなかった。
 そこにはどうしても力が正義を左右するという事実を見ないわけに行かなかった。横田君らの如く正義をくらますためにも、吉本君らの如く正義を貫くためにも力が必要であったのだ。そして私たちに倫理を教えるところの校長はじめ先生達もその力に左右されたのだ。
 この事件が私の一生涯に与えた影響は実に深刻なものであった。
 というのは私の求道の出発というものは、後に詳しく書くが、善とは何か? という問いであったのだ。一体何が正善であるのか。私は正善の実行者であり、味方でありたい。だが何が正しく、善いかが解らなくては去就に迷わざるを得ぬ。しかし吉本君のリンチ事件が示すようになかなかその判断は容易ではない。世相を見れば見るほどその疑いは深い。
 私のこうした疑いの種はこのリンチ事件の時に深くまかれた。その裏には邪悪が正善に勝ってはならぬという私の、恐らくすべての人間性の、先験的な要請があったのだ。そして私のこの要請は人並み以上に強く、鋭く、それは父から受けついだ臆病な心臓にともなうた肉体的とも言うべき感覚であった。すなわち善いものが悪いものに虐げられているのを見ると、胸がドキドキして感覚的苦痛になるという遺伝であった。
 校庭でリンチの光景を見た時私の胸がふるえていたのは言う迄もない。ただこの時は私にとっては善いものが悪いものを懲らしめているという満足感があった。それが宗教的の至聖なものでないにしても、ともかくも私には正義的な喜びを与えたのだ。寧ろ私を不満にさせたものは校当局の、先生達の、――裁くものの公正への疑いであった。これは一体世界に裁きというものがあるのか、神の審判はあるのかという宗教的の恐しい問いにまで発展するものであった。
 実に正しき裁きを求める心は人間性の至深の要素である。キリストも、日蓮も、天理教祖も、カントもこれを求め、そして信じずにはいられなかった。たといカントに於ては、これは「単なる理性の領域に於いての宗教」に限ろうと自ら努めはしたけれども。
 仙台萩の忠臣片岡外記はこの正しき裁きをもとめて、仁木弾正と合拷問にしてくれと公儀に要求した。自分は老いぼれの身の、壮齢の仁木に勝つべくもないのに、この悲壮な訴えをせずにいられなかったのだ。
 私は年少の頃からこの要請を強く持ちつつ今日に至って、なおその人間性に於ける不滅の尊さを感じる。この要請あることが人間の高貴性の証なのである。あるいは国際正義に対し、国法と文化との問題に対し、目前には支那事変に対し、この正しき裁きの要請なく発言し、行動することは私たちには出来ない事だ。
 真理の護持、その傷害に対する公けの憤りもこの正しき裁きを求める心の強いだけ、熱情を帯びるのだ。それは詩人的な激情のあらわれも、哲学者らしい冷徹なあらわれもあるが。
 私はこのリンチ事件が、こうした意味で、種々の深刻な問題を含んでいたのだという事が今にして解る。
 それは暴力の問題、校則という律法の問題、刑罰の問題、教育者の責任の問題、公法に対する自治的制裁の問題、そして少年の純潔と貞操の問題など厳粛な意味を多分に持っており、それがいちいち鋭敏にまじりなき年少の私の良心を刺戟したのであった。この事件は私に批判と、権威への反叛との精神を目ざめさした。
 私は校当局に対し、師長に対して、或る意味で生意気な、不遜な生徒となりつつあった。従順な、素直な、坊ちゃんらしい少年だった私は、批判的な、多少ねものの、反抗的な、少年になりだした。演壇に立てば校当局や、先生達を公然と批判し、ややもすれば同盟休業をも煽動しかねまじき少年にかわった。学業は優等でありつつも、品行は丙を付けられ、勿論級長は辞めさせられ、生徒監の体操教師は私を憎んだ。この生徒監の冷やかな憎みは私が卒業する日までつづき、卒業生の首席は校旗を手にし送別の写真の中央にうつり、総代として告別謝恩の辞を述べる前例を破って、私はそれを許されず、隅っこに腕をこまねいてすね者のようにうつっており、校旗は次席の級長が持ち、挨拶も彼がした。私は冷笑しつつも心中不平であった。五年の功を積んだ晴れの日の名誉感が傷ついただけでなく、不公正への憤懣があった。
 しかし操行点は丙なのだろうと思ってたが、どうしたわけか卒業の時だけ甲になってたのは皮肉であった。

 三次を追憶するとき、私の五年間の生活を貫いて、赤い線のようにまとい付いているのは白帆会の思い出である。学校の教室を公けとすれば、これはプライヴェイトな教養の機会であった。私は入学の初めから卒業の日までこの会に関係し、そしてこの会を愛した。
 この結社は年少時代の私の思想の揺籃であった。そして学芸にからまる私のロマンチックの夢を育てた温床であった。
 この小さな結社にたずさわり、そして愛した経験が私の一生にどれだけ大きな影響を与えたか知れなかった。私は文化的グループと教養のパーティとへの興味を知り、それらの中心となって責をとる義務感と、それを率いて活動する指導者のほこりの感とを学んだ。
 山間の一小中学の言うに足らぬ私の結社であっても、それを我が事として関わりを持ち、愛を寄せるときには、たましいを打ち込む対象となり、喜びとなり、嘆きとなり、後になって限りなくなつかしい追憶となるのだ。何という純一な、たましいを打ちこむ生活材料の乏しい今日このごろの生活であろう。十倍、百倍の生活材料を以てして遂に瓦礫や、死かばねの堆積に過ぎないのだ。私は幾度でもくり返してこれが嘆かれる。心から一枚のハガキを書き、身に沁みて半夜の宴が語りたい。
 幼稚な演説会。謄写版ずりの回覧雑誌、山登りと野営(キャンプとはまだ言わなかった)幻燈器械[#「幻燈器械」は底本では「幼燈器械」](映画はまだ田舎になかった)を携えての近村への巡回講演、その中でも比叡尾ひえび山の「霧の海」を見るために山上の寺で夜を明かしたことや、こうの川を舟で下ったことなどありありと印象に残っている。「霧の海」というのはこの巴峡の地方の呼び物であった。海へ十八里もへだたって、汽車もない地方では海へのあこがれは皆の心にあり、一生海を見ずに終るものも少なくなかった。そこで海へのあこがれはこの霧の海を発見させたのであった。三つの川の巴を画くこの地方は霧がとりわけ深かった。比叡尾山は馬洗川のほとりに連なる山脉の中での一際すぐれた英峰であった。
 夏の夕方から出かけてこの山の頂上にある古寺で、蚊やりをいぶしながら色々とさえずり交わして、夜を更かし、疲れて少し仮寝したかと思うと、
「おうい、みんな起きて来て見ろ、霧の海だ」
「霧の海だ。島が見える。島が見える」
 友だちの声々に跳ね起きて外に出て見ると、ようやく明け初めた空にもうもうと一面の霧だ。そして東天紅くなりそめると共に、あち、こち高い峰の頂きが島のように霧の海から秀を抜いて見えているのであった。
 暁を早く知る小鳥たちのように、私たちが歓呼の声をあげると、間もなく紫に、紅にささべり彩る日の出が霧を染めて登って来るのであった。
比叡尾の山のあけぼのに
紅匂う花がすみ
 と私たちは声を揃えて校歌を唱う。
 神秘の狭霧はなかなか晴れようとはせぬ。
 やがて風が出て霧がちぎれ初めると紫色に染みながら、団々として飛んで行き、麓にひろがる三次平野や、めぐり流れる川々のパノラマがひろがって行く。
やアハれ
朝まにゃ小烏、霧をはらえ
 こんな唄を唱って木樵りが下りて行く。
 夏から秋にかけて霧は低く通学の路の上にも這って、私たちは霧の中を歩いて二十丁、遠くの友の姿も見えずに学校に通うのだ。
 毎年秋の発火演習の時にも霧の中から剣光帽影が閃めいたのがハッキリ目の前に浮んで来る。
「霧立ちむる犀川を」という川中島の戦いの歌を誦する度びに私は馬洗川や、西城川の霧のことを連想した。白帆会とは切っても切れぬゆかりのある中村憲吉君はその雅号を霧村と言った。五年間ずっとその筆名で文章を載せた。白帆会の発行部委員を勤め一カ月も欠かさず何か書いた。私が入学した時は四年級であった。私は入学せぬ前から従兄が持って帰った「巴峡」という校友会誌で霧村君の文章を読んで秘かに敬愛していた。入学して白帆会に入会したのもその霧村君が白帆会の雑誌委員なのと、その弟の三之助が同級にいて私を勧誘したからであった。この三之助君というのが、あの「愛と認識との出発」の中にある「三之助の手紙」の主人公なのだ。この中村兄弟は私の運命に影響する所が大きかった。私を文学や、哲学に向かわせたのは三之助君であると言っても間違いではない。
 中学時代を追憶するときにはこの兄弟のことを抜きにすることは出来ない。
 白帆会の会長は中村憲吉君と同じクラスの級長の岸範一という人が勤めていた。これも気魄のある骨っぽい少年であった。今でも私の記憶に残ってるのは、この級が同盟休校を企てた事があって、その岸君が、私や三之助君のいるところで、如何にも意気軒昂として、
「校長を追い出すのだ」
 と言った姿だ。こうした印象は一度で、心中に同じ血を持っている後進者に同じ気魄を呼びさますものだ。そうした感染力は実に大きい。子供のころの石畑一登君と、中学時代の岸範一君とが私に気骨の稜々とした或る美しさを影響したことは争われない。年少時代には師友のひとつの個性、性格の生きた雛型程その力と美しさとを感染さすものは無いのだ。
 この岸範一君と中村憲吉君とがその頃「金色夜叉」を読んでは熱心に批評し合っていたのを覚えている。
 彼等は荒尾譲介と間貫一との友情に感激していた。宮さん宮さんと言うような言葉は多少のきまり悪るさを以て話し合っていたようだった。あの「三百円のダイヤモンド。素晴らしいダイヤモンド。あれがダイヤモンド」とカルタ会の客たちの口々に伝わる個処の技巧、今では幼稚きわまるものだが、それを驚異の目で評判していた。
 私たちはそれを側で聞きながら胸を躍らせたものだ。
 が私が四年生になって白帆会の講演部委員になった時にはずっと大胆になっていた。私は会員の誰れ彼れに、貫一や、お宮や、譲介などを割り当てて、掛合いで、会の時に対話風に朗読させた。森山という発行部委員が地の文を朗読してその間をつなぐのだ。そして私は舞台監督(この語はまだ無かった)の役を勤めて得意になっていた。そして学校の掲示場に麗々しくその役割りを書いて張り出した。皆聴きに来いと言うわけだ。お宮の役を勤める箕岡という少年は女の声色を使った。
 生徒監の体操教師が苦い顔をしてその掲示を剥いでしまった。そこで私は講演会を開いて、学芸の自由を主張して校当局を非難し、他の会員にも演説をさせた。たちまちにして白帆会の監督の広江先生に向かって校当局から苦情が出て、演説は弾圧されるようになった。
 私は会員を招集して今度は広江先生排斥演説を初めた。今でも覚えているのは、
「広江先生は白帆会のヘッドではなくて、キャップである。故に会のために役立たぬなら取り代えるべきだ」
 と言うのであった。
 こうした不遜な、生意気な言辞を弄したにもかかわらず、温和な、寛大な広江先生は終始私を愛して下さった。国語漢文の先生であったが、その顴骨の高い、君子らしい、声の美しい、長身の先生のおもかげは今もハッキリと目の前に浮んで来る。数年後私が卒業して一高に入り、哲学科か、法科かと迷って悩んだ頃、先生の下さった手紙の文句に、
「君は淋しいメタフィジシャンになり給え」
 というのがあった。その頃の私の胸にこの一句は深く沁みた。
 この先生は内町うちまちという静かな通りの、祗園神社の直ぐ近くの借家にずっと住んでいられた。その二階の書斎の天井は非常に低かった。先生は長身だったのでなおさらそれは不釣合いでいぶせなく見えた。
「天井が低くていやだと思うけれど、直ぐ大津の河原に散歩に出られるのがいいので、未だに引き越す気になれない」
 と言っておられた。大津というのは、江の川の抱く広い砂州すなすのことで、先生の家を出て三次の街をめぐらす堤防の防砂の竹林を越えるとすぐ、その砂州に出られた。川向いには山がせまって、何か支那風の気韻のある美しい景色であった。
 先生は読書に倦んではこの河原に歩きに出られたのだ。先生は物静かな、教養的な、そして頭の緻密な人であった。先生が学校の宿直室で碁をやっておられたのを一度見たことがあった。よく考える、じっくりした、いい碁風で、そしていかにも自然に、楽しそうに打っておられた。
「楽しんで淫せず」といった感じだなと私は思った。
 広江先生と並べて、忘れられないのは村上先生のことだ。この先生は図画と東洋史を教えておられた。私は二年の時一年間図画を習ったきりだ。それだのに私には実に美しい――聖らかなといってもいい程の印象を残している。この先生は絶対に叱らず、怒らなかった。生徒たちは「観音さん」という仇名をつけていた。その容貌も支那の禅僧のような沈んだ深みのあるものであった。少しも叱らないのに生徒たちは尊敬していた。私はどうしたものか図画だけはまったく苦手で、ものにならない拙い画をかき、図画の時間が来るのが苦にもなったものだ。しかし村上先生の受持ちになってからは私は図画に急に興味を感じて来た。先生は図画の採点が実に辛くこれまで甲を貰ったものも丙位しか貰えず、私の最初の図画は庚という驚くべき採点であった。
 しかし先生の図画の教授法は実に自由で、私は非常に牽きつけられた。これまで軽蔑して顧みなかった図画を私は熱心に学びだした。そして私は段々と上達して甲が貰えるようになった。毎日帰ると図画をかいた。私は教室で先生がまわって歩いて私の側に立たれると、薫風のようなものが側に来たような気がした。私は先生に殆んど口をきいたことはなかった。たまに私のデッサンを直したりして、何か口をきかれると胸が躍って、のぼせるような気がした。それでも私は何となしに先生との愛の内面的の交通を感じていた。
 先生が通学の道すがら中村憲吉君と話しながら歩いて行かれるのを時々見た。美とは? 愛とは? 歴史とは? そうした言葉の断片が私に聞えた。先生はいつもの無口にも似ず興奮した熱情を顔に示しておられるのを見た。私は他の先生達の言葉にない、世俗をはなれた美や、愛の言葉が先生にふさわしいのを感じた。
 先生の東洋史の講義は上級生へのもので私は聞くことが出来なかったが、さぞ独特なものであったろうと思われる。
 先生は羅漢像などに見るように額がおでこであった。十日市という川向かいの町はずれに借家住居していられたが、七つ、八つ位な可愛らしいお嬢さんを連れて路ばたで遊ばしていられるのを時々見た。そのお嬢さんも先生そっくりのおでこだったが人形のように美しかった。
 もしこの先生ともっと深く触れ合い、また何か出来事でもからんで、先生の人間性のもっと全面にじかにぶっ突かるような事でもあったら、私もよ程大きな影響を受けたに相違なかった。しかし本意なくも先生は私が尾道から帰って、二度目の三年生の二学期からやり出した時には、もう学校を去ってしまわれていた。私は鶴が飛び立ってしまったような空虚さを感じた。その後先生にはお目にかかる機会もなく年月は過ぎてしまった。
 が私が二十七歳のとき、はからずも先生から「出家とその弟子」を読んだよろこびと、見舞いとのお手紙が届いた。私は昔を思って喜びとなつかしさにつつまれ、人生の不思議と人の心の感応とを思い、結局はひとつの生の悲しみ――運命の意識にとらえられて行くのであった。私はちっとも知らなかったが先生は東城という北備のとある城下町の浄土真宗の由緒ある寺の住職であったのであった。
 僧としての先生は清沢満之の流れを汲む浄土真宗の信者であったのだ。
 十六、七歳のあの頃の少年、殆ど口をきいた事もない図画の教え子が、今度は人生の悲しみをもう知って、運命の何たるかにふれ、自分と同じ親鸞の信仰の徒となって目の前に現われているのを見たとき、先生の方でも深く心を動かされたものらしかった。私のことを覚えていて下さったのだ。
 私はこの頃時々思う。昔の私には何か人の心に沁む何ものかがあったのではあるまいか。もしあったとすれば、それは世ずれのせぬ純情さ、玉のように傷つかないシンセリチイ以外には考えられない。そしてそれは父から受け、父母とはらからから愛されて損なわれずに保たれていたものであった。
 世間の嵐に打たれ、塵労にもまれ、又自覚的に世間とたたかい、もしくは世間を成就しようとする精進から、四十歳になった今日の私はかなり世ずれのした人間になりつつある。しかもそれは成功的にではなく、落第点とすれすれに、努力的な苦渋さを以てなされつつあるのだ。もし私が世事を放擲してしまうならば、私はもっと安らかに、自然に、そのかみの村上先生のように、玉のような柔和な、清らかな感じを人に与え得るようになれないこともあるまい。そして疑いもなくそれは周囲に感染し、そして人の心に影響するのだ。その方が自ら苦しまずに、効果をあげ得るのではあるまいか。
 私が熱心な政治的の演説を全力を傾けてやった後で、よく聴衆から、「どこまでも先生は詩人として生きて下さい」と言うような註文を聞く。又私の昔からの友人達は口を揃えて私が社会的、政治的関心の世界に入って行くことを警告してくれる。
 がそれにもかかわらず、私はどうもその声に従うことが出来ないでいる。というのは私の人間的の精神は世間ととり組む方向にあるからだ。その反対の方角は私にとって安易の道であるからだ。私の一生を私のたましいの発展の記録として見るときに、私が内を築くことに専心すること二十年の後に、外の世界に向かって踏み出して行ったことは、内面からの必要であることが解る時があるであろう。それが私にとっては自己克服の精進の道として、あえて難きに就き、成功のない世界に向かっての義務的の向上であることが肯かれる時もあるであろう。他人は世の中の現実に苦しめ、自分だけは玉のように清らかに生きる、大衆は塵のちまたに叫び、喘ぎ、怒りわめけ、自分ひとりは汚れの飛ばしりを受けず、世俗をぬいて円かに、涼しげに、顔をいがめずに生きて行くぞという風には今の私には出来ないのだ。効果はどうであろうとも、私の生涯はその生長と推移のコースを動いて行かねばならない。そのかみの村上先生の姿は私をふるさとの安けさに誘うけれども、私はその郷愁に打ち克って困難の道を行こうと思うのだ――かくて死ぬときには果してどのような心境と環境とに於いてであろうか。「叡智」のみがそれを知っているであろう。
 さて村上先生が去られてから私はたちまちに図画への興味を失ってしまった。それに代った図画の先生はこれはまた伍長あがりの全く美のセンスのない、体操の教師を兼ねた人であった。私は少年時代に絵と音楽とのすぐれた教養を受けることが出来なかった。これは終生私の不幸の思い出である。ロマン・ローランなどと思い比べるとき、この悔いは私にはかなり深いものだ。
 すべての人間はその感受性と渇求とに堪える限りの美的、倫理的教養をける権利があるのだ。共同体くにはそれを与える義務を負わねばならぬ。
 私が入学してから三年の時までの校長は小野正治という典型的に漢学的な、挙措の厳格な人であった。
 先生達さえ校長室に呼び付けられて叱られていた。
 が或る時県知事が巡回して来て講堂で一場の訓示演説のようなものがあった。私達が総起立していると、ギュッギュッと靴の音がして知事が入場した。普段靴を穿いては上れない講堂なので私達は異様な感に打たれた。
 知事は山田という人だったが、演壇に上るといきなり両手を拡げてピタリと演壇にかぶせ、
「本県は予が直轄する所であるから……」
 と初めた。私は不快の感に打たれた。話そのものも何等胸にふれないものだった。ところが校長は演壇の下に進み出て不動の姿勢をとって、
「県知事閣下」
 と冒頭してその訓示への感謝の辞を述べた。私はがっかりした。校長の日ごろの厳格主義というものの権威がつまらないものに感じられた。何故なら私達でさえ反感を抱いた極端に官僚的な知事の態度と、マンネリズムの演説に対して、私たちは校長の恭敬と感謝とがどうしても莫迦莫迦しくしか感じられなかったからだ。
 私にはこれは大きな幻滅であった。権威とか厳格とかいうものは内容から離れて、ポーズだけでは空虚なものだと思えた。
 新しく来た法制経済の先生が、私たちの国語を受け持ったが、初めて教室で校長への不満をもらした。
「早く授業を切りあげたいが校長が叱りますからね」
 私はこの明治法学士だという、かなり年老った、荒い髭のある先生のデモクラチックの態度に寧ろ愉快さを感じた。こんなことは初めてだったからだ。私学的な、自由な野党的な気風を発散させたからだ。
 この先生は議会や政党の話を教室でして聞かせた。時には株や、相場の話もした。そして町での公開講演の時には「金の話」というような演題でやった。
 私はこの先生の野党的空気は好きだったが、その曝露的な現実主義はきらいだった。
「君たちは若いから勉強して、理想を求めたまえ。わしらは金でもめてらくをしたいと思うばかりだ。もっともなかなか貯まらぬがね」
 こんな事を教室で公言した。それも私の言葉に対しての皮肉からであった。
「先生政党というものは合理的でないと思いますが、どうしてそんなものを法律で禁じないんですか」
 中学三年生の私のこの質問に対して、年とった法制の先生は、お話しにならないという風に苦笑いして、ろくにとりあげようとしなかった。
 私は不服であった。私の論拠は一人一党的の意味のもので今日の政党解消論とは違った個人主義の立場からではあったが、この先生はただそれが現実的に見て不可能な黄口児の質問と見るだけで、中学三年生の頭にさえ不合理に印象するのだという公けな真理性への関心はまるで無いのであった。
 この年少者と大概の大人との感受性の相違は実に重大なことだ。そしてすぐれた、偉大な教育者とはいかに年老いても、この年少の感受性に答えることを義務と感ずるような人でなくてはならぬ。実に如何に多くの本質的に重大な年少者の質問が凡庸な教育者のために、正しく答えられずに放置されるであろうか。
 たとえば中学生というものは皆社会的の不平等というものへの疑問を起すのは著しい現象である。社会主義は中学生の頭脳は必ずアッピールするものだ。私などももとよりそうであった。それに対し、先生にして正しき答えを与え得るものがどれ程あるであろうか?
 私の政党についての質問は一笑に附されたのみで、正しく答えられなかった。
 が反対にこの先生の空気は私に政党というものへの現実的の興味を刺激した。四年頃になると、私は白帆会という結社をリードしていたから、並立している「あやめ会」、「きさらぎ会」というような結社との間に私党的な競争心を起し初めた。すでに新入生が学年初めに入って来ると、入会勧誘を競わねばならなかった。講演会も、雑誌も競争意識にとらえられ、又私は進んでそれに参加した。とうとう私は他の会に向かって連合演説会を開こうと挑んだ。会別に席を分け、そして自分の会から演説者が出れば会員に喝采させようと言うのだ。しかも野次を挟むことを自由にしようと言うのだ。疑いもなく政党的な空気とアムビションとが目ざめて来たのだ。他の結社では少し辟易したようだったが、面目もあって承諾した。がこの企てを知って学校当局は禁止し、講堂を使用させぬと言った。
 私は直ぐに校長室に談判に行った。校長はすでに更迭して泉英七という人であった。
 この校長は前校長とはまるで違って威儀を作らぬ人であったが、柔和に、淡々として私の申出を拒絶した。私は気負うて行ったので、拍子ぬけがした。
「私は先生を恨みます」
 と言ったら私の肩をたたいて、
「中々人物だ」
 と言った。反抗するには敵愾心が起らなかった。
 この校長はあまり柔和で、校長として威厳がないという評判が学校中にひろがった。殊に前校長の威厳主義と比べてそういう批評が生じるのも無理はなかった。私もそう思わぬではなかったが、やがて或る式日に講堂で泉校長の声明を聴いて私は認識を改めねばならなかった。校長はその噂を知ったらしく、
「叱咤怒声をあぐるは車夫馬丁の事であります」
 その声には一種のほこりが出ていた。
 私はなるほどと思った。私は立派な声明だと思って校長を支持する気になった。
 この校長になってから一種の民主的な空気が校内に漂うようになった。私が卒業してずっと後までこの校長が奉職していられた。
 私が卒業して、父がもう上の学校へはやらぬと言った時、この校長は父あてに手紙を書いてこの子は有望だから哲学をやらせるように勧告して下さった。父は心が動いて、三次へ出て来て、私をつれて校長さんの宅へ逢いに行った。
「哲学とはどんな学問でございましょうか」
 無学な父がこう訊くと、校長さんは頭を捻って私の顔を見た。私も校長の答えを待ちもうけた。
「まあ、一口に言えば心の学問ですな。そういうより言い方がありません」
「ははあ」
 と言って父は考えていた。
 こんな答えが父を満足さす筈はなかった。しかし校長さんが折紙をつけて下さった事が、父の決意を促がしたのは確かであった。
 この校長は教育者として決して恰好でない人ではなかった。偉大な人ではないが、自由な、一般的な教養の雰囲気を以て生徒たちを啓蒙した。学術の世界の外にカルチュアというものの世界のあることを生徒たちに教えた。それは校長として一番大事な任務であろう。
 この校長は又それぞれの違った個性の生徒への愛と理解を持っていた。
「水野は学問は出来ないが、あれでラケットを持ってテニスコートに立つと威厳が付いて見えるね。ひどいものだ」
 こう言った校長さんには子弟への愛が自然と出ていた。水野というのはテニスの選手だが、ドンキーという仇名がついていて、いくら勉強しても成績が上らぬので軽蔑されてる生徒であった。
 柏原という卒業生の非常な秀才が海軍兵学校に入学していたのが、急性肺炎で亡くなったと聞くと、校長は、がっかりしたように、
「惜しいことだ。宝息子を無くしたような気がする」
 と言って嘆じた。
 又温泉津ゆのつという石見の海岸に、海水浴に行った時、宮田という一年生の少年が、舟から飛び込んだり、上ったりして真黒な体ではしっこく泳ぐのを、いかにも可愛いと言った調子で、
「泳ぐこと、泳ぐこと、まるで河童のようだ」
 と言ってニコニコして見ていた顔。
 又笠間という不良じみた生徒を母親からたのまれて、あずかりながら、
「お母さんがあれだからいかん」
 と言いつつも、裁く気持ちでもなく母の溺愛を肯定してる気もち、色々とそうした印象は私の記憶に残されていた。
 子弟へのやさしき愛と理解とはなつかしくこの校長を思い出させる。私は温泉津の海水浴の時漁船を傭って私たちと沖に漕ぎ出し、扇で舷をたたいて赤壁之賦を口ずさんでいられたこの善良な校長が目に浮んで来る。
 まずやさしくあれ! 優しさは金で、威厳は銀だ。やさしくなくては内面のつながりにならぬ。思い出に浮ばぬ。
 今日校長と生徒主事には子弟と手をとり合って語ることを本能的に好まぬ人たちがどんなに多いであろう。私は地方の高等学校などに講演に行って、後の座談会の時、熱心に、よろこんで生徒たちと話し込んでいるのを、いつでも主事に水をさされる。彼等は子弟を愛していぬなと私は直覚する。たとえ監督の冷たい目を光らせても。
 ソクラテスのように青年と手をとり合って討論することを好むのでなくては教育者ではない。アテネのプラトンの聖堂のような、真のアカデミーが私たちは欲しい。
 もし彼の愛国者ソクラテスを牢死せしめたような無智な為政者の干渉なくして、青年たちを教え得る自由な学園が私に与えられるなら私はどんなに心行くことであろう。その自由の中でこそ私は真の愛国者を鉗槌して世に送り出すであろうものを! 今日のこの国の教育は死んでしまっているのだ。自由を与えられたものはその自由を利用して国への反逆者をつくり、権力を与えられたものは、その権利を悪用して学の自由を奪おうとしている。
 祖国への愛と、学芸への愛とが何故両立し得ぬのであろうか。それは一方では国の司たちが真に学芸を尊ぶ本能感情を欠き、他方では学芸の徒が真の運命共同体への本能の愛に目ざめぬからだ。
 知識階級は学芸への愛を持たぬものを軽蔑することを知っているが、祖国への愛に目ざめぬことが恩知らずであることに気づかず、司たちは祖国への愛なきものを憎むことを知って、学芸への愛なきことが人間的低卑であることを実感せぬ。しかしこの二つの愛なきことはともに無知である。それは決して開明というものではない。私は日本の司達とインテリゲンチャとがこの事に目ざめることを祈って止まない。
 私の中学時代に徳永求一という数学と物理との優れた先生があった。この先生は私を愛して下さって、いつも「才気をつつしめ」と警めて下さった。
 がこの先生は一方愛国者であった。いつも「今の日本にとって最も必要な事は」と言って話された。私は当時個人主義的に傾きつつあったので、この合理的な自然科学者が愛国的であることが不思議に感じられた。それに先生の下宿を訪ねて見ると、独身のわびしげな陋居の中で、「今の日本にとっては」などと言われるのが、大小の比較がとれぬ滑稽な気がした。
 しかし私は今では不思議にも滑稽にも思わぬ。物理学者であろうが、赤貧の中学教師であろうが、その父母を愛するのに何の不思議もないように、その祖国を尊ぶのに少しも不思議はない。ただ自然科学や、数学の普遍的真理の要請は祖国への愛を、他の国民のその祖国への愛と、置き換えて矛盾しないような、普遍的格率すなわち道義的国是を要請するのみである。
 私はこの徳永先生によって貧しさの中で、真理を愛し、義務をつくすことの尊さを学んだ。先生には野心というもの、才気というものは無かった。質実そのものであった。それで私の才気と、アムビションと、贅沢とを憂えられた。
 先生は学校の乏しい予算の中で、毀れた物理の器械をひとつずつ丹念に修繕して行かれた。私が或る冬の日に先生の下宿を訪ねると、炭のつぎ方からして質実であった。それがけちでなく、無駄をしないという感じなので気もちがよかった。折からの雪をとって来て土瓶の中に入れながら、
「なかなか熱量を要するのでね。融かすには八十カロリイの熱量をね」
 などと言って笑っておられた。これが先生の精一杯のユーモアであった。先生は興奮されたり、怒号されたりするようなことはなかった。しかし校友会の講演部長で熱のある一種の雄弁であった。冷静な熱情があった。
 植松先生の事を書き留めて置かないのは忘恩に似るであろう。先生は明らかに私にひいきして下さった。算術と作文との先生で、私はこの二つが得意だったからであろうが、何となく私が可愛いかったのであろう。私も先生の時間には愛するものの膝の側にいるような気がした。三年になって算術がなくなると教室では逢えなかったが、白帆会の雑誌の批評の受持ちは植松先生なので、私は身にあまる励ましを受けた。先生の批評は実にきびきびして鋭く、垢ぬけがしていた。中村憲吉君などもどれ程先生の励ましを受けたか知れなかった。先生は全く官僚的の臭味がなく、さすがに厳格な小野校長も先生だけは特別あつかいしていた。スパスパと言いたいことを鋭く、卒直に言ってのけた。気障と嫌味とは絶対に先生の排斥するところであった。
 私はほめられはしたが、卒直な警告を受けた。
「あまり白帆に小説を書きすぎる。学校の成績が悪くなった」
 と言って心配せられた。私は授業時間にも文章を書いたから。
 私は校友会の理事会議の時に生徒委員の一人として列席したが、先生が平泉先生という講演部長をさんざんにたたき付けられるのには驚いた。骨を刺すように辛辣であった。その平泉先生は私をじわじわといつも冷遇したので、私は痛快であった。もちろん植松先生はそんな事は知らないのだが、合性というものは不思議なもので敵まで自ずと同じくしているのだ。
 私はずっと後三十八歳の時に二十年ぶりに京都でこの植松先生に逢った。先生は東山女学校の先生を勤めておられて、私に講演を依頼されたのであった。
 そのかみの紅顔の美少年は今は顎の下に髯をたくわえたりして、人生の寂莫と運命の厳しさなどについて語っている姿を見られた時、きっと先生も今昔を思って、胸がせまったであろうと思う。私も泣かまほしい気持ちであった。
 講演が終ってから職員室で先生のお嬢さんに引き合わされた。同じ女学校の四年生で、昔の私よりも大きかった。
「私に似て色が黒いでしょう」
 と冗談を言われた。
「いやですよ、お父さま」
 くりくりした健康そうな令嬢はその黒い顔を初心らしく染めながら逃げて行かれた。
 なるほどそう言えば昔ながら植松先生は色が黒く精悍せいかんな、きびきびした顔をしておられた。しかし今は年傾いて、鬢髪も白くなって、やや翁さびて見られるのであった。
 中学時代の先生達は多くはすでに世を去られ、今も伝統をついで同じ「巴峡」という名の校友会誌の、送って来られるのを見れば、先生も同窓生も年毎に黒線のみ多くなって行く、そのかみの恩師の誰れ、彼れの顔を思い浮べれば、蒼茫として年月のへだたりが感じられる。いつの間にか私も年傾いたのであろうか。私は今でも自分を青年のように、時には子供のようにさえ感じるのであるが、他人から、殊に女性から年輩らしく取り扱われて、なるほどとかえりみられる。さ夜ふけて鏡を引いて顔を照せば、まことに私も年傾きつつあるのだと思う。
 それにつけて最近に胸を打たれたのは、中学時代の先輩中原庸彦中佐の戦死だ。中原君は三次中学校を出て、士官学校を経て軍籍にあったが、退役して実業に就いていた。今次の支那事変に五十を過ぎる身で、自ら志願して出征し、鎮江で敵弾を左眼下に受けて戦死された。
 この中原君は私が入学した時は、撃剣の選手で五年であったが、私にラブ・レターをよこした。今でも覚えている。
「桜、桜、桜、雲井の桜、物言う桜、紅の靴下のいとも愛らしの君よ、初々しき少年は何事も知らぬげに見ゆれど、我は馬洗川の川原にさまよい、君を思いて、胸なやむなり」
 と言うようなものであった。
Cherry, Cherry, Cherry!
 と三つ重ねてあった英文字は今だに私の目にハッキリと浮んで来る。それから私は上級生の好事家たちにチェリイとあだ名されていた。
 その、そのかみの桜色の美少年は今はすすきの穂のような灰色の頭髪になり、そしてそれを追って胸の血をたぎらせた若獅子のような少年は老いた退役将校として、江南の野に戦死してしまった。そのラブ・レターのことで私をからかった中村憲吉君も今は亡い。
 すべては移り流れる。かわらぬものは生の欲望の尽きるまで燃えてやまぬ焔の執拗さと、何ものかの心霊の招く方へのあくがれの旅の足どりである。生き行くものはあわれなるかな。

 テニスや、柔道などのスポーツや、また白帆会などでの訓練の間に私の肉体は健やかに生長しつつあった。そして尾道時代には春の目ざめの憧憬がまだ幼なじみた身体にませた愛らしさで芽ばえていたのが、今はようやく逞ましい肉体の中から生理的な、若々しい動物のものとして発育しようとしつつあった。
 官能の用意はすでに整い、青春は完成を求めて喘ぎつつあるのが感じられた。
 紫色にたなびく憧憬はもはや感覚の毛皮をまとわねば飽き足りなくなりつつあった。たとえそれはその頃私の脛に生え初めた毛のようにやわらかな少年らしいものであったとは言え、もはや半ばは獣につくものであった。
 白帆会の会員の二年生に得能という美しい少年がいた。
 この少年は遠山のような眉と、やわらかな感覚的な肢体とを持っていた。
 この少年は学業が優秀な方ではなかった。そして人間としての資性も高いものであるとは見えなかった。しかも何か甘美な、訴えるものを持っている一種の誘惑者としての存在であった。
 彼は私に興味を感じたらしかった。会の講演部委員であった私は彼に指命して演説させようとした事もあったが、彼ははにかんで一度も演壇に立たなかった。がそのはにかみ方も処女の嬌羞を連想させるようなところがあった。
 廊下で出逢ったりする時彼は明らかに私にウインクした。私は彼を明らさまに愛するには何か知ら清浄でないものを感じて近づくことが出来なかった。そのくせ私は彼に引きつけられないわけに行かなかった。
 この少年は帽子の好みにも、えりのつけ方にも洗練と技巧とを持っていた。ルノアルの描く少年のようなアンゲネームな香気がまわりにふりまかれた。
 私はこの少年に引きつけられるのが、しかし、何か自尊心を傷けた。学業が優れてもいねば、スポーツに技倆があるでもない少年をただ感覚的に好むのは不愉快であった。しかしそう思いつつも彼を見ると私の目はたのしんだ。
 私が校庭で器械体操をしている時彼はじっと立って私を見たりしていた。
 私は彼の目付きの中に私への憧憬とそしてこうした少年の本能としての、誘惑とを見出した。
 彼は私の叔父の家のある五日市と、河を隔てた十日市に下宿していた。
 或る夏の日私が馬洗川の堤を散歩していると、彼が明笛を吹きながら向こうから歩いて来た。麦藁帽子をスマートに、リボンで飾って、矢がすりのような浴衣を着て、素足だった。
 私たちはすぐ互に気が付いた。
 彼はいつものように少女のようなはじらいを見せた。
「明笛をもっと吹いて見せ給え」
 と私は言った。
 彼は明笛はうまかった。
 その頃流行した「自然の美」という曲を吹いた。それからチヤフル・マーチというものを吹いて聞かせた。
 彼の髪は黒く、房々として美しく、眸はやわらかに露を宿しているようだった。
 私は堤の草の上に足を投げ出して、その頃生意気に吸い出していた煙草に火をつけた。
 私たちの目の前には、目のさめるような緑の山と、鮎のおどる清流とがあった。
 彼は寄り添うように私に並んで足を投げ出した。
「あなたは音楽はおやりになりませんの」
「オルガンが少し弾けるきりだ」
「僕は今度運動会の折には音楽隊をこしらえるつもりです。僕は手風琴もやります」
 と彼は得意そうに言った。
 私はどうもこの子は伶人らしい、或いは俳優の子じみたところがあると思った。
 彼の目ぶたや頬は桃色がかって、そして癖のある笑い方をした。
 私は何か不安を感じて落ち付けなかった。
「これこの間撮ったんですけれど」
 彼は写真を出して見せた。
 ダーリヤの花をあしらって、私などに出来そうもない、ハイカラな、気のさすようなポーズをしていた。
「よくとれてるね」
「これあげましょう」
「うむ」
「あなたのも下さいな」
「今度あげるよ。僕のは蛮カラだけれど」
「一緒に写真とりません?」
 そう言って[#「そう言って」は底本では「その言って」]首をかしげる様子は少女を思わせた。そしてどうしても純潔でない、或る不安なものがまつわるのであった。私は誘惑者というものを初めて知った。
「宮本さんがね、僕に手紙を下さるんですよ」
 宮本というのは或る多額納税者の豪農の息子で、私より一級の上の秀才であった。
 私は何か嫉妬に似たものを呼び起された。
「遊びに来いとおっしゃるけれど、僕行かないんです」
 この少年は呉から来ていたが、東京の言葉を使った。父は造船所か何かに出ている、母親は芸者であったことが後で解った。
 私は絶えず甘い、快いものを感じつづけた。それと共に不安を。私は憶病な自分を自覚した。尾道時代にはあんなに大胆に振る舞えたのに、何故だろう? 少年ではなくなりつつある自分を恐れた。
 この子は童貞だろうか?
 私は幾度もこう思った。そして何か晴れやらぬものがあった。
 家へ帰ってから私は幾度もその少年の写真を出して見た。そしてやはり楽しかった。
 彼から手紙が来た。
「あなたの事を忘れた事はありません」
 と書いてあった。
 が私は返事をやらなかった。
 がやがて私はその少年が宮本と時々一緒に散歩してるのを見た。そして或る時は二人で自転車を並べて走ってる所を。人の噂では彼は宮本のチャームになり、その自転車も買って貰ったのだという事であった。
 そうした事は私には及びもつかぬ事だったので、私は胸がムシャクシャした。私の負けじぎらいも物質的には桁違いでどうにもならなかった。
 私は学校で彼を見ても素知らぬ顔をしだした。
 が或る日二人は西城川の川原でバッタリ出逢った。
「あなたは冷たくなさいますね」
 と少年は言った。
「宮本君に可愛いがって貰ったらいいだろう」
 私は乱暴に口をきいたが、そのため自分でも思いがけなく愛欲が湧き起った。
「違います。僕はあなたが好きなんです」
「じゃ何故宮本君と仲よくするんだ」
「だって手紙下さらないし、写真もとってくれないんですもの」
 彼は上目使いしてこう言った。どこからそうした媚びを得て来たものか知れなかったが、彼の切れ長の目は絵巻の小姓のそれのような冴えを持っていた。
「手紙はあげるよ。だが自転車なんか買って貰ったりして、宮本とどこへ行ったんだ?」
「吉舎へ、女学校の運動会を見に行ったんです」
「莫迦」
 と私は叱った。
「でも宮本さんがどうしても行くと言ってかなかったんです」
 と悄気しょげて見せたが、すぐるそうな目付をして、
「宮本さんはしつこいから嫌です。毎日遊びに行かないと機嫌が悪いのです」
 私は嫉妬に似た感情と戦争心とをあおられた。
「君は宮本のチャームだって人が言ってるよ」
「親切にして下さるから仲よくしてるだけなんです」
 彼は額を赤らめもせずにこう言って、試めすように私の顔を見ていたが、
「あなただったらいいんだけれど」
「僕は何も買ってあげられないよ」
「何も要りません」
 と彼は強く言った。「今夜鵜船を見に行きません?」
「行ってもいいよ」
 と私は言ったが、何か腹の中がぞくぞくとした。私たちは夜巴橋で逢う約束をして別れた。
 私はその頃太閤記を読んでいた。そして信長が小姓たちを愛する気持ちに、或る男性的な美を感じていた。それがこの美少年への私の愛欲をそそった。私は他所行きの着物と着替えて行きたかったが叔母に言い出せなかった。
 巴橋には鵜船を見る人が一杯欄干にたかっていた。が私は少年をすぐに見付けた。彼は果してスマートな浴衣に着替えていた。非常に目立つ派手な柄のものだったが、それは彼を一そう華やかに見せていた。彼の母親がそうしたものを見立てるらしかった。
 私たちも並んで欄干にとりついた。
 やがて鵜船が幾艘となく下って来た。かがり火があたり一面に赤く映えて、橋の上の群衆の顔がパッと明るく照り出された。大うつしになった河面に何十羽という鵜が忙がしそうに水くぐるのが見えた。船頭は綱をあやつって鵜を舟に引きあげては絞って鮎を吐き出させ、そして又水に放った。
 皆が夢中で鵜船を見てる間少年は私にすがっていたが、やがて私の手をぎゅっと握りしめた。私の胸はドキドキした。積極的な気持で対そうと思いながら、彼に先を越される気がした。彼はとても大胆な気がした。
 やがて鵜船は橋の下をくぐって川下の方へ流して行った。
 あたりは急に暗くなった。群衆は散って行った。私たちはなおも欄干にすがったまま残った。夜空にはほのかに新月が立っていた。私は少年の髪の香を嗅ぎながら不安と愉楽とを交々こもごも味わっていた。
「僕を可愛がって下さい」
 と彼は突然言った。
「だって君は宮本君のものじゃないか」
「あなたが好きです。……日記でも見せます。あなたの事が毎日書いてあります」
 それはうそではあるまいと私は思った。だがこの少年のは愛よりも感覚なのではあるまいか。そして水性で、こうしたローマンスじみた事が好きなのではあるまいか――私はそう思った。私たちは学芸の話をする事は無かったし、向上のモチーフも二人の交わりには見出だされなかった。あるものは情緒と感覚と、それらがかもし出すセンシュアルな美感――甘美感であった。それは私のたましいの本当に求めるものではなく、それ故に何か低められる感があった。がそれと知りつつやはり引きずられた。
「河原へ下りて見ません?」
 とやはり少年がイニシアチヴをとった。私たちは堤を下って、竹藪の間をくぐって、人気のない松崎という部落の方の川岸に出た。やはり手をつないだままで。
 川瀬のささやく音が聞えた。螢が迷っていた。私達は夢のように暫らく無言で川岸を歩いた。少年は時々首を私の胸にもたせかけた。
「今夜はとても僕嬉しい」
 ややあって少年がつぶやいた。
「うむ。僕も……」
 私はそう言ってしまった。そして少年の肩に手をまわした。
 夕顔の棚のある灰小屋のようなものの前に出た。二人はふらふらとその中に入って行った。麦藁が一ぱい散らばってる上に私たちは座った。
 二人ともものを言わなかった。
 私は少年の息づかいを感じた。
 がそれは半ば誇張されたものだった。しかし青春の血のためにはそれは醜い感じはしなかった。
 私はしかし又身体が硬くなった。
 私はやがて少年の手が私の体を巻くのを感じた。そして私は半ばそうしなくては、男性として意気地なしだと感じながら、少年を抱いた。やわらかな弾力のある肢体がそこにあった。
 数分間がそのまま過ぎた。
 と少年は私の首に両腕を捲いて、顔をさし寄せ唇を、押し当ててしまった。
 初めての感覚。私は盗んだ気はせず、盗まれた気がした。何故なら私はその期に臨んでも、少年の純潔が信じられなかったから。しかしそれにもかかわらず、尾道時代と異なり、私の生理的の感覚はもう全く目ざめてしまってるのを感じた。
 家へ帰ってから私はぼんやりしていた。
「どこかへ寝ころんでたね。藁くずが方々にくっついている」
 と叔父が言った。私はギクリとした。
 がその後も私はこの少年が相不変あいかわらず宮本と仲よく散歩してるのを見た。そして彼は宮本のものだと言うことは皆の公認のようになって行った。私との事は誰れも知るものは無かった。
 その夜の事があってから私たちは却って離れていた。
 少年は誘惑者の本能を持っていて、好奇が満たされたら退く性向だったらしい。私も何となく二人の交りは後めたい[#「後めたい」は底本では「後めいた」]気がしたので、これ以上進める気になれなかった。
 私は宮本と少年との間には私たちのような接吻以上のもっと、最後までの肉情がある気がした。そして宮本から色々の贈り物を受ける事への意識も。つまり彼の母親がその習慣の中に生きたところの色情の世界の薫習が彼に伝わっているらしかった。
 その秋のくれに中村憲吉君の郷里の布野村に幻燈を以て白帆会が講演に行ったことがあった。
 その夜私たちは合宿に一泊した。
 少年はいち早く私のすぐ隣りの布団に寝た。そしてランプが消されると、彼は私の布団の中に忍び寄った。私は誘惑と嫌悪とを同時に感じた。彼のような媚びの、低卑の少年は弄んでやってもいいではないかという声がどこかでした。
 彼の誘惑は徹底的であった。私は声を立てることも、抱擁することもふたつながら出来なかった。彼の手は私の身体じゅうを撫でまわした。
 あまりの事に私は一種の恐怖さえ感じた。私は夜通しうなされるように過し、翌朝明けると起きて屋敷川で顔を洗った。
 少年はと見ればケロリとして何事も無かったような顔をしていた。
 私は彼は何かが麻痺しているか、でなければ一種の天才であると思った。
 ずっと後になって彼は心理学上の変質者であることが解った。私が憎悪よりも、恐怖を感じたのも無理はなかった。私はそれきりこの少年には近づかなかった。
 しかし野草を花咲かせ、羊を孕ます自然の力を一人前の青年に育てつつあった。私の声は変った。入学の時紅い靴下を穿いていた脚は逞ましい犬のような毛を生じた。肩も腰もしっかりと張り切って来た。もはや可憐の少年であることを止めて、青年に、その目に妻を求め、その肩に銃を担うに耐うるところの壮丁になりつつあった。
 体重五五キロ、身長五尺二寸五分
 五年生の初め体格検査はそう記録した。
 その頃私の中学と吉舎の日彰館中学校とが野球の試合をしたことがあった。吉舎は三次から五里離れた小さな中心地であったが、日彰館中学というのは古い歴史のある私塾風の中学で、女学部もあった。
 ずっと前この北備の二つの中学は野球の対校試合をして、後で争闘となってトラブルを起したので以後三次中学の方で対校試合は拒絶していたのであった。
 私たちはこの対校試合の無いことを校当局の卑屈の精神としてかねて反対していた。そして幾度も請願したが許されなかったので、遂に両校の野球部選手が申し合わせて、名義上は私的のクラブの試合ということで事実上の対校試合をしようという運びにしてしまった。
 私は野球の選手ではなかったが、マネージャーのような肝煎役を勤め、話をまとめてしまった。私は自分で応援歌をつくって、七日市河原で応援の稽古をさせた。そして当日は応援団を率いて吉舎に行き、運動場に乗り込んだ。
 味方のチームでは浅賀という関東の私立中学から転校して来た生徒がピッチャーで派手なユニフォームを著けていた。三中では場なれているのはこの選手のみであった。
 私は日彰館の運動場に入って直ぐに感じたことは鬱然たる私塾の気魄であった。それは私の中学では決して感じられないある自由な、たたかいと野党的の空気であった。その日の印象は今に至る迄私を支配している。
 すでに私たちの選手及び応援団を迎えて、歓迎の辞を述べた先生そのものの態度から相違していた。それは気魄があって溌溂としていた。
 私は田舎の私立中学として内心見くびっていたので、一寸胆を抜かれた。選手たちは派手なユニフォームを着て、活々としていた。教室の窓から運動場から一杯に旗を持って並んでいる生徒たちは自由で、闘いの精神にあふれていた。やがて選手たちは練習を初めたが、私は気魄に於て、すでに敵の方が勝っていると思った。
 果して味方の選手たちは萎縮した。敵の選手は塁につきつつ部署から何やら英語でしきりに野次った。
 バッター・ウィークと言ったようなことを。
 すると先生が一喝した。
「選手は黙っていろ」
 鶴の一声と言ったように選手は沈黙した。
 試合は果して味方の打撃がふるわなかった。私は気を揉んだが、応援団も気勢があがらなかった。
 敵の塁審は派手な、人をくったゼスチュアで宣告した。
 後で解ったのには選手の中には現在生徒でない先輩で、東京の私立大学の選手なども加わっていたということであった。
 ともかく凡てに於て、敵の方が場を履み、研究も積んでいた。
 女学部の生徒たちも見物に来て、声援していた。
 私たちは試合に敗れ、誇りを傷けられて、行く道に引き換え意気沮喪して帰校した。
 この出来事は私を強く刺戟した。
 一つには教育というものの精神の如何に大事であるかということ。すなわち自由と創造と闘いとの気魄のない官学風の教育の無力であること。
 二つには広い世間を見て他流試合をしなくてはいけないこと。つまり井中の蛙となって、自己陶酔してはいけないということ。
 この経験は私の志をこの山間の中学から、遠く天下に向かって解放してしまった。
 私の心はもうこの小さな学校にはつながれていなかった。大きな精神と、自由の気魄とのある東京の学校に行きたい。なるべく一高へはいりたい。あの寮歌集の雰囲気こそ私の要求にぴったりとはまるものではないか。高貴の精神、自治の伝統、物的栄華からの超越、浪曼主義、日本的気魄、いずれも私の心から憧憬するものだ。
 とにかく一高へはいろう。
 私はそう決心した。
 私は猛烈に入学試験の準備を初めた。
 しかし私の心配は父が果して上の学校に行くことを許してくれるかどうかということであった。私の父は学問にはまるで気がなかった。中学を出たら私に家業の呉服商を継がせる気であった。私が学芸を好むことを寧ろ心配していた。
 私は一方では入学準備をしつつも、不安でならないので、休みの日に庄原へ帰って父にたのんだ。
 制服を着て家へ着くと、母がお父さんは墓参をしているというので直ぐその足で墓地へ行って見た。
 父は先祖からの墓地を竹箒を持って掃除していた。
「お父さん一寸休みで帰りました」
「ああ、帰ったか」
 と父は慈しみあふれる顔をした。
「お父さんお願いがあるのです。僕中学を出たら東京の学校へやって下さい」
 父の顔が急に憂いに変った。
「友だちはどんどん上の学校へ行くのです。僕だけ行かないではいられません」
「家の商売を継ぐのにこの上学問は要らないからな」
「僕は商業はいやです。やる気になれません」
 父は渋面をつくった。
「お前は長男だ。商売を止めると言っても容易ではない。得意先もあるし、品物も山程あるし」
「商売は姉さんにやって貰って下さい」
「お前は何になるのだ」
「僕は哲学者になりたいのです」
「哲学者?」
 と父は目をまろくした。「哲学者というのはどんな事をするのだ」
「人生の真理を探求するのです」
「つまりどんな人になるのだ、言って見れば」
「まあ、高山樗牛とか、大西祝とか言ったような人です」
「ふうーむ」
 と父は考えに沈んだ。
「お父さん、お願いです。上の学校へやって下さい。僕は商売にはまるで向きません。僕は偉い人間になりたいのです」
「お前が偉い人間になる時にはお父さんはもう死んでるよ」
 父はこう言いながら、今日の目的である墓石の文字の墨入れをしだした。父はもう六十近かった。私の郷里の習慣では生きているうちから法名を墓石に彫り付けてあって、朱墨を入れてあるのであった。
「お父さん、人間は皆死ぬのだから、死とは何かという事を考えなければならないのです」
「うーむ」
 と言って父はまた考えた。
「校長さんからお父さんに手紙が来る筈です。私は有望だから哲学をやらせろと言って」
「まあ、その手紙でも見てみよう」
 私は、満更見込みがなくもない、父は慈悲深いから泣きつけば何とか道はつくと思って、学校へ帰った。とにかく首席で卒業しよう。その卒業式の光栄を父が見たらその勢いで許してくれるだろう。
 私には人生の探究心と、野心とがまだこんがらがっていた。
 私に哲学を志すことをすすめたのは、当時すでに六高に入っていた香川三之助君であった。
 彼は中村憲吉君の弟で、香川家の養子となっていたが、その頃真摯な、燃えるような人生への探究心を抱いていた。私の素質や、感受性や、考え方の傾向を見ぬいて、私に哲学に志すように決意を促したのであった。
 しかし私は中学の三、四年頃からは文学的よりも、むしろ政治的な動き方をしていた。外交官になろうというようなアムビションを抱いてた事もあった。三之助君はそれを知っていたが、その奥にある素質を洞察していたのであった。それで彼は私からこのアムビションを取り去って、純一に思索に堪え得るようにさせようとして骨折り、忍耐深く見守ってくれたのであった。この頃から私と三之助君との実に美しい、尊い青春の友情が初まったのであった。
 またその頃私がアムビションを離れて、人生について深く思うような傾向になる一つの出来事があった。それは小泉時子という二つ年上の娘とのローマンスであった。
 それは今から思えばまことに淡いローマンスであったが、しかもそれは私の一生の運命のコースをまるで変えたかも知れないような危機的なものであった。
 時子の家は十日市にある旧家で、長者らしい寛裕と気品とのある美しい家庭であった。時子の父は日蓮教徒で信心深く、母はまれに見る善良な人であった。姉妹二人あって、妹娘が時子であった。二人とも美しかった。姉娘はおっとりとして、妹娘は利発であった。姉娘には婿養子があり、その人は遊び半分に私の中学の先生をしていた。私のクラスに朝日という少年がおり、これを小泉家の親戚で奇寓していた。
 私が三年のころ、時子は広島の女学校を卒業して家に帰っていた。小泉家の前を通って私は毎日通学するのであったが、格子窓の中からよく琴の音が聞えていた。時子が弾くのであった。
 小泉先生は一年間私の主任の先生であったが、この極く若い先生も私を愛して下さって、家へ帰って時子たちに私の事をよく話されたそうだ。私の作文を読んで聞かしたりして、そうした事からローマンスの種がかれた。
 私は朝日君につれられて、小泉家に遊びに行くようになった。この家庭は奉公人に到る迄長者の家の僕婢らしいおっとりした所があった。私はこの家庭の人々を愛せずにおられなかった。同じような善良な家庭に育った坊ちゃん坊ちゃんした私と、やはり女学校を首席で出た学芸の好きな時子とが牽かれあうのは自然であった。カルタをとれば二人とも一番強かったし、小説の話をすれば同じようによく知っているし、それに家で姉たちの琴をよく聞いて知っていたので、彼女の得意の琴に理解が通った。
 彼の女はしかし非常につつましく、その表現は古風であった。私たちは他人の前で愛の表情をするようなことはなかった。
 私たちは幾人もの友だちと彼女の家を訪ねては御馳走になった。母も姉も天の使のように善良であった。
 庄原の私の家に中学の友達が泊りがけで遊びに来て、
「君の家は遊ぶのに実に都合のいい家だ」
 とよく言った。父母が善良で、美しい姉妹がいて、室内遊戯の材料が豊富で、そして生活がゆとりがあったからだ。
 時子の家がその通りであった。
 多勢の友だちで行ったが、私は時子の心が私に寄っていることを知っていた。
 が私たちは最後までキスもしなかった。遊戯の時に、それにまぎれて、手を握り合ったのが表現の絶頂であった。
 ただ手紙のやりとりをするだけ、それも互いにつつましく、淡いものであった。
 が卒業の日が近づくにつれ、互に心忙がれる何ものかがあった。
 一方では父は私の東京への進学をなかなか許してくれなかった。それは父にとっては、倉田家の運命の岐れ目になる重大事であり、自分が養子であって、家をつぶしてはならぬという責任感から来ているのであった。
 私はも少しで遊学の志をあきらめてしまわねばなるまいかと思う所であった。(恐しいことではないか!)
 そしてそれをあきらめるためには時子にすがりたかった。時子との愛で生きようかと思った。時子を嫁に貰って、家業を継ごうか。二十歳の青年がこんなことを思いついたのだ!
 確かにそれが時子との間を拍車した。
 私は時子と尾関山で逢曳きすることを約束した。初めての逢曳きなのだ。私の結婚の申込みをしようとして。
 山で待ったが時子は来なかった。それで小泉の家へ行って見たら、母や、姉たちと寺戸の七面神社へ参詣したという。七面の森は馬洗川をへだてた向こうにあった。私はまわり道してはいられないので、とうとう真冬の川の中にざぶりと浸って、かち渉った。橋も舟もなかったので。時子は島田に結んで、戻のついた被布を着ていた。川を渉って来たと聞いて驚いていた。母はあわれみの目で私を見ていたようだった。それとなく二人の心を気付いていたらしい。
 後でよんどころなく山へ来れなかったわけが解った。
 私は手紙で私の心を時子にうち明けた。そして時子の手紙を見ておどろいた。そうした淡い交わりにもかかわらず、二つ年下の私の非常識な申し出を彼の女は受け容れていてくれるのであった。
 私は深く感動した。そして私の遊学の志を捨てて、彼女と結婚して、草深い田舎の家業を継ごうと決心した。
 私は叔母に打ち明けた。叔母は顔赤らめて聞いていたが、私が大真面目なのに感動したらしく叔父に話した。叔父は大乗気であった。それは私が遊学をあきらめて、家業を継ぐなら、父の大喜びなのは解り切っているからであった。
 叔父が父に話すと父は大賛成であった。そこで叔父は正式に小泉家に申込んだ。
 小泉家でこの縁談に首を捻ったのは当然であったといっていい。時子の父母から見れば私はまだ子供だ。その上時子より年下だ。これから勉強盛りの者が今結婚でもあるまい。無理な申し出というよりない。時子の母は確かに私を愛していてくれたが、それだけなお更取り合う気にはなれなかったろう。私は人並みよりずっと坊ちゃんらしかったからだ。
 小泉家ではそれでも信仰の上から、厳かにおみくじを引いて見た。するとどうしてもこの縁談は凶であった。小泉家では叮重に謝絶して来た。
 もしこの時受諾されていたら私の一生のコースはどうなっていたろう。実に恐るべきは運命である!
 こうなってから時子に両親への反撥力の無かったことは、その当時の私には、たまらない幻滅であったけれど、今の私には裁く気はない。事柄自体が無理だったのだ。寧ろそうした淡い交わりで結婚を申込んだ私の非常識と、境遇の圧力とを恥じ、それにもかかわらず、受け容れてくれた非打算的な、時子の愛を感謝する。後で彼女の姉さんから聞いて解ったのだが、彼女は毎日泣いて、食事をとらなかったそうだ。私に手紙の来ないのを私は怒っていたが。
 しかしこの事のために私の運命は変った。
 父は私をあわれむのあまり、私の遊学を許した。但し一高はいけない。早稲田の専門部に三年間だけ遊学して来るがいいというわけだ。
 私はもう決意していた。断じて一高を受ける。そして入学してしまえば、どちらにしろ三年間だ。それから先きは又どうにかなる。私はもうどんな事があっても商業は継がないと。
 思えば戦慄する程の運命の危機であったのだ。
 私が遊学の志を捨てて、結婚しようとしてると聞いた時、私の親友は驚いて叱咤の手紙をよこした。一婦人のために空しく壮図をあきらめるとは何事か。いさぎよく彼女を捨てよと。
 しかし私には友の心は解りつつも、痛くひびかなかった。
 今にして考えるに、私は確かに常規で測られぬ詩人的素質なのらしい。よく二十歳の時、純直にお嫁が欲しいと叔母に打ち明けられたと思うのだ。その当時は気が付かなかったが、客観的には、普通の心理ではない。
 普通人が恥じる所を恥じず、恥じない所を恥じてる節々が実に多かったことを感じる。
 中学時代の思い出は尽きない。
 色々と書きつづけていれば限りもなく追憶が湧きあがって来る。しかしいつまでもこのあたりに低徊しているわけにも行くまい。というのは今やようやく生の自覚が目ざめたので、私の真面目な一人前の生活求道者としての自叙伝はこれから初まると言っていいのだからだ。
 それではなつかしい三次時代はこれで葬ろう。それと共に私の少年期の幕を下ろそう。
 三つの川の巴を描くところ、狭霧立ちこむるあの北備の別天地。そこではぐみ育てた五年間の、思想上の揺籃期の生活の体験は私の一生涯の人間的の性格を決定したと言ってもいいのだ。私は涙に近い感謝と、忘れじの愛慕とを永久に寄せるのであろう。
 比叡尾山よ、馬洗川よ。恩師よ、友だちよ、初恋の人よ。白帆会よ。
 私は三次時代の思い出を書きつづった事をせめて私の感謝と郷愁との記念として君たちにささげたいのだ。それを受けてくれ。生涯の内に色々の作の中に君たちの事を織り込まれるであろう。だが私は厳粛な、一とまとまりのものとして、後々までも残るものとして、実際の記録をここに書きつけておくのだ。
 左様なら。左様なら。私は本当に涙なしには幕が下ろせないのだ。
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[参考]はしがき


 命を法界に立てる――これが求道の目的だ。我がけたるこのひとつのいのちは全宇宙的絶対値を荷うており、初めなく、又終りなくすなわち限りなきいのちの流れの水粒であり、そして他のひとつひとつのいのち――それは過去にこの世に生きていたもの、現在生きているもの、又これから生まれ出るものを通じて――すべての個々のいのちの粒とつながり合って、久遠実成の大生命をつくっているものであり、それは寿命無量、光明無量であることを身を以て証する時、我々はこの身ながらみ仏と成ったのであり、初めて安心立命することが出来るのだ。
 この宇宙とひとつにならずに、限りなきいのちを得ることは出来ぬ。我々のいのちが不滅でなくては安心立命は出来ない。そして限り無きいのちは又量りなきしかりである。大宇宙は大光明である。そしてこの大生命と大光明とは蒼空や、大洋のような大きなものだけでなく、うつそみの人にも、みみずにも、塵屑にも遍満しているのだ。
 千億の仏が光り合って、大光明をなしているのだ。人も、虫も、石も、雲もみな仏だ。みな光りだ。
 我々は滅びることはない。過去より、未来まで生き通しである。
 この故にキリストは言った。
「我れはアブラハムのあらざりし前よりありし者なり」
 釈迦は言った。
「我れ成仏以来百千万億那由他劫である」と。
 自分如きものにもその自覚があるのだ。この限りなきいのちの自覚がなくては安心立命は出来るものでない。
 自分はいかにしてこの自覚を得たか。
 それは求道の旅の二十余年がある。今自分は後れて来る人々のために、その道程をふり返って書きとめて見よう。
 しかして宗教の器官は所詮直観だ。直観の触角なくしてはくどくどと平面的叙述してもどうせ掴めないし、その触角あるものはくどくどしさに悩まされるであろう。
 暗示と閃光と飛躍とが必要である。
 かような触角が若し才智や、学識であるのなら、自分はどんなトライフルな描写の反復をも、一文不知の人々のために労を惜まぬであろう。だがかような触角はこころばえにあるのだ。道を求める態度にある故、自分はかような触角にふさうように書いて行く。求める心の熱く、素直でないものに、解って貰うことはどの道出来ない相談だからだ。
 求めよ、さらばあたえられん。たずねよ、さらば遇わん。
 自ら必要とせぬものが与えられるわけはない。種はよき地にまかれて初めて「或いは百倍或は六十倍、或は三十倍の実を結ぶ」のである。
倉田百三

底本:「光り合ういのち」(人間の記録121)、日本図書センター
   2001(平成13)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「光り合ういのち」現代社
   1957(昭和32)年
初出:「いのち」
   1937(昭和12)年2月号より連載
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の誤植が疑われるところは、「光り合ふいのち」1949(昭和24)年6月15日発行、萬葉出版社を用いて訂正注記しました。
入力:藤原隆行
校正:大野裕
2012年8月31日作成
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