あらすじ
折口信夫の「死者の書」は、二上山に眠る「耳面刀自」という女性の幽霊をめぐる物語です。語り手は、彼女に魅せられた男であり、死後の世界で、彼女との再会を望む一方で、生前の記憶と自身の存在意義に苦悩しています。美しくも哀しい、生と死、そして記憶と忘却の物語です。
の人の眠りは、しずかに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するもののよどんでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずとまつげと睫とが離れて来る。膝が、ひじが、おもむろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。
そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まずあっしかかる黒いいわおの天井を意識した。次いで、氷になった岩牀いわどこ。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝うしずくの音。
時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実につながって、ありありと、目にみついているようである。
ああ耳面刀自みみものとじ
よみがえった語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。
耳面刀自。おれはまだお前を……思うている。おれはきのう、ここに来たのではない。それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もっともっと長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。耳面刀自。ここに来る前から……ここに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。
古い――祖先以来そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくっと起き直ろうとした。だが、筋々がれるほどの痛みを感じた。骨の節々のくじけるような、うずきを覚えた。……そうして尚、じっと、――じっとして居る。射干玉ぬばたまの闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。耳面刀自の記憶。ただ其だけの深い凝結した記憶。其が次第にひろがって、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想れんそうひもに貫いて行く。そうして明るい意思が、彼の人の死枯しにがれたからだに、ふたたび立ち直って来た。
耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまえのことを聞きわたった年月は、久しかった。おれによって来い。耳面刀自。
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。
だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨がを聞いたのだっけ。そうだ。訳語田おさだの家を引き出されて、磐余いわれの池に行った。堤の上には、遠捲とおまきに人が一ぱい。あしこの萱原かやはら、そこの矮叢ぼさから、首がつき出て居た。皆が、大きなおらび声を、挙げて居たっけな。あの声は残らず、おれをいとしがって居る、半泣きのわめき声だったのだ。其でもおれの心は、澄みきって居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だったものな。はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思うと――待てよ。其は何だか一目惚ひとめぼれの女のき声だった気がする。――おお、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるような刹那せつなを、通った気がした。にわかに、楽な広々とした世間に、出たような感じが来た。そうして、ほんの暫らく、ふっとそう考えたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った――おれ自分すら、おれが何だか、ちっともわからぬ世界のものになってしまったのだ。
ああ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまったのだ。
足のくるぶしが、膝のひつかがみが、腰のつがいが、くびのつけ根が、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみが、ぼんの窪が――と、段々上って来るひよめきの為にうごめいた。自然に、ほんの偶然こわばったままの膝が、折りかがめられた。だが、依然として――常闇とこやみ
おおそうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女みこ――おれの姉御。あのお人が、おれを呼びけに来ている。
姉御。ここだ。でもおまえさまは、尊い御神おんかみに仕えている人だ。おれのからだに、触ってはならない。そこに居るのだ。じっとそこに、踏みとまって居るのだ。――ああおれは、死んでいる。死んだ。殺されたのだ。――忘れて居た。そうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開けては。塚の通い路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も、来ては居なかったのだな。ああよかった。おれのからだが、天日てんぴさらされて、見る見る、腐るところだった。だが、おかしいぞ。こうつと――あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言って居たのもいんまの事――だったと思うのだが。昔だ。
おれのここへ来て、間もないことだった。おれは知っていた。十月だったから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首をじちぎられて、何も訣らぬものになったことも。こうつと――姉御が、墓の戸で哭き喚いて、歌をうたいあげられたっけ。「巌岩いその上に生ふる馬酔木あしびを」と聞えたので、ふと、冬が過ぎて、春もけ初めた頃だと知った。おれのむくろが、もう半分融け出した時分だった。そのあと、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。そう言われたので、はっきりもう、死んだ人間になった、と感じたのだ。……其時、手で、今してる様にさわって見たら、驚いたことに、おれのからだは、こんだ著物の下で、※(「月+昔」、第3水準1-90-47)ほじしのように、ぺしゃんこになって居た――。
かいなが動き出した。片手は、まっくらなくうをさした。そうして、今一方は、そのまま、岩牀いわどこの上を掻きさぐって居る。
うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山ふたかみやま愛兄弟いろせと思はむ
誄歌なきうたが聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌ってくれたのだ。其で知ったのは、おれの墓と言うものが、二上山の上にある、と言うことだ。
よい姉御だった。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになってしまった。
其から、どれほどたったのかなあ。どうもよっぽど、長い間だった気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居睡りの夢をさまされた感じだった。其に比べると、今度は深い睡りのあと見たいな気がする。あの音がしてる。昔の音が――。
手にとるようだ。目に見るようだ。心を鎮めて――。鎮めて。でないと、この考えが、また散らかって行ってしまう。おれの昔が、ありありと訣って来た。だが待てよ。……其にしても一体、ここに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれのつまなのだ。其をおれは、忘れてしまっているのだ。
両の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐって居る。そうしてまるで、生き物のするような、深いいきれて出た。
大変だ。おれの著物は、もうすっかりくさって居る。おれのはかまは、ほこりになって飛んで行った。どうしろ、と言うのだ。此おれは、著物もなしに、寝て居るのだ。
筋ばしるように、の人のからだに、血のけ廻るに似たものが、過ぎた。ひじを支えて、上半身が闇の中に起き上った。
おお寒い。おれを、どうしろとおっしゃるのだ。尊いおっかさま。おれが悪かったと言うのなら、あやまります。著物を下さい。著物を――。おれのからだは、地べたに凍りついてしまいます。
彼の人には、声であった。だが、声でないものとして、消えてしまった。声でないことばが、何時までも続いている。
くれろ。おっかさま。著物がなくなった。すっぱだかで出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに、寝床の上を這いずり廻っているのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばたばたやっているおれの、見える奴が居ぬのか。
そのうめき声のとおり、彼の人の骸は、まるでだだをこねる赤子のように、足もあががに、身あがきをば、くり返して居る。明りのささなかった墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたたずまいを、幾分おぼろに、見わけることが出来るようになって来た。どこからか、月光とも思える薄あかりが、さし入って来たのである。
どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、びついてしまった……。

月は、依然として照って居た。山が高いので、光りにあたるものが少かった。山を照し、谷を輝かして、あまる光りは、又空に跳ね返って、残る隈々くまぐままでも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、沢山の峰があった。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあって、深々とうねっている。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになって、俄かに出て来た霞の所為せいだ。其が又、此冴えざえとした月夜をほっとりと、暖かく感じさせて居る。
広い端山はやまの群った先は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く続いた、輝く大佩帯おおおびは、石川である。その南北にわたっている長い光りの筋が、北の端で急に広がって見えるのは、凡河内おおしこうちむらのあたりであろう。其へ、山間やまあいを出たばかりの堅塩かたしお川―大和川―が落ちあって居るのだ。そこから、いぬいの方へ、光りを照り返す平面が、幾つもつらなって見えるのは、日下江くさかえ永瀬江ながせえ難波江なにわえなどの水面であろう[#「あろう」は底本では「あらう」]
しずかな夜である。やがて鶏鳴近い山の姿は、一様に露に濡れたように、しっとりとして静まって居る。谷にちらちらする雪のような輝きは、目の下の山田谷に多い、小桜の遅れ咲きである。
一本の路が、真直に通っている。二上山の男岳おのかみ女岳めのかみの間から、急にさがって来るのである。難波から飛鳥あすかの都への古い間道なので、日によっては、昼は相応な人通りがある。道は白々と広く、夜目には、芝草のって居るのすら見える。当麻路たぎまじである。一降ひとくだりして又、大降おおくだりにかかろうとする処が、中だるみに、ややひらたくなっていた。梢のとがったかえの木の森。半世紀を経た位の木ぶりが、一様に揃って見える。月の光りも薄い木陰全体が、勾配こうばいを背負って造られた円塚であった。月は、瞬きもせずに照し、山々は、深く※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたを閉じている。
こう こう こう。
先刻さっきから、聞えて居たのかも知れぬ。あまりしずけさに馴れた耳は、新な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。だから、今珍しく響いて来た感じもないのだ。
こう こう こう――こう こう こう。
確かに人声である。鳥の夜声とは、はっきりかわったひびきいて来る。声は、暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返って張りきっている。この山の峰つづきに見えるのは、南に幾重ともなく重った、葛城かつらぎの峰々である。伏越ふしごえ櫛羅くしら小巨勢こごせと段々高まって、果ては空の中につき入りそうに、二上山と、この塚にのしかかるほど、真黒に立ちつづいている。
当麻路をこちらへ降って来るらしい影が、見え出した。二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。急な降りを一気に、この河内路へけおりて来る。
九人と言うよりは、九柱の神であった。白い著物きもの・白いかずら、手は、足は、すべて旅の装束いでたちである。頭より上に出た杖をついて――。このたいらに来て、森の前に立った。
こう こう こう。
誰の口からともなく、一時に出た叫びである。山々のこだまは、驚いて一様に、忙しく声を合せた。だが、山は、たちまち一時の騒擾そうじょうから、元の緘黙しじまに戻ってしまった。
こう。こう。お出でなされ。藤原南家なんけ郎女いらつめ御魂みたま
こんな奥山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう こう。
お身さまの魂を、今、山たずね尋ねて、尋ねあてたおれたちぞよ。こう こう こう。
九つの杖びとは、心から神になって居る。彼らは、杖を地に置き、鬘を解いた。鬘は此時、唯真白な布に過ぎなかった。其を、長さの限り振りさばいて、一様に塚に向けて振った。
こう こう こう。
こう言う動作をくり返して居る間に、自然な感情の鬱屈うっくつと、休息を欲するからだの疲れとが、九体の神の心を、人間に返した。彼らは見る間に、白い布を頭にきこんで鬘とし、杖を手にとった旅人として、立っていた。
おい。無言しじまの勤めも此までじゃ。
おお。
八つの声が答えて、彼等は訓練せられた所作のように、忽一度に、草の上にくつろぎ、再杖を横えた。
これで大和も、河内との境じゃで、もう魂ごいのぎょうもすんだ。今時分は、郎女さまのからだは、いおりの中で魂をとり返して、ぴちぴちして居られようぞ。
ここは、何処だいの。
知らぬかいよ。大和にとっては大和の国、河内にとっては河内の国の大関おおぜき。二上の当麻路の関――。
別の長老とねめいた者が、説明をいだ。
四五十年あとまでは、唯関と言うばかりで、何のしるしもなかった。其があの、近江の滋賀の宮に馴染み深かった、其よ。大和では、磯城しき訳語田おさだ御館みたちに居られたお方。池上の堤で命召されたあのお方のむくろを、罪人にもがりするは、災の元と、天若日子あめわかひこの昔語りに任せて、其まま此処におはこびなされて、おけになったのが、此塚よ。
以前の声が、もう一層しわがれた響きで、話をひきとった。
其時の仰せには、罪人よ。吾子わこよ。吾子のおおせなんだあらび心で、吾子よりももっと、わるいたけび心を持った者の、大和に来向うのを、待ち押え、え防いで居ろ、と仰せられた。
ほんに、あの頃は、まだおれたちも、壮盛わかざかりじゃったに。今ではもう、五十年昔になるげな。
今一人が、相談でもしかける様な、口ぶりを挿んだ。
さいや。あの時も、墓作りに雇われた。その後も、当麻路の修覆に召し出された。此お墓の事は、よく知って居る。ほんの苗木じゃった栢が、此ほどの森になったものな。こわかったぞよ。此墓のみ魂が、河内安宿部あすかべから石担いしもちに来て居た男に、いた時はのう。
九人は、完全にうつの庶民の心に、なりかえって居た。山の上は、昔語りするには、あまり寂しいことを忘れて居たのである。時の更け過ぎた事が、彼等の心には、現実にひしひしと、感じられ出したのだろう。
もう此でよい。戻ろうや。
よかろ よかろ。
皆は、鬘をほどき、杖を棄てた白衣の修道者、と言うだけの姿なりになった。
だがの。皆も知ってようが、このお塚は、由緒深い、気のおける処ゆえ、もう一度、魂ごいをしておくまいか。
長老の語と共に、修道者たちは、再魂呼たまよばいの行を初めたのである。
こう こう こう。

おお……。
異様な声を出すものだ、と初めは誰も、自分らの中の一人を疑い、其でも変に、おじけづいた心を持ちかけていた。も一度、
こう こう こう。
其時、塚穴の深い奥から、こおりきった、而も今息を吹き返したばかりの声が、明らかに和したのである。
おおう……。
九人の心は、ばらばらの九人の心々であった。からだも亦ちりぢりに、山田谷へ、竹内谷へ、大阪越えへ、又当麻路へ、峰にちぎれた白い雲のように、消えてしまった。
唯畳まった山と、谷とに響いて、一つの声ばかりがする。
おおう……。

万法蔵院の北の山陰に、昔から小な庵室あんしつがあった。昔からと言うのは、村人がすべて、そう信じて居たのである。荒廃すれば繕い繕いして、人は住まぬ廬に、孔雀明王像くじゃくみょうおうぞうが据えてあった。当麻の村人の中には、まれに、此が山田寺である、と言うものもあった。そう言う人の伝えでは、万法蔵院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言い、又御自身の御発起からだとも言うが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でなされて、大伽藍だいがらんを建てさせられた。其際、山田寺の旧構を残すため、寺の四至の中、北の隅へ、当時立ちぐさりになって居た堂を移し、規模を小くして造られたもの、と伝え言うのであった。そう言えば、山田寺は、役君小角えのきみおづぬが、山林仏教をはじめる最初の足代あししろになった処だと言う伝えが、吉野や、葛城の山伏行人やまぶしぎょうにんの間に行われていた。何しろ、万法蔵院の大伽藍が焼けて百年、荒野の道場となって居た、目と鼻との間に、こんな古い建て物が、残って居たと言うのも、不思議なことである。
夜は、もう更けて居た。谷川のたぎちの音が、段々高まって来る。二上山の二つの峰の間から、流れくだる水なのだ。
廬の中は、暗かった。炉をくことの少い此辺では、地下じげ百姓は、夜は真暗な中で、寝たり、坐ったりしているのだ。でもここには、本尊がまつってあった。夜を守って、仏の前で起き明す為には、御灯みあかしを照した。
孔雀明王の姿が、あるかないかに、ちろめく光りである。
姫は寝ることを忘れたように、坐って居た。
万法蔵院の上座の僧綱そうごうたちの考えでは、まず奈良へ使いを出さねばならぬ。横佩家よこはきけの人々の心を、思うたのである。次には、女人結界にょにんけっかいを犯して、境内深く這入はいった罪は、郎女いらつめ自身にあがなわさねばならなかった。落慶のあったばかりの浄域だけに、一時は、塔頭たっちゅう塔頭の人たちの、青くなったのも、道理である。此は、財物を施入する、とったぐらいではすまされぬ。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならぬと思った。其で、今日昼の程、奈良へ向って、早使いを出して、郎女の姿が、寺中に現れたゆくたてを、仔細しさいに告げてやったのである。
其と共に姫の身は、此庵室あんしつに暫らく留め置かれることになった。たとい、都からの迎えが来ても、結界を越えた贖いを果す日数だけは、ここに居させよう、と言うのである。
ゆかは低いけれども、かいてあるにはあった。其替り、天井は無上むしょうに高くて、而もかやのそそけた屋根は、破風はふの脇から、むき出しに、空の星が見えた。風がうなって過ぎたと思うと、其高い隙から、どっと吹き込んで来た。ばらばら落ちかかるのは、すすがこぼれるのだろう。明王の前の灯が、一時いっときかっと明るくなった。
その光りで照し出されたのは、あさましくすさんだ座敷だけでなかった。荒板の牀の上に、薦筵こもむしろ二枚重ねた姫の座席。其に向って、ずっと離れた壁ぎわに、板敷にじかに坐って居る老婆の姿があった。
壁と言うよりは、壁代かべしろであった。天井から吊りさげた竪薦たつごもが、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重って居て、どうやら、風は防ぐようになって居る。その壁代に張りついたように坐って居る女、先から※(「亥+欠」、第3水準1-86-30)しわぶき一つせぬ静けさである。貴族の家の郎女は、一日もの言わずとも、寂しいとも思わぬ習慣がついて居た。其で、この山陰の一つ家に居ても、いき一つもらすのではなかった。の内此処へ送りこまれた時、一人のうばのついて来たことは、知って居た。だが、あまり長く音も立たなかったので、人の居ることは忘れて居た。今ふっと明るくなった御灯みあかしの色で、その姥の姿から、顔まで一目で見た。どこやら、覚えのある人の気がする。さすがに、姫にも人懐しかった。ようべ家を出てから、女性にょしょうには、一人も逢って居ない。今そこに居る姥が、何だか、昔の知り人のように感じられたのも、無理はないのである。見覚えのあるように感じたのは、だが、其親しみ故だけではなかった。
郎女さま。
緘黙しじまを破って、かえってもの寂しい、乾声からごえが響いた。
郎女は、御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。
一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、しゃべり出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気のしたわけを、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじようなおむなが、出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もずかずか這入って来て、はばかりなく古物語りを語った、あの中臣志斐媼なかとみのしいのおむな――。あれと、おなじ表情をして居る。其も、もっともであった。志斐老女が、藤氏とうしの語部の一人であるように、此も亦、この当麻たぎまの村の旧族、当麻真人の「氏の語部」、亡び残りの一人であったのである。
藤原のお家が、今は、四筋に分れて居りまする。じゃが、大織冠たいしょくかんさまの代どころでは、ありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家でおざりました。併し其頃やはり、藤原は、中臣と二つの筋にわかれました。中臣の氏人で、藤原の里に栄えられたのが、藤原と、家名の申され初めでおざりました。
藤原のお流れ。今ゆく先も、公家摂※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79)くげしょうろくの家柄。中臣の筋や、おん神仕え。差別差別けじめけじめ明らかに、御代御代みよみよ宮守みやまもり。じゃが、今は今、昔は昔でおざります。藤原の遠つおや、中臣の氏の神、天押雲根あめのおしくもねと申されるお方の事は、お聞き及びかえ。
今、奈良の宮におざります日の御子さま。其前は、藤原の宮の日のみ子さま。又其前は、飛鳥の宮の日のみ子さま。大和の国中くになかに、宮うつし、宮さだめ遊した代々よよの日のみ子さま。長く久しい御代御代に仕えた、中臣の家の神業。郎女さま。お聞き及びかえ。遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ。中臣・藤原の遠つ祖あめの押雲根命おしくもね。遠い昔の日のみ子さまのおしの、いいと、みを作る御料の水を、大和国中残るくまなく捜しもとめました。
その頃、国原の水は、水渋そぶ臭く、土濁りして、日のみ子さまのお喰しのしろに叶いません。天の神高天たかま大御祖おおみおや教え給えと祈ろうにも、国中は国低し。山々もまんだ天遠し。大和の国とり囲む青垣山では、この二上山。空行く雲の通い路と、昇り立って祈りました。その時、高天の大御祖のお示しで、中臣の祖押雲根命、天の水の湧き口を、此二上山にところまで見とどけて、其後久しく、日のみ子さまのおめしの湯水は、代々の中臣自身、此山へ汲みに参ります。お聞き及びかえ。
当麻真人の、氏の物語りである。そうして其が、中臣の神わざとつながりのある点を、座談のように語り進んだ姥は、ふと口をつぐんだ。外には、瀬音が荒れて聞えている。中臣・藤原の遠祖が、天二上あめのふたかみに求めた天八井あめのやいの水を集めて、峰を流れ降り、岩にあたってみなぎたぎつ川なのであろう。瀬音のする方に向いて、姫は、たなそこを合せた。
併しやがて、ふり向いて、仄暗ほのぐらくさし寄って来ている姥の姿を見た時、言おうようないおそろしさと、せつかれるような忙しさを、一つに感じたのである。其に、志斐姥の、本式に物語りをする時の表情が、此老女の顔にも現れていた。今、当麻の語部の姥は、神憑かみがかりに入るらしく、わなわな震いはじめて居るのである。

ひさかたの  天二上あめふたかみに、
が登り   見れば、
とぶとりの  明日香あすか
ふる里の   神南備山隠かむなびごもり、
家どころ   さはに見え、
ゆたにし    屋庭やにはは見ゆ。
弥彼方いやをちに   見ゆる家群いへむら
藤原の    朝臣あそが宿。
 遠々に    が見るものを、
 たか/″\に が待つものを、
処女子をとめごは   出でぬものか。
よき耳を   聞かさぬものか。
青馬の    耳面刀自みゝものとじ
 刀自もがも。女弟おともがも。
 その子の   はらからの子の
 処女子の   一人
 一人だに、  わが配偶つまよ。

ひさかたの  天二上
二上の陽面かげともに、
生ひをゝり  み咲く
馬酔木あしびの   にほへる子を
 我が     り兼ねて、
馬酔木の   あしずりしつゝ
 はもよしぬぶ。藤原処女

歌いえた姥は、大息をついて、ぐったりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが、耳についた。
姥は居ずまいを直して、厳かな声音こわねで、かたり出した。
とぶとりの 飛鳥の都に、日のみ子様のおそば近くはべる尊いおん方。ささなみの大津の宮に人となり、唐土もろこし学芸ざえいたり深く、からうたも、此国ではじめて作られたは、大友ノ皇子か、其とも此お方か、と申し伝えられる御方。
近江の都は離れ、飛鳥の都の再栄えたその頃、あやまちもあやまち。日のみ子に弓引くたくみ、恐しや、企てをなされると言う噂が、立ちました。
高天原広野姫尊たかまのはらひろぬひめのみこと、おん怒りをお発しになりまして、とうとう池上の堤に引き出して、お討たせになりました。
其お方がお死にのきわに、深く深く思いこまれた一人のお人がおざりまする。耳面ノ刀自と申す、大織冠たいしょくかんのお娘御でおざります。前から深くお思いになって居た、と云うでもありません。唯、此郎女いらつめも、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の御方が、愈々いよいよ磐余いわれの池の草の上で、お命召されると言うことを聞いて、一目 見てなごり惜しみがしたくて、こらえられなくなりました。藤原から池上まで、おひろいでお出でになりました。小高いしばの一むらある中から、御様子をうかごうて帰ろうとなされました。其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となったのでおざりまする。
もゝつたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隠りなむ
この思いがけない心残りを、お詠みになった歌よ、と私ども当麻たぎまの語部の物語りには、伝えて居ります。
その耳面刀自と申すは、淡海公の妹君、郎女の祖父おおじ南家太政大臣なんけだいじょうだいじんには、叔母君にお当りになってでおざりまする。
人間の執心と言うものは、怖いものとはお思いなされぬかえ。
其亡き骸は、大和の国を守らせよ、と言う御諚ごじょうで、此山の上、河内から来る当麻路の脇におけになりました。其が何と、此世の悪心も何もかも、忘れ果てて清々すがすがしい心になりながら、唯そればかりの一念が、残って居る、と申します。藤原四流の中で、一番美しい郎女が、今におき、耳面刀自と、其幽界かくりよの目には、見えるらしいのでおざりまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この当麻までお出でになったのでのうて、何でおざりましょう。
当麻路に墓を造りました当時そのかみ、石をはこぶ若い衆にのり移ったたまが、あの長歌をうとうた、と申すのが伝え。
当麻語部媼たぎまのかたりのおむなは、南家の郎女の脅える様を想像しながら、物語って居たのかも知れぬ。唯さえ、この深夜、場所も場所である。如何に止めどなくなるのが、「ひとり語り」の癖とは言え、語部の古婆ふるばばの心は、自身も思わぬ意地くね悪さを蔵しているものである。此が、神さびた職を寂しく守って居る者の優越感を、充すことにも、なるのであった。
大貴族の郎女は、人の語を疑うことは教えられて居なかった。それに、信じなければならぬもの、とせられて居た語部の物語りである。ことばの端々までも、真実を感じて、聴いて居る。
言うとおり、昔びとの宿執が、こうして自分を導いて来たことは、まことに違いないであろう。其にしても、ついしか見ぬお姿――尊い御仏と申すような相好が、其お方とは思われぬ。春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上に、まざまざと見たお姿。此日本やまとの国の人とは思われぬ。だが、自分のまだ知らぬこの国の男子おのこごたちには、ああ言う方もあるのか知らぬ。金色のびん、金色の髪の豊かに垂れかかる片肌は、白々といで美しい肩。ふくよかなお顔は、鼻たかく、眉秀で夢見るようにまみを伏せて、右手は乳の辺に挙げ、脇の下に垂れた左手は、ふくよかな掌を見せて……ああ雲の上に朱の唇、匂いやかにほほ笑まれると見た……そのおもかげ
日のみ子さまの御側仕えのお人の中には、あの様な人もおいでになるものだろうか。我が家の父や、兄人しょうとたちも、世間の男たちとは、とりわけてお美しい、と女たちは噂するが、其すら似もつかぬ……。
尊い女性にょしょうは、下賤な人と、口をきかぬのが当時の世のおきてである。何よりも、其語は、下ざまには通じぬもの、と考えられていた。それでも、此古物語りをするうばには、貴族の語もわかるであろう。郎女は、恥じながら問いかけた。
そこの人。ものを聞こう。此身の語が、聞きとれたら、答えしておくれ。
その飛鳥の宮の日のみ子さまに仕えた、と言うお方は、昔の罪びとらしいに、其が又何としたわけで、姫の前に立ち現れては、神々こうごうしく見えるであろうぞ。
此だけの語が言いよどみ、淀みして言われている間に、姥は、郎女の内に動く心もちの、およそは、どったであろう。暗いみあかしの光りの代りに、其頃は、もう東白みの明りが、部屋の内の物の形を、おぼろげにあらわしはじめて居た。
我が説明ことわけを、お聞きわけられませ。神代の昔びと、天若日子あめわかひこ。天若日子こそは、てんの神々に弓引いた罪ある神。其すら、其、人の世になっても、氏貴い家々の娘御のねやの戸までも、忍びよると申しまする。世に言う「天若みこ」と言うのが、其でおざります。
天若みこ。物語りにも、うき世語りにも申します。お聞き及びかえ。
姥は暫らく口を閉じた。そうして[#「そうして」は底本では「さうして」]言い出した声は、顔にも、年にも似ず、一段、はなやいで聞えた。
「もゝつたふ」の歌、残された飛鳥の宮の執心びと、世々の藤原のいちひめたたる天若みこも、顔清く、声心く天若みこのやはり、一人でおざりまする。
お心つけられませ。物語りも早、これまで。
其まま石のように、老女はじっとして居る。冷えた夜も、朝影を感じる頃になると、幾らか温みがさして来る。
万法蔵院は、村からは遠く、山によって立って居た。暁早い鶏の声も、聞えぬ。もう梢を離れるらしい塒鳥ねぐらどりが、近い端山はやま木群こむらで、羽振はぶきの音を立て初めている。

おれはきた。
くらい空間は、明りのようなものを漂していた。併し其は、蒼黒いもやの如く、たなびくものであった。
巌ばかりであった。壁も、とこも、はりも、巌であった。自身のからだすらが、既に、巌になって居たのだ。
屋根が壁であった。壁が牀であった。巌ばかり――。触っても触っても、巌ばかりである。手を伸すと、更に堅い巌が、掌に触れた。脚をひろげると、もっと広い磐石ばんじゃくおもてが、感じられた。
わずかにさす薄光りも、黒い巌石が皆吸いとったように、岩窟いわむろの中に見えるものはなかった。唯けはい――彼の人の探り歩くらしい空気の微動があった。
思い出したぞ。おれが誰だったか、――わかったぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕え、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦しがつひこ。其が、おれだったのだ。
歓びの激情を迎えるように、岩窟の中のすべての突角がたけびの反響をあげた。彼の人は、立って居た。一本の木だった。だが、其姿が見えるほどの、はっきりした光線はなかった。明りに照し出されるほど、まとまったうつをも、持たぬ彼の人であった。
唯、岩屋の中に矗立しゅくりつした、立ち枯れの木に過ぎなかった。
おれの名は、誰も伝えるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛いとしいおれの名は、そうだ。語り伝える子があった筈だ。語り伝えさせる筈の語部も、出来て居ただろうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しくしくと胸を刺すようだ。
――子代こしろも、名代なしろもない、おれにせられてしまったのだ。そうだ。其に違いない。この物足らぬ、大きな穴のあいた気持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかったと同前の人間になって、うつの人間どもには、忘れおおされて居るのだ。憐みのないおっかさま。おまえさまは、おれの妻の、おれに殉死ともじにするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子あわつこは、罪びとの子として、何処かへ連れて行かれた。野山のけだものの餌食えじきに、くれたのだろう。可愛そうな妻よ。哀なむすこよ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が伝らない。劫初ごうしょから末代まで、此世に出ては消える、あめした青人草あおひとぐさと一列に、おれは、此世に、影も形も残さない草の葉になるのは、いやだ。どうあっても、不承知だ。
恵みのないおっかさま。お前さまにおすがりするにも、其おまえさますら、もうおいででない此世かも知れぬ。
くそ――そとの世界が知りたい。世の中の様子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。其なのに、目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなって居る。闇の中にばかりつぶって居たおれの目よ。も一度かっと※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、現し世のありのままをうつしてくれ、……土竜もぐらの目なと、おれに貸しおれ。
声は再、しずかになって行った。独り言する其声は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであろう。丑刻うしに、静謐せいひつの頂上に達した現し世は、其が過ぎると共に、にわかに物音が起る。月の、空を行く音すら聞えそうだった四方の山々の上に、まず木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿たにのながれの色が、白々と見え出す。更に遠く、大和国中くになかの、何処からか起る一番鶏のつくるとき
暁が来たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸ねやどから、ひそひそと帰って行くだろう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保っている。午前二時に朝の来る生活に、村びとも、宮びとも忙しいとは思わずに、起きあがる。短い暁の目覚めの後、又、物にりかかって、新しい眠りを継ぐのである。
山風はしきりに、吹きおろす。枝・木の葉の相軋あいひしめく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひっそとしたけしきにかえる。唯、すべてが薄暗く、すべてがくまを持ったように、おぼろになって来た。
岩窟いわむろは、沈々とくらくなって冷えて行く。
した した。水は、岩肌を絞って垂れている。
耳面刀自みみものとじ。おれには、子がない。子がなくなった。おれは、その栄えている世の中には、跡をのこして来なかった。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り伝える子どもを――。
岩牀いわどこの上に、再白々と横って見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その真裸な骨の上に、鋭い感覚ばかりがきているのであった。
まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあって、心はなかった。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であったに違いはない。自分すら忘れきった、彼の人の出来あがらぬ心に、骨にみ、干からびた髄の心までも、唯りつけられたようになって、残っているのである。

万法蔵院の晨朝じんちょうの鐘だ。夜の曙色あけいろに、一度騒立さわだった物々の胸をおちつかせる様に、鳴りわたる鐘のだ。いっぱし白みかかって来た東は、更にほの暗いれの寂けさに返った。
南家なんけ郎女いらつめは、一茎の草のそよぎでも聴き取れる暁凪あかつきなぎを、自身みだすことをすまいと言う風に、見じろきすらもせずに居る。
よるよりも暗くなったいおりの中では、明王像の立ちさえ見定められぬばかりになって居る。
何処からか吹きこんだ朝山おろしに、御灯みあかしが消えたのである。当麻語部たぎまかたりうばも、薄闇にうずくまって居るのであろう。姫は再、この老女の事を忘れていた。
ただ一刻ばかり前、這入はいりの戸を揺った物音があった。一度 二度 三度。更に数度。音は次第に激しくなって行った。とぼそがまるで、おしちぎられでもするかと思うほど、音に力のこもって来た時、ちょうど、鶏が鳴いた。其きりぴったり、戸にあたる者もなくなった。

新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が来ていた。けれども、かたくなな当麻氏の語部の古姥の為に、我々は今一度、去年以来の物語りをしておいても、よいであろう。まことに其は、きぞの日からはじまるのである。

門をはいると、にわかに松風が、吹きあてるように響いた。
一町も先に、固まって見える堂伽藍がらん――そこまでずっと、砂地である。
白い地面に、広い葉の青いままでちらばって居るのは、ほおの木だ。
まともに、寺を圧してつき立っているのは、二上山である。其真下に涅槃仏ねはんぶつのような姿に横っているのが麻呂子山だ。其頂がやっと、講堂の屋の棟に、乗りかかっているようにしか見えない。こんな事を、女人にょにんの身で知って居るわけはなかった。だが、俊敏な此旅びとの胸に、其に似たほのかな綜合そうごうの、出来あがって居たのは疑われぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行った。
此寺の落慶供養のあったのは、つい四五日あとであった。まだあの日の喜ばしい騒ぎのとよみが、どこかにする様に、ふもとの村びと等には、感じられて居る程である。
山颪に吹きさらされて、荒草深い山裾の斜面に、万法蔵院の細々とした御灯の、あおられて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な転変に、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって居るだろう。此郷に田荘なりどころを残して、奈良に数代住みついた豪族の主人も、その日は、帰って来て居たっけ。此は、天竺てんじくの狐の為わざではないか、其とも、この葛城郡に、昔から残っている幻術師まぼろしのする迷わしではないか。あまり荘厳しょうごんを極めた建て物に、故知らぬ反感までそそられて、廊を踏み鳴し、柱を叩いて見たりしたものも、その供人ともびとのうちにはあった。
数年前の春の初め、野焼きの火が燃えのぼって来て、唯一宇あった萱堂かやどうが、たちまちあともなくなった。そんな小な事件が起って、注意を促してすら、そこに、かつうるわしい福田と、寺のはじめられたを、思い出す者もなかった程、それはそれは、微かな遠い昔であった。
以前、疑いを持ち初める里の子どもが、其堂の名に、不審を起した。当麻の村にありながら、山田寺やまだでらと言ったからである。山のうしろの河内の国安宿部郡あすかべごおりの山田谷から移って二百年、寂しい道場に過ぎなかった。其でも一時は、倶舎くしゃの寺として、栄えたこともあったのだった。
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を、お夢に見られて、おん子を遣され、堂舎をひろげ、住侶じゅうりょの数をお殖しになった。おいおい境内になる土地の地形じぎょうの進んでいる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。そうなる筈の、風水の相が、「まろこ」の身を招き寄せたのだろう。よしよし墓はそのまま、其村に築くがよい、との仰せがあった。其み墓のあるのが、あの麻呂子山だと言う。まろ子というのは、尊い御一族だけに用いられる語で、おれの子というほどの、意味であった。ところが、其おことばが縁を引いて、此郷の山には、其後亦、貴人をお埋め申すような事が、起ったのである。
だが、そう言う物語りはあっても、それは唯、此里の語部のうばの口に、そう伝えられている、と言うに過ぎぬ古物語りであった。わずかに百年、其短いと言える時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考えると、同じ昔となってしまった。
旅の若い女性にょしょうは、型摺かたずりの大様な美しい模様をおいたる物を襲うて居る。笠は、浅いへりに、深い縹色はなだいろの布が、うなじを隠すほどに、さがっていた。
日は仲春、空は雨あがりの、さわやかな朝である。高原の寺は、人の住む所から、おのずから遠く建って居た。唯およそ、百人の僧俗が、中に起き伏して居る。其すら、引き続く供養饗宴きょうえんの疲れで、今日はまだ、遅い朝を、姿すら見せずにいる。
その女人は、日に向ってひたすら輝く伽藍がらんの廻りを、残りなく歩いた。寺の南ざかいは、み墓山の裾から、東へ出ている長い崎の尽きた所に、大門はあった。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立って居る。丘陵の道をうねりながら登った旅びとは、東の塔の下に出た。雨の後の水気の、立って居る大和の野は、すっかり澄みきって、若昼わかひるのきらきらしい景色になって居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡かたおかで、ほのぼのと北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の真中に、旅笠を伏せたように見える遠い小山は、耳無みみなしやまであった。其右に高くつっ立っている深緑は、畝傍山うねびやま。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安はにやすいけではなかろうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具山なのだろう。旅の女子おみなごの目は、山々の姿を、一つ一つに辿たどっている。天香具山あめのかぐやまをあれだと考えた時、あの下が、若い父母ちちははの育った、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き来した、藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てて伸び上る気持ちになって来るのが抑えきれなかった。
香具山の南の裾に輝く瓦舎かわらやは、大官大寺だいかんだいじに違いない。其から更に真南の、山と山との間に、薄く霞んでいるのが、飛鳥の村なのであろう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生い立たれたのであろう。この国の女子に生れて、一足も女部屋を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎かげろうの立っている平原を、此足で、隅から隅まで歩いて見たい。
こう、その女性にょしょうは思うている。だが、何よりも大事なことは、此郎女いらつめ――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、ここまで歩いて来ているのである。其も、唯のひとりでであった。
家を出る時、ほんの暫し、心をかすめた――父君がお聞きになったら、と言う考えも、もう気にはかからなくなって居る。乳母があわてて探すだろう、と言う心が起って来ても、かえってほのかな、こみあげ笑いを誘う位の事になっている。
山はずっしりとおちつき、野はおだやかにうねって居る。こうして居て、何の物思いがあろう。このあてな娘御は、やがて後をふり向いて、山のなぞえについて、次第に首をあげて行った。
二上山。ああこの山を仰ぐ、言い知らぬ胸騒ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すっかり違った胸のときめき。旅の郎女は、脇目も触らず、山に見入っている。そうして、静かな思いの充ちて来る満悦を、深く覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だがわば、――平野の里に感じた喜びは、過去生かこしょうに向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは、未来世みらいせを思う心躍りだ、とも謂えよう。
塔はまだ、厳重にやらいを組んだまま、人の立ち入りをいましめてあった。でも、ものに拘泥することを教えられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初重しょじゅうの欄干に、自分のよりかかって居るのに気がついた。そうして、しみじみと山に見入って居る。まるで瞳が、吸いこまれるように。山と自分とにつながる深い交渉を、又くり返し思い初めていた。
郎女の家は、奈良東城、右京三条第七坊にある。祖父おおじ武智麻呂むちまろのここで亡くなって後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は男壮おとこざかりには、横佩よこはき大将だいしょうと謂われる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだてものであった。なみの人のたてにさげて佩く大刀を、横えて吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まだそうした官吏としての、華奢きゃしゃな服装を趣向このむまでに到って居なかった頃、姫の若い父は、近代の時世装に思いを凝して居た。その家にたずねて来る古い留学生や、新来いまきの帰化僧などに尋ねることも、張文成などの新作の物語りの類を、問題にするようなのとも、亦違うていた。
そうした闊達かったつな、やまとごころの、赴くままにふるもうて居る間に、ざえ優れた族人うからびとが、彼を乗り越して行くのに気がつかなかった。姫には叔父、彼――豊成には、さしつぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。すくなくとも、姫などはそう信じて居た。家族の半以上は、太宰帥だざいのそつのはなばなしい生活の装いとして、連れられて行っていた。宮廷から賜る資人とねり※(「にんべん+慊のつくり」、第3水準1-14-36)たちも、大貴族の家の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らされて、皆任地へついて行った。そうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が来た。
しずかな屋敷には、響く物音もない時が、多かった。この家も世間どおりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあった。その西側に、小な蔀戸しとみどがあって[#「あって」は底本では「あつて」]、其をつきあげると、方三尺位な※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)まどになるように出来ている。そうして、其内側には、夏冬なしにすだれが垂れてあって、戸のあげてある時は、外からの隙見をふせいだ。
それから外廻りは、家の広い外郭になって居て、大炊屋おおいやもあれば、湯殿火焼ひたなども、下人の住いに近く、立っている。そのと言われる菜畠や、ちょっとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であった。
武智麻呂存生ぞんしょうの頃から、此屋敷のことを、世間では、南家なんけと呼び慣わして来ている。此頃になって、仲麻呂の威勢が高まって来たので、何となく其古い通称は、人の口から薄れて、其に替るとなえが、行われ出した様だった。三条七坊をすっかり占めた大屋敷を、一垣内ひとかきつ――一字ひとあざな見倣みなして、横佩よこはき墻内かきつと言う者が、著しく殖えて来たのである。
その太宰府からの音ずれが、久しく絶えたと思っていたら、都とは目と鼻の難波に、いつかかえり住んで、遥かに筑紫の政を聴いていた帥の殿であった。其父君から遣された家の子が、一車ひとくるまに積み余るほどな家づとを、家に残った家族たち殊に、姫君にと言ってはこんで来た。
山国の狭い平野に、一代一代都遷みやこうつしのあった長い歴史の後、ここ五十年、やっと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なかなか整うまでには、行って居なかった。
官庁や、大寺が、にょっきりにょっきり、立っている外は、貴族の屋敷が、処々むやみに場をとって、その相間相間に、板屋や瓦屋かわらやが、交りまじりに続いている。其外は、広い水田と、畠と、存外多い荒蕪地こうぶちの間に、人の寄りつかぬ塚や岩群いわむらが、ちらばって見えるだけであった。兎や、狐が、大路小路を駆け廻る様なのも、毎日のこと。つい此頃も、朱雀大路しゅじゃくおおじの植え木の梢を、夜になると、※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)むささびが飛び歩くと言うので、一騒ぎした位である。
横佩家の郎女が、称讃浄土仏摂受経しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょうを写しはじめたのも、其頃からであった。父の心づくしの贈り物の中で、一番、姫君の心をにぎやかにしたのは、此新訳の阿弥陀経あみだきょう一巻いちかんであった。
国の版図の上では、東に偏り過ぎた山国の首都よりも、太宰府は、遥かに開けていた。大陸から渡る新しい文物は、皆一度は、このとお宮廷領みかどを通過するのであった。唐から渡った書物などで、太宰府ぎりに、都まで出て来ないものが、なかなか多かった。
学問や、芸術の味いを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて太宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであった。
南家の郎女いらつめの手に入った称讃浄土経も、大和一国の大寺おおてらと言う大寺に、まだ一部も蔵せられて居ぬものであった。
姫は、蔀戸しとみど近くに、時としては机を立てて、写経をしていることもあった。夜も、侍女たちを寝静まらしてから、油火あぶらびの下で、一心不乱に書き写して居た。
百部は、はやくに写し果した。その後は、千部手写の発願をした。冬は春になり、夏山と繁った春日山も、既に黄葉もみじして、其がもう散りはじめた。蟋蟀こおろぎは、昼もその一面に鳴くようになった。佐保川の水をき入れた庭の池には、遣り水伝いに、川千鳥のく日すら、続くようになった。
今朝も、深い霜朝を、何処からか、鴛鴦おしどり夫婦鳥つまどりが来て浮んで居ります、と童女わらわめが告げた。
五百部を越えた頃から、姫の身は、目立ってやつれて来た。ほんのわずかの眠りをとる間も、ものに驚いて覚めるようになった。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰えたなりに、健康は定まって来たように見えた。やや蒼みを帯びた皮膚に、心もち細って見える髪が、愈々いよいよ黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言うことをいとうようになった。そうして、昼すら何か夢見るような目つきして、うっとり蔀戸ごしに、西の空を見入って居るのが、皆の注意をひくほどであった。
実際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなった。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがいなさを悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出来ように、と思うからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだろうと言う噂が、京・洛外らくがいに広がったのも、其頃である。屋敷中の人々は、上近くつかえる人たちから、垣内かきつの隅に住む奴隷やっこ婢奴めやっこの末にまで、顔を輝かして、此とり沙汰を迎えた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかった。其ほど、此頃の郎女は気むつかしく、外目よそめに見えていたのである。
千部手写の望みは、そうした大願から立てられたものだろう、と言う者すらあった。そして誰ひとり、其を否む者はなかった。
南家の姫の美しいはだは、益々透きとおり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。そうして、時々声に出してじゅする経のもんが、物のたとえようもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。
去年の春分の日の事であった。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向って居た。日は、此屋敷からは、ややひつじさるによった遠い山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日はにわかにくるめき出した。その速さ。雲は炎になった。日は黄金おうごんまるがせになって、その音も聞えるか、と思うほど鋭く廻った。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、じっと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲はれた。夕闇の上に、目を疑うほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありありと荘厳しょうごんな人のおもかげが、瞬間あらわれて消えた。あとは、真暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなりまさって行くばかりである。
ゆくりない日が、半年の後に再来て、姫の心を無上むしょうの歓喜に引き立てた。其は、同じ年の秋、彼岸中日の夕方であった。姫は、いつかの春の日のように、坐していた。朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた長い日の、のちである。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟らんじゅくした光りが、くるめき出したのである。雲は火となり、日は八尺の鏡と燃え、青い響きの吹雪を、吹きく嵐――。
雲がきれ、光りのしずまった山の端は細く金の外輪をなびかして居た。其時、男岳・女岳の峰の間に、ありありと浮き出た 髪 頭 肩 胸――。
姫は又、あの俤を見ることが、出来たのである。
南家の郎女の幸福な噂が、春風に乗って来たのは、次の春である。姫は別様の心躍りを、一月も前から感じて居た。そうして、日をり初めて、ちょうど、今日と言う日。彼岸中日、春分の空が、朝から晴れて、雲雀ひばりは天にかけり過ぎて、帰ることの出来ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し終えて、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であった。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほっと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなって居る。目をあげて見る蔀窓しとみどの外には、しとしとと――音がしたたって居るではないか。姫は立って、手ずからすだれをあげて見た。雨。
そのの青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立って来た。
姫は、立ってもても居られぬ、焦躁しょうそうもだえた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然ぼうぜんとして、姫はすわって居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加って来た風の響きも、もう、姫は聞かなかった。

南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかずに居た。横佩墻内よこはきかきつに住む限りの者は、男も、女も、上の空になって、洛中らくちゅう洛外らくがいせ求めた。そうしたはしびとの多く見出される場処と言う場処は、残りなく捜された。春日山の奥へ入ったものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山たかまどやまの墓原も、佐紀の沼地・雑木原も、又は、南は山村やまむら、北は奈良山、泉川の見える処まで馳せ廻って、戻る者も戻る者も、皆空足からあしを踏んで来た。
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿たどって来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教わらないで、裾をはぎまであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、もとどりをとり束ねて、襟から着物の中に、くくみ入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはっきりとそびえて居た。毛孔けあなつようなおそろしい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であった。其後、しきりなく断続したのは、山の獣の叫び声であった。大和の内も、都に遠い広瀬・葛城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのように、山陰などにあるだけで、あとは曠野あらの。それに――本村ほんむらを遠く離れた、時はずれの、人まぬ田居たいばかりである。
片破れ月が、あがって来た。其がかえって、あるいている道のほとりすごさを照し出した。其でも、星明りで辿って居るよりは、よるべを覚えて、足が先へ先へと出た。月が中天へ来ぬ前に、もう東の空が、ひいわり白んで来た。
夜のほのぼの明けに、姫は、目を疑うばかりの現実に行きあった。――横佩家の侍女たちは何時も、夜の起きぬけに、一番最初に目撃した物事で、日のよしあしを、占って居るようだった。そう言う女どものふるまいに、特別に気はかれなかった郎女だけれど、よく其人々が、「今朝の朝目がよかったから」「何と言う情ない朝目でしょう」などと、そわそわと興奮したり、むやみにふさぎこんだりして居るのを、見聞きしていた。
郎女いらつめは、生れてはじめて、「朝目よく」とった語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗にぬりに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。そうして、門から、更に中門が見とおされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。
山裾の勾配こうばいに建てられた堂・塔・伽藍がらんは、更に奥深く、あけに、青に、金色に、光りの棚雲を、幾重にもつみ重ねて見えた。朝目のすがしさは、其ばかりではなかった。其寂寞せきばくたる光りの海から、高くぬきでて見える二上の山。淡海公の孫、大織冠たいしょくかんには曾孫。藤氏族長太宰帥、南家なんけの豊成、其第一嬢子だいいちじょうしなる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行いざり出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女のことである。順道じゅんとうならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡ひらおかの御神か、春日の御社みやしろに、巫女みこの君として仕えているはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗ほのぐらい女部屋に起き臥ししている人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬように、おうしたてられて来た。
寺の浄域が、奈良の内外うちとにも、幾つとあって、横佩墻内よこはきかきつと讃えられている屋敷よりも、もっと広大なものだ、と聞いて居た。そうでなくても、経文の上に伝えた浄土の荘厳しょうごんをうつすその建て物の様は想像せぬではなかった。だがのあたり見る尊さは唯息を呑むばかりであった。之に似た驚きの経験はかつて一度したことがあった。姫は今其を思い起して居る。簡素と豪奢ごうしゃとの違いこそあれ、驚きの歓喜は、印象深く残っている。
今の太上天皇様が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳の南家の郎女は、童女わらわめとして、初の殿上てんじょうをした。穆々ぼくぼくたる宮の内の明りは、ほのかな香気を含んで、流れて居た。昼すら真夜まよに等しい、御帳台みちょうだいのあたりにも、尊いみ声は、昭々しょうしょうたまを揺る如く響いた。物わきまえもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になって生れたことよ」と仰せられた、と言うおそれ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十はたちになっていた。幼いからのさとさにかわりはなくて、玉・水精すいしょうの美しさが益々加って来たとの噂が、年一年と高まって来る。
姫は、大門のしきみを越えながら、童女殿上の昔のかしこさを、追想して居たのである。長い甃道いしきみちを踏んで、中門に届く間にも、誰一人出あう者がなかった。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、つつましく併しのどかに、御堂御堂を拝んで、岡の東塔に来たのである。
ここからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考え浮べることも、しなかったであろう。まして、家人たちが、神隠しにうた姫を、探しあぐんで居ようなどとは、思いもよらなかったのである。唯うっとりと、塔のもとから近々と仰ぐ、二上山の山肌に、うつの目からは見えぬ姿をおもようとして居るのであろう。
此時分になって、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝じんちょうの勤めの間も、うとうとして居た僧たちは、さわやかな朝の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、食堂じきどうへ降りて行った。奴婢ぬひは、其々もち場持ち場の掃除を励む為に、ようべの雨に洗ったようになった、境内の沙地すなじに出て来た。
そこにござるのは、どなたぞな。
岡の陰から、恐る恐る頭をさし出して問うた一人の寺奴やっこは、あるべからざる事を見た様に、自分自身をとがめるような声をかけた。女人の身として、這入はいることの出来ぬ結界を犯していたのだった。姫は答えよう、とはせなかった。又答えようとしても、こう言う時に使う語には、馴れて居ぬ人であった。
し又、適当な語を知って居たにしたところで、今はそんな事に、考えをみだされては、ならぬ時だったのである。
姫は唯、山を見ていた。依然として山の底に、あるおもかげを観じ入っているのである。寺奴は、二言とは問いかけなかった。一晩のさすらいでやつれては居ても、服装から見てすぐ、どうした身分の人か位の判断は、つかぬ筈はなかった。又暫らくして、四五人の跫音あしおとが、びたびたと岡へ上って来た。年のいったのや、若い僧たちが、ばらばらと走って、塔のやらいの外まで来た。
ここまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人にょにんは、とっとと出てお行きなされ。
姫は、やっと気がついた。そうして、人とあらそわぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍まで来た。
見れば、奈良のお方そうなが、どうして、そんな処にいらっしゃる。
それに又、どうして、ここまでお出でだった。ともの人も連れずに――。
口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめいめい、貴い女性をいたわる気持ちになって居た。
山をおがみに……。
まことに唯一詞ひとこと。当の姫すら思い設けなんだことばが、匂うが如く出た。貴族の家庭の語と、凡下ぼんげの家々の語とは、すっかり変って居た。だから言い方も、感じ方も、其うえ、語其ものさえ、郎女の語が、そっくり寺の所化輩しょけはいには、通じよう筈がなかった。
でも其でよかったのである。其でなくて、語の内容が、其まま受けとられようものなら、南家の姫は、即座に気のふれた女、と思われてしまったであろう。
それで、御館みたちはどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問うのだよ――。
おお。家はとや。右京藤原南家……。
俄然がぜんとして、群集の上にざわめきが起った。四五人だったのが、あとから後から登って来た僧たちも加って、二十人以上にもなって居た。其が、口々にしゃべり出したものである。
ようべの嵐に、まだ残りがあったと見えて、日の明るく照って居る此小昼こびるに、又風が、ざわつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方こなたにも小桜の花が、咲き出したのである。
此時分になって、奈良の家では、誰となく、こんな事を考えはじめていた。此はきっと、里方の女たちのよくする、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ、習しである。春秋の、日と夜と平分する其頂上に当る日は、一日、日の影をうて歩く風が行われて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送って行く女衆が多かった。そうして、夜に入ってくたくたになって、家路を戻る。此為来しきたりを何時となく、女たちのはなすのを聞いて、姫が、女の行として、この野遊びをする気になられたのだ、と思ったのである。こう言う、考えに落ちつくと、ありようもない考えだとわかって居ても、皆の心が一時、ほうと軽くなった。
ところが、其日も昼さがりになり、段々夕光ゆうかげの、催して来る時刻が来た。昨日は、駄目になった日の入りの景色が、今日は中日にも劣るまいと思われる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなって居た。

奈良の都には、まだ時おり、石城しきわれた石垣を残して居る家の、見かけられた頃である。度々の太政官符だいじょうがんぷで、其を家の周りに造ることが、禁ぜられて来た。今では、宮廷より外には、石城を完全にとり廻した豪族の家などは、よくよくの地方でない限りは、見つからなくなって居る筈なのである。
其に一つは、宮廷の御在所が、御一代御一代に替って居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帯の内にあった。其でおよそ都遷みやこうつしのなかった形になったので、後から後から地割りが出来て、相応な都城とじょうの姿は備えて行った。其数朝の間に、旧族の屋敷は、段々、家構えが整うて来た。
葛城に、元のままの家を持って居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構えて居た蘇我臣そがのおみなども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡げて行って、石城しきなども高く、幾重にもとり廻して、凡永久の館作りをした。其とおなじ様な気持ちから、どの氏でも、大なり小なり、そうした石城づくりの屋敷を構えるようになって行った。
蘇我臣一流ひとながれで最栄えた島の大臣家おとどけの亡びた時分から、石城の構えはめられ出した。
この国のはじまり、天から授けられたと言う、宮廷に伝わる神の御詞みことばに背く者は、今もなかった。が、書いた物の力は、其が、どのように由緒のあるものでも、其ほどの威力を感じるに到らぬ時代が、まだ続いて居た。
其飛鳥の都も、高天原広野姫尊様たかまのはらひろぬひめのみことさま思召おぼしめしで、其から一里北の藤井原に遷され、藤原の都と名を替えて、新しい唐様もろこしよう端正きらきらしさを尽した宮殿が、建ち並ぶ様になった。近い飛鳥から、新渡来いまき高麗馬こままたがって、馬上で通う風流士たわれおもあるにはあったが、多くはやはり、鷺栖さぎすの阪の北、香具山のふもとから西へ、新しく地割りせられた京城けいじょう坊々まちまちに屋敷を構え、家造りをした。その次の御代になっても、藤原の都は、日に益し、宮殿が建て増されて行って、ここを永宮とこみやと遊ばす思召しが、伺われた。その安堵あんどの心から、家々の外には、石城を廻すものが、又ぼつぼつ出て来た。そうして、そのはやり風俗が、見る見るうちに、また氏々の族長の家囲いを、あらかた石にしてしまった。その頃になって、天真宗豊祖父尊様あめまむねとよおおじのみことさまがおかくれになり、御母みおや 日本根子天津御代豊国成姫やまとねこあまつみよとよくになすひめ大尊様おおみことさまがお立ち遊ばした。その四年目思いもかけず、奈良の都に宮遷しがあった。ところがまるで、追っかけるように、藤原の宮はもとより、目ぬきの家並みが、不意の出火で、其こそ、あっと言う間に、痕形あとかたもなく、そらものとなってしまった。もう此頃になると、太政官符だいじょうがんぷに、更に厳しい添書ことわきがついて出ずとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯した転変に、目をみはるばかりであったので、久しい石城の問題も、其で、解決がついて行った。
古い氏種姓うじすじょうを言い立てて、神代以来の家職の神聖を誇った者どもは、其家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失って来ている事に、気がついて居なかった。
最早くそこに心づいた、姫の祖父淡海公などは、古き神秘を誇って来た家職を、末代まで伝える為に、別に家を立てて中臣の名を保とうとした。そうして、自分・子供ら・孫たちと言う風に、いちはやく、新しい官人つかさびとの生活に入り立って行った。
ことし、四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持おおとものやかもちは、父旅人たびとの其年頃よりは、もっと優れた男ぶりであった。併し、世の中はもう、すっかり変って居た。見るもの障るもの、彼の心をいらつかせる種にならぬものはなかった。淡海公の、小百年前に実行して居る事に、今はじめて自分の心づいたおぞましさが、憤らずに居られなかった。そうして、自分とおなじ風の性向の人の成り行きを、まざまざ省みて、慄然りつぜんとした。現に、時に誇る藤原びとでも、まだ昔風の夢になずんで居た南家の横佩よこはき右大臣は、さきおととし、太宰員外帥だざいのいんがいのそつおとされて、都を離れた。そうして今は、難波で謹慎しているではないか。自分の親旅人も、三十年前に踏んだ道である。
世間の氏上家うじのかみけ主人あるじは、大方もう、石城など築きまわして、大門小門をつなぐとった要害と、装飾とに、興味を失いかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出来るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に囲われた家の中で、家の子どもを集め、氏人たちをびつどえて、弓場ゆばに精励させ、棒術ほこゆけ大刀かきに出精させよう、と謂ったことを空想して居る。そうして年々としどし頻繁に、氏神其外の神々を祭っている。其度毎に、家の語部大伴語造おおとものかたりのみやつこおむなたちを呼んで、之につかまえ処もない昔代むかしよの物語りをさせて、氏人に傾聴を強いて居る。何だか、くうな事に力を入れて居たように思えてならぬ寂しさだ。
だが、其氏神祭りや、祭りの後宴ごえんに、大勢の氏人の集ることは、とりわけやかましく言われて来た、三四年以来の法度はっとである。
こんないきもらしながら、大伴氏のふるい習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外はない家持だったのである。
越中守として踏み歩いた越路の泥のかたが、まだ行縢むかばきから落ちきらぬ内に、もうまた、都を離れなければならぬ時の、迫って居るような気がして居た。其中、此針のむしろの上で、兵部少輔ひょうぶしょうから、大輔たいふに昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼が行われる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願って来て居た。そうして、忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎮める程に、人の心を浮き立たした。本朝出来の像としてはまず、此程物凄い天部てんぶの姿を拝んだことは、はじめてだ、と言うものもあった。神代の荒神あらがみたちも、こんな形相でおありだったろう、と言う噂も聞かれた。
まだおおやけの供養もすまぬのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふりいていた。あの多聞天と、広目天との顔つきに、思い当るものがないか、と言うのであった。此はここだけのはなしだよ、と言って話したのが、次第に広まって、家持の耳までも聞えて来た。なるほど、憤怒の相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今大倭やまと一だと言われる男たちの顔、そのままだと言うのである。貴人は言わぬ、こう言う種類の噂は、えて供をして見て来た道々の博士たちと謂った、心さもしいものの、言いそうな事である。
多聞天は、大師藤原恵美中卿ちゅうけいだ。あの柔和な、五十を越してもまだ、三十代の美しさを失わぬあの方が、近頃おこりっぽくなって、よく下官や、仕え人を叱るようになった。あの円満うまびとが、どうしてこんな顔つきになるだろう、と思われる表情をすることがある。其おももちそっくりだ、ともっともらしい言い分なのである。
そう言えば、あの方が壮盛わかざかりに、棒術をこのんで、今にも事あれかしと謂った顔で、立派なよろいをつけて、のっしのっしと長い物をいて歩かれたお姿が、あれを見ていて、ちらつくようだなど、と相槌あいづちをうつ者も出て来た。
其では、広目天の方はと言うと、
さあ、其がの――。
と誰に言わせても、ちょっと言い渋るように、困った顔をして見せる。
実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ぬがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に、似てるぞなと言うがや。……けど、他人ひとに言わせると、――あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫でたれなされた前太宰少弐ぜんだざいのしょうに―藤原広嗣―の殿に生写しょううつしじゃ、とも言うがいよ。
わしには、どちらとも言えんがの。どうでも、見たことのあるお人に似て居さっしゃるには、似ていさっしゃるげなが……。
何しろ、此二つの天部が、互に敵視するような目つきで、にらみあって居る。噂を気にした住侶じゅうりょたちが、色々に置き替えて見たが、どの隅からでも、互に相手の姿を、まなじりを裂いて見つめて居る。とうとうあきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより為方しかたがない、と思うようになったと言う。
しや、天下に大乱でも起らなければええが――。
こんな※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやきは、何時までも続きそうに、時と共にまずに語られた。
前少弐殿でなくて、弓削新発意ゆげしんぼちの方であってくれれば、いっそ安心だがなあ。あれなら、事を起しそうな房主でもなし。起したくても、起せる身分でもないじゃまで――。
言いたい傍題ほうだいな事を言って居る人々も、たった此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の大師恵美朝臣えみのあそんの姪の横佩家よこはきけ郎女いらつめが、神隠しにうたと言う、人の口の端に、旋風つじかぜを起すような事件が、湧き上ったのである。

兵部大輔ひょうぶたいふ大伴家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちょうど、春分から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやって居た。二人ばかりの資人とねり徒歩かちで、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほどけ入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなった癖である。こうして、何処まで行くのだろう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほほけて、霞のように飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎かげろうばかりである。資人の一人が、とっとと追いついて来たと思うと、主人のくらに顔をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすごうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
それで、何か――。娘御の行くえは知れた、と言うのか。
はい……。いいえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
この間抜け。話はもっと上手に聴くものだ。
柔らかく叱った。そこへ一人のともが、追いついて来た。息をきらしている。
ふん。わけは聞き出したね。南家なんけ嬢子おとめは、どうなった――。
出端でばなに油かけられた資人は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の、自由なはなし方で、まともに鼻をうごめかして語った。
当麻たぎまむらまで、おとといの中に行って居たこと、寺からは、昨日午後横佩墻内かきつへ知らせが届いたこと其外には、何も聞きこむ間のなかったことまで。家持の聯想れんそうは、のようにつながって、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであった。
南家で持って居た藤原の氏上うじのかみ職が、兄の家から、弟仲麻呂―押勝―の方へ移ろうとしている。来年か、再来年さらいねんの枚岡祭りに、参向する氏人の長者は、自然かの大師のほか、人がなくなって居る。恵美家からは、嫡子久須麻呂の為、自分の家の第一嬢子だいいちじょうしをくれとせがまれて居る。先日も、久須麻呂の名の歌が届き、自分の方でも、娘に代って返し歌を作って遣した。今朝も今朝、又折り返して、男からの懸想文けそうぶみが、来ていた。
その壻候補むこがねの父なる人は、五十になっても、若かった頃の容色に頼む心が失せずにいて、兄の家娘にも執心は持って居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る。此は、横佩家へも出入りし、大伴家へも初中終しょっちゅう来る古刀自ふるとじの、人のわるい内証話であった。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭をもたげて来て困った。仲麻呂は今年、五十を出ている。其から見れば、ひとまわりも若いおれなどは、思い出にもう一度、此匂やかな貌花かおばなを、垣内かきつ坪苑つぼに移せぬ限りはない。こんな当時の男が、皆持った心おどりに、はなやいだ、明るい気がした。
だが併し、あの郎女は、藤原四家の系統すじで一番、かんさびたたちを持って生れた、とわれる娘御である。今、枚岡の御神に仕えて居るいつひめめる時が来ると、あの嬢子おとめが替って立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも応じかねて居るのだ。……結局、誰も彼も、あきらめねばならぬ時が来るのだ。神の物は、神の物――。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだろう。
ほのかな感傷が、家持の心をきよめて過ぎた。おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。とおを出たばかりの幼さで、母は死に、父はんで居る太宰府へくだって、はやくから、海の彼方あなたの作り物語りや、唐詩もろこしうたのおかしさを知りめたのが、病みつきになったのだ。死んだ父も、そうした物は、或は、おれよりもきだったかも知れぬほどだが、もっと物に執著しゅうじゃくが深かった。現に、大伴の家の行く末の事なども、父はあれまで、心を悩まして居た。おれも考えれば、たまらなくなって来る。其で、氏人を集めてさとしたり、歌を作って訓諭して見たりする。だがそうした後の気持ちのさわやかさは、どうしたことだ。洗い去った様に、心が、すっとしてしまうのだった。まるで、初めから家の事など考えて居なかった、とおなじすがすがしい心になってしまう。
あきらめと言う事を、知らなかった人ばかりではないか。……昔物語りに語られる神でも、人でも、すぐれた、と伝えられる限りの方々は――。それに、おれはどうしてこうだろう。
家持の心は併し、こんなに悔恨に似た心持ちに沈んで居るにつながらず、段々気にかかるものが、薄らぎ出して来ている。
ほう これは、京極きょうはてまで来た。
朱雀大路も、ここまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも区画にも、家は建って居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えてやや茎を立て初めたのとがまじりあって、屋敷地からみ出し、道の上までも延びて居る。
こんな家が――。
驚いたことは、そんな草原の中に、唯一つ大きな構えの家が、建ちかかって居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事しごと這入はいったらしい木の道の者たちが、骨組みばかりの家の中で、立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの地形じぎょうが出来て、見た目にもさっぱりと、垣をとり廻して居る。土を積んで、石に代えた垣、此頃言い出した築土垣つきひじがきというのは、此だな、と思って、じっと目をつけて居た。見る見る、そうした新しい好尚このみのおもしろさが、家持の心を奪うてしまった。
築土垣の処々に、きりあけた口があって、其に、門が出来て居た。そうして、其処から、しきりに人が繋っては出て来て、石をく。木をつ。土をはこび入れる。重苦しい石城しき。懐しい昔構え。今も、家持のなくなしたくなく考えている屋敷廻りの石垣が、思うてもたまらぬ重圧となって、彼の胸に、もたれかかって来るのを感じた。
おれには、だが、この築土垣をることが出来ぬ。
家持の乗馬じょうめは再、憂鬱ゆううつに閉された主人を背に、引き返して、五条まで上って来た。此辺から、右京の方へ折れこんで、坊角まちかどを廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は、時々顔を見合せ、目くばせをしながら尚、了解が出来ぬ、と言うような表情を交しかわし、馬の後を走って行く。
こんなにも、変って居たのかねえ。
ある坊角に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のように言った。
……旧草ふるくさに 新草にひくさまじり、生ひば 生ふるかに――だな。
近頃見つけた※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)かぶしょの古記録「東歌あずまうた」の中に見た一首がふと、此時、彼の言いたい気持ちを、代作して居てくれていたように、思い出された。
そうだ。「おもしろきをば 焼きそ」だ。此でよいのだ。
けげんな顔をあおむけけている伴人ともびとらに、柔和な笑顔を向けた。
そうは思わぬか。立ちぐさりになった家の間に、どしどし新しい屋敷が出来て行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが、其でもどちらかと謂えば、減るよりも殖えて行っている。此辺は以前、今頃になると、蛙めの、あやまりたい程鳴く田の原が、続いてたもんだ。
おっしゃるとおりで御座ります。春は蛙、夏はくちなわ、秋はいなごまろ。此辺はとても、歩けたところでは、御座りませんでした。
今一人が言う。
建つ家もたつ家も、この立派さは、まあどうで御座りましょう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣つきひじがきを築きまわしまして。何やら、以前とはすっかり変った処に、参った気が致します。
馬上の主人も、今まで其ばかり考えて居た所であった。だが彼の心は、瞬間明るくなって、先年三形王みかたのおおきみの御殿でのうたげくちずさんだ即興が、その時よりも、今はっきりと内容を持って、心に浮んで来た。
うつり行く時見る毎に、心いたく 昔の人し 思ほゆるかも
目をあげると、東の方春日のもりは、谷陰になって、ここからは見えぬが、御蓋みかさ山・高円たかまど山一帯、頂が晴れて、すばらしい春日和はるびよりになって居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむしあとを潜めて、唯、まるで今歩いているのが、大日本平城京おおやまとへいせいけいの土ではなく、大唐長安の大道の様な錯覚の起って来るのが押えきれなかった。此馬がもっと、毛並みのよい純白の馬で、またがって居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た、重苦しい家の歴史だの、おびただしい数の氏人などから、すっかりり離されて、自由な空にかけって居る自分ででもあるような、豊かな心持ちが、暫らくは払っても払っても、消えて行かなかった。
おれは若くもなし。第一、海東の大日本人おおやまとびとである。おれには、憂鬱ゆううつな家職が、ひしひしと、肩のつまるほどかかって居るのだ。こんなことを考えて見ると、寂しくてはかない気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのように、心はにぎわしく和らいで来て、為方がなかった。
おい、わけたち。大伴氏上家うじのかみけも、築土垣を引き廻そうかな。
とんでもないことを仰せられます。
二人の声が、おなじ感情からほとばしり出た。
年の増した方の資人とねりが、切実な胸を告白するように言った。
私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言うお名は、御門みかど御垣みかきと、関係深いとなえだ、と承って居ります。大伴家からして、門垣を今様にする事になって御覧ごろうじませ。御一族の末々まで、あなた様をおのろい申し上げることでおざりましょう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になって初まった家々の氏人までが、御一族をないがしろに致すことになりましょう。
こんな事を言わして置くと、折角澄みかかった心も、又曇って来そうな気がする。家持はあわてて、資人の口をめた。
うるさいぞ。誰に言う語だと思うて、言うて居るのだ。やめぬか。雑談じょうだんだ。雑談を真に受ける奴が、あるものか。
馬はやっぱり、しっとしっとと、歩いて居た。築土垣 築土垣。又、築土垣。こんなに何時の間に、家構えが替って居たのだろう。家持は、なんだか、おそかれ早かれ、ありそうな気のする次の都――どうやらこう、もっとおっぴらいた平野の中の新京城にでも、来ているのでないかと言う気が、ふとしかかったのを、危く喰いとめた。
築土垣 築土垣。もう、彼の心は動かなくなった。唯、よいとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしているだけであった。
何時の間にか、平群へぐりの丘や、色々な塔を持った京西の寺々の見渡される、三条辺の町尻に来て居ることに気がついた。
これはこれは。まだここに、残っていたぞ。
珍しい発見をしたように、彼は馬から身をかえしておりた。二人の資人はすぐ、け寄って手綱を控えた。
家持は、門と門との間に、細かいさくをしめぐらし、目隠しに枳殻からたちばな叢生やぶを作った家の外構えの一個処に、まだ石城しきが可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄って行った。
荒れては居るが、ここは横佩墻内よこはきかきつだ。
そう言って、暫らく息を詰めるようにして、石垣の荒い面を見入って居た。
そうに御座ります。此石城からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強いてとりこぼたないとか申します。何分、そつの殿のお都入りまでは、何としても、此儘このままで置くので御座りましょう。さように、人が申し聞けました。はい。
何時の間にか、三条七坊まで来てしまっていたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言う考えはなかったのに――。だが、やっぱり、おれにはまだまだ、若い色好みの心が、失せないで居るぞ。何だか、自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが出て来た。
其にしても、静か過ぎるではないか。
さようで。で御座りますが、郎女いらつめのお行くえも知れ、乳母もそちらへ行ったとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りましょう。
詮索ずきそうな顔をした若い方が、口を出す。
いえ。第一、こんな場合は、騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪いたまや、ものが、うようよとつめかけて来るもので御座ります。この御館みたちも、古いおところだけに、心得のある長老おとなの一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りましょう。
もうよいよい。では戻ろう。

おとめの閨戸ねやどをおとなうふうは、何も、珍しげのない国中の為来しきたりであった。だが其にも、かつてはそうした風の、一切行われて居なかったことを、主張する村々があった。何時のほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。かき上る段になれば、何の雑作もない石城だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、そうでない村とがあった。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老とねたちが、どうかすると居た。多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。踏み越えても這入はいそうに見える石垣だが、大昔交された誓いで、目に見えぬ鬼神ものから、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている。こんな約束が、人とものとの間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりとむことが出来る様になった。そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。其は、別の何かの為方で、防ぐ外はなかった。祭りの夜でなくても、村なかの男は何のはばかりなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸しとみどをほとほとと叩く。石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。だから、くわの家に、奴隷やっこになって住みこんだいにしえあてびともあった。娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋物語りもあるくらいだ。石城を掘り崩すのは、何処からでも鬼神ものに入りこんで来い、と呼びかけるのと同じことだ。京の年よりにもあったし、田舎の村々では、之を言い立てに、ちっとでも、石城を残して置こうと争うた人々が、多かったのである。
そう言う家々では、実例として恐しい証拠を挙げた。卅年も昔、――天平八年厳命がくだって、何事も命令のはかばかしく行われぬのは、朝臣ちょうしんが先って行わぬからである。汝等みましたち進んで、石城しきこぼって、新京の時世装に叶うた家作りに改めよと、仰せ下された。藤氏四流の如き、今に旧態をえざるは、最其位に在るを顧みざるものぞ、とおとがめがくだった。此時一度、すべて、石城はとり毀たれたのである。ところが、其と時を同じくして、疱瘡もがさがはやり出した。越えて翌年、益々盛んになって、四月北家を手初めに、京家・南家と、主人から、まず此時疫じえきに亡くなって、八月にはとうとう、式家の宇合卿うまかいきょうまでたおれた。家に、防ぐ筈の石城が失せたからだと、天下中の人が騒いだ。其でまた、とり壊した家も、ぼつぼつもとに戻したりしたことであった。
こんなすさまじい事も、あって過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざまざと人の心に焼きついて離れぬ、うつつの恐しさであった。
其は其として、昔から家の娘を守った邑々むらむらも、段々えたいの知れぬ村の風に感染かまけて、しのづまの手に任せ傍題ほうだいにしようとしている。そうした求婚つまどいの風を伝えなかった氏々の間では、此は、忍び難い流行であった。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思わぬようになった。が、家庭の中では、母・妻・乳母おもたちが、いまだにいきり立って、そうした風儀になって行く世間を、のろいやめなかった。
手近いところで言うても、大伴宿禰すくねにせよ。藤原朝臣あそんにせよ。そう妻どいの式はなくて、数十代宮廷をめぐって、仕えて来た邑々のあるじの家筋であった。
でも何時か、そうした氏々の間にも、妻迎えの式には、
八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志こしの国に、くわをありと聞かして、さかをありときこして……
から謡い起す神語歌かみがたりうたを、語部に歌わせる風が、次第にひろまって来るのを、防ぎとめることが出来なくなって居た。
南家なんけ郎女いらつめにも、そう言う妻覓つままぎ人が――いや人群ひとむれが、とりまいて居た。唯、あの型ばかり取り残された石城の為に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み――たぶう――を犯すような危殆ひあいな心持ちで、誰も彼も、さくまで又、門まで来ては、かいまみしてひきかえすより上の勇気が、出ぬのであった。
かよわせぶみをおこすだけが、せめてものてだてで、其さえ無事に、姫の手に届いて、見られていると言う、自信を持つ人は、一人としてなかった。事実、大抵、女部屋の老女とじたちが、引ったくって渡させなかった。そうした文のとりつぎをする若人―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱って居る事も、度々見かけられた。
其方おもとは、この姫様こそ、藤原の氏神にお仕え遊ばす、清らかな常処女とこおとめと申すのだ、と言うことを知らぬのかえ。神のとがめをはばかるがええ。宮から恐れ多いお召しがあってすら、ふつにおいらえを申しあげぬのも、それ故だとは考えつかぬげな。やくたい者。とっとと失せたがよい。そんな文とりついだ手を、率川いざかわの一の瀬で浄めて来くさろう。ばち知らずが……。
こんな風に、わなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかった。横佩家よこはきけの女部屋に住んだり、通うたりしている若人は、一人残らず一度は、経験したことだとっても、うそではなかった。
だが、郎女は、ついに一度そんな事のあった様子も、知らされずに来た。
上つ方の郎女が、ざえをお習い遊ばすと言うことが御座りましょうか。それは近代ちかつよ、ずっとしもざまのおなごの致すことと承ります。父君がどうおっしゃろうとも、父御ててご様のお話は御一代。お家の習しは、神さまの御意趣おむね、とお思いつかわされませ。
氏のおきての前には、氏上うじのかみたる人の考えをすら、否みとおす事もあるうばたちであった。
其老女たちすら、郎女の天稟てんぴんには、舌をきはじめて居た。
もう、自身たちの教えることものうなった。
こう思い出したのは、数年も前からである。内に居る、身狭乳母むさのちおも桃花鳥野乳母つきぬのまま波田坂上刀自はたのさかのえのとじ、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息たんそくし続けていた。時々伺いに出る中臣志斐嫗なかとみのしいのおむな三上水凝刀自女みかみのみずごりのとじめなども、来る毎、目を見合せて、ほうっとした顔をする。どうしよう、と相談するような人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。
才を習うなと言うなら、まだ聞きも知らぬこと、教えてたもれ。
素直な郎女の求めも、姥たちにとっては、骨を刺しとおされるような痛さであった。
何を仰せられまする。以前から、何一つお教えなど申したことがおざりましょうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うような考えは、神様がお聞き届けになりません。教える者は目上、ならう者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。
志斐嫗の負け色を救う為に、身狭乳母も口をはさむ。
唯知った事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。そう思うて、姥たちも、覚えただけの事は、郎女様のみたまいぶる様にして、歌いもし、語りもして参りました。教えたなど仰っては私めらが罰をこうむらなければなりません。
こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らのたのむ知識に対する、単純な自覚が出て来た。此は一層、郎女の望むままに、才を習した方が、よいのではないか、と言う気が、段々して来たのである。
まことに其為には、ゆくりない事が、幾重にも重って起った。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだったと見えて、二巻の女手おんなでの写経らしい物が出て来た。姫にとっては、肉縁はないが、曾祖母ひおおばにも当るたちばな夫人の法華経、又其御胎おはらにいらせられる――筋から申せば、大叔母御にもお当り遊ばす、今の皇太后様の楽毅論がっきろん。此二つの巻物が、美しい装いで、棚を架いた上に載せてあった。
横佩大納言と謂われた頃から、父は此二部を、自分の魂のように大事にして居た。ちょっと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人とねりの荷として、持たせて行ったものである。其魂の書物を、姫の守りに留めておきながら、誰にも言わずにいたのである。さすがに我強がづよい刀自たちも、此見覚えのある、美しい箱が出て来た時には、暫らくたれたように、顔を見合せて居た。そうしてのちあとで恥しかろうことも忘れて、皆声をあげて泣いたものであった。
郎女は、父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したような興奮は、認められなかった。唯一途いちずに素直に、心の底の美しさが匂い出たように、静かな、美しい眼で、人々の感激する様子を、驚いたように見まわして居た。
其からは、此二つの女手の「本」を、一心に習いとおした。偶然は友をくものであった。一月も立たぬ中の事である。早く、此都に移って居た飛鳥寺あすかでら元興寺がんこうじ―から巻数かんずが届けられた。其には、難波にあるそつの殿の立願りゅうがんによって、仏前に読誦とくしょうした経文の名目が、書きつらねてあった。其に添えて、一巻の縁起文が、此御館へ届けられたのである。
父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志をおこして、書き綴った「仏本伝来記」を、其後二年立って、元興寺へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かった寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心をめたもの、と言うことは察せられる。其一巻が、どう言うわけか、二十年もたってゆくりなく、横佩家へ戻って来たのである。
郎女の手に、此巻が渡った時、姫は端近く膝行いざり出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、
難波とやらは、どちらに当るかえ。
と尋ねて、示す方角へ、きした顔を向けた。其目からは、珠数のたま水精すいしょうのような涙が、こぼれ出ていた。
其からと言うものは、来る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本おおやまとびとなる父の書いたもん。指から腕、腕から胸、胸から又心へ、みと深く、魂を育てる智慧の這入はいって行くのを、覚えたのである。
大日本日高見おおやまとひたかみの国。国々に伝わるありとある歌諺うたことわざ、又其旧辞もとつごと。第一には、中臣の氏の神語り。藤原の家の古物語り。多くのかたごとを、絶えては考え継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々のろのろしく、くねくねしく、独り語りする語部や、乳母おもや、嚼母ままたちの唱えることばが、今更めいて、寂しく胸によみがえって来る。
おお、あれだけの習しを覚える、ただ其だけで、此世に生きながらえて行かねばならぬみずからであった。
父に感謝し、次には、尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母おおおばみことに、何とお礼申してよいか、量り知れぬものが、心にたぐり上げて来る。だがまず、父よりも誰よりも、御礼申すべきは、み仏である。この珍貴うず感覚さとりを授け給う、限り知られぬめぐみに充ちたよき人が、此世界の外に、居られたのである。郎女いらつめは、塗香ずこうをとり寄せて、まず髪に塗り、手に塗り、衣をかおるばかりに匂わした。

ほほき ほほきい ほほほきい――。
きのうよりも、澄んだよい日になった。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかっきりと、木草の影を落して居た。ほかほかした日よりなのに、其を見ていると、どこか、薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲のかげりもなく、晴れきった空だ。高原をひらいて、間引いたまばらな木原こはらの上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼったりさがったりして居る。たった一羽の鶯が、よほど前から一処を移らずに、鳴き続けているのだ。
家の刀自とじたちが、物語る口癖を、さっきから思い出して居た。出雲宿禰いずものすくねの分れの家の嬢子おとめが、多くの男の言い寄るのを煩しがって、身をよけよけして、何時か、山の林の中に分け入った。そうして其処で、まどろんで居る中に、悠々うらうらと長い春の日も、暮れてしまった。嬢子は、家路と思うみちを、あちこち歩いて見た。脚はいばらとげにさされ、そでは、木のずわえにひき裂かれた。そうしてとうとう、里らしい家群いえむらの見える小高い岡の上に出た時は、裳も、著物きものも、肌の出るほど、ちぎれて居た。空には、夕月が光りを増して来ている。嬢子はさくり上げて来る感情を、声に出した。
ほほき ほほきい。
何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかった。「おお此身は」と思った時に、自分の顔に触れた袖は袖ではないものであった。の冬草の、山肌色をした小な翼であった。思いがけない声を、尚も出し続けようとする口を、押えようとすると、自身すらいとおしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行ってしまって、替りに、ささやかな管のようなくちばしが来てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考えさえもつかなかった。唯、身悶みもだえをした。するとふわりと、からだは宙に浮き上った。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高くかけり昇って行く。五日月の照る空まで……。その後、今の世までも、
ほほき ほほきい ほほほきい。
と鳴いているのだ、と幼い耳に染みつけられた、物語りの出雲の嬢子が、そのまま、自分であるような気がして来る。
郎女は、しずかに両袖もろそでを、胸のあたりに重ねて見た。家に居た時よりは、れ、皺立しわだっているが、小鳥の羽には、なって居なかった。手をあげて唇に触れて見ると、喙でもなかった。やっぱり、ほっとりとした感触を、指の腹に覚えた。
ほほき鳥―鶯―になって居た方がよかった。昔語りの嬢子は、男を避けて、山の楚原しもとはらへ入り込んだ。そうして、飛ぶ鳥になった。この身は、何とも知れぬ人のおもかげにあくがれ出て、鳥にもならずに、ここにこうして居る。せめて蝶飛虫ちょうとりにでもなれば、ひらひらと空に舞いのぼって、あの山の頂へ、俤びとをつきとめに行こうもの――。
ほほき ほほきい。
自身の咽喉のどから出た声だ、と思った。だがやはり、いおりの外で鳴くのであった。
郎女の心に動き初めたさとい光りは、消えなかった。今まで手習いした書巻の何処かに、どうやら、法喜と言う字のあった気がする。法喜――飛ぶ鳥すらも、美しいみ仏の詞に、かまけて鳴くのではなかろうか。そう思えば、この鶯も、
ほほき ほほきい。
嬉しそうな高音を、段々張って来る。
物語りする刀自たちの話でなく、若人らの言うことは、時たま、世の中の瑞々みずみずしい消息しょうそこを伝えて来た。奈良の家の女部屋は、裏方五つ間を通した、広いものであった。郎女の帳台の立ちを一番奥にして、四つの間に、刀自・若人、およそ三十人も居た。若人等は、この頃、氏々の御館みたちですることだと言って、そのの池の蓮の茎を切って来ては、藕糸はすいとを引く工夫に、一心になって居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠をいたり、解けたりした蓮の葉は、まばらになって、水の反射がしとみを越して、女部屋まで来るばかりになった。茎を折っては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、糸にる。
郎女は、女たちの凝っている手芸を、じっと見て居る日もあった。ほうほうと切れてしまう藕糸を、八・十二二十合はたこに縒って、根気よく、細い綱の様にする。其をごけつなぎためて行く。奈良の御館でも、かうこは飼って居た。実際、刀自たちは、夏は殊にせわしく、そのせいで、不機嫌になって居る日が多かった。
刀自たちは、初めは、そんなから技人てびとのするような事は、と目もくれなかった。だが時が立つと、段々興味をかれる様子が見えて来た。
こりゃ、おもしろい。絹の糸と、績み麻との間を行く様な妙な糸の――。此で、切れさえしなければのう。
こうしてつむめた藕糸は、皆一纏ひとまとめにして、寺々に納めようと、言うのである。寺には、其々それそれ技女ぎじょが居て、其糸で、唐土様もろこしようと言うよりも、天竺風てんじくふうな織物に織りあげる、と言う評判であった。女たちは、唯功徳の為に糸を績いでいる。其でも、其が幾かせ、幾たまと言う風にたまって来ると、言い知れぬ愛著あいちゃくを覚えて居た。だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其処までは想像も出来なかった。
若人たちは茎を折っては、巧みに糸を引き切らぬように、長く長くとき出す。又其、粘り気の少いさくいものを、まるで絹糸を縒り合せるように、手際よく糸にする間も、ちっとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では、出来ぬおきてになって居た。なっては居ても、物珍ものめでする盛りの若人たちには、口をふさいで緘黙行しじまを守ることは、死ぬよりもつらいぎょうであった。刀自らの油断を見ては、ぼつぼつ話をしている。其きれぎれが、聞こうとも思わぬ郎女の耳にも、ぼつぼつ這入はいって来勝ちなのであった。
鶯の鳴く声は、あれで、法華経ほけきょう法華経ほけきょうと言うのじやて――。
ほう、どうして、え――。
天竺のみ仏は、おなごは、助からぬものじゃと、説かれ説かれして来たがえ、其果てに、おなごでも救う道が開かれた。其を説いたのが、法華経じゃと言うげな。
――こんなこと、おなごの身で言うと、さかしがりよと思おうけれど、でも、世間では、そう言うもの――。
じゃで、法華経法華経と経の名を唱えるだけで、この世からして、あの世界の苦しみが、助かるといの。
ほんまにその、天竺てんじくのおなごが、あの鳥にり変って、み経の名を呼ばるるのかえ。
郎女いらつめには、いつか小耳にはさんだ其話が、その後、何時までも消えて行かなかった。その頃ちょうど、称讃浄土仏摂受経しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょうを、千部写そうとの願をおこして居た時であった。其が、はかどらぬ。何時までも進まぬ。ぼうとした耳に、此世話よばなしが再また、まぎれ入って来たのであった。
ふっと、こんな気がした。
ほほき鳥は、先の世で、御経おんきょう手写の願を立てながら、え果さいで、死にでもした、いとしい女子がなったのではなかろうか。……そう思えば、しや今、千部に満たずにしまうようなことがあったら、我がたまは何になることやら。やっぱり、鳥か、虫にでも生れて、切なく鳴き続けることであろう。
ついに一度、ものを考えた事もないのが、此国のあて人の娘であった。磨かれぬ智慧を抱いたまま、何も知らず思わずに、過ぎて行った幾百年、幾万の貴い女性にょしょうの間に、はちすの花がぽっちりと、つぼみもたげたように、物を考えることを知りめた郎女であった。
おれよ。鶯よ。あなかまや。人に、物思いをつけくさる。
荒々しい声と一しょに、立って、表戸と直角かねになった草壁の蔀戸しとみどをつきあげたのは、当麻語部たぎまのかたりおむなである。北側に当るらしい其外側は、※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)まどを圧するばかり、篠竹しのだけが繁って居た。沢山の葉筋が、日をすかして一時にきらきらと、光って見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、ひらめき過ぎた色を、まぶたの裏に、見つめて居た。おとといの日の入り方、山の端に見た輝きが、思わずには居られなかったからである。
また一時いっとき廬堂いおりどうを廻って、音するものもなかった。日は段々けて、小昼こびるぬくみが、ほの暗い郎女の居処にも、ほっとりと感じられて来た。
寺のやっこが、三四人先に立って、僧綱そうごうが五六人、其に、大勢の所化しょけたちのとりいた一群れが、廬へ来た。
これが、ふる山田寺だ、と申します。
勿体ぶった、しわがれ声が聞えて来た。
そんな事は、どうでも――。まず、郎女さまを――。
噛みつくようにあせって居る家長老いえおとな額田部子古ぬかたべのこふるがなり声がした。
同時に、表戸は引きがされ、其に隣った、幾つかの竪薦たつごもをひきちぎる音がした。
ずうと這い寄って来た身狭乳母むさのちおもは、郎女の前に居たけそびやかして、おおいになった。外光の直射を防ぐ為と、一つは、男たちの前、殊には、庶民の目に、貴人あてびとの姿をさらすまい、とするのであろう。ともに立って来た家人けにんの一人が、大きな木の叉枝またぶりをへし折って来た。そうして、旅用意の巻帛まきぎぬを、幾垂れか、其場で之に結び下げた。其をゆかにつきさして、即座の竪帷たつばり几帳きちょう―は調った。乳母おもは、其前に座を占めたまま、何時までも動かなかった。

怒りの滝のようになった額田部子古は、奈良にかえって、公に訴えると言い出した。大和国にも断って、寺の奴ばらを追い払って貰うとまで、いきまいた。大師をかしらに、横佩家に深い筋合いのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願わずには置かぬ、と凄い顔をして、住侶じゅうりょたちを脅かした。郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域をけがし、結界まで破られたからは、直にお還りになるようには計われぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、そのあがないはして貰わねばならぬ、と寺方も、言い分はひっこめなかった。
理分に非分にも、これまで、南家の権勢でつき通してきた家長老おとな等にも、寺方の扱いと言うものの、世間どおりにはいかぬ事がわかって居た。乳母に相談かけても、一代そう言う世事に与った事のない此人は、そんな問題には、かいない唯の女性にょしょうに過ぎなかった。
先刻さっきからまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。
其は、寺方が、理分でおざるがや。おおしたがいなされねばならぬ。
其を聞くと、身狭乳母は、激しく、田舎語部の老女を叱りつけた。男たちに言いつけて、畳にしがみつき、柱にかきすが古婆ふるばばつかみ出させた。そうした威高さは、さすがにおのずから備っていた。
何事も、この身などの考えではきめられぬ。そつ殿とのに承ろうにも、国遠し。まずしばし、郎女様のお心による外はないもの、と思いまする。
其より外には、ほうもつかなかった。奈良の御館みたちの人々と言っても、多くは、此人たちの意見を聴いてする人々である。よい思案を、考えつきそうなものも居ない。難波へは、直様、使いを立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考えに任せよう、と言うことになった。
郎女様。如何お考え遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。もっとも、寺方でも、候人さぶらいびとや、奴隷やっこの人数を揃えて、妨げましょう。併し、御館のお勢いには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考えを承らずには、何とも計いかねまする。御思案おもらし遊ばされ。
わば、難題である。あて人の娘御に、出来よう筈のない返答である。乳母おもも、子古も、およそは無駄な伺いだ、と思っては居た。ところが、郎女の答えは、木魂返こだまがえしの様に、躊躇ためらうことなしにあった。其上、此ほどはっきりとした答えはない、と思われる位、りんとしていた。其が、すべての者の不満を圧倒した。
姫のとがは、姫が贖う。此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。
郎女の声・ことばを聞かぬ日はない身狭乳母ではあった。だがついしか此ほどに、頭の髄までみ入るような、さえざえとした語を聞いたことのない、乳母ちおもだった。
寺方の言い分に譲るなど言う問題は、小い事であった。此さわやかな育ての君の判断力と、惑いなき詞に感じてしまった。ただ、涙。こうまでさかしい魂をうかがい得て、頬に伝うものを拭うことも出来なかった。子古にも、郎女の詞を伝達した。そうして、自分のまだかつて覚えたことのない感激を、力深くつけ添えて聞かした。
ともあれ此上は、難波津なにわづへ。
難波へと言った自分の語に、気づけられたように、子古は思い出した。今日か明日、新羅しらぎ問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、次第によっては、再太宰府へ出向かれることになっているかも知れぬ。手遅れしては一大事である。此足ですぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した。
万法蔵院に、唯一つ飼って居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行って来る、と歯のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷に向けて、庭から匍伏ほふくした。
子古の発った後は、又のどかな春の日に戻った。悠々うらうらと照り暮す山々を見せましょう、と乳母が言い出した。木立ち・山陰から盗み見する者のないように、家人らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘い出した。
暴風雨あらしの夜、添下そうのしも・広瀬・葛城の野山を、かちあるきした娘御ではなかった。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎かげろうも立たず、唯おどんで見えた。昨日跳めた野も、斜になった日を受けて、物の影が細長くなびいて居た。青垣の様にとりまく山々も、愈々いよいよ遠く裾をいて見えた。早いすみれ―げんげ―が、もうちらほら咲いている。遠く見ると、その赤々とした紫が一続きに見えて、夕焼け雲がおりて居るように思われる。足もとに一本、おなじ花の咲いているのを見つけた郎女いらつめは、膝をくさむらについて、じっと眺め入った。
これはえ――。
すみれ、と申すとのことで御座ります。
こう言う風に、物を知らせるのが、あて人に仕える人たちの、為来しきたりになって居た。
はちすの花に似ていながら、もっと細やかな、――絵にある仏の花を見るような――。
ひとり言しながら、じっと見ているうちに、花は、広いうてなの上に乗った仏の前の大きな花になって来る。其がまた、ふっと、目の前のささやかな花に戻る。
夕風がひやついて参ります。内へと遊ばされ。
乳母が言った。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
近々と、谷を隔てて、端山の林や、なぎの幾重も重った上に、二上の男岳おのかみの頂が、赤い日に染って立っている。
今日は、又あまりに静かなゆうべである。山ものどかに、夕雲の中に這入はいって行こうとしている。
もうしもうし。もう外に居る時では御座りません。

「朝目よく」うるわしいしるしを見た昨日は、郎女いらつめにとって、知らぬ経験を、後から後からひらいて行ったことであった。ただびとの考えから言えば、苦しい現実のひき続きではあったのだが、姫にとっては、心驚く事ばかりであった。一つ一つ変った事に逢う度に、「何も知らぬ身であった」と姫の心の底の声が揚った。そうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい気が、一ぱいであった。今日も其続きを、くわしく見た。
なごり惜しく過ぎ行くうつのさまざま。郎女は、今目を閉じて、心に一つ一つ収めこもうとして居る。ほのかに通り行き、はた著しくはためき過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、いおりのまわりは、すっかり手入れがせられて居た。灯台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々こうこうと、油火あぶらびが燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処には、すさまじいと言う者があって、どこかへはこんで行かれた。其よりも、郎女の為には、帳台の設備しつらわれている安らかさ。今宵は、夜も、暖かであった。帷帳とばりめぐらした中は、ほの暗かった。其でも、山の鬼神もの、野の魍魎ものを避ける為の灯の渦が、ぼうとはりに張り渡した頂板つしいたに揺めいて居るのが、たのもしい気を深めた。帳台のまわりには、乳母や、若人が寝たらしい。其ももう、一時ひとときも前の事で、皆すやすやと寝息の音を立てて居る。姫の心は、今は軽かった。たとえば、おもかげに見たお人には逢わずとも、その俤を見た山のふもとに来て、こう安らかに身を横えて居る。
灯台の明りは、郎女の額の上に、高くおぼろに見える光りの輪を作って居た。月のように円くて、幾つも上へ上へと、月輪がちりんの重っている如くも見えた。其が、隙間風の為であろう。時々薄れて行くと、一つの月になった。ぽうっと明り立つと、幾重にもくまの畳まった、大きなまどかな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やっと、遅い月が出たことであろう。
物の音。――つた つたと来て、ふうとち止るけはい。耳をすますと、元のしずかな夜に、――たぎくだる谷のとよみ。
つた つた つた。
又、ひたとむ。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音あしおとだろう。
つた。
郎女は刹那せつな、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじおののきが出て来た。
天若御子あめわかみこ――。
ようべ、当麻語部嫗たぎまのかたりのおむなの聞した物語り。ああ其お方の、来てうかがう夜なのか。
――青馬の 耳面刀自みゝものとじ
刀自もがも。女弟おともがも。
その子の はらからの子の
処女子おとめごの 一人
一人だに わが配偶つまに来よ
まことにおそろしいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、おさえられるようなこわさを知った。あああの歌が、胸に生きかえって来る。忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口のことばから、胸にとおって響く。乳房からほとばしり出ようとするときめき。
帷帳がふわと、風を含んだ様にしわだむ。
ついと、凍る様な冷気――。
郎女は目をつぶった。だが――瞬間まつげの間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳をつかんだ片手の白く光る指。
なも 阿弥陀あみだほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
何の反省もなく、唇をれた詞。この時、姫の心は、急にくつろぎを感じた。さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、すぐ動顛どうてんした心を、とり直すことが出来た。
のうのう。あみだほとけ……。
今一度口に出して見た。おとといまで、手写しとおした、称讃浄土経のもんが胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかった。父君は家の内に道場を構えて居たが、すだれ越しにも聴聞は許されなかった。御経おんきょうもんは手写しても、もとより意趣は、よくわからなかった。だが、処々には、かつがつ気持ちの汲みとれる所があったのであろう。さすがに、まさかこんな時、突嗟とっさに口に上ろう、とは思うて居なかった。
白い骨、たとえば白玉の並んだ骨の指、其が何時までも目に残って居た。帷帳は、元のままに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでいるような気がする。
悲しさとも、懐しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行った。山の端に立った俤びとは、白々しろじろとした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のように、からびて寂しく、目にうつる。

長い渚を歩いて行く。郎女の髪は、左から右から吹く風に、あちらへなびき、こちらへ乱れする。なみはただ、足もとに寄せている。渚と思うたのは、海の中道なかみちである。浪は、両方から打って来る。どこまでもどこまでも、海の道は続く。郎女の足は、砂を踏んでいる。その砂すらも、段々水におおわれて来る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と気がつく。姫は身をこごめて、白玉を拾う。拾うても拾うても、玉は皆、たなそこに置くと、粉の如く砕けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾い続ける。玉は水隠みがくれて、見えぬ様になって行く。姫は悲しさに、もろ手を以てすくおうとする。むすんでも掬んでも、水のように、手股たなまたから流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶつぶ並んで見える。あわただしく拾おうとする姫のうつむいた背を越して、流れる浪が、泡立ってとおる。
姫は――やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。そう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうちたおされる。浪に漂う身……衣もなく、もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝くうつ
ずんずんと、さがって行く。水底みなぞこ水漬みづく白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹ひともとの白い珊瑚さんごの樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生いなびくのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのままに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほっと息をついた。
まるで、かずきする海女が二十尋はたひろ三十尋みそひろの水底から浮び上ってうそぶく様に、深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。
ああ夢だった。当麻たぎままで来た夜道の記憶は、まざまざと残って居るが、こんな苦しさは覚えなかった。だがやっぱり、おとといの道の続きを辿たどって居るらしい気がする。
水の面からさし入る月の光り、そう思うた時は、ずんずん海面に浮き出て来た。そうしてことごとく、跡形もない夢だった。唯、姫の仰ぎ寝る頂板つしいたに、ああ、水にさし入った月。そこに以前のままに、幾つもかさの畳まった月輪の形が、揺めいて居る。
のうのう 阿弥陀あみだほとけ……。
再、口に出た。光りの暈は、今は愈々いよいよ明りを増して、輪と輪との境の隈々くまぐましい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝り初めて、明るい光明の中に、胸・肩・頭・髪、はっきりと形をげんじた。白々といだ美しい肌。きよく伏せたまみが、郎女いらつめの寝姿を見おろして居る。かの日のゆうべ、山の端に見たおもかげびと――。乳のあたりと、膝元とにある手――そのおよび、白玉の指。姫は、起き直った。天井の光りの輪が、元のままに、ただほのかに、事もなく揺れて居た。

貴人うまびとはうま人どち、やっこは奴隷やっこどち、と言うからの――。
何時見ても、大師は、微塵みじん曇りのない、まどかな相好そうごうである。其に、ふるまいのおおどかなこと。若くから氏上うじのかみで、数十の一族や、日本国中数万の氏人から立てられて来た家持も、じっとむこうていると、その静かな威に、圧せられるような気がして来る。
言わしておくがよい。奴隷たちは、とやかくと口さがないのが、其為事しごとよ。此身とお身とは、おなじ貴人じゃ。おのずから、話も合おうと言うもの。此身が、段々なりのぼると、うま人までがおのずとやっこ心になり居って、いやねたむの、そねむの。
家持は、此が多聞天か、と心に問いかけて居た。だがどうも、そうは思われぬ。同じ、かたどって作るなら、とつい聯想れんそうれて行く。八年前、越中国から帰った当座の、世の中の豊かな騒ぎが、思い出された。あれからすぐ、大仏開眼供養が行われたのであった。其時、近々と仰ぎ奉った尊容、八十種好しゅごう具足した、とわれる其相好が、誰やらに似ている、と感じた。其がその時は、どうしても思い浮ばずにしまった。その時の印象が、今ぴったり、的にあてはまって来たのである。
こうして対いあって居る主人の顔なり、姿なりが、其ままあの盧遮那るさなほとけの俤だ、と言って、誰が否もう。
お身も、少しはなしたら、ええではないか。官位こうぶりはこうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、そう思わぬか。紫徴中台しびちゅうだいの、兵部省のと、位づけるのは、うき世の事だわ。うちに居る時だけは、やはり神代以来の氏上づきあいが、ええ。
新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢土もろこしざえが、やまと心に入り替ったとわれて居る此人が、こんな嬉しいことを言う。家持は、感謝したい気がした。理会者・同感者を、思いもうけぬ処に見つけ出した嬉しさだったのである。
お身は、宋玉や、王褒おうほうの書いた物を大分持って居ると言うが、太宰府へ行った時に、手に入れたのじゃな。あんな若い年で、わせだったのだのう。お身は――。お身の氏では、古麻呂こまろ。身の家に近しい者でも奈良麻呂。あれらはかんはおろか、今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、言うがいない話じゃわ。
兵部大輔は、やっと話のつきほを捉えた。
お身さまのお話じゃが、わしは、賦の類には飽きました。どうもあれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい歌や、詩の出て来る元になって居る――そうつくづく思いますじゃて。ところで近頃は、かたを換えて、張文成を拾い読みすることにしました。この方が、なんぼか――。
大きに、其は、身も賛成じゃ。じゃが、お身がその年になっても、まだ二十はたち代の若い心や、瑞々みずみずしい顔を持って居るのは、宋玉のおかげじゃぞ。まだなかなか隠れては歩きる、と人の噂じゃが、嘘じゃなかろう。身が保証する。おれなどは、張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気の尽きてしもうた心持ちがする。――じゃが全く、文成はええのう。あのじんに会うて来た者の話では、豬肥いのこごえのした、唯の漢土びとじゃったげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思うが、お身なら、うべのうてくれるだろうの。
文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は、読んで居て、知らぬ事ばかり教えられるようで、時々ふっと思い返すと、こんな思わざった考えを、いつの間にか、持っている――そんな空恐しい気さえすることが、ありますて。お身さまにも、そんな経験おぼえは、おありでがな。
大ありおお有り。毎日毎日、其よ。しまいに、どうなるのじゃ。こんなに智慧づいては、と思われてならぬことが――。じゃが、女子おみなごだけには、まず当分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬ、のどかな心で居させたいものじゃ。第一其が、われわれ男の為じゃて。
家持は、此了解に富んだ貴人に向っては、何でも言ってよい、青年のような気が湧いて来た。
さようさよう。智慧を持ち初めては、あのいぶせい女部屋には、じっとして居ませぬげな。第一、横佩墻内よこはきかきつの――
此はいけぬ、と思った。同時に、此おくれた気の出るのが、自分をひくくし、大伴氏を、昔の位置から自ら蹶落けおとす心なのだ、と感じる。
ええええ。遠慮はやめやめ。氏上づきあいじゃもの。ほい又出た。おれはまだ、藤原の氏上に任ぜられたわけじゃあ、なかったっけの。
瞬間、暗い顔をしたが、直にさっと眉の間から、輝きが出て来た。
身の女姪めいが神隠しにおうたあの話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、そうるかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も、定めて喜ぶじゃろう。実はこれまで、内々消息を遣して、小あたりにあたって見た、と言う口かね、お身も。
大きに。
今度は軽い心持ちが、大胆に押勝の話を受けとめた。
お身さまが経験ためしずみじゃで、其で、郎女の才高ざえだかさと、男択びすることがわかりますな――。
此は――。額ざまに切りつけるぞ――。ゆるせ免せと言うところじゃが、――あれはの、生れだちから違うものな。藤原の氏姫じゃからの。枚岡ひらおかいつひめにあがる宿世すくせを持って生れた者ゆえ、人間の男は、弾く、弾く、弾きとばす。近よるまいぞよ。ははははは。
大師は、笑いをぴたりと止めて、家持の顔を見ながら、きまじめな表情になった。
じゃがどうも――。聴き及んでのことと思うが、家出の前まで、阿弥陀経の千部写経をして居たと言うし、楽毅論がっきろんから、兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習いしたらしいし、まだまだ孝経などは、これぽっちの頃に習うた、と言うし、なかなかの女博士おなごはかせでの。楚辞そじや、小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬわのう。霜月・師走の垣毀雪女かいこぼちおなごじゃもの。――どうして、其だけの女子おみなごが、神隠しなどに逢おうかい。
第一、場処が、あの当麻で見つかったと言いますからの――。
併し其は、藤原に全く縁のない処でもない。天二上あめのふたかみは、中臣寿詞なかとみのよごとにもあるし……。いつひめもいや、人の妻と呼ばれるのもいや――で、尼になる気を起したのでないか、と考えると、もう不安で不安でのう。のどかな気持ちばかりでも居られぬて――。
押勝の眉は集って来て、しわ一つよせぬ美しい、この老いの見えぬ貴人の顔も、思いなし、ひずんで見えた。
何しろ、嫋女たわやめは国の宝じゃでのう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしておきたいところじゃが、――人間の高望みは、そうばかりもさせてはおきおらぬがい――。ともかく、むざむざ尼寺へやるわけにはいかぬ。
じゃが、お身さま。一人出家すれば、と云うことばが、この頃はやりになって居りますが…。
九族が天に生じて、何になるというのじゃ。宝は何百人かかっても、作り出せるものではないぞよ。どだい兄公殿あにきどのが、少し仏凝ほとけごりが過ぎるでのう――。自然うちうらまで、そんな気風がしみこむようになったかも知れぬぞ――。時に、お身のみ館の郎女いらつめも、そんな育てはしてあるまいな。其では、うちの久須麻呂が泣きを見るからの。
人の悪いからかい笑みを浮べて、話を無理にでも脇へ釣り出そうと努めるのは、考えるのも切ない胸の中が察せられる。
兄公殿は氏上に、身は氏助うじのすけと言う訣なのじゃが、肝腎かんじん斎き姫で、枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年じゃ。去年春日祭りに、女使いで上られた姿を見て、かんさびたものよ、と思うたぞ。一代此方から進ぜなかったら、斎き姫になる娘の多い北家の方が、すぐに取って替って、氏上に据るは。
兵部大輔にとっても、此はもう他事ひとごとではなかった。おなじ大伴幾流の中から、四代続いて氏上職を持ちこたえたのも、第一は宮廷の御恩徳もあるが、世の中のよせが重かったからである。其には、一番大事な条件として、美しい斎き姫が、後から後と此家に出て、とぎれることがなかった為でもある。大伴の家のは、表向きむこどりさえして居ねば、子があっても、斎き姫は勤まる、と言う定めであった。今の阪上郎女さかのうえのいらつめは、二人の女子おみなごを持って、やはり斎き姫である。此は、うっかり出来ない。此方こちらも藤原同様、叔母御が斎姫いつきで、まだそんな年でない、と思うているが、又どんなことで、他流の氏姫が、後を襲うことにならぬとも限らぬ。大伴・佐伯さえきの数知れぬ家々・人々が、外の大伴へ、頭をさげるようになってはならぬ。こう考えて来た家持の心の動揺などには、思いよりもせぬ風で、
こんな話は、よそほかの氏上に言うべきことでないが、兄公殿がああして、此先何年、難波にいても、太宰府に居ると言うが表面おもてだから、氏の祭りは、枚岡・春日と、二処に二度ずつ、其外、まわり年には、時々鹿島・香取の東路あずまじのはてにある旧社もとやしろの祭りまで、此方で勤めねばならぬ。実際よそほかの氏上よりも、此方の氏助ははたらいているのだが、――だから、自分で、氏上の気持ちになったりする。――もう一層なってしまうかな。お身はどう思う。こりゃ、答える訣にも行くまい。氏上に押し直ろうとしたところで、今の身の考え一つをげさせるものはない。上様方に於かせられて、お叱りの御沙汰を下しおかれぬ限りは――。
京中で、此恵美屋敷ほど、庭をたしなんだ家はないと言う。門は、左京二条三坊に、北に向いて開いて居るが、主人家族の住いは、南を広く空けて、深々とした山斎やまが作ってある。其に入りこみの多い池をめぐらし、池の中の島も、飛鳥の宮風に造られて居た。東のなかかど、西の中み門まで備って居る。どうかすると、庭と申そうより、寛々かんかんとした空き地の広くおありになる宮よりは、もっと手入れが届いて居そうな気がする。
庭を立派にして住んだ、うま人たちの末々の様が、兵部大輔の胸に来た。瞬間、憂欝ゆううつな気持ちがかぶさって来て、前にいる大師の顔を見るのが、気の毒な様に思われる。
案じるなよ。庭が行き届き過ぎて居る、と思うてるのだろう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館はどうだ。どの筋でも引き継がずに、今に荒してはあるが、あの立派さは。それあの山部の何とか言った、地下じげの召し人の歌よみが、おれの三十になったばかりの頃、「昔見しふるき堤は、年深み……年深み、池のなぎさに、水草みくさ生ひにけり」とよんだ位だが、其後が、これ此様に、四流にもわかれて栄えている。もっとあるぞ――。なに、庭などによるものじゃないわ。
たのむ所の深い此あて人は、庭の風景の、目立った個処個処を指摘しながら、其拠る所を、日本やまと漢土もろこしわたって説明した。
長い廊を、数人のわらわが続いて来る。
日ずかしです。お召しあがり下されましょう。
改って、簡単な饗応きょうおうの挨拶をした。まろうどに、早く酒を献じなさい、と言っている間に、美しい采女うねめが、盃を額より高く捧げて出た。
おお、それだけ受けて頂けばよい。舞いぶりを一つ、見て貰いなさい。
家持は、何を考えても、先を越す敏感な主人に対して、唯虚心で居るより外は、なかった。
うねめは、大伴の氏上へは、まだくださらぬのだったね。藤原では、存知でもあろうが、先例が早くからあって、淡海公が、近江の宮から頂戴した故事で、頂く習慣になって居ります。
時々、こんなかしこまったもの言いもまじえる。兵部大輔は、自身のことばづかいにも、初中終しょっちゅう、気扱いをせねばならなかった。
氏上もな、身が執心で、兄公殿を太宰府へ追いまくって、後にすわろうとするのだ、と言う奴があるといの――。やっぱり「奴はやっこどち」じゃの。そう思うよ。時に女姪めいの姫だが――。
さすがの聡明そうめい第一の大師も、酒の量は少かった。其が、今日は幾分いけた、と見えて、話が循環して来た。家持は、一度はぐらかされた緒口いとぐちに、とりついた気で、
横佩墻内よこはきかきつの郎女は、どうなるでしょう。社・寺、それとも宮――。どちらへ向いても、神さびた一生。あったら惜しいものでおありだ。
気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は――もう、人間の手へは、戻らぬかも知れんぞ。
末は、独り言になって居た。そうして、急に考え深い目を凝した。池へ落した水音は、ひつじがさがると、寒々と聞えて来る。
早く、躑躅つつじの照る時分になってくれぬかなあ。一年中で、この庭の一番よい時が、待ちどおしいぞ。
大師藤原恵美押勝朝臣の声は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじえて居なかった。

つた つた つた。
郎女は、一向ひたすら、あの音の歩み寄って来るおそろしい夜更けを、待つようになった。おとといよりは昨日、昨日よりは今日という風に、其跫音あしおとが間遠になって行き、此頃はふつに音せぬようになった。その氷の山にむこうて居るような、骨のうず戦慄せんりつの快感、其が失せて行くのをおそれるように、姫は夜毎、鶏のうたい出すまでは、殆、祈る心で待ち続けて居る。
絶望のまま、幾晩も仰ぎ寝たきりで、目は昼よりもめて居た。其間に起る夜の間の現象には、一切心が留らなかった。現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板つしおもての光り輪にすら、明盲あきじいのように、注意はかれなくなった。ここに来て、くに、七日は過ぎ、十日・半月になった。山も、野も、春のけしきが整うて居た。野茨のいばらの花のようだった小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が、谷から峰かけて、断続しながら咲いているのも見える。麦原むぎふは、驚くばかり伸び、里人の野為事しごとに出た姿が、終日、そのあたりに動いている。
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、とびる者が殖えて行った。廬堂いおりどうの近くに掘り立てた板屋に、こう長びくとは思わなかったし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は、妻子に会うことばかりを考えた。親に養われる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思う心が、切々として来るのである。女たちは、こうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習しに馴れて、何かと為事を考えてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もっと廬に接して建てられて居た。
身狭乳母むさのちおもの思いやりから、男たちの多くは、唯さえ小人数な奈良の御館みたちの番に行け、と言ってかえされ、長老おとな一人の外は、唯雑用ぞうようをする童と、奴隷やっこ位しか残らなかった。
乳母おもや、若人たちも、薄々は帳台の中で夜を久しく起きている、郎女いらつめの様子を感じ出して居た。でも、なぜそう夜深くいきついたり、うなされたりするか、知る筈のない昔かたぎの女たちである。
やはり、郎女のたまがあくがれ出て、心が空しくなって居るもの、と単純に考えて居る。ある女は、魂ごいの為に、山尋ねの咒術おこないをして見たらどうだろう、と言った。
乳母は一口に言い消した。姫様、当麻たぎまに御安著あんちゃくなされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。当麻語部とかった蠱物まじもの使いのような婆が、出しゃばっての差配が、こんな事をき起したのだ。
その節、山のたわの塚で起った不思議は、噂になって、この貴人うまびと一家の者にも、知れ渡って居た。あらぬ者の魂を呼び出して、郎女様におつけ申しあげたに違いない。もうもう、軽はずみな咒術は思いとまることにしよう。こうして、たま游離あくがれ出た処の近くにさえ居れば、やがては、元のお身になり戻り遊されることだろう。こんな風に考えて、乳母は唯、気長に気ながに、と女たちを諭し諭しした。こんな事をして居る中に、早一月も過ぎて、桜の後、暫らく寂しかった山に、躑躅つつじが燃え立った。足も行かれぬ崖の上や、巌の腹などに、一群ひとむら一群咲いて居るのが、奥山の春は今だ、となのって居るようである。
ある日は、山へ山へと、里の娘ばかりが上って行くのを見た。およそ数十人の若い女が、何処で宿ったのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髪にかざして、降りて来た。廬の庭から見あげた若女房の一人が、山の躑躅林が練って降るようだ、と声をあげた。
ぞよぞよと廬の前を通る時、皆頭をさげて行った。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ来た。当麻の田居も、今は苗代時なわしろどきである。やがては田植えをする。其時は、見に出やしゃれ。こんな身でも、其時はずんと、おなごぶりが上るぞな、と笑う者もあった。
ここの田居の中で、植え初めの田は、腰折れ田と言うて、都までも聞えた物語りのある田じゃげな。
若人たちは、又例の蠱物姥まじものうばの古語りであろう、とまぜ返す。ともあれ、こうして、山ごもりに上った娘だけに、今年の田の早処女が当ります。其しるしが此じゃ、と大事そうに、頭の躑躅に触れて見せた。
もっと変った話を聞かせぬかえと誘われて、身分に高下はあっても、同じ若い同士のこととて、色々な田舎咄いなかばなしをして行った。其をのちに乳母たちが聴いて、気にしたことがあった。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をどうどうと踏みおりて来る者がある。ようべ、真夜中のことである。一様にうなされて、苦しい息をついていると、音はそのまま、真下へ真下へ、降って行った。がらがらと、岩のえる響き。――ちょうど其が、此盧堂の真上の高処たかに当って居た。こんな処に道はない筈じゃが、と今朝起きぬけに見ると、案の定、赤岩の大崩崖おおなぎ。ようべの音は、音ばかりで、ちっともあとは残って居なかった。
其で思い合せられるのは、此頃ちょくちょく、からうしの間に、里から見えるこのあたりのに、光り物がしたり、時ならぬ一時颪いっときおろしの凄いうなりが、聞えたりする。今までついに聞かぬこと。里人は唯こう、恐れ謹しんで居る、とも言った。
こんな話を残して行った里の娘たちも、苗代田のあぜに、めいめいのかざしの躑躅花を挿して帰った。其は昼のこと、田舎は田舎らしいねやの中に、今は寝ついたであろう。夜はひた更けに、更けて行く。
昼の恐れのなごりに、寝苦しがって居た女たちも、おびえ疲れに寝入ってしまった。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思わぬ目を、ふっと開いた。続いて今ひと響き、びしとしたのは、鳥などの、翼ぐるめひき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生き物も絶えたように、虚しい空間の闇に、時間が立って行った。
郎女のぬかの上の天井の光のかさが、ほのぼのと白んで来る。明りのくまはあちこちに偏倚かたよって、光りをたてにくぎって行く。と見る間に、ぱっと明るくなる。そこに大きな花。蒼白いすみれ。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、仏の花の青蓮華しょうれんげと言うものであろうか。郎女の目には、何とも知れぬきよらかな花が、車輪のように、宙にぱっと開いている。仄暗ほのぐらしべの処に、むらむらと雲のように、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髪である。髪の中から匂い出た荘厳な顔。閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る。ああ肩・胸・あらわな肌。――冷え冷えとした白い肌。おお おいとおしい。
郎女は、自身の声に、目が覚めた。夢から続いて、口は尚夢のように、語をうて居た。
おいとおしい。お寒かろうに――。

山の躑躅の色は、様々ある。一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時にしぼむ。そうして、凡一月は、後から後から替った色のが匂い出て、禿げた岩も、一冬のうら枯れをとり返さぬ柴木山しばきやまも、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。下草に交って、馬酔木あしびが雪のように咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあわれである。
もう此頃になると、山はいとわしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまう。郭公かっこうは早く鳴きらし、時鳥ほととぎすが替って、日も夜も鳴く。
草の花が、どっと怒濤どとうの寄せるように咲き出して、山全体が花原見たようになって行く。里の麦は刈り急がれ、田の原は一様に青みわたって、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。家の庭苑そのにも、立ち替り咲き替って、、草花が、何処まで盛り続けるかと思われる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返ったような時が来る。池には葦が伸び、がまき、ぬきんでて来る。遅々として、併し忘れた頃に、にわかにし上るように育つのは、蓮の葉であった。

前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の暴状が、目立って棄て置かれぬものに見えて来た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよ、と言う命のおくだしを、度々都へ請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人太宰員外帥だざいいんがいのそつとして、難波に居た横佩家よこはきけの豊成は、思いがけぬ日々を送らねばならなかった。
都の姫の事は、子古の口から聴いて知ったし、又、京・難波の間を往来する頻繁な公私の使いに、文をことづてる事は易かったけれども、どう処置してよいか、途方にれた。ちょっと見は何でもない事の様で、実は重大な、家の大事である。其だけに、常の優柔不断な心癖は、益々つのるばかりであった。
寺々の知音に寄せて、当麻寺へ、よい様に命じてくれる様に、と書いてもやった。又処置方について伺うた横佩墻内の家の長老とね刀自とじたちへは、ひたすら、汝等の主の郎女いらつめを護って居れ、と言うような、抽象風なことを、答えて来たりした。
次の消息には、何かと具体した仰せつけがあるだろう、と待って居る間に、日が立ち、月が過ぎて行くばかりである。其間にも、姫の失われたと見える魂が、お身に戻るか、其だけの望みで、人々は、山村に止って居た。物思いに、屈託ばかりもして居ぬ若人たちは、もう池のほとりにおり立って、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女めやっこが、其はまだ若い、もう半月もおかねばと言って、寺領の一部に、蓮根を取る為に作ってあった蓮田はちすだへ、案内しよう、と言い出した。あて人の家自身が、それぞれ、農村の大家おおやけであった。其が次第に、官人つかさびとらしい姿にかわって来ても、家庭の生活には、何時までたっても、何処か農家らしい様子が、残って居た。家構えにも、屋敷の広場にわにも、家の中の雑用具ぞうようぐにも。第一、女たちの生活は、起居たちいふるまいなり、服装なりは、優雅に優雅にと変っては行ったが、やはり昔の農家の家内やうちの匂いがつきまとうて離れなかった。刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の遠い田荘なりどころへ行って、数日を過して来るような習しも、絶えることなく、くり返されて居た。
だから、刀自たちはもとより若人らも、つくねんと女部屋の薄暗がりに、明し暮して居るのではなかった。てんでに、自分の出た村方の手芸を覚えて居て、其を、仕える君の為に為出しいだそう、と出精してはたらいた。
ひだを作るのにを持った女などが、何でもないことで、とりわけ重宝がられた。そでの先につける鰭袖はたそでを美しく為立てて、其に、珍しい縫いとりをする女なども居た。こんなのは、どの家庭にもある話でなく、こう言う若人をおきあてた家は、一つのよい見てくれを世間に持つ事になるのだ。一般に、染めや、裁ち縫いが、家々の顔見合わぬ女どうしの競技のように、もてはやされた。り染めや、ち染めの技術も、女たちの間には、目立たぬ進歩が年々にあったが、で染めの為の染料が、韓の技工人てびとの影響から、途方もなく変化した。紫とっても、あかねと謂っても皆、昔の様な、染め漿しお処置とりあつかいはせなくなった。そうして、染め上りも、艶々しく、はでなものになって来た。表向きは、こうした色の禁令が、次第に行きわたって来たけれど、家の女部屋までは、かみの目も届くはずはなかった。
家庭の主婦が、居まわりの人を促したてて、自身も精励してするような為事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであった。若人たちも、田畠に出ぬと言うばかりで、家の中での為事は、まだ見参まいりまみえをせずにいた田舎暮しの時分と、大差はなかった。とりわけ違うのは、其家々の神々に仕えると言う、誇りはあるが、小むつかしい事がつけ加えられて居る位のことである。外出には、下人たちの見ぬ様に、笠を深々とかずき、其下には、更に薄帛うすぎぬを垂らして出かけた。
一時いっときたたぬ中に、婢女ばかりでなく、自身たちも、田におりたったと見えて、泥だらけになって、若人たち十数人は戻って来た。皆手に手に、張り切って発育した、蓮の茎を抱えて、いおりの前に並んだのには、常々くすりとも笑わぬ乳母おもたちさえ、腹の皮をよって、切ながった。
郎女様。御覧ごろうじませ。
竪帳たつばりを手でのけて、姫に見せるだけが、やっとのことであった。
ほう――。
何が笑うべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうには、唯常と変った皆の姿が、うらやましく思われた。
この身も、その田居とやらにおり立ちたい――。
めっそうなこと、仰せられます。
めっそうな。きまって、誇張した顔と口との表現で答えることも、此ごろ、この小社会で行われ出した。何から何まで縛りつけるような、身狭乳母むさのちおもに対する反感も、此ものまねで幾分、いり合せがつく様な気がするのであろう。
其日からもう、若人たちの糸縒いとよりは初まった。夜は、ねやの闇の中で寝る女たちには、まれに男の声を聞くこともある、奈良の垣内かきつ住いが、恋しかった。朝になると又、何もかも忘れたようになってめる。
そうした糸の、六かせ七かせを持って出て、郎女に見せたのは、其数日後であった。
乳母よ。この糸は、蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘蛛くもより弱く見えるがよ――。
郎女は、久しぶりでにっこりした。労をねぎらうと共に、考えの足らぬのを憐むようである。刀自は、驚いて姫のことばき止めた。
なる程、此はさく過ぎまする。
女たちは、板屋に戻っても、長く、健やかな喜びを、皆して語って居た。
全くすこしの悪意もまじえずに、言いたいままの気持ちから、
田居とやらへ[#「田居とやらへ」は底本では「田舎とやらへ」]おりたちたい――、
を反覆した。
刀自は、若人を呼び集めて、
もっと、きれぬ糸を作り出さねば、物はない。
と言った。女たちの中の一人が、
それでは、刀自に、何ぞよい御思案が――。
さればの――。
昔を守ることばかりはいかついが、新しいことの考えは唯、尋常よのつねの婆の如く、愚かしかった。
ゆくりない声が、郎女の口かられた。
この身の考えることが、出来ることか試して見や。
うま人を軽侮することを、神への忌みとして居た昔人である。だが、かすかなかるしめに似た気持ちが、皆の心に動いた。
夏引きの麻生おふあさを績むように、そして、もっと日ざらしよく、細くこまやかに――。
郎女は、目に見えぬもののさとしを、心の上で綴って行くように、語を吐いた。
板屋の前には、にわかに、蓮の茎が乾し並べられた。そうして其が乾くと、谷のよどみに持ち下りて浸す。浸してはさらし、晒しては水にでた幾日の後、むしろの上でつちの音高く、こもごも、交々こもごもと叩き柔らげた。
そのいそしみを、郎女も時には、端近くいざり出て見て居た。とがめようとしても、思いつめたような目して、見入って居る姫を見ると、刀自は口を開くことが出来なくなった。
日晒しの茎を、八針やつはりに裂き、其を又、幾針にも裂く。郎女の物言わぬまなざしが、じっと若人たちの手もとをまもって居る。果ては、刀自も言い出した。
私も、績みましょう。
績みに績み、又績みに績んだ。藕糸はすいとのまるがせが、日に日に殖えて、廬堂の中に、次第に高く積まれて行った。
もう今日は、みな月に入る日じゃの――。
暦の事を言われて、刀自はぎょっとした。ほんに、今日こそ、氷室ひむろ朔日ついたちじゃ。そう思う下から歯の根のあわぬような悪感を覚えた。大昔から、暦はひじりあずかる道と考えて来た。其で、男女は唯、長老の言うがままに、時の来又去った事を教わって、村や、家の行事を進めて行くばかりであった。だから、教えぬに日月を語ることは、極めてさとい人の事として居た頃である。愈々いよいよ魂をとり戻されたのか、とまもりながら、はらはらして居る乳母おもであった。唯、郎女いらつめまた、秋分の日の近づいて来て居ることを、心にと言うよりは、身の内に、そくそくと感じ初めて居たのである。蓮は、池のも、田居のも、極度にけて、つぼみの大きくふくらんだのも、見え出した。婢女めやっこは、今が刈りしおだ、と教えたので、若人たちは、皆手も足も泥にして、又田に立ち暮す日が続いた。

彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のように深碧ふかみどりいだ空に、昼過ぎて、白い雲がしきりにちぎれちぎれに飛んだ。其が門渡とわたる船と見えている内に、暴風あらしである。空は愈々いよいよ青澄み、くらくなる頃には、あいの様に色濃くなって行った。見あげる山の端は、横雲の空のように、茜色あかねいろに輝いて居る。
大山颪おおやまおろし。木の葉も、枝も、顔に吹きつけられる程の物は、皆きて青かった。板屋は吹きあげられそうに、あおりきしんだ。若人たちは、ことごとく郎女のいおりに上って、刀自とじを中に、心を一つにして、ひしと顔を寄せた。ただ互の顔の見えるばかりの緊張した気持ちの間に、刻々に移って行く風。西から真正面まともに吹きおろしたのが、暫らくして北の方から落して来た。やがて、風は山を離れて、平野の方から、山に向ってひた吹きに吹きつけた。峰の松原も、空様そらざまに枝を掻き上げられた様になって、悲鳴を続けた。谷からに生えのぼって居る萱原かやはらは、一様に上へ上へとり昇るように、葉裏を返してき上げられた。
家の中は、もう暗くなった。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかっきりと、物の一つ一つを、鮮やかに見せて居た。
郎女様が――。
誰かの声である。皆、頭の毛が空へのぼる程、ぎょっとした。其が、何だと言われずとも、すべての心が、一度に了解して居た。言い難い恐怖にかみずった女たちは、誰一人声を出す者も居なかった。
身狭乳母は、今の今まで、姫の側に寄って、後から姫を抱えて居たのである。皆の人はけはいで、覚め難い夢から覚めたように、目をみひらくと、ああ、何時の間にか、姫はおむな両腕もろうで両膝の間には、居させられぬ。一時に、慟哭どうこくするような感激が来た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。りんとして、反り返る様な力が、湧き上った。
ぞ、弓を――。鳴弦つるうちじゃ。
人を待つ間もなかった。彼女自身、壁代かべしろに寄せかけて置いた白木の檀弓まゆみをとり上げて居た。
それ皆の衆――。反閇あしぶみぞ。もっと声高こわだかに――。あっし、あっし、それ、あっしあっし……。
若人たちも、一人一人の心は、くに飛んで行ってしまって居た。唯一つの声で、警※けいひつ[#「馬+畢」、U+9A46、198-下段-5]を発し、反閇へんばいした。
あっし あっし。
あっし あっし あっし。
狭いいおりの中をんで廻った。脇目からは、遶道にょうどうする群れのように。
郎女様は、こちらに御座りますか。
万法蔵院の婢女が、息をきらして走って来て、何時もなら、許されて居ぬ無作法で、近々と、廬のみぎりに立って叫んだ。
なに――。
皆の口が、一つであった。
郎女様か、と思われるあて人が――、み寺のかどに立って居さっせるのを見たで、知らせにまいりました。
今度は、乳母一人の声が答えた。
なに、み寺の門に。
婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を、早足に練り出した。
あっし あっし あっし ……。
声は、遠くからも聞えた。大風をつき抜く様な鋭声とごえが、野面のづらに伝わる。
万法蔵院は、実にせきとして居た。山風は物忘れした様に、鎮まって居た。夕闇はそろそろ、かぶさって来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺庭は、白砂が、昼の明りに輝いていた。ここからよく見える二上の頂は、広く、赤々と夕映えている。
姫は、山田の道場の※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)まどから仰ぐ空の狭さを悲しんでいる間に、何時かここまで来て居たのである。浄域をけがした物忌みにこもっている身、と言うことを忘れさせぬものが、其でも心の隅にあったのであろう。門のしきみから、伸び上るようにして、山のの空を見入って居た。
暫らくおだやんで居た嵐が、又山に廻ったらしい。だが、寺は物音もない黄昏たそがれだ。
男岳おのかみ女岳めのかみとの間になだれをなした大きな曲線たわが、又次第に両方へそそって行っている、此二つの峰の間の広い空際。薄れかかった茜の雲が、急に輝き出して、白銀の炎をあげて来る。山のに充満して居た夕闇は、光りに照されて、紫だって動きはじめた。
そうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として、照り出されて居た。肌 肩 脇 胸 豊かな姿が、山の尾上の松原の上に現れた。併し、おもかげに見つづけた其顔ばかりは、ほの暗かった。
今すこししるく み姿あらわしたまえ――。
郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となってたなびき、次第次第にさがる様に見えた。
明るいのは、山際ばかりではなかった。地上は、いさごの数もよまれるほどである。
しずかに しずかに雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡くりことごとく金に、朱に、青に、昼よりいちじるく見え、自ら光りを発して居た。
庭の砂の上にすれすれに、雲は揺曳ようえいして、そこにありありと半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂いやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉じられた目は、此時、姫を認めたように、すずしく見ひらいた。軽くつぐんだくちびるは、この女性にょしょうに向うて、物を告げてでも居るように、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目のれて来る思いがした。だが、此時を過してはと思う一心で、御姿みすがたから、目をそらさなかった。
あて人を讃えるものと、思いこんだあのことばが、又心からほとばしり出た。
なも 阿弥陀あみだほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ。
瞬間に明りが薄れて行って、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほのぼのと暗くなり、段々に高く、又高く上って行く。姫が、目送する間もない程であった。たちまち、二上山の山の端に溶け入るように消えて、まっくらな空ばかりの、たなびく夜に、なって居た。
あっし あっし。
足を蹈み、さきう声が、耳もとまで近づいて来ていた。

当麻たぎまむらは、此頃、一本の草、一塊ひとくれの石すら、光りを持つほど、にぎわちて居る。
当麻真人家たぎまのまひとけの氏神当麻彦の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏上の拝礼があった。故上総守老真人かずさのかみおゆのまひと以来、暫らく絶えて居たことである。
其上、もうに二三日に迫った八月はつき朔日ついたちには、奈良の宮から、勅使が来向われる筈になって居た。当麻氏から出られた大夫人だいふじんのお生み申された宮の御代に、あらたまることになったからである。廬堂の中は、前よりは更に狭くなって居た。郎女が、奈良の御館みたちからとり寄せた高機たかはたを、てたからである。機織りにけた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女らの動かして見せるおさの扱い方を、姫はすぐに会得した。機に上って日ねもす、時には終夜よもすがら織って見るけれど、蓮の糸は、すぐにつぶになったり、れたりした。其でも、まずにさえ織って居れば、何時か織りあがるもの、と信じている様に、脇目からは見えた。
乳母ちおもは、人に見せた事のない憂わしげな顔を、此頃よくしている。
何しろ、唐土もろこしでも、天竺てんじくから渡った物より手に入らぬ、という藕糸織はすいとおりを遊ばそう、と言うのじゃもののう。
話相手にもしなかった若い者たちに、時々うっかりと、こんな事を、言う様になった。
こう糸が無駄になっては。
今の間にどしどしんで置かいでは――。
乳母の語に、若人たちは又、広々として野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだった。そうして、女たちの刈りとった蓮積み車が、いおりに戻って来ると、何よりも先に、田居への降り道に見た、当麻のむらの騒ぎの噂である。
郎女いらつめ様のお従兄恵美の若子わくごさまのおはら様も、当麻真人のお出じゃげな――。
恵美の御館みたちの叔父君の世界、見るような世になった。
兄御を、そつの殿に落しておいて、御自身はのり越して、内相の、大師の、とおなりのぼりの御心持ちは、どうあろうのう――。
あて人に仕えて居ても、女はうっかりすると、人の評判に時を移した。
やめい やめい。お耳ざわりぞ。
しまいには、乳母が叱りに出た。だが、身狭刀自むさのとじ自身のうちにも、もだもだと咽喉のどにつまった物のある感じが、残らずには居なかった。そうして、そんなことにかまけることなく、何のわけやら知れぬが、一心に糸を績み、機を織って居る育ての姫が、いとおしくてたまらぬのであった。
昼の中多く出たあぶは、潜んでしまったが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して来る。日中の興奮で、皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す灯の明りを避けて、隅の物陰に、深いいびきを立てはじめた。
郎女は、れては織り、織っては断れ、手がだるくなっても、まだを放そうともせぬ。
だが、此頃の姫の心は、満ち足ろうて居た。あれほど、夜々よるよる見て居た俤人おもかげびとの姿も見ずに、安らかな気持ちが続いているのである。
「此機を織りあげて、はようあの素肌のお身を、おおうてあげたい。」
其ばかり考えて居る。世の中になし遂げられぬもののあると言うことを、あて人は知らぬのであった。
ちょう ちょう はた はた。
はた はた ちょう……。
おさを流れるように、手もとにくり寄せられる糸が、動かなくなった。引いてもいても通らぬ。筬の歯が幾枚もこぼれて、糸筋の上にかかって居るのが見える。
郎女は、いきをついた。乳母に問うても、知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動かすことはえすまい。
どうしたら、よいのだろう。
姫ははじめて、顔へ偏ってかかって来る髪のうるささを感じた。筬の櫛目くしめを覗いて見た。梭もはたいて見た。
ああ、何時になったら、したてたころもを、お肌へふくよかにお貸し申すことが出来よう。
もう外のくさむらで鳴き出した、蟋蟀こおろぎの声を、瞬間思い浮べて居た。
どれ、およこし遊ばされ。こう直せば、動かぬこともおざるまい――。
どうやら聞いた気のする声が、機の外にした。
あて人の姫は、何処から来た人とも疑わなかった。唯、そうした好意ある人を、予想して居た時なので、
見てたもれ。
機をおりた。
女は尼であった。髪を切って尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたことはあったが、剃髪ていはつした尼には会うたことのない姫であった。
はた はた ちょう ちょう
元の通りの音が、整って出て来た。
蓮の糸は、こう言う風では、織れるものではおざりませぬ。もっと寄って御覧ごろうじ――。これこう――おわかりかえ。
当麻語部うばの声である。だが、そんなことは、郎女の心には、間題でもなかった。
おわかりなさるかえ。これこう――。
姫の心は、こだまの如くさとくなって居た。此才伎てわざ経緯ゆきたては、すぐ呑み込まれた。
織ってごろうじませ。
姫が、高機に代って入ると、尼は機陰に身をせて立つ。
はた はた ゆら ゆら。
音までが、変って澄み上った。
女鳥めとりの わがおおきみのおろす機。ねろかも――、御存じ及びでおざりましょうのう。昔、こう、機殿の※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)まどからのぞきこうで、問われたお方様がおざりましたっけ。
――その時、その貴い女性にょしょうがの、
たか行くや隼別はやぶさわけ御被服料みおすいがね――そうお答えなされたとのう。
このじゅう申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別でもおざりました。天若日子あめわかひこでもおざりました。てんに矢を射かける――。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。りはたり、ちょうちょう。それ――、早く織らねば、やがて、岩牀いわどこの凍る冷い冬がまいりますがよ――。
郎女は、ふっと覚めた。あぐね果てて、機の上にとろとろとした間の夢だったのである。だが、梭をとり直して見ると、
はた はた ゆら ゆら。ゆら はたた。
美しい織物が、筬の目からほとばしる。
はた はた ゆら ゆら。
思いつめてまどろんでいる中に、郎女の智慧が、一つのしきみを越えたのである。

望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反ひとむら上帛はたを、夜の更けるのも忘れて、見讃みはやして居た。
この月の光りを受けた美しさ。
※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)かとりのようで、韓織からおりのようで、――やっぱり、此より外にはない、清らかな上帛じゃ。
乳母も、遠くなった眼をすがめながら、たとえようのない美しさと、ずっしりとした手あたりを、若い者のように楽しんでは、撫でまわして居た。
二度目の機は、初めの日数のなからであがった。三反の上帛を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげて来た。五反目を織りきると、機に上ることをやめた。そうして、日も夜も、針を動した。
長月の空は、三日の月のほのめき出したのさえ、寒く眺められる。この夜寒に、俤人の肩の白さを思うだけでも、堪えられなかった。
裁ち縫うわざは、あて人の子のする事ではなかった。唯、他人ひとの手に触れさせたくない。こう思う心から、解いては縫い、縫うてはほどきした。うつの幾人にも当る大きなお身に合う衣を、縫うすべを知らなかった。せっかく織り上げた上帛を、裁ったり截ったり、段々布は狭くなって行く。
女たちも、唯姫の手わざを見て居るほかはなかった。何を縫うものとも考え当らぬささやきに、日を暮すばかりである。
其上、日に増し、外は冷えて来る。人々は一日も早く、奈良の御館に帰ることを願うばかりになった。郎女は、暖かい昼、薄暗い廬の中で、うっとりとしていた。その時、語部かたりの尼が歩み寄って来るのを、又まざまざと見たのである。
何を思案遊ばす。壁代かべしろの様に縦横に裁ちついで、其まま身にまとうようになさる外はおざらぬ。それ、ここにひもをつけて、肩の上でくくりあわせれば、昼は衣になりましょう。紐を解き敷いて、折り返しかぶれは、やがて夜のふすまにもなりまする。天竺の行人ぎょうにんたちの僧伽梨そうぎゃりと言うのが、其でおざりまする。早くお縫いあそばされ。
だが、気がつくと、やはり昼の夢を見て居たのだ。裁ちきった布を綴り合せて縫い初めると、二日もたたぬ間に、大きな一面の綴りの上帛はたが出来あがった。
郎女いらつめ様は、月ごろかかって、唯の壁代かべしろをお織りなされた。
あったら 惜しやの。
はりが抜けたように、若人たちが声を落して言うて居る時、姫は悲しみながら、次の営みを考えて居た。
「これでは、あまり寒々としている。もがりの庭のひつぎにかけるひしきもの―喪氈―、とやら言うものと、見た目にかわりはあるまい。」

もう、世の人の心はさかしくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、しんをうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だったなど言う話が、どの村でも、笑いばなしのように言われるような世の中になって居た。当麻語部たぎまのかたりべおむななども、都の※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうの、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、たちまち違った氏の語部なるが故に、追い退けられたのであった。
そう言う聴きてを見あてた刹那せつなに、持った執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又廬堂いおりどうに近い木立ちの陰でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向ってする、ひとり語りは続けられて居た。
今年八月、当麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされたあの時こそ、再おのが世が来た、とほくそ笑みをした――が、氏の神祭りにも、語部をしょうじて、神語りを語らそうともせられなかった。ひきついであった、勅使の参向の節にも、呼び出されて、当麻氏の古物語りを奏上せい、と仰せられるか、と思うて居た予期あらましも、空頼みになった。
此はもう、自身や、自身のおやたちが、長く覚え伝え、語りついで来た間、こうした事に行き逢おうとは、考えもつかなかった時代ときよが来たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放やらわれている気がして、唯驚くばかりであった。たのしみを失いきった語部の古婆は、もう飯を喰べても、味は失うてしまった。水を飲んでも、口をついて、独り語りが囈語うわごとのように出るばかりになった。
秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来たうばは、知る限りの物語りを、しゃべりつづけて死のう、と言う腹をきめた。そうして、郎女の耳に近い処をところをともとめて、さまよい歩くようになった。

郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色えのぐの数々を思い出した。其を思いついたのは、夜であった。今から、横佩墻内よこはきかきつけつけて、彩色を持ってかえれ、と命ぜられたのは、女の中に、唯一人残って居た長老おとなである。ついしか、こんな言いつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちはまた、何か事の起るのではないか、とおどおどして居た。だが、身狭乳母むさのちおもの計いで、長老は渋々、夜道を、奈良へ向って急いだ。
あくる日、絵具の届けられた時、姫の声ははなやいで、興奮はやりかに響いた。
女たちの噂した所の、袈裟けさえば、五十条の大衣だいえとも言うべき、藕糸ぐうし上帛はたの上に、郎女の目はじっとすわって居た。やがて筆は、たのしげにとり上げられた。線描すみがきなしに、うちつけに絵具を塗り進めた。美しい彩画たみえは、七色八色の虹のように、郎女の目の前に、輝き増して行く。
姫は、緑青を盛って、層々うち重る楼閣伽藍がらんの屋根を表した。数多い柱や、廊の立ち続く姿が、目赫めかがやくばかり、朱でみあげられた。むらむらとたなびくものは、紺青の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、画きおろされた、雲の上には金泥こんでいの光り輝くもやが、漂いはじめた。姫の命を搾るまでの念力が、筆のままに動いて居る。やがて金色こんじきの雲気は、次第に凝り成して、照り充ちた色身しきしん――うつの人とも見えぬ尊い姿があらわれた。
郎女は唯、先の日見た、万法蔵院のゆうべの幻を、筆に追うて居るばかりである。堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であった。だが、彩画の上に湧き上った宮殿くうでん楼閣は、兜率天宮とそつてんぐうのたたずまいさながらであった。しかも、其四十九重の宝宮の内院に現れた尊者の相好そうごうは、あの夕、近々と目に見たおもかげびとの姿を、心にめて描き顕したばかりであった。
刀自とじ・若人たちは、一刻一刻、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞に、唯見呆けて居るばかりであった。
郎女が、筆をおいて、にこやかなえまいを、まろ跪坐ついいる此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消えるきわに、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、あるわけはなかった。
姫の俤びとに貸す為の衣に描いた絵様えようは、そのまま曼陀羅まんだらすがたを具えて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うちまもる画面には、見る見る、数千地涌すせんじゆ菩薩ぼさつの姿が、浮き出て来た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐいかも知れぬ。

底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第廿四巻」中央公論社
   1967(昭和42)年10月25日発行
初出:「日本評論 第十四巻第一号〜三号」
   1939(昭和14)年1月〜3月
初収単行本:「死者の書」青磁社
   1943(昭和18)年9月
※誤植と組み体裁の誤りが疑われる箇所は、底本の親本を参照して修正しました。
入力:kompass
校正:米田進
2003年12月27日作成
2012年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。