去年の十月、私は或る雑誌社の委嘱によつて、戦乱の地北支那の一部を訪れた。
 塘沽に上陸し、天津から飛行機で保定へ、それから貨物列車で石家荘まで行き、引つ返して北京へ、そこで二三日滞在して、陸路大連へ廻り、船で帰つて来た。往復をいれて三週間といふ慌ただしい旅行ではあつたが、私としては、得難い経験であり、また、深く考ふべき多くの問題を拾つた。
 この旅行を通じての印象は、「北支日本色」と題する文章で既に読んで下さつた方もあるだらうが、それで書き漏らしたことを少し補つてみよう。
 先づ第一に、戦禍に見舞はれた都市乃至村落といふものが、如何に惨澹たるものか、これは自分の眼で見ない限り、恐らく想像もつかぬであらう。それは、単に、家屋が崩れ、人影がさびれ、鉄兜や銃剣が、そここゝに散らばり、ぷすぷすと何かゞ燃えてゐる、あの不気味な光景ばかりではない。占領後二三日もたてば、一度避難した住民は何処からともなくぽつりぽつりと帰つて来て、自分の家が無事と知れば、ほつと胸なでおろして、裏口からおそるおそる中をのぞいてみる。卓子が倒れてゐれば、そいつをおこす。椅子がどこかへ持ち去られてゐる。土間はべとべとしてゐる。背負つてゐる重い包を下におろす。外を通る靴音に耳を澄ます。
 日本軍は決して良民に危害を加へるやうなことはないと、たつた今、助役さんに云ひ聞かされたばかりである。しかし、それを信じるには骨が折れる。試しに、女房と子供は山の中へ隠しておいて、自分たち、男だけでやつて来たのである。隣りでも、ごそごそ庭を片づける音がする。
 ついこの間まで「打倒日本」を叫んで廻つてゐた保安隊の一人が、もう、腕に日の丸の印をつけて、「みんな役場に集れ。仕事をやるぞ」とふれ歩いてゐる。表へ出る時は、旗を持つて出なければならぬ。敗残兵や便衣隊と間違へられては大変だ。一人では心細いからお隣を誘つて行かう。
 めいめいは、さうして、その日から、宣撫斑の指図に従つて、応分の賃銀を稼ぐことができるのである。
 北支の黎明は、この不安と恐怖の黒色を次第に安堵と希望の明色に塗りかへつゝあることは事実である。
 たゞ、私は、これら支那民衆の表情にくらべて、同じ戦ひを戦ひながら、未だひと度も敵軍の侵入に遇はず、砲弾のうなりを聞かない日本内地の同胞の、世にも恵まれた運命を想ひ、拝跪して天の恩を謝したい気持で胸がいつぱいであつた。
 次に、北京で一番不思議に感じたことは、この一見平和な都が、幾度も動乱の中心になつたといふことである。
 いくぶん事変色を呈してゐるのは、北京飯店といふホテルの内部だけで、街へ出てみると、住民は何事もないやうな平静な顔をして、ゆつたりとアカシヤの並木の下を歩いてゐる。
 市場は賑ひ、劇場は満員である。
 戦敗国の悲しみも焦慮も、往き合ふ人々の表情からは読むことができない。
 北京人は、それほど「戦争」に馴れ、勝敗に超然とし、自己の生活と国家の運命とを切り離して考へ得るのであらうか?
 この疑問に、「然り」と答へるものもあり、「否、君は表面だけしか見てゐない」と答へるものもあつた。
 ともかくも、北京は、美しい都である。古都といふ名の、これほどよく似合ふ都は、世界に二つとはあるまい。
 そして、それを誰よりも誇りにしてゐるのは北京人なのである。彼等は、北京を愛し、豊かな伝統を守り、この伝統の力強い生命を信じてゐるかのやうである。それゆえ、彼等は、外敵を恐れない。武力の優越は百年の覇を称へるであらうが、文化の根は、千年の実を結ぶと空嘯くのである。三年や十年敗け続けることは、決して敗けたことにはならぬといふ考へ方が北京人に限らず、支那式の考へ方であるらしい。
 この自尊心は、ちよつと日本人には歯が立たぬと思はれる。従つて、現に敗け戦さを続けながら、支那人の一人一人は、少くとも、支那人としての自覚をもつた人間は、自分らを戦敗国民だなどとは夢にも思つてゐないかも知れぬ。逃げても勝つたと吹聴するのは、必ずしも、逆宣伝だとばかりは云へないやうな気がするくらゐである。してみると、今度の事変の終末も、彼等は「降参した」といふ言葉は使はずに、子供たちの遊戯のやうにこんな風に合図をするであらう――「もうようしたツと」。
 ところで、日本人はどうかといふと、それでは承知すまい。なんでもかんでも、「降参」と云はせるであらう。頭を三度地べたにすりつけろと注文するであらう。
 この種の強制は、今日の日本人の癖であり、流儀である。相手がちやんとそれをするまで、「勝つた、勝つた」と、その眼の前で絶叫し、乱舞し、どうかすると、相手の頸筋を押へ、肩を小突き、とうたう、足がらをかけてぶつ倒すのである。
 正義日本の名に於て、弱者を辱かしめざらんことを!
 中華国民の自尊心は、文化の奴隷たることである。

底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「専売 第三〇七号」
   1938(昭和13)年3月1日
初出:「専売 第三〇七号」
   1938(昭和13)年3月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
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