子供のころ、故郷といふ課題で作文を作つたことを覚えてゐる。しかし、どんなことをどんな風に書いたかは一字一句も覚えてゐない。恐らく、「故郷とは懐しいものであり、その山も川も、野も林も、父母の笑顔の如く、われらにとつて忘れ難きものである」といふやうなことを書いたのであらう。
 私は今でも、よく人から「お国は?」と訊かれ、訊かれるたびに、なにか妙にこだはつた気持で、「両親は紀州の生れです」と答へることにしてゐるが、自分が紀州人であるといふことが、なぜか、事実に遠いやうな気がするのである。
 これは無論、第一に、自分が東京で生れ、東京で育つたことに原因してゐると思ふ。七、八歳のころ、夏であつたか、父に連れられて、一週間ばかり和歌山市駕町といふところに祖父を見舞つたのを最初として、その後今日まで、たつた二度、それも一日か二日の滞在で、同じ町の母方の伯父を訪ねたのが、自分のこの土地に対する全交渉である。
 しかし、世間にはかういふ種類の人間が随分多く、なかには生れてからまつたく、郷里の土を踏んだことのない人々も珍らしくないだらうが、さういふ連中が、やはりどこか、その風貌において、その気質において、一種の郷土的特色をもつてゐることに気づくと、私は、自分の場合においてのみ、それが例外であるとは信じられない。現に私の声を聞いて、紀州人の声だといつたものがあるくらゐだ。
 遠い祖先のことは暫らく措き、現に私の祖父母並に両親はいづれも和歌山市の生れで、父は若年にしていはゆる学笈を負うて都に出た組であるから、ストリンドベリイ的懐疑思想を交へさへしなければ、私の血液は紛れもなく、紀州人のそれを受けついでゐると信じられるのである。
 その上、もう物故した父の方は、それほどでもなかつたが、母の方は今日でもなほお国弁の頑固な保有者で、長く家庭にあつた私の弟妹どもは、知らず識らず、日常の言葉のはしばしにその影響を受けてゐるといふ有様だ。
 一方、さういふ関係から、私は今日まで、比較的多くの紀州人に接してゐる。また、はじめて会つた人間でも、それが紀州人であるといふことがわかると、やはり、それだけで特殊の興味をもつやうに習慣が養はれてゐるのである。さうだとすると、これでもうやや紀州人たる資格を備へてゐることになるのだが、さて、最後の一点で、私は、恐らく、その資格の重要な部分を失つてゐるやうに思はれる。それは、つまり、私の眼が紀州人に向けられる時、あまりに隔たりをおきすぎるといふことである。
 だがかういふ傾向は、決して昔からあつたのでなく、私が、文学をやり始め、殊に、作家生活にはひつてから著しく現はれて来たもので、翻つて考へると、文学の地方性といふ問題に触れる機会が、近来、ますます多くなつたからだらうと思ふ。
 さういへば、日本の文壇では、各作家の個人研究があまり行はれず、自然、それぞれの作家が、その作品の中に、どれほど「郷土的」なものを盛つてゐるか、その作品のどういふところに、その作家の「何国人」たる特色が現はれてゐるかといふやうな問題は、殆んど顧みられないやうであるが、仮に今、フランス文学についてみれば、所謂「郷土主義的」作品は別としても、多くの作品について、それぞれ興味ある「血統」の研究が行はれてをり、作品を通じての思想感情、乃至色調の特異性を、屡々ある「地方精神」の発露と見る批評形式が採用されてゐるのである。
 これは、実際、当然のことで、例へば英文学と仏文学との比較は今日立派な学問の域にまで進んでをり、外国文学の研究は、勢ひ自国の文学との対照にまで発展しなければならぬのであつて、私の考へでは、その先駆をなすものが、一国内における各地方、各州の文学的生産を、一種の「気質」に本づいて検討する「好事家的」試みではないかと思ふのである。
 しかしまあ、かういふ議論はさて措き、私は、他人のなかに「紀州」を発見し得る修業がややできかけたと同時に、自分のなかの「紀州」もまた、それに共通するところがなければならぬと思ひ、ひそかに自己分析をやつてみることがある。
 いふまでもなく、同じ紀州人にも、またいろいろ型があつて、先天的にも、後天的にもそれぞれの個性を発揮してゐるのだから、十把ひとからげに論じるなどは無謀の極みであるが、紀州人には、かういふ型の人物が多いとはいひきれるし、また、ある人物のかういふところは紀州人らしいともいへるのである。
 私の観るところ、彼等は、表面的に明るさうに見えても、裡に必ず暗いものを蔵し、熱情家らしく思はれても、底は冷たく静まり返つてゐるのである。
 彼等は極端に「自我」を尊重する。平たくいへば「我が強い」のである。また往々利己主義者にさへ見えるが、その「自我」はしかし、それ以上の目的と結びついて一種の反抗的色彩を帯び、思想的には革命主義を、生活的には進取的、野心的な道を選ぶのである。
 彼等は甚だ社交的に見える場合もあるが、その実、極端な「人嫌ひ」であることが多く、動もすれば孤独感を楽しむ風がある。
 彼等は、概して執着性に乏しい。ある時は諦めが早く、ある時は移り気である。
 彼等は、親愛の感情を現はすことに吝である。従つて「人懐つこく」ない。
 彼等の感受性は、どちらかといへば鋭敏であるが、決して素直ではない。時としては病的である。しかも、その想像力はやや偏奇的で、過剰の気味を呈し、そこから人のしないことをしようといふ天邪鬼的性向と、誰にも出来ないことをしようといふ冒険的精神と、更に、人の思ひつかない推断を敢てする妄想症が発生し、そして常に物の裏書に意をくばる皮肉な習癖が附き纏ふ。
 ただ、その感受性には独特の粘り強さがあり、従つて、禁慾主義的とさへ思はれる忍苦の趣味的傾向が生れる。
 彼等には、神経性粘液質とでも名づくべき人物が多く、殆ど内攻する癇癪の持主である。癇癪が外に爆発せず、内に食ひ入る性分である。
 以上の諸点を綜合して、彼等に共通のものは、かの潜在的憂鬱性であり、発作的放浪性である。
 さて、多少の独断は許してもらふとして、私の観察は、凡そ以上のやうなことを私に教へたのであるが、これを文学にもつて来るとまた面白い結論が引き出せさうだ。
 断つておくが、私の書くものなどは、凡そかういふ見方をするためには不純極まるもので、紀州人としての素質は、他の様々な夾雑物によつて覆はれ、歪められてゐるに相違ないけれど、佐藤春夫氏の作品などについて、将来この種の研究を進めて行けば面白くはないかと思ふ。またこれを文学的に観れば、更に別な「紀州色」を附け加へなければなるまいとも思つてゐる。私は個人的に佐藤氏をよく識らないのだし、むろん、前に述べたやうな箇条を、人としての同氏に当てはめてみたことなどは一度もない。まして、私の貧弱な論断が、多くの例外をまで含めることのできないのは、遺憾ながら已むを得ない。
 おまけに、私の知つてゐる紀州は、和歌山市の一部と和歌の浦の一隅である。有名な蜜柑畑も、紀ノ川も、高野山も、粉河寺も、熊野の浦も、綿ネル工場も、なにもかも観たこともないのである。
 私のところへ遊びに来る新進劇作家阪中正夫君は、粉河に近い、紀ノ川のほとりの生れだと聞いてゐるが、彼は、少くとも、その人物からいつて、私のこしらへ上げた「型」にそのままはひる人物ではなく、聊か心外なのであるが、結局、私の見聞がまだ狭いのか、彼の「生れつき」が余程異例に属するのか、その辺のところもまだ突き留めてはみないのである。ただ、彼の作品は、文壇の一部では既に認められてゐる通り、紀州の「憂鬱」を自然詩人の巧まない諧調に託し、一種底冷えのやうな冷たさを南国的湿気の中に漂はすもので、その感受性の豊富さ、殊にその脆きまでの鋭さは、たしかに「紀州的」なあるものを感じさせるといつていい。
 話が少しわき道へそれるが、私の代になつて、系図からいへば、恐らく久し振りで他国人を血統の中に交へたことになるのであらう。私の娘二人は、山陰伯耆の流れを汲むことになつた。家内は米子の産である。かういふのをやはり雑婚といへるなら、欧洲あたりの例に見ても、これは必ずしも悪い結果は生まないだらうとも考へられる。種族は互に混り合ふほどよいといふ説もあるくらゐで、ただ、さうなると、文学などの上で、作家の郷土的穿鑿がやや面倒になるだけである。かのエドモン・ロスタンの作品は、可なり「スペイン的」色彩が濃厚であるといふので、ある批評家は遂に、彼の母方の祖母がスペイン人であつたといふ事実を指摘するに至つたのだが、これなどは、大手柄である。
 何れにしても、故郷をもちながら、その故郷に馴染が薄いといふことは、考へようによつて不幸でもあるが、また、一方からいへばさういふ人間もあつて、その郷土が郷土以上に拡がりを持つことにもなるのである。私が郷里を愛するその愛し方は、恐らく、紀州に生れ、そこに育つた人々のそれとは似ても似つかぬものだらうと思ふが、それはそれでまたなにか紀州の役にたつことがあるかもしれない。(一九三二・一)

底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
   1936(昭和11)年11月15日発行
初出:「大阪朝日新聞」
   1932(昭和7)年1月16、17日
※初出時の表題は、「紀州人」「文学の地方性――「紀州人」について(二)」
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
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