かういふ場所で私事わたくしごとを語ることは、由来、私の最も好まぬところである。如何なる理由があらうとも、誰がどう勧めようとも、私は今日までその気持を押し通して来た。従つて、小説の形ですらも、「私」の身辺を題材とすることは、それがたとへ現代文学の主潮であらうとなからうと、私は頑として享け容れなかつたのである。
 ところが、去年は母の死に遭ひ、今年はまた妻を喪つて、私の生活は激しく揺り動かされ、「家」といふものの存在がはつきり私の全体につながつてゐる事を痛感させられた。それはやがて、私のこれからの仕事にも影響し、また、世の中を観る眼をもかへさせるだらうと思ふほどである。私がこれから、いくぶんの勇気をもつて語らねばならぬ「私事」は、いはゆる私一個に関することではなくて、おそらく万人に共通の問題であり、殊に、この時代に日本に生れ育つたものの、ひとしく身をもつて経験し、または、するであらういろいろな事実を含んでゐる筈である。
 さて、私の母は、七十七歳の長寿を全うして世を去つたのであるから、云はゞこれは自然の順序であり、特に異常な衝撃を受けるといふやうなこともなかつたけれども、妻は、結婚後十五年、病床にあること半歳、私が医師から危険の宣告をうけて僅か三日後に、四十年の短い生涯を終つたのである。
「死」といふ運命についてだけ考へると、その死にかたによつて著しく意味は違ふにせよ、今や、何人もわが身に近い一人の死をいたづらに嘆き悲しむ時ではない。それゆゑ、私は決して、妻の死を悲しむ、その悲しみを人に訴へようなどとは毛頭考へてゐない。
 私はたゞ、世の常の夫として、「妻」なるものの全貌を、その死とともにはじめて胸中に描き得たことを識り、驚きをもつて、彼女の生前の日常を想ひ浮べてゐる。私の記憶をこまごまと喚びさますものは、妻が折ふしに、気の向くまゝに書きしるしたと思はれる日記風のノートの断片である。もちろん、公表すべき性質のものではなく、私にさへ読まれたくはないものと察せられるが、それが偶然私の眼に触れるやうなことになつたのである。一作家の妻として、繋累の多い家庭の主婦として、二人の娘の母として、彼女がどういふ重荷を背負ひ、どんな疑ひを疑ひ、どんな憂ひを憂へたかといふことが、走り書きの文字の間にありありと読みとれる。そして、その印象は、私の個人的な感情をゆすぶるばかりでなく、なにかもつと広く、もつと厳粛なものとして響くやうに思はれてしやうがない。
 結婚前の日記がわりに細かく、丹念に続けられてゐるのに反し、結婚後は、ずつと飛びとびに、それも心覚えの程度にしかつけられてゐないのも、私にはうなづかれる。
 かうして、妻の日記を手がかりに、私は、一人の女の生涯について考へはじめた。
 家内の葬儀をすましたあとの、私および私一家の空虚と照しあはせて、彼女の存在の意味が日一日と強く心に感じられるにつけても、私は彼女の死を機縁として、この重大な時代を生きつゝある日本の女性に、なにか言はねばならぬことがあると信ずるに至つたのである。

 私たちは、どちらかといふと晩婚の方であつた。家内が二十六、私は三十七であつた。夫婦といふもののねうちは、二人がつくる歴史の重みにあるのだと私はかねがね思つてゐる。従つて、一緒に暮した年月の長いこと、ことに結婚前よりも結婚後の生活経験の方が豊かであることは、夫婦をして真の夫婦たらしめる根本的条件の一つである。私たちの家庭生活において、私はともかく、家内が一番気を遣つてゐたと思はれることは、早く、共通の流儀を発見したいといふことであつた。それといふのが、さて一緒になつてみると、めいめいに、いはゆる「自由」の名において書生流の好みと習慣とを身につけ、それを無意識にではあるが相手に押しつけようとするところがあつた。この傾向に対して、これではいかぬといふことに気づき、早く云へば、夫唱婦随の真精神をつとに実行に遷さうと努力したのは彼女であつた。
 大正末期から昭和の初頭にかけての社会的風潮は、女性の思想的立場をも著しく動揺させた。当時の女書生気質とでもいふべきものは、今日からみると、よほど特色があるやうに思はれる。女性の解放とか自覚とかいふことが大いに叫ばれ、叫ばれるのみならず、社会的現象として幾多の実例が示された。イプセンの「人形の家」が日本の家庭の出来事としても受けとられさうな気勢を示す一方、婦人参政権運動が大いに同志を集め、産児制限の主張とか、友愛結婚の提唱とかが話題として巷を流れたのは別として、女子の高等教育が世論の賛否に拘はらず着々普及しはじめ、東京帝国大学も遂に女子聴講生の制度を設けるに至つた。
 女性と雖も、その上、左翼思想の流行に無関心ではゐられず、アメリカニズムの宣伝に耳を傾けないわけにいかぬといふ始末である。
 かういふ雰囲気のなかで成長した一日本女性の精神の歴史を、私は明らかに家内の結婚前の日記にみる。
 この時代の波に乗りきれぬ何かが、彼女の稟質のなかにあり、しかも、彼女は、おぼろげな夢を抱いて前へ進まうとしたのである。そこには、理性と感情との分裂がなくはない。けれども、それ以上に、現実と空想との織り交つたある種の少女に特有な心的生活の風景があるやうに思ふ。
 彼女は二十四まで学生生活をしつゞけたのであるが、むろん時代の影響のほかに、それは本郷西片町に住んでゐたといふ関係もあり、近しい友人の示唆もあるにはあつたであらう。しかし、なによりも、私は、彼女が両親と共に山陰の田舎町から東京に出て来て、見知らぬ周囲のなかで、さゝやかな移住者の生活をしてゐたといふところに大きな原因があると思ふ。彼女は、おそらく、自らたのむところのものを、自分の身にしつかりつけたかつたのである。学問そのものを好むといふよりも、学問に親しむといふことこそ、彼女の憧れであつたと云つてもいゝ。
 いはゆる知識婦人の矯激と軽薄から彼女を救つたのは、質実剛直な両親の気風だつたと私は確信する。
 たびたび私は彼女の自尊心の現れかたについて観察した。多少意地のわるい見方かも知れぬが、彼女は決して故らに謙遜したり、うかつに自己吹聴をしたりせぬだけの自負心をもつてゐた。社会的地位の上下などで相手を遇するやうなことは絶対にせず、女中には必ず「さん」づけをするといふやうなやり方にもそれが現れてゐた。夫の私などに対しても、世間の多くの細君よりも丁寧な言葉遣ひをしたが、これも、それによつて、女としての品位を保たうとする心掛けのやうにみえた。
 ところで、彼女の自尊心を甚だ傷けるやうなことが、家庭の雑用のなかには多い。それをやることがさうなのではなく、それがうまくやれないことがさうなのである。手先が器用でないといふ云ひ逃れをしばしば聞いたけれども、それよりも、娘時代になんでもなくさういふ仕事の訓練を受けてしまはなかつたからである。
 この種のことはうまくやれなくつたつてそんなに不名誉にならぬといふやうな考へは、或は結婚当初にはあつたかもしれぬが、だんだんさうでないことがわかつて来たとみえて、よほどいまいましさうであり、別に色にはみせないが、一生懸命の様子でそれが察せられた。それをまた、私が、時によるとそばから、そんな簡単な、女ならちよこちよこつと眼をつぶつてゐても出来るやうなことを、さう大童おほわらはになつてなどと口を出す。冷やかすだけならいゝが、多少は小言めく。いや味になることすらある。らかつたらうと思ふ。が、このことばかりは、彼女が、日記のなかで、しみじみ後悔の言葉として書き綴つてゐる。

 今、私のそばにその彼女がゐなくなつたといふことは、彼女が実は、私のために、娘たちのために、すべてをしてゐたといふことをはつきり私に教へるのである。
 彼女がどつと寝ついてから、私たち一家のものは、それこそ多少の不自由を忍ばなければならなかつたが、しかし、彼女がまだそこにゐるといふだけで、つまり、何ひとつ相談をしたり指図を受けたりしなくても、彼女の姿をそこに見、彼女の心をそこに感じるだけで、十分に「家」はその機能を働かし続けてゐたのである。ところが、彼女の死は、彼女の生命の終りであるのみならず、この「家」の永久の沈黙とでも云ひたいやうな、底知れぬ打撃を見舞つた。私は幼い二人の娘を前にして、彼女らの母の面影をはかなく手ぐりよせ、言葉しづかに云ひきかせる――
「お前たちは、お母さんが、かうなつてほしいと思つてゐたやうな娘にならなければいけないよ。それがお前たちのお母さんへのつとめだ」
 私は、少しの不安もなく、かう云ふことができた。

 去年の暮、彼女はもうすでに、少からぬ疲れをみせ、風邪をこじらせたと云つて、咳をしつゞけてゐたが、かの十二月八日のラジオの前で、そこへ起きて行つた私を見すゑながら、やゝ興奮した調子で、「たうとうはじまりましたわ。ラジオ、お聴きになつたら」と云つた。
 二月にはもう床から起きあがれなくなつてゐた。マレイ沖でプリンス・オヴ・ウェールスが沈められたあの報道を聞いて彼女は涙を流した。
 熱がいくら高くても、新聞にだけは自分で眼を通さなければ承知しなかつたといふことを、後から看護婦が白状した。私がそれを止めてゐたからである。呼吸いきを引きとるその日も、しびれの来た手を重たげに扱ひながら、朝の化粧をすませ、新聞の一面へざつと眼を配る動作を私は黙つて見戍みまもつてゐた。
 ソロモン海戦の華々しいニュースは、彼女の死の床の上に伝はつたのであつた。
 五十日祭の当日、私は、ひとり書斎で親戚の集るのを待つ間、開け放された窓からぼんやり秋日和の庭を眺めてゐた。柄にもなく、こんな歌のやうなものがひとりでに出来た。

えびすらの
稜威高しと仰ぐ日を
待たで去りにし
わが妻あはれ

妻逝きて早や五十日
木犀の
かをれる庭も荒野のごとし

 もうなにも書くことがないやうな気もするが、日記をめくつてゐると、また言ひたいことが出て来るかも知れない。

大正十年九月十六日
今日は十五夜だ。
御飯がすんだ頃月が登りきつた。黄色い光を含んだ灰銀色の雲が空の方にちらばつてゐた。月は円くて――当り前だが――よく光つた。が、磨いたやうとは云へなかつた。時々雲がその上を渡つた。私は何かしら祈りたい気持になつた。私は黙つて手を合せた。母が手も洗はないでをがむなんて、と笑つた。私は見られたと思つて一寸変な気がしたが、やはり祈りたい気持は私の全身を奇異なもので充した。私は手を洗つた。口をすゝいだ。そして裏口で手を合せた。
月を見つめた。
何を祈りたいのか、私は知らなかつた。
私は考へながら
「どうぞいつまでも永久にわかくゐられますやうに。どうぞ強く生きられますやうに。どうぞ私のなかにある芸術のつぼみが大きく生々とひらきますやうに。」
と、口の中でくり返した。
けれども、祈りたいものは、最も祈りたいものは、こんなことではないことを私は知つてゐた。
けれどもそれが何であつたかは、私はたうとうつかまへられなかつた。
さびしい気がした。
十二時過ぎ。
何といふさびしさだ。今から、十九年十一ヶ月といふ子供の時代から、そんなにさびしがつていゝものか。いゝもわるいもない。さびしいんだからしかたがない。

昭和十七年七月二十七日
つよきものわけて心をひく日なり満庭を灼く日に見とれをり
夜、月光。

七月二十八日
木々の葉はあやしく黄なる花となりぬ曙の日の雲をやぶれば

翼賛会をやめてほつとした彼の顔。
ご苦労さま。そして、私がこんな風で、なんにもできなかつたこと、ごめんなさい。のうのうと休ませてあげたい。痛いところがあればさすつてもあげたい。しかし、家にゐて、あれこれと気をつかふのは彼。お国のためといふ言葉が、こんなに身近な言葉だとはつい知らなかつた。なにかしら、得意と安心。だが、私も疲れた。

七月二十九日
親類に行きし娘らみそぱんをもらひ帰りぬ昔なつかし
娘らよわれおんみより小さかりきかの教場にみそぱんみし
暑い。ガラス鉢の熱帯魚が羨しい。夕食後、冷い林檎を噛みながら、ふとはげしい懐疑に襲はれはじめた。かういふ世に、自分のやうな女が一番無用なのではないかと、世間に対しさうであり、夫や子供の世話にかけても不器用で、また若いときの苦労、仕込の足りない女。
私の愛は夫を幸福にするやうなものであつたかどうか。

七月三十日
お灸とは少しおどけしものならむ病気をまじめに思はずなりぬ

七月三十一日
お向ひの野口さん重態の由。衿子たちはおその小母さんに頼まれ竜ちやんのお守りをしてあげる。
子供の水泳着のことを心配したり、病人のお菜のことで女中にあれこれと云ひつけたりしてゐるとき、ふと「仕事」が彼の頭にかへつて来る。俄然、彼は夢から覚めたやうになり、落着きを失ふ。
家族の世話をやく時、彼の注意は綿密をきはめ、そのため何かいたましい感じすら感じさせる。彼が一日でも二日でも家をはなれ、都会を離れ、ぼんやりしたり、勝手放題なことを考へたりできればと、私はどんなにかのぞむのだが、さて彼が留守になると、やつぱり不安なのである。
不意に「瞬間」がやつて来ることはないか。その「瞬間」の感じをせめて眼でなりと彼に語りたいのだ。

八月一日
真理子さんが上海の浴衣地を仕立てて持つて来て下すつた。ヨットや浮袋がついてゐる。海に行つた気分だけでも味はつてくれとのこと。また泣きさうになる。
暁暗の紀淡海峡にほのぼのと浮べる真帆も思ひいでつゝ
モーターボート浪をま白く切りて行くかの爽快も幾年知らず
ゴーギャンの描きしタヒチ思ふかな浴衣の船を眺めてあれば
白き帆の風にはためく音すなりいざ行け小舟わが夢のせて

八月十一日
白雲の空をおほひて湧き湧くを一と日ながめてつひに飽かざり
火てふものの生にかゝはる因縁を思ひみるかな灸をすゑつゝ

八月十五日
菅原さん来訪。お花を下すつた。紅をさしたやうな百合、薄紫の刷毛のやうな花、菊、りんだう。

 日記はこゝで終つてゐる。
 八月十七日、あの雷雨の夜、容体が急変して、一週間の後、遂に呼吸いきをひきとつた。
 かうして、二十年の間を隔てた日記の断片を二つ拾つてみると、私には、彼女の生涯といふものが、なにか満たされないまゝに終つたやうな気がしてならぬ。
「満たされる」とはどういふことか。それは結局生き方の問題である。彼女が私との結婚生活に「あるもの」を求めてゐたことはわかるが、それが、私に云はせると、すべて結婚生活に求むべきものであつたかどうか、大いに疑問があるのである。
 家庭生活が女の生活の全部だとする説に私は必ずしも同意するものではない。女はまづ母でなければならぬといふ意味に於てさへも、私は、母といふものを一家族が独占すべきものではないと信じてゐる。
 家は生命の根幹であり、生活の基盤であつて、そこから人間のあらゆる営みが発動するのである。「家」は「家」としての一つの目的をもつけれども、目的そのものではない。家は家としての理想を、夢をもつ。しかし、家は理想でも夢でもないのである。
「家」の現実は、女を往々にして、がんじがらめにする。現実は、これと闘ふべきではなく、これを処理すべきものである。勇気よりも忍耐が必要である。知識よりも技術、技術よりも単なるコツが物を云ふ。
 一切の浪漫主義は「家」の外にある。家は浪漫主義者をも排斥しはしない。しかし翼をひろげさせない。少しの空想も、そこでは息苦しい。愛といふものに若し貪婪な性質があるなら、そこでは、妻は夫から、夫は妻から愛されてゐるとさへ思へないのである。

 家内の死によつて、私は、彼女の存在が明らかに私を左右してゐたことを知つた。言ひ換へれば、彼女がなんのために私のそばにゐたかといふことがよくわかつた。
 私はいちいち家内と相談をして内外の事を運ぶといふ方ではなかつた。それにも拘はらず、彼女ゆゑに、為し、彼女ゆゑに為さなかつたことのいかに多いかに、今、驚いてゐる。いつの頃からか、ずゐぶん若い頃から、私は自分の幸福といふやうなことを考へる習慣をなくしてゐる。しかし、家内の幸福といふことだけは、結婚以来、念頭を去つたことはない。なんらの見栄もなく云ふが、ある時期には、家内の幸福のために、彼女さへそれを望めば、いつそ実家へ返さうかと思つたことさへある。
 家内は日記にその当時のことを書きつけてゐるが、それを本気にしてゐない様子である。彼女には、さういふ私がいかにも冷やかに思はれたらう。今ならば、私もさう思ふ。
 私たちの夫婦生活には、いはゆる危機といふやうなものは一度もなかつたやうに記憶する。二人は十分それを警戒し、それらしいものを意識することさへ恥ぢる気持が明らかにあつた。
 しかし、それが結局、いゝことであつたかどうか、今の私にはわからない。雨降つて地固るといふやうな、さういふ経験を一度も味はない夫婦に、なにか欠けてゐるものがあるとしたら、私たちは正しくその部類に属するであらう。
 家庭の平和といふ言葉が、それほど安易に使へるなら、私たちの生活は平和であつたと云つていゝ。それと同時に、問題にならぬやうな口喧嘩もしなかつたわけではない。それに、私たちは、いづれ劣らず喧嘩ぎらひの方であつたから、つい、喧嘩には身が入らなかつた。をかしいことに、早く冷静をとりもどす競争をするつもりだなと、雲行きの怪しかつた後の彼女をみると、私には思はれるときが多かつた。

 日記を読んでから、家内のその時々の心の動きをはじめて知り得たといふやうなところもあるにはあるが、それよりもやはり結婚前の、それも恐らく誰にものぞかせなかつたらうと思はれる心の秘密の一切を、私が否応なしに聞かされたといふことは、これこそ私にとつて例へやうのない事件である。
 そこには、夫たる私が知つてはならぬことが記されてゐたであらうか。私は敢へて云ふ。知つてはならぬことは何ひとつ記されてはゐない。しかし知らなくてもよいことが、そここゝにいつぱい書きちらしてあつた。
 私は、はじめ、なにか取り返しのつかぬことをした、といふ気がした。私は読むべからざるものを読んだといふ、悔恨に似た苦味を胸ふかく味つた。だが、すこし落ちついて考へてみると、彼女は、特にそれを意識してではないにしろ、私の手に平然として自分一人の過去の歴史を残して行つたのである。それは、彼女が、私との結婚に際しても、なほかつ葬り去るに忍びない歴史として、筐底に納めたまゝ私の許に運んで来たといふことである。
 かくて彼女は、彼女のすべてを私に示し、私に与へた。今、私は彼女の苦しみを、悲しみをわがものとすることができた。彼女の、終生追ひ求め、しかもそれがはかない幻影にすぎなかつたものを、私はやうやくにしてそれと察することができた。日記を通じて、口癖の「淋しさ」は、そこにあり、その淋しさのゆゑに、彼女は身をも心をも瘠せしめたのだと私は思はざるを得ぬ。
 私は、それにしても、この十八世紀的憂悶をそのまゝ是認する気はない。彼女の日常の言動にそれが現はれてゐたならば、私は仮にも容赦はしなかつたであらう。彼女は慎しみ深く私の前にそれを押しかくすことに努めてゐた。
 しかし、彼女の浪漫主義は、自分の鏡にそれが映るほど世紀末的なものではなかつたと、私は一方、彼女にそれをきかせたくもある。
 彼女は大旅行を常に夢み、殊に印度、中央亜細亜或は阿弗利加の奥地に心を惹かれてゐたらしいけれども、横浜から神戸までの僅か一昼夜の海上生活にたわいなく満足し、隣組の問題には驚くほど熱心で、近所の子供たちを集めて音楽会をやらせ、自分がお守役を引きうけるといふ始末である。

昭和十五年二月十一日
昨日は忙しい日だつた。
客、○○○さん。明大新聞の人達三人、文理大の三人。
晩の十時頃になつて○○○○さん。○○さんの媒酌人になれといふのが表向きの用事。
晩いので泊めてあげる。
朝、お雑煮をこしらへる。鶏肉、かまぼこ、松茸、はうれん草、海苔。
食後の話、天孫降臨の地について。政治。釈迢空の歌について。
柳田国男氏の伝説研究について。
二人の愛国の士風の会話。
三時のおやつに蜜柑をやつたら、○に不平をこぼす。因つて、晩に少しばかりお説教をしておく。今の日本人はぎりぎり入用なものだけ、食物なら成長に必要な、生きて行くのに是非必要なものだけで我慢をしなければならないこと。二人ともおとなしく聴いてゐる。
夜、体温七度二分。
チボー家「診察」篇を読みはじめる。
フィリップ博士の素描。

 かういふところへ来ると、私は、彼女の「淋しさ」が「空想の淋しさ」ではなかつたかとさへ思はれるのであるが、それをさうと断言する自信は私にはまだない。
 いづれにせよ、彼女は、次第に結婚生活の現実に順応しつゝあつたことは事実であつて、そこに新しい何ものかを発見したかどうか、それがまた彼女の半生をいくぶんでも生き甲斐あるものとしたかどうか、私にはたゞそれについての希望的判断が許されるだけである。
 疑ひないことは、公私を通じての私の仕事をよく理解し、常に私を励まし、慰めてくれたこと、主婦としての生活の設計に頭を悩ましながら絶えず細かなことが意の如くならず、日々を重荷の如く引きずつて来たといふこと、母としては、愛情の表現について、やゝ懐疑的であつたと思はれるふしがあるけれども、気分にめづらしく晴曇なく、娘たちにとつてこの上もない清らかな「母」の映像を残して行つたに違ひないといふこと、これだけである。

 青春に酔ひ、天才に魅せられ、かくあるべき人生を幻に描いてゐたこの薄命な一人の女の生涯を、私は、それが私の妻であつたがために悲しみ、憐れむものである。
 時代と環境によつて導かれた女性の「教養」の型について、私は今しみじみと「犠牲」といふ言葉に思ひ及んでゐる。
 十五年間、家庭を営むための惨憺たる努力の跡は、すべて彼女としては、日常茶飯の技術の上にあつたといふこと、それは綿密なノートだけではどうにもならぬ感覚の訓練と伝統の反射作用とでも云ふべきものであつたことである。従つてそれはもう絶望的と考へられるほど瑣末な神経の巨大な浪費を意味してゐた。病弱な肉体の過重な負担であつたことは想像に難くない。
 彼女の憩ひと自由とは寧ろ精神の散歩のなかにあつた。しかも、孤独な散歩である。
 地上の幸福は遂に訪れるべくもなかつた。宗教を求めて信仰をかち得ず、自尊の蔭に涼風をあつめて、静かに死を待つた一時を思ふと、私は、泣かざらんとして泣かざるを得ぬのである。
 私は亡き妻の日記が私に教へるところに従ひ、世の若き女性に愬へる。
 日本の女としての、真の幸福とはなにかといふことを、今こそはつきりと自覚しなければならぬ。
 それは第一に、日本の男を男らしく作りあげるといふことにあると私たちは信じる。妻として夫を、母として息子を、主婦として世間の男たちを。
 第二に、それがためには、女は女の本性を最高度に発揮することである。古来、女の「たしなみ」と云はれたものは、日本の歴史が作りだした理想の女の魅力ある映像であつた。
「たしなみ」が「教養」といふ言葉に変つたとき「たしなみ」のもつ「道」としての、即ち、心身一如の訓練による生活の技術的体得が忘れられたのである。
 男子の場合もまつたく同様である。
「たしなみ」は、道徳と技術との綜合の上に描かれた人間生活の軌範であり、また、それぞれの社会的、性的、年齢的条件に応じて示される力と美との活きたすがたであり、信念と叡智と品位との最も巧まざる表象である。
 近代の「教養」も亦、結果としてこれと等しきものを目ざしてゐながら、それは、衣裳の如く身に纏ひ、せいぜい、栄養としてのみ摂取されるに過ぎなかつた。
 道徳は批判に終り、知識は答弁のために用意され、美は自虐的努力と並んだ。心理の分裂と共に、観念と生活との遊離が著しい現象であつたにも拘はらず、誰もがそれに気づかなかつた。
 高邁な思念は弊衣破帽にしか宿らぬと断じたのはまだよいとして、茶の湯や活け花が有閑の手すさびに堕し、何々至上主義といふやうな夢遊病的人生観の横行を新しい世代は歓迎した。
 読書は「教養」のための殆ど唯一の手段と考へられた。考へられたばかりではなく、それは事実であつた。家庭と学校は、子弟の欲するところのものを与へ得ず、特に、何を欲せしむべきかを知らなかつた。雑誌の氾濫は一にその結果であり、活字は活字だけの力で、人間の精神と生活とを支配しようとした。
 教養は新しい「たしなみ」でなければならなかつたのである。さう理解しつゝも、なほかつ修行の場と方法とを持たなかつた近代日本の社会は、あらゆる方面で、かくあるべき日本人の姿を見失はしめた。典型の消滅は、単に、女性ばかりでなく、まつたく青年の不幸であつた。
 かくして、恋愛は情事の色を帯び、結婚は無条件の就職に似たものとなつた。青春は、おのづから輝きを失ひ、夢はいたづらにさびしいのである。
 第三に「女のたしなみ」のうち、わけてもこれからの女性が身につけなければならないのは、家庭の雑用と呼ばれてゐる細々とした仕事を、最も能率的に処理し、しかも、それが目的ではなく、より大きな目的を達するための手段であるといふ、云はゞ綽々たる余裕を保つ技術的錬磨である。
 こゝで注意しなければならないのは、この「目的ではない」といふ意味についてである。それは、機械の整備運転が、そのこと自身、例へば生産活動の領域に於て、純然たる目的とは云ひ難いといふのと同様である。しかし、それは、手段としては絶対なものであり、それなくして生産はあり得ないやうな重大性をもつものである。
 更に、考ふべきは、家事といふことのなかに、出産、育児を含むことである。これは、もはや「目的」と云つてもいゝほどの、大多数の女性にとつて、一種神聖な最後的役割である。
「子供にかまける」毎の、りかまはぬ姿こそ、清く尊いものと云へば云へるであらう。だが、こゝに、私は日本人の不思議な凝結心理をみて、聊か疑問を抱く。いくらあつても足りぬ時間といふのはわかるにはわかるけれども、いくらあつても足りぬやうな時間と労力の使ひ方をしてゐれば、それは、一向褒めたことではないのである。直接に子供のために使ふ時間と労力だけが、子供のためになるのではないといふことを、なぜもつと考へないのであらう。子供のためといふ名分があるだけに、私はとりわけ、さういふ母親に対して感謝をこめた希望を述べたくなる。
「かまける」ことから脱け出る工夫と、その修業こそ、女の「たしなみ」の大切な一項目である。
 何ごとにも「かまけぬ」主婦は、家庭生活を明朗にし、力づける。それがための準備は、ほんたうは、母の膝の上からなされねばならぬと思ふ。しかし、もの心づく娘時代からでも決して遅くはない。
 第四に、いはゆる「高い教養」が女性に何をつけ加へるかといふ問題である。正しい意味の深い教養は、たしかに、心を豊かにし、表情に磨きをかけ、趣味をよくし、智的な作業にも適する女性を作る。しかし、若し、高い教養なるものが、今日までのやうに、学校教育乃至は読書にのみよつて獲られたものを指すのであつたら、それは一般にも云はれるやうに、女性をして、女性の魅力の大部分を失はしめる結果に陥り易い。なぜなら、それは偏食に類するものであり、精神的にビタミンXの欠乏を来し、男子と肩を並べるつもりで、いつの間にか同性の群から落伍してゐるからである。
 男は「男」を磨くことによつて、人間的な高さをほこり得るのである。女も亦「女」を磨くことによつてのみ、人間のくらゐがあがるのだといふことに気づかねばならぬ。
「女」を磨くとは、女の理想的「表現」をもつて、即ち最も洗煉された「女らしさ」によつて人に親愛畏敬の念を起させることである。
「高い教養」がかういふことに役立つなら、それは大いに身につけるがよろしい。しかも、それは、西欧的教養とは別個な伝統の上に築かれた、日本的「たしなみ」の会得と修練なしには、絶対に日本の女のもつ「高い教養」とは云ひ得ぬであらう。
 第五に「たしなみ」を行儀作法とのみ考へるのは大きな間違ひだといふことは云ふまでもないが、特に、女のたしなみとして、私は強靭な肉体の自由な操作と、敢為な気性のしなやかな表現とを新しい時代に求めたいと思ふ。つまり、女性的魅力に凜冽たる一面を必ず附け加へたいのである。
 これはなにも戦時だからと云ふばかりではない。そしてまた、これは決して男の領域へ足を踏み込むことでもない。
 逆に、女は、真に男らしさ男の前では、おのづから「しをらしく」なるものだといふ微妙な心理を忘れてはならぬ。異性間の問題については、あまり立ち入つて云ふべき機会ではないから、これくらゐにしておくが、要するに「武」の精神は、古来、日本婦道の健全な発展のうちには、いろいろなすがたで示されて来てゐるのである。「しとやか」といふことは女性の威儀に外ならぬ。
 男子の側に於て「武の道」が顧みられなくなつた時代、女子の側でのみこれが守られてゐる道理はない。
 しかし、今日、日本の文化は、再び伝統の光被によつて、その本来の面目を取戻さうとしてゐるのである。
「貞節」といふことも、女性の凜々しい一面を発揮したものであるが、それが日常の言動となつて如何に現はされるかといふことを、最近、人々はあまり等閑に附してゐる。日本の女性の「たしなみ」は、こゝにもひとつの大きな課題をもつてゐたのである。見知らぬ男と口を利くその利き方において、女の「たしなみ」に遺憾なくあらはれ、電車の乗り降りひとつで、その女の「貞潔」の程度を知ることができる。不必要な媚態とあまりに繊弱な風姿とは、それだけで既に、備へなき精神の虚を暴露するものである。
 さて、かう述べて来ると、私たちは、かの封建時代の女大学式婦道をそのまゝ礼讃するかのやうに思はれるかも知れぬ。
 決してさうではない。
 封建時代の、仏教乃至儒教の影響を受けた女性観には、多分の非日本的性格と家族制度の末紀的現象を反映した、女性を汚れあるものとし、或は度し難きものとする傾向が見られないことはない。
 女三従説の如きは、趣旨はともかく、表現が寧ろ穏かでないとさへ思はれる。
 事実、男尊女卑は日本の思想ではなく、夫唱婦随の妙諦は、夫の責任と妻の信頼から生れるものであることを、日本の男と女とほど、よくこれを知つてゐるものはないのである。
 嘗てフランスの詩人ジャン・コクトオが、接客の儀礼を鮮やかに身につけた日本婦人の多くをみてこれを「奉仕の女王」と呼んだ。
「女王」の尊称を奉つたのは、威厳、鷹揚さ、気品といふやうなものを特に感じとつたからであらう。言葉はもちろん洒落に過ぎぬけれども、彼の云ひたかつたことはよくわかる気がする。
 服従が若し日本の女の美徳であるとすれば、その服従は、男に委せるべきものを委せる果断と没我の勇気から来るものであると、私は信ずる。それゆゑに、女の服従は男の決意を固めさせ、行為の責任を自覚せしめる力となるのである。
 私は、命ずれば音の響きに応ずるやうな「諾」の返事ほど、夫の心に妻を凜々しく感じさせるものはないと思ふ。まことに、日本の家の深々とした重みである。
 以上で、私たち、即ち私と亡妻との合作になる女性訓を終ることにする。
 家内は幽明を隔てた界から、この原稿を嘗て屡※(二の字点、1-2-22)さうしたやうに、私に読み返してみせるであらう。
 こゝをかうしたらといふ意見も出すであらう。私は笑つて、そのまゝでよろしいと答へる。彼女は従ふであらう。
 あゝ、しかし、彼女の眼に涙が溜つてゐはせぬか。
 私は、堪へ難い彼女への憐憫と作家としての良心にかけて、この一文を敢へて発表する。
 読者は、どうぞ、私の真意を汲んで、素直にこの愚かな告白を聴いていたゞきたい。

底本:「岸田國士全集26」岩波書店
   1991(平成3)年10月8日発行
底本の親本:「婦人公論 第二十八年新年号、二月号」
   1943(昭和18)年1月1日、2月1日発行
初出:「婦人公論 第二十八年新年号、二月号」
   1943(昭和18)年1月1日、2月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年3月1日作成
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