一座の俳優にあてはめて脚本を書くといふことは、なにか不純な要素がはいるのではないかと思ふひともあらうが、別に必然的にさうなるものとは限らない。芝居の制約はそれ以外にもつと大きなところにある。たゞ、すべての芸術がさうであるやうに制約を生かすか、或は制約に緊られるかの問題だと思ふ。制約を生かすといふことは、俳優の例にもある。
「速水女塾」を書くに当つて、私が自分に与へた「註文」はかうである。
一、なるべく文学座の俳優全員に配役が行きわたること。
二、俳優の持ち味とか柄とかにあまり囚はれず、むしろ、個々の俳優の表現能力に応じ、その素質のなかにある新しい領域を開拓させるやうな人物を作りあげること。
三、役の重さの公平は時に無視しても、場面々々の効果を適切ならしめる配役を考へること。
演出は久保田万太郎さんにお願ひすることになつた。岩田豊雄君の発案で私も二重の意味で、それが実現することを望んだ。第一に、久保田さんは当代随一の名演出家である。それゆえ、これ以上安心して委される人は少いこと。第二に、甚だ個人的な興味だが、久保田さんの手にかゝれば、自分の作品の、「弱点」が補強され、それによつて、芝居のいゝ勉強ができるだらうといふこと。久保田さんは、作家としては、ある特殊な好みを強く出す作家であるが、批評家乃至演出家としては、それが芝居といふものに対する厳しく、確かな勘になつてこそをれ、決して狭い見解や趣味に閉じこもつてはゐないのである。久保田さんの劇芸術の根柢には、東西演劇の本質と伝統とが、誰よりも消化吸収されてゐるやうに思はれる。
私の「速水女塾」は、幸ひ、久保田さんの演出といふことになつたが、実をいふと、私は、最善の結果が得られるだらうといふ安心が一方にあると同時に、相当痛いところを突かれ、場合によつて、荒療治を受けるだらうといふ覚悟をしている。「こいつはどうにもならん代物だ」と言はれたら、私はまた、勇気を出して、次の作を見てもらふつもりである。
装置は長いおなじみの伊藤熹朔さんである。いつでも文句を言ひやうのない装置をしてくれる人、こんなに芝居に於ける装置の役割をちやんと心得、こんなにつゝましく輝いている存在はほかに例がない。
音楽であるが、作中の「校歌」の作曲は、早坂文雄さんにといふことにきまつた。紹介するまでもない人であるが、特に、この校歌は「喜劇の中で使はれる」架空の学校の校歌で、諷刺の味を利かせてほしいといふのが作者のひそかな註文である。そんな勝手な芸当が作曲としてできるかどうか、私はたゞ、早坂さんの意味深長な微笑に期待をかけるばかりである。
配役は俳優陣の移動も手つだひ、最初の作者の考へと多少変つたのは当然である。
田村秋子さんがせつかく名誉座員になつてゐるのに、今度は役がなくて出られないのは残念である。機会があつたら、私は秋子さんのためにも、面白い人物を書いてみたいと思つてゐる。