一
 紀州きしうの山奥に、佐次兵衛さじべゑといふ炭焼がありました。五十の時、かみさんに死なれたので、たつた一人子の京内きやうないれて、山の奥の奥に行つて、毎日々々木をつて、それを炭に焼いてゐました。或日あるひの事京内はんな事を言ひ出したのです。
「お父さん、おれアもうんな山奥に居るのはいやだ。今日から里へ帰る。」
「そんな馬鹿ばかを言ふものぢやあ無い。お前が里へ出て行つたなら、俺は一人ぼつちになるぢやないか。」と言つて佐次兵衛は京内をしかりました。
「お父さんは一人でもいや、大人だもの。俺ア子供だから、里へ行つてみんなと鬼ごつこをして遊びたい。」
「そんな気儘きままを言ふものぢや無い。さ、わしと一緒に木を伐りに行かう。」
 佐次兵衛は京内の手を取つて、引張つて行かうとしました。
だ、やだ! お父さんは一人で行け。俺は里へ遊びに行く!」と言つて京内はドン/\と、山路やまみちふもとの方へけて行きました。
「おい、こりや、それは親不幸といふものだぞ!」
「不孝でもコーコーでも宜いや、里へ行つて遊ぶんだ。」
 京内は一生懸命に駈け出したので、佐次兵衛も捨てゝ置けず、お弁当を背負つたまゝ、パタ/\と其の後を追かけました。


    二
 山の上には、大きなくまが木の枝に臥床ねどこを作つて、其所そこで可愛い可愛い黒ちやん=人間なら赤ちやん=を育てゝ居ました。
「さ、オツパイ! オツパイおあがり、賢いね黒ちやん。」
 熊のおツさんは黒ちやんの頭をめてやりました。
「オツパイいやよ。もつと/\おいしいもの頂戴ちやうだいな。」
「オツパイが一番おいしいのよ、ね、駄々だだねないで、さ、おあがり……」
「嫌だつて云ふのに、オツパイなんか飲ませたら、おツ母さんの乳頸ちくびみ切つてやるぞ。」
 熊は黒ちやんでも、なか/\悪口は達者と見えます。
「アイタタ、まあひどいのネは。母ちやんのお乳から、こんなに血が出るぢやないの。」
 おつかさんは、ちよいとにらむ真似をしました。
「お乳は嫌、もつと/\おいしいもの頂戴。」
「そんな無理を、お言ひで無い。それは親不幸といふものです。」
「不幸でもコーコーでもいワ。もつとおいしいもの食べさしておれ、え、おツさん。」
「仕様が無いね。此の子は、」とおツ母さんはしばらく考へてゐましたが、
「坊やは何が好き? あり? くり?」とたづねました。
「嫌だ/\、そんなものみんな嫌だ、もつともつと甘くつておいしいものが欲しい……」と、黒ちやんはいひました。
「困つた事を言ふのネ、あ、さう/\かに……、蟹を食べた事があつて? あの赤アいつめのある、そうれ横に、ちよこ/\とふ……」と、お母さんは、また優しくいひました。
「食べた事無いワ、蟹なんて……そんな物おいしい? え、本当に旨しい?」
「えゝ/\、夫れは本当においしいのよ。これから谷川へ行つて、うんと捕つて来てあげるから、此所ここ温順おとなしく待つておいで。」
「イヤ、イヤ、坊やも一緒に行く。」と足摺あしずりをしながら、黒ちやんは強請ねだりました。
「此所に温順おとなしくしておいで、ね、賢い児だから……」と言つて、お母さんは黒ちやんのせなかを優しくたたいてやりました。
「嫌だ/\、一緒に行く。れてつて呉れなければ耳を噛み切つてやる!」と、黒ちやんは泣きながら無理を言ひました。
「アイタタ、何といふ乱暴な子だらう、此の子は。よし/\仕方がない。では伴れてツてあげやう。さ、そうツと降りるんだよ。おつこちて怪我けがをしないやうにネ。」
 熊のおツさんは、たうとう黒ちやんの強情に負けてしまひました。


    三
 丘の所に大きなゐのしし一疋いつぴきの可愛い坊やと一緒にてゐました。おツ母さんは、坊やのせなかたたきながら、
「坊や、もう段々お昼になつて来るから、寝んねするんだよ。昨晩ゆふべく遊んだネ。たぬきを脅かしてやつたツて、りやア偉かつたネ、坊やは小さくても猪だから、狸位何でも無いネ。」
 猪のおツ母さんは、しきりに坊やをめてゐましたが、いつの間にか、うと/\と眠つてしまひました。悪戯いたづらの坊やは、おツ母さんの眠つてゐる間に、そうつと、山を下の方へ降りて行きました。
「坊や! 坊や!」とを覚したおツ母さんは、きよろ/\其所そこらを見廻みまはしましたが坊やは何所どこにも居ませんでした。で、屹度きつと谷へ水遊びに行つたに違ひないと思つて、矢のやうに、山を下へ下へとけ下りました。けれども、坊やは谷へは行かないで、大きなかしの木の所で、
「やあい、おツさんはぼくを知らないのかツ。」とつて独りで嘲笑あざわらつてゐました。


    四
 くまの親子は谷川へ下りて来ました。
この石の下には、屹度きつとかにが居るよ、さ、おツさんがかうして、石を引起して居るから坊やは自分で蟹をつかんでお捕り……」
 熊のおツ母さんは、ウント力を入れて、平たい五六十貫もあるやうな石を引起しました。するとの石の下から、つめの赤い小さい蟹が六ツも七ツも、ちよこ/\と逃げ出しました。
「あ、居る/\、沢山居る。」と黒ちやんは夢中になつて、蟹を捕つてゐました。
 所へ山の上から大きなゐのししのおツ母さんが、どん/\走つて来ました。そして谷の中でビチヤ/\水音がするのを聞いた時、屹度きつと坊やが水遊びをして居るのだと思つたので、やぶの中から大声で、
「おうい、お前は何うしてこんな所へ独りで来た?」と呶鳴どなりながら、岩の所からぬつと顔を出しました。
 熊のおツ母さんは、不意に猪に呶鳴られたので、吃驚びつくりして思はず、力一杯引起して居た石から手を離しました。と、同時に足の所で、
「きやあ!」と言ふ声がしたのに気付いて見れば、可哀さうに黒ちやんは、大きな石の下になつて死んでゐました。
 さあ大変です。熊のおツ母さんは気狂きちがひの様になつて、
「大事の/\黒ちやんを殺したのは貴様だぞ! 覚ぼえてゐろ!」といひながら猪に向つて爪をき出しました。
 猪は又た自分の子が、石におさへられて死んだのだと考へ違ひをして、
「貴様は大事の/\わしの坊やを、其の石でおさへ殺したんだな。今にかたきうつてやるぞ!」と、叫びながら、鋭いきばを剥き出しました。
 熊と猪は、かみ合ひました。そして、日の暮れまでもお互に争つてゐました。


    五
 京内きやうないが里の茶店でお菓子を買つてもらつて、佐次兵衛さじべゑに伴れられて山小屋へ帰つて来たのは、の翌日でありました。
「さ、もう駄々だだをこねるんぢやアないよ、お前のおかげで昨日今日は二人とも遊んでしまつた。」とひながら、佐次兵衛は京内をつれて谷川へ水をみに行つて見ると、これはまあ何といふ事です。大きなゐのししと大きなくまが、二疋共ひきとも引掻ひつかかれて、噛切かみきられて、大怪我おほけがをして死んで居るぢやありませんか。しかも二疋とも大きな石を腹の下に抑へて、頭を並べて死んで居るのです。く/\見ると、石の下から小い黒いけだものの足が二寸ばかり外へ出てゐました。
 佐次兵衛が猪と熊とを引除ひきのけて石を引起した時、京内は可愛い可愛い熊の子が、赤い舌を出して死んでゐるのを見まして、ポロポロ涙を流しました。
「なア、畜生でも……これは屹度きつとこの小い熊の子のために親同志が喧嘩けんくわをして死んだのだらう……」と云つてゐる時、やぶかげからコソ/\と小い猪の子が出て来て、ぐ逃げてしまひました。
 佐次兵衛は、の三疋の獣の為めに叮嚀ていねいにお葬式をしてやりました。
 それから京内は大変孝行な子供になつて、一生懸命にお父さんと一緒に働いて名高い炭焼になりました。今に木炭は紀州の名高い産物の一つであります。

底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「赤い猫」金の星社
   1923(大正12)年3月
初出:「金の船」キンノツク社
   1919(大正8)年12月
※「不幸」と「不孝」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
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