『ヒストリイ・オヴ・デビルズ』
『デビルズ・デイクシヨナリイ』
『クラシカル・マヂシアンズ・ボキアブラリイ・ブツク』

 私は、その頃右の如き表題の辞書を繙きながら、
「クリステンダム物語」
「ドクトル・フアウスタスの巡遊記」
「ジークフリード遠征録」
「セント・ジヨージ快挙録」
 その他の、これに類する種々の物語を耽読した。これらの辞書を翻すと、大概の物語や伝説の中に現れる様々な怪物や魔法使ひの術語や素性が明瞭となつたので、何んなに素晴しい化物が現はれても、そいつを語源的に験べたり、魔法使ひの歴史上に有名な言葉などを辞書の中の分類表から律して見ると、怪物と闘ふ強者の勇敢さに単なる読者として手に汗を握るばかりでない――別様の興味を誘はれるのであつた。
 例へば、セント・ジヨージが誘惑の森で、青舌の Witch の甘言に陥る場面などでも、エルムといふこの Witch の名前を「デビルズ・デイクシヨナリイ」のEの項で探して見ると、(大意を和訳して述べるが)エルムは Whitch と Wizard の不義の子にして、生れながらに呪はれたる自らの命を自ら深く呪ひつゝ、善良なる旅人を己れが永遠の呪ひの犠牲いけにへにして底無しの淵に誘ひ込むことをもつて本性となす者なれど、その名称の依つて来るところは、エルムが旅人をさし招く態は、恰も witch-elm-tree の条々たる垂れ枝が微風に吹かれて打ちなびく姿から聯想されて、海賊期のアングル族に擬人化されたるものなり。またフアウスタス博士の独言、
「自然の秘密を探究せんが為には、地獄を訪れなければならない。地獄を訪れんが為には悪魔を俟たねばならぬ。悪魔を俟たんが為には魔術の力に依らねばならぬ。」
 この有名句を「マヂシアンズ・ボキアブラリイ」で探して見ると、一五四〇年版ヨハンガストなる一神学者クリスチヤンの手記に、
「余がクラコウ大学に於て教鞭を執りし頃、クリンドリング生れの一不良学生に悩まされしが、彼は常々学業を疎かにして魔術にのみ現を抜かし、遂に放校の憂き目に遇ひしが、去るに望みて彼の言葉を残したるなり。後にこの言葉を友人フアウスタスに告げると、彼は、至言なり……と膝を打ち、翌朝も待たずに放浪の旅に出発せり。」
 などゝもあつた。
「メフイストフエレス――(メ)は、ラテン語の[#ここから横組み]“In”[#ここで横組み終わり]に相当するギリシヤ語にて、否定の義、(フイス)は同じく、光の義、(フエレス)は、愛の義――即ち、光りと愛を打ち消す者――悪魔の同意語なり。メフイストフエレスなる名称は、十六世紀後半に出版されたるヨハネス・スパイスなる伝奇作家の書中に初めて登用されたる者なり。」
 その頃私は、地図の上では世界各国足跡の至らざるところとてはない大旅行家であつたが、日々の生活と云へば、どんな類ひの地図にも省略されてゐる底の凡そ小さな山峡の部落で、町へ赴く乗合馬車の切符すらも容易には購ふことも出来ないやうな不自由な境涯で、まことに「箱のやうな小世界」の住人であつた。
 さうして私は、村のあばらやの一室で花やかな長剣を振り翳しながら天国や地獄の夢を※(「さんずい+艷のへん+盍」、第4水準2-79-55)々と追ひまくつてゐるうちは甲斐々々しかつたが、間もなく私の夢を鵞毛の軽さで吹き飛ばす有様の怖ろしい冬が訪れた。
 三方を屏風のやうな丘に囲まれた私達の村は、秋口から初冬へかけての南風が襲ひはじめると、どつとばかりに津波の勢ひで村外れの河口から吹きあげてくる速風はやては周囲の丘に行手をさへぎられて、唸りを挙げて天に沖し、壮烈な風巻しまきを巻き起すのが常であつた。おそらく、この竜巻村といふ名称は、この冬の凄まじい風巻のおもむきに起因したに相違ない。村人は冬の近くになると、夫々の家の屋上に一抱えもあらう程の石ころを河原から運んで、屋根を吹き飛ばされぬ為の用意に忙しかつた。河原から村宿へかけての一筋の街道に長蛇の列をつくつて、悲壮気な歌の声をそろへながら村人が総出の立働きの光景を、遥かに窓から見渡してゐると、ピラミツドを造営するエヂプト人の有様などが髣髴された。
 本来ならば私も早速この労働に加はるべきであつたが、私はむしろその家が大きな風巻の翼に呑まれて、木の葉のやうに奈辺の空へなりと吹き飛んでしまふ目醒しさを希望してゐたから、頑として机に凭つては「デビルズ・デイクシヨナリイ」を繰り展げてゐるのであつたが――。
 屋根に鳴る人の脚音で、私は眼を醒した。クリステンダム物語に没頭して、明方も忘れた私は戸閉りをしたまゝの部屋の中で、ランプの光りに照らされながら、椅子に凭つたまゝの姿で思はぬうたゝ寝に襲はれてゐたところであつた。――物語は、佳境の頂上で、勇士セント・アンドリウが、キクロウプスの館に幽閉された美姫ヘレナを救け出す為に翼のあるゼブラに打ちまたがつて、城内深く躍り込んだ三色版の挿絵のある頁が開かれて、私はその上に突つ伏して涎を垂らしてゐた時であつた。そして傍らの「ヒストリイ・オヴ・デビルズ」の辞書は、
「キクロウプス――古代ギリシヤ、ユーリピデスの悲歌エレジイに、はじめて引用されたる怪物の名称なるも、起原は、地中海に出没せるカレドニアの海賊の間に信仰されたるデモーネンの謂なり。この怪物は、巨大な頭の眉間に向日葵のやうな爛々たる一個の目玉を有し、良民にはその姿を識別すること能はざれども、海賊のためには、その眼球の輝きが道知るすべの役立をなすと信ぜられ、当時の海賊船の一室にはキクロウプスの偶像が恭々しく飾られたりと伝ふ。嗜好物は、(デーモンス・ネクター)と称ばるゝ酒なり。中世紀前半頃より、陸に城を構へ、往来ゆきゝの旅人を拉して、屋上からその生血を吸ひて餌食となせり。されど、デーモンス・ネクターを発見して、旅人若しこれを飲用するならば、常に見えざる当の怪物の姿を容易に発見し得べし――とはセラピスの伝説に残るところなり。」
 といふ記述の個所が、赤鉛筆でアンダア・ラインを引かれて開かれてあつた。
 正しく、アンドリウはネクターの在所をヘレナから教へられて、羊角型の酒器ジーランドの口からこれを飲み降すと、剣を引き抜いて櫓を昇つて行つた……。
 あゝ私は、夜昼の差別も忘れた鬱屈のランプの影で、妄想の捕虜となりつゞけてゐた浅間しい私は、遂に、ラア・マンチアの工夫に富める紳士ドン・キホーテを嗤ふことの出来ない「勇敢なる騎士」であつた。
 私は人にかくれて、これらの書物を繙く夜々、多少なりとも、あれらの荒唐無稽を在り得べき夢として身辺に感じ度い念願から、壁には長剣の十字を切つて飾りとなし、身には銀紙を貼つた手製の鎧をつけて、燭灯の光りを頼りに、想ひをいとも「花やかなる武士道」の世界に馳せつゞけてゐた破産者であつた。
 屋根に人の脚音を聞いて、思はず顔を挙げた私は、震へ声で
「現れたな!」
 と唸ると、素早く壁から剣を執り降して、屹と天井を睨めた。最早私は、アンドリウの心を、そのまゝ心として全身の血潮を逆上させてゐたから、即座にネクタアを求めて、一つ目入道キクロウプスの正体を見とゞけてしまはずには居られなかつた。
「ヘレナ――ヘレナ――イオラスの島から、ゼブラの風に乗つて到着した御身の従順なる下僕アンドリウが……」
 勿論応へる声のあらう筈もなかつたが、あちこちの扉の隙間から洩れる陽の箭が縦横に薄闇の部屋うちを走つて、翼のある斑馬が私の傍らに侍してゐると見え、またひかりの道がさへぎられて濛ツと煙りが巻いてゐる見たいな廊下の行手には、燭台を翳しておづ/\と私をさしまねいてゐるヘレナの幻が揺曳してゐるのであつた。私は、宙を踏む心地で一条の光りを頼つて、屋根裏の納屋に忍んで行くと、三本の酒徳利が卓子の上で天井裏から洩れる可細い逆光線に半面を照らされてゐるのを発見すると、思はずその下に膝を突いて胸先に厳かな感謝の十字を切つた。
(私の妻は、都の空で私がこれらの家屋敷を売却して獲得するであらう金袋を引つさげて訪れるのを待ち焦れてゐた。このだゞつ広いがらん洞には私の他に同居の者はRとZの二人の若い伯楽だつたが、彼等は近頃急に酒嫌ひになつた私に遠慮して斯様な場所で密かな酒盛を開いてゐたと見えるが、この時は私はそんな推察を回らせたわけではない。)
 二本の酒壜は悉く空虚であつたが、残りの一本を怖る/\ゆすつて見ると、重い液体の揺れる手応へがあつたので――アンドリウは両膝を床に突くと、セラピス教義の儀礼にもとづいて両の掌を胸の上に重ねたまゝ、ヘレナが傾ける銀のジーランドからネクタアの雫を喉に享けた……。
 ――と物語にある、そのまゝの意気で私は、ヘレナのそれに仮想した片手を伸して、素朴な型の貧棒徳利を執りあげると、高く宙に傾けて、こん/\とその滴りを貪つた。
「他人の手に渡るときまつたら、屋根おさへにも出ないなんて、あの先生の御了見のほども仲々どうもおそれ入つたものぢやないか。」
「云ふなよ。こちとらは、どうせ音無さんに雇はれた人足同様……」
「あつはつ……何てまあ好い天気が続くことだらう。こんな空にも、やがてはあんな怖ろしい竜巻が起るなどゝは考へられもしないぢやないか。」
「去年の冬だつたな。竜巻に飛ばされた仁王門のおさへ石が、音無の牡馬を殺したのは――」
「さう/\――馬でなくつて、一層のこと彼処の亭主の頭にでも落ちたら好かつたのに! なんて云ふ噂が立つたがな。」
「一体、あの亭主の慾の深さは底なしだといふ話ぢやないか。」
「考へて見れば下の先生も気の毒なものさ、音無の親爺が、とうの昔に手を回して書き換へから登記までも済ませてゐるといふのも知らないで、屋敷の売れるのを待つてゐるなんて、阿呆にも程があるといふものだ。」
 屋根から響いて来る高らかな会話が、屋根裏の納屋で鉾を構へて立ちあがらうとしてゐるセラピス信者の耳に聞えた。
「おい/\、声が高いぞ――噂をすれば影とやら――とは、まつたくだよ。音無の慾深が、河堤の上から此方を見あげてゐるぜ。」
「ちよつ、俺達にばかり働かせやがつて手前えは、あんな懐ろ手で……おや/\、指折りをして何か勘定をしてゐる態だよ――土蔵つき、馬つき、そして田畑つきのこの屋敷を、又売りにしたら幾ら儲かることだらうとでもいふ魂胆か。」
「どうだい、あの山高帽子をアミダに被つて頬つぺを突つぷくらせてゐる憎たらしい面つきと云つたら……」
「狒々親爺奴が! あいつが近頃、八郎丸のお妙坊を手込めにしようとたくらんで……」
 と聞きかけた時私の口腔からは、えんえんたる焔が吐き出たと思はれた。
 私は、納屋の天窓の細引きを力任せにグイと引いた。――青空が、赫つと私の頭上に展けた。ひかりの円筒が颯つと私の体を覆ふた時、私は、
「何だと――あの畜生奴が、お妙、お妙、お妙……俺の一番仲の善い、貧棒な漁師の八郎丸――あの善良な八郎丸の妹の……」
 と叫びながら、夢中で綱をよぢ登りはじめてゐた。(私は、はじめ、たゞこの薄暗い部屋の中で、息苦しい孤独の演技に耽りながら、あはよくば、声だけ立てゝ、屋上のキクロウプスを驚ろかせてやらう――位ゐのつもりだつたのに!)
 無我夢中となつた私は、あられもない鎧のいでたちで、まぶしく陽りの満ち溢れてゐる屋上の、白日の中に踊り出てしまつた。
 鬼瓦の棟に烏のやうに腰を据ゑて、石ならべの仕事に耽つてゐた二人の男は、アツ! と叫んだかと思ふと、その瞬間、もう姿は消えてゐた。裏側の軒下を流れる悠やかな河のあたりに、巨大な物体が転落した音を私は聞いたが、その時私は瓦止めの作業用で運びあげられてゐた鉄瓶大の土塊の一つを握つてゐたものと見える。そして、そんな騒ぎは知らずに、大方二人の男の働き振りに怠惰の模様でも窺はれたのを責めでもするために、梯子を昇つて来た音無の山高帽子が、ぬツと軒の上に現はれたかと見た刹那、私の手から飛んだ濡りを含んだ土塊が、彼の面上に真正面から衝突してゐた。
 そして私は、表の庭の泉水の上に巨大な怪魚がはねたかと思はれるような音を耳にしながら、即座に天窓の口から納屋に飛び降りると、綱を引いて暗闇とした。――凡そ、その活劇は一分間に足りぬ時間の中で遂行されたのであつた。――私は、早変りもどきの慌しさで、脱いだ紙製の鎧を米俵の向ふ側に丸め込むがいなや、梯子段から廊下を一足飛びに飛んで、自分の部屋へとつて返すと、扉に鍵を降して、ベツドにもぐり込んでしまつた。
 ……「寒いぞ/\、凍えてしまふわい、着物を借して呉れ、着物を……」
 池の方角から悲愴な声が響いた。
 ではやつぱり夢ではなかつたのか!
 私は、徐ろに首を挙げて呟いた。――ランプが燭つてゐる! 櫓に駈け登らうと身構へたアンドリウが、屹つと天井の一方を睨んだ挿絵の頁が、鈍い灯火の光りを浴びてゐる。……不図、眼を挙げた時私は、今のあの騒ぎは夢だつたか! と思つたが――。
「おゝ、寒さで言葉も凍りさうだ。誰か来て呉れ、おゝ、怖ろしい風が吹いて来る気合ひだ。救けて呉れ……」
 戸外の声は絶え入りさうな悲鳴と変つて来た。それよりも私は、あれらの事ごとが夢であつたか何うかといふ疑問が、胸の底を冷たく青蒼めさせて行つた。私は、自分の行動に自信を失ひ、白日の陽を浴びることに涯しもない不安を覚えて今にも迷妄の吹雪に昏倒しさうな、そして見る/\うちに蝋燭のやうな我身が煙りと化して行く想ひに引きずられて行つたが、救ひを求める凄惨な声が益々高く低く縷々として私の耳朶に絡まりついて来る空怖ろしさに堪へられなくなつて、凡そ、もう、さつきの、勇敢な騎士とは裏はらの臆病な幽霊のやうな脚どりで、扉をおし、そして、
「喧嘩でも起つたのかな?」
 と、わざと眠さうに眼をこすりながら、雨戸をあけた。屋上の格闘が若しも夢でなかつたとすると、悲鳴に事寄せて私を誘ひ出して、復讐の水雑炊でも喰はさうといふ敵の魂胆かも知れないから、先づ、白々しく眠つてゐた素振りを示して相手の様子を見究めた後に、新しい覚悟を決めねばならない――と留意したのである。
 また私は、噂に聞く「吹雪男」の出現かしら? と気づくと、にわかに体中に激しい胴震ひと歯の根も合はない頤ばたきが巻き起つて来た。
 ――昔から、この村には怖ろしい「吹雪男」の伝説が流布されてゐた。それは恰度雪深い国の「雪女」の迷信に比ぶべき話で、風巻の季節になると、森蔭や河原のふち、或ひは池のほとりに、烏天狗に似た大男が何処からともなくぬつと立現れて、人を呼び、生血を吸つて、骨はばら/\にして風に飛ばしてしまふのである。だから、この季節が近づくと人々は、この上もなく、この吹雪の精の迷信を怖れて、昼間といへども独り歩きをする者とてはなかつた。吹雪の精は、主に孤独の男をひつとらへるのだ。
 然し、今時はもうそんな愚かな伝説を信じるやうな愚民は次第に影をひそめて、寧ろ滑稽な話として冬の夜の炉端の笑ひ草となつてゐたが、不図私は総身に粟立ちを覚ゆる位ゐの恐怖に襲はれたのであつた。――何処の家でも、冬が近づくと、門先に鎮西八郎為朝の家と筆太に誌した表札と、平家蟹の甲羅を荒武者の顔と擬して、眼口を描いて掲げるのが慣ひであつた。云ふまでもなく、それは「吹雪男」に対する威嚇の表象である。村うちで、その表札と仮面を掲げぬ家は、私の住居一軒だけであつた。突然、そんなことも、私の頭に畏怖の稲妻を閃めかせた。
 真昼間かと思つてゐたのに、外は徐ろに揺れはじめる気合ひの風を湛へた黄昏時であるのに、私は驚いた。
 ……それにしても、さつきの騒ぎは夢であつて呉れたならば、この不安の度も減ずるであらうが――と私は念じながら、声の方をすかして見ると、池のふちに真つ黒い男が、ぬつと立つて、震へてゐた。そして、Witch-elm の枝のやうに力無げな腕を風に吹かせながら、頻りと人をさしまねいてゐるではないか。
(死ぬ覚悟だ!)
 さう呟くと私は、自分ながら不自然気に見える落つきが涌いて来て、思はず脚もとにとり落してあつたアメリカ土人のアツシユの投槍を拾ひあげると、
「穂先は潰れてゐるから当つても死にはしないが、打身の傷手を与へて気絶させるには充分の力がこもつてゐるぞ!」
 とおどした。
「化物ぢやない、盗賊でもない、私は音無の大尽だよ――突風に外套の翼を煽られて、池に落ちたこの家の持主だよ。」
 屋根おさへの石運びを、手下の者に命じたところ、ほんの三つばかりの石を運びあげたかと思ふと彼等はもう怠けはじめて、屋根の上で賭博をはじめてゐるではないか、三つの石でこの家根が圧へられるものか――と思ふと自分は大変心配になつたので、とるものもとりあへず駈けつけたまでは好かつたのだが、梯子を昇り、いざ奴等に罵りを浴せようとして、最初の声を一つ放つたかと思ふと、あまりの亢奮の極自分は上向態にもんどりを打つて池の上に転落したのである……。
「憎い二人も私の姿を見るや大きに慌てゝ、裏の川へ飛び込んだのは胸がすいたが、奴等は私の姿を見出した時、仕事をしてゐる風を装はうとして突然に夫々一つ宛の石を持ちあげて――そのまゝ、石もろともに遁走してしまつたのだ。だから、もう屋根には石は一つより残つてゐない筈だ。――あゝ、案ぜられる、風が出て来さうではないか、屋根が飛んでしまつたら私は、死ぬよりも辛いぞ!」
 と音無は震へながら煩悶した。
(では、やはり、あれは夢だつたか。)
 未だ半信半疑だつたが、私は幾分の自信を盛り返したので、
「で、お前さんが今晩は重石の代りとなつて屋根の上で夜を明さうとでも云ふ考へなのかね。」
 と気味好く唸つてやつた。
 すると音無は、生真面目に深く点頭いて、
「充分の日給を支払ふから、お前さんと、RとZと三人そろつて、今晩中屋根に寝て呉れないかね。吹くか吹かぬか、はかりもされない風の為に夜番を雇ふなどゝは、びつこの馬の札を買つて大穴をねらふ道楽気だが、何としても私は十五人の夜番を屋根へ上げて置かぬ限りは、到底枕を高くして眠れさうもないのだよ。」
 と苦悶を続けるので、私は、そつと南の空を窺ふと、卵色に晴れかゝつた空の裾に、鱗雲の片々が見えたから、安心して、
「場合によつては引き受けても好いぜ。」
 と答へた。――「同勢も此方で集めようから、給金をおいて行かないか。」
 私の部屋には着換への着物もなかつたのでシヤツばかりを幾つも私が雑巾のやうにほうり出すと音無は、夢中でそれを重ね着して、
「未だ寒さうだから、一層あれを着て行かうか――」
 と、柄にもなく赤い顔をして部屋の隅の鎧櫃を指差した。それは大昔の歩兵であつた私の祖先が使用したものゝ由で、私は幼年の頃、その具足を着た祖先が何々の合戦に出陣したといふ紀念日が来ると、恭々しく人型をつくつてそれが床の間に飾られて、祖父の先達で私達はその前にひれ伏させられた宝物だつたが、其処此処に散乱してゐる奇怪な書物の数々と共に、憂鬱病患者の私にとつては生活上の糧にも等しく、一刻たりとも我身の傍らから切り離すわけにはゆかぬ代物であつた。
「駄目だ。こいつだけは貸すわけにはゆかないぞ。」
 言下に拒絶すると、私は血相を変へて鎧櫃に抱きついた。
 思ひ出すまでもない――それは昨夜であつたか、十日も前であつたか、また幾度び繰り返されたことか、すつかり昼夜の差別を忘れてゐる私には見当もつかぬのであるが、いつも眠らぬ真夜中のことである。
 風が吹いてゐる――点けても/\ランプの灯は吹き消されて、机の上に開かれてゐる書物は、隙間から忍び込む風に翻弄されて暗闇の中でハラ/\と鳴つてゐる。――私は闇を視詰めて頬杖を突いてゐるのだ。
 止め度もない悒鬱と不安の吹雪が、私の魂を寄る辺もない地獄の底へ吹き飛す勢ひで、颯々と吹きまくつてゐるばかりなのである。あらゆる自信と感覚といふが如きものが、全く影を潜めて、私の五体は今にも木の葉のやうにバラ/\となつて、人知れぬ虚空に飛び散るばかりなのである。何処に何う力の容れやうもない私は、見る/\うちに肉体が澄明となつて、幽霊に化してしまひさうな寒さに襲はれて、ぶる/\と震へ出すのだ。例へれば音無の親爺が、風巻に吹き飛ばされる屋根の姿の、被害妄想に苛まれてこの如く激しい恐怖性神経衰弱に駆られてゐる有様に、私のそれも等しいもので、私はやがて暴風の海上に弄ばれる小舟の中の人のやうに狂ひ出して、机に、ベツドに、柱に――と手あたり次第に獅噛みついて、ゑんゑんと救けを呼んだ。
「誰か来て呉れ、吹き飛される/\!」
 私は悲鳴を挙げながら虚空をつかんで床に転倒すると、屋根おさへの石を想像しながら、あれらの重量たつぷりの辞書や物語本の数々を、胸となく腹となく顔となく――ありつたけを五体の上に積みあげて、凝つとその下で息を殺してゐるのだが、竜巻の唸りが轟々と増々激しく耳を打ちはじめると、(それは悉く神経のせゐであつた――未だ風巻の季節には間があるのだが、音無の親爺も云ふのであるが、耳の底に不断に怖ろしい吹雪の音が聞えると、生きた心地を失つてしまふのだ。)更に、そのまゝさうして潰れてゐるのさへ、不安になつて来るのだ。
「恋に焦れて悶ふるやうに――恋に焦れて悶ふるやうに――」
 本箱の中のオルゴウルが、アウエルバツハの酒場の歌を奏しはじめたりするのであるが、傾ける耳などを持ち合す筈もなく私は、全く毒を嚥んだ鼠に等しく七転八倒、正しく恋に焦れて悶ふるやうに狂ひ回つた上句、鎧櫃の在所を手探り求めると、夢中で、重い兜を頭に載せ、鎧を身につけ、そして黒い鉄の面あての中に顔を埋めて、吐息を衝くと、はじめて我身の生きてゐたことに微かな知覚を持つのであつた。――云はゞ、風巻に煽られようとする屋根が、おさへの石で、静つたのを見て安堵の胸を撫で下す音無の心境であらう。
 そのまゝ私は息を殺して、鎧の中で夜明けを待つことが多かつたが、或る晩のこと、例の如き大暴れの後漸く鎧の中に収つて、吻つとして、眼をあいて見ると、私は、隈なき月の光りがさんさんと降りそゝいでゐる河原のふちに立つてゐる自身を発見した。あまりの激しい恐怖と苦悶との闘ひのために、私は無意識のまゝに、こんなところまで転げ出てしまつたものと見える。
 面当めんあての大きさは私の顔の凡そ倍大であつたから、その長方形にくりぬかれた口腔から、私は外景を眺めることが出来た。すべて鎧は、その大きさで、草摺りは私の脛の半ば下まで垂れ、袖は腰を覆ふまでに深く蝙蝠の翼の如きであつたから、胴の中で私は外皮の鎧を動かすことなく、自由な身動きをすることも出来る程――それ程、その鎧兜は小男の私には不適当なものであつたから、
「これは失敗つたぞ――飛んでもないところへ出てしまつたのだ!」
 と、私は気づいて、慌てゝ駈け戻らうとしたが、駈けるどころか、兜の両端を盥を被つたやうに両手でささへたり、スキーを穿いた脚のやうに毛靴の足どりを気遣つたりしながら、辛うじてよた/\と、がに股の醜態で歩みを運ぶより他は手もなかつた。
 一体、それで、何うして、こんなところまで飛び出して来られたものか、それが、恰で夢のやうで、更に私は堪へられぬ不安を覚えた。(斯んな経験があるので私は、先刻の、屋上の騒ぎのことも未だ夢とばかりは信じられぬのである。ヒポコンデリイが嵩じて、夢遊病と進んでゐるやも知れぬ。)
 こんな素晴しい月夜だと云ふのに、嵐の夢に襲はれて斯んな騒ぎを演じてしまふやうでは、これから先の冬の日が思ひやられる――私は泣き出したい心地で、そのまゝよたよたと河堤の松林を縫つて、家路を目差した。
 眼の先などは好くは見えないので、時々立ち止つては方角を定めながら、馬頭観音の裏手から橋の袂に現れた時であつた。
 突然、私は、私自身の方が吃驚りして、思はずバサリといふ大きな翼の音をたてゝ、飛びあがると、前にのめつて悶絶してしまつたのであつたが――突如、私の眼の先で、ぎやあツ! といふ死者狂ひの悲鳴が起つたのである。それを聞いて此方が悶絶してしまつたのだつたから仔細は判別出来なかつたが、程経て私は息を吹き返したから、兜を脱いでそのあたりを見聞すると、祠の扉が蹴破られてゐて、堂の中には、賽ころや銀貨や酒の道具が散乱してゐるのだ。そして、勿論、人影と云へば、賽銭箱の傍らに斜めに映つてゐる鎧姿の私の影より他は、皎々たる月あかりで虫の音も絶えてゐた。
「そんな因業なことを云はずと、一晩だけこの帰り路だけで好いんだから、是非ともそれを私に貸して呉れないか。」
 鎧櫃に獅噛みついた私の顔を覗き込むと、憐れな声を振り搾つて音無が掻きくどくのであつた。
「厭だ、厭だよう……」
わしはもう堪へられんのぢや、こんなシヤツの有様でこの夜道をたどり、若しや風でも吹き出したらと思ふと、私の魂は地獄へ飛びさうだ。身に、重しを付けて置かなければ、私の体なんて何処へ飛んでしまふか、解らない。怖ろしいぞ。私は、その上大金を持つてゐるのだ。舟を売らせ、網を売らせて、漸く八郎丸から取り戻した大金を……」
「……厭だよう……」
「拝むから貸して呉れ。おまけに村境ひの馬頭観音の前に、風もないのに吹雪男が現れたといふ噂ではないか。いや、其奴は、おそらく番小屋荒しの強盗であらう、吹雪男と見せかけて、あちこちの番小屋を悸して酒を盗み、在り金をさらふ稀代の曲者だ。法度の丁半の賭銭だから訴へ出ることも出来ず……おゝ、白状してしまはう。丁半の連中は皆な私の手下ぢやわい、何を秘さう、鴨をくわへ込んで、濡手で粟の大儲けの上前とりの大親分は私なんだが、あの騒ぎ以来一味の者共は、吹雪男の亡霊にとり憑かれて青息吐息の有様なのだ。――屹度今宵あたりも出るだらう。私は、鎧の下に金袋を抱いてゐれば、突かうが、切らうが、平気となれる。斯うしてゐても、気が狂ひさうなんだ。一刻も早く同勢を呼び寄せて屋根の上へおしあげてしまはないうちは、何時吹き出すかも解らぬ風の神様のことだからな。おゝゝゝ、情けない、この不漁の上に、若しもこの家の屋根でも飛ばされてしまつたら……」
「おい、耳を澄して見ろ――風らしいぞ。」
「大変だあ……」
 音無は、矢庭に私に飛びかゝつて鎧櫃を奪ひとらうと猛りたつた。
「吹雪だ、吹雪だ!」
 と私は叫んだ。真実私の耳には、キクロウプスの口笛を想はせられる陰々たる吹雪の音が響くのであつた。――「これを、離して堪るものか。」
 すると音無は、
「もう駄目だ!」
 と唸つたかと思ふと、歯を喰ひしばつて仰向けに倒れた。そして泡を吹きながら、
「何でも関はないから私の上に、重たいものを載せて呉れ、飛んでしまふ/\、私の軽い体が……」
 と喚くのであつた。
 俺と同じことを云やがる――さう思ふと私は、斯んな慾深男と同病であるらしいのが酷く自尊心に関はつたが、その苦悶の切なさは同感に価するので、重い書物を次から次へ取りあげて、患者を埋めた。
 音無は、重石の下ですや/\と眠つたらしい。――改めて耳を傾けると、吹雪の音は全く消えてゐて、戸を開けて見ると、眺めも豊かな月夜であつた。
(これは、私がその村を遁走した後に初めて知つたのであるが。――といふのは私は町で育ち、つい一両年前に、この村に私の家のあることを悟つて、止むなく移り住んだ者であつたから、不思議な村の云ひ伝へなどについては全然無知の徒であつたわけであるが――竜巻村には、毎年秋の終りの頃になると、私や音無が罹つてゐたやうな精神病の流行は常例だつたといふことである。あの怖ろしい風巻に怯える父祖伝来の血統が、村人一帯に流れてゐる故に、一名「吹雪病」と称ばれてゐるこの癲癇の一種に就いては村人は余り気にも掛けぬのであつた。然し、私の父祖はこの村の住民ではなかつたのに、何うして私に、そんな病が起つたのか、私はその因を求めるのに苦しむ次第である。)
 それはさうと、外はそんなに円かな月夜であるといふのに、翻つて私の胸を窺ふと、不安の嵐がまたも新しく巻き起らうとしてゐるのであつた。――私は、やがて息を吹き返すであらう音無が、更に捲土重来の勢ひで、この宝物に飛びかゝるであらうことを深く心配しはじめたのである。
 で私は、今のうちに蔵つてしまはなければならないと決心して、手早く鎧櫃の肩紐に腕を通すと、アツシユの槍を杖にして辛うじて立ちあがつた。喰ふものも碌々に摂らず、妄想とばかり戦つてゐる私は、今更のやうに身に力がなく、酔つ払ひのやうに脚がフラフラするのが情けなかつた。然し私は、杖を頼りに、葛籠を背負つた舌切雀の悪党爺のやうに表情を歪めて、よた/\と屋根裏の納屋へ向つて行つた。手探りで廊下を曲り曲つて、漸く梯子段のあたりに来ると、納屋の扉から灯火が洩れてゐるのが仰がれた。そして争ひの声が聞えた。
「飲んで置いて、飲まないとは好くも云へた図々しさだ。」
「俺の云ふことを盗むな。泥棒奴!」
「意地きたなしの盗み飲み野郎!」
「打つ気か!」
「打つとも――」
 RとZが徳利を間にして、鼻を突き合せ、眦を裂いてゐた。
(デーモンス・ネクタアだ。夢ではなかつたのだ――俺は、たしかに飲んだぞ。)
 私は、自分を夢遊病者と信ずるに至つた。眼に見えぬ悪魔の翼にはたきのめされさうだつた。
「酒の喧嘩なら止めて呉れ。音無の欲深爺から、巻きあげて来たばかしの酒手が、こんなにあるぞ。」
 私は重い財布を卓子の上に投げ出すと、二人の男は有無なくそれを攫みとるやいなや、窓を乗り越えて梯子づたひで飛び出さうとした。
「酒を買ひに行くのか?」
「仁王門の椽の下で、音無の手下と、張り合ふのだよ。」――「賭場荒しの不思議な吹雪男が俺達の後をつけねらつてゐるので、今では彼処の椽の下に穴を掘つて、金さへあれば毎晩のこと……」
「然し君達は、吹雪男の迷信を信じてゐるのか、そして一度でも、たしかに見たことがあるのかね?」
 私は葛籠を背負つたまゝ卓子に腰を降して、意味深気に訊ねた。
「御用のお手先だと思つてゐますよ。――えゝ、たしかに、見ました。大きな鉄の兜を被つた真黒な化物で、吹雪男のこしらへではありますが、あれは勿論、町から回された探偵の変装でせう。」
「音無の手下は、然し未だ余分の賭金を持つてゐるのかね?」
「奴等のことだから何時もイカサマ術を用ひて分捕つてはゐるんだが、吹雪男が現れてからといふものは皆なその化物にさらはれてしまつて素寒貧となり、音無の親爺をはじめ一族郎党は気狂ひ騒ぎでありますよ。今夜は親爺自らが愈々出張つて、乗るか反るかの大勝負を打つ手筈になつてゐるんですが、親爺は何でも資手もとでに詰つて八郎丸を苛めに行つたさうですが……」
 その云ふところを聞いて見ると、吹雪男の亡霊に苛まされて音無は癲癇に罹つてしまつたさうだが、主ばかしでなく手下の者も悉く神経衰弱となつた。今日も二人の手下が、この屋根で石ならべの仕事に従事してゐたところが、二人は突然「吹雪男」の幻に魅せられて、裏の川へ転落したのである。憐れな愚者は、そんな突差の場合でも、その身が軽く宙に飛んでしまひさうな危惧を忘れず、夫々重石を抱へたまゝ飛び込んだので、危く溺死しかゝつたところを自分達が救ひあげたのである。――。
「それ、そこに寝て居ります。未だ暫くは息を吹き返さないでせう。」
 さう云つて指差されたので私は、卓子の上の龕灯を執つてその方を照して見ると、二人の男が見るも浅間しい姿で、米俵にがつちりと獅噛みついたまゝ気絶してゐた。
「ひとごとぢやありません――私達だつて今にも吹雪の夢に襲はれて発狂するかも知れないのです。こんな時分から斯う続々と病人が現れるなんてことは、さすがの竜巻村でも十七年来この方のことだといふ噂ぢやありませんか。」
「凶災の前兆でせう。今年の冬は何んな怖ろしい風巻が起ることか……おゝ、不吉なことは考へまい。早く仁王門の椽の下へ走つて、大勝負を打つて、腰に金袋をつけてしまはないと、吹雪男の餌食にされて木つ葉みぢんになつてしまふであらう……」
 RとZは、西瓜のやうな顔をして窓を脱け出て行つた。
 二人の去つて行く後姿を窓から見送つてゐると、私の胸は再び轟々と鳴りはじめた。海の遠鳴りが、疾風と化して朧夜の空をかすめながら、稲妻を巻き起して、どツと地に堕ちたかと思ふと、見渡す野面一帯は黒煙を吐いて怒濤と狂ひ出した。森の樹々が一勢に雄叫びを挙げて、凄烈な竜巻を抑へた。――家屋が、宙に浮いて割れ鐘に似た胴震ひの悲鳴を放ちながら、目眩しい回転をはじめた。
「飛んでしまふぞ/\……屋根へあがれ、米俵を家根へ運び出せ……」
 音無が夢中で駈け込んで来たのであつた。彼は更に階段を駈け降り、何うして運んで来たものか、数々の私の書物を悲愴な感投詞をたゞ胸一杯に叫びながら、扉口を目がけて階段の下から霰と投げあげるのだ。
 蝙蝠の群がおし寄せたやうに数々の書物は、不気味な翼の音をたてゝ、米俵に噛りついてゐる私達の上にバラ/\と落ちた。
 その騒ぎで息を吹き返した二人の男は、
「やツ、親爺が来たぞ。」
「金を盗んだことが露見したぞ。」
 二人は切りに飛び交ふ夜鳥の群を払ひながら、天窓の綱を引くと、それに縋つていち早く屋上へ逃げのびた。理由は少しも判らぬが、私は米俵の蔭にもぐつて葛籠の重みに命を托す思ひでガタ/\と震へてゐると、やがて音無は綱にぶらさがつて、屋上へ出ようとするのであつたが、あまりの亢奮の為に大振子と化して止め難くあちこちの壁に激しく肉体を打ちつけてゐるのみであつた。
 私は、その隙に持てるだけの書物を拾ひあげると、騒ぎをそつとその部屋に残したまゝ梯子づたひで川の端へ忍び出た。そして稍々暫く葦の影で息を殺して見ると、いつの間にか竜巻は綺麗に凪いでゐた。
「ともかく、斯んな怖ろしい村には一刻も止ることは出来ない。」
 私は震へる脚に鞭打つて、物蔭をつたひながら河下へ路を求めた。月の光が水のやうに流れてゐた。――私は、自身の影を見出すことが怖ろしかつた。影が、「吹雪男」の姿で私の眼に映るであらうことを想ふと、気絶しさうであつたから私は月の在所を行手の丘の上に突き止めて、河添ひに葦をわけて進んだ。白い光りを、まともに享けると私の五体は透明白膏セレナイトとなつて、光りも空気も素透しに流れて行つたが、私は、杖をたよりに、背中の葛籠の重味にわづかばかりの生心地をつなぎながら、
「これさへ背負つてゐれば、疾風に見舞はれても、吹き飛されずに済むだらう。」
 と呟いた。そして小脇の書物を、その上の重石とたよつて、道を急ぎながら、クラコウ大学を追放された不良学生の挿画を思ひ比べた。彼は、白銅色の鍍金を施した鞣皮製の Macpharson(偽詩人)の仮面めんをかむつて、緑色の天鵝絨で覆ひをした文庫を背負つてゐたと記載されてゐるが、これらの怖れに戦きつづけて、正しく垢面蓬髪の私の容貌は、変装の要もなく、このまゝ「偽詩人」として通過するであらうと思つた。
 と行手に提灯を先きに立て、(何とまあ、見事な月夜だといふのに!)向つて来る一団の人声が現れたので私は草の中に蹲つた。
「慾の深さも結構だけれど、まさか屋根の上で勝負も出来ないからな。」
「野郎、然し、降りるだらうか?」
「背中を力一杯どやしつけて、お月様を指差せは目が醒めるよ。」
 そつと私は吾家の方を振り返つて見ると、棟の上に三体の黒法師が身動ぎもせずに腰かけてゐた。――人達は、彼等を迎へ降して仁王門の椽の下へ繰り込む同勢と知れた。仁王門は私の行手の丘の裾で深い森に囲まれてゐる。
 どうせ私は、その森を脱けて、丘を越えなければならない道程であつた。――家々は、屋根に重石を一杯載せて、もうすつかり寝沈まつてゐた。光りにすかして見ると、或る屋根の石は人が坐つてゐるやうに逞しいものもあり、鳥の群が休んでゐるやうに数々の石を並べてゐるのもあつた。
 提灯の人々が、音無の居る屋根へ昇つて行くのが眺められた。声は、此方が風上だつたから一向にとゞかないが、彼等の物腰で、切りに頑張らうとする音無を促してゐる模様が知れた。――腹を抱へて、大きに笑ふやうな格構をする者、月を指差して「宇宙の神秘」を演説してゐるやうな格構の者、決心の思ひ入れで拳を振つてゐる者達に取りかこまれた音無が、反抗を示してゐる見たいであつたが、やがて、天窓の口から一人宛屋根裏へ落ちて、屋根には三四人の影だけが残つた。それから一人の男が窓口から下を覗いて何やら叫ぶと、屋根の上の男達は一勢に綱を引いて、余程の重量の物を吊り上げにかゝつた。
 彼等は米俵を屋根に運びあげてゐるのであつた。――音無の智慧で、それらを重石の代りに使ふのであるらしく、見る/\うちに屋根の上には俵の数々が家畜のやうに並べられた。そして一同の者が、安堵の胸を撫でゝ梯子を伝ひはじめた頃、私は周囲の葦がざわ/\と鳴り出したのに気づいた。いつか月は深い雲の底にかくれて、鈍い光りを投げてゐるだけであつた。
 私は、今度こそは、夢や幻でなく、眼のあたりに河口の彼方から砂を巻いた突風が吹きあげて来るのを悟つた。脚もとの川の流れが、逆風に煽られて河下から吹き上げられた空の小舟を翻弄してゐる態が、窺はれた。砂と水煙りの雨が突然私の上に閃光を交へて覆ひかゝつて来た。――空を見あげると、木の葉にからんで指摘することも出来ない無数の片々が、村一帯を擂鉢の底にして吹きあげた見るも巨大な竜巻に煽られて、空一面を狂ひ廻つてゐた。
「あれだけの米俵を載せたとなれば、千貫匁の重石だ。大丈夫/\、あれで飛んだとなれば竜巻村の全滅の日だ。」
「大将、気を鎮めて下さい。さすがの吹雪男も仁王門の椽の下は、嗅ぎ出せぬといふものだよ。――八郎丸を根こそぎ巻きあげて、いよ/\明日はお妙を……」
「お妙を伴れ出して――」
 さう云ふ慰めの声援に担がれた音無は、
「俺の帯を離すな。」――「離すと俺は、大枚を持つたまゝ飛んでしまふぞ!」
 などと叫びながら、一同にしつかりと手どり脚どりされて、駈ける馬に乗つたよりも速やかに突風を衝いて、私の眼の先をかすめ去つた。奴の手脚が、私も無数の経験を持つ身であつたから瞥見したゞけでもそれと感知出来るのであるが、病の発作が頂点に達してゐると見えて、亀の子のそれのやうに震へて切りと虚空に悶へてゐた。それよりも私は自身の発作を恐れて、夢中で葛籠を降すと、あたふたと鉄兜で頭上を圧へ、紙屑のやうに吹き飛んでしまひさうな五体を、深々と鎧の袖で覆ひ鎮めた。――鎧だけにしては重過ぎると思つてゐたら、葛籠の中には酒徳利やオルゴウルや金袋等が詰つてゐた。私は、大切な書籍をその上に詰めて、再びどつしりと鎧を背中に背負ふと、いつにも覚えたことのない不思議な自信を感じて、ぬつと、葦の繁みの中から大嵐の中へ立ちあがつた。真に、吹雪の精と化した魔力に打たれた。
 私は、槍をどうと地に突き、毛靴の脚どりに豪胆な留意を注ぎ、進路を、面あての口腔くちから仁王門の森に定めて、きらびやかな突風に逆つた。――吹雪を怖れる伝統の血を持たぬのに、どうして私はあんな病気に罹つたのか? と兼々疑つてゐたが、この時初めて私はその原因に思ひあたつた。それは、単に私が、稀大の業慾者であつたといふことに気づいたのである。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「鬼涙村」芝書店
   1936(昭和11)年2月25日発行
初出:「中央公論 第四十七巻第九号」中央公論社
   1932(昭和7)年8月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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