一

 卓子デスクに頬杖をして滝本が、置額に容れたローラの写真を眺めながら、ぼんやりと物思ひに耽つてゐた時、
「守夫さん、いらつしやるの?」
 と、稍激した調子の声が、窓の外から聞えてきた。
(誰だらう?)
 滝本は、この時、見境へもなく、返事が出来るほど、心が晴れやかでなかつた。
「矢ツ張り、留守なのか知ら?」
 と、窓の外の人は呟いだ。
 それで、滝本に――百合子だ……と解つた。恰で、他人と会話をするのと同じ調子の明瞭さで、稍ともすると和やかな独り言を呟くのが、滝本の印象に一番鮮やかな百合子の特徴だつたから――。
「居るんだよ!」
 滝本は、慌てゝ窓をひらいた。
 純白の春の半オーバと、同じ色のターバン・キヤツプを無造作に被つた、素直に丈の高い百合子が、
「おゝ、好かつた!」
 と片手を挙げて微笑んでゐた。片方の手には、スーツ・ケースを下げてゐた。
「元気の好い様子だね――お休みが余ツ程嬉しいと見えるね。」
 滝本は、百合子の手から鞄をとりあげ、
「こゝから、お入りよ。さあ、手を執つてあげよう。」
 と、前身を窓から乗り出して、両腕を差し伸した。――「随分、重い鞄ぢやないか、ひとりで来たの?」
「ひとりで大丈夫よ。」
 百合子は、窓を指して微笑んだ。窓枠は、百合子の恰度あごのあたりまでの高さだつた。
「その、花の植木鉢をのかして頂戴な。」
 二三歩後ろに退いてから、百合子は軽く勢ひをつけて、ひらりと窓枠の上に飛び乗つた。
「玄関で、何辺も呼んで見たけれど、一向に返事がないので、もう空家になつてしまつたのか知ら――と思つたわ?」
「うむ……それは、ちつとも気がつかなかつたけれど、相変らず阿母おふくろとの間が面白くなくつて――僕は、何時でも玄関には錠を降し放しにして置くんだよ。で、百合さんは、何時帰つて来たの?」
 と、百合子は、それには答へないで、
「ね、守夫さん――」
 と仰山に眼を視張つて、問ひ返した。――「うちの兄さん来なかつた?」
「二三日前に、一度来たけれど……」
「それきり?」
「あゝ、何うして?」
「ぢや、矢ツ張り、妾と行き違ひに東京へ行つたんだ! いゝえ、そんなら、それで……」
 百合子は、独りで点頭きながら、窓枠に腰掛けたまゝ靴を脱ぐと――これは、そつちの方へ隠しておいてやれ――と、卓子テーブルの下の方へ投げ込んだ。
「僕には、何とも云はなかつたぜ。」
「さうでせう。まあ、いゝわ。」
 百合子は部屋に入ると、滝本が今迄腰掛けてゐた回転椅子に凭つて、
「田舎の春は好いな――妾、昨日から学校が休みになつたので、今朝、帰つて来たのよ、そしたらね――」
 と、至極長閑な調子で、含み笑ひをしながら続けるのであつた。滝本は窓枠に乗つて膝を抱へてゐた。毎日/\、窮屈な思ひばかり続けてゐたせゐか、百合子の明るい態度がぶしいやうであつた。
「只今ツて、お父さんのお部屋へ行つて挨拶すると、お父さんたら、まあ何うでせう、物をも云はずに、ギヨロツと、斯んな眼で――」
 百合子は、滑稽らしくクスツと肩をすぼめると両手でつくつた眼鏡の形ちを顔にあてゝ、物々しい苦顔を示した。――「暫く、妾の様子を凝ツと睨んでゐたかと思ふと、いきなり、そんな妙なあたまの者に家に居られては迷惑だ――と斯うなのよ。えゝ母さんも、ちやんと傍にゐて……」
 云ひながら百合子は、キヤツプを、つかみとつて壁に投げつけた。――クロースバヴのかみだつた。
「で、斯んな重い鞄を持つて、此処まで来てしまつたの? はじめ妾、冗談かと思つたわ、父さん――でも、断然、そのまゝの顔つきぢやないの。妾、睨めつこをしてゐたわ、そしたら、遂々妾が、笑ひ出しちやつたの――憤つたわ、父さん。――兄さんが、手紙でいろ/\云つて寄したけれど、それほどとは思はなかつた。」
「…………」
 滝本は、そんな事件を、みぢんも重苦しく考へないで、平気でゐられる百合子に羨望の念を感じた。
 百合子は、断然、父親から離れる事に兄と話が纏つてゐる――と云つた。継母、破産、父の焦躁、家出――と、凡そ暗澹たる周囲にかこまれてゐながら、決してじめ/\とした考へに襲はれることなしに、寧ろ喜劇的に所理しよりしてしまふ百合子の態度に、滝本は反つて教へられるところが多いやうな気がした。
「妾、二三日此処に泊つて行つても好いでせう。少し、此方で遊んでゆきたいの。」
「…………」
 滝本は、即座に返事も出来なかつた。百合子の、曇り気のない顔を、ぼんやり眺めただけだつた。
「守夫さんは、何時頃東京へ行くつもり?」
「この仕事が、多分今月中には出来あがる筈だから……」
 机の上に拡げてある翻訳の仕事を、滝本は指さした。
「そしたら――」
 と百合子は、言葉をらずに急速に云ひ続けるのであつた。「アパートを借りて、私達と一緒に生活しないこと? 妾と、兄さんと、三人で……皆なで、働くようになつたら愉快ぢやないこと!」
「それは好いだらうな。」
 父親が没なつた後の家庭上の紛擾と戦ひながら、斯んな処に堅苦しく籠居して、日増に厭世観を高めて行く自分を思ふと、滝本は、自身に怖れを覚えた。
「妾、お父さんが、そんなつまらないことに因縁をつけて、とても不機嫌さうに眉をひそめてゐるのを見て、酷く、がつかりしたわ。怖くも、口惜しくも何ともないの――たゞ、もつと、はつきり云つたら好さゝうなものだと思つて、今度の妾達の新しいお母さん――」
 百合子は、云ひかけて、何の蟠りもなく、ふわツ! と笑つた。
「あの母さんの気嫌をとるだけのことで、逆に、いろ/\と妾達に難癖をつけたりなんかするなんて、馬鹿/\し過ぎるわ。そんなこと何うでも好い、兎も角、妾、あのお父さんのしかめ顔だけが滑稽だわ。ナンセンスたら、ないぢやないの!」
 思ひ出しても笑はずには居られない! と云つて、百合子は、父親の声色などをつかひながら、腹を抱へて、傍らの寝台に倒れたりした。
「家を出て……そして?」
「まあ、守夫さんたら、何うしたつて云ふのよ。何を、いち/\、妙に、考へ深さうな眼つきばかりしてゐるの――家なんて、もう、とつくに出てゐるわけぢやないの。――学校だつて、もう止めるわ。それとも兄さんの働きで、行かれゝば、続けるし……」
 百合子は、二年程前に、やはり東京で女学校を卒業してから、今は語学の専門学校へ通つてゐた。――滝本も二年前に、大学の理科を出てゐた。と同時に、父の死に出遇つた。滝本の母は、自分の経済上の安全を計つて、新しい負債をつくり、負債だけを彼に譲つて、長男である彼を、半狂人的の遊蕩児と吹聴した。――滝本は、何故、思ひ切り好く郷里を棄てることが出来ないのか? 自分ながら判断がつかなかつた。
「ローラのことだつて、阿母にだけは未だに隠し通してある。親父は、二十年隠し通して、更に秘密を僕に譲つたわけだが――」
 不図滝本は、そんなことを云つた。百合子達だけには、古くから滝本は「秘密」を明してあつた。
「まあ、これ、ローラさんの写真――妾、見違へたわ――守夫さんのお得意の西部劇にでも出て来る女優かしらと思つたわ。」
 百合子は滝本の卓子テーブルから置額を取りあげた。
「去年の夏のだつて――」
 ローラは、アメリカ人を母に持つ滝本の妹である。そして今、七年振りで日本を訪れようとしてゐる。
 滝本が、家うちの話などを初めると、
「妾、そんな深刻めいた話、きらひだわ。」
 と事もなげに百合子は一蹴した。
「ローラを何ういふ立場に置いたら好いかしら、と思つて――」
奇智ウヰツトが必要なのね。」
 と百合子は、勿体らしく首を傾げた滝本を冷笑した。滝本の一見真面目らしい、責任感などは、結局何うすることも出来ない架空の感傷だ――と百合子は思つた。母親の財産を掠奪してゞもローラにだけは、物質上の分配をしたい――滝本のそんな考へが百合子には無駄に思はれた。
「マヽと一緒に来るのか知ら?」
 百合子は、わざと白々しく云つた。
「観光団に加つて、ひとりで来るらしい。親父が送つてゐた生活費の最後の分を、そのために貯へて置いたのだつて――」
「兄さんに会ふために、遥々と海を渡つて来るなんて、それだけで、とても楽しいことだらうな――」
 皆な同じやうに、新しい生活の出発点に立つてゐるのだから、来てからの上で、
「さうだ、妾がお友達になるわ。」
 と百合子は、片づけた。――「守夫さん、相対性原理の説明をして呉れない。」

     二

 夕暮時になつたので二人は部屋を出て、海の見える縁側に出た。
「小父さん、今日は――何時妾が来たか知つてゐて?」
 留守番の年寄が、庭にゐたのを見て百合子は声をかけた。年寄は、驚いて、暫く見なかつた間に、すつかり立派なお嬢さんになつてしまつて、のあたりに見ても、声をかけられるまでは、あなたとは気づかなかつた――などと見惚れた。
「今夜、御馳走してね。手伝ふわ。妾、泊つて行くのよ。」
「御馳走は何にもありませんよ。」
「ぢや、妾が何かつくるわ。小父さんは何がお好き?」
 こゝの家では滝本と年寄の二人暮しであつた。滝本の父親が、母と別居して久しい間住んでゐた海辺の家である。
 百合子が、ぼんやりと暮れかゝつて行く海を眺めてゐる滝本の背後から、肩にぶらさがつて、ぐる/\回つて呉れ――などと面白がつてゐるところに、
「はい、今日は――」
 と云ひながら庭から入つて来た男があつた。そして百合子の様子を、不思議さうにジロ/\眺めながら、
「ちよつと――守夫君」
 と滝本を木蔭の方に招んだ。父親が没なつた後、母親の依頼で様々な家うちのことを整理してゐるといふ、五十歳前後の堀口剛太といふ遠い縁家先の者である。
「此処でかまひませんよ、私は――」
「では――」
 堀口は幾分てれた調子で、
「こんなものを、此処の家の前に立てることになつたんだが、まさか、君が斯うしてゐる処に立てるのも余りと思ふのだが、何うしたものかね、お母さんは関はないと仰言るんだけど――」
 と云ひながらトンビの袖の中から「売地、売家、興信銀行」と書いてある板切をとり出した。
「東京に行く日が解つてゐれば、それまで保留しても差支へはないんですが――」
「ぢや置いて行きなさいな。何れ私が、立てゝ置きませうよ。」
「それぢや困るんだよ。私の責任上――」
「ぢや、御自由になさいよ、何時出発しようと、余計なお世話だ。」
 二人の険悪な様子を眺めてゐた百合子は、苦しさうにして逃げ出して行つた。
「君は、此処や裏の蜜柑山などを自分のものと思つてゐると大間違ひだよ。」
「――散歩だ。」
 滝本は、相手になることを止めて靴を穿いた。彼は、石段を夢中で駆け降りた。言葉や事柄は別にして滝本は、堀口の姿を通して連想する母親の幻にかなはなかつた。
「何処へ行くの? 憤つてしまつたの?」
 百合子が追ひかけて来て、滝本の背中を叩いた。
「憤つたわけでもないんだが――」
「ぢや、悲しいの?」
「あんなこと云はれると、無理にも僕は此処に我ん張つてゐてやりたいやうな気がしてくる――そんな、反杭心が自分ながら醜くゝ思はれてならないんだ。」
「止めなさいよ――。妾、さつき、あんた達の睨め合つてゐる物凄い顔が、馬鹿気て見えたので、いきなり、このラツパを二人の後ろで吹いて、吃驚りさせてやらうと思つて、ね、あんたのお部屋から持ち出して来たのよ。妾が、後にそつと忍んで行つたのを、ちつとも気づかなかつたでせう。ところが、いくら夢中になつて吹いても、さつぱり鳴らないぢやないの、力一杯吹いても……」
 百合子は滝本のコルネツトを携へて来て、何うしたら鳴るのか? と質問した。
「吹竹を吹く見たいに幾ら力一杯吹いたつて鳴りはしないよ、斯う唇をしぼめて、先に唇を鳴しながら――」
 滝本は、一音階を急速に吹き鳴した。
「あゝ残念だつた。おどし損つてしまつた。」
 あの時、突然耳もとで、斯んなものを吹かれたら自分も堀口も、思はず飛び上つたであらう、薄暗がりの中で――と滝本も、何となく残念に思つた。
 海辺に向ふ松林の中を、二人は微風に吹れながら歩いてゐた。百合子が、何か唱歌でも吹いて見ないか? と云ふので、滝本は、オーバ・ゼ・ウエイヴ・ワルツなどを、調子高く吹奏した。
「此方を向いてゐても、家の方まで聞えるかしら?」
「風があるから聞えるだらう。」
「堀口さんにも聞へたでせうね。それにしても守夫さんは、自身の仕事の他では、それが一番得意?」
「中学生のうちからだもの。」
「東京へ行つて仕事が見つからなかつたら、ダンス・ホールのバンドに入つたつて生活出来さうね。」
「自信はあるな。」
 百合子を相手にしてゐると滝本は、悩みも不安も綺麗に拭はれて行く爽快さを覚へた。松林を脱けて浜辺へ出ると、未だ、あたりは明るかつた。
「あら/\!」
 と、滝本の口を見て百合子は、笑ひながら顔を顰めた。「妾の口紅が、一杯そこに喰ツついてゐるわよ。――妾が吹いたのをそのまゝ使つたもので!」
「百合さんは紅なんてつけてゐたの? 随分お洒落になつたんだな。」
 滝本は、手の甲で唇を撫でながら何気なく苦笑したが、不図、胸の震えを感じた。

     三

 翌朝滝本は、堀口からの電話で起された。
「森さんの娘さん――いや/\、昨日の君の家のお客様は昨夜お帰りになりましたか?」
「百合子さんなら、居るよ。」
 それが何うしたのか? と云はんばかりに滝本は云ひ返した。
「森さんの方から、其方に百合子さんを探しに行つた人があつたでせう?」
「誰も来ない――だけど、何のために貴方は、そんなことを私に訊くんです?」
「ふ――ん玄関に錠を降し放しにして置いて、居留守をつかつてゐれば世話はありませんね。仲々、何うして、用意周到だよ。」
 堀口は、厭味な嗤ひを附け足した。
「何だつて!」
 滝本は、思はず怒鳴り返した。――「失敬なことを云ふなツ!」
「凄い腕だね。たうとう娘を誘惑してしまつて……」
「馬鹿ツ!」
 滝本は、震へて、喉がつまつた。
「森さんでは捜索願ひを出すと云つてゐるぞ――」
「此処にゐるのが解つてゐて捜索も何もないぢやないか――」
「つかまらないうちに逃げたら何うかね。……君の母さんが、其家は逢引の宿ぢやないから、出て行つて貰ひたいと云つてるよ。」
「……俺の勝手だ。」
 滝本は、怒りのために全身が震へて、今にも昏倒しさうであつた。
「登記所へ行つて見て来ると好いんだ、其家が誰のものか直ぐ解るよ。出て行け。」
「何うしても出て行かなかつたら、何うしようといふんだね。」
 滝本は、不思議な落着を覚へた。
「悪党――女蕩し!」
「…………」
 滝本は、言葉を失つた。
 ――「妾が出るわ。」
 何時の間にか滝本の傍らで百合子が、この争ひを聞いてゐた。百合子は滝本の書斎の鍵を持つてゐたが、その手で受話機を引きたくつた。
「もし/\、妾、百合子ですが――」
 と静かに呼びかけた。
「堀口さんですか、昨日は失礼しました。……えゝ、妾、泊つたわよ。今日も明日も泊るつもりですわよ。」
 滝本は傍に居られないで、座敷に戻ると、家中を彼方此方と無意味に歩き廻つてゐた。書斎のドアは開け放しになつて、ベツドの毛布が床に半分落ちてゐた。――百合子がベツドの方が望ましいと前の晩云つたので、滝本は鍵を渡して、あけ渡したのであつた。そして自分は、留守居の年寄に傍に来て貰つて、ずつと離れた部屋で寝た程、余計な神経をつかつてゐるではないか。
「妾の父が見えたんですツて――ぢや、恰度好いわ、妾は、守夫さんと結婚する意志がある――といふことを云つて下すつても関ひませんわ。えゝ、でも、二三年先のことになるかも知れないけど……そんなことは此方の自由ですもの……えゝ、えゝ、これだけの話でもう充分よ。」
 それで、百合子は電話をつた。――と彼女は、次の部屋でまごまごしてゐる滝本の傍らを、パジヤマの袖で顔を覆ふようにして、眼も呉れずに駆け抜けた。そして滝本の書斎へ――彼女の寝室へ、慌しく駆け込んでしまつた。
 電話の、百合子の終ひの言葉は滝本には凡そ思ひも寄らぬものだつた。信じて好いのかしら――と疑はずには居られなかつた。仲裁のための、前の日のコルネツトの場合と同じような百合子の「ナンセンス嗤ひ」ぢやないのかしら――とも思つた。
 滝本は、そつと百合子の寝室の扉の前に来て、おして見ると、中から鍵が降りてゐた。
「百合子さん。」
 と呼んで見たが返事もしない。
 仕方がなく滝本が、庭をまはつて見ると、窓は閉つてゐたがカーテンに隙間があつたので、気合けはいを窺ふと、百合子は、ベツドに突ツ伏してゐた。床に膝を突いて――。そして、背中全体が切なさゝうに震へながら波打つてゐた。嗤つてゐるのか、咽び泣いてゐるのか? 滝本には判別し憎かつた。

     四

「百合子さん――」
 もう一度滝本は呼んで見たが、百合子は何時までも突ツ伏しつゞけたまゝ顔をあげようとしなかつた。
 ……だが、百合子が声に応じて顔をあげたなら、一体自分は何んな言葉をかけるつもりなんだらう――不図左う気づくと、余程理性を欠いたらしい自分のたつた今の挙動に後悔を知つて、そのまゝ窓下を離れた。
 何時堀口達が踏み込んで来るかも知れぬといふ場合に、斯んなところを見つかりでもしようものなら、また何んな聞くに堪へぬ罵倒を浴せられるかも計り知れない。別段堀口達の思惑を顧慮するわけではなかつたが、自分達にとつて余りに途方もない言葉を、あのやうに信じきつた態度で放言する堀口を、百合子の前に見出すのは苦し過ぎる光景に違ひなかつた。
 それよりも、斯んなところにうろ/\してゐるのを百合子に気づかれなかつたのも何よりの幸せであつた――レディの寝室の気合ひを窓の外から窺つてゐるなんて!
「そんな――」
 滝本は思はず苦笑ひを浮べながら、家の囲りを半周して表の方へ抜け出て来ると、遥かに海が見降せる庭先の芝生に出て寝ころんでゐた。
 ――「さあ、どうぞこちらから……いえ、もう、お関ひなく――。玄関と来たら、いつでもちやんと錠がおりてゐるといふ仕末なんですから。はツはツ……いやはや、どうも――熱烈なものでして、世間態も何もあつたものぢやありません。」
 堀口だな――と思つて滝本が振り返つて見ると、滝本が見知らぬ中年の婦人をいんぎんな様子で案内しながら、何時ものやうに大手を振つて庭先へ廻つて来る堀口であつた。泉水を隔てた木蔭に寝ころんでゐたので彼等は滝本に気づかなかつた。
 堀口は椽側から座敷の中を覗くと、
「これは、何うも――」
 と思はず嶮しく顔を顰めて、伴れの婦人を顧た。――其処には、早朝に滝本が堀口の電話に起されて、飛び起きたまゝの寝道具が取り乱れてゐた。堀口が覗いた椽側の雨戸が一枚開いてゐるだけで、人の気合の有無も判別し憎いほどの暗さであつた。
 急に声を潜めてしまつたので滝本のところまでは言葉は達しなかつたが、堀口は不思議な笑を堪へながら胸を張り出したり、屹ッと眼を据えて、何事かを囁きながら指差しをして、大業に点頭いたりした。――すると彼等は、更に何事かをひそ/\と耳打ちをしながら、足音を気遣ふような姿で、南天の繁みの間をくゞつて裏の方へ廻つて行つた。
 二人は百合子を見つけ出すであらう――と滝本は思つたが、たゞ、変な人達だな! といふ心地がしたゞけだつた。そして彼等が、途方もない淫らな想像で勝手な好奇心を動かせてゐるらしいのに、馬鹿々々しさを覚へたゞけだつた。
 自分は、それにしても今朝、堀口にあんなことを云はれて、何うしてあんなに逆上したのだらう――と滝本は、あの時の心的状態を回想して見ると、急に、わけもわからなく、百合子がいとほしく思はれて来た。――何も知らずに寝台に突ツ伏してゐるであらう百合子を、カーテンの間から覗き見してゐるであらう二人の者の心持になつて想像すると、滝本は酷く不健全な、そして目眩めまぐるしく甘美な陶酔に誘はれながら得体の知れぬ烈しい嫉妬感に襲はれた。
 滝本が二人の後から、裏庭に廻つて来て見ると、百合子は窓から半身を乗り出して、至極長閑な面持で、窓下の二人の者と何やら会話をとり交してゐる。――滝本には意外な光景だつた。
「守夫さん、何処へ行つていらしたの。妾、すつかり寝坊しちやつて、今母さん達に窓を叩かれて、吃驚して目を醒ましたところなのよ。」
 滝本の姿を見出すと同時に百合子は左う云つた。それで、窓下に立つてゐる堀口と伴れの婦人が滝本の方を振り返つた。
 と、堀口が極めて恬淡らしい豪傑気なひとり笑ひと一処に、
「やあ!」
 と云つて滝本の肩を叩いた。「今朝は、何うも、つい言葉の勢で飛んだ失敗をしてしまつたよ。悪く思はないで呉れ給へ。」
「どうも此度は、また百合子が――」
 傍らの婦人が続いて挨拶した。
「森さんの奥さん――」
 堀口が、百合子等の継母を滝本に紹介した。「君は始めてだつたかね。」夫人は主人の代りに出向いて来た由などをつけ加へた。
「ぢや、二階で待つてゐるからね。」
 堀口が滝本へとも百合子へともつかず左う云つて夫人と一処に其処を立去つた。滝本は堀口は寧ろ曇り気のない愉快な人物であると思ひ直した。
「あれから、ずつと起てしまつたの――散歩にでも行つてゐたの?」
「……直ぐ、あの時百合さんの後を追つて此処に来て見ると、ドアに鍵が降りてゐるようだつたから――」
「いゝえ、妾、鍵なんて降しはしなかつたわよ。」
 では、あまり慌てゝ感違ひでもしたのだらうと滝本は思つたので、
「僕はあの時百合さんが傍に居るなんてことは少しも知らずに、堀口さんと思はずあんな喧嘩をしてしまつたけれど、若し、あれが、もう二三言続いたら僕は夢中になつて外へ飛び出して行つたかも知れなかつたよ。百合さんが傍から受話機を引つたくつて呉れたので――幸せだつたんだらうな。」
 と、胸のうちに震へを覚へながら呟いだ。
「そんなことになるだらうと思つて妾も、いきなり仲裁に入つたんだけれど、それにしても、やつぱし昨日と同じ原因で、あの張札かなんかのことで、堀口さんと、あんなことになつたの?」
「…………」
 堀口が何んな類ひの雑言を放つたか百合子は気づいてゐないと見へる――と思ふと滝本は、決してあの罵り合ひの理由を伝へるわけにはゆかなかつた。「百合さんには、あの人はあの時何んなことを云つたの?」
「何だか好くはわけがわからなかつたけれど、妾が此処に泊つてゐることを誤解してゐる見たいだつたわ。」
「――侮蔑を感じなかつた?」
 滝本は、おそろしく眼を視張つて百合子の気色を窺つた。
「何うして……?」
 百合子はけげんな顔をして、軽く首を傾げた。――そして稍間をおいてから、掌で嗤ひをおさへながら、
「そんな、侮蔑なんて――そんなもの妾には解らないわ。」と云つた。滝本は、訊ねきれぬものが多過ぎて、途方に暮れた。――寝室に駆け込んで、突ツ伏してゐる百合子の姿が、あのまゝで、何時の間にか薄ら甘い疑問の、そして夢のやうな画になつて印象に残つて来た。白昼の架空に描いた幻のやうに見えたり、古風な物語の中のアカデミー派の挿画の一つのやうに、眼の先の百合子の姿から遊離して、頭の一隅に映つて見へてゐた。
「兎も角一度家へ来るようにツて母さんが今迎へに来たんだけど――それはね、世間態なんですつて、此処に居ることが許されないんですつて――」
「それは当然のことかも知れないね。」
「だから妾、黙つて従いて行くわよ。だけど直ぐまた戻つて来てしまふわ――帰るとか、帰らないとか、そんなことで母さん達と云ひ争ふのがつまらないから、散歩のつもりで従いて行くだけのことよ。変な云ひ方をするようだけど、自分の自由性フレキシビリテイを自分ではつきり信じてゐるから――平気だわ。」
 滝本には百合子の言葉の意味が、はつきりと解り憎くかつたが、
「ぢや今度は、あつちからいきなり東京へ行つてしまふつもりなの?」と訊ねた。
「いゝえ。」
 と百合子は「今度は決して誰にも解らないやうに気をつけて、また此処に来るつもりなのよ。」
 さう云いつて、いたづらさうに肩をすぼませた。
「森からの便りを待つて、それから二人で東京へ出かけるかね。」
 百合子の兄の武一のことを滝本は云つた。
「えゝ、昨日約束した通り――。ぢや行つて来るわよ。そして、夜か、明日の朝早く、変装でもして来るかも知れなくつてよ。そのつもりでね、今度は、しつかりかくまつて下さいよ。……何だか、昔の物語見たいで妾面白くつて仕方がないわ。」
 百合子は、戯談じやうだんらしく胸を張つて滝本に握手を求めた。
「芝居の――何か昔風の科白を知らない? こんな場合の――」
 滝本は百合子の手を執つて、
「知らない。」と不安さうに呟いた。
 すると百合子は急に真面目な顔をして、
「いつそのこと、あんな事件を背景にして、芝居を演つてゐるつもりにならない。当分の間、当り前の言葉なんて皆な止めにしてしまつて、中世紀のことにでもしてしまはうぢやないの――さうだ、妾、ほんとうに変装して来るから、守夫さんもそのつもりで沢山言葉を考へておいてね。」
 そんなことを云ひ残すと百合子は靴を穿いて、窓から降りた。
「母さん、お待遠様――妾、もう外へ出ましたよ。」
 玄関の方で百合子の声がした。――滝本は見送りにも出ず、ドアに鍵を降すと、そのまゝベツドにもぐつてしまつた。

     五

 その晩も翌朝も百合子の姿は現れなかつた。便りもなかつた。――滝本は翻訳の仕事にとりかゝつた。
 町はづれの河堤の桜が咲きはぢめて、夜桜の雪洞が燭いたから花見へ行つて見ないかと近所の若者に誘はれたが滝本は、昼も夜も自分の部屋に引き籠つてゐた。庭先に出て見ると、この村と隣りの町との境ひになつてゐる桜のどてのあたりが、月夜の下に、明るくどよめいてゐるのが遥かに見降せた。
 背後の丘を見あげると、花見へ赴く人達が提灯を振り翳しながら参々伍々隊をつくつて降つて来る。百合子の家も、その丘の向ひ側であつた。
 丘を降つた人人は滝本の家の庭先から見える街道に達すると、恰度、花道にさしかゝつたやうに身づくろひを改めて、意気揚々と河堤を指して行くのであつた。
 その晩も滝本は、人の出盛る時刻になると庭先に出て、木陰から街道を眺めてゐた。
 ボール紙の鎧甲に身を固めた厳めしい武士が、馬に乗つて行つた。恋人と腕を組んで打ちはしやぎながら行く女装の若者もあつた。奴の行列もあつた。金棒引の木遣も聞えた。ピエロオもゐた。楯をふり翳した騎士もゐた。蛇の目のからかさを構へて偉さうに見得を切つて行く定九朗の顔を注意して見ると、B村の水車小屋の主であつた。八重垣姫に扮した鍛冶屋の娘が、馬車から下りるのを見た。
 逃げ出す機会を奪はれた百合子は、この夜桜の晩を待つてゐたに違ひない――と滝本は想像したのである。
 それにしても何んな変装を凝して百合子が現れるだらう? と思ひながら一心に彼が行列を見守つてゐた時、森さんから電話である――と年寄に呼ばれた。
「俺だよ。今、停車場に着いたところなんだが――」
 百合子の兄の武一だつた。竹下と村井を一処に伴つて来たのだが、人通りが余り多くて歩き憎いから遅くなつて其方へ行かうと思ふ、それまでこの辺のカフエーでゞも時を消したい、話が沢山あるから迎へに来ないか――といふのであつた。竹下は画、そして村井は小説を志ざしてゐる森と滝本の共通の友達だつた。
 滝本は、百合子とのいきさつを最も簡単な言葉で伝へた後に、今にも来るであらうと待ち構へてゐるところだから行き憎いと断ると、では俺達も仮面めんでもかむつてお花見の堤を通り抜けて行かう――と云つた。
 もう一辺庭先に出て見ると、もう大方花見の行列も出尽してしまつて、遥かの田甫道を煉つて行く炬火たいまつや提灯の火が、海の上の漁火のやうに揺れながら遠のいて行つた。月光を浴びた菜畑が白く、ちらちらと波のやうに映つた。
 ――「お――い、守夫、見えるぞ。」
 あれは竹下だと滝本は声の方を振り向いた。
「そんなところで、変装をして逃げ出して来るお姫様を待つてゐるなんて、図々しいぞ。」
 村井の野次で、滝本も思はず笑ひ出してしまつた。――滝本は声の方へ駆け降りて行つた。
「やあ/\!」――「何うしたと云ふんだい。」――「ちえツ、馬鹿だな。」
 わけもなく、哄笑と一処に、四人の者は手を執り合つたり肩を突いたりした、たゞ、それが久し振りに出会つた挨拶の代りであつたらしい。――見ると遠来の友達等は、登山家のいでたちで皆な夫々はち切れさうなリユツク・サツクを背中につけてゐた。――昂奮して、とりとめもない乱暴な言葉を喚き会ひながら四人横隊になつて腕を執つたり肩を組んだりして石段を上つた。
「これで一先づ山を極めたといふわけなんだよ。――ブラボー。」
「旗を持つて来たぞ。朝になつたら掲旗式を行ふんだぜ。」
「守夫――お前にはラツパ吹きを任命する。」
 何うも調子が高過ぎると思ふと、皆なは道々ビールのラツパ飲みをしながらやつて来たのだなどと気焔を挙げた。
「お前が東京へ行くんなら、この家を俺達に引き渡せ。俺達が入つてしまへば、たゝき壊されるまでは動きつこはないんだから。」
「俺達はこゝを陣営にして、ロビン・フツド生活を営む決心でやつて来たんだ。」
「竹下と村井は、生活と芸術に就いてさんざんに悩んだ上句、自分達の芸術の樹立を念じて、生活は最も原始的に、バアバリステイクに片づけて――ネオ・ローマン派の道を進まうといふ決心なんだよ。東京では今のところ、単に生活に追はれるだけで、自分の仕事を盛りたてようとする予猶が見出せないといふんだ。俺も二人の意見に賛成した――プラトンの体系に依る共和国をつくつて……」
 武一の云ふところに依ると、竹下も村井も、そして自分も、あまりに豊かな理想にもえて出かけて来たのだから口では説明しきれない、だが、恰も今宵は、武者修業の首途かどでにのぼつたジーグフリードが、先づ森の鍛冶屋を訪れて、剣を打ちはぢめた意気である――といふのであつた。
「で――武一、君は?」
「俺は東京の仕事さへ見つかれば、此方からでも通ふけれど――まあ、そんな話は後にして呉れ。」
 武一は滝本と同窓の理科出で、滝本と同じように未だはつきりと専門も見つからなかつたが、多分のプラトン的傾向も有つてゐた。
「それに俺には、やつぱし自分の手で片づけなければならない家の仕末もあるし――だが今度こそは愚図/\してはゐないよ。もう、一切の感情は卒業してしまつたから、ロビンの荒療治で退治てしまふ。何れプロツトに就いては守夫の頭も借りるだらう。……お前のオート・バイは使へるか?」
「あゝ、ガソリンさへあれば――」
うちのタイキはゐるか知ら?」
 森は自家の馬のことを訊ねた。
「お百合の話に依ると塚田村の篠谷に預けられてゐるさうだよ。」
「よしツ――掠奪してやる。――おい、竹下、篠谷といふのは業慾な金貸者なんだよ。」
「俺はその男から金を借りたいな。」
 竹下が、嗤ひながらそんなことを云つたのに武一は耳も借さず、
「ロープやテントなどは守夫のところにあつたな。こいつ登山なんてしたこともないんだが――皆な巧みに利用するぞ。」
 と花やかに独りで点頭いてゐた。
 事々が、話題が、突飛過ぎて滝本はいろいろと我点が行かなかつたが、久し振りで友達に会つたことの面白さに恍惚としてゐた。そして伴れ戻されて行つた百合子の話などをした後に、
「敷き放しになつてゐた俺の寝床を見て、堀口が物凄い表情をした時には、少々参つたね。泊つたといふことで、すつかり逞しい想像を回らせてゐるのは、あんまりデカダン過ぎると思ふんだよ。」
 などと云ふと、村井と竹下が神妙に眼を視張つて、
「それあ愉快だ。ギツクリとしたであらう堀口といふ男の衝動を想像すると、何となく好い気味ではないか。」
「然し、それは空しいエロ風景だな。」
 と叫んだりした。
 武一は、あかくなつて話頭を転じた。
「村井は小説よりも寧ろ鉄砲の方が巧いと自慢してゐるし、竹下の腕力は三人前なんだ。そんなことが、悉く、お伽噺の中のチヤムピオンのやうに現実で役に立つといふことになつてゐるんだ。守夫と俺は、田園の、かくれたるスポーツ・マンだし……」
「然も俺は料理の名人だ。」
 と竹下が鼻を高くした。「下宿を追つ払はれた村井と失業者の森を、俺のアパートで今日までちやんと、この腕で養つて来たんだからな!」
「これからは瓦斯や水道を止められる心配はないから、いくらでも腕は揮へるだらう。」
 三人ともいよ/\行き所がなくなつたので、皆なの持物を一切売り尽した上句、これだけの仕度を整へて出発して来たのだ、若し此処が不首尾であつたらキヤムプを続けるつもりだつた――といふことを村井が滝本に説明したりした。――滝本は、凡ゆる生活上の難儀をものともせずに踏み超えて、ひたすら自分の芸術の道に生きようとしてゐる竹下や村井の情熱と自信を尊く思つた。
 今夜限り――などと約して、ビールの乾盃を続けながら、レコードをかけて男同士で踊つたり、「乾盃の唄」を合唱したりした。――竹下は、皆なの顔をスケツチして、誰を、ロビンにし、誰をウヰール、また誰をセント・ジヨーンにしようか? などと、はじめは冗談めかしく云つてゐたが、いつの間にか無気になつて、
「滝本だとか、村井だとかと、これまでの名前で呼び合ふのは既成観念につきまとはれて面白くないから、これから、何か別の名称を吾々の代名詞としようぢやないか。少くとも、この生活の圏内では――」
 などと途方もない提言を持出した。
「名前ばかりでなく、言葉もつくらう。ガリバー旅行記の小人国や大人国の言葉を参考にして、よしツ、そいつは一ト月のうちに俺が拵へるよ、先づ幾通りかの暗号を――」
 と森が讚同すると、村井も膝を打つて、
「俺は、この附近の地理を験べてから、俺達にとつてだけ所用な個所に古代アテナイの花の名前を引用した符号をつけよう。」
 と調子づいた。
 少しばかりのビールの酔で皆なが他合もないロマンチストになつてゐたところへ、裏の滝本の部屋の窓を注意深く叩く音が滝本にだけ聞へた。と彼は弾かれたやうに飛び出して行つた。
 ――「これを森さんから頼まれて来ました。」
 見知らぬ若者が、声を秘めてさう云ひながら、小型のバスケツトを一つ滝本に渡すがいなや、返事も待たずに忍び去つた。
「百合子が来たのか?」
「違ふ。こんなものが届いた。」
 滝本が、皆なの凝視を集めてゐるバスケツトを卓子テーブルの上で開くと、一羽の鳩が入つてゐた。
「おやツ、これは俺の鳩ぢやないか!」
 森は思はず叫び声をあげると同時に、懐しさに堪へられぬまなこで小鳥を掌の上にとり出すと、翼に頬を寄せた。――「好く生きてゐたものだな!」
 彼の眼には不図涙が溜つた。――それは、彼が我家にゐる頃飼育してゐた伝書鳩の一員だつた。
 手紙を、滝本は籠の底に見出した。勿論百合子からの手紙だつた。
 ――あの時何気なく帰つたら、父が不在で堀口が日夜滞在してゐる、父から書類の整理を依頼された由である、継母は何故か私の行動に就いてあらゆる監視の眼をそばだてゝゐながら、表面では寧ろ気嫌をとつてゐる、何故に私がそんなに必要なのか解らないが、外へ出ようとでもすると母と堀口とで威嚇の気色さへ示して絶対に許さない、同時に異様な生活を見出してゐるのであるが、それは会つた時に話した方が好いと思へたら話す――といふやうな意味を誌した後に、
「真に古めかしい物語の通りになつてしまつたわ。で、あなたはあの時あたしが云つたやうなほんとうのナイトになつて、この次の此方からの便りの指定に従つて、その晩、ハルツの塔に幽閉されたお姫様を救ひ出しに来なければならなくなつたのよ。一先づ、そちらの消息をこの鳩に托して報じて下さい。」
 と書いてあつた。

     六

「空しく里に帰りて楯の蔭にあり。」
 森武一は、唇を噛みながら斯んなことを書き誌してから、[#ここから横組み]“St. Patrickパトリツク[#ここで横組み終わり]と、署名した。
「では、俺は――」
 村井は、重い剣でも執りあげる身構へ見たいにシヤツの袖をたくしあげながら、
Sebraセブラ の意気込みだ。」
 と名前セブラを連ねた。
「昔、勇士ありけり、その名を St. Authonyオーソニイ となん称びて、勇気に恵まれ、婦女を敬ひ、智謀に富む、長じて南方の騎士シルバー・ナイトの旗下に馳せ、青き炎の城マジツク・ガーデンを探るべく……」
 竹下は、奇妙な文句を暗詠そらんじながら物々しく筆を執つて[#ここから横組み]The Coming of St. Authonyオーソニーもやつてきた[#ここで横組み終わり]と書いて性急な咳払ひを続けた。
 パトリツクと云へば、翼のある白馬ペガウサスに打ちまたがつて、地獄の魔王から「如意の剣」を奪ひとるクリステンデムの「赤靴下ダンデイ」だ。クレテの海底に埋没したカビールの女王の腰帯をもとめに水底を掻き潜る長呼吸いきの選手の名だ、セブラは――。
 ――何うも、冗談なのか、真面目なのか滝本には、これらの「シルバー・ナイト」の鼻息のほどが解らなかつたが、自分の番になつたので、同じく単に無言の健在の意を知らせるだけのつもりで自分の名前を誌すと、傍らから武一が早速見とがめて、
「そんな呑気な名前なんて書き入れて、若しも堀口の一味にでも――」
 と、鋭い注意を与へた。「前にも俺は伝書鳩ネープを彼方の森で打たれたことがあるぢやないか、それ、この前の総選挙の時だつた、疑り深い彼等はそれを反対党へ送る秘密通信か何かと間違へて……」
「選挙の時だつたが、然しあれは篠谷の太一郎がお百合に宛てられた手紙を変な風に感違ひして、ネープが飛んだ犠牲になつてしまつたわけさ。」
「酷い奴だな。――此頃彼奴は蜜柑畑のリラを追ひ廻してゐるさうだが、消息を聞かないかね?」
「聞かない。」
 と滝本はかぶりを振つた。蜜柑畑の働き手である此処の家の留守居の年寄の娘が、リラの花のやうな感じだといふので彼等はさう称んでゐたが――。蜜柑の季節になるとカーキ色のシヤツで、まるで少年のやうな姿で、畑の手伝ひをしたり、口笛を吹きながら御者台に乗つて問屋へ運ぶ荷物の馬車を駆つたりしてゐる八重といふ娘である。「八重リラなら大丈夫だよ。太一見たいなあんなでれ/\した野郎が、変に云ひ寄つたりすれば、あの鞭でひつぱたかれる位ゐのものだよ。」
「……ネープのことを思ひ出すと俺は、何うしても太一の奴と……」
 武一は、もう今ではこの一番ひとつがひより他に残つてゐない伝書鳩ハンスを籠から取り出して、可憐で堪らなさうに頬を寄せてゐた。
 滝本は、いつか武一が血に染つたネープのなきがらを拾ひあげて、泣いて――何う慰める術もなかつたあの日の事を思ひ出した。篠谷の倅の太一郎がステツキ銃でねらひ打ちにしたのである。
 銃声を聞いて――ネープの姿を見送つてゐた武一と滝本の眼に、同時に、ネープが燕のやうに腹を反して転落するさまが映つた――二人が駆けつけて見ると、
「僕は野鳩のつもりで打つたんだよ。」
 太一郎が脚下のネープを指して寧ろ得意さうに呟いた。――武一は、たらたらと血潮がしたゝり落ちるネープを懐中ふところの中に乗せると、素肌の胸に直接ぢかに当てゝ、彼女の体温を見守つてゐたゞけだつた。
「君は――」
 と滝本は思はず理性を失つて太一郎の肩をつかんだ。「さつき僕等がこれを飛ばさうとしてゐるそばを通つて――解つてゐた筈ぢやないか!」
「この辺には鳩は多いからね。」
 太一郎は皮肉な抗弁を試みたが、唇は微かに震へてゐた。――。
「僕はこの通り官札を持つた遊猟家なんだから……云へば、まあ、それは気の毒なことをしましたな――と、それだけの挨拶で済む筈だよ。」
「遊猟家だつて!」
 その言葉に滝本は、無比な憤りを覚へて、力一杯つかんでゐた肩先をした。「鳩についてゐた手紙は何うしたんだ。君は、その手紙を見る為に、斯んな酷いことをしたんだらう。」
 その頃武一は滝本の処へ鳩の籠を運んで来ては、自家までの伝達の練習をつけてゐた時分であつた。――武一の家の屋根で、百合子がそれを待つてゐる役だつた。だから此方から飛す時に別段用もなくても何かしら通信文を認めて送つたりしてゐたのだ。屋根の上で、それを百合子が読んでゐるところを、太一郎は何時も遠くから眺めて、余外よけいな感違ひを起して好奇心を持つたのである。
 その時のは何んな内容だつたか滝本も忘れたが、
「うむ――それは……」
 太一郎が狼狽の色を露にして、
「手紙とは知らなかつたさ。妙なものがついてゐると思つて見たゞけだよ。そこに棄てゝあるよ。」
 草むらの蔭を指差したので、滝本が腕を離して、そつちを探さうとすると、
「あツ、間違へた――僕は、うつかり懐中へしまひ込んでゐた!」
 と慌てゝ太一郎が飛びのきながら示した紙片かみきれを見ると、表に滝本が徒らに大きく書いた百合子の宛名があつて、そして、もう封が切つてあつた。滝本が更に責め寄らうとすると、もう太一郎は五六間も先へ逃げてゐて、振り返つて、
「好い気味だ。鳩位のことで泣きツ面をしてゐやがら――。今にもつと物凄い痛手を喰はしてやるから覚へてゐろ!」
 などゝ、いわれもない罵りを浴せて、一散に駆け出して行つた。夢中になつて滝本は追ひかけようとすると、ネープを抱いたまゝ草の上に倒れてゐる武一に気づいたので、武一の方へ駆け寄つた。
 裏山の櫟林の一隅には、その時武一と滝本が拵へたネープの墓が今も在る筈だ。
「で、守夫は、St. Davidダビツト といふことになつてゐるんだよ。」
 独りで点頭きながら武一が指命したので滝本は、わけも知らずに左う書き換へた。
(これは後になつて滝本は読んだのであるが、それらの名前は村井の、彼がいろいろな古典の騎士物語や神話中の人物を引用して、それに自分達の心象、経験、憧憬等を仮托しながら創作した新しい浪漫派の歴史小説中のことになぞらへてゐたのであつた。)
 メデユーサと称ふ女悪魔の従妹であるボーラスは夫を殺し、新しい夫を迎へるために、先の夫との子供であるパトリツクを邪魔にした上句玄関番の悪竜ブラツク・ドラゴンに命じて、彼を殺さうとした。南方の騎士シルバー・ナイトの一員に加はる念願でパトリツクが或日、家を棄てゝ旅路に上つたところをりうは闇の森蔭で待伏せした。ブラツクは、その両眼を、パトリツクがその下を眼指して進路を運ばなければならないオリオン座の星のやうに輝かせて、巧みに誘き寄せた。南方の騎士の館は、オリオン座を横切る銀河のほとりに位してゐる。――思はぬ眼近にオリオンの星を見出したのでパトリツクが雀躍しながら駆け寄つた時に竜はいきなり火焔の洞窟と見紛ふ口腔くちを開けて迫つた。が、パトリツクはその時、寧ろ自ら進み寄つて、一気に、最も身軽な三段飛びで、身を翻して化物の肚の中へ飛び込んでしまつた。だから五体には化物の歯型一つのこらなかつた。ボーラスの玄関番ブラツクは、思はぬ失策をしてしまつて眼を白黒させながら思案したが、肚の中のパトリツクを殺すためには自分も死ななければならぬといふ手段てだてより他に、何んな考へも浮ばなかつた。彼は、このまゝではボーラスの館に帰るわけにも行かず、死ぬ決心は決してつかず、泣きながら彼方此方の山々をうろつき回つてゐた。その間にパトリツクは揺籠よりも快い竜の腹の中で充分の眠りを執り、適度のオーミングも役にたつた。竜は腹の中の重味を持ち扱つて愚図/\してゐる間に、激烈な神経衰弱に襲はれて、青い湖のほとりまで差しかゝると列車が停止するやうに静かに悶死した。パトリツクは竜の腹から這ひ出て、湖の岸で顔を洗はうとすると、水の中に、久しい前から行衛知れずになつてゐた妹のアニマスの顔が映つてゐた。後ろを振り仰ぐと、バベルのやうな高塔がそびえてゐた。塔の頂上の窓から、アニマスが半身を乗り出して、救ひを呼んでゐるらしかつたが声はとゞかなかつた。
 二人は、幼い頃にエヂプトから来た家庭教師の星占ひの博士に教へられた、体操に依つて表示する象形文字の信号法を思ひ出して、自由な会話を始めることになる……。
 閑話休題さて、パトリツクは、竜の腹に眠つた間に「争はずして悪魔を退治する術」を感得した楯を持たぬ騎士の名前である。ダビツトはパトリツクの友達で、アニマスの恋人である。
 海の上からは発動機船の円かなエンヂンの音が悠やかに響いてゐた。白雲の影ひとつ見あたらぬ澄みきつた青空であつた。
 そこで武一は、出来あがつた「メツセージ」を伝書鳩のハンスに結んで、
「さあ、飛すぞ!」
 と一同に合図した。――党員達は胸先に十字を切つてハンスの行手の安全を祈りながら、交々その翼に接吻くちづけを贈つた。――やがてハンスは武一が徐に眼上にさゝげた掌の上で、疾る党員達の心を圧鎮めるかのやうな沈着な羽ばたきと共に、青空を指してゆらゆらと舞ひ上つた。そして党員達の頭上に、円光のやうな輝かしい螺線の輪を描きながら、R村の方角を見定めると、丘の彼方を目指して流星の勢ひで姿を没した。
 皆は、何んな事件が起らうとも朝の幾時間かは夫々自分のための仕事にたづさはるといふ掟の下に、プレトン流の共和生活を始めたところなので、この第一日の朝も斯うしてハンスを見送つてしまふと、急に黙り込んで家の中へ立ち戻つた。
 竹下は、スケツチ・ブツクを携へて水車小屋の見える街道を横切つて行つた。村井は、滝本の書架から二三冊の詩集をとり出して、また庭に出て芝生に寝転んでゐた。夏の砂日傘サンド・パラソルを立てゝ、彼は、その影で、
「マイエーの蛮族は草を追ふた、妻と子と家畜を従へ、一袋の銀貨を腰につけ――」
 などゝ、うたひながら創作の構想に耽つてゐた。
 滝本は、自分の部屋に来て机に凭つたが、空け放された窓から見える明るい丘をぼんやり眺めてゐた。――見ると、ジクザクの山径を脚速く昇つて行く人形のやうな男が此方を振り返つて帽子を振つた。――武一である。滝本も手を振つた。
 間もなく武一は頂きに達すると、雲ひとつ見えない青空をスクリーンにして武張つて大の字に腕を挙げ、熱い意気を示すかのやうであつた。――丘に反射する雨のやうなひかりが眼ぶしく明る過ぎて、武一の姿だけが、見霞むデイライト・スクリーンの真ン中にぽつんとシルエツトになつて映り出てゐるので、一体何方を向いてゐるのか見定め憎かつた。が、一息つくとそのまゝ向ひ側に降りて行つたので、此方を背にしてゐたことが滝本に解つた。武一は、丘の向ひ側の村にむかつて、武張つてゐたわけである。ハンスの行手を見定めに行つたのだらうと滝本は思つたが、それにしては大分力の容れ具合が凄じ過ぎる! と軽い不安の念に打たれた。
 俺は今のところ君達のやうに自分の仕事を持たぬ身であるから、その時間には、独りで思つたまゝの事を遂行してゐる――武一は、さつきそんな事を云つてゐたが? ――と滝本は思ひながら、翻訳の仕事を展げてゐた。彼の仕事は、星学大系といふ出版物の一部分であつた。

     七

 八重の家は水車小屋に並んだ村境ひの、馬蹄の中に塚本と誌したくゞり戸のついた鍛冶屋である。父親は蜜柑畑の仕事を持つて殆んど滝本の方に寝泊りをしてゐるし、兄の七郎は漁場につとめて、これも三日置き位にしか戻らなかつたから、この三人暮しである塚本では店は大方休業にして八重も漁場へ手伝ひに行つたり、夜は父親の方へ泊りに行つたりしてゐた。
 八重と父親は幾日振りかで、荒れ果てた工場に戻つて来た。篠谷から、早急に仕事を頼まれたからである。ラツキイの鉄沓かなぐつを打たなければならなかつたのである。七郎に暇のない時は、八重が合槌を打つことに慣れてゐた。七郎に暇がある時は父親が他の仕事に赴いたから、この頃では工場の助手は殆んど八重ひとりの受持であつた。
「森の鍛冶屋ツてえのを覚へた、父さん?」
「何だい。それあ?」
「守夫さん達が好くレコードで演つてゐる。妾あれがとても気に入つて、すつかり覚へてしまつたわ。それで、この間借りて来たのよ、カバン見たいな蓄音機と――。仕事をしながら、あれを掛けたら面白いだらうと思つて――森に住んでゐる貧乏な鍛冶屋が、朝は鳥と一処に目を醒して、トンテンカン、トンテンカン……鳥の鳴き声に合せて大働きを始めるところなのよ。」
「あゝ、あの騒々しい楽隊か、チエツ、馬鹿にしてゐやがら! が、まあ結構だよ。借りて来たのなら掛けて見るが好いさ。こいつはどうしても今日中に仕上げてしまはなければならないんだから。」
 父親は煙管をくわへながらふいごをあをいでゐた。薄暗い土間に焔がゆらぎはじめた。
「ね、父さん、表の障子を閉めて頂戴よ、仕事着に着換へるんだから。」
 八重は毛糸のジヤケツを脱ぎ、そして素肌になつて、壁にかゝつてゐた男用のメリヤスのシヤツをかむり、スカートを短くたくしあげながら脚のかたちに分けて、胸からダブダブのパンツが続いてゐる仕事服を穿き肩先まで備錠を掛けた。そして、バンドも何もついてゐない古い学生帽を両耳をかくす位に深くかむつて(火の粉が飛ぶからである、)父親に代つて鞴の前に安坐あぐらをした。
「お前をな、篠谷で小間使に欲しいといふ事伝ことづてがもう大分前にあつたんだが、俺は冗談ぢやないと思つて、まあ態好く断つて置いたんだが、あの太一郎の了見が俺には解らないよ。」
 父親が突然そんなことを云つた。
「鍛冶屋の娘が、そんな小間使ひなんて……お行儀ひとつ知りはしない。――この格構を見に来るが好いわ。」
 八重は腕が足りないので、バツク台でボートの練習をしてゐるやうに前後に大きく体を屈伸させながら鞴の把手を動かせてゐた。
「ほんとうだ!」
 父親は、架空の影をセヽラ嗤ふやうな苦笑を浮べ、娘に好意の眼を向けてゐた。
「然し、お前、斯んな暮しを不服に思ふことはないかね、稀には。いつの間にか、もう年頃なんだからな。」
「不服――それあ不服だつてあるわよ。」
 八重は鞴の把手と一処に、わざと床とすれ/\になる位につて、
「あらまあ、父さんたら、妾が不服だなんて云つたら、あんな心配さうな顔なんてしてゐるわ。可笑しいな!」
 と笑つた。八重は、ふざけて、気取つた演説口調で、
「何んな生活にだつて、幾分の不服や憂鬱といふものはつきまとふのが当然であり、たゞこれを以何に取り扱ひ……ハツハツハ、学校で修身の先生が仰言つたのよ。」
 などと戯れながら、起きあがつた。
「あらまあ、つまんないことを云つてゐるうちにすつかり火が出来過ぎてしまつたぢやないの。」
「篠谷の鉄沓を打つのは此方も不服だ。」
 父親と娘は反対の位置に取り換つた。真赤に焼けた鉄片を金床の上に取り出して父親がコツコツと金槌で叩いてゐる間に八重は、仕事場に続いた畳の居間に這ひあがつて、畜音機を廻しはじめた。其処の壁の上には、もうすつかり茶褐色に変つてゐる七郎のと並んで八重の高等小学校卒業の優等の免状が額に入つてゐる。卒業生の記念の写真も並んでゐる。
「さあ、出来たよ。」
 父親が合図すると、八重は力一杯の両腕で持ちあげる槌を執つて向ふ前に構へた。父親が調子をとつて小槌を振りあげ、蹄鉄を続け打ちにした後に、そら来たツーカーンと金床を打ち鳴らすと、大上段に振り翳されて合図を待つてゐた八重の槌が火花の中に振り落された。――二つの槌の音が入れ交つて、狭い工場には忽ち活気が満ち溢れた。
「レコードが恰度合ふぢやないの。あれが森の鍛冶屋なのよ。」
「なるほどな――。この勢ひなら午までには大方仕上るぜ。厄介払ひだ!」
 二人は踊りでも踊つてゐるやうに面白く調子づいて、しきりに仕事を忙いでゐた。
 恰度それと同じ時刻であつた。七郎が浜辺で網干しの仕事にたづさはつてゐるところに、かも打ちの散歩に来たといふ太一郎が、ステツキ銃を羽織の蔭にぶらさげながらやつて来て、手まねぎした。
「うちの誂へものは一体何時出来るのかね!」
 七郎は聞いてゐなかつたので、知らない旨を答へると太一郎は、ツとして、
「君の親父は恩知らずだな。」
 いきなり左う怒鳴つた。
「だけど八重は、そんな小間使ひなんて、そんな柄ぢやない、当人が何うしても訊かないんだから……」
 七郎は、まるで芝居のやうな話だ! と思つて、思はず横を向いて笑つてしまつた。恩知らずなどと何を楯に云ふのか七郎は知らなかつたが、八重を、先づ行儀見習ひとして奉公に出し、ゆくゆくは嫁にするかも知れない――なんて云ふ馬鹿/\しい篠谷の申出を真面目に諾ける筈はないと思つてゐた。太一郎の、小間使ひの話にだまされて、飛んだ破目におとしいれられた漁場の仲間の者の娘に就いての事件を七郎は知つてゐる。
「やあ、ラツキーが、もう来やがつた。――これから帰りがけに君の家に寄つて行くんだが馬蹄かなぐつは間に合ふかしら?」
 太一郎は、篠谷の下男に引かれて渚を歩いて来る馬を眺めて、また念をおした。
「だから私には解らないと……」
 七郎も其方を眺めながら、
「あれは森さんの馬ぢやないんですか?」と呟いた。
「無論さ。」
 太一郎は得意さうに小鼻を蠢めかせた。「武一の奴が、馬鹿な自惚れを出して、お前んとこの親父の借金証書に判など捺しやがつたから、彼奴の知らない間にラツキーを金利の代償に分取つてやつたまでさ。」
「一体その金利とかは幾ら位の……?」
「百円ばかりのことなんだが、君、払へるかね。尤も、今年の競馬でラツキーには相当儲けさせるつもりなんだが――」
 太一郎は、にや/\してゐた。七郎は、そんなことは夢にも知らなかつた。第一、自分の父親が篠谷に負債があるなんてことも初耳である、そんな借金がある位なら父が自分に話さない筈はない――と思つた。不図七郎の頭に、わけもなく自分の家の壁に掲げてある写真が映つた。尋常科を出る時の記念の写真だから二十年も前の姿だが、その中には武一も守夫も、そして太一郎も居る、皆なはあれから中学へ行き自分は高等小学へ進んだ――部屋の中にそんな額より他に何の飾りもないためか、始終それを見あげて、皆の子供の顔かたちを今でもはつきり覚へてゐる――何うしたことか七郎は急にそんな幻が、昨日のことのやうに眼の先にチラついて来た。幻と、見並べて見ると、眼の先の成人の太一郎だつて、はつきりと昔の面影を宿してゐる……。
「ぢや私は、これから武ちやんのところへ行つて、事情を聞いて来ませう。」
 何故俺は、この太一郎にだけ斯んな言葉づかひをしなければならなくなつたのだらう、何故太一郎ばかりが独り奇妙な傲慢の館に立てこもつて仲間脱れになつてゐるのだらう――俺は無教育の漁夫なために、斯んな他合もない意久地無さに襲はれるのか知ら。――然し七郎は、たつた独りで小舟に乗つて何うしてもつかまへることが出来ない過ぎ去つた日の夢を追ひかけてゐる見たいな、取りとめもない雲のやうな寂しさに襲はれてゐた。漁夫である自分が、無性に悲しくなつて来たりするのであつた。理屈は、さつぱり解らなかつた。
「馬鹿な、今更武一に訊いたつて何うなるものかね。――それよりか、八重を奉公に寄せば此方ぢや三年分の給料を先に払ふといふ条件つきなんだよ。」
 奉公だけなら恥ではない、武一に迷惑が掛つてゐるのなら一層太一郎の申出を享け容れてしまはうか? ――七郎は、簡単に左う思つたが、渚で洗はれてゐるラツキーを見ると、まるで馬と妹とを取り換へる見たいな矛盾を覚へ、男はず[#「男はず」はママ]屹つと太一郎の顔を睨め続けるより他に言葉を失つた。
「考へるところはなからうが、今の君の立場として見れば……。武一に相談して来るなんて、そんな君、意久地の無い話ツてあるものかね。それに君は今や塚本家の当主なんだぜ。主人公が自分の家の負債に就いてさつぱり無我夢中だなんて、そんな事が他人に話せる類ひのものだらうか、君の考へひとつで何うにだつて整理のつくことだし、おまけに相手が僕の場合なんだから色々と好都合ぢやないか。それよりも君、うか/\してゐると法律上厄介な話にもなるからな!」
 法学士なんていふ肩書を誇示する太一郎に斯んなことを云はれると七郎は、何だか得体の知れない怖ろしい影がいつの間にか自分の後から翼を拡げて忍び寄つてゐるかのやうな不安に襲はれた。
「で、八重が君の家へ奉公へ行きさへすれば何も彼も綺麗になるといふわけなんだね。」
「さうさ、たゞの奉公だよ。何も妾に寄せなんて云ふわけではない。君の親父は何か感違ひして、やがて俺の嫁にでもするのか、それでは境遇が違ひ過ぎるからなんて恐縮してゐるんだが、尤もな話だよ、冗談ぢやない、親父こそ自惚れだ、誰が八重となんか――。たゞさうでもしなければ君の家の格構がつくまいと此方は心配して、寧ろ余計な世話を焼いてゐるまでのことさ。」
「……有り難う。だが、その話は今此処で決めなければならないほど、その期間きげんとかゞ……?」
 七郎が梟のやうな眼をして斯う訊ねると、さすがに太一郎はてれた嗤ひを浮べた。
「期間といふのは、つまりその負債の方のことだがね……」
「ぢや八重の話とは別なんぢやないか、そいつを返しさへすれば済むんだらう。」
「それあ済むさ。然し君も実に解らん男だね。既にもう半年も前にその期間はきれて、それで武一が間に入つて騒いでゐるといふ始末なんだよ。」
「ぢや俺は、今月一杯に金は返すよ。何云つてやがんだい。」
 七郎はカツとして思はず怒鳴つた。太一郎が、金と妹とを関連させて云ひ寄つてゐたことがはつきりと解ると、無性に肚が立つて来て勝手にしろと思つた。
 七郎は、大波にもまれる舟の中にゐる時のやうな、激しい感情を辛うじて圧へながら砂を蹴つて其場を立去らうとした。太一郎が、袖をとらへて何か云はうとしてゐたが、聞えもしなかつた――軽く振り払つたつもりだつた腕が、太一郎の肩先に当ると、バネで弾かれたやうに彼は突き飛んで尻持をついた。
 七郎は振り向きもしないで、我家を指して陸へのぼつて行つた。――すると太一郎は、渚にゐる馬方を声を挙げて呼んだ。
「漁師を怒らせてしまつた。彼等は野蛮だから、徒党を組んで逆襲して来るに違ひない。逃げなければならない。」
 彼はラツキーにまたがると、渚に添うて駆け出して行つた。――まつたく、この辺りには篠谷に反感を持つてゐる多くの率直な漁夫がゐて、今も七郎が砂を蹴立てゝ立ち去るのと、相手が太一郎であつたことを認めた網干の連中は仕事を止めて、がや/\と円陣をつくつたところであつた。そして、一目散に遠ざかつて行く太一郎を見ると、一勢にワーツといふ鬨の声を挙げた。その嘲笑の声を追跡と聞き違へて太一郎は夢中でラツキーの腹を蹴つてゐた。
 遥かの松林のスロープから、網干の風景をスケツチしてゐた Authonyオーソニー の竹下も、驚いて鉛筆をおいて立ちあがつた。
「塚本君ぢやないか、何うしたんだ?」
 竹下は、鬼のやうな格構で両眼に涙を一杯溜た七郎が松林を脱けて行かうとしてゐる姿を認めて、追ひすがつた。

     八

 武一を先に立て、滝本等三人は、また森の屋敷へ忍び込む途すがらであつた。これは既に幾度目かの夜盗の仕事である。
 一同の物腰態度は稍円熟の境に達して、脚どりと云ひ、咳払ひの具合と云ひ、道往く人に出遇つた時の、何気ない挨拶を交して素知らぬ風を装ふ話振りと云ひ、凡そもう何処にも怯えた気色のない堂々たるロビンフツドの徒党であつた。
 彼等は村の青年団から剣術道具を借り出して竹刀で各自の背に荷ひながら丘を越へた森の村の青年団と試合に赴く風を装つてゐたのである。実際、向ふへ行き着いて見て、森の屋敷の固めを踏み越え損つた時には、其処の村の道場で、堀口や篠谷方の若者を相手に激しい勝負を渡り合つて鬱憤を晴すのが常だつた。此方は遇然にもそろつた初段級の腕達者ぞろひであつたから、彼等にひけをとつた験はなかつた。就中竹下の面取りの早業と村井の刀捌きの目醒しさでは、R村の連中は悉く眼を視張つて、一体彼奴等二人は何処からやつて来た天狗なんだらう。ついぞこの辺りに見たこともない達人ではないか。吾々のチームに若しもあれ位のが二三人居たら何処へでも遠征して近在に覇を唱へてやるんだが――と囁き合つてゐた。この近在では軟式野球よりも遥かに剣道の方が隆盛で、年々春秋のリーグ戦になると村中がその争覇戦に熱狂するといふ有様であつた。
「今夜もお並ひでお出かけですかね。この分では秋のペナントはH村のものだといふ評判ですから、まあ精々練習して来て下さい。」
「R村でも負ん気で、毎晩の練習時間を十時まで繰りあげたさうですぜ。」
 すれちがつた野良帰りの人達が彼等の姿を見ると、頼もしさうにして斯んな言葉を掛けた。
 やあ/\! など、晴々しさうに手を振つて行き過ぎるが、此方にとつてはそれどころではなかつた。――以前滝本はあの海辺の家にあつた実生活に要のない様々な道具類などを、間もなく彼処を引きあげるつもりだつたので武一に謀つて、森の家の土蔵に預けて置いたのであるが、今やこれを再び持ち出して売却しなければならなかつた。翌月になればもうローラが到着するといふのに滝本の生活の方針は恰で有耶無耶だつた。武一も亦、就職の目当がつかずこの先百合子を保護するためには、何うせもう父親が顧みてゐない蔵の中の巻物とか金銀とかを運び出して兄妹の上京後の当分の生活費に運用しなければならない破目だつた。土蔵は篠谷の手に依つて個人的に封印されてゐる状態だつたから、この行為は或種の犯罪に相違なかつた。その上また滝本に就いては、それらのものに至るまでの所有権云々に関して堀口剛太が邪な監視の眼を輝かせてゐるので、何うしても彼等は夜盗の手段を執るより他に道がなかつた。それで今になつて見ると百合子が、あの屋敷に伴れ戻されてゐることは、味方にとつては幸ひになつたわけである。百合子は土蔵の鍵を秘蔵して夜々よな/\彼等を導き込む役目を果しつゝあつた。堀口や継母や篠谷達もこれに目をつけて、鍵の在所ありかを家探しゝてゐるさうだつたが、そして彼等も亦百合子に依つてそれを尋ね出さうとあせつてゐたが、百合子は飽くまでも空呆けて、
「それはお父さんでなければ解らないわ。G町へ行つて訊いていらつしやいよ。」とはねつけるだけだつた。森の主は、この屋敷に見限りをつけて三駅ばかり離れたG町へ移つて、隠遁の夢をもくろんでゐるだけだつた。そして決して此処に脚踏みしようとはしなかつた。
 堀口と継母が百合子を此処に伴れ戻した理由は自づと了解されたわけだつた。
「ねえ百合さん、あんたが鍵の所在に就いては前々から解つてゐるからと父さんだつて左う仰言つてゐるんですよ。整理上とても困つてゐるんですから、そんな意地悪るをしないで渡して下さいよ。」
「それさへ教へて下されば太一郎君の方だつて、一切もう穏便にして、先づラツキイをあなたにお返しすると云つてゐるんですよ。競馬だつてもう目近に迫つてゐるし、ラツキイがとり戻せるんなら、斯んな得なことはないぢやありませんか。」
 堀口や太一郎は、可笑しい程神妙になつて斯んな風に百合子に迫つた。そして自分達の眼のとゞかぬ時は、篠谷側の雇人達を屋敷の中に配置して百合子の動作を監視せしめた。森家の雇人と彼等との間にも百合子を中心にして絶え間のない暗闘が繰り反された。
「お前さんといふ人は、何うして左う強情なんだらう……」
 時々訪れて来る継母も堀口達と一処になつて、百合子に詰め寄つた。「お父様からのそれがお言伝だと云つてゐるのに――蔵の鍵なんてお前さんが持つてゐたつて別段役にもたつわけでもないのに……」
 百合子には彼等の内心の業慾がはつきりと解つてゐるので、滝本等の場合がなくてもそんな甘言に乗る筈はなかつた。さんざんに、意のまゝに、業慾者達を嬲ることが出来るのが思はぬ愉快となつた。
「えゝ、――」と百合子は故意に素直らしく首を傾げたりした。
「前には妾が、お蔵の鍵の番だつたけれど、東京へ行つてゐる間は兄さんに渡して置いたのよ。」
 未だ百合子が云ひ切らぬうちに堀口等は、
「それあ大変だ! ぢや早速武一君を伴れて来て……」などゝ慌てゝ、目配せをするといふ始末だつた。
「それはもう妾がとうに兄さんに訊ねたわよ。兄さんはお父さんに渡してあると云つてゐたわよ。」
「恰で話が合はんな!」
 堀口は、思案が尽きて腕組をするとぐつたりと首垂れてゐた事もあつた。
「お父さんは、ひよつとすると、あんな風な癇癪持ちだから河の中へでも棄てゝしまつて知らん顔をしてゐるのかも知れなくつてよ。」
 百合子が自分も不安さうにして斯んな事を云つた時には、堀口等は思はず異口同音に、失敗しまつたなあ! と長大息を洩したものである。それから彼等は寄々相謀つた揚句、合鍵を鋳造することに決したが、何しろ二百年も前から伝はる錠前なので到底今日のものでは役に立たぬことが解つて改めて、入念の家探しに没頭してゐる時だつた。
 森の屋敷は鬱蒼たる針葉樹林に取り巻れて、大昔の面影をその儘伝へたピラミツド型の斜面を持つた草葺屋根を二棟に分つた館を中心にして、池を囲らせてゐる。館の奥の間には、道中の大名が宿泊する「鶴の間」と称ぶ簾のかゝつた段上の部屋があるかと思へば、見るも怖ろしい丸太格子に区切られた牢屋があり、その壁には悪人の背上に百叩きの責苦を加へた拷問の鞭が、百年の年月の経過も知らぬ風情に、急用の役にも立たんと云はんばかりに掛け放されてある。また眼を庭園の彼方に放つならば昼も薄暗い崖の辺りからは源を遠く五里の山奥の古沼に発した堂々たる水勢が勢ひ余つて滝と溢れたかの如く、不断にきらびやかな水煙を放つてゐる態を見出すことが出来る。滝は満々たる水を池に湛へて、舟を浮べ、水鳥を遊ばせ、期節になると雁を呼ぶ――池の水は更に庭の中へ招び込まれて、床下を鯉が泳ぐ泉水となつて離れの茶屋から書院の窓下を流れ饗宴の広間の前に来て悠やかな渦を巻いてゐる。放飼ひに慣れた一番ひとつがひの丹頂が悠々と泉水の合間に遊び、橋を渡つて築山のちんのほとりで居眠りをしたり、翼を伸して梢に駆り空に呼応の叫びを挙げたりしてゐる。書院の裏手にあたる中二階造りの納戸部屋から蔵前に至る径は凡そ十間あまりの長廊下が泉水の末端を跨いで掛け渡され、現在でも廊下の往来には昔ながらの朱塗の雪洞を翳してゐた。「南方の騎士」達は、登山用のロープを用ひて塀側の木枝から蔵の裏手に降りると、鶴のこやの蔭に身を潜めて、納戸の窓から合図する百合子の雪洞の揺れ具合に従つて仕事に取りかゝるのを順序としてゐた。納戸から三階になつて屋根裏の一角に達する階段を登り詰めると、草葺を四角に凡そ一坪程に切り展いた封建時代の展望台に達する。武一は此処を鳩舎に用ひてゐた。若しも彼等の潜入に不首尾の日には、百合子は此処に赤旗を掲げた。旗は鳩の訓練用に使ふものだつたから誰も怪しむ者はない筈であつた。赤旗を見出した日には彼等は、その儘村の道場に赴いて剣術の練習に終り、折好く夕暮時の鳩舎に赤旗の影が見えないとなると一同の者は塚本の鍛冶屋店に引き返して、暮色を待つた後に出発するのであつた。万一の場合を慮つて剣術道具に身を固めて竹刀をひつさげて忍び込むのを常例としてゐた。
「堀口と太一が今迄お酒を飲んでガヤ/\やつてゐたけれど、すつかり寝込んでしまつたからもう大丈夫だわよ。」
 納戸の窓から差し出された雪洞の灯が大きな円を描いた。首尾好しとばかりに躍りあがつて乗り込んで行つた夜盗達を、眼下に、百合子が廊下の窓から雪洞を翳して乗り出しながら囁いた。十日ばかり前の薄曇りのした晩で、期節外れの蛍が時たまに瞬いてゐた。洋服の上からひつかけた牡丹色の羽織の袖で灯りのゆらめきを気遣ひながら、顔のまはりをぼんやりと明るくしてゐる百合子の断髪の姿が、あたりの様子と却つて不思議な調和をしてゐる見たいな、絵のやうな奇異の感に打たれて滝本は、茫然と見惚れてゐた。
「うたゝねなんだらう。何時目を醒すか解りやしなからう。」
 武一が念を圧すと、百合子は急に豊かな得意さうな微笑を湛へて、
「それがね、大丈夫なのよ。妾が試しに顔に水を吹つかけても身じろぎもしないで二人とも死んだ見たいよ。……ベロナールを粉にして、そつと徳利の中に溶し込んでやつたのよ。それがすつかり利目が廻つてしまつたの!」
 と説明した。皆なは百合子の気転に舌を巻いて思はず会心の顔を見合せた。その間に、蔵の前にすゝみ寄つた百合子は、難なく扉を開けながら、未だ廊下の片隅にうろ/\してゐる仲間を促した。そして、一同を中に招じ入れて扉をもとのやうに閉ぢると、
「さあ、もう大丈夫よ。何んな声で話し合つても平気だわ。」
 と百合子は雪洞を高く差しあげて、これ位の大きな声を挙げても平気だといふことを披露するために、反響やまびこを面白がる子供のやうに――「こんばんわ!」などゝ叫んだ。それが屋根裏の辺に響いて、こだまとなつた。
 蔵の中には、様々な鳥類や獣の剥製が何十個ともなく彼方此方の棚や長持や鎧櫃の上などに処関はず置き並べてあつた。それらのコレクシヨンは百合子等の父親の青年時分からの丹精である。森氏は自家に飼つた動物が斃れると、その姿を剥製にして保存するのが習慣だつた。
 鎧櫃の上で、翼を拡げてゐる大鷲は、裏籔の巴旦杏の梢で森氏が十年ばかり前に生捕りにしたものである。大鷲は青大将と格闘して気絶したところを捕獲されて、築山の亭に久しい間飼はれてゐたことを滝本は憶えてゐるが、何時死んだのかは知らなかつた。大黒柱の蔭にたゝずむでゐる一番ひの丹頂は、これは未だに庭先に遊んでゐるのかとばかり滝本は思つてゐたのに、何時の間にか剥製になつてゐた。塀を乗り越へて鶴の舎の傍らに隠れてゐたが、今が今迄滝本はその舎が空屋であつたといふことは知らなかつた。長持の上には何時か武一が飼つたことのある大木兎や、太一郎に打たれたネープの仲間達、それから滝本が、いわれを知らぬ一頭の狐が、野兎、山鳥、家鴨、その他様々な家畜頬と無茶苦茶に雑居してゐる。滝本にとても深くなついてゐたセントバーナードの「ジヤツキ」が大きな花瓶の傍らに立つてゐた。滝本は、立ちどまつて思はずジヤツキの頭に手を触れずには居られなかつた。また傍らの鶯の籠をのぞいて見ると、その中には百合子達の亡くなつた母のペツトであつた「タチバナ」が、杖から技へ飛び降りようと身構へてゐた。百合子が子供の頃に飼つた悪戯鸚鵡の「ミンミー」が鹿の角の刀掛けにとまつてゐるかと思ふと、古典版のブリタニカの書棚の前では印度産の大孔雀が、見事に翼を拡げてゐた。これは嘗て森氏が友達の海軍将校から贈られたもので、村に着いた当座は見物人が群がり寄せて大変な騒ぎであつた。
 それらの物体の影が、百合子の揺り動かす雪洞に伴れて伸びたり縮んだりした。さうかと思ふと、斯んな金目にならぬガラクタには眼も呉れずに踏み越へて行く夜盗達が、懐中電灯をピカ/\と振り回しながら脚元を照らしたり、隅々を見とゞけたりする毎に、それらの動物が闇の中から稲妻を浴びて飛び出すかのやうに映つた。――彼等は、二階から三階へおし上つて今日こそは最も運び出し憎い重荷を持出さうと決めたのである。
 滝本は階段の昇り口で見栄を切つてゐる仁王の像の傍らから、手にする電気の光りを放ちながら動物達の躍動する影を飽かずに眺めてゐた。
 そして近頃の不思議な生活を今更のやうに考へたり、恰で形のない綺麗な妙にうら寂しい夢に誘はれたりしてゐると、頭の上から、
「何を独りでそんな処で考へ込んでゐるの、それとも何か目星しいものが見つかつたの?」
 と百合子が呼びかけた。――振り仰ぐと、百合子は恰度仁王像の肩から灯りと一処に覗き出てゐた。
「皆なは三階で休憩ですつて――それでね、お腹が空いてしまつたからパンを取りに行くついでに、ブラツク・ドラゴンの寝息を窺つて来る使命を亨けたのよ。途中まで一処に行つて見ない?」
 百合子が左う云ふので滝本が、其由を三階へ向つて声を掛けると、
「おーい。」
 と武一が呼応した。「――乾盃をしようぢやないか。何とかして来いよ。」
「さあ、早く/\!」
 百合子は滝本の手をとつた、「斯うすれば灯りなんて要らないわね――焦れつたいわ、こんな雪洞なんて……」
 ――扉を内に引くと、月の光りが、とても明るく流れ込んだ。振り返つて見ると、光りは恰度鶴の脚元の辺まで達して、白い翼だけがはつきりと浮び出た。手を執つたまゝ、駆けて長廊下を渡つた。それでも、歩きながら斯んなことを話合つた。
「妾――昨夜からちつとも眠れなかつたわ。」
「百合さんの不眠症なんて信じられないようだが。――それで、ベロナールなんて持つてゐたんだね。だけど、あんなものを常用すると毒ださうだぜ。」
「いゝえ、違ふわよ。それはあの人達に……」
 と云ひかけ百合子は、急に立ち止ると、滝本の胸に凭りかゝつて、
「ね、斯んなやうなところ何かの芝居にありさうぢやないの――科白よ。」
 と戯れた。「一服盛つてやるつもりで、わざ/\取り寄せて置いたのでございますわ。」
 そして彼女は、滝本の胸に顔をおしつけて堪らなさうに失笑わらひを怺へた。それから彼女は、これから行つて見て未だ二人が寝込んでゐたら一層のこと、そつと牢屋の中へ投げ込んでしまはうか、眼を醒して驚く奴等の顔を見てやりたい――などと云つた。
 書院の前まで来ると、百合子は再び雪洞に灯を入れて、暫く滝本に其処で待つてゐて呉れと云ひ残して、ふわ/\と駆け出して行つた。何処にも灯りひとつ見えない長い廻り縁を伝つて行く百合子の姿は恰で宙を駆けてゐるやうに見えた。それまで気づかなかつたが、羽織の下の百合子の服は、真ツ白な長いスカートだつたので、それが灯りの影に煙りのやうに翻りながら汀の廻廊を折れ曲つて見る/\うちに闇の中へ吸ひ込まれて行つた。――自分に気づいて見ると滝本は未だちやんと剣術道具に身を固めて、面を被つてゐたから、その鉄格子を透して眺めるせいか、稍ともすると一つの物のかたちが二つにも三つにもなつてチラチラした。彼は竹刀を小脇にして欄干に脚を掛けたまゝ、暗闇の中で百合子の復命を待つてゐた。
 五分、十分……と凡そ二十分近くも待たされたかと思はれる頃ほひ、其処から恰度泉水を越へて真向にあたる遥かの部屋が、突然ぱツと明るくなつた。丸窓のある――「あれは百合子の部屋ぢやないか」と滝本が呟いた時、向ふの端から順々の座敷に一勢に灯がともつて、直ぐ眼の先の茶室までが急に明るくなつた。滝本は思はず身を退いて、書院の中へ秘れた。彼は激しい鼓動に襲はれながら、竹刀の束に手をかけてゐた。――と、また座敷中の灯りは一どきにスヰツチを切られて、丸窓だけが大提灯の様に向方の闇の中に浮んでゐた。
 窓から姿を現したのは百合子だつた。
「もう誰もゐないのよ。――あの人達二人は急に気分が悪くなつてとつくに帰つてしまつたんですつて――葡萄酒を見つけたから皆なを招んで頂戴な。」
 で滝本が蔵中へとつて返さうと、渡り廊下のところまで来ると、あまり此方が時間をとつたことを案じて武一達も降りて来たところだつた。武一は、袋に入つた薙刀を担いでゐた。そして、
「こいつは、何とかいふ古刀で、柄の処々に金などが巻いてあるから相当なものだらうと思つて持ち出して来たよ。竹下の箱は白磁の観音の像だ。落すと割れてしまふから――」と、後の竹下を振り返つたのを滝本が見ると、彼は長さ三尺ばかりの大きさの箱を縦に、子供をせほふたやうに十文字に細紐で背中にくゝりつけてゐた。
「村井は?」
「……あいつは錦絵に見惚れてゐて動かうともしない。呼んで来て呉れ。」滝本が蔵の三階へ上つて行くと、村井は行灯の傍らで、面も何も脱ぎ棄てゝ、素晴しい興奮の眼を輝かせてゐたが、足音を耳にすると、慌てゝ灯りを吹き消した。
「俺だよ、村井! 何うしたんだ?」
 滝本は懐中電灯をつきつけた。
「百合さんぢやないかと思つて吃驚したんだ。――おい、この猛烈な絵を見ろよ。……驚いたなあ!」
 ――グロテスクな戯画の巻物だつた。村井は、滝本の眼の先でそれらの巻物の数々を手早く繰り展げて行つた。その手の先は微かに震へてゐた。極彩色の、現実離れのした綺麗な男女の滑稽な痴態の有様が村井の繰りべる巻物の中で行列を成してゐた。
「つまらない――」
 と滝本は云つた。滝本は、斯る類ひの草紙は、余程予猶のある場合に美術的に鑑賞する以外には、興味もなかつたので、静かに村井の腕を引いて、母家へ促した。
先程さつき俺達が此処へ来て見ると、これが――」
 と村井は尚も未練がましく、散乱した草紙類を振り返りながら「このまゝ、此処に行灯の下に展げ放しにしてあるんだよ。つい先程まで確に誰かゞ眺めてゐたに違ひないといふ風に、……」
 彼は、恰で酒にでも酔つてゐるかのやうに常規をはづれた声の調子だつた。「それあ、お前、誰だと思ふ、いや、誰が、此処で、これを眺めてゐたと思ふ?」
「そんな事何うでも好いぢやないか。お前は大分何うかしてゐるぞ、馬鹿だな!」
 滝本は、仕末の悪い酔つ払ひをあしらひ兼ねるように手古てこずつた。
「あゝ、俺は実に悩ましい、この次に此処に踏み込む俺の唯一の目的は、あゝしてあの行灯の下で……」
 そんなことを唸つて恰で生体ないかのやうな酔つ払ひ見たいな村井を滝本が漸く引つ張つて、渡り廊下の処まで来ると、雪洞をかゝげて飛んで来た百合子に突き当つた。
「まあ、あんた達は何を愚図々々してゐたのよ。皆なが待つてゐるのに――」
 すると村井は、酷く狼狽して、
「いゝえ、あの……珍らしい剥製があんまり沢山あるので――」
 などと吃音でごまかした。あまり村井の様子が生真面目なので、滝本も却つててれ臭くなつてしまつて、
「東京へ行く時にはあのミンミーを籠ごと持つて行かうぢやないか、アパートの装飾に丁度好いぜ。」と、幾分後暗い見たいな思ひを秘しながら空呆けると、いきなり百合子は、
「嘘つき!」
 と叫んで、晴々しく嗤つた。そして、非常に大きな声で、
「いやあな人達! あんな絵を夢中になつて見てゐるなんて……ハツハツハ!」
 左う云つて腹を抱へながら駆け出して行つてしまつた。
 滝本は得体の知れぬ不安に襲はれた。と、村井が、太い吐息と一処に「困つたな、守夫……」と、これも、真ツ赤になつて、出そびれてゐた。
「今日は一晩中騒いでやれ。家もそともあるものか。おーい、お勝手の者――ほんとうの酒を持つて来て呉れ。主人がお客様を伴れて帰つて来たんだぞ!」
 座敷の方から武一が荒々しく喚きたてゝゐる声が響いてゐた。彼方此方に灯りが点いて、人々が行き来する影がせはし気に障子に映り出した。――百合子の丸窓を見ると、駆け込んで来た彼女が、羽織ジヤムパアを脱ぎ棄てゝ露はな腕に何か箱のやうなものを抱へて、また走り出て行く姿が映つたりした。

          *

 其後、これが初めての訪れである。あの晩の、余りにも野蛮な酒宴さかもりから様々な失策を演じた後なので、一同は、今宵こそは一層心を引き締めて仕事に掛らなければならぬと注意して、R村へ差かゝつた。
「おゝ、白い旗だ。しめたぞ。」
 丘の上に駆け上つて、望遠鏡を眼にあてた竹下が後ろを振り返つて呼ばはると三人は、一勢に腕を挙げて、ブラボーと叫んだ。
 暮れかゝつた盆地の一隅に森家の甍がそびえ立ち、展望窓には、たしかに白い旗が翻つてゐた。そのあたりを二三羽の野鳩が悠やかな円を描いてゐた。――村井は、竹下から眼鏡をとつて、凝つと土蔵のあたりを見極めてゐた。遥か彼方の紫色の山々は、夕映えの僅かな余光を浴びて頂きのあたりを黄金色に輝かせてゐたが山裾一帯は見渡す限り茫漠たる霞みの煙に閉されて、森家の土蔵の白壁だけが黒い林の中に一点、窓のやうに輪郭を遺してゐる。
 今度は滝本が眼鏡を村井から奪つて、眼にあてたが、もう薄闇が一面に棚引いてしまつて盆地一帯は涯しもない海原のやうだつた。――乾盃々々プロージツト・プロージツト! 皆なが無茶苦茶になつてしまつてあの晩のことは半ばは有耶無耶で何も思ひ出すことは出来なかつたが、左うしてゐると滝本のレンズに、大写しになつた百合子の不思議な艶かしさを湛へた姿が、夢になつて、ほのぼのと浮びあがつて来た。――ミンミーがよみがへつて、剥製の仲間達の間を歩き廻つてゐるかと思ふと、やがて、ジヤツキも木兎も大鷲も徐ろに蠢めき出して、溜息や、羽ばたきの音が起つた。

     九

 あの頃のローラは一体いくつ位ゐであつたかしら? たしか自分が大学へ入つて間もない頃で、父親の友達であつたアメリカ人のR氏の家庭にローラと共々寄食して、横浜から、東京の学校へ通つてゐたが、今見ると、たとへ妹とは云ふものゝ無闇に齢などを訊くのは差控へずには居られない、もうちやんとしたレデイになつてゐて――滝本は少々勝手の違ふ心地に誘はれてゐた。その上、子供の頃の面影もそれほどはつきり思ひ出せなくなつたが、髪の毛のすき透るやうな鳶色の具合、眼の玉の碧さ、そして皮膚の白い陶器に似た艶のさまは、相当の注意を向けて眺めても混血児とは解らなかつた。そんなやうなことで彼女が何か片身の狭い思ひでもしてゐるのではなからうかなどゝ憂へた験しもあつたが、凡そ他の西洋人達の中に見比べても見境ひのつかぬのを知つて、滝本は、自分で可笑しく思ひながらも秘かに胸を撫で降した。もう一つ別に、彼に安易さを覚へさせたのは、彼が心配したように「生活」を求めて彼女が訪れて来たのではなくつて、全く単純な観光客として、小さな観光団に加つて、序でに、眼色の変つた兄貴にも会つて行かう――位ゐの、全く安楽な状態で、遊びに来たのであるといふことだつた。一行と一処に帰国しても関はないし、都合に依つては自分だけ滝本の許に幾月でもとゞまつても差支へないといふ話であつた。
 滝本が、この頃の自分の生活のかたちに就いて最も手短かに説明した後に、今では皆なで森の屋敷を占領して、日本の oldオールド Romanceローマンス の時代を髣髴するやうな空気の中で学生らしい日々を送つてゐる――といふことなどを伝へると、ローラもその仲間に加はりたいと云つた。
 一行は日光から松島を見物して、引き返して関西へ赴くところだつた。横浜と東京で二三日行動を共にして一端村に引き返してゐた滝本は百合子を誘つて、国府津駅で、一行に別れを告げて村へ来る筈のローラを待つた。
「ローラさんは日本語が出来る?」
「大分拙くなつたが、直ぐに慣れる程度だよ、あの位ゐでは――。前には此方こそRさんの家庭ぢや英語ばかりだつたんだが、今度会つて見ると恰で僕が、それが出来なくなつてゐるのに驚いたよ。それに比べるとローラの日本語の方がずつと確かだつたよ。」
「妾も日本語でないと困るわ。だけど英語だと、とても日本語ぢや云へさうもない感情的なことが――平気で云へるのは面白いと妾思つてゐるのよ。」
「例へば何んな風に?」
「何んな風と云つても困るけれど……」
 と百合子は愛嬌に富んだ首を大業に傾けて何か思ひ付いたことを云つて見ようとする思案の眼を挙げたりした。
 間もなく列車が到着したので二人は会話をつて、用意をしてゐると、ローラは窓から伴れの人達と一処に半身を乗り出してしきりと手布を振つてゐた。鳥類の群が到着したやうな騒がしさであつた。六尺豊かの赧顔の紳士が、ローラは横抱きに両腕に載せて悠々と人々を分けてプラツトホームに降りて来ると、滝本には到底聞きとれなかつた早口で愛嬌めいたことを云ひながら――さあ、どうぞうけとつてお呉れ、私達のローラを――さう云つて滝本の胸先に突きつけたので、滝本も亦紳士と同じやうに両腕の上に享けなければならなかつた。滝本があかくなつてローラをうけとると、列車の中の人達が一勢に鬨の声を挙げた。そして、慌しく幾人もの人達が次々に降りて来てローラの額やら頬やら唇に激しい接吻の雨を浴せてチヨコレートの包や花束などでローラの胸を埋めた。中には、さめ/″\と涙を滾してゐる年寄りの婦人もあつた。
 あとでローラが云つたのだつたが、これでもうローラは一行の者とは再び日本では会はないであらうといふことだつたので、あのやうに皆なが、事の他感情に走つてゐたのであるさうだつた。道理でつい此間埠頭場はとばで彼等を迎へた時に比べるとまるで趣きが変つてゐた――と滝本は気づいた。花束や菓子の箱などに埋れたローラを抱きあげてゐる滝本を中心にして、突差の間に、記念の撮影などして、一行の列車は西へ向つた。
 あの時ローラを抱き降ろして来た肥つた紳士は、ローラの街のミドル・スクールの博物の先生でウヰルソンといふ博士ださうだつた。一年ばかり前からローラは、ウヰルソン先生の標本室に助手を務めて、自活の道を立てゝゐたさうだつた。
 支線の車に乗り換へると、ローラも涙にれた顔を直すために※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ニテイ・ケースを膝の上に取りあげると一心になつて鏡をのぞきはぢめた。
「妾のフランク――」
 とローラは滝本を称んだ。この前に合つた時に、二人の父親がアメリカ人の友達の間でフランク・タキモトと称ばれてゐたことを思ひ出して――これからはお前のことを左様称ぶよ――とローラが勝手に決めてしまつたのだつた。その時滝本は、村井の小説の話を持出して、この頃村では、互の名前をパトリツクだとか、セブラ、オーソニイ、そしてダビツトだとかに称び代へてローマンスの夢に耽つてゐるところなので、今度は自分がフランクとなつても驚きもしない――などゝ突然大きな声で、わけもなく嗤ひ出しながら点頭いたりした。
「此方側に回つて、妾がお化粧をする間、これをおさへてゐて頂戴な――」
 ローラが化粧箱を叩くので、滝本はシートを向ふ前に座り直して額ぶちでもさゝげる見たいに鏡をその顔の先に持ちあげた。――そして滝本は、しげ/\とローラの顔を眺めてゐた。ローラの碧い瞳に、自分の顔が小さく映るのが窺はれさうになる位ゐ眼近に、ぼんやりと娘の顔を眺め続けるのであつた。
 ……さうしてゐると滝本は、止め度もなく不可思議な人生の、奇抜な因果観念に襲はれてならなかつた。異様な冷たさを湛へた不意の新しい血潮が激しい勢ひで身内を流れはじめたかのやうな変な震えを覚えた。さうかと思ふと、全く心には何の衝動もなく、たゞ珍らし気な人形に接してゐる見たいな白々しい心地に誘はれたり、夢遊的な面白さに駆られたりした。そして、たゞ妹といふ常識的な観念が何うも切実に響いて来ない憐れつぽいやうなもどかしさに追はれてかなはなかつた。
「ローラさん、日本語を用ふのは骨が折れますか?」
 さつき滝本が話したのと違つて、ローラはあまり日本語を用ひないので百合子が左う、大分に教室的英会話風に訊ねると、ローラは気の毒さうな顔をして、殆んどもう忘れてしまつたから、これから精々プラクテイカルに聞き覚へたい希望を持つてゐる、どうぞ親切な教へ手になつて呉れ――と心細さうに云つた。
「素養があるんだから、忽ち上達するだらう――それに、僕達の仲間の会話には、地方色がないから、聞いたまゝを、そのまゝテキストにすれば大丈夫だらうよ。」
 滝本は自信あり気な口調で、そんなことを呟いた。
 H駅で降りると、塚本の七郎がラツキーに曳かせた馬車を持つて迎へに出てゐた。
「皆なは?」
 武一や竹下達のことを滝本が訊ねると、皆なは森の家で歓迎宴の支度をして待つてゐる――。
「うちの親爺も八重もお手伝ひで大騒ぎだよ――だけど今から出掛けて行つたら竹下さん達には多分途中で遇ふだらう。」
 七郎は妙にとり済してゐた。そして、凝とラツキーの轡をとつてゐた。――荷物は別の車で送ることにして、出発しようとすると、七郎は、滝本に馭者台に乗れと云ふのであつた。
「ラツキイの奴は、どうも俺の云ふことを巧く訊きやあがらないんだ。篠谷に行つてる間に大分駄馬になつたらしいぜ。」
「車を曳かせるのも乱暴だな。」
 競馬用だつたのに――と滝本は思つた。
「もうどうせ今年からは競馬には出さないつて云ふんで、篠谷ぢや野良になんて伴れ出してゐたさうだよ。俺は、それを聞いた時には太一郎達が何か新しい魂胆を回らせてゐるんだらうと思つたが――」
 二人が、荷物の支配などをしながら篠谷に対する憤懣からついつい荒つぽい言葉を取り換してゐると、何時の間にかローラが傍らに来てゐて、滝本と七郎が、
「よしツ、もう二度とラツキーは渡しつこないから!」
「あんなべら棒な話つてあるものか!」
 さう云つて言葉が止絶れると、ローラはく熱心な眼を輝かせて、さつきから二人の会話を非常に注意深く聞いてゐるのだが、さつぱり意味が解らない、二人は何か争ひを始めたのか? 「あいつ」といふのは「ヒイ」の意で「おいらはなあ!」といふのは「自分が考へる処に依ると」といふ意味だと百合子が教へたが、その他の「べら棒奴」とか「あん畜生奴が」等と云ふのは(それがまたこの時非常に屡々二人の間で使はれてゐた。)一体何詞に属するのか? と滝本に質問した。一体滝本は、何事に依らず説明をするといふ業が酷く不得意だつたが、この時は七郎から篠谷の噂を聞いて向つ肚が立つてゐて、凡そローラの心持とはうらはらだつたせゐか、面倒臭さうに、それは単なる感投詞だ! と答へたゞけであつた。
 ラツキーに車を曳かせるのを思ふと滝本は、いろ/\と胸が痛んだが、百合子は関はぬと云ふし、それに踵の高い靴を穿いてゐる二人の娘に村までの道を歩かせるわけにも行かなかつたので、上着を脱ぎ棄てゝ馭者台に乗つた。
「ぢや俺は先へ行つてゐるぜ。若し途中で太一郎にでも会つたら、ラツキーの話なら塚本に来れば解ると、若し向方で何か云つたら左う云つて……」
 七郎は自転車で走つて行つた。

     十

 駅から森のR村までは海に臨んだ崖道に沿つて、山裾が翼になつて彎曲してゐる蜜柑や麦畑の丘の下をうね/\と迂廻しながら、三つの部落を過ぎた後に、北へ、山へ向つて二里ばかりの田圃道をたどらなければならなかつた。――午迄には未だ余程の間がある真夏のきらびやかな朝のひかりのうちだつた。白い雲の峰が水平線の上に一塊りになつてぽつかりと浮んでゐた。山裾を回つて裏側の道へ向ふ時は恰度崖道が海の上へ向いてゐるやうなかたちになつて、沖合の雲が脚下に見降せるのであつた。滝本は、なるべくラツキーの脚並みを和やかに保つて、座席の者と話を交しながらすゝんで行つた。ローラは次々に展開されて来る新しい風景を口を極めて賞め讚へながら――、
「去年のロメリアで、先生達と一緒にレーキ・サイドへ行つた時に見た景色に似てゐる。」
 などゝ云つた。
「ロメリアつて何なの?」
「ハヽヽヽヽ、それは方言だつたかも知れない、失礼――。ピクニックと同じ意味シノニムなんだけれど、もう少しお祭り気分が濃厚の、あたし達の町の行事ロマノールムなのよ。やつぱり斯んな馬車を、花などで飾つて幾台も連ねて、それこそお爺さんもお婆さんも若者も、娘も、皆な夫々得意の楽器を一つ宛抱へて浮れ出すのよ、面白いこと!」
「まあ――。ローラさんの楽器は何なの?」
「タンバリン――去年の時は、お友達とおそろひでジプシーになつてよ。……さう/\、あたしが幼い時分にフランクはホルンを吹いてゐたけれど今でも続けてゐて?」
「……さうだ、あのラツパは持つて来て置きたいな!」
 と滝本は呟いだ。「続けてゐるよ。ねえ、百合さん?」
「あの時――」
 と滝本の背後で百合子が云つた。堀口と争つて海辺へ逃れた時のことを百合子は思ひ出したらしかつた。……「この頃、あの時一度聴いたゞけだけれど……」
 百合子の口紅べにが、ラツパについてゐたのを知らず口にして百合子に笑はれた時のことを滝本は思ひ出して何やらヒヤリとする思ひに打たれて口をつぐんだ。あの時考へた「結婚」の妄想は、さま/″\な事件に追はれてゐるうちに自分ながら烏耶無耶になつてゐたが、百合子の胸には何んな風なかたちで残つてゐるのかしら? と滝本は思ひ起してゐた。
 やがて小さな岬を廻つて中途の村に着くと、村端れの休み茶屋の前に出たので滝本が馭者台から飛び降りてラツキーに水を与へようとすると、不図堀口に出遇つた。
「やあ/\御苦労様!」
 堀口は酷く愛想の好い態度で、滝本達を迎へた、「停車場まで迎へに出なければならなかつたんだが、時間が少々早過ぎて、遅れて済みませんでした。大変だつたらう。でも、まあ、此処で遇へて好かつた、あの……」
 と堀口はローラの名前を訊くのであつた。滝本は大分勝手の違ふ心持で、名前だけを通じると、
「さう/\ローラさんか――。さあ、まあ、ちよつと降りて一ト休みして下さい。」
 馬車の傍らに進み寄つて、ローラと百合子に次々に腕を差しのべて、いんぎんに茶屋の奥へ案内するのであつた。
「守夫君、ローラさんは日本語は何うなの?」
「出来るでせう、一ト通りは――」
「そんなら好いが、若し巧く行かなかつたら君通訳して呉れないかね。」
 ローラは、酒樽などが据えてある店の腰掛に百合子と並んで、あたりをきよろ/\と見廻しながら、此処は何う云ふ類ひの家なのか? などゝ百合子に訊ねてゐた。百合子が、酒場バアとホテルを兼ねて、そして村人達のクラブにもなつてゐるところだ――などゝ説明してゐた。
「ローラさんですか、私は滝本の縁家先の者でして。」
 堀口が、ローラの長い旅の労を丁重にねぎらつたが、相手にはさつぱり通じぬ模様だつた。堀口は、てれて、これあ困つたな……と苦笑しながら、
「おい守夫さん、何とか云つて呉れよ。」
 と救けを求めた。滝本は、不図堀口に対する積る鬱憤を晴すのは斯んな時だと思つたので、ローラに向つて、
「この男は――」
 と、様子だけはおだやかにして、堀口を説明した。「怖るべき悪人としてお前に紹介するが、吾々のフランクが亡くなつた後に、一切の吾々の権利を奪つて、吾々を窮地に陥入れようとしてゐる憎むべき人物なのである。心に思つてゐるまゝの事を決して口に出して云はぬ稀大の嘘吐うそつきである。要心せよ。」
「有りがたう。」
 と堀口は云つた。百合子は、笑ひを怺えるために唇を噛んでゐた。
「見よ、彼の面上に漂ふ真実味に欠けたる微笑の有様を――」
 と滝本は続けた。「彼方に見えるあの青々とした蜜柑畑の丘、そしてあの丘の下にある吾々の家や畑や、または町の銀行に預けてある吾々に属すべき幾種類もの株券――それらの財産の凡てを、他人の名前に書きあらためて――」滝本は、母と云ふべきところを「他人」と云ひ換へたのである。「更に余をこの地から放逐せんとくわだてた邪悪の心の持主である。そして、お前が、余の妹であるといふ事実は知らぬ筈なのだけれど――」
「守夫君――」
 と堀口は滝本の手を引いて「斯う云ふことをローラさんに云つて呉れないか――。たつた一人で斯んなところへ訪れて来て定めし心細いことだらうが、此処はあなたの第二の故郷も同然のところだし、吾々がついてゐれば決してもう心配することは要らない、優しいお母さんもゐる、親切な私といふをぢさんもゐる――どうぞ、もう、何の遠慮もなく何時までゝも居て呉れるように――と。」
「あなた達は一体ローラのことを何う思つてゐらつしやるんですか?」
 滝本は思はず気色ばんで、堀口の前からローラをさへぎつた。
「何も彼も私には好く解つてゐるさ。第一もうローラさんが着くといふ電報は君達よりも先に此方が受取つてゐるし……」
 ローラの顔には憂ひの色が浮んでゐた。滝本は、感情になど走つて、堀口のことをあんな風に説明したりしたことを後悔した。
 堀口が、彼等を、親類の人達も集つてゐることだから真直ぐに実家の方へ向ふやうにすゝめたが、滝本は
「森の家へ行くことになつてゐるから――彼方あちらで皆なが待つてゐるから――彼処あそこで待つてゐる者だけが僕の友達であり、親類なんてには何の用もないから――」
 そして今はもう、森の家が、自分達の家なんだから――などゝ云ひ張つてゐるところに、武一と竹下と村井が八重も一処に伴れて、馬車でやつて来た。亢奮した滝本の眼から涙が滾れてゐるのを見て、一同は驚いた。
 ローラは自分の方に背を向けて堀口と何か云ひ争つてゐるフランクの背中を見てゐたので何も気づかなかつたが、店先に止つた馬車から降りて来る若者達が、何かたゞならぬ気色で、彼の周囲に駆け寄ると、左右からその腕を支へて堀口の前を離したので、はじめて彼の顔に気づいた。
「フランク!」
 ローラは突然左う叫んで、滝本の胸に縋りついた。
「どうも私には、さつぱりわけがわからんよ。」
 堀口は、首を傾げながら隅の腰掛けに凭つた。――「守夫君の心持が解らんのだよ、折角ローラさんがやつて来たといふ場合に、何を一体感違ひしてゐるんだらう、困つたなあ!」
 滝本はローラを抱いたまゝ、突然――涙が止め度もなく滾れ落ちるのを知つたが、何だかもう得体の知れない感情に掻き乱されて、泥酔の奈落に転落して行く見たいな没理性状態に走つて、声を挙げて泣いた。ローラも泣き出した。滝本は、さつき彼女を停車場で抱へた時と同じやうに両腕にのせたまゝ、馬車の中に戻ると、更にまた泣けた。
「ローラ、わたしのローラ――堪忍してお呉れ!」
 後は、そんなことを叫んでローラの胸に顔を埋めた。そして、しつかり抱き絞めてゐると急に、犇々ひし/\と、妹に対する底知れない慈しみの情が泉のやうに湧きあがつて来た。このまゝ、波にもてあそばれて底知れぬ水底へ沈んでゆく心地がした。
 一同の者は手のくだしようもなく呆然と、馬車の周囲をとり囲んで首垂れてゐるばかりだつた。
 ……「然し、それぢや、世間へ向つての義理合上から私達の面目が……」
「混血児の妹がやつて来たなんてことは、あんまりパツとさせない方が、それこそあなた達の世間態は綺麗でせうがね。何うせ、今迄だつて、きつぱりと秘し通して、こゝまで済んで来たといふ場合に僕達にはあなた達にも、このいきさつは何も解られてゐないと思つてゐたんですもの。」
「冗談ぢやない、十年も前から解つてゐることぢやないか!」
「……然し、ローラさんの今後の問題は何も彼も守夫に負はせて置けば――いや、それが当然の話で――」
「それはまあ今後の別問題として、今日の場合だ、何うしてこのまゝ君の家へ行つて旅装を解かせるなんて、そんな無茶な話を吾々が黙つて見過して居られよう!」
「然し……」
「いや然し……」
 堀口と武一が切りに口論を交へてゐた。
 こちらの馬車は、その間にもう徐に走り出してゐた。滝本の馬車の馭者台には百合子が、そして先へ立つた空馬車には八重が、互に何やら呼応し合ひながら、手綱を振つて駆け出した。竹下と村井が追ひかけて来て、別々の車に飛び乗つた。
「行つてしまへ/\! 百合さん俺が代らう。」
「行つてしまへば、それつきりだ――八重ちやん俺が手綱を持たう。」
 武一も追ひついて来て八重の馬車に飛び乗ると、空を切つて鞭を鳴した。二台の馬車は追ひつ追はれつのかたちで街道を駆け抜けると、再び断崖の中腹を縫ふ螺旋状の径道こみちにさしかゝつた。
 滝本は、夢から醒めたやうに顔をあげると悲し気な眼で空を仰いだ。ローラは彼の胸に凭りかゝつたまゝ、
「そこにゐる人達は悪人ぢやないの?」
 と竹下達を指して、小声で囁いだ。滝本は、思はず笑ひ出してしまつた。
「おい竹下、俺がね、堀口のことを悪人だとローラに紹介したところ、ローラつたら君達もその仲間で、此方が、ハンド・アツプに出遇つたのかと思つたんだつてさ。」
「なるほど――」
 と竹下は神妙に点頭いた。「見渡すところ凄い田舎だからな。ローラにして見れば、西部に来たやうな感じだらうからね。」
「大丈夫だよ、ローラ、これは皆な――僕達のキヤムプの仲間なんだから――云はゞ、吾々の危難を知つて救助にやつて来た義勇軍の面々さ。」
 滝本が左う云ふとローラは、ほんとうに安心して竹下に会釈した、ロココ風にさへ見へるはにかみを含んだ様子で――そして、漸く胸の震へが治つたが、さつきはフランクが余り意久地がないので、これでは到底フランクを頼つてはこんな怖ろしい田舎などには滞在出来ぬと思ふと急に情なくなつて、それで泣いてしまつたのだ、それにしてもあの時のフランクの様子は何うしても自分には了解出来ないが――などゝ云つた。
 馬車は、賑やかな笑ひ声を載せて明るい麦畑の中の道をすゝんでゐた。
「ローラさん、フランクは、ほんとうはとても強いんだから大丈夫だよ。」
 半ば滝本をからかふやうな調子で竹下が、フエンシングのチヤムピオンなんだからね! などゝ云ふと、ローラは生真面目に眼を輝かせて、そんなら何故さつきの無頼漢を畳んでしまはなかつたのか? と訊ねた。とう/\堀口は正真の無頼漢になつてしまつたわけである。家庭上のことや堀口のことに就いては、もう何もローラには説明しまい――と滝本は思つた。
「それや百合さんかローラが、いざ無頼漢に奪はれるとなれば、大活劇になつて――俺の誉れをお前に見物させてやることも出来たんだが、救助隊の来方が早過ぎたわけさ。」
「でも、この辺では屡々斯う云ふ野蛮な事件が起るの?」
 ほんとうに西部劇映画の世界にでも来たかのやうにローラが飽くまでも生真面目なのには滝本達も少々てれ臭かつたが、
「それあ、あるさ!」
 と云ふより他はなかつた。「都会生活者には到底想像もつかない素晴しい蛮風がいくらでも遺つてゐるよ。」
「ウヰルソン先生に見せてやりたい。先生は考古学にも趣味を持つてゐるから。――それにしても、さつきの蛮人の――」
 とローラはまた堀口を話材にした。「容貌は、お前達と違つて、眼のへこんだ具合や鼻の嶮しい感じ、そして、笑ひなのか、憤りなのか区別のつけ憎い表情のあんばいは、日本人といふよりも寧ろギリヤーク族に似てゐるが、この地方にはヤマト民族と種別を異にした移住民がゐるのではないか?」などゝ学究的な質問を放つた。
 滝本は思はず頭を掻いて、
「その種の研究は未だ経験ないが――仔細に験べたならば或ひは新事実を発見するかも知れない。さう云つて見ると、の無頼漢一味の頭悩の働きは吾々とは余りに違つてゐる、彼等の血液は確に類を異にした原始性を交へてゐる。」と云つた。そして「その種の研究は別の日に話合ふとして、ローラよ、お前を悦び迎へてゐる吾々のためにロメリアの歌でも教へて呉れないか?」
 と話頭を転じた。そこでローラが滝本の肩に凭りかゝつて青空に眼を挙げながら、何か歌ひ出さうとした時、一同は、遥かの後ろから、声を限りに呼びかけて来る物音に気づいた。
「おーい、待つて呉れ!」
 振り返つて見ると堀口を先に立てゝ四五人の男がキヤベツ畑の畦道を伝ひながら一勢に双手を挙げて、夢中で呼ば張つてゐた。
「あツ! 逆襲して来た!」
 ローラは悲鳴を挙げて滝本の胸に突つ伏すと日本語で「あんちくしようめが!」と叫んだ。
 ギラギラとした逆光線をまともに面上に享けて、大口をあけて叫んでゐる堀口等の表情が、嘗て覚えたこともない獰猛さをみなぎらせて、寧ろ怪奇的に、鬼のやうに滝本の眼にも映つた。

     十一

 竹下は、シーズンの制作に、海辺の風景を選んで、麗かな日だと午前ひるまへから百合子やローラやそして八重達を誘つて、馬車で海辺へ通つてゐた。村から海辺までは、河添ひの田甫道に添つて一里近くの道程みちのりだつたが、娘達はビーチ・パヂヤマのまゝで、ギターや手風琴などを抱へて繰り出して行くのであつた。
「村井――もう起きたのか? 一処に出かけないか?」
 村井の部屋となつてゐる蔵前の中二階の窓が開け放しになつて朝陽が窓掛けに射しかゝつてゐるのを、庭先きから竹下が見あげて声をかけた。微風をはらんだカーテンがふわ/\とゆらいでゐたが村井の姿は現れなかつた。
「セブラ――起きろよ。」
 竹下は切りに呼びかけてゐたが――村井は危く寝台から落ちさうな姿で、ぐつすりと寝込んでゐるところなので、百合子やローラも一処になつて呼びかけたが、無論、無駄であつた。
 友達が編輯してゐる雑誌に「南方の騎士シルバー・ナイト」の第一稿が載りはじめてゐたので、この頃の村井は、その続稿の執筆で徹夜を続けてゐる状態だつた。村に居る間に彼は、その創作を完結してから、皆なと一処に意気揚々と東京へ引きあげる決心だつたから――。
 寝台の傍らには、しほりを挟んだ古典の伝奇小説の本やら、画集の類ひやらが四散してゐて、卓子テーブルのまはりには書き損じの原稿が破かれたり丸められたりして飛び散つてゐた。
「誘惑の沼とセント・ジヨージ」
(第三章)――卓子の上の原稿には鷲ペンの太文字で、そんな表題が誌してあつた。鷲ペンの先をナイフで削りながら、文字を書くのが村井の趣味だつた。
「いくら呼んだつて駄目だよ、村井はもう少し前に眠つたばかりなんだもの――」
 泉水を隔てた書院の窓から滝本がまぶしさうな顔を出して、
「やあ、今朝は素晴しい天気だな!」
 と水々しい空を見あげた。
「だから、フランクも俺達と一処に海へ行きません?」
 ローラが窓側に駆け寄つて滝本の手を執つた。――「あゝ、間違へてしまつた、また! ――俺……ぢやなかつた、妾達と一処に。」
 ローラの日本語では、何時も囲りの者は笑はされたが、別段訂正しようとする者もなかつたので彼女は、男達の会話をそのまゝ模放して屡々突拍子もない言葉を使ふのであつた。
「だけど僕も、ほんの少しゝか眠つてゐないんでね……」
 滝本も、村井と競ふて徹夜することが多かつた。「星学大系」の翻訳を、夏のうちに片づけて、矢張り皆なと一処に間もなく新しい生活を目指して東京へ出発する筈だつたから――。
「斯んな綺麗な天気は、おそらく一ト夏のうちに三度とは見られないであらう素晴しさだぜ――行け/\!」
 と竹下はすゝめるのであつた。「村井の奴も無理矢理に引きづり起して来いよ。」
「武一は?」
「兄さんはね――毎朝とても早くからラツキイを伴れ出して、競馬場へ通つてゐるわ――馬車は八重ちやんところのリリイが曳いてるのよ。」
 草競馬の季節が近づいたので武一は、これが最後だといふ意気込みで、ラツキーのオーミングに余念がなかつた。その懸賞競馬にラツキイを出陣させて、皆なの出京費を儲けるといふ意気込みだつた。村井の「南方の騎士」にしろ、滝本の「星学大系」にしろ相当の報酬が得られる筈なんだから、もう隠退することに決めたラツキイを今更レースになんて出さない方が好からうと皆なが忠告するのも諾かず武一は、堀口や篠谷達への手前にも、何うしてもラツキーを勝たさずには置かない――と無闇に躍起となつてゐるのであつた。
 篠谷の太一郎は新しい馬を購入して、競馬場の人気を引きさらつてやる――といき巻いてゐるといふ噂だつた。堀口も亦近頃新しい馬の持主となつて、何某といふ騎手を手込めにして大儲けを仕ようとたくらむでゐるといふことであつた。道理で、近頃彼等は、こゝの家の土蔵のことにも、ローラに関する遺産の横領に就いての戦略にも(或ひは、此方側がそれに関しては余りに恬淡に放擲したので首尾好く占領し終せたものか――。)頓着なく、馬で、気狂ひになつてゐるといふ話であつた。
「リリイは出さないの?」
 滝本が不図八重に訊ねると、
「えゝ――」
 と八重は、点頭きながらうつむいてしまつた。滝本が追求すると、理由は好く解らないけれど、太一郎や堀口が何か七郎に向つて悸すやうなことを云ひに来たので――といふやうなことを苦笑を浮べて八重が云つた。
「ラツキーの代りに、リリイは、今は此方に任してあるが――ほんとうは、もう篠谷の持物に変つてゐるんですつて!」
「そんな馬鹿なことはない。七郎が好人物だと思つて、彼奴等は何処まで人を喰つた真似をするんだらう。――ラツキーを取り戻すためには、ちやんと、あの――」
 と滝本は思はず口走つて、
「俺達が蔵から持ち出した鎧櫃やら巻物を売つた金を……」
 云ひかけて、何も知らない八重に向つて亢奮の気色を示し過ぎたことに気づいて、
「ねえ、竹下――むごいことをする人達だな、どこまでも――」
 と、汀の石に腰を降して鯉を眺めてゐる竹下に呼びかけた。
「何うしても俺は、太一郎といふ奴をなぐらずには居られなくなつた。」
 竹下は立ちあがつて、腕を滝本の眼の先へぬツと突き出した。
「関はず、此方でリリイを出すことに仕ようぢやないか。」
 滝本は微かな震へ声で唸つた。
「然し、それがもう太一郎の持馬と変更されてゐるとしたのなら何んなものだらう?」
 竹下の声は不安に戦いてゐた。
 誰も気づかなかつたが、さつきから八重の父親が泉水の向ふ側で水の上の落葉を拾つてゐた。そして此方の話を聞いてゐたと見へて、網の竿で水を叩きながら、
「なあに――若しもあなた方がリリイを使ふんだつたら御自由ですとも――決して、未だ篠谷に譲り渡したわけぢやないんだし……そんなら今のうちだ。」
 と独り言のやうに呟いた。
「よしツ――ぢや、俺が、リリイの騎手になつて、太一郎と戦つてやらう!」
 滝本は、窓から、未だ朝露に濡れてゐる庭石の上に飛び降りながら叫んだ。
 この村の競馬といふのは主に、その馬の持主が騎手になつて出場するといふ――奇妙な風習であつた。馬も亦、決して専門の競馬用のものではなくつて、普段は野良に出て田を耕したり、馬車を曳いたりしてゐる労働馬を並べて、一種独特の地方色に富んだ競技を戦はすのであつた。それで、それ程の老体でもなかつたが騎手になることの出来ない堀口は、秘かに騎手の物色に余念がないわけなのであるが、それは明らかに反則行為の筈である。騎手は、持主か、でなければ、その家の家族の一員でなければならぬ掟であつたから、時には花々しいユニフオームを着けた年頃の娘が騎手となつて競技場に現れることも珍らしくはなかつた。八重や百合子も、嘗ては晴れのレースに出場した経験を有つ身であつた。
「リリイか、ラツキーなら――妾も、もうすつかり慣れたから独りでも乗れる。」
 競馬のいきさつに就いては了解し憎かつたらしいローラは、騎手になるといふ意味からではなしに、そんなことを進んで云ひ出し、何時か皆なで轡を並べて昆虫採集に行つた時のやうに今日もこれから、めいめいに馬に乗つて海辺へ行かうではないか――
「山を一トめぐりしながら――」
 と誘つた。
 その朗らかな提言で滝本と竹下の亢奮は静まつたが、滝本は、早速「騎手」の練習に取りかゝつて見たかつた。ローラは、ウヰルソン先生にデヂケートする目的で、このあたりの野生植物やら昆虫類の標本を作ることを主な仕事としてゐた。
 娘達が乗馬服に着換へる間に竹下と滝本と八重の父親が、街道に出て、何時ものやうに知り合ひの水車小屋から「ワカクサ」、蜜柑山の倉庫番から「アサカゼ」「ミドリ」、そして酒造家の厩から「ドリヤン」などゝいふ馬を借り出して来た。
 竹下はギターとランチ・バスケツトを携へてアサカゼに、ローラは捕虫網を翻してリリイに、百合子は海水着の袋を鞍につけてワカクサに、八重はローラの採集箱を肩にかけてミドリに、そして滝本は空身からみでドリヤンにまたがつた――蝉がかまびすしく鳴き立つてゐる森を抜けて河堤に出た。朝の運動を終へて戻つて来る村中の「競馬馬」が、此処彼処に颯爽たるいなゝきを挙げて、恰で何処かに馬市でも開かれるかのやうに、街道も河堤も山径も間断もなき程凄まじい人馬の往来であつた。――この村には何んな貧しい家にも少くとも一二頭の馬を飼育してゐない処はない――馬の村であつた。競馬の季節が近づくと、村中の人々は一切の野良仕事を放擲して、それぞれの飼馬の訓練に寧日なき有様であつた。懸賞競馬に優勝すると凡そ一ヶ年分の生活費が賞金として獲得出来るといふ仕組であつたから、季節が迫るに伴れて村全体が競馬の熱に浮されて、様々な暗闘やら策略やらで渦巻いて異様などよめきが漂ひはじめるのが慣ひであつた。
 此方の一隊のやうに、斯んな切端詰つた時期に幾分の余技的ないでたちで練り歩いてゐる光景は寧ろ人々の眼に謎の感を与へるかのやうであつたが、今日は、先頭に立つた滝本の何時にない颯爽たる様子が、恰度往来ゆききの馬を伴れた村人の真剣な眼付きに匹敵して決しておくれるところのない殺気を含んでゐた。――何処の馬の今年のコンデイシヨンは何うだ? といふ観察をするために往来の人々は互ひに疑念に富んだ眼を挙げて、互ひの馬の様子を窺ふのであつたから、事更に、敵方の油断を盗むために呑気らしく馬車を曳かせたり、枯草を積んだりしながら秘かに、着々と訓練の鞭をふるつてゐる権謀家も多かつた。だから、滝本達の一行が、そんな装ひで隊伍を組んで行くところを反つて意味あり気に打ち眺めて、
「仲々、何うも御精が出ますな!」とか、
「騎手のそろつたところは見事だが――」
 馬の数が足りないであらう! などゝ嘲りを送る者もあつた。
「騎手が足りないで困つてゐる篠谷や堀口なんていふお大尽があるかと思へば、他所の馬を借り出して……」
 河の淵で馬の体を洗つてゐた男が、滝本の方を向いて、そんなことを云ひかけた時、
「これがね――君!」
 と滝本は傲然として云ひ返した。「都合に依つたら俺達の組ぢや、この同勢がこのまゝ今年の競馬に出るかも知れないんだぜ、此方の云ひ分次第では馬も悉く吾々のものになるといふ事にもなつてゐるんだから――」
「お前さんは、この馬が、今度堀口さんが買つた馬だつてことを知らないのかね? 馬は相当なんだが乗手がなくつて、堀口さんは血眼になつてゐるといふところさ――」
 はぢめ堀口は八重を物色したのであつたが、それが失敗したので今では、滝本の実家の名前を持つてローラを呼び返して騎手に仕立てようと計画してゐる――などゝいふことを男は滝本に告げた。村では、騎手は男よりも寧ろ娘の方が歓迎されはぢめてゐた、この二三年以来――。美しい娘が、きらびやかな男姿のユニフオームをつけて競馬場に現れると観衆は万雷の拍手を浴せて、しやにむに彼女に投票を送つて、恰でレビウ見物のやうな騒ぎに酔ふのであつた。その人気に圧倒されて大枚の男達は色を失つて敗北してしまふのが例で、近頃はもう殆ど騎手は娘に限られてゐるといふ状態であつた。女流スポーツが近年世界的の人気を負ふてゐるやうに、年毎にこの村からは花々しい女流騎手が出現した。女学校でも運動課目の分科として、乗馬を奨励して、選手の養成に余念がなかつた。
 滝本は、それに、たつた今気づいた。これは自分が騎手になつたつて始まらない! と思つた。
 滝本は、大分後れて呑気な脚どりでぽか/\と従いて来る後ろの百合子達を振り返つて「これから、競馬場へ行つて見よう、兎も角俺に従いておいでよ。」
 と合図して、河堤を急に左に折れて丘を昇りはぢめた。
「……えゝ、さうなんです、村井は或る誘惑と戦つてゐるんです。」
「まあ! ――それにしても、一体、それは――誰を恋してゐるといふんだらう?」
 百合子と竹下は、そんな言葉を、馬首を並べて取り交しながら滝本の後を追つてゐた。ローラは八重と轡を並べて、切りに日本語に関する質問を提出してゐた。
 竹下は話を続けてゐた。
「此方は、つまり男が四人――そして、吾々のカタリーナひめが三人――四人と三人……」
「馬鹿/\しいわ、四人と三人ぢや駄目ぢやないの!」
 百合子は、事更に声を挙げて馬鹿/\しさうに哄笑してゐた。竹下が伝へようとしてゐる村井の所存――四人の男達のこの頃の理想の一端は、四人と三人のこのまゝの生活を、形式を変へて都会に移しても、そのまゝ理想の共和生活が保たれなければならない筈なのだが、そして四人の騎士は、三人のカタリーナが醸し出す明朗な煙りに、誰が誰にといふ区別もなく、青春の熱烈な恋愛の感情に満足を覚へながら最も健全な生活が得られることに自信を持つてゐるのであるが――そんな、云はゞ夢のやうな陶酔状態が何時まで続くか――。
「村井は、空想のうちで結婚の誘惑に駆られはぢめたのです。」
「まあ、面倒な云ひ方をする人達だわね――はつきり誰ツて? 解らないの。」
「村井は、百合さんに恋してゐるんでせう。」
 と竹下が思ひ切つたやうに云ひ放つた。
「それは違ふわ――」
 百合子は、自分の言葉の矛盾してゐるのに気づかず、
「それは守夫さんだわ。」
 と云つた。
「ところが――」
 と竹下は続けた。「百合子さんと云ふ代りに村井は、ローラと云ひ換へても、八重さんと云つても――関はないんだつて……」
 百合子は何の憂色も浮べずに、
「大分話の方向が物騒になつて来たわね。」
 竹下さんも、それで――村井さんと同じいけ図々しい理想派といふわけなんぢやないの――と云ひ放つて先へ駆け抜けた。
「それが、つまり、今、彼が書き続けてゐる仕事の主題テーマとなつてゐるわけなんですが……」
 竹下は百合子を追ひかけたが轡がうまく並ばないで、声を挙げて、
「つまり吾々の理想生活の発端といふのが、個性を超越した漠然たる夢の……花やかな円形競技の――」
 などゝ意味の好く解らぬやうなことを朗読する見たいに歌つてゐた。
 乗手を置き去りにしたリリーとミドリが竹下の後から坂を昇つて行つた。――ローラと八重は河原に降りて蜻蛉を追ひかけてゐた。
 馬を洗つてゐる男の傍に何時の間にか太一郎と堀口が現れて、娘達の様子を眺めると二人は、
「やあ、好い処に居るぢやないか!」
 と顔を見合せた。
「八重――」
 と太一郎が呼んだ。何故か彼は何時でも八重の名を呼び棄てにした。「ローラさんはもう、リリーに慣れたかね。」
「えゝ、慣れましたわ。」
 八重の代りにローラが何か感違ひでもしてゐる見たいな顔つきで、早くちの英語で答へてゐた。「今も皆なで行列をつくつて、駆けて来たところです。」
「此方のものだよ。」
 太一郎が眼を輝かせて堀口に囁いた。
「私の馬をお借しゝませう。」
「八重は俺のにお乗りよ――競馬場へ行つて遊ばうぢやないか――ローラさん、珍らしい蝉をとつてあげますよ。」
 太一郎と堀口は滝本達が競馬場へ向つたことを知らぬ様子であつた。

     十二

 武一がラツキイを駆つて、馬場を廻つてゐるところに滝本達が来て――此方も三人のカタリーナを出場させて選手権を争つてやらうではないか、無論三人とも勇んで承諾したから――といふことを告げると、
「左う決まれば――」
 と武一は雀踊りして叫んだ。「東京へ引き上げた後も季節シーズン毎に村に帰つて――堀口達を牽制しつゞけてやることが出来る。百合子は、この頃こそ騎手にならなかつたが、誰にもけをとつたことのないブリリアント・チヤムピオンなんだもの――」
「八重さんとローラさんも、此頃では妾に負けない名手だわよ。」
「男達の働きよりも、一年一回のカタリーナ達の収入の方が断然リードするなんてことになりさうだな――ハツハツハ……」
 竹下は無性に痛快さうに哄笑した。「東京の郊外に早速――ヴエランダつきのバンガロウを借りるとしよう。そいつが俺達の合宿所になるといふわけだ。」
 堀口と太一郎が、ローラと八重の轡をとつて、其処に到着した。
「僕達は夫々馬を所有することが――決つたので――」
 堀口等に先立つて竹下が云つた。「ドリヤンとリリーとラツキーが僕達の所有になつて――そして騎手が三人……」
「それではね――」
 堀口が疾る胸を強いて圧し鎮めるかのやうな落着いた見得を切つて口を開いた。「私達の二頭とそつちの三頭とを合併して、三人の騎手を順々に乗せて、今、三回に分けたレースを行つた上で、騎手の争奪に埒を明けることにしようぢやないか。」
「感情上の仲違ひも、それで、はつきりと結末がつくだらう。」
 と太一郎は何か不平さうに呟いた。
「好からう。」
 武一と滝本が同時に答へた。
「ローラさん――事件が、何となくお伽噺めいてゐる見たいだけれど、不安を感ずる必要はありませんよ。」
 ローラが、ぼんやりと堀口達の顔を見守つてゐるのに武一が気づいて、
「全々遊戯のつもりでゐれば好いんだから――」
 などゝ気を配ると、ローラは上着を脱ぎ棄てながら、
「あたし達の町のロメリア祭の時にも恰度それと似た風習があつて、それは馬ではなくつて、娘達が驢馬に乗つて競走をする――あたしも幾度か、その選手に選ばれて出場した経験があるから、勝てる自信だつてある!」
 と勇み立つてゐた。「それにしても、好くも似た風習が此処にもあると思つて、先程さつきから感心してゐたところなのよ。」
「都では聞いたこともないが、これは寧ろ最も近代性を帯びたスポーツぢやないか……」
 竹下は有頂天になつて、
「堀口さん、賭けをしようぢやありませんか、――ね、武一、此方は例の土蔵の鍵を提供しようぜ。」
 などゝ、まことしやかに云ひ出すと、堀口は瞬間ギヨツとして、
土蔵くらの鍵はあるんですか?」
 と問ひ返した。
「ありますよ、ちやんと僕が保管してゐますよ。」
 滝本は皮肉を込めて答へた。――「太一郎君は塚本の借金証書を賭けたら何うかね。」
「ロメリアの競技の時も、やつぱり賭けが行はれます。」
 此方は冗談半分だつたところにローラが生真面目な註をさしはさんだので、堀口と太一郎は赤くなつて、
「ぢや僕等は、この二頭の馬を賭けるとしよう。」
「負けたら、また買つて来るだけだ。」
 と堀口が弱音を吹いたが、塚本の話と、土蔵の鍵のことはごまかしてしまつた。鍵の存在の有無に関しては、信用してゐないらしく、此方側の提供物を追求して来たので、滝本は今度こそは真面目になつて、厩の横に避けて円陣をつくつた。
「この地方では現在でも物々交換の習慣が残つてゐるのか知ら?」
 ローラは滝本に、そんな類ひの質問ばかり浴せるので、少々煩さゝを覚へて、
「さうだ――この地方はアメリカならば、さしづめ西部地方に相当するのだから……」
「百合さんの家は、酋長の家柄なんだらうか?」
「まあ、待つて呉れ――」
 彼は苦笑して、武一と竹下に向つて、
「騎手を提供すると云つたならば、余り野蛮過ぎるかしら?」
 と相談すると二人は言下に否定して、
「折角八重さんを奪ひ返したばかりのところぢやないか。」
「そんなことを云つたら、奴等は無気になつて――ほんとうに娘達を奪ひかねないからな。」
 と慄然とした。
 そして、やはり、土蔵の鍵と一決した。――三人は、目星しい物品は大方これまでも生活のために売り尽してゐるガランとした蔵の中を同時に思ひ浮べた。
「剥製の標本類だけだね。」
 武一が面白さうに呟いだ。
 ――然し彼等の相談が一決して、再び競技場に来て見ると、堀口と太一郎の姿は何処にも見あたらなかつた。――一同は、思はず顔を見合せて得体の知れぬ心地に打たれてゐると、八重が、
「あれ/\、彼処に!」
 と叫んで、背後の芝生に覆はれてゐる明るい丘を指さすので、一勢に見あげると、馬を連ねた二人が烈しい勢ひでジクザクの小径を駆け昇つてゐた。その姿が、黄味きばみの強い絨毯に似た芝生に影を吸ひとられて、黒く、シルエツトのやうに扁平になつてせはしく動きながら間もなく丘の頂きに達すると、青空を背景にして、此方を振り返つてゐた。声はとゞかなかつたが二人はそろつて片手を高く空に挙げると、何か口々に叫んだらしかつた。そして、見る間に丘の向ひ側に姿を没した。
 百合子とローラと八重は、シヤツの腕まくりをして馬に乗ると、戯れらしくそろつてスタートを切つた。ゆるく駆けたり、急にスピードを出したり、さうかと思ふと曲馬の真似でもして遊ばうと話し合つたらしくピヨンピヨンと鞍から飛び降りて、駆ける馬を追つて横乗りに飛び乗つたり――夢中の競走をはぢめたりして、いとも自由に夫々の馬をあしらひながら止め度もなく嬉々として、小さな円形の馬場をはね廻つてゐた。
 三人の男は、丘の中腹に段々となつてゐるスタンドで横隊に肩を組んで並んだまゝ、群像のやうになつて凝つと娘達の遊戯を視詰めてゐた。――水々しい光りが、擂鉢型の丘にとり巻かれた盆地の競場場に八方から降りそゝぐ滝のやうに集中して、キラキラと渦を巻いてゐる上に、その水煙りに似たひかりを蹴散らして魚のやうに飛び回つてゐるので、何れが誰れやら男達の眼には一向区別もつかなかつた。いつか村井も其処に現れて滝本の隣りに凭りかゝつてゐたが、誰もそれに気づかなかつたのか、それとも綺麗な風景に見惚れてゐるためか、飽くまでも無言のまゝ、夢見るやうな眼をそろへて光りの渦巻きを見降してゐた。
     ――――――――――
 これが「南風譜」――(田園篇)の終局の場面である。
 間もなく村井の「南方の騎士」が脱稿され、竹下の新たに取りかゝつた「馬と娘」と題する五十号大の製作が完成して、翻訳の仕事を持つた滝本と、新しい就職口を求める森武一と、そして八重とローラと百合子と――秋の東京へ、予定の通り出発して、理想の共和生活にとりかゝつたといふこと、竹下の「馬と娘」がシーズンの人気を一身に集めたといふ愉快なエピローグを附け加へて置かう。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「婦人サロン」文藝春秋社
   1931(昭和6)年5月〜10月
初出:「婦人サロン」文藝春秋社
   1931(昭和6)年5月〜10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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