横須賀にゐる妹(彼の妻の)のところで、当分彼の息子をあづかりたいと云つて寄越したのである。子供のない慎ましい夫婦暮しで、文学の本ばかり読んでゐる妹であつた。彼の息子は、彼が転地療養をすることになつたが、学校の都合で東京の親戚にのこつてゐた。
「トモ子のところなら安心だわ。トモ子はだらしがないけれど、ひとのことには親切だし、それに朝雄さんが責任の強い人だし。」
 と彼の妻は落着いてゐた。
 彼は半年ばかりの間、その町から五六里も離れた山奥の村で病養の日をおくり、ひとまづ母親のゐる町に立ち返つたのであるが、母を交へようとする家庭の雰囲気が、もう好からうとおぼろ気に期待してゐた彼の思惑とは凡そ掛け離れて、彼の膝にとりすがつてさめざめと涙を流す叔母があつたりして、聞くだに陰惨な雲行だつた。倒れかかつたやうな、あばら家で彼の母親は手まはりのものなどを売りながら、寒々と息子の帰りを待つてゐるといふことをきいたので、彼は扶養の責任を感じ、何か生活の上で新しいわづかな希望をさへ覚えて立戻つたのだが、三日も経たぬうちに、やはり彼は放浪を決心しなければならなかつた。
「停車場に降りると、電話を掛けたんだよ、自分としては別段敷居の高いこともないんだが、俺の顔を見て、若しや、慌てて逃げ出すやうな人があると、此方が堪らなくてれ臭いんでね。」
 彼は銀行に勤めてゐる従弟を訪ねて、そんなことを云つた。――「まるつきり別の家の人が出る始末さ。」
「知らなかつたの、とつくに売つてあることも――?」
「来て好かつたと思つたよ、その時俺は――噂にきいた通り阿母は痩我慢をしてゐるのだと思つたから――」
「君なんか何うせ何処に住んだつて関はないんだらうからな。」
「そんなこともないんだけれど、斯うなつた以上は阿母と離れては居られないと――」
 彼は、云はば爽々しさを感じて、順当な息子らしい忠実に浸つてゐたのだから、
「――喰ひ詰めるとは戻つて来るんだつて。」
 そんな意味のことを母親が洩してゐると聞くと、呆気にとられるだけだつた。何で、彼が戻つて来たかといふぐらゐのことは、母親にだつて十分に感ぜられてゐるし、若し真実に喰ひ詰めたものなら、凡そ吾家になど戻れる筈もない吾家の状態は、何年も前から解りきつてゐるにも係はらず、事更に彼を目して不良児らしく吹聴せずには居られない母親の、胸中の矛盾を想像すると彼は息も絶え絶えになつた。彼は憂さ晴しの酒を飲めるやうな健康ではなかつたので、生死の間をさ迷ふやうな心持で、凝つと腕組みをしたまま思案ともつかぬものに耽つてゐると、母親は急にこそこそと片づけごとをはじめたり、あちこちの箪笥に錠をおろして別の家に赴いたまま幾日でも帰らなかつた。彼は、これまでの自分の不しだらや我儘だつたことは、口にも出して詫び、ひたすら安穏を祈る心のみだつたが、沼気のやうな重苦しさは日毎に深く、到底おちおちとは読むことも書くことも適はぬので、幾日でも首を傾けて腕組みをしたまま、坐禅を組んでゐるに過ぎないのを、母親はやはり途方もない感違ひをしてゐるのであつた。――それにしても間もなく彼は、動かうにも動きがとれなくなつて、何か自分のもので抵当になるやうなものはなからうか? と、従弟に謀らざるを得なかつた。従弟は、弱つた苦笑を浮べてゐるだけだつた。未だ、手まはりの物までを売るほどのこともなからうのに、彼の母親はどんな小さなものまでも金に換へて、遊び歩いてゐるやうだと従弟は赤くなつて説明した。
「柄にもない了簡を出したのが、失敗だつたのか――」
 と彼は吐息をついた。
 彼は妻とふたりで、網をもつて蝶を追ひかけながら裏の山を越えたり、川べりを歩いたりした。
「俺たちも一先づ横須賀へ行かう。越すとか、逃げるとか、そんな風に思はず、ぶらりと、ただこのまま行かうぢやないか。」
 いつでも彼は、はつきりとしたことを口にするのが自分に対して無性におそろしく、わざとさり気なささうに無造作な行ひを執るのであつたが、結果として酷く大胆な行為に化すのが習慣だつた。
「考へたら駄目なんだ。今日、ひるからでも鞄ひとつ持つただけで出かけようぢやないか。」
「それあ、もう御免だわ。」
 彼の妻は、彼の胸を見透してゐた。今までだつて、何かにつけては軽々しさうに呟く彼の口車に乗つて、そのまま出かけると、いつまでも、どこまでも、遠いところの町々を迷ひめぐつて、それが二年三年もつづいて惨澹たる憂目を見せられるのに彼女はもう辟易してゐると、彼女は思はず力をこめて、
「行くんなら、もう決して二度とは帰らぬつもりで出よう。そんなら賛成するわ。」
 と眼眦を逆立てた。彼女は、軽い乱視眼であるせゐか、稍ともすると削りたつたやうな神経の嶮しさが露骨で、感情的だつた。
「何もさう、あたまから決めてかかることもなからうが――」
「それがあなたの悪い癖なんだよ。――いいえ、それでなければ行かないまでだ。長男なら長男らしく、ちやんと飽くまでも頑張つたら好いぢやないの。あなたが、云ふべきことを云はないから、いつまで経つても埒が明かないんぢやないか。」
 彼女は、強く云ひ張るのであつた。
「頑張るとか、埒があくとか俺にとつては、そんな類ひのものぢやないんだ。云ふことなんて、在る筈もないぢやないか。」
「在るさ、山ほど在る筈よ。自然主義のやうなことを云つてゐられちや堪らないわ。自分だけは心からかも知れないが、あたしや浩一は何うなると思ふの――」
「…………」
 彼は、時日に身を委ねるより他は、何の思案も浮かばなかつた。――眠れぬ夜が幾日となく続いた。母の不在も続いてゐた。二度とは帰らぬつもり――よしや、そんなことは口先では、これまでにしろ彼こそ夢中になつて喚いたこともあるのだが、所詮何処の果に落ち延びようとも、母親の夢は、彼を永遠の放浪児には成し難かつた。母親よりも先に自分が斃れるなどといふことは、それより他に考へる余地もない、云ふべきことを思へばそれより他に何もなくなるのであつたが、彼はそんな夢にだけは必死になつて逆らはずには居られなかつた。彼は、最早道義的の範囲では、いささかも母親の所行を難じてはゐなかつた。心底からの憎しみではなしに、方便として息子を憎まうとする母親のこんこんたる妄執が、彼はひたすら憐れであるのみであつた。
「どういふわけか知らないが、わたしの顔を見ると、あの子は不機嫌になるんですよ。八つあたりをするんですよ。だから、わたしは家をあけるんですよ。」
 母親は隣家の年寄にさう云つて、家を出てゆくのであつた。黙つて、腕組みをしてゐるだけで、彼は別段母親に限つて特に憂鬱さうな顔を示す筈もなかつたが、
「ふん、親を邪魔にして――立派だよ。」
 などとも云ひ、苛めに帰つて来たに違ひない! と涙を滾したりした。
「私にはその涙がわからない。母さんが私の心持がわからないと同じやうに――」
 さう云つた時には彼の眼には涙が滲んだ。
「議論は知りませんよ。」
 ――その涙がわかるとは彼は云へる筈もなかつたのである。
「だから私が出て行くより他に……」
「親をはふり出して――」
「何故、私が、苛めに帰つて来たなどと仰言るんですか?」
「…………」
 母は憤つとして横を向いてゐた。――彼は、云ひ過ぎたと気づいた。苛めたことになつてゐるには違ひないと彼は気づいたが、まさかあやまるわけにも行かなかつた。――彼は、その膝にとり縋つて悲しんだ叔母の、逞ましい酔つ払ひである伴れ合ひと、機嫌好く酒を酌み交したり、カフエーなどを歩き廻つたりすることがかなはぬのが、結局母親と自分の間を険悪にしてゐるのは承知してゐるものの、そんな類ひのことを我慢してまで不気味な団欒をつくる要はないと思ふばかりでなしに、夜更けになどなつて、歌などうたひながら泥酔を装つて門口を叩く音を聞くと、彼は全く夢中で裏口から逃げ出した。――妻から云へば、それが彼の意気地なしの所以であり、母からは、彼が母親を苛めたといふ結末に他ならなかつた。
 要は、ただ、寂しく、寒々と貧しく暮してゐる母親を想像したのが、彼のはやまりだつたに過ぎぬのである。
「もとから親に逆らふ気持なんて全くありはしない。親が路頭に迷つてゐるわけではなかつたんだから、何も心配する必要もないわけだ。――もう一遍何処へでも出かけるんだ。此処で徒らに苦しんでゐられる場合ぢやないから。」
「ぢや、もう決して帰らないといふ決心がついたのね。」
 妻は飽くまでも念を押すのであつた。「繰り返しは自分のためにもならないよ。」
 彼は自分のためをおもふ余地はなかつたけれど、斯んな類ひの極まりもない厭世観に襲はれて、破滅を期待するほど妻や子に対し無責任にはなれなかつた。――彼は、首だけでがくりとうなづき、凝つと武悪面をつくつてゐた。
「好く戻つて来て呉れたと、わたしは思つてゐるんだよ。兎角の噂を立てられて、酷く参つてゐるんだ。誤解しないで呉れよ。」
 あの叔母の伴れ合ひであるDが、彼をつかまへて云つたことがあつた。「長男の行方が知れないなんて、世間体が悪くつてね。」
「行方をくらませるわけぢやありませんよ。居所を不明にしたことだつてないでせう。」
「わたしが骨を折るから、此方で何か勤めでもして……」
「厭――」
 と彼は首を振つた。母親や叔父を、何故自分は何時まで経つても、一個の人として自由に傍観することが出来ぬのかと彼は自分が嘆かれるだけであつた。
「母さんだつて、もう何時、何んなことがあるかも知れない――その時、息子が間に合はなかつたなんていふことになつたなら……」
「…………」
 彼は自棄的な言葉などは吐けなかつた。さればと云つて、Dの忠言に従へるものではなかつた。――Dがべろべろに酔つて町端れのカフエーで暴れ手もつけられぬからといふ知らせをうけたのだが、怕しくて途方に暮れてゐる、彼のいふことならくから――と叔母が泣き込んで来た事もあつた。Dの家庭では風波が絶えぬさうだつた。
「迎へになんて行くことはありませんよ。」
 その時彼の母親は、金ぶちの眼鏡越しに、彼と叔母を白眼みながら、口の端に冷笑を浮べてゐた。
「男めかけ――とは何だ! 俺あ、あんな婆あは大嫌ひなんだぞう!」
 彼が、そのカフエーに行つて見ると、Dはもう他人の顔も見境ひのつかぬ泥のやうな有様で、夢中でそんなことばかりを喚いてゐるのであつた。

 彼の妻は、昔の外国行のトランクなどを持ち出して、不必要なものまで詰め込んだ。母親は、相変らず不在だつた。彼は、決して自分の気ままや、見たくないものを見るのを厭うて出てゆくのではない――といふ意味のことを、最も穏かな言葉で書きのこして行かうとしてゐたが、ペン先が震へて文字が記せなかつた。――何も彼も思ひきり好く片づけてしまふのは、自分たちだけでは望ましいに違ひなかつたが、これきりもう帰つて来ないといふ風な、そして如何にもあきらめ強く憤然として飛びたつて行つたといふやうな有様を、あまりに歴然とのこしてゆくのは、そこに戻つて来た折の母親の何んな表情を想像して見ても、しんしんと胸が痛み、刺されるやうな強迫観念におびやかされるばかりだつた。
あれさへ帰つて来なければ何も騒ぎは起りはしないんですよ。自分が行き詰るとは、騒動を起しに来るやうなもので……」
 母親は屡々さういふことを他人に滾したが、このごろの彼は酒を飲むではなし、別段に誰に迷惑をかけるでもなく、云はるるほどの落度もなかつた。凝つと考へ込んでゐる彼の様子を見て、悪謀みでも思案してゐるのだらう? と母親が勝手な邪推を廻らす位ゐのもので、おそらく非難の種も尽きてゐるだらう――と彼は思つたりした。
「それぢや、この標本だけは秋ちやんところに預つて貰ふわ。」
 妻は、リヤ・カアで本を運んで来る松尾といふ彼の友達の弟に頼んでゐた。町から東京へ通つてゐる大学生だつた。昆虫の標本が四十箱あまりも溜つてゐて、折角、壁などに飾つてあるものまでを妻は残らず片づけようとするので、
「それぐらゐは、そのまゝにして置いたつて――面倒ぢやないか。」
 と彼は、箱の下の白くなつてゐる壁を見て呟いたが、妻は返事もしなかつた。
 ともあれ、一日二日の間で、あたりはもう雑然たる引越状態に化してしまひ、散歩とか旅行とかとごまかしても居られなくなつたので、彼は費用の工面をするために東京の本屋を招んだのである。
「愚図々々してゐちや駄目よ。気が変られては堪らない――」
「――荷物が厭なんだよ。何とかならないものかな。」
「大きなことを云つてるわ。」
 妻は、わらつて、棄てるものと、運ぶものを始末してゐるのであつたが、持つて行きたいものが見る見るうちに山となつた。
「屹度、不便はさせないから、荷物はやはり止めようや。」
「ぢや、売つてしまはう。」
 と漸く彼女はあきらめた。――彼は、松尾の土蔵造りの二階を数年前から借りてゐて、東京にゐる頃でも折々、其処に戻つて机に向つた。彼は別段蔵書癖はなかつたが、昔外国の船に乗つてゐた亡父のあつめた本を読むのは殊の他の興味を覚え、時には想念の修飾に役立つので、何処にも持運びはせずに其処の蔵に収めて置いた。主に十九世紀末の出版になる有名でない冒険物語や、科学書とか、洒落本などの類ひであつた。
「もう済んだの?」
「いいえ、未だ未だ――」
 松尾は画集などをひろげて、ひとやすみしてゐた。いつにも明るみに出したことのない本の数々が、庭先の蓆の上に曝されて古い西洋紙の青葡萄のやうな香りを漂はせてゐた。
「僕もあとおしを手伝はう――」
「さうさう、昆虫の本だけはとつておきたいんだが。」
 妻はまた未練を起して、切手帳やらエハガキ・ブツクを抜き出すうちに忽ち抱へきれなくなるのであつた。
「何処に持つて行くんだい?」
「弱つたな――やつぱり預けて置くより他はないか……」
「売りたくないね……」
 彼も次第にたつぷりな未練気であつた。売るといふことは大概彼は痲痺してゐて、家屋敷を棄てた時にも重苦しさは覚えなかつたのに、どういふものかこのときに限つて、胸の中の海綿が力一杯搾られるやうな息苦しさにさへ迫られた。自分であつめた本は、これまでの幾度かの嵐で大半あとかたもなかつたが、天井裏や長持の中からなど、誰のものかも知れないやうな、ヒストリアンズ・ヒストリイとか、ブリタニカとか、古典的な西洋料理全集といふやうなものまで、あらひざらひ掻きあつめて見ると、それでもトラツクに一台は十分の量だつた。
 余程彼の頭は衰弱してゐたのに相違なかつた――そんなものまでも棄て去らなければならぬかとおもふと、仮面皮を剥がされるやうな痛さを覚え、裸になつたら、もうまるつきり何の智能もなく、キリギリスのやうな笛を吹きながらころりと野たれ死でもしてしまひさうな光景が髣髴としたり、又、はらわたを抉られた赤蛙の骨ひとつになつて水の上を泳いでゐる凄惨な姿が、そのままわが身の上に喩へられたりするかのやうな滑稽気なデリウジヨンになど駆られるのであつた。ズボンのポケツトに手首を入れて、廊下をぶらぶらと行き戻りしながら、何気なさを装うて吹いてゐる口笛の音までが、わらつてゐるもののやうに震へたりした。
「晩御飯はどこで喰べようかしら?」
 妻は勝手もとまでも片づけてしまつた。
「どうせ、出発はあしたでせう。」
「秋ちやんとこの兄さん達も招んで、にぎやかに別れたいわ。何だか、あたしすつかり清々しちやつたから、お酒でも飲んで見度いわ、何処が好いだらう。」
 松尾と二人で標本の箱を積み重ねながら、晴れやかさうな妻が、
「何か、考へはない?」
 などと、ぼんやり腕を組んで庭先の涌水を眺めてゐる彼に呼びかけた。兄達が待つてゐるから吾家に来て呉れるやうにと松尾がすすめるのだつたが、私は当分松尾の兄にも会ひたくなかつた。

 翌日、戸閉りの手伝ひに来た隣家の老婆は、家の中がまるで空家のやうにガランと片づいてゐるのを、わけもなく痛々しさうに眺めながら、
「それで、お母さんは御存じなんですかね……」
 と苦笑を浮べながら彼の顔を見詰めるのであつた。
「――大体、知つてゐる筈です。」
「でも、もう一遍考へ直して、ともかく奥さんがお帰りになつてからお出かけになつたら何うなんです?」
 いつもその年寄に留守を頼むのであつたが、それでも未だ彼は今も、また当分越して行くのだとは云ひ難かつた。本を持つて、旅行に行くのだ――などと酷く辻褄の合はぬことを云つた。母親も道具類までも手あたり次第に手放し、いま又息子が阿呆染みた顔をしてふらふらと戻り、腕組みばかりして首を曲げてゐたかとおもふと、やがて阿母の留守をねらつて売立騒ぎを演じた揚句に逐電した――などといふ噂が立つたら、重ね重ね母親が見得を悪くするであらうと憂へずには居られなかつた。
「普段でも、母はこんなにちよくちよくと此方の家をあけてゐるんでせうか?」
 彼は、あかくなつてそんなことを訊ねた。どうやら荷物だけは、あまり他人の眼に触れぬやうに片づけ終せたが、一日遅れて本屋が来たので、また朝から騒がなければならなかつた。
「まあ、たくさんな本だこと!」
 年寄は彼への応へは忘れて、垣根の外の事へ松尾たちが運んでゆく本を眺めてゐた。いくら年寄だつて、そんなに沢山な本を持つて旅行になど行く奴があるものか! と想像したに違ひないのだ。
「あたしは、もう、ほんたうに二度とはここに帰りたくはないわ。」
 年寄の家の午に招ばれて、彼の妻は膳ごしらへなど手伝ひながら、いつの間にか笑ひ声といつしよにそんなことを繰り返してゐるほど寛いでゐた。
「まあ、そんなことを仰言るもんぢやありませんわ。わたしのところだつて、あるといふのに……」
「えゝ、それあ、お婆さんのところへは来るわよ、汐干のじぶんが好いかしら――」
 彼女は、トゲ立つのも急だつたが、晴れるのも速かで、遠足へでも赴く支度をいそいでゐるかのやうに、もう冗談などを云つてゐるらしかつた。――彼は、妻は遊びになら来るつもりなのかしら? と思つた。六十いくつかまで、隠れた女の生涯を保つて、今はもうひとりの身寄りとてもなく、町役場から扶養料を享けて暮してゐる年寄に、彼等は母親で充たされぬものを感ずるやうに、繁々往来しては時には年寄の三味線などを聴いて陽気になることがあつた。
 破目一重の勝手もとから、途切れに洩れて来る彼女等のはなし声が、否応なく彼の耳にひびいた。
 ……「大したものだな、人間つて、そんなものかしら? ――くさつちやふわね。」
 妻は、年寄のはなしに受け応へしながら、空しく、堪へきれぬ吐息をついてゐた。そして、思はず真面目くさつて、
「お婆さんなんて、如何だつた?」
 などと訊ねた。
「――からかつちや、厭ですよ!」
 年寄は、わかもののやうな声をあげて笑ひ出した。
「いいえ……ほんたうに……冗談でなしに、あたしはそれを聴いて見たいのよ?」
「…………」
 彼は、年寄のわらひ声が、総毛だつほど薄気味悪くて、飲物も食ひ物も到底喉へはとほりさうもなかつた。
「……肥つた人は――のか知ら?」
「厭ですよ、そんなむきな顔で……まさかア――」
 彼は聴いて居られなくなつて、慌てて両掌でぴつたりと耳を掩つた。肥つて、丈が低く、肩のいかつい母親の姿が、払つても払つても眼の先から散らうともしなかつた。――ハチスの紫の花が咲いてゐる疎らな生垣の上に、車に積まれてゆく本が次第に山となつて見えた。松尾が垣の間から顔を出して、何か云つたやうだつたが、ぎよろりと眼を見張つたまま耳を掩つたりしてゐる彼の馬鹿な様子と顔を合せて、慌てて引込んだ。
 やがて年寄と妻が勝手もとを引きあげて彼の傍らに坐つたが、未だ彼は耳から掌を放してゐなかつた。――二人の表情は、長閑に和んで、わらつたり、目を見張つたりしてゐるのであつたが、どうもさつきの会話のつづきらしく、彼の戦く胸は決して収まらうとはしないのであつた。年寄が酌をすすめると、彼は慌てて盃をあげ、慌てて傾けたが、直ぐに耳を抑へてしまつた。――考へごとにばかり耽つてゐる男なんだからといふ風に、まはりの者は別段彼のそんな動作を不思議がらうともしなかつた。――妻が、また酒をすすめると、彼はそのまま首を振つてゐるだけだつた。妻と年寄の口の動くさまで、言葉を想像すると、突棒とか刺又とか※(「金+(戸の旧字+犬)」、第4水準2-90-93)もぢりとかといふやうな責道具で拷問にかかつてゐる辛さであつた。何を白状するといふいはれもなく、白状したからと云つて放免せられる望みもなく、限りなく呪はれた運命の牢獄で彼は、眼を閉ぢて蹲まつてゐるのみだつた。熱つぽい五体が、やがてふはりと宙に浮びあがつてゆくかとおもふと、それは暗闇の中で振子と化して等速運動を繰返してゐた。するうちに彼の乗つたブランコは悪魔の風を喰つて吹雪に目くらみ、天の極大マキシマムから地の極小ミニマムへと弾道を描いて揺れ動き、あはや腕がもぎれて混沌の奈辺へでも吹き飛んだかとおもふと、虚空に円を劃したのみで、彼の魂はもとの位置にぶらさがつてゐた。
 その時、年寄と妻の顔が同時に、はつといふ驚きの色を現して、垣根の向方へ注がれたので、車でも出発したのかな? と彼も不図手を放して見ると、真つ昼間からもう一杯機嫌であるらしいDが、
「いよう――やつてるな。ゆうべは松尾のところで大分はしやいださうぢやないか。ちつとは俺ともつき合はないかね。」
 と云ひながら、よろよろとあがつて来た。そして、不自然もなく悦に入つた調子で、
「おいおい、モダン・ガール――むつかしい顔は禁物だよ。どれどれ、俺も一杯仲間入りをさせて貰はうか、はつはつ……、何が何でも関やしないぢやないか、笑へ、笑へ、だ!」
 などと彼の妻の手を握つたりした。
「叔父さん、あたし達はけふ出かけるつもりなのよ、これから――」
「それあ、手まはしだね。お別れの盃か、まあ機嫌よく……」
 Dは余程逞ましい自惚れをもつて、女と見ると相好を崩すのであつた。――彼は、終ひまで黙劇パントマイムの見物人で居たかつたのだが、むかむかとする強い不快が込みあげて来て、
「冗談といふことは、僕には考へられないんだ。ただ、その場だけを、酒を飲んで、笑つて済ませるといふデカダンには不幸にして陥入ることがかなはないんだ。」
 と突つかかつた。
「さうだ、その意気で、大いに飲め――」
 Dはそんな風に調子を合せて来た。
「何が、その意気だい――ふざけるないツ。」
 彼は思はず叫んで、盃を投げ飛ばした。
「俺には貴様の了簡がわからんぞ。何かにつけては腹ばかり立ててゐるが、一体それあ何うしたわけなんだい。ひとつ、静かに聞かせて呉れないかね。」
「云ふことなんか、あるものか。」
「はつはつは――云ふことがなければ太平楽ぢやないか。出かけるといふのなら、誰も邪魔はせんよ。機嫌好く別れようぢやないか。」
「……堕落した人間を身近かに……」
「叔父さんの云ふ通りで好いのよ。」
 と妻がさへぎつた。「うちぢや勉強が出来ないから出かけるだけのことなんですもの、誰のせゐでもありはしないさ。」
「話せるね。」
 Dは、にやにや笑ひながら彼の妻の方へ向きをかへた。「出発のところに、叔父さんが折好く現れたなんぞは、もつけの幸ひじやないか、まあ、せいぜい、歩いて来るのも好からうさ。」
 本を積み終へた車が、どうも有りがたうと云つて、走り出した。Dは、それをジロリと見ながら、
「おい、秋ちやんもあがつておいでよ。」
 と、手持ぶさたになつた松尾を大きな声で呼んだ。――「うちの主人公はね、容だい振つてばかりゐて仕方がないんだよ。誰が、何ういふことを云つても決して笑はぬといふんだから不思議ぢやないかね。」
 彼は、Dに向つてゐる不機嫌さうな顔を友達に見られたくなかつたので、そつとその場を抜け出して母屋の方へ立ち去つた。Dにとつたら、憂鬱さうな自分の姿などは単に滑稽に過ぎぬのかも知れないが、そのやうに無感覚な鈍重さは、想像も出来ぬと彼は戦いだ。
 雨戸が閉つてゐても、八方からひかりが洩れてゐる歪んだ家の中はがらんとして明るかつた。もう彼等のものと云つては小箱ひとつもなく、綺麗に掃き清められて、まつたくの空家に等しかつた。隣家の年寄が仏壇に供へた線香の煙りが、微かに立ちこめてゐた。彼は、母親が戻つて来て、鳥のやうに立つて行つてしまつた自分たちのあとを見て、やはり胸の痛みを感ずるであらうとおびやかされたのだつたが、不図、事新しく自分を非難するであらう話題が、このガランとした家の中を見るに及んでは泉のやうに尽きぬであらう――と思つた。自分だけがいつまでも悪者になつて母親の口から吹聴されるだけで済むならば――そんな風な途方もない慰めが湧きあがつた。決して自分をごまかさうとする小さな慰撫でもなく、弁護でもなく、むしろ云ひ得べくもない敬虔の念に似通うたものであつた。
 たつた一つ物置の隅に思案にあまつて取り残して置いた父親のトランクを、彼はもう一度錠を下し直した。松尾の蔵に預けて置かうと思ひ直したのであつた。その中には彼の亡父の、晩年に至るまでの日記や感想の類ひが詰つてゐた。母は、その箱の鍵の在所を知らずに、何か別の価値のあるものが入つてゐると思つてゐた。
「まあ、たうとう、あのトランクまで持出してしまつた。まるで、泥棒を子に持つたも同じで、到底いつしよになど住める気遣ひもありはしない。少しでも値打ちのありさうなものなら、何でも彼でも売り飛ばさうとして、あんな眼つきをしてゐたに違ひない。」
 彼は、母親のさういふ言葉を想像した。稍ともすれば、それに等しいことを今迄にしろ母親は口にして、実際では何んな類ひの非行を演じたためしとてもない彼を、憐れむべき不良児と見なすのが癖だつた。
「叔父さんがね、すつかり酔つ払つてしまつて、皆なでこれから何処かへ出かけようと云つて諾かないのよ。」
 とてもひとりの力では持ちあがらなかつたので、彼はトランクの上に腰をかけて、頭をかかへてゐると、妻が苦笑を浮べながら現れた。
「ぢや、行つて来たら?」
「厭々――汚ならしいつたらありはしない。厭なことを、べらべら喋舌つたりするんで、お婆さんまでがたうとう気色を悪くしちやつて、とても憤つてゐるのよ。」
「秋ちやんは?」
「とつくに逃げ出しちやつた。」
「……聞かないで救かつた!」
 彼は深い溜息をついて首垂れた。
「どうしても、あなたにはなしたいことがあるんだつて――それにしても何だか変なのよ。ひどくだらしがなくつて、馬鹿なことを云つてるかとおもふと、急に涙なんか滾して、とてもやりきれないわ。」
「齢のせゐかね――。でも、酔つてゐられるのは困るな、尤も真面目なら一層何もはなすことなんかありはしないが……」
 Dの二十はたちになる娘は、母といつしよに近頃行方をくらませたさうだつた。その居所を、おそらく彼が承知してゐるのだらうと、Dは考へてゐたが、彼も知らなかつた。
「ともかく、ひとりぢや歩かせられないのよ、あぶなくつて――でも、あたしはこんな昼日中おくつて行くのは何うしても厭なの、叔父さんが、そこを通ると長屋の人なんかが冷かしたりするのよ、それをまた当人は平気で、ふざけ返したりするんだもの、とても一緒になんか出られない。」
「俺におくつて貰ひたいの?」
「――厭?」
 と妻は、心細さうに彼の顔いろを窺ふのであつた。「おぶつてでもやらなければ車にも乗れさうもないのに、外まで歩いて出ると云つて諾かないのよ。」
「何だ、そんならさうと、とつくに云へば好いのに――。平気だ。おくつて行かう。」
 彼は、気軽に立ちあがつた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「鬼涙村」芝書店
   1936(昭和11)年2月25日発行
初出:「新潮 第三十二巻第三号」新潮社
   1935(昭和10)年3月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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