村の年寄りが、山の小さい桐の樹を一本伐られたといって目に角立てゝ盗んだ者をせんさくしてまわったり、霜月の大師詣りを、大切な行かねばならぬことのようにして詣るのをいゝ年をしてまるで子供のようにと思って眺めていたが、私にも年寄りの気持がいくらかわかってきた。娯楽もなし、生活の変化もなし、それで一本の樹を大問題にしたり、大師詣りをたのしみとしたりすると云えば、それもあるが、それ以上に、彼等は、樹が育って大きくなって行くのをたのしみとして見ているのである。麦播きがすむと、彼等はこんどは、枯野を歩いて寺や庵をめぐり、小春日和の一日をそれで過すのをたのしみとしているのだ。
私はいま、子供たちと一緒にお正月が来るのを待っている。お正月も過ぎてしまえば、たのしみとして待ったほどのことはなく、あまりにあツけなく過ぎて結局又一ツ年を取って老いて行くのだが、それでもなにか期待の持てる張りあいのある気持で、藁をそぐってかざりを組み、山へ登って、松を伐ってくる。七日には、なな草のあえもの、十五日には朝早くとんどをして茅の箸で小豆粥を食べる。それがすむと、豆撒きの節分を待つ。
四季折々の年中行事は、自然に接し、又その中へはいりこみ、そしてそれをたのしむ方法として、祖先が長い間かかってつくりあげたもので春夏秋冬を通じてそれは如何にもたくみに配置されているように思われる。
茶色の枯れたような冬の芽の中に既にいま頃から繚乱たる花が用意されているのだと思うと心が勇む気がする。そして春になると又春の行事が私たちを待っている。
底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月11日作成
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