用事があって、急に小豆島へ帰った。
 小豆島と云えば、寒霞渓のあるところだ。秋になると都会の各地から遊覧客がやって来る。僕が帰った時もまだやって来ていた。
 百姓は、稲を刈り、麦を蒔きながら、自動車をとばし、又は、ぞろ/\群り歩いて行く客を見ている。儲けるのは大阪商船と、宿屋や小商人だけである。寒霞渓がいゝとか「天下の名勝」だとか云って宣伝するのも、主に儲けをする彼等である。百姓には、寒霞渓が、なに美しくあるものか! 「天下の名勝」もへちまもあったものじゃない。彼等は年百年中働くばかりである。食う物を作りながら、常に食うや食わずの生活をしている。
 僕の親爺は百姓である。もう齢、六十にあまって、なお毎日、耕したり、肥桶をかついだりである。寒い日には、親爺の鼻さきには水ばなのしずくが止まっている。時々それがぽとりと落ちる。
 帰って、──いつも家へ着くのは晩だが、その翌朝、先ず第一に驚くことは、朝起きるのが早いことである。五時頃、まだ戸外は暗いのに、もう起きている。幼い妹なども起される。──麦飯の温いやつが出来ているのだ。僕も皆について起きる。そうすると、日の長いこと。十一月末の昼の短い時でも、晩が来るのがなか/\待遠しい。晩には夜なべに、大根を切ったり、屑芋をきざんだりする。このあいだ、昼間があまり忙しいので、夜なべに蕎麦をこなしたのだと母は話している。
 祖父も百姓だった。その祖父も、その前の祖父も百姓だったらしい。その間、時には、田畑を売ったこともあり、また買ったこともあるようだ。家を焼かれてひどく困ったこともあるし、山を殆んど皆な売ってしまったこともある。金廻りの良かった時には、鰯網に手を出したこともある。が昔から自作農であったことに変りはない。祖父は商売気があって、いろ/\なことに手を出して儲けようとしたらしいが、勿論、地主などに成れっこはなかった。
 親爺は、十三歳の時から一人前に働いて、一生を働き通して来た。学問もなければ、頭もない。が、それでも、百姓の生活が現在のまゝではどうしても楽にならないことを知っている。経験から知っているのだろう。自作農は、直接地主から搾取されることはない。併し誰れかから間接に搾取されている。昔は、いまだ少しはましだった。併し、近頃になるに従って、百姓の社会的地位、経済的地位が不利になって生活が行きつまって苦るしくなって来ている。それを親爺は理論的に説明することはよくしないが、具体的な実例によって、知っている僕は、たびたび親爺の話をきいたものだ。親爺も、僕達と同じようなことを考えている。だから、僕が、社会主義の話をしてきかせると、非常に嬉しがってきいている。親爺も、それで、胸の鬱憤が晴れ息がつけるものらしい。
 だが、親爺は、そういうことを考えていても、それを主張したり、運動したりする元気はない。年が行きすぎている。そして、どこまでも器械のようにコツ/\働いている。
 二三年前の話である。寒い冬の晩で、藁仕事をしながら一家の者が薄暗い電燈の下に集っている時、農村の話をし社会主義の話をしたものである。戸は閉めきってあったが、焚き火もしなければ、火鉢もなかった。で親爺に鼻のさきに水ばなをとまらせていたものだ。なんでも僕は、新聞記事を見てだったか、本を読んでだったか、その日興奮していた。話は、はずんだ。僕は、もう十年か十五年もすれば吾々の予期するような時代がやって来るだろう。その時には地主も資本家やその他の、現在に於ける社会的地位が、がらりと変って来る。というようなことを喋ったものだ。
 すると親爺は、
「えゝい、そんな早よ、なりゃえゝけんど、十年や十五年でなに、そんなになろうに!──俺等が生きとるうちにゃなか/\そこまで行かない」と、水ばなをすゝり上げた。
 僕は今、そのことを思い出す。
 親爺は、六十年の経験からそんなことを云ったのだろう。

底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月17日作成
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