一

「自分も実は白状をしやうと思つたです。」
 と汚れ垢着あかつきたる制服をまとへる一名の赤十字社の看護員は静に左右をかえりみたり。
 かれ清国しんこくの富豪柳氏りゅうしの家なる、奥まりたる一室に夥多あまた人数にんずに取囲まれつつ、椅子いすに懸りてつくえに向へり。
 渠を囲みたるは皆軍夫ぐんぷなり。
 その十数名の軍夫の中に一人たくましきおのこあり、の看護員に向ひをれり。これ百人長なり。海野うんのといふ。海野は年配ねんぱい三十八、九、骨太ほねぶとなる手足あくまで肥へて、身のたけもまた群を抜けり。
 今看護員のいひだせる、そのことばを聴くとひとしく、
「何! 白状をしやうと思つたか。いや、実際味方の内情を、あの、敵に打明けやうとしたんか。君。」
 いふことばややあらかりき。
 看護員は何気なにげなく、
左様そうです。つな、るな、貴下あなたひどいことをするぢやあありませんか。三日もめしを喰はさないで眼もくらむでゐるものを、赤條々はだかにして木の枝へつるし上げてな、銃の台尻だいじりで以てなぐるです。ま、どうでしやう。余り拷問ごうもんきびしいので、自分もつひ苦しくつてたまりませんから、すつかり白状をして、早くその苦痛を助りたいと思ひました。けれども、軍隊のことについては、何にも知つちやあゐないので、赤十字の方ならばくわしいから、病院のことなんぞ、悉しくいつて聞かしてつたです。が、其様そんなことは役に立たない。軍隊の様子を白状しろつて、益々酷くさいなむです。実は苦しくつて堪らなかつたですけれども、知らないのが真実ほんとうだからいへません。で、とうとう聞かさないでしまひましたが、いや、実に弱つたです。困りましたな、どうも支那人の野蛮なのにやあ。何しろ、まるでもつて赤十字なるものの組織を解さないで、自分らを何がなし、戦闘員と同一おんなじに心得てるです。仕方がありませんな。」
 とあだかも親友に対してうえ談話ばなしをなすが如く、かれは平気に物語れり。
 しかるに海野はこれを聞きて、不心服ふしんぷくなる色ありき。
「ぢやあ何だな、知つてれば味方の内情を、残らず饒舌しゃべツちまうところだつたな。」
 看護員はかろく答へたり。
「いかにも。拷問が酷かつたです。」
 百人長は憤然むっとして、
「何だ、それでも生命いのちがあるでないか、たとひ肉がただれやうが、さ、皮が裂けやうがだ、呼吸いきがあつたくらゐの拷問なら大抵たいてい知れたもんでないか。それに、いやしくも神州男児で、ことに戦地にある御互おたがいだ。どんなことがあらうとも、いふまじきことを、何、なぐられた位で痛いといふて、味方の内情を白状しやうとする腰抜が何処どこにあるか。勿論、白状はしなかつたさ。白状はしなかつたにちがいないが、自分で、知つてればいはうといふのが、既に我が同胞どうぼうの心でない、敵に内通も同一おんなじだ。」
 といひつつ海野は一歩を進めて、更に看護員を一睨いちげいせり。
 看護員は落着まして、
「いや、自分は何も敵に捕へられた時、軍隊の事情をいつては不可いけぬ、拷問ごうもんを堅忍して、秘密を守れといふ、訓令をけた事もなく、それを誓つたおぼえもないです。また全く左様そうでしやう、そでに赤十字の着いたものを、戦闘員と同一おんなじ取扱をしやうとは、自分はじめ、恐らく貴下方あなたがたにしても思懸おもいがけはしないでせう。」
「戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気のんきなことをいやがんでい。」
 軍夫の一人つかつかと立懸たちかかりぬ。百人長は応揚おうよう左手ゆんでを広げてさえぎりつつ、
「待て、ええ、でもない喧嘩けんかと違うぞ。裁判だ。罪がきまつてから罰することだ。騒ぐない。噪々そうぞうしい。」
 軍夫は黙して退しりぞきぬ。ぶつぶつ口小言くちこごといひつつありし、他の多くの軍夫らも、なりを留めて静まりぬ。されど尽く不穏の色あり。眼光鋭く、意気激しく、いづれもこぶしに力をめつつ、知らず知らずひじを張りて、強ひて沈静を装ひたる、一室にこの人数をれて、燈火の光ひややかに、殺気をめて風寒く、満州の天地初夜しょや過ぎたり。

       二

 時に海野はおもてを正し、いましむるが如き口気くちぶり以て、
「おい、それでは済むまい。よしむば、われわれ同胞が、君に白状をしろといつたからツて、日本人だ。むざむざ饒舌しゃべるといふ法はあるまいぢやないか、骨が砂利にならうとままよ。それをさうやすやすと、知つてれば白状したものをなんのツて、面と向つてわれわれにいはれた道理ぎりか。え? どうだ。いはれた義理ぎりではなからうでないか。」
 看護員は身をななめにして、椅子に片手を投懸けつつ、手にせる鉛筆をもてあそびて、
「いや。しかし大きに左様そうかも知れません。」
 と片頬かたほを見せて横を向きぬ。
 海野は※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりたるまなこを以て、避けし看護員のおもてを追ひたり。
「何だ、左様かも知れません? これ、無責任の言語を吐いちやあ不可いかんぞ。」
 またじりりと詰寄りぬ。看護員はやや俯向うつむきつ。手なる鉛筆のさきめて、筒服ズボンひざ落書らくがきしながら、
「無責任? 左様ですか。」
 かれは少しも逆らはず、はた意に介せるさまもなし。
 百人長は大にきて、
ただ(左様ですか)では済まん。様子に寄つてはこれ、きつとわれわれに心得がある。しつかり性根しょうねへて返答せないか。」
何様どんな心得があるのです。」
 看護員は顔を上げて、きっと海野に眼を合せぬ。
「一体、自分が通行をしてをる処を、何か待伏まちぶせでもなすつたやうでしたな。貴下方あなたがた大勢で、自分をかつぐやうにして、此家ここ引込ひっこむだはどういふわけです。」
 海野は今この反問に張合を得たりけむ、肩をゆすりて気兢きおひ懸れり。
「うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、づ聞くことを聞いてからのこととしやう。」
「は、それでは何か誰ぞの吩附いいつけででもあるのですか。」
 海野は傲然ごうぜんとして、
「誰が人に頼まれるもんか。おれの了簡で吾が聞くんだ。」
 看護員はそとその耳を傾けたり。
「ぢやあ貴下方に、ひとを尋問する権利があるので?」
 百人長はおもてを赤うし、
さえずるない!」
 と一声高く、頭がちに一呵いっかしつ。驚破すわといはば飛蒐とびかからむず、気勢きおい激しき軍夫らを一わたりずらりと見渡し、その眼を看護員に睨返ねめかえして、
「権利はないが、腕力じゃ!」
「え、腕力?」
 看護員は犇々ひしひしとその身をようせる浅黄あさぎ半被はっぴ股引ももひきの、雨風に色褪いろあせたる、たとへば囚徒の幽霊の如き、数個すかの物体を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはして、ひいでたるまゆひそめつ。
「解りました。で、そのお聞きにならうといふのは?」
「知れてる! 先刻さっきからいふ通りだ。何故なぜ、君には国家といふ観念がないのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしやうと思ふ。その精神が解らない。(いや、左様かも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじや了見せんぞ、しつかりと返答しろ。」
 咄々とつとつ迫る百人長は太き仕込杖しこみづえを手にしたり。
「それでどういへば無責任にならないです?」
「自分でその罪を償ふのだ。」
「それではどうして償ひましやう。」
「敵状をいへ! 敵状を。」
 と海野は少し色解いろとけてどかと身重みおもげに椅子にれり。
「聞けば、君が、不思議に敵陣から帰つて来て、係りの将校が、君の捕虜になつてゐた間の経歴について、尋問があつた時、特に敵情を語れといふ、命令があつたそうだが、どういふものか君は、知らない、存じませんの一点張で押通おっとおして、つまりそれなりでむだといふが。え、君、二月ふたつきも敵陣にゐて、敵兵の看護をしたといふでないか。それで、懇篤こんとくで、親切で、大層奴らのために尽力をしたさうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送つたさうだ。その位信任をされてをれば、種々いろいろ内幕も聞いたらう、また、ただ見たばかりでも大概は知れさうなもんだ。知つてていはないのはどういふ訳だ。あんまり愛国心がないではないか。」
「いえ、全く、聞いたのは呻吟声うめきごえばかりで、見たのは繃帯ほうたいばかりです。」

       三

「何、繃帯と呻吟声、その他は見も聞きもしないんだ? 可加減いいかげんなことをいへ。」
 海野は苛立いらだつ胸を押へて、務めて平和を保つに似たり。
 看護員は実際その衷情ちゅうじょうを語るなるべし、いささか飾気かざりけなく、
「全く、知らないです。いつて利益になることなら、何かくすものですか。また些少ちっとも秘さねばならない必要も見出さないです。」
 百人長はいぶかしに、
「して見ると、何か、全然まるで無神経で、敵の事情を探らうとはしなかつたな。」
「別に聞いて見やうとも思はないでした。」
 と看護員は手をそのひたいに加へたり。
 海野は仕込杖以てゆかをつつき、足蹈あしぶみして口惜くちおしげに、
「無神経極まるじやあないか。敵情を探るためには斥候せっこうや、探偵たんていが苦心に苦心を重ねてからに、命がけで目的を達しやうとして、十に八、九は失敗しくじるのだ。それに最も安全な、最も便利な地位にあつて、まるでうつちやツて、や、聞かうとも思はない。無、無神経極まるなあ。」
 と吐息して慨然たり。看護員はうなじでて打傾うちかたむき、
「なるほど、左様でした。ひまだとそんな処まで気が着いたんでしやうけれども、何しろ病傷兵の方にばかり気を取られたので、ぬかつたです。些少ちっとも準備が整はないで、手当が行届かないもんですから随分繁忙を極めたです。五分と休むひまもない位で、夜の目も合はさないで尽力したです。けれども、器具も、薬品も不完全なので、満足に看護も出来ず、見殺にしたのが多いのですもの、敵情を探るなんて、なかなかどうして其処々そこどころまで、手が廻るものですか。」
 といまだいひもはてざるに、
「何だ、何だ、何だ。」
 海野は獅子吼ししぼえをなして、突立つったちぬ。
「そりや、何の話だ、誰に対する何奴どいつことばだ。」
 と噛着かみつかむずる語勢なりき。
 看護員は現在おのが身の如何いかに危険なる断崖だんがいはしに臨みつつあるかを、心着かざるものの如く、無心――いなむしろ無邪気――のていにて、
「すべてこれが事実であるのです。」
「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳もおしむで、問はず、聞かず、敵のためには粉骨碎身ふんこつさいしんをして、夜の目も合はさない、呼吸いきもつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を頂戴ちょうだいする訳にはゆかんな。道理もっともだ。」
 といい懸けて、夢見る如き対手あいての顔を、海野はじつとみまもりつつ、あざみ笑ひて、声太く、
「うむ、得がたい豪傑だ。日本の名誉であらう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君をいて外にはあるまい。君も名誉と思ふであらうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。われわれもあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあらうが、どうぞ一番ひとつ、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」
 と口はやわらかにものいへども、胸にみちたる不快の念は、包むにあまりてでぬ。
 看護員は異議もなく、
「確かありましたツけ、お待ちなさい。」
 手にせる鉛筆をおさむるとともに、衣兜かくしうちをさぐりつつ、
「あ、ありました。」
 と一通の書を取出して、
「なかなか字体がうまいです。」
 無雑作むぞうさ差出さしいだして、海野の手に渡しながら、
「裂いちやあ不可いけません。」
「いや、つつしむで、拝見する。」
 海野はことさらに感謝状を押戴おしいただき、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く差翳さしかざしつ。声を殺し、なりを静め、片唾かたずを飲みてむらがりたる、多数の軍夫に掲げ示して、
「こいつを見い。貴様たちは何と思ふ、礼手紙だ。いいか、支那人チャンチャンから礼をいつて寄越したふみだぞ。人間は正直だ。わけもなく天窓あたまを下げて、お辞儀をする者はない。ことに敵だ、われわれの敵たる支那人チャンチャンだ。支那人が礼をいつて捕虜とりこを帰して寄越したのは、よくよくのことだと思へ!」
 いふことば半ばにして海野はまた感謝状を取直し、ぐるりと押廻して後背うしろなる一団の軍夫に示せし時、戸口に丈長たけたかき人物あり。頭巾ずきん黒く、外套がいとう黒く、おもておおひ、身躰からだを包みて、長靴を穿うがちたるが、わずかこうべを動かして、きっとその感謝状に眼を注ぎつ。こまやかなる一脈いちみゃくの煙はかれ唇辺くちびるめて渦巻うずまきつつ葉巻はまきかおり高かりけり。

       四

 百人長は向直むきなおりてそのことばを続けたり。
「何と思ふ。意気地もなく捕虜とりこになつて、生命いのちが惜さに降参して、味方のことはうつちやつてな、支那人チャンチャン介抱かいほうをした。そのまた尽力といふものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するやうに、恐ろしく親切を尽してつてな、それで生命を助かつて、阿容々々おめおめと帰つて来て、あまつさへこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様たちなら何とする?」
 といまだいひもはてざるに、満堂たちまち黙を破りて、どっ諸声もろごえをぞ立てたりける、喧轟けんごう名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、なぐれと、衆口一斉熱罵ねつば恫喝どうかつを極めたる、思ひ思ひの叫声は、雑音意味もなき響となりて、騒然としてかまびすしく、あはや身の上ぞと見る眼危き、唯単身みひとつなる看護員は、冷々然として椅子にりつ。あたりを見たる眼配まくばりは、深夜時計のきしる時、病室に患者を護りて、油断せざるにことならざりき。看護員に迫害を加ふべき軍夫らの意気は絶頂に達しながら、百人長の手をりてしきりに一同をしずむるにぞ、その命なきにさきだちて決して毒手を下さざるべく、かねいましむる処やありけん、地踏※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)じだんだみてたけり立つをも、夥間なかま同志が抑制して、こぶしを押へ、腕をやくして、野分のわけは無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、卓子ていぶるの上に押遣りて、
「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴らが如彼あんなに騒ぐ。殺せの、撲れのといふ気組きぐみだ。うむ、やつぱり取つて置くか。引裂ひっさいて踏むだらどうだ。さうすりや些少ちっとあ念ばらしにもなつて、いくらか彼奴あいつらが合点がってんしやう。さうでないと、あれでも御国みくにのためには、生命いのちも惜まないてあいだから、どんなことをしやうも知れない。よく思案して請取るんだ、いいか。」
 耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野がことばの途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも衣兜かくしに納まりぬ。
「取つたな。」と叫びたる、海野の声の普通ただならざるに、看護員は怪む如く、
不可いけないですか。」
「良心に問へ!」
「やましいことは些少ちっともないです。」
 いと潔くいひはなちぬ。その面貌の無邪気なる、そのいふことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷ふが如き、さる心弱きものにはあらず、何らか固き信仰ありて、たとひその信仰の迷へるにもせよ、断々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ。
 海野はその答を聞くごとに、あきれもし、怒りもし、苛立いらだちもしたりけるが、真個しんこ天真なるさま見えてことばを飾るとは思はれざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑ひつつ、一応試に愛国の何たるかを教え見むとや、少しく色を和げる、重きものいひのしぶりがちにも、
「やましいことがないでもあるまい。考へて見るがいい。第一敵のためにとりこにされるといふがあるか。抵抗してかなはなかつたら、何故なぜ切腹をしなかつた。いやしくも神州男児だ、はらわたつかみ出して、敵のしやツつらへたたきつけてるべき処だ。それもいい、時と場合で捕はれないにも限らんが、なぐられて痛いからつて、平気で味方の内情を白状しやうとは、あきはてた腰抜だ。其上それにまだ親切に支那人チャンチャンの看護をしてな、高慢らしく尽力をした吹聴ふいちょうもないもんだ。のみならず、一旦恥辱をこうむつて、われわれ同胞の面汚つらよごしをしてゐながら、洒亜しあつくで帰つて来て、感状をいただきは何といふ心得だ。せめて土産みやげに敵情でも探つて来れば、まだ言訳いいわけもあるんだが、刻苦こっくして探つても敵の用心が厳しくつて、残念ながら分らなかつたといふならまだもじょすべきであるに、先に将校にしらべられた時も、前刻さっきおれが聞いた時も、いひやうもあらうものを、敵情なんざ聞かうとも、見やうとも思はなかつたは、実に驚く。しかも敵兵の介抱が急がしいので、其様そんなことあ考へてるひまもなかつたなんぞと、憶面おくめんもなくいふ如きに至つては言語同断ごんごどうだんといはざるを得ん。国賊だ、売国奴だ、疑つて見た日にやあ、敵に内通をして、我軍の探偵に来たのかも知れない、と言はれた処で仕方がないぞ。」

       五

「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がさうやすやす捕虜とりこを返す法はない。しかしそれには証拠がない、しいて敵に内通をしたとはいはん、が、既に国民の国民たる精神のない奴を、そのままにして見遁みのがしては、我軍の元気の消長に関するから、きっと改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加へなければならん。勿論軍律を犯したといふでもないから、将校方は何の沙汰さたをもせられなかつたのであらう。けれどもが、われわれ父母妻子をうつちやつて、御国みくにのために尽さうといふ愛国の志士が承知せん。この室にゐるものは、皆な君の所置ぶりに慊焉けんえんたらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、其様そんな国賊は、きっと談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。いいか。そのにくむべき感謝状を、かういつた上でも、裂いて棄てんか。やつぱりましいことはないが、些少ちょっとも良心がとがめないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちやあ不可いかんぞ。」
 看護員は傾聴して、深くそのことばを味ひつつ、黙然として身動きだもせず、やや猶予ためらひてものいはざりき。
 こなたはしたり顔に附入つけいりぬ。
きっと責任のある返答を、此室ここにゐるみんなに聞かしてもらはう。」
 いひつつ左右を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまわしたり。
 軍夫の一人は叫びいだせり。「先生。」
 かれらは親方といはざりき。海野は老壮士なればなり。
「先生、はやくしておくむなせえ。いざこざは面倒でさ。」
なぐつちまへ!」と呼ばるるものあり。
「隊長、おい、たましいへて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。」
「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」
 と口々にまたひしめきつ。四、五名の足のばたばたばたと床板ゆかいた踏鳴ふみならす音ぞ聞こえたる。
 看護員は、海野がいはゆる腕力の今ははやその身に加へらるべきを解したらむ。されども渠はいささかも心にましきことなかりけむ、胸苦むねぐるしき気振けぶりもなく、静に海野に打向うちむかひて、
些少ちっとも良心に恥ぢないです。」
 軽く答へて自若じじゃくたりき。
「何、恥ぢない。」
 といひ返して海野はまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりたり。
「もう一度、きっとやましい処はないか。」
 看護員は微笑ほほえみながら、
「繰返すに及びません。」
 その信仰や極めて確乎かっこたるものにてありしなり。海野は熱し詰めてこぶしを握りつ。容易たやすくはものも得いはで唯、唯、かれにらまへ詰めぬ。
 時に看護員は従容しょうよう
「戦闘員とは違ひます、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願ひたいです。」
 いひ懸けて片頬かたほみつ。
「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵といふのがあるはずです。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、げらるれば遁げるんですが、り損なへばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国しんこくだのといふ、左様さような名称も区別もないです。ただ病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。丁度ちょうど自分が捕虜とりこになつて、敵陣にゐました間に、幸ひ依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折なおれになる。いや名折は構はないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさつきもいひます通り、我軍と違つて実に可哀想だと思ひます。気の毒なくらゐ万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、やうやう赤十字の看護員といふ躰面たいめんだけは保つことが出来ました。感謝状はづそのしるしといつていいやうなもので、これを国への土産みやげにすると、全国の社員はみんな満足に思ふです。既に自分の職務さへ、かろうじて務めたほどのものが、何の余裕があつて、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今貴下あなたにおはなし申すことも、おしらべになつて将校方にいつたことも、全くこれにちがひはないのでこのほかにいふことは知らないです。毀誉褒貶きよほうへんは仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまはないです。唯看護員でさへあればいい。しかし看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心てきがいしんがどうであるのと、左様さようなことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」
 とよどみなくべたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と頓挫とんざなかりき。

       六

 見る見る百人長は色げきして、くだけよとばかり仕込杖を握り詰めしが、思ふこと乱麻らんま胸をきて、反駁はんばくいとぐち発見みいだし得ず、小鼻と、ひげのみ動かして、しらけ返りて見えたりける。時に一人の軍夫あり、
「畜生、すきなことをいつてやがらあ。」
 声高こわだかに叫びざま、足疾あしばや進出すすみいでて、看護員のかたえに接し、そのおもてのぞきつつ、
「おい、隊長、色男の隊長、どうだ。へむ、しらばくれはよしてくれ。その悪済わるすましが気に喰はねえんだい。赤十字社とか看護員とかツて、べらんめい、漢語なんかつかいやあがつて、何でえ、ていよく言抜けやうとしたつて駄目だめだぜ。おいらアみんな知てるぞ、間抜まぬけめい。へむ畜生、支那チャン捕虜とりこになるやうぢやあとても日本で色の出来ねえ奴だ。唐人とうじん阿魔あまなんぞにれられやあがつて、このあいめ、手前てめえ、何だとか、だとかいふけれどな、南京なんきんに惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、贔負ひいきをしたりして、内幕を知つててもいはねえんぢやあねえか。かう、おいらの口は浄玻璃じょうはりだぜ。おいらあしよつちう知つてるんだ。おいみんな聞かつし、初手しょてはな、支那人チャンチャンの金満が流丸ながれだまくらつて路傍みちばたたおれてゐたのを、中隊長様が可愛想だつてえんで、お手当をなすつてよ、此奴こいつにその家まで送らしておんなすつたのがはじまりだ。するとお前その支那人チャンを介抱して送り届けて帰りしなに、支那人の兵隊が押込むだらう。面くらいやアがつてつかまる処をな、金満のやっこさん恩儀を思つて、無性むしょう難有ありがたがつてる処だから、きわどい処を押隠して、やうやう人目を忍ばしたが、大勢押込むでゐるもんだから、かくしきれねえでとうどう奥の奥の奥ウの処の、むすめの部屋へ秘したのよ。ね、隠れて五日いつかばかり対向さしむかひでゐるあひだに、何でもその女がれたんだ。無茶におツこちたと思ひねえ。五日目に支那の兵が退いてく時つかめえられてしよびかれた。何でもその日のこつた。おいら五、六人で宿営地へ急ぐ途中、ひど吹雪ふぶく日で眼も口もあかねへ雪ン中に打倒ぶったおれの、半分まつて、ひきつけてゐた婦人おんながあつたい。いつて見りや支那人チャン片割かたわれではあるけれど、婦人だから、ねえ、おい、構ふめえと思つて焚火たきびであつためて遣ると活返いきけえつた李花てえむすめで、此奴こいつがエテよ。別離苦わかれ一目ひとめてえんでたった一人ひとり駈出かけだしてさ、吹雪僵ふぶきだおれになつたんだとよ。そりやあとで分つたが、そン時あ、おいらツちがおぶつてうちまで届けて遣つた。その因縁でおいらちよいちよい父親おやじの何とかてえ支那の家へ出入をするから、くわしいことを知つてるんだ。女はな、ものずきじやあねえか、この野郎が恋しいとつて、それつきり床着とこづいてよ、どうだい、この頃じやもう湯も、水も通らねえツさ。父親なんざ気をんで銃創てっぽうきずもまだすつかりよくならねえのに、此奴こいつ音信たよりを聞かうとつて、旅団本部へ日参にっさんだ。だからもうみんながうすうす知つてるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入つて、御存じだから、おいやっこさむ。お前おしらべの時もそのお談話はなしをなすつたらう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、勿体もってえねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けてつかはせとおつしやらあ、恐しい冥伽みょうがだぜ。お前そんなことも思はねえで、べんべんと支那兵チャンチャン介抱かいほうをして、お礼をもらつて、恥かしくもなく、のんこのしやあで、唯今帰つて来はどういふ了見だ。はじめに可哀想だと思つたほど、にくくてならねえ。支那チャン探偵いぬになるやうな奴は大和魂やまとだましいを知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや支那人チャン同一おんなじだ。どてツ腹あ蹴破けやぶつて、このわたを引ずり出して、噛潰かみつぶして吐出すんだい!」
其処そこだ!」と海野は一喝いっかつして、はたと卓子ていぶる一打ひとうちせり。かかりしあいだ他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、舌者ぜっしゃの声を打消すばかり、熱罵ねつばを極めて威嚇いかくしつ。
 楚歌そか一身にあつまりて集合せる腕力の次第に迫るにもかかはらず眉宇びう一点の懸念けねんなく、いと晴々はればれしき面色おももちにて、かれ春昼しゅんちゅうせきたる時、無聊むりょうえざるものの如く、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、かわる交る投懸けては、その都度つど靴音を立つるのみ。胸中おのづから閑ある如し。
 けだし赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠の如きにあらざるよりは、到底これ保ち得がたき度量ならずや。
其処そこだ。」と今卓子ていぶるを打てる百人長は大に決する処ありけむ、きっと看護員に立向ひて、
「無神経でも、おい、先刻さっきからこの軍夫のいふたことは多少耳へ入つたらうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、怯奴きょうどである、国賊である、破廉恥、無気力の人外にんがいである。みんなが貴様を以て日本人たる資格のないものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」
「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長はうなずきぬ。
よし、改めていへ、名を聞かう。」
「名ですか、神崎愛三郎かんざきあいさぶろう。」

       七

「うむ、それでは神崎、現在ゐる、此処ここは一体何処どこだと思ふか。」
 海野はいたくあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまわしながら、
左様さよう、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」
「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」
 顔にこけむしたるひげでつつ、立ちはだかりたるたけ豊かに神崎を瞰下みおろしたり。
「此処はな、が家だ。貴様にれてゐる李花の家だぞ。」
 今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと微笑ほほえめり。
 神崎は夢のうちなる面色おももちにてうつとりとそのまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりぬ。
「ぼんやりするない。が住居だ。むすめの家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、わざと此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族はみんな追出してしまつて、李花はわれわれの手の内のものだ。それだけあらかじめ断つて置く、いいか。
 さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすればいい、むしろほかのことはしない方が当前あたりまえだ。敵情を探るのは探偵の係で、たたかいにあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、敵愾心てきがいしんを起すのは常業のない閑人ひまじんで、すすんで国家に尽すのは好事家ものずきがすることだ。人は自分のすべきことをさへすればいい、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、とせんじ詰めた処さういふのだな。」
 神崎は猶予ためらはで、
左様さよう、自分は看護員です。」
 この冷かなる答を得え百人長は決意の色あり。
「しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!」
「出来ないです。余裕があれば綿繖糸めんざんしを造るです。」
 応答はこれにて決せり。
 百人長はいふこと尽きぬ。
 海野は悲痛の声を挙げて、
「駄目だ。殺しても何にもならない。よし、いま一ツの手段を取らう。ごん! きち! くま! 一件だ。」
 声に応じて三名の壮佼わかものは群を脱して、戸口に向へり。時に出口の板戸を背にして、木像の如く突立ちたるまま両手を衣兜かくしにぬくめつつ、身動きもせで煙草たばこをのみたるの真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、かれらを室外にいだしやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる三人みたりの軍夫は、二人左右より両手を取り、一人うしろよりせなして、端麗たんれい多く世に類なき一個清国の婦人の年少としわかなるを、荒けなく引立て来りて、海野のかたえ推据おしすへたる、李花は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養はれて、浮世の風は知らざる身の、しかくこの室に出でたるも恐らくその日が最初はじめてならむ、長きやまいおもかげやつれて、寝衣しんいの姿なよなよしく、かんざしの花もしぼみたる流罪るざい天女てんにょあわれむべし。
「国賊!」
 と呼懸けつ。百人長は猿臂えんぴを伸ばして美しき犠牲いけにえの、白きうなじ掻掴かいつかみ、そのおもてをばけざまに神崎の顔に押向けぬ。
 李花は猛獣に手を取られ、毒蛇どくじゃはだまとはれて、恐怖の念もあらざるまで、遊魂ゆうこん半ば天にちょうして、夢現の境にさまよひながらも、神崎を一目見るより、やせたるほおをさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、にわかそうの身をふるはして、
「あ。」と一声血をしぼれる、不意の叫声に驚きて、思はず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して後居しりいにはたとたおれたり。
 看護員は我にもあらでとその椅子より座を立ちぬ。
 百人長は毛脛けずねをかかげて、李花の腹部を無手むずまへ、ぢろりと此方こなた流眄しりめに懸けたり。
「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」
 同時に軍夫の一団はばらばらと立懸りて、李花の手足を圧伏おしふせぬ。
「国賊! これでどうだ。」
 海野はみづから手をろして、李花寝衣しんいはかますそをびりりとばかりつんざけり。

       八

 時に黒衣こくい長身の人物は、ハタと煙管きせるを取落しつ、其方そなたを見向ける頭巾ずきんうちに一双のまなこ爛々らんらんたりき。
 あはれ、看護員はいかにせしぞ。
 おもての色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動にあらはさで、渠はなほよくせいを保ち、おもむろにその筒服ズボンを払ひ、頭髪のややのびて、白きひたいに垂れたるを、左手ゆんでにやをら掻上かきあげつつ、つくえの上に差置きたる帽を片手に取るとひとしく、粛然しゅくぜんと身を起して、
「諸君。」
 とばかり言ひすてつ。
 海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫のひまより、真白く細き手の指の、のびつ、かがみつ、れたるを、わずか一目ひとめ見たるのみ。靴音かろく歩を移して、そのまま李花に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、李花のなきがらぞあおかりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、濶歩かっぽ坐中にゆるいでて、燈火を仰ぎ李花して、厳然として椅子にり、卓子ていぶる片肱かたひじ附きて、眼光一閃いっせん鉛筆のさきすかし見つ。電信用紙にサラサラと、
 月 日  海城かいじょう
予は目撃せり。
日本軍の中には赤十字の義務をまっとうして、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれどもまた敵愾心てきがいしんのために清国てきこくの病婦をとらへて、犯しはずかしめたる愛国の軍夫あり。委細はあとより。
じよんべるとん
英国ロンドン府、アワリー、テレグラフ社編輯へんしゅう

底本:「外科室・海城発電 他五篇」岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年9月17日第1刷発行
   2000(平成12)年9月5日第18刷発行
底本の親本:「鏡花全集 別巻」岩波書店
   1976(昭和50)年3月26日第1刷発行
初出:「太陽」第二巻第一号
   1896(明治29)年1月
※本文中、「恁りつ」は「凭りつ」、「」は「」の誤りと思われますが、底本の通りにしました。
※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:鈴木厚司
2003年8月31日作成
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