一 パリとの通話

 エスパーニャに居る間に中歐の形勢はどんどん惡化して行つた。
 ドイツが突然ソヴィエトと握手したといふ報道がサン・セバスティアン(公使館所在地)に傳はつたのは八月二十二日(一九三九年)だつた。その朝私たちは食卓で前の日に見た鬪牛の話をしてゐた。そこへ入つて來た矢野公使にその話を聞かされた時は驚いた。ソヴィエトとドイツが不可侵條約を結んだとすれば、今までの防共協定なるものは同時に無意義なものになつたわけだ。世界の動向は全くわからない。
 ドイツの行動が毎朝毎夕新聞を賑はした。ダンチヒにはドイツの大軍が集結してゐる。「廊下」の恢復は避けられないだらう。ポーランドは抵抗しないで蹂躙に委せる筈はない。英佛はさうするとどんな態度に出るだらう? そんなことが考へられた。
 エスパーニャの自然や都市や生活や古い建築や美術を見て歩く間にも、斷えずそのことが頭の中から離れなかつた。初めはもつとゆつくりした氣持で見學がつづけられるつもりであつたし、矢野氏も私たちがあまり忙しなく大陸を歩きまはつてゐたのを知つて、一つは休養のために呼んでくれたのであつたが、若しかして戰爭でも始まつたら、私たちは日程を變更しなければならなくなるだらう。私たちはローマ大學で教へてゐる長男と月末にはパリで落ち合つて、一緒にもう一度イギリスへ行き、スコットランドを旅行しようと約束してあつた。その旅行にはベルリンにゐる谷口君も加はる筈だつた。しかし、それが實行できるだらうかといふ不安があつた。
 二十四日に、ブルゴス、バレンシア、エブロー、ヴィットリアなどの旅から歸つて見ると、ローマの素一から手紙がとどいてゐて、中歐の情勢が險惡だからスコットランド行はできるかどうかわからなくなつたが、とにかく月末にパリまでは行くつもりだとあつた。それはドイツとソヴィエトの不可侵條約發表前に書いたもので、九月二日から五日まで開催の豫定のナチ黨大會で今後の形勢は決定するだらうとあつた。その頃、ローマではさう見てゐたのだらう。……
 しかし、今日では形勢がすでに大旋囘をしてしまつた。戰爭になるか否かは英佛側の出方一つに懸かつてるやうな氣がする。明日にも戰爭が始まらないとも限らない。しかし、容易には始まらないだらうといふ氣もした。英國大使ヘンダーソン氏がベルリンでしきりに活動してるのが、さういつた一種の安心を世間に與へてゐた。昨年の危機に較べて今度は情勢がちがふから、またミュンヒェン會議が開かれるだらうなどとは思へなかつたが、少くとも英佛側は戰爭状態に入らないですむやうに極力努めてゐるやうに見られた。
 いづれにしても、私たちとしては、月末にはパリまで引き揚げるつもりで出かけて來たのだが、それ以前に引き揚げる必要はなからうか? それをはつきり見極めて置きたかつた。それにはパリの大使館へ電話をかけて聞いて見るのが一番よいと思つたが、不自由なことに、エスパーニャからはどこへも國際電話が通じない。それで國境を越えて電話をかけようといふことになり、公使館のI君が私と車でサン・ヂャン・ド・リュズまで行つてくれることになつた。
 二十七日の午後だつた。パサヘの港から見えるビスカヤの海は美しく晴れた空の色を反映して、南歐を思はせるやうな鮮明な碧色だつた。レンテリアの村では、日曜だからか、廣場に車を押し出して、その上に村の者らしい樂隊が竝んで、若い男女がそれを取り圍み、今に踊でも始まりさうなけはひであつた。私たちは車を徐行させてそれを見て通つてゐると、群集の中から二人の若い娘が出て來て、眞鍮の薄つぺらな小さい小劍型のバッヂを買つてくれとさし出した。「プロ・コンバチェンテス」(戰士のために)と呼んで、戰歿軍人遺族扶養の獻金章ださうで、一個三十錢以上といふことになつてるのだが、I君は日本の名譽のために氣前を見せて札びら二枚を奮發した。エスパーニャには全國を通じて日本人は十名とゐないので、どこへ行つても目だつといつてゐた。
 イルンの町に近づくと、イルン川の左岸の高地にはトーチカが幾つも對岸のフランスの方へ向いて口をいてゐた。内亂當時から築造にかかつて、まだ竣工してない。二週間ほど以前に私たちが國境を越えて此處を通つた時は日が暮れてゐたので見えなかつたが、その日はよく見ることができた。
 イルンの町はアンダイエの村(フランスの西南端の村)と川をさし挾んで、川が國境となつてゐる。つまり、橋の中央が國境となつてゐる。それで、橋の手前にはエスパーニャの兵士と税關吏が、橋の向側にはフランスのそれ等の者が、どちらも鐵道の踏切の横木のやうな物を下して張番をしてゐる。この國境はやかましいのださうで、特にエスパーニャ側の方がやかましいといはれて居る。二三臺の車が止められて調べられてゐた。しかし私たちの車は、入る時と同樣、旅劵を見せただけですぐ通れた。橋を渡ると、フランス側のたもとでは、子供が四五人遊んでゐた。
 アンダイエはピエール・ロティの晩年に住んでゐた村で、沿道から少し入つて行くと、いまだにその家が保存されてあるから、ついでがあつたら訪問してはどうだと、いつぞや柳澤健氏に勸められたことがあつたが、その日はパリの聲を早く聞きたいので歸り道にでも寄つて見ようと思ひ、そのままサン・ヂャン・ド・リュズの方へ車を駈けさせた。
 サン・セバスティアンからサン・ヂャン・ド・リュズまでは僅かに三〇キロに過ぎない。サン・セバスティアンそのものがエスパーニャとしてはエスパーニャらしくない、謂はばフランスらしい感じのする土地であるが、それでもイルンの川を通り越すと、同じバスクの地域でありながら、國境一つでかうも變るものかと思はれるほど、急に沿道の形貌が一變したやうな印象を與へられた。一つは建物の樣式が違ふのと、今一つはそこいらを歩いてる人間の風俗が異なつてるためだらう。フランスの方が、百姓家にしても、百姓その者にしても、何となく明るくすつきりしたところがある。それに田舍だけにのんびりしてゐて、今にも戰爭が始まるかも知れない國だとは思へなかつた。女たちが鉢物の花を竝べた窓の下に椅子を持ち出して編物をしてゐたり、牧場の端の池の縁で一人の老人が釣を垂れてゐたり、その先の木蔭には三四頭の牛が尻を寄せ集めて思ひ思ひの方向の雲を眺めてゐたり、どこを見ても靜かで、あわただしいものとては一つも感じられなかつた。
 サン・ヂャン・ド・リュズの町に入つても別に變つた空氣は感じられなかつた。女たちが午後の買物でもするのだらうか、ぞろぞろ町なかを歩いてゐた。此處は最近のエスパーニャの内亂の間ぢゆう各國の大公使館が避難してゐた所ださうで、小ぎれいな靜かな町である。私たちは昔ルイ十四世の住んでゐたことのあるといふ家(今はカフェ・マドリィ)の前の廣場に車を乘り捨て、片隅のバーに入つた。
 親爺はI君と顏見知りの間と見えて、大きな手をさしだしていかにもなつかしさうに久濶の挨拶をした。I君はシャンパンとたにしのやうな貝と小えびの茄でたのを注文して、パリへ電話をかけてくれないかと頼んだ。長距離は警察の許可がいることになつたのだが、といつたが、それでもすぐかけてくれた。
 ぢきにパリの大使館に通じた。日曜日で、もしやと思つた通り、私の知つてる人はゐないで、ほかの人が電話口に出た。
 ――そちらの形勢はいかがです? 急に戰爭の始まる樣子はありませんか? 月末までにはそちらへ歸るつもりですが、實はもう少しこちらにゐたいことがあるので、切迫してるとすれば、どの程度に切迫してるか知りたいのです。
 返事は、はつきりしてるやうで、はつきりしてなかつた。情勢は刻刻に變化してゐるから、今ではそれほど切迫してるとは思へないが、いつ切迫したことにならぬともわからない、といふのであつた。
 それからパリの市中の樣子を聞いて見ると、パリは今のところ冷靜で平常と變つたことはないといふ。ホテルのことを聞いて見ると、ホテルは閉ぢたりした所があるとは聞かないといふ。パリからロンドンへ歸ることについて聞いて見ると、英國へ入るには査證ヴイゼエがいることになつたが、パリではそれを取るのが厄介だから、エスパーニャで取つて來た方がよいと思ふ、といふことだつた。
 それから、大使館では郵船靖國丸を徴發して、フランス在留の邦人を乘せる用意をしてゐるが、靖國丸はドイツ在留の邦人を乘せて、今ノールウェイの港に避難してるといふことだつた。
 靖國丸は私たちを日本からポート・サイドまで運んでくれた船である。それから何度目の航海だらうかと考へて見た。ドイツ在留の邦人を乘せて避難したといへば、スコットランド行を約束した谷口君はもうそれに乘つてるのかも知れないと思つた。
 通話はI君も傍で聞いてゐた。靖國丸を呼ぶといつても、ノールウェイに避難してるのだとすると、もし戰爭が始まつたら、さうさう簡單にフランスには(アーヴルかどこか知らないが)寄りつけまい。月末までエスパーニャで遊んでゐても大丈夫だらう。――私たちはシャンパンを飮みながらさういつた結論を引き出した。
 しかし、戰爭が始まるとロンドンとパリには一番に爆彈の雨が降るだらうと一般に信じられてゐた。すると、交通が杜絶して、イギリスはもちろん、フランスにさへ歸れなくなるかも知れない不安があつた。
 バーのラディオにパリからのニューズがはひつて來た。アルマーニュ(ドイツ)の動員のことが放送されてゐる。東部國境へは三十箇師團の兵力が送られてゐる。パリ、ロンドンとワルサウ間の通信は斷えてしまつた。等、等……
 いつの間にかバーの前には通りがかりの人が三人五人と足を留めて、默つて耳傾けてゐた。そこへ一人の年とつた女が、犬を牽いた子供の手を引いてやつて來て、竝木の蔭に立ちどまつて聞いてゐたが、子供と犬はたえず動きまはつてるけれども、彼女だけは身動きもしないで、最後まで熱心に聞いてゐた。息子でも召集されたのではないかと私は想像して見た。
 その想像は恐らくまちがつてゐなかつただらう。といふのは、私たちはバーを出て近くの文房具屋をおとづれた。私の旅日記の手帖と繪端書を買ふためだつた。その家もI君の顏なじみで、日曜で締まつてゐたガラス戸ごしにかみさんの顏が見えると、I君はそれを開けさせて、私を誘つて内へ入つた。さうして、みんな變りはないかと聞いた。肥つたかみさんは、上の二人の息子が兵隊に取られたといつた。一人は三日前、一人は昨日取られたといつた。一番下の弟はどうしたと聞くと、それは家にゐるが今日は外出しているといふことだつた。かみさんはそれを話すのに悲しさうな顏をしてゐた。私はその話を聞きながら、バーの前に立つてゐた年寄の女のことを考へた。
 電話口で聞いたパリの聲には私はそれほど戰爭の實感を感じなかつたが、此の二人の女の姿には胸を衝かれるやうな或る物を感じた。今までは知らなかつたが、フランスではもう事實に於いて動員してゐるのだ。さう思ふと、町なかを默つて歩いてる女たちの顏が、思ひなしか皆憂愁に鎖されてるやうに見えだした。
 またいつ來るかわからないから、ついでにビアリッツを見て行かうといふことになり、海岸の方へ車を駈けらし、一〇キロあまりで着いた。前世紀の初め頃までは人家百軒にも足りない漁村であつたのが、ナポレオン三世とその皇后が離宮を建ててから急速に發展し、今では地中海沿岸のニースと竝んでフランスの代表的な美しい海水浴場である。地勢に起伏が多いのが特長で、海岸には岩山が幾つか突き出てゐる。ナポレオンの離宮(今はホテル)に劣らない立派な建物(皆ホテル)が數多く竝んで、波打際に近いプロムナードには海水浴着の女や男が花やかに歩きまはつてゐた。イギリスの避暑客が多いのださうだ。その間に交つて、車を捨てて少し歩いて見ると、ここはまた別天地で、戰爭の實感などは、少しも起らなかつた。
 それから日の落ちかかつた海岸の岩山の間を通つて、アンダイエの村にさしかかつた時は、もう暗くなつてゐたので、私は『お菊さん』の作者の舊宅を訪問することを斷念した。サン・ヂャン・ド・リュズを出て以來、氣がついて見ると、どこの村にも男の影が少いやうに思はれた。文房具屋のかみさんとバーの前の年とつた女の影像がサン・セバスティアンに歸りつくまで私のあたまの中にあつた。

       二 ※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)

 今までは何となく戰爭にはならないですむのではないかといふやうな氣がしてゐたのが、早晩、戰爭は避けられないもののやうに思へるやうになつた。
 それが私の國境を越えて持ち歸つた實感だつた。その實感はサン・セバスティアンの宿の空氣の中にもひろがつた。私たちは豫定より少し早めにパリまで引き揚げることにしようかと話し合つた。私たちの荷物はパリとロンドンに分けて預けてあつた。戰爭になつて交通が混亂状態に陷れば、持ち歸れなくなるかも知れない。それはあきらめるとしても、私たち自身の身體の始末にもこまることにならないとは限らない。イギリスへは多分歸れないだらうし、フランスへは歸れるとしても、日本の船が來られるかどうかわからない。イタリアが戰爭に參加しなければ、ヂェノアかナポリからアメリカへ渡るといふ方法もあるだらうが、イタリアが中立を守るかどうかもわからない。……
 その時はエスパーニャからポルトガルへ出て、リスボアで日本の船をつかまへるといふ手がある。と、矢野公使は注意してくれた。實際、N・Y・Kラインの船が時時思ひ出したやうにリスボアに寄港することがあるのは私たちも知つてゐた。だから急ぐことはない。せつかく此處まで來てるのだから、もう少し腰を落ちつけて、形勢を觀望しながら見物をつづけてはどうだらう。さういつてくれるのだつた。(私たちは樂しみにしてゐたマドリィもトレドーも、セヴィーヤもグラナダもまだ見てないのだつた。)それに息子に逢ふためなら、パリまで歸る必要はない。息子を此處へ呼んで一緒に見物につれて行つたらどんなものだらう。さうもいつてくれるのだつた。
 さういはれると、私たちとしては、エスパーニャまで來てゐてマドリィもトレドーも知らないで去ることはいかにも殘念だから、(「あなたはエヂプトへ行つてピラミッドを見ないで歸つたのですか?」といふ諺もあることだし)、思ひ切つてもう少しねばらうかといふ氣もあつた。
 この二つの氣持の間を私たちは行きつ戻りつしてゐた。
 それを見てとつて、一晩考へてくれたと見えて、次の朝になると、公使は突然にいひだした。これから二三泊の豫定で一つ出かけることにしようではないかと。私たちは二人だけでマドリィからトレドーまででも行つて見ようかと話し合つてゐたのだつたが、公使は自分が車で案内してやるといつてきかなかつた。
 その日(二十八日)の午後一時、私たちはサン・セバスティアンを出て、四時半にブルゴスを通り、一望涯もない赤土の曠野を横斷して、日歿にガダラマ山脈の東の肩を越し、夜マドリィに着いた。サン・セバスティアンからブルゴスまで二四〇キロ、ブルゴスからマドリィまで二四〇キロ、合計四八〇キロ。その間、内亂の戰跡を見たり、古い寺院を見たりして歩いた。
 翌日(二十九日)はマドリィとトレドーを見物して、(マドリィからトレドーまで七〇キロ)、古い建築と美術と新しい戰跡に目を見張り、再びガダラマ山脈の西の肩を越してセゴヴィアに出て、そこで日が暮れて曠野の夜道をヴァヤドリィまで辿りついて一泊。此の行程約四〇〇キロ。
 その翌日(三十日)はヴァヤドリィを見物して、ブルゴスに出て、もう一度ブルゴスを見直し、エスパーニャのボルドーといはれるログローニョからエステヤを通り、アルトー・デ・リサラガの壯大な景觀を賞翫して、夕方サン・セバスティアンに歸つた。
 ヴィラ「ラ・クンブレ」に歸つても、その晩はまだ車に搖られてるやうな氣持だつた。茫漠たる曠野と、怪奇を極めた岩山と、ゴティクとアラビクのまざり合つた異樣な樣式の建物と、エル・グレコとゴヤとヴェラスケスの繪畫と、女・男の美しい顏と粗末な風裝と、内亂の悲慘を物語る破壞と焦土と、塹壕とトーチカと、彈丸の缺けらと鐵條網と、血痕と墳墓と、……そんなものが二重映し三重映しになつて視覺から離れなかつた。さうして、それ等のものが車の動搖と同じリズムでいつまでも目の前で搖れ動いてゐた、さうして、その搖れ動きの中にしばしばまざり合つて出て來るものは、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、チェインバレン、ダラディエなどの影像だつた。それから、フランコ、モーラなどの影像だつた。……
 エスパーニャでは今年の三月にやつと内亂が收まつたばかりである。國民は疲れ切つて戰爭を咀つてゐる。しかるに、中歐ではまた戰爭が始まらうとしてゐる。二十年前に今のエスパーニャの如く疲れ切つて戰爭を咀つたその國土の上で。
 私たちは車の中でもしばしばそのことを問題にして話し合つた。マドリィでも、トレドーでも、ヴァヤドリィでも、ブルゴスでも、新聞は出るごとに買つて目を通すことを怠らなかつた。ポーランドの事態は日に日に急迫を傳へられた。さうして、ヘンダーソンはいつも根氣よく動き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐた。その状態は私たちが旅に出た頃と表面は同じだつた。ただ急迫の度合がじりじりと徐徐につのつて行くのが、却つて氣味わるさを感じさせるのであつた。
 サン・セバスティアンに歸つてから手に入つたニューズに據ると、ドイツの動員はすでに五百萬に達したといふことだつた。私はすぐフランスとイギリスの動員のことを考へた。それはまだ公表されてなかつたが、事實に於いて動員されてないとは思へなかつた。サン・ヂャン・ド・リュズの文房具屋のかみさんとバーの前に立つてゐた年寄の女の顏がまた私の目の前に現れた。
 その晩、I君に公使館の廊下で逢つた。文房具屋のかみさんに昨日逢つたら、三番目の末の息子も召集されて泣いてゐたといふことだつた。
 ――今にフランスでは男がなくなりますよ。
 I君はさう附け加へていつた。
 ――フランスだけぢやないでせう。
と私はいつた。エスパーニャでは、戰後、女二十人に對して男一人の割合になつてることを私は思ひ出した。
 私たちは翌日パリへ立つことに決心した。その晩はよく眠れなかつた。

       三 ダックス

 次の日(三十一日)私たちは朝早く起きて出發の用意をした。用意とはいつても、エスパーニャにはスーツ・ケイスを二つ持つて來てるだけなので、わけはなかつた。
 公使の心づくしで冷酒といりこで門出を祝つてもらつた。動亂の巷へ見送られるといふ感懷が強かつた。公使は途中まで――ボルドーか、せめてダックスまで――見送つてやるといつて、車の用意がしてあつた。
 住み馴れたサン・セバスティアンの山の上のヴィラ「ラ・クンブレ」を出たのは八時ごろだつた。バルコンの手摺にからみついた赤い薔薇の花も、アラビア風の拱門から垂れた蔓草の白い花も、何となく見返らずにはゐられなかつた。
 五日前の午後不安な氣持で通つた道を今日は朝の光の中に見ながら、いつしか國境を越えて、サン・ヂャン・ド・リュズもビアリッツも左の方に眺め、バイヨンヌの町を通り過ぎると、町はづれの木立に取り圍まれた草原の上で、一箇中隊もあらうかと思はれる兵隊が、極めて基本的な訓練をさせられてゐた。あの中にサン・ヂャン・ド・リュズの文房具屋の息子も交つてるのではないかと思はれた。事によると、兄弟三人とも。
 その邊から先は道が美しい森林の中を拔けるやうになつてゐたが、薄霧が下りて來て、兩側の竝木の枝がまぢり合つてトンネルのやうになつた行手の方は、ぼやけて見えなくなつて來た。それから先は、あと三〇キロも行くと國道第十號と呼ばれてる大きな道路と直角にぶつつかり、それを左へ折れて北へまつすぐに走れば、ボルドーに達する近道だつた。ボルドーまでそこから約二〇〇キロ、右も左も赤松の森林がつづいて、氣持のよいドライヴ・ウェイだつた。私たちはエスパーニャへ行つた時、ボルドーで汽車を捨てて、途中で日は暮れたけれども、夕月のおぼろな中をその森林を通つたので、おほよその地理はわかつてゐた。その時、森林の中で車に故障ができて、ショファが直してゐる間、前からも後からも車やトラックが引つきりなしに駈け過ぎたものだつた。
 しかるに今日はどうしたのか? だんだんとその國道第十號に近づいて行くのに、車は一臺も通らない。バイヨンヌを過ぎてからトラックを二三臺見たきりである。同乘の矢野氏にそのことを話すと、車は皆徴發されたのかも知れないといふことだつた。シンとした森の中で、今ごろは混雜してるかも知れないパリの空がいかにも遠く感じられた。
 霧は刻刻に濃くなり、一キロ先は殆んど見えないほどになつた。車はスピードが出せなくなつたので、ボルドーまで行つて急行に乘り後れてはつまらないから、近くのダックスで別れようといふことになつた。
 ダックスは、國道第十號と接合したところを右へ曲つて、しばらくまだ森林の中を駈けらせると、すぐ向うに現れた。
 ダックスは古い町で、ケーサルの時代にはゴールの土地(ラインとピレネーの間)の最西部の主都であり、ゴールのアクウィタニ(タルベリ)族が割據してゐたといふので、その時代の城壁が今も遺つてるといふことを、私は車の中で案内記によつて知つた。普通ならば車を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して一見しないではすまさないのだが、十時三十五分のパリ行急行を取りはづしてはならないので、十三世紀の寺院と共にあきらめて、すぐ停車場へ直行した。
 停車場でパリへ電報を打たうとしたが、郵便局に行かなければ打てないといふので、町まで行くことになつた。ダックスはフランスで數少い温泉場の一つで、故杉村大使も馬から落ちて怪我をした時ここで療養してゐたと聞いてゐた。私は昨年の冬、ローマからロンドンへ行く途中、パリをおとづれて官舍に杉村氏を見舞つた時のことを思ひ出した。その時杉村氏はすぐれない顏色をしてゐたが、それでも元氣よくヨーロッパの形勢を論じて病人とは思へなかつたが、その杉村氏も今は故人となつた。……
 ダックスの町の入口にはアドゥの川が流れてゐて、長い石の橋が架かつてゐる。そこから見ると、左の方に深さ二十尺といはれる温泉の池があつて、白い煙が高く立ち昇つてゐた。郵便局に行くと、パリ宛の電報は(フランス人でも)警察の證明を持つて來たいと打てないことになつたといふ。事ごとに形勢の切迫を感じさせられる。しかし警察へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてる暇はないので、よく事惰を説明し、公使の顏で發信してもらへることになつた。
 停車場に戻つて來ると、やがて列車が入つて來た。見送つてくれた公使と別れを惜んで私たちは車中の人となつた。
 今まではエスパーニャの旅行の延長のやうなもので、私の心像にはエスパーニャの事物がいつぱい充滿してゐた。嶮しい白い山、翡翠の空、羊の切身のやうな土の色、灰色の都市、田舍の赤屋根、寺院の尖塔、サボテンの舞踏、橄欖の群落、エル・グレコの青い繪、ゴヤの黒い繪、さういつたものが限りなく記憶のインデックス・ケイスに詰まつてゐて、何を見てもそれ等のものが比較のために顏をのぞけるのだつたが、さうしてそれが懷かしまれるのだつたが、不思議にも、汽車に乘つてしまふと、そんなものはすべてピレネーの連山と共に遙かのうしろの方へあとじさりして、行手のパリの空のみがしきりに氣になりだした。
 半月前に出た時はパリは美しい平和の都であつた。セーヌの河岸にはもうプラターヌの葉が黄いろくなりかけて、ノートル・ダームの下にはいつものやうにのどかな顏を竝べて釣竿をさしだしてゐる連中を見ながら、私たちはケー・ドルセーの停車場へ車を駈けらした。あの朝のことが何だかよほど以前のことのやうに思へる。それにしても、今日あたりパリはどんな風だらう?……
 ダックスの停車場で買つたパリの新聞を彌生子はひろげて見てゐたが、それをのぞいて見ると、畫報面に、昨日撮影した寫眞がいろいろ出てゐる。ブールヴァル・デ・キャピュシーヌあたりかと思はれる街路のショウ・ウィンドウの前に砂嚢が高く積み立てられてあつたり、ルーヴルから彫像を包裝して運び出してゐたり、小學校生徒を地方へ連れて行くバスが通つてゐたり、名前とアドレスを記したカードを首に下げた少女たちがからげた毛布を提げて石のベンチに腰かけてゐたり、いづれも動亂の状況を想像させないものとてはなかつた。
 私たちのコンパルティマンには日燒のした青年と黒づくめの服裝をした婦人が乘つてゐた。あとで話し合ふやうになつて、彼等はビアリッツの海水浴場に滯在してゐたイギリス人だといふことがわかつた。三週間滯在してゐたが、形勢がわるくなつて來たので引き揚げるのだといつてゐた。
 汽車は正午ごろボルドーを通り、夕方七時過パリに入つた。
 一つ手前のオーステルリッツの停車場では構内の窓ガラスを全部濃藍色に塗つてあつた、夜間に内部の光が漏れないためだらう。さういへば、列車内の便所の窓も同じ色に塗つてあつた。また同じ構内には、國旗の三色と赤十字を描いた病院列車も待機してゐた。
 かなり大勢の人がそこで下り、皆默默としてプラットフォームを歩いて行つた。

       四 モン・パルナス

 ケー・ドルセーの停車場にはM君が氣を利かして車で迎へに來てくれてゐた。
 ――どうです? 始まりさうですか?
 ――何ともいへないのですが、今のところ戰爭にはならないですむのぢやないかとも思はれます。
 私たちはそんなことをまづ話し合つた。
 それからリュクサンブール公園の横手の薄暗いとほりを急いで、モン・パルナスの以前のホテルに歸り、荷物を置き、M君を誘つて一緒に食事に出かけた。
 モン・パルナスの大通はその晩はまだいつもと變らず明るかつた。カフェには灯があかあかとついてゐた。
 話は戰爭のことがおもだつた。ドイツでは飽くまで「廊下」を自分の物にしようとして居り、ポーランドでは拒んで「廊下」の入口を塞いだとすれば喧嘩は避けられないにきまつてゐる。問題は英佛がそれを傍觀するかどうかだが、英佛としてはすでにあれだけ大きな口を利いた以上、體面上からでもポーランドを見殺しにすることはできない筈だ。それにもかかはらず、戰爭にならないですむかも知れないといふ推定の根據はどこにあるのだらう? それを私は知りたかつた。M君は笑ひ出して、さう方程式を解くやうには行かないといつた。昨日あたりもまだヘンダーソンは動きまはつてゐた。イギリスは戰爭をしたがらないのだから仕方がない、といつた。氣ちがひでないかぎり戰爭をしたがるものはないだらう。――ヒトラーはどうだ?――ヒトラーといへども内心は戰爭を避けたいのだらう。イギリスが戰爭を避けたいといふ腹を見透して強氣に出てゐるだけだらう。しかし、事によると、イギリスも今度は本氣に腰をすゑるかも知れない。それでヒトラーはスターリンと組んだのだ。――さうなつてイギリスが立たなかつたら、大帝國の威信は地に墜ちてしまふではないか?――だから英國は結局立つだらう。フランスも同時に立つだらう。――それでも容易に戰爭が始まらないだらうといふのは?――それは、やつぱりどこの國だつて内心は避けられるだけ戰爭は避けたいのだから。……
 店の中では、どのテイブルでも私たちと同じやうな話をしてると見えて、いつものやうに明るく朗らかに笑つた顏は一つも見られなかつた。女がハンカチフで目を拭いてると、男が默つてうつ向いてる組などもあつた。
 私たちとしては、このままパリで待機するか、ロンドンまで引き揚げるか、それが問題だつた。形勢がまだ停滯するものとすれば、その間にロンドンまで歸れない筈はない。ロンドンには用事も待つて居り、荷物も待つて居る。もしロンドンで戰爭になつたらアメリカの船でアメリカへ渡るといふ方法もあるだらう。
 さう話し合つてると、M君は、とにかく明日一日形勢を見てからのことにしてはどうだらう、といひだした。その理由は、もし明日にも戰爭が始まつたら、ロンドンは二三時間うちに空襲を受けるだらう。パリには最初に空襲があるとは考へられない。ドイツとしては、まづロンドンをやつつけて置いてからパリをば威嚇するつもりらしい。だから、今となつてはあまり冒險をしないで、少くとももう一日觀望した上のことにしてほしい。M君は熱心にさういつてくれるのだつた。
 さういはれて見ると、私たちもその方がよいやうにも思ふやうになつた。理窟ではなく、氣持であつた。M君はパリに長くゐてさういつた方面の接觸も多いのだから、その忠言には耳傾くべきだと思つた。
 私は明日は大便館に用事もあるので、そこで午前中にまた逢はうと約束してM君と別れた。
 私たちの關心は同時にイタリアの向背にもかかはらないわけには行かなかつた。私たちの息子がローマの居住者となつてるからである。普通ならば、今夜か明朝あたりパリで逢へる筈だつたのだが、彼からは手紙も電報もとどいてなかつた。もう通信が杜絶してゐるらしい。それに、ローマでは、パリはすでに危險視されてるのかも知れない。

       五 九月一日

 明くれば九月一日。ドイツ軍は此の朝行動を開始したのであつたが、私たちが起き出た頃はそんな報道はまだ傳はつてなかつた。久しぶりで見るパリの朝の空は、エスパーニャほどではないが、それでもまことに明るく美しく、しかし、思ひなしか、町は何となく人けが少く、物靜かで、行きつけのカフェのテラスにもあいた椅子が多かつた。
 私たちはいつもの習慣で、カフェを飮み、クロワサンをかじりながら、しばらく往來の人通りを眺めてゐた。見たところ、別に變つた樣子はなかつた。廣場の向うの隅には、ロダンのバルザックがどてらを引つかけた湯歸りのやうな恰好をして、初秋の朝の日光をまぶしさうに浴びて立つてると、その手前の町角には見覺えのある若者が新聞を賣つてゐる。私たちの掛けてる横手の町角でも、小さい出し店の中で、腕の逞ましい、男のやうないつものかみさんが相變らず無愛措ぶあいそな顏をして新聞を前に列べてゐる。私はそこへ行つて一枚買つて來た。
 見ると、ヒトラーのポーランドに對する要求項目の主要なものが發表されてある。曰く、ダンチヒ自由市の即時返還。曰く、「廊下」地帶の人民投票に依る歸屬決定。曰く、人民投票準備期間を一箇年とすること。等、等。これは三日前にポーランドに通牒されたのだが、今まで發表されなかつたものである。しかし、ポーランドはすでに一昨日「廊下」の入口を閉ぢてしまつたといふのだから、それが明かに要求の拒絶を意味することはいふまでもない。幕は切つて落されるばかりになつてゐる。私たちは丁度よい時に歸つて來たのだ。
 それにしても、このパリの町の靜けさはどうしたものだらう? 誰を見ても、何事も起りさうにもないやうな顏つきをしてゐる。歩いてる者も、掛けてる者も。多くの人間はなんにも知らないのだ。ただ、一人か、二人か、三人か、極めて少數の者が、どこかの片隅で工作してゐるのだ。それが今にも全ヨーロッパを修羅の巷とするかも知れないのだ。……
 ――とにかく出かけよう。
 さういつて私たちはそこを出た。
 彌生子はすぐ近くのモン・パルナスの墓地の横手にうちを持つてる菊池君夫妻を訪ねるために歩いて出かけた。私は大使館に行く前に日佛銀行に用事があるので、AEのバスでルーヴルの先まで行つた。
 日佛銀行ではエスパーニャから持ち歸つたペセタをフランに換へてもらはうとしたが、もう取引は中止されて、だめだといふことだつた。支配人のY氏は氣の毒さうな顏をして、
 ――形勢が急にわるくなりましてね。
と嘆息してゐた。いろいろと人を走らせたりして工作してくれたが、ポンドとドル以外の外國貨幣はフランにはならなくなつてゐた。
 その足でタクシを拾つて大使館に行つて見ると、意外にも柳澤健氏が待つてゐた。柳澤氏にはこの間サン・セバスティアンで逢ひ、その晩矢野公使と一緒に海岸の見晴らしのよい料理屋で晩餐を共にした。その時は家族の人たちと同伴で、これからパリへ行き、自分だけロンドンへ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて公使事務の引繼をして、もう一度リスボアに歸つて、日本へ立つのだといつてゐた。それで今ロンドンからの歸りにパリに立ち寄り、これから家族の人たちをボルドーの附近へ送りとどけて、自分だけ一人でポルトガルへ歸らうとしてゐるところだが、今こちらへ見えると聞いたので待つてゐた、といふことだつた。ボルドーへは近いうちに郵船鹿島丸が入つて來ることになるさうで、フランス在留の日本人は皆それに乘せて避難させることになつたといふ話を、私はその時初めて聞いた。事務官のT氏が專らその仕事を引き受けて計畫を立ててゐた。
 その話によると、鹿島丸は明日か明後日あたりマルセーユに着く豫定で、それをボルドーへ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航させるまでに、ヂブラルターさへ順調に通過ができれば、五日間とはかからないだらうといふのであつた。それで交通機關の混亂に陷らないうちに、一日も早くボルドーへ行つて、そこで船の入るのを待つてもらひたい。その船を取りはづすと、今後は日本へ歸る船をフランスでつかまへ得るかどうかわからない。さういはれて見ると、とにかく鹿島丸に便乘を申し込んで置かないわけには行かなかつた。(靖國丸はノールウェイのベルゲンに待機してゐたが、そのままイギリスの北を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて歸途についたので、イギリスにもフランスにも寄港しないといふ。)
 柳澤氏とは東京での再會を約束して別れ、私はM君としばらく話したが、昨夜の觀察とはちがひ、今朝になると急激に形勢が惡化したので、ロンドンへ歸ることは思ひ止まつてもらひたい、といふ。今一人のM君もそこへ來て、ボルドー行を勸めて口を添へる。
 私もその時はすでにその氣持になつてゐたのだが、話の途中で柳澤氏にサン・セバスティアンへのことづけを頼むことを思ひ出したので、(柳澤氏は車でボルドーからエスパーニャを横斷してリスボアへ歸ると聞いたので、)ちよつと中座して、あまり遠くない柳澤氏のホテルへ車を飛ばして行くと、家族の人たちはもう車に乘り込んで、柳澤氏の歸つて來るのを待つてるところだつた。やがて柳澤氏は歸つて來た。話は二三分ですんだ。
 その車を見送つて、コンコールドの廣場からシャンゼリゼーの大通を通りながら、これがパリの見納めかと思ふと、少年のやうな氣持で何もかも名殘惜しく顧みられるのであつた。
 大使館に戻つて來ると、ロイター通信機の前に書記官T氏を交へて數人の人が、默つて熱心にその吐き出す細長い紙の面を見つめてゐた。
 ――とうとう、始まりましたよ!――
とM君が私を手招きした。今朝の五時四十五分にドイツ軍のポーランド侵入は開始され、ワルサウその他の都市は猛烈な爆撃を受けてゐる。英佛は強硬な抗議を申し込んだ。……
 來るべきものは遂に來た。戰爭は事實に於いて始まつたのだ。いつ宣戰布告があるかは知らないが、そんなことはもう問題ではない。世界は恐るべき歴史の第一ペイヂを書きだした。さう思ふと、私は大變な時にヨーロツパに來合はせたものだと、つくづく感じないではゐられなかつた。
 混亂の渦に捲き込まれないうちに安全地帶まで早く避難した方がよからうと思ふ氣持と、めつたに得られない此の機會を利用して少しでも長く踏み止まつて戰爭の姿を見たいと思ふ氣持と、この二つの氣持が私の中にあつた。いづれにしても、身のまはりの用意だけはして置かねばならぬので、私はみんなに一先づ別れを告げ、代理大使にも挨拶して大使館を出た。
 トロカデロの廣場には初秋の午前の陽光がさんさんと降りそそいで、半ば黄葉した竝木の間からは、エッフェル塔がすつきりした形で淡青色の空に聳え立つてるのが見える。いつも見馴れた景色ではあるけれども、今日は新しい氣持で見直さうとするやうな心がまへが私にあつた。その下にパリは靜かに横たはつてゐた。どこを見ても靜かであつた。廣場には人の群がりもなく、あわただしい足どりもなく、叫ぶ聲もきこえず、ささやく姿さへ認められなかつた。こちらでは年とつた一人の掃除人夫が歩道の落葉を掻き集めて居り、向うではカフェのテラスに人がまばらに腰かけて、新聞を讀んだり煙草を吹かしたりしてゐる。彼等はまだ戰爭の始まつたことを知らないのではないだらうかとさへ思はれた。
 私はメトロでモン・パルナスまで乘つて、ホテルに歸つた。車の中でも、往來でも、みんなの顏が深刻には見えたけれども、荒く興奮したやうな所は感じられなかつた。ところどころ家家の入口には赤地に白く爆彈の形を描いた札が打つてあつて、その下に30とか50とか85とかいつたやうた數字が記してあつた。空襲の時のアブリの避難者收容數である。さういへば、今夜にも空襲がないとも限らないのだ、と、そんな不安もあつた。……
 私たちは明日にもボルドーへ落ちようといふことにきめた。つい昨日エスパーニャから歸つて來たばかりの道をまた逆戻りして。
 午後私は近所へ用しに出かけると、途中で若い畫家のO君に出逢つた。一緒にカフェに入つた。君はどうするのかと聞いたら、踏み止まるつもりだといふ。大使館では用事のない者は六日までに皆鹿島丸に乘れといつて、僕等畫かき連を全部追ひ立てる腹らしいが、僕は勉強するために來てるのだから、まだ歸るのはいやだ。フランスにゐられなくなつたら、ほかの國へ行つてもよいと思つてる。今歸つてしまつたら一生を棒に振ることになるから。と、さういつて、決心を披瀝した。そこへ一人の男が現れて、青白い顏をして、足もとをふらふらさせながら、ヒトラーを罵つたり、戰爭を咀つたり、日本の畫壇を嘲笑したりしてゐたが、私たちが出て行つた後まで亂醉の聲がまだきこえてゐた。フランスの戰爭に日本人の方が興奮してるぢやないか。私たちはさういつたほど、なさけなく感じた。
 もう戒嚴令が出たのだといふことで、町の角角には警官が武裝して立つてゐた。大通は目に見えて通行の車が多くなつてゐる。車の屋根にトランクを載せてあるのは、避難するものと見える。O君はオペラの近所までガス・マスクを買ひに行くといつて別れた。フランス人には七十フランで賣るものを、外國人からは三百五十フランも取るといつて、こぼしながら。
 歸るとM君から電話で、明日午前十一時の汽車で正金銀行の行員の家族の一行二十七人がボルドーへ立つので、座席劵を取つたが、一人分餘分があるから、それを讓り受けて奧さんだけでも立つたらどうだらう、と知らせてくれた。私たちはM君の好意を謝して、さういふことにしようと相談し、支店長I氏に電話をかけてその餘分の一席を讓つてもらふことをたのみ、定刻一時間前にケー・ドルセーの停車場で待ち合はせようと約束した。二十七人は女子供のみで、男は二人だけ同行するのだといふことだつた。
 私はこれで半分がた安心できるやうになつたが、私自身はまだどうなるかわからなかつた。フランス政府は明日動員令を發することになつてるので、各地方に集結してる軍隊の輸送で列車は不通になる箇所が多く、早くパリを離れないと、六日までボルドーへ行けるかどうかわからないといふやうなことをいふ者もあつた。それに停車場は非常な混雜で座席劵を手に入れることも容易でないとの話だつた。しかし、パリに居る多くの人はこれから田舍へ逃げ出したり、外國へ行つたりするといふのだから、私一人なら何とかしてその中に交つて脱出されない筈はないと思つてゐた。
 夕方、彌生子はボルドーへ持つて行く荷物の中にぜひ入れて行きたいものが、M君に(エスパーニャに立つ前に)預けてあるトランクの中に入つてるので、それを取りに行きたいといひだした。タクシを拾はうと思つてもモン・パルナスの廣場へ行つて見ると、立場には一臺も車がない。通行の車の數はさつきよりも多くなつてるが、皆人が乘つてゐて、屋根には皆トランクやスーツ・ケイスが載せてあるのは避難者だといふことが知れる。車は引つきりなしに皆同じ方向へ駈けてゐる。仕方がないから、私たちはラスパーユからメトロに乘つた。
 電車は滿員だつた。どの顏もみな緊張してゐた。いつものパリジアン・パリジエンヌの明るい朗らかな表惰ではない。パリはもう笑顏を失つたのだ。さう思ふと、いたましい氣持なしでは見られなかつた。
 その中に一人の醉つぱらつた若い女が、丁度私たちと向ひ合つた席にかけてゐて、殆んどヒステリかと思へるほどの亢奮した調子で、たえず右隣りの蓮れの女に話しかけたり、ひとりごとをいつたり、時時左隣りの連れの男に接吻したりしてゐたが、ほかの人たちはにがにがしい顏をして輕蔑の目でその女を見てゐた。
 エトワールで私たちは地上に出ると、もう夕闇がりてゐて、急にの少くなつた市街はいやに陰慘な感じだつた。灯は皆紫つぽい藍色の灯ばかりで、それが殊にそんな感じを與へるのだつた。凱旋門は黒く大きく聳え立ち、その下に集まつてる人たちは、何を見てるのか、ぽかんとして、幾かたまりにもかたまつて立つてゐた。ひよつと氣がつくと、ブーロンニュの森の上あたりの暮れ殘つた灰色の空に大きな氣球が二つ黒く浮かんでゐた。
 その邊も大通は車がヘッド・ライトを蔽うて織るやうに疾驅してゐた。その間をやつと横ぎつて、私たちは暗い歩道をアヴニュ・オッシュの方へ歩いて行つた。何度も來たところではあつたが、大使館邸の入口を探し出すのに少しまごついた。それほど市街は暗くなつてゐた。ベルを押すと、顏見知りの門番の親爺が出て來て、M君から電話で知らしてあつたので、私たちを荷物の置いてある部屋につれて行つた。
 其處でトランクをあけて必要な物を取り出してゐると、やがてM君が代理大使と一緒に歸つて來た。丁度よいところだといつて食堂に案内された。食堂ボーイはもう召集令が下つてゐて、明日の朝入營することになつてゐた。しかし、それまでは義務があるといつて今夜も働いてるのだつた。それだけではなく、飛入の客人にすぎない私のために夜が更けてからケー・ドルセーの停車場まで使に行つてくれたりもした。
 かれこれ十一時に近かつた。私たちは引き留められるまま、つい、いい氣になつて話し込んでゐた。彌生子は明日は確實にボルドーへ行けることになつてゐるが、私の方はどうなるか全然わからなかつた。代理大使は、列車は別でもなるべく明日立てたら立つた方がよいと思ふといひ、さつきボーイに電話でケー・ドルセーの停車場に座席劵一つだけ無理でも都合してもらへないか交渉して見るやうにと命じた。いつまでたつても返事がないので、呼んで見ると、ほかのボーイが現れて、さつきのボーイは電話では要領を得ないから自分で行つて來るといつて出かけたといふことだつた。私たちは十二時近くまで待つてゐたけれども彼は歸つて來ないので、彼には心づけを殘して、門番にタクシを呼んでもらつてホテルに歸ることにした。
 タクシも容易に拾ひ出せなかつたが、それでも半時間ほど待つとやつて來た。門番夫婦もなつかしさうに車のところまで送つて來た。戰爭第一夜のシャンゼリゼーは、車道のところどころに圓く伏せてある指道燈のほのかな灯を除いては、光といふものが一切なく、兩側の竝木の梢の輪廓を暗い空の中にかすかに見わけ得なかつたなら、これがシャンゼリゼーだとはわからないほどに黒黒としてゐた。しかし、セーヌを横ぎると、川の面だけはどうすることもできず、夜目にもほの白く光つて見えるので、空から見たらすぐパリの在りかは知れるだらうと思はれた。
 ホテルに歸ると、留守中に菊池君夫妻が見えたといつて、預けて置いたボストン・バグがとどいてゐた。今朝彌生子が訪ねた時は、一週間ほど前旅行に出たきりでまだ歸つて來ないといふことだつたが、多分この騷ぎで歸つて來たのだらうから、避難船のことを知らせようと、もう夜は更けてゐたけれども電話をかけると、二人ともすぐ訪ねて來た。
 菊池君夫妻はトゥールの附近に藤田嗣治君夫妻と滯在してゐるうちに、形勢が日に日にわるくなつて來るので心配してゐると、今朝とうとう戰爭が始まつたのでそこを立ち、さつき歸つて來たばかりだといふ。菊池君夫妻が旅行するとは知らないで、私たちの方がエスパーニャに行くので預けて置いた鞄の中には、私たちにとつて大事な能面が入つてゐたのである。それを知つてゐた菊池君はトゥールまでそれを持ち運んで歸りの汽車の混亂の中で迷惑したことだらうと氣の毒になつた。
 私たちは明日ボルドーに立つから(私自身はまだ汽車に乘れるかどうかわからなかつたが)、[#「が)、」は底本では「が、」]もし都合がついたら一緒に立たないかと勸めたけれども、菊池君は今度歸るといつまたフランスへ來られるかわからないので、製作品(彫刻)の始末をして置かなければならないから、あと一二日かかるだらうといふことだつた。それでボルドーでの再曾を約して別れた。
 菊池君夫妻を送り出して、アヴニュ・オッシュから持ち歸つた物をスーツ・ケイスに收め、持物の整理が終つた時は、もう二時を過ぎてゐた。汽車は非常な混雜を豫期しなければならないので、持物は各自兩手で持てる程度に限つてもらひたいといふ通告を私たちは受けてゐた。私は明日彌生子を停車場へ送つて行くついでに、念のため自分の持つべきスーツ・ケイスを二つ別に持つて行き、もしどの列車かに乘れたらば乘り、乘れなかつたらその時のことにしようときめて、寢床にもぐり込んだ。
 パリの町はシンと靜まりかへつてゐた。いつも眞夜中にも聞こえるモン・パルナスの大通の車の音がその晩は一つも聞こえなかつた。逃げるだけの人は皆逃げてしまつてるやうな氣がした。
 ――明日はわれわれの逃げる番だ!
 さう思つて、しばらく感懷にふけつてゐたが、すぐその下から、
 ――しかし、今夜にも空襲があつたら?……
と、さう思ふと、靜まりかへつた窓の外の空氣が却つて何となく薄氣味わるく感じられるのだつた。
 けれども、終日の心勞に打ち負かされて、間もなく深い眠に落ちた。

       六 パリ落

 九月二日。
 開戰第一日のパリの夜は靜かに明けはなれた。空襲の不安を人人に感じさせた昨夜の暗さがうそのやうに思はれた。それほどパリの昧爽の空は明るく、晴れがましく、なごやかだつた。私たちの部屋とむかひ合つた向側の建物の窓の鎧戸はまだ締まつたままで、いつも早くから聞こえる往來の物賣の聲もきこえなかつた。實はパリの最後の朝食を、いつものカフェのテラスに腰かけて、あのうまい珈琲とクロワサンでしたかつたのだが、出發前の氣持のあわただしさは、私たちをホテルの平凡な食卓で我慢させた。
 ホテルに飼つてある灰色の太きな牡猫が私たちのテイブルの上に跳び上つて、人なつこさうに長長と寢そべる。私はそいつの頭を輕く叩きながら、マダム・Xの持つて來た『プチ・パリジャン』にざつと目を通すと、ポーランドの危急を報道する記事が大きく出てるだけで、フランスのこともイギリスのこともなんにも出てなかつた。
 食事がすむと、M君の好意で※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してくれた車が來たので、正金の人たちと約束した時間にはまだ早かつたけれども、出かけることにした。
 ケー・ドルセーの停車場には人がいつぱい溢れてゐた。正金の家族の人たちはすぐ目つかつた。日本人が二十七人も集まつてるのだから目つからない筈はなかつた。それに見送りの人たちも大勢ゐた。その中に支店長I氏を發見し、私たちは挨拶した。二十七人の女子供の一行に交つてそれを宰領して日本まで同行するS氏にも逢つた。
 ――なにしろこんな状態で、餘分の座席が一つきりないものですから。
 ――いや、ありがたう。私の方は御心配なく。
 そんなことを手短かに話し合つた。私は十一時の列車には乘れないものとあきらめてゐた。しかし、もしかして他のどの列車かに乘れたら乘るつもりでスーツ・ケイスは二つ用意して來てゐた。それを赤帽に持たせて、ボルドーまでの切符を買はせようと試みた。
 赤帽は、二等でも一等でもよいかと聞いた。もう三等は昨日のうちに賣り切れてしまつたさうだ。私は二等を希望するけれども、一等でもかまはないと答へた。
 赤帽は私をつれて案内所へ行き、顏なじみらしい男と談判してゐたが、うまく一枚だけ手に入れることができた。すると彼は私の大きい方のスーツ・ケイスをいきなり肩にかつぎ、今一つの方を手に提げて、
 ――早く、早く、ムッシュ!
とせき立てる。どうしたのかと思ふと、私の座席劵は十時半發の列車なので、もう時間がないといふのだつた。
 私は驚いた。さよならをいふ暇もなかつた。構内は瞬間ごとに人が殖え、どこに誰がゐるかも容易にわからなくなつた。時計はあと一分しかないところを示してゐた。赤帽は私のスーツ・ケイスをかついで改札口から薄暗い「ハツチ口」の底の方へ駈け下りて行つた。運よく改札口の手前にI氏が立つてゐるのを見つけ、私は簡單に事の成行を話すと、
 ――奧さんには私から話して置きます。とにかく、それはよかつたです。
 ――さよなら。
 ――御機嫌よう。
 私は階段を駈け下りた。階段もプラットフォームも人がいつぱいだつた。赤帽は列車の前に待つてゐて、私を押し込めるやうにして乘せ、その後から二つのスーツ・ケイスを投げ込んだ。同時に、列車は動き出した。
 私は彼の忠實な努力に報いるために二三枚の銀貨をポケットからつかみ出して、彼のさし伸ばした手の平に入れてやるだけの餘裕をやつと持つことができた。彼は帽子に手をかけて、メルシ・ボクを投げかけた。
 全く期待しないことだつた。私は十一時の列車を見送つて置いて、その後で乘れたら乘る、乘れなくても、明日か明後日のうちには何とかしてボルドーまで行けるだらう、と考へてゐた。それが、偶然にも私の方が先に立つことになつた。正金の人たちは日本人の中でパリ落をする最初の組だといつてゐたのに、豈圖らんや、私自身が先驅者とならうとは!

       七 夢遊病者

 それから豫期しなかつた辛勞と困憊の十三時間が續く。
 それを今私は讀者に實感させることの困難を感じる。何となれば、初めの間は私は緊張して辛勞を尅服してゐたが、遂に長時間の辛勞に打ち勝たれて、殆んど名状することのできないほどの困憊の中に私のすべての神經中樞の活動は停頓してしまひ、今その時の記憶を喚び起さうとしても到底不可能であることを感じるから。
 考へて見ると、無理な列車に乘せられたのだつた。私が乘つた時、車室はどの車室もすでに滿員だつた。荷物をば乘降口に置いたままにして列車内を歩きまはつて見たが、あいてる座席とては一つもなかつた。たまに子供を二三人交へて比較的餘裕のある車室を見出して、そこに一人分餘裕がありますか、と聞いて見ると、ノンムッシュといつて、女は肘を張り、男は脚をひろげたりして、占有してる座席を讓るまいとする心事がはつきり讀み取れた。私の後について一人の若いフランス人も同じことを聞いて歩いたが、彼も拒絶された。私はその時ぐらゐフランス人を嫌惡したことはなかつた。これがイギリス人だつたら、決してこんな露骨なエゴイズムは見せられないだらうにと思つた。
 しかし、あきらめのいい人たちは初めから廊下の窓ぎはに竝んで立つてゐた。私もその仲間に加はらうと思つた。けれども二つのスーツ・ケイスを何とかしなければならなかつた。氣がつくと、鍵の手に引つ込んだ便所の前に幾らか餘地があるので、その横手の方にそれを立てかけ、更によく見ると、便所と脊中合せになつた隅に、車掌用のものと見えて、一つの小さい腰掛が羽目板にくつつけてはね上げてあつた。私はそれを下して、その上に腰を据ゑた。私は青年の頃腸チブスをわづらひ、その餘病として左足に靜脈の結滯ができて惱んだことがあつた。その後一と通りは癒つたけれども、登山をするとか、あまり長く坐つてるとか、あまり長く立つてるとかすると、一種の麻痺状態を來たして苦しむことがあるので、日頃から足だけは大事にしてゐる。それで、よいものを發見して一安心したものの、その安心も長くは續かなかつた。
 私たちの列車はオーステルリッツでまたうんと人が乘り込み、殆んど超滿員の状態になり、廊下も便所の前も文字通り立錐の餘地もないほどに埋まつてしまつた。その中に一人の母親が二人の子供をつれて皺くちやにされながら、大きなトランクを窓ぎはに立て、その上に小さ小方の女の子を腰かけさせ、大きい方――といつても六七歳――の男の子と自分でそのトランクを支へてるのが氣の毒なので、大事な座席を私はその婦人にゆづつてやつた。彼女は一應辭退したが、それでも喜ばしさうに腰かけ、女の子を自分の膝の上に抱へた。しかし、かよわい子供の手一つでは動搖するトランクを支へることはできないので、私がその傍に立つて力を貸してやらねばならなくなつた。そのため、私は不安な足で立つだけでなく、その厄介物の動搖に抵抗するだけの勢力をも寄與することになつたので、疲勞を早める結果になつた。
 更にわるいことに、私は私たちの列車の進行の經路を知らなかつた。ボルドーを通過してエスパーニャの國境まで行くことは知つてゐたけれども、ボルドーまでどの線路を通るのだか確かめてなかつた。確かめる暇さへなかつたことは讀者も知つてゐられる通りである。私はすでに二度ボルドーを通つた經驗があるので、いつもの如く、オルレアンからトゥールに出てポアティエを通るものとばかり思つてゐた。ところがさうでなかつた。
 オルレアンには停車した。停車する少し手前で、機關車がレイルの外に横倒れになつてめちやめちやに壞れてゐるのを見た。オルレアンを出るとすぐ、私たちの列車は囘避線に入つてまた停まつてしまつた。在郷兵のやうな服を着た老人が數人線路に沿うて立つてゐたのが近づいて來て、飮料水が用意してあるから飮みたい者は車から出て來なさいと觸れ歩いた。多くの人は車から飛び下りて水を飮み、まだしばらく停車するといふのでそのまま草の上に足を投げ出したり、寢ころんだりしてゐた。その間に一聯の軍用列車が非常な速度でパリの方へ駈け過ぎた。十分もたつたかと思ふ頃、また次の軍用列車が駈け過ぎた。窓からのぞいてるのは、軍裝してない青年が多かつた。中には手を振る者もあつたが、草の上に横たはつてる連中は萬歳も叫ばねば手も振らず、默つて見送つてゐた。
 軍用列車は殆んど引つ切りなしに幾つも通り過ぎた。初めからそのつもりで數へなかつたので正確な數はわからなかつたが、八列車か九列車か、或ひは十列車も通つたであらう。時間は一時間半か、ことによると二時間も待つたであらう。私は窓に凭つかかつて日記をつけたり、地圖を調べたりしてゐた。休息といへばその間だけが休息だつた。しかし初めから幾列車待つとわかつてゐたのでないから、草原に寢ころんでゐた連中も、一つの軍用列車が通り過ぎると急いで車の中へ戻つて來たり、また下りて行つたりするので、相當にうるさかつた。
 やがて動き出したかと思ふと、少し行つては停まり、また少し行つては停まり、停車場でもなんでもない所で停まつたり動き出したり、何をしてるのかまるでわからなかつた。こんなことにずゐぶんと時間を空費して、最後に本氣になつて走り出した時でも、速力はあまり出さなくなつてゐた。
 乘客は決して減らないで、停車場ごとに殖える一方だつた。停車場の名前はペンキで塗りつぶしてあつたり、布で蔽つてあつたりして、しまひにはどの邊を通つてるのか見當がつかなくなつた。
 ――トゥールはまだですか?
 私は人を掻き分けて通つてる一人の若い男に聞いた。その男はさつきオルレアンで私に水を上げませうかといつて水呑をさし出した青年だつた。彼は英語を話した。
 ――トゥールは通りません。私たちはトゥールをばあつちの方角に見て別の線を通つてるのです。
 さういつて彼は右手の方を指ざした。その邊から私はわからなくなつてしまつた。トゥールを右の方へ引き離して走つてるのだとすると、私たちの列車はポアティエをば通らないで、リモーヂュの方へ進んでるのだらうか? 地圖で見ると、さうとしか思へなかつた。私は隣りに立つてる瘠せた小さい男に聞いて見たが、彼もどこを通つてるのか知らないといつた。彼は今夜はアンダイエに泊つて明日エスパーニュの弟の所へ行くのだといつてゐた。
 ――エスパーニュはどこへ?
 ――トロサ。
と彼は答へた。トロサは私は何度も通つて知つてる所だつた。私のベレ帽もトロサの製品だ。ベレ帽はバスクの固有のもので、フランスでもそれをかぶつてゐるのをたくさん見るけれども、本場はトロサだとエスパーニャ人は威張つてゐた。
 さつきの青年がまた人を掻きわけて通りかかる。小さい女の子をつれてゐる。その女の子が便所へ行くのを手傳つてるのである。便所の前には人がいつぱい立ち塞がつてゐた。その人たちに道をあけてもらひ、女の子を中へ入れて、彼はドアの前に立つてゐる。さういへば、彼はさつきも他の一人の女の子をつれてゐた。私は彼に話しかけた。
 ――ボルドーには何時に着くでせう?
 ――六時頃の筈ですが、おくれるでせう。
 時計を見ると、もう六時には間もなかつた。廣廣とした耕地の末はあまり高くない丘陵になつて、その上には銅色の雲が光つてゐた。氣がつかなかつたが、もう太陽は丘陵の向側に沒してゐた。
 皆戰爭のことを考へ込んでるのだらうか、乘客はいつものフランス人にも似ず、女も男も押し默つて深刻な顏をしてる者が多かつた。便所の前にはレヂオン・ドノールの略綬を附けた老軍人が、今一人の老軍人と立つて、時時小聲で話し合つてゐたが、彼等も疲れたと見え、乘降口のドアをあけて、その階段に足を下して床の上に尻をすゑてしまつた。さつきの青年はその後も子供たちの介添役を引き受けて、人を掻きわけては便所を訪問してゐた。その度に私の方へ會釋を送つて通つたが、或る時、
 ――ボルドーは十時になるかも知れませんよ。
といつた。それは私を困惑させた。私は今朝パリの宿を出て以來、一物も咽喉のどを通して居らず、それに、がらにもない宋襄の仁は私の身體を綿のやうに疲らせ、私の足を棒のやうに麻痺させてしまつた。もし半メートルでも歩きまはる餘地がありさへしたら、應變の運動法を實行することでもできたでもあらうが、不幸にして私に殘された一サンティメートルの餘地すらもなかつた。二つの靴は踏みつけた位置に膠着したままで、足と足と、胴と胴と、人間とトランクと、よくもかう巧妙に詰め込まれたものだ。その巧妙さは、私にテバイで見たツタンカーメンの小さい墓穴を思ひ出させた。カイロの博物館に陳列されてある彼の遺物の夥しい什物は全部テバイの王の墓の小さい穴倉の中に收まつてゐたのだ。私はその穴倉をのぞいて自分の目を疑つた。この小さい穴倉の中にあれだけの物が詰まつてたとすれば、まさに整頓の驚異だ! さう思つて感歎した。しかし、それは什物、これは肉體。肉體の方がより多く彈性があり、より多く詰め込まれ易いことはいふまでもないが。
 戰爭の恐怖はパロよりも整頓の才能をより多く持つ。
 ミケランヂェロの「最後の審判」の肉體の堆積。……
 ダンテ描くところの「地獄」のもろもろの圈の肉體の堆積。……
 諸君はトランクに縛られた憐れなプロメテウスを想像してくださることができるだらうか?
 なほつづく飢餓と涸渇と疲勞と困憊の一時間……二時間……三時間……四時間……
 列車は暗黒の中を駈けて行く。私と同じやうに、渇き切つて、疲れ切つて、呻きながら。
 闇の中に火が見え出した。熔礦爐の火だ! 地獄の火だ! 人殺しの道具をこさへる火だ! 戰爭を恐れて逃げ出した人間どもををどし立てる火だ!
 ――あれはどこです?
 ――ボルドーです。
 やつとボルドーに辿りついたのだ。ボルドーにあんな火が燃えてることを私は前に二度までも通つて知らなかつた。その火は、どこまで行つても同じ距離で、私たちに附いてまはつた。時時、森が、人家が、それを隱しながら。列車が旋囘を始めだしたのだ。どうしてもさうとしか思へなかつた。
 いきなり大きな黒い橋が私たちの前に來た。なぜか、列車は停まつてしまつた。川はガロンヌで、その橋を渡ればボルドーの町だといふことを私は知つてゐたが、列車は地獄の火の方へ戻りたいのか、停まつたきりで、いつまでたつても動きださうとしなかつた。人人は誰も不平をこぼす者もなければ、泣きごとをいふ者もなかつた。時と所を超越した此の氣まぐれな火龍の脊中に自分の運命をあきらめて委せきつたやうな顏をして默りこくつてゐた。私とても、はたから見たらさうとしか見えなかつたにちがひない。
 何十分かの後、列車がまた動きだして、ゴトゴトと鐵橋を渡つて、サン・ヂャンの停車場に滑り込んでも、別にうれしくもなんともなくなつてゐた。人間的な感情とか思慮とかを働かすべく私はあまりに疲れきつてゐた。
 プラットフォームの上に避難列車の吐き出した人間の數は非常な數だつた。そこには高い柱の頂上から降りそそぐ淡紫色の夢のやうな電燈の光が此の世のものとも思へないやうな影を落して無數の亡者どものうごめきを描き出してゐたが、ふと氣がつくと、私自身もその亡者どもの群に交り、重い二つのスーツ・ケイスを提げて立つてゐた。
 どこへ行くのか? どうすればよいのか? なんにも知らないで、ただふらふらと歩み出してゐた。……
 たしかに一箇の夢遊病者の影像だつたに相違ない。

       八 邂逅

 ボルドーのサン・ヂャン停車場のプラットフォームは、階段を下りて、地下道を通つて、また階段を上つて改札口に出るやうにできてゐる。長さにしても大した距離ではないのだが、その晩は非常に長く感じた。私は二つのスーツ・ケイスを兩手に一つづつ提げて――それも大した重さではないのだが――十メートルも行つては休み休みしなければならなかつた。私だけではない。私の二三歩先を行つてる二人の大の男も私と同じくらゐ歩いては荷物を下して息をついてゐた。後からも同じやうなあはれな影が幾つもつづいた。
 改札口には武裝した兵隊が五六人かたまつて立つてゐた。その劍がチカッと光らなかつたら、私は知らずにその前を通り過ぎたかも知れなかつた。そこいらには全くなさけないやうな灯がどこからともなく鈍い光を投げてるきりで、人の顏などはろくに見わけられもしなかつた。しかし、その邊はまだ明るい方で、内側は一層暗かつた。
 改札口は出たものの、私はどこに立つて彌生子の着くのを待つたものだらうか、と考へた。ポケットから時計を出して見ると、もう十一時を過ぎてゐた。朝の十時半に出た私の列車が夜の十一時に着くやうでは、朝の十一時に出た筈の次の列車は、着くまでにはまだ少くともあと三十分はかかるだらう。しかし、それはどの線を通つて來るのだらうか? どの線を通るにしても、全フランスの軍用列車は皆パリに向つて集まりつつあるのだから、延着しないといふことは考へられない。いづれにしても、驛長室へ行つて聞いて見た方が早道だ。
 そんなことを考へながら歩いてると、驚いたことには、すぐ前に立つてゐた、彼女が。――薄暗い闇の中に顏を竝べて改札口から出て來る一人一人を物色してる堵列の一番最後に、近眼鏡を光らして。さうして一つのスーツ・ケイスと一つのボストン・バグを足もとに置いて。
 ――どうしたんだ! もう着いてたのかい?
 全くそれは豫期しないことだつた。つい一瞬間前まで、待つのは私の方だとばかり思つてゐた。話を聞いて見ると、彼女の列車はトゥールからポアティエを通つて來たらしい。座席は早くから取つてあつたので腰かけて來ることはできたが、食物は私同樣一つも取ることができなかつた。ボルドーに着いたのは一時間ほど前だつたが、プラットフォームから改札口に出るまでに、同行の人たちに見はぐれてしまつた。同行の人たちといつても二十七人もあるのに、幾ら暗いとはいへ、見はぐれるのはをかしいやうだけれども。大震災の時、東京市内の到る所で起つた似たやうな事件が思ひ起された。暗さも混雜もまるで同じだつた。
 それにしても、二十七人もの人が改札口を出ると掻き消すやうに消えてしまつたのに當惑して、彼女は停車場の構内を搜しまはつたり、前の廣場のタクシの立場に行つて見たりして、もう一時間ばかりもうろつきまはつてゐたのだといふ。(二三日後にわかつたのだが、彼等は改札口を出るとすぐ右へ折れて、構内のオテル・テルミニュへ入つてしまつたのだつた。そのホテルのことを初めから聞いて置かなかつたのは迂濶だつた。また、私としても、それを確かめて置くべきだつた。夢遊病者の迂愚!)
 それにしても先に着いてるとのみ思ひ込んでゐた私の姿の見えないのが、彼女の第二の疑間だつた。どこかそこいらにゐて、お互ひに搜し合つてるのではないかとも思はれたが、燈火管制の下の暗黒はその不安を確かめることもできなかつた。もう少し搜して見て、それでも搜し出すことができなかつたら、野宿をするつもりだつた、といふ。構内のベンチの上にも、廣場のそこここにも、荷物に凭つかかつて眠つてる人たちを私たちはたくさん見た。それも大震災の時の風景に似てゐた。
 ――とにかく目つかつてよかつた!
 ――ほんたうに!
 さういつて安心し合つたものの、私たちは飢ゑて疲れきつて、いきいきした喜びを言葉に出すことさへもできなかつた。
 やつとの思ひで、荷物を持ち上げ、廣場を横ぎり、あかあかと灯のついてるレストランに入り、何か食はせてもらはうとしたが、ゆで卵二つのほか食ふものとては一つも手に入らなかつた。それを二人で分けて食ひ、すき腹にビアを流し込み、あとは明日のことにしようとあきらめた。
 けれども、宿を搜さねばならなかつた。
 それも精根を疲らす仕事だつた。初めに停車場附近の宿屋は全部あたつて見たが、どこも皆滿員コンプレだつた。ボルドーの中心はガンベッタ廣場の附近だと聞いてゐたので、その邊を搜して見ようと決心し、もうとつくに十二時を過ぎて、タクシをつかまへるだけにも多大の勞力と時間を費したが、善良な二三のボルドー市民の好意と助力でやつとそれに成功し、最初には一流の大きいホテルを次次に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らせたが、どこも皆滿員コンプレだつた。(その頃ボルドーには約一萬人の外國避難者が流れ込んでゐた。)その次には思ひきつて、それではどんなケチなパンシヨンでもよいといふと、ショファはいやな顏もしないで、また元氣よくハンドルを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して、狹い石疊の路次へはひつて行き、とあるいかがはしい小さいドアの前に車を停めて、ベルを押した。
 ややしばらくしてドアが開くと、一筋の幅狹い仄かな光の中に、小柄な寢間着姿のかみさんが現れ、つづいてピヂャマを着た脊の高い亭主らしい男が現れ、私たちの善良な肥つちよのシャツ一つのショファは半身を闇に隱して石段の上に立つて、長いこと押問答をしてゐた。さながらドーミエの群像だ。またことわられるのかと思ふと少しなさけなくもあつたが、それでもそのすばらしい生きた風俗畫を興味ぶかく車の中から鑑賞してゐるだけの餘裕が私には取り戻せてゐた。――此處がだめだつたら、またほかを搜さう。どうしても搜し出せなかつたら、ショファに宿賃を拂つて車の中で一夜を明かしてもよい。さう腹をすゑてゐた。
 ショファが、今度は肩をすくめたり兩手をひろげたりしないで、車の所へ戻つて來てドアをあけ、私たちのスーツ・ケイスを運び出した。地獄で佛にめぐり逢つたやうな氣痔だつた。
 亭主はドイツ語を少し話した。彼は動員されて明日は入營し、かみさんも或る勤勞サーヴィスをするので、此のパンシヨンは今夜きりたたむことになつたのだといふ。だから、今夜は特別にお泊めするが、明日の朝はお氣の毒だけれども出てもらはねばならないといふ。そんな話を玄關脇の小部屋でしてゐた時、一人の男が鞄を下げて二階から下りて來て、かみさんに勘定をして出て行つた。
 入れちがひに、私たちは三階の一つの部屋に通された。その前に、かみさんは部屋代を先拂に拂つてくれるかといつた。幾らだと聞いたら、十五フランといふので、私は五フランのティップを添へて渡した。
 天井の低い安つぽい寢室ではあつたけれども、その晩の私たちにとつては、ベルンで泊まつたホテル・ベルヴュウの豪華な寢室よりもありがたいものに思へた。實は南京蟲でもゐはしないかといふ心配もなくはなかつたのだが、たとひ南京蟲に食はれたとしても、氣がつく筈はなかつた。身體からだが自分のものだか他人ひとのものだかわからないほどに疲れきつてゐたのだから。
 次の朝は八時過に目がさめた。ポリフェモスのやうに眠つたのだつたが、まだひどく疲勞を感じてゐた。鎧戸をはねあけて見ると、見覺えのある一對の寺の塔が、白いつののやうに窓の正面に竝んでゐた。ボルドーのカテドラル(サンタンドレ)だ。二十三日前に私たちがエスパーニャへ行く途中、見物した寺だつた。その寺からあまり遠くない所に昨夜は宿を借りたのだといふことが初めてわかつた。
 下へおりて見ると、玄關脇の小部屋でかみさん敷布シーツを疊んでゐた。亭主の姿は見えなかつた。もう入營したのだらう。年の頃は五十そこそこに見えたが、あんな年寄を取つてどうするのだらうと思はれた。しかし、フランスでは十八歳以上五十三歳までの男は全部召集されるのだと聞いてゐた。話しながらかみさんは泣いてゐた。
 私たちはタクシを呼んでもらつて宿さがしに出かけた。割に近くのプラース・デ・グラン・ドムのそばに手頃なホテルを見出して、まづ一週間の契約で三階の一部屋を借りることになつた。
 鹿島丸は七日にはボルドーに入港する筈になつてゐた。

       九 ボルドー膠着

 私たちは日本を出る時、ボルドーを見る豫定などは作つてゐなかつた。
 私の同郷の先輩O氏が若い頃水産技師としてボルドーに留學し、歸つてからその地方に關するいろいろの土産話を聞いた記憶があるので、それ以來ボルドーは一種の親しみを以つて考へられはしたが、今度の限られた旅行の日程に於いて、ボルドーに多くの時間と勞力を費すくらゐなら、まだ見殘した土地で見たい所は幾らもあつた。しかるに、偶然は不思議なもので、別に見たいとも思つてなかつたボルドーを飽きるほど見ることになつた。
 エスパーニャへ行く途中、ボルドーで汽車を棄てて、町のおもな建物を一瞥して歩いた時、ボルドーはこれでおほよそながら卒業したことにして置かうと考へた。エスパーニャからの歸途、今度は下りはしなかつたが、一度見た町のそこここを汽車の窓から眺めて、卒業した學課の復習をしたやうなつもりで通り過ぎた。ところが、戰爭は私たちをパリから追ひ立て、またボルドーへ運んでしまつた。よくよくボルドーに因縁が結ばれてゐたものと見える。先にいいかげんに速習したボルドーの知識が今度は正確な知識になつた。何となれば、私たちは鹿島丸の入港を待つ間、それから鹿島丸の出帆の日まで、それは實に退屈な長い逗留だつたが、その間、ボルドーを研究するより外にすることとてはなかつたのであるから。それで、もし他日私のボルドーの知識が何かの役に立つことがあるとしたら、私は今度の戰爭を始めたアドルフ・ヒトラー氏に感謝しなければならぬだらう。
 しかし、ボルドーのことよりも私たちはやつぱり戰爭の動向が知りたかつた。けれども、ボルドーでは戰線があまりにも遠く離れてゐるので、さう思ふともどかしくなるほど、どことなくのんびりした空氣が漂つてゐた。此の邊鄙の町に一八七〇年にフランスの政府は、ドイツ軍の侵入を恐れて一度トゥールに避難したのが、遂に移つて來たのであつた。此の前の大戰の時も、フランス政府はボルドーへ移つた。今度も局面の變轉によつては、またボルドーへ移つて來るだらうといふ説もある。パリの南東約六五〇キロに位置する此の町は、ドイツの飛行機に容易に見舞はれるといふ心配がないのでか、夜になるとさすがに街上は暗くなるが、それでもカフェやレストランは――私たちの着いた初めの數日間はまだ――あかあかと灯がついてゐた。私たちが疲れて着いた晩に停車場前のレストランでとにかく空腹を養ひ得たのもそのおかげだつた。晝間はことさら平生とあまり變つたところもなく、殊にガンベッタ廣場からグラン・テアトルへかけての大通などはパリの殷賑を持つて來たかと思へるほどの人通りが見られた。尤も、その大部分は避難者のやうではあつたけれども。
 だから、ボルドーでは戰爭は殆んど實感することができなかつた。戰爭について知り得るのはラディオと新聞に依つてのみだつた。しかし、ラディオは逸早く政府によつて統制され、新聞も同樣に統制され、(共産黨の機關紙は八月にはすでに發行を停止され)、毎日紙上に發見し得る戰爭の報道といつては、いつも同じやうに第一面の約半分の面積を埋める西部戰線の地圖と、讀んでも讀まなくても同じやうな二三行のコンミュニケのみだつた。外交官であり作家であるヂロードー氏が宜傳相になつたといふのに、そのコンミュニケは、見方によつては要領のよいものともいへるが、要領がよすぎてつまらないことおびただしかつた。ボルドーで手に入る唯一のおもしろい新聞といへば『デイリ・メイル』くらゐなもので、それもサン・ヂャンの停車場まで一日おくれのを買ひに行かねばならなかつたが、それとてもフランス官憲の統制の下に賣られるのだから、知りたいと思ふことが十分に知られないのはもちろんだつた。
 つまり、私たちは戰爭の國にゐながら戰爭のことはあまり多く知ることはできなかつたのである。
 けれども、戰爭をしてる國民の志向と感情と行動の現れだけはのあたり觀察することができた。殊に何よりもフランスの心臟ともいふべきパリの市民の鼓動は、私たちのあとから毎日次次にボルドーへ避難して來る人たちによつて傳へられた。それは決して戰爭その物の情報ではなく、戰爭の描きだす波紋の或る一方面に限られた現象に過ぎないものではあつたけれども。

       一〇 風聲鶴唳

 四日にパリを出た人の話。――
 パリの空は無數の阻塞氣球で防護されてゐる。パリジャンはそれをソーセージと呼んでるさうだ。形が似てるからだ。(ロンドンの空もおびただしい阻塞氣球の城壁が築かれたといふ。)
 燈火管制が嚴重になつた。眞夜中に見ると、美しい星空の下にパリは廢墟のやうに横たはつてるのが凄いやうだといふ。
 最終の避難列車は六日にパリを出る。それに乘りおくれるとボルドーへの交通は杜絶するかも知れない。と、これは日本人間の噂だつた。
 列車は非常な混亂で、ケー・ドルセーの停車場では卒倒した女が何人もあつた。尋常なことでは列車に乘れないので、窓から攀ぢ登る者もあつた。持つて來た荷物をプラットフォームに棄ててしまつた者も少くなかつた。――そんな話を聞くと、またしても大震災の時の混亂を思ひ出す。フランス人も修養が足りないやうに思はれた。
 英國汽船アシニア號がドイツの潛水艦に撃沈された。乘客の大多數は、しかし、救助された。
 五日にパリを出た人の話。――
 午前三時半頃、最初の警笛アレルトが市民の眠を驚かした。皆ガス・マスクの袋を提げ、懷中電燈を持つて、地下窖アブリへ逃げ込んだ。アレルトはどんな音かと開くと、非常に低い調子で、非常に鈍い高低で、とても陰氣で、聞いただけでも陰慘な氣持になる。それにアブリの中は暗くて臭くて、あんな所に何時間も閉ぢ込められたら氣がちがつてしまふ。と、その人は眉をしかめて話した。
 それで飛行機は本統に來たのかと聞くと、初めは敵の空襲だとばかり思つてゐたし、みんなもさういつてゐたのだが、よくわからなかつた。ドイツの偵察機が國境を越えたぐらゐの事かも知れない。或ひは豫行演習だつたのかも知れない。いづれにしても不愉快なものだ。といつてゐた。
 ロンドンでは四日の未明に最初のサイレンが市民の夢を驚かしたといふことだ。
 イギリスの飛行機がキールの軍港を爆撃したといふ報道がフランスの新聞で傳へられた。
 六日にパリを出た人の話。――
 此の日も朝の三時過にアレルトがパリの空に鳴り響いた。また豫行演習だつたのだらうといふと、高射砲の音がさかんに聞こえてゐたから、ほんとうに來たのかも知れない、とその人は眞顏になつて話した。それから、午前十一時頃にもまたアレルトがうなりだして、また高射砲の音が方方で聞こえてゐた。眞夜中ならとにかく、晝間のことだから演習とは思へなかつた。あの音を聞くと全く落ちつかなくなる。世の中にあんな咀ふべき音響はない。さういつてその人は憤慨してゐた。
 今一人の人は、パリの大學都市の附近に爆彈が落ちたといふ話を持つて來た。君が見たのかと聞いたら、見はしなかつたが專らそんな噂だつた、といふことだつた。
 フランスとイタリアの國境は、一度閉されてゐたが、すでに開かれてるといふことだ。ボルドーに避難してる人の中には、これからマルセーユに出てイタリアに入り、ヂェノアかナポリから船に乘らうといつてる人もあつた。その人は、フランスに着いたばかりで戰爭になり、フランスの美術が見られなくなつたので、せめてイタリアだけでも見て歸りたいといつてゐた。しかし日本郵船はこれから當分皆パナマ經由で歸るともいはれてゐたので、イタリアに行くことも躊躇してゐるやうだつた。
 新聞はイギリスの飛行機が首相チェインバレン氏の名に於いて「ドイツ人に告ぐる」ビラを撒いたと報じた。イギリスはドイツ人を敵とするのではない。ヒトラー氏の信義に悖る行動を恕すことができないのだと書いてあつたさうだ。
 此の種の宣傳に幾ばくの效果を期待してよいか知らないけれども、此の度の戰爭は宣傳に始まつて宜傳で進行してゐるやうな觀がある。三日にはチェインバレン、ダラディエ、ヒトラー諸氏の放送があつたさうだ。
 七日。フランス政府のコンミュニケはザール方面に於けるフランス軍の進出を報じた。マヂノ線から進出してジークフリート線の方へ接近しつつあるといふのだつた。ドイツは東部戰線に主力を集注してポーランドの占有を目ざしてゐるので、もしさうだとすれば、西部戰線は受身の形になつてるのだらう。
 八日。フランス政府のコンミュニケは、ドイツが西部戰線の方へ強力な援軍を送りりつあることを報道した。
 九日にパリを出た人の話。――
 パリに殘留する外人は改めて殘留の理由を警察に屆け出なければならぬことになつた。身元證明書に査證ヴィザを取るのであるが、それに指紋を要するのが不愉快だといつてゐた。彼はその時は殘留しようか歸國しようかと迷つてゐたので、念のため査證を取りに行つたところが、警官が亢奮してゐて甚だ穩やかでない言葉を使ひ、此の非常時にパリで學問をしようと思ふなどは心得ちがひだ。殘留するのなら義勇軍に志願しろといつたさうだ。一人のブルガリア人は何か口ごたへをしたので横つ面をられ、最後に階段から蹴落された。その青年はそれを見てこわくなり、査證ももらはないで歸つて來た。
 いつしよにその話を聞いてゐたAは、なんだかフランス人らしくないね、といふと、Bは、それがフランス人だよ、といつた。
 それから、パリでは諸般の取締が日に日にやかましくなり、アレルトの鳴つてる間、即ち、人人がアブリへ逃げ込んでる間、他人の室内に侵入した者は死刑に處するといふ布令が出たさうだ。戸外でガス・マスクを携帶しない者は三十フランの罰金を課するといふ達示も出たといふ。ガス・マスクはボルドーの市街でもたいがいの人は持つて歩いてゐる。しかし、船を待つてる外國人には持つてない者が多い。
 私たちのホテルには二三日前から一組のドイツ人らしい家族が泊まつてゐたが、そのうち二十はたちあまりの息子らしい青年は姿を消した。私は市街の方方に貼り出されてある掲示を思ひ出した。敵國の國民で十八歳以上五十歳以下の男子は何日何時まで毛布と寢衣を持つてどこそこに集合して當局の指示を待つべしといふ意味の命令だつた。一定の場所に集めて何かの勞役に服せしめるのだらう。もちろん一種の捕虜である。
 息子を奪はれた家族の人たち――父親と母親と娘――は見る目も氣の毒なくらゐにしよげ込んで、いかにも肩身狹く感じてゐるらしく、下の食堂には大ぜいのフランス人がいつも外からも來るので、食事の時間もずり下げて片隅に小さくなつてかたまつてゐた。或る日、食堂の入口で出逢ふと、人なつかしげに寄つて來て、あなた方は日本の船でアメリカへ行くのではないだらうか、と尋ねた。アメリカへ寄ることになるかどうか、まだ船が來ないからわからないけれども、とにかく日本の船でフランスを去るのだ、といふと、われわれをも乘せてもらへまいかと熱心にいひだすのだつた。できたら乘れるやうに助力して上げたいけれども、恐らく日本人以外の人は乘る餘地がないだらう。と、さう答へる外はなかつた。鹿島丸の收客人員は百三十名であるのに、申込者はすでにそれを超過してるといふやうなことを私は聞いてゐた。しかし、くわしいことはN・Y・Kラインの代理店に行つて聞いて見なさい、と注意して、そのアドレスを教へてやつた。彼等はすぐそこへ行つたに相違ない。けれども多分ことわられたのだらう。それから後もときどき顏を合せてゐたが、いつも淋しさうな表惰で會釋をするのが氣の毒だつた。
 彼等はその以前に合衆國の汽船會社支店にもカナダの汽船會社支店にも頼みに行つたのだけれども、アメリカ人やカナダ人の歸國する者さへ收容しきれないのだから、といつてことわられたといつてゐた。數日の後、私たちが鹿島丸に乘り込む時まで彼等は心細さうな顏をしてホテルの玄關を毎日出たり入つたりしてゐた。

       一一 鹿島丸

 十二日になつて、やつと鹿島丸はボルドーに入つて來た。
 すでに三日にマルセーユを出帆したといふ報告を聞いてゐたのに、どうしてかうも後れるのだらう、と、ボルドーで待ちあぐんでゐた百數十人の日本人は誰しも不審を懷かない者はなかつた。
 しかし、とにかく、鹿島丸は入つて來た。
 入つては來たけれども、まだ乘るわけにはいかないといふ。
 疑惑がまた廣まつたが、すぐにその理由は知れわたつた。鹿島丸はハンブルク行の積荷一二〇〇トンを載せてゐた。それをフランス政府に差押へられたのである。それを荷揚するために、ボルドーの港から八キロ(町からは十三キロ)の下流なるバッサン・アヴァルの岸壁に碇泊しろと指定されたのである。
 それで翌十三日、上汐あげしほの時刻を見はからつて船はバッサン・アヴァルへ下つてしまつた。避難者の乘込は、その荷揚がすんでからといふことになつた。
 乘り込むまでにまだ暇があるので、書き洩らしたことを少しばかり補つて置くことにしよう。
 ボルドーに着いた翌日、私たちはプラース・デ・グラン・ドムの附近のホテルに落ちつくと、彌生子は前の晩停車場で見はぐれた正金の家族の人たちが心配してるといけないから、無事に落ちついたことを早く知らせて上げたいといひだした。人口二十五萬の都市だから、ホテルの數だつて大小おびただしいものだらう。それをしらみつぶしに搜すわけには行かないのであるが、搜すのに一つの手がかりは、一行二十七人といふ大勢ではあり、殊に子供の數が非常に多いといふことだつた。日本人の子供は外國人の子供のやうに室内におとなしくしてないで、戸外にたかつて遊んでるに相違ないから、公園とか廣場とかに行つて見たら出逢ふかも知れない。さう思はれたので、さういつた場所を搜して見ようといふことになつた。
 しかし、もつと何とかした手がかりがあつたら、ホテルから當つて見た方がよいかも知れないと思ひ、誰かがホテルの名を話してはゐなかつたかと聞くと、或る人がプラットフォーームで荷物の番に當つた婦人に話してゐたホテルの名を小耳に挾んだが、疲れてゐてよく聞いてなかつたのだけれども、Mの字が發音されたやうに記憶するといふ。甚だ心もとない話ではあつたが、電話帳でMの字の初めに附くホテルを調べ出して、オテル・マヂェスティク、マリウス、マルマンデー、モントレー、ド・ラ・メルシ、等、等。それ等を番地と一所に書きつけて搜しかかつたけれども、結局だめだつた。
 翌日ブッファル街の警察署コンミサーに出かけて、日本の淑女たちと子供たちの大勢泊まつてるホテルはわからないだらうかと聞いたが、これも要領を得なかつた。最後に、停車場で消え失せたのだから停車場附近をもう一度搜して見ようといふことになり、電車でサン・ヂャンまで行つて見ると、構内のホテルの窓の中に日本人の子供が幾たりものぞいてゐたのですぐ發見した。そこがホテルになつてゐたことは、前にも記したやうに、その時初めて知つたのである。それにしても、オテル・テルミニュのが強く響いたといふのも疲勞のせゐだらうと笑つてしまつた。
 私たちはホテルに行つてS君に逢ひ、I夫人にも逢つた。そこで、偶然にもM氏とその家族の人たちにも逢つた。M氏にはシャルトルへ行つた時その車に乘せてもらつたことがあつた。今度は家族の人たちの乘船を見送りに來てるのだが、その車で邦人避難者で車にこまつてる人たちを運んでやつたりしてゐた。尊敬すべき奉仕だ。
 その日も、停車場では出征軍人の見送を幾組も見た。見送といつても細君一人が見送つたり、母一人が見送つたりして、默つて抱擁したり接吻したりするだけで、群集の堵列もなければ喚呼もない。眞情の涙と無言の告別だ。
 その夜、彫刻家の菊池君から電話で、やつと着いたといふ知らせがあつた。翌日逢ふと、作品は全部パリに殘して、汽車に乘れないので大枚四千フランを奮發してハイヤで畫家のM君の家族と二家族で着いたのだといふ。またM氏の家族と一所になつてる若いA夫人にも逢つた。彼女の父(私の一高時代の同窓岩永裕吉君)が亡くなつたことを初めて聞いた。驚きと悲しみで何といつて慰めてよいかわからなかつた。
 柳澤健氏の家族の人たちにも逢つた。一日にパリで別れて以來、鹿島丸の來るのを待つ間、ロワイヤンに一まづ落ちついたが、田舍の警察は日本がまだドイツと組んでるものと思ひ込んで立退を命ぜられたので、ボルドーへ來たのだといふ。(柳澤氏はボルドーから汽車でポルトガルへ行つたさうだ。)しかし幾ら待つても鹿島丸が來ないので、五日の後家族の人たちはまたポルトガルへ立つてしまつた。
 パリでしばしば逢つてゐた若い留學生諸君もボルドーに集まつた。その中でK君は苦心して集めた大事な書物全部と論文をパリに殘して來たのが氣がかりで、まだ鹿島丸の入港しない内だつたから、此の分では何とかして論文だけでも持つて來られるだらうといつて、着いた翌日また引き返し、六日目に戻つて來た。パリは幾らか平靜に返つたといつてゐた。
 九月十四日は私の誕生日であつたが、今年は誰も赤飯をたいて祝つてくれる人もなかつた。その日、私たちがパリの大使館に保管を頼んであつた殘りの荷物が、幸ひにもパリのM君の好意で送り屆けられた。
 その次の日は、朝早く意外な人の來訪を受けて私たちは喜んだ。エスパーニャで世話になつた矢野公使が、車でパリからの歸途、昨夜遲くボルドーに入つたのだけれども、ホテルがどこもいつぱいで車の中で夜を明かしたといふことだつた。私たちは下の食堂でいつしよに朝食をして、誘はれるまま、その車で鹿島丸を訪問することになつた。公使は船長F氏を知つてるので久しぶりで逢ひに行つたのである。
 ボルドー橋を渡り、河の右岸に沿つて二十分も車を駈けらすと、バッサン・アヴァルに着いた。鹿島丸はポスト第二號に横づけになつてゐた。船腹に日の丸が描いてある。戰爭區域を航行するので中立國の旗幟を鮮明にしようといふ表示である、梯子の下にはフランスの警官が二人武裝して立つてゐた。甲板にはもう乘り込んで散歩してる人たちがあつた。知つてる誰彼の顏も見えた。船客は昨日から乘せることになつてゐた。しかし、まだ出帆の日が發表されてなかつたので、大部分の人は乘つてなかつた。
 私たちは船長室でしばらく話し、晝飯の馳走に預り、今度は船長を誘つて船を出て、またボルドーの町へ引つ返し、サン・ミシェルの寺と、塔と、塔の下に隱されてある七十體のミイラを(これは私の案内で)見物し、それから郊外に出て、シャトー・ブリオンといふ見事な葡萄畠を(これは矢野公使の案内で)見物し、再び船に戻つて、パリの大使館から出張して來た事務官T氏、觀光局のY氏、マルセーユの副領事X氏などと一所になり、夕食後歡談に夜を更かし、十一時頃ボルドーの町へ歸つて來る途中、星月夜の街上に夥しい歩兵部隊の出征する所に出逢つた。停車場の方へ道歩みちあしで行進してゐたが、みんな默默として、靴音だけが高く響いた。
 私たちが鹿島丸の船客となつたのはその翌日(九月十六日)であつた。前の日、船を訪問した時、十六日の午前中に船客は全部乘り込んでもらひたいといはれた。順調に蓮んだら十七日には出帆したいといふことだつた。しかし、船ではまだ行先を發表してなかつた。それでも、いろんな根據から推定して、多分リヴァプールに寄港するのだらうと考へられた。けれども、それから先ははつきりしなかつた。恐らくパナマを通つて太平洋に出るのかとも思はれたが、その途中ニュー・ヨークに寄るかどうかはわからなかつた。船長自身にもまだわからなかつたらしい。
 鹿島丸には珍らしい航海者が乘つてゐた。此の船は大角大將・寺内大將などを乘せてナポリまで來ると、戰爭が始まり、それからマルセーユまで來ると、マルセーユで日本に歸るつもりで乘つた人が十二名、その人たちはボルドーへ運ばれ、これからイギリスへ運ばれて行くのである。その中には私たちが以前パリで知つてゐて、もう日本へ歸りついてるのかと思つてゐたF君も交つてゐた。
 更に氣の毒なのは、七月に日本を出て以來、ヨーロッパが戰亂の地となつたので上陸することができないで、此のまままた日本へ歸るといふ人が七名も乘つてゐた。
 その他はすべてボルドーから乘つた人たちであるが、私たちの外二三名を除けば全部フランスに滯在してゐた人たちなので、リヴァプールなどには寄らないで此のままスエズの方へなり、パナマの方へなり行つてもらひたいと、頻りにさういつてゐた。イギリスに滯留してる日本人の多くはイギリスに大きな愛着を感じてるやうであつたが、フランスに滯留してる日本人はまたフランス一點張で、イギリスには少しも親しみを感じてないやうだつた。それを私は一つの興味ある現象として考へて見た。
 さて、船には乘り込んだものの、いつ出帆するかわからないといふことだつた。出帆命令が來ないからである。大使館は何をしてるのか?マルセーユの領事館はどうしたのか?ロンドンのN・Y・K支店は何をしてるのか?と、そんな聲が船内に聞こえるやうになつた。一般乘客には眞相がわからないので、不安と不滿が充滿した。パリを出る時は乘せてもらふことが一つの感謝であつた者までが、乘り込んでから事態がかうこじれて來ると、不平の方がつのつて來て、一體此の船は避難船か商賣船かと開き直つたりする者もあつた。
 埠頭には大きたクレインが三臺も四臺も運び出され、大勢のベレ帽をかぶつた人足どもが、毎日朝早くから日の暮まで、艙口ハツチの底から荷物を吊し揚げて倉庫の中へ運んでゐた。船客は、それを甲板に出て見物したり、船から下りて附近の葡萄畠を見に行つたり、タクシをつかまへてボルドーの町へ用たしに出かけたりした。みんなくさつてしまつて、つまらなさうな顏をしてゐた。
 ――動かない船もいいもんだね。
 ――なんのことはない、オテル・カシマだ。
 そんなことをいつて興じてる者もあつた。
 やつと二十一日になつて、明日正午リヴァプールに向け出帆の豫定といふ掲示が貼り出された。その時までまだ航路は正式に發表されてなかつたので、やつぱしイギリスへ寄つて行くのだつたかと初めて知り、中には、まだイギリスを知らなかつた者はリヴァプールでもどこでもイギリスの一角に觸れることを樂しみにしてる人もあつたが、大部分の人は、イギリスの海岸は危險だからそんな所へ寄ることは御免を蒙つて早く日本へ歸りたいといつてゐた。しかし、とにかく、陸を離れるといふことは一般の喜びであつた。
 ところが、その日になると掲示は剥がされてしまつた。出帆はまた延期になつた。不安と不平が前よりも濃厚に充滿した。説明する者がないので疑惑が疑惑を産み、流言蜚語が飛びつた。事實は、フランスの官憲が更に法律の適用を考へ出して、中立隣國(ベルヂク)への積荷をも差押へ得る權利があると主張して、アントワープ行の貨物をも押へようとして、それにからんでのいきさつであつたらしい。
 ――これからまた幾日もかかつて荷揚が始まるのか?
 ――もう荷揚はすんでるんだ。それを取り戻さうとしてるんだ。
 ――そんな物はくれてやつて、早く出したらいいぢやないか。
 ――なあに、船では荷物の方がお客さんで、お客さんの方は荷物よりもつまらないもんだよ。
 ――荷物は不平を言はないからな。
 ――金になるからだ。
 そんな對話が取り換はされるのも聞かれた。
 船は殆んど全部積荷がからになつて、滿載吃水線の白い記號が水面から一メートル半も上の方に浮き上つてゐた。しかし、一度荷揚をした貨物のうち、アントワープ行の分だけは、或る有力な方面(日本の官憲ではない)の仲介に依つて差押を免かれ、その代りまた積戻しをすることになつた。ところが、二十三日は土曜日、二十四日は日曜日で、役人も人足も働かないので、二十五日の早朝からその分の積込みを半日ですませ、その日の午後出帆ができるといふことに決定した。
 船に乘り込んでから十日目、ボルドーに着いてから二十四日目に、とにかく鹿島丸は「ホテル」から「船」に還り、イギリスへ向つて錨を捲き上げた。

      附記

 フランス在住の日本人避難者を乘せた鹿島丸は、九月二十五日午後四時三十分バッサン・アヴァルの岸を離れて、ガロンヌ河を九〇キロ下航し、ビスカヤ灣を横斷して、人人の心配の種となつてゐたイギリス海峽をずつと東の方に見て、セント・ヂョーヂ海峽に入り、二十八日の明け方、やつとリヴァプールに着いた。
 地圖で見ると緯度でわづかに七度ほど北上するので、横濱から八戸の先の鮫港までぐらゐの航行に過ぎないわけであるが、鹿島丸は七十二囘の航海をする老齡船のことではあり、フランスの領海は一歩沖に出ると何處に水雷が敷設してないとも限らないといふ不安もあつて警戒しながら行つたせゐか、意外に時日を要した。それに航行中乘客に氣を揉ませた事件も一つならず起つた。私は寢てゐて知らなかつたが、ガロンヌを下つて、まだ下流のヂロンドを出きらないうちに、推進機に故障を生じて長い間停船してゐたさうだ。それから海に出てブルターニュの海岸を通つてゐると、どこかの(多分フランスの)驅逐艦に追つ驅けられて、燈火信號で西の方へ迂※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しろと命じられた。ブレストの軍港が近いので、その邊には艦隊が集まつてゐたらしい。日本の汽船は中立國の安全を守るため、船腹に大きく國旗の標章を塗り出して、電燈をあかあかとつけて走つてるので、その光で艦隊の存在を知られることを懼れての信號命令だつたらうと推定される。初めその信號が即時に受け入れられなかつたためか、驅逐艦はわれわれの船の周りを輪を描きながら追ひ立てて行つたのが、ちよつと氣味がわるかつた。さういつて實見者のU君が翌る朝みんなに話すと、なにしろ杖をついて歩いてるやうなお婆さん船だからね、と笑つてる人もあつた。しかし、そんな噂さが乘客の多くの人に不安を與へたことは事實だつた。
 リヴァプールに着くと、對岸のバークンヘッドの岡の上の住宅地の景觀が、私には半年ぶりでイギリスらしいものを見て一種のなつかしさが感じられたが、フランスにのみ住まつてゐて初めてイギリスを其處で見た人たちには、やはりフランスの方がよいと見えて、輕侮するやうな言葉を漏らしてゐた。
 空には阻塞氣球がふわふわ浮かんでゐて、しばらくボルドーでのんきに暮らして忘れがちになつてゐた戰爭氣分がまたよみがへつた。N・Y・Kの人たちに迎へられ、數臺のバスに分乘して、乘客は全部二三のホテルに分宿することになつた。停泊中の一週間は船内に起臥することが禁じられてゐたからである。
 リヴァプールの町も見物したが、博物館は閉鎖されてあり、ほかに大して見るものはなく、むしろ市街の武裝防備を見て歩くことに興味を感じた。商店の窓ガラスの前には軒の高さまで砂嚢を積み立て、通行人は男も女もガス・マスクの袋を肩から斜に懸けてゐた。私たちもリヴァプールに上陸すると、警官に一箇づつガス・マスクの箱を與へられた。必要が生じたら開封して使用しなさい。乘船する時には返してください。と書いてあつた。私たちは風呂敷に包んでそれを持ち歩くことにした。とうとうロンドンまでそれを持ち込んだ。といふのは、丁度よい機會だから私たちはリヴァプールからあまり遠くない湖水地方レイクヂストリクトへ泊りがけで見物に出かけ、其處からロンドンへは歸つたのであつた。私たちはロンドン居住者といふことになつてゐたので、その手續は簡單だつた。
 ロンドンへの途中、マンチェスターもバーミンガムも空には夥しい阻塞氣球の城壁ができてゐて物物しかつたが、ロンドンに入ると更に夥しい氣球で、それだけでも戰爭氣分を滿喫するに十分だつた。ロンドンではもとのハムステッドの宿に歸つた。家政婦のミシズ・ハントはよく歸つて來たといつて、涙を流して喜んでくれた。しかし、私たちが半年間住まつてゐた一階のプロフェサー・Mの書齋は燈火管制に對する設備が十分でないからといつて三階の部屋に案内された。
 ロンドンの四日間は忙しかつた。大使館に用事もあれば、世話になつた人たちに逢つて挨拶もしなければならなかつた。その間に議曾に出かけて首相チェィンバレン氏の演説(總統ヒトラー氏の演説に答へる意味での演説)を聽いたり、深夜の豪雨を侵してタイムズ社を訪問して、其處に部屋借をしてる朝日支局の北野君と香月君に逢つたり、その他、戰爭のために變貌してるロンドンの町町を見て歩いたりして、感慨の深いものがあつたが、此處には省略する。
 十月五日に鹿島丸はニュー・ヨークに向つて出帆するので、その朝ロンドンにさよならをした。ロンドン在住者の家族で日本に歸る人の若干も同行することになつた。
 リヴァプールからニュー・ヨークまで三一三一浬、クィーン・メァリ級の船だつたら五日目には着くと聞いてゐたのに、われわれの憐れな鹿島丸は十二日間を費して十六日の朝やつとブルクリン第十六埠頭に辿りついた。大西洋は相當に荒れ、北緯五十三度から四十度まで南西へ下つて行く間に殊にひどい大波を受け、食堂もしばらく閑散の日がつづいた。十三日の深夜、船長F氏の厚意でオーロラが見えると知らせてくれたので、ブリッヂに立つて北の水平線の上を見ると、黒い雲が二筋長くたたびいて、それを貫いて白い空に、一層白い線が幾つも放射してるのが見えた。
 ニュー・ヨークで私たちは親愛な鹿島丸と別れ、まづホテル・ニューヨーカーにトランクを持ち込んだが、すぐ船に呼び返されて、朝日の國際電話で同行の數名の人たちと久しぶりで日本との通話をした。ヨーロッパからアメリカへ來ると世界が急に明るくなり、夜は不夜城の如く電燈が照り輝き、都市の歡樂は到る所に充ち溢れ、世界のどの邊で戰爭が始まつてるのかわからなくなつてしまつた。
 ニュー・ヨークでは世界博覽曾開催中なので、それも見に行つたが、ニュー・ヨークからボストン附近へかけては結局十二日間見物して歩き、十月二十七日、サンタ・フェの大陸横斷列車に乘り、二日目にミシシッピを渡り、三日目にテキサスからニュー・メキシコを通り、四日目はグランド・キャニョンの見物で終日を過ごし、五日目にはサン・ベルナルディノの山嶽地帶を横斷して、正午近くにロス・アンゼルスに着き、ホリウッドを見物した。その日の新聞には、ロシアがフィンランドを脅迫して協定に調印させようとしてることと、イタリアの内閣が外相チアノ伯を除く外、全部更迭し、プロ・ヂャーマンの閣員が全部罷免されたといふことが出てゐた。
 十一月一日、ロス・アンゼルスからサン・フランシスコへ行き、其處でフランス以來の柳澤氏とその家族の人たちと逢ひ同航して歸ることになつた。私たちはサン・フランシスコには三日間滯在して、十一月四日、淺間丸に乘り、九日ホノルル寄港、十八日午前十時、横濱に歸りついた。
 まだ船が港外にかかつてゐる間に、サロンで記者團に包圍されて、大戰避難者としての觀察と感想を叩かれたけれども、ヨーロッパからアメリカへ、アメリカから日本へと、經度を越すごとに實感は失せてしまひ、外廓から見た大戰の印象もその頃はあらかた空疎なものになつてゐた。

底本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
   1941(昭和16)年12月10日10版
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。