目次
This castle hath a pleasant seat ; the air
Nimbly and sweetly recommends itself
Unto our gentle senses.
―― Macbeth
 ウォリクは城で持つ町で、ウォリクの城は「イギリスの封建時代の貴族の居城のうちでも最も壯大なもので、今も貴族の住居のままである」といふことに依つて有名である。ストラトフォド・オン・エイヴォンへは南西八マイル、バーミンガムへは北西二十マイルで、ロンドンからいへば北西百八マイルの位置にある。
 すぐ近く(北方四マイル)にはケンルワスの古城があり、ウォリクと兩兩相竝んで壯大を誇る遺物であるが、歴史の上からも、風致の上からも、また今なほ昔の城主の遺族(ウォリク伯)が住まつてるといふ點からも、ウォリクの方が一層有名である。
 私たちはウォリクへはストラトフォドから行つた。城の見物には時間がかかりさうなので、どこかで晝飯をすまして置かうではないかといつてると、町に入つたすぐ左側に大きな三階建のテューダー・ハウスのカフェが目についたので、あれにしようといふことになり、一度通り過ぎた車を引つ返した。例の暗褐色のオークの骨組を白堊の壁の上にむきだして、ストラトフォドで見た同種の樣式よりは少し田舍臭くせせこましく出來てるが、一階よりも二階、二階よりも三階と、上に行くだけ往來の方へ張り出して、屋根にはアティクになつた三階の窓の一つ一つを圍つた小さい破風が四つほど竝んでるのも古風でよい。しかし、内部はもつと古風で、正面には煉瓦を屋根型に葺いた前飾マンデルを持つ大きな暖爐があり、天井はばかに高く、壁には角附きの鹿の首や舊式の鐵砲やらが飾つてあり、壁に寄り添つて取り附けてある階段の踊り場からは、今にも胴衣ヂャーキンの上に短い外套を引つ掛けて、太腿まで見せた長靴下ホーズの危なかしい足どりでヂンの※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りを見せながら、界隈の郷士ヨウマンたちがどやどやと下りて來さうにも思はれた。
 相客はほかに二組ほどあつた。表の看板は“WALKER”と出てゐたが、いつ頃からの建物だと聞いたら、おかみは得意さうに十五世紀以來のテューダー・ハウスでございますと答へた。
 其處を出て城の方へ坂を上つて行くと、上り詰めた右側に高く、同じやうな樣式の、但し、ずつと品格のある建物が、私たちの目を惹いた。レスターの病院と呼ばれ、十四世紀に職業組合の慈善事業のために建てられたのを、後でレスター伯が老傷病兵の靜養所に提供したものださうだ。中庭が一見に値するといふことだが、行手を急いでたので割愛した。

 ウォリクの城の表門の前に立つた時は、來てよかつたと思つた。奧は深くて見通せないが、一見して堂堂たる城廓であることが直感され、一人二シリングの入場料も高くは思へなかつた。但し、伯爵閣下の現在の居城であるためか、門衞所ロツヂでは入場劵を賣らないで、向角の繪端書屋まで買ひに行かねばならぬやうになつてゐた。車も門前に乘り捨ててはいけない。一丁ほど下つた所にパーキングの場所があつて、其處まで持つて行かねばならなかつた。
 なるほど、門を入つて行くと、石灰岩を掘り割つた狹い切通しが爪先上りに長くつづき、車ではやつと一臺きり通れまいと思はれた。兩側には老樹が茂り、城の前庭に達するまで深い森林を分けて行くやうな感じで、前庭からは、左に圓筒形のシーザーの塔(高さ一四七呎)、右に十二角形のガイの塔(高さ一二八呎)が仰がれ、どちらも十四世紀の塔で、塔と塔の間は高い石塀でつなぎ、その中間に大手ともいふべき二重の塔門が立つてゐる。石塀には蔦がからみ、塔の周りには大樹が枝を交はしてゐた。
 自ら進んでマクベスの賓客となつた王ダンカンはインヴァネスの城門の前に立つて、これは氣持のよい城だ、と叫んだ。それと同じ印象を私もウォリクの城門の前で與へられた。此處からわづか八マイルの所で生れ育つたシェイクスピアは恐らく此の有名な城を見なかつた筈はない。殊にシェイクスピアの時代に於いては、ウォリクシアは全イギリスの中心地といはれるほどに榮えてゐた。といふのは、主としてウォリク伯の偉大な勢力に因るものであつた。その城下へストラトフォドの肉屋の息子も幾たびか出かけて來て、此の壯大な塔や塔門を振り仰いで、昔のビーチャムとかガイとかリチャードとか以來のウォリク伯の權勢に關聯する歴史傳説を思ひ出し、殊にイギリスの王權に關係する事蹟などから、後日の史劇創作に役立つ雰圍氣の下拵へがおぼろげながらでもできたであらうことは想像される。

 實際さういふことを私が想像しても突飛だと非難される氣づかひのないほど、濃厚な封建的空氣がウォリクの城の周圍には漂つてゐるのである。塔門を入ると廣廣とした中庭で、美しい芝草が緑の絨氈を敷きつめたやうに擴がり、一人の園丁がその上でしきりに芝刈の器械を動かしてゐた。中庭のつきあたりの岡の上にはノルマン風の櫓が聳え、城主の邸宅は中庭を鍵の手に圍んだ宏壯な石造四階建で、屋上の墻壁だけは凹字形を列ねた城砦の形式を保つてゐるが、その他はロンドンのまん中に持つて行つても優越の地位を占めるであらうと思はれる見事な構造である。構造の大部分は十四世紀から十五世紀へかけてのもので、いかにもがつちりして、中世貴族の邸宅の最上の見本たる資格を備へてゐる。現に伯爵家の居住のために使用されてる一部を除いては、すべて公開されてゐるが、廢屋とはちがつて、どの部屋にも家具が昔のままに保存されてあるから、見た目に甚だ愉快である。ヨーロッパで開放されてある王侯の宮殿邸宅の大部分は、家具が剥ぎ取られ、繪畫彫刻だけが裝飾になつてるので、當時の生活を聯想するのに不便であるが、その點ウォリクは訪問者の目を喜ばせるやうに考慮されてあるのがうれしい。
 繪畫といへば、此處のも、どこへ行つてもお目にかかるラファエロ、ルーベンス、ヴァン・ダイク等のもので、殊に此の城に關係のある王侯貴族の肖像畫が多く掛けられてあつたが、私にとつて思ひ出して興味のあるのはルーベンスの描いたサンイグナシオ・ロヨラの肖像である。どうしてエスパーニャの聖者の肖像が此の城にあるのか知らないが、またルーベンスはロヨラが死んだ後で生れた人だから、どんな根據で描いたのだかも知らないが、後でエスパーニャに行つてロヨラの寺を訪問した時、ロヨラの肖像は世界に少いといふことを聞かされたので、いまだにそれを思ひ出すことがある。その他、ペルジーノ、モローニ、ホルバインなどの繪もあつたが、特に傑作といふべきものは見出せなかつた。クロムウェルの死面といふのを見たが、ブリティシュ・ミュジーアムのとは(大體の形は似てゐながら)感じが違つていた。ウォリクのは顏がいびつになつて、右の眉の上に大きな疣があつた。
 武具の陳列・禮拜堂・應接室・大食堂などを見て、後の庭園に登つて見た。イタリア風の設計で、片隅には温室があり、庭園には幾つもの花壇に花が咲き出て、その間を放し飼の孔雀が幾羽も春光を浴びて歩きまはつて居り、雄は羽根をひろげて頻に大きな聲で啼いてゐた。樹木はシーダーが目立つて多かつたが、木蓮の白い花が盛りなのを見て、日本よりも季節の後れてることを感じた。日本では彼岸の頃木蓮と連翹が咲くのを思ひ出し、しばらく東京の家が念頭に浮かんでゐた。
 書き落してならないことは、シーザーの塔に近い二階の或る部屋の窓から見た景色である。窓は半ば巨木の枝に蔽はれ、枝の間からすぐ目の下にエイヴォンの支流が二筋になつて流れ、青く澄んだその美しい流の中には藺のやうな水草が一面に伸びてゐた。エイヴォンの本流は廣く濠の如く湛へて城の一面を浸してゐた。

底本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
   1941(昭和16)年12月10日10版
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2011年3月11日作成
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