この正月元旦に大島上空を飛行機で通過したとき(高度は三千メートルぐらいだったらしい)内輪山の斜面を熔岩が二本半、黒い飴ン棒のように垂れていただけであった。くすんだ銀色の沙漠はまだ昔のままであった。だいたい機上から見下した山というものは、およそ美しくないものです。ただ無限のヒダやシワがあるだけで、山の高度も山の姿も存在しないのです。ところが大島だけは、そうではない。黒い火口があって、内輪山の斜面を垂れ下る二本半の熔岩があって、銀色の沙漠がそれをとりまいて、その周囲にいわゆる山があるわけだ。いわば海の上へスリバチを伏せたようなケーキをおいて、その上に白いクリームをかけて、クリームの中央へチョコレートをかけ、そのチョコレートが二本半クリームの上へ垂れているように見えた。火山の凄味などは全然感じられない夢の国のオモチャのような美しいものであった。
 その後、三月と四月の大爆発で広い沙漠の半分を熔岩がうめてしまったという。昔の大島を御存知の方はお分りであろうが、あの沙漠を熔岩がうめてしまうというのは大変なことですよ。御神火茶屋まで登っても、さてそれから沙漠を横断して内輪山の火口壁まで行くのが大変だ。砂だから歩きづらいということもあるが、あの沙漠をうめる熔岩ならアタミと伊東の二ツの市をまとめて下に敷き隠してしまうのはワケはない。おまけに、沙漠はかなりの高さの外輪山で壁をめぐらしているから、熔岩は相当の厚さで沙漠に溜り、壁よりも高く溜らないと、海へ向って流れ落ちることがない。目下のところ、溜った熔岩の厚さは平均して二十メートルぐらいだろうという話であった。
 大島の測候所で私は言われました。
「とにかく、見なければ分りません。百聞は一見に如かずですよ」
 科学者が説明ぬきでこう言うのだから面白い。まさしくその通りであった。沙漠をうめつくした熔岩の原野を見るとウンザリするね。言語道断な自然の暴力にウンザリするのです。原子バクダンで颱風たいふうの進路を変えるなどというのはまだまだ夢物語だそうで、颱風のエネルギーにくらべると、長崎でバクハツした原子バクダンのエネルギーなどはその何千分の一という赤ん坊のようなものだそうだ。そういう自然の威力と人間の小さゝは三原山の熔岩を見ると身にしみますよ。ただ、そこには原子バクダンが人間に与える実害のような地獄絵図はない。ただガッカリするほど雄大です。まったく見なければ分りません。
 この前に三原山が海岸まで押し流した熔岩は天和四年から元禄三年の七年間にわたる噴出によるのだそうで、二百六十年ほど昔のことだ。安永三年(西暦一七七四年)に今まで沙漠の中に、内輪山よりに残っていた熔岩をだしたのだそうだ。
 すると、安永以前から沙漠があって、安永の噴火には沙漠のちょッと一部分に、熔岩が流れでた程度であったが、今度のはそっくり沙漠を覆いなお流出の勢いであり、元禄以来二百六十年ぶりという大爆発らしいや。今のところ、泉津センヅ側と波浮ハブ側に沙漠が残っているが、これ以上熔岩がたまると、映画屋が沙漠のロケーションに音をあげてしまう。もっとも、鳥取県の海岸に相当の砂丘や砂原があるそうだ。
 この熔岩が風化して再び沙漠になるには百年か二百年もかかるのだろうか。とにかく三原山といえば沙漠が名物であったが、その沙漠が一九五一年に失われて、熔岩原となった。そして今後は熔岩原が三原山の新名物となって、再び沙漠が名物になるには百年もかかるとすると、これは一ツの歴史的な爆発に相違ない。三宅島も地熱が高くなって水がかれ、木がかれはじめたので、噴火が起るのじゃないかと調査団が今朝現地へ到着したと新聞が報じている。
 前回、大島が噴火した安永年間にも、三宅島、八丈、青ガ島が相ついで噴火し、特に青ガ島は再度にわたってサンタンたるものであったらしい。三原山が活動をはじめた、鳴動した、黒煙をふいた、という話は、関東大地震の後だけでも何べんあったか知れないね。黒煙をモクモクとふきだしている写真が何度も新聞に現れて人気をよび、私も見物にでかけたものだ。ところが、今から思えば、あんなのは噴火の卵にも当らんようなものだね。
 新聞の写真が過去に於てそうであったように、噴火といえば黒煙天にちゅうするものだと思っていましたね。十何年か前にドイツのファンク博士というカメラマン兼映画カントクが来朝して、日本側では早川雪洲、原節子主演の「新しき土」とやらいう日独テイケイ映画をつくった。そのとき浅間山のバクハツ瞬間を撮そうというのでカメラをすえつけ、何人かの日本人の映写技師が何ヶ月もバクハツを待ってカメラにすがりついていたそうで、バクハツの瞬間にスイッチのボタン一ツ押すために大の男が何ヶ月もポカンと暮しているとは有為の男子に対する大侮辱デアル、と大そう怒っていましたね。なるほど定九郎のイノシシや仁木弾正のネズミよりもダラシがないような職業的劣等感にハンモンしたかも知れんな。第一キリがねえや。しかしキリがなくって、いつの日がバクハツだかワケが分らんところに役の意味があるのだが、日本では珍しくもないたかが浅間山のバクハツにすぎないのだし、命じるのは外国人のそう手腕卓抜とも思われぬ同業者にすぎないではないか。日本の男の子の面目まるつぶれというモンモンたる心事になやんだのはムリがない。自発的な仕事でないと、こういうバカなことはやれません。クラカトアのバクハツを数年がかりで待ちかまえて、ついに七年目とかにバクハツ瞬間をカメラにキャッチした大人物もいたそうではありませんか。
 とにかく、おかげ様で浅間山のバクハツ瞬間というものを我々も見物させていただいたわけです。あれも黒煙天に冲しましたね。浅間山のバクハツはまさに黒煙天に冲するという性質のものだそうです。
 ところが、三原山はそうではないそうです。火山弾を打ちあげるだけで、ほとんど黒煙をともなわない。熔岩に粘性が少いと噴煙がないのだそうで、富士山などもそういう性質の山だそうだ。しかし黒煙モウモウたるときもあるが、それは火口内の壁がくずれた時に煙がでるのではないかと一応見られているのだそうだ。
 富士山の宝永四年(西暦一七〇七年)十一月二十三日のバクハツの記録によると、前日の夕刻から地震五十回あまり、当日は算えるべからず、午前十時天からまるい光団がふるとともに黒煙空にみなぎって鳴動し、午後八時に火焔もえ、火の玉天に冲す。なるほど、三原山式ですね。その後十日ほどにわたって黒煙山をおおいつつあるかと思うと、時に火の玉をふきあげ、火焔もえたち、またもや黒煙が、一面をおおうというようにくり返しています。表面が砂のような富士山だから火口壁も再々くずれ火の玉と黒煙の噴火が入りまじって起ったものらしい。今回の三原山のもそうらしいが、富士山の記録にくらべると黒煙におおわれるよりも、火の玉だけ打ちあげるバクハツの方が多いようですね。主として直径一寸ぐらい、時に直径一尺位の火山弾もうちあげているそうですが、打ち上げる高さはせいぜい二三百米にすぎず、内輪山の火口壁周辺にころがり落ちる程度で、沙漠の外側の外輪山で見物している我々には全然危険がないそうだ。黒煙をふきだす時でも、煙の高さは五百米位にすぎないそうで、浅間山のように天高く、また遠く山麓に向って広範囲に火山弾や火山灰を噴き散らすことはないらしい。
 三原山は多量の煙をださない代りに多量の熔岩をだす。昔人々がとびこんで自殺した火口は去年以来のバクハツごとに熔岩でふくれあがり、今では昔の火口が熔岩でいっぱいになって熔岩の湖となり、その湖上にさらに熔岩がもりあがって山をきずいたのが新火口である。三原山の最高所は波浮よりの外輪山の剣ガ峯という七五五米のところだが、新火口は現在に於てそれとほぼ同じ高さの山(コニーデというそうだ)をなしているそうだ。
 その新火口のテッペンから、バクハツにつれて熔岩がモロモロわきだすのだろうと思うと、さにあらずだそうだね。もっと下の横ッチョに、山の腹をやぶって熔岩をふきだす孔があるのだそうだ。今は二ツある。先日までは三ツ現れた時もあるそうだ。その白い閃光を放つ口から音もなく熔岩がでるのだそうだね。薄気味わるい話さ。なんしろ地底から火の玉を噴いたり、火の川がモロモロと音もなく流れでてくる騒ぎであるから、天地と共に変りあることなし、などゝ子孫に訓辞をたれていられない。測候所の技術者が山へ観測にでかけて、新火山を写真に撮してきた。現像してみると新火山の横ッチョに(まア山のノドクビ、あるいはハナや口ぐらいの高さのところ)孔ができてるのですよ。相当大きな凹みで、火山のヘソのような妙にハッキリしたものだが、撮影した人は肉眼の観測ではそれに気付いていなかったそうだね。
「フィルムのシミかも知れませんね」
 測候所の方々は私たちにその写真を示して、こう控えめに仰有おっしゃった。次回の観測の時にはもうそのヘソはなかったし、その後再び現れないから、学者は素性のハッキリしない現象を一応オミットしてフィルムのシミでしょうなどと仰有り変なコジツケをなさらない。しかし、撮影した原板は二種あって、そのどちらも山のノドのあたりにヘソができているのだから、フィルムのシミではないし、タダモノではないらしい。
「二ツの写真のどッちにも同じ孔があるのはシミにしては妙ですな」
 と素人が伺いを立てると、学者方は、アッハッハ、とお笑いになる。それ以上は仰有らんな。科学は怪談をよせつけない。しかし、山そのものが火の流れであったり、カルメのようにふくらみつつある怪物だから、こういう妙テコリンなヘソができたりなくなったりするようなことがチョイ/\あっても、素人は一向におどろきませんや。
「この山の底は大いなる空洞であろう。それは確実な事である。そしてその大いなる空洞がいつ凹むか。それは気掛りなことである」
 という意味のことを、私の同行者はしきりにブツブツ呟いていた。彼はまだ三十にならぬ若者である。我々が熔岩の上へよじのぼり黒いデコボコの大原野の一端に立ったとき、彼は足もとの熔岩のスキマから湯気のふきあげるところに怖れ気もなく指を当てて、
「キャッ!」と飛上ってキチガイのようにひじをふった。相反する妙なことを喋ったり行ったりする人物で、彼はオモムロにタバコをとりだして、湯気の中へ差込んだが、湯気から火がつくという話はきいた事がないね。しかしこれを現代では実証精神というのかね。
「湯気のために火がつきません」
 彼は嬉々と声高らかに実証の結果を報告する。アメにならないように気をつけてくれ。
 熔岩の熱は、測りに行けるところで千三百度。二千度ちかいところもあるそうだ。こういう高熱は電気を用いて測るのだそうだね。この熔岩が斜面を流れ落ちてくるのが毎秒四米ぐらい。人間が斜面を駈け降りると私のようなデブでも毎秒十米は越すだろうから、イヤ、デブは加速度によって早いかね、追ッかけられても怖くはないらしいや。沙漠まできて平地を這いはじめると、時速二メートル八十センチというから、カタツムリのようなものだ。こういうノロマだから熔岩原の表面は実に怖るべきデコボコだ。しかしこういうノロマな速力で、いつしか広い沙漠を二十米の厚さに埋めたのだから、根気のいいのと気前よく吐きだすのには呆れるね。同行の青年が、地底は穴である。それがいつ崩れるかそれは気がかりであると呟く心事が分らぬことはない。この活動はまだ相当つづくらしいから、そのうちに外輪山を破って海へ向って流れはじめるかも知れない。すでに、その時にそなえる用意は完了したそうだ。むかし、スベリ台というのがあったね。外輪山から海へかけては全島ジャングルであるが、間伏の方だけ不毛の砂丘が四百米ぐらい垂れさがっていました。そこへスキー回転競技式の曲線型にレールをしいてオモチャの自動車にお客をのッけてアッというまにすべり降りる仕掛けがあった。私もそれを用いて降りたことがあったが、あんまり、よその大人はそのような降り方に愛着がないらしく、スベリ台で間伏の方へ降りようというヒマ人の姿を見かけなかったものさ。物好きのアベックでもやらんという実に色気のないものだったね。いまや往昔私のようなバカモノを滑り降した代りに、この不毛の砂丘へ熔岩を落下させようという計略だそうだ。熔岩はまんまと計略にかかって定めの通路を落ちるだろうという予定だね。十年前の私のように。
 いま御神火茶屋から火口へ行くには、熔岩原を横断するわけにいかないから、外輪山と押しよせた熔岩の間に幅十米ぐらいのスキ間が残って谷をなしてるところを迂回して行くのであるが、大廻りだし砂の道だし、急いでも片道一時間かかるそうだね。私は行けなかった。視界二、三米という物凄いモヤにまかれて、とても歩かれない。おまけに熔岩原をわたってくるモヤだから人肌のように生あたたかいや。ちょッとゾッとしますよ。このモヤも火山の一味で、火山と同じように怪しき活動を行う魔物のような気がしたね。アッというまにベールをかけられ、モヤモヤと襟クビへ、フトコロへと忍びこまれて、にわかに視界を失ってモヤの中にただ一人沈没している。おまけに目かくしした奴が生あたたかいのだから妖しい気持だね。ホウホウのていで熔岩の上から這い降りて、御神火茶屋へ同行の青年に尻を押されて這い登りましたよ。気の弱い話だが、まア熔岩原の上で生あたたかいモヤにまかれてごらんなさい。
 しかし、その日、どんなにモヤが深かったかというと、翌朝八百トンの貨物船が元村西南方一キロぐらいの岩礁上に坐礁してチョコンと乗っかっていましたよ。モヤのせいだ。まだ陸には間があると思って全速で走っていたら、一つの岩礁を乗りこし、勢い余って次の岩礁に乗りあげて止ったそうだ。機関部に大穴があいたそうだね。大きな船が救助にきていた。観光船はノンキなもので、橘丸はちかづくハシケに目もくれず見物にでかけて行ったね。そこで乗客をマンサイしたハシケ舟は、とりのこされて、仕方なしに橘丸の御見物がすむまで波の上にブラブラ漂っていましたよ。陸上では見かけられないノンビリした風景でした。陸上のモラルや礼儀に関係なく、しかし、大自然に制約された秩序もユーモアもあるようでしたね。文明の発達によって生れた不自由さもあるな。その任にあらざるものが、いらざる首をつッこんだって邪魔になるだけさ。大海にはヤジウマの交通整理の必要もないや。板子の下は地獄だが、海とか空はノドカなものさ。たとえば、かの戦争という海空の連合軍に対してはタダの人間はもはや見物するより手がないというようなアキラメと天下泰平さ、と人類のサッソウたる退化状態がありましたな。
 とにかく私にとっては、まの悪い日であった。全島霧につつまれて、時に五米、時に三百米ぐらいの見晴ししかない。とつぜん大噴火がはじまってもそれを見ることができない運命だから、なさけない。霧の火口に見切りをつけ、御神火茶屋から数百米のところに湯場と称して、自然噴出の蒸気を利用したムシブロがある。これを見物に行きました。岩をくりぬいた牢屋のようなところ。四囲は自然の岩盤で牢屋の格子戸と同じものが足の下に敷いてある。天の岩戸のような入口をしめると、足の下の格子の下から四十八度の蒸気が音もなく人間をつつむ。音もなく。これが気がかりな言葉だね。そこのオヤジらしい三十七八の詩人的人物が、私をシゲシゲと見て、
「坂口さんじゃないか」
 とおどろく。どうも、その顔が思いだせない。彼は私の田舎の中学校の同級生で出版屋の番頭をやってる「ザト」という人物のことをきいた。私と彼の共通の友人がザトらしい。すると彼も出版か文学に関係ある人で、ザトを通じて私と一面識があったに相違ないのである。ヨシナリ君という人だった。
 下山して土地の文学者に訊くと、
「ああヨシナリ君。あの人は大島生れではありません。奥サンが岡田の人で、タメトモ心を起しましてな」という話であった。内地から来た旅行者がアンコの情にほだされ、天下の大事を忘却して島に居ついてしまうのを「タメトモ心ヲ起ス」という由である。湯場の売店に働いていた彼の奥さんはやや美しく、さすがに甲斐性がありそうなアンコだったね。彼女はノドをつぶしていました。毎晩大島節を唄うせいさ。甲斐性があるのだね。島にはタメトモが多いそうだ。タメトモの暮しよいところらしいが、ヨシナリ君は特に優秀なタメトモらしいや。拙者もはやくタメトモになるべきであったな。常春の島に来て人生の秋を知る。モノノアワレとはこのことさ。
 たしかに天下の大事を忘れる島らしい。そのなつかしいオモムキは全島にあふれているね。御神火茶屋に働いてる十六七の娘たちは眼下にせまる熔岩を見下しながら、熔岩がそこまで迫ってきた時は、ちょッと熱かったが面白くてたのしかったなどと言っていたね。全島をあげて山上へ見物にあつまり、かけがえのない自分の島の大噴火に老いも若きもウットリしたらしいな。
 本日(五月二十三日)午後一時二十一分、遠雷のようなバクハツ音がきこえる。約三十分にわたって、断続する。私はいきなりペンを投げだして、洋服をきて、旅支度をはじめる。大島のバクハツに相違ない。伊東は川奈の岬が突きだして視界をさえぎっているから、すぐ目と鼻の大島が見えないのだ。朝日新聞の伊東支局へ電話をかけて大島バクハツかどうか問い合せたが、主人が不在で分らない。ぜひなく、古屋旅館へ電話をかけて、きく。古屋の主人が大島の東海汽船へ問い合してくれたが二十分もたつと大島の返事をきかせてくれましたね。こんなにカンタンに大島と通話できるとは知りませんでしたよ。大島ではバクハツらしいものは目下感じられません、という返事だとさ。ガッカリしましたね。こッちはすでに思いこんでいたのだから、キツネにつままれたように半信半疑ですよ。しかし、大島直々の御返事がそうなら、いかに信用したくなくとも仕方がないさ。
 どうも寝ざめが悪いのさ。バクハツの実況を実見せずに大島を書くのが、まことに筆がすすまないのさ。どうせ書くからには、火口壁でバクハツにでくわし、熔岩に追っかけられてホウホウのていで逃げるようなあんまり利口な人のやらないことがしてみたいね。そういうことを賭けるのが、職業のタノシミというものですよ。すすまぬ筆をムリに動かしてる最中にバクハツ音をきいたから、即座に一人ぎめに思いこみ、にわかに勇みたち、空襲警報よりも慌てふためいて旅支度をととのえたね。バクハツにあらずと報知がきたときは、魂をぬかれたようなものさ。こういう意気ごみで出かけるときは、船酔いなんかしないものだね。拙者の文学のエネルギーはそのバカらしさで持ってるようなものさ。伊東から大島行の定期船は午前の八時半と十一時半にでる。午後は定期船がないから、漁師のチッチャな焼玉エンジンで大島へのりこむツモリであった。漁師のポンポン船は二年前からナジミなのである。五十米ぐらいの釣糸をぶら下げて全速力で走りながらたぐりよせると、相当大きな魚がぶらさがって現れてくるね。後に板をひかせて波のりをやったら、檀一雄があんまり勇みすぎて板とともに海中に逆立して網にはさまれ、あわや大事に及ぶところでありました。このポンポン船でも定期船とそう違わぬ速力で大島へ行くことができる。そのかわり、散々海水を浴びなければならない。そのためにレインコートを着て家をとび出そうとしているところへ、大島に於てはバクハツは感じていないそうですと古屋主人の落ちついた電話でした。

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 東京から七時間、一ねむりのうちに。伊東からは二時間、橘丸だと一時間半でカンタンに行くことのできる大島が、風俗習慣がガラリと変っているというのが珍しい。内地を一昼夜特急で走っても、これほど風習の差のあるところはめったに見られない。
 この変った風習のモトについて多少とも解説できればと思ったが、私の調べたところではとても見当がつかない。
 富士山麓は三島の宿の三島明神は東海道では熱田神宮につぐ大社であり、熱田が皇神であるにくらべて、これは事代主ことしろぬし(また古からの別説では大ヤマズミノミコトともいう)を祀った日本土着の大親分が祭神なのである。
 大昔に神様の一族が三宅島へきて伊予の三島神社を勧請したのを、さらに伊豆の白浜を経て三島へ勧請したものだという。途中に立寄った白浜は今の白浜明神がそれだということだ。これが三島神社の古伝だそうである。
 伊予の三島神社というのは瀬戸内海の大三島(オーミシマ)の三島神社であろう。この祭神は大ヤマズミで三島神社の古伝と合っている。延喜式神祗巻では伊豆の三島神社、白浜の伊古奈比※(「二点しんにょう+占」、第4水準2-89-83)イコナヒメノミコト神社、ともに名神社であり奈良朝時代から朝廷の封戸をうけたというから三宅島から三島へ移ったのはずいぶん昔のことだ。だから古伝を信用すると、すくなくとも三宅島には奈良朝以前に大ヤマズミを祖神にいただく一族が土着したものらしい。しかしその一族の子孫が今日の三宅島島民かというと全部がそうでもなく、部落ごとに風習の異なるものがあるそうだし、いくつかの神社とその祭礼の在り方からみると、祭神を異にする異部落民がいつからか合議して村の秩序をつくっていたことは明かのようだ。そしてそれらの祭神は漂流した氏族のものではなくて流人系統のものかも知れん。
 大島の土着民には三宅島のような古伝はない。役の行者が流島になったという伝説が一番古いのだろう。もっとも先住民族の遺跡はある。野増村では熔岩の下から人骨と縄紋土器と石ウスとヤジリなどが出たという。波浮中学校の坂口校長先生(偶然私と同姓)の話によると、元村に現存する藤井氏(赤門というね)が中世の移住で、相当の格式をもち、コードのヤブという祖神を祀って神官をつとめ、支配的な位置についていたという。しかし、差木地さしきじと泉津にはそれ以前からの先住民がいたらしい。その先住民の移住の経路や時代は分らないが、三宅島が奈良朝以前なら、これもそれと同じようにみてよかろう。こういうことは、どうせハッキリ分りやしませんね。
 クダクダしく分りもしない歴史をのべたが、要するに奈良朝以前からの原住民のそれと今の大島の特殊な風習と、どこまで関係があるかどうか、全然わからんというのが、私の考えなのさ。実にわが言はバカバカしいが、分らんものは、分らんですよ。
 岡田村の民俗学者、白井さんや波浮の坂口校長先生の説では、大島はクゲの流人が多く京言葉が多く残っているという。村の長をスグリといったそうだ。氏族制度時代の古い言葉だね。クニノミヤツコ、アガタヌシ、村首スグリなどのスグリかね。座敷をデイ、寝室をチョーダイなどと云ったし、病気を「悲シイ」、病気ニナルが「悲シクナル」、尊トシヤ、だとか、大いに驚く時に「あな、うたてやな」と今も言うそうだね。上代から中世まで、各時代のミヤコ言葉が残っているのはすでに奈良朝時代からクゲの流人が七島へ送られた記録がハッキリしているのだから、うなずける。あなうたてやな、はタメトモかね。天下の豪傑が大島くんだりで用いた慣用句としては似つかわしくないな。各時代の流人が村民に影響力があったのは当然だろう。近代では徳川家康の侍女で朝鮮貴族出身のジュリヤおたアという切支丹キリシタン信徒の女性が家康の側女そばめになることを拒否して大島へ流され、これも島民に影響を残している。差木地では娘の剛情を叱るに、今でも「このオタイサマめ!」
 と叱るそうだし、泉津では、娘があれをくれこれをくれと慾を云ったときに、
「このオタイサマめ!」
 と叱るそうだね。すると、これはオタイサマにあやかれ、という意味ではなくて、そのアベコベの用法であるが、遠島になるほど強情を通したという驚異や感動が村民の心に残ったからのことで、用例が賞讃とアベコベだということにはこだわる必要もないだろう。
 しかし、今日もなおアンコ風俗などに残っている大島島民の土俗の主流をなすものは、流人系統のものではない様だが、どうだろう。
 大島の古い民家に特殊な型があって、それが野増村や差木地にかなり残っているというので、野増村へ行ってみた。着流しの村長さんの案内で、代表的な旧家を三四軒歩いた。妙な柱の使い方、すべて釘を用いない。土間の形、部屋の間どり、イロリ、棚などみんな在り場所や在り方がきまっている。志摩の漁村の民家も四方造りの独特なものだというが、私はそれを知らないから比較はできない。
 しかしこうして古い村落を廻って、家の内部を見て目につくことは、旧家とよばれる家も特に大きい家ではなく、室内装飾も庭も殆ど大小なく、目立つような貧富の差が見られないということであった。だいたいに於て島の生活が、共産部落的であるのは、日本では普通の例である。島の村長スグリは昔から選挙の習慣があったそうだし、網は共有であって特定の網元はなく、土地も共有であったという。もっともそれは維新までの話である。大島に伊豆半島の言葉がまじっているのは、近いのだから当然だが、志摩に似たところもあるようだ。そうかと思うと、海で働くのは男で、女は畑が専門だ。けっして海の仕事をやらないところはアマで名高い志摩の男女の生態とは全く相いれない。
 私はむしろ風俗の主流をなしているものは沖縄に似た部分が他の類似よりも多いのじゃないかと思ったが、これとても比較的なものにすぎないし、私は沖縄の古い風俗には知識が殆どないのだから、私の推量も当にならない。アンコ風俗を白井氏は京風の転化という説明であるが、そうこじつけるよりも自然の類似を沖縄に見出す方が面倒がいらないね。私はそのうち沖縄の女の子をつれて大島へ遊びに行ってみようかと思っている。彼女らがアンコ風俗のどんなところに自分の類似を見出すか、ちょッと興味があるように思うね。
 しかし、むろん沖縄と大島にはかなりの類似があるらしいというだけで、大島島民の主流が沖縄だときめるのは不可能なことだ。
 坂口先生からきいた話だが、大島からのツバキ油売りと名のる行商人がきた時に、その真偽を見破るカンタンな方法があるそうだ。もっとも今では行商人となって島外へでる者は一人もないから、鑑定をまつまでもなく、みんなニセモノにきまっているそうだがね。
 大島島民は「カキクケコ」を「ハヒフヘホ」に発音するのだとさ。柿の木が「カヒの木」、猫の子が「ネホの子」、筍が「タヘノコ」。但し接続する時だけで、字どまりの木や子は同じキでありコだそうだね。
 三宅島には排外的な気風がやや目立つそうであるが、大島の人たちは、男女ともに明るくて、人みしりしなくて、親切である。どうも全般にわたってタメトモの住みよい島にできてるようである。野増村の着流しの村長は私が大島で会った人たちのうちで誰より無愛想でニコリともしない人物であったが、根は甚しく親切なようであった。実に気むずかしくムッツリしながら、しかし私の方が降参するほどもう一軒、もう一軒と念入りに案内してくれる。魚屋の前を通りかかると、にわかに店内へ声をかけて、
「さッきのアレ、こまかくしたかね。まだなら、東京の人に見せてくれないか」という。
「ヘエ、まだですよ」と魚屋が一家総出でとびだしてきて、妙なヘッピリ腰で怖る怖る奥からぶらさげて来て、見せてくれたのが、なるほど、これは怪物だね。私が怪物に近づこうとすると、魚屋が慌てて、
「オットット、手をだすと噛みとられますよ」
 長さ一米ぐらいの怪魚「カキザメ」という私が見たことのない怪物です。サンショーウオを平たくしたような奴で、全身をマムシの斑紋の大きいようなのが覆い、陸上の動物には見られないトゲのような怖ろしい歯がゴシャ/\生えてますよ。魚屋の土間に腹ばいになって人間を睨みつけて、物凄い口をあき、食い殺すぞという殺気マンマンたる形相を示します。せいぜい一米ぐらい、一貫から三貫までぐらいの小さいサメだそうだが、こんな怖るべき形相の魚を見たのははじめてであった。肉はうまいということだ。なるほど、そうかも知れんと思ったね。第一、面魂つらだましいがなんとも物凄くて癪にさわるから、是が非でもモリモリ食ってやりたいと思うね。切身を買ってきて大いに食うべきであったよ。着流しの村長はこういう怪物をわざわざ見せようとする親切をもっていた。私がこの怪物に呆れていると、野増村の人たちまで怪物を珍しがって集ってきたから、島民にとっても見なれた怪物ではなかったようだ。
 大島の学校では野球がはやっているらしく、通学にグローブやバットをたずさえている男の子が多い。一方、セーラー服の女の子が時々カバンを頭にのッけて椿の並木を歩いている。妙テコリンの対照は、ひどく大島的でもあるし、日本自体のカリカチュアのようでもあったね。
 この島は流れる水も湧く水もないし、米もない。しかしそういう欠乏は島民の生活からは分らない。どの家でも牛を飼っているし道路の上で牛の乳を搾っている。有るものがひどく豊富に有るように目立つだけで、無いものが無いように目立たないのは、太古の人の如く大国主的に大らかで健全なんだろうね。
 物資がないと云えば、痛快にないね、観光ホテルでは、お客が食べたいものを注文するとそれから買い出しに行くというノンビリしたものであった。さればとて旅客がそれで不自由を感じるわけでもなく、ちゃんとそれが出来上った生活があって、要するに旅だ。大島には、いろいろな物資だのネオンだの大島銀座、ハブ銀座などはないが、コルシカやタヒチのような旅があるね。コルシカやタヒチへ行ったことはないけれども、神経衰弱の文明人がたぶんそこで感じる旅と同じような何かを大島でも感じられるような気がするね。その旅は日本の温泉旅行とはまた違うものだ。豊富な食べ物がなければならんというものではない。その土地の限定の中へ旅人を限定する力のあるのが「旅」なんだね。つまり、旅行者というものを、常に一時的に自分のタメトモにするだけの何かが必要なのだね。メリメがコルシカに、ゴーガンがタヒチに見出した旅のような、何かが。まア、ゴーガンはタヒチのタメトモには相違ないが、しかしタヒチのゴーガンから我々が感じるものは、彼がそこで土人の女と結婚したというタメトモ的なことではなくて「旅」ですよ。大島には、とにかくそれがあるね。日本内地には長いこと汽車にのっても、なかなかそういうところはありません。とにかく名題の大ホテルにメニューがなくて、お客の注文をきいてから買だしにでかけて注文とちがった妙な牛乳料理を静々と運んできても、それが一向に苦にならず却ってなんとなく親しめるような「旅」というものを大島に於てやや味うことができるね。そして、村のアンコたちと外輪山で噴火でも見物しておれば、否、ホテルのバルコンでボンヤリ見ていてもいいが、メリメがヴィナスの石像に殺される男の幻想を得たような旅愁を、実はすべての旅行者が感じる理由があるのかも知れん。日本にも、それぐらいの島があるということにしておこうよ。

底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第九号」
   1951(昭和26)年7月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第九号」
   1951(昭和26)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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