宝塚少女歌劇というものは、現代の神話的存在の一ツである。とにかく私のようなヤジウマ根性の旺盛な人間が今まで実物を見たことがなかった。同様に他の殿方の大部分も実物は御存知あるまい。
 東京公演で男の見物姿を見かけることは少いそうだが、本場の宝塚大劇場では男姿も珍しくないという。なるほど、私のような図体の大きいのが最前列で見物していても、ジロジロ視線をあびることもなかったが、しかし見廻したところ男の姿を見出すには相当苦労するな。もっとも進駐軍席があって、私はその隣にいたせいで、怪しまれなかったのかも知れません。
 日本の女学生は大方宝塚ファンとみて差支えないようだが、女学生のお小遣いの半分ぐらいは宝塚のために費されているものらしい。さすれば娘のオヤジにとっても甚だ密接重大な宝塚であるが、宝塚を実地見学した教育熱心なオヤジというものは世に稀なもののようである。もっとも母親の半分ぐらいは往年の宝塚ファンで、オヤジはもっぱらその見解を信用して、宝塚なら安心だ、そういう神話的安定度を得ているもののようだ。決して演劇論的に、また経験的に、安全感が生みだされているものではない。
 宝塚といえば、もっぱら女学生の見るものと相場がきまっている。ところが、男が見ても、面白いね。面白い筈さ。女の子だけでやる芝居だもの、男にとって興味があるのは当り前の話でしょう。
 けれども男が見なくて、主として若い娘だけが見る。見るというよりも、占領してるんだね。そして、宝塚の少女歌劇そのものは、格別一風変ったものにも見えないが、この女子占領軍が一風も二風も変っているのだ。切符売場から、楽屋口から、待合室から、劇場を十重廿重にとりまいて占領した娘子軍じょうしぐんは、実にボージャク無人、余人をよせつけない。彼女らは娘であるからビールをラッパのみにしないけれども、さながら女子占領軍の全員がビールをラッパのみにしているような気概があふれ、占領軍の素質としては甚だしく勇敢な部類に属するようだ。我々の祖国はこの十何年間人の国を占領したり、自分の国を占領されたり、占領ということについて往復多忙をきわめたが、ここの娘子軍のように懐疑心がなくて、ボージャク無人の独裁的占領軍は珍らしい。
 この占領軍が余人を寄せつけないから(男の子の中途ハンパな情熱ではとても切符が買えないらしいや)男の子はなかなか見物ができないらしいが、宝塚少女歌劇そのものは、相当にマットウな劇でもありショオでもありますよ。
 女の子が男役をやる、ということも、男の子が女役をやる以上に変なところはないでしょう。男だけのカブキが畸形でないなら、宝塚も畸形ではなかろう。宝塚が畸形ならカブキも畸形にきまってます。
 むしろ、男が女役をやり、女が男役をやる、ということは、それも一ツの本筋ではないでしょうか。本筋といいきってはいけないかも知れないが、その存在が別にフシギではないということだ。
 近代のリアリズムにはそぐわないかも知れないが、リアリズムの基盤にも美をおき、美的感動によって自らを支えるような芸術にとって、劇にとって、異性に扮することは不自然でも不都合でもない。同性は各自の短所に着目し合って、その長所に対しては酷であり、イビツでもあり、ひねくれがちであるが、異性に対しては誰しもアコガレ的な甘ッたるい感情を支えとして見ているのは当り前の話。理想的な長所というものは異性だけが見ているものだ。
 長所に扮するということは芸術本来の約束から云っても正当なものであるし、同性に扮する場合は、扮しなくとも自ら一個の同性であるという弱身があるが、異性に扮するにはトコトンまで己れを捨てて扮しきる必要がある。これも亦、芸術本来の精神に即するもので、たとえ同性に扮するにもトコトンまで扮しなければならぬ。舞台の上に新しく生れた一人物になりきって、己れの現身うつしみを捨てきらねばならぬ。舞台の芸術はそういうものだが、異性に扮することは、すでに出発からそのタテマエに沿うているのだ。
 自分が女であるために「女」に扮することを忘れている女優は多い。むろん男優もそうである。ダイコン役者はそういうものだ。
 そういうダイコン女優は自分の女をたのみにするから、舞台の上で一人の女になることもできないし、ナマの自分も出しきれない。だから楽屋ではずいぶん色ッぽい女だが、舞台では化石のような女でしかない。
 ところが、女形や人形使いは、はじめから女になりきらねばならないのだし、ナマの現身がないのであるから、そもそも芸が女に「なる」女に扮することから出発する。これは有利なことでしょう。人間誰しも異性の長所というものは、本能的な理想として所有するものでもありそれが真善美の秘密の支えでもあるのだから、異性に扮し表するところの女らしさ、男らしさは全人格的な活動によって完成されるものであり、また純粋でもありましょう。
 女形の色気、色ッぽさが女優以上であるのはフシギではないが、人形の色気がそれ以上にしみるような深い綾を表するのは、女になる前にさらに人間にならねばならないのだから、そもそも芸の出発が人間のタマシイやイノチを創ったり身にこめたりするところから始まらなければならないのだもの、舞台の上に生まれて生きることから始まるのだもの、ナマの身をもつ人間よりも純粋に人間になりきれるのは当然でありましょう。
 戦前の宝塚は女学校の表向きのタブーがそっくり演劇のタブーでもあって、セップンなどという言葉すら用いてはならないものであったらしい。その制約は男役が男になりきることをも制約し、つまりったき男女関係は封ぜられておるから、男役は妙な中性に止まらざるを得ぬような不自然なところがあったようだ。あのころの宝塚の男役の妙に歯の浮くようなセリフというものは、私はラジオできき雑誌でせりふを読んだだけだが、相当に無神経な私すらもゾッとせしめる妖怪的なオモムキがありましたね。
 今の宝塚はそういう制約がなくなったらしい。セップンという言葉も使うし、そのマネゴトも実演する。特に私の見た「虞美人」というのは長与善郎氏の戯曲によったもので、三国志に取材したもの、その骨法は大人のものだ。それを宝塚的にアンバイして、綾をつけたものであるから、男の我々が見ても面白いし、その宝塚的な綾や調子もむしろ独自なものとして、不自然なく、女子占領軍の観賞法とは別個の気分でたのしめます。
 特に、それが当然のことではあるが、予想以上に男役がよろしいね。そして、男に扮する女優たちが男のよさ、美しさを心得ているように、宝塚歌劇そのものが、実に男のよさ、美しさをよく心得ていますよ。項羽と劉邦の登場が両側から馬に乗って現れるところなど、よく心得たものだ、と感服しましたよ。そこに至るまでの筋の立て方や端役の動かし方もうまいな。また、男役の主役陣が登場しての口上も、水際だっていた。これを宝塚調の長所というべしと思いました。
「我は漢の劉邦なり」
「我は楚の項羽なり」
 という神代錦、春日野八千代両嬢の見栄は、カブキとはオモムキの違う力で男の我々をも打ちますよ。光りかがやくようなリンリンたる力の権化を感じさせ、我々は力に打たれるのですが、男の我々にとってもノスタルジイのような、純粋な力、古代人が太陽神に寄せたような理想上の純粋な力を感じさせます。女が男に扮した良さだろうと思いましたし、つまり、そこが宝塚の良さだと思いましたね。そしてサッとひきあげる呼吸も水際立っていました。いかにもその道のベテランたちが力を合せて作りあげた舞台の感じ。安心して、まかせきって見ていられる感じでしたよ。芸にたずさわり、批判的に芸を見がちな私のようなものが、その劇場に居る限りは、作者や教師、演者たちの機智にまかせきって、たのしめるという安定感を与えてくれる劇団はそう多くはありません。その安定感を与える力があれば、それは大人の舞台と申すべきで、宝塚は名は少女歌劇ですが、その舞台は大人のものと申せます。まだ芸の未熟な少女も未熟ながらみんな生かして使っており、見ばえとか効果というものを自家薬籠中のものとしたシニセの安定感と申しましょうか。作者指導者に人材もいるのでしょう。

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 女だけの劇でありショオであるから、すでに男の子に魅力があるのは当然であるのに、男の子は見に行かない。まして、よくまとまって大人の舞台をなしているのだから、男が見て面白くない道理はありません。ところが、もっぱら女学生の専用に供せられて、全然男の観客と縁が切れているのは、少女歌劇の内容のせいではなくて、ボージャク無人の女子占領軍のせいらしい。また、その占領軍の一人ぎめの気風によって宝塚は伝説化され、一般の人間と隔絶して、生きながら神話の宮殿で特別興行をしているようなオモムキである。つまり伝説上の宝塚は一般の人間とは生きた血が通い合わないように感じられ、信ぜられているのであろう。しかし宝塚の舞台そのものはマットウであるし、宝塚調というものも、不自然でもないし、畸形なものでもありません。
 ただし、これは敗戦後の新現象ですね。戦前の宝塚はこうではなかったようだ。当然の男女関係のマットウな表現も言葉も筋立ても封ぜられて、宝塚的な妙な男女関係、火星人にも考えられないようなフシギな中性動物が現れてくるのだから、生きた人間と血は通わなかったろう。公然ワイセツ陳列罪などというのがあるそうだが、戦前の宝塚はこれをアベコベに人間歪曲罪と申すべきや。不当に人間を歪めて涙をしぼらせタメイキをもらさせたりするのも罪の一つだと私は思うな。セップンという言葉も使わないというようなことは、善でも美でもないですよ。本当の人間のよさ美しさは、そんなチャチなものではありませんとも。
 最近、宝塚のスター連が映画や他の舞台へ出たがるのが流行だそうだ。宝塚にあきたらず、ひろい天地をもとめての行動だという。ひろい天地と云えば、舞台公演が一ヶ月で十万人ぐらいしか相手にできないのに比べて、一本の映画は何百万、何千万を相手にすることができる。そういう広さは確実にそうだけれども、作品の内容の高さ深さ広さや、芸格の幅に関しては、どういうものですかね。日本の映画は、ひろいですか。広い天地だとも思われないな。
 相手役の芸に関してだって、映画俳優が宝塚より達者だとも思われないし、作品の内容や、構成の巧拙だって、宝塚が下だとは思われないね。たとえば、作者について考えたって、白井鉄造という人は、日本に何人も居ない大作者であり、大指導家ですよ。彼が完成した宝塚調というものは、ともかく日本には珍しい独創的な作品の一ツであるし、たしかに独特の美を生みだしております。これだけ独特の仕事を仕上げた作者は日本の映画界に居るとは思われない。
 宝塚がせまいといえば、特別な動物に占領されているせまさなのである。「虞美人」的な方向に向えば、やがてチエホフを宝塚的にとりいれることも不可能ではなかろう。
 南悠子壊の虞美人はともかく一ツの性格がでていた。そしてこの一人以外には性格を表現している俳優はいなかった。しかし、これは俳優たちが性格が表せないわけではなくて、宝塚の脚本が性格を表すような劇を扱わないせいだ。私は過去にラジオできいたり雑誌でみたりした脚本では、登場人物全てに宝塚調という特性はあっても、人間の性格なぞありやしない。人間に性格があっては、過去の宝塚調は破れてしまうし、それは「人間の劇」になって、「宝塚の劇」というお行儀のよい中性的メルヘンでなくなってしまう。
 ともかく今度の「虞美人」に至って、主役の一人がかすかではあるが性格や人間臭をだせるような脚本を扱ったという次第であろう。もっとも古典劇というものは、型はあっても、性格は没するものであるけれども、宝塚に性格がないのはそれとは違う。古典劇の様式を多くとりいれてはいる。春日野、神代の両嬢が男に扮して宝塚的な男性美を発揮するのは「虞美人」に関する限りはカブキ的の約束や所作を利用しているところが多い。そして成功してもいる。やっぱり芸達者なのだね。鴻門の会などは、あの広い舞台で消えもせずにちゃんと持ちこたえるのだから、感心しましたよ。しかし、ああいう大舞台で、項羽と劉邦とが巨人のような大きさでグッと見物人にのしかかるようにならないと、本当の大舞台とは申されない。
 しかし、春日野、神代両嬢は、そういうことが、やれそうだね。それだけの素質はあるように見える。ただ今までの宝塚調とオモムキがちがうから、その方面の良きモデルに不案内のせいではないかと思った。とにかく、宝塚で感じられる最大の欠点は、ここの生徒さん方は、いかにも生活の幅がせまい、ということだ。宝塚的な生態やカラに安心しきっておって、人生や芸術に対して「むさぼるようにドンランな」激しいひたむきな意慾というものは感じられないのである。
 最近流行の「ひろい天地をめざして」宝塚をはなれる人々も、文藝春秋五百助氏と同じようにただ映画にでるというだけのことで、ミーチャン、ハーチャン的ではあるが、本当の芸術家の気風とは違うな。むさぼるようにドンランな、すさまじい芸道は感じられない。女優でなくて生徒とよぶのだそうだが、いかにも生徒の勉強に甘んじて、それ以上のドンランあくなき勉強が感じられない。
 それでもあの大舞台で坐ったまま動きの少ない主役たちの迫力が消えかからずに、かなり浮き上ってくるから、まア、いくらか、ほめてやってもよい。女子占領軍専用だけではモッタイないところがある。逆上熱狂したがらないタダの人間が見ても結構見られる芝居です。要するに、娘と一しょに気むずかしいオヤジが見ても面白いのです。むしろ「ひろい天地」の映画よりも、こッちの方がバカバカしくないぐらいだ。全体のマトマリもあるし、ふくよかなところもある。日本映画の大部分は低俗だの何だのと云うよりも、本質的にバラックの感じだからなア。バラックというものは芸術ではないのですよ。芸術は必ず本建築だけれども、日本映画はバラックの素質だもの。宝塚はとにかく素質的にふくよかだ。とにかく本建築をめざす精神が一貫していることだけはハッキリ感じられますよ。
 ひろい天地をめざしてバラックへ引越すのは、どういうもんだろうね。まア庶民住宅はバラックに相違ないが、芸術家はどんなアバラ家に住んでも、彼の住む限りはバラックではないものだ。
 ひろい天地の芸術家でありたいと思ったら、宝塚少女歌劇そのものを、女子占領軍専用から解放して、ひろい天地のものとするように一考し努力さるべきであろう。
 なぜなら宝塚は劇団そのものがユニックでもあるし、その技術水準も、他の劇団や映画にくらべて低い方ではありません。私は「雲の会」の会員であるから、文学座を見物したり、新劇運動を応援したりする義務があるけれども、宝塚の生徒さんにくらべると、新劇の女優さんは女子大学を卒業あそばしたりして大そう学がおありだけれども、芸術というものは、学だけではどうにもならない。眼高手低は芸術にならないのである。見ているとハラハラするから、たのしむというわけに参りません。
 宝塚の生徒が新劇がやりたかったら、新劇へ加入するよりも、自分たちだけで新劇もやってみることだ。その方が万事につけてユニックだ。どういう新劇が現れるか知れんけれども、とにかくタダモノではない。新劇などというものは先生のまわりへ素人の男女が集まって忽ちでき上って通用するカタムキもあるが、宝塚はそうカンタンにはできない。素人の女が百人集って男なしの劇団をつくっても、それは宝塚にはなりません。とにかく宝塚はバラックではありませんよ。
 新劇に限らず、万事につけて宝塚自身がひろい天地をめざす方向へ進んだ方が、結局個人の才能を最も有効にひろい天地に生かすことになりそうだね。時に例外はあるだろうが、とにかく宝塚という母胎は、たいがいの生徒さんの芸よりもユニックですよ。そして、伝説的に人々に考えられているように、決して畸形ではありません。カブキですらも畸形ではないが、宝塚はそれよりも健全だ。なぜならカブキは現代と一しょに生活しているものではないが、宝塚は現代と一しょに生活しているのですから。女子占領軍がいくら特別の逆上性動物であるにしても、あそこまでナマナマしく逆上させるからには現代の芸術にきまっていますな。
 松竹少女歌劇にくらべると、宝塚の方が子供ッぽいと云うが、そして松竹の方はたしかに男の子もタクサン見物しているし、なんとなく劇の筋も所作も大人ッぽいところはある。しかし、たったそれだけで大人ッぽいことにはなりますまい。すぐれた童話は大人の読み物だが、それに類することは宝塚についても云えるでしょう。
 男役について云えば、春日野や神代の現す男性には気品がある。それは女性が男性に対してまッとうに願望している理想のものを現している気品であろう。それは古代人が太陽神によせて考えた力や気品や理想に似ている。こういう理想の最高のものを願望的に表現しようとする劇の作者や演技者の心構えはこれを古典的、童話的と云うこともできよう。
 松竹の方は、もっと現実に近くて、その願望が現世でかなうかも知れないような現実的な理想に表現の目安メヤスをおいているようなところがある。そういう現実感が大人ッぽいものに感じられる主要な要素であろう。一方が夢のような太陽神を理想にすれば、一方はお地蔵サマに願をかけているようなもので、どうか月給があがりますように、とか、千客万来お店の繁昌たのみます、というようにお地蔵サマと多くの人々には日常生活上のナマナマしいツナガリがある。コマッチャクレた女学生はそういう現実性を大人のものと考え、宝塚は子供ッぽくて夢のようでバカバカしいと考える。
 しかし中途ハンパの現実感は芸術のコンゼンたる構成を損いやすいもので、よッぽど芸が達者でないと危ッかしくて見ていられないものである。
 宝塚には危ッかしいところがない。それが何よりである。学芸会の大がかりな余興のような乳くさいところがあっても、そこにコンゼンたる構成があってオヤジが娘の出来栄えにハラハラしなければならないような危ッかしさがなければ何よりの娯楽の一ツに数えうるであろう。宝塚にはそういうハラハラは感じられないし、時には惹きこまれることもある。そして、南悠子の演技がやや性格を表現しているといっても、結局あとで一番つよく残るのは男役だ。男の私にとっても、男役が結局印象にのこった。結局、女性が男に扮することが効果的なのだろう。女が男に扮するにはナマの自分を利用するわけには行かないし、一途に太陽神的な高さを狙うことが陋巷ろうこうにアクセクする我々の心に涼風の快味をもたらすオモムキがあるのかも知れない。とにかく畸形の感じはありません。アベコベに効果的なものですよ。まア一度見てごらんなさい。踊り子たちも清潔な感じで、ボンヤリ眺めているには好適なものです。もっとも前夜から行列しないと切符が買えないようでは、とても男の子は割りこめない。

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 八月の十七日といえば、どこの学校も夏休ミであるが、宝塚の予科ばかりはやっていました。見学に行ったら、ちょうど日本舞踊とバレエのお時間。ちかごろは日本中がバレエばやりらしく、知人を訪問すると、そこの娘が壁に身を支えて基本のお稽古をしている。同じことをやっていた。小柄のお年を召した女先生が杖をトントン突き鳴らしながら鷹のような鋭い目で一挙手一投足にきびしい注目を浴せている。修身の先生の厳格なのとちがって、芸道の厳格さというものは見た目にも美しいし、かえってホノボノとあたたかい救いを感じるなア。実際、睨まれると石になりそうなりりしい先生だった。
 基本というものが確立している西洋の芸術にくらべて、日本の芸道は手ほどきの法がゾロッペイだから、二ツを一度に並べて見ていると、なんとなくタヨリなさが身にしみる感じであった。先生が三味線をひいている。正面に生徒が並んで、立ったり坐ったり扇子をかざしたり歩いたりする。
 この動きの基本を定めるとすると、さて、いかなることに相成るか。眺めていると、そういうことが気にかかってくる。日本語の文法よりも、もっと、もっととりとめのない感じだなア。碁将棋には定跡があるし、武術には型があるが、それは基本とは違うようだ。柔道ではまず転び方を教えるが、この方が基本にちかいものだろう。私はボンヤリ考えこんでしまいましたよ。よろず学びごとに基本とか教程が定まらないということは、それを実地に見せつけられると、実にタヨリなく、侘しい気持がするものですね。
 予科は一年しかない。翌年はもう舞台にでる。「虞美人」では兵隊さんの多くが今春初舞台の少女たちだそうだ。使い方が巧みだから、ヘタが目立つような稚拙な構成は見られない。今年の一年生は三十一名でABC三組にわかれ、一週の授業は、日舞、ダンス、声楽が各八時間。ピアノ、演劇各三時間。英語と国語が二時間ずつ。楽典と教養が一時間ずつになっている。むかしは礼儀作法から女学校の一通りの学問を教えたそうだが、今は新制中学当年卒業が入学資格で、一般教養はすでに終了と認めて専門教育に重点をおいてるそうだ。
 私は三年ほど前に、某撮影所の迎えの人に無理ムタイに撮影所へひきずりこまれて、試写を見せられ、撮影を見せられ、ニューフェイスの教室までのぞかせられたことがある。このニューフェイスの教室にはおどろいたね。これを面白がってムリに一見をすすめる活動屋のキモの太さの方が天下の奇観なのかも知れない。女生徒は女優の卵なみにあたりまえの洋装だが、男の方はみんなアロハのアンチャンそのものだ。先生の講義に耳を傾けているのは一人もいない。隣り同志どころか、あッちとこッちと遠くはなれた同志で遠慮なく語らッているし、たッた十五人ぐらいの生徒のうち常に一人か二人が当り前の跫音あしおとで教室を出たり入ったりしているよ。女の子というものは常にあのようにハンドバッグを開けたり閉じたりする習性があるのだろうか、絶える間もなく誰かしらがハンドバッグを開けてのぞいて掻きまわしたり、ちょッと置いてみたり、実にどうも十五人の全員が鳥籠の中のメジロのようにキリもなく動いているね。
 講義中の先生は私もその名をよく心得ているその道の大家で、東京と上方カミガタの芸者の作法や習慣の相違を説き明していらッしゃる。拙者がきいてると、大そう面白くて有益なお話で、映画俳優の卵には後日役に立つに相違ない話だ。けれどもビクターの犬の十五分の一も謹聴という態度を表しているのは完璧にタダの一人もいなかったね。よそのお客にこんな天下に類例マレな教室をわざわざ見物させるというのは、国家ならば国辱であるが、活動屋というものはこういうダラシのない自分の学校を喜び勇んでお客に見せる。そのコンタンのほどはとても相分らんけれども、要するに学校だの教室などというものが、撮影所全体にとって全然問題でないことだけは確かだね。ここに奇怪な存在は、それを承知で熱心に講義している先生であるが、別に厭世的な顔色でもないし、悟りをひらいた面持でもない。撮影所というものは全然ワケのわからん風が吹いてるところである。
 宝塚の学校にはこんな異様なマーケットの風は全然吹いていません。教室も生徒も他の女学校と見たところ同じようなもので、タダの女学校の教室よりも揃ってマジメに授業をうけているオモムキはハッキリしているけれども、特に血のにじむような気魄がこもっているところは全くありません。要するにヨソ見にふける生徒がいない程度の熱心さなのである。未来のスターの卵と云っても、十五六という年齢は育ち盛りという春の草木のような目ざましさが目につくばかりで、容姿はその裏に没してあまり目立たないのであろう。揃ってシュミーズ一ツでバレエの基本をやってればそれはまさに草木的なものです。一応容姿が平均しているのか、そうでもないのか、そういうことが念頭にかからないぐらい草木的なものだ。しかし子供の教室で、そろってヨソ見をしないということは、それだけのことでも珍しい部類なのかも知れないな。草木的にしか見えない生徒というのは、良い生徒、良い教室を意味しているのかも知れぬ。
 事務所の三階の階段を上った廊下が掲示場になっている。三階にはいくつかの稽古場があって、ここは一人前になった生徒たちの公演用の稽古場だ。生徒たちは稽古の往復に掲示場にたたずむ。稽古の日割りだの、何々さんと何々さんは何月何日の黒ン坊大会の審査員になって下さい、というのだの、税金の相談は事務所へ、という火の用心の札の同類のようなのもあった。それを見るまでは宝塚の生徒の税金のことまでは考え及んでいなかったが、なるほど彼女らは相当の多額納税者であるに相違ない。当節はどこに生々しい血痕のような黒旗のようなものが掲げられているか分らないから、女の学校の掲示場をのぞくにも真剣勝負の心構えを忘れると、胸をさしぬかれてしまう。セチ辛く、風雲ただならぬ世の中である。もっとも、ここの掲示場にたたずむ生徒たちは、たのしそうである。戦場の難民が占領軍の掲示場にたたずんでいるような全身に赤々と千里の斜陽をあびてる面影は全然ない。どこの世の掲示場にも拭いきれない生活の重さ暗さがジットリ影を落しているものであるが、ここだけは税金の相談は事務所へ、だの、火の用心だのと一応世間並のSOSがはりだされていても、拭いきれない生活の暗さや、背にしがみついた人生の重さは、たしかにないね。この掲示場へウカツにもたたずんだ私だけがただ一人の難民で、彼女らぐらい保護になれたアンチ難民的存在もないような気がした。
 この事務所を一歩でれば、隣は大劇場の楽屋口で、その道の並木の下には十六七の娘たちが三々五々、またエンエンと勢ぞろいしてスターの楽屋入りを待っている。これこそは難民であろう。つまり宝塚の生徒は十重廿重にとりまいた難民たちによって手厚く保護せられているのであるから、これはまた奇怪なブルジョアで貴族で、これを徹底的な大ブルジョア大貴族と申すべきであるかも知れん。彼女らが歩く天下の道は全て難民が寒暑をいとわず献身的な保護に当っているのだ。そして手厚く保護せられた動物のよさが宝塚のものではあるが、その弱さ、甘やかされたバカなところも宝塚のものではある。
 だいたいに芸術家とは同時にバカである。ただ一念芸道に凝ってドンランあくなき芸熱心の手合に限って、ジャジャ馬で、ウヌボレ屋で、箸にも棒にもかからぬという鼻もちならぬバカである。
 ところが宝塚の諸嬢は、そのバカなところまで上品で節度があるような温室の草木的オモカゲがはなれない。箸にも棒にもかからぬバカなところは保護者の難民たちが引きうけているせいかも知れんが、芸道に対して本当にドンランなきびしさを忘れているせいでもあろう。芸道にたずさわるものは、手に負えないバカなところがなければならぬものだ。バカなところも温室の草木なみだというのは、世間的にはスターでも芸道の素養に於ては要するにいつまでたってもタダの生徒、徒弟だという意味でもある。要するに大がかりで、良く出来た学芸会というのが今までの宝塚の性格なのである。
 私は真夏の炎天の下を、七万坪の宝塚の遊園地を隅から隅まで廻って歩いた。イヤ、歩かされた。ここの案内者は活動屋のように進んで国辱を見せようと粉骨砕身する奇怪な風格はないから、つまり七万坪の隅から隅まで御自慢のものである。しかし宝塚の女子占領軍は多くのことには慾念がない。というのは、学問もないし、したがって興味もないし、サビを愛するような心境もない。当り前だ、ジジイやババアのようにサビを愛していられるものか、と抗議を申しこんではイケませぬ。どうも上方カミガタに知人があって、そこのウチに娘が居ると、来客に対してムヤミにお茶(オウスと云うのかね)を一服もりたがるのでこまる。もうタクサンだと云わないと二服でも三服でももりたがる。娘や婆さんが犬の出入口のような小さな穴からムリに現れて一服もるのである。人のウチや人の町が戦争で焼けてしまえというようなことは冗談にも云うべきではないが、日本の大多数の都市がムザンに焼けたのに、京都が、イヤ、京都と云うとイケないが、つまり例の娘が出たり引ッこんだりする犬の出入口の最も多い京都が、イヤ、つまり犬の出入口のある奇怪の宴会室の多くが焼け残ったというのは、怖るべきことだね。上方カミガタの娘はムリに犬の抜け穴から現れて一服もることに熟達しているが、彼女らはたいがい同時に宝塚の難民の一人でもある。ところが犬の抜け穴から現れて一服もるのは風雅やサビにかのうものだという話だが、この難民が占領している宝塚には、難民がサビを愛した遺跡というものはないのである。
 否。否。宝塚には茶室があるぞ。国宝の風格をそっくり移したサビの根本道場があるぞ、と云って怒る人があるかも知れんが、それは難民の遺跡ではないのである。小林一三さんの道楽である。もっぱら茶人とか俳人という現代に於ける半獣半神的人物が神つどいを催す席で、難民たちの多くはその存在すらも知らないなア。
 もっとも小林一三さんの秘密の初志によると、半獣半神の神つどいに供するためではなくて、難民たちの風雅の会に供するためであったかも知れない。小林一三さんほどのケイ眼な実業家ですらも、一度はこの難民にだまされてもフシギはない。犬のヌケ穴からムリに身を現して一服もるという困難な所業が、全然他に活用する意志のない面従腹背の学習だということは誰にもはじめは分らない。これこそ難民の性格なのである。そして、サビに対して面従腹背の難民に保護せられたものが宝塚少女歌劇であるということが分ると、宝塚を理解するのはもう手間がかからない。
 あの楽屋口のひしめき、叫び、それからタメイキに耳をすましてごらんなさい。面従腹背のトモガラがひそかに忠誠を誓った神を迎える逆上ぶりなのである。要するにこのトモガラは面従腹背を一生の定めとしていることを現しているようなものさ。このトモガラは忠誠を誓った神の名を一生にタダ一度云うだけで、あとは生涯貝のようにフタをとじて語らない。一生に一度だけ本当の神の名を告白するというわけは、その告白が罪にならなくて、公然と許されており、またそうすることが英雄的行動の誇示にもかのうからである。宝塚難民の逆上混乱、颱風的様相というものは、その数年後に貝ガラのフタを堅くとじて一生自分の神の名を、また本当のことを語らなくなる冷静きわまる人物の本性を証しており、後日の深謀遠慮に比べれば、実にウカツにまたフシギにもシッポをだしたものであるが、つまりこの冷静きわまる人物が罪の意識を失って世を怖れなくなる時には何事をやるか分らない。原子バクダンを自分のキライな奴の頭の上でドカンと一発やることについて、その本性に於ては人をはばかり世をはばかるところはない。彼女自体がネジによって辛うじて自然のバクハツをくいとめている原子バクダンそのものに外ならぬのである。この彼女を宝塚の難民とも云うし、単に、女とも云うのである。そしてこの怖るべき人物たちがその人生の初年に於て宝塚の大バクハツを完了してくるということは、日本の男の子の地上のささやかな平和を約束してくれる慶事慶兆であるかも知れん。宝塚こそは日本の地底の烈火を調節してくれる安全弁ですかね。
 宝塚の遊園地では、劇場と動物園だけが主として難民に占領せられている。植物園となると、わずかばかりのアベックの散歩用に使われているだけだ。ここには相当の珍種があるのだそうだが、私とても傍系の難民だから、焚火をする以外に植物の名も用も知らないのである。植物園の中には図書館があるし、昆虫館も、水族館もある。図書館には遠方から本を読みにきた人のための寝室があったそうだ。拙者が諸国に居候をしていたころ、この図書館の存在と目的が分っていると、当然宝塚の居候となって、今では含宙軒博士も舌をまくほど植物昆虫に至るまで通じていた筈であろう。その目的が失われてから存在が分っても、ガッカリするばかりで意味をなさんよ。
 また昆虫館も相当のコレクションで珍種が多いそうだが、特に小さなハチやアブや蝶に限って相当に盗難にかかっている。犯人は子供だろうという話だが、特に小さい昆虫を選んでいるのはどういうワケだろう。小さいのに珍種が多いのだろうか。持ち運びの便利のためなら特に昆虫の大小の如きが大問題でもなさそうだ。もっとも小さな虫の標本はどの箱の場合でもその最下部にある。苦心して標本箱のガラスをずり動かした場合に手ッとり早くマンマと手に入れられるのは小さな昆虫である。ところが標本箱のガラスは開閉の便を考えて造られたものではなくて、すでに出したり入れたりする必要のない内容の全部をそろえた上で、それを密閉する目的だけのために造られたものであるから、単にガラスを開けるだけでも素人には困難な作業で、人目を盗んでカンタンに開けられる仕掛けになってはいないのである。
 ところが昆虫泥棒はその困難な作業を手際よくやっているばかりでなく、彼の去ったあとには標本箱は元のようにガラスに密閉されていて、内容の昆虫をしらべなければ盗難が分らない。標本の名札があって昆虫の姿がないという盗難の跡を示している箱は相当の数である。実にフシギなことだなア。宝塚に於ては、泥棒に礼儀が行われているのであろうか。元のように箱の密閉がほどこされていることは発覚の怖れのためもあるかも知れんが、元のようにする時間と、十メートルほど歩いて立ち去るまでの時間とでは前者の方が時間を要するようだから、発覚を怖れるせいではないようだなア。すると自分の盗むのはかまわんけれども、他人が盗むのは甚だ不都合だという思想によるのかも知れん。こういう思想はマニヤの思想であるが、そんな思想の少年が居るなら、彼の泥棒行為を憎むよりも、その情熱の偉大さを証するに足る完璧な遂行作業に賞状を与えるべきかも知れないな。宝塚には後生怖るべき大昆虫学者の卵が棲息しているのかも知れませんな。しかし、かように落付き払った泥棒作業が何回となく初志の通りに完了されているということは、劇場と動物園以外の場所が、そして実にチョッピリと俗でないような面構えを示している場所が、ここを占領している難民たちにいかに完璧に黙殺され無視されているかを示しています。これは大阪を中心にした上方カミガタの一般の気風であるかも知れません。
 植物園の中には五十メートルプールもあったが、子供が三人ジャブジャブ遊んでいただけであったし、馬場もあって、緑の乗馬服をりりしく身につけた娘調教師と数頭のタダモノではないらしい立派な馬もチャンと揃ってお客を待ってる様子だけれども、例によって他に人影は殆どなく、劇場と動物園のほかは全てのものが存在の目的も理由も失っている。だから、タダモノではないらしい立派な馬も仕方なくブラブラしたり逆上的に走りかけてみたり諦めてみたりしているし、美しい緑の乗馬服にピカピカした乗馬靴をはいてチャンとムチまで手にしている少女調教師も仕方がないから水道の蛇口を指で押えて噴水をつくッて馬にぶッかけて実用と娯楽の両面兼備のヒマツブシに熱中したりしている。
 モッタイない話だなア。私は東京の馬湯もその他の馬場も知らないけれども、美しい乗馬姿にりりしく身を固めた美少女の馬係りがお客の世話をやいてくれる馬場の話などはきいたことがない。同じように美少女と動物を活用しても、大入り満員なのは劇場と動物園だけで、その他はどうしてもダメらしいや。
 美少女と動物で思いだしたが、「虞美人」ではホンモノの馬と象を用いていた。春日野、神代両嬢が項羽と劉邦に扮して最初に登場する時は舞台の両側からホンモノの馬にのって現れる。春日野嬢はまさに帝王の様式の如くに白馬にまたがっていらせられた。
 すべて芸術はガクブチだの舞台だのと限定や制約からくる約束があって、要するにナマの写実やナマの現身うつしみは芸ではないと云っても、それは人間についてのことで、二人の人間が馬の着物をかぶって一匹の馬になったツモリらしくシャン/\と鈴をならして現れる怪物は、それが約束というもんだといくらその道の奥儀を説いてきかせられても、ウーム、そうか、これが約束というものか。実に立派だ。あの役者は馬の芸が達者だなア。あの馬の見栄の切り方を見なよ。これを名人芸と云うんだなア、と云ってほめることができる性質のものではありやせんなア。
 宝塚は利巧ですよ。たしかに馬ぐらいはホンモノを使うべきですよ。しかも、使い方が巧妙ですよ。塩原太助にホンモノの馬を使っても変なものだ。なぜなら、人間の役者の方が手拭で涙をしぼりながら、アオよと泣いて熱演しているのに、馬だけがホンモノで全然ヌッとホンモノの馬面を下げているだけでは、どうにもウツリが悪いね。
 宝塚の馬は項羽と劉邦がはじめて登場する時に乗って現れてくるだけだ。そして馬上の両雄が、我は項羽なり、我は劉邦なり、と馬上で見栄をきってサッとひッこむ時だけに用いている。両雄の初登場がリンリンと力がこもって目覚ましく生きているのもホンモノの馬を使ったからでもあるし、またホンモノの馬を使いうるのでこの登場ぶりを発案し得たのでもあろう。とにかく慾の深い、むさぼッた使い方はしていないし、最も生かして使っている。ここの先生方はたしかに頭がよろしいな。敬服しました。
 馬はよその土地の公演でも使えるかも知れないが、象は動物園を所有しているこの根拠の大劇場でだけしか使えないのかも知れない。しかし諸事に於て日本全体が不備だらけの敗戦直後の今日ではムリであっても、多少のムリも覚悟の上で象でも鯨でも公演地へ輸送する心構えは必要であろう。出演時間が十秒か三十秒のものであっても、その効果の必然性が算定されている舞台なら諸事に手落ちも手抜きもなく再演を期してゆずらないのが芸道の良心、芸術家の支えというものだ。しかしそのような本建築的な心構えはここの先生方には一番期待がもてるようである。とにかく単にコケオドシにホンモノを使うのではなくて、それを使う必然性や、効果的な使い方が実に正しく考案せられているのであるから、芸術はゼイタクである、ゼイタクでなければならぬ、ということの正しい意味を本質的に身につけている先生方に相違ない。単に無限にゼイタクが許されたって、芸術は生れやしない。各々の物をそれぞれ本当に生かして使うことが才能というもので、その本当の才能は費用が不足ならそのワク内で最大限の効果を考案しうる才能でもあるし、臨機応変の術こそは天分というものだ。それぞれの本当の効能を知り生かしうる人が、本当のゼイタクを知り、味う人なのである。
 宝塚の難民は七万坪の遊園地のうちで劇場と動物園にもっぱら群れをなしているのであるが、劇場は大中小とあって、それぞれは廊下でつらなり、廊下の左右は売店であるが、全日本の都市や温泉街の売店街の様相がそうなったと同じように、売店の半分は目下パチンコ屋に転じて盛業中である。
 全国いたるところのパチンコ屋は、中学生高校生おことわり、などゝ禁札を立てているようだから、丸帽子をかぶったニキビだらけのがアキラメわるく三四人むれをなして入口にたたずんで内部をのぞいてみたり、通行人に言葉をかけてみたりしているけれども、彼らすら敢て堂々と禁制のパチンコを行う勇気にかけている様子であるから、娘だの女学生だのというものがパチンコをやってる姿はザラに見ることのできる性質のものではない。
 ところが宝塚の難民は主として若い女、女学生と、その姉妹に当る年齢程度の女の子が大部分なのである。よその土地ではこの年ごろの娘がパチンコをやったりボットル落しをやったりするのは常識でもないし、殆ど可能性ですらもない。ところが他の土地では可能性ですらもないことを彼女らはこの土地では必ずやると看破した宝塚商人の眼力というものは、これはまた世に怖るべきものだなア。
 可能性ですらもないなどゝは、とんでもない話だね。ここの縦横の廊下に、パチンコ屋だのボットル落しだのホームランゲームだのと、その店の数だって人口三万の東海道の温泉都市と覇を争うほどの盛大なものだ。その全ての店内の全てのパチンコ台も空気銃もみんな女学生に占領されて、ガッチャン、ガッチャンと賑やかなものですよ。
 彼女らは短気だねえ。ゲームを味ったり、哄笑によって敗戦を認めて思いきりよく諦めるような寛大なところも、ユーモアもないらしく見える。必ず勝たねばならぬ、否、敵を倒す、否、一撃もって敵のノドクビを切断する、というような気魄が充満しているし、寸時といえども攻撃がゆるみ、斬り込みの脚力も刀さばきも休むようなところがない。マナジリを決するとは、まさにパチンコ屋に於ける彼女らを云うのであろう。姉も妹も、すでに、ただ単に無限の攻撃突貫を意志している鋼鉄のタンクそのものらしい。二人は顔を見合せることもないし、戦友らしく励げましの言葉をかけ合うようなチャチな人情の如きに目をくれる甘ったるい兵隊ではないのである。妹は攻撃が停止する寸刻がもどかしくてたまらぬらしくセカセカと空気銃を膝へ当てて折って、もしも袖ナシの服でなければ、やにわに腕まくりをしたであろうし、それすらももどかしくて袖をちぎって捨てずにいられないような充実しきった攻撃精神やセンメツの気魄によって、前へ、前へ、身体が押しだされ、延びて行く。彼女はまだ中学生であろう。頬はリンゴのように真ッ赤になっているし、眼は三白眼かヤブニラミに見える。それは捕虜をとらえればその場で処刑する戦意を示しているのである。彼女はふと気がついて帽子をぬいで台の上においた。彼女の帽子はアゴヒモのついた丸いツバのある夏の帽子で、鉄カブトよりも戦闘に不自由であったらしい。
 この土地にきてはアベックなどはダラシがなくてミジメそのものの存在さ。男と女が恋愛をする、その恋愛によって、互に相手に良く思われようと言葉の数を控えてみたり、言葉の表現や表情に意をめぐらしてみたりする、食堂で中食をたべてもあんまり大食と思われるかしらと考えなければならないような衰弱しきった自己表現や和平運動というものが、いかに不用で、ミジメなものかということが、この土地に於てハッキリするようである。人生とは戦争である。否、一撃のもと敵のノド笛をきり、イノチを断つことだ。和平運動とは衰弱者の妄想だ。男と女が食事や言葉をひかえて妥協和平をカクサクするのは彼らが衰弱しきった病弱者だからである。結局そういう結論を宝塚のパチンコ屋で戦意とみに昂揚している娘たちが教えてくれるのである。
 だからアベックは仕方がない。自然に植物園へ追放されて木蔭のキノコかのように益々モタモタとムダな時間を費している。とにかく仕方がないのさ。女だけのパチンコ屋というものはフシギの多い日本のうちでも宝塚にしかないだろうからねえ。ここは女だけ集ってパチンコ程度の殺リクをやってるだけではなくて、独特の思想も、政治も行っているようなものさ。マキャベリの如きものは女将軍の背中を流す三助にも当らない。ただの女兵隊の背中を流す光栄を許されうるかどうかすらも分らない。天下に宝塚の女兵隊ほど恐しいものはない。
 男の子が辞をひくうして女兵隊に懇願して、宝塚の歌劇を男にも見せて下さい、彼女らに男のための芝居もやらせて我々に見せて下さいませんか、と頼んで、ウカツな女将軍やスターの誰それがその懇願を入れる気風が見えた場合に、女兵隊がクーデタを起して男女対立のアゲクがついに悲劇的なセンメツ戦に終りはしないかという切実な大問題が残っている。この女兵隊から宝塚を男側に半分ぐらい奪取し引きよせた場合に、女兵隊が何物になるか。鬼神となってセンメツの斧をふるうか。仏門にはいって世を捨てるか。その他の何物になって何事をやるか。史上に前例もないし、これほどの大事件が異国にあったこともきかないから、どういうことに相なって、日本の悲劇になるか慶事になるか、誰にしても分る筈はないのである。
 事、宝塚少女歌劇に関する限り、少女歌劇そのものはすでに私が実地見学の次第を申上げたように、決して大それたものでもないし、畸形なものでもないし、まア一般に全ての人がたのしめる程度にまッとうでまとまりのある劇団だ。複雑な風雲と謎をはらんでいるのは目下宝塚を占領中の女兵隊難民諸嬢で、少女歌劇が自分だけの所有でなくなった場合に何物になっていずこへ行くかという怪ホーキ星の進路のような物騒で予測しがたい問題がのこっているだけである。
 男の子は我慢と辛抱が大切であるから、宝塚は男が見ても面白いと分っていても、ジッと我慢して、わりこむことを避けるのが無難な方法には相違ない。しかし、せっかく男女同権になったというのに、そうまで卑屈に敵の意のままにしたがい、敵のセンメツ的な殺意や巧妙な戦術や一騎当千の暴力を敵対しがたいものと定めて事前に白旗をかかげるのも、どうかと思う。新時代の新風にしたがえば、男女は同権であるし、正義はこれを主張しても差支えないものであるから、
「男にも宝塚を見せろ!」
 というプラカードをかかげて銀座や皇居前を行進しても、婦人警官に襟首をつかんで堀の中へ叩きこまれるようなこともないかも知れん。とにかくいっぺんはプラカードをかかげて女兵隊の様子を見るところだろう。あわよくばこの機会に女兵隊の気勢をくじいて、男女共存共栄という方向に漸次転向してもらう。いっぺんは試みて敵の様子をうかがうだけの勇気と断行が必要らしいな。
 しかし、宝塚が「虞美人」というダシモノを選んだのは、宝塚少女歌劇自身が女兵隊の占領にあき足らないような反逆精神もほの見えるのである。
「ひろい天地」をめざしてバラック映画へ立ち去った諸嬢とても、その本心は占領の女兵隊に対する反逆によるものであろう。当人は持ってまわって考えて、自分では気がつかないが、フロイドという先生は宝塚を見ないうちにチャンとそれを予言して死んだ。つまりそういう自ら気付かぬ反逆を潜在意識といって、これを気がつかずにそのままにしておくと発狂するような悲劇が起ったりする。
 それらスターの最近の流行を思い合せれば、宝塚の他の多くの諸嬢の心中にも女兵隊に対する反逆が充分に育っているとも見られ、まさに公然反逆すべき時期に至っているのかも知れない。そこで男の子の側からも、男にも宝塚を見せろ、とプラカードをかかげる時がきているのだと私は判定したのである。

底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第一三号」
   1951(昭和26)年10月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第一三号」
   1951(昭和26)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
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