戦乱の期間中、私は幾度か中華民国に旅して、おもに上海に滞留した。そして彼地の有力な精神の代表者の一人として、秦啓源を捉えた。その生活や思想や人柄に、或は逆に私の方が捉えられたのかも知れない。――この秦啓源のことを、私はだいたい本書の作品のなかで述べた。
 戦後の激発期に、東京では実にさまざまな精神動向が見られた。その精神動向の代表的なものの一つとして、私は波多野洋介を捉えた。その思想や人柄に、或は逆に私の方が捉えられたのかも知れない。――この波多野洋介のことを、私はだいたい本書の作品のなかで述べた。
 斯くして、この短篇集のなかには、二人の主要人物が浮きだしてくる。一人は中国人であり、一人は日本人であるが、共に、動乱期の苦悩を通りこし、周囲に反撥して新たな生活を志向している。この意味で、初めはそうでもなかったのだが、いつしか、私自身にとって非常に親しい人物、謂わば他人とは思えない存在となってしまった。この二人に対して私は愛着を持つ。
 この二人が、たまたま東京で出会って親しくなり、ささやかな仕事を始めることになった。それからまだ日も浅く、どんなことになるか分らない。――だが、これだけで、この短篇集は一つの連続した物語と看做されても宜しい。上海のことや波多野邸のことが余りに多く書かれてるけれども、それはつまり二人の環境なのである。
 今後、この二人のことを私が再び物語ることがあるかどうか、単に他の作品の背景としてでも物語ることがあるかどうか、それは約束出来ない。すべては二人の行動と私自身の心の動きとに懸っている。今のところ、私はただ静かに二人を見守っていたい。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
初出:「秦の憂愁」東京出版
   1947(昭和22)年4月
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月7日作成
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