ルクリュ家へ

 一九一三年の初夏のころであつた。或る土曜日の午後私はベルギーの首都ブリュッセル東北隅のエミール・バンニング町にポール・ルクリュ翁を訪問した。ベルを鳴らすと翁自身が扉を開いて迎へてくれた。ネクタイもカラも著けず上衣も著けず、古びたチョッキと縞もわからないシャツを纒うて
「よく來てくれました、待つてゐました。ツ・ミン・イ君は?」
 といひながら、私を應接室に導いてくれた。前の土曜日に支那の友人楮民誼君に伴はれて初めて同家を訪問したが、その時は忙しくて話をしてゐられないから、次の土曜日に來てくれといふことであつたのだ。
「ツ・ミン・イ(楮民誼)君は急用でパリに行つたので、一人で伺ひました」
 といふと
『ああ、さう!』とうなづきながら、廊下に出て、階上に向つて大きな聲で『日本の石川君が來たから、降りて來なさい!』と怒鳴つた。二階か三階か、上の方から、『はい!』といふ答が反應のやうに響いてきた。かねて話し合つてゐたものと見える。やがて降りて來たのはマルグリト・ルクリュ夫人であつた。ポール翁は私と並んで同じカナッペ(長椅子)に座を占め、マルグリト夫人はわれわれに向つて腰をおろした。そして、どうしてルクリュ家を訪問する氣になつたか、と問ふのであつた。
 私は豫てからエリゼ・ルクリュの名を慕ひ、私の獄中で書いた『西洋社會運動史』にもルクリュがボルドー附近のサント・フォア・ラ・グランドで生まれたことが書いてあり、この地にお住ひと聞いて是非お眼にかかりたいと楮民誼たち支那學生に紹介方を頼んだ次第だ、と答へた。そしてちやうど持つて行つた私の赤表紙の著書を出してルクリュの名の出てゐる箇所を開いて見せると
「こんな立派な書物を獄中で書くことが許されたのですか?」
 と些か驚きのていであつた。その間、ポール翁は別室に行つて一葉の寫眞を持つて來て
「これを知つてゐますか?」
 と私の前に突き出した。それは最初の平民社當時、たしか共産黨宣言が發禁になり、瀧野川の園遊會が禁止された時、記念のために撮影した堺・幸徳・西川・石川四人の寫眞であつた。
「知つてゐるどころか、私自身がこの中にゐる」
 と私がいふと
「それは私も豫て支那の學生達から聞いて知つてゐる。しかしそれにしても、どうして君は死刑を免れたか?」
 とたたみかけて質問する。
「幸徳の事件が勃發した時は、他の三人は皆監獄の中にゐたからあの事件には關係がなかつた」
 と答へると、また翁は直ちに
「そして君は、どんな風にして脱獄することができたか?」
 と熱心に問ひ返すのであつた。ルクリュ翁が、かう熱心に質問するのも無理ではなかつた。翁の親しかつたバクニンでも、クロポトキンでも、みな脱獄者であつた。ルクリュ翁自身が、二十年の重懲役の宣告を受けて、祖國を脱出して現に亡命生活中の人であつたのだ。
 そこで私は刑期が滿ちて正當に出獄し、大逆事件で再び捕へられたが釋放されたこと、『西洋社會運動史』は發禁になつたこと、周圍の情勢は緊迫して身動きもならぬ有樣になつた時、支那及びベルギーの友人の熱心な勸告と援助とによつて幸運にも故國を脱出することができたこと、などを説明した。
 その間にマダムは茶を入れて來た。それから三人の間には、茶菓を喫しながらの樣々の談話がかはされた。そして最後にルクリュはフランス語の國に來て生活するには先づ第一必要條件としてフランス語を知らねばならぬとて、エリゼ・ルクリュの大著『世界新地理學』の東亞の卷を書架から引出し、その中の日本の記事のところを開いて『ここを讀んで御覽なさい』といふのであつた。そして私に解らないところを英語で説明してくれるのであつた。
 初對面からこんな有樣で、私はこの家の一族のやうに扱はれた。しかし私自身はまだ交際に慣れない野ばん人で、英國のカ翁のところへ行つたり、ブリュッセルの合理的社會主義の一派ギリヨーム氏のところへ行つたりして、職業を求めてゐた。けれども獨立生活の道は容易に見つからない。私は遂に行きづまつてルクリュ翁に訴へると『なぜ早くいうてくれなかつたか』と小言のやうな口調で『すぐ來い、室をあけて待つてゐる』といふ手紙を英國で受取つた。
 かうして私がルクリュ家の一家族となつたのは一九一四年四月であつた。私は一同志の紹介でペンキ職になつた。白いブルースもその同志が寄付してくれて、毎日十時間勞働で、どうやら生活の道が立つといふ自信ができたときは『おれもこれで一人前の人間になれた』と私は心中に叫んだ。そして大空に向つて大威張りで腹一ぱいの呼吸ができた。
 この時から私は毎晩、食後の一時間をルクリュ老夫妻とともにすごし、いつもフランス語のけいこを兼ねて、私の身の上ばなしを續けた。しかし私の對話は主としてマダムとの間に行はれ、翁は寧ろ傍聽者の格であつた。わたしはこれから、その時の物語を思ひ出づるまにまに再記して見たい。今はなきルクリュ翁夫妻の思ひ出ともなり、私にとつてはまた感慨の盡きぬものがある。

     ことばの失敗

「どうです? 少しは慣れましたか?」
 勞働生活を始めてから五日目頃、晩餐後の團欒時のマダムの發言であつた。最初に當てられた私の仕事は兩梯子の頂上に立つて高い天井に下塗りをすることであつた。左手に白色ペンキを滿たしたバケツをさげ、右手に大きな刷毛を持つて、毎日十時間も左官の仕事をすることは、私にとつては可なりの苦痛であつた。最初の二三日は發熱して夜分もよく眠れなかつた。殊に梯子の頂上に立つ足の緊張とその疲勞は甚だしかつた。一度すべれば生命はなくなる。あぶない藝たうだ。けれどもこの場に及んでは一心不亂であうた。今思つても戰慄を禁じ得ない仕事が事もなく遂行された。環境が私を鍛へてくれたのだ。
「もう大丈夫です。仕事にも慣れ、授かる仕事もいささか昇級のかたちです」
 就職して五日目には、壁面に大理石の模樣を付ける少々藝術的な仕事を擔任するやうになつた。かうして私の身體と心とに餘裕ができて來たので、語學の勉強を兼ねて、毎晩マダムとの對話が續けられることになつた。
「あなたが、ここに來られると聞いたので、私はルドビリ・ノドオといふ人の『近代日本』を讀みました。その中に、あなたの名も出てゐる。イシカハ・ケンといふ地方名もある。縣名を姓にする位だから、あなたの家の家がらは地方の貴族なのでせう?」
 といふマダムの質問が出たのもその時だつた。なるほど『近代日本』には、日本の社會不安を序した章に、ニシカハ及びイシカハの『日本社會黨』が解散を命ぜられたことが書かれ(これは何かの間ちがひであらう)すぐその次の頁にイシカハ・ケンの紡績工のストライキが述べられてある。
「いえ、私の家は地方の農家です」
 と答へれば、マダムは直ぐに言ふ。
「それではペイザン・アリスト(農村の貴族)なのでせう」
「私の生まれた家は石川ではなくて五十嵐といひ、農村の舊い貴族と云へるでせうが、石川の方は貧しい農家です」
「ああさうですか。イシカハよりはイガラシの方が、發音が美しいですね。ところで、イシカハやニシカハのシカハとは何を意味しますか? 二つ姓がただイとニとで區別されるのはどういふ譯ですか?」
 マダムはフランス語を私に教へるかたはら日本語の研究を始めるのであつた。
「これは石と西とで區別される川を意味する名稱です」
「はあ、ピエール・ド・リビエール(川の石)と、ウエスト・ド・リビエール(川の西)ですか」
 とマダムは速解する。フランス語では形容詞を名詞の後に置くのが常例なので、石川を『川の石』西川を『川の西』と解釋したのであつた。
 次にマダムから發せられた質問は、『妻君はどうしてゐるか?』といふことであつた。
「私は結婚してゐないから、身輕です」
 と言へば、
「どうして結婚しないのですか? 獨身主義なのですか?」
 とせめ立てる。
「いや獨身主義ではありませんが結婚の機會を逸したのです。それに私の今の考へでは、結婚は財産權と同じく排斥すべきだと思ひます」
 少々うしろめたい氣持でもあつたが、かう言つてのけた。マダムの氣にさはりはせぬかと不安であつたが、意外にも賛成らしい面持で、愉快さうに
「さうですか、この國にも、さういふ論者が澤山あります。しかし、それでこの世の生活が淋しくはないですか?」
「しかし、わたしは、戀はしました。そのために些か狂ひもしましたが、遂に結婚生活はできませんでした。そして今では、自分の妻だの夫だのといふ符牒が、何だか馬鹿げて感じられるやうになつたのです」
「そりや、あなたの仰しやる通りよ。けれどもね、わたし達のやうな友愛生活になると、ちつともさういふ不愉快はありませんよ」
 室の一隅に長椅子の上に横たはつてゐるルクリュ翁を顧みて
「ねえ、さうでせう! ポール」
 と同意を求めた。
 ポール翁は横臥したまゝ、そんなことには答へもせず
「フランス語の稽古をやらんのかい、その方が大切だよ」
 と大きな聲で怒鳴るのであつた。
 わたし達の對話は英語とフランス語とがちやんぽんに使はれ、話がこみ入つて來ると、英語の方が主になり勝ちであつた。ルクリュ翁の怒鳴つたのはその點についてであつた。そこでマダムはフランス語の發音法にうつり、フランス語は舌の先で發音しないでアゴでするやうになど、自ら實演して教へてくれる、そして仕事のあひまに動詞の變化を暗誦しなさい、と文法書の一頁を開示してくれるのであつた。
 こんな有樣で、わたし達の對話は殆ど毎晩續けられた。そしてその話題は、わたしの生ひ立ちなどが、最も深くマダムの興味を引いたので、自然にそれが多かつた。時には地圖まで出して日本の社會状勢の變遷などを物語ることもあつた。そして、そんな時はルクリュ翁ものりだして來て、話しの仲間に入るのであつた。
 ここでこの最初の會話に於てわたしが大失敗を冒したことを付け加へたい。それは四、五年の後、ほんたうにルクリュ家に親しくなり農業生活をするやうになつてからマダムに教へられて初めて知つたことであつた。それは私が『戀はしました』(ジェイ・フェイ・アムール)といつた、その一語であつた。フランス語ではこれは『女と寢る』こと『色をする』ことを意味するので婦人の前などで發音すべき言葉ではないのだ。しかし私が英語の『アイ・ドウ・ラヴ』を佛譯したものとマダムは想像したので、餘り氣にも留めなかつたし、私のフランス語の勇氣をくじかぬやうにと考へて特に不問にふしたのだといふ。普通の婦人の前で、こんな言葉を口ばしつたら、激怒されるか顏を背けられるところであつた。かうした失敗は、七、八年も同居してゐる間に幾度くりかへしたことか、その度毎に親切に戒められたことを、今も思ひ出して私は有り難さの感激を新たにするのである。

     生家の思ひ出

「あなたは、どうして無政府主義者になりましたの?」
 マダムの話題は當然この問題に到達した。この問に答へるには、わたしの精神史と環境史とを語らねばならぬことを説明すると
「話して下さい。それは日本の社會、日本の近代史を知る上に、興味ある資料となるでせう。是非話して下さい。私達が結婚する時の第一の條件が、東洋諸國殊に日本に旅行し、日本を研究することであつたのです。いま日本人のあなたから、直接にあなたとあなたの國とについて、お話を伺ふのは、ほんたうに愉快です」
「それは私の全半生の物語になり、マダムはきつと退屈されるでせう[#「退屈されるでせう」は底本では「退屈されるでせせう」]
「ノー、ノー、ノー、私達のあこがれの國の物語よ! 話して! 話して!」
「では話しませう、少しづつお疲れにならない程度に……」
 こんな仕儀で、私はふなれな言葉で、ぼつりぼつりと、兎の糞の落ちるやうな話を續けた。

 私の故郷は日本最大の關東平野の一角で、武藏と上野との境を流れてゐる利根川べりの一船着場でありました。そして私の生家はその地方の漕運業を獨占してゐた問屋であり、村の名主でありました。徳川幕府の江戸城下から西北方に百キロメートルを隔てた土地で、利根川の流水に惠まれて、この地方と江戸との間の交通を一手に支配した特權階級でありました。
 ところが、私の生まれる十年以前に、日本には大革命が行はれました。徳川氏の封建制が倒れ、いはゆる明治維新が成立して、ヨーロッパ模倣の近代國家が組織せられました。この結果、この封建制の保護の下に存在した特權階級たる私の生家の威光も漸く衰へ始めました。私がもの心を覺える頃になると、家の中に何となく暗い陰がさして來たやうに、子供心に感じられたことを今も思ひ出します。
 村中の者がほとんど全部と言つてよいほど私の家で働く船乘りか又はそれに連なる職業を渡世にしてゐました。そして利根川の水が東に流れ、太陽が東から登る間は米びつに米は絶えない。宵越の金を使ふのは黴の生えた食物を食ふよりも馬鹿。かういふ哲學で村中の人が生きてゐたのです。ところが、私が八九歳になつた頃、即ち明治十七年頃、舊江戸の東京から利根川上流の高崎まで鐵道が敷かれました。これは地方の經濟生活に大革命を齎らさずには置きませんでした。殊に船着場であつた私の村は、全村失業状態となり、軒の傾かぬ家、雨のもらぬ家は、稀にしかないやうになりました。利根川河口の銚子町との間に河蒸汽を通はせることも試みられたが、もともと徳川幕府への御年貢米の運搬が特權の主要素であつたのにそれが喪はれて、自由競爭の世になつたので、何を試みても成功はしないのです。村の中にも眼先の利くものの叛逆が既に起りました。父は汽車ができると同時に半里ほど隔つた本庄驛の停車場の一番よい所に運送店を開きましたが、それも瞬く間に、多くの借金を殘して失敗して了ひました。永い間幕府の特權に保護されて來た舊家にとつて、維新以來の政治的、經濟的の荒浪は、餘りに高く餘りに烈しかつたのです。それに上品な父は、經驗の無い放蕩の長兄と分家の當主とに事業を任せて自身は舊い家に引込んでゐたのです。家道は益※(「二の字点」、1-2-22)傾くばかりでありました。
 しかし、それにもかかはらず、舊い習慣と社會的の墮力とが、まだ殘つてゐて、私の父は村の戸長であり、私の家は戸長役場でありました。そして、その村がまた、近隣のどこの村でも持つてゐない金色燦然たる神輿を持ち、立派な山車を持ち、それが、とても大きな村の誇りであり、私の家の誇りでありました。鎭守の祭りの時はその山車も、その神輿も、鎭守の森から出て、私の家の庭前に來て止まるのを例としました。寺なども私の生家が獨自で建立したもので、棟木にはその事が書かれてあつたといふことでした。宗旨は眞言宗で、住職の法印は可なり有徳の老僧でありました。私の家の二階の一室には護摩ごま壇が備へてあつて、毎月一、二回その老法印が來て護摩を焚き、不動、慧智の修法を行ふのでありました。
 ところが、私は或る時、この護摩壇の奧にある本尊樣を摘發して子供心を驚かせたことがあります。それは錦の袋に包まれた二重の筒で、その筒も金色に輝いてゐました。私は恐る恐る、その筒を開けると、何ぞ計らん、現はれ出でたのは象の形を具へた二體の怪物が相抱擁してゐる姿でありました。私は最初それは不動尊像ででもあらうかと想像したのであるが、意外の祕密が顯はれたので、子供ながら些かの羞恥と驚きとを感じ、急いでそれを元通りのところに据ゑました。家人は護摩壇のあるところを聖天樣とも云つてゐましたから、この怪物は多分大聖歡喜天像で、おそらく生殖の神を象徴したものでありませう。これは御不動樣と聖天樣とを混同したのかどうか、私は知らないが、火を焚いて祈願するのは拜火教から始つた修法かも知れません。
 少年のころ父の物語に聞いたことでありますが、父が近隣町村の人々と大勢打連れて成田山に參けいし護摩の修法を要請したところ山僧達は代る代る出て接待に努めたが、終り頃に出て來た老僧は父の住所氏名に眼を止めて、些か驚いた樣で態度も改まり、やがて別室に招じ入れて大へん懇ろにもてなしてくれたとのことであります。成田山と何か特別の關係でもあつたのでありませう。成田不動の開帳が高崎市に營まれた際など、その大きな本尊の出張が汽車便に頼らずに、わざわざ利根川の船便を利用し、特に私の家に二三泊して、それからその巨大な厨子を村人達がかついで本庄驛に運び、そこで初めて汽車に遷しました。こんな方法を採つた事を思ひ合はせると、何かその間に特別な關係があつたのかも知れません。
 このやうに私の生家は私の少年時代にはまだ隨分賑はひました。それが兄の代になりますと、家も屋敷も人手に渡り、今はその痕跡さへも留めなくなりました。そのうへ因縁の深かつた菩提の寺も火事で燒失して、私には故郷そのものまでが亡くなつた感じを懷かせます。

     土着した祖先

「故郷(ペーイ・ナタル)を懷かしむ君の心持は吾々には珍しいことだ。江戸に遠くない所だといふが、その江戸といふ地名とエゾといふ名稱とには何か關係がないものだらうか、エゾとはアイヌの別名であるやうにも聞いたが、果してさうかね?」
 今度はポール翁が乘りだして來た。
「さあ、江戸とエゾとは或は語源を同じくするかも知れない。極く舊い頃には關東地方は『毛の國』と稱せられ、多毛人種の國であることを表明してゐたし、その多毛のアイヌを蝦夷と名づけ、江戸の地方は勿論エゾの住地であつたのだから、エゾが江戸に變つたのかも知れない。ただ近代ではエゾは北海道を意味し、北海道だけにしか純エゾ人は生存しない」
 と答へると
「ああ、さうか、しかし君の相貌はエゾ人種のそれであらうか、それとも他のモンゴール型か? どちらであらう?」
 と反問する。
「わたしの故郷の方面には古來朝鮮人が澤山に移住して來た歴史があり、僕の血統には恐らく朝鮮型が多分に混入してゐる」
「成るほど、さうか、高麗型か。それでは、君の故郷は朝鮮にも滿洲にもあらうし、或は海上遙かに遠いポリネシヤにも、インドネシヤにもある譯だらう」
 涯しもない廣いところに話は擴がつて行つた。そこで私は再びアイヌのことに戻り、利根川の名もフジ山の名も、皆アイヌ語から由來したもので、詳しく研究すると、日本の大部分の地名はアイヌ語に基くらしいといふことを語ると、ルクリュ翁は非常に興味深く感じ、
「ロシヤ及びシベリヤのムジクと日本のアイヌとは親密な血統關係があると説く學者もあるが、相貌の上から言へば、確かにさう言へるだらうね」
 と言ふのであつた。そして
「わたしの生家の五十嵐といふ姓なども或はアイヌ語系の名稱かも知れない。北國に多い姓であることも、その一徴證と言へる」
 といふ私の言葉を興味深きもののやうに聞いてゐた。曾てロンドンに國際博覽會が開かれた時、日本から送つたアイヌがそこで働いてゐたが、いつしか『東亞のトルストイ』といふ綽名が付せられて有名になつた。皮膚の色から見ればアイヌは白皙人種である。瞳の青いのも北歐人に似てゐる。このアイヌ種は日本の全部に先住し、或は沖繩までも足跡を延ばしてゐるらしく、日本の人種的基本は實にアイヌ種であるかも知れない。
 こんな話の時はマダムは寧ろ傍聽者であるが、しかし、言語を差しはさんで來る。
「エゾの名づけた利根川の岸邊に成長したエゾの五十嵐の家の子が今は西ヨーロッパまで來てゐる譯ですが、北歐のフィン人も東歐のハンガリア人もアイヌ人に近い血族ではありませんか。民族移動の波は、社會變遷の浪と互に錯節して樣々の歴史がくり擴げられましたのね。石川さんの歴史の浪をもつと話して下さい」

 くはしいことは御退屈さまですから省きますが、原始社會の開拓生活の樣が記録にのこつてゐますから、それを參考に供しよう。それは『本庄村開發舊記』と題する原稿で四、五葉のものですが、仲々に興味があります。この小部落を開拓した一味は六百年前に新田義貞といふ一人の英雄とともに勤王の師を起して鎌倉幕府を打つた人々でありますが、新田氏が亡びて、故郷の上野(古代の毛の國)に蟄伏し、子孫代々好機の到るのを待つたのでせうが遂にその望を失ひ永祿三年(西紀一五六〇年)に私の出生地たる埼玉縣兒玉郡山王堂村に移轉して來たものです。兒玉黨といふ武人の團體は日本の歴史上に有名な存在ですが、われわれの祖先もその一味であつたのでせう。當時兄弟二人と二三の親類とで移住して來たらしく、その兄を五十嵐大膳長國といひ、弟は同苗九十九完道と稱し、田畑を開發したり、諸方を廻つて兵法や算書の指南をしたり、その間は利根川にて魚を取つたりして渡世したと開發舊記にあります。然るに半里ほど隔つた本庄村の方の仲間から頻りに、その村方の開發に加勢せんことを要請して來るので、親類相談の上、弟の九十九完道は依然山王堂村に留まり、兄の大膳長國一家が本庄村西部に移つて大勢の人夫を督して開墾することになりました。當時この地方は茅野や藪野が廣く、猪や鹿が多くゐて作物を喰ひ荒し難儀至極であるといふ仲間の訴へに基き、援に赴いた譯であります。この開拓により、後の中仙道が漸く開通する端緒が始められた譯であります。
 ところが、この間に日本の政治組織と社會生活とに一大變化が齎されました。即ち、足利氏が倒れ、戰國時代が去つて徳川氏の統一事業が完成せられたことこれであります。そして全國各地の大小名は徳川氏への歸順を證明するために年々參勤交代することになりました。この參勤の通路として本庄驛を通過する中仙道は重要な役割を持つことになりました。新田氏譜代の面々は徳川家康の旗下に列した者も多かつたが、吾々の祖先達は『最早年久しく業家にありて世の治亂にかかはらず、安樂に住すること此上の望み御座無く候儘恐れながら御斷申上候』と云つて、いづれも世の榮華を顧みず百姓になりすましたのです。そして慶長十七年には、五十嵐大膳は百姓太郎右衞門となつてゐました。
 本庄村の同僚達の村高や屋敷の廣さが銘々に詳記され、また文書の署名の肩書にまで明記されてあるのは家の格式を物語るものか? それによると五十嵐太郎右衞門は本庄村最大の地主物持でありました。
一、五十嵐太郎右衞門屋敷、堅(表間に)は六十五間五尺、裏行三十間、田畑山林共水越石とも持高百七十五石所持有之候得共、江戸表年々日増しに御繁昌に相成、京都宮樣方初め大阪表並に諸國御大名、御旗本方、寺院方、御參勤御荷物繼ぎ送り往還通り宿に相定り宿場通り家々間口に應じ日々御傳馬役相掛り、右者(五十嵐のこと――筆者)表口多分に所持致し、難儀致居候云々
 と『本庄村開發舊記』にあり、課役、經費が年々かかるので到底堪へられなくなつたのであります。

     勇躍、東京へ

 マダムは言葉を差はさんで言ふ。
「政治的生活の興亡盛衰の波に眼もくれずに、永遠の土の生活に誇りを持たれた、イガラシの祖先は賢くも善き模範を子孫に示したものではありませんか」

 ところが、本庄村の五十嵐太郎右衞門は、何しろ同僚中で一番廣く間口を擴げたので、課役經費は年々嵩むばかり、その上何代か續く間に段々虚榮心も高まり、自然におごりの生活に慣れるやうになつたでありませう。遂に家門を維持することができなくなり、屋敷の一部分を或は鎭守に、或は威徳院といふ寺に分讓し、更に『間口八間を譜代召遣ひ候五助に居屋敷として遣し候、相殘り候は諸方より來り候者共方へ三間々口づつ相讓り、その身渡世も致さず寶永十九年迄に田畑山林屋敷まで不殘賣拂ひ、譜代召遣ひ候家來五助方へ夫婦引取り承應三年まで扶助致し置き、兩人共病死致退轉候』(開發舊記)といふことになりました。
 此地に引移つた永祿三年(一五六〇年)から沒落の承應三年(一六五四年)までは百年近くなるが、その間に三代か四代かの承繼ぎが行はれたでありませう。その最後の百姓太郎右衞門夫妻が『譜代召つかひ候家來』の家に引取られて退轉したといふ『開發舊記』の記事が如何にも人生の有爲轉變を物語り、頗るドラマチックの光景を髣髴たらしめます。
 かうして、兄の五十嵐大膳の子孫は絶えましたが、弟の九十九完道の子孫は今も細々と家系を繼續してゐます。勿論それは文字通り細々と、であつて、前にも言ひました通り祖先傳來の家も屋敷も無くなり、寺も神輿も灰燼に歸し、村そのものも昔の面影を全然失ひました。『國亡びて山河あり』といふ言葉がありますが、日本の政治も社會組織も、わが村の生活も幾變遷、幾興亡を重ねて今日に至りながら、北に赤城、西に榛名、妙義の諸秀峰を望む私の生地、利根、吾妻、烏、諸川が合流して大利根河を成せる、その急流に臨む私の故郷の自然は、昔ながらの悠揚たる姿を依然として展開してゐます。この急流に足をさらはれて、あつぷ、あつぷともがく間に不思議にも身體が浮かび、瞬間的に遊泳の術を覺えたのも五六歳の幼年時でした。遠い山しか見たことのない私は、山は青くなめらかなものと信じてゐました。幼時から『山高きが故に尊からず、木あるを以て尊しとす』といふ『實語教』を素讀しながら、山に木の生えてゐることを初めて見て驚いたのは十一二歳の頃秩父郡に旅行した時でありました。
 私たち同郷の少年たちは、河の水は必ず西から東に流れるものと信じてゐました。或る夏のこと、川邊の砂原で五六人の仲間が眞つくろに日やけした背中を並べて甲らを干してゐましたが、何かの話の序に、一人の少年が河は西方へも流れる、と言ひ出して大論爭になりました。その少年は越後から移つて來たものなので私達は一齊に『この越後つぺい、生意氣なことをいひやがる。越後だつてどこだつて、水が西に流れるつて法があるかえ馬鹿野郎! 水はかみからしもへ流れるにきまつてらい!』とののしるのであつた。私の郷里では西がかみで東がしもなのであつた。多勢と一人ではさすがの越後少年も對抗し得ず、齒がみしてくやしがつてゐた。しかし、彼は何か一案を得たものの如く、俄にその砂原を兩手でかいて、渚から西方に向けて一線の溝を掘つた。そしてそこにあつた小さな水たまりに河水を導き流した。『どうだ、見ろやい、利根の水だつて西の方へ流れるぢやねえか』彼はいういう迫らず勝利者の態度でかういひました。世間見ずの私どもは一言もなく沈默を守るより他に仕方がありませんでした。
 私が初めて東京に出たのは、十五歳の時でした。その時一番に驚いたのは人間の多いことでしたが、次に驚かされたのは東京灣の海面の廣大なことでした。自然界に對する知識がこのやうにあはれにも貧しかつたのは、全く當時の教育法の缺かんであつたと思ひますが、人間界のことについては可なり進んだ知識を與へられたやうに考へます。
 私の父は子供達の教育には並々ならぬ注意を拂つたらしく、常に家庭教師を招いて兄達の勉強を助けました。養蠶期或は暑夏期に小學校が數週間休校の時には特に學校の先生方を聘して、私達兄弟と村童達のために特殊學校を開いてくれました。父は何かの用事があつて屡※(二の字点、1-2-22)東京・横濱に行きましたが、置時計を買つて來て村人を驚かしたことが私の幼年のころの思ひ出にのこつてゐます。父はその頃から洋服をきることがありました。明治十八年(一八八五年)の頃だと思ひます。初めて利根川に船橋が架設せられ、本庄町(埼玉)と伊勢崎町(群馬)との街道が直通し、縣知事や郡長が馬車で巡視した時架橋者總代たる父は例の洋服で案内役をしたことを今も幽かに覺えてゐます。云はばハイカラの田舍紳士であつた父は自由民權論の急先鋒板垣退助の讃美者で、板垣の大きな肖像などが家に飾つてありました。それは私どもの小學校の先生で後には地方の政治運動の大先輩になつた持田直といふ人が自由黨であつたためかも知れません。福澤諭吉の『學問のすすめ』なども次々に取り寄せて兄に讀ませ聞くのを父は非常に樂しみにしてゐたやうです。
 私が十五歳の時、私を東京に呼んでくれたのは、郷里の先輩、茂木虎次郎(後に佐藤となる)といふ米國法學士の新歸朝者で、私の家に來てくれて、直接私に出京を促すので私はうれしくて飛びたつばかりでした。明治廿三年(一八九〇年)右の茂木氏とその同窓の橋本義三氏(後の粕谷氏、衆議院議長)との共同家庭の玄關番になつたのは、それから間もないことでありました。そこで初めて社會主義の話を聞き、佐藤氏がアメリカで見聞したシカゴ無政府主義者の大ストライキの物語などを聞いて私は少年の血を湧かしました。

     叛逆への興味

 ルクリュ翁は興味をそそられて長椅子から起き上り
「一八九〇年に早くもシカゴ・アナキストの話を聞いたとは驚いたが、當時あの事件がどんな影響を日本に與へたらうか」
「さあ、僕は十五歳の少年であつたから何も分らなかつたが、それから間もなく、國會議事堂に爆彈を持ちこんだものがあつたとか色々物騷な噂が傳へられた」
「議會に爆彈が?」
 翁は益※(二の字点、1-2-22)驚いたやうであつた。ヴィヤン青年がフランス國會に、而も議事進行中に爆彈を投じたのは一八九三年で、その教唆者と見なされて重懲役二十年の刑を受けて現に祖國亡命中の翁が驚くのも尤もな次第だ。もちろん翁は自分の重大事件などを口にはしなかつた。私はただ當時の翁の態度を思ひ出して、今、自ら合點するのである。マダムもいささか激動の樣子であつたが、やがて冷靜に返つていふ。
「そこで、あなたは無政府主義者になつたといふ譯ですか?」

 いえ、いえ、わたしが無政府的社會主義者になつたのは、それから十數年を經過した後のことでそれまでには、生活の上にも、思想の上にも、樣々な變遷があり、浮き沈みがありました。この弱小な生命の上には容赦なく浮世の荒浪が襲ひかかつて來たので、今その過去をふり返つて見て、自分ながら、よくもこれまで、自分を保つて來たものだと驚くばかりです。
 私の父は次兄を東京に遊學させるために、母をも共に上京させ同郷の青年學徒達の食事の世話をさせましたが、漸く東京の生活に慣れた母は、下宿屋の看板を出して、より多くの人を止宿させるやうになりました。そこへ下宿したのが同郷の新歸朝者茂木虎次郎、橋本義三の兩氏で、この兩氏がやがて一戸を持つことになつたので私はその家に招かれたのです。その時、茂木氏等は土佐の板垣門下の人々と『自由新聞』といふのを創刊して人民自由のために大いに活躍し始めたのです。最初の衆議院議長中島信行といふ人を始め、江口三省、直原守次郎などいふ急進的自由主義者が屡※(二の字点、1-2-22)來訪し、後には信州飯田事件の首謀者櫻井平吉氏も同居者となり、ほとんど毎晩、社會問題の議論が沸騰しました。江口氏は自由黨の綱領中に勞働者解放の一項を加へんことを主張して容れられず、遂に自由黨を脱退した人なのです。また自由新聞の方も、橋本(粕谷)茂木(佐藤)等と板垣派とは意見が合はず遂に腕力沙汰に及んで茂木氏はしたたか襲撃せられました。私は呼ばれて茂木氏の避難所を見舞ひましたが、それはこんぱる(金春)の藝者屋か或は待合であつたと思はれ、美しい姉さん達が幾人も付き添つてゐました。私が室に入ると茂木氏は寢臺から起きあがり、家は無事ぢやつたか己れはこんなにやられた、と、ずたずたに引裂かれたフロックや切られた時計の金鎖などを示すのでありました。私は社會主義のことなどは能くわからないが、かうした鬪爭には頗る引きつけられ、茂木(佐藤)氏はこの世の一番偉大な英雄であるやうに感じました。
 ところが、かうして自由新聞はめちやくちやになり、茂木氏は中島信行夫人(有名な湘烟女史)の媒介で紀州の素封家佐藤長右衞門氏の女婿となり、橋本氏は同郷の粕谷家に入婿となりました。一家離散と決定して淋しき未來が待ちまうける如く見えた私は、同じ米國歸りの福田友作氏に引き渡されることになりました。福田氏は中村敬宇先生の同人社に教鞭を執ると同時に、社會運動などにも關係してゐました。福田氏の住居は新婚の家庭であつた筈ですが、新夫人は留守がちで私と他の一青年とはいつも同人社の食堂で食事をすませました。それから間もなく同人社社長中村敬宇先生は死去し、同人社は閉鎖され、福田氏はその家をもたたむことになり、私は母の許に歸りました。
 丁度その時、勃發したのが埼玉硫酸事件といふ地方の政爭で、私の兄二人親戚など二人と、兄の學友二人と、都合六人が刑事被告人となつて鍛冶橋監獄に投じられました。私の一家は自由黨であつて縣政上の改進黨と爭ひ、最後の手段として政敵を上野、王子間を進行中の汽車の中で襲ひ、これに硫酸を浴びせて、下手者は車窓から飛び下りたのです。すべての計畫は私の次兄が發案したことで、彼はまだ十九歳の青年で、今の中央大學の前身、東京法學院の學生でありました。兄の命令で私も一度はその硫酸を買ひ求めに遣られましたが、子供の故を以て、藥屋は賣つてくれませんでした。そして、こんどは長兄が出かけて遂に一罎の毒藥を入手することが出來ました。いよいよ決行の前夜、五人の同志は最後の晩餐といふべき酒宴を張りましたが、その時の光景は悲痛を極めた眞劍なものでありました。下手者に選ばれた男は自ら進んで其任に當つたのですが、さすがに涙ぐんだりして、私の兄に叱られた樣など、今も眼に見るやうに思ひ出されます。決行の列車が王子驛に着くと直ぐに警察官が出張し、間もなく兄達四人の同志は捕獲され、下手者もその日の内に捕へられました。その三日目頃、家宅搜さが來て、家中を掻き亂しました。私が硫酸を買ひに行つて無駄になつた購入書が火鉢の引出にあることに氣づいた母は、何とかして處分したいと思つたが、刑事が眼前にゐるので如何ともすることが出きず、隙を見て口に入れて飮下しようとしたがうまく行かず、遂に煮たつてゐた鐵びんの中に投じて發見を免れたといふ悲喜劇もありました。この事件で次兄と學友二人と親類のもの一人とは無罪になりましたが、長兄と下手者とは一ヶ年と三ヶ年との刑を被るに至りました。どの被告も口を割らないので未決が一年半もかかりました。次兄も初審で一年の禁錮を宣告されたが、再審で江木衷氏の辯護によつて無罪になつたのです。それは明治二十六年六月頃のことです。
 このやうな事件に遭遇する度ごとに、私は、叛逆的行動に興味をそそられるやうになりました。兩兄が出獄し、次兄が法學院を卒業して母とともに歸郷したので、私は同じ家にゐた先輩の世話になることになつたが、間もなくその先輩に叛逆して、その家を飛び出し再びさきの福田友作氏の家に寄食することになりました。その時、福田氏は先妻と離別して、大阪國事犯のヒロイン景山英子氏と結婚して既に男の子を儲けてゐました。

     變轉の若き日

 三男に生まれた上、生まれ出ると間もなく形式ながら他家の養子にされた私は、いはば一家の餘分ものでした。況んや、家道の傾いた父から學資を送つて貰ふことはできませんでした。從つて周圍に起つてくるめまぐるしい變轉の浪に伴つて、わたしの生活も浮動するのでした。いろいろと自活の道を見出させようとして父は私に内職の仕事などを探させましたがうまく行きませんでした。その間においても、私は時間の都合を計らつて、國語や漢文や數學や英語などを一通り勉強しました。もちろん不規則な勉強ですから上達しませんでした。いま私の印象に殘つてゐる當時の修業の中では、帝國教育會(辻新次氏會長)内文學會における根本通明老師の論語や詩經の講義、畠山健氏の枕の草子の講義や立花銑三郎氏と元良勇次郎氏の倫理學などが、最も多くの影響をわたしの心に遺してくれました。二三ヶ月通學した山本芳翠畫塾の思ひ出も、出京後最初の勉強であつたことを理由として、深い懷しさの對象になつてゐます。先輩塾生中には湯淺一郎、白瀧幾之助、大内青也(?)などといふ、日本の洋畫界では最も古い人々がをりました。しかし環境の變るに隨つて、私の修業も變りました。交通の便もなし、自修の資材を缺いた當時では、自分の思ふやうには行きませんでした。國語傳習所といふところで、落合直文や、小中村義象や、關根正直やの講義を聞いたり、右の文學會でいささか哲學じみた講義を聞いて、私の心持はその方向に傾き、今の東洋大學の前身である哲學館に入學しました。しかし在學僅か一ヶ年餘りにして、私は殘念ながら郷里に歸らねばならなくなりました。それは再び寄食した福田家の生活が非常な困窮状態に陷つたためでありました。
 福田氏は栃木縣の可なりの資産家で、その家の長男である友作氏が、ささやかな家庭を維持する經費ぐらゐは、問題にもならぬほど些細なことであつたに相違ありません。ところが兩親の氣に入りの嫁を出して、景山英子といふ變り種と同棲するに至つた友作氏の行動は、當時としてはまさに兩親への叛逆でありました。殊に家付の娘であつた母親が許しませんでした。勿論、自由行動を採つた友作氏は自主生活を營むべきは當然でありました。ところが金持の息子さんの悲しさで、貧乏骨ずゐに達しながらも、最後には生家の方からどうにかしてくれるものといふ依頼心が無意識に潜んでゐたのでありませう。ただ不平不滿でその日その日を送るといふ有樣でした。明治二十七年(一八九四年)の大晦日にはお正月の餅を近所の餅屋に注文したが、その餅代が調達できないで、折角持つて來られた餅をまた持ち歸られました。ところが、その大晦日の夜、わたしの父が、わたしに新調の手織木綿の羽織と小倉のハカマとを持つて來てくれました。わたしは折を見て父に福田家の窮状を話すと、父はそつと懷から五十圓とり出して、御用にたてばよいが、と申しました。福田氏夫妻のよろこびはもちろん言語に絶するほどでした。そして父が歸ると、すぐにお正月の酒と餅とが買ひこまれました。
 この五十圓の金は米一升十錢の當時としては可なりの助力になりながら、しかし燒石に水であつたことは當然でありました。わたしの新調の羽織と袴も、永らくは手許に留まらず、質屋の繩に縛られて、お倉の奧に幽囚せられました。夏になつても蚊帳がなく、知人の紹介で、損料で二はりの蚊帳を借り、家への途中、一はりを質に入れてお米を買つて歸つたこともあります。牛込天神町の福田家から下谷黒門町の知人のところに行き、借り受けをし、神田表神保町の質屋に廻つて歸るのですから、大へんです。電車もバスも無し、人力車に乘るのも惜し、大ていは徒歩のお使ひです。かうした貧しい中にも、景山女史が大切に持つてゐた軸物がありました。それは朝鮮の革命志士金玉均が特に女史のために詠じた詩を絹地に書いた見ごとな懸物でした。景山氏福田夫人は『ぐづぐづしてゐれば、こんな物もいづれは無くなるであらうから』と、わたしの父に感謝の意をこめて寄贈してしまひました。父はまたその時の景山氏の手翰を額にして奧座敷に飾つて置いたほどそれを喜んで居りました。
 どういふ意味で私は福田家を去つて故郷に歸つたのか、その時の事情を忘れてしまひましたが、一家を維持することが困難になつたことが主要な原因であつたと思ひます。赤子を負うて栃木縣の郷家に歸つてゐた福田氏の居を訪問したのがその時の別れになつたことを思へば、福田氏夫婦は既に郷家に入ることになつたのかも知れません。兎に角、かうして私も故郷に歸り間もなく友人の紹介によつて上州榛名山麓の室田村といふ所で小學校代用教員になりました。この小學校教員の職は私に眞の生きがひを感じさせました。自分の心がすぐに兒童に反映します。兒童は自分の鏡の如くです。世に教師殊に小學校教師ほど生き甲斐のある生活が他にあらうかと私は感じました。私は眞に感激の中で一ヶ年を過ごしました。殊に村童達と野に行き山に遊ぶ時などは天國を感じさせられました。ワラビとりに相馬山に登つて一望千里の關東平野をながめた時の感興は、今も忘れられません。はるかに霞をへだてて銀の線の如く見えるのは、わが幼ななじみの利根川ではないか、すべては夢の國に遊ぶごとく感じさせられるのでありました。然るにその私が赤痢病になつて歸郷し、私の病氣が父に感染して父は死去しました。私は再び小學校教員に戻り、しばらくその職を續けましたが、何とかして確乎たる職位を持たなくては永久性のある生活に就けないと感じました。二年ほど代用教員を勤めてゐる間に教育といふものに興味を感じたためでしたが、中等教員の檢定試驗を受けて見る氣になり、一度これを試みましたが、全然失敗に終りました。それは明治三十年のことであつたと思ひます。中等教員の試驗は科目が少なく自分で選擇ができるのでその方を試みることになつたのです。この失敗に反撥して、再び苦學生活を試みるべく上京を決心したのであります。丁度これと時を同じくして例の福田氏が上京して新たに一家をかまへるに至りました。そしてわたしにもう一度上京せよと促すのでありました。そこで私は、暫時福田氏のところにゐて、友人、先輩、親戚等に頼んで、毎月少々づつ學資を貰ふことを約束するに成功しました。後には粕谷義三氏からも毎月送金してくれるやうになりました。そして當時上京してゐた從弟の下宿に同居することになりました。かうして私は明治三十一年に今の中央大學の前身東京法學院に入學し、三十四年に卒業するまで、極貧ながら專心勉強することができました。法律の研究など素より好んだ譯ではないですが、學資の補給を得るには、これが最上の手段であつたのです。私の本心は英語や哲學に傾いてゐたので、法律學校の講師の中には遂に一度も顏を見ずに過ぎ去つた人がある位でした。それでも卒業の時には可なりの成績であつたのは不思議なほどでした。

     生涯の轉機

 明治三十一年から三十四年までの私の生活は、私の一生涯の運命を決すべき樣々な激浪と渦卷とに飜弄されてゐた。それから學校を卒業して萬朝報記者となり、次で平民社の一員となつてからも、私の精神生活は決して明朗でなく、常に不安と焦燥に驅られてゐたが、しかし、それは學生時代に受けた衝撃の餘波に過ぎなかつた。
 自分の古い傷をいま再びさらけ出すのは不愉快極まるが、その時代の自分を語るには、どうしても、それをぬきにする譯にはゆかない。いやなことでも意地になつて語らねばならない。私はすべてをマダムに打ち明けて物語つた。

 明治三十一年の九月に今の中央大學の前身である東京法學院に入學し、それと同時に築地の立教學校の分校である英語專修學校(神田錦町)といふのに入學して自分のおくれてゐた英語の力を急増することに努めました。素より充分の學資がないので從弟の下宿(飯田町)に同居して、私は朝から晩まで英語學校と圖書館とに暮しました。從弟の室が三疊で、そこに机を二つ並べ、本箱を置いてあるのだから、言はば、そこらの警察の留置所にゐるやうなものでありました。その下宿も所謂素人下宿といふ奴で、水戸の藩士の未亡人と老孃との三人のお婆さんが細ぼそと營んでゐたのでありました。
 明治三十二年のお正月元日に、われわれはこの下宿の親戚の家に當時流行のカルタ會に招かれて行きました。それは本郷の新花町といふ粹なところでありました。みんな興に乘じて夜の更けるのを忘れ、たうとう翌朝の初荷の聲を聞きながら飯田町の下宿に歸りました。ところが、これが縁になつてその家で私を養子にほしいといふことになりました。その家には男女の子供が澤山あるのですが、主人が年老いてゐるので子供達の助力者になつてほしいといふのでありました。殊にその姓が僕と同じの石川氏であるから、法律上には長女を娶つてくれればよいといふのです。僕が餘りに貧しい生活をしてゐて、しかも一心に勉強するのに同情してくれたのでせう。それは從弟を通しての申し入れであつたので、私は郷里の母や兄に意見を問うてやると、兩方とも、應諾せよ、といふ答へでありました。
 わたしの生活と生活氣分とは、かうして俄かに變りました。養父は幾つかの鑛山を持つて居り、上野公園にパノラマを經營し、銀行の創立をも計畫してゐました。鑛石見本を携へて横濱に行き、西洋人に賣り込むべく奔走したり、試掘權維持のために仙臺方面に飛んで行つたり、銀行創立の一委員となつて福田友作氏の出資(一萬圓)を獲得したり、學生の身である私の生活としては餘りに横道にそれて行きました。教場で鼻血を出すまで英語の勉強に熱中した昨日までの生活を顧みると自分ながら驚かされるほどでありました。しかし、金さへ儲かれば、すぐに洋行ができるといふ希望が與へられたので私はその生活に滿足でありました。
 ところが思はぬ方面から魔の手は伸びてきました。飯田町に大きな家を構へてゐた福田氏は俄かに居を轉じて郊外の角筈にささやかな家に住むことになりました。銀行家として生活するには愼ましい態度こそ必要だと考へたのかも知れません。所用で福田家を訪問すると、時には歸りの汽車が無くなることもありました。その頃の角筈は一面が野原であり、新宿驛も淋しい小さな一軒家でありました。そして汽車が無くなれば泊るよりほかに致し方がない。それに遙々訪れると福田氏は必ずお酒を出して御馳走するのです。わたしは餘り飮めないので、いはば福田氏のお酒の肴にされるやうなものでありました。けれども福田氏はわたしを歸さない、無理に引留められるのは可いが、夏の夜は蚊帳の中に寢なければならない。魔の影はこの蚊帳の中にひそんでゐました。福田夫妻は奧の間に寢て、酒に醉うた私は若い娘と四疊半の小さな室に一つ蚊帳の中に寢せられました。その時私は二十三歳、娘は十九の若ざかり、婚約の人がアメリカに行つてゐるので、暫し福田家に托された人。夏の夜の短い夢ではあつたが、若ものたちの青春の血は漲り注いで醍醐の海を湛へるのでありました。
 最初は已を得ず泊めてもらつたのですが、それからは、こちらから泊めてもらふやうに時間を見計つて行くこともありました。この間に福田家に一凶事が起りました。それは福田氏が突然發狂したことであります。醫師の診斷では腦梅毒の結果で不治の病氣だといふ。新立銀行に出資された一萬圓の金も返し、看護のお手傳ひに頻々と福田家に行くやうになりました。かうした不幸を見るにつけて私の感情も冷靜な反省を呼ぶやうになりました。しかし氣の毒な娘は益※(二の字点、1-2-22)熱中してゆく樣子でありました。福田家には病人の看護やなにかで男手の必要を感じ、屈強の若い男子を手傳ひに頼みました。私はその若者にいささかのしつとを感じました。その内に娘は祕かに身おもになつたことを告げるのであつたが、私は自身のしつと心に打ちまけて、それは私の責任ではあるまい、と反ばくさへしました。さうした時には娘はくやし涙にくれるのでありました。
 福田氏は遂に逝去しました。その混雜があると同時に娘は何れへか姿を隱しました。福田未亡人は、きつとあの若者のさしづだと私に告げるのでありました。私は何とも答へやうがありませんでした。ところがそれから幾週間かたつた時、私の下宿に私の留守中に未知の來訪者があり、近所の某所に待つてゐるから來てくれと言ひおいた、すぐに行つて見ると、それは向島の業平町の木賃宿の主人で、娘の依頼でやつて來たのです。もう産月に近いのだといふことを聞いて私は今さらながら驚天しました。明日を約してその男を歸し、直ちに行李の中から眼ぼしい衣類全部を包み出して質屋に飛び、三四十圓の金をこしらへました。そして兎も角も翌早朝、向島まで車を飛ばし、お腹の大きい娘に會つて一時しのぎにと約束の金を渡しました。喜び涙ぐむ娘に暫しの辛棒を説いて私は一まづそこを辭し去りました。

     若き日の苦惱

 福田未亡人から聞いた若者への疑ひが晴れた譯ではないが、娘が私に訴へる以上は私に責任があります。どうしてこの娘を助けたらよいか。名義だけにしろ他家に養子になつた身で既に婚約の娘もある自分であれば、自由の行動もできません。思案に餘つて、それを福田未亡人に打ち明けました。福田未亡人は私の打ち明けたことを非常に喜んで、すぐに知人の慈惠大學講師に事情を告げて、慈惠病院に入れてくれました。そして間もなく安らかに分娩することができました。數日にして、その母と子とは福田氏に引き取られました。憐むべきその赤子は、私の郷里の兄夫婦の養育に委ねられることになり、やがて上京した兄夫婦に引き渡されました。
 かうして難問題は一つかたづきました。けれども私の精神上のなやみは、深まるばかりでした。赤子は引き取つたが、その母を如何にすべきか。福田氏は私がその母と結婚することに賛成しない。私としては養家の娘に對する義理もある。こんな不しだらをしながら學資を貰つてゐることは一日も堪へられない。私は斷然決心をして養子縁組の解消を石川家の父親に懇願しました。しかし事情を打ち明ける譯に行かないので、唯だ私が石川家の恩顧を受ける資格なきこと、今までの御恩は決して忘れず、一人前の人間になつたら、必ず御恩報じをします、など言ひわけしたが、勿論先方では譯がわからなかつた。親戚の人々が來て私の心をなだめもしました。婚約の娘も來ていろいろと私の氣持を柔げることに努めました。それに對する私の心は悲痛のどん底にありました。私はその娘を熱愛するといふほどではなかつたが、しかし、いやではありませんでした。養母はその娘と私とを伴うて、よく諸方の盛り場に行きました。十六歳の少女であつた娘は、なまめかしい素振りなどいささかも示しませんでした。その少女が、この問題に會つてからは、すつかり大人らしくなつて私のところに訪れるやうになり、それが私には殊に痛ましく感じられました。わたしは一そ自分の失敗をうち明けようかとも思ひました。しかし氣の弱い、僞善のわたしには、それをどうしても決行し得なかつたのです。
 それに私は所謂『實業家』のやうな生活が私の本性に合はないことを氣づき始めました。わたしは矢張り貧困の中で勉強した方が、自分の本分であるやうに感じ始めました。しかしたとへ一年間でも父と呼び母と呼んだ養父母に對しては、何と言ひ譯することもできない理由で、縁組解消を請ふのは、何としても、つらいことでした。それはほんたうに泣き別れでありました。
 そこで一方にかうした離別を強行した私は、他方の娘に對しても甘い考へを持つ譯に行きませんでした。わたしはここで一切の過去から斷ち離されて、眞に新しい生活に入らねばならぬと考へました。しかし、それは理性で靜かに考へる時の心のさまであつて、物に觸れ、ことに感じては、身も心も狂ひなやまざるを得ませんでした。かうして私が狂ふさまを見ては、母になつた彼の女も些か私の行動にあきれた樣子でありました。そして突然福田家から姿を消してしまひました。彼女に對する愛情が私にないものと感じたのかも知れません。それも彼女としては無理ではなかつたのです。私が心身を狂はした眞情を察することは、彼女にとつては不可能であつたのです。
 一波は萬波を呼ぶ。一つの波が消え靜まつたと思ふと、そのあとは幾つもの波が起つてゐました。犯した罪から免がれようとする私はそのために悶え狂つて、どこにでも慰安を求めようとする。急の夕立に追ひまくられて、どんな木蔭、どんな軒端をも頼みにして驅けるやうに、少しでもやさしい異性を見ると、すぐにそれに近づくやうになりました。
『男らしく一本立ちになつて、勉強しなさい』と元氣づけてくれるのは福田未亡人でありました。從つて福田氏は私が養子縁組みを解消することには賛成でした。ところで縁組を解消する以上は、その親戚である今までの下宿に居るわけに行かない。私は學校に近い猿樂町の下宿屋に轉居しました。しかし、そこにも長くは居れませんでした。生活費が餘りに高まるからです。私は一人の友人と相談して普通の家庭の一間の二階に同宿することになりました。生活費は今までの下宿屋の半分で足りるので、學校を卒業するまでの視透しも出來るやうになりました。
 その家は飯田町の中阪に近いところでありました。老母と二人娘と末の男の子と四人の家庭でありました。その家の次女は高等師範の生徒なので日曜日毎に家に歸るだけでありました。從つて平生は近所の小學校教師の長女と、中學生の息子と、その母親との三人暮しでありました。父親はどういふ事情か二ヶ月に一度ぐらゐしか姿を見せませんでした。横濱に住んでゐたやうでした。この家に移つてからは、粕谷義三氏から毎月十圓づつ送つてくれるやうになり、不足は親戚や友人から補充されることになつたので、私は安心して勉強し得るやうになりました。
 ある時法學院に全校學生の討論會が催されました。この學校へは餘り顏を出さない私ではあるが、いささか討論に興味をそそられてそれに參加しました。勿論優勝など豫期した譯ではなかつたが、原嘉道、馬場愿治兩氏の審判で、不思議にも二等賞が授けられました。大いばりで歸宅して、宿の老母にそれを見せると、お婆さんは、わがことのやうに喜んでくれました。その當時南洋から歸つた佐藤虎次郎氏や粕谷義三氏の手紙が屡※(二の字点、1-2-22)來著する、景山氏として有名な福田英子氏は頻繁に來訪する。こんなことから、家のお婆さんの私に對する態度は、漸く變つて來ました。明治三十四年七月、私が法學院を卒業した時には、お赤飯をたき大きな鯛の頭付を添へて祝意を表してくれました。その時、その母親の言葉に『これは澄子の志しなんですよ』といふ一語がありました。私ははつと思ひました。暑中休暇で高師の寄宿舍から歸つた澄子さんがお勝手元で働いてゐるのです。そして、靜かにこちらに向いて手をついて『お芽でたう御座います』といふ。それは靜肅そのものでありました。私は胸のときめくのを抑へて、ただ『有りがたう』と答へたのみでありました。

     戀する心

「婚約者がありながら、他の娘さんに關係するなんて、たちがわるいですね。そしてまたその兩方と別れてしまふ、そんな馬鹿げたことがありますか?」
 マダムは眞劍であつた。マダムは二心といふことが非常に嫌ひなのだ。それにフィヤンセーと分れたなら、子の母と結婚すればよい。その人とも別れるのは二重に罪を犯すことになる。自分の心を輕くするために他の苦しみを顧みないエゴイズムだ。と、マダムは責めてくる。私は答へた。

 けれども、その當時の私としては、かうした失敗の生活を一切清算したかつたのです。勿論それは質のわるいエゴイズムに相違なかつたでせう。今考へて見ると、わたしは性の問題については全然無教育であつたことに氣がつきます。いや無教育どころか、非常な惡教育を環境から與へられたのです。十六、七歳から遊廓に入りびたつてゐた兄やその友達の男女關係は放蕩を極めたものでした。さうした人々の行動や談話に自然に感化されたのでせう、わたしも遂に前後をも顧みずに失敗を重ねるやうになりました。
 しかし、いかに墮落し惡化しても心が靜まると、また烈しい良心の聲が身に迫つて來るのでした。それに、せつかく學問に心身を打ち込んだのも僅か半年たらずで、生活環境はがらりと一變しました。その新しい生活も、また長つづきせず、わたしの心は地獄の底に轉落してしまひました。惱みに堪へず、いつとはなしに、耶蘇の教會に足を運ぶやうになりました。はつきり意識した譯ではないが、『救ひ』を求めていつたのです。そして曾て經驗したことのない光明と元氣とを與へられたのが、本郷教會の海老名彈正先生の説教でありました。わたしは全我を傾けて海老名先生に沒頭しました。そして洗禮を受けました。それは東京法學院を卒業してから間もない時でした。
 澄子さんとの間に愛の誓ひが交はされたのも、その當時でありました。同宿の友は暑中休暇で歸郷したので一人で二階にゐたわたしは、澄子さんと談らふ時間と自由とを心ゆくまで與へられました。しかし、過ちを再びしてはならない。敗殘の身、けがれた身ではあるが、心だけは淨らかにして、この戀は遂げなければならない。かう私は決心しました。わたしは天にも登るやうな嬉しさで眞に過去の惱みから救はれたことを感じました。
 澄子さんは、或る時言ひました。高等官にでも辯護士にでもなられるやうに、試驗を受けて下さい。さうしないと親達にも話せないから。わたしは、そのことを快よく承諾しました。そして、大勇みで勉強にとりかかりました。學校になど稀にしか出たことのない私ではあるが、しかし自信だけは持つてゐたのです。法律なんていふものは人間の造つたもので、それに頭をつかふのは元來が低能者のすることと、きめてゐたのです。安心しきつて辯護士試驗を受けました。家に歸つて、問題とわたしの答案とを引き合はして見て、無論及第だらうと信じてゐました。ところが、何ぞ計らん、幾週間の後になつても何の通知も來ませんでした。それは何かの間違ひだらうと何時までも考へたのですが、遂にあきらめざるを得ませんでした。
 次で司法官の試驗にも應ずる積りで願書を出したのですが、冷い牛乳にあてられて大腸カタルに罹り、幾日幾夜かを澄子さんの手厚い看護に浴した幸福には感謝したが、大切な試驗には行けませんでした。そして、かうして二つの試驗に失敗したことは、わたしにとつても、澄子さんにとつても、暗い不安の種になりました。澄子さんはやがて學校に歸り、わたしは獨立生活の道を樹てなくてはなりません。それは漸く惱み悶えの戀に變つて行くのでした。
 しかし私は試驗についてはまだ失望しなかつたのです。試驗官の方で私の答案に落第したのだ、とかう考へてゐました。時のたつのは早いもので、間もなく翌年の試驗期になり、今度は高文の試驗に應じました。提出論文は及第の通知に接しましたが、次の筆記試驗はまた落第でした。この時わたしは既に[#「既に」は底本では「既は」]澄子さんの家から他に引越してゐました。澄子さんの姉さんにお婿さんができたので、室を明ける必要ができたのです。
 それから間もなく、私は堺利彦、花井卓藏兩先輩の紹介で萬朝報社に入社することになりました。明治三十五年初秋でありました。花井氏とは、わたしがまだ母のところにゐた十五六歳の頃から知り合ひになり、花井氏の長男節雄君が死去した時には私は香爐を持つて葬列に加はりました。堺氏と知り合ひになつたのは、同氏が福田氏の隣家に引越して來られたことが因縁になつたのです。堺氏の何かの文章を讃美したもの(何かの雜誌に掲載したもの)を福田氏に見せると『堺さんは家のお隣に越して來たの』といひ、すぐ堺氏を呼んで來てご馳走しながら紹介してくれました。兎に角、かうして私は萬朝報社の記者にさして貰ひました。そして最初のうちは社長黒岩周六氏の祕書を兼ねてゐました。
 堺氏は私を萬朝報記者にしてくれると同時に、私を試驗地獄から救つてくれました。私は學校を卒業するまで、あの樣な試驗を受けるつもりはなかつたのです、まつたく戀ゆゑに迷ひこんだ横道でありました。この試驗を思ひ切るといふことは何でもないが、そのために、天にも地にも、かけがへのない生命そのものである戀をも思ひ斷たねばならなくなるであらうといふ不安がありました。しかし『そんな馬鹿氣たことは止めたまへ』といふ堺氏の忠告には眞實がこもつてゐました。恐らく堺氏は福田氏から私の心の惱みを聞き知つたのかも知れません。堺氏の言葉に從つて私はその年の試驗のみならず、永遠にそれを斷念しました。しかし私の戀心はつのるばかりでした。先方は私が新聞記者になつたことに失望を感じたらしく學校を卒業して高等女學校の教諭になつたばかりで病臥する身となりました。私はそれを見舞ひたかつたのですが、澄子さんや母親の心持が、私を快く受け容れてくれるかどうかわからないので思ひ止まりました。唯澄子さんの弟を通して私の心を傳へるのみでありました。弟は常に私のところに出入してゐましたから。

     萬朝報時代

「辯護士だの、裁判官だのにならないで、あなたは助かりました。ほんたうに、人間として生きることができたのです。その意味でムッシュウ堺こそ、ほんたうにあなたの救主ですよ」
 マダムには、私の戀愛問題など問題ではない。それよりは生まれた子供こそ大切だと考へて、そのことを問ひ詰めて來る。子供は私の母が孫娘として愛育しましたと答へると
「ああ、さう! それで安心しました」
 といかにも喜ばしさうに破顏微笑するのであつた。そして
「それから基督教のあなたはどうなつたんです?」
 耶蘇教ぎらひのマダムはまた些か興奮するのだつた。

 わたしが萬朝報社に入つた時、同社の外廓團體として理想團といふものがありました。その中には若い辯護士達や新進の思想家などが加はつてゐましたが、何と言つても、その思想的支柱となつてゐた人は特異な信仰の持主として有名な内村鑑三氏其他二、三の萬朝報社員でありました。毎日新聞の木下尚江氏も有名なメンバーの一人でありました。屡※(二の字点、1-2-22)理想團講演會が東京及び地方で開かれましたが、雄辯家木下氏の名は缺くことのできない看板でありました。私は社長の祕書であつた關係上、また理想團の事務も執らされました。諸方に飛んで講演會の準備工作の手傳もしました。この理想團で私は初めて公開演説をさせられて大みそをつけたことを記憶してゐます。それは四谷見附外の三河屋といふスキヤキ店の二階でした。私の前座が餘り長談議になつたので、聽衆はアクビする、私は結論に達すべく焦せるが、どうしても結びの言葉が出てこない。やつとのことで言葉を絶つて、樂屋に歸つた時は、汗びつしよりになつてゐました。
 この演説會が終つて、奧の室で黒岩社長以下牛肉のスキ燒の御馳走を食べてゐると、さきの會場には新たに多くの青年が車座になつて首を集めてゐました。それは漸く流行し始めた百人一首のカルタ會でありました。黒岩社長は、いたくその光景にうたれ、『これは面白い』の嘆聲を連發するのでありました。萬朝報がカルタ會の肝煎になつたのは、これから始まつたことであります。
 社の仕事に少し慣れた頃でした。私は社長の家に屡※(二の字点、1-2-22)招かれました。それは黒岩社長が當時執筆中であつた『天人論』の原稿を整理淨寫する仕事の御手傳をするなどのためでありました。しかし社長は私には筆耕をさせずに何時も議論を吹つかけるのです。デカルトの『われ思ふ故にわれあり』から、カントの『實踐理性』論から、『至上命令』論に及び、議論はなかなか盡きませんでした。わたしはしばしば夜中の十二時を聞いてから車で送られて歸宿するのでありました。そんな時は、いつも角筈の福田氏の家に行くことを常としました。素人下宿の家に夜更けて歸ると厭な顏をされるので、つひさうなつたのであります。
 當時の青年は、多く哲學的な思索に耽り、人生觀上の惱みに陷る者が少くありませんでした。黒岩氏がその人生哲學『天人論』を著したことは、まことに時代精神に深く觸れるものがあつたと言へるでありませう。一高の學生の藤村操といふ青年が、日光の華嚴の瀧の巖頭に一感想文を記して、自らその瀧壺に投身した事件は、『天人論』ができた直後のことでありました。そこで黒岩社長は直ちに藤村問題をとり上げて萬朝報紙上で論じたてました。『天人論』が盛に引きあひに出されたことは勿論です。そして『天人論』は飛ぶやうに賣れました。
 萬朝報は當時の知識的青年に熱愛された新聞でありましたが、それは黒岩氏のケイ眼がよく時代青年の心機を把へた結果であつたと思ひます。私のやうな若ものをもとらへて夜を徹して論議して倦むことを知らなかつたのも、かうした底意があつたからでありませう。黒岩氏が新聞記者として非凡な人であつたことが察せられます。
 ところが、この非凡な黒岩氏の新聞社内に一大問題がぼつ發しました。それは單に一新聞社の問題といふよりは寧ろ日本の、日本民族の、否更に世界人類の運命にかかはる重大問題でありました。日露間の戰爭の危機が切迫したのであります。明治三十六年(一九〇三年)の夏には日本の國論が沸騰して猛烈な勢で對露開戰論が唱道されました。萬朝報社でも黒岩社長や主筆格の圓城寺天山氏は開戰論者でありました。これに對して客員である内村鑑三氏や社會主義の幸徳秋水、堺枯川兩氏は非戰論を主張しました。私は會議室の隣で事務を執つてゐたので、兩派の對論をしばしば聞くことが出來ました。新參の若者であつた私は、その議論に加はり得なかつたのは勿論、その議論を聞くことも遠慮がちにせざるを得ませんでした。しかし私のほのかに察するところでは、堺氏の論鉾が最も鋭かつたやうに思はれます。内村氏は以前自ら非常な難局に遭遇した際に黒岩氏の厚い援助を受けた關係があり、幸徳氏は黒岩氏と同國人であり、かつ、その文才を愛せられて特に高給を與へられてゐた關係にあり、ともに黒岩氏に對しては極めて遠慮がちでありました。退社の際なども、堺氏がぐんぐん二人を引つぱつたらしく私には感じられました。堺氏は退社の直後私にいひました、『人間は決して腕前一ぱいの給料を取るものではない。いつ扶持にはなれても何處へ行つても自力で生活できる自信を持ち得ないと弱くなつて恥をかく』。非戰論で退社する時の堺氏の意氣を追想して私は『ははーなるほど』と感じたことでした。
 幸徳、堺兩氏と内村鑑三氏とは二つの退社の辭を萬朝報第一面に掲載してこの思ひ出多かるべき新聞と別れました。それが日本の進歩的知識階級に非常な衝撃を與へたことは言ふまでもありません。それは三十六年十月十二日のことでありました。やがて十一月十五日には、堺、幸徳兩氏協力の週刊『平民新聞』が創刊されました。それがまた非常なセンセーションを日本の青年社會に興起せしめ創刊號は再版まで發行するに至りました。剛腹そのもののやうな黒岩氏も何とかして退社の人々と和解の道はないものかと考へてゐたらしく、私にもそれとなく意中を漏らしたこともありましたが『平民新聞』創刊のことを聞いて、初めて斷念したやうに見えました。私は『平民』紙創刊の議が一決すると同時にこれに入社を許され、同十一月二十九日の同紙三號に入社の辭が掲げられました。

     基督教の影響

「クリスチャンが無政府主義者で非戰運動をするなんて、をかしくはありませんか?」
 ヨーロッパの一般クリスチャンを標準にするマダムはいささか不滿と興奮とを以て私に問ひつめるのであつた。ルクリュ翁は傍から言葉を添へていふ。
「クリスチャンだからつて、一概に排斥するには及ぶまい。クリスチャンにもいろいろある」
 マダムも顏色を和げて、ほがらかに言ふ。
「さういへば、ヨーロッパでも最初はキリスト教から社會主義になつた人が澤山にあります。けれども今社會主義または無政府主義を唱へるものは、直ちにキリスト教徒から敵對されます」
 これに應じてわたしはまた語を續けた。

 わたしは、前にも言つたやうに十五、六歳の時から社會主義や無政府主義のことを教へられ、學生時代から新聞や雜誌に『ソーシャリズム』を主張した文章を寄せました。しかし、ほんたうに人類社會への獻身といふことを教へられ、全我をそれに傾倒しようとする情熱を養はれたのは全くキリスト教によつてでありました。海老名彈正氏の『新武士道』といふ説教などにはどの位感激せしめられたことでせう。この海老名氏の本郷教會からは可なり多くの進歩的な青年が輩出しました。小山東助だの吉野作造だの、内ヶ崎作三郎だの、三澤糾だのいづれも當時の進歩的若人だつたのです。わが大杉榮なども同門の逸材といふべきでありました。
 わたしは海老名氏の教會に出入する當時、別に内村先生の教へを受けるやうになりました。それはわたしが萬朝報記者になつてからのことですが、内村先生から授けられる感化はまた不思議に新しいものがありました。海老名氏の思想は進歩的、社會的でありましたが、内村氏の教義は保守的、個人的でありました。而も内村氏の薫りは藝術的であり、海老名氏の色彩は倫理的でありました。内村氏は詩人風のところがあり、海老名氏は教育家的でありました。せめて二十歳前に、このやうな先生方の指導を受けたなら、わたしはもつと仕合せであつたらうにと、どんなにか考へたことでせう。
 このやうな思想的影響を受けたわたしが唯物論的社會主義者の創立した『平民新聞』に入つたので入社當時、感激に滿ちてゐる間は何も不都合を感じなかつたが、時のたつに從つて些かの心理的摩擦を覺えることもありました。殊に幸徳氏は眞向から私の基督教を打破しようと攻撃の鋒を向けるのでありました。そして堺氏は中間にあつて、儒・佛・耶すべてがよろしいと、われわれを丸めるのでありました。
 兎も角も、わたしは幸徳、堺兩先輩の招き、といふよりは、私自ら志願して平民社に入れて貰ひました。花井氏は大いに反對して萬朝報に留まることを勸告してくれたのですが、福田氏は入社せよとすすめてくれました。かうして『平民新聞』第三號には次のやうな入社の辭が掲載されました。
     予、平民社に入る
旭山 石川三四郎
 予今平民社に入る、入らざるを得ざるもの存する也、何ぞや、曰く夫の主義てふものあり、夫の理想てふものあり、然りと雖ども予の自ら禁する能はざるものは啻に是れにのみに非ず、否寧ろ他に在て存する也、堺、幸徳兩先輩の心情即ち是れのみ、彼の南洲をして一寒僧と相抱きて海に投ぜしめしは是れに非ずや、彼の荊軻をして一太子の爲めに殉せしめしは是れに非ずや、徒らに理想と言ふ勿れ、主義と呼ぶ勿れ、吾は衷心天來の鼓吹を聞けり、曰く人生意氣に感ずと、
 まことに不思議な文章です。萬朝報の編集局長松井柏軒氏などは素晴らしい名文だと褒めてくれたのですが、今日では、私自身でさへ、別世界の人の言葉としか思へないから、他人さまはさぞ不可解に感じられるでありませう。しかし、よくよく咀嚼して見ると、耶蘇教でもなく社會主義でもない私自身のその時の心情がにじみ出てゐると思ひます。おそろしく古風な、しかも可なりにひねくれた心の持ち方が現はれてゐます。これは恐らく少年時代の古い型の先輩達から受けた感化と、有爲轉變のはげしい浪に飜弄されて來た生活環境から育成された性格でありませう。まことに自ら醜いとは思ふのですが未だにこれを脱却し得ないのです。全我を捧げて平民社に飛び込んでいつたのでありますが、このひねくれのために同志先輩とソリの合はないことも多く、殊に堺、幸徳の兩先輩を困らせたことも多かつたと思ひます。
 平民新聞の讀者にはクリスチャンが多く、平和運動に共鳴して、非常に熱心に應援してくれました。平民社發行の繪ハガキが、マルクス、クロポトキン、ベーベル、エンゲルス、トルストイの肖像を一組にしたのでも、平民新聞の思想的態度が察せられます。
 或る時、わたしは、『平民』紙上に『自由戀愛私見』といふ一小論文を出しました。夫婦生活には戀愛が至上命令である、それが消えたら直ちに離別することこそ眞の貞操だといふのでありました。多くのクリスチャンを讀者に持つてゐたので、この文章に對する讀者の非難はものすごいものでした。社内でも幸徳、西川兩君は『こんな文章を出すと讀者の志氣を弱める』とて非難しました。捨て置きがたくなつて、堺君は全ページに亙る大論文を出して解説補充してくれました。
 これと時を同じうして、私は本郷教會の日曜日の夜の傳道説教に右の論文と同じやうな演説を試みました。その日の朝海老名彈正先生の説教が『貞操論』であつたのに對して、わたしの話は正反對のものでありました。若い時には前後も左右も顧みず、非禮の行動にも氣づかず、思はぬ失敗を招くものです。いつも私の説教の後には先生が立つて握手してくれるのに、その時には、それがありませんでした。はつと氣がついた時、先生は内ヶ崎君に耳うちし、直ちに内ヶ崎君が演壇に立つて私の自由戀愛論を反ぱくするのでした。なるほど私は海老名先生の朝の説教を反ぱくしたことになつたのだ、と氣がつきました。格別わる氣があつた譯ではなく、私の個人的な強烈な要求をおさへ得なかつたためでしたが、爾來わたしは同教會と縁が切れてしまひました。

     寄せくる浪の姿

「耶蘇教徒のあなたが自由戀愛を説くなんて、をかしな譯ですが、しかし、そのために教會から破門されたことは、まことに結構ではありませんか」
 マダムは大喜びである。それは私の精神的解放だといふのである。しかし私は決して解放された譯ではなかつた。苦悶懊惱やるせなさの結果が、あの小論文となつたわけであるが、しかし私の戀愛は決して自由ではなかつた。わたしの心はただ益※(二の字点、1-2-22)囚はれてゆくばかりであつた。わたしは語を續けた。

 フランシ(素直)を第一義とするマダムの道義觀からすれば、わたしは如何にも解放されたやうに見えるでありませうが、東洋のわれわれの心持はなかなか、さう簡單に行きません。わたしの魂を金しばりにした戀愛の苦惱は、どんな理屈でも解消しませんでした。あの『自由戀愛私見』といふ文章は、英國の社會主義者ブラッチフォードに示唆を得て、いはば自分に言ひ聞かせるやうに、また一面には欝憤を晴らすために、書いたものなのであります。わたし自身少しも自由になつては居らず、實に半狂亂の戀であつたのです。かうした激情は青年男女に通ずるところがあると見えて、本郷教會のわたしの演説が、先生方の反撃を受けたにかかはらず、二三の青年女子聽衆から熱烈な同情の手紙を貰ひました。しかし、私のなやみは、つのるばかりでありました。
 多忙を極めた平民社の仕事に携はりながら、心身ともに自分の思ふままにならず、先輩や同志諸君に對して申譯がないと感じつつもつい狂態が續くのでした。堺君には屡※(二の字点、1-2-22)諭されました。いま社會運動の中心になつてゐる平民社の中堅であるべき君が、同志の集會や演説會に極めて稀にしか出席しないやうでは、まことに申譯なくはないか、といはれるのでした。それは有り難い友情の表はれであることを百も承知してゐながら、すなほに感謝することができないで、いつも棄てぜりふでこれに答へるのでした。當時、平民社に頻繁に出入する山路愛山であつたかと思ひますが、わたしの狂態を聞いて『それは些か犬王だね』と言つたさうです。犬王とは※(「狂−王」、第4水準2-80-26)へんに王、即ち狂を意味するのでした。
 銀座など散歩して、二十歳前後の娘さんに行き會ふと、わたしは無意識にその娘さんに視線を奪はれて、まはれ右までして、それをじつと見おくるのでした。銀座などを行けば、その頃でも往き交ふ娘さんは數多くありました。私の散歩は多忙でした。電車に乘つても同じことでした。三錢均一(當時の電車賃)で戀をする、なんて冗談を言ひました。然し、わたしの心は寂しさに堪へられなかつたのです。わたしの腦裏にある澄子さんの姿が、行き會ふ娘さんの上に投影して、それが、わたしの魂をひつさらふのでありました。そして、一瞬の後には、その幻影は忽ち消えて、ただ寂しさのみがわたしの周圍を閉ざすのでありました。馬鹿々々しいが、仕方がなかつたのです。
 ある時は、些かながら血痰を見るに至り、そのことが平民社の客員であり、援護者の一人であるドクトル加藤時次郎氏の耳に入り、兎も角も同氏の療養所であり、別莊でもある小田原海岸の家に招かれました。若い美しい咲子夫人の懇ろな御もてなしを受けて勿體なさは身にしみるばかりでした。晩餐の時など新鮮なお肴に冷いビールを傾けて、心ゆくまで勞つて下さる絶世の佳人と差し向ひになつて、わたしの魂は、忽然他の彼女のところに飛ぶのでした。この別莊に滯在中、平生たしなむ水泳を試みようと、裸體になつて、浪うつ濱べに足を入れては見ましたが、何かしら寄せくる浪の姿の怖ろしさに戰慄して、深入りすることができませんでした。死の一歩手前にあることを無意識に感じたのであらうか、いまだに、その時の心持が、いかにも病的な心持が、忘れ得ないのであります。
 餘りにわたし個人の情哀史を物語りましたが、今かへり見ると、かうした惱みに纒はられるのも、その原因は最初の失敗から由來するものです。みな身から出た錆なのです。全我を傾けて社會運動に投じようと決心しながら、かうした事情から思ふ半分も活動し得なかつたことは今日かへり見ても殘念でたまりません。しかしまた他の一方から考へて見ると、この氣むづかしい心の状態から、わたしは自然に内省的になり思索的生活に傾いて行つたのであらうと思ひます。普通選擧の請願運動などの代表者になりながら、所謂政治家的の氣分に接すると、堪まらなく、いやになるのでした。或る時、幸徳と堺と揃つて世間話をしてゐた際に
「これから普通選擧が實施される時代も來るであらうが、その時代に最も幸福な境涯に立つものは石川君、君等だよ」
 と幸徳が唱へ、堺がそれに和するのでした。そんな言葉を聞くと矢つ張りこの人達は政治家なんだと神經的にいや氣がさすのでした。ひねくれて、いぢけた當時の私には、ものごとを神經的に判斷することしか出來ませんでした。他の人の地位に立つて、その人の意向なり去就なりを、推量することが出來ませんでした。そして自分の殼を造つてその殼の中に閉ぢこもるやうに傾いて行きました。それは、わたしの性格の弱さをも物語るものであり、その弱い性格を防護するために自然に展開してきた生活態度であつたと思はれます。
 明治三十九年に、堺利彦君が主唱で日本社會黨を組織しましたが、そして堺君自ら來訪して懇切に入黨を勸誘してくれましたが、私は遂にその時は入黨しませんでした。最初の平民社が解散して、西川光次郎、堺利彦、幸徳傳次郎等の諸者は『光』を發行し、私は安部磯雄、木下尚江の兩先輩の驥尾に付して『新紀元』を發行してゐた際であつたので、これに入黨することは兩派を融和するに好機會を與へるものと考へながら、私には入黨することが出來ませんでした。わたしは『新紀元』で『政黨は、革命主義の運動には害こそあれ、有用のものではない』『政黨は、小才子、俗物が、世話、奔走、應接の間に胡麻をするに宜しき所なり』などと論じてゐますが實は心の弱い自分の本命を貫徹するために政黨を毛ぎらひした傾きも有つたかと思ひます。

     平民社の思想

「君が内省的になつた結果、政黨の運動をきらふやうになり、やがてそれが君を無政府主義に傾かしたのであらう。面白いぢやないか?」
 ルクリュ翁は興味深げであつた。
「一たんポリチックに足を踏みこんだら、それこそ泥沼に落ちたも同じことよ。それから脱け出ることは容易でなく、その上、正直では決してうだつの揚らぬところ、あなたの戀愛病があなたを救つたのよ」
 とマダムは得意であつた。

 マダムの仰しやる通り、わたしは大病だつたのです。その病人を棄てもせずに、深い友情をもつて、引き立ててくれた平民社の先輩達には今も心から感謝せずには居れません。平民社同人の思想的態度は、今から見れば極めて素朴なもので、またロマンチックであつたに相違ないが、しかし、あの黎明期に於ける混沌の中に、高いヒューマニズムの精神に徹してゐた點は、今も忘れることのできない美しさでありました。日本に於ける社會主義、共産主義、無政府主義等の稱を宿してゐた、あの温床は可なりに健全であり、豐饒であつたと思ひます。
 日本の社會思潮の上から見ればあの平民社の生活は、汲めども、汲めども、滾々として汲み盡すことのできない清冽な泉にも喩へらるべきであります。それはあの當時に於ける思想や主義の社會的價値にも由るでせうが、しかしあの峻烈嚴酷な鬪爭の中にも、常に明朗な陽春の雰圍氣を湛へて、若い男子が集り來り、協力を惜まなかつたのは何としても平民社の中心であつた先輩達の人格の致すところであつたと思ひます。幸徳と堺とは、實に好きコンビでした。堺は強かつた。幸徳は鋭かつた。堺はまるめ、幸徳は突き刺した。幸徳は剃刀の如く、堺は櫛の如く、剃刀は鈍なるべからず、櫛は滑かに梳るを要します。平民社は良き理容所でありました。およそ彼處に出入するほどの青年男女は、それぞれの個性に於て、その容姿を整へられました。
 永井柳太郎などは、その點において、平民社の畸形兒となつて世に出た一人でせう。不肖の子とまではいへないにしても、少々できそこなつたものといへるでありませう。大杉榮だの、荒畑寒村だの、先づ平民社の手にかかつた逸材であります。藝術の方では小川芋錢、平福百穗、竹久夢二などいふ名物がみな平民社から首途したのであります。中里介山や、白柳秀湖などいふ人々が、平民社の親しい友であつたことも忘れることはできません。この他に今日なほ生存してゐたならば、立派に各※(二の字点、1-2-22)の場面において活躍を續けてゐるであらうと思はれる人物が澤山にあります。
 平民社關係から世に出た新進の才人が多かつたと同時に、或は平民社に同情を持ち、或はこれを援護した人物の多かつたことも忘れ得ない重要事であります。西園寺公、中江兆民等の親友であつた小島龍太郎や、ドクトル加藤時次郎や、ユニテリヤン教會の佐治實然や、毎日新聞の木下尚江や、早稻田大學の安部磯雄や、いづれも皆平民社の相談役でありました。齋藤緑雨、田岡嶺雲、小泉三申、山路愛山、石川半山、斯波貞吉、杉村楚人冠、久津見蕨村などいふ人々は、屡※(二の字点、1-2-22)平民社を訪れて、或は舌に、或は筆に、平民新聞を賑はしてくれた同情者でありました。いづれも皆錚々たる人物で平民社の背景が如何に賑やかであつたかを推想せしめるものがあります。
 平民社は今の日本劇場あたりにあつたと思ひますが、その平民社の前から神田橋まで電車が開通したのは、明治三十七年末か三十八年の初期であつたと思ひます。それまで私は飯田町から毎日徒歩で通つてゐました。最初の内は毎週一回校正のため徹夜をしましたが、慣れない仕事で骨が折れました。築地の國光社といふ印刷所から深夜まで自轉車でゲラ刷を持つて往復する小僧さんにも同情が寄せられました。しかし、だんだん人手も多くなり、校正の助力者も現はれて來て後には徹夜をするやうなことも少くなりました。普通の新聞型十頁を毎週一回出すのであるから、三、四人の手では骨の折れるのは當然でありました。
 平民社の思ひ出は盡きません。若い娘さん達も隨分多く出入しました。一々お話できないがみんな立派な人々でした。機蕨(マヽ)とでも申すべきか、よくもあんなに、多數の女性が、あの鬪爭のなかに、和氣あいあいとして寄り集うたものと、感歎せずにはをられないのです。まことに豐饒な社會運動の温床であつたと言へるのでありませう。
 明治三十六年十月に創立せられたこの平民社は、三十八年秋に解散しました。幸徳は渡米することに決して居り、堺は由分社によつて獨立の仕事を創めることになつてゐたので、一先づ解散して捲土重來を期することになりました。平民社に對して外部同志の不滿もあつたやうに聞きましたが、私ども後輩にとつては唯淋しさを禁じ得ませんでした。しかるに平民社解散式の夜、先輩の木下尚江は突然わたしに呼びかけました「旭山やれよ!」。旭山とはわたしのペンネームでした。藪から棒で何のことかと驚きましたが、木下の意はキリスト教の精神に基いて社會主義の宣傳を試むべく一旗揚げよといふのでありました。平民社の解散後はどうしたら可いかと思案にくれた際ですから、私はうれしさを禁じ得ませんでした。
 その時の木下の意氣込は熱烈でした。二人で安部磯雄氏を訪問したのは、それから二、三日たつてからでした。安部氏も大へん喜んで參加を約しました。そして新しい雜誌の名稱も、安部氏の提議でニュー・エラ=新紀元=と決定しました。それからまた、二人で徳富蘆花を訪問しました。蘆花も喜んでわれわれの計畫を助けてくれることになりました。かうしてキリスト教社會主義を標榜した『新紀元』の運動は發足したのであります。新紀元社の看板は私の家に掲げましたが、その家は今の新宿驛の直ぐ近くで、西部電車がガード下をくぐつて西方に出たところの左側にありました。小さな門を奧深く入つた、藁ぶき屋根の六疊、三疊、二疊といふ小さな家でありました。前田河廣一郎君が同居するやうになつたのは、その時でありました。

     田中正造翁

『新紀元』の運動は私にとつて良い修業になりました。どんな仕事でも、心さへあれば、みな修業でありませうが、あの場合は自分が責任者になつたので、殊に自ら緊張した結果、わたしの精神生活に非常に深い影響を與へました。それにこの運動中は特に親しく田中正造翁の驥尾に付して奔走することになつたので、わたしは人生といふものに、驚異の眼を見開くに至りました。田中翁の偉大な人格に觸れて、わたしは人間といふものが、どんなに輝いた魂を宿してゐるものか、どんなに高大な姿に成長し得るものか、といふことを眼前に示されて、感激せしめられました。それと同時に、今まで種々な説教や、傳記やらで學んだ教養や人物といふものが、現實に翁において生かされ、輝かされてゐることを見て、心強く感じました。わたしは、自身が如何にも弱小な人間であることを見出しながらも、常に發奮し自重自省するやうになりました。
 田中翁は決して自ら宗教や道徳を説きませんでした。しかし、翁の生活そのものが、その巨大な人格の中に温かい光明と熾烈な情熱とをたたへて、わたしを包んでくれるのでした。木下尚江はその著『田中正造翁』の中に『旭山は、翁に對しては殆ど駄々ッ児のやうに親しんでゐた』と書いてゐますが、わたしは翁に尾して活動することを眞に幸福に感じました。谷中村の農家に翁と同じ蚊帳の中に寢せられ、ノミに喰はれて眠られず、隣でスヤスヤ眠る翁がうらやましかつたが、そのことを翌朝翁に談ると『珍客を愛撫してくれるノミの好意は有難く受けるものでがすよ』と笑はれました。それから栃木縣の縣會議員の船田三四郎といふ人の家に一泊か二泊して御馳走になりながら、縣の政治書類を檢討させて貰ひ、さまざまな醜いカラクリを數字によつて明白にすることができて、大へん翁に喜ばれた時などは、とても嬉しく感じました。
 わたしは、翁の思ひ出や、翁自身の思想の變遷やについて、機會のある毎に聞いては筆記しておいたのですが、今は皆散逸して無くなりました。しかし、今わたしの記憶に遺つてゐる翁の全生涯は翁が自ら教育して來た修業史である、といふことです。翁にとつては、政治でも、社會現象でも、自然現象でもすべてが、天授の教訓であります。或る時、翁は、何度目かの官吏侮辱罪で栃木の監獄に入り、木下と私と面會に行くと、最初に要求されたのが聖書でありました。わたし達が種々の註解書によつて聖書の研究をするのに對し、翁はただ自分で直讀するのですが、その解釋がまた活きてゐました。翁は善いと思つたことは直ぐに言行に移し表明するのを常としました。ところが、その直觀に就いての説明には、いつも苦しみました。或る時、翁は谷中村のある農家に『人道教會』といふ看板を掲げました。それは今までの政治運動をきつぱり止めて、人道の戰ひと修業とを始めるといふのでありました。ところが、その『人道』とは何ぞや、といふことになつて簡單明瞭な説明が見當らず、私が訪問すると、すぐにその質問です。わたしが『人道とは人情を盡すの道といふことです』といふと膝を打つて喜びました。それから、わたしが、人情の説明にとりかかると翁はそれを制していひました『いや、人情といふことで充分です。それ以上につけ加へる必要はありません』まことに單刀直入を喜ぶのでありました。
 谷中村を政府が買收して貯水池にするには、先づ住民を生活不可能状態に逐ひこまねばならない。ところが住民は隣接の赤麻沼に面する堤防缺潰箇所を自費で修築しました。縣廳の方では政府の許可なくしてこの樣な工事を營むのは不都合千萬だから、打ちこはす、と言ふ。明日はその破壞工作に縣の土木課の役人等が來るといふ、その前夜、田中翁は新紀元社に泊られました。わたしは東京の學生や青年達と共に田中翁を擁して防禦戰に赴くことに決定しました。翁と二人で枕を並べて寢についたが、明日の抗戰がどうなるかと思ひめぐらして眠れませんでした。土木の工夫や役人とわれわれとの間に亂鬪が展開されるのは必然と見られたのです。堤防の上に血の雨を降らすであらうことは想像されるが、見ぐるしい終局にさせたくない、それが私の心配でした。實は怯懦な私自身のことが心配なのです。この時も田中翁は寢るとすぐ高いびきです。翌朝眼を覺ますと、『風を引かないやうに氣をつけやんせう』。四月といふに寒い朝だつたのです。
 この日、谷中村に同行した青年達は十八名ばかりでした。谷中の住民約三十名と勢揃ひして假築堤防上に赴いた時には、しよぼしよぼと春雨が降り始めました。
 しかるに豫期した幽靈は出て來ませんでした。わたしどもは拍子ぬけの體でありましたが、しかし、かうした機會を無益に過してはならない、わたしは皮切りに激勵の演説を試みました。青年諸君も熱辯を振ひました。雨中の屋外集會は、ただそのままで既に悲壯の極みでありました。
 この日は何の事もなく歸京することができました。しかし、わたしは、自分の心持をかへり見て、いささか不安でありました。若し、あの堤防上に亂鬪が起つたとして自分は果して泰然とこれを乘切ることが出來たであらうか? 苟も十字架を負うて社會運動に身を投じたと稱するものが、びくびくしたのでは見つともない、だが、私はそのびくびくの方らしい。私は歸京の翌日箱根太平臺の内山愚童君を訪うて、このことを訴へました。愚童君は暫時の靜坐を勸めてくれました。愚童君の寺は小さな寺ではあるが、見晴らしのよい、靜かなところで、和尚一人の生活であるから、瞑想、靜觀を妨げる何ものもなかつた。わたしが與へられた室で瞑目端座してゐると、何時の間にか、鼻先に芳はしい線香のかをりがただよつて來る。愚童君の心づかひでありました。心はしーんとして閑寂の底に沈む。その時です、突如として心の窓が開け『十字架は生まれながら人間の負うたものだ』と氣がつきました。それは、眞に觀天喜地のうれしさでありました。その時、製茶に專心してゐる和尚のところに行つてこれを告げると『ああ、その通り、それだよ、それだよ!』とうなづきました。それは一週間の坐禪の中ごろのことでした。

     伸びる買收の手

「ボンズ(坊主)とクレチャン(基教徒)とが寄つて、アナルシスムの修業をするなんて、東洋でなくては見られない風景だネ」
 ルクリュ翁はいかにも興味深げであつたが、マダムはわたしの執えうな基教思想に不滿の面持であつた。
「アナルシストが十字架で惱むなんて、およそ意味がないではありませんか?」
 これに對する答はむづかしい。わたしの語學の力では明答し得ない。しかし、既に長い交際が續けられて來たので意は自ら言外に通ずる。不立文字、以心傳心とでもいふところであらう。おぼろげながら、理解は進められた。

 ボンズの心理的鍛練には仲々むづかしい難解な點も多いのですが、クレチャンなどの經驗しない別の世界があるのです。内山愚童君はこの鍛練によつて、眞に生死を超越したのです。幸徳等とともに死刑に處せられた時でも、いささかも心を動かす樣子さへ現はさず、極めて平靜に且ほがらかに、絞首臺に登つたといふことです。立會つた教誨師も、これには頭を下げたさうであります。
 田中正造翁もたしかに生死を超越してをりました。翁には、しかし、愚童と異つた人格が輝いてゐました。田中翁には最初から生死の問題はなかつたやうです。一生涯を人道の戰ひに捧げて寸分の隙もなかつた翁の心裡には生死の問題などを顧る餘地がなかつたのでありませう。もちろん養生には注意して人道に獻身せねばならないのですが、それすら翁にとつては自然生活であつて、特殊の問題ではありませんでした、翁は世俗の人から見れば非常に特殊な人物ですが、翁においてはそのすべてが自然でありました。畸人だの、義人だのといふ名稱は、翁においては如何にも不似合に感じられます。あるひはこの自然人としての翁こそ實は非常な異色をなすものであるかも知れません。翁は天成の無政府主義者でありました。
 私が田中翁に尾して熱心に奔走したことは、時の政權にとつていささか眼ざはりになつたと見えて、わたしの身邊に樣々な黒い手が伸べられてきました。それは田中翁自身に對しても久しい間試みられたことですから、當然のことともいへるでありませう。それは買收の奸策であります。翁の買收額は十萬圓、二十萬圓、三十萬圓と時とともに騰貴して行きました。正當な方法では、あの政府の罪惡を國民の前にかくすことができないのであります。何とかして、どんなくらい醜い方法を以てしても、資本と政權との抱合による大罪惡を隱ぺいしたいのです。田中翁の周圍にゐた栃木縣の政治家達は大部分が買收され、遂には翁を強制的に幽閉して、收賄の罪名を被らしめようとまで企てました。この陰謀から田中翁を救つたのはある遊女屋の樓主でありました。その結果、栃木縣の政治屋たちの間で、收賄金分前の奪ひ合ひが起り、ピストル騷動まで引きおこすに至りました。かういふ有樣ですから、私のやうな青年にも、その闇の魔手が近づいて來たのは當然です。それは何時も警視廳のトンネルをくぐつて來るのです。わたしが政治のからくりといふものを眞に身を以て體驗したのは、この時が始めてでありました。そして政治そのものが人間の罪惡の現はれであることをつくづく見せつけられました。特高課の部長級が種々な口實を設けて、わたしを官房主事または總監に引き合はせようとしたことは幾度か知れないが、ある時は、官房主事が自ら來訪したことさへありました。
 僅かに一年間の運動でありましたが、新紀元社の運動は、わたしにとつてよい修業になりました。そして思想上に於ても、從來考えてゐなかつた樣々な疑問が生起して來て、社會主義も基督教も何も解つてゐないことに氣がつきました。しかし、毎週一回『新紀元』講演があり、毎月一回社會研究會があり、隔週ごとに聖書研究會を開き、その間に於て、田中翁と東西に奔走したので、わたしの生活は隨分繁忙を極めました。それも月刊雜誌の經營と編集とを擔當したうへのことですから、骨も折れましたが、生きがひも感じました。
 しかし、『新紀元』の一ヶ年間の運動中には、同人の思想的動搖が甚だしい急調を帶びて行はれました。最初に徳富蘆花、蘆花はただ一回『黒潮』の續篇を出したのみで、伊香保に隱れてしまひました。夫婦間のもつれた感情の整理、兄蘇峰との和睦等、いづれも蘆花自身の平和思想の徹底から派生する外廓現象でありました。蘆花としては『黒潮』の續篇など書いてゐる心の餘裕がなくなつたのです。彼自身の生命の緊迫した問題に逢着したのであります。それが遂にパレスチナ及びヤスナヤ、ポリヤナへの巡禮となつた譯であります。そして『新紀元』は遂に蘆花の文章を得ることができなくなりました。
 次は『新紀元』の主柱であつた木下尚江の思想の變化であります。蘆花の場合は新紀元社の事業に殆ど影響を及ぼさなかつたが、木下の場合はさうは行かない。これにはいささか困りました。『光』一派の社會主義者が殊更基督教を嘲弄するのを見て、木下は遂に社會主義者に對して袂別の辭を書くに至りました(明治三十九年十月發行『新紀元』第十二號)。もつともこれを書くに至つた木下の心持は複雜であつたと思ひます。堺が發起した社會黨に入ることを謝絶して『堺兄に與へて政黨を論ず』といふ私の長文を『新紀元』に掲げたのが八月で、それに對して幸徳が(既に米國から歸つて)また長文を寄せて『政黨なるものが、單に議會の多數を占めるを目的とする黨派、即ち選拳の勝利のみを目的とする者ならば、其弊や確かに君のいふ通り』だ。しかし『君のいふ如き政黨たらしむるか、將た革命的たらしむるかは、一に我等の責任に存することと思ふ』とあるのが、九月號であります。そして、この社會黨に參加した木下としては明白に去就を決する責任を感じたものでありませう。それに蘆花が『巡禮紀行』を書き百姓生活を始めて、時の青年達の間に大きなセンセーションを起したことも、木下の精神生活に多少の影響を與へたでありませう。この時に當つて『日刊平民新聞』創立の議が起り、私にも參加せよといふ要求がありました。

     日刊平民新聞

 幸徳がアメリカから歸つて來て間もなく、西川、堺等とともに『日刊平民新聞』創立の相談を始めました。それには竹内兼七といふ若い金持が資金を出すことになつて急速に計畫が進んだのです。そして堺、幸徳兩兄から私にも創立者の一人になれといふ相談が持ち込まれました。わたしは兩兄の變らぬ友情にとても嬉しく感じたが、しかし、私に最も適した『新紀元』を棄てて、最も不得手な新聞記者になることは、どうかと思はれました。それに新刊の平民新聞には外部から盡力させて貰つたらどうか、こんな考へから、一應、參加を謝絶したのですが、兩兄は強ひて參加を要望するのでありました。兩兄の言ふには『今回の事は、啻に君一身の問題に非ず、從來何とは無しに對立の形勢をなせる基督教徒、非基督教徒の兩派の社會主義者が相融和するか否かの問題に係はる』ことであるから、とくと社中社外の同志と協議してくれとのことでありました。
 當時木下は思想の動搖のために上州伊香保温泉に行つてゐたので社中の赤羽巖穴、逸見斧吉、小野有香、横田兵馬の諸君に諮り諸君は安部磯雄氏を訪うてその意見を質しました。そして兎も角も、日刊平民の創立に參加せよ、といふ衆議が成立しました。勿論『新紀元』の編集、發行等は諸同志が協力して繼續するといふことでありました。ところが、木下が伊香保から歸つて、十名ばかりの諸同志が相會して最後の決定を計らうとしたが、主役の木下が繼續に同意しないので、遂に廢刊といふことに逆轉して了ひました。木下は『新紀元』の終刊號に
『慚謝の辭』を掲げて
「新紀元は一個の僞善者なりき。彼は同時に二人の主君に奉事せんことを欲したる二心の佞臣なりき。彼は同時に二人の情夫を操縱せんことを企てたる多淫の娼婦なりき」
 と絶呼しました。
 まことに傍若無人の態度で『慚謝』の心情など些かも窺はれない放言でありますが、ここが木下の人柄とでも言ふべきでありませう。一年間、熱心に『新紀元』に應援または協力して來た青年同志達は或は失望し、或は憤激し、或は呆れましたが、どうすることも出來ませんでした。(木下は最期の息を引きとるまで、かうした性格を持ちつづけたやうであります。偉大な天才でありましたが、かうした性格から、よき同志を發見し得なかつたので、その才能を充分に發揮し得なかつたのだと思ひます。)
 兎も角も、『新紀元』と『光』とは同時に廢刊して、双方の同志が新發足の日刊『平民新聞』に協力することになりました。前記の堺、幸徳、西川、竹内と私との五人が創立人となり、編集局には山口孤劍、荒畑寒村、山川均、深尾韶、赤羽巖穴等の諸君が入りました。そして京橋區新富町の有名な劇場、新富座の隣りの可なり大きな家に陣どりました。新富座は昔は最も有名な劇場であり、千兩役者ばかり出場する格式の高い芝居小屋でありました。
 この日刊平民の創立は可なりのセンセーションを日本の社會と政府とに起しました。西洋諸國の社會主義者間にもまた少からぬ感動を與へたらしく、諸國の革命家の來訪に接しました。就中ロシヤの革命家ゲルショニといふ巨大な體躯の持主の出現は平民社中に深い印象を與へました。『新紀元』時代にもロシヤの亡命者ピルスツスキイが現はれて、幾度か會食などしたが、今度のゲルショニはさういふことは致しませんでした。ゲルショニは本國の牢獄を脱して來たらしく、餘り落ちついてはゐられなかつたのでありませう。明白な記憶はないが、ブハーリンなども來訪したのではなかつたかと思ひます。印刷機械まで据ゑつけて日刊紙を刷りはじめたのですから、政府の方でも少々眼を見はつたやうでありました。
 この新聞紙上で幸徳は始めから自分の『思想の變化』を發表して、公然無政府主義的主張を宣言しました。それは創刊號から間もない十五、六號の頃で普通選擧制、議會政策を無益な運動となし、勞働者の團結訓練と直接行動とを主張するのでありました。この主張も可なりの衝激を世間一般に與へ、また社會主義者間にも議論を沸騰せしめました。新紀元にも平民新聞にも有力な援助者となつた田添鐵二君は議會政策論者として、正面から幸徳に對立しました。
 幸徳が直接行動論を宣言したのと時を同じくして、足尾銅山の鑛夫達の暴動が勃發しました、たしか二月四日の夕方でした。平民社經營上の相談のために、幸徳、堺、西川三君と私とで、近所の鳥屋に晩餐を喫してゐると、新聞の號外賣りがチリチリ鈴を鳴らして來る。足尾の暴動が益※(二の字点、1-2-22)激化して來たといふ報道でありました。これはこのまま棄ておく譯には行かないといふことになり、さしづめ西川君が急行して樣子を見たり、通信を書いたり、對策の施すべきことがあれば、適當の處置を講ずる、といふことになり、その夜すぐ出發と決定しました。晩餐もそこそこに濟ませて西川君は先づ家に走り、私は號外を持つて平民社に歸り既に大組を終つて印刷にとりかからうとする工場に行つて、二號活字の大見出しで、暴動記事を付加へました。六日には暴動のますます猛烈なこと、鑛山事務所長は猛火と動亂との包圍に會つて死去したこと、遂に高崎連隊が鎭壓のために出動し戒嚴令がしかれたこと、などが大々的に都下諸新聞に報ぜられました。七日には、平民新聞社と堺、幸徳、西川、石川、竹内等五人の家々に、一齊搜索が行はれました。同じ日に、平民新聞紙上には足尾鑛山勞働者至誠會の南助松、永岡鶴松その他五、六名の幹部が平民紙を抱へ、大旗を樹て整列せる寫眞を掲載しました。同じ日に、衆議院では、武藤金吉が大竹貫一他三十名の賛成を以て政府に詰問しました。
「……大暴動は鑛業主と勞働者との間に起りたる一椿事に過ぎずといへども、而も交通を遮斷し、電話、電燈、電信の電線を切斷し、道路、橋梁、鐵道、家屋建物を破壞燒失し、終に多數の人命を傷ふに至らしめ、數百の警察官を以つて鎭撫する能はず、なほ高崎連隊より出兵するに至りたるは、政府當局者の無責任にあらずや云々」
 この時、西川君は既に現地で拘引されて了ひました。

     平民廢刊まで

 西川君が拘引されたといふ報に接して、すぐにその仕事を續ける人を送らねばならぬことになりました。選ばれたのは編集局の最年少者、荒畑勝三(寒村)君でした。しかし荒畑君が足尾に着くと間もなく暴動は鎭まつたと思ひます。
 足尾の暴動は鎭まつたが、政府の暴動は鎭まらず、平民新聞の上に矢つぎ早やに、火矢を放射し始めました。わたしは編集局の番頭さんにされ、かつ、發行兼編集の名義人にもなつたので、僅か三ヶ月の間に四つの事件の被告人になりました。そして最後に發行禁止の宣告となつたのです。
 この間に社會黨内に議會政策と直接行動との是非の議論がやかましくなり、わるくすると、分裂にまで押し進みはせぬかと危ぶまれるほどでありましたが、まるめることの上手な堺が在り、堺と幸徳との厚い友交の關係もあり、その危機は逸しました。しかし、大會の決議と、その時の幸徳の演説とを載せた平民新聞は告發され、同時に發賣を禁止され、社會黨そのものも禁止されました。わたしも何とかして分裂を避けたいといふ念願から、社會黨員に對する私見をも平民紙上に掲げ、大會當日になつて入黨までしました。大會の決議は折衷的な評議員案が成立して無事終了しましたが、黨そのものが禁止されたので、いささかとびに油揚をさらはれた形になりました。皮肉なことに政黨ぎらひな私が大會の席上、堺と二人で幹事に選ばれ、そのまた皮肉をこつ稽にまで持つて行くべく、私は社會黨禁止令を拜受しに警察にまで呼び出されました。
 明治四十年二月二十三日の平民新聞の『平民社より』に堺が次のやうに書いてをります。
「△今日は石川君と僕と二人、本郷警察署に呼び出された。僕は差支があつて、石川君だけ恐る恐る出頭した。御用の筋は社會黨黨則改正屆出遲延のお叱りで、全體社會主義者は公私を混合してイカン。一昨日堺に出頭を申遣はして置いたに、編集が忙しいの何のと勝手なことばかり言つて、而も電話なんぞかけて警察を馬鹿にしてゐる、況んや屆書は早速差出すと云ひながら郵便で以てソロリソロリと送つてよこす、實以て怪しからん次第だと御意あつた、所が旭山、是式の事で罰金を取られては叶ふまじと、僕の代りに恐惶頓首再拜してヤットの事でお詫びが濟んだ△ヤレヤレこれ丈であつたかと、旭山胸撫でおろして罷らんとする其時、警部君チョットと呼びとめ、實は今一ツ御達しすることがある(サア來た)是は少し御迷惑かも知れぬがと厭にニヤニヤして猫撫聲で仰せられる。旭山謹んで承たまはるに、それこそ即ち社會黨禁止の達しであつたのだ△序に今少し旭山を紹介する、彼は昨夜深更、如何なる物の哀を感じてにや、ふらふらと家をさまよひ出で(この一句深尾韶案出)半圓の月に浮れて十二社の森に遊び、少々風を引いて歸つたよし」
 この最後の一節には覺えがないが、當時の激しい鬪爭の中で、平民社の内部の空氣が至極ほがらかであつたことを思ひ出させます。もう一つ堺の『平民社より』を紹介しませう。
「△活版の工場にリュウちやんといふ十ばかりの可愛らしい女の子が居る――石川さんモウ原稿は出ないこと? ――などといつて使に來る、われわれの事業にもコンナ小兒勞働を必要とするかと思へば情なくなる」
「△旭山は控訴なんぞ面倒だから仕方ないといつて居る、檢事の方でも眞逆やりは仕まい、すると判決言渡より五日の後、即ち三十一日に確定となつて『明日檢事局に出頭しろ』といふ樣な通知が一日にくるとすれば、多分二日から入監することになるだらう」
 この三十一日には、京橋區北槇町の池の尾といふところで、『石川君片山君送迎茶話會』といふのが開かれました。わたしの事件は檢事が控訴したので入獄が延期になり、片山潛は一ヶ月以上も前に歸國してゐたので、送るには早く、迎へるには遲すぎる會であつたが、カナダの社會主義者ジョン・レーなども出席して、にぎやかでありました。
 まだ入獄期は確定してはゐないが、どつち道、數重なる告發を受けてゐることで、いづれ暫時の離別は免れぬとあつて、諸方からの御招待に接し、わたしは些か甘えたやうな氣分にもなりました。三月廿九日の堺の『平民社より』に次のやうな記事があります。
「△旭山は入獄の準備やら、送別の招待やらで大ぶん忙がしい樣だ、昨日は丸善から何かの本を二、三册買つて來た△昨日と云へば秩序壞亂で又やられた、あんなものが何うして、と云つた所で仕方がない、お上の遊ばされる事だ△今夜はお隣の新富座の伊井蓉峰君から招かれて、霞外と旭山と僕と三人で見物に行く、旭山は河合武雄が好で、入獄前に一度見たいと云ふのだ△又月末になつた、ノンキな事ばかり云つて居れない」
 伊井と河合のよいコンビで演ぜられた『瀧の白糸』に感動せしめられて、わたしは思はず瞼を熱くしました。樂屋に通されて伊井と河合とに會談したことも愉快でした。河合が、
「芝居でしてさへ囚人の役は骨が折れますもの、あなた樣もこれからさぞ御苦勞遊ばすことで御座いませうねえ」
 など言うて、慰めてくれるのにつり込まれて、ほつと異性の温みに接する心地がするのでした。彼は樂屋に於ても、その動作から言葉使ひまで全然女性のやうでありました。
 こんな呑氣な生活をしてゐる間に、山口孤劍君の『父母を蹴れ』といふ文章が朝憲紊亂罪に問はれ發行禁止の宣告を受けるに至りました。それは四月十三日のことであつたが、平民新聞は裁判の確定を待たずに、翌十四日を以て自ら廢刊するに至りました。社の内外ともに餘りに突然の決定で驚いたらしいが、無理をせずに玉碎主義を採つた譯でありました。幸徳と堺とは、既に幾度か平民社の維持方法に就いて相談もしたのであるが、前掲の堺の『平民社より』に『月末になつた、ノンキな事ばかり云つてをれない』とあるやうに五、六十人の世帶を維持するのは容易ではなかつたのです。資金補給を申し出た向もあつたのですが、ほんたうに主義のために出資してくれるのでなければ、後の煩ひになるので謝絶したのであります。そして政府が發行を禁止したので、其機をとらへて廢刊を斷行した譯であります。でなければ、廢刊も實は非常な難事であつたのです。

     獄内での修業

「不意につかまつて、拘引されるならとに角、自分で進んで獄中へ行くなんて、隨分いやな氣持でせうね」
 マダムはわたしの話をさへぎつて、かう聞くのであつた。二十年前に、自分の夫、即ち現在のルクリュ翁が、懲役二十年の缺席判決を受けて、英國に脱走した時のことを思ひ出したのであらう。マダムにとつては興味が深刻なのであつた。ルクリュ翁は深い沈默で依然として傍でこれを聞くのであつた。

 いや、それほど、いやとも思ひませんでした。既に堺が行き、幸徳、西川が行つた後のことで、恐ろしくも思はず、むしろ好奇心にさそはれた方でした。それに先に私の文章で幸徳、西川の刑期を幾週間か長びかした責任も感じてゐた私は、晴ればれしい氣持で入獄しました。
 最初は十一ヶ月の豫定でありましたが、幾つもの事件が重なつてゐましたし、赤衣を着けて幾度か法廷に立ち、幸徳の直接行動論に就いての辯論も自分で思ふ存分やつたので、刑期はまた延長して十三ヶ月になりました。入獄した最初は市ヶ谷の東京監獄に一ヶ月ゐましたが、それから巣鴨監獄に移されました。
 東京監獄に入つた時、最初の二、三日間は、どうしても、飯が咽を通りませんでした。うつはは汚なし、異樣な臭氣はするし、辨當の箱を口のところに持つてゆくと嘔吐を催して、どうにも食ふ氣になれませんでした。それが四日目ぐらゐから、空腹に堪へられなくなり、三度の食事がうまくて待ちどほしくなりました。人間の生理生活には、どんなに彈力性、融通性があるものかと驚かされるのでありました。
 入獄の時は、同志山口孤劍君と一しよでした。『父母を蹴れ』といふ山口の論文が告發されて、それが二人に何ヶ月かを食はしたのです。東京監獄に行くと勿論二人は引き離されました。眞つ暗なブタ箱から、やがて夜具を抱へて獨房に入れられ、後からガチャンと鍵をかけられた瞬間の氣分といふものは、まつたく『大死一番』といふ心境、または『一切他力』の實感を、體驗させられるのでありました。窓は高くて外は見えず終日終夜面壁の修業です。
 東京監獄から巣鴨監獄に移されると、いささか格式が上つたやうに感じられました。今までは木造の小さな獨房であつたのが、今度は鐵の扉の岩窟のやうな冷たい室になりました。食物もずつと澤山に御馳走があるやうに感じられました。それから、間もなく別棟の十一監といふところに移されました。ここはまた木造で、昔の牢屋を思はせるやうな、大きな格子に圍まれた室でした。ここでは山口と隣りして居を定められたので、毎日の生活がいささかくつろいできました。さらに、暫くすると大杉が入つて來ました。山口はわたしの左室、大杉は右室に入れられました。わたし達は輕禁錮で、勞役がないので、終日讀書ができて、こんな仕合せはないと思つてゐましたら、さらに机を新調して與へられ、ペンとノートの携帶をも許可されたので、わたしは希望の光明に充たされました。そして、すぐに勉強の方針を樹て、第一に西洋の社會運動史を順序だてて檢討しようと志しました。それは、從來のわたしの心裡において、宗教と社會主義と人生觀との間に存在した、多くの不統一點、無融合點を照らすべき新しい光明が、この勉強によつて與へられるであらうと考へたからであります。
 先づイリー教授の書とカーカップの歴史を讀み、マルクスの『資本論』に喰ひつきました。面白い點も少くはないが、マルクスといふ男は、何といふ頭の惡い人間だらうと呆れました。思想がくどくて愚痴つぽいのです。勿論讀了どころか半分も讀めませんでした、そして、ジョン・レーの『現代社會主義』中のマルクス紹介で資本論をも卒業しました。マルクスに比してクロポトキンの『パンの略取』は實に愉快でした。これは少しも退屈することなく一氣に讀了することができました。しかし、この書が愉快きはまるにかかはらず、わたしはこの書に滿腔の信頼を捧げることができませんでした。その革命の道筋に於て、人生觀そのものに於て、いささか過超樂天的なところが見られました。その時わたしの出會つた思想家エドワード・カアペンターは、不思議にも、わたしの從來の一切の疑問に全的解決を與へてくれました。カアペンターの『文明、その原因と救治』及び『英國の理想』は、わたしの數年來の煩悶懊惱を一刀の下に切開してくれました。
 勿論カ翁の書が解決を與へてくれたのは、わたしの勉強の進んだ一ポイントに丁度的中した一刀が、翁によつて與へられたことを意味するのです。マルクス歴史主義、歴史必然論が、人類解放の觀點から全くナンセンスであることに氣づいた私は、カアペンターの特殊な人生史觀によつて救はれたやうに感じました。人類の社會生活の變遷とその種々相を、自我分裂の事實によつて説明し、内なる統一と外なる統一とを全く不可分のものとし、遂に宇宙的意識に復歸することに於て、無政府にして共同的にして同時に貴族的なる眞の民主生活が實現せらるるものとするカ翁の説は、從來の宗教思想も社會思想も藝術も農工業も、すべてを一つの熔爐に入れて、新しい自由の全一の世界を創造する捷徑を明示するのでありました。
 また碧巖録を讀み、論語、孟子、バイブルを讀み、古事記を反覆する間に、個人も、社會も、物質も、精神も、野蠻も、文明も、皆それぞれの面に於て『人間』といふ生命活動の一表現であつて、その自然の姿は終始一貫して『美即善』を追求してゐることが解るのでありました。カ翁の宇宙的意識といふのは、哲學者のいふ意識とは雲泥の相違があつて、それは宇宙的生命そのものであり、『人間』そのものであり、『眞善美』そのものであり、一面虚無であり、同時に實存でありました。
 巣鴨監獄内の一年間の冥想は私にとつて、よき修業になりました。

     巣鴨の幽居

「あなたのお話を聞いてゐると、監獄は樂しいところのやうに思はれて、何だか同情の念が薄らいでくる恐れがありますね」

 ええ、ある點からいへば、あすこは私達の樂園でありました。毎日三度三度の食事は供へてくれますし、社會のやうに、あくせく働かないでも、生活の心配はなし、いささかも心が散らず、勉學に專心し、終日終夜、面壁靜坐默想に耽ることもできるし、こんな贅澤な生活は、外界では到底できません。
 田中正造翁は面會に來てくれた時、立會の看守の顏を横目で見ながら『あなたは善いことをしてここにおいでになつたのだから、ここはあなたにとつて天國です。それ故、ここのお頭さんを典獄と申されます』と駄じやれて呵々大笑しました。翁に伴はれて來た二、三の友人も私も聲をあげて笑ひ合つたので、看守君も苦笑をかみ殺してゐました。
 片山潛君も面會に來てくれましたが、あの人は正造翁のやうなユーモアがなく、何となく悲痛な面持ちで餘り多くを語らず立ち去りました。
 自稱豫言者宮崎虎之助君も來てくれたらしいが、面會も許されず『健康を祈る』といふ看守長の言傳によつて、それを知りました。看守長は宮崎が白布に豫言者と書いてたすきがけにしてゐたと言ひ『あれはほんたうの豫言者かね』と問ふのでありました。『本人がさういふのですから間違ひはないでせう』とわたしがいふと、老看守長『さういへば、それまでさなあ』と意味のありさうな、またなささうな返事をして行きました。度々面會に來て、差入物や内外連絡のことを引受けて世話してくれたのは福田英子姉でありました。入獄の際、わたしの書物や荷物は悉く福田氏のところに托して置いたので、監獄當局へも福田氏のところをわたしの社會生活の本據として屆けたのであります。
 かうして在獄中もいささかのさびしさも感ぜず、大した不便も感ぜずに勉強ができました。親友逸見斧吉君は高價な洋書を丸善に注文して買つてくれ、それを福田氏に托して差入れてくれました。差入れられたノートも、積り積つて十五册になりました。それは自然に一卷の『西洋社會運動史』を構成したのであります。今日大册を成して世に出てゐるのは實にそれであります。
 この獄中生活はわたしの思想に多くの生産を與へました。第一に進化論否定の萠芽を産み、第二に古事記神話の新解釋に目標を與へました。進化論に懷疑し始めたのは、カアペンターの『文明論』とクロポトキンの『相互扶助』とを讀んだ結果であります。クロはダーヰンの進化論の一部面を強調するために『相互扶助』を書いたのであるが、不思議にも、それが私に進化論否定の動機を與へたのであります。あの書を讀むと、諸動物間に行はれる相互扶助は人間界に行はれるそれよりも一層純粹に本能的であつて有力であり、その點から言へば、少くとも今日の人間界は或る動物より遙かに退歩したものと言へるのであります。人間でも古代の人間の方が近代人よりは一層純一であり、道義的であつたと言へるのであります。それはカ翁の『自我の分裂』の歴史『人類墮落の意義』と對照して、深い考察點を指示するものであります。わたしは新世界の鐵の扉が開かれたやうな氣持で眼を見ひらきました。
 次に獄中で讀んだ書物中でわたしを喜ばしたのは『古事記』でした。わたしの第一に驚いたのは、古事記の言葉使ひが自由であること、從つて如何にも豐富であること、思想と言葉とが自由で自然で豐富であつて、その中に含まれた事實には寒帶地から熱帶地に及ぶ多くの地方色が伺はれること等これでありました。わたしの『古事記神話の新研究』の萠芽はこの時から生起したのであります。
 こんな譯で、わたしの巣鴨監獄における生活は可なり多忙でありました。思想生活に於て右にのべたやうに繁忙であつた上に、赤衣を着て屡※(二の字点、1-2-22)裁判所に引き出されました。それはわたしにとつて一種樂しい旅行でもありました。早朝に監房から出されて、草鞋を穿かされて、徒歩で東京監獄まで送られるのです。それから他の囚徒とともに法廷に馬車で送られるのでした。一人の看守に付添はれてさわやかな外氣に觸れながら巣鴨の町を歩くのは愉快でした。朝起きて店先を掃いてゐる婦人などが何と美しいことか! 婦人といふ婦人は大てい美人に見えました。それに引きかへて、男といふ男は悉くのろまに見えました。獄中では看守は勿論のこと、囚人でも、面つきにすきまがありません。常に緊張してゐる看守達の顏ばかり見てゐるわたし達の眼に映る社會の男の面が如何にも馬鹿面に見えたのは自然なのでありませう。
 赤衣で深編笠を冠つて街を歩いてゐると、可なり人目をひくと見えて、街の人々の眼を見ひらく樣がをかしいほどでした。わたしが眼鏡をかけてゐたので『あの懲役人は眼鏡をかけてらあ』などと怒鳴る若者もありました。わたしは、そのやうな『旅行』にも手錠はかけられませんでした。特別な計らひであつたのです。教誨師などの口添があつたのではないかと思ひます。
 かうして、裁判所に出ると、少くとも往復三、四日の旅行になります。長い時は一週間ぐらゐになります。そんな時は、早く――巣鴨の――家に歸りたくなります、不思議なもので、自分の居處と定まつた『巣鴨の幽居』が慕しくなるのです、そして巣鴨の鐵門をくぐり、衣服を全部改めて古巣に入れられると『やれやれ無事に歸れてよかつた』といふ安心感に滿たされます。
 この古巣には、最初大杉と山口とが、右と左の兩室にゐたが、山口が病氣になつて病監に移され、次で大杉が怪我をしたとかで矢張り病監に行きました。私にも病監のなぞがかけられましたが、遂にあのこく寒の室に頑張り通しました。兩手の甲と耳たぼとは凍傷でひどくなり、遂には皮膚がカサぶたになつて脱落するに至りました。
 暫らくすると、今度は堺と大杉とが入つて來て、右に堺、左に大杉が据ゑられました。大杉は一旦出獄して、また新事件でやつてきたのです、數週前に東京監獄から手紙をくれた堺が、自分の姿を見せてくれたので嬉しかつたが、二人は間もなく出獄して、私はまた一人ぼつちになりました。丁度その時讀んでゐた『平家物語』の島流しの俊寛は、二人の同志がゆるされて故郷に歸る時、その船に取りすがつて海水が首に達するまで離さなかつたといふ。出獄期の定まつてゐる私には、それほどでもないが、俊寛君に同情が寄せられました。

     赤旗事件のことども

 明治四十一年五月十九日、わたしは刑期が滿ちて巣鴨監獄の鐵門を出ました。携へ出たものの中に十五册千五百頁のノートがありました。それの大部分は後日の『西洋社會運動史』および『虚無の靈光』となつたのであります。そのうち『虚無の靈光』はわたしの獄中の瞑想の結果を綴つたもので、幼稚ではあるが信仰告白ともいふべきものでありました。然るに出獄後直ちに印刷して百頁餘りの小册子ができたのであるが、『虚無』といふ名稱が警視廳の忌諱に觸れて、製本がいまだ完成されない内に全部押收されてしまひました。これは警視廳も見當ちがひであつたことに氣がついたであらうが、諸新聞にも非難の文字が現はれました。わたしは印刷所に頼んで『破れ』を集めて辛うじて三册を製本することができましたが、その後わたしが放浪してゐる間に一部も無くなりました。原稿のノートも散逸して跡かたもなく消失した譯であります。ほんたうの虚無になつてしまひました。
 さてわたしは、多くの同志に迎へられて獄門を出ましたが、入獄の際に家を引拂つたので、一先づ福田英子姉のところに落ちつくことになりました。當時福田氏は隨分貧乏してゐましたが、さきの『新紀元』が廢刊された時に創刊した『世界婦人』といふ月刊リーフレットの編集に當らせるべく喜んで迎へられました。この『世界婦人』に、わたしの獄中で執筆したクロポトキンの『自敍傳』と『パンの略取』とを一度に發表しましたが、その増頁號は飛ぶやうに賣れて、忽ち品切れになりました。クロポトキンのまとまつた紹介として、日本における最初のものであつたためであらうと思ひます。『世界婦人』は安部磯雄氏等の後援執筆で多少良妻賢母主義のにほひがあつたところへ、突然クロの紹介が出たので、從來の讀者は餘ほど驚いたやうでした。
 わたしの出獄を聞いていち早く飛んで來てくれたのは、田中正造翁でした。懷から金五圓也を出して『お小遣ひに困るでがせうから、ハハ……』といふのでありました。入獄の際、福田氏に托して置いたわたしの衣類その他の品物も、差入れの費用のために大かたは質札に換へられてあつたほどで、わたしは心から翁の意中に感謝しました。(五圓といふ金は今では小どものアメだま一つにも價しないが、あの當時は可なりのご馳走を二、三人で食べることができました。)ことに平常無收入で無一物な田中翁が、どこからか工面して呉れたのだと思ふと、涙がこぼれるほど嬉しく感じました。
 それから間もなく、たしか上野の三宜亭でわたしの出獄歡迎會が開かれました。それは西川光次郎君一派が主催したもので、堺君一派の人々は參加しませんでした。わたしの下獄以來、西川、赤羽、片山、田添(鐵二)等の一派と、堺、幸徳、大杉、荒畑、山川等の一派とは分裂して、大ぶ惡口を言ひ合つた樣子でした。最初のうちは思想傾向の相違で分れたらしかつたが、だんだんに感情的に他を排撃し合ふやうになつたのです。ところが西川、赤羽等と、片山、田添等とは更に分裂して、今度は初めから喧嘩になつたらしく思ひます。三宜亭の歡迎會に出席した高島米峰君は『石川君の同じ友人であり同志である堺君等がこの席に列ならないのは甚だ淋しい。議論は議論として、このやうな場合には皆一堂に會して共同の友を迎へたらどうだ』と一矢を放ちました。
 こんなことがあつたので、私より一ヶ月おくれて出獄した山口義三君の歡迎會は、わたしが發起人になつて西川一派と堺一派との合同の形で開催しました。會場は神田の錦輝館の二階でありました。當時の錦輝館は政治演説會や大衆會合の場所として、東京隨一の名所でありました。伊藤痴遊の講談だの、サツマ琵琶だの、少年劍舞だのがあつて、すこぶるにぎやかでありましたが、肝腎の參會者の氣分が融和しませんでした。これは失敗したと氣がついた時は後の祭りでした、早く解散するに如かずと考へて、わたしが立つて閉會の辭と感謝の辭とを述べ始めると大杉と荒畑とは『無政府共産』『革命』等の白色文字を現した赤旗をふり、やがて私の言葉が終るや否や、高らかに革命歌を唄ひ始めました。まだ餘興が進行しつつあるとき、神田署の特高刑事は私のところに來て
「あの赤旗を卷いて貰ふ譯には行きませんか」
 と要求するのでありましたが
「張り切つてゐるのだから、とても駄目だ、すてて置きなさい」
 とわたしは答へました。
「それでは宜しいです」
 といふ刑事の言葉にはいやに力が入つてゐました。
 堺をはじめ、大杉、荒畑その他の面々はあたかも凱歌でもあげるやうに元氣一ぱいで會場を出て行きました。わたしは發起人として後始末をせねばならぬのでその事務を執つてゐると、館前の街は甚だ騷がしい。『大へんですよ』と告げてくれる人があつたので、バルコンに出て見ると、錦町の街路は、數丁の間黒山の人で一ぱいでした。これはしまつた、と強いショックを受けたが如何することもできません。
 赤旗を擁護して戰つた人々の中には若い娘さん達もゐました。山川均前夫人、大須賀里子さんは柔道の達人で、巡査を街頭に投げ飛ばしたといふ評判でした。神川松子孃も常に肩を張つて天下を横行する人でした。小暮禮子といふ當時十六、七歳の少女も加はつてゐました。小暮孃は後の銀座襲撃事件の主動者となつた黒色青年の山崎眞道を産んだ人です。
 どうしてこんな事件が勃發したか? 世間では大分揣摩しま臆説した向もあつたやうでした。反動政治家山縣有朋が當時の西園寺内閣に對する反間苦肉の策だと如何にもうがつた説を立てる人もありました。ことほど左樣にこの『赤旗事件』は不可解な大騷動になりました。けれども私の見るところでは至極簡單な合戰であつたと思ひます。先に出獄した山口義三を上野驛に迎へた吾々は同驛前で警官隊と小ぜり合ひをしました。交番に引つぱられた一同志を奪還したことも先方にはくやしかつたらうが、廣小路を練つて行く間も、私に付そうて行く指揮官警部の頭を後方からステッキで擲つたものがあり――それは年少な荒畑寒村であつたと思ふ――警部の制帽は地上にとんで落ちました。警部はまつ赤な顏をしてその帽子を拾ひ上げるのでした。如何にも殘念さうに見えたが、上司からの特殊な訓令があつたものか、沈默して私の側を離れず行進するのでした。錦輝館前の赤旗事件はそれから數日後のことであり、神田署は五十名餘りの警官を豫め伏せておいたのです。前後の關係はすぐにうなづけるでありませう。

     再度の入獄

 赤旗事件が勃發してから間もなく幸徳は上京したと思ひます。バルセローナでフランシスコ・フェレルが死刑になつた時(明治四十二年十月)記念のあつまりでも開きたいと思つて、幸徳のところに相談に行つたとき、幸徳は新宿驛にちかい新町二丁目に居をかまへてゐました。上京當時は巣鴨の方にゐたのであるが、最近新町に移轉してきたのです。門前には常に五、六名の警官が立番してゐるので、フェレル記念會を開いても動きがとれないであらう、といふのでやめになりました。それに當時幸徳は管野幽月と同棲してゐたので工合がわるかつたのかも知れません。幸徳は殆んど一人で『自由思想』といふ新聞型の月刊ものを出してゐましたが、あまり長くはつづかなかつたやうです。管野の問題で、だいぶ非難があり、青年たちが幸徳からはなれるといふことを聞いたので、わたしは、それについて文を書かうと思ひ立ちましたが、幸徳が、かへつてめいわくらしく見えたのでやめました。
 わたしは巣鴨獄中で書いた『西洋社會運動史』のノートを整理清書することに精力を集中し、四十二年二月(一九〇九年)には、やうやく大體でき上つたので、どこかで出版したいと思ひ、いろいろの人に頼んでみたが結局だめでした。福田徳三君、河上肇君といふやうな連中も紹介の勞をとつてくれたのですが、本やといふ本やは、身ぶるひして、いやがつた樣子です。大町桂月氏は原稿を見て非常に感激した樣子で、博文館の大橋に談じてみませうと、原稿を持つてゆきましたが、やはりだめでした。この記念の書がやつと日のめをみたのは、大正二年元旦のことで、ある同情ある知人の出資によつて出版することができたのであります。
 さてその間に、わたしはまた、第二の筆禍事件にぶつかりました。それは『墓場』と題する『世界婦人』紙上のわたしの文章であります。どういふことを書いたのか、記憶してゐませんが、『この世は墓場のやうなものだ、生きた人間はめつたにゐないで、幽靈や惡鬼どもが、墓石の間から、ぬけでて來て到るところに陰險な惡事をはたらいてゐる』といふやうなことを書いたのではないかと思ひます。いろいろの都合で裁判をひきのばし、刑が確定していよいよ入獄となつたのは明治四十三年三月ごろであつたと思ひます。
 わたしの入獄がきまつた時、わたしは母の突然の死に會ひました。なにしろ二度目の入獄なので、母はよほど心にこたへたと見えて、『わたしはお前が惡人だとは、どうしても思へない。警察へ行つて談判してやる』と言つてくやしがつてゐました。兄がなだめて『お母さんが幾ら談判しても、三四郎の罪がゆるされるものでも、輕くなるものでもないから、それは無駄です、三四郎の仕事は後世にのこる、歴史的な大きな仕事なんだから、お母さんは自慢してよいのです』と、いつもと變つてねんごろに説くのでありました。二人の兄が刑事事件で、長く獄中に生活し、今度は三男のわたしが、二度までも入獄するといふので、老母は相當に心を惱ましたらしいのです。當時上京して、兄とともに飯田町に居を卜してゐた母は、突然腦溢血でたふれ、わたしが飛んで行つたときには、もう意識がありませんでした。朝おきて元氣に水くみなどしてゐたが、子供に『水をおくれ』と命じ、子供が水を持つていつた時は、すでに、たふれて、意識もなくなつてゐたさうです。だから、兄の家族も、だれ一人最期のお別れを言ふことができなかつたのです。これは、わたしにとつては、つらいことでした。しかし入獄中でなくて、まだしも、よかつたと諦めました。貨車一臺借りぎりで、遺骸を郷里埼玉に運び、貧しいながら兄弟相あつまつて、葬式をすますことができて、いささか心のおちつきを得ました。
 わたしの裁判の判決を聞いて、幸徳は管野とともに、新橋の富貴亭といふ普茶料理で、靜かな別離の宴を催してくれました。何ぞはからん、これが幸徳等との最後の別れであつたのです。今にして思へば、あの時の會食がいかにも淋しさうで、わたしの在獄中におこつた、大逆事件の豫感が、あの人人の間にもあつたのではなかつたか。それはただ、後日になつてのわたしの幻想かも知れません。
 市ヶ谷の東京監獄に入つてまもなく、突然浴場で内山愚童に出會したのは、まことに奇遇でありました。入浴を終つて、浴場をでようとすると、ひよつこり、そこに現はれたのが愚童ではありませんか。『やあ』『やあ』と一言かはしたばかりで、彼は浴場におしやられてしまひましたが、何の事件で彼がやつてきたのか聞きえなかつたのが殘念でした。しかも、この浴場での『やあ』『やあ』が、彼との永遠の別れのことばになつたのです。彼は何かの出版法違反事件で入つたのでせうが、そのまま幸徳等の大逆事件に連座するにいたつたのです。また東京監獄にゐる間に赤羽巖穴が面會にきて、これから旅にでるとて暫しの別れをつげるのでありましたが、彼はその直後、『農民の福音』といふ小册子を出版した件で、捕へられて入獄しました。そして、この鐵網へだてた面會が彼との永遠の別れになりました。わたしはそれから間もなく、千葉監獄に護送され、そこで赤旗事件で先入してゐた堺、大杉、荒畑、山川や、別口の西川などと久しぶりで對面し、入浴と體操でいつも一しよになりました。彼等がいづれも赤ばんてんに股引の勇ましい姿をして、元氣らしく見えるのが、うらやましいほどでした。それに引きかへ、事件の性質上輕禁錮であつたので、わたしは、じよなじよなと長衣をまとうてゐたので運動も思ふにまかせず、諸君がうらやましくてなりませんでした。わたしが六ヶ月の刑ををへて東京に歸つたあとに、おそらく赤羽は千葉に送られたのでありませう。暫らくすると、赤羽から千葉監獄差出しの手紙が屆きました。その後間もなく赤羽は病氣になり、看守の與へる藥も受けずに、ハンガー・ストライキをやつて遂に獄死しました。

     大逆事件の餘波

 明治四十三年九月、わたくしは刑期が滿ちて千葉監獄を出ました。通信で仄かにそれと察してはゐたのであるが、大逆事件を聞いてちよつと驚きました。迎へに來てくれた渡邊政太郎君その他の人々は、わたしが意外に元氣であつたのを喜んでくれました。入獄前に亡母を葬るべく寒い夜中に貸車内の遺骸を守つて埼玉縣本庄驛まで行つたが、それが凍るやうな寒さであつたので、わたしはひどい風邪に罹りました。入獄の際も咳がはげしく、毛細氣管支炎をわづらつてゐたので友人達は非常に氣づかつて迎へてくれたのでした。その病氣はまだ全治したわけではないが、兎も角も元氣で出獄し得たのは吾も人もうれしかつたのです。
 出獄すると間もなく、家宅搜索がやつてきました。幸徳等の大逆事件に關連した取り調べであつたのです。手紙その他の書類を車に載せて持つて行き、同時に私も警視廳に引つぱられました。その搜索の際でした。判事か檢事か知らないが若い男が、わたしの大切にしまつて置いた澄子さんの寫眞と手紙とを探し出し、わたしの顏とその寫眞と手紙とを幾度も見かへすのです。神聖なものを汚がされたやうに感じたので、わたしはいささか怒氣を帶びましたが、若ものはそれに氣づいたと見えてていねいに元どほりたたんで包みました。
 警視廳における警戒はかつて經驗したことのない嚴重さでありました。その夜は留置所ではなくて大廣間に刑事二人がわたしの寢床の前後につきそうて不眠看守を續けるのでした。押收書類は徹夜で調べたのでせう。翌朝は早くから訊問を受けました。訊問の中心は皇室に對するわたしの考へを質すにありました。長い訊問應答においてわたしの述べた大體の意見は次のやうなものでした。
「學校の國際法の講義であなたがたも論究したことであらうが、將來世界が一つになる時、それを共和制に統一するか、君主制を以てするか、といふことが問題になるであらう。さうなれば日本の國體などは問題でなくなります。ではさしあたり、皇室に對して如何なる態度をとるか。わたしは暴力沙汰を排斥する、それは決して效果がないからである」
 こんな要領の答をすると、檢事は一通の手紙を出してわたしに示すのでした。それは木下尚江が赤羽巖穴に送つたもので、わたしの留守中に赤羽が預けて置いた行李の中から見出されたものでありました。その手紙の要旨は
「先日石川が來て、今度入獄すれば病中の自分は必ず獄死するであらう。もし死んだら遺骸を引き取つて、二重橋外に晒してくれ、と言つてゐた。しかし僕はそのやうなことはしないで、普通に葬つてやるつもりだ」
 といふやうなものでありました、そして檢事は
「皇室に對して激しい敵意を持つてゐるやうであるがどうか」
 と、つめ寄つてくるのでありました。わたしはハッと驚きました。何しろ大逆事件の際であるし、また幸徳の家には屡※(二の字点、1-2-22)出入してゐたので、事件に卷きこまれはせぬかと恐れたのです。
「何しろ天皇の名において刑の宣告が言ひわたされるのだから、わたしが木下にそのやうなことを計つたとすれば、それは自然の感情の發露でありませう」
 とわたしは答へました、そして更に加へました。
「昨日わたしのところで押收なされた『虚無の靈光』の中に、マルクス主義や無政府主義についてのわたしの意見が書いてあるから、それを讀んでいただきたい」
 この小書の中に次のやうなことが書いてありました。
「マルクスの歴史主義革命論も、クロポトキンの理想主義的革命論も、ともに自由解放の運動としては一種の空想である。歴史過程に沿うて強權を以て社會政策を行つても解放にはならない。また單に暴力革命によつて自由平等の理想社會を打開しようとしても、それは不可能だ」
 こんな文句のあるページを開いて檢事に示すと、彼は納得したらしく、訊問を止めて世間話にうつり
「昨夜から御苦勞でした。何かお辨當を取るから喰べて下さい」
 と、それにて放免になつたらしい。お辨當など喰べずに早く歸らうとも思つたが、晝食時を少し過ぎたので出された『うなどん』を食うて、心も落ちついて歸途につきました。前夜もその朝も『天どん』の御馳走であつたが、心がおちつかないので、あまりうまくなかつたが、最後の『うなどん』ですつかり元氣になりました。
 歸宅すると皆が非常によろこんでくれました。都下の新聞などもわたしの拘引を書きたてたほどですから、友人達も少し心配になつたのでせう。當時すでに千葉から歸つてゐた堺ははがきをよこして、見舞に行きたいと思ふが、こんな際だからおとなしく引つこんでゐると書いてきました。アメリカの新聞は幸徳の事件に連座するものとして、わたしの拘引を報じ、福田氏の寫眞まで掲げて記事をにぎはせました。それは平民社時代に日本に來てゐたフライシュマンといふ男が書いたものでありませう。當時アメリカにゐた前田河廣一郎君から、その新聞を送つてくれたのであります。
 明治四十四年一月二十四日の朝、社會主義仲間の名物男齋藤兼次郎君があたふたとやつて來ました。朝から何の用ですか、と尋ねると、上氣して赤い顏した齋藤君は
「やられてゐるさうです」
 といふ。
「何がです?」
「いちがやで!」
「ああ! ほんとですか?」
 わたしは、ぐつと胸がつまつてきました。
「たうとうやるか。とにかく堺のところに行きませう。先に行つて下さい。わたしは後から行きますから」
 實を言ふとわたしも一しよに行きたかつたのですが、小心なわたしは胸がせまつて、動きがとれなくなつたのです。何とかして落ちつきたいと考へて、飯を食つてみようと試みたが、どうしても咽を通りません。お茶をかけて漸く一ぱいの飯を呑みこみましたが、不思議にも少し平靜になつたので、堺家に行きました。氣の小さい自分を省みて、少し恥かしい思ひであつたが、行つて見ると皆が興奮してゐるので、自分ばかりではないとやや安心しました。
 幸徳等の遺骸を受取つて落合火葬場に送つたのはその翌日でした。十二名が死刑、他の十二名は刑一等を減じられて無期懲役になつたのです。その無期刑者のうち、坂本清馬君の所持品が私に宅下げになつたので、監獄に受取りに行きました。その時、いろいろの手續に沒頭してゐる間に、坂本君に對する減刑言渡書が紛失しました。驚いて諸方を探してゐると松崎天民といふ新聞記者が風呂敷包の中からそつと引きぬいて書き寫してゐました。恐しい奴だと思つたが怒りもされず、寫眞にとるなら貸してあげるから、用のすみ次第、すぐ返しなさい、といふと喜んで持つて行きました。

     生活の逼塞

 幸徳は死刑になる直前に端書をよこして支那の同志張繼の所在を問うて來ました。わたしはすぐに支那革命黨の本部である民報社に行つて、それを問ひましたが、張繼はその時歸國してゐたらしかつた。民報社には、その時、章炳麟や汪兆銘や何天炯等がゐましたが、章は幸徳に手紙をあげたいが、屆けられるだらうかと問ひ、わたしが送つてあげると答へましたので、すぐに半紙に細字で慰問の手紙を書きました。わたしはすぐに張繼に關する返事とともにそれを幸徳に送るつもりでしたが、つひに間にあはず、幸徳は刑死してしまひました。
 章炳麟は支那學の大家で、滿洲、朝鮮排撃の急先鋒として、つとに光復會を起した人であります。呉稚暉だの蔡元培だのといふ、さうさうたる人物がその門下から出てゐます。呉、蔡兩氏は無政府主義的理想家としてともに支那青年層に多大の感化力を持つに至りました。これ等の人々の先輩である章炳麟は當時『民報』の主筆として故國の革命を鼓吹してゐましたが、その『民報』が告發せられて東京地方裁判所の法廷に被告として立つことになりました。わたしはそれに辯護士を紹介してあげた關係から、付添人の格で法廷に出席しました。黄興や宋教仁や汪兆銘もそのとき一しよに行きました。法廷が開かれると一人の辯護士が章氏は精神異常者であるから精神鑑定をしてもらひたいと申請したので、わたしはその辯護士(それはわたしの紹介した人ではなかつた)に抗議し、章氏は偉大な學者であり、その性格や素行に常軌を逸するところがあつても、決して精神異常者ではない、いまの申請はとりさげて下さい、といふとその人はその申請をとり下げると同時に退廷してしまひました。怒つたのです。法廷が終つて、黄興、宋教仁、章炳麟とわたしと、四人で日比谷公園の松本亭で午餐をともにした時、黄興は言ひました。
「章さんは少々精神異常者というてもよろしい、辯護士さん氣の毒なこといたしました」
 さすがに黄さんは人間が大きいなと思ひました。この裁判事件は、わたしが巣鴨監獄を出て間もない時分のことであつたと思ひます。

 さて、大逆事件があつて以來、わたしどもの生活の道は八方ふさがりになりました。進退まつたく谷まりました。わづかに内密の代筆や飜譯で口を糊するに過ぎませんでした。刑事二人が晝も夜も家居の時も、外出の時も、常にわたしどもに離れず警戒を續けるので、知人を訪問することも遠慮せねばならなくなりました。この時わたしに屡※(二の字点、1-2-22)代筆の仕事を與へてくれたのは辯護士花井卓藏氏でありました。花井のところには、わたしは十五、六歳の時から出入し、同博士の長男節雄君が死んだときには、香爐を持つてその棺を送つたほどでしたが、この生活難に際しても隨分世話になりました。かつて木下尚江が發行するところの『野人語』に、わたしは花井邸訪問の一齣を次のやうに書いてゐます。
「この堂々たる訪客(堺利彦、野依秀市兩君)の中に、十年着ふるしたるハゲがすりの、この夏一度も洗濯せざる單衣をまとへる予の、いかにみすぼらしく見えしよ。加ふるに予は昨年入獄の際より呼吸器に微恙を得て、やつれし小躯を湘東の一漁村に養ふの身の上である。二十年舊知の花井博士の眼にはこの光景が如何に映じたであらうか。
 堺、野依の兩君は所用を濟ませて辭し去つた。暫くして予もまた所用をすませて當に座を立たうとした。その時花井氏は聲を懸けて
『ちよつと……』
 といふ。何時になく沈んだ聲である。
『失敬だけど、はなはだ失敬だけれど、着物を一枚あげたいが、着てくれますか……』
 予は子路のやうな豪傑ではないが、さりとて衣服の粗末なるを恥ぢらふほどに世俗的でもない。たゞこの頃中から種々なる無理な無心を申し出でてたびたび迷惑をかけた揚句に、この優しい言葉に接して、俄かに心臟の血がワクワクするのを覺えた。
『えゝ、ありがたう』
 と予が答へるのを聞いて、花井氏は、すたすたとドアを排して出ていつた。すぐに歸つて來た。新聞紙にくるんだ物を小脇にかゝへては入つて來た。
『失敬なやうだけれど、君と僕との間だから、惡るく思うて呉れたまふな』
『いえ、どう致しまして』
『僕がちよつと着たのだから、きたなくはない』
『結構です、どうも着物のことなど少しも關はんものですから……』
『關はないのはよろしいが、あんまり、ひどいや』
 花井氏は顏をしかめてかう言ふ。その澁い底力のある聲は少しくうるんでゐる樣子であつた。
『恐縮です』
 博士自らていねいに包みなほして、カタン糸にてゆはいて呉れたのを予はいただくやうに受取つた。予は拜領の包を抱へて椅子から立つた。花井氏はまた一語を送るのである。
『早く身體を丈夫にしてね……』
 予は花井邸の玄關をそこそこに出て、ほつと一息した。平生『敞衣褞袍、興衣狐狢立、而不恥者、其申也歟』など言うて、いささか誇りにしてゐた予も、人情の不意討を喰うて不覺の涙さへ禁じ得なんだ」
 當時の私の状態がいかに哀れなものに見えたかが想像せられます。わたしに飜譯の仕事を世話してくれたり、いろいろ助力をしてくれた同郷の先輩、佐藤虎次郎氏――この人のことは前にも書いた――は或る時わたしに勸告して
「もし君が暫く社會運動から遠ざかるなら洋行もできるし、歸國の上は立派な就職もできるが、考へて見ないか」
 と言ひました。それは當時の文部大臣小松原英太郎の前で粕谷義三、花井卓藏兩氏立會の上で一言ちかへば、文相自ら喜んで引受けてくれるといふのでした。佐藤氏は親切心で言つてくれたのであらうが、わたしは甚だ不滿でした。
「わたしに初めて社會主義の話をしてくれたのは、あなたではありませんか、そのあなたから、その樣な勸告を受けるのは心外です」
 と斷りました。佐藤氏はあきれたらしく、わたしもそれ以來、助勢を乞ふことができなくなりました。

     脱出、放浪の旅へ

 明治四十四年夏、わたしは呼吸器の病氣を癒すために横濱の根岸海岸に一小屋を借り、同志大和田忠太郎君のところで食事の世話になり、毎日海に入り、河童のやうな生活を續けながら、飜譯などしてゐました。『哲人カアペンター』を公けにしたのもこの時でありました。この書はわたしにとつて眞の處女作と言つてもよろしいもので、自分では可なり心力を注入したつもりであつたが、賣れませんでした。しかし、カ翁をシェフィールドのかたゐなかに訪問した記事が萬朝報にでると、この本も少し賣れ始めたやうですが、その時は既に『かず本』になつて市場に投げられた後なので出版者西村氏は大ぶ損をしたらしいです。
 明治四十五年には秋山氏といふ一人の同情者が現はれて、わたしの獄中作『西洋社會運動史』の自費出版が着手されました。ところが元來この計畫は、西園寺内閣であつたので可能性がみとめられたのであつたのに、意外にも同内閣が倒れて、われわれに苦手の桂太郎が内閣を組織するに至りました。『これはいかん! 發禁は必定だ!』と思つたが、しかし、印刷も半ばでき上つたので如何ともすることができず、この上はことを極祕裡に運ぶにしかずとかんがへ、製本も年末におしつまつて出來あがるやうにして、官僚どもが年末の多忙と正月の屠蘇醉との夢中にある間に、書籍を處分することに決しました。
 そこで奧付は大正元年(明治四十五年)十二月二十五日印刷、大正二年一月一日發行といふことにし、殆ど全部の書を、同志渡邊政太郎君と共に深夜、大雪の中を荷車で、製本所から直ちに某友の土藏の三階に運搬しました。また多くの同志や知友にも贈りました。それは年末三十日ごろのことであつたと思ひます。内務省檢閲課へは丁度大晦日に屆くやうに發送しました。わたしの豫想は過たず、官僚が屠蘇の醉ひからさめると同時に發禁の命令が横濱警察に來ました。警視廳は西村氏の東雲堂に書籍差押に行つたが、そこには勿論五、六册しかありません。奴等はやつきになりました。わたしのところにも一册もありません。已を得ずわたしを警察署に引つぱりました。わたしは夜具の毛布を背負つて横濱警察に行きました。
「書籍をどこへかくしたか?」
 といふ、きつい訊問です。
「公然屈けいでた出版物です。何の必要があつてかくしませう」
「でもどこにも無いぢやないか?」
「もう出來てから一週間になります、大部分は支那の同志が支那に持つて行きました。今時分は船の中で黄海あたりを渡航中でせう。もう少し早くお知らせを下さればよかつたですが、外國船に積み込まれたのでどうすることも出來ません」
 署長さんも今更怒つてもしかたがないと思つたか、ことやはらかに
「それでは歸つてもよろしい」
 と來た。かうして、たわいなく事件は經過し去りました。この事件が因縁になつて、わたしの日本脱走が發起されるに至りました。
 明治四十五年の夏、福田氏一家は東京角筈の家にゐられなくなつて、一まづわたしのところに來ることになりました。それには渡邊政太郎君が容易ならぬ骨折りで悲劇喜劇を演じながら兎も角も無事に移轉ができたのです。貧乏の結果、借金取りの包圍に會つて家財の運搬など思ひもよらぬ有り樣であつたのを渡邊君が一切引きうけて始末をつけてくれたのです。
 四十五年は半ばで大正元年になりましたが、その年の大晦日に渡邊とともに出版書の始末を終つたところに、裏口の方から『石川さんこちらですか』といふ聲がかかりました。田中正造翁の聲です。飛びだして見ると翁は人力車から降りるところです。
「やれやれ見つかつてよかつた。あちこちと一時間あまりも探しましたぜ!」
 二週間ほど前に海岸通りから少し高臺に移轉したために翁をまごつかせた譯です。しかし一家一族が大喜びで翁を迎へたので、翁はとても嬉しさうに、懷から十圓札を一枚だして
「これで皆さんと一しよにお正月をさせておくんなんしよ」
 といふのです。われわれに對する翁の愛情の深いのには、いつも感激させられます。横濱まで來てお正月をしようといふ翁の心の中には、貧困の極にあるわれわれがこの年の瀬を如何にして越しうるか、といふ心やりもあつたのでせう。無一物の翁なればこそ、無一物のわれわれに同情が持てるのです。わたしは何時もながら眞心から翁に感激しました。
 翁は元日から若いものどもにかしづかれながら、屠蘇に醉うて大元氣でした。唐紙がせん紙を翁の前に並べると、翁は一ぱいきげんで盛んに書きなぐりました。
「大雨にうたれたたかれ重荷ひくうしの轍のあとかたもなし」
「天地大野蠻」
「壯士髮冠をつく日の出酒」
「若いもの見てはうれしき今朝の春」
「餘り醉ふことはなりません屠蘇の春」
 といふやうな文句は今でも記憶してゐます。翁は大はしやぎにはしやいで三日に東京の方に行きました。家の無い翁の後姿はいかにも淋しさうに見えました。
 翁が去つて二、三日たつと前述の發賣禁止事件でわたしは横濱の警察に引致されました。それを聞いた支那の革命少女T君はベネジクティンの大壜を携へて來訪されました。T君は民國の第一革命を横取りした袁世凱の暗殺を企てて失敗し、危く捕へられようとした時ベルギーの領事G君に救はれ、G君に伴はれて日本に來た人です。G君はかねて二、三度わたしの家に來訪したことがあり、このG君から私のことを知つたのです。(この人のことは『爆彈の少女』[#「『爆彈の少女』」は底本では「『爆彈の少女」」]として幾度か紹介したことがあるから、ここには述べますまい。)
「あなたは、かうして、ぐづぐづしてゐると、幸徳のやうにくびられてしまひます。早くこの國から脱走しなさい。旅費はわたしが出します」
 と勢こめてT君は言ふのです。この少女の情熱にほだされて、わたしの日本脱走は決せられたのです。
 このことは渡邊と堺と二人に知らせたのみで、他のすべての同志には祕密でした。堺は送別のためにとて、有樂座の文藝協會演出アルト・ハイデルベルヒに招待してくれ、わたしは最初にして最後に松井須磨子を見ました。
 三月一日、わたしはひそかに佛國の巨船ポール・ルカ號に乘り込みました。渡邊から特に知らされて見送つてくれた青年山本一藏は岸壁に唯一人とどまつて、いつまでも見送つてくれましたが、それが永遠の別れになりました。彼は早稻田を優秀の成績で卒業しながら、間もなく鐵道自殺を遂げました。田中翁はわたしの脱走を聞いて些か淋しさうでしたが『わたしはヨーロッパに行つて、必ずあなたの傳記を書いて、あちらの人達に知らせてやります』といふ一言をもつて、わたしは翁にお別れしました。そしてそれが永遠のお別れになりました。
(永々紙面を汚しました「浪」は限りなくつづくのですが、一先づこれで……)
(昭和二十三年五月―十二月)

底本:「日本現代文學全集 32 社會主義文學集」講談社
   1963(昭和38)年12月19日発行
初出:「平民新聞 第73号〜第102号」
   1948(昭和23)年5月24日〜12月27日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:仙酔ゑびす
2006年11月17日作成
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