斜坑は、動物の通路を第一の目的として掘られたものであろう。炭坑に蒸気機関や電動機の採用されていなかったころ、人間の肩や背の他には、馬が一切の労働力を供給していたのだから。炭坑に機械力が這入って来てから、馬は、次第に廃れて行ったのであるが、古くからの炭坑へ行くと、今でも、馬の残っているところがある。
青!(その馬は若い時からそう呼びならされていた。)
青は鉱山主の温情主義から、坑の中に養われていた。十何年間を、地の底の暗闇の中に働いていたのであったが、最早すっかり老衰してしまって、歩くことさえも自由ではなくなっていた。併し、青は、坑内に働いている誰からも愛されていた。惨めな老人を労るようにして労られていた。
「青! なんとしたことだい。青! 少し元気出せよ。ほう! ほう! ほら!」
坑夫達はそんな風に言って、そこを通りかかる度毎に、青の鼻先へ触ってやるのだった。併し青は、黒い鼻先をほんの微かに蠢めかすだけであった。感覚の一切を、過去の生活の中へ置き忘れて来てしまったようにして、森の中の沼のような暗い眼を向けているのだった。その眼が果たして見えるのか見えないのか、ただじっと、暗い空間の一点に向けて据えているのだった。
「青! 本当にお前はどうしたのよ。おう? 元気がなくなったなあ。青! ああ、俺の飯が残っているから、お前に少しやろう。」
併し青は、坑夫達がそうしてくれる飯も、ほんの少しきり食わなかった。それも、一度口の中に入れたものを、思い出したようにしては噛み、またしばらくじっとしていて、思い出したようにしては、また噛むのだった。
青は本当に生きているのか死んでいるのかわからなかった。それは襤褸で拵えた馬のようでもあった。硝子玉の眼を嵌め込んだ剥製の馬のようでもあった。
「俺達も、年を取れば、青のようになるんだろうなあ。青! 俺達も今にこの坑の中でお前のようになるんだよ。お前よりももっともっと惨めになるかも知んねえ。」
「それはそうよ。人間も馬も変わりがあるもんじゃねえ。なあ青!」
坑夫達はいつもそんなことを言うのであった。
*
青が養われている場所には、夜になると、若い働き盛りの馬が二三匹繋がれた。
若い馬は、ぴしりっぴしりっと尾を振った。虻がいるのでも蚊がいるのでもない。ただぴしりっぴしりっと無暗に尾を振った。人が通りかかると、首を高く持ち上げて(ほほほ!)と嘶いた。脚を上げては石炭の破片を踏み砕いた。何をやっても、がつがつとそれを喰った。明るい世界から引き込まれて来たばかりの馬は、全身が感覚で、全身が力だった。
青は、この若い馬を見ることで、過去の記憶の中に置き忘れて来た感覚の幾分かを、そこに取り戻して来るような様子だった。そんなとき、青の耳は、微かながらに動き出すのだった。その暗い眼は、空間のどこかにただ向けられているのではなく、何かを視詰め出しているようだった。
*
炭坑にはストライキが始まっていた。坑内に働いている人達が、青のようになりたくないための運動であった。坑内からは、総ての労働者が、地上に引き上げて行くことになった。若い働き盛りの馬達は、その前に、鉱山主によって、坑の外へ引き出されていた。
併しどうしたのか、青だけは、そのままそこに残されていた。
坑夫達は、今、坑の中から引き上げて行きながら、青の前に通りかかって、足を停めたのだった。
「青! お前だって、生きているんだもの、何も食わずに、何も飲まずに、幾日も生きているってわけには行くめえ。」
「いくら馬だからって、随分ひどいことをするもんだなあ。これが人間のように口のきけるもんなら、黙ってはいめえ。なあ。」
「おい! 引き出して行ってやろうじゃないか?」
誰かが力をこめて言った。
坑夫の一人は、青の首に、自分の帯を投げかけた。そして青は、坑夫達の一群の背後に、全く力のない足どりでよろよろと引かれて行った。それは、牽かれているというより、曳き摺られている形だった。青は、二歩歩いては立ち停まり、三歩歩いては立ち停まるのだった。
「青! 後から押してやろうか?」
或る者はそう言って、青の背後から、両手をかけて押し上げたりした。併し青は、その人間を蹴るでもなく、斜坑の斜面を押し上げられて行った。
「おい! 青の頭から、何か冠せなくちゃ、駄目だよ。何十年も坑内にいた馬を、明るいところに引っ張り出すと、すぐ死んでしまうんだっていうからなあ。」
古参の坑夫が注意した。若い坑夫は半纒を脱いで青の頭から引っ被せた。
*
地上には初夏の陽光がぎらぎらと降り注いでいた。眼を射るような光線だった。
炭坑事務所から二十間ばかり離れて、三四本の大きな榎が立っていた。その下に、三匹の馬が繋がれていた。その三匹の馬は、坑夫達に引かれて坑内から出て来た青の姿を見ると、首をあげて(ほほほ!)と嘶いた。
青はすると、坑夫の手に引かれていたにもかかわらず、立ち停まった。
「青! なんだって停まるんだい? 青! 青!」
併し青は歩かなかった。最早、青は今までの青では無くなっていた。首を上げ、耳を欹てて、その耳に全身の感覚を集めようとしていた。
そのとき、榎の下から、また、馬が嘶いた。その次の瞬間、青は、坑夫の手から手綱[#「手綱」は底本では「手網」]を奪って駈け出した。頭から掩いをされたまま一散に駈け出した。
「馬鹿野郎! 誰だあ? 青を引っ張り出して来たのあ? 気違いになるのきまっているじゃないか?」
誰かが事務所の方から怒鳴った。青はその辺を滅茶苦茶に駈け廻って、榎の下に嘶いている馬達を、探そうとしているのだった。
(附記)長い間を坑内に封じていた馬を、地上の明るい世界に引き出せば、すぐ死んでしまうか、気違いになってしまうそうである。またクロポトキンは「相互扶助論」の中で、シベリヤの野に放牧されている馬が、嵐に襲われると、谷底の何処かへ、申し合わせたように、一カ所へ一緒になるものであることを言っている。
――昭和六年(一九三一年)『新青年』七月号――