焼和尚は坊さんのくせに、大変女が好きだった。そして、彼の前身を知っている人の話によると、彼は、若い時分には盛んに発展し、やたらと女を買ったものだということだった。彼の頭が、薬罐のように、赤くてかてかと禿げているのも、実は焼傷の跡ではなくて、その頃に引き受けた悪い病気の名残りなそうである。それでも焼和尚は、私達には焼けてこうなったのだと言ってきかせるのだった。
焼和尚は、一人で住んでいた。細君と、めっかち(眇)の息子とがあったが、この二人は半里ほどはなれた町に住ませて置いて、自分一人植木を弄ったり、軸物の観賞したり、彫りものを眺めたり、まるで退屈で困る顔をしているので、或る女――寺に虞美人草の種子を蒔くと檀家に死人が絶えないという伝説を信じている女――などは、「あの焼和尚め、誰か死ねばいいと思って、虞美人草の花を植えやがったから」と言って憤慨していた。
併し彼は、決して死人の出るのを望んでいるのではなく、女の出来るのを望んでいたのだ。一つは自分が好きだからでもあろうが、その頃、村の小学校には、虞美人草の花を好きな女教員がいたから……。
町からは折々彼の細君と眇の息子とがやって来て泊まって行った。細君というのは、ちいさな、乾枯らびた大根のような感じのする女で、顔中に小さな皺がいっぱいあった。そして右の頬には、年が年中、丸い一銭銅貨大の紙が貼ってあった。で彼女は、貼り紙おばと渾名されていた。――「おば」とは、寺の細君、また大黒との意。
貼り紙おばは、寺に泊まっている間、毎晩のように、私の家まで湯に這入りに来たが、彼女は、一晩中べちゃべちゃと一人で饒舌っていた。話題は大抵、和尚の浮気で、やれどこの細君と関係しているとか、やれ小学校の女教員に、いくらいくらする掛け物をやったとか、一晩中そんな類の話を、幾晩も幾晩も繰り返していた。
私達には、貼り紙おばの頬の丸い貼り紙が、珍しくもあり不思議でもあった。そして私達まで、彼女を真似て、丸い紙を頬に貼り付けたものだが、私は或る晩、彼女が風呂から出て来た時、彼女の頬に、穴があいているのを見つけた。
彼女は、また、ふところから、ただの半紙を出して、爪で丸く切って頬に貼った。私には、今度は、その穴が不思議になった。女が、戦争に行って、鉄砲でうたれたのでもあるまいのに?…
「お父つあん。あのおばさまの、頬の穴は、なにしたのだべ?」
私は彼女の帰った後で、父に訊いた。
「あれか? あれはな、あのおばさまは、黙っていられねえ性分だとや。そいつを、いつだか、黙ってねけなんねえごとがあって、饒舌ったくって饒舌ったくってなんねえのを、耐えてこれえていだら、話がたまって、頬が打裂けてしまったのだとや。」
みんなは笑った。私も父が私を調戯ったことだけは判ったが、貼り紙おばが、焼和尚から引き受けた梅毒のために、そうなったことを知ったのは、それから暫くの後のことだ。
焼和尚は、女を好きなばかりでなく、絵画や彫刻や陶器類が好きで、彫り物師とか画家とかいえば、どんな身窄らしい姿をした、乞食のような漂泊の者でも、きっと、幾日でも泊めてやったものだ。そしてその代償として、彫刻師には彫刻をしてもらい、画家には絵を描いてもらったのである。
或る晩秋の夕暮れに、一人の年寄りが、寺を頼寄って来た。
その日は、ひどく冷たい北風が吹き荒んで、公孫樹の落ち葉や欅の落ち葉が、雀の群れかなんぞのように、高く高く吹き上げられていた。それなのに老人は、汚れた縞の袷から、垢染みたシャツの袖を覗かせて、寒さに顫えていた。そしてその老人は、お伽噺の中にでも出て来る老人のように、長い白い頤髯を持っていた。頭はつるつるに禿げあがっていた。
私達は五六人で、本の頁にはさむ公孫樹の葉を拾っていたのだが、みんな不思議そうな、訝かる眼で、どこからか風に吹きとばされて来たように、突然私達の側へ寄って来たこの上品な容貌の老人を見た。
「この寺には、和尚さんはいるのかな。」
老人は私に訊いた。眼が怖ろしいほどぎらぎらと光っていた。
「おります。」
こう言って、私はおそるおそる老人の顔を見た。老人は、何か長い丸いものを風呂敷に包んで、鉄砲を担ったような具合に、細い紐で背負っていた。
他の子供達が、私の側へ駈け寄って来た。老人は、ちょっと首を曲げたようであったが、すぐに庫裡の方へと立ち去った。私達はその後から、ぞろぞろとついて行った。
「お頼ん申す。」
老人はこう言って庫裡の入り口を開けた。この、「お頼ん申す」という言葉は、私達にとっては、非常に珍しいものであった。おそらく私達には、初耳であった。講談かお伽噺に出て来る人でなければ、この辺では、そういう言葉を使う人はなかった。
焼和尚は、入り口の茶の間で、長い煙管で煙草を燻らしながら手を焙っていた。
「御迷惑じゃろうが、泊めてもらえますまいかな?」と、老人は入り口から言った。
「そうだね……」と焼和尚は少し考えるような風をして、「一体、あんたは、商売はなんだ。」と訊いた。
「わしは、商売というものが無いから、こうして困っているのじゃが……わしは、その画家なんでな。泊めてもらえないかな?」
「ようがす。泊まんなさい。」
私達はこうして、その老人が寺に泊めてもらうのを見て帰った。そして、私達はその帰り途に、「あの人は、画家だぞ。あの人は画家だぜ。」と、何か不思議なものを見たように、囁きあった。
それから五六日過ぎたある晩のこと、その画家は、私の家へ湯に這入りに来た。その晩は、和尚は来なかった。
既に村の人達は、みんなその老人のことを知っていた。「再度生老人」という、彼の雅号まで知っていた。だから私の家でも、再度生老人が、一人で湯に這入りに来ても、別に不思議がりもしなかった。
再度生老人はその晩も、大変寒いのに、袷一枚にシャツ一枚着ているきりであった。そして、寒いのでするのか、それとも、虱が湧いているのか、絶えず身体と着物とをこすり合わせるようなことをしたり、着物の上から撫でたりした。
「爺様。寒くねえんですか?」
私の父は、彼が湯から出て、また炉傍に座って身体を揺り始めた時、やさしいいたわるような声色で訊いた。
「寒い。寒いが、着物がないから仕方がない。」
再度生老人は、笑いもせずに、真面目な顔で言った。
「そんでも、襖の絵でも描いたら、着物の一枚や二枚は、すぐ出来るだろうがね。」
「それはそうだ。けれども、そんなことを思っていては、ろくな絵はかけんからのお!」
言いながら再度生老人は、白い煙のような頤髯を撫でた。
私は、そんなことを思うと、どうしてろくな[#「どうしてろくな」は底本では「どうしてろくな」]絵が描けないのだろうと思った。そんなはずは無いようにも思ったが、この老人の言うことに、間違いは無いようにも思われた。
「わしに、煙草を御馳走してくれるかな。」
再度生老人は、私の父に言った。
「さあ。どうぞ、どっさり……」
父は煙管を拭いて彼に渡した。
「わしは、煙草を買う金もないほど貧乏しているのじゃ。しかし、それは苦にならん。わしは、立派な絵を残せればいいのじゃ。あの和尚のような生活は、わしは厭じゃ。」
彼は、ぱふりぱふりと煙草を燻らしながら、和尚の生活の淫らなことや、吝で、彼には卵を食わせないこと、煙草も買ってくれないことなどを話した。彼の吐く煙が、彼の白い髯と一緒になって蟠まる。
「あの和尚は、わしに、しきりに絵を描かせようとする。絵を描いてくれれば、卵も食わせるし、煙草も吸わせるというような素振りを見せる。だがわしは、そんなことをされると、かえって描かん。あんな色魔のような坊主に、自分の描いたものをやりたくない。わしはそういう性分じゃ。」
彼は、私達にはわざとらしいように思われる口調で言った。
しばらくしてから、私は、「俺さ、天神様の絵を描いて呉いんか。」と頼んだ。
「天神様の絵とな。どうするのじゃ。」
父が傍から、私に代わって、私が信仰深い子供で、床の間に天神様の絵をかけて、朝晩それにお燈明を焚いて、お参りしたがっていることを話した。
「それはいいことじゃ。気が向いたら描いてやる。」と老人は言った。
父は母に言いつけて、綿入れの古いのを一枚出さして彼にやった。老人は悦んで、初めて微笑を浮かべたようであった。
「それでは頂くとする。わしは、もう一度生まれて来るのじゃ。それだから、再度生、再び生まれるという名を使っているのじゃ。今度生まれて来たら、おまえさん方へ、この恩は返す。絵もその時には、もっといいのを描く。」
老人は呟くように言いながら、立ち上がって帯を解いた。
老人は褌をしていなかった。白毛を冠った睾丸がぶらぶらとさがった。私はおかしくなって笑った。父と母とは、私の笑うのがおかしいように見せかけて笑った。
「何もおかしいことはないのじゃ。睾丸は誰にもあるのじゃからの。」と老人は言った。
母は奥から、新しい晒し木綿を持って来て、再度生老人に渡した。老人は、綿入れと褌とで、すっかり温かくなったと言って、欣んで帰って行った。
私はそれからもたびたび寺へ遊びに行った。そして、そのたびに、自分の家から卵を盗んで行ったり、自分の小遣い銭で「バット」を買って行ったりして、それを再度生老人への贈り物とした。
和尚と再度生老人とは、いつも小さな囲炉裏の、向こう側とこちら側とに対座して、絶えず睨みあっていた。和尚はぱふりぱふりと煙草を燻らしながら黙りこくっていた。老人はこちら側に、煙草などは見たくもないというような顔をして、何かを深く考え込んでいた。
それでも再度生老人は、私がそっと、和尚が便所へでも立った後にふところから「バット」を出してやると、和尚の前で、これ見よがしに燻らした。また卵をやると、老人はさっさと台所から小鍋を持って来て、和尚の前で、一人でうでて食った。二つやっても、和尚にはやらずに御飯の時に食うのだと言って取っておいてまでも、決して和尚にはやらなかった。
「早く天神様を描いてけいんか。」と私は、幾度も寺へ遊びに行くたびごとに繰り返すのだった。
「あ、描いてやる。そのうち、気が向いたら描いてやる。」と再度生老人は言った。
「駄目なんだ。この爺様は、生きたうち気が向かねんだから……」と傍から和尚が言った。
私は、本当にそうかも知れないと思った。幾度「バット」を買って来てやっても、幾度卵を盗んで来てやっても、「気が向いたら描いてやるじゃ。」と言うばかりで、決して描いてくれなかった。
「お前さんには、一生描いてやる気になれんかも知れんが、他の人になら、向くこともあるじゃ。」と老人は言った。
すると焼和尚は、厭な厭な、雇い人からやり込められた主人のように、むっとしてしまって、すっかり黙りこくってしまうのである。おそらく、食客のくせにとでも思ったのだろう。だが再度生老人は平気だった。
和尚はたびたび私の家に風呂に這入りに来たが、再度生老人は、一度父が綿入れをやった時来たきり、もうやって来なかった。和尚は来るたびごとに、再度生老人のことを悪く言った。
「あの爺は、再度生老人だなんて、名ばかり偉くて、何もろくなものは描けねえようでがすな。どこから頼まれでも、俺が頼んでも、さっぱり描きいんからな。気が向かねえ、気が向かねえって描きいんでがすからな。」
「そんなごどもがすめえぞ。あの爺様は、――金のことを考えたのでは、ろくな絵は描けねえ。貧乏は苦にならねえ。いいものを描きたいのじゃ――って言ってしたがらね。」
私の父は言った。
「なあに、ろくなもの描けるもんでがすか。あの爺は、怠けものでがす。気が向きそうもがいんな。なあに、今に、追っ払ってやりますべは……」
和尚は、癪に障るらしい口吻をもらした。
和尚の話によると、和尚は絶えず描くことをすすめているらしかったが、再度生老人は、まるで和尚の言うことなどは問題にしなかった。貧乏したって、寒くたって、煙草が吸えなくたって、俺の勝手じゃないかと老人は言っていたそうだった。
「煙草が吸いたくって、吸いたくって、我慢が出来なくなったら、そうしたら、煙草銭を稼ぐ積もりで描くかも知れねえ。しかし、さあ達磨を描け、花鳥を描け、虎を描けと、居催促をされるんじゃ、わしは、いよいよ食えなくなっても書かんのじゃ。わしは、気が向いた時に、気の向いたものを描く。」と言ったこともあるそうだ。
私は、どうしても、天神様の絵は描いてもらえないものと思った。
その日は雪が降っていた。
私は学校から帰って来ると、母から、再度生老人が置いて行ったのだと言って、新聞紙に包んだ巻き物を渡された。
私は小躍りするようにして、顫える手先で静かに展いて見た。
それは、梅の木の下に立っている菅公の像であった。梅の花の下で、私を凝視めているように私には思われた。その真面目な、むっとした顔は、此方の心を見すかしているようで、悪い考えを抱いたり、怠けたりすることは、出来ないような気がした。
私は早速、自分の室の、本箱の上の壁に、飯粒で貼りつけた。そして、仏壇から小さな蝋燭を持って来て、お燈明を焚いて上げた。
その晩、貼り紙おばが眇の息子を連れて湯に這入りに来た。
「あのね、そら、寺にいた再度生爺様はね、どこがさ行ってしまえしたでは。……」
ちょっとの間も黙っていられない貼り紙おばは語り出した。
「どうしてしゃ?」と私の父が訊いた。
「なうにね、和尚が、やきもちを焼いででがす。私ね、あの爺様の洗濯をしてやったら、和尚が、そんなごどをするなって、叫び立てたりしてね……」と貼り紙おばは饒舌り立てた。
なんでも、和尚が貼り紙おばのことを悪く言うと、再度生老人が、お前さんはそんなことぐらい許してやれ。お前さんは始終他の女といいことをしてるじゃないか、と言ったのが始まりで、とうとう喧嘩をして、寺を追い出されたと言うのであった。
私は、再度生老人からもらった天神様の画像に、毎朝お燈明をあげて、お辞儀をしてから学校へ出掛けた。そして、あの爺さんはどうしたろうと、再度生老人のことを思い出さないことはなかった。
或る日のこと、だしぬけに再度生老人がやって来た。
その時、私と母とは、火を焚いてあたっていたが、私は、再度生老人は寺を追い出されて、どこへ行っても泊まるところがなくて、私の家に泊まりに来たのだなと思った。で私は、母に、可哀想な老人を、どうぞ泊めてやってくれと頼んだ。
だが再度生老人は、私の家に這入って来るとすぐに、「あの、この間お前さんに描いてやった菅公の絵を、ちょっと貸してくれ。そら、天神様の絵じゃ。」と言った。
私は呆気に取られた。きっと取り返されるのかも知れないと思った。それでも、仕方がないので、壁から剥がして来て彼に渡した。
「近頃あるところで、天神様の絵を見たが、どうもわしの描いた天神様は、髯が気に入らんのでの。」と言って、再度生老人は、暫くの間、天神様の絵を眺めていた。
「爺様は、今、どこにいるのじゃ。」と私の母は訊いた。そして、お茶を出したり、茶菓子に乾し柿を出したりした。
「わしは、今、町の寺に泊まっているじゃ。大変親切な和尚さんで、いつまでも泊まっていろと言うから、生きているうちに、何かいいものを描きたいと思っているのじゃ。一枚、鍾馗を描いてやったら、大変喜んでいたがの。――ちょっと、硯を貸してくれ。」と再度生老人は言った。
私が硯を持って来ると、再度生老人は、墨を磨りながら、また暫くの間、天神様の絵を眺めていたが、ふところから、新聞紙に包んで来た筆を出して、天神様の髯をほんのちょっとだけ直した。そして、またしばらくの間見続けて、またちょっと筆を入れて、私に渡しながら呟いた。
「これでいい。わしもこれで、死んだところで、別にもう心残りはないわけじゃ。」
再度生老人は、微笑みながら茶を啜った。
私は再度生老人が、何のために来たかがわかった。私は子供心に彼を尊敬せずにはいられなかった。
その後、父は、その天神様の絵を表具屋にやって、表装してくれた。そして、その絵は今でも私の郷里の家に残っている。私は、帰郷のたびごとに、再度生老人を懐しく思い出すのであるが、その菅公の像というのは、今になって見ると、中学生の図画と選ぶところがないほど、ひどく下手なものである。私は、いつもこの絵を見るたびにあの哀れな老人の上に微笑を洩らさずにはいられない。
――昭和三年(一九二八年)『宇宙』九月号――