――神奈川方面不有望――草刈と大衝突――家族擧つての發掘――非學術の大發掘――土器一箇千圓の價?――

 玉川向たまかはむかふ、すなは神奈川縣下かながはけんかぞくする方面はうめんには、あま有望いうぼう貝塚かひづかい。いや貝塚かひづかとしては面積めんせきひろく、貝層かひそうふかいのがいでもいが、土器どき出方でかたはなはわるい。矢上やがみしかり、高田たかたしかり、子母口しぼぐちしかり、駒岡こまをか子安こやす篠原しのはらたる箕輪みのわもつと不有望ふいうぼう
 其中そのなかで、末吉すゑよし貝塚かひづかは、やゝのぞみがある。望蜀生ぼうしよくせい完全くわんぜんなる土器どきふた掘出ほりだしてたので、きふきたいり、三十六ねん十二ぐわつ十四に、幻花翁げんくわおう望蜀生ぼうしよくせい玄川子げんせんしとの四人連にんづれ品川しながはから汽車きしや鶴見つるみ、それから一里弱りじやく下末吉村しもすゑよしむらへとつた。
 一寸ちよつとにくところである。遺跡ゐせきひろいが、先年せんねん、チヤンバーレン大發掘だいはつくつこゝろみたとかで、畑地はたちはう斷念だんねんして、臺地北側だいちきたかは荒地あれち緩斜面くわんしやめんなかに四にんはいつた。
 ちひさなすぎや、たけよりもなが枯萱かれかやしげつてるので、たれ何處どこるのやらわからぬ。
 右端うたん玄子げんし。それから。それから幻翁げんおう。それから左端さたん望生ぼうせい。これで緩斜面くわんしやめんりつゝ押登おしのぼらうといふ陣立ぢんだて
 くさ邪魔じやまをして、却々なか/\にくい。それにあたらぬ。さむくてたまらぬ。蠻勇ばんゆうふるつてやうやあせおぼえたころに、玄子げんし石劒せきけん柄部へいぶした。
 そのからは、一かう珍品ちんぴんぬ。破片はへんおほいけれど、いでやうなのはぬ。中食後ちうじきごに、は、土瓶どびんくち上下うへした[#ルビの「うへした」は底本では「へした」]に、ツリをつた破片はへんしたくらゐ
 玄翁げんおう望生ぼうせいとは、しゆ附着ふちやくせる貝殼かひがらしたのみ。
 失敗しつぱいして此日このひ切上きりあげた。
 三十七ねん正月しやうぐわつ掘初ほりそめとして望玄ぼうげんしたがへてつてると、如何いかに、りかけてあな附近ふきんに、大男おほをとこが六七にんる。うして枯萱かれかやつてる。ちと具合ぐあひわるいので、三にん其所そこつてると、それとつた男子達をとこたちは、きこえよがしに高話たかばなしである。何處どこやつだか、んな大穴おほあな穿けやアがつた。今度こんど見附次第みつけしだい叩殺たゝきころしてやるといふ血腥ちなまぐさ鼻息はないき[#感嘆符三つ、60-3]
 むをず、一松林まつばやしかた退却たいきやくしたが[#「退却たいきやくしたが」は底本では「退却たいきやくしたか」]如何どうりたくてえられぬ。それで玄子げんしとは松林まつばやしち、望生ぼうせいにんつて『いくらかすから、らしてれ』と申込まをしこましたのである[#「申込まをしこましたのである」は底本では「申込まをしこましたのてある」]
 いくらつても望生ぼうせいもどつてぬ。これに心配しんぱいしながら二人ふたりつてると、大變たいへんだ。殺氣立さつきだつてる。
 草刈連くさかりれん大鎌おほがまひねくつてる。
 望生ぼうせい萬鍬まんぐわ握〆にぎりしめてる。
 望生ぼうせい余等よらかほて、おほいにつよくしたか。
らせんといふなららん。らうとおもへば、どんなことつてもきつつてせるが、ナニ、んなくそツたれ貝塚かひづかなんかりたくはい』とさけぶのである。
んとツても駄目だめだア。子供位こどもくら正直しやうぢきものはねえからね』とむかふではいふ。
 形勢けいせいはなは不穩ふおんなので、かくも、望蜀生ぼうしよくせいんで、小聲こごゑで。
如何どうしたのか』
不穩ふおんです。げませう』と望生ぼうせい小聲こごゑふ。
 それで三にん相談さうだんするやうかほをして、一端いつたん松林まつばやしまで退しりぞき、姿すがた彼等かれら視線しせんからかくれるやいなや、それツとばかり間道かんだう逃出にげだして、うらいけかたから、駒岡こまをかかた韋駄天走ゐだてんばしり。
 大丈夫だいじやうぶだといふところで、望生ぼうせいに一たい如何どうしたのかとうてると、草刈くさかりながに、子供こどもて、去年きよねんくれ此處こゝ大穴おほあなけたのは、此人達このひとたちだとげたために、いくらお前達まへたちねこかぶつても駄目だめだと、發掘はつくつ承知しようちせぬので、はらつたから惡口あくこういたら、先方せんぱうおこつたといふ説明せつめい
 それは此方こつち矢張やつぱりわるい。げろ/\と初掘はつぼりの大失敗だいしつぱい
 それから十ちやうへだたつてらぬ加瀬かせ貝塚かひづかまはつて、小發掘せうはつくつこゝろみ、相變あひかはらず失敗しつぱいして歸宅きたくした。
 そののち飯田氏いひだし發掘はつくつこゝろみたといふはなしいた。
 三十八ねん、三十九ねん電車でんしやつうじたし。ちよい/\ねんに四五回位くわいくらゐは、ほか表面採集へうめんさいしふついでに立寄たちよつて、磨石斧ませきふ石劒折せきけんをれ打石斧だせきふ其他そのたひろつてたが、四十ねんぐわつ十四に、一人ひとり加瀬かせ駒岡こまをかから、此方こつち採集さいしふときも、はたなかで一農夫のうふつた。其人そのひとうてると、自分じぶん持地もちちからは澤山たくさん破片はへんるが、たれ發掘はつくつしたこといといふ。らば近日きんじつ發掘はつくつをさしてれと其場そのば手金てきんつた。
 同月どうげつ十七にち、いよ/\發掘はつくつこととしたが家人かじん其状態そのじやうたいたいといふので、らば其用意そのえういしてくべしとて、さいとに糧食れうしよくたづさへさせ、あいする親族しんぞくの六さい幼女えうぢよ[#ルビの「えうぢよ」は底本では「えうじよ」]ひ、玄子げんし器具きぐなどかつぎ、鶴見つるみにて電車でんしやり、徒歩とほにて末吉すゑよしいた。それが八時半頃じはんごろであつた。
 四緑葉りよくえふはやしでめぐらしてる、其中そのなか畑地はたちほかには人一個ひとひとりえぬ。
 一家族かぞく無人島むじんたう漂着へうちやくしたやう氣持きもちである。
 玄子げんしとははやしりて、えだきたり、それをはしらとして畑中はたなかて、日避ひよけ布片きれ天幕てんとごとり、まめくきたばにしてあるのをきたつて、き、其上そのうへ布呂敷ふろしきシオルなど[#「シオルなど」はママ]いて、座敷ざしきつくり、此中このなかに三ぢよらしめた。
 遊牧民ゆうぼくみん[#感嘆符三つ、63-5]
 其前そのまへ四五しやくところを、玄子げんしとは發掘はつくつはじめた。
 なにない。――ないけれど面白おもしろい。疲勞ひらうしては天幕てんとり、菓物くわぶつひ、サイダをむ。いきほひをてはまたりにかゝるが、はなはだしくなにない。
 見物けんぶつたいしてきまりがわるくらひだ。
 おまけに小雨こさめさへしたので、一先ひとまあやしき天幕てんとしたに、それをけてると、うしろはたけにごそめくおとがするので、ると唯一人たゞひとり、十六七の少女せうぢよが、はたなかくさつてる。
 れるだらうから、此方こつちはいつたらからうとすゝめ、菓子くわしなどをあたへてうちに、あめ小歇こやみとなり、また正午ひるちかくなつた。
 少女せうぢよらうとする。
 もしまたるならば、みづ此瓶このびんれててよとうた。サイダやビールでは米飯めしへぬからである。
 少女せうぢよたちまはしつて、大藥鑵おほやくゝわんかし、茶道具ちやだうぐさへつてれた。
 大喜おほよろこびで、其禮そのれいに、若干そこばく銀貨ぎんくわあたへやうとしたが、如何どうしてもらぬ。しひらしめたら、今度こんど重箱ぢうばこ味噌漬みそづけれてつてれた。
 の一こと/″\涙含なみだぐんだ。このやさしい少女せうぢよ境遇きやうぐうかはつてたのと、天候てんかうくもがちなのとで、一そう我々われ/\ひとこゝろやさしさがかんじられたのであらう。
 午後ごゞいたりて、如何どう天候てんこう不良ふれうである。それで女連をんなれんだけきへへさうとした。
 すると幼女えうぢよが、叔父をぢさんと一しよでなければかへらぬといふ。さらば、叔母達をばたちきへかへるが、それでもいかとふに、それにてもしといふ。
 よ、ほか人一個ひとひとりらぬ畑中はたなか其所そこにわびしき天幕てんとりて、るやらずのなかる。それで叔母達をばたちるとも、叔父をぢとも此所こゝとゞまるといふ。
 蠻勇ばんゆうごときを、くまでにしたふかをおもへば、うれしいよりもかなしさがうかんでる。
 土器どきなにるものかと、此時このときばかりはかんがへた。
 それなら一ことんなでかへらうとて、發掘はつくつ中止ちうしし、天幕てんとたゝみ、飮餘のみあましたる麥酒ビールびんたづさへて、うら池邊ちへんき、其所そこにてまた小宴せうえんり、食物しよくもつのこりをいけうを投與とうよして、かるくし、ふたゝ幼女えうぢよ背負せおひて、歸路きろいた。
 ける土器どきおもかつたこと
 それからは霎時しばらくとほざかつてたが、四十一ねんぐわつに、一人ひとり寺尾てらを子安こやす篠原しのはら大網おほあみたる駒岡こまをか諸遺跡しよゐせきぎて、末吉すゑよしかゝつてると、如何いかに、如何いかにである。
 最初さいしよ余等よら發掘はつくつした方面はうめんあたつて、ひとすう男女だんぢよがつして十二三にん大發掘だいはつくつをつゞけてるのを發見はつけんした。
 何者なにものだらうか?
 あるひはマンロー大發掘だいはつくつではるまいかと、くびかたむけながらつてると、それは土方氏どかたし非學術的大發掘ひがくじゆつてきだいはつくつであつた。
 土方どかた親方おやかたついいてると、すで一月以上ひとつきいじやう發掘はつくつつゞけてるので、う二三にち此所こゝ終局しうきよくだ。これは貝灰かひばい原料げんれうとして、横濱よこはま石灰製造所いしばいせいざうしよつたのだといふ。
 なにたかとひながらも、を四はうくばつてると、掘出ほりだしたかひは、一々いち/\ふるひふるつて、かひかひだけとして、やまごとんである。破片はへん其所此所そこここ散亂さんらんしてる。むね土器々々どき/\である。
 親分氏おやぶんしは、すこぶかろる『なにねえよ』とつて、せツせと仕事しごと從事じうじしてる。
 乾漢こぶんらしいのが、大聲おほごゑ[#「大聲おほごゑで」は底本では「大聲おほごゑて」]一個ひとつ百兩ひやくれうにでもれるのなら、つてもい』とふ。
 串戯じやうだんツちやいけぬとおもひながら『一個ひとつ千兩せんれうでもふよ』とわらふてこたへると、親分おやぶんがそれを打消うちけして。
せえやい。なんふなやい』とめるのである。
 それで發掘場はつくつばめぐりしてると、珍把手ちんとつて珍破片ちんはへんすくなからずなかに、大々土瓶だい/″\どびん口邊こうへんの、もつと複雜ふくざつなる破片はへんる。完全くわんぜんつたら懸價無かけねなしの天下てんかぴんだ。いや、破片はへんでも大珍品だいちんぴんたるをうしなはぬ。
 それで『んな破片はへんもらつてもえかね』とうてると『そんなものならいくらでもつてきねえ』といふ。
 難有ありがたいと、それをかばんれてると、ふるひかひつて女土方をんなどかたが、ちいさなこゑで。
『あんなことつて、親分おやぶんトボケてるが、面白おもしろ土瓶どびんたやうなものだの、香爐かうろたやうなものだの、澤山たくさん掘出ほりだしてつてるだよ』とをしへてれた。
 其所そこあらためて、親分おやぶん談判だんぱんこゝろみたが、ぐわんとしておうじない。
 横濱よこはま西洋人せいやうじんれば、一箇ひとつ百兩ひやくれうにはなるんだなんて、ゆめ馬鹿ばからしさ。
 けつしてういふ相場さうばるものではいとべんふるつていてたが、かぬ。
 おまへはそんなことつて、胡麻化ごまくわすんだ。きつ仲買なかがひしてあるくんだらうと、いや、はや、沒分曉漢わからずや親分おやぶん[#感嘆符三つ、68-5]
 つて、それ引揚ひきあげたが、如何どうつてえられぬので、ふたゝ談判だんぱんかうとおもつてると、友人いうじん眉山子びさんしれい自殺じさつ
 それでいろ/\けなくつて、やうやく七ぐわつ十一にち末吉すゑよし駈付かけつけてると、貝殼かひがらやまだけしろのこつて、あゝ因業ゐんがう親分等おやぶんらは、一人ひとりかげせぬのであつた。
 土瓶形どびんがた香爐形かうろがた洋人やうじん百圓宛ひやくえんづゝつたらうか。おそらく今頃いまごろは、あのをとこに、十箇とを二錢にせんりんつたはうかつたと、後悔こうくわいをしてるであらうよ。

底本:「探檢實記 地中の秘密」博文館
   1909(明治42)年5月25日発行
入力:岡山勝美
校正:岩澤秀紀
2012年2月10日作成
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