目次
 今年は好い正月な筈だ――と云うと少し可笑しいが、三十一日までは、何となしにぎやかで、快い正月になりそうな心持がして居た。けれども、なって見ると少し違った。妙に皆の心の中に負けおしみのようなこだわりがあって、長閑のどかなところが少ない。それは、云うまでもなく、くに[#国男]が警察から連れてこられて、あのはじの部屋にポツンとして居るからなのである。互に不調和な心持でいけない。
 夜になって、三組町の親類へやるに、くるまが初出でいやがるからと云うので、私が坂本氏のところへ行った。まるで世界の違ったように、町中がしずかで、どっちかと云えば、陰気なほどである。元旦の夜よりは、大晦日の方が、活き活きして居て心持が、どんなにいいか分らない。
 坂本さんの島田は大変よく似合って、美くしく見えた。女の人は、あんな束髪なんかよりああ云う頭の方が、どんなにかいい。
 暫く話して帰りに『三太郎の日記』をいただいて来る。前からよみたいと思って居たので大変嬉しく思う。早速よんで見よう。
 帰るとすぐ、くにが出て行く。顔を見るのが辛いようだったので、奥へ(ママ)っこんで居た。ああして、不意に出て行く者に挨拶されるのは、たまらなく辛い。いやだ。何と云っていいか分らないからいやなのだ。何だか可哀そうだから、あの部屋へ行くのにさえ遠慮をして居たのに、当人は何とも思わないと云う程平気だときいて変な心持がした。
 此の元旦は、今までになかった心の経験をした。それは、此れから先の一年に対して、つよい愛惜を感じたことである。今年はいつものように、努力するとか、勉強するとか云う言葉が自分に許されないほどの緊張を感じて居る。十代の最後の一年に対してどの点から云っても、自分は忠実でなければならないと思うと、妙な哀感が湧いて来た。
 千葉先生から葉書を下すって、三日に御在宅だと云う。

 珍らしく雪が降った。が、同じ白い雪にしても、東京の雪と、東北の雪の感じはまるで、違う。それは一方は、荒涼とした曠野に――山の峯から、向うの村の杉並まで見渡せる広い眼界に、一面かたくしめつけたおからのような雪が、降るのだから、全く圧迫される、愉快な感じはどこにもない。が、東京では、平常はどっちかと云えば、決して美くしいとは云われない瓦屋根や、ぼろな垣根やを、まるで、自分の庭丈に降るようにせまい、先ず、じき消えると云う感じを持たせられて居る白いものに降って来られると、かなり遊戯心を起させられる。決して子供に限ったことではない。風邪を引く心配さえなければ、私も雪達摩だるまも作りたい。

 午後から千葉先生のところへ行く。中西屋で、一寸気の利いたギジョーとかギチョーとか云うものを買って行ってあげる。小此木さんと鈴木さんと、うる間さんが来て居た。嬉しいような、いやなような心持がした。只話すには、いいが、少しいやなこともある。何か斯う、独占出来得べきものを、人にさえぎられて居ると云ったような心持がはっきり感じられた。
 種々な話――夏目さんの事、我々の生活のこと。そして島崎氏が、今までの夏目さんとはかわって、自分等の中心になるだろうと仰云おっしゃった。が、自分にはそうとは思えなかった。そう思えなかったからと云って、他に絶対的な人を考えて居るのではない。島崎さんも偉いだろう、けれども、武者さんは、より直接に私に影響を与える。そしてあの人なら、自分が影響されても、決して耻かしいとか、悪いとかは思わない。女は一体不正直だと云うことを私は断言する。自分ながら悲しいと思うが、殆ど、三百年の弊風で、本性のようになって居ることは、母様のように明瞭な人を見ても、云わざるを得ない。だから、多勢の所謂いわゆる批評家が、馬鹿正直だと云いそうな正直さも、学ばなければならない。女はとっさの場合に、正直を云う方が楽か、出たら目を云う方が楽かと云えば、普通なら出たら目の方が楽と感じるのだ。それで今日話して居ても、そんな感じを少しだけれども強められた。
 感情の教練が、不足だと云うこと、それは私共ばかりでなく、又日本人ばかりでなく、世界中の人間がそうかもしれない。愛情に対して、私共はまだまったく無智だと云ってもよい。とくに私共を育てようとしたこともある今までの道徳は、偏見を持って居る。孔子様は、所謂道学者達が、ああ云う思想で伝えられた通りの考えを持って仰云ったとは思えない。もっと偉かったのだ。けれどもあやまられて、考えられて居る。が、あやまっても何でも、東洋の道徳の殆ど源泉となって居るほどの魅力を持って居ると云う丈でも孔子様は偉い。それは、日蓮と団扇うちわ太鼓のようなもので、統一力の点から云ったところで、矢張り彼は偉いのだ。けれども、私は、キリストでも何でも人間だと云う考はすてられない、「イエスは神なり」は私にとっては違って居ると思う。少くとも今は。
 家へ帰る前に、どうせおよりしなければならないのだからと思って小此木さんによったが、大変不愉快な思いをした。ほんとに不愉快だった。たまらなかったので、ろくに話しないで帰ってしまった。
 久米さんが来たそうだ。かえる一寸まえまで居たそうだのに。会いたかった。大変会いたかった。又今度来なさればいい。久振りで話もききたい。
 本田の道っちゃんが来た。相変らず、互に苦しい、周囲の総てを苦しませることほか芸のない、相変らずを持ちつづけて居る。もう三十を越す位になって居るのに、あてつけのように独りで居られてはたまらない。殆ど重荷になって来る。ああ云う風では自分でもたまるまいと思う。生きて居るには、生きて居る丈のわけがある筈だろう。

 両親弟達、芝御祖母様、帝劇へ(ママ)らっしゃる。私が留守をして居ると泉沢氏が来る。
“お父さんは相変らず、繁盛か?”と云って鼻汁をすすり上げて、しびれて居ると云う足をムズムズとさせた。お寿司を食べないと云うのを出したら、一口たべては、美味い、腹がへって居るのでと、云訳らしく云う。可哀そうになってしまった。下島さんとにて居る。手をブル、ブルさせるところ、妙に弱々しいところ、臆病なところ、生活の敗残者に共通なみじめさと、陰気と、卑劣さが具って居る。あのフロックコートは一つ古着でも上げたい程だ。くず屋が買って来るのにも、あの位ひどいのは、少なかろう。僅かにフロックコートだと想像させ得る位ほか、それの持つべき条件がかけて居る。私はあの人が始めてフロックコートを着始めの時から、もう恐らく三十年位、一度もとりかえられたことのないのを信じる。

 成井さんをつれて、帝劇へ活動を見に行く。そんなに面白くもない。後に慶応出の若い男が二人居て、しきりに女の話をしては笑って居る。随分単純なことを云って居た。かえりに、文房堂と、東京堂へよる。『ザクロの家』と、『破戒』と、『一兵卒の銃殺』を買って来る。『破戒』は此の間千葉先生のところで話に出たので買って見る。夜「ザクロの家」をよむ。矢張りワイルド丈あると思った。美くしいものだ。どれもいい。大人のおとぎ話としては面白い。芸術味の豊かなものだが、子供には分るまい。なんぼ西洋の子が、利口だからと云っても十の子は、十の子の知ることほか知らないのだから。

 同胞を連れて、銀座から、三越へ行って見る。格別面白いこともない。銀座のあのかたい、ペーブメントの上で、梯子乗りをして居るのを見ると、頭の後の方がいたくなって来た。

 朝起きると先ぐ、岡田信一郎氏来訪、久し振りで御目にかかって見ると、いままでよりは、やせたように見える。割に落付いた話になって、今までよりの方をよく理解することが出来た。夕方になって、佐藤氏も来られ、夜飯頃倉知氏が見えると、話はすっかり陶器の方へ入って岡田さんは、酒をのんでは、メランコリーな表情をして居た。二人引きの俥で、来て得々として居られるKは単純でいい。

 左団次の会で、明治座へ行って見る。もうよっぽど前に、市村座へ行った限りなので、かなり期待して居たが、どうしても道具立てから何から「芝居」と云う気がして全然没頭して涙などこぼせなかったのは、どう云うわけだったのか。自分にも分らないが、同じ見るなら、舞台の上の人間と一緒に泣き笑いしたい、出来た方が快い。
 柿右衛門は、彼の人格――勿論私にだってよくは分ろう筈もないが――を極くコンベンショナルなものにした。ああしなければ芝居にはならないけれども、若し柿右衛門が真の芸術家であったのなら、有田屋を潰してやろうために、赤絵を発見したのではない。芝居として成功したかどうかは私には分らない。一番終りの幕、山の竈の前に柿右衛門が独り、ポツネンと火の番をして居るところの色調がおそろしくよかった。が、何とか云う娘が出てすっかり打ちこわした。黒鼠色で、かすんだような大きなかまの前に、背を丸くして黒赤い着物、オリーブの袴をつけた彼の姿は、日本のこう云う芝居よりも、ビョルンソンか、メーターリンクの舞台に出て来そうな色の調和があった。ああ好いと思ったのは、其処ばかりであった。
 仁左衛門が、科白せりふの中に、折々、最も印象的にしようとするとき、常盤津か[#「常盤津か」はママ]長唄かのような旋律をつけて、声をゆすったがあれは、果して、いいか悪いか分らない。
 どんどろ大師はお弓の技巧を見ると云う気だけがした。
 鳥辺山心中も要するに浅い。あれで心中出来るものではない。が若しかすると、昔の人は、あれほど単純な行程で、二つの生を滅し得たのかもしれない。
「三太郎の日記」をよむ。大変面白いと云うより、心を動かされることが多かった。今日は三五郎の詩にすっかり涙をこぼさせられた。やい「重圧の精」奴、どけやい、どけやい、どきアがれやい。女王様の御通りだぞ。
 悲壮な涙がにじんで来た。
「恋愛によって成長する」と云うことは、私はまだ解らなかった。ところが今解った。嬉しかったが、悲しかった。そして自分がいとおしくなって泣いた。“成長も、破滅も此恋に代えられなくなるときに、恋愛は始めて身にしみる経験となる。”ほんとうにそうだ。今日になって、私はFとの事件が、自分をいかほど発展させたか分らないのを知る。彼の至純、彼の没我の従順さ。此の私よ! 無限の涙がこぼれる。自分のあらゆる宝をささげ尽して、やがて自分から離れ去った此の自分。全くすべて育つべき者は、苦しい“別れのとき”を味う。すべての点から云って、今までの私の恋はすべて、私自ら迎えた悲しい“別れのとき”で終って居る。終らせなければ居られなかったのだ。私は、今日までに、自分にとって、其の恋に代える何物もなかった経験を持って居る。けれども、此れから先、又とそう云うことが有るだろうか?

「三太郎の日記」。「影の人」の2、アリストファネスの卓上演説、切り離された半身が、他の半身を求めて、哀泣しつつ彷徨する……。此の広い天の下のどこかに私の半身が、泣きながら、あてどもなくさまよって居るかと思うと、可哀そうになる。又、自分の一生の間には、そのほんとうの半身であったものに、めぐり会えないような気がしても居る。私の半身は、今生きて居るか、まだ生れないか? それとも――もうとっくに死んでしまったのかもしれない。が、私には何にも分らない。
 指が腫れて痛むので、順天堂に行ったら、かえりに門のところで、俥をひっくり返されて、石で頭をいやと云う程打った。胸が悪くて、非常にいやな心持だった。

〔以下空白〕

〔一月中の重要なる出来事〕

 十五日「三太郎の日記」読了
 二十六日「ハジ・ムラート」読了

二月十一日

(日曜)
 佐藤功一氏来訪、父母が御留守なので、私が御目にかかってお話をする。自由恋愛のことや、子孫と云うことについて。又基督教の、キリストと、マリアの居ること、それ等について種々御話しをした。が、私の底の知れない暗闇は、尚依然として居る。非常に明るい。まぼしいほどあかるい。けれども一寸も日のてらない、暗い暗いところがある。人間である。「ジャン・クリストフ」を読んで涙がこぼれた。あんなに長いものの、あれ丈を読んだ丈では勿論分らないが、とにかく、あすこまでのジャン・クリストフには、共鳴を感じることが多い。うまく書かれて居ると云うことはたしかなことである。今年になって、今日位、興奮したことはないと同時に、去年は自分になかった心持が今はあることを感じて居る。それは、私にとって恐るべきものであり、同時に堪らなく愛らしいものである。

二月十二日

(月曜)
 昨夜佐藤氏の話されたこと――人間の結局は他力に依らなければならないと云うことは、彼の方にとっては、たしかにそういうことなのかもしれないが、自分にはまだ必要を認めない。大きな宗教により得るものは幸福である。がそれは何にも必ず今まで定められて居た形式に従った宗教である必要はない。「歎異鈔」をよむ。いいものを下さった。大変面白い。これをよむと、仏教の地獄、極楽は何の用があるのかと思う。此の本の中には、随分立派な言葉がある。「すべて万の事につけて、往生には賢き思ひを見せずして、只ほれ/″\と彌陀の御恩の云々」と云う言葉には、何とも云えない心持がした。「只ほれ/″\と」「只ほれ/″\と」それが私にはむずかしい。只ほれぼれと云う境地は、今の時代の人間の味いがたいところであろう。

二月十三日

(火曜)
 何だかマリア館へ行き度くない気がしてしてたまらない。行けばよくないことがありそうでたまらないので、到頭止めてしまう。「先覚」をよみなおす。夏目氏の「文学論」は殆ど読み終ったが、あの人がスウィフトをあれほど論じて居られるのは、いかにもあの方らしいと云う気がする。面白いことだ。夕方、浜岡氏来訪、十一時半まで種々はなす。青年期感傷的な心持をまだかなり沢山持って居られる。苦労でよい方に賢くなって居る人だ。とにかく女の友達よりは話して面白い。各自の強さとか、趣味のこと、各自の色調的な統一などと云うことを話す。「先覚」をよむと、ルネッサンス時代をもうすこし歴史的に研究して見たくなる。面白かった時代だろう。レオナルド・ダヴィンチがヴィナスの唇を数学的に研究する心持。

二月十四日

(水曜)
 随分ひどい風が吹く。ほんとにひどく吹く。この頃のように乾いて居る往来をこれほどの風があおって行く様子を想像すると、戸外へ一歩もふみ出せない。喉が少しはれて居るような心持がした。
「先覚」をかなりよむ。面白い。メレジェコフスキーはどっちかと云うと、才のかった人だと云うような心持がした。夜三月の旅行の大体の計算をして見ると、切りつめて、百円はかかる。かかってもいいとは思うが中々動けないなあと云う心持がする。此頃は、妙な陰鬱が心にかぶさって来る。愛するものの対照がないと云うような心持である。勿論自分はすべてを愛する。すべて、広い、あまりに広い故に、まだそれ丈の広さを持ち得ない私は淋しい。永久の恋、恋人などと云う言葉が深い響を持って来た。

二月十五日

(木曜)
 今夜十一時父上福島へ御出かけなさる。一寸一緒に行きたいような心持がした。かなり日中はあったかだったので、夜になるとよけい寒いような気がする。母様は、御なかの工合がわるいのに、父様が行って御しまいなさるので、妙ないらいらしたらしい心持で被居っしゃる。少し可哀そうだ。御祖母様が、又三河屋の爺外三四人を相手どって訴訟すると云うことを云ってよこしなすったが、無智なものに法律ほど毒なものはない。彼等は自分で、法律で死ぬばかりか、ひとも一緒に殺そうとする。法律を万能、無上なものと思うとそれは大した間違である。

二月十六日

(金曜)
「先覚」はかなりよめた。もうじきに終るのだけれども、レオナルド・ダヴィンチの人格なり、あの時代の人民の心持、それ等を通して著者メレジェコフスキーの心持もかなり分った。先によんだ時とは受け方がまるで違う。自分の方の準備の如何によって、よまれる本の価値は上りもすれば下りもする。本の選択などと云うことも、そこを標準にして行くべきではないのだろうか。或人にとっていい本、或は何でもない本は、他の或人にとって、大きな動揺の基ともなるべきものである。河村明子氏来訪。孤雁氏の書状を見せてくれる。写真を送ってやるから、くれろと云われたが、自分はそんなことはしてもらわずといいような心持がする。強いて写真を送ってもらったところで、俗に云う、はじまらないことなのだ。あの人は大変いい頭を持って居る。が。

二月十七日

(土曜)
 春と冬が、混り合って世界中に漲って居る。又妙な心持になるときが来た。これから四月近くまではいやだ。寒いような、引きしまったような心持のかげに、淫蕩いんとう的な熱情がムズムズして居るような心持がする。五時半から、国民美術の講演会へ行って見る。古田中夫人[#古田中孝子、母葭江の従妹]、高松、浜岡、君塚等に会う。田辺氏の西洋音楽の話は大変に面白かった。画に於ける未来派のような最近の曲と云うのは、他のどれよりも、やはり色調の強いものだ。感じは、或程度まで共鳴することが出来る。「一八一二年」と云う標題楽もきけた。ト翁の「戦争と平和」の中に出て来て居るのをよんだので、大変興味深かった。文芸復興前五十年に於ける宗教音楽とその当時の音楽会をきくと、いかに彼の時代の人心に影響を及ぼしたかと云うことが分る。大変有難かった。三宅恒方氏は、氏独特のものを持って居る。

二月十八日

(日曜)
 すてきに風が吹く。泉屋に小島氏の御祝をあつらえに行く。下町趣味のゆたかなところだが、食堂の感じは三越よりも数等劣って居る。「先覚」をよむ。

二月十九日

(月曜)
 小島氏の御祝いに行く。伊東忠太氏の応接間は殆ど喫驚びっくりした位いやなところだ。彼の人達の思想がのこりなくあらわれて居るように見える。
 あんなさむい、つめたいところが応接間なのは、ほんとうにいやだ。
 お風呂に入ったらねむくなって何も出来ず早くねる。

二月二十日

(火曜)
 夜父上御帰京、玄文社の人が出版のことについて来た。
「先覚」をすっかり読み終った。そして、非常に感動させられたことを感じた。レオナルドの最後は、只彼一人のみのこととは思えない。妙な陰鬱が、重く心にのしかかって来た。死に対する恐怖、未知の世界に対する畏敬と悲しいような、独りな心持が強く胸にこたえる。レオナルド、終に羽根を作り得なかった彼の死んで組み合わされた手の上に、彼に助けられた燕がとまった。
 どうでも、歩みこたえなければならない。衷心の孤独な感じが苦しい。
『中央公論』の瀧田氏、四月のへと、七月の自然号への執筆をたのまれる。七月のへは書きたくもあるようだ。

二月二十一日

(水曜)
「日は輝けり」、をなおす。そんなにどこがどう悪いと云うのではなくっても、不満だ。いやな心持がして仕方がない。九月までには、うんと立派なのを作らずには置かれない。それまでは、何へも書かない。が、書いたら、目のさめるようなのを書かずにはすまされない。此頃の心持で行くと、いいものが出来そうだ。何故なら、「日は輝けり」より材料はもっと、新鮮だし、又、あれを書く前よりもっと燃焼し、自由であり、力に満ちて居る。考えると胸が踊る。
 夜母様と書こうとするものについて話し合って仕舞いには、私は、ふるえながら泣き出して仕舞った。

二月二十二日

(木曜)
 長谷川先生のところへ行く。ベニスの話や何かして被居っしゃった。イタリーは一体日本人に合うらしいなどと云って、又行きたそうに見えた。若い女を見て、戯談じょうだんを云わないのは、英国の労働者丈だそうだ。一番住み(ママ)のは、何と云ってもイギリスなのだそうだ。行きに文房堂によって、万年筆を買い、東京堂で『オブローモフ』、と『迷信と科学』、『第二三太郎の日記』を買って来る。ところが帰って来て見ると、国民文庫の『死せる魂』ゴオゴリののが来て居る。偶然、「オブローモフ」と比較するようになった。何と云っても、ゴオゴリの方が、一般にうけるし又、気の利いた筆致を持って居る。肖像がついて居たが、如何にも、あんなものを書きそうな表情を浮べて居る。森田草平の訳では、どこかに下司張ったところがあっていやだ。河村明子氏の話したようなことをしそうな人だ。

二月二十三日

(金曜)
 朝、石井柏亭氏が来られたと云うので起される。御目にかかって本のことを御願いする。白と金との配合がいいだろうと云って被居っしゃった。いろいろ女の旅行とか、服装とか云うことを御話しなすって、十一時半頃帰られる。蜷川さんから手紙をくれる。夜西村の御祖母様が病気だと云うことを、神戸から知らせて来た。何だかよほど悪そうだ。随分喫驚びっくりしたが、母様は、工合よくなくて行かれない。で、私が早速行って見ることにして車で八時きっかり出かける。小説的な想像が浮んで、一人の死に対して二人の人間の起す、利害的競闘に考え及ぶと、多大の好奇心を働かされる。が大して、悪くはなかった。只、彼の、技巧で、その時々の場面をとりつくろって行こうとする努力が見えすいていやだった。隅田川の暗い川面に対岸の灯かげが淋しくゆらめいて居た。

二月二十四日

(土曜)
 大変に暖かい。食堂のガラス窓から見ると、真青に晴れた空が外へ外へと誘い出さずには置かない。郊外へ行きたかったのだけれども、母上と英ちゃんと一緒に、国民美展へ行く。忘られないほどよかったのは画ではないが、彫刻の北村四海さんの女の胸像が大変、大変によかった。なるほど頬のところへ少し汚点が出て居たが、よかった。あれは忘られない。中村さんの恋の墓は、徹底して居ない。一向悲惨な感も起し得ない程度に於て常套的であるとも、又強みがないとも云える。自分自身に対する、ソンネットのようなものなのだろう。帰りに竹葉によって夕食をすませ、銀座を歩いてかえる。何だか暗い四角で、美くしい花を売って居るのを見たので桜草と、アスパラガスをまぜて買って来る。暗いところで見たほど奇麗ではなかったが、とにかくよかった。

二月二十五日

(日曜)
 かなりいい天気だ。このごろは、ほかの日は外に出ても日曜丈は家に居たいような心持になって居る。父様も珍らしく家に被居っしゃって、いろいろのことを話す。夜中村氏来訪、恋の墓(一字不明)の説明をきこうとしたが、どうにかしてはぐらかしてしまわれた。この間国民美の講演会のとき、最後にきいた音楽のような感じのする人だ。結婚問題で大変なやまされて居るのだそうだ。おそくなってとまって行かれた。自分はかなり早く床に丈は入ったが、一時半頃まで、まんじりとも出来なかった。したがっていろいろのことを考える。溜息も出れば、涙も出ない訳には行かない。

二月二十六日

(月曜)
 今日「死せる魂」の第一巻丈を読み終った。大変結構なものだ。流石さすがはゴオゴリだと思わせられるが、森田氏の訳の不適当であることをしみじみと味わわせられた。もうちっとどうにかしたものでありたかった。とにかく、訳によって、表わさるべき立派さが十分の六までそがれたような気がするのは、情けない。国語は益※(二の字点、1-2-22)尊いことを思わずに居られない。私はなるたけ訳はしたくないなどとも思う。小此木先生の結婚の話は事実であった。あのいい先生にどうぞ幸福な――すべての意味に於てみちた、生活――が与えられることを祈る。どうぞおしまいまで、おめでたくてほしい。或る幻滅の来ないことをつくづく祈る。先生は幸福に奢って、盲目になり得ない一面を持って居られることをよろこびもし、案じもする。

二月二十七日

(火曜)
 珍らしく昨夜から雨が降って来た。ほんとうに久しぶりな雨だ。けれども、せっかく春めいて居たのに又つめたい雨でこごえた眺めになって仕舞うのかと思うと、少しおしいような心持もする。朝さむかったので稽古に行きたくなかったが、月謝がおそくなると思って、それ丈持って行く。そこへ電話をかけてどうしたとかこうしたとか、又一流の小面倒があった。「オブローモフ」をよんで居る。が、又訳がわるい、すてきにわるい。草平氏のは下品でもある程度までこなれて居るが、これにはそのこなれたところもないのにはいやになる。坪内先生から魚のほしたのを沢山送って下さった。
『女の世界』から、西村勉と云う人が来て、母様と長く話して行った。写真をかしてくれと云ったそうだ。

二月二十八日

(水曜)
 今月ももうおしまいになった。早い。去年の一日と、今年の一日とはまるで、半分ほどの違いがある。陳腐な言葉ではあるが、光陰矢の如しと云うのは、ほんとうだ。国男が作文で書いた時間は尊い宝であり、同時に敵であると云って居るのなどは、かなり頭が違って来た証拠だ。どうにかして、三日に出ることにする。そして出来そうだ。銀行から三十円出す。管野さんが来て、まだ柳津あたりが寒くてとうてい行かれないなどと話して行く。先にかした本を少し返して、又『水滸伝』や『ぐび人草』などを持って行く。母様のお話しなさる通り、私の持って居ない一種の心持をあの人は持って居るらしいことが少しずつ分って来た。少しいやだけれども、しかたがないのだろう。『キーランド集』を持って来てかして置いてくれた。「アルネ」とどこかにた色調があるらしい。

〔二月の感想〕

 日光がそろそろと春めいて来る。食堂のテーブルの前に座って居ると、硝子窓を通してながめられる空の色がときどき「ああ春になった」と思わせる色で輝き始めた。
 まだ寒い表面――薄氷のはった水の表には、まだ冬の寒さがただよって居ても、その底には、あったかいながれがあるように、――底の方からムズムズ、ムズムズと暖かさがしみ出して来る。そして自分の心の中にも安底(ママ)な底をとろとろと絶えず動き、流れて行く不安がある、動揺がある。
○進むべき者は、「別れのとき」を味わわなければならない。その感じ、その悲壮な歓喜は、只独りニイチェばかり知ったものではないのだ。
○春が来る。夏が来る。又冬が来て来年になる。春と秋の間に、夏のあることは、恐らく永劫不変だろうが、人間の生命などは、宇宙の大きなリズムの間に、小さくこまかに、複雑なリズムをそえて居るものなのだ。が、それでいい。大きなオーケストラの中で、こまかく響く、バイオリンの絃は、小さくても大切なようなものだ。

〔二月中の重要なる出来事〕

 十日「ジャン・クリストフ」読了(第一巻)
 十五日 父様福島へ御出立
 二十日「先覚」読了、玄文社の人来る。
 二十三日 訂正原稿を送る。柏亭氏に表装を御たのみする。
 二十六日「死せる魂」を読み終る。(第一巻)右の眼不快。
 二十七日 坪内先生からお魚を下さる。『女の世界』の記者来る。

三月一日

(木曜)
 大変に寒くなった。まるで寒中のような心持になってしまった。
 おゆきが来て散々泣いて行った。ああやって亭主に死なれて、いつ放り出されるかもしれない親類などへ、僅かの同情心をたよって行くのかと思うと可哀そうになったが、お酒を二本ものんだのを見たら少しいやになった。結局単純なのは、喜ぶのも、悲しむのもかなりさっとしたものなのだ。坪内先生のところへ手紙をあげる。夜国男に英語を教えてやる。「オブローモフ」はあんまり訳が悪いのでよみあきるような心持になって仕舞う。丸善へ行こうと思ったが、風がひどいのでやめる。かなり下らない一日であったのが悲しい。

三月二日

(金曜)
 久しぶりに坂本さんところへ行っていろいろ話して来る。黒田さんが子供をうんで死んでしまったときいて、いろいろな感に打たれた。私はどんなことになっても、子供のために死んでは居られない。文房堂へ行って原稿紙、インク、ノートなどを買って来る。帰りに小此木先生へまわって、一月半ぶりでお話をして来る。かえりにさかな町から俥にのって来て払おうとすると十銭がない。二十銭を出して五銭よこせと云ったがそれもない。で私は家までつれて来ようとすると、俥夫がああありましたと云う、で又二十銭を出したら、もう前にいただいて居ますと云う、自分はやったような心持がしないから、まだやらないと云って新らしいのをやった。がほんとに前から持って居たのかもしれない。私はああ云うときに、おやそうかとスーッと引こませない丈心がいいかわりに利口じぁないと思った。

三月三日

(土曜)
「オブローモフ」の上巻丈読み終る。英語ででもよんだらあれよりはよかろう。終りの方から起って来る彼の恋愛事件もいかにもオブローモフらしいところがある。確かに立派な作には違いないが、何といっても訳がわるいのが残念だ。長谷川先生に手紙でミスボイドのことわりを出して置いて貰う。
 久米、芥川来訪。久米氏にはかなり久しぶりであったが、違って居る。どっちかと云えば少しみじめに変って居る。芥川と云う人は久米より頭のきくと云う風の人で、正直な純なところは少しすくない。岡信氏と佐藤功一氏の違いがあると云っていい位である。顔はかなりいい方だが、凄い。
 七月に『中公』にのせられるかもしれない。飯坂の架空索道のことがすっかり構想が出来た。うれしい。

三月四日

(日曜)
 今、M[#母]がかえる。到底私の辛さ悲しさを考えることは出来ないものだ。すべてが表面である。私は又新らしい失望を感じる。久しく会わずに居ると、記憶によみがえった愛情が、美くしくもえ出す、胸がふるえる。けれども、すべての日本人はあわい。自分の中に満ちて来る力を支え切れない。私はやっぱり私独りで行くべき道を行かなければならないものなのだ。今日も、頭が痛くなって、声を出すのが苦しい程、心が苦しんだ。けれども、何でもない。何ごとも彼の内部には起らない。凡ては単純である。強くならなければならない。
 千葉先生(ママ)あったが御留守、衿じ、丸善へ行く。とにかく、一人の人間がほんとうにその人らしく生き、働いて行くのはむずかしいことである。

〔単位厘〕
月日    摘要           収入     支出
3 4                 250 000
3 4   半衿二つ                 800
 〃   紙白粉二ツ                320
 〃   毛びん                  020
 〃   絹糸黒赤                 070
 〃   オード・キニン              950
 〃   個性の教育                1 650
 〃   生の悦び                 1 200
 〃   忠義の哲学                1 150
 〃   人間的な余りに人間的           1 350
 〃   万年筆                  6 000
 〃   旅行用インク               500
 〃   原稿紙
 〃   吸取紙
 〃   ノート                  800
 〃   紫鉛筆                  050

三月五日

(月曜)
 風が大変に強い。着物を買いに行かなければならない。すえ子さんが工合が悪いので、母様は頭を結うことも出来ない。おなかの工合が悪いのだそうだ。華子のことがあるので、母様は少し臆病になって被居っしゃる、お気の毒だ。千葉先生へ手紙をあげるのだが、気が落着かないので書けない、夜にでも仕ようと思って居る。旅行をしようと思って居ると、心が落着かない。今日の新聞で岩越が危険なことが又報ぜられてあるので気が気でない。石井柏亭氏も御いそがしいのだろうか、図案はどうなったかしらん。ゾラの「生の悦び」は訳が悪くていけない。

三月七日

(水曜)
 母様が同級会でおるす。午後三時少しすぎから、千葉先生に御目にかかることになって居るので、出かける。どうかして、時間を早く出すぎたので、中村屋で買物をし、青木堂によってパウダーを買って来る。青木堂ではあんなにもさがして居たロリアがあるのに、二十七銭でやすいと云うためか、さんざん、ありませんありませんと云った。妙なものだと思う。作楽館へ行っておまちする。誰も居ない部屋で、少し風の吹く外を見ながら居たら、何だか少し妙な心持がした。先生に対して、越してはならない圏限をフトのり越えたような。種々おはなしする。研究の方は、私の都合のいいときにして下さるとおっしゃる。有難い。いつもおちついて被居っしゃる。かなりまで燃焼して行く相手の心を、失望させない程度に落着かせてやる態度は偉い。

三月八日

(木曜)
 午後から長谷川先生のところへ行く。又しばらくお目にかからないからと、花を持って行く。あの先生が、余り花に冷淡なのが少し妙に思われる位だったら、瓦斯ストーブでじきわるくなるからなのだそうだ。紅茶とブレッドンバターを下さる。パンが丁度いいかげんにかわいて居て美味しかった。小此木先生の結婚の話が出た。先生は少し私にとっては不愉快な、話し振りをなすった。少し羨み、少しまけおしみ、少しあなどりの混じた複雑な表情――かくそうとする努力で、かなりまで却って露骨にオールドメイドの欠点のあらわれた話しぶりをなすった。面白いものだと思う。バーナード・リーチ氏がずぼらだと云うこと、ロンドンの石橋は酒をのむこと、牧野氏の絵などを見せて下さる。が要するに彼女は善い人である。この感じは、とくにきのう千葉先生にお目にかかったために強められたものであることをも、自認して居る。

三月九日

(金曜)
 明日安積へ立ちたいと思う。まだ柏亭氏の表紙が出来ない。少し気になる。午後から、歌舞伎座へ行って見る。福田会とかの慈善興行だそうだ。妹背山の第一が終りかけて居た。二幕目から見る。生れて始めて、ここへ来、歌右衛門を見た。なかなかきれいだ。芝雀と云うのは、声がいかにもいや、殆ど聞くに堪えないような声だが、歌右衛門のはかなりいい。が、只若い美くしいお三輪の顔の、あの恐ろしいような皺が、大変いやだった。自分では一寸も気がつかなかったのに、このごろは、芝居を、芝居として見るようになって来てしまった。ほんとうになって来てしまった。それ故、一時から夜の十時頃まで、打ちつづけにいろいろされることは、疲れてしまうので、かえるときは居眠りをしながら俥にゆられて居た。

三月十日

(土曜)
 昨夜芝居から帰るときに、あしたはきっと立つまいと思った通り、立たなくなってしまった。やっぱり一寸も準備も出来て居ないと立つのもいやになってしまうものだ。そうきまって見ると、却って今日立たない方が、万事によくなったような心持もする。そして、「文学に現われたる笑の研究」を読み始める。かなりよく研究してある。そして又文学的でもあるけれども、自分の今云おうとする「自嘲」と云うならその題目に、少し無理でもある作品の主人公などを持って行ったところがある。もっと深く味うべきところを、自嘲などと云う中へ、かなり安心して入れられて居るのは、余りうれしいものではない。或る研究の発表は、そう云うことが考えるべきことなのだろう。

三月十四日

(水曜)
 玄文社の小倉さんが少しぐずだ。なかなか校正を廻してくれないので、十六日に立つのにまに合わない。もう少し早くしてくれなくてはこまる。
「罪と罰」をよんで居る。もう二度目なのだけれども、この前に見たときとはまるで違った発見がある。非常によくかけて居る。こう云うものを見ると、ほんとうに自分を思いあがることなどは、さかさに立ったって出来はしない。自信と、ごう慢とは違う。たしかに。けれどもその差をはっきり自分の心で知って居るものはない。
「貧しき人々の群」の序文を、母様が心配して早くかけかけとおっしゃる。けれども、そう早く書けはしない。あさかへ行ってしまうと、到底出来っこはないのだからだとおっしゃった。あんまり種々な感想があるから、一寸の序文でまとめることは殆ど(ママ)かしい。

三月十五日

(木曜)
 玄文社の小倉さんに電話をかけて、序文のことと、校正のことと、扉のことをたのむ。何だか少し要領を得ない。午前中に序を書く。少し、どう書いたらいいかと思って迷ったが、結局一番始めに、フト頭に浮んだものでまとまってしまった。「師よ、師よ」何だかその響きが胸の底にしみ通る。そして、師よ、師よと云うとき、言葉のかげに、千葉先生のあの光った顔が動いて居る。自分としてはかなり満足に近いものが出来たので、余丁町へ持って行ったら、まだ御帰りがなかった。明日の二時までにあがることにして帰る。

三月十六日

(金曜)
 坪内先生へ行く。待って居て下さったのだそうだが近所までお出かけだとて始めて奥さんに会う。先生とはまるで違う。そう思って見るせいか境遇のために上品にさせられたと云うところが、折々若いうちにしみ込んだ心持があらわれて来る。一寸ハッとすることを、平気でお云いなさる。あまり感じはよくない。どっか上の方でききながして、つっこめない、始終逃げて居るところを持って居る人だ。先生は大変御機嫌がよかった。いろいろ御はなしなさる。丁度創作が順調に、しかも、可なり満足すべき勢で進んで行くとき、誰でも持つ活気と、心の奥からの喜びにみちて、機嫌よくすまいとしてもせずには居られないような状態に被居っしゃった。「生きるか死ぬかの苦」が必要なことを仰云った。七月ごろにかけることを御話する。私は先生をわきから見て居て大変嬉しい。けれども大変苦痛な心持になった。何故そうだったのか? ときはドシドシとすぎて行く。

三月十七日

(土曜)
 道男と十二時ので立つ。もう発車に間もないころ、古田中の奥さんが女中と子供をつれて送って来てくれる。妙にサンチマンタルになって居なすったので、少し気の毒だった。送られることをさほどよろこばない自分は、冷淡なのか? 或は送られるに堪え得ないほど弱いのか? とにかく自分は、どこに行くのにも送られるのはいやだ。
 汽車はすいて居たが、段々こんで来た。白河位から雪がそこここに消えのこって居て、北国らしい。かじかんだ景物がフト東京を恋しく思い出させた。郡山はかなりあったかだ。十六日には雪が降ったのだそうだ。丁度俥にのった頃、どうしたのか、日光が雲に遮られて、極光のように幾条にも幾条にも分れて、御光のように光って居た。大変珍しい。凄い美くしさであった。

三月十八日

(日曜)
 思ったより幾層倍かあったかい。起きてから、道男と池の周囲を廻る。大変快い。地面のしめったのも池の大きくなったのも、皆心持がいい。

三月二十一日

(水曜)
 このごろは自分の心の中に、春の芽生(ママ)がしのび込んで居る。とりとめのないメランコリーが折々自分を占領して涙をこぼさせる。自分のこの大きな幸福にともなった大きな不幸。自分はすべての友達である。只友達で永久にすぎなければならない。自分の裡で火をもやして居るこの激しい情熱は、何かの対象が出来ると、すぐ色あせて失望し、うんざりして仕舞う。今より馬鹿で人を恋せた時代は幸福である。すべてを忘れ、すべてを――自我を全々没却して、恋せた時代は少くとも今より恍惚の時があった。けれども、今は、もっと深いうれしい恍惚が与えられる代り、もっと苦しまなければならない。自分と同じ年頃の者が若し恋でもして居るなら、それをソーッと守って喜ばせてやりたい心持がして居る。

三月二十二日

(木曜)
 まだ会田さんがよくならない。天気もかなりいい。そこでお祖母様は急に仙台行きを思い立った。有江の眉がなくなったことや、松尾の家のあくことを口実として。二時少しすぎの汽車で行く。かなり仙台まではあるので、暗くなってくると、こんなに遠いなら来なかった来なかったとしきりに云われる。
 仙台のステーションの前は広くて明るくて、一寸上野のような感じがある。フト暖かいような心持がした。俥で家まで行く。思ったより立派だった。が、かげの部屋で、アア今ごろ、と云う奥さんのささやきをきいたときには、アア間違ったと思った。来なけりゃあよかった。おじぎをしながら、よくいらっしゃっただの、大変うれしいと云われても、何だ口先で、とほか思えなかった。ひがんで来たら御免なさい。けれどもああ云われると私は堪らない。

三月二十三日

(金曜)
 他人の家に居ると、何だかよく眠られない。八時少し前に起きたので、眼の周囲がれぼったくて少し心持が悪い。さぞ荒れたような皮膚をして居ることだろうと思う。何もすることがないので、午後から丸善の支店へでも行くつもりで、市へ出て見る。かなりにぎやかだ。国分町、東一番町が中央のさかり場になって居るらしい。人通りは多いが田舎臭いところが町の隅々にころがって居る。どことは云えないが田舎くさい。丸善で『明暗』と『生ける屍』を買う。帰ってからよんで見ると、「生ける屍」はとうていすま子の出るべきものではない。誰がニキタになるのか。あれ丈の人格を表現し得る複雑な内的要素を持っている役者は、たとえ新潮がどんなに力こぶを入れたとて見出し得るものではないだろう。

三月二十四日

(土曜)
 雨が降って居る。段々大風が吹き出して、昼頃には嵐に近くなってしまった。それで帰るのは御中止。退屈なので東京へ手紙を書く。ノートを切って書いたのを見たら、自分ながら何だか情ないような心持になって涙組んでしまった。かなり遠いポストまで自分で出しに行く。他人の家は何ていやなのだろう。到るところに気がねと心遣いと遠慮がウジャウジャして居る。何かにつけて相手の気をよむ心がよく分って、こんなところに一年居たら、どんなに悪利口な自分になったろう、又なるだろうと思う。自分の家がいい。早くかえりたい。顔を洗うのにまで心配して、廊下をぬらさないようになどと思う自分が気の毒になってしまう。これだけ居るとここの家の状態がどんなかと云うことがよく分って来る。どっちかと云えば不幸な者の集りである。

三月二十五日

(日曜)
 実にいやな一日だった。今日はどうしてもかえることにして、十二時半ので行くようにステーションに来ると、北白河までで行かないと云う、水害のためである。六時十五分のには間に合うと云うので、それまで、活動を見る。きたなくて、さわぎで、いやなことだった。それからステーションの上で食事をすることになったところが、耳のきこえない本田の細君が、塩ッ辛いとうてい舌のちぢんで仕舞うような親子丼をとる。おまけに間違えて一つ多く云いつける。いやだ。郡山へ着くと、大風で、俥がない。やっとさがして、来る間も、今にも引っくりかえりそうで、こわくてこわくて頭が痛くなった。家へかえったら、嬉しくておどりたいようになった。

三月二十六日

(月曜)
 大変風が吹く。かなり寒い。桑のかたい芽のついたのや、まだ茶色な樹木が、風に押しつけられてブーブー吼って居るのはこわいほどである。会田さんの風邪がなおったばっかりなので、又私も少しは疲れて居るので、明日は飯坂へ行くことにする。前の借屋のことで車夫が来るので、俥を命じる。小さいこうりを出して、それに荷をつめてから「明暗」の残りをよむ。漱石先生は偉い。いかにも純日本人らしい心持があの作を通して漲って居る。東京へ手紙を書く。家の、あの明るい、あったかな、美くしいかおのある食堂が大変恋しく思われる。かなり複雑な生活をして居た人間が単純な生活に入ると、一時は愉快だが、やがて不安になる。その通りの心持が、今の自分に起って居るので、早く今の境遇の変ることをのぞむ。

三月二十七日

(火曜)
 天気が大変定まらない。晴れたり曇ったりして、ときどきは雪まで降って来る。けれどもあまりのびると困るので、今日は飯坂へ立つことにする。
 二時の汽車のつもりで買物のために早く出たら、十二時のに間に合った。福島へ着くと、自動車がなかなか出ない。四時すぎまで待たなければならないので、市を一寸見る。流石に大きい。けれども誰かが汽車の子だと云った軽便が地面を這うようにして通って居るのは、堂々とした日本銀行支店とあまり対照が滑稽である。部屋が離れてあると云うことや金のやすいところから丸正に来る。女中も至極単純だしするので快い。まだ新らしいので部屋もきれいである。久しぶりで透明な、煙のえむらない湯に入って生き返ったような心持になった。只、どてらが少しきたなかったのがいやだ。

三月二十八日

(水曜)
 夜がふけてから粉雪が降って居たけれども、今朝は天気がいい。目がひとりでにさめると、あったかい日差しが、しめた戸の節間からさして、庭でにわとりが鳴いて居る。宿屋と云う感じよりもうちという心持が深い。何となくうれしかった。朝飯をたべてから、おいくのところへ行く。あい変らずいい人である。かえりにズーッと新十網橋の方から赤湯の方を廻って来る。少し材料が出来た。夜、善義が籔内と云う友達をつれて来る。小学教育のこと、宗教のことなどを話す。善人である。籔内と云う人はまだ二十だそうだ。善義よりはある意味に於て苦しんで来た人だ。籔内と云う自分の名字を話すとき、何とも云えず思い込んだような眼をして少し気味が悪かった。トルストイを中心とした話がはずんだ。

三月二十九日

(木曜)
 朝少し早く目をさました。十一時一寸すぎに善義が来てくれる。ズーッと白い泥を掘り出すところへ行って見る。あんまりすべてが粗野なので大変気味が悪いような心持がした。掘り出した泥を天日で乾かすために、笹の葉で屋根をかけた棚に蚕を置くまぶしのようなものに泥をならべて、幾段も幾段も置いてある。何だか生蕃の首棚のようで、非常に気味が悪かった。それから、天王寺の沼を廻って、一度宿へかえってお茶をのんでから、又愛宕山に行って索道を見て来る。なかなか眺望がいい。風が少し強いので落着かないようでもあるが、東京に居て軒下ばかり通って暮したものには非常に快い。少しばかり急に曲りくねった細道を歩くとき、Iがこわがって座ってしまったときには、可笑しい裏に非常にいやな心持が湧き出した。女性は弱いのが美しい原因ではない。

三月三十日

(金曜)
 きのうに倍した天気である。大変よくねて目をさますと、十時頃であった。風呂に入ったり食事をしたりした。Cranford を少しよむと善義が来る。たての山に行って見る。道は広いが、きのうの山よりは急で、少しぬかるので一寸した平地に出るまでには、息がきれて苦しかった。この山は日本海と太平洋と殆ど中央にあるのだそうで、この周囲の盆地が一目に見える。人間が蟻のように見えるところから見下すと、すべては小ぢんまりと静かに綺麗だ。あったかい日にてらされて、人気のない山の上に座って居ると、すべてが単純化されて来る。苦しみのないらくらくとした心持がひろがって来て、レオナルド・ダ・ヴィンチがあの山の上にのって、ついに成功しない自分の飛行器について無量の感慨に打たれたのも、ほんとうにそうだろうと思われる。手の届きそうな向うの山までのこんなに小っぽけな景色をみると、私もバッサ、バッサと勇ましい羽音を立てて飛び出したくなる。

三月三十一日

(土曜)
 昨夜少し喉の工合が悪かったので大変用心をする。午前中は風がひどかったので、どこにも行くまいと思って居たら、午後少し風がしずまったので、ずっと、館の山の反対の山へ行く。道は面白いのだが、誰も居ない村の中の一本道なので、フト木こりなどに合うと女性の本能的な恐怖が自分をつかむ。それ丈女には先天的の弱みがあるとも思う。かあさまから手紙が来る。父様が、三日ごろに来るとおっしゃっていたが、思いがけなかったので大変にうれしい。あしたの昼から、岡村さんへつれて行ってくれるように、おいくにたのんで来る。善義が頭の工合が悪いと云って少し青い元気のない様子をして居た。鼻がかわくかわくと云うので犬がかぜを引いたようだなどと云った。玄文社から送ってよこした見本にならって、本の題名を書く。天気がよく。山からの眺めはよかった。

〔三月中の重要なる出来事〕

 一日 玄文社より活字配置の見本を持ち来る。
 三日 久米芥川両氏来訪。七日頃にまで出来上る、架空索道に関しての考えがすっかりまとまる。
 四日 千葉先生へ行くお留守。丸善、えり治によって買物、M来る。
 五日 すえ子さん工合が悪い。
 七日 千葉先生に作楽館で御目にかかる。
 八日 長谷川さんに会って来る。
 十六日 坪内先生に御目にかかる。昨日御帰京。
 十七日 桑野村に来る。
 十九日 道男東京へ帰る。
 二十二日 仙台本田氏へ祖母君と行く。
 二十五日 帰桑野村
 二十七日 飯坂の※[#丸正、屋号を示す記号、254-13]旅館に来る。

四月一日

(日曜)
 自分の居る部屋の彼方の方で芸者がよばれた。まっぴるま、そとを見るのもまぼしいようなときに、かなり下手な三味線と、時々、ヤーヤーコラサーッとはりあげる女の声は、何の情味も持って居ないのみならず、却って悲惨なような心持がする。ああ云うものには夜が必ず背景となって居なければならないように思われる。男も女も「何もこんなことをして居たかあないんだが、仕様がないやね」と云った調子に思える。午後岡村のおじいさんのところへ行って、すっかり陰気な心持になってしまった。あの四十位の妾の居ることは、彼に不幸をもたらそうとも、小指ほどの幸福の原因にもならない。

四月二日

(月曜)
 午後から愛宕山のはずれの方からグルッと一廻り歩いて来る。六時すぎにお父様がおつき、夕方のうす暗い中を、黒い外套の衿をたてていらっしゃったときには、お父様と思えなかったほど若く美くしく見えた。それ丈、都会の風俗が珍しくなって居るのだとも思う。おかあさまが話相手がなくて困っていらっしゃるそうだ。『新日本』と、『トルストイ研究』と桃山を沢山よこして下さる。『新日本』の文芸欄は女流ばかり集めたのだけれども、どれもどれもだ。まして俊子氏の「チューリップ物語」には少し意外な感さえある。どうかああ云う風な発表はしたくないものだ。久米氏の「エロスの戯れ」(文世)は、いかにもあの人の作である。私には出来ない。あの人の長所と欠点が充分出て居る。おいくが来て、善義の許婚のことを話して行く。愛すべき母親である。

四月三日

(火曜)
 おとうさま福島の式へいらっしゃる。家に居ても仕方がないから、午後から善義さんと菊地氏の子供とで穴原の奥の方へ行く。道が泥だらけになって居て足袋がすっかり汚れてしまう。道に大きな石ころや何かがあるので荷車を引いた馬がガタガタとはね上るようにして行くのが気の毒だった。善義さんは少し陰鬱になって居たどうしたのか。菊地の子供は少し才気走りすぎて居る。スケールの小さいような子に見える。行きに角屋の玄関の前を通ったら、川を越えた彼方にあの陰気な澱み声の若者の顔が見えた。自分が愉快そうに杖を振り振り歩いて行く様子を彼は何と思って居たかと思ったら妙な心持がした。かえりごろに少し雨模様になって来る。大いそぎにいそいで宿へつくと、ザーッと降って来る。ユベが大変つかれたと見えて、ときどきころぶのを人が笑う。

四月四日

(水曜)
 昨夜の模様では今日は雨らしかったのに、思いのほかの天気で父様はうれしがって被居っしゃる。十二時五十二分のでかえることになさる。おいくさんが来る。丁度御飯のときだったので御給仕なんかをして貰う。久しぶりで、御目にかかったので、珍らしいようなうれしいような心持がすると見えて、よく口がきけないような様子をして居る。私も、かえられるのかと思うと少しいやな心持になった。起きたときから、少し目の工合が悪かったが、御飯をすませると、かなり赤くなって居る。すぐ会田さんにガーゼや油紙を買って貰ってむす。押えを赤い糸でとめたので、鼻の峯やこめかみが野蛮人のような隈どりになってしまう。それでも、余り会田さんが誘うので、館の山へ行ったが、目が気にかかってかなり面白くなかった。かえると非常にかゆくなって又おさえをかける。何だか東京へ行きたくなってしまった。夜町役場の人だと云うのを御いくがつれて来て居る。田部氏によく似て居る。

四月五日

(木曜)
 フト目をあくと、右の目がいやに重い。忘れて居たのが、アー目が悪かったのだと思い出すと気になって鏡を見る、お岩のようになって居るので、すっかり気が滅入ってしまった。今日は一日家にづくんで、目をひやそうと思いきめる。会田さんがお茶や何かを買いに行く。ひとりになってしまうと、つい又本を見る。日記は、目がちんばになったようで、こまかい字が書けない。早くなおらないなら、あしたあたり東京へかえっちゃおうとまで思ったところが、夕方になるとすっかりよくなった。大変うれしかったので、おいくの一族と、舞台のそがの家を見に行く。帝劇なんかで見るよりここいらで見る方が、くさらない。

四月六日

(金曜)
 会田さんは、そとへ出たいらしい。けれども、私はあんまり出たくないでブラブラして居ると、おいくが来る。牛乳屋へ行こうと云う。そこではかつて、殺人事件があったのだそうだ。AがBを殺してやるぞ、殺してやるぞと云って居たところが、却って、BがAを殺して、自首したと云うのだ。面白いと思う。三人でブラブラと出かけて行くと、小川のところで、川があふれて橋がながれてしまって居るのを知らなかったので行けない。河原で少しあそんで行く。柳やはこべが美くしい。低いくさむらで、雲雀ひばりの声がきこえる。いかにも春らしい。山の雪がながれて、水がますので、又水が落付いてしまうまで橋はかけないのだそうだ。多勢そこまで来ては又かえって、向うの橋の方へ行く。夜善義のところへ行って、方言をきいて来る。思ったより沢山の収入があった。

四月七日

(土曜)
 今朝起きると、目がすぐ気になったが、すっかり髪などを結ってしまうと、すっかりさっぱりして居る。お風呂に入ると、女中が湯をくみに来ながら、手紙が来て居ると云う。出て見ると、園井のことから、印税や何かのことを書いて、十日まで居てはおそいと云ってあるので、急にかえることにきめる。一時間ほどですっかり仕度をして、三時の汽車に間に合うように自動車を呼ぶ。宿屋の勘定が思ったよりやすいので、二円五十銭もかなり苦にならない、あさかには一寸よって行って、夜汽車で行くことにして、丁度牛乳屋へ行くと云って来て居たおいくにあまった菓子や何かをやる。ステーションに来て見ると、福島高女の出身だと云う、柳沼、樋口と云う人が送りに来てくれる。一寸びっくりする。夜汽車でよく眠れない、大変こんで居る。

四月八日

(日曜)
 よく、殆ど一寸も眠らないので、頭の工合は悪い。けれども久し振りであかつきを見たことは何よりもうれしかった。ダークブルーの天地、紫のような地面にホッサリとしげって居る麦の若い体が、一吹風が渡るごとに何とも云えないかおりを立ててサヤサヤとそよぐ。気がつかないうちにほのぼのとあかるんで来る空の色、人間の顔、斯う云う新鮮な朝の景物の前に、ねむりの足りない、せわしない人間の顔は非常に劣等に見える。いかにも罪のある、けがれて居ると云うような感じを与える。
 久し振りで家へかえって来ると、すべてがなつかしい。けれども空気のにごって居ることが驚くほどはっきり鼻や肺に感じられる。Mちゃんが来て居る。ねむいけれども、ねるのがおしいようだ。佐藤氏が来られたそうだがお目にはかからなかった。

四月九日

(月曜)
 目がさめたら、もう一時すぎになって居る。少しびっくりしてしまった。よく眠りは眠ったのだが、余りおそくまで床に居たので、却って頭が重い。まだ何だか東京の空気になじまないような、心持もする。
 夕方柴田氏来訪、序につける前文を書いて行きなさる。よる、玄文社から序の校正を廻して来る。小倉さんも少しいやな人だ。印税は一割だなんてそれもいいが印を押してよこすのには、うんざりしてしまう。もうこれからたのみたくない。ああ云うことを私に対してされると、ほんとうに心持が悪くなる。

四月十日

(火曜)
 雨が降って居る。頭をおされるようで不快だ。今日ふと「トルストイ研究」を見ると、その日記に、「最も力強い催眠術の一つ、即ち人間の精神に対する外部的影響の一つは服装である。人々は良くこれを知って居る。修道院の僧服も軍隊の軍服もこれから来たものだ」と云うのを見る。面白いことだと思う。吾々が、――日本の女子が、斯う云う風に統一されてしまった服装で居ることは、或意味に於ては動くことない内的生活に関係のあることだとも云えよう。「歎異鈔」をもう一度よんで見る。先に見たときよりまるで違った発見がある。自然とキリスト教との比較にもなる。

四月十一日

(水曜)
 夜になってから母様と、シビリゼイションを見に行く。大変大変こんで居て、頭が痛むようであったが、八時頃からすいて、大変面白い――と云うより寧ろ、感激多く見終った。とにかく、戦争がなかったら、とうてい出ない写真である。いかにも文化の力を思わせられるほど大仕かけである。写真としては抜かせないものかもしれないが、中にはあんまり残酷なのがあって、見るに堪えないようであったところもある。かなり宗教的なもので、クリスチャンにはさぞ尊く見えるだろう。かえりに奴うなぎで食事をする。竹葉とはまるで違った心持のうちで、出て来る女中もお召に、縮緬ちりめんの帯なんかをしめて、とにかく小ざっぱりとして居る。どっからかながして来た新内が久し振りで珍らしい。上野から十二時頃家まで歩く。人に見られずに歩く快さを久振りで味う。歩くのは夜に限る。

四月十二日

(木曜)
 母様がよそに久振りで御出になさる。午後になってから、小倉氏から表紙と紙質との見本と、印税に関した手紙をよこされる。表紙はそんなに悪くはない。が、手紙は、要領を得ないし、不愉快なものであった。何だかきっと斯う云う弱点を持って居るだろうと思って、そこをねらわれるような心持がした。坪内先生に御相談に行くことにする。
「貧しき人々の群」の序が『時事』に出た。

四月十三日

(金曜)
 午前中に坪内先生のところへあがろうと早く仕度をしても、ついたら、十一時すぎて居た。多分お留守だと思って居たらいい工合に被居っしゃった。種々の御話をす。文学者のことに関し、百二十一歳のおじいさんについて、芝居について。「公暁」の脚本はもう出来て、『中公』の六月に御出しなさるのだそうだ。御すしを御馳走になる。あの御じいさんが、きっと、「ああ生きすぎた」と思ったときがあっただろうと云うことについて、いろいろ考える。帰ってから、母様と、そのことについてお話する。私は百歳を越した位だったろうと思うが母様は九十位のときに、最後の自分の子を失ったときに感じたとおっしゃる。
 かなり心が文学的になって来たので、少し考えがまとまる。種々ノートにまとめる。どうしても、おじいさんを入れたい、けれども入れるにはあまりとぼしい。

四月十四日

(土曜)
 会田さんと、とくがシビリゼーションを見に行く。家はいそがしいからこまるけれども、とくがいつも気の毒だったから行かれてよかったと思う。倉知夫人が久しぶりで来られる。家の者達のもって居る air とまるでちがったものを持って居る。いかにも張がない。生活に殆ど疲れ切ったように見えることは非常に気の毒に見える。夕飯や何かのことをせわしくしてあげる。おみやげだと云って、ヤンキー・ガールがしそうなピンを下さる。少し恐縮した。夕方小倉氏が来られて、かなりちぢこめられたらしい。斯う云うときに母様の可愛いところがあらわれて来る。夜、作について考える。なかなかうまく行かない。

四月十五日

(日曜)
 千葉先生のところへあがる。今年の卒業生が来て居た。よく見れば皆見た顔なのに、あんまり高島田なもので、一寸も見わけがつかなかった。試験をうけると云う大人が三人、私達のならったような教育をならって居る。すんでから、いろいろのことを御話する。科学的研究の態度とか、教育的の注意はどれほどまでに行きとどくものであるかと云うことなどを御話する。真の愁と、歓喜は、まだ自分の年では得られないなどと云うことをつくづく感じて来た。非常に、気が楽に御話出来て嬉しかった。心持がかなり落付いて、□□(二字不明)たような心持でお話出来ると、心が、自分の予期して居たよりも、ひろがって行く。次の会のことを知らせて下さった。

四月十六日

(月曜)
 今日からミスボイドがはじまる。夕方『時事新報』から柴田氏が釜山日報のことをしらべ、金一円也をくれる。少し可笑しいような心持になってしまう。明日からの本は misunderstood と云う、先のとはまるで違ったものらしい。今日始めて、ミスウーレーと話を今学期になってしたら、何だか、少し分りにくくなってしまって居た。「現代の心理学」をかなり進む。よく書いてあるとも思う。潜在意識と云うのを速水氏は、副意識とすると云って居られるがその方がたしかにいいに違いないようにも思われる。
 催眠状態に於ける人格的変化は非常に面白いと思う。

四月十七日

(火曜)
 今日は坪内先生のを見に行くつもりにしてあるので大変せわしかった。はじめてミストロットと云う人に教わったが、大変に面白い人だと思う。今まで、あの位空想のつよい人を見たことは、少くとも西洋人にはなかった。少しうれしかったような心持がする。美術的な連想を持って居る人だ。鴨田さんと云う人は、独人との混血児だそうで、大変醜い。ミスボイドと、ミストロットはまるで大変に違う。帝劇、とにかく「桐一葉」は努力した作であるけれども、まだ、私には全部満足することは出来ない。私は、且元の忠義は分らない。けれども、銀之助の心持には、すっかり打たれてしまった。かげろうを妻に出来るときいてよろこぶところを見ると、まったく絶対的の殆ど法悦と云いたいほど、絶対なものである。私は非常に外のどのところよりもうたれた。外の者が笑って居るのを見たら、立って“お黙りなさい、何が可笑しい”と叫びたくなった。

四月十八日

(水曜)
 大変に書きたい心持がして居る。けれども、ひまがない。で、心が苦しい、が充実して来て居る。午後長谷川氏のところへ行く。バイブルの話の代りに、Letters to godson と云う宗教の意見を書いたのをよむ。かなりやさしいし、面白いとも思う。聖霊と云うのを Holy ghost と書いてあるのなどが、一寸皮肉なような心持を起させられる。
 夜英語をしてから、母様達といろんな話をする。母様達の結婚時代のことなどをきくと、よくあれで安心出来たと思う位、すべては単純に、てっとりばやく出来て居る。それでも何でもなくああやって居られるのだから、幸福だと思う。幸福と云うものは、決して理屈から生れるものではない。

四月十九日

(木曜)
 ますます書きたくなって来る。けれども、ひまがない。来週中の英語を少しかたをつけて置こうと思って misunderstood 丈はすっかりやって、会話の材料も大抵はまとめて置いた。千葉先生の会。皆あんまり活気がない。何でもなく思うことを話すことをしない。今日の御話はかなり座談的のものではあったが、タゴールに関してのことは一寸面白いと思った。それから、弟さんが話された。一高の仏語の教師のことをきいたときには、思わず涙ぐまれた。彼は大変いい人だった。で、ある試験のとき一生徒がその人の面前で、ノートを出した。そして見て居たら、その仏人は両手で、目を掩うて、その若し見れば叱らなければならない光景を見まいとしたと云うのである。私はそのことに非常に動かされたが、又そうされても苦痛を感じなければ、してもいいのだと云う理論に対しても、肯定する。その位人間は、或意味に於て、強くなり得るか。

四月二十七日

(金曜)
 漸々ようよう第二がまとまる。

〔四月中の重要なる出来事〕

 二日 おとうさまが米沢のかえりに、飯坂へいらっしゃる。
 四日 おとうさま東京へ御かえりなさる。この朝から右の目にものもらいが出来る。
 五日 曾我の家蝶五郎が来たと云うので見においくの一家と行く。
    目が大抵なおる。
 七日 夜行で急にかえる。
 九日『時事』の柴田氏来訪、序につける原稿を書いて行く。
 十一日 三人でシビリゼーションを見て来る。
 十二日 小倉から印税についていやなことを云ってよこす。
 十三日 坪内先生のところへ上り、近藤径一氏より、手紙並、『まかれたる種』
 十五日 千葉先生のところへあがる。
 十九日 千葉先生の会へ出席
 二十一日 書き始む。
 二十三日 市村座へ行く。
 三十日 玄文社から、印税を持って来る。

〔五月中の重要なる出来事〕

 二日 出版とどけに印をおす。
 五日 漸々本が出来て十五冊送ってくれる。方々へあげる。
 八日 狩野芳崖遺作「悲母観音」を見る。驚くべき立派さであった。
 三十日 一まず出来上る。題を「禰宜様宮田」ときめる。

六月十四日

(木曜)
 今日いよいよすっかり出来上る。「禰宜様宮田」八十九枚。
 午前中、父様と松坂屋へ、石川県の工芸品陳列会へ行って見る。一寸入ったときから、もう田舎くさい、レファインされない感じがしたが、陶器でも気に入ったのは一つもなかった。皆色調のあさっぽい、線の弱いものばかり、それでなければ只やたらに金や銀をこてこてにぬりあげたものばかりである。他人のどんな作品でも、あまりくさすのはいやであるが、悪いものは仕方がない。
 珍しく今日は晴れて居るので気持がいい。夜、部屋の障子をあけはなして置くと、夏の夜めいた空気が流れ入って来て大変いいすがすがしい気がする。
 随分日記もとぎらしたので書くのが大変うれしい気がする。

六月十五日

(金曜)
 夜になってから坪内先生のところへあがる。あかりのせいか、時のせいか、大変急に年をとって御見えなさった。どうしたのだろうかと思う。
 こないだなおしたところを見ていただいて、キスメットの事をお話し、「星月夜」のことを申上げる。あれと「牧の方」、義時の死ぬときと、三部作になるのだそうだ。今年は出来ないかもしれない、なにそんなにせかずといいと云って被居っしゃるのを見ると、私共の持って居ない安心、落着きを持って被居っしゃる。フト、私はまだ何でもない事を何でもなく出来ない年だと思った。

六月十七日

(日曜)
 雨が降って居る。けれども、千葉先生のところへあがる。丁度御出かけのときだったが一時間ほど御家で御話をして、かえりには家の前まで御一緒に来る。心理学の月謝のことと、公開講義のこと、芳崖翁の遺作のことについて御話をして来る。「先覚者」のことと、「罪と罰」の比較をする。レオナルド・ダブィンチをああ云う風に描いたのは、矢張り著者がメレジェコフスキーだからだろうと云うようなことをおっしゃる。帰ってから「戦争と平和」をよむ。先によんだときより、ズーッと興味もまし、利益も得る。一つある本を読んでも、その時代が違うと、まるで受入れかたが違う、だから、あれはもう一度よんだからいいと云う本は、少くとも、それが僅かでも立派なところを持って居るならば、一年ごとによみなおさなければ、真個ほんとではないらしい。

六月十八日

(月曜)
 千葉先生から早速手紙を下さる。桑木氏、上田氏、方々の研究法をきくことにする。「戦争と平和」をよむ。ピエールが、妻に最後の面会をするところなどは、私によくあの場合、エレンの胸にあることをよむことが出来る。美くしくて、利口で、人望のある夫人は、良人にああ云うような気持にさせることを、或時は意識し、或時は無意識に何度くり返して居るかしれない。
 安達の細君が来て、安積では皆人を出して、年よりが独りで居ると云うことをきいた。H家がああ云う夫人をめとったので、親類中の渦の中心になって居る。今に何も彼もどうにかされてしまうようなことに、両親は話して居られる。親類もたよって居るようなものはなく、皆に何か期待される位置になると、いやなことばかり耳に入る。

六月十九日

(火曜)
 雨がふる。午後二時から千葉先生の十二日会がある。レオナルド・ダ・ヴィンチのことをおっしゃったが、私が大変心を打たれたことは、「今私共が斯うやってレオナルド・ダ・ヴィンチはえらかったと崇拝して居ても、彼の耳には届かない。つまり彼の生涯は淋しいものであったのだ、其処を考えなければならない」と云うことである。確かに彼は淋しかった。永久に楽しい生涯を知らなかった人である。けれども自分が、彼の死にぎわにあらわれたような現象におそれて、働きを中途でやめられるか? それは不可能である。追々私の心にしみこみかけて居るこの淋しさが、例えどれほど大きく広く深くなろうとも私は今の道を踏みつづけて行くほかない。どんなに苦しくても、しっかりと、我若者よ!

六月二十日

(水曜)
 瀧田氏へ電話をかける。留守。「オブローモフ」の下を大抵よみきってしまう。大変心を動かされた。訳として立派なものかどうかは分らないが、とにかくオブローモフに非常に心を打たれたのである。ああ云う風な人はいかほど世界中には沢山居ることだろう。彼はいい友達をもち、恋人をもって居たが故に、とにかく彼の部屋で死ぬことが出来た。けれども若し彼が……とにかくあれを紹介されたことを感謝する。
 英語を沢山やる。
 あぶら汗のにじみ出るようないやな天気の一日であった。余り頭がちすぎた。

六月二十一日

(木曜)
「禰宜様宮田」にちょいちょい手を入れてしまう。二時頃までかかってやってから、国男のそばで、種々なものをたべたりしながら話しをする。それから湯に入る。大変心持がいい。少しぬるめなのにすっかりつかって、ぼんやり、何の刺戟もない空気に包まれて居ると、ひとりでに瞼が重いような心持になって来る。梅雨期の陰気な重苦しい気分が人々の心を圧しつけるので、皆いらいらしたような顔をして居る。

六月二十二日

(金曜)
 かなりひどい雨が降る。心理へ行く。今日は大分面白かった。
 少し形が妙な実験、――視野計にかかるときなどでもちょいとしたたじろぎが現われるのは、女だからだろうか。
 斯う云うようなときにあらそわれない女性の根本的な特徴があらわれて来るものだと思う。
 かえりに川崎氏と種々話して来る。いい人なのだが一生、あああの人の一生は光栄あるものであったわいと思わせられるようなことをする人ではない。熱心すぎる、真面目すぎると云う美点の通りすぎた欠点を持って居るらしい。いい人なのだが、あまりいい感じを与える人であるまいと思うのは、あの人にとって気の毒である。

六月二十三日

(土曜)
 せん向島に来て居た女中で房州のものを呼ぶ。種々期待して居たのに一向話してくれない。利口な、ぬけめのない女らしい。今居るところの店の若旦那が、自分の家となじみになって、房州の家と云ったとか、兄さんと云われてよろこんで居るなどと云う。大変それが面白いいいことらしいけれども、私はそう云う風にするのはいやである。
 矢張り白浜の、大野隆徳氏の行かれた宿へ行った方がよさそうに思われる。雨で天気がくらいのに、四時半すぎても電気がつかない。灯を夜ほか入用でないものと思って居るのだろうか?
 夜、「戦争と平和」をよみ、坂本氏へ手紙を出す。珍らしく興奮して書いた。そして手紙と云う形式が考えを発表する上に、かなり都合のいいものであるのを又明かに感じた。

六月二十四日

(日曜)
 珍らしく晴れた。昼少しすぎに倉知氏来訪。いい人には違いないのだけれども、少し職業に感化されすぎて居る。春江ちゃんの心持でなぐさめてやるよりも、ピアノの稽古をさせ、いい着物をきせてやることに気をつかって居るうちは、決して彼女を幸福にすることは出来ない。
 お貞さん[#倉知貞]は相変らず病的なのだそうだが、決してあの人ばかりが悪いのではない。それならそれで、良人をまるであきらめてしまえばいいのだが、そこまでは女である彼女には思い切れない。つまり彼女は、二重の自分の心に苦しんで居るのである。気の毒な結婚である。幸福ではないながらあきらめきれず、良人はどうせもう離れても行きどころのない女なのだときめて暮して行く夫婦の彼等も一群であろう。

六月二十五日

(月曜)
 昨日のつづきで大変天気がいい。朝珍らしく早く起きて、午前中中西屋へ行く。『夢学』、『哲学綱要』を買って来る。大学の公開講義の聴講願書を出して置く。村上善義が結婚したので、時計を三越から送らせる。なかなか落付いたいいものである。
 夜になってから、少しずつ又降り出して来た。今お雪が家に行って居るから駄目だけれども、大抵六月の三十日頃に白浜に立てるだろうと思う。丁度土曜日だからいい、大変に期待して居るので、さぞいいものを得て来られそうな気がする。

六月二十六日

(火曜)
 珍らしく天気が晴れて、まるで気違いのような暑さがおそって来た。今までかなり涼しくて居たので、到底たまらないような暑苦しさで、昼間はさほどよく何も出来なかった。「哲学綱要」を読む。実に著者の頭のいいことがよく分る。同時によんで居るヴントの心理学などは、何だか大変明快でないように――勿論内容は言い廻し方の巧劣によって定むべきではあるまいが――思われる。斯う云うものを読むと我々の頭が論理的でないことをしみじみと感じさせられる。これ丈のものをよみこなすにも、まだまだ予備知識の僅少なことを情なく思う。
 岡信氏が結婚の問題で大分周囲の圧迫をうけて居るのだそうだ。それが、大抵あの人が銀時計を貰ったと云うことに起因して居ると云うのをきいては、友達面をして彼の内心を或程度までさぐって居た者達に浅ましい心持を味わされる。

六月二十七日

(水曜)
 天気がすっかりはれて、夕方眺めると空はまるで夏になった。浅い碧色のところに綿毛のような白雲が白日に栄えて金色のようなクリーム色のような大変やわらかい色をして漂って居た。
 朝瀧田氏来訪、原稿を渡す。久米さんの「馬鈴薯を食う人々」と云うのはゴオホの同じ題の絵を連想させて非常に内容を期待させるものである。春陽堂の二階へとじこめられのこと。秋江氏の「舞鶴心中」は、秋江氏と自分の合作と云ってもいいなどと云う話が出る。夕方、画堂の内山某が邦枝史朗氏のされる「人間社会」の創刊号へ書いてくれと云って来られる。多分御断りするほかない。「哲学綱要」、「戦争と平和」をよむ。非常に面白いし、頭がいいしするのでうれしい。

六月二十八日

(木曜)
 どうした工合だか、大変メランコリーな気分になってしまった。種々小学校時代のことや女学校の時代のことを想い出して見た。どこにでも可哀そうな心が苦がって居て、どこかに生れつきの人好さがほの見えて居る自分がいとしかった。
 誠之[#誠之尋常小学校、百合子の母校]の藤棚のわきの円木に腰をかけて陰気に考えこんで居た、大人とも子供ともつかない自分の様子などを思い出すと、子供に対して大人の持って居る理解が不忠実な、自己撞着なものであったことを思う。あの自分、まだ十一、二でも、青年期の者が持つような心の状態にあった自分は、その期にあるものとしてあつかわれなかったために、どの位苦痛を感じて居たか分らないのだったなどとも思う。フト、来年は生れてから二十年たったと云う大きい区切りめの時だとしみじみ感じた。今年と来年は自分にとって一番記憶すべき感情を持つだろう。一生に十九、二十のときは再び返っては来ないから。こんな心持は男性にでもあるだろう。

六月二十九日

(金曜)
今日自分はどうかして間違って、一日先の方へ書いてしまった。(昨日かかなかったと思ったので。)
 すっかり天気が晴れ上って、土用中のような暑さが、たまらない圧迫を加える。朝かなり早く起きたのだけれど、何しろ余り暑くて、ろくにものもよめず、書けもしない。「受難者」を読み返して見た。そして種々なことを感じた。羨しいことだとも思った。どうぞ幸福であるようにとも思った。そして、こんな心持の人達が、貧乏で苦労して、礼子は三十まで苦しまなければならないと云うことは、御気の毒だと思う。こうまでなる人の心持、並び、なれない自分の心持、少くとも今までは――と考えて見る。真当の生活。どうあっても、それがほんとうにその人を生かす道であり、向上させて行く道であれば、結構なことである。此頃ちょいちょいとった心持が母様と段々違って来たように思う。夜高村さんの年寄りが、お金をジャラジャラ云わせて居るのを見たら、妙な気がした。誰かがどこかでそれをきいて、悪に導かれて行きそうな。

〔六月中の重要なる出来事〕

 二日 新潮へ新進作家叢書の中の一人として広告することを許す。
 四日 午前中瀧田氏来る、山水号にのせることにきめる。午後玄文社から再版の奥付を持って来る。

七月一日

(日曜)
 両国を七時半に立って浜金谷に十時半頃つく。自動車一時間半、俥、ざっと二時間、三時少しすぎに岩目館につく。思ったよりきれいだが、海が美くしくなかった。少し失望する。けれども、夕方になったのを見たら、大野氏が賞められたのは決して間違いでなくて美くしい。芝草の色、岩波、赤銅色の漁師の肌、それ等が皆一まとまりになって、おだやかな何とも云えない色を出した。
 七時頃燈台に灯が入る。月が大きくなるにつれて、海の水かさはますし、潮の色も複雑になって来る。牛や山羊を半放牧にしてあるのが非常に異郷的に感じられた。

七月二日

(月曜)
 昨夜は、ろくに眠られなかった。蚊は沢山居るし、暑いし、枕は思うようにならないし、ほんとうにいやであった。朝まだ早いうちに雨戸をガラガラあけて仕舞うので、もう少し寝たいと思っても、それさえ出来ない。いやな心持になって仕舞う。海も単調だし、海女もいい人は居ず、帰りたくなって仕舞った。「すわ」か先に小此木先生のいらっしゃったところへでも行って見ようかなどとも思う。午後いよいよなぎになって、とうてい外洋の濤は高しどころの様子ではない。ほんとうに失望してしまった。もう少しいいところだと思って居たのに。
 隣室には、『日日』の記者か何か居る。誠之でよく見た赤っ面の絵かきが此処に来て居ようとは思わなかった。夜東京から葉書が来る。赤ちゃんが口中発疹ではさぞ困って居るだろう。或る考えが浮ぶ。

七月三日

(火曜)
 昨夜からの雨で、風が出たので、波は少しあらい。けれども、まだ想像以下である。海士についても、そんなに面白いこともなさそうだし……。あさって頃は帰ろう。いやいやながら、午後近くなってから野島の方へ行って見る。まるで思ったのとは違う。大変に立派で綺麗である。いかにも日本のはて、おとなりはアメリカだと云う心持を起させる。かなり平らなところで、三人の子供が一まとまりになって、虱を[#「虱を」は底本では「風を」]何だか小猿のようで、何とも云われない野生な美があるし愛嬌もある。どこへ行っても、子供よりも、大人の方が悪く見える。トルストイの「人生論」を一寸よむが、なかなかうなずかせる。夜となりの部屋へ六尺ゆたかな大男が来て、ため息をつくような、――うなるような謡曲をする。たまらない。とうとう浪花節へすべり込みかける。

七月四日

(水曜)
 ト翁の「人生論」をよむ。種々な疑問や考えが浮ぶ。
 自己を他人のために尽すこと。人のために命をすてること。人生は善、幸福へ向っての努力であり、その努力をすべきために与えられたものである。
 それ等は皆正しい。我々は結局は、生は死ならず、善は悪ならずと云う確固たる信念を持ち得るまでに行かなければならないのはたしかであり、又そうなるのは立派である。決して個人的生活の満足が或人を人間らしくしないことは知って居る。他のためにつくせ、彼はその一言を口に出すまでに、どの位の苦しみを経て来たかと云うことを我々は考えなければならない。今日、日本の文明――海外から来た思想は殆ど完成されたものを与えられて居る。こなされた滋養の精である。それ丈養いにはなる筈である。けれども汝の胃腸の薄弱になることを恐れよ。

七月五日

(木曜)
 人のためにつくす。そこに種々な解釈は下されることと思う。先に千葉先生がおっしゃったこと――カーネギーがト翁に金の処置を相談したところが、総てを貧しきものの群に分け与えよと云ったことは、自分はもっとこの先の時代のためにつくすことを望むとおっしゃった通り――自分は人のためにつくすために我らをよく生かし、勉強させ或時に於て他人の時間を費させるかもしれない。けれどもすべては次の時代のためである。次の時代の者達の幸福のために、現在の私は現在の個人的の努力に過して居ることを恥かしいとは思わぬ。

七月六日

(金曜)
 今朝はゆっくりよく眠る。午後になってから主人が燈台に案内してくれる。自分の息子が、古参兵にいじめられて口惜しまぎれに、鉄道で死んでしまったこと、会津の兵がにげて来て、あとから官軍が追って来たなどと云うことを話してきかせる。いろいろ下らないことを云って居るとき、彼の顔は若く、さも苦労がなさそうであるけれども、息子のことを云い出すときは、何だかいかにも父親らしい表情をする。平常、何でもなさそうにして居る丈そう云うときにはしみじみと気の毒な心持が起る。あしたかえるつもりにする。東京からボンボンとアイボリーと、雑誌二つ来る。「ト研究」の中の、鑓田芳花と云う人の論は、妙な、一寸反駁論をかきたくなるようなものであった。

七月七日

(土曜)
「哲学概論」並びに「綱要」をよむ。哲学がいかに頭に影響を及ぼすかを思うと驚くべきものがある。桑木博士の頭のはっきりさが羨ましいように感じられるのであった。今日はよほど浪があれたと見えて、館山からの船がとまった。主人が、此の村の権力争いについて、話してくれる。面白い。なかなか複雑した事件で、よくききたかったが、いそがしくて、中途否、あらましでお止めがいかにも残念だったが、あまり追究すると、不安がって話すまいかと思ってひかえる。夜、高木氏が五目を教えてくれる。あんなものでもなかなか頭をこまかく、それで居て広い範囲に働かせるようにさせる。昼間行った、弘法大師の薯井戸は、いかにも、あの時代として、法師の科学的智識の進んで居たことを証明するものであるとともに、あれ位の方便が産んだ効果を面白く思う。

七月八日

(日曜)
 今日は久しぶりでいいなぎになった。
 もく――火薬やヨードをとる藻――をとりに海士が朝早くからもぐって居る。ひる前、〔以下空白〕

七月九日

(月曜)
 いよいよ朝帰京する。六時半頃宿を出て、自動車まで、八時につく。四里の山道は一時間半位なのだけれども、なかなか退屈に感じられる。俥夫が、あすこいらの山百合を浜や東京に買手があると話す。ぬけ目のないものだと思う。富士が始めて見える。雪が大抵とけてたった二条か三条白いものが見える丈であった。自動車が、せまい道を走るので、馬や人間やが驚いたり、ぶつかりそうになったりする。全くすまないような心持がする。道は自動車の通るべきではないところを、無理に通って居るのだから、気の毒である。汽車は行きより早く両国へついたように思う。電車にのって見ると、いかにも都会人の感じが、あざやかに感じられる。少し自分が田舎者になったような心持がした。

七月十日

(火曜)
 気がゆるんだような、がったり落ちがしたようで、よるは長く寝たにもかかわらず、頭は(ママ)すまらなかったので、妙にエキセントリックになって居る。杉村氏の作品を見る。色が少しなまなような、模様化した、強いて強調したところのあるような感じがするものであった。なのに風景で一つ貰おうと云うことにした。ゴーゴリの「死せる魂」の下をすっかりよみ切る。そして、あの中には、オブローモフ主義もあれば、モンロー主義も、人道主義も、生産主義も――いかにもロシヤ人らしいロシヤ人の描かれてあることを歓ぶ。

七月十一日

(水曜)
 風がそよりともなかった午前は、まるで蒸されそうな暑さであった。が、夕方から少し涼しくなって来た。いかにもすべての様子が夏らしくなっては来たが、それでも海辺に比較すると、空気の重いことはまるで驚くべきものであった。「哲学綱要」、「概論」、ト翁の「性慾論」をよむ。
 大変心を打たれるようなことがあった。そして、今自分が考えて居ることは、決して間違いではなかったことをよろこぶ。
 S氏、近頃はちっとも宅へ来られないも何か原因があるのだろう。ああ云う心持と、ああ云う主義をもった人は、行きぬくと、生存の否定になって来るのではあるまいか。又、よし自分は否定しないまでも、ほんとうの人生の意義は、彼の生活に一寸もとり入れられて居ないし生存しないと同様になるだろう。

七月十二日

(木曜)
 種々な哲学を読んで見ると、我々の智識がどれ位あやふやであるかと云うことをしみじみと感じる。頭が、どこまでも考えることをしないように癖のついて居ることを感じる。何も彼にもがいいかげんのところまで行けば――此の上自分の突込むことはすべての点に於いて利益でないというところまで行くとスーッと手ぎわよく後へ引いてしまう。じきあやまる。じき言葉をにごしてしまう。そしてそれが普通になって居る位、総て現代の平凡者の頭は、どうでもよくなって居るのは確かである。何人にとっても利害関係と云うものは――損になることと得になることとはそんなに違うものではない――から皆が自分にまあいいところまで行ってはやめるから何に於ても突込んだところがない。それが歯がゆい。この間、坂本氏のところへあんなに興奮して送った手紙に対しても、何の反響のないことを見ると――勿論主観的であったのにはちがいないけれども――私の今心に満ち満ちて居ることは、彼女にはさほどの苦痛にもなって居ないことと見える。臆病な妥協、卑劣な機嫌とりに私は一寸でも迷わされてはいけない。

七月十三日

(金曜)
 四十を越した年配で、人の母となり妻となって居る婦人は、例えどれ位正しい考えを持って居ると云っても、又真個に持って居ても、それは皆或程度までで、驚くべき所謂利口さを持って居る。私が見ると、恥かしい術策を巡らすことも、彼女にとっては何でもない、それほど今までの世の中は、数多いプロットに満ちて居たのである。

七月十四日

(土曜)
 自分は、今まで自分が愛して居た者と云う者に非常な疑問を持って居る。Hはどうしたと云うのか。彼は全く、K[#久米正雄]の云った通り、弱者の専横をほしいままにしたのか、全く私はこの度のことによって、少なからず心を開かれたことを、幾分の忿怒にかえて感謝する。私が、涙をながし、尊い一日の幾分をさいてそれを苦にするのには、今は小さすぎる相手となっては居るが、彼の心理は、充分研究するに価する。少くとも、質実らしく見えて居た彼が、金のために如何なる家系の婦人とでも、結婚しようと云うのは、そして、それを虚偽の言葉で、飾ろうとして居るのは、彼の心が根本的に変化したのであるか、又先天的にそうであったのか、変化したとしたら、その原因は何か、彼の頭が益※(二の字点、1-2-22)低く堕ちて行くのを見ることは、決して楽しいことではない。寧ろ、自分の想出に対して、苦しいことである。けれども、尚私はすべての事件のなりゆきは、一として、私に空しいものではないことを思う。そして、自分の弟――青年になりつつある自分の弟に対して、純粋な愛情と云うものを持たせたく思う。私は恋愛の人間に及ぼす力と云うものを、しみじみと感じて居る。完く阿部次郎氏の言う如く、どうなっても内心のはぐくみに足しになるものであるのは確かである。私は、多くの利益、人間の心と云うものの一部を多く知り得たと云う悦びを持って居るけれども、H自身にとっては、悲しむべきことである。けれども、一人の人間として、とにもかくにも人格を許されるような年輩になった男子は、よくなるにも悪くなるにも、皆自分が種を蒔き、自分がその収穫をして行くよりほかないのだ。悪くなるものは、悪くなるように自分を導いたものは――勿論世の中の善悪を知って――悪くなり、いい人間の群から――勿論比較的と云う言葉を付さなければならぬ――滅びなければならない。そうなければならない。
 けれども、我々がよくも、悪くもなし得るのは、まだ、自分一人を自分で所置も出来なければ、理解もしない若い、小さい時代にある人達である。それ等の人達の指導が、はたして当を得て居ると云えるだろうか。現代の教育! 私は完くたまらない心持がする。
 自分が受けて来たような種々の苦しみ、それは私にとっては、決して無駄なものではなかったけれども、それに堪えられないような沢山の若い人達にも同じ、若しかすればまるで何の利益がないかもしれない圧迫や不合理で苦しめたくはない。

七月二十一日

(土曜)
 夕方っから、会田さんと、本郷の袴屋へ袴を命じに行く。袴の地などが、此頃の若い婦人の趣味のは知らないが、著しく悪化されて居るのに驚く。まるで劒舞のようなのさえある。
 かえりに松岡夫人を見舞に廻る。大塚の宮下で降りて、街燈のない淋しい通りを行かなければならないのに、九時すぎても、悪止めされるにはこまる。客の応接などはもう少し単純に快くしてくれなければ此の暑さに全くこまる。もう四五年前までは、街燈のない通りもあったのだが、そして歩くのにも、そんなに不安は感じなかったのだが、此頃は非常にいやに思う。文明機関が、貧しいながら少しずつ調って来るにつれて、何だか神経過敏になって来るようだと云うことは嘘でなく思う。

七月二十二日

(日曜)
 父上が思いがけず、午前中に御帰りなさる。「そが」の問題がますます混乱して来る。T子爵が高利に印を押したので、今月二十八日までに、二ヵ月の利子二千八百円と、元金一万五千を返さなければならないと云って、大騒ぎである。F子さんが、まるで興奮しきった様子で来る。どうも言葉の様子が可笑しいから、T氏は印を押したことを知らないのではないか、若し知って居るとすれば、一箇の紳士としてあまり単純すぎた話である。夜母上が、いらっしゃる。母様も、妙にエキサイトして、種々な小さい問題で、現代の物質的な生活、――貧困になりそうな者と見れば、親友の誓をしたものまで、利害関係によって離れると云って被居っしゃる。けれども、それは一面の真理である。

七月二十三日

(月曜)
 千葉先生のところから、「禰宜様宮田」に対しての評を下さる。あれ位解って下さる方が、読者の中に幾人あることか。
 銀座へ菓子などを買いに行く。須田町で乗りかえた品川行きには、仕事がえりの土方が私のとなり一つへだててのって居た。すると、一人の婦人が、その空席へ来たがやがて、少し左があくと、大いそぎでころがるように、そちらへうつった。
「そんところへびったりつくから、いやがってるんだ。」一人が膝――いかにも泥にまびれ汗の臭いの立つ――をたたいて仲間を見た。無言でうなずいた男は、笑いながら婦人をながめた。――非常に心を打たれた。杏林社のところで、如来氏に会う。皆々出立の用意にてせわし

七月二十四日

(火曜)
 明日立つと云うので、家中大騒ぎである。此の四五年、赤坊までつれての旅行はしたことがないので、母さまも、成井さんも、少しまごつく。夕方から持って行くおもちゃや何かを買いに白山まで行くと、近藤氏、河村氏に会う。河村氏は何だか大変生活に困って居るらしいなりをして、先ほどの落付いた態度がない。どうして居るのか分らないが、すれば出来る頭を持ちながら、種々のことから、妨げられ、また妨げて居るのは気の毒である。どんなに頭があり意志は強くても、まだ私達には指導者が必要である。

七月二十五日

(水曜)
 十一時の汽車で立つと云うので、送りに行く。大変あつい。電車などに乗って居る様子を見ると、Iはどうしても、頭がどうかして居る。あんなに体がきまらないで、動きもしないのにガタガタ体を揺って居るのは妙である。赤ちゃんが、こわがって大変ないた。可哀そうである。今まで家にばっかり居て、始めて見た外の世界がどんなにか大騒ぎで、きたなくて、怖わかったのだろう。夕方から近藤氏来訪、十時半頃まで、連弾をして遊ぶ。何となく皆が居ないで淋しい。

〔七月中の重要なる出来事〕

 一日 陸路を白浜へ来る。
 九日 帰京
 二十日 父上名古屋へ御立ち
 二十二日 御帰京
 二十五日 英男、寿江子、かあさま、成井助川に立つ

底本:「宮本百合子全集 第二十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年5月20日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
入力:柴田卓治
校正:青空文庫(校正支援)
2013年1月19日作成
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