一月一日
木家中が寝静まった、深い夜の沈黙の中に、此の日記の第一頁を書き始める。私の心の中には、今、殆ど言葉で云い表わせないような感動が漲って居る。総ての者のよき進展の為、総ての者への、豊饒な愛の収穫の為に私は祈を捧げよう。今日、私共を取繞んで居る生活が、常に何事をか欠いたものである事を痛感すればする程、祈願は深大なものに成るのではないだろうか。工藤次也氏が養子に行った先に就ての不幸な経験を話す。一人が一人の不幸を持つ。
一月二日
金人間の自信と云う事を思う。各自の生活と云う事も思う。
一月三日
土一月四日
日午後、福井の人で、議員をして居る人が来て、グランパの父上が、私が急に帰った事を案じて、どうした訳か行って見てくれと云われたと云って来る。喧嘩でもしてにげて来たと思いでもされたのだろう。気の毒な、決して喧嘩なんかは致しませんから、御安心下さいませと御伝え下さいと返事をする。
夜、北原白秋氏の、「よぼよぼ巡礼」をよむ。少しだらけた処はあるが、なかなかその心持はよい。ありがたいものだと思う。
一月五日
月巖本さんから来た手紙の中に、河原さんがレークジョージに居た私共と、彼女との友情をしきりに裂こうとした事があると云って居るのを見て、妙な心持がした。私共の友情をスポイルして結局彼は、何を得るのだろう。それ程にする私共に対して、何故領事館で、彼女の不平を訴えたか。私にはその間のいきさつが、ちっとも分らないような心持に成る。どうしてそうなのだろう。妙な妙なものではないか。本屋から無車さん[#武者小路実篤のペンネーム]の『幸福者』と、『第二の母』とを買って来る。近藤経一氏が「第二の母」と云うのを書いて居るその心持を不思議に思わずにはいられない、真個に。
一月六日
火国男が春江ちゃんに向っての心持を考えると、気の毒にもなり、大変な事だとも思う。どうにかして、行くべき道を自分で見出して進むようにさせてやり度いと思う。けれども私に出来るのは、只、斯うやって見たら、どうかと云って、一つの案を提供する丈の事なのである。終極に於て決するのは、生きる道を見出すのは、彼一人である。彼一人の力が、どうにか彼を導くほかないのではあるまいか。
一月七日
水一月八日
木一月九日
金一月十日
土人を裁くなかれ。此の言葉は尊い。今日の何とか云う新聞に、「四十二」のグランパと結婚した私が、恩と愛とを混同して居ると云うような記事が出て居るのを見て、一寸の間淋しい心持に成った。どうして人は其程、興味中心とでも云いたい、浅薄さで生きて居られるのだろう。人は各自の云う事に深い責任を感ずべきではないのだろうか。
一月十二日
月一月十七日
土一月十八日
日円らかな、てらいのない、晏如とした心持……。其は総ての芸術を通して持つべき気品なのであろう。かえってから、「加護」に就てツーさん[#松平正次]に少し天理教の事をきく、夜更けてからどうしたのか、母上が妙にヒステリックに成って、沢山の不平を云われる。生活はむずかしいものだ。神よ、どうぞ貴方の子等の総てに平安と深く聖き愛とを御恵み下さい。
三月十七日
水三月十八日
木三月十九日
金加藤一夫氏が、『読売』に載せた、南部修太郎氏に対する批評の態度について、は同感である。自分の「渋谷家の始祖」に与えられた罵倒をじっと堪えたその心持を殆ど同じ気分で加藤氏に云われて居ることを快く思う。ほんとうに、「おしゃべり」はやめて下さい。貴方の仕事は、どれほどまで、私達に即して居るのか。
四月三十日
金五月五日
水五月六日
木昨日、トルストイの「性慾論」を読んで赤面した。人間はいいかげんになり易い。人は、自分の弱点に理由をつける。何等かの excuse を見出すのに、実に巧である。其為に、時には獣にさえおとる事がある。貞潔は、容易でない。然し此から私は努力する。昨夜から始まった緊張はいつまで続くか。夕方近くなって長雨が漸々晴れ上った。日は出ないまま夜になるのだろう。Gの、ペルシア文学概論の中アカメニアン朝の遺跡を少し手伝う。
五月七日
金夜は、久しぶりで、父上と種々の話をする。幸福そうであったことを悦ばしく思う。可成仕事の出来たことを快く思うと共に、時の早く過ぎるのを痛感させられるのである。頭の工合よろし。
五月九日
日
〔欄外に〕Aのペルシア文学概論、アカメニアン朝終り。夜散歩に出て、小さい植木を買う。愛らし。
五月十日
月五月十一日
火五月十二日
水五月十三日
木五月十四日
金五月十五日
土五月十六日
日 ○昨夜自分は、自分の情慾にかとうとして、努力はしたが失敗してしまった。心は非常な悔恨に満される。Aは決して自分の弱さを攻めはしない。許して呉れる。が其は、善郎さんの小説の中にあったように、彼のうちにもある暗黒がこれに対して寛大な良人たらしめるのではないだろうか。昨夜は殆ど結婚以来始めての苦しい涙を流した。
恐しいことだ。且て、自分の裡に潜む意識されなかった感情の暴力にまけた自分は、其等の痕を洗い浄めようとして得た良人によって、又同じ失敗を繰返そうとしたのだ。結婚と云うことが、公然と、情慾の存在を黙許するが故に、其による自分は卑劣である。絶間ない努力が必要であると云う言葉は、一層自分に価値を感じさせる。結婚によって、自分の欠点を飛躍しようとした自分は却ってその中に掛声をかけて飛込んだのではあるまいか。許して呉れる良人はありがたい。が油断すると恐ろしい。自分の心には、一つの時期を通り過ぎた後の反省が来たらしい。静かに、深く。心よ、我が心よ。お前の回顧は、つねに冷あせを掻いた額を見出さなければならないのか。
私の心には、幾つ悪い鍵穴があるのか、よいことの鍵さえも、時には間違って、悪い鍵穴でねじられる。秘密を作る時、人は隠し終せると思うだろう。が心のあるものに其は出来ない。いつか白状する。それが人間のありがたさだ。
五月十九日
水五月二十日
木去年の今日、私共は始めて、私共二人限りの夜を Lake George に迎えたのだ。種々の回想が胸に湧く。夜は床の中で暫く話し合う。
五月二十三日
日自分が愛して居る者は、どんな場合にでも自分を充分理解して居てくれるものだと思うと、間違う。少くとも、今日の自分等の程度に於ては。愛すると思うものに対して、或瞬間に起る憎悪は、敵に対してよりも激しい。嘗て自分の魂を盗んだと思うから。
五月二十四日
月(貴方はいつも私のために自分を犠牲にすると云って下さいます。ありがとう。けれども、彼女のために犠牲に成る自分の苦しさを察して下さいと叫びながらして下さる献身が犠牲でしょうか、其が真個の献身でしょうか?)
五月二十七日
木私が彼を愛した。彼と結婚する。彼の内に不満を見出して苦しむ。が、その不安をとりのけてくれるものは誰か? 自分である。自分が手を引っぱって或生活から踏み出させて置きながら、其を放擲するということは、自分の真心として□るべきではないことを知る。
五月二十九日
土五月三十日
日今朝Aに助けられて元の部屋に戻る。少くとも気が落付きそうに思われる。何と云ってももと幾つかの仕事をした部屋だ。『白樺』の十周年記念号から切抜いたドストイェフスキーの写真を正面の壁にはる。彼の霊に満ちた、苦しみぬいた表情は、私の中の心を呼び出してくれる。
イタリーの飛行機大阪着、九十五時間、日数百幾日、とにかく始めてイタリーと日本との間を結びつけたのは、日本人ではない。イタリー人だったのだ。其を覚えて居れ。日本人の先輩は後輩が熱意を以て其を申出たとき「君はまだ若いよハハハハハその元気をなくさないように仕給え」と云って煙草の灰をおとすだろう。夜、オーブンをなおして、アップルパイをやいてあげた。(以上、三十日の分)
六月一日
火六月二日
水六月三日
木六月九日
水自分の気分は――mood は陰気にフィアスになる。泣きながら皆にくってかかる、憐れな魂よ。
六月十日
木或人は終生の憎みを、或人は永久の献身を、或人は明らかな箇人対箇人の独立と、共鳴との生活を――。仕事が生命である自分はそういう方向に道を見出すか。一年間の女性の心持は男の人とは大変異って居るのだろう。
六月十一日
金六月十二日
土自分の弱い心、弱い魂は、不幸に圧倒される許りではなく、幸福に蒸殺されそうにさえなる。何が来てもしどろもどろになるのだ。
結婚後の一年は、或人にとって、無条件に楽しい時であり、或人にとっては、無条件に楽しいが故に苦しい時であろう。
六月十三日
日六月十五日
火六月十六日
水六月十七日
木
〔欄外に〕小麦の穂は黄色くなる、センダンがせいそな双の対葉の間にしぶい薄紫の花をつけた。
六月二十日
日昨夜は、殆ど時を忘れて Saints' Progress を読んだ。Fine tales などに盛られている内容より、遙に深く強く而して真剣なものである。Noel という娘の心持、今まで自分に漠然と感じられた war baby の悲惨が深い同情と、無私な観察によって示されて居る。
六月二十一日
月静かな生活はよい。田園は――箇人の内容が充実して居る時にはよい場所である。自分をさまたげられる事はない。東京の、特に私の家の生活は、何と云う複雑と、感情的いきさつにとんで居ることだろう。私があちらに居て仕事の出来ないのは、一つは圏境の故であろう。Aはどうして暮して居るか。
六月二十五日
金七月七日
水七月九日
金Everything will be improved. Dear, Life is such a curious thing
七月十一日
日七月十七日
土七月二十二日
木彼女の心は知らないうちにすねて、意地が悪く成った。
「ねえ貴方、怒らずにきいて下さること? 私ね、貴方を真個に愛して居ると思って居るし、貴方が私を愛して居て下さるのを信じて居ります。其は真個に信じて居るの、けれども、ね……何故――」
「何?」
「何故ね、時々ほんとうにいやなものを感じるのでしょう、チカチカしたものが私の心を刺すの、愛して居るけれども、いやなの。」
彼女は彼の頸に腕をからんで囁いた。
「だからね、貴方、私は疑わずには居られないわ、頼りないの。」
「私は貴方を愛して居ます。真個に愛して居る、貴方の心の底にある絶対に近い愛をしっかりと握って居るから、私は貴女の欠点も許せるしよい処丈を見て行かれる。真個の愛はそういうものじゃあないでしょうか。」
「そう――私は不真実なのでしょうか? え? グランパ」
――○――
「私は今日感じる不快なんかは、皆自分がオバーメジュアした故だと思うわ」
「何を。」
「私と貴方とを――。そうじゃあなくって、私は、貴方のいやなものを皆許せる、見ないで居れる程自分は深く大きく理解し愛せると思って居たら、矢張り其になやまされるのですもの、其で斯うやって涙をこぼすのですもの、」
「そう、オバーメジュアする、したのは確に悪い――、然しね、貴女は、今まで、斯うやって二人で人間が暮して行く経験はなかったのだから、どうしても、新しい生活が来ると自分の動かされ易いこと、無力なことを直接に人と当って経験して行くでしょう、当然来るべきことなのだ」
「それはそうだと思いますわ、けれどもね大切なことは、」
此処で彼女は、愛と憎しみの混乱した悩ましい眼を上げて彼を見つめた。
「貴方の立派さで自分の無力を感じるのならよいと思います。けれども、私が感じる無力さは、いつも貴方の悪い処から反映して来るのよ。貴方の持っていらっしゃる悪いところに自分が持って居る希望や勇気を殺がれて起る疑だし、失望なのよ。」
――○――
「私が失望したのを見ると、貴方は、苦しくなって希望のある言葉で励そうと成さるでしょう、けれどもそれは一時で、疑や否定の方が多い常態なのよ。だから、いやです。きらい!」
彼女は、ボろボろと涙をこぼしながら、とられた手を振りはなした。
――○――
甘ったれて居た最中、突然の下らなさが彼女の心を襲った。彼の熱い抱擁に対して、彼女は、自分に対して苦々しさに唇をかみながら、闇の中でそっぽを向いて、無反動で居た。二三度、彼はあやすように、彼女の心を呼びさますように抱擁を強めた。がやがて、
「御免なさい」
と云いながら、体をどけ、彼女の額に接吻して、枕の上に頭を落した。
――○――
自分の愛するものに、絶望や嫌厭や、否定の言葉を放つとき、二人が苦しんで居るという意識で、彼女は目がくらむようになり、夢中になって、尚一層苦々しい激しい、ぞっとするような言葉、「いや」とか「きらい」とか「思い違い」という言葉を洩す。其は、きっと戻って来る愛への確信の心に立つものであって、動かない、という意識から故意に動す、あわれな人間の悪魔的なもがきである。
――○――
感情的な小ぜり合いの後、何で和解するのかと思う反省は、彼女を懐疑にしずませ、躊躇させた。皮相的に其は互の都合よき交接の相手を失うまいとする底意、どうせ何といってもという肉体的の関係に負けるのではあるまいかと思われた。がそうではない。
七月三十日
金母は私を愛する余り――自分の考え得る最も理想的な偶像として私を期待する余り、総ての点に於て失望が起ったのだ。第一、此世に私を愛する点に於ては、又とないものだと自信する自分以外に私は彼をより深く愛すこと、その彼は、彼女の目から見ては、只私を操ったり、ごまかしたりするほか能のないように思われるところから、彼女の不平や絶間のない罵が来るのであろう。私がもう決して彼女にはかえらないことがたしかなのも苦しいのであろう。母や父は彼等の思う通りによく、彼等の思う通り、永遠に賢く従順なる子としてのみ私が存在することを希望されるのだ。
「一生抜け切れないような借金を背負ってまでお前をアメリカへやったのは、決して此那結果を予想したからなのではないよ、つまり私の期待が大きすぎたのだろう、馬鹿な子を生んだ自分が悪いのだ。」
「何故お前は、テンダーハートが持てないのだ? 自分の主義だの何だのといって、母を泣かせて如何うだというのだ? 母を泣かせる主義なんか仕様がないじゃあないか、此那に大きな不平があっても、まだ小さい事でお前を可哀そうがって泣いて居る母の大きい海のような愛に、お前は反射しない鏡のようなものじゃあないか? え? そんな鏡は捨てしまえ。私が其位の決心が出来ないと思うと失望するよ、私には出来るのだ。
何故専政君主に仕える奴隷のように母に仕える事が出来ないのだ? 過去を考えて見るがいい、過去を。昔なら切られてしまう処だったのではないか。それを今日まで導いて来た苦痛に報ゆるのに、何だと□□! お前がたがあっちでフリーボラスな心持で知らなかっただろうが、お前方のアナウンスに対して、誰から祝が来たかと云うのだ。だから、私は、お前が指名して来た処より他には一枚も出しませんよ。暖かい母親の胸から永久に引きはなされて見て始めて、お前にはテンダーネスの如何に必要だかと云う事が分るのです。行く処まで行って見なければ道は開けないのだ。」云々、(父)
解って居るらしくて解らないことは恐ろしい。父上は、母上は、或時には解って居るらしく私共のことを話されるに拘らず、心の中では何一つ分らないのだ。解らなそうでも解ったものは解った解決を仕得る。解ったものらしく振舞っても分らないものは結局に於て相反する。矢張り、ミスコーフィールドのように二つの種類の愛は相突合う。
人生は、一面から見た場合、淋しいものだ。床の中に入って膝に枕をのせて此を書く。Aは傍で眠りに入って居る。我が愛するものよ、愛すると信ぜずには余りに辛い者よ、貴方は私を死ぬまで愛しては居てくれても、私の此の深い孤独から湧く寂寥と祈とを倶にすることは出来ないのだ。ゲッセマネのキリストの心持を今始めて僅かながら味うことが出来る。
私の運命は私の裡の灯でのみ照らされるものなのか?
深い忍耐と、力と真実な愛を神よ、私の苦しむ魂に与え給え。愛すということは何という恐ろしく容易なことか! 私共の家をさがしに着手。Aは五百円を渡辺氏にたのむ。胸から下にシーツをまとった彼は、唇や眉の辺に淋しい陰を漂わせながら、然も平安に深く息をして眠って居る。自分は地にしみ入るような心持で、彼の寝顔を見入った。彼は眠って居る――私は起きて居る――彼は眠ろうとは思わず眠ることは希望して居ないのだ、倶に起きて苦を分けようとするのだ。が、眠るのだ。
母は愛そうとし、愛して居ながら私の真の生活に迫ると分らずに自分と人とを苦しめる。不思議なもの不思議な孤独。
八月三日
火彼は私を愛して居るのだと申します。私は彼を切に、切に愛して居るのだと思って居ります。其だのに、どうして私の心には、絶えず斯うして不満があるのでございましょう。
私が苦しむこと、私が彼との生活に感じる苦痛を彼はちっとも理解することが出来ないのでございますまいか。彼は、自分は貴方を愛して居る、だから何でも堪える、最後まで耐えればいつか分る時が来るだろう。と云って私の心の中を努めても知ろうとは致しません。その忍耐と云う言葉のうちに逃げかくれて、私が何とも申せない、私を愛すると云う言葉の盾をかざすのでございます。
私は彼に、もっと徹底した理解や鼓舞や愛を持って、私の人格全部を見て欲しいのでございます。私には彼の目の荒い考えかたが堪りません。自分の満足のために私の燃え上る熱情――只彼に対してのみ燃え、彼に対してのみ輝く熱情――をむごくも、理屈で消されそうになることはたまりません。真個に或人を愛するものが、その人の苦しむのに対して、私には分らないのだ、いつか私の心を解って来る時が来るだろう、と云ってじっとして居られるものでございましょうか?
おお神様、神様、此等の疑問は私を殆ど気絶させそうでございます。神よ、彼は……彼は……彼自身の愛して居ることを愛して居るのではございませんか、私ではなく、此の私ではなく、彼のうちに今まで対照を見出せなかった愛したい心を私を代にして愛して居るのではございますまいか? 彼は私を愛して、私のために総てをして居ると思って居りますのでしょうけれども――けれども――恐しいことではあっても、彼の驚くべきエゴを見ずには居られなく成りました。
私は彼を愛します。其故彼が苦しみ、彼が私に対して不満なのは堪え切れないのです。然し、自分が愛して居ることを愛すものは、恋人がいかに苦しんでも、自分の心に在る愛して居ると云う確信が崩れない限り安心して居られましょう。其だからこそ、今日のように、私が先達来の不愉快を忘れるほどの愛に燃え上って、彼を抱こうとして、我を忘れて着て居たものも脱ぎすてて腕をひろげたのに、私のためにと云う自分の満足のために、泣く私を傍に置いて私がほどいた衣類の紐をしめて眠ってしまうことが出来るのです。
女性が、人間が不快や苦痛を忘れるほどの激しい愛に白熱した真実さも彼は只、肉欲に色づけて見る丈の真実さほか持たないのではありますまいか?――
再び神よ、私は彼を愛して居るのです、私は、彼を自分の終生の良人たるべき人として選択致しました。そして、今此の深い、自分の魂も食うような疑いに逢着しなければならないのは何故でございましょう。もう一歩進めて、神様私は彼の何を愛して居るのでございましょう。
私は、自分の心のうちに在るけがらわしさから、彼の童貞を守神のように尊敬致しました。軽薄な男性の浮気の中で、彼の一種の憂鬱とストイックな心持に云い知れない共鳴を感じたのでございます。彼の私に捧げてくれる熱情にも魅せられました。彼の童貞は、如何那内面の原因によって保たれたものだったのでございましょう。真個に真実な愛の日のためにでございましたのか、其とも、結婚する相手はなし、商売人は恐ろしいから已を得ず捨てられずにくっついて居たものでございましたろうか。
九月三日
金自分の不快は、先達中、ひどく暑い処を、無理に家さがし、道具の買集めに歩いたためなのだ。
二人きりに成って、新しい家の新しい夫婦として、向い合って食卓についた時自分達は、何とも云えない感動に打たれた。
十一月十二日
金全くの頓死。大学に行く途中俥の中で二三度けいれんをした限り、で死んでしまった。去年の十一月七日出生、僅か一年と五日の生命……。
(記録は十四日より、葬儀後)
十一月十四日
日食堂で雑誌を見て居たら、戸の開いたすき間からチラリと沖田の影がさして、ずっと赤ちゃんの部屋の方に行く。もう帰って来たのだな……疑問と云うほどでもない、只どうなのかしらんと云う位の心持で、自分は赤ちゃんの部屋へ行って見た。すると、ヤエ子は眠ったように横えてある形が見なれて居るので、始めの一瞥で彼女の小さい顔が、白布で包んであるのが分らなかった。自分がそれに心づき、「駄目だったの」と云うまで、心には、何かひどくハッとした、口も利けないような驚きがあった。あまり不意だったのだ。余り突然で思いがけなかったのだ。沖田さんは、「どうも飛んだことを致しました」と云って泣き臥してしまった。自分は、ひどく寂しい、けれども、ちっとも涙はこぼれない心持で、「もう泣いたって仕方がない、貴女が泣くと尚御かあさまが悲しむから」と云って、肩を叩き、部屋を出ると、丁度二階の上の口の処で、けわしい、泣きよごれた、真個に子を失った母の顔をした母上に会った。ひどく自分は心を打たれた。「貴女にはひどいロスなのだ」自分は、肩に泣き乍らもたれかかった母を抱いて自分の胸にしめつけた。心には「到頭!」という心持が強かった。ヤエ子の四五日来の顔で自分は、ひどい生命の衰退を見て居たのだ。
私共には九人の同胞があったのだ。それが五人死んでしまった。――此に対して自分は何と思ったらよいのか。
母上は、自分の虚弱な時に生れたために死ななければならない子を見るのが辛さに泣いて居られる。
父上は、自分達の周囲から子等の去る寂寥。
沖田は自分のあずかって居た子の急な死に対して、自分が正当に理解されたいことが第一であるように見える。
六歳になったスエ子はおそれて二階に近よらない。
国男と英男とは?
自分は、生命の微妙なこと、自分もいつそうなるか、自分の愛する者等がいつそうなるか分らないということをひどく考え感じさせられた。今日も安らかに済んだ。きのうも。けれども、どうして明日を知ることが出来るだろう。自分の愛するものの死なないうち、自分の死なないうち、自分にかけられて居る、自分を愛して呉れる人の期待や宿望を満さなければならない、大変だと云う感じが、強く、強く、自分を動した。
来年と云い十年後にと云い……然し誰か、自分の大切な人々のうちの誰かが、其を見ず、満されない期待を抱いたまま死んで行くのは、それを見るのは、辛いことだ――
此の心持の中に、両親が最もつよく込められている。死んじゃあ大変だと思わずには居られない。今、死んでは欲しくない、今死なれては堪らない。その堪らないがいつ来るかわからないのだから、ぼんやりしては居られない――
自分には、生別死別の深い、印象を今更の如く教えられた心持がした。
生命は、昔の人の言葉をかりて云えば無常だ。それほど、新陳代謝を要する常に新鮮なるべきものなのだ。その無常にかつ、無常を超えたものを掴まなければならない。
人が長い病気や苦しみの後、死ぬると、その死にともなった感じは複雑な添物があって理屈がつく。然し、たった一年ほか生きなかった子が、急に、木の葉が震えるように震えた丈でもう死んでしまった。此の地上に於ける其人の生命は終ったのだということは、自分達に露骨な、有難い、強い生命の移動を教えるのだ。永生と云うこと、不滅の生に対する考えは、斯う云う端的なショックを受けなければ、自分には終に一箇の思索にすぎなかっただろう。
自分の人生に対する感銘の或部分は異って来た。非常なる瞬間、瞬間は若し其人が価値つけなければ空から空への消滅に過ぎないのだ。時は其人の生活如何によって、有、無を生ずる。
十一月二十三日
火田山、徳田両氏の五十年祝宴に行く。徳田氏の印象は自分に、暖かく、じみな、凡人を感じさせた。
◎父上が自分の子の棺の寸法をとり、墓標を書かれるのを見て、主人、良人、父の、男性の取るべき忍耐の深さ、強さに心を打たれ、頭を下げずには居られなかった。
母上は悲しいのですと訴え、悲嘆し、泣いて居れば、総ての事ムは進行し、人々はなぐさめて呉れるのだ。
印象は、涙で撒る。何故女性は、男性より涙が多いのか、生活の印象をより少くほか(はあく)しないのか。
此は、女性が、生理的に男性より多くの苦痛――出産だの月経だのと云う――ものを持たなければならないので、その本能的な、或は先天的構成によって、先の苦痛の印象を忘れようとするのだろうか。瞬間は強く、然し長続きのしない印象、従って、女性は印象的で思想的ではないのではないか
十二月二十六日
日人生の種々な価値をより知り、より真剣に潜入して行く種々な階段、十八の時、自分は真個にやって居ると思い、二十二の時、毎日は相当に安んじて暮し、二十三に成ろうとして自分の無為を痛感する。神がその人がくやむ時を与えてくれるのは恩恵である。
十二月二十七日
月本能的な羞しさからなのだ。何故羞しいのか、自分はまだ成って居ないから――。それなら其丈の努力をして居たか?
女性の今日の状態は、日常生活に於て、名人に達する努力は要されて居ない。相当なるアマツールと云うことは、普通人との余りかけへだたらない交渉に於て、なみとは一寸異った色彩を添えるものなのだ。自分は知らず知らず其処で甘えて居たのだということを発見した。
来年から、或は、斯う書いて居る今から、自分は一箇の文学者として自分を曝す。名人を期待する。
十二月三十一日
金〔Memoranda〕
1. January. しっかりと眼を瞑って、抱き合って居るうちに、浄められ、無我に入るほどの愛。その愛に励まされ、助けられて行ける者を、確かりと疑いなく見出し得た事を、私は如何程感謝するだろう。私共の我を忘れた抱擁に祝福あれ。新らしい力の加えられた年を迎えて、新年と云う、稍コンベンショナルな形式を脱して、より大きな充実を感じずには居られないのである。愛する者の上に幸あれ。
神様、私共は、貴方の前に二人のよき、神の嘉し給う子として、若し与えられたものがあるなら、それを以て己らを貫く事に致しましょう。静かな、無人な、而して明らかな夜に座して、私の心は潔斎致します。
宮島新三郎氏が、『国民新聞』で、私の「渋谷家の始祖」に与えた批評の或言葉についての感想。
彼は、私が芸術の最も大切な、事物の具象化を、却って抽象化して居る、つまり主人公の心持も、自分の概念で作って、心持を抽象して居ると云うような事を云われた。芸術の具象化……。其は明かに、私の技巧の劣った点から来て居るのではないだろうか。ロダンの作を見てうける感銘を、私の作品は持って居ないのだろう。立体的観察の欠乏、或は、未完成。(『文章世界』に出た、有島氏の、イブセンの「死者の復活する時」と云う脚本は読むべきものだと思う。よき作、よき魂、よき魂、よき謙譲さと祈念。)
三月十八日
開成山にて。「新生」の全部を読終って自分の胸に残ったものは、愛の深大な力の与えるもの、育てるものの価値である。愛は一切であると云う心持さえ起る。藤村氏に比して、節子という人の心の力の大きさを思う。或人は彼女が女性であるが故に、そう一本気になれると云うかもしれない。けれども、女性である彼女が、生命の価値を其処にまで深め得た力は、藤村氏の心とは又異ったものがあるのではなかろうか。然し此の小説は自分に種々のことを思わせる。つまりは有難い人の心である。
浅草の帝国館に行って、マグダラのマリアを女主人公にした、リデンプションを見た。十字架を負うたキリストが、群衆に嘲笑されながら刑場に牽かれて行くのを見たら涙がこぼれた。哲人よ、
私共の始めて、私共二人ぎりに成った夜が一年目に還って来た。Aは、私の頭を撫でながら、「自分は皆あらいざらいの自分の過去を貴方に話してきかせた。けれども、貴女の過去については、只断片的に知って居る許りで、まとまったことは知らない。勿論、自分の最も愛する者のことは何でも知りたい。然し知らなくっても真の愛には差異は起らないけれども。」と云った。貴方は、御自分の過去に誇りを持って居らっしゃる、然し、私はそうでない。我が愛する者よ、愛する者よ、私は貴方によって、自分の愧じる過去から救われると思ったのだ。又そう努力して居る。然し屡、自分は、自分を生れた時から掴んで居る或弱点に負かされそうな瞬間を経験する。
「カラマゾフ兄弟」の中のカテリーナが、自らの憤りを愛して、ミチャを愛して居ると思うのは穿った心理である。彼女は、自らの憤りを愛するが故に、愛でミチャを征服しようとしたのだ。斯ういう場合のみでなく、人は自己の情慾を愛するが故に、その良人或は妻を愛すと詐称する時がある。
自分は仕事が出来ないから、何処へか山にでも行くと云ったら、Aはひどく泣いた。
センチメンタルという点で、彼は非難に価する。然し彼の境遇の回顧は、十幾年かで日本へかえって、たった二月許りで、自分に仮令暫時でも別れる、ディスターブされるからと云われるのは辛いのだろう。彼は妻である you my baby!
六月十八日
開成山にて。筋肉の強弱と意志とは何等かの関係を持つのではあるまいか。体をかためるために swimming をしたいと思う。